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バルフ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルフ
بلخ
ホワジャ・アブ・ナスル・パルサ・モスク
ホワジャ・アブ・ナスル・パルサ・モスク
位置いち
バルフの位置(アフガニスタン内)
バルフ
バルフ
バルフ (アフガニスタン)
バルフの位置(中東内)
バルフ
バルフ
バルフ (中東ちゅうとう)
座標ざひょう : 北緯ほくい3645ふん 東経とうけい6654ふん / 北緯ほくい36.750 東経とうけい66.900 / 36.750; 66.900
行政ぎょうせい
くに アフガニスタンの旗 アフガニスタン
 しゅう バルフしゅう
 ぐん バルフぐん
バルフ
人口じんこう
人口じんこう (2012ねん現在げんざい
  いき 11まん6300にん
  市街地しがいち 1まん4700にん
  備考びこう [1]

バルフペルシア: بلخ[2])は、アフガニスタン北部ほくぶバルフしゅう都市としである。古代こだいより交易こうえき要所ようしょとして発展はってんし、バクトリア王国おうこくバクトラはバルフ、あるいはバルフ周辺しゅうへん地域ちいき存在そんざいしていたと推定すいていされている[3]なが歴史れきしなかでバルフは幾度いくど戦乱せんらんまれ、現在げんざいのバルフはバラヒッサール遺跡いせきBala Hissar, Kabulがわ存在そんざいする小村こむらとなっている[3]

地理ちり

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バルフはアフガニスタン北部ほくぶバルフがわ英語えいごばん下流かりゅうマザーリシャリーフ西にし18kmに位置いちするまちである[3]。バルフしゅうぞくし、ぐんとしてはしゅうないで2としては3人口じんこう規模きぼである。

まち中心ちゅうしんにはホワジャ・アブ・ナスル・パルサ寺院じいんみどりのモスク)があり[4]直径ちょっけいやく600mの環状かんじょうまちがある。1920年代ねんだい地図ちずによるとまち東側ひがしがわきゅう市街しがい隊商たいしょう宿やどがあり、西側にしがわしん市街しがい南側みなみがわにはバザールユダヤじんまちがあったという[5]。そこからひがし西にしみなみ(インド古道ふるみち)・西南せいなん東南とうなんの5方向ほうこう放射状ほうしゃじょう幹線かんせんびている。まち北部ほくぶには巨大きょだいおかがあり、所々ところどころ城壁じょうへきのこっている。中心ちゅうしんけると田畑たはたひろがる農業のうぎょうさかんな地域ちいきである。

歴史れきし

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シルクロードとバクトラ(げん・バルフ)。中央ちゅうおうあたりに位置いちする。
モスク

古代こだい

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青銅器せいどうき時代じだい、バルフ近郊きんこうのダシュリー・オアシスではバクトリア・マルギアナふくあい文明ぶんめいさかえていた[6]

バルフのまちがいつ出来できたのかはさだかではいが、バルフについて言及げんきゅうした最古さいこ書物しょもつゾロアスターきょう経典きょうてんアヴェスター」である[よう出典しゅってん]伝説でんせつじょうのペルシアのおうカイ・ローラスプ英語えいごばんがバルフの建設けんせつしゃとされているが、ゾロアスターきょう始祖しそザラスシュトラ布教ふきょうはじめたのち宗教しゅうきょうてき重要じゅうよう都市としとなる[7]。ゾロアスターきょうでは、バルフは主神しゅしんアフラ・マズダーつくった16の土地とちの4番目ばんめたり、ザラスシュトラが埋葬まいそうされた場所ばしょでもある。アヴェスターが成立せいりつしたのはすくなくとも紀元前きげんぜん650ねんよりまえかんがえられており、バルフもそのころにはすでにあったようである[8]。バルフはメソポタミア文明ぶんめいインダス文明ぶんめいむす交易こうえきシルクロードかよっていたため[9]オアシス交易こうえき国家こっか都市とし国家こっかとして繁栄はんえいした。

ぜん522ねんアケメネスあさダレイオス1せいたいするだい規模きぼ反乱はんらんマルギアナき、バクトリアの太守たいしゅ出動しゅつどうして鎮圧ちんあつした[10]。そのアレクサンドロス3せいアケメネスあさり、ぜん334ねんにバルフを占領せんりょうし、地元じもと豪族ごうぞくスピタメネスたたか拠点きょてんとした。ぜん331ねんガウガメラのたたかきた。バクトリアの太守たいしゅベッソスダレイオス3せい主力しゅりょく部隊ぶたいの1つとして奮戦ふんせんしたが、のちにダレイオス3せい殺害さつがいして自分じぶんおうになろうとした[11]ぜん301ねんイプソスのたたかのちセレウコスあさはバクトリアを征服せいふくし、バクトラにふくおういた。これによってバクトリアでギリシャじん入植にゅうしょくはじまったというせつがある[12]ぜん256ねんごろ、ギリシアじんディオドトスがセレウコスあさたいして反乱はんらんこし、バクトラを中心ちゅうしんとしてバクトリア王国おうこく独立どくりつたした。このではギリシア文化ぶんか維持いじされ、後世こうせいにも影響えいきょうあたえたとされる[13]。バルフ近郊きんこう直径ちょっけいやく1kmの円形えんけい城址じょうしであるバラヒッサールはバクトラの遺跡いせきであるとかんがえられている[3]。1923ねんから1925ねんにかけてバルフでおこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさ、1947ねんふたたおこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさではバクトリア王国おうこく時代じだい出土しゅつどひん確認かくにんできず、ヘレニズム文化ぶんかぞくする遺跡いせき発見はっけんされていない[3]

その大月おおつきクシャーナあさのもとで繁栄はんえいし、仏教ぶっきょう受容じゅようすすんでいった。クシャーナあさカニシカおう治世ちせい以降いこう、7世紀せいきアラブじん征服せいふくまで仏教ぶっきょう繁栄はんえいつづいた[7]。バルフにはナウバハール寺院じいん英語えいごばんがあり、この地方ちほう仏教ぶっきょう中心ちゅうしんとして繁栄はんえいした。のちアッバースあさ宰相さいしょう輩出はいしゅつし、せん一夜いちや物語ものがたりにも登場とうじょうするバルマクは、バルフの仏教徒ぶっきょうと集団しゅうだんちょうだったと[14]。3世紀せいき後半こうはんから4世紀せいきごろサーサーンあさはバルフにクシャーン・シャーいていた[12]。588ねん、サーサーンあさのバフラーム・チョ・ベーン将軍しょうぐん突厥からバルフをかえした[15]。629ねん玄奘三蔵げんしょうさんぞうがインドを目指めざしてとう出発しゅっぱつし、途中とちゅうでバルフをおとずれた。当時とうじのバルフはばくかつこく(ばかつこく[16])とばれ、周囲しゅうい20あまりさとやく8.8キロメートル)のだい都城みやこのじょうがあった。小乗しょうじょう仏教ぶっきょうさかんで100あまり伽藍がらんと3000余人よにん僧侶そうりょり、「しょうおうしゃじょう」とばれていた。まち西南せいなんにはおさめばくそう伽藍がらん(なばそうがらん[16])があり、仏像ぶつぞうのあるきたどうせい遺物いぶつおさめた南堂みなみどうたかさ200しゃくやく67メートル)の卒塔婆そとうば仏塔ぶっとう)と精舎しょうじゃ僧院そういん)があったと[17]。イスラーム以前いぜんのバルフでは仏教ぶっきょう、ゾロアスターきょう以外いがいマニきょうネストリウスキリスト教きりすときょう信仰しんこうされていた[7]

イスラム教いすらむきょうほうじるアラブぐん最初さいしょにバルフを占領せんりょうしたのは、642ねんニハーヴァンドのたたかのちである。その、653ねんウマイヤあさ成立せいりつふたたびバルフを占領せんりょうした[18]。このころ、バードギースしゅう根拠地こんきょちとするエフタルのタルハン・ネザーブがはんアラブ連合れんごう組織そしき[18]広域こういき反乱はんらんこしたとう。ウマイヤあさ700ねんにタルハン・ネザーブをたおし、736ねんにバルフに正式せいしき行政府ぎょうせいふつくった[18]。しかしシルクロード貿易ぼうえきめぐあらそいにとう吐蕃参戦さんせんし、750ねんアッバースあさによって占領せんりょうされ、821ねんにはターヒルあさおこるなど戦乱せんらんつづいた[18]。このひゃくねんおよ戦乱せんらんなかで、ナウバハール寺院じいん破壊はかいされたようである[13]。9世紀せいき後半こうはん、アフガニスタンにおける初期しょきのモスクの1つである「ノ・グムバード」が建設けんせつされた[18]。900ねんごろになるとサーマーンあさがこの征服せいふくして勢力せいりょく拡大かくだいさせた。12世紀せいき地理ちり学者がくしゃイドリースィーによると、バルフはホラーサーン地方ちほう主要しゅよう都市としの1つとして繁栄はんえいし、商業しょうぎょう教育きょういくさかんだったと[13]

中世ちゅうせい

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ティムールの攻撃こうげき

1135ねんセルジュークあさのスルターン・アフマド・サンジャルがマザーリシャリーフでハズラト・アリー遺体いたい発見はっけんし、はかつくったとう。1173ねんゴールあさがバルフを奪回だっかいしたが[19]、1215ねんホラズム・シャーあさほろぼされた。1218ねんからのモンゴル帝国ていこくのホラズム・シャーあさ攻撃こうげきさいしてバルフはモンゴルに降伏ごうぶくするが、バルフの動向どうこう警戒けいかいしたチンギス・カン命令めいれいによって市民しみん虐殺ぎゃくさつされ、城壁じょうへき破壊はかいされる[20]。チンギス・カンにつかえた耶律すわえざいは「大河たいがのぞんでむらじょうなるまちあり、すこぶる富盛とみもりなり」としるしている[21]。13世紀せいき後半こうはん中国ちゅうごくかう途中とちゅうマルコ・ポーロがバルクをおとずれた。そのころのバルクは巴里ぱりくろばれており[22]、ヨーロッパではアレクサンダー大王だいおうとダレイオスおうむすめロクサーナ[注釈ちゅうしゃく 1]結婚けっこんしたまちとしてられていた。タタール(モンゴル)の攻撃こうげきによって壮麗そうれい宮殿きゅうでん大理石だいりせきづくりのうつくしい邸宅ていたく破壊はかいされ廃墟はいきょになっていたが、それでも立派りっぱ都市としであり、モンゴルと勢力せいりょくける国境こっきょう地帯ちたいまちとしてさかえていたと[23]

1318ねんから26ねんごろチャガタイ・ハンこくケベクによってバルフは再興さいこうされた[24]1333ねんにバルフをおとずれたイブン・バットゥータ荒廃こうはいしてはいるものの、堅固けんご壮大そうだい市街地しがいちモスクマドラサ遺跡いせきから往時おうじ繁栄はんえいあとしのばれるとのこしている[25]。1340ねんごろからチャガタイ・ハンこく分裂ぶんれつし、アフガニスタン北部ほくぶのうちバルフかわ流域りゅういきはスルドゥス部族ぶぞくによって支配しはいされた[26]1368ねん西にしチャガタイ・ハンこく有力ゆうりょくアミール貴族きぞく)であるフサインはバルフを本拠地ほんきょちさだめて防備ぼうびかためた。1369ねん、フサインと対立たいりつするアミール・ティムールはバルフに進軍しんぐんし、包囲ほういすえまち陥落かんらくさせる(バルフ包囲ほういせん英語えいごばん[27]。1370ねん4がつ9にちにティムールはバルフで臣従しんじゅうちかい(バイア)をけ、あらたな政権せいけん樹立じゅりつする[28]15世紀せいき初頭しょとうあきら永楽えいらくみかどいのちけたちんまことが「はち剌黒」(バルフ)をおとずれた[29]1447ねんにはふたたバルフ包囲ほういせん英語えいごばんがあったという[13]1480ねんころスルターン・フサイン・バイカラがマザーリシャリーフのハズラト・アリーびょう修復しゅうふくした[30]。1507ねん草原そうげん地帯ちたいから南下なんかつづけるウズベク国家こっかシャイバーニーあさブハラ・ハンこく)がアフガニスタンに到達とうたつし、サファヴィーあさ衝突しょうとつした。1510ねんのマルウ近郊きんこうたたかいでシャイバーニーあさ敗北はいぼくし、一旦いったんもどされたものの、1568ねんにシャイバーニーあさのアブドゥッラー・ブン・イスカンダルはバルフを占領せんりょうする[31]

近世きんせい

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1646ねんムガル帝国ていこくがアフガニスタン北部ほくぶ侵攻しんこうし、ジョウズジャーンしゅうのシェベルガーンでジャーンあさ勝利しょうりしバルフを支配しはいいたが、ゲリラせんにより撤退てったいした[32]。1751ねんサドーザイあさアフマド・シャー・ドゥッラーニーがバルフなどを征服せいふくした[33]

近代きんだい

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1849ねんドースト・ムハンマド・ハーン息子むすこのムハンマド・アクラム・ハーンがバルフを占領せんりょうした[34]。1879ねんシール・アリー・ハーンがバルフで死去しきょした[35]

産業さんぎょう

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バルフしゅう農業のうぎょうさかんで、アフガニスタンでも屈指くっし小麦こむぎ大麦おおむぎ産地さんちである。バルフぐんはショールガラぐんならんでアサゴマタバコオリーブマスタード(パシュトゥーとダリーでSharham[36])など商品しょうひん作物さくもつ産地さんちであり、絨毯じゅうたん製造せいぞうおこなっている[37]

史跡しせき

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まち歴史れきし非常ひじょうふるいが戦乱せんらんによる被害ひがいのため保存ほぞん状態じょうたいわるく、廃墟はいきょになっているものがおおい。

まち内外ないがい仏教ぶっきょう遺跡いせきつかる。

  • タフト・イ・ルスタム(英語えいご: Takht-e Rustam)- みなみもんそとにある遺跡いせきだいから西域せいいきしるされているおさめばくそう伽藍がらんというせつがある[42]
  • トープ・イ・ルスタム(英語えいご: Tepe Rustam)- ルスタムのえんとうという意味いみだいから西域せいいきしるされているおさめばくそう伽藍がらん仏塔ぶっとう(窣塔婆とうば)というせつがある[3][42]発掘はっくつ調査ちょうさによると、四方しほう階段かいだんのあるじゅう方形ほうけい基壇きだんうえ円筒えんとう基壇きだんがあり、そのうえふくばちがあったとおもわれる。
  • テペ・ザルガラン - まち東側ひがしがわきゅう市街地しがいちなかにある仏教ぶっきょう伽藍がらん[42]
  • チャルキ・ファラク - 東門ひがしもんそとにある遺跡いせき仏塔ぶっとう可能かのうせいがある[42]

おも出身しゅっしんしゃ

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさいだいいち王妃おうひロクサーナバクトリア王女おうじょで、アケメネスあさほろぼすまえ結婚けっこんしていた。ダレイオス3せいむすめスタテイラで、からアレクサンドロスのになった。

出典しゅってん

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  1. ^ Central Statistics Organization (2013ねん). “Settled Population of Balkh province by Civil Division , Urban, Rural and Sex-2012-13”. Islamic Republic of Afghanistan. 2014ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ ペルシアラテンこぼし: Balkh
  3. ^ a b c d e f 土谷つちたに「バルフしゅう」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』3、787-788ぺーじ
  4. ^ google mapで確認かくにん
  5. ^ 前田まえだ玄奘三蔵げんしょうさんぞう、シルクロードをく』、120ぺーじ
  6. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、110ぺーじ
  7. ^ a b c 『シルクロード事典じてん』、260-261ぺーじ
  8. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、150ぺーじ
  9. ^ 加藤かとうきゅう祚『シルクロードの古代こだい都市とし岩波書店いわなみしょてん、2013ねん、29, 30ぺーじISBN 978-4004314448 
  10. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、161ぺーじ
  11. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、187ぺーじ
  12. ^ a b フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、205ぺーじ
  13. ^ a b c d 出典しゅってんは『アフガニスタン紀行きこう』か?
  14. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、290ぺーじ
  15. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、263ぺーじ
  16. ^ a b フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、265ぺーじ
  17. ^ 前田まえだ玄奘三蔵げんしょうさんぞう、シルクロードをく』、107-118ぺーじ
  18. ^ a b c d e f フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、275, 294ぺーじ
  19. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、309ぺーじ
  20. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』1かんこうとおる訳注やくちゅう, 東洋文庫とうようぶんこ, 平凡社へいぼんしゃ, 1968ねん3がつ)、236-238ぺーじ
  21. ^ 耶律すわえざい西遊せいゆうろく
  22. ^ もとまきいち63
  23. ^ マルコ・ポーロ、愛宕あたご 松男まつお完訳かんやく 東方とうほう見聞けんぶんろく1』平凡社へいぼんしゃ、2000ねん、166ぺーじISBN 978-4582763263 
  24. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、318ぺーじ
  25. ^ イブン・バットゥータ『だい旅行りょこう』4かん家島いえじま彦一ひこいち訳注やくちゅう, 東洋文庫とうようぶんこ, 平凡社へいぼんしゃ, 1999ねん9がつ)、193ぺーじ
  26. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、40,42ぺーじ
  27. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、50,55ぺーじ
  28. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、57ぺーじ
  29. ^ ちんまこと暹「西域せいいきばんこくこころざし
  30. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、325ぺーじ
  31. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、329-331,335-338ぺーじ
  32. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、335-338ぺーじ
  33. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、355ぺーじ
  34. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、394ぺーじ
  35. ^ フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』、404ぺーじ
  36. ^ Tony Winch. “Growing Food: A Guide to Food Production”. 2014ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  37. ^ Ministry of Rural Rehabilitation and Development (2013ねん). “Balkh Provincial Profile”. Islamic Republic of Afghanistan. 2014ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  38. ^ a b c d e 観光かんこう名所めいしょ”. アフガニスタン大使館たいしかん. 2014ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  39. ^ google mapで確認かくにん
  40. ^ Mathias_Schroeder. “Balkh, ancient bactrian walls”. panoramio.com. 2014ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  41. ^ HAJI PIYADA MOSQUE (NOH GUMBAD)”. WORLD MONUMENTS FUND. 2014ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  42. ^ a b c d 前田まえだ玄奘三蔵げんしょうさんぞう、シルクロードをく』、113ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 川口かわぐち琢司たくじ『ティムール帝国ていこく』(講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2014ねん3がつ
  • 土谷つちたに遥子ようこ「バルフしゅう」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』3収録しゅうろく朝倉書店あさくらしょてん、2012ねん11月)
  • 前田まえだ耕作こうさく玄奘三蔵げんしょうさんぞう、シルクロードをく』岩波いわなみ新書しんしょ、2010ねん、107-118ぺーじISBN 978-4004312437 
  • ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか』(前田まえだ耕作こうさく山内やまうち和也かずや監訳かんやく、「世界せかい歴史れきし叢書そうしょ明石書店あかししょてん、2005ねん4がつ
  • 『シルクロード事典じてん』(前嶋まえじま信次しんじ加藤かとうきゅう共編きょうへん芙蓉ふよう書房しょぼう、1975ねん1がつ

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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