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マザーリシャリーフ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マザーリシャリーフ
مزارِ شریف
アフガニスタンの旗
ブルーモスク
ブルーモスク
位置いち
マザーリシャリーフの位置(アフガニスタン内)
マザーリシャリーフ
マザーリシャリーフ
マザーリシャリーフ (アフガニスタン)
マザーリシャリーフの位置(中東内)
マザーリシャリーフ
マザーリシャリーフ
マザーリシャリーフ (中東ちゅうとう)
地図
座標ざひょう : 北緯ほくい3642ふん 東経とうけい6707ふん / 北緯ほくい36.700 東経とうけい67.117 / 36.700; 67.117
行政ぎょうせい
くに アフガニスタンの旗 アフガニスタン
 しゅう バルフしゅう
マザーリシャリーフ
人口じんこう
人口じんこう (2015ねん現在げんざい
  いき 427,600[1]ひと
その
ひとしときおび アフガニスタン標準時ひょうじゅんじ (UTC+4:30)
ブルーモスク.

マザーリシャリーフダリー: مزار شريف Mazār-e Sharīf)は、アフガニスタン北部ほくぶバルフしゅうにある都市とし州都しゅうとであり[2]、アフガニスタンにおける大都市だいとしの1つである。幹線かんせん道路どうろによって、南東なんとうカーブル西にしヘラートきたウズベキスタンつながれている交通こうつう要衝ようしょうである。マザーレ・シャリーフともいい、報道ほうどうとうではマザリシャリフと表記ひょうきされることがおおい。

歴史れきし

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前史ぜんし

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マザーリシャリーフはヒンドゥークシュ山脈さんみゃくアムダリヤがわあいだはさまれた平野へいやにある。アムダリヤがわ北側きたがわ中央ちゅうおうアジアであり、この平野へいやつうじてアフガニスタンのなか中央ちゅうおうアジアがはいむような地形ちけいになっている。この平野へいやには古来こらいからシルクロードやシルクロードからインドへかう街道かいどう[3]かよっており、交通こうつう要所ようしょとしてられていた。そのため街道かいどうつうじて様々さまざま民族みんぞく侵入しんにゅうして、興亡こうぼうかえした。たとえば紀元前きげんぜん4世紀せいきにはアレクサンドロス3せいめてて、ギリシャじんまちつくった。7世紀せいきには中国ちゅうごくからインドにかう途中とちゅう玄奘三蔵げんしょうさんぞうおとずれた「ばくかつこく」(バルクこく)があったと[4]中世ちゅうせいまで、この平野へいや中心ちゅうしんてき都市としバルフだった。一方いっぽうひがしに20 kmほどはなれたマザーリシャリーフはバルフの近郊きんこうにすぎず、中世ちゅうせいまではなにかったようである。

マザールの発見はっけん

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マザールとはアラビアで「おとずれるべき場所ばしょ参詣さんけいすべき場所ばしょ」という意味いみである[5]イスラム教いすらむきょうには聖者せいじゃ(ワリー)のはかびょうマザール)を参詣さんけいする風習ふうしゅうがあり、マザーリシャリーフには「ハズラト・アリーびょう」がまつられている。アリーとはアリー・イブン=アビー=ターリブことである。この人物じんぶつスンナだい4だい正統せいとうカリフであり、シーア初代しょだいイマームでもある。661ねん、アリーはイラクナジャフにある「クーファのだいモスク」で暗殺あんさつされた。遺体いたいはその埋葬まいそうされたと一般いっぱんにはしんじられている。しかし1135ねんごろ、イラクからとおはなれたバルフ近郊きんこうのアル・ハイルむら住民じゅうみんたちが、アリーが夢枕ゆめまくらつとセルジュークあさ領主りょうしゅのクマジュにうったえた。領主りょうしゅ部下ぶかゆめ場所ばしょらせてみると、アリーの遺体いたい証拠しょうこのレンガがつかったので、領主りょうしゅ立派りっぱびょうててまつった。しかし、13世紀せいきモンゴルぐん襲来しゅうらい地域ちいき混乱こんらんしたためか、はか場所ばしょからなくなった。1480ねんごろ領主りょうしゅフサイン・バイカラもとはかしめ書物しょもつった人物じんぶつあらわれた。スルタンがその場所ばしょってみるとはかつかったのでおおいによろこび、立派りっぱびょうてたという伝承でんしょうがある[5]。これが現在げんざいブルーモスク原型げんけいであり、マザーリシャリーフは信仰しんこうあつめ、となりがいのバルフにわってこの地方ちほう中心ちゅうしん都市としとして発展はってんした。

アフガン戦争せんそう

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18世紀せいきカンダハールドゥッラーニーあさこり、マザーリシャリーフはその版図はんとまれた。その、ドゥッラーニーあさ一族いちぞくバーラクザイあさほろぼされた。19世紀せいきはいるとロシアの南下なんか政策せいさく対抗たいこうするために、イギリスぐんがアフガニスタンへの進駐しんちゅう要求ようきゅうし、さんにわたってアフガン戦争せんそう勃発ぼっぱつした。1839ねんはじまっただいいちアフガン戦争せんそうではワズィール・アクバル・ハーン英語えいごばん王子おうじ活躍かつやくした。1878ねんはじまっただいアフガン戦争せんそうでは、国王こくおうシール・アリー・ハーンがカブールをわれてバルフで死去しきょした[6]王子おうじ国王こくおうはかはマザーリシャリーフのブルーモスクにあると[7]。またこの時代じだい、マザーリシャリーフとバルフの中間ちゅうかん位置いちするカライジャンギ英語えいごばんに、西洋せいようしきほしがた要塞ようさいつくられた。

アフガニスタン紛争ふんそう

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1979ねんソビエト連邦れんぽうアフガニスタン侵攻しんこう開始かいしして首都しゅとカーブル占拠せんきょすると、国境こっきょうアムがわちかいマザーリシャリーフのソ連それん影響えいきょうはいり、ソ連それんのコントロールにある当時とうじ政権せいけん政党せいとうアフガニスタン人民じんみん民主党みんしゅとうしたがおやウズベクじん民兵みんぺい組織そしき拠点きょてんとなった。このウズベク人民じんみんへい2まんにん指導しどうしゃ抜擢ばってきされたのが、ソ連それん軍事ぐんじ訓練くんれんけたもと技術ぎじゅつしゃアブドゥッラシード・ドスタム将軍しょうぐんである。マザーリシャリーフのドスタムイスラム民族みんぞく運動うんどう)は、ムジャーヒディーンしょ勢力せいりょくたたかってムジャーヒディーンの敵意てきいったが、ソ連それん崩壊ほうかい1992ねん2がつ人民じんみん民主党みんしゅとうててムジャーヒディーン政権せいけん樹立じゅりつ参加さんかし、そのアフガニスタン内戦ないせんではウズベキスタン間接かんせつてき支援しえんけてマザーリシャリーフを中心ちゅうしん北部ほくぶ割拠かっきょつづけた。

国内こくない地域ちいき疲弊ひへいするなか、ドスタムひきいるイスラム民族みんぞく運動うんどう支配しはいでマザーリシャリフは平和へいわ享受きょうじゅし、きゅうソ連それん中央ちゅうおうアジア諸国しょこくトルコとの政治せいじてきむすびつきをかため、独自どくじ紙幣しへい発行はっこうされ、航空こうくう会社かいしゃ運営うんえいされた。しかし、1997ねんにドスタムのぞくしょうであったアブドゥル・マリク将軍しょうぐん離反りはんによって、マザーリシャリーフは争乱そうらん状態じょうたいとなり、ターリバーンすきあたえることになった。

1997ねん5月から7がつにかけて、ターリバーンはマザーリシャリフの攻略こうりゃくにかかったが、作戦さくせん失敗しっぱいやく2500にんのターリバーンがマリク将軍しょうぐんシーアハザーラけい民兵みんぺいによって虐殺ぎゃくさつされた。ターリバーンただちに反攻はんこうし、1998ねん8がつ8にち市街しがいさい入城にゅうじょうつづく6日間にちかんにわたって、ハザーラけい住民じゅうみん報復ほうふくのため徹底的てっていてき虐殺ぎゃくさつおこなった。国連こくれん推定すいていでは5000にん死者ししゃたとされている。マザーリシャリフは陥落かんらくし、これを契機けいきにパキスタンはターリバーン政権せいけん承認しょうにん積極せっきょくてきした。しかし、ターリバーンはマザーリシャリーフのイラン総領事館そうりょうじかん占拠せんきょし、外交がいこうかん10にんとジャーナリストを殺害さつがいした。このため、イランが国境こっきょう地帯ちたいぐん展開てんかいする事態じたいとなった。

アメリカ主導しゅどう軍事ぐんじ行動こうどう

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アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんのち、マザーリシャリーフはアメリカが後援こうえんする北部ほくぶ同盟どうめいがアフガニスタンで陥落かんらくさせた最初さいしょ都市としになった。マザーリシャリーフのターリバーンの敗北はいぼくにより、アフガニスタン北部ほくぶ地域ちいき西部せいぶへのみちけた。

2001ねん11月のマザーリシャリーフのたたかいののち表向おもてむきには北部ほくぶ同盟どうめいまち占領せんりょうしたが(マザーリシャリーフ奪還だっかん英語えいごばん11月9にち - 11月10にち)、実際じっさいにはアメリカぐん特殊とくしゅ部隊ぶたい合流ごうりゅうし、アメリカ空軍くうぐん支援しえんした。報道ほうどうによると、北部ほくぶ同盟どうめい投降とうこうしたターリバーンの兵士へいし3000にんをカライジャンギで皆殺みなごろしにした[よう検証けんしょう](12月、ダシュテ・ライリ虐殺ぎゃくさつ英語えいごばん)とう。アメリカの地上ちじょう部隊ぶたい虐殺ぎゃくさつ現場げんば居合いあわせたようである[8]。アイルランドのドキュメンタリー映画えいがアフガンだい虐殺ぎゃくさつ - 護送ごそう」がこれらのもうてを調査ちょうさした。プロデューサーのドーランは国連こくれん調査官ちょうさかんたちすうせんにん被害ひがいしゃ集団しゅうだん墓地ぼちつけたと主張しゅちょうしている[9]報道ほうどうによると、ブッシュ政権せいけんはこの事件じけん調査ちょうさ妨害ぼうがいしたと[10]。 2002ねんつうじて、指揮しきかんことなる民兵みんぺい同士どうし小規模しょうきぼ衝突しょうとつつづいたので、国際こくさい連合れんごう集中しゅうちゅうてき和平わへい調停ちょうてい小規模しょうきぼ武装ぶそう解除かいじょプログラムに焦点しょうてんうつった。2003ねん4がつまちにアフガニスタン独立どくりつ人権じんけん委員いいんかい事務所じむしょ開設かいせつされた。しかし北部ほくぶパシュトゥーンじん市民しみんが、タジクじん中心ちゅうしんとするほか民族みんぞくグループに民族みんぞく浄化じょうかされたと報道ほうどうもあった[11]

NATOぐん駐留ちゅうりゅうとカルザイ政権せいけん

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2002ねんハーミド・カルザイ大統領だいとうりょう選出せんしゅつされたのちまち徐々じょじょにカルザイ政権せいけん支配しはいかれた。アフガン陸軍りくぐんだい209軍団ぐんだん(シャヒーン)の基地きちはマザーリシャリーフにあり、アフガニスタン北部ほくぶにおいて軍事ぐんじてき支援しえんをしていた。北部ほくぶ地域ちいきのアフガン国境警備隊こっきょうけいびたい司令しれいもこのまちかれていた。これらの治安ちあん部隊ぶたいるにもかかわらず、ターリバーンの活動かつどう部族ぶぞく長老ちょうろう暗殺あんさつ報告ほうこくされた。マザーリシャリーフの当局とうきょくしゃによると、過去かこ7年間ねんかんバルフしゅう部族ぶぞく長老ちょうろうが20〜30にん暗殺あんさつされたとう。背後はいごだれがいるのか確実かくじつ証拠しょうこいが、犠牲ぎせいしゃだい部分ぶぶんグルブッディーン・ヘクマティヤールイスラム党いすらむとう英語えいごばん関係かんけいしたとわれている[12]

アフガン政府せいふ支援しえんするために、NATO主導しゅどう平和へいわ維持いじぐんまちなか周辺しゅうへん展開てんかいした。ドイツひきいる国際こくさい治安ちあん支援しえん部隊ぶたい(ISAF)の北部ほくぶ方面ほうめんぐんは、マザーリシャリーフ国際こくさい空港くうこう隣接りんせつするマーマル駐屯ちゅうとん駐屯ちゅうとんし、2006ねん以来いらい、マザーリシャリーフの地方ちほう復興ふっこうチーム指揮しきかんスウェーデンから派遣はけんされた。部隊ぶたいはマーマル駐屯ちゅうとん西にし10キロメートルにあるノーザンライト駐屯ちゅうとんにも展開てんかいした。マーマル駐屯ちゅうとんなかにはニダロス駐屯ちゅうとんがあり、ラトビアノルウェーからへい派遣はけんされ、ノルウェイのISAF指揮しきかん指揮しきをとった。

2011ねん4がつ1にち国連こくれんアフガニスタン支援しえんミッションの10にん職員しょくいんが、いかくるったデモたいによって殺害さつがいされた。デモはテリー・ジョーンズ牧師ぼくしとウェイン・サップ牧師ぼくしが3月21にちフロリダしゅうもよおした国際こくさいクルアーン焼却しょうきゃくたいして組織そしきされたものだった[13]。5にんネパールひとと、ノルウェーじんルーマニアひと、スウェーデンじん殺害さつがいされ、2人ふたり斬首ざんしゅされたと[14][15][16]イスラム教いすらむきょう聖書せいしょやしたアメリカじん牧師ぼくしのテリー・ジョーンズは責任せきにん否定ひていした[17]バラク・オバマ大統領だいとうりょうは、コーラン焼却しょうきゃくを「極度きょくど寛容かんよう偏見へんけんてき行為こういとして非難ひなんするとともに、デモたいの「無法むほう攻撃こうげき」を「人類じんるい品位ひんい尊厳そんげん侮辱ぶじょくした」「つみ人々ひとびと虐殺ぎゃくさつくびることをゆる宗教しゅうきょういし、不名誉ふめいよなげかわしい行動こうどう正義せいぎい」と非難ひなんした[18]上院じょういん院内いんない総務そうむハリー・リードなどの合衆国がっしゅうこく議員ぎいんたちも、焼却しょうきゃく暴動ぼうどう非難ひなんした[19]

暴動ぼうどうは2011ねん7がつまでに最高潮さいこうちょうたっした[20]。7がつ下旬げじゅんばくだん攻撃こうげきにより死者ししゃ数日すうじつ治安ちあんたいする不安ふあん増大ぞうだいするなかで、NATOぐんはマザーリシャリーフの管理かんり地元じもと軍隊ぐんたいゆずった。マザーリシャリーフの7ぶんの6の地域ちいきはアフガンの支配しはいうつったが、移行いこう時期じき政治せいじてきでターリバーン兵士へいしたたかうアフガンぐん能力のうりょく疑問ぎもんだという批判ひはんがあった。

国際こくさい治安ちあん部隊ぶたい撤退てったいとターリバーンによるさい制圧せいあつ

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2013ねん6がつ国際こくさい治安ちあん支援しえん部隊ぶたい治安ちあん維持いじ任務にんむ完了かんりょうした。北部ほくぶ地方ちほう展開てんかいするドイツぐん順次じゅんじ撤退てったい作業さぎょうすすめ、2014ねんまつまでにマザーリシャリーフから撤退てったいした[21]

2021ねん、アメリカぐん完全かんぜん撤退てったいけてアフガニスタン国内こくない兵力へいりょく削減さくげんすると、ターリバーンはマザーリシャリーフ周辺しゅうへんでも軍事ぐんじ行動こうどうつよめた(2021ねんターリバーン攻勢こうせい 参照さんしょう)。同年どうねん8がつ11にちには、ガニー大統領だいとうりょう空路くうろ現地げんち訪問ほうもんして窮地きゅうち政府せいふぐん激励げきれいし、軍閥ぐんばつ指導しどうしゃ会談かいだんした[22]。8月14にちターリバーンは防衛ぼうえいせん突破とっぱしてからわず一時いちじあいだ制圧せいあつ軍閥ぐんばつ指導しどうしゃらは国外こくがい逃亡とうぼうした[23][24][25]

交通こうつう

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アフガニスタンの中央ちゅうおう東西とうざいヒンドゥークシュ山脈さんみゃくはしっており、大都市だいとし山脈さんみゃく周辺しゅうへん点在てんざいしている。首都しゅとカブールは山脈さんみゃく南側みなみがわにあり、マザーリシャリーフは北側きたがわにある。そのためりょう都市としあいだ交通こうつうは、標高ひょうこう3363 mのサランとうげえなければらない。マザーリシャリーフはウズベキスタンの国境こっきょうちかく、ウズベキスタンと首都しゅとカブールをつなぐ交通こうつう要衝ようしょうでもある。

アフガニスタンの幹線かんせん道路どうろアジアハイウェイ一部いちぶ看做みなされており、マザーリシャリーフには76号線ごうせんはしっている[26]幹線かんせん道路どうろ西にしかえばアフガニスタン西部せいぶ都市としヘラートがあり、ひがしかえば山脈さんみゃくえて首都しゅとカブールがある。きたかえば国境こっきょうまちハイーラターンがあり、アムダリヤがわえてウズベキスタンにいたる。また「Hairatan Rd」と平行へいこうしてウズベキスタンにかう62号線ごうせん工事こうじちゅうのようである。

2011ねん12月、マザーリシャリーフとハイーラターンのあいだ鉄道てつどう完成かんせいし、まちはウズベキスタンと鉄道てつどうつながった[27][28]。これはアジア開発銀行あじあかいはつぎんこう出資しゅっしして建設けんせつしたもので、ウズベキスタンの国営こくえい鉄道てつどう運営うんえいしている。鉄道てつどうはウズベキスタンからアフガニスタン=ウズベキスタン友好ゆうこうきょうえて、マザーリシャリーフ国際こくさい空港くうこうちかくまでびており、ここでトラックや飛行機ひこうきみかえることが出来できる。

産業さんぎょう

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おも産業さんぎょう農業のうぎょう牧畜ぼくちくであるが、小規模しょうきぼ石油せきゆ天然てんねんガスの生産せいさんもマザーリシャリーフの復興ふっこういきおいづけている。ふるくからブズカシ中心ちゅうしん都市としであり、市内しないのモスクはノウルーズ新年しんねんさい)には国内こくないでも有数ゆうすうにぎわいをせる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Ministry of Rural Rehabilitation and Development. “Balkh Provincial Profile”. Islamic Republic of Afghanistan. 2014ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  2. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん6がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ 加藤かとうきゅう祚『シルクロードの古代こだい都市とし岩波書店いわなみしょてん、2013ねん、29-30ぺーじISBN 978-4004314448 
  4. ^ 前田まえだ耕作こうさく玄奘三蔵げんしょうさんぞう、シルクロードをく』岩波書店いわなみしょてん、2010ねん、107-108ぺーじISBN 978-4004312437 
  5. ^ a b 濱田はまだ正美まさみテュルク研究けんきゅうへのしん視点してん : 聖者せいじゃはかつけるはなし」『国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく別冊べっさつだい020かん国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん、1999ねん3がつ、287-326ぺーじdoi:10.15021/00003526hdl:10502/3667ISSN 0288-190XCRID 13902906997974722562023ねん4がつ24にち閲覧えつらん 
  6. ^ ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史れきし文化ぶんか明石書店あかししょてん、2005ねん、404ぺーじISBN 978-4750320700 
  7. ^ 観光かんこう名所めいしょ”. アフガニスタン大使館たいしかん. 2014ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  8. ^ Harding, Luke (2002ねん9がつ14にち). “Afghan Massacre Haunts Pentagon”. London: The Guardian. http://www.guardian.co.uk/world/2002/sep/14/afghanistan.lukeharding 2010ねん5がつ12にち閲覧えつらん 
  9. ^ “As possible Afghan war-crimes evidence removed, U.S. silent”. McClatchy Newspapers. (12-11-2008). オリジナルの2008ねん12月16にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081216164141/http://www.mcclatchydc.com/336/story/57649.html 
  10. ^ “US blocked probes into Afghan prisoner killings”. AFP. (10-07-2009). https://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5g2bWSZ_qHnwdWmM9oXsbYHuDVbRg 
  11. ^ “Pashtuns say they're being brutalized”. United States: USA Today. (05/12/2002). http://www.usatoday.com/news/world/2002/05/13/pashtuns.htm 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  12. ^ Ehsas, Zabiullah (2011ねん3がつ31にち). “Tribal elders in Balkh worry about assassinations”. Afghanistan: Pajhwok Afghan News. http://www.pajhwok.com/en/2011/03/31/tribal-elders-balkh-worry-about-assassinations 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  13. ^ https://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5hiqhizasRIx4id4gcrj5d09Gg_5g
  14. ^ “UN staff killed during protest in northern Afghanistan”. BBC News. (2011ねん4がつ1にち). http://www.bbc.co.uk/news/world-south-asia-12940014 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  15. ^ “10 UN workers killed, beheaded in Mazar attack”. Pajhwok Afghan News. (2011ねん4がつ1にち). http://www.pajhwok.com/en/2011/04/01/10-un-workers-killed-beheaded-mazar-attack 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  16. ^ Boone, Jon (2011ねん4がつ1にち). “UN staff killed in Afghanistan amid protests over Qur'an burning”. London: The Guardian. http://www.guardian.co.uk/world/2011/apr/01/un-staff-afghanistan-mazar-sharif-killed-quran 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  17. ^ “Pastor Terry Jones: 'We are not responsible'”. BBC News. (2011ねん4がつ1にち). http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-12940596 2011ねん4がつ1にち閲覧えつらん 
  18. ^ Obama condemns Quran burning ‘bigotry’ Archived 2011ねん4がつ8にち, at the Wayback Machine., Dawn, 3 April 2011
  19. ^ US Legislators Condemn Quran Burning, Violent Reaction, Voice of America, 3 April 2011
  20. ^ Enayat Najafizada (2011ねん7がつ23にち). “NATO hands control of Mazar-i-Sharif to Afghans”. AFP. https://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5gvokSSxBerTREE-SKocgAXHMdbLQ?docId=CNG.fe768764ef7d83a788e89cdd526cf0de.9f1 2011ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  21. ^ Matthias Gebauer, Gordon Repinski, Christoph Schult (2014ねん1がつ21にち). “The Front Lines: Germany's Difficult Year in Africa and Afghanistan”. SPIEGEL ONLINE. http://www.spiegel.de/international/germany/german-military-faces-a-difficult-year-in-africa-and-afghanistan-a-944553.html 2014ねん1がつ27にち閲覧えつらん 
  22. ^ アフガン大統領だいとうりょう窮地きゅうち北部ほくぶ都市とし訪問ほうもん たいタリバンせんぐん激励げきれい”. AFP (2021ねん8がつ11にち). 2021ねん8がつ11にち閲覧えつらん
  23. ^ タリバン戦闘せんとういん、アフガニスタン首都しゅと郊外こうがい待機たいき”. AFP (2021ねん8がつ15にち). 2021ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  24. ^ Goldbaum, Christina; Rahim, Najim; Hassan, Sharif (2021ねん8がつ14にち). “Afghanistan’s commercial hub, Mazar-i-Sharif, falls to the insurgents.” (英語えいご). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/2021/08/14/world/asia/Taliban-afghanistan-mazar-i-sharif.html 2022ねん11月11にち閲覧えつらん 
  25. ^ “Marshal Dostum, Atta Muhammad Noor cross border into Uzbekistan” (英語えいご). The Khaama Press News Agency. (2021ねん8がつ15にち). https://www.khaama.com/marshal-dostum-atta-muhammad-noor-cross-border-into-uzbekistan-47547/ 2022ねん11月11にち閲覧えつらん 
  26. ^ アジアハイウェイ路線ろせんとその現状げんじょう”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2014ねん1がつ27にち閲覧えつらん
  27. ^ リュウ&ネコのフー&ミー (2011ねん12月23にち). “アフガンで鉄道てつどう輸送ゆそう一部いちぶ完成かんせい”. BLOGOS. 2014ねん1がつ27にち閲覧えつらん
  28. ^ レベッカ・ミュレー, あさきり勝浩かつひろ (2012ねん1がつ19にち). “アフガニスタン きびしい政治せいじてき困難こんなん直面ちょくめんする鉄道てつどうもう”. IPS Japan. 2014ねん1がつ27にち閲覧えつらん