ハーミド・カルザイ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハーミド・カルザイ
حامد کرزی

2014ねん6がつ14にち撮影さつえいそう選挙せんきょ投票とうひょうずみしめすためインクをつけられた左手ひだりてかかげながら記者きしゃ質問しつもんこたえる。

任期にんき 2004ねん12月7にち2014ねん9月29にち
ふく大統領だいとうりょう ユーヌス・カーヌーニーだいいち
カリーム・ハリーリーだい

任期にんき 2002ねん6月19にち – 2004ねん12月7にち

任期にんき 2001ねん12月22にち – 2002ねん6がつ19にち

出生しゅっしょう (1957-12-24) 1957ねん12月24にち(66さい
アフガニスタン王国おうこくカンダハールしゅうカルツ
政党せいとう 無所属むしょぞく
配偶はいぐうしゃ ズィーナト・カルザイ

ハーミド・カルザイパシュトー: حامد کرزی‎、Hāmid Karzai、1957ねん12月24にち ‐ )は、アフガニスタン政治せいじアフガニスタン・イスラム共和きょうわこく大統領だいとうりょう初代しょだい)。カンダハールしゅうカルツ出身しゅっしんパシュトゥーンじん

アフガニスタン暫定ざんてい行政ぎょうせい機構きこう議長ぎちょう、アフガニスタン・イスラム移行いこう政権せいけん大統領だいとうりょう歴任れきにんした。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1970年代ねんだいまつにパキスタンにうつり、ムジャーヒディーン接触せっしょくはじめた。このころあにたよって、一時いちじ渡米とべいしている。なお、アフガニスタン領内りょうない直接ちょくせつ戦闘せんとう参加さんかしたことはない。

1982ねんシブガトゥッラー・ムジャッディディーひきいるアフガニスタン救国きゅうこく民族みんぞく戦線せんせんくわわり、その報道ほうどうかんとなった。1987ねん戦線せんせん政治せいじ部長ぶちょう

1992ねんブルハーヌッディーン・ラッバーニー政権せいけん外務がいむ次官じかん就任しゅうにん。1994ねん、ラッバーニー政権せいけんから離脱りだつ

ターリバーン政権せいけん誕生たんじょう当初とうしょおなパシュトゥーンじん勢力せいりょくとして支持しじし、1996ねん、ターリバーンのちゅう国連こくれん代表だいひょう任命にんめいされた。しかし、次第しだいにターリバーンにパキスタンアラブ諸国しょこく影響えいきょうりょくつよまったため、はんターリバーンにてんじた。父親ちちおやがターリバーンに殺害さつがいされている。

2001ねん9月11にちの「アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん以降いこう、アフガニスタンにおけるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく協力きょうりょくしゃとして実行じっこうはんかくまうターリバーン政権せいけん打倒だとう活躍かつやくした。

12月22にちに、アフガニスタン暫定ざんてい行政ぎょうせい機構きこう議長ぎちょう就任しゅうにんし、2002ねん6月19にちにはアフガニスタン・イスラム移行いこう政権せいけん大統領だいとうりょう就任しゅうにん2003ねん2がつには来日らいにちし、小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょうらと会談かいだんおこなったほか、日本外国特派員協会にほんがいこくとくはいんきょうかい記者きしゃ会見かいけんおこなった。

2004ねん10月の直接ちょくせつ選挙せんきょ出馬しゅつばして当選とうせんし、同年どうねん12月7にち正式せいしき大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。就任しゅうにんしきにはアフガニスタン最後さいご国王こくおうでカルザイから「国父こくふ」(ババ=エ=ミラート)[1][2]称号しょうごうあたえられたザーヒル・シャーった。2009ねん11月再選さいせんされ政権せいけんは2になり、カルザイは汚職おしょく撲滅ぼくめつうったえた。

大統領だいとうりょう就任しゅうにんしきのぞむカルザイ、となりはザーヒル・シャーもと国王こくおう(2004ねん

2011ねん8がつ11にち憲法けんぽう規定きていともない、2014ねんおこなわれる次期じき大統領だいとうりょうせん(3)に出馬しゅつばしない意向いこう表明ひょうめいした。

2019ねんには当年度とうねんどおこなわれるアフガニスタン大統領だいとうりょう選挙せんきょで、アシュラフ・ガニー大統領だいとうりょう再選さいせん阻止そし目指めざ活動かつどうおこなった[3]が、ガニーが再選さいせんされた。

2021ねん8がつ15にちにターリバーンがアフガニスタンのほぼ全土ぜんど制圧せいあつした以降いこう国内こくないのこり、ターリバーンがわとの協議きょうぎ参加さんかした[4]同年どうねん12がつCNN単独たんどくインタビューにおうじ、国際こくさい社会しゃかいたいしターリバーンとの対話たいわびかけ[5]、2022ねん6がつ11にち日本にっぽんのメディアでははつとなる朝日新聞あさひしんぶんとの単独たんどく会見かいけんでターリバーン政権せいけんたいして女子じょし教育きょういく再開さいかいはたらきかけていることをあきらかにしたほか[6]、2023ねん11月22にちには共同通信社きょうどうつうしんしゃ単独たんどく会見かいけんにてターリバーン政権せいけん崩壊ほうかい分裂ぶんれつのぞまないとして存続そんぞく容認ようにんせざるをないとの認識にんしきあきらかにしている[7]外国がいこく渡航とこう禁止きんしなど行動こうどう制約せいやくけながらもアフガニスタン国内こくないのこって自身じしんおなパシュトゥーンじんとターリバーン政権せいけんとの対話たいわ窓口まどぐちつとめており[6]一定いってい影響えいきょうりょく保持ほじしているとされている[7]

外国がいこくとの関係かんけい[編集へんしゅう]

カルザイとアメリカ陸軍りくぐん特殊とくしゅ部隊ぶたいぐん

アメリカの大手おおて石油せきゆ会社かいしゃユノカル取締役とりしまりやくをしていたことがあると報道ほうどうされている[8]。その会社かいしゃはカルザイの在任ざいにんちゅうにアフガニスタンにインド洋いんどようカスピ海かすぴかい油田ゆでんむすパイプライン建設けんせつおこなっていた。親米しんべいとされることがおおいものの、中国ちゅうごくロシア主導しゅどうする上海しゃんはい協力きょうりょく機構きこうへの加盟かめいにもはたらきかけた。

2002ねん1がつ日本にっぽんはつ訪問ほうもんし、東京とうきょうひらかれたアフガニスタン復興ふっこう支援しえん会議かいぎ出席しゅっせきした[9]。2003ねん、2006ねん、2010ねん、2012ねんにも訪日ほうにちした。このうち2010ねん6がつ16にちから20日はつかにかけての訪日ほうにちでは、17にち天皇てんのう会見かいけんし、19にち広島ひろしま平和へいわ記念きねん公園こうえんにある原爆げんばく死没しぼつしゃ慰霊いれい献花けんかした[10][11]

カルザイ氏族しぞく[編集へんしゅう]

ジョージ・W・ブッシュローラ・ブッシュとも

ハーミド・カルザイは、1957ねん12月24にちウルーズガーンしゅうまれた。アフガン国内こくない多数たすうであるパシュトゥーンじんの2だい部族ぶぞく連合れんごううち南部なんぶ基盤きばんとするドゥッラーニー部族ぶぞく連合れんごう、ポーパルザイ部族ぶぞく名門めいもんカルザイ氏族しぞく出身しゅっしん。カルザイ氏族しぞくは、18世紀せいきドゥッラーニーあさ創始そうししゃアフマド・シャー・ドゥッラーニー王位おうい推戴すいたいした氏族しぞくの1つで、ぜんポーパルザイ部族ぶぞくやく50まんにん)の指導しどう氏族しぞくかんがえられている。

おとうとアフマド・ワリー・カルザイパシュトーばん英語えいごばん(Ahmed Wali Karzai)は、カンダハールしゅうしゅう議会ぎかい議長ぎちょうつとめる政治せいじで、どうしゅう商業しょうぎょう政治せいじじょう取引とりひき支配しはいしている実力じつりょくしゃとされていたが、2011ねん7がつ12にち自宅じたく警護けいごかんによって殺害さつがいされた[12]。アフマド・ワリーについては、CIA協力きょうりょくしゃとして同局どうきょくから俸給ほうきゅうていたとする報道ほうどうがあるほか[13]米国べいこくりの政策せいさくおこな見返みかえりに国内こくない麻薬まやく市場いちば牛耳ぎゅうじっているという疑惑ぎわくもあり、田中たなか龍作りゅうさくからは「アフガンを暗黒あんこく大陸たいりくたらしめている麻薬まやく密売みつばいおう」と批判ひはんされていた[14][15]

ちちのアブドゥルアハド・カルザイ(1925ねん - 1999ねん)は、ポーパルザイ族長ぞくちょう代議員だいぎいん、ザーヒル・シャー国王こくおう側近そっきんであり、憲法けんぽう起草きそうにも参加さんかした。1999ねん7がつ、ターリバーンにより暗殺あんさつ実兄じっけいのマフムード・カルザイは実業じつぎょう米国べいこく在住ざいじゅう

叔父おじのハーン・モハマッド・カルザイは、現在げんざい、ポーパルザイ族長ぞくちょうつとめている。従兄弟いとこのハビーブッラー・カルザイは、王政おうせい時代じだい外交がいこうかんつとめ、現在げんざいクエッタのアフガンじん移民いみん指導しどうしゃ1人ひとり

家族かぞく[編集へんしゅう]

2004ねん移行いこう政権せいけんのカルザイ

既婚きこんつまズィーナトとのあいだにはながらく子供こどもがいなかったが、2007ねん1がつ息子むすこ誕生たんじょうした[16]

叙勲じょくんれき[編集へんしゅう]

イギリスひじりマイケル・ひじりジョージ勲章くんしょう授与じゅよされているが、外国がいこくじんであるためサーとばれない。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Ltd, Allied Newspapers. “Former Afghan king moves into his old palace”. Times of Malta. 2019ねん4がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ "The late King was always fondly referred to by all Afghans, cutting across ethnic boundaries, as "Baba-e-Millat" or 'Father of the Nation', a position given to him in the country's Constitution promulgated in January 2004, about two years after the collapse of Taliban rule. The title of the 'Father of the Nation' dissolves with his death." “Last King of Afghanistan dies at 92”. オリジナルの2007ねん9がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070930210732/http://www.zeenews.com/articles.asp?aid=384525&archisec=WOR&archisubsec= 
  3. ^ タリバンとぜん大統領だいとうりょう対話たいわへ アフガンげん政権せいけん反発はんぱつ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2019ねん2がつ5にち). 2021ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ タリバン、3にちにも内閣ないかく発表はっぴょうか アクンザダ政権せいけんひきいる見通みとお”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2021ねん9がつ2にち). 2021ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  5. ^ “アフガンのカルザイもと大統領だいとうりょう、タリバンとのきょうはたらけ国際こくさい社会しゃかいけ”. CNN.co.jp. CNN. (2021ねん12月24にち). https://www.cnn.co.jp/world/35181354.html 2023ねん11月27にち閲覧えつらん 
  6. ^ a b “アフガンもと大統領だいとうりょう「タリバンは女子じょし教育きょういく再開さいかいを」 単独たんどく取材しゅざいおうじる”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2022ねん6がつ18にち). https://www.asahi.com/articles/ASQ6L61F9Q6FUHBI025.html 2023ねん11月27にち閲覧えつらん 
  7. ^ a b “タリバン暫定ざんてい政権せいけん存続そんぞくやむなし カルザイもと大統領だいとうりょう単独たんどく会見かいけん. 共同通信社きょうどうつうしんしゃ. (2023ねん11月27にち). https://nordot.app/1101758275945283845 2023ねん11月27にち閲覧えつらん 
  8. ^ Prusher, Ilene R.; Baldauf, Scott & Girardet, Edward (2002ねん6がつ10日とおか). “Afghan power brokers” (英語えいご). クリスチャン・サイエンス・モニター. http://www.csmonitor.com/2002/0610/p01s03-wosc.html 2009ねん3がつ14にち閲覧えつらん 
  9. ^ ハーミド・カルザイ アフガニスタン・イスラム共和きょうわこく大統領だいとうりょう略歴りゃくれき”. 外務省がいむしょう (2013ねん10がつ22にち). 2014ねん1がつ4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ Zeller, Frank (2010ねん6がつ16にち). “アフガニスタンのカルザイ大統領だいとうりょう再選さいせんはつ来日らいにち. AFPBB News. https://www.afpbb.com/articles/-/2736296 2021ねん9がつ1にち閲覧えつらん 
  11. ^ 加戸かどやすし (2010ねん6がつ19にち). “アフガン・カルザイ大統領だいとうりょうはじめて広島ひろしま訪問ほうもん. asahi.com. http://www.asahi.com/special/npr/OSK201006190028.html 2021ねん9がつ1にち閲覧えつらん 
  12. ^ “カルザイ大統領だいとうりょうおとうと暗殺あんさつされる アフガニスタン”. AFPBBニュース. (2011ねん7がつ13にち). https://www.afpbb.com/articles/-/2812576?pid=7489936 
  13. ^ “Brother of Afghan Leader Said to Be Paid by C.I.A.” (英語えいご). ニューヨーク・タイムズ. (2009ねん10がつ28にち). http://www.nytimes.com/2009/10/28/world/asia/28intel.html 
  14. ^ 日刊にっかんゲンダイ」2009ねん10がつ15にちごう田中たなか康夫やすお「にっぽんあらためこく
  15. ^ “Reports Link Karzai’s Brother to Afghanistan Heroin Trade” (英語えいご). ニューヨーク・タイムズ. (2008ねん10がつ5にち). http://www.nytimes.com/2008/10/05/world/asia/05afghan.html 
  16. ^ “Hamid Karzai becomes father at 49” (英語えいご). BBC. (2007ねん1がつ26にち). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6302287.stm 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
ハーミド・カルザイ
移行いこう政権せいけん大統領だいとうりょう
アフガニスタン・イスラム共和国の旗 アフガニスタン・イスラム共和きょうわこく大統領だいとうりょう
初代しょだい:2005ねん - 2014ねん
次代じだい
アシュラフ・ガニー
先代せんだい
ハーミド・カルザイ
暫定ざんてい行政ぎょうせい機構きこう議長ぎちょう
アフガニスタン・イスラム移行国の旗 アフガニスタン・イスラム移行いこうこく
移行いこう政権せいけん大統領だいとうりょう

2002ねん - 2004ねん
次代じだい
ハーミド・カルザイ
共和きょうわこく大統領だいとうりょう
先代せんだい
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
大統領だいとうりょう
アフガニスタン・イスラム国の旗 アフガニスタン
暫定ざんてい行政ぎょうせい機構きこう議長ぎちょう

2001ねん - 2002ねん
次代じだい
ハーミド・カルザイ
移行いこう政権せいけん大統領だいとうりょう