(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ダレイオス1世 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ダレイオス1せい

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダレイオス1せい
𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁
ペルシアの大王だいおう
在位ざいい 紀元前きげんぜん522ねん - 紀元前きげんぜん486ねん
べつごう エジプトのファラオ

出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん550ねんころ
死去しきょ 紀元前きげんぜん486ねん
配偶はいぐうしゃ アトッサ
  アルテュストネ
  パルミュス
  フラタゴネ
  パイディメ
  ゴブリュアスのむすめ名前なまえしょう
子女しじょ アルトバザネス、クセルクセス1せい(クシャヤールシャン1せい)、アリアビゲネス英語えいごばん、アルサメネス、マシステス英語えいごばんアケメネス英語えいごばん、アルサメス、ゴブリュアス、アリオマルドス、アブリオコマス、ヒュペランテス、アルタゾストレ英語えいごばん
王朝おうちょう アケメネスあさ
父親ちちおや ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)
母親ははおや ロドグネ(ワルダガウナ)
テンプレートを表示ひょうじ

ダレイオス1せい古代こだいペルシア: Dārayavau - ダーラヤワウ、紀元前きげんぜん550ねんごろ - 紀元前きげんぜん486ねん)は、アケメネスあさおう在位ざいい紀元前きげんぜん522ねん - 紀元前きげんぜん486ねん)。一般いっぱんキュロス2せいからかぞえてだい3だいとされるが、ダレイオス1せい自身じしんげんによればだい9だいおうである。僭称せんしょうものとされるスメルディス(ガウマータ)を排除はいじょして王位おういき、王国おうこく全域ぜんいき発生はっせいした反乱はんらんをことごとく鎮圧ちんあつして、西にしエジプトトラキア地方ちほうからひがしインダスがわ流域りゅういきいた広大こうだい領土りょうど統治とうちした。かれみずからの出自しゅつじ即位そくい経緯けいい、そして各地かくち反乱はんらん鎮圧ちんあつなどの業績ぎょうせきベヒストゥン碑文ひぶんとしてられる碑文ひぶん複数ふくすう言語げんご記録きろくさせており、これは近代きんだいにおける楔形文字くさびがたもじ古代こだいペルシア解読かいどくのための貴重きちょう資料しりょう提供ていきょうした。 また、今日きょうにもその遺跡いせきのこされているペルセポリスの建設けんせつ開始かいしした。

おうめい

[編集へんしゅう]

かれ名前なまえ古代こだいペルシアではダーラヤワウDārayavauDārayava(h)uš[注釈ちゅうしゃく 1])である。Dārayavauという名前なまえは、語幹ごかんのdāraya(保持ほじするもの)と形容詞けいようしvau(ぜん)からなり、「確固かっこたるぜん保持ほじするもの」を意味いみする即位そくいめいである[2]

古代こだいペルシア楔形文字くさびがたもじ表記ひょうきでは𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁となる(𐎭da𐎠a𐎼ra𐎹ya𐎺va𐎢u𐏁š[3])。

日本語にほんごでは一般いっぱんダレイオス1せいまたはダリウス1せいとしてられている。この名前なまえはギリシア語形ごけいダーレイオスDareîosΔでるたαあるふぁρろーεいぷしろんῖος)および、ラテン語らてんごがたダーリーウスDārīus)またはダーレーウスDārēus)からている[4]。また、旧約きゅうやく聖書せいしょ日本語にほんごやくにおいてはダリヨスという表記ひょうきをされる場合ばあいもある。

ダレイオス1せいかれ後継こうけいしゃたちが支配しはいした領域りょういき広大こうだいであったため、かれ名前なまえ多数たすう言語げんご様々さまざま形態けいたい記録きろくされている。主要しゅようなものは以下いかとおりである。

称号しょうごう

[編集へんしゅう]

ダレイオス1せい碑文ひぶんにおいてしん機軸きじくおうごう使用しようしている。かれがきずきあげた広大こうだい帝国ていこく支配しはいするため、それに相応ふさわしいあらたな王権おうけんかん必要ひつようとされ、かつてのアッシリアの称号しょうごうなども参考さんこう多数たすう称号しょうごうもちいられた[5]かれキュロス2せい(クル2せい[注釈ちゅうしゃく 3])がもちいていた称号しょうごう一部いちぶ踏襲とうしゅうしているが、さらにアッシリアおう称号しょうごう諸王しょおうおう(šar šarrāni)」に由来ゆらいする「諸王しょおうおう(Xšâyathiya Xšâyathiyânâm)」という称号しょうごう採用さいようした[5]。この称号しょうごうおなじくかれもちいている「このかいおう(Xšâyathiya ahyâyâ bumiyâ)」「しょくにおう(Xšâyathiya dahyunâm )」とうとも密接みっせつ関連かんれんし、一部いちぶ地域ちいきではなく様々さまざま民族みんぞく支配しはいする世界せかい帝国ていこくおうであることをつよ意識いしきした称号しょうごうである[5][6]。また、アウラマズダーかみ恩寵おんちょう(Vašnâ Ahuramazdâ)によっておうとなったという一種いっしゅ王権おうけん神授しんじゅ立場たちばった[5]。このてんかれ以前いぜんおう、キュロス2せいなども同様どうよう論理ろんりもちいているが、ダレイオス1せい画期的かっきてきであったのは、キュロス2せい称号しょうごうがメソポタミアのかみ々の支持しじによるという、バビロニアの現地げんちじんけの「政治せいじ宣伝せんでんてきものであるのにたいし、ダレイオス1せいのそれはイランけい固有こゆう宗教しゅうきょうもとづくものであったてんである[5]。このような変化へんかは、後述こうじゅつとおかれ簒奪さんだつしゃとして王位おういについた可能かのうせいたかく、バビロニアじんとう民族みんぞくよりもまずペルシアじん支持しじ必要ひつようがあったからであろう[5]

なお、アウラマズダーは一般いっぱんてきゾロアスターきょう最高さいこうしんアフラ・マズダーのことであるとかんがえられているが、ダレイオス1せいふく古代こだいペルシアじん宗教しゅうきょうをゾロアスターきょう做すかどうかについては議論ぎろんがある[注釈ちゅうしゃく 4]

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

出自しゅつじ

[編集へんしゅう]
ダレイオス1せい自身じしん出自しゅつじについて以下いかのようにかたる。
  1. はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大いだいなるおう諸王しょおうおう、パールサのおうしょくにおう、ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の、アルシャーマ(アルサメス)のまご、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
  2. おうダーラヤワウはげる、ちちはウィシュタースパ、ウィシュタースパのちちはアルシャーマ、アルシャーマのちちはアリヤーラムナ(アリアラムネス)、アリヤーラムナのちちはチャイシュピ(テイスペス)、チャイシュピのちちはハカーマニシュ。
  3. おうダーラヤワウはげる、このゆえに、われらはハカーマニシュばれる。往昔おうせきよりわれらはいきおいである。往昔おうせきよりわれらの一門いちもん王家おうけであった。
  4. おうダーラヤワウはげる、一門いちもんにしてさきにおうたりしははちにんだいきゅうけいにわかれてきゅうにん、われらはおうである。
- ベヒストゥン碑文ひぶん§1-4、伊藤いとう義教よしのりやく[6]

ダレイオス1せいヒュルカニアパルティアサトラップ(クシャサパーワン、総督そうとくヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男ちょうなんとしてまれた[9][10]ベヒストゥン碑文ひぶんにおいてダレイオス1せい自身じしんかたるところによれば、その祖先そせんはアケメネス(ハカーマニシュ)の分流ぶんりゅうであるという[6]

カンビュセス2せい崩御ほうぎょとガウマータの簒奪さんだつ

[編集へんしゅう]
レリーフにえがかれたダレイオス1せい

ダレイオス1せい幼少ようしょうについての情報じょうほう存在そんざいしない。ヘロドトスによれば、カンビュセス2せい(カンブジヤ2せい)の生前せいぜん、ダレイオス1せいはカンビュセス2せい槍持やりもちとして親衛隊しんえいたいにいたという[11]。この職業しょくぎょうおうきわめてちか人物じんぶつのみがたかしょくである[10]。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)のむすめ結婚けっこんし、3にん子供こどももうけていた[10]。ダレイオス1せい主要しゅよう舞台ぶたい登場とうじょうするのはカンビュセス2せい崩御ほうぎょ紀元前きげんぜん522ねん)とその王位おうい継承けいしょうあらそいのころである。この時代じだいについての重要じゅうよう記録きろくヘロドトスが『歴史れきし』に記録きろくしている逸話いつわと、ダレイオス1せい自身じしんのこしたベヒストゥン碑文ひぶんである[12]

ヘロドトスによる記録きろく

[編集へんしゅう]

ヘロドトスによれば、カンビュセス2せいおとうとであるスメルディスによる王位おうい簒奪さんだつおそひそかに殺害さつがいした。そのためスメルディスの人々ひとびとられることはなかった。しかしカンビュセス2せいがエジプトに遠征えんせいしている最中さいちゅう本国ほんごくまかせていたマゴスそうパティゼイノス[注釈ちゅうしゃく 5]反旗はんきひるがえした。このマゴスそうには容姿ようしがスメルディスのうつしのおとうとがおり、名前なまえおなじスメルディスであった。そしてスメルディスの人々ひとびとられていなかったことにをつけ、このおとうと殺害さつがいされたスメルディス王子おうじそのひとであるとして玉座ぎょくざけ、王国おうこく全土ぜんど布告ふこくした[13]。カンビュセス2せいはエジプトからの帰国きこく途上とじょう、シリアでこのらせをき、はげしく狼狽ろうばいしたのちにせスメルディスを打倒だとうするためいそもどろうとしたが、乗馬じょうばするさいけん操作そうさあやまって負傷ふしょうし、シリアのアグバタナで死去しきょした[15]。こうしてパティゼイノスとにせスメルディスがペルシアの支配しはいけんにぎったが、即位そくい8カ月かげつにパルナスペスのオタネス(ウターナ)が正体しょうたいあばき、ダレイオス1せいふくむ7にん同志どうし[注釈ちゅうしゃく 6] で、マゴスそう兄弟きょうだい排除はいじょした[16]ことんだのち、7にんくにせいをどうするかについて議論ぎろんしたがまとまらず、しろがい騎乗きじょうして遠乗とおのりし、とも最初さいしょうまがいなないたものおうとなることをさだめた。そして馬丁ばていオイバレスの計略けいりゃくにより最初さいしょうまをいななかせることに成功せいこうしたダレイオス1せいおうとなった[17]

ベヒストゥン碑文ひぶん記録きろく

[編集へんしゅう]

一方いっぽう、ベヒストゥン碑文ひぶんによれば、ことの顛末てんまつつぎのようなものであった。カンブジヤ2せい(カンビュセス2せい)は同母どうぼどうちちおとうとバルディヤを殺害さつがいしたが、バルディヤの人々ひとびとにはらされなかった。そのカンブジヤ2せいがムドラーヤ(エジプト)に進発しんぱつすると民衆みんしゅうあいだ不穏ふおん空気くうきながれた。このとき、マゴスそうガウマータが「はクル2せい息子むすこであり、カンブジヤ2せいおとうとであるバルディヤである」といつわって宣言せんげんすると、民衆みんしゅうはカンブジヤ2せいから離反りはんしてガウマータにき、かれおうとして王国おうこく掌握しょうあくした。そのカンブジヤ2せい寿命じゅみょうきてんだ[18]。ガウマータは自分じぶん偽物にせものであることをかくとおすため、生前せいぜんのバルディヤをっているものおおくを粛清しゅくせいした。このためおおくの人々ひとびとおそれおののき、ガウマータについて何事なにごとをもえてくちにすることはなくなった。正当せいとう王家おうけ出身しゅっしんしゃであったダーラヤワウ1せい(ダレイオス1せい)はアウラマズダーかみたすけをい、その恩寵おんちょうてガウマータとその側近そっきんたちを殺害さつがいした。こうしてダーラヤワウ1せい王国おうこくをガウマータから奪回だっかいし、アウラマズダーの意思いしによっておうとなった[19]

ふたつの主要しゅよう記録きろくたいする現代げんだい評価ひょうか

[編集へんしゅう]

上記じょうきとおりカンビュセス2せい崩御ほうぎょ前後ぜんごについてのヘロドトスの記録きろくとベヒストゥン碑文ひぶん記録きろく細部さいぶではちがものの、大筋おおすじ一致いっちしている[20][21]。しかし、近年きんねんではこの記録きろく信憑しんぴょうせい疑問ぎもんされており、実際じっさいにはダレイオス1せいほう王位おうい簒奪さんだつしゃとして即位そくいし、それを正当せいとうするためにマゴスそうによる王位おうい簒奪さんだつ物語ものがたり創作そうさくされたのであるという見解けんかい有力ゆうりょくとなっている[20][21]詳細しょうさい後述こうじゅつふし参照さんしょう

反乱はんらん

[編集へんしゅう]
ダレイオス1せい時代じだいのアケメネスあさ領域りょういきとサトラペイア(ダフユ)。赤字あかじはダレイオス1せい即位そくい反乱はんらん発生はっせいした、または反乱はんらん勢力せいりょく支配しはいはいった地区ちく

にせスメルディス(ガウマータ)を排除はいじょしたのち紀元前きげんぜん522ねん王位おういについたダレイオス1せいは、王国おうこく全土ぜんど相次あいついで発生はっせいした反乱はんらん対処たいしょしなければならなかった。この一連いちれん反乱はんらんについてはベヒストゥン碑文ひぶん詳述しょうじゅつされている。それによれば、ガウマータの翌月よくげつ紀元前きげんぜん522ねん10がつ[22])、エラム(ウーウジャ)でアーシナという人物じんぶつおうしょうして反乱はんらんこし、またバビロニア(バービル)ではナディンタバイラ(ニディントゥ・ベール)がしんバビロニア王国おうこくおうナブナイタ(ナボニドゥス)の息子むすこナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル3せい英語えいごばん) であるとしょうして自立じりつした[23]。ダレイオス1せいはアーシナを逮捕たいほすることで迅速じんそく制圧せいあつすることに成功せいこう[24]ティグリスがわ河畔かはんでバビロニアぐん撃破げきはし、いでナディンタバイラが滞在たいざいしていたユーフラテスがわ河畔かはんザーザーナたたかいでもバビロニアぐん撃破げきはした。ナディンタバイラはバビロンんだが、ダレイオス1せいはこの都市とし制圧せいあつしてナディンタバイラをころし、バビロニアの反乱はんらん鎮圧ちんあつされた[25]

ダレイオス1せいがバビロニアに滞在たいざいしているあいださら反乱はんらん相次あいついだ[26]紀元前きげんぜん522ねん12月[22]、エラムおうイマニを名乗なのったマルティヤという人物じんぶつによってエラムで反乱はんらん発生はっせいした。しかしかれ部下ぶか裏切うらぎりにあって殺害さつがいされたためこれはすぐに終息しゅうそくした[27]同月どうげつちゅう[22]、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディアおうクシャスリタをしょうして反乱はんらんこした。この反乱はんらんはメディアのほかアルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方ちほうまでだい規模きぼなものとなり、ダレイオス1せいはメディアで2かい、アルメニアで4かい、アッシリアで1かいたたかいをおこなった。メディアでおこなわれた最後さいごたたかいで逃亡とうぼうしたフラワルティをらえ、メディアの首都しゅとエクバタナはなみみしたをそぎとし最後さいごくいしにして殺害さつがい反乱はんらん鎮圧ちんあつした[28]いでケルマーン(アサガルタ)でメディア王族おうぞくしょうするチサンタクマが反乱はんらんこしたため、一軍いちぐんけてこれを鎮圧ちんあつした[29]さらにフラワルティの臣下しんかしょうするものたちが反乱はんらんつづけ、ダレイオス1せいちちウィシュタースパ(ヒュスタスペス)によって鎮圧ちんあつされた[30]

おなじく紀元前きげんぜん522ねん12月にマルギアナ(マルグ)ではマルギアナじんフラーダによる反乱はんらん発生はっせいしたため、バクトリアサトラップ、ダーダルシに鎮圧ちんあつめいぜられ、これを撃破げきはした[31]さら同月どうげつ[22]、ペルシア(パールサ)でワフヤズダータという人物じんぶつが、キュロス2せい(クル2せい)の息子むすこバルディヤを自称じしょうして反乱はんらんこしたため、これも臣下しんかのアルタワルディヤによって鎮圧ちんあつさせた[32]。しかしアラコシア(ハラウワティ)に派遣はけんされていたワフヤズダータの軍勢ぐんぜいかれ死後しご反乱はんらんつづけ、鎮圧ちんあつにはさら時間じかんがかかった[33]。そして紀元前きげんぜん521ねん8がつ[22]、バビロニアでふたた反乱はんらん発生はっせいし、アルメニアじんアラカがナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル4せい)をしょうしてバビロニアおうとなった。このため、一軍いちぐん派遣はけんしてこれを鎮圧ちんあつした[34]

ベヒストゥン碑文ひぶん記述きじゅつしんずるならば、上記じょうき一連いちれん反乱はんらんはダレイオス1せい即位そくいしたそのとしのうちに発生はっせい鎮圧ちんあつされたものである[35]。また6にんのパールサじん(ペルシアじん)の功績こうせきとくだいであったとして顕彰けんしょうしている[注釈ちゅうしゃく 7]

さら紀元前きげんぜん520ねんはるには[22]再度さいどエラムでアッタマイタという人物じんぶつ反乱はんらんこしたためこれを鎮圧ちんあつし、その翌年よくねんにはサカひと領土りょうど侵攻しんこうしてそのおうスクンカをたおしこれを制圧せいあつした。こうしてダレイオス1せい王国おうこく完全かんぜん支配しはいれた[36]

治世ちせい

[編集へんしゅう]

内政ないせい整備せいび

[編集へんしゅう]
はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大いだいなるおう諸王しょおうおう、このはてはるかなるかいおう。ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
またおうダーラヤワウはげる、この基壇きだんうえにこのみやていてられた。以前いぜんには、ここにはみやていてられていなかった。アウラマズダーの恩寵おんちょうによってはこのみやていてた。そしてアウラマズダーは、すべてのかみ々とともに、このみやていてられるように決定けっていたまうたのであって、はそれをて、かつそれを完璧かんぺきに、うつくしく、そしてがそれを決定けっていしたごとくに、てたのである。
- ダレイオス1せいのペルセポリス碑文ひぶんf(エラムばん)§1-18、伊藤いとう義教よしのりやく[37]

ダレイオス1せいはアケメネスあさ体制たいせい整備せいび完成かんせいさせたとわれる[38]かれ奪取だっしゅした王位おうい安定あんていさせるため、キュロス2せいむすめアトッサアルテュストネ結婚けっこんし、殺害さつがいされたスメルディス(バルディヤ)のむすめパルミュスもつまとした。さらにカンビュセス2せいつまとなっていたオタネス(ウターナ)のむすめパイデュメもつまとし、王家おうけ血統けっとう独占どくせんはかった[39][40]かれ王国おうこくは20から29のくに(ダフユ)にけられ、それぞれにサトラップが任命にんめいされていたが、そのうごきを監視かんしするため、「おう」、「おうみみ」とばれるおう直属ちょくぞく官僚かんりょうたちにそのうごきを監視かんしさせた[9][41][注釈ちゅうしゃく 8]

中央ちゅうおう集権しゅうけんてき体制たいせい構築こうちくと、軍隊ぐんたい迅速じんそく移動いどうのため、「おうみち」とばれる道路どうろもう整備せいびされ、リュディアサルディスからエラムのスサまで2400キロメートルにおよんだ[42]おうみちには111の駅逓えきてい整備せいびされ、通常つうじょう90にちかかる行程こうてい早馬はやうまでは7にち移動いどうすることができたとされる[42]おうみち全容ぜんようあきらかになっていないが、石畳いしだたみ舗装ほそうされた道路どうろ一部いちぶ駅逓えきていあととも発掘はっくつされており、馬車ばしゃはしらせることもできたとられている[42]。また、中央ちゅうおう集権しゅうけんようとして度量衡どりょうこう統一とういつおこなわれ、不完全ふかんぜんながら貨幣かへい制度せいど整備せいびおこなわれた[42]銀貨ぎんか銅貨どうか各地かくちのサトラップによっても発行はっこうされ、ダレイオス1せい自身じしんダリックばれる金貨きんか発行はっこうした[42]

また、その理由りゆう現在げんざいでは不明ふめいであるが、あらたな首都しゅととしてペルセポリス造営ぞうえい開始かいしした。この都市とし造営ぞうえいはそのクセルクセス1せい(クシャヤールシャン1せい)、アルタクセルクセス1せい(アルタクシャサ1せい)の時代じだいつづき、アケメネスあさ時代じだいつうじて整備せいびされつづけた[37][42]。ペルセポリスにはダレイオス1せいのこした建築けんちく碑文ひぶん複数ふくすうのこされているほか、ペルセポリスのあちらこちらにダレイオス1せい一際ひときわおおきくえがかれたぞうのこされており、その強大きょうだい権力けんりょく今日きょうつたえている[43]

インドとスキタイへの遠征えんせい

[編集へんしゅう]

財政ざいせいてき余裕よゆうたダレイオス1せいは、かつてスキタイじんがメディアとしょうアジアを席巻せっけんしたことへの報復ほうふくとしてスキュティアへの遠征えんせいおもった[44]。ダレイオス1せいおとうとアルタバノスはこの遠征えんせい困難こんなんうったえて制止せいししたが、ダレイオス1せい攻撃こうげき強行きょうこうした[45]紀元前きげんぜん513ねんころ、ダレイオス1せいダーダネルス海峡かいきょうえると、トラキア地方ちほうしょぞくたたかわずして降伏ごうぶくし、唯一ゆいいつ抵抗ていこうしたゲタイじんしばたあいだ征服せいふくされた[46]。その、ダレイオス1せい軍勢ぐんぜい黒海こっかい海岸かいがん沿いに北上ほくじょうしたが、黒海こっかい北岸ほくがんのスキタイじん本拠地ほんきょちへの攻撃こうげきは、スキタイじん焦土しょうど戦術せんじゅつまえおおきな損害そんがいして撤退てったい余儀よぎなくされた。ヘロドトスの記録きろくにはドナウがわ渡河とかしたのち橋梁きょうりょう建設けんせつ記事きじがないことから、ダレイオス1せい軍勢ぐんぜいすくなくともドニエストルがわ到着とうちゃくするまえ撤退てったいしたと推定すいていされている[47]。このとき確保かくほしたトラキアはのギリシア遠征えんせいへの足掛あしがかりとなった[38][48]

東方とうほうではインダスがわ流域りゅういきへも遠征えんせいおこなわれた。ダレイオス1せいによるインダスがわ流域りゅういき征服せいふくがいつごろおこなわれたのかは不明ふめいである。ペルセポリスの碑文ひぶんと、ナクシェ・ロスタム碑文ひぶんにインドじん(ヒンドゥ)がガンダーラじんとも臣民しんみんとしてかぞえられていることから、紀元前きげんぜん516ねんからダレイオス1せい没年ぼつねんまでのある時期じき征服せいふくされたと推定すいていされている[49]。この遠征えんせい先立さきだち、ダレイオス1せいはカリュアンダ[注釈ちゅうしゃく 9] ひとスキュクラスにインダスがわ流域りゅういき探検たんけん河口かこう確認かくにんめいじ、さらにインドからエジプトへの航路こうろ確認かくにんさせた[50]。ダレイオス1せい征服せいふくしたインドが実際じっさいにどの地方ちほうだったのか、正確せいかくなことはわかっていない。パンジャーブ地方ちほうだい部分ぶぶんふくんでいたともかんがえられるし、インダスがわりょうきし地区ちく河口かこうたっするまで支配しはいした可能かのうせいもある[49]。ただし、実際じっさい征服せいふくされた範囲はんいがどの程度ていどであったにせよ、インドはアケメネスあさ版図はんとなかもっと税収ぜいしゅうおおいサトラペイア(ダフユ)となった。ヘロドトスによればインドはアケメネスあさだい20徴税ちょうぜいであり、砂金さきん360タラントンを納入のうにゅうしていた[51]。これはインド以外いがいすべてのサトラペイアの合計ごうけい匹敵ひってきしたという[51][注釈ちゅうしゃく 10]

イオニアの反乱はんらん

[編集へんしゅう]

アナトリア半島はんとうゲ海げかい沿岸えんがん居住きょじゅうしていたギリシアじん一派いっぱであるイオニアじんは、元々もともとダレイオス1せい王国おうこく恭順きょうじゅん姿勢しせいしめしていた。アケメネスちょうがわ記録きろくにはこのイオニアじんはヤウナ[52] や、陸地りくち海浜かいひんのヤウナじん[53] として記載きさいされている。アケメネスあさはイオニアじんポリス自治じちみとめつつ、従属じゅうぞくてき僭主せんしゅ統治とうちしゃとすることで支配しはいおこなった[54]紀元前きげんぜん513ねんごろのダレイオス1せいのスキタイ遠征えんせい最中さいちゅう、スキタイじんはアケメネスあさ軍団ぐんだんくわわっていたギリシアじん部隊ぶたい調しらべりゃくおこない、ペルシアからの離反りはんそそのかした。アテナイじんケルソネソス僭主せんしゅであったミルティアデス同調どうちょうしギリシアじん解放かいほう主張しゅちょうしたが、イオニアのしゅミレトス僭主せんしゅヒスティアイオスは、ダレイオス1せい存在そんざいによって自分じぶんたち地位ちい安泰あんたいなのであると主張しゅちょうし、僭主せんしゅたちも同調どうちょうしたためこのときには離反りはんこらなかった[54][55][注釈ちゅうしゃく 11]

スキタイ遠征えんせいからげたのち、ダレイオス1せい残留ざんりゅうさせたペルシアぐん周辺しゅうへん地域ちいき平定へいていたらせた。指揮しきかんにんじられたメガバゾスはトラキア地方ちほうのほとんどを制圧せいあつし、パイオニア平定へいていしてマケドニア手前てまえまでを支配しはいいた[56]帰還きかんしたメガバゾスは、ミレトス僭主せんしゅヒスティアイオスが大功たいこうありとしてあらたな領土りょうどあたえられたことを危険きけんし、かれ本国ほんごくのスサにうつさせた[57]。その、メガバゾスの後任こうにんとしてゲ海げかい沿岸えんがん地域ちいき司令しれいかんとなったシサムネスのオタネス[注釈ちゅうしゃく 12] はビュザンティオンとカルケドン征服せいふくするとともに、レムノスとうインブロスとう制圧せいあつし、ゲ海げかい沿岸えんがんでのアケメネスあさ支配しはい順次じゅんじ拡大かくだいした[58]

紀元前きげんぜん499ねん、アケメネスあさサルディスのサトラップ、アルタプレネスはミレトスの臨時りんじ僭主せんしゅアリスタゴラスと共謀きょうぼうし、ナクソス内紛ないふんじょうじてこれを征服せいふくするべく、メガバテスそう司令しれいかんにナクソス遠征えんせい企画きかくした[59]。しかし方針ほうしんめぐってメガバテスとアリスタゴラスが対立たいりつしたうえ、4ヶ月かげつわた包囲ほういせんすえ軍資金ぐんしきんそこをつき退却たいきゃく余儀よぎなくされた。失敗しっぱい責任せきにんわれて地位ちいうしなうことをおそれたアリスタゴラスは反乱はんらんった[60]。アリスタゴラスがのイオニア都市とし反乱はんらんんだため、これがイオニアの反乱はんらんばれる反乱はんらん発展はってんした。アリスタゴラスはことこすまえアテナイスパルタなどに支援しえん要請ようせいした[54]。スパルタは協力きょうりょく拒否きょひしたものの、アテナイとエレトリアがイオニアへ軍事ぐんじ支援しえんおこなった[54]

しかしアテナイは初戦しょせん敗退はいたいのちイオニアを見放みはなし、結果けっかとしてイオニアの反乱はんらん紀元前きげんぜん494ねんにミレトスが陥落かんらくしたことで鎮圧ちんあつされた[54][61]

ペルシア戦争せんそう

[編集へんしゅう]

ダレイオス1せい対外たいがい遠征えんせいなか史上しじょう名高なだかいのはイオニアの反乱はんらんはしはっしたギリシア遠征えんせいである。このたたかいは一般いっぱんペルシア戦争せんそうばれるすうにわたる戦争せんそうだいいちかいとされている。

ダレイオス1せいはイオニアの反乱はんらん鎮圧ちんあつしたのち紀元前きげんぜん492ねんおいマルドニオス艦隊かんたいあたえて、反乱はんらん加担かたんしたアテナイやエレトリアへの懲罰ちょうばつ目的もくてきとして遠征えんせいおこなった。この遠征えんせい暴風雨ぼうふううにあって失敗しっぱいし、マルドニオスは解任かいにんされた[10]。その、ダレイオス1せいはギリシアじんしょポリスに、みず献上けんじょうして恭順きょうじゅんしめすように要求ようきゅう[54]おおくのポリスがそれにしたがったが、アテナイやスパルタはこれを拒否きょひした[54]紀元前きげんぜん490ねん服従ふくじゅうしめさなかったポリスを平定へいていするため、ギリシアへだい規模きぼ遠征えんせいぐん派遣はけんされた[54]。ダレイオス1せいはメディアじんダティスと、アルタプレネスのアルタプレネスにアテナイとエレトリアの征服せいふくめい[62]、7日間にちかん攻撃こうげきでエレトリアは陥落かんらくした[63]。エレトリアの陥落かんらくのち、ペルシアぐんマラトン平野へいやでミルティアデスひきいるアテナイぐんまえ敗退はいたいし(マラトンのたたか[64])、ギリシア遠征えんせい失敗しっぱいわった。ただし、ダレイオス1せい捕虜ほりょとしたエレトリアの市民しみんをスサにちかキッシア地方ちほう定住ていじゅうさせた[65]

崩御ほうぎょとその

[編集へんしゅう]
友人ゆうじんたちにたいして友人ゆうじんであった。乗馬じょうばしゃ射手しゃしゅとして、のすべてのものよりも優秀ゆうしゅうであることを証明しょうめいした。狩猟しゅりょうしゃとしてもすぐれていることをしめした。はあらゆることをすることができた。
- ダレイオス1せい墳墓ふんぼ碑文ひぶん[66]

ダレイオス1せいは2にわたる遠征えんせい失敗しっぱい憤激ふんげきし、よりだい規模きぼ遠征えんせいぐん編成へんせいしてしんせいすることを決断けつだんした[67]。しかしその準備じゅんび最中さいちゅう、エジプト(ムドラーヤ)で反乱はんらん発生はっせいしたため、ギリシアとエジプトのどちらへの遠征えんせい優先ゆうせんすべきかが問題もんだいとなった[67]。ところが、紀元前きげんぜん486ねん8がつにダレイオス1せい急死きゅうしし、ギリシアへの遠征えんせいもエジプトの反乱はんらん鎮圧ちんあつ後継こうけいしゃゆだねられることになった[68][69]

ダレイオス1せいには後継こうけいしゃ候補こうほとして即位そくい以前いぜん結婚けっこんしていたゴブリュアスのむすめ名前なまえしょう)とのあいだ長子ちょうしアルトバザネスをはじめとする3にん息子むすこがおり、キュロス2せいむすめアトッサとのあいだにはクセルクセス1せい(クシャヤールシャン1せい)がいた[70]。ヘロドトスは王位おうい継承けいしょうめぐ対立たいりつと、クセルクセス1せい後継こうけいしゃさだまる顛末てんまつ記録きろくしているが[71]ははアトッサの権勢けんせいつよかったため、クセルクセス1せい後継こうけいしゃになったのは既定きていのことであったとひょうしている[71]。ペルセポリスの浮彫うきぼりにはおおきくえがかれたダレイオス1せいぞうかたわらに太子たいしクセルクセス1せいえがかれており、考古学こうこがくてきにもクセルクセス1せい当初とうしょより正当せいとう後継こうけいしゃとしてあつかわれていたのはあきらかである[72]

ダレイオス1せい偉大いだいなペルシアのおうとしてのちのギリシアじんたちにおおきな印象いんしょうのこした。ヘロドトスはダレイオス1せい即位そくいから崩御ほうぎょいたるまでの治世ちせいぜん期間きかんを、様々さまざま挿話そうわまじえつつ記録きろくのこしている。また、アケメネスあさほろぼしたマケドニアのおうアレクサンドロス3せい大王だいおう)は、キュロス2せいとダレイオス1せい二人ふたり創始そうししゃ業績ぎょうせき感嘆かんたんし、かれらの墳墓ふんぼおとずれたさいに、ダレイオス1せいはかきざまれた碑文ひぶんをギリシアやくするようにめいじた[66]

アケメネスあさ創設そうせつしゃとしてのダレイオス1せい

[編集へんしゅう]

通常つうじょう、ダレイオス1せいキュロス2せいカンビュセス2せいつづアケメネスあさだい3だいおうであるとされる。一方いっぽうベヒストゥン碑文ひぶんでダレイオス1せいみずかかたるところによればかれはアケメネス(ハカーマニシュ)だい9だいおうである[6]。しかし、近年きんねんではにせスメルディス(ガウマータ)の排除はいじょめぐ伝承でんしょうふくまれる矛盾むじゅん[注釈ちゅうしゃく 13]、その相次あいついだ反乱はんらんなどから、王位おうい継承けいしょうにまつわる一連いちれんのダレイオス1せい主張しゅちょうプロパガンダぎず、実際じっさいにはダレイオス1せいほう簒奪さんだつしゃであったとする見解けんかい有力ゆうりょくである[20]

ギリシア・マケドニア研究けんきゅう森谷もりたに公俊きみとしさらろんすすめ、アケメネス(ハカーマニシュ)あさ実際じっさい創出そうしゅつしたのはダレイオス1せいであったとする[75]。ベヒストゥン碑文ひぶんにおいてダレイオス1せい祖先そせんとしてあげられるヒュスタスペス(ウィシュタースパ)、アルサメス(アルシャーマ)、アリアラムネス(アリヤーラムナ)、テイスペス(チャイシュピ)、アケメネス(ハカーマニシュ)のなかおうであった人物じんぶつ存在そんざいしない。テイスペスはキュロス2せい祖父そふにあたるキュロス1せい(クル1せい)のちちであるので、碑文ひぶん全面ぜんめんてき信用しんようしたとしても、ダレイオス1せいは4だいまえでようやく王家おうけつながる傍系ぼうけいであったことがわかる[75]重要じゅうようなことは、キュロス2せい自身じしんかた系譜けいふにはアケメネスという人物じんぶつ登場とうじょうしないことである[75]。キュロス2せいは「わたしはキュロス(クル)、偉大いだいなるおう、アンシャンのおうカンビュセス(カンブジヤ)の偉大いだいなるおう、アンシャンのおうキュロスのまご、テイスペス(チャイシュピ)の裔」としか宣言せんげんしていない[75]。そして、キュロス2せい、アルサメス、アリアラムネスの碑文ひぶんつかっているが、そのすべてがダレイオス1せい以降いこう時代じだいついこくされたものであることがわかっている[76]。また、ダレイオス1せいは、王位おういいたのち、キュロス2せい名前なまえで「アケメネスのキュロス」という文言もんごんふく碑文ひぶんをいくつもきざみ、さらにキュロス2せいやカンビュセス2せい、スメルディスのつまむすめすべてと結婚けっこんし、王家おうけ血統けっとう独占どくせんすることに熱心ねっしんであった[75]。これらのことから、キュロス2せい簒奪さんだつしゃダレイオス1せいによってアケメネスあさおうとしてさい定義ていぎされたのであり、そのことからダレイオス1せいはペルシア帝国ていこくさい創造そうぞうしゃであったとえると[75]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本語にほんごではダーラヤワウともダーラヤワウシュとも表記ひょうきされる。これは古代こだいペルシアインド・ヨーロッパ語族ごぞくぞくする屈折くっせつであり、固有名詞こゆうめいし文法ぶんぽうてき条件じょうけんによりかく変化へんかこすためである。ダーラヤワウは名詞めいしみきのみの形態けいたいであり、ダーラヤワウシュは単数たんすう主格しゅかくがたである[1]
  2. ^ 擬古ぎこがたではdrywhwšというかたちる。おそらくこれのギリシア語形ごけいがダーレイアイオス(Dareiaîos)であり、クテシアスの『ペルシア』とクセノフォンの『ギリシア』においてのみ検出けんしゅつされるかたちである[2]
  3. ^ 一般いっぱんにキュロス2せいはアケメネスあさ初代しょだいおうとされる。かれ祖父そふ名前なまえもキュロスであることから、かれ自身じしんはキュロス2せいとされる。キュロス1せいはアンシャンのおうとしてキュロス2せい祖先そせん系譜けいふにリストされている。
  4. ^ アケメネスあさおうたちがのこした碑文ひぶんちゅうにゾロアスター(ザラスシュトラ)への言及げんきゅうはなく、またゾロアスターきょうにおいてアフラ・マズダーとたい悪神あくじんアーリマンへの言及げんきゅうもない[7]エミール・バンヴェニストは、当時とうじのアケメネスあさ宗教しゅうきょうについて、はっきりとそれが「ゾロアスターきょう」であることをしめすいかなる証拠しょうこ存在そんざいしないとし、アウラマズダーという神格しんかくはゾロアスターきょうよりもふる起源きげんつものであると指摘してきする[7]。そしてこの時期じき存在そんざいしたアケメネスあさ宗教しゅうきょうはギリシアじんたちが記録きろくしたペルシアじん宗教しゅうきょうである「マゴスの宗教しゅうきょう」とも「ゾロアスターきょう」ともことなる「マズダーきょう」とでもぶべきものであったとする[7]一方いっぽうで、ゲラルド・ニョリはマズダーきょうとゾロアスターきょう等価とうかとしてあつかえるものであるとし、アケメネスあさ宗教しゅうきょうはゾロアスターきょうであったと確言かくげんする[8]
  5. ^ ヘロドトスがしるすパディゼイノスというマゴスそう実在じつざいうたがわしい。ヘロドトスはかれについてカンビュセス2せい留守るすちゅう王家おうけ面倒めんどうまかされた人物じんぶつであるとするが[13]、これは「執事しつじ」、「管理人かんりにん」を意味いみするパティクシャヤティア(patiXšâyathia)という役職やくしょく固有名詞こゆうめいしとして、簒奪さんだつしゃにん分割ぶんかつしたものであるとかんがえられる [14]
  6. ^ ヘロドトスによれば、オタネス(ウターナ)、アスパティネス(アシュパカナ)、ゴブリュアス(ガウバルワ)、インタプレネス(ウィンダファルナフ)、メガビュゾス(バガブクシャ)、ヒュダルネス(ウィダルナ)、ダレイオス1せい(ダーラヤワウ1せい)の7にん
  7. ^ 対象たいしょうしゃはウィンダファルナフ(インタプレネス)、ウターナ(オタネス)、ガウバルワ(ゴブリュアス)、ウィダルナ(ヒュダルネス)、バガブクシャ(メガビュゾス)、アルドゥマニシュ
  8. ^ おう」「おうみみ」という名称めいしょうはヘロドトスによるが[41]、これはおそらくディディヤカ(*didiyaka、見張みはり)、ガウシャカ(gaušaka、ききて)の訳語やくごであると推定すいていされる[37]
  9. ^ アナトリア半島はんとうカリア地方ちほう沿岸えんがんにある小島こじま
  10. ^ ただし、松平まつだいら千秋ちあきは『歴史れきし』の訳注やくちゅうにてこの表現ひょうげん誇張こちょうぎるであろうとべている。
  11. ^ ヘロドトスによればこのときヒスティアイオスに同調どうちょうしたのはヘレスポントス地方ちほうのポリスの僭主せんしゅとしては、アビュドスのダプニス、ランプサコスのヒッポクロス、パリオンのヘロバントス、プロコンネソスのメトロドロス、キュジコスのアリスタゴラス、ビュザンティオンのアリストン、イオニア地方ちほうのものとしてはキオスのストラッティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、そしてアイオリス地方ちほうキュメのアリスタゴラスらである。
  12. ^ スメルディス(ガウマータ)の排除はいじょかかわったオタネス(ウターナ)とは別人べつじん
  13. ^ ギリシアの文献ぶんけんによれば、にせスメルディス(ガウマータ)は本物ほんもののスメルディスと見分みわけがつかないほど似通にかよった容姿ようしをしていたとされるが、かりにそのような人物じんぶつ存在そんざいしたとしても本人ほんにんそのものとしてうことができたとはかんがえられず、このような説話せつわはおよそ現実げんじつてきなものではない。このため、僭称せんしょうしゃなど存在そんざいせずダレイオス1せい殺害さつがいしたにせスメルディスとは本物ほんものおうおとうとそのものであったという推測すいそくがしばしばおこなわれる[73]。またべつせつとして、この「にせ」のおうスメルディスとは古代こだいオリエントにおいて時折ときおりられた身代みがわりおう代理だいりおうおう凶兆きょうちょうがあったとき一時いちじてきおうとしてあつかわれ、本物ほんものおうわって凶兆きょうちょうける存在そんざい)だったのではないかとするせつもある[74]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 伊藤いとう 1974, p. xviii
  2. ^ a b c d e f g Encyclopedia Iranica DARIUS i. The Name”. 2017ねん12月31にち閲覧えつらん
  3. ^ 伊藤いとう 1974, 巻末かんまつのペルシアしき楔形文字くさびがたもじひょうる。
  4. ^ 西洋せいよう古典こてんがく辞典じてん 2010, pp. 738-739 「ダーレイオス」の項目こうもくより
  5. ^ a b c d e f 田辺たなべ 2003, pp. 154-156
  6. ^ a b c d 伊藤いとう 1974, pp. 22-50
  7. ^ a b c バンヴェニスト 1996, pp. 12-44
  8. ^ ニョリ 1996, pp. 12-44
  9. ^ a b Encyclopedia Iranica DARIUS iii. Darius I the Great”. 2017ねん12月31にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d 山本やまもと 1997, p. 130
  11. ^ ヘロドトス, まき3§139
  12. ^ 森谷もりたに 2016, p. 54
  13. ^ a b ヘロドトス, まき3§61
  14. ^ 森谷もりたに 2016, p. 59
  15. ^ ヘロドトス, まき3§65
  16. ^ ヘロドトス, まき3§70-79
  17. ^ ヘロドトス, まき3§80-86
  18. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §11
  19. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §13
  20. ^ a b c 森谷もりたに 2016, pp. 55-56
  21. ^ a b 山本やまもと 1997, pp. 128-129
  22. ^ a b c d e f 森谷もりたに 2016, pp. 67-68
  23. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §16
  24. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §17
  25. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §18_20
  26. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §21
  27. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §23
  28. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §24-32
  29. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §33
  30. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §35-36
  31. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §39
  32. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §41-42
  33. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §45-47
  34. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §49-59
  35. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §52
  36. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §71-76
  37. ^ a b c 伊藤いとう 1974, pp. 68-79
  38. ^ a b 山本やまもと 1997, p. 133
  39. ^ ヘロドトス, まき3§88
  40. ^ 森谷もりたに 2016, pp. 72-73
  41. ^ a b 山本やまもと 1997, p. 134
  42. ^ a b c d e f 山本やまもと 1997, p. 136
  43. ^ 山本やまもと 1997, p. 139
  44. ^ ヘロドトス, まき4§1
  45. ^ ヘロドトス, まき4§83
  46. ^ ヘロドトス, まき4§93
  47. ^ ギルシュマン 1970, pp. 138-139
  48. ^ ヘロドトス, まき4§130-136
  49. ^ a b 中村なかむら 1997, pp. 10-11
  50. ^ ヘロドトス, まき4§44
  51. ^ a b ヘロドトス, まき4§94
  52. ^ ベヒストゥン碑文ひぶん, §6
  53. ^ ダレイオス1せいのペルセポリス碑文ひぶんe
  54. ^ a b c d e f g h 桜井さくらい 1997, pp. 127-129
  55. ^ ヘロドトス, まき4§137
  56. ^ ヘロドトス, まき5§1-17
  57. ^ ヘロドトス, まき5§23
  58. ^ ヘロドトス, まき5§25
  59. ^ ヘロドトス, まき5§28-33
  60. ^ ヘロドトス, まき5§35-36
  61. ^ ヘロドトス, まき5§99-126, まき6§1-22
  62. ^ ヘロドトス, まき6§94
  63. ^ ヘロドトス, まき6§101
  64. ^ ヘロドトス, まき6§111-117
  65. ^ ヘロドトス, まき6§119
  66. ^ a b ギルシュマン 1970, pp. 143-144
  67. ^ a b ヘロドトス, まき7§1
  68. ^ ヘロドトス, まき7§4
  69. ^ 山本やまもと 1997, p. 148
  70. ^ ヘロドトス, まき7§2
  71. ^ a b ヘロドトス, まき7§3
  72. ^ 山本やまもと 1997, pp. 132-133, 139
  73. ^ 阿倍あべ 2023, p. 198
  74. ^ 阿倍あべ 2023, p. 199
  75. ^ a b c d e f 森谷もりたに 2016, pp. 70-74
  76. ^ 伊藤いとう 1974, pp. 109-115

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

史料しりょう和訳わやく

[編集へんしゅう]
  • ヘロドトス歴史れきし うえ松平まつだいら千秋ちあきわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1971ねん12月。ISBN 978-4-00-334051-6 
  • ヘロドトス『歴史れきし ちゅう松平まつだいら千秋ちあきやく岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1972ねん1がつISBN 978-4-00-334052-3 
  • ヘロドトス『歴史れきし 松平まつだいら千秋ちあきやく岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1972ねん2がつISBN 978-4-00-334053-0 
  • 伊藤いとう義教よしのり わけ「ベヒストゥン碑文ひぶん」『古代こだいペルシア』岩波書店いわなみしょてん、1974ねん1がつISBN 978-4007301551 

書籍しょせき

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
スメルディス
アケメネスあさおう
紀元前きげんぜん522ねん - 紀元前きげんぜん486ねん
次代じだい
クセルクセス1せい
先代せんだい
スメルディス
古代こだいエジプトおう
紀元前きげんぜん521ねん - 紀元前きげんぜん486ねん
次代じだい
クセルクセス1せい