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マルコ・ポーロ - Wikipedia コンテンツにスキップ

マルコ・ポーロ

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マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの肖像しょうぞう[注釈ちゅうしゃく 1]
生誕せいたん 1254ねん
ヴェネツィア共和きょうわこく
死没しぼつ 1324ねん1がつ8にち
ヴェネツィア共和きょうわこく ヴェネツィア
墓地ぼち サン・ロレンツォ教会きょうかい(en)
北緯ほくい4526ふん14.25びょう 東経とうけい1220ふん43.79びょう / 北緯ほくい45.4372917 東経とうけい12.3454972 / 45.4372917; 12.3454972
職業しょくぎょう 商人しょうにん冒険ぼうけん
著名ちょめい実績じっせき東方とうほう見聞けんぶんろく
配偶はいぐうしゃ ドナータ・バドエル
子供こども ファンティーナ、ベレーラ、
おや ちち:ニコーロ・ポーロ
ははしょう
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マルコ・ポーロ: Marco Polo1254ねんごろ - 1324ねん1がつ8にち[1])は、ヴェネツィア共和きょうわこく商人しょうにんであり、ヨーロッパ中央ちゅうおうアジア中国ちゅうごく紹介しょうかいした『東方とうほう見聞けんぶんろく』(写本しゃほんめい:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界せかい記述きじゅつ (Devisement du monde)』)[2][3]口述こうじゅつした冒険ぼうけんでもある。

概略がいりゃく

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しょう取引とりひきちちニッコロ・ポーロイタリアばん叔父おじマテオ・ポーロイタリアばんまなんだ。1271ねんちち叔父おじともにアジアに出発しゅっぱつし、以降いこう24年間ねんかんにわたりアジア各地かくちたびする。帰国きこくジェノヴァとの戦争せんそう志願しがんし、捕虜ほりょとなって投獄とうごくされるが[4]、そこで囚人しゅうじん仲間なかまたびはなしをし、これがのちに『東方とうほう見聞けんぶんろく』となった。1299ねん釈放しゃくほうされたのち豪商ごうしょうになり、結婚けっこんして[5]3にん子供こどもめぐまれた。1324ねんぼっし、サン・ロレンツォ教会きょうかいイタリアばん埋葬まいそうされた。

かれ先駆せんくてき冒険ぼうけん当時とうじのヨーロッパ地理ちりがくにも影響えいきょうあたえ、フラ・マウロの世界せかい作成さくせいされた。またクリストファー・コロンブス[6]などおおくの人物じんぶつ刺激しげきあたえた。マルコ・ポーロのマルコ・ポーロ国際こくさい空港くうこうマルコポーロヒツジ英語えいごばんにも使つかわれ、かれ生涯しょうがいをテーマにした小説しょうせつ映画えいがなども製作せいさくされた。

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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マルコ・ポーロがいつ、どこでまれたか正確せいかくにはかっておらず、現代げんだい説明せつめいはほとんどが推測すいそくである。そのなかもっと引用いんようされる情報じょうほう1254ねんまれというものである[注釈ちゅうしゃく 2]生誕せいたん一般いっぱんヴェネツィア共和きょうわこくだったとられており、これもただしい場所ばしょ不明ふめいながらおおくの伝記でんきにて同様どうようかれている[7][注釈ちゅうしゃく 3]

生家せいか代々だいだいつづ商家しょうか[9]父親ちちおやのニッコロは中東ちゅうとう貿易ぼうえき従事じゅうじし、ざい地位ちいしつつあった[10][11]。ニッコロとマテオ兄弟きょうだいはマルコがまれるまえ貿易ぼうえきたび出発しゅっぱつ[11]コンスタンティノープルいた[12]

1260ねん異変いへん予兆よちょう察知さっちしたニッコロとマテオは、財産ざいさんをすべて宝石ほうせきえてコンスタンティノープルをはな[10]毛皮けがわ貿易ぼうえきさかえるクリミアかった[12]。『東方とうほう見聞けんぶんろく』によると、かれらはアジアをひがしかい、クビライとも謁見えっけんしているという[13]。このあいだ、マルコの母親ははおやくなり、かれ叔父おじ叔母おば養育よういくされた[11]。マルコはしっかりした教育きょういくけ、外貨がいか貨物かもつせん評価ひょうかあつかいなど商業しょうぎょうについてもおそわった[11]が、ラテン語らてんご履修りしゅうする機会きかいてなかった[10]

アジアへのたび

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たび行程こうてい

1269ねん、ニッコロとマテオの兄弟きょうだいはヴェネツィアにもどり、はじめてマルコとった。そして1271ねん後半こうはん[3]兄弟きょうだいは17さいのマルコとともにのちに『東方とうほう見聞けんぶんろく』に記録きろくされるアジアへのたび出発しゅっぱつした。

いちぎょうふねアクレわたり、そこから陸路りくろホルムズかった。その途上とじょうしん教皇きょうこう決定けっていらせをけて一旦いったんエルサレムもどり、教皇きょうこうグレゴリウス10せいからクビライにてた手紙てがみあずかり、ふたたひがしかった[14]

いちぎょうもとうえ到着とうちゃくしたとき、マルコは21さいになっていた[15]いちぎょうはクビライにられもと役人やくにんとして登用とうようされ、マルコは外交がいこう使節しせつとしてインドビルマおとずれた。かれ帝国ていこく領内りょうない東南とうなんアジア(現在げんざいスリランカインドネシアベトナム各地かくちおとずれ、任務にんむかたわ現地げんち見聞みききしたことをかたってクビライをたのしませた。マルコたちあしかけ17年間ねんかん中国ちゅうごくごした[16]

マルコたちなんもクビライに帰国きこくねがていたが、かれらとの交流こうりゅうたのしみ、また有能ゆうのう人材じんざいとして評価ひょうかしていたクビライは当初とうしょはそれをこばつづけた[17]。 しかし1291ねんつい帰国きこくゆるされ、イルハンこくアルグン・ハーンとつ皇女おうじょコケジンへの随行ずいこう最後さいご任務にんむとしてめいじられた[15]任務にんむえたマルコいちぎょうがコンスタンティノープルを[15]ヴェネツィアへともどったのは出発しゅっぱつから24ねん1295ねんぜん行程こうてい15,000kmのたびであった[18]

後半こうはんせい

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帰国きこくから3ねん、ヴェネツィアは敵対てきたいしていたジェノヴァ交戦こうせん状態じょうたいはいった。マルコは所有しょゆうするガレーせん投石とうせき武装ぶそうさせてヴェネツィアぐん一員いちいんとして参戦さんせんした[19]。そして1296ねんアナトリア沿岸えんがんアダナイスケンデルンわんあいだ海域かいいきおこなわれた小規模しょうきぼ海戦かいせん[20]ジェノヴァぐんらえられた[4][21]

数ヶ月すうかげつ収監しゅうかんちゅうかれたび詳細しょうさい口述こうじゅつし、これをめたのが、かれおなじく投獄とうごくされていた著述ちょじゅつルスティケロ・ダ・ピサであった[3][22]。しかしピサは、ここにかれ自身じしんきかじった物事ものごと逸話いつわ中国ちゅうごくからもたらされた伝聞でんぶんなどを勝手かってくわえてしまった。この記録きろくは、マルコがアジアをたびしたことを記録きろくした『東方とうほう見聞けんぶんろく』 (Il Milione) として有名ゆうめいになり、中国ちゅうごくインド日本にっぽんふく極東きょくとう内実ないじつかんする包括ほうかつてき視点してんった情報じょうほうはじめてヨーロッパにもたらした[23]

マルコは1299ねん8がつ釈放しゃくほうされ[22]ちち叔父おじがヴェネツィア市内しない中心ちゅうしんサン・ジョヴァンニ・クリソストモ地区ちく購入こうにゅうした広大こうだい屋敷やしき「Corte del Milion」にもどることができた[24]事業じぎょう活動かつどう継続けいぞくしており、マルコはすぐに豪商ごうしょう仲間入なかまいりをたした。ただし、そのマルコは遠征えんせいへの出資しゅっしこそするも、かれ自身じしんはヴェネツィアをはなれなかった[24]1300ねん、マルコは商人しょうにんヴィターレ・バドエルのむすめドナータ・バドエルと結婚けっこん[25]、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタとづけた3にんむすめめぐまれた[26]

死去しきょ

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ヴェネツィアのカステッロ地区ちく英語えいごばん にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会きょうかい。マルコ・ポーロが埋葬まいそうされている。写真しゃしん再建さいけんされたもの。

1323ねん病気びょうきになったマルコはまくらがらなくなった。翌年よくねん1がつ8にち医師いし努力どりょくむなしく死期しきせまったマルコは財産ざいさん分与ぶんよみとめ、くなった。遺言ゆいごん公認こうにんせいプロコロ教会きょうかい司祭しさいジョバンニ・ジュスティニアーニからつまむすめたちは正式せいしき共同きょうどう遺言ゆいごん執行しっこうしゃ (en) となった。遺言ゆいごんもとづいて教会きょうかい一部いちぶ地権ちけんけ、さらにおおくの遺産いさん分与ぶんよをサン・ロレンツォ教会きょうかいおこなって遺体いたい埋葬まいそうされた[27]。また、遺言ゆいごんにはマルコがアジアかられてきたタタールじん奴隷どれい解放かいほうするよう指示しじされていた[28]

マルコはのこりの遺産いさんについても、個人こじん宗教しゅうきょう団体だんたいかれぞくしたギルド組織そしきなどへの配分はいぶんめていた。さらに、かれ義理ぎり姉妹しまいっていた300リラ借金しゃっきんや、サン・ジョバンニ修道院しゅうどういんせいドミニコ修道しゅうどうかいのサン・パウロ教会きょうかいまたは托鉢たくはつ修道しゅうどう英語えいごばんのベンヴェヌートら聖職せいしょくしゃ負債ふさい肩代かたがわりもした。ジュスティニアーニ司祭しさいには公証こうしょうじんやくへの報酬ほうしゅう、また信者しんじゃからとして200ソリドゥスおくられた[27]

マルコの署名しょめいかったが、「signum manus」の規則きそく適用てきようされ有効ゆうこうなものとされた遺言ゆいごんじょうは、日付ひづけが1324ねん1がつ9にちになっていた。規則きそくにより遺言ゆいごんじょうれるもの遺言ゆいごんしゃだけとめられていたため、マルコのぼつは9にちではないかとの疑問ぎもんしょうじたが、当時とうじの1にち日没にちぼつ日付ひづけわっていたため、現在げんざいう8にち深夜しんやであった可能かのうせいもある[27]

マルコ・ポーロのたび

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『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュール
マルコ・ポーロ存命ぞんめいちゅう発刊はっかんされた『イル・ミリオーネ』のいちページ

マルコ・ポーロの口述こうじゅつしるした原本げんぽんはやくからうしなわれ[9]、140種類しゅるいえる[2][9]写本しゃほんあいだにも有意ゆういられる。初期しょきフランス語ふらんすごかれていたとかんがえられるほんは1477ねんドイツはじめて活字かつじされ、1488ねんにはラテン語らてんごおよびイタリア出版しゅっぱんされた[21]。しかし、これらにおいても、単独たんどく筋書すじがきにるもの、複数ふくすうはん統合とうごうしたり、ヘンリー・ユールによる英語えいご翻訳ほんやくばんのように一部いちぶくわえたりしたものがある。

おな英語えいご翻訳ほんやくでもA.C.ムールとポール・ペリオやくし1938ねん出版しゅっぱんされたほんでは、1932ねんトレドだい聖堂せいどう発見はっけんされたラテン語らてんごほんもとにしているが、はんよりも5わりなが[29]

このように、さまざまな言語げんごにまたがる異本いほんられている[2]印刷いんさつ発明はつめい以前いぜんおこなわれた筆写ひっしゃ翻訳ほんやく起因きいんしておおくのあやまりがしょうじ、はんごとのちがいが非常ひじょうおお[30]。これらのうち、14世紀せいき初頭しょとうつくられた、「F写本しゃほん」とばれるイタリア影響えいきょうのこフランス語ふらんすご写本しゃほんもっと原本げんぽんちかいとおもわれている[3]

内容ないよう

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ほんは、ニッコロとマテオがキプチャク・ハンこくベルケ王子おうじボルガール[31]かうたび記述きじゅつからはじまる。1ねんかれらはウケク[32]、さらにブハラかった。そこでレバント使者ししゃ兄弟きょうだいまねき、ヨーロッパにったことがないクビライ面会めんかいする機会きかいもうけた[33]。これは1266ねんだい現在げんざい北京ぺきん)で実現じつげんした。クビライは兄弟きょうだいおおいにもてなし、ヨーロッパのほう政治せいじ体制たいせいについておおくの質問しつもん[34]、またローマ教皇きょうこう教会きょうかいについてもいた[35]兄弟きょうだい質問しつもんこたえるとクビライは、リベラル・アーツ文法ぶんぽう修辞しゅうじがく論理ろんりがく幾何きかがく算術さんじゅつ音楽おんがく天文学てんもんがく)につうじた100にんキリスト教徒きりすときょうと派遣はけんもとめた教皇きょうこうてた書簡しょかんたくした。さらにクリスム英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 4]ってくるようもとめた[37]

ローマ教会きょうかいでは1268ねんクレメンス4せいぼっして以来いらい使徒しと空位くういにあり、クビライの要請ようせいこたえる教皇きょうこう不在ふざいのままだった。ニッコロとマテオはテオバルド・ヴィスコンティいでエジプト駐留ちゅうりゅう教皇きょうこう使節しせつから助言じょげんけ、ヴェネツィアにもど次期じき教皇きょうこう即位そくいつことにした。かれらがヴェネツィアにいたのは1269ねんもしくは1270ねんであり、ここで当時とうじ16さいか17さいだったマルコとはじめてうことになった[38]

次期じき教皇きょうこうはなかなかまらず、1271ねんにニッコロとマテオそしてマルコの3にんはクビライへの説明せつめいのためにたび出発しゅっぱつした[39]かれらがしょうアルメニアのライアスに到着とうちゃくしたときしん教皇きょうこう決定けっていらせがとどいた[39]かれらに、2人ふたり宣教師せんきょうしニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行どうこうすることになったが、宣教師せんきょうしらはたび困難こんなんさに直面ちょくめん早々そうそう逃亡とうぼうしてしまう[39]

タタールの衣装いしょうまとうマルコ・ポーロ

マルコいちぎょうはまずアッコまでふねき、ペルシャのホルムズラクダえた。かれらはふね中国ちゅうごくまできたかったが当地とうちふね航海こうかいてきさず、パミール高原こうげんゴビ砂漠ごびさばくえる[21]陸路りくろでクビライのなつうえ現在げんざいちょうくち近郊きんこう)を目指めざした。ヴェネツィアをて3ねんはん、21さい前後ぜんこうまで成長せいちょうしたマルコをふくいちぎょう目的もくてき到着とうちゃくし、クビライはかれらを歓迎かんげいした[40]。マルコらが到着とうちゃくした正確せいかく日付ひづけ不明ふめいだが、研究けんきゅうしゃによると1271ねんから1275ねんあいだだとなされている[注釈ちゅうしゃく 5]宮廷きゅうていにて、いちぎょうはエルサレムから持参じさんした神聖しんせいなるあぶらと、教皇きょうこうからの手紙てがみをクビライにわたした[42]

いちぎょうもと役人やくにん任命にんめいされ、マルコは中国ちゅうごく南西なんせい雲南うんなん蘇州そしゅう楊州徴税ちょうぜい実務じつむいたり、また使節しせつとして[21]帝国ていこく南部なんぶ東部とうぶ、またみなみ遠方えんぽうビルマスリランカチャンパ王国おうこく現在げんざいベトナム[43]など各所かくしょおとずれ、それを記録きろくした[44]。 マルコはイタリアほかに、フランス語ふらんすごトルコモンゴルつう[45]中国ちゅうごくはできなかった[46][注釈ちゅうしゃく 6])、いちぎょうはクビライにとって有用ゆうよう知識ちしき経験けいけん数多かずおおっていたこともあり、マルコの役人やくにん登用とうよう不自然ふしぜんではない[40]

17年間ねんかん中国ちゅうごく滞在たいざいした[47]マルコらいちぎょうもと政治せいじ腐敗ふはい危惧きぐし、中国ちゅうごくりたいというもうをしたがクビライはみとめなかった[48]。しかしかれらは、もしクビライがくなれば重用じゅうようされた自分じぶんたちは政敵せいてきねらわれ無事ぶじにヨーロッパにもどれなくなるのでは、と危惧きぐしていた。1292ねんイル・ハンこくアルグン・ハン内定ないていした皇女おうじょコカチンむかえに使節しせつだんが、ハイドゥのらんのために陸路りくろれず南海なんかい航路こうろ帰国きこくすることになったさい航路こうろくわしいマルコらに同行どうこうもとめた[48][47]。この許可きょかいちぎょう同年どうねん泉州せんしゅうから14せきジャンク船団せんだんんでみなみ出航しゅっこうした[47]かれらはシンガポール寄港きこうし、スマトラ島すまとらとうでは5ヶ月かげつ風待かざまちしてごし[49]セイロンとう経由けいゆして[21]インド南岸なんがん通過つうかし、マラバール[9] アラビアかいとおって1293ねん2がつごろにオルムス(ホルムズ)にいたった[49]。2年間ねんかんにわたる船旅ふなたびけっして平穏へいおんではなく、水夫すいふのぞくと600にんいた乗組のりくみいん到着とうちゃくには18にんにまでったが、コカチンやマルコら3にん無事ぶじのこった[21][50]。 オルムスに到着とうちゃくおこなわれた結婚けっこん祝賀会しゅくがかいわるとマルコらは出発しゅっぱつし、陸路りくろやま黒海こっかい現在げんざいではトラブゾンたるみなとかった[注釈ちゅうしゃく 7]。 マルコらがヴェネツィアにもどったのは1295ねん通算つうさん24年間ねんかんたびえた[48]

評価ひょうか

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マルコの肖像しょうぞうえがかれたきゅう1000リレ紙幣しへい
  • マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、ひゃくまんなん)』というあだがついていた[51]。『東方とうほう見聞けんぶんろく』でルスティケロは「それらはすべて賢明けんめいにして尊敬そんけいすべきヴェニスの市民しみん、《ミリオーネ》としょうせられたマルコ・ポーロしたしくみずか目睹もくとしたところを、かれかたるがままに記述きじゅつしたものである。」とべている。
    このあだ由来ゆらいには諸説しょせつあるがはっきりしたことはからない。中国ちゅうごく人口じんこうとみ規模きぼについてひゃくまん単位たんい物語ものがたったことからきたというせつ、またそれをだい風呂敷ふろしきだとして当時とうじひとがからかい、そのようにんだというせつ、またアジアからかえった商品しょうひんによって「百万長者ひゃくまんちょうじゃ」になったことをあらわすというせつなどがある[51]
  • 14世紀せいき15世紀せいき世界せかいでは、ヨーロッパ社会しゃかいてき分業ぶんぎょう結節けっせつてんになっており、ヨーロッパは、世界せかいほかしょ地域ちいきとの比較ひかくでいえば、生産せいさんりょく史的してきシステムの結合けつごうりょく知識ちしき相対そうたいてき水準すいじゅんなどのてんで、ちょうど中間ちゅうかんてき位置いちにあった。もっと原始げんしてき地域ちいきというわけでもなければ、さい先進せんしん地域ちいきでもなく、文化ぶんかてき経済けいざいてきにヨーロッパでもっとすすんだ地方ちほうからたマルコ・ポーロでさえ、アジアへのたび遭遇そうぐうした事物じぶつには完全かんぜん圧倒あっとうされた[52]
  • だいえい図書館としょかん中国ちゅうごく主任しゅにんフランシス・ウッド英語えいごばんは『東方とうほう見聞けんぶんろく』には実在じつざいした中国ちゅうごく風俗ふうぞくおおくが紹介しょうかいされていないことなどを理由りゆうに、マルコがもとまでったことに否定ひていてき見解けんかいしめし、かれ黒海こっかい近辺きんぺん収集しゅうしゅうした情報じょうほうかたったと推測すいそくしている[51][53]
  • 歴史れきし学者がくしゃのジョン・ラーナーは『東方とうほう見聞けんぶんろく』に中国ちゅうごく風俗ふうぞくおおくが紹介しょうかいされてないことは不自然ふしぜんではないと指摘してきしているほか(詳細しょうさい東方とうほう見聞けんぶんろく#中国ちゅうごくについての記述きじゅつ参照さんしょう)、ウッドが提唱ていしょうする黒海こっかい周辺しゅうへん中国ちゅうごく情報じょうほう入手にゅうしゅしただけというせつについては、16世紀せいき以前いぜん日本にっぽん情報じょうほうげた文献ぶんけんは『東方とうほう見聞けんぶんろく以外いがいにないことから、黒海こっかい周辺しゅうへん日本にっぽん存在そんざいることは不可能ふかのうで、マルコ自身じしん実際じっさい中国ちゅうごくおもむいて日本にっぽんジパング)のせい情報じょうほう入手にゅうしゅしたとるのが自然しぜんだとして批判ひはんしている[54]
  • 日本にっぽんモンゴル史学しがくしゃ杉山すぎやま正明まさあきはマルコ・ポーロの実在じつざいそのものに疑問ぎもんげかけている。その理由りゆうとして、『東方とうほう見聞けんぶんろく』の写本しゃほんにおける内容ないよう異同いどうはげしすぎること、モンゴル・もと記録きろくなかにマルコをあらわ記録きろく皆無かいむなことなどをげている。ただしモンゴル宮廷きゅうていについての記述きじゅつ資料しりょう一致いっちする、つまり宮廷きゅうていない出入でいりした人物じんぶつでないとえがけないということから、マルコ・ポーロらしきひとがいたことは否定ひていしていない[55]
  • 2010ねん1がつイラン文化ぶんか遺産いさん観光かんこうちょう長官ちょうかんハミード・バガーイーは、国際こくさいシルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロのたびには西洋せいよう東洋とうよう情報じょうほう収集しゅうしゅうして対抗たいこうするための諜報ちょうほう活動かつどうという側面そくめんがあったというせつべた。これは、たん交易こうえきみちだけにまらないシルクロードが機能きのう端的たんてき表現ひょうげんしたもので、このみちふるくから文化ぶんか社会しゃかいてき交流こうりゅうであり、マルコのたびれいげてしめしたものである[56]
  • 1981ねんから1990ねんまで発行はっこうされた1000イタリア・リレリラ複数ふくすうがた紙幣しへい肖像しょうぞう採用さいようされていた。

影響えいきょう

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1450ねんにヴェネツィアの僧侶そうりょフラ・マウロが作成さくせいした地図ちず

黄金おうごんくにジパング

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マルコ・ポーロは、みずからは渡航とこうしなかったが 日本にっぽんのことをジパング (Zipangu) のでヨーロッパにはじめて紹介しょうかいした。だい3さつ書中しょちゅうさんしょうにわたって日本にっぽん地理ちり民族みんぞく宗教しゅうきょう説明せつめいしており、それによると中国ちゅうごく大陸たいりくから1,500海里かいりやく2,500km)におうようしたしろはだ人々ひとびと巨大きょだいしまがあり、黄金おうごん宮殿きゅうでん豊富ほうふ宝石ほうせきあか真珠しんじゅるいなどを紹介しょうかいしている[3]。1274ねん、1281ねんの2わたもとについてもれているが、史実しじつ反映はんえいした部分ぶぶんもあれば、もとぐん日本にっぽん首都しゅとである京都きょうと[57]までんだという記述きじゅつ日本にっぽんへい武器ぶきにしていた奇跡きせきいしなど、空想くうそうてき箇所かしょもある[3]

黄金おうごんくに伝説でんせつは、奥州おうしゅう平泉ひらいずみ中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどうについてのはなし[58]遣唐使けんとうし時代じだい留学生りゅうがくせい持参じさんきんおよびにちそう貿易ぼうえき日本にっぽんがわ支払しはらいにきむ使つかわれていたこと[51]によって、ひろく「日本にっぽんかねくに」という認識にんしき中国ちゅうごくがわにあったともかんがえられる。また、イスラム社会しゃかいにはやはり黄金おうごんくにす「ワクワク伝説でんせつ」があり、これも倭国わのくに「Wa-quo」がもとにあるとおもわれ、マルコ・ポーロの黄金おうごんくにはこれら中国ちゅうごくやイスラムがっていた日本にっぽんたいする幻想げんそう影響えいきょうけたとかんがえられる[3]

日本にっぽんでは、偶像ぐうぞう崇拝すうはい仏教ぶっきょう〉が信仰しんこうされていることや、埋葬まいそう風習ふうしゅうなどにれているが[57]、これはジパングと周辺しゅうへん島々しまじまについて概説がいせつてきべられており、その範囲はんい中国ちゅうごく南北なんぼく地域ちいきから東南とうなんアジアおよびインドまでにおよぶ。また、これらはフリーセックスてきせい風俗ふうぞくともども十字軍じゅうじぐん遠征えんせい以来いらいヨーロッパじんっていた「とみ」および「グロテスク」という言葉ことばいろどられるアジアかん典型てんけいをなぞったものとかんがえられる[3]

当時とうじにちちゅう貿易ぼうえき杭州こうしゅう拠点きょてんおこなわれていた。しかし1,500海里かいりという表現ひょうげん泉州せんしゅうから九州きゅうしゅう北部ほくぶまでの距離きょり符合ふごうし、ここからマルコは日本にっぽん情報じょうほう泉州せんしゅうたと想像そうぞうされる。「ジパング」の呼称こしょう中国ちゅうごく南部なんぶの「日本にっぽんこく」の発音はつおん「ji-pen-quo」が由来ゆらいおもわれるてんがこれを裏付うらづける。この泉州せんしゅう一方いっぽうでインド航路こうろ起点きてんでもあり、マルコの日本にっぽん情報じょうほうはイスラム商人しょうにんらからいたものである可能かのうせいたか[3]

ユーラシア情報じょうほう

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マルコ・ポーロはたび往復おうふくもと使節しせつとしておとずれた土地とち情報じょうほうおお記録きろくし、『東方とうほう見聞けんぶんろく』はもとだい中国ちゅうごくまらず東方とうほう世界せかい情報じょうほう豊富ほうふふくみ、近代きんだい以前いぜんユーラシア大陸たいりく姿すがた現在げんざいつたえる[59]。 それらは文化ぶんか風習ふうしゅうしるしたたんなる見聞けんぶんまらず、おもさや寸法すんぽうまたは貨幣かへいなどの単位たんい道路どうろはしなどの交通こうつう、さらには言語げんごひとしにもおよび、それは社会しゃかい科学かがく民俗みんぞくがくてき観察かんさつされる[60]。そのなかで、マルコはアジアの「とみ繁栄はんえい」をおおつたえた。世界せかい最大さいだい海港かいこう称賛しょうさんした泉州せんしゅう[61]杭州こうしゅう[62]繁栄はんえいぶりに驚嘆きょうたんし、だい都市とし計画けいかく整然せいぜんさや庭園ていえんなどもうつくしさをしるしている。また、ヨーロッパにはかった紙幣しへいおどろき、クビライを「錬金術れんきんじゅつ」とひょうした[63]。 なお、かれもと成立せいりつプレスター・ジョン関連かんれんづけた記述きじゅつのこしている[64]

往路おうろではシルクロードとおり、つたえた中央ちゅうおうアジアの情報じょうほうについて探険たんけんスヴェン・ヘディンは、その正確せいかくさに感嘆かんたんした[51]。1271ねんパミール高原こうげん(かつてはImeonやまばれた)を通過つうかしたさい大柄おおがらヒツジについても詳細しょうさい報告ほうこくのこしており[注釈ちゅうしゃく 8]、このひつじにはかれりマルコポーロヒツジとの名称めいしょうがついた[66]

復路ふくろ船旅ふなたびについても、南海なんかい航路こうろ詳細しょうさい東南とうなんアジアやインドなどの地方ちほうやイスラム文化ぶんかとう詳細しょうさいつた[67]、さらに中国ちゅうごくやアラブのふね構造こうぞうについても詳細しょうさいしるした[68]。1292ねんにインドをとおったとき記録きろくには、せいトマスはか当地とうちにあるとしるしている[69]。 また、イスラムの楽器がっきについても記録きろくした[70]

マルコは宝石ほうせき産地さんちはじめて具体ぐたいてきにヨーロッパにらせた。セイロンとうでは良質りょうしつルビーサファイアれ、またコロマンデル海岸かいがんかわではあめのちダイヤモンドひろえるが、渓谷けいこくのぼって採掘さいくつするには毒蛇どくへびけねばならないとしるした[71]

世界せかいかんへの影響えいきょう

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  • 東方とうほう見聞けんぶんろく』は、中世ちゅうせいにおけるヨーロッパじんのアジアかん変化へんかあたえた、キリストきょうてき世界せかいかんである普遍ふへんエルサレム世界せかい中心ちゅうしんとするマッパ・ムンディ図案ずあんされてきたが、マルコ・ポーロの報告ほうこくパクス・モンゴリカ成立せいりつによるアジアのしん情報じょうほうともども変更へんこうせまられた。イシドールスの『語源ごげん以来いらいヨーロッパじんっていた怪物かいぶつものてき人類じんるい闊歩かっぽする遠方えんぽうアジアかん化物ばけもの世界せかい[72]あやまりを数多かずおお指摘してきした[73]
  • マルコ・ポーロ以降いこう極東きょくとうしま日本にっぽんはまだ憧憬どうけいくにであり[74]様々さまざまかたち想像そうぞうされ、世界せかい地図ちず反映はんえいされることになった[75][76]
  • マルコの報告ほうこくだい航海こうかい時代じだいひら端緒たんしょのひとつになったというかんがえもある[77]。1453ねん作成さくせいされたフラ・マウロの世界せかいたいして、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ英語えいごばん以下いかのコメントをせている[77]
That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father.


わけ:この羊皮紙ようひしえがかれたすばらしい世界せかい地図ちずは、宇宙うちゅうまなぼうとするもの偉大いだいなるひかりあたえたもう僧院そういんのひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院しゅうどういん聖歌せいかたいせきよこにあるおおきなかざだなることができる。克明こくめいうつされえがかれた至上しじょううつくしさといにしえのつたえる海図かいず世界せかい地図ちずは、もっと高貴こうきなる伝達でんたつしゃマルコ・ポーロとそのちちがキャセイ(中国ちゅうごく)よりつたえしものである。 — ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ

かえったもの

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  • マルコ・ポーロは中国ちゅうごくで、住民じゅうみん細長ほそながものでている光景こうけいた。この料理りょうりつくかたおそわったマルコはイタリアにつたえ、これが発達はったつしてパスタになったというせつがある。このせつによると、「スパゲッティ」(Spaghetti) とはマルコに同行どうこうしていた船乗ふなのりの由来ゆらいだという[78]べつ俗説ぞくせつでは、マルコいちぎょうのある船員せんいん恋仲こいなかになった中国ちゅうごくむすめが、帰国きこくおとことのわかれにかなしむあまりたおれ、そのときっていたパン生地きじたいらにつぶしてしまった。この生地きじがやがてかわいてミェヌ(めんじょうになったというものもある[78]。ただし、これには否定ひていろんもあり、16世紀せいきに『世界せかい叙述じょじゅつ』をラムージオが校訂こうていしたさいまぎんだあやまりのひとつで、イタリアのパスタと中国ちゅうごく麺類めんるい関連かんれんせいいともわれる[79]
  • 陶磁器とうじきかえった。中国ちゅうごく陶磁器とうじきはセラミック・ロードとばれる南海なんかいルートでイスラム商人しょうにんが8 - 9世紀せいきごろからヨーロッパへんでいたが、マルコは製造せいぞう工程こうてい見聞けんぶんしている。しかし、これは西欧せいおうでの陶磁器とうじき製造せいぞうにはむすびつかなかった[80]
  • 方位ほうい磁石じしゃくもまた、マルコが中国ちゅうごくからかえった一品いっぴんである。これは羅針盤らしんばん発展はってんし、だい航海こうかい時代じだいささえる道具どうぐとなった[81][注釈ちゅうしゃく 9]

中国ちゅうごく目指めざしたほか人々ひとびと

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クリストファー・コロンブス手書てがきの注釈ちゅうしゃくくわえた『東方とうほう見聞けんぶんろく写本しゃほん
  • マルコ・ポーロ以前いぜんにヨーロッパじん中国ちゅうごくたびしたほかれいにはプラノ・カルピニがいる。しかし、かれ旅行りょこう詳細しょうさい一般いっぱんひろられることはく、このてんからマルコが先陣せんじんったとおもわれている。
  • クリストファー・コロンブスはマルコが描写びょうしゃした極東きょくとう情報じょうほうつよ影響えいきょうけ、航海こうかい動機どうきとなった。コロンブスが所蔵しょぞうした『東方とうほう見聞けんぶんろく』がのこっており、ここにはかれ手書てが注釈ちゅうしゃくくわえられている[6]
  • ベント・デ・ゴイスも「東洋とうよう君臨くんりんするキリスト教きりすときょうおう」についてマルコが口述こうじゅつした部分ぶぶん影響えいきょうされ、中央ちゅうおうアジアを3年間ねんかんかけて4,000kmにわたりたびをした。かれ王国おうこくつけられなかったが、1605ねんには万里ばんり長城ちょうじょういたり、マテオ・リッチ(1552ねん - 1610ねん)がんだ「China」が、「Cathay」と同一どういつ国家こっかしていることを立証りっしょうした[82]

参考さんこう文献ぶんけん

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読書どくしょ案内あんない

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  • Hart, H. Henry (1948), Marco Polo, Venetian Adventurer, Kessinger Publishing 
  • Otfinoski, Steven (2003), Marco Polo: to China and back, New York: Benchmark Books, ISBN 0761414800 

映像えいぞう作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
アニメ

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 正確せいかく根拠こんきょいが、この肖像しょうぞう16世紀せいきローマのモシニョール・バディア画廊がろうえがかれたものである。碑文ひぶんには、「Marcus Polus venetus totius orbis et Indie peregrator primus」とあり、これは辞書じしょNordisk familjebok』(1915ねん)にも採録さいろくされている。
  2. ^ ほとんどの出典しゅってんがこのとし採用さいようしており、ブリタニカ百科ひゃっか事典じてん(2002年版ねんばん、p571)でも「1254ねん前後ぜんこうまれ(これは、かれ人生じんせいにおける主要しゅよう出来事できごとのほとんどとおなじく推測すいそくいきない)。」とかれている。
  3. ^ せつ紹介しょうかいする文献ぶんけんもあり、たとえばBurgan, 2002, p. 7では生誕せいたんダルマチア現在げんざいクロアチア)のコルチュラとうだったとしている。Korcula infoでも「完全かんぜんなる証拠しょうこそろっているわけではないが、(マルコ・)ポーロがコルチュラとうまれたという伝説でんせつがある」とべ、同島どうとうには「マルコ・ポーロ生誕せいたん」が存在そんざいする[8]
  4. ^ Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前ぼぜんともるランプのあぶら[36]
  5. ^ チベット僧侶そうりょにしてクビライつかえたパクパのこした日記にっきによると、1271ねんにハーンの異邦いほう友人ゆうじんおとずれたことがしるされている。これがマルコ・ポーロいちぎょうだった可能かのうせいはあるが、そこに来訪らいほうしゃ名前なまえい。このいちけんがマルコらをしめしていないとすれば、かれらが到着とうちゃくしたとしは1275ねん愛宕あたご松男まつおせつによれば1274ねん)ではないかとかんがえられる[41]
  6. ^ ちん舜臣しゅんしん中国ちゅうごく歴史れきし』()p361-362では、マルコ・ポーロはペルシャ理解りかいできたが「漢語かんご」にはつうじていなかったとある。クビライの臣下しんかには「色目いろめじん」とばれる西域せいいきじん(ヨーロッパじんのマルコもこのなかはいる)が多数たすうおり、かれらはほんぞくほうという出身しゅっしん習俗しゅうぞく維持いじすることがみとめられていたため、かならずしも中国ちゅうごく精通せいつうする必要ひつようせいかった。
  7. ^ Parker, 2004, pp=648–649表記ひょうきならうが、ラルース、p377ではアルグン・ハン到着とうちゃく直前ちょくぜん死去しきょしたとある。
  8. ^
    Then there are sheep here as big as asses; and their tails are so large and fat, that one tail shall weigh some 30 lb. They are fine fat beasts, and afford capital mutton.


    わけつぎに、ここにはロバおな程度ていどおおきさのヒツジがいる。そのながふとは1ほんで30ポンドやく13.6キログラム)はあろう。すばらしくふとったその家畜かちくは、良質りょうしつマトン供給きょうきゅうげんとなる。[65]
  9. ^ ただし、マルコ・ポーロの方位ほうい磁石じしゃく地中海ちちゅうかい羅針盤らしんばん直接ちょくせつつながったとはいがたい。ヨーロッパの羅針盤らしんばんは1302ねんにフラビオ・ジョイアが発明はつめいしたという伝説でんせつがあるが、これも実際じっさい地域ちいきから導入どうにゅうされたものである。おう利明としあきちょ『「地図ちず世界せかい」の誕生たんじょう』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃISBN 978-4-532-16583-3、p197)では、この導入どうにゅうルートを中国ちゅうごくから受容じゅようしたアラブ世界せかいというせつと、バルト海域かいいきのノルマンじん航海こうかいしゃからの伝播でんぱというせつ紹介しょうかいしている。

脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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