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モハンマド・レザー・パフラヴィー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モハンマド・レザー・シャー
محمد رضا شاه
イラン皇帝こうてい
モハンマド・レザー・シャー(1973ねん
在位ざいい 1941ねん9月16にち - 1979ねん2がつ11にち
戴冠たいかんしき 1967ねん10月26にち、於ゴレスターン宮殿きゅうでん

ぜん محمد رضا پهلوی
モハンマド・レザー・パフラヴィー
出生しゅっしょう (1919-10-26) 1919ねん10月26にち
ペルシアテヘラン
死去しきょ (1980-07-27) 1980ねん7がつ27にち(60さいぼつ
エジプトの旗 エジプトカイロ
埋葬まいそう 1980ねん7がつ29にち
エジプトの旗 エジプトカイロアッ=リファーイー・モスク
配偶はいぐうしゃ ファウズィーイェ・ビント・フォアード
  ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリー
  ファラー・ディーバー英語えいごばん
子女しじょ
王朝おうちょう パフラヴィーあさ
父親ちちおや レザー・シャー
母親ははおや タージョッ=モローク
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうシーア
サイン
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モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーペルシア: محمدرضا شاه پهلوی‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Mohammad Rezā Shāh Pahlavi1919ねん10月26にち - 1980ねん7がつ27にち)は、パフラヴィーあさイランだい2だいにして最後さいご皇帝こうていシャーハンシャー在位ざいい1941ねん9月26にち - 1979ねん2がつ11にち)。パフラヴィー2せいともばれる。亡命ぼうめい前後ぜんこう日本にっぽん報道ほうどうではパーレビ国王こくおうばれることがおおかった。

ちちである先代せんだい皇帝こうていレザー・シャー退位たいいにより即位そくいし、「白色はくしょく革命かくめい」を推進すいしんしてイランの近代きんだいすすめたが、イラン革命かくめいにより失脚しっきゃくした。

生涯しょうがい

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皇太子こうたいし時代じだい

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1919ねんガージャールあさ軍人ぐんじんレザー・ハーンの長子ちょうしとして双子ふたごいもうとアシュラフとともテヘランまれた。1925ねんちちがレザー・シャーとして皇帝こうてい即位そくいしパフラヴィーあさひらくと、皇太子こうたいしとなった。

その上流じょうりゅう階級かいきゅう子弟していかよスイス私立しりつ寄宿きしゅく学校がっこうル・ロゼ」へ留学りゅうがくした。なお、同校どうこうにおいてはそのアメリカCIA長官ちょうかんとなるリチャード・ヘルムズ同級生どうきゅうせいからの信頼しんらいあつく、おおくの友人ゆうじんつくった。

即位そくい

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1941ねん議会ぎかいにて皇帝こうてい即位そくい宣誓せんせいおこなうモハンマド・レザー・シャー

1939ねん9月1にち勃発ぼっぱつしただい世界せかい大戦たいせんなかには、アリーアン学説がくせつ影響えいきょうけ、イラン在住ざいじゅうドイツじん追放ついほう連合れんごうこく鉄道てつどう使用しよう拒否きょひするなど、イランは急速きゅうそく枢軸すうじくこくドイツ傾斜けいしゃした。

このために連合れんごうこくイギリスソビエト連邦れんぽうは、1941ねん8がつ25にち鉄道てつどうふく補給ほきゅうと、石油せきゆなどの豊富ほうふ資源しげん確保かくほのためにイランへの侵攻しんこうおこなった。この侵攻しんこうけてレザー・シャーは、連合れんごうこくいちこくでイランとの関係かんけいふかかったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう仲介ちゅうかいもとめたものの拒否きょひされ、9月17にちにはイランぐん制圧せいあつされた。そのイランは両国りょうこくによる共同きょうどう進駐しんちゅうけ、両国りょうこく圧力あつりょくけて退位たいいしたちちわり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝こうてい即位そくいした。

結婚けっこん

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ファラー・ディーバーとモハンマド・レザー・シャー(1959ねん

同年どうねんムハンマド・アリーあさエジプト国王こくおうフアード1せい長女ちょうじょファウズィーイェ・ビント・フォアード結婚けっこんしたが、のちに不和ふわとなり1948ねん離婚りこんした。

いで1951ねんにイラン南部なんぶバフティヤーリーぞく英語えいごばん(ロルぞく支族しぞく)の貴族きぞく長女ちょうじょソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリー再婚さいこんしたが、のち彼女かのじょ不妊症ふにんしょうであることが発覚はっかくし、帝位ていい継承けいしょう安定あんていのため、1958ねんにやむなく離婚りこんした。

そして1959ねんにイランぐん軍人ぐんじん一人娘ひとりむすめファラー・ディーバー英語えいごばん結婚けっこんした。

近代きんだい政策せいさく

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国内こくない視察しさつおこなうモハンマド・レザー・シャー(1970ねん
1971ねん訪米ほうべいのモハンマド・レザー・シャーとアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくリチャード・ニクソン大統領だいとうりょうおよパット・ニクソン夫人ふじん

皇帝こうていは、1951ねんより石油せきゆ国有こくゆうすすめるとともにソ連それん接近せっきんしたモハンマド・モサッデク首相しゅしょう対立たいりつしたが、1953ねんCIAMI6支援しえんけた皇帝こうていファズロラ・ザーヘディーen:Fazlollah Zahedi将軍しょうぐんらによるクーデターアジャックス作戦さくせん)がきてモサッデク首相しゅしょう失脚しっきゃくし、権力けんりょく回復かいふくした。

1960年代ねんだいより、秘密ひみつ警察けいさつサヴァク(SAVAK)英語えいごばんうごかして左右さゆうはん体制たいせい運動うんどうまるなど権威けんい主義しゅぎ体制たいせい一方いっぽううえからの改革かいかくはかって経済けいざい成長せいちょう目指めざすという、いわゆる開発かいはつ独裁どくさい体制たいせい確立かくりつした。

外交がいこう政策せいさく

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日本にっぽん飛躍ひやくてき経済けいざい成長せいちょう注目ちゅうもくして1963ねんからは石油せきゆ輸出ゆしゅつにより獲得かくとくした外国がいこく資本しほんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる経済けいざい援助えんじょ元手もとでに、べいケネディ政権せいけん要求ようきゅうこたえるかたち白色はくしょく革命かくめい着手ちゃくしゅし、土地とち改革かいかく国営こくえい企業きぎょう民営みんえい労使ろうしあいだ利益りえき分配ぶんぱい婦人ふじん参政さんせいけん確立かくりつ教育きょういく振興しんこう農村のうそん開発かいはつなどの改革かいかく実行じっこうしてイランの近代きんだいすすめた一方いっぽうおや欧米おうべい路線ろせんのもとつづ欧米おうべい諸国しょこく外国がいこく資本しほん導入どうにゅうつとめた。またみずからも、英語えいごフランス語ふらんすご駆使くししておや欧米おうべい外交がいこうすすめる[1]など、政策せいさく先頭せんとうった。

また、イスラムけんではトルコいでイスラエル国交こっこう樹立じゅりつした[2][3]。イスラエルには石油せきゆ供給きょうきゅう[4][5]エリコガブリエル射程しゃてい延伸えんしんさせた長距離ちょうきょりミサイル共同きょうどう開発かいはつ軍事ぐんじてきにも協力きょうりょく関係かんけいにあった[6][7]

このような政策せいさく支持しじした欧米おうべい諸国しょこく、とりわけアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく革命かくめい直前ちょくぜん1970年代ねんだいいたってもふか関係かんけいつづけ、1970年代ねんだい中盤ちゅうばんには、まだ同盟どうめいこくにも販売はんばいしたことのないさい新鋭しんえいグラマンF-14戦闘せんとうボーイング747空中くうちゅう給油きゅうゆをイラン空軍くうぐん納入のうにゅうしたほか、おなじくさい新鋭しんえいボーイング747-SP旅客機りょかくきイラン航空こうくう販売はんばいするなど、イランを事実じじつじょう最恵国さいけいこくとしてあつかった。

のちイラン・イラク戦争せんそうこすことになる隣国りんごくイラクとは、アルジェリア当時とうじサッダーム・フセインふく大統領だいとうりょうアルジェ合意ごういむすんでシャットゥルアラブがわおよびフーゼスターンにおける国境こっきょう問題もんだい解決かいけつ敵対てきたい関係かんけい停止ていし合意ごういした。

1975ねん、イラクのサッダーム・フセインふく大統領だいとうりょうとともに

世俗せぞく

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また、モハンマドは改革かいかく一環いっかんとして、女性じょせい解放かいほうをかかげてヒジャブ着用ちゃくよう禁止きんしするなどイランの世俗せぞくすすめたが、これらの政策せいさくホメイニーイスラム法学ほうがくしゃ反発はんぱつまねいた。

たとえば1962ねん10月6にちに、地方ちほう選挙せんきょにおいて選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけんムスリムのみにかぎった条項じょうこう撤廃てっぱいし、バハイきょうなどにも市民しみんけんへのみちひらこうとしたときには、異教徒いきょうと、とりわけシーア保守ほしゅからは「邪教じゃきょう」「カーフィル」とされるバハイ教徒きょうとがムスリムと対等たいとうになることをきらったホメイニーらの抵抗ていこうにあい、ほう改正かいせい撤回てっかい余儀よぎなくされた[8]

そのホメイニーははん体制たいせいたいする影響えいきょうりょく警戒けいかいされて国外こくがい追放ついほうされ、イギリスのロンドンかおうとしたがイギリス政府せいふ拒否きょひされたため、最終さいしゅうてきにイランじん亡命ぼうめいしゃコミュニティのあったフランスパリ亡命ぼうめいしたが、そのもイラン国内こくないはん体制たいせい影響えいきょうあたつづけた。

国威こくい発揚はつよう

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1971ねん、イラン建国けんこくせんひゃくねん祭典さいてんのぞむモハンマド・レザー・シャー
1975ねん、エジプトのサダト大統領だいとうりょうとともに

モハンマドはさらにみずからの称号しょうごうを「アーリアじん栄光えいこう」を意味いみする「アーリヤー・メヘル」とさだめ、1971ねんには古代こだいアケメネスあさペルシア帝国ていこく遺跡いせきペルセポリスイラン建国けんこくせんひゃくねん祭典さいてん開催かいさいし、宗教しゅうきょうよりもイランじん民族みんぞく意識いしき鼓舞こぶする「イラン・ナショナリズム」をイランのあらたなイデオロギーにえることを目標もくひょうにした。この行事ぎょうじには多数たすう国賓こくひん出席しゅっせきし、エチオピア帝国ていこくハイレ・セラシエ皇帝こうていや、日本にっぽん皇族こうぞく古代こだいオリエント史学しがくしゃ三笠みかさみやたかしじん親王しんのうひとしといった世界せかい各国かっこく王族おうぞくだけでなく、西側にしがわ諸国しょこく東側ひがしがわ諸国しょこく同盟どうめい諸国しょこく首脳しゅのうなどもまねいた盛大せいだい式典しきてんだった。

同時どうじキュロス2せい紀元前きげんぜん539ねんしんバビロニアほろぼしたさいバビロンしゅうからユダヤじんなどのしょ民族みんぞく解放かいほうし、各々おのおの故郷こきょうもどしてかれらの神殿しんでん再建さいけんしたと記録きろくされているキュロスの円筒えんとう印章いんしょうキュロス・シリンダー)の複製ふくせい現物げんぶつだいえい博物館はくぶつかんくら)を、「世界せかいはつ人権じんけん宣言せんげん」として国際こくさい連合れんごう贈呈ぞうていした。

またモハンマドは、この行事ぎょうじ記念きねんして首都しゅとテヘランに「シャーの栄光えいこう」を意味いみするシャーヤード・タワーと、そのみなみにあるレイというまち先代せんだい皇帝こうていである父親ちちおやレザー・シャー霊廟れいびょう建設けんせつした。なお、シャーヤード・タワーは革命かくめいに「自由じゆう」のかんしたアーザーディー・タワーと名称めいしょうえられた。現在げんざいレザー・シャー霊廟れいびょう跡形あとかたもなく破壊はかいされ、跡地あとちイスラム教いすらむきょう神学校しんがっこうになっている。

同年どうねんより従来じゅうらいジャラーリーれきわって帝国ていこくれき採用さいようキュロス2せいがメディアをほろぼしてアケメネスあさこした紀元前きげんぜん550ねんをキュロス紀元きげんとした。しかし1979ねん革命かくめいのち、イスラム共和きょうわせい成立せいりつによりヒジュラ紀元きげんのジャラーリーれき改定かいていされた。

しかしこの一連いちれん事業じぎょうとうじられた費用ひようは2おくドル以上いじょうにもおよんだとされ、はん体制たいせいてきなイスラム法学ほうがくしゃをはじめとするしょ方面ほうめんから、国費こくひ浪費ろうひである、などの批判ひはんおおくなされた。ちなみにフランス在住ざいじゅうのイランじん漫画まんがマルジャン・サトラピは、著書ちょしょペルセポリス』でこの式典しきてんについて言及げんきゅうしている。

政権せいけん動揺どうよう

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1978ねん8がつ中国ちゅうごく華国鋒かこくほうとう主席しゅせき中央ちゅうおう)とともに[9]

冷戦れいせんしたにおいて欧米おうべい日本にっぽんなどの先進せんしんこくとの石油せきゆ外交がいこう基礎きそにしたふか経済けいざい関係かんけいもとすすめてきた近代きんだい政策せいさくは、1970年代ねんだい中盤ちゅうばんきたオイルショック急速きゅうそく原油げんゆ価格かかく安定あんていもあり、破綻はたんをきたしはじめた。それにともな国民こくみんあいだでの経済けいざい格差かくさ急速きゅうそく拡大かくだいし、弾圧だんあつてき政治せいじへの不満ふまんたかまりをせた[10]皇帝こうてい求心力きゅうしんりょくたもつため、1975ねんにはだい政党せいとうせい廃止はいししてラスターヒーズとう英語えいごばん復活ふっかつとう)によるいちとうせいおこない、バザール商人しょうにんはそのスケープゴートにされた[11][12][13]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうしたて独裁どくさいつよめるシャーにたいするはん体制たいせい運動うんどうは、ホメイニーをはじめとするイスラム主義しゅぎもののみならず、モジャーヘディーネ・ハルグイラン共産党きょうさんとう(トゥーデとう)などソ連それん支援しえんする左翼さよく参加さんかして激化げきか[14]国内こくないではデモストライキ頻発ひんぱつした。

モハンマドはテヘラン市内しない戒厳かいげんれいき、夜間やかん外出がいしゅつ禁止きんしれい発令はつれいするなどしてこれに対応たいおうしたものの、ホメイニーなどがこうからコントロールした事態じたい収拾しゅうしゅうがつかず、拡大かくだいするいちぽうであった。

このあいだ1978ねん8がつ皇帝こうてい訪問ほうもんした最後さいご外国がいこく首脳しゅのうである中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく華国鋒かこくほうとう主席しゅせき会談かいだんしたさいには同行どうこうしたはな外相がいしょうソ連それんへの対抗たいこうさく議論ぎろんしようとするも[15][16]、モハンマドは古代こだいペルシアの占星術せんせいじゅつはなししてみずからの政権せいけんつづくという確信かくしんてていないことをつたえた[17]

亡命ぼうめい

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1979ねん1がつ16にち休暇きゅうかのためにイランを一時いちじてきるとしょうして皇帝こうてい専用せんようボーイング727みずか操縦そうじゅうし、最初さいしょつま出身しゅっしんでもあるエジプト皇后こうごう側近そっきんとともに出国しゅっこくした。以前いぜんより複数ふくすう報道ほうどう機関きかん国王こくおう退位たいい憶測おくそく誤報ごほうながしており[18]、この出国しゅっこく本人ほんにん意思いしとはべつ実質じっしつてき亡命ぼうめいとして報道ほうどうされた[19][20]。モハンマドはそのモロッコバハマメキシコ転々てんてんとした。

ホメイニーは2がつ1にちエールフランス航空こうくうのチャーター帰国きこくたすと、ただちにイスラム革命かくめい評議ひょうぎかい組織そしきし、メフディー・バーザルガーン首相しゅしょう任命にんめいした。

その、モハンマドが任命にんめいしたシャープール・バフティヤール英語えいごばん首相しゅしょう指揮しき皇帝こうていへの忠誠ちゅうせいちかっていた帝室ていしつ親衛隊しんえいたいおよびイラン陸軍りくぐん空挺くうてい部隊ぶたい内務省ないむしょう治安ちあん部隊ぶたいが、ホメイニーへの支持しじ表明ひょうめいしたイラン陸軍りくぐん内部ないぶ不満ふまん分子ぶんし戦闘せんとう状態じょうたいになるものの、2がつ11にち制圧せいあつされた[注釈ちゅうしゃく 1]

バフティヤール首相しゅしょう帝室ていしつ親衛隊しんえいたい隊長たいちょうらは逮捕たいほされ、バフティヤール首相しゅしょう2がつ13にち正式せいしき辞任じにんした。その、イスラム革命かくめい評議ひょうぎかいがイスラム主義しゅぎ基礎きそいたイスラム共和きょうわせいをしいた。

死去しきょ

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モハンマド・レザー・シャーのはか

モハンマドはそのがん治療ちりょうのためという名目めいもく皇后こうごうらとアメリカにうつったが、アメリカがその入国にゅうこくみとめたことに反発はんぱつした学生がくせいらが1979ねん11月4にちにテヘランのアメリカ大使館あめりかたいしかん占拠せんきょしてモハンマドの身柄みがらわたしをもとめるという、イランアメリカ大使館たいしかん人質ひとじち事件じけんきた。

この事件じけんによりアメリカとイランの関係かんけい決定的けっていてき悪化あっかした。モハンマドはこの事件じけん発生はっせいけて12月5にちにアメリカをはなパナマかった。

その、モハンマドと「兄弟きょうだい[21]ぶほど親交しんこうのあったエジプトのサダト大統領だいとうりょうれられ、よく1980ねん7がつ27にちカイロ失意しついのうちに死去しきょした[22][23]。なお、イスラム革命かくめいのイランはエジプトと断交だんこうした[24]

ファラー・パフラヴィー英語えいごばん皇后こうごうは、サダト大統領だいとうりょう暗殺あんさつ英語えいごばん、アメリカのロナルド・レーガン大統領だいとうりょう庇護ひごけ、ふたた渡米とべい一家いっかはアメリカ東部とうぶきょさだめた。

人物じんぶつ

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モハンマド・レザー・シャーの肖像しょうぞうえがかれた1000リヤル紙幣しへい

家族かぞく

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  • 3番目ばんめつま(1959ねん - 1979ねん): ファラー・ディーバー英語えいごばん(1938ねん - )
    称号しょうごうは1967ねんまで「王妃おうひ」、以後いごは「皇后こうごう」。2009ねん3月30にちBSドキュメンタリー番組ばんぐみ放送ほうそうされたイランじん映画えいが監督かんとくナヒード・ペーションによるドキュメンタリー『わすれられし王妃おうひ~イラン革命かくめい30ねんふたりの女性じょせい人生じんせい空白くうはく~』のなかで、厳重げんじゅう警備けいびなかパリとう慈善じぜん活動かつどうおこないながら余生よせいおくっている姿すがたせた。
  • 長男ちょうなん: クロシュ・レザー・パフラヴィー(1960ねん - )
    ファラーとの息子むすこ名目めいもくじょうのイラン皇帝こうていとして、慈善じぜん活動かつどうのほか、つまとともにイランの民主みんしゅ運動うんどうかかわっている。

著書ちょしょ

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  • わたし間違まちがっていたのか : 歴史れきしへの証言しょうげん横山よこやま三四郎さんしろうわけ)、講談社こうだんしゃ、1980ねん6がつ10日とおか

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 正規せいきぐん大半たいはん政権せいけんがわにもホメイニーがわにも加担かたんせず、事態じたい静観せいかんしていた

出典しゅってん

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  1. ^ President Eisenhower: State Funeral in Washington D.C. (1969) British Pathé
  2. ^ Timeline of Turkish-Israeli Relations, 1949–2006”. Turkish Research Program. Washington Institute for Near East Policy (2006ねん). 2018ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ Turkey and Israel”. Smi.uib.no. 22 February 2011てんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  4. ^ Ammann, Daniel (2009). The King of Oil: The Secret Lives of Marc Rich. New York: St. Martin‘s Press. ISBN 0-312-57074-0.
  5. ^ Bialer, Uri. "Fuel Bridge across the Middle East—Israel, Iran, and the Eilat-Ashkelon Oil Pipeline." In: Israel Studies, Vol 12, No 3 (Fall 2007)
  6. ^ Joseph S. Bermudez, Jr., "Iran's Missile Development," The International Missile Bazaar: the New Supplier's Network (San Francisco: Westview Press, 1994), William C. Potter and Harlan W. Jencks, eds., p. 48.
  7. ^ Ronen Bergman, "5 billion Reasons to Talk to Iran," Haaretz (Tel Aviv), 19 March 1999; in "Israel's Outstanding Debt to Iran Viewed," FBIS Document FTS19990319001273, 19 March 1999.
  8. ^ 「イスラーム統治とうちろんだいジハードろん」ホメイニーちょ富田とみた建次けんじやくだい4しょうpp142
  9. ^ “华主席しゅせき抵德くろ兰进行正ゆきまさしき友好ゆうこう访问 ともえれつ维国おう举行盛大せいだい宴会えんかい热烈欢迎”. 人民日報じんみんにっぽう. (1978ねん8がつ30にち). pp. 1 
  10. ^ それは1979ねんからはじまった。アメリカとイラン、敵対てきたい歴史れきし紐解ひもと”. BUSINESS INSIDER JAPAN (2020ねん1がつ9にち). 2023ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  11. ^ Fred Halliday, Iran; Dictatorship and Development, Penguin, ISBN 0-14-022010-0
  12. ^ John H. Lorentz (2010). "Rastakhiz Party". The A to Z of Iran. The A to Z Guide Series. 209. Scarecrow Press. pp. 266–268. ISBN 1461731917.
  13. ^ Abrahamian, Ervand (1982). Iran Between Two Revolutions. Princeton University Press. pp. 442–446. ISBN 0-691-10134-5.
  14. ^ 「The Fall of a Shah」 BBC 2009ねん2がつ27にち ファラフ皇后こうごう証言しょうげん
  15. ^ ペルシャ専門せんもん外交がいこうかんたこと、いたこと、やろうとしたこと 2.語学ごがく研修けんしゅう
  16. ^ Wright, Robin (17 November 2004). "Iran's New Alliance With China Could Cost U.S. Leverage". The Washington Post.
  17. ^ “华国锋首访问ろうてきぜんいんきさきはて. 大公たいこうもう. (2015ねん3がつ23にち). http://news.takungpao.com/world/watch/2015-03/2952852.html 2019ねん6がつ4にち閲覧えつらん 
  18. ^ 独裁どくさいわり『朝日新聞あさひしんぶん』1979ねん昭和しょうわ54ねん)10がつ1にち朝刊ちょうかん 13はん 6めん
  19. ^ Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 16 janvier 1979 - INAフランス語ふらんすご
  20. ^ 20h Antenne 2 du 16 janvier 1979 - Le Shah d'Iran part en exil - YouTube - INA Actuフランス語ふらんすご
  21. ^ Cairo Pays Homage To Iran's Last Shah Radio Farda. 2 August 2017にち
  22. ^ Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 27 juillet 1980 - INAフランス語ふらんすご
  23. ^ 20h Antenne 2 du 27 juillet 1980 - Mort du Shah d'Iran - YouTube - INA Actuフランス語ふらんすご
  24. ^ Iran appoints ambassador to Egypt, first in 30 years Reuters. 19 April 2011

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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イラン王室おうしつ
先代せんだい
レザー・パフラヴィー
イラン皇帝こうてい
1941ねん - 1979ねん
次代じだい
イラン・イスラム共和きょうわこく成立せいりつ