モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー (ペルシア語 ご : محمدرضا شاه پهلوی , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Mohammad Rezā Shāh Pahlavi 、1919年 ねん 10月26日 にち - 1980年 ねん 7月 がつ 27日 にち )は、パフラヴィー朝 あさ イラン の第 だい 2代 だい にして最後 さいご の皇帝 こうてい (シャーハンシャー 、在位 ざいい :1941年 ねん 9月26日 にち - 1979年 ねん 2月 がつ 11日 にち )。パフラヴィー2世 せい とも呼 よ ばれる。亡命 ぼうめい 前後 ぜんこう の日本 にっぽん の報道 ほうどう ではパーレビ国王 こくおう と呼 よ ばれることが多 おお かった。
父 ちち である先代 せんだい の皇帝 こうてい レザー・シャー の退位 たいい により即位 そくい し、「白色 はくしょく 革命 かくめい 」を推進 すいしん してイランの近代 きんだい 化 か を進 すす めたが、イラン革命 かくめい により失脚 しっきゃく した。
1919年 ねん 、ガージャール朝 あさ の軍人 ぐんじん レザー・ハーンの長子 ちょうし として双子 ふたご の妹 いもうと アシュラフと共 とも にテヘラン に生 う まれた。1925年 ねん に父 ちち がレザー・シャーとして皇帝 こうてい に即位 そくい しパフラヴィー朝 あさ を開 ひら くと、皇太子 こうたいし となった。
その後 ご 、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の子弟 してい が通 かよ うスイス の私立 しりつ 寄宿 きしゅく 学校 がっこう 「ル・ロゼ 」へ留学 りゅうがく した。なお、同校 どうこう においてはその後 ご アメリカ のCIA 長官 ちょうかん となるリチャード・ヘルムズ ら同級生 どうきゅうせい からの信頼 しんらい も厚 あつ く、多 おお くの友人 ゆうじん を作 つく った。
1941年 ねん 、議会 ぎかい にて皇帝 こうてい 即位 そくい の宣誓 せんせい を行 おこな うモハンマド・レザー・シャー
1939年 ねん 9月1日 にち に勃発 ぼっぱつ した第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか には、アリーアン学説 がくせつ に影響 えいきょう を受 う け、イラン在住 ざいじゅう ドイツ人 じん の追放 ついほう や連合 れんごう 国 こく の鉄道 てつどう 使用 しよう を拒否 きょひ するなど、イランは急速 きゅうそく に枢軸 すうじく 国 こく のドイツ に傾斜 けいしゃ した。
このために連合 れんごう 国 こく のイギリス とソビエト連邦 れんぽう は、1941年 ねん 8月 がつ 25日 にち に鉄道 てつどう を含 ふく む補給 ほきゅう 路 ろ と、石油 せきゆ などの豊富 ほうふ な資源 しげん の確保 かくほ のためにイランへの侵攻 しんこう を行 おこな った。この侵攻 しんこう を受 う けてレザー・シャーは、連合 れんごう 国 こく の一 いち 国 こく でイランとの関係 かんけい も深 ふか かったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう に仲介 ちゅうかい を求 もと めたものの拒否 きょひ され、9月17日 にち にはイラン軍 ぐん は制圧 せいあつ された。その後 ご イランは両国 りょうこく による共同 きょうどう 進駐 しんちゅう を受 う け、両国 りょうこく の圧力 あつりょく を受 う けて退位 たいい した父 ちち に代 か わり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝 こうてい に即位 そくい した。
ファラー・ディーバーとモハンマド・レザー・シャー(1959年 ねん )
同年 どうねん にムハンマド・アリー朝 あさ エジプト の国王 こくおう フアード1世 せい の長女 ちょうじょ ファウズィーイェ・ビント・フォアード と結婚 けっこん したが、のちに不和 ふわ となり1948年 ねん に離婚 りこん した。
次 つ いで1951年 ねん にイラン南部 なんぶ のバフティヤーリー族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) (ロル族 ぞく の支族 しぞく )の貴族 きぞく の長女 ちょうじょ ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリー と再婚 さいこん したが、後 のち に彼女 かのじょ が不妊症 ふにんしょう であることが発覚 はっかく し、帝位 ていい 継承 けいしょう の安定 あんてい のため、1958年 ねん にやむなく離婚 りこん した。
そして1959年 ねん にイラン軍 ぐん 軍人 ぐんじん の一人娘 ひとりむすめ ファラー・ディーバー (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん した。
国内 こくない 視察 しさつ を行 おこな うモハンマド・レザー・シャー(1970年 ねん )
1971年 ねん 、訪米 ほうべい 時 じ のモハンマド・レザー・シャーとアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のリチャード・ニクソン 大統領 だいとうりょう 及 およ びパット・ニクソン 夫人 ふじん
皇帝 こうてい は、1951年 ねん より石油 せきゆ 国有 こくゆう 化 か を進 すす めるとともにソ連 それん に接近 せっきん したモハンマド・モサッデク 首相 しゅしょう と対立 たいりつ したが、1953年 ねん にCIA とMI6 の支援 しえん を受 う けた皇帝 こうてい 派 は のファズロラ・ザーヘディー (en:Fazlollah Zahedi )将軍 しょうぐん らによるクーデター (アジャックス作戦 さくせん )が起 お きてモサッデク首相 しゅしょう は失脚 しっきゃく し、権力 けんりょく を回復 かいふく した。
1960年代 ねんだい より、秘密 ひみつ 警察 けいさつ サヴァク(SAVAK) (英語 えいご 版 ばん ) を動 うご かして左右 さゆう の反 はん 体制 たいせい 運動 うんどう を取 と り締 し まるなど権威 けんい 主義 しゅぎ 体制 たいせい を敷 し く一方 いっぽう 、上 うえ からの改革 かいかく を図 はか って経済 けいざい 成長 せいちょう を目指 めざ すという、いわゆる開発 かいはつ 独裁 どくさい 体制 たいせい を確立 かくりつ した。
日本 にっぽん の飛躍 ひやく 的 てき な経済 けいざい 成長 せいちょう に注目 ちゅうもく して1963年 ねん からは石油 せきゆ の輸出 ゆしゅつ により獲得 かくとく した外国 がいこく 資本 しほん とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく による経済 けいざい 援助 えんじょ を元手 もとで に、米 べい ケネディ政権 せいけん の要求 ようきゅう に答 こた える形 かたち で白色 はくしょく 革命 かくめい に着手 ちゃくしゅ し、土地 とち の改革 かいかく 、国営 こくえい 企業 きぎょう の民営 みんえい 化 か 、労使 ろうし 間 あいだ の利益 りえき 分配 ぶんぱい 、婦人 ふじん 参政 さんせい 権 けん の確立 かくりつ 、教育 きょういく の振興 しんこう 、農村 のうそん の開発 かいはつ などの改革 かいかく を実行 じっこう してイランの近代 きんだい 化 か を進 すす めた一方 いっぽう 、親 おや 欧米 おうべい 路線 ろせん のもと引 ひ き続 つづ き欧米 おうべい 諸国 しょこく の外国 がいこく 資本 しほん の導入 どうにゅう に努 つと めた。また自 みずか らも、英語 えいご やフランス語 ふらんすご を駆使 くし して親 おや 欧米 おうべい 外交 がいこう を進 すす める[ 1] など、政策 せいさく の先頭 せんとう に立 た った。
また、イスラム圏 けん ではトルコ に次 つ いでイスラエル と国交 こっこう を樹立 じゅりつ した[ 2] [ 3] 。イスラエルには石油 せきゆ を供給 きょうきゅう し[ 4] [ 5] 、エリコ やガブリエル の射程 しゃてい を延伸 えんしん させた長距離 ちょうきょり ミサイル の共同 きょうどう 開発 かいはつ で軍事 ぐんじ 的 てき にも協力 きょうりょく 関係 かんけい にあった[ 6] [ 7] 。
このような政策 せいさく を支持 しじ した欧米 おうべい 諸国 しょこく 、とりわけアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は革命 かくめい 直前 ちょくぜん の1970年代 ねんだい に至 いた っても深 ふか い関係 かんけい を続 つづ け、1970年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん には、まだ他 た の同盟 どうめい 国 こく にも販売 はんばい したことのない最 さい 新鋭 しんえい のグラマン F-14 戦闘 せんとう 機 き とボーイング747 空中 くうちゅう 給油 きゅうゆ 機 き をイラン空軍 くうぐん に納入 のうにゅう したほか、同 おな じく最 さい 新鋭 しんえい のボーイング747-SP 旅客機 りょかくき をイラン航空 こうくう に販売 はんばい するなど、イランを事実 じじつ 上 じょう の最恵国 さいけいこく として扱 あつか った。
後 のち にイラン・イラク戦争 せんそう を起 お こすことになる隣国 りんごく イラク とは、アルジェリア で当時 とうじ のサッダーム・フセイン 副 ふく 大統領 だいとうりょう とアルジェ合意 ごうい を結 むす んでシャットゥルアラブ川 がわ およびフーゼスターン における国境 こっきょう 問題 もんだい の解決 かいけつ と敵対 てきたい 関係 かんけい の停止 ていし を合意 ごうい した。
1975年 ねん 、イラクのサッダーム・フセイン副 ふく 大統領 だいとうりょう とともに
また、モハンマドは改革 かいかく の一環 いっかん として、女性 じょせい 解放 かいほう をかかげてヒジャブ の着用 ちゃくよう を禁止 きんし するなどイランの世俗 せぞく 化 か を進 すす めたが、これらの政策 せいさく はホメイニー らイスラム法学 ほうがく 者 しゃ の反発 はんぱつ を招 まね いた。
例 たと えば1962年 ねん 10月6日 にち に、地方 ちほう 選挙 せんきょ において選挙 せんきょ 権 けん と被選挙権 ひせんきょけん をムスリム のみに限 かぎ った条項 じょうこう を撤廃 てっぱい し、バハイ教 きょう 徒 と などにも市民 しみん 権 けん への道 みち を開 ひら こうとした時 とき には、異教徒 いきょうと 、とりわけシーア派 は 保守 ほしゅ 派 は からは「邪教 じゃきょう 徒 と 」「カーフィル 」とされるバハイ教徒 きょうと がムスリムと対等 たいとう になることを嫌 きら ったホメイニーらの抵抗 ていこう にあい、法 ほう 改正 かいせい の撤回 てっかい を余儀 よぎ なくされた[ 8] 。
その後 ご ホメイニーは反 はん 体制 たいせい 派 は に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく を警戒 けいかい されて国外 こくがい 追放 ついほう され、イギリスのロンドン へ向 む かおうとしたがイギリス政府 せいふ に拒否 きょひ されたため、最終 さいしゅう 的 てき にイラン人 じん 亡命 ぼうめい 者 しゃ コミュニティのあったフランス のパリ へ亡命 ぼうめい したが、その後 ご もイラン国内 こくない の反 はん 体制 たいせい 派 は に影響 えいきょう を与 あた え続 つづ けた。
1971年 ねん 、イラン建国 けんこく 二 に 千 せん 五 ご 百 ひゃく 年 ねん 祭典 さいてん に臨 のぞ むモハンマド・レザー・シャー
1975年 ねん 、エジプトのサダト大統領 だいとうりょう とともに
モハンマドはさらに自 みずか らの称号 しょうごう を「アーリア人 じん の栄光 えいこう 」を意味 いみ する「アーリヤー・メヘル」と定 さだ め、1971年 ねん には古代 こだい のアケメネス朝 あさ ペルシア帝国 ていこく の遺跡 いせき ペルセポリス でイラン建国 けんこく 二 に 千 せん 五 ご 百 ひゃく 年 ねん 祭典 さいてん を開催 かいさい し、宗教 しゅうきょう よりもイラン人 じん の民族 みんぞく 意識 いしき を鼓舞 こぶ する「イラン・ナショナリズム 」をイランの新 あら たなイデオロギーに据 す えることを目標 もくひょう にした。この行事 ぎょうじ には多数 たすう の国賓 こくひん が出席 しゅっせき し、エチオピア帝国 ていこく のハイレ・セラシエ 皇帝 こうてい や、日本 にっぽん の皇族 こうぞく で古代 こだい オリエント史学 しがく 者 しゃ の三笠 みかさ 宮 みや 崇 たかし 仁 じん 親王 しんのう 等 ひとし といった世界 せかい 各国 かっこく の王族 おうぞく だけでなく、西側 にしがわ 諸国 しょこく ・東側 ひがしがわ 諸国 しょこく ・非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく の首脳 しゅのう なども招 まね いた盛大 せいだい な式典 しきてん だった。
同時 どうじ にキュロス2世 せい が紀元前 きげんぜん 539年 ねん に新 しん バビロニア を滅 ほろ ぼした際 さい 、バビロン捕 と 囚 しゅう からユダヤ人 じん などの諸 しょ 民族 みんぞく を解放 かいほう し、各々 おのおの の故郷 こきょう に戻 もど して彼 かれ らの神殿 しんでん を再建 さいけん したと記録 きろく されているキュロスの円筒 えんとう 印章 いんしょう (キュロス・シリンダー )の複製 ふくせい (現物 げんぶつ は大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん 蔵 くら )を、「世界 せかい 初 はつ の人権 じんけん 宣言 せんげん 」として国際 こくさい 連合 れんごう に贈呈 ぞうてい した。
またモハンマドは、この行事 ぎょうじ を記念 きねん して首都 しゅと テヘランに「シャーの栄光 えいこう 」を意味 いみ するシャーヤード・タワーと、その南 みなみ にあるレイ という町 まち に先代 せんだい の皇帝 こうてい である父親 ちちおや レザー・シャー の霊廟 れいびょう を建設 けんせつ した。なお、シャーヤード・タワーは革命 かくめい を期 き に「自由 じゆう 」の名 な を冠 かん したアーザーディー・タワーと名称 めいしょう を変 か えられた。現在 げんざい レザー・シャー霊廟 れいびょう は跡形 あとかた もなく破壊 はかい され、跡地 あとち はイスラム教 いすらむきょう の神学校 しんがっこう になっている。
同年 どうねん より従来 じゅうらい のジャラーリー暦 れき に代 か わって帝国 ていこく 暦 れき を採用 さいよう 、キュロス2世 せい がメディアを滅 ほろ ぼしてアケメネス朝 あさ を起 お こした紀元前 きげんぜん 550年 ねん をキュロス紀元 きげん とした。しかし1979年 ねん の革命 かくめい の後 のち 、イスラム共和 きょうわ 制 せい の成立 せいりつ によりヒジュラ紀元 きげん のジャラーリー暦 れき に改定 かいてい された。
しかしこの一連 いちれん の事業 じぎょう に投 とう じられた費用 ひよう は2億 おく ドル以上 いじょう にも及 およ んだとされ、反 はん 体制 たいせい 的 てき なイスラム法学 ほうがく 者 しゃ をはじめとする諸 しょ 方面 ほうめん から、国費 こくひ の浪費 ろうひ である、などの批判 ひはん が多 おお くなされた。ちなみにフランス在住 ざいじゅう のイラン人 じん 漫画 まんが 家 か マルジャン・サトラピ は、著書 ちょしょ 『ペルセポリス 』でこの式典 しきてん について言及 げんきゅう している。
1978年 ねん 8月 がつ 、中国 ちゅうごく の華国鋒 かこくほう 党 とう 主席 しゅせき (中央 ちゅうおう )とともに[ 9]
冷戦 れいせん 下 した において欧米 おうべい や日本 にっぽん などの先進 せんしん 国 こく との石油 せきゆ 外交 がいこう を基礎 きそ にした深 ふか い経済 けいざい 関係 かんけい を元 もと に進 すす めてきた近代 きんだい 化 か 政策 せいさく は、1970年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん に起 お きたオイルショック 後 ご の急速 きゅうそく な原油 げんゆ 価格 かかく の安定 あんてい 化 か もあり、破綻 はたん をきたし始 はじ めた。それに伴 ともな い国民 こくみん の間 あいだ での経済 けいざい 格差 かくさ が急速 きゅうそく に拡大 かくだい し、弾圧 だんあつ 的 てき な政治 せいじ への不満 ふまん も高 たか まりを見 み せた[ 10] 。皇帝 こうてい の求心力 きゅうしんりょく を保 たも つため、1975年 ねん には二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい を廃止 はいし してラスターヒーズ党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (復活 ふっかつ 党 とう )による一 いち 党 とう 制 せい を行 おこな い、バザール商人 しょうにん はそのスケープゴート にされた[ 11] [ 12] [ 13] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を後 うし ろ盾 たて に独裁 どくさい を強 つよ めるシャーに対 たい する反 はん 体制 たいせい 運動 うんどう は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義 しゅぎ 者 もの のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグ やイラン共産党 きょうさんとう (トゥーデ党 とう )などソ連 それん が支援 しえん する左翼 さよく も参加 さんか して激化 げきか し[ 14] 、国内 こくない ではデモ やストライキ が頻発 ひんぱつ した。
モハンマドはテヘラン市内 しない に戒厳 かいげん 令 れい を敷 し き、夜間 やかん 外出 がいしゅつ 禁止 きんし 令 れい を発令 はつれい するなどしてこれに対応 たいおう したものの、ホメイニーなどが後 こう からコントロールした事態 じたい は収拾 しゅうしゅう がつかず、拡大 かくだい する一 いち 方 ぽう であった。
この間 あいだ 、1978年 ねん 8月 がつ に皇帝 こうてい を訪問 ほうもん した最後 さいご の外国 がいこく 首脳 しゅのう である中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の華国鋒 かこくほう 党 とう 主席 しゅせき と会談 かいだん した際 さい には同行 どうこう した黄 き 華 はな 外相 がいしょう がソ連 それん への対抗 たいこう 策 さく を議論 ぎろん しようとするも[ 15] [ 16] 、モハンマドは古代 こだい ペルシアの占星術 せんせいじゅつ 師 し の話 はなし を持 も ち出 だ して自 みずか らの政権 せいけん が続 つづ くという確信 かくしん が持 も てていないことを伝 つた えた[ 17] 。
1979年 ねん 1月 がつ 16日 にち に休暇 きゅうか のためにイランを一時 いちじ 的 てき に去 さ ると称 しょう して皇帝 こうてい 専用 せんよう 機 き のボーイング727 を自 みずか ら操縦 そうじゅう し、最初 さいしょ の妻 つま の出身 しゅっしん 地 ち でもあるエジプト に皇后 こうごう や側近 そっきん とともに出国 しゅっこく した。以前 いぜん より複数 ふくすう の報道 ほうどう 機関 きかん が国王 こくおう 退位 たいい の憶測 おくそく や誤報 ごほう を流 なが しており[ 18] 、この出国 しゅっこく は本人 ほんにん の意思 いし とは別 べつ に実質 じっしつ 的 てき な亡命 ぼうめい として報道 ほうどう された[ 19] [ 20] 。モハンマドはその後 ご 、モロッコ 、バハマ 、メキシコ を転々 てんてん とした。
ホメイニーは2月 がつ 1日 にち にエールフランス航空 こうくう のチャーター機 き で帰国 きこく を果 は たすと、直 ただ ちにイスラム革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい を組織 そしき し、メフディー・バーザルガーン を首相 しゅしょう に任命 にんめい した。
その後 ご 、モハンマドが任命 にんめい したシャープール・バフティヤール (英語 えいご 版 ばん ) 首相 しゅしょう の指揮 しき 下 か で皇帝 こうてい への忠誠 ちゅうせい を誓 ちか っていた帝室 ていしつ 親衛隊 しんえいたい およびイラン陸軍 りくぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい と内務省 ないむしょう の治安 ちあん 部隊 ぶたい が、ホメイニーへの支持 しじ を表明 ひょうめい したイラン陸軍 りくぐん 内部 ないぶ の不満 ふまん 分子 ぶんし と戦闘 せんとう 状態 じょうたい になるものの、2月 がつ 11日 にち に制圧 せいあつ された[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
バフティヤール首相 しゅしょう や帝室 ていしつ 親衛隊 しんえいたい 隊長 たいちょう らは逮捕 たいほ され、バフティヤール首相 しゅしょう は2月 がつ 13日 にち に正式 せいしき に辞任 じにん した。その後 ご 、イスラム革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい がイスラム主義 しゅぎ を基礎 きそ に置 お いたイスラム共和 きょうわ 制 せい をしいた。
モハンマド・レザー・シャーの墓 はか
モハンマドはその後 ご 癌 がん 治療 ちりょう のためという名目 めいもく で皇后 こうごう らとアメリカに移 うつ ったが、アメリカがその入国 にゅうこく を認 みと めたことに反発 はんぱつ した学生 がくせい らが1979年 ねん 11月4日 にち にテヘランのアメリカ大使館 あめりかたいしかん を占拠 せんきょ してモハンマドの身柄 みがら 引 ひ き渡 わた しを求 もと めるという、イランアメリカ大使館 たいしかん 人質 ひとじち 事件 じけん が起 お きた。
この事件 じけん によりアメリカとイランの関係 かんけい は決定的 けっていてき に悪化 あっか した。モハンマドはこの事件 じけん の発生 はっせい を受 う けて12月5日 にち にアメリカを離 はな れパナマ へ向 む かった。
その後 ご 、モハンマドと「兄弟 きょうだい 」[ 21] と呼 よ ぶほど親交 しんこう のあったエジプトのサダト 大統領 だいとうりょう に受 う け入 い れられ、翌 よく 1980年 ねん 7月 がつ 27日 にち にカイロ で失意 しつい のうちに死去 しきょ した[ 22] [ 23] 。なお、イスラム革命 かくめい 後 ご のイランはエジプトと断交 だんこう した[ 24] 。
ファラー・パフラヴィー (英語 えいご 版 ばん ) 皇后 こうごう は、サダト大統領 だいとうりょう の暗殺 あんさつ (英語 えいご 版 ばん ) 後 ご 、アメリカのロナルド・レーガン 大統領 だいとうりょう の庇護 ひご を受 う け、再 ふたた び渡米 とべい 。一家 いっか はアメリカ東部 とうぶ に居 きょ を定 さだ めた。
モハンマド・レザー・シャーの肖像 しょうぞう が描 えが かれた1000リヤル 紙幣 しへい
3番目 ばんめ の妻 つま (1959年 ねん - 1979年 ねん ): ファラー・ディーバー (英語 えいご 版 ばん ) (1938年 ねん - )
称号 しょうごう は1967年 ねん まで「王妃 おうひ 」、以後 いご は「皇后 こうごう 」。2009年 ねん 3月30日 にち BSドキュメンタリー番組 ばんぐみ で放送 ほうそう されたイラン人 じん 映画 えいが 監督 かんとく ナヒード・ペーションによるドキュメンタリー『忘 わす れられし王妃 おうひ ~イラン革命 かくめい 30年 ねん ふたりの女性 じょせい の人生 じんせい の空白 くうはく ~』の中 なか で、厳重 げんじゅう な警備 けいび の中 なか 、パリ 等 とう で慈善 じぜん 活動 かつどう を行 おこな いながら余生 よせい を送 おく っている姿 すがた を見 み せた。
長男 ちょうなん : クロシュ・レザー・パフラヴィー (1960年 ねん - )
ファラーとの息子 むすこ 。名目 めいもく 上 じょう のイラン皇帝 こうてい として、慈善 じぜん 活動 かつどう のほか、妻 つま とともにイランの民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう に関 かか わっている。
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