ウィニー・マンデラのコサ語の名前は、『ノムザモ』(Nomzamo)で、「試練」という意味である。1936年9月26日にエボングゥエニに生まれる。トランスカイやヨハネスブルグで職を得る。ウィニーは、学校に通いながら、ソーシャルワーカーの資格を得ている。1957年に、後に大統領になるネルソン・マンデラと知り合い、1958年に結婚する。なお、マンデラには、1944年に結婚していた妻のエブリン(Evelyn)がいたが、1957年に離婚している。そのころより、ウィニーは、南アフリカ政府と対決し、逮捕・拘禁もいくばくか経験する活動家としての生涯に踏み出すこととなる。1959年には、娘のゼザニ(Zezani)が生まれ、1960年には、娘のジンジ(Zindzi)が生まれている。後に、ウィットウォーターズランド大学(University of Witwatersrand)で国際関係論の学士号を取得した。
1960年3月21日に起きたシャープビル虐殺事件に対する抗議活動を抑えるため、3月30日に南アフリカ政府は非常事態宣言を行い、今まで非暴力路線を貫いていたアフリカ民族会議(ANC)を非合法化する。1961年より、夫のネルソン・マンデラが、アフリカ民族会議の軍事組織『ウムコント・ウェ・シズウェ』で非合法活動に専念する。1962年8月5日、ネルソン・マンデラは逮捕されるが、裁判の支援活動で、妻のウィニーは多忙となる。1964年6月12日、夫に終身刑の判決が確定する。夫への面会活動を続ける。その後、1969年初めから18ヶ月、ウィニー自身がプレトリア中央刑務所で反テロリズム法(The notorious Terrorism Act)に基づき、共産主義禁止法(the Suppression of Communism Act)違反の容疑で拘禁される。釈放後も、夫の面会活動は続けられ、「ネルソン・マンデラの妻」として、世界中のマスコミから注目を集めることとなる。1978年、ソウェト蜂起を扇動した容疑で逮捕されるが、無罪を勝ちとる。1985年4月13日のスピーチにおいての、黒人の裏切り者に対して焼き殺すという行為を当然視するようなウィニーの発言内容に対して、批判の声も上がる。1988年12月29日、ウィニーが主宰していたサッカークラブ『マンデラ・フットボールクラブ』のメンバーが、ソウェトの14歳の少年ジェイムズ・セイペイ(James Seipei)を誘拐し殺害するという事件が起き、ウィニーの関与が取りざたされた。後に、1991年6月、裁判所は関与を認め、ウィニーに懲役6年の判決を下すが、執行停止となる。