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靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい

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靖国神社やすくにじんじゃ > 靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい
靖国神社やすくにじんじゃ

靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい(やすくにじんじゃもんだい)は、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくとの関連かんれんや、戦争せんそう責任せきにんなどの歴史れきし認識にんしき周辺しゅうへんこくとの外交がいこう関係かんけい配慮はいりょなどを理由りゆうとした、靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいをめぐるしょ問題もんだいす。「靖国やすくに問題もんだい」と略称りゃくしょうされることがおお[1][2][3][4][5][6][7][8]

概要がいよう

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靖国神社やすくにじんじゃ前身ぜんしんである東京とうきょう招魂しょうこんしゃは、大村おおむら益次郎えきじろう発案はつあんのもと明治天皇めいじてんのういのちにより、戊辰戦争ぼしんせんそう戦死せんししゃまつるために1869ねん明治めいじ2ねん)に創建そうけんされた。のちに、1853ねんよしみひさし6ねん)のアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくひがしインド艦隊かんたい司令しれいかんペリー来航らいこう以降いこうの、国内こくない戦乱せんらんじゅんじた人達ひとたちわせまつるようになる。1877ねん明治めいじ10ねん)の西南せいなん戦争せんそうこうは、日本にっぽん守護しゅごするためにくなった戦没せんぼつしゃ慰霊いれい追悼ついとう顕彰けんしょうするための、施設しせつおよびシンボルとなっている。もとは幕末ばくまつ騒乱そうらんにより死亡しぼうした志士しし御霊みたま招魂しょうこん祭礼さいれいする一回いっかいせい儀式ぎしき招魂しょうこんさい)として京都きょうと実施じっしされたものがじょうせいされ、東京とうきょう招魂しょうこんしゃ設置せっちとなった経緯けいいがあり、一方いっぽう招魂しょうこん儀式ぎしきそのものの神道しんとうじょう教義きょうぎ問題もんだい[注釈ちゅうしゃく 1]や、どの御霊みたま招魂しょうこん合祀ごうしするかといった論点ろんてん当初とうしょからあり、靖国神社やすくにじんじゃへの再編さいへん改名かいめいさいには祭礼さいれい靖国神社やすくにじんじゃおよび陸海りくかいぐんしょう実施じっしするものとされ、天皇てんのうれい大祭たいさい勅使ちょくし参向さんこうさせることがじょうせいめられた。 「くにじゅんじた先人せんじんに、国民こくみん代表だいひょうしゃ感謝かんしゃし、平和へいわちかうのは当然とうぜんのこと」という意見いけんがある一方いっぽう政教せいきょう分離ぶんりや、だい世界せかい大戦たいせんにおける日本にっぽん戦争せんそう行為こういについて「侵略しんりゃくだったか自衛じえいだったか」といった歴史れきし認識にんしき、またどう戦争せんそうにおいて日本にっぽん行為こういによって損害そんがいこうむった近隣きんりん諸国しょこくへの配慮はいりょとうといった観点かんてんから、政治せいじ参拝さんぱい問題もんだいする意見いけんがある。だい世界せかい大戦たいせんにおける日本にっぽん終戦しゅうせんである8がつ15にち参拝さんぱい戦争せんそう戦没せんぼつしゃ顕彰けんしょうする意味合いみあいがあるとされ、とく日本にっぽん国内こくない左派さはちゅうかんこくにおいて議論ぎろんおおきくなる。小野田おのだひろしろうは、日本にっぽんへい戦友せんゆうわかれるさい、「靖国やすくにおう」とちかったことから、靖国神社やすくにじんじゃ日本にっぽんへいしんどころとしてのシンボルのひとつであった、としている[9]

1975ねん日本にっぽん国内こくないメディアから政教せいきょう分離ぶんりという内政ないせい理由りゆう批判ひはんからはじまり、1985ねん中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょうによる公的こうてき参拝さんぱい発言はつげんによる日本にっぽん国内こくない自民党じみんとう社会党しゃかいとう政争せいそうとなり、1985ねん以降いこうから戦争せんそう被害ひがいけた中国ちゅうごくや、日本にっぽんによる支配しはい韓国かんこく併合へいごう)をけた韓国かんこくは、「靖国神社やすくにじんじゃAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしされているから」と主張しゅちょうしているが、ちゅう韓国かんこくみん調査ちょうさからそもそも戦前せんぜん日本にっぽん軍人ぐんじん慰霊いれいすることに反発はんぱつしているから、1985ねん朝日新聞あさひしんぶんによる靖国やすくに批判ひはん報道ほうどう靖国神社やすくにじんじゃ自体じたいったから反発はんぱつしだしただけであることが指摘してきされている。以降いこうちゅうかん政府せいふ日本にっぽん政治せいじによる参拝さんぱいおこなわれるたび批判ひはん反発はんぱつしている(しょ外国がいこく反応はんのう詳細しょうさいについては後述こうじゅつ#日本にっぽん国外こくがい見解けんかい参照さんしょう[10]実際じっさいに、1979ねん4がつにAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしおおやけになってから1985ねん7がつまでの6ねん4がつあいだ大平おおひら正芳まさよし鈴木すずき善幸ぜんこう中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょう在任ざいにんちゅうけい21かい参拝さんぱいをしているが、1985ねん8がつ中曽根なかそね参拝さんぱいするまでは、非難ひなんはされていなかった。1985ねん参拝さんぱいたいしては、それに先立さきだ同年どうねん8がつ7にち朝日新聞あさひしんぶんが『靖国やすくに問題もんだい』を報道ほうどうすると、いち週間しゅうかんの8がつ14にち中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ史上しじょうはじめて公式こうしき靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいへの非難ひなん表明ひょうめいした[11]一方いっぽうで、1979ねんのAきゅう戦犯せんぱん以降いこう戦没せんぼつしゃ慰霊いれい追悼ついとう顕彰けんしょうするため、外国がいこく要人ようじんおとずれている[12]

なお、戦没せんぼつしゃ慰霊いれい追悼ついとう顕彰けんしょうするための施設しせつおよびシンボルとする解釈かいしゃく現在げんざいだけでなく戦前せんぜんからも一般いっぱんてきだが、神社じんじゃがわとしては「国家こっかのためにとうといのちささげられた人々ひとびと御霊みたまなぐさめ、その事績じせきなが後世こうせいつたえる」場所ばしょ[13]、および「日本にっぽん独立どくりつちか場所ばしょ」との認識にんしきただしいとのことである[14]

争点そうてん

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具体ぐたいてき論点ろんてんとしては以下いかの6つにまとめられる。

  1. 信教しんきょう自由じゆうかんする問題もんだい
    戦後せんご日本国にっぽんこく憲法けんぽうにおいては、だい20じょうだい1こうにおいて「信教しんきょう自由じゆうは、何人なんにんたいしてもこれを保障ほしょうする。」とさだめられている。参拝さんぱいのぞむなら、たとえ大臣だいじん官僚かんりょうであっても国家こっか権力けんりょくによって靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱい禁止きんし制限せいげんすることができないこと、また合祀ごうしあるいは参拝さんぱいのぞまないひと国家こっか[15]によって靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうしあるいは参拝さんぱい強制きょうせいされないこと、両方りょうほう側面そくめんふくむ。
  2. 政教せいきょう分離ぶんりかんする問題もんだい
    靖国神社やすくにじんじゃ国家こっかによる公的こうてき慰霊いれい施設しせつとして位置いちづけようとする運動うんどうがあり、およびそれに付随ふずいして玉串たまぐし奉納ほうのうとう祭祀さいしかんする寄付きふ奉納ほうのう政府せいふ地方自治体ちほうじちたい公的こうてき支出ししゅつによっておこなうことなどにかんし、日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい20じょうさだめる政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく抵触ていしょくしないかとする問題もんだい
    これを問題もんだいとする人々ひとびとは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん国会こっかい議員ぎいん都道府県とどうふけん知事ちじなど公職こうしょくにあるもの公的こうてき靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいすることが、だい20じょうだい1こうにおいて禁止きんしされている宗教しゅうきょう団体だんたいたいする国家こっかによる特別とくべつ特権とっけんであると主張しゅちょうしている。
  3. 歴史れきし認識にんしきかんする問題もんだい
    靖国神社やすくにじんじゃは、戦死せんししゃ英霊えいれいとしてあがめ、戦争せんそう自体じたい肯定こうていてきにとらえているのだから、そのような神社じんじゃに、とく公的こうてき立場たちばにある人物じんぶつ参拝さんぱいすることはつまり、同社どうしゃだい世界せかい大戦たいせんたいする歴史れきしかん公的こうてき追認ついにんすることになる、として問題もんだいする意見いけん存在そんざいする。そういった立場たちばからは、日本にっぽん閣僚かくりょうどう戦争せんそうにおける対戦たいせんこく配慮はいりょ靖国神社やすくにじんじゃたいする参拝さんぱい禁止きんし制限せいげんあるいは自粛じしゅくすべきとする主張しゅちょうがある。
    日本人にっぽんじんどう戦争せんそうにおける戦争せんそう責任せきにんをどのように認識にんしきし、敗戦はいせん以前いぜん日本にっぽん軍事ぐんじてき行動こうどうたいしていかなる歴史れきし認識にんしきつことが適切てきせつであるか、という論点ろんてん中心ちゅうしん展開てんかいされ、とく極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん戦争せんそう犯罪はんざいじんとしてさばかれた人々ひとびと合祀ごうし適切てきせつかの議論ぎろんがある。
    対外たいがいてきには、だい世界せかい大戦たいせんにおける交戦こうせん相手あいてこくである中国ちゅうごく中華民国ちゅうかみんこく)、まただい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんよりすうじゅうねんまえ日本にっぽん併合へいごうされていた朝鮮半島ちょうせんはんとう諸国しょこく国民こくみん不快ふかいかんあたえ、外交がいこうてき摩擦まさつむこともある靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱい適切てきせつかどうか、という論点ろんてん中心ちゅうしん展開てんかいされる。なおこのなかかんおよ北朝鮮きたちょうせん以外いがいくにからは、首相しゅしょう閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいたいして公式こうしき批判ひはんけることはない。
    また、ゆう就館には歴史れきし年表ねんぴょう掲示けいじされているが、日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていかんする記述きじゅつ(1946ねん11月3にち公布こうふよく1947ねん5がつ3にち施行しこう)がなく、一方いっぽうで“ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく拒否きょひ”が明記めいきされている。
  4. 戦死せんししゃ戦没せんぼつしゃ慰霊いれい問題もんだい
    とくじゅうねん戦争せんそうにおける日本にっぽんぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく戦死せんししゃ戦病死せんびょうししゃ戦傷せんしょう死者ししゃふくむ)を、国家こっかとしてどのように慰霊いれいするのが適切てきせつであるか、という問題もんだい戦後せんご靖国神社やすくにじんじゃ国家こっかによる慰霊いれい施設しせつから宗教しゅうきょう団体だんたいとして分離ぶんりされたために日本にっぽんには戦死せんし軍人ぐんじんたいする公的こうてき慰霊いれい施設しせつ存在そんざいしないが、靖国神社やすくにじんじゃ戦前せんぜんちかいかたちで国家こっか管理かんりして位置いちづける、あるいは慰霊いれいのためのあらたな施設しせつ整備せいびするという意見いけんがある。遺族いぞく同意どういないまま同社どうしゃ合祀ごうしされることがあることにも異議いぎている。
  5. Aきゅう戦犯せんぱんたいする評価ひょうか使つか
    Aきゅう戦犯せんぱんとして靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされるか合祀ごうしされないか差異さいは、死刑しけい執行しっこう服役ふくえきちゅう死亡しぼう勾留こうりゅうちゅう死亡しぼうにより、遺体いたいとして刑事けいじ施設しせつから社会しゃかいもどったか、恩赦おんしゃによるけい執行しっこう終了しゅうりょう裁判さいばん中止ちゅうし起訴きそ処分しょぶんにより、きて社会しゃかいもどったかの差異さいだけである。起訴きそされ(28めい有罪ゆうざい宣告せんこくされた25めいのうちきて社会しゃかいもどったAきゅう戦犯せんぱんから重光しげみつまもる衆議院しゅうぎいん議員ぎいんに3かい選出せんしゅつされ鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかくで4かい外務がいむ大臣だいじんまでつとめており、また戦犯せんぱん指名しめいされたものの起訴きそとなったもののなかからは衆議院しゅうぎいん議員ぎいんに5にん選出せんしゅつされ、国務大臣こくむだいじんに5にん任命にんめいされ、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん1人ひとり選出せんしゅつされている[よう検証けんしょう]。このなかには在職ざいしょく中等ちゅうとう貢献こうけんにより国家こっかより受勲じゅくんされたものが多数たすういる。これにたいしてけい執行しっこう拘置こうちちゅう病死びょうしなどにより死亡しぼうし、刑事けいじ施設しせつから遺体いたいとして社会しゃかいもどされたものたいしては日本にっぽん政府せいふ日本にっぽん国民こくみん永久えいきゅう糾弾きゅうだんつづけるべき対象たいしょうしゃ評価ひょうかするべきであるのかどうか、評価ひょうか使つかけの基準きじゅんまった説明せつめいされていない。また、この判決はんけつについて、東條とうじょうをはじめ南京なんきん事件じけんおさえることができなかったとして訴因そいん55で有罪ゆうざい死刑しけいとなった広田ひろた松井まついりょう被告ひこくふくめ、東京とうきょう裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくされた7被告ひこく全員ぜんいんBCきゅう戦争せんそう犯罪はんざいでも有罪ゆうざいとなっていたのが特徴とくちょうであって、これは「平和へいわたいするつみ」が事後じごほうであって罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎ原則げんそく逸脱いつだつするのではないかとする批判ひはん配慮はいりょするものであるとともに、BCきゅう戦争せんそう犯罪はんざい重視じゅうしした結果けっかであるとの指摘してきがある[16]
  6. 宗教しゅうきょうてき合理ごうりせい神道しんとう軌にかんする問題もんだい
    波田なみたひさしじつによると、古代こだい存在そんざいしたであろう神道しんとうによる葬祭そうさい儀礼ぎれい神葬しんそう)は仏教ぶっきょう伝来でんらい以降いこう衰退すいたい近世きんせい初頭しょとうにおいては葬祭そうさい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう独占どくせんする状態じょうたいであったが、近世きんせいにおいて神葬しんそうおこしたのは卜部うらべ吉田よしだであり、これは従来じゅうらい御霊みたま信仰しんこう(「たたり」をしずめるための祭祀さいし)とはことなり「人間にんげんかみとしてまつる」祖先そせん崇拝すうはいであった。吉田よしだ神道しんとうからは豊国とよくに大明神だいみょうじんあずまあきらだい権現ごんげん祭祀さいしされるようになった(ひとしん祭祀さいし)が江戸えど末期まっきまでは例外れいがいてきであり、とりわけ幕末ばくまつおこなわれるようになった招魂しょうこん祭祀さいし江戸えど儒教じゅきょうてき教義きょうぎまえたかみ一致いっちすなわち神葬しんそうさいと儒葬を折衷せっちゅうしたものであり、その普及ふきゅう明治めいじしん政府せいふへの影響えいきょう津和野つわの学派がくはぶく美静よししず大国おおくに隆正たかまさら)の影響えいきょうおおきい。招魂しょうこん祭祀さいし近世きんせい後期こうき幕府ばくふたいする朝廷ちょうてい権威けんい快復かいふくしたで「創始そうし」されたものであり幕末ばくまつ維新いしん騒乱そうらん異郷いきょう客死かくししたもの慰霊いれい追悼ついとう顕彰けんしょうするべき必然ひつぜんせいからされたものである、とする[17]
神社じんじゃ神道しんとう遷霊従来じゅうらい確定かくていさせる儀礼ぎれいとするせつもある)では、ぬししゃくかがみぬさくし[18]もちいられ、基本きほんてきには1はしらごとにおくりなおくってれいとすることが各派かくはほぼ共通きょうつう軌となっている[19]。これにたいして、戊辰戦争ぼしんせんそう戦没せんぼつしゃまつるにさいしてはれい璽簿をもちい、おくりなおくらずに生前せいぜん名前なまえをもってれい璽としたため、靖国神社やすくにじんじゃ当初とうしょ招魂しょうこんしゃとして創建そうけんされた。しかし、招魂しょうこんしゃ招魂しょうこんじょうくだ霊場れいじょう)であるために、のちに「在天ざいてん神霊しんれい一時いちじ招祭するのみなるやこえて万世不易神霊厳在のしゃごうとしては妥当だとうしっする」[20]という政府せいふがわ要請ようせい神社じんじゃかくをとるにいたった。しかし、この要請ようせい理由りゆう宗教しゅうきょうてき合理ごうりせい転倒てんとうさせためんがあることはいなめない。また、明治維新めいじいしん創建そうけんされたほか神社じんじゃ生前せいぜん名前なまえ祭神さいじん諡号しごうとしたため、神社じんじゃ神道しんとう信仰しんこうする一般いっぱん家庭かていでもそれにならうケースがはじめた。この状況じょうきょう危機ききかんつのらせていた神社じんじゃ神道しんとう関係かんけいしゃ言論げんろん統制とうせいけただい2世界せかい大戦たいせんのちに、そうした祭祀さいし方式ほうしき神社じんじゃ神道しんとう共通きょうつう基本きほんてき軌にはんするものであり、元々もともと合理ごうりせいけるものであるとする主張しゅちょうおこなったが、争点そうてんされて『神葬しんそうさい 総合そうごうだい事典じてん』でもはんかさねるごとにトーン・ダウンしていった[注釈ちゅうしゃく 2]。いずれにしても、この争点そうてんは、朝日新聞あさひしんぶんだけではなく保守ほしゅけい讀賣新聞よみうりしんぶんなどをもふくんだマスコミと、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい政治せいじとのあいだきた情念じょうねんてきともえるあらそいのために、一般いっぱんてきにはほとんどられていない。

政教せいきょう分離ぶんり

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靖国神社やすくにじんじゃ大日本帝国だいにっぽんていこく時代じだい陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう共管きょうかんし、戦争せんそう遂行すいこう精神せいしんてき支柱しちゅうひとつであった国家こっか神道しんとうさい重要じゅうよう拠点きょてんであったため、終戦しゅうせんただちに廃絶はいぜつ議論ぎろんきた。このことについては日本にっぽんやぶ占領せんりょうした連合れんごうこくにおいてもかねてから施設しせつ自体じたい棄却ききゃく視野しやれられていたが、GHQ早急そうきゅう結論けつろんくださず、まず1945ねん昭和しょうわ20ねん12月15にち神道しんとう指令しれいはっして国家こっか神道しんとう廃止はいしするととも靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか護持ごじきんじ、神社じんじゃ国家こっかあいだ政教せいきょう分離ぶんりはかった。また、よく1946ねん昭和しょうわ21ねん)に制定せいていされた宗教しゅうきょう法人ほうじんほうもとづき、靖国神社やすくにじんじゃ同年どうねん9がつ宗教しゅうきょう法人ほうじんとなったことでみずか国家こっか護持ごじ体制たいせいからの離脱りだつ明確めいかくにした。靖国神社やすくにじんじゃ国家こっかてき宗教しゅうきょう施設しせつへの変化へんかけて、GHQは1951ねん8がつ28にち指令しれい靖国神社やすくにじんじゃ存続そんぞくみとめた[21]

1947ねん昭和しょうわ22ねん)に施行しこうされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい20じょうにおいて下記かきのように信教しんきょう自由じゆう保障ほしょうし、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくかかげている。

  • 信教しんきょう自由じゆうは、何人なんにんたいしてもこれを保障ほしょうする。いかなる宗教しゅうきょう団体だんたいも、くにから特権とっけんけ、また政治せいじじょう権力けんりょく行使こうししてはならない。
  • 何人なんにんも、宗教しゅうきょうじょう行為こうい祝典しゅくてん儀式ぎしきまた行事ぎょうじ参加さんかすることを強制きょうせいされない。
  • くにおよびその機関きかんは、宗教しゅうきょう教育きょういくそのいかなる宗教しゅうきょうてき活動かつどうもしてはならない。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)のサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつよく1952ねん昭和しょうわ27ねん)の発効はっこうによって連合れんごうこく占領せんりょうわって日本にっぽん主権しゅけん回復かいふくし、連合れんごうこく占領せんりょう期間きかんちゅう実質じっしつてき封印ふういんされた状態じょうたいとなっていた靖国神社やすくにじんじゃかんする議論ぎろん憲法けんぽう合憲ごうけん違憲いけんめぐ問題もんだいへと移行いこうし、おも上記じょうきだい20じょうだい1こうおよびだい3こうもとづいた問題もんだいてん賛否さんぴ両面りょうめんから指摘してきされていくこととなる。なお、占領せんりょう1949ねん昭和しょうわ24ねん)にされた国公立こっこうりつ小中学校しょうちゅうがっこう靖国神社やすくにじんじゃ訪問ほうもんなどをきんじた文部もんぶ事務次官じむじかん通達つうたつについて、2008ねん平成へいせい20ねん3月27にち参議院さんぎいん文教ぶんきょう科学かがく委員いいんかい渡海とかいきの三朗さぶろう文部もんぶ科学かがくしょうどう通達つうたつが「すで失効しっこうしている」と明言めいげんした[22]

靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん

靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか護持ごじによる慰霊いれい施設しせつとしようとする靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん1969ねん昭和しょうわ44ねん)に議員ぎいん立法りっぽうあんとして自由民主党じゆうみんしゅとうから提出ていしゅつされたことで神社じんじゃ政教せいきょう分離ぶんりかんする議論ぎろん再燃さいねんした。これ以降いこう毎年まいとし法案ほうあん提出ていしゅつ廃案はいあんかえしたのち1973ねん昭和しょうわ48ねん)に提出ていしゅつされた法案ほうあん審議しんぎ凍結とうけつなどを1974ねん昭和しょうわ49ねん)に衆議院しゅうぎいん可決かけつされたものの参議院さんぎいんでは審議しんぎ未了みりょう廃案はいあんとなる。これを最後さいごとし法案ほうあん上程じょうていむまで、靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいにおける政教せいきょう分離ぶんり課題かだい最大さいだいのものとなった。

こののち政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく抵触ていしょくするかかの議論ぎろんは、政府せいふ地方自治体ちほうじちたいによる靖国神社やすくにじんじゃへの公費こうひ支出ししゅつともな玉串たまぐし(または玉串たまぐしりょう奉納ほうのうや、首相しゅしょうをはじめとする政府せいふ閣僚かくりょう地方自治体ちほうじちたい首長しゅちょうらの参拝さんぱいかんするものへと焦点しょうてんうつっていく。

靖国神社やすくにじんじゃ反対はんたいする立場たちばからは、靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱい政教せいきょう分離ぶんりはんするという見解けんかいしめされることがある。総理そうり大臣だいじん宗教しゅうきょう法人ほうじん明治めいじ神宮じんぐう伊勢神宮いせじんぐう参拝さんぱいしても、問題もんだいがないとはえず、さらに、靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいは「Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし」の問題もんだいからんでいる。

信教しんきょう自由じゆう

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上智大じょうちだい暁星ぎょうせいちゅう配属はいぞく将校しょうこう引揚ひきあげ(『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』 1932ねん12月3にちづけ夕刊ゆうかん2めん

1889ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい28じょうでは「信教しんきょう自由じゆう」を記載きさいしたが、明治めいじ政府せいふ神社じんじゃ神道しんとうを「国家こっか祭祀さいし」であり宗教しゅうきょうではないとし、臣民しんみん義務ぎむとした(いわゆる国家こっか神道しんとう[23]。1891ねん植村うえむら正久まさひさキリスト教徒きりすときょうと靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだい提起ていきした[24]。さらに1932ねん上智大じょうちだいなま靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい拒否きょひ事件じけん発生はっせいした。

1946ねん靖国神社やすくにじんじゃ宗教しゅうきょう法人ほうじんとなり、1947ねん日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい20じょうでは信教しんきょう自由じゆう政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく規定きていされた。このため1964ねん以降いこう靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあんは、国家こっか護持ごじわりに宗教しゅうきょうしょくうすめるあんとなり、議論ぎろんとなった。

靖国やすくに問題もんだいかんする訴訟そしょうでは、原告げんこくがわおおくは玉串たまぐしりょう公費こうひ支出ししゅつや、首相しゅしょうなどの参拝さんぱい遺族いぞくがわ意思いし沿わない合祀ごうし政府せいふによる合祀ごうしへの協力きょうりょくなどを、信教しんきょう自由じゆう政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくたいする侵害しんがいであると主張しゅちょうしている。これにたいして靖国神社やすくにじんじゃがわなどは、社会しゃかい一般いっぱんみとめられた範囲はんいないであり合憲ごうけんである、神社じんじゃがわにも宗教しゅうきょう自由じゆうがありこくからの強制きょうせいけない、合祀ごうし遺族いぞく不利益ふりえきとはえない、などと主張しゅちょうしている。 これにたい司法しほうは、遺族いぞく無断むだんでの合祀ごうしが「がた苦痛くつう」とみとめながらも、靖国神社やすくにじんじゃがわ宗教しゅうきょう行為こうい自由じゆうれい璽簿とう非公開ひこうかい理由りゆうに、靖国神社やすくにじんじゃがわ行為こうい違法いほうえないと棄却ききゃくしたが、合祀ごうしくに協力きょうりょくした行為こうい政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく違反いはん違憲いけんであると判断はんだんしている。 また日本にっぽんでは、信教しんきょう自由じゆうは、「何人なんにんたいしても」これを保障ほしょうするとされているため、政治せいじであっても宗教しゅうきょうおよび思想しそうについて制限せいげんくわえることができないとするかんがかた一般いっぱんてきであり、司法しほう判断はんだんにおいても私的してき参拝さんぱい憲法けんぽう違反いはんとしたものはない。ただ首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱいについて、これは公式こうしき参拝さんぱいでありゆえ国民こくみん宗教しゅうきょう人格じんかくけん侵害しんがいしていると裁判さいばんあらそわれた。そのなか地裁ちさい高裁こうさいレベルで公的こうてき参拝さんぱいだとはたろん判断はんだんされているものはあるが、国民こくみん宗教しゅうきょう人格じんかくけん侵害しんがいについてはみとめず、いずれの判決はんけつでも賠償ばいしょう請求せいきゅう棄却ききゃくしている(くわしくは靖国やすくに問題もんだいかんする訴訟そしょう参照さんしょう)。

宗教しゅうきょうせい

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日本にっぽんでは、宗教しゅうきょうせい有無うむかんして「参拝さんぱい宗教しゅうきょうてき行為こういではなく、習俗しゅうぞくてき行為こういであるから政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくには抵触ていしょくしない」とする主張しゅちょうと、「参拝さんぱい宗教しゅうきょうてき行為こういであるから問題もんだいである」とする主張しゅちょう対立たいりつしている。玉串たまぐしりょうなどを公費こうひ支出ししゅつすることについては最高裁さいこうさいいて違憲いけん判決はんけつ確定かくていしている。 首相しゅしょう公式こうしき参拝さんぱいについて、神道しんとう形式けいしきのっとった参拝さんぱいが「憲法けんぽう20じょうとの関係かんけい違憲いけんうたがいを否定ひていできない」という認識にんしき1980ねん昭和しょうわ55ねん)の政府せいふ見解けんかいでも確認かくにんされたが、1985ねん昭和しょうわ60ねん中曽根なかそね康弘やすひろ内閣ないかく当時とうじ発足ほっそくした「閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだいかんする懇談こんだんかい」は「宗教しゅうきょうしょくうすめた独自どくじ参拝さんぱい形式けいしきをとることにより公式こうしき参拝さんぱい可能かのう」と判断はんだん、その方法ほうほうであれば「首相しゅしょう参拝さんぱい宗教しゅうきょうてき意義いぎたないと解釈かいしゃくできる」とし、「憲法けんぽう禁止きんしする宗教しゅうきょうてき活動かつどう該当がいとうしない」との政府せいふ見解けんかいされた[3] [25]首相しゅしょう参拝さんぱい行為こうい宗教しゅうきょうせいについていくつかの裁判さいばんあらそわれている。最高裁さいこうさいでは憲法けんぽう判断はんだんされていないが、地裁ちさい高裁こうさいでははたろんにおいて公的こうてき参拝さんぱいにおいて違憲いけんという判断はんだんがされている。公的こうてき参拝さんぱい合憲ごうけんという判断はんだん司法しほうのいずれのレベルにいてもこれまでされたことはない[注釈ちゅうしゃく 3]

公人こうじんにおける公私こうし区別くべつ

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公人こうじんにおいても公私こうし区別くべつするべきだという論点ろんてんがある。これはだい66だい総理そうりであった三木みき武夫たけお1975ねん昭和しょうわ50ねん8がつ15にち総理そうりとしてははじめて終戦しゅうせん記念きねん参拝さんぱいしたさいに、私的してき参拝さんぱい4条件じょうけん公用こうようしゃ使用しよう玉串たまぐしりょう私費しひ支出ししゅつ肩書かたがきをけない、公職こうしょくしゃ随行ずいこうさせない)による「私人しじん」としての参拝さんぱいおこなった。これにたい靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん断念だんねんした神社じんじゃ本庁ほんちょうおよび日本にっぽん遺族いぞくかいは、「英霊えいれいにこたえるかい」を結成けっせいして、「首相しゅしょう閣僚かくりょうによる公式こうしき参拝さんぱい」を要請ようせいする運動うんどう展開てんかいする。靖国神社やすくにじんじゃたいして玉串たまぐしりょうなどを公費こうひ支出ししゅつした参拝さんぱいは、だい72だい総理そうりであった中曽根なかそね康弘やすひろによる1985ねん昭和しょうわ60ねん)の参拝さんぱい訴訟そしょう対象たいしょうとなり(後述こうじゅつ)、1992ねん平成へいせい4ねん)の2つの高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ憲法けんぽうさだめる政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはんする公式こうしき参拝さんぱい認定にんていされ、これらが判例はんれいとして確定かくてい明確めいかく違憲いけんとされており、これ以降いこう議論ぎろんは「私人しじん」としての参拝さんぱい許容きょようされるものであるかどうかをめぐっての解釈かいしゃく問題もんだいとなっている。

国政こくせいじょう要職ようしょくにあるものであっても私人しじん一個人いっこじんとして参拝さんぱいするなら政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくには抵触ていしょくせず問題もんだいがない」という意見いけんがある。これは、公人こうじんであっても人権じんけんてき観点かんてんから私人しじん側面そくめん強調きょうちょうするもので、「首相しゅしょう個人こじん信仰しんこう信念しんねん尊重そんちょうされるべきであり、参拝さんぱい私人しじんとしおこなわれているものであるならば問題もんだいがない」という立場たちばをとっている。「アメリカのように政教せいきょう分離ぶんりをうたっていながら、大統領だいとうりょう知事ちじ就任しゅうにんしきのときに聖書せいしょをのせかみちかいをたてることは問題もんだいになったことはいちもない」ということも論拠ろんきょひとつにげられている。

一方いっぽう、「公用こうようしゃもちい、側近そっきん護衛ごえいかんしたがえ、閣僚かくりょうって参拝さんぱいし、職業しょくぎょうらんに『内閣ないかく総理そうり大臣だいじん』などと記帳きちょうするという行為こうい公人こうじんとしてのそれであり、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく抵触ていしょくする」という意見いけんがある。こちらは、実効じっこうてき観点かんてんおもげ、「首相しゅしょう在職ざいしょくちゅうおこな行為こうい私的してきであっても、多少たしょうはあれ、すべ政治せいじてき実効じっこうせいつため、私的してき参拝さんぱいであっても靖国神社やすくにじんじゃ実質じっしつてき利益りえきあたえるものだ」として問題もんだいがあるとしている。

だい87 - 89だい総理そうり小泉こいずみ純一郎じゅんいちろうは、2001ねん平成へいせい13ねん8がつ13にち首相しゅしょう就任しゅうにん最初さいしょ参拝さんぱいをしたのち公私こうしべつについての質問しつもんたいし「公的こうてきとか私的してきとかわたしはこだわりません。総理そうり大臣だいじんである小泉こいずみ純一郎じゅんいちろうしんめて参拝さんぱいした」とべた。これ以降いこうとくにこの論点ろんてんおおきくクローズアップされている。ただ福岡ふくおか地裁ちさい判決はんけつ私的してき参拝さんぱいであると表明ひょうめいしている。 小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょうによる参拝さんぱい以降いこう参拝さんぱいきゃく急増きゅうぞうした現象げんしょうについてはマスメディア報道ほうどうおおきく影響えいきょうしているとの意見いけんもある[27]

靖国やすくに問題もんだいかんする訴訟そしょう

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靖国やすくに問題もんだいげた主要しゅよう訴訟そしょうとしては、玉串たまぐしりょう公費こうひ支出ししゅつ訴訟そしょう首相しゅしょう公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょう合祀ごうし取消とりけし訴訟そしょうなどがある。

玉串たまぐしりょう公費こうひ支出ししゅつ訴訟そしょう

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住民じゅうみん訴訟そしょうとしてあらそわれた訴訟そしょう類型るいけいのものである[28]

岩手いわてけん靖国神社やすくにじんじゃ訴訟そしょう

1979ねん昭和しょうわ54ねん12月19にち岩手いわて県議会けんぎかいくに靖国神社やすくにじんじゃ公式こうしき参拝さんぱい実現じつげんするよう意見いけんしょ採択さいたくし、政府せいふ陳情ちんじょうしょとどけたことと、1962ねん昭和しょうわ37ねん)から靖国神社やすくにじんじゃ要請ようせい玉串たまぐしりょう献灯けんとうりょう支出ししゅつしていたことは、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはんするとして、その費用ひよう返還へんかんするよう住民じゅうみんらが提訴ていそした。1987ねん昭和しょうわ62ねん3月5にち盛岡もりおか地方裁判所ちほうさいばんしょ合憲ごうけん判決はんけつしめし、住民じゅうみんらのうったえを全面ぜんめんてき退しりぞけた[29]1991ねん平成へいせい3ねん1がつ10日とおか仙台せんだい高裁こうさい糟谷かすや忠男ただお裁判さいばんちょう)は、判決はんけつ主文しゅぶんにて住民じゅうみんがわ控訴こうそたいして被告ひこく岩手いわてけんへの公費こうひ返還へんかん請求せいきゅう棄却ききゃくしたが、公式こうしき参拝さんぱい玉串たまぐしりょう公費こうひ支出ししゅつ違憲いけんであるというはたろんしめした[30]

勝訴しょうそしたが違憲いけんとされたけんは、違憲いけんとするはたろんしめされたのは不利益ふりえきで、最高裁さいこうさい判断はんだんあお必要ひつようがあるとして上告じょうこくした。仙台せんだい高裁こうさい適法てきほうとして却下きゃっかした。けん高裁こうさい決定けってい不服ふふくとして特別とくべつ抗告こうこくしたが、最高裁さいこうさいだい2しょう法廷ほうていは「抗告こうこく理由りゆうがない」として棄却ききゃくした。

愛媛えひめけん玉串たまぐしりょう訴訟そしょう

愛媛えひめ県知事けんちじ靖国神社やすくにじんじゃたい玉串たまぐしりょうを「戦没せんぼつしゃ遺族いぞく援護えんご行政ぎょうせいのために」毎年まいとし支出ししゅつしたことたいし、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはんするとして、その費用ひよう返還へんかんするよう住民じゅうみんらがもとめた。1しん松山まつやま地方裁判所ちほうさいばんしょ違憲いけん判決はんけつ、2しん高松たかまつ高等こうとう裁判所さいばんしょは「公金こうきん支出ししゅつ社会しゃかいてき儀礼ぎれい範囲はんいおさまる小額しょうがくであり、遺族いぞく援護えんご行政ぎょうせい一環いっかんであり宗教しゅうきょうてき活動かつどうたらない」として合憲ごうけん判決はんけつしめした。しかし、1997ねん平成へいせい9ねん最高裁判所さいこうさいばんしょ政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくひとつとなった目的もくてき効果こうか基準きじゅんにより違憲いけん判決はんけつし、確定かくていした。

首相しゅしょう公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょう

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くに訴訟そしょうとしてあらそわれた訴訟そしょう類型るいけいのものである[28][注釈ちゅうしゃく 4]

中曽根なかそね首相しゅしょう公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょう

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中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょう当時とうじ)が1985ねん昭和しょうわ60ねん8がつ15にち公式こうしき参拝さんぱいしたことにたいする訴訟そしょうである。最高裁さいこうさいは、かかる公式こうしき参拝さんぱい憲法けんぽう20じょう3こうどう89じょう違反いはんするうたがいがあるとしたが、本件ほんけん公式こうしき参拝さんぱい憲法けんぽう違反いはんするとしても、法律ほうりつじょう保護ほごされた具体ぐたいてき権利けんりないし法益ほうえき侵害しんがいけたことはないし、また、慰謝いしゃりょうをもって救済きゅうさいすべき損害そんがいこうむったこともなく、損害そんがい賠償ばいしょうもとめることはできないとした。 中曽根なかそね首相しゅしょう在任ざいにんちゅうに10かいにわたり参拝さんぱいしているが、1985ねん昭和しょうわ60ねん8がつ14にちに、正式せいしき神式しんしきではなく省略しょうりゃくした拝礼はいれいによるものならば閣僚かくりょう公式こうしき参拝さんぱい政教せいきょう分離ぶんりにははんしないとこれまでの政府せいふ統一とういつ見解けんかい変更へんこう[25]、1985ねん昭和しょうわ60ねん)に閣僚かくりょうとともに玉串たまぐしりょう公費こうひから支出ししゅつする首相しゅしょう公式こうしき参拝さんぱいおこなった[注釈ちゅうしゃく 5]

中曽根なかそねは1985ねん昭和しょうわ60ねん)8がつ15にち以後いご参拝さんぱいをしていないが、その理由りゆうについてよく1986ねん昭和しょうわ61ねん)8がつ14にち官房かんぼう長官ちょうかん談話だんわにおいて、公式こうしき参拝さんぱい日本にっぽんによる戦争せんそう惨禍さんかこうむった近隣きんりんしょ国民こくみん日本にっぽんたいする不信ふしんまねくためとしている[33]中曽根なかそねのちに、自身じしん靖国やすくに参拝さんぱいにより中国共産党ちゅうごくきょうさんとううち政争せいそう胡耀邦こようほうそう書記しょき進退しんたい影響えいきょうそうだという示唆しさがあり、「胡耀邦こようほうさんとわたしとは非常ひじょうなかかった。」「それで胡耀邦こようほうさんをまもらなければいけないとおもった。」とべている[34][35]

九州きゅうしゅう靖国神社やすくにじんじゃ公式こうしき参拝さんぱい違憲いけん訴訟そしょう

1992ねん平成へいせい4ねん2がつ28にち福岡ふくおか高等こうとう裁判所さいばんしょは、九州きゅうしゅう靖国神社やすくにじんじゃ公式こうしき参拝さんぱい違憲いけん訴訟そしょうで、目的もくてき効果こうか基準きじゅんにより公式こうしき参拝さんぱい継続けいぞく靖国神社やすくにじんじゃへの援助えんじょ助長じょちょう促進そくしんとなり違憲いけん判示はんじした[36]

関西かんさい靖国やすくに公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょう

1992ねん平成へいせい4ねん7がつ30にちには、大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょが、関西かんさい靖国やすくに公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょうで、公式こうしき参拝さんぱい一般人いっぱんじんあたえる効果こうか影響えいきょう社会しゃかい通念つうねんからかんがえると宗教しゅうきょうてき活動かつどう該当がいとうし、違憲いけんうたがいありと判示はんじした[37]

小泉こいずみ首相しゅしょう参拝さんぱい訴訟そしょう

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小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょう当時とうじ)が2001ねん平成へいせい13ねん8がつ13にち秘書官ひしょかん同行どうこううえ公用こうようしゃ靖国神社やすくにじんじゃおとずれ「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう」と記帳きちょう献花けんかだい3まんえんおさ参拝さんぱいした。この参拝さんぱいたいする訴訟そしょうでは地裁ちさい高裁こうさい判決はんけつにおいて公的こうてき参拝さんぱい判断はんだんがなされたとき違憲いけん判断はんだんがされたケースがあったが、はたろんべられたものであり主文しゅぶん原告げんこく敗訴はいそとしているので、政府せいふはこのことを不満ふまんとして上訴じょうそすることができないと判断はんだんし、原告げんこく上訴じょうそしなかったため判決はんけつ確定かくていした(はたろん#下級かきゅう裁判所さいばんしょにおける「ねじれ判決はんけつ参照さんしょうのこと)。原告げんこくがわ上告じょうこくした裁判さいばんでは、最高裁さいこうさい憲法けんぽう判断はんだんけたため、憲法けんぽう判断はんだんがされることはなかった。地裁ちさい高裁こうさい判決はんけつにおいても公的こうてき参拝さんぱい合憲ごうけんだとされたケースはない。賠償ばいしょう請求せいきゅうについてはいずれも棄却ききゃくされている。福岡ふくおか地裁ちさい判決はんけつけた小泉こいずみ首相しゅしょう記者きしゃだん質問しつもんに「私的してき参拝さんぱいってもいい」とかたり、公私こうし区別くべつをあえてあいまいにしてきた従来じゅうらい姿勢しせい転換てんかんさせた。

裁判所さいばんしょ 判決はんけつねん 参拝さんぱい公的こうてき私的してき 憲法けんぽう判断はんだん 賠償ばいしょう請求せいきゅう
大阪おおさか地裁ちさいいち 2004ねん2がつ27にち村岡むらおかひろし裁判さいばんちょう 公的こうてき ×
松山まつやま地裁ちさい 2004ねん3がつ16にち坂倉さかくらたかししん裁判さいばんちょう ×
福岡ふくおか地裁ちさい 2004ねん4がつ7にち亀川かめかわしんちょう裁判さいばんちょう 公的こうてき 違憲いけん ×
大阪おおさか地裁ちさい 2004ねん5がつ13にち吉川よしかわ慎一しんいち裁判さいばんちょう 私的してき ×
千葉ちば地裁ちさい 2004ねん11月25にち安藤あんどう裕子ゆうこ裁判さいばんちょう 公的こうてき ×
那覇なは地裁ちさい 2005ねん1がつ28にち西井にしいかず裁判さいばんちょう ×
東京とうきょう地裁ちさい 2005ねん4がつ26にち柴田しばた寛之ひろゆき裁判さいばんちょう ×
大阪おおさか高裁こうさいいち 2005ねん7がつ26にち大出おおいであきら裁判さいばんちょう ×
東京とうきょう高裁こうさい 2005ねん9がつ29にち浜野はまの惺裁ばんちょう 私的してき ×
大阪おおさか高裁こうさい 2005ねん9がつ30にち大谷おおや正治しょうじ裁判さいばんちょう 公的こうてき 違憲いけん ×
高松たかまつ高裁こうさい 2005ねん10がつ5にち水野みずのたけし裁判さいばんちょう ×
福岡ふくおか地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ

2004ねん平成へいせい16ねん4がつ7にち福岡ふくおか地方裁判所ちほうさいばんしょ裁判さいばんちょう亀川かめかわしんちょう)は原告げんこく損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう棄却ききゃくした[38]。しかしはたろんにおいて首相しゅしょう参拝さんぱいについて政教せいきょう分離ぶんり違反いはん違憲いけんべた[38]総理そうり大臣だいじん公式こうしき参拝さんぱいはたろん違憲いけんとする判断はんだん1991ねん平成へいせい3ねん)の仙台せんだい高裁こうさい判決はんけついでれいであった(下級かきゅう裁判所さいばんしょはたろん違憲いけんろんじる問題もんだいてんについてははたろん#下級かきゅう裁判所さいばんしょにおける「ねじれ判決はんけつ参照さんしょう)。

2004ねん平成へいせい16ねん10月21にち福岡ふくおか地裁ちさい判決はんけつはたろんにおいて「参拝さんぱい違憲いけん」としたことにたいし、国民こくみん運動うんどう団体だんたい英霊えいれいにこたえるかい」(会長かいちょう:堀江ほりえ正夫まさおもと参院さんいん議員ぎいん)が国会こっかい裁判官さいばんかん訴追そつい委員いいんかい裁判さいばん担当たんとうした3裁判官さいばんかん罷免ひめんもとめる訴追そつい請求せいきゅうじょう6036つう提出ていしゅつした。請求せいきゅうじょうによれば、訴追そつい理由りゆうについて「判決はんけつは(形式けいしきじょう勝訴しょうそ控訴こうそふうじられ)被告ひこく憲法けんぽうだい32じょう裁判さいばんける権利けんり』をうばうもので憲法けんぽう違反いはん」、「政治せいじてき目的もくてき判決はんけつくことは越権えっけん行為こうい司法しほう中立ちゅうりつせい独立どくりつあやうくした」としている(弾劾だんがい裁判さいばん参照さんしょう)。

千葉ちば地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ

千葉ちば県内けんない戦没せんぼつしゃ遺族いぞく宗教しゅうきょうら39にんからなる原告げんこくは、この参拝さんぱい総理そうり大臣だいじん職務しょくむ行為こういとしておこなわれており、政教せいきょう分離ぶんりさだめた憲法けんぽう違反いはんすると主張しゅちょう小泉こいずみ首相しゅしょうくに1人ひとりたり10まんえん損害そんがい賠償ばいしょうもとめていた。 2004ねん平成へいせい16ねん11月25にち千葉ちば地方裁判所ちほうさいばんしょ裁判さいばんちょう安藤あんどう裕子ゆうこ)は、参拝さんぱい公務こうむ認定にんていし、原告げんこく慰謝いしゃりょう請求せいきゅう棄却ききゃくした。判決はんけつでは、公用こうようしゃ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん肩書かたがきをもちいたりしているため、参拝さんぱい客観きゃっかんてき職務しょくむであると認定にんていし、また公務員こうむいん個人こじんには国家こっか賠償ばいしょうほうにおける責任せきにんはないとした。また「信教しんきょう自由じゆうや、しずかな宗教しゅうきょうてき環境かんきょう信仰しんこう生活せいかつおくるという宗教しゅうきょうてき人格じんかくけん侵害しんがいされた」として慰謝いしゃりょう支払しはらいをもとめた原告げんこくがわたいし、「信仰しんこう具体ぐたいてき強制きょうせい干渉かんしょう不利益ふりえきあつかいをけた事実じじつはなく、信教しんきょう自由じゆう侵害しんがいはない。宗教しゅうきょうてき人格じんかくけん法的ほうてき具体ぐたいてき保護ほごされたものではない」として退しりぞけた。

東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ

2005ねん平成へいせい17ねん9月29にち東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ浜野はまの惺(しずか)裁判さいばんちょう)は1しん千葉ちば地裁ちさい判決はんけつ支持しじ原告げんこくがわ控訴こうそ棄却ききゃくした。ただし1しん千葉ちば地裁ちさい判決はんけつは、首相しゅしょう参拝さんぱいを「職務しょくむ行為こうい」と認定にんていしたが、この2しん判決はんけつでは、参拝さんぱい小泉こいずみ首相しゅしょうの「個人こじんてき行為こうい」と認定にんていした。また、参拝さんぱい職務しょくむ行為こういではないため、原告げんこくがわ主張しゅちょう前提ぜんていくとした。以下いか判決はんけつ理由りゆう

  1. 神社じんじゃ本殿ほんでんでの拝礼はいれいは、個人こじんてき信条しんじょうもとづく宗教しゅうきょうじょう行為こうい私的してき行為こういとして首相しゅしょう個人こじん憲法けんぽう20じょう1こう保障ほしょうされる信教しんきょう自由じゆう範囲はんいゆえ礼拝れいはい行為こうい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん職務しょくむ行為こういとはえない。
  2. 献花けんかだい私費しひ負担ふたん献花けんかいちつい本殿ほんでんそなえた行為こういは、私的してき宗教しゅうきょう行為こういないし個人こじん儀礼ぎれいじょう行為こうい。いずれも個人こじん行為こういいきず、首相しゅしょう職務しょくむ行為こういとはみとめられない。
  3. 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう」と記帳きちょうした行為こういは、個人こじん肩書かたがきしたにぎない。
  4. 神社じんじゃ参拝さんぱい往復おうふく公用こうようしゃもちい、秘書官ひしょかんSP同行どうこうさせたてん総理そうり大臣だいじん地位ちいにあるものが、公務こうむ完了かんりょうまえ私的してき行為こういおこな場合ばあい必要ひつよう措置そち。これをもって一連いちれん参拝さんぱい行為こうい職務しょくむ行為こうい評価ひょうかすることは困難こんなん
  5. 1982ねん4がつ17にち閣議かくぎ決定けっていにより、毎年まいとし8がつ15にちが「戦没せんぼつしゃ追悼ついとう平和へいわ祈念きねんする」とされ、2001ねん8がつ15にち全国ぜんこく戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしき実施じっし。しかし参拝さんぱいは13にちであり、政府せいふ追悼ついとうしき一体いったいせいゆうさない。
※ 2005ねん9がつ29にちけ 『東奥ひがしおく日報にっぽう掲載けいさい靖国やすくに訴訟そしょう判決はんけつ要旨ようし」(共同通信きょうどうつうしん配信はいしん)に加筆かひつ修正しゅうせい
大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ()

2005ねん平成へいせい17ねん9月30にち大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ大谷おおや正治しょうじ裁判さいばんちょう)は小泉こいずみ首相しゅしょう参拝さんぱいをめぐる訴訟そしょうとしては高裁こうさい段階だんかいはつ違憲いけん判断はんだんしめした。判決はんけつは、参拝さんぱいは「総理そうり大臣だいじん職務しょくむとしてなされたものとみとめるのが相当そうとう」と判断はんだん。さらに、参拝さんぱいは「きわめて宗教しゅうきょうてき意義いぎふか行為こうい」であったと認定にんてい違憲いけん結論けつろんけた。一方いっぽうで、信教しんきょう自由じゆうなどの権利けんり侵害しんがいされたとはえないとして、賠償ばいしょうみとめなかった。原告げんこく上告じょうこくせず、判決はんけつ確定かくていした。

遺族いぞくによる合祀ごうし取消とりけし訴訟そしょう

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遺族いぞくによる靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうし取消とりけし訴訟そしょうれい璽簿とう抹消まっしょう訴訟そしょう)には以下いかなどがある[39]

大阪おおさか訴訟そしょう

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2006ねん8がつ合祀ごうしされた戦没せんぼつしゃ遺族いぞくである浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ僧侶そうりょ菅原すがわらりゅうけんら8めい、およびカトリック司祭しさい西山にしやま俊彦としひこが、靖国神社やすくにじんじゃおよくにたいして合祀ごうし取消とりけし損害そんがい賠償ばいしょうもとめて訴訟そしょうした。菅原すがわらりゅうけんらは訴状そじょうで「敬愛けいあい追慕ついぼじょう基軸きじくとする人格じんかくけん」への侵害しんがいなどを主張しゅちょうした[40]西山にしやま俊彦としひこは「信教しんきょう自由じゆう」への侵害しんがいなどを主張しゅちょうした[41]。2010ねん12月、大阪おおさか高裁こうさい菅原すがわらりゅうけんらによる控訴こうそたいし、遺族いぞく無断むだんでの合祀ごうしが「がた苦痛くつう」とみとめながらも、靖国神社やすくにじんじゃがわ宗教しゅうきょう行為こうい自由じゆうれい璽簿とう非公開ひこうかい理由りゆうに、靖国神社やすくにじんじゃがわ行為こうい違法いほうえないと棄却ききゃくしたが、合祀ごうしくに協力きょうりょくした行為こうい政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく違反いはん違憲いけんであると判決はんけつした[42][43]。2011ねん11月、最高裁さいこうさいにより確定かくていした[39]

沖縄おきなわ訴訟そしょう

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合祀ごうしされた戦没せんぼつしゃ遺族いぞく5めいが、靖国神社やすくにじんじゃおよくにたいして、合祀ごうし取消とりけし損害そんがい賠償ばいしょうもとめて訴訟そしょうした。2010ねん10がつ那覇なは地裁ちさい原告げんこく請求せいきゅう棄却ききゃくした[44]。2011ねん9がつ福岡ふくおか高裁こうさいでの控訴こうそしんでは、原告げんこくが「合祀ごうしれがたいことは理解りかいる」としつつも、「神社じんじゃ教義きょうぎ宗教しゅうきょうてき行為こういは、他者たしゃたいする強制きょうせい不利益ふりえき付与ふよがないかぎり、信教しんきょう自由じゆうとして保障ほしょうされる」と判示はんじした[39][45]

韓国かんこくじん遺族いぞくによる訴訟そしょう

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2011ねん7がつ日本人にっぽんじん軍人ぐんじん軍属ぐんぞくとして徴用ちょうようされ戦死せんしした韓国かんこくじん遺族いぞく合祀ごうし取消とりけし損害そんがい賠償ばいしょうもとめた訴訟そしょうで、東京とうきょう地裁ちさい原告げんこく敗訴はいそ判決はんけつおこなった[39]

また上記じょうきとはべつ訴訟そしょうで、2011ねん11月、日本人にっぽんじん軍人ぐんじん軍属ぐんぞくとして徴用ちょうようされ戦死せんしした韓国かんこくじん遺族いぞく合祀ごうし取消とりけし損害そんがい賠償ばいしょうもとめた訴訟そしょうで、最高裁さいこうさい上告じょうこく棄却ききゃく原告げんこく敗訴はいそ)の判決はんけつおこなった[39]

天皇てんのう親拝しんぱい問題もんだい

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昭和しょうわ天皇てんのう靖国神社やすくにじんじゃ親拝しんぱい1934ねん

昭和しょうわ天皇てんのうは、戦後せんごすうねんきにけい81945ねん11月20にち臨時りんじだい招魂しょうこんさい1952ねん10月16にち1954ねん10月19にちれい大祭たいさい1957ねん4がつ23にちれい大祭たいさい1959ねん4がつ8にち臨時りんじ大祭たいさい1965ねん10月19にち臨時りんじ大祭たいさい1969ねん10がつ20日はつか創立そうりつ100ねん記念きねん大祭たいさい1975ねん靖国神社やすくにじんじゃ親拝しんぱいしたが、1975ねん昭和しょうわ50ねん11月21にち最後さいごに、親拝しんぱいおこなっていない。この理由りゆうについては、昭和しょうわ天皇てんのうAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし不快ふかいかんをもっていたからという仮説かせつがあったが具体ぐたいてき物証ぶっしょうつかっていなかった。しかし、宮内庁くないちょう長官ちょうかんつとめた富田とみた朝彦あさひこ1988ねん昭和しょうわ63ねん)にしるした「富田とみたメモ」、およ侍従じじゅう卜部うらべあきらわれによる「卜部うらべあきらわれ侍従じじゅう日記にっき」に、これに符合ふごうする記述きじゅつ発見はっけんされた。平成へいせい時代じだい天皇てんのうによる親拝しんぱい中止ちゅうしつづいていた。なお、れい大祭たいさい勅使ちょくし参向さんこう内廷ないてい以外いがい皇族こうぞく参拝さんぱいおこなわれている。

戦後せんご歴代れきだい総理そうり大臣だいじん在任ざいにんちゅう公人こうじんとして例年れいねん参拝さんぱいしていたが、1975ねん昭和しょうわ50ねん)8がつ三木みき武夫たけお首相しゅしょうは「首相しゅしょうとしてははつ終戦しゅうせん記念きねん参拝さんぱいのち総理そうりとしてではなく、個人こじんとして参拝さんぱいした」と発言はつげん同年どうねん最後さいご天皇てんのう親拝しんぱいおこなわれなくなったのは、この三木みき発言はつげん原因げんいんであるとわれていた。しかし、2006ねんになって「富田とみたメモ」に、昭和しょうわ天皇てんのうAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし不快ふかいおもっていたとしるされていたことがわかった[46]以下いか該当がいとう部分ぶぶん

わたしあるときに、Aきゅう合祀ごうしされそのじょう 松岡まつおか白取しらとりまでもが

筑波つくば慎重しんちょう対処たいしょしてくれたといたが
松平まつだいらいま宮司ぐうじがどうかんがえたのか 易々いい
松平まつだいら平和へいわつよこうがあったとおもうのに おや心子しんこらずとおもっている

だからわたし あれ以来いらい参拝さんぱいしていない それがわたししん

日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ富田とみたメモ研究けんきゅう委員いいんかい」は「史料しりょう記録きろく照合しょうごうしても事実じじつ関係かんけい合致がっちしており、不快ふかいかん以外いがい解釈かいしゃくはありない」と結論けつろんけた。

資料しりょうとして有名ゆうめいなものに卜部うらべあきらわれ侍従じじゅう日記にっきがある。

  • 1988ねん4がつ28にち日記にっきには「おしがあったので吹上ふきあげ長官ちょうかん拝謁はいえつのあとたら靖国やすくに戦犯せんぱん合祀ごうし中国ちゅうごく批判ひはん奥野おくの発言はつげんのこと」
  • 2001ねん7がつ31にち日記にっきには「靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいをおめになった経緯けいい 直接的ちょくせつてきにはAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし御意ぎょいさず」
  • 2001ねん8がつ15にち日記にっきには「靖国やすくに合祀ごうし以来いらい天皇陛下てんのうへいか参拝さんぱい取止とりとめの記事きじ 合祀ごうしれた松平まつだいら永芳ながよし宮司ぐうじ)はだい馬鹿ばか

記述きじゅつされている。

富田とみたメモ以降いこう合祀ごうし問題もんだい原因げんいんとする解釈かいしゃく現在げんざいのところは有力ゆうりょくではないかとされること一般いっぱんてきにはおおい。また、徳川とくがわ義寛よしひろ侍従じじゅうちょう回顧かいころくなどによれば、昭和しょうわ天皇てんのう宮内庁くないちょうは、松岡まつおか洋右ようすけ外交がいこうかん)、広田ひろた弘毅こうき外交がいこうかん)、白鳥しらとり敏夫としお外交がいこうかん)ら文人ぶんじん合祀ごうし疑問ぎもんていしており、そのなかでも松岡まつおか洋右ようすけは「日米にちべい開戦かいせん張本人ちょうほんにん」としてとく問題もんだいされている[47][48]

天皇てんのう親拝しんぱいめた原因げんいんをAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしとする見解けんかいへの反論はんろん存在そんざいする。

櫻井さくらいよしこは、メモに「Pressの会見かいけん」とだいがつけられ、富田とみたさましき人物じんぶつが「記者きしゃもうしておりました」と会見かいけんでの記者きしゃはんおうきしていることから、記者きしゃ会見かいけんのメモだとおもわれるとし、メモ執筆しっぴつ当日とうじつの4がつ28にち昭和しょうわ天皇てんのう会見かいけんしていない事実じじつげ、富田とみたきとめた言葉ことばあるじが、昭和しょうわ天皇てんのうではない別人べつじん可能かのうせいもあると主張しゅちょうしている[49]。また、『産経新聞さんけいしんぶん』は、「昭和しょうわ天皇てんのうがAきゅう戦犯せんぱん何人なんにんかを批判ひはんされていたとの記述きじゅつがあったとしても、いわば断片だんぺん情報じょうほうのメモからだけで、合祀ごうしそのものを“不快ふかい”にかんじておられたと断定だんていするには疑問ぎもんのこる」「合祀ごうしがご親拝しんぱいとりやめの原因げんいんなら、その春秋しゅんじゅうれい大祭たいさい勅使ちょくし派遣はけんされ、現在げんざいいたっていることや、皇族こうぞくかた参拝さんぱいされていた事実じじつを、どう説明せつめいするのか」という疑問ぎもんていしている[50]

昭和しょうわ天皇てんのう側近そっきんで、戦後せんご「Aきゅう戦犯せんぱん」に指定していされた木戸きど幸一こういちもと内大臣ないだいじんたい昭和しょうわ天皇てんのうが、「米国べいこくよりれば犯罪はんざいじんならんも我国わがくににとりては功労こうろうしゃなり」とべたとの記述きじゅつが『木戸きど日記にっき』にあり[50]鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく内閣ないかく書記官しょきかんちょうだった迫水さこみず久常ひさつねによれば、昭和しょうわ天皇てんのうポツダム宣言せんげん受諾じゅだくかんする御前ごぜん会議かいぎ(8がつ9にち~10にち)において、つぎのように発言はつげんした[51]

わたしとしては、忠勇ちゅうゆうなる軍隊ぐんたい降伏ごうぶく武装ぶそう解除かいじょしのびがたいことであり、戦争せんそう責任せきにんしゃ処罰しょばつということも、そのひとたちがみな忠誠ちゅうせいくしたひとであることをおもうとえがたいことである。しかし、国民こくみん全体ぜんたいすくい、国家こっか維持いじするためには、このしのびがたいことをもしのばねばならぬとおもう。 — 御前ごぜん会議かいぎ

合祀ごうし問題もんだい

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日本人にっぽんじん遺族いぞく合祀ごうしへの異議いぎ

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訴訟そしょう以外いがいでは1968ねん以降いこうプロテスタント牧師ぼくし角田つのだ三郎さぶろう、および「キリストきょう遺族いぞくかい」による「れい璽簿抹消まっしょう要求ようきゅう」があるが、靖国神社やすくにじんじゃ要求ようきゅう拒否きょひし、そのさい池田いけだ良八りょうはちけん宮司ぐうじが「天皇てんのう意思いしにより戦死せんししゃ合祀ごうしおこなわれたのであり、遺族いぞく意思いしにかかわりなくおこなわれたのであるから抹消まっしょうをすることはできない」と説明せつめいした[52]。これは以後いご同様どうよう要求ようきゅうたいする靖国神社やすくにじんじゃがわ一貫いっかんした対応たいおうとなった[53]

Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし問題もんだい

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だい世界せかい大戦たいせん極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)において処刑しょけいされた人々ひとびととくAきゅう戦犯せんぱん)が、1978ねん昭和しょうわ53ねん10月17にち国家こっか犠牲ぎせいしゃ昭和しょうわ殉難じゅんなんしゃ』として合祀ごうしされている。

きゅう日本にっぽん植民しょくみん出身しゅっしん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく合祀ごうし

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だい大戦たいせん日本にっぽんへいとしてたたかった朝鮮ちょうせんじん日本にっぽんへい台湾たいわんじん日本にっぽんへい軍属ぐんぞくふくむ)も多数たすうまつられているが、なかには生存せいぞんしゃふくまれていたり、遺族いぞく一部いちぶからは反発はんぱつている。

2001ねん平成へいせい13ねん6月29にち韓国かんこく台湾たいわんもと軍人ぐんじん軍属ぐんぞく一部いちぶ遺族いぞくけい252めいが、日本にっぽんたい戦争せんそうけた被害ひがいとして24おくえんあまり賠償金ばいしょうきんもとめた裁判さいばん原告げんこく敗訴はいそ)で、原告げんこくうち55にんは「戦死せんしした親族しんぞく靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうしみずからの意思いしはんし、人格じんかくけん侵害しんがいである」として、合祀ごうししをもとめた。

2003ねん2がつ17にちには、小泉こいずみやすしこく参拝さんぱい高砂たかさご義勇ぎゆうたい合祀ごうし反対はんたい訴訟そしょう原告げんこく団長だんちょうとしてこうかねもとうめ台湾たいわん立法りっぽう委員いいん代表だいひょうとなり訴訟そしょうこした[54]

きゅう幕府ばくふぐん西郷さいごうぐん 合祀ごうし問題もんだい

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徳川とくがわ康久やすひさ宮司ぐうじが、合祀ごうしは「無理むり」としながらも「こう(明治めいじ政府せいふぐん)がにしきはたかかげたことで、こちら(幕府ばくふぐん)が賊軍ぞくぐんになった」と発言はつげんしたことをけて、明治維新めいじいしん西南せいなん戦争せんそう賊軍ぞくぐんとされたきゅう幕府ばくふぐん奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい西郷さいごう隆盛たかもりらの戦死せんししゃ立場たちばちがえどくにためおもいのちとしたのだから靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしすべきであると亀井かめい静香しずか石原いしはら慎太郎しんたろうらが運動うんどうしている[55]

問題もんだい解決かいけつへの提案ていあん

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いわゆる靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいへの解決かいけつあんとしては、多数たすう立場たちば観点かんてんから、多数たすう提案ていあん議論ぎろんおこなわれている。

靖国神社やすくにじんじゃ廃止はいしあん

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1945ねん10月13にち石橋いしばし湛山たんざんは『東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃろん』で「靖国神社やすくにじんじゃ廃止はいし」を発表はっぴょうした。石橋いしばしは、靖国神社やすくにじんじゃを「くにっては大切たいせつ神社じんじゃであった」としながらも、「くに国際こくさいてき立場たちば」、今後こんご祭祀さいし祭典さいてん実現じつげん可能かのうせい国民こくみん感情かんじょう、「すくなくとも満州まんしゅう事変じへん以来いらいぐん官民かんみん指導しどうてき責任せきにん位地いちったもの」の責任せきにんなどを列挙れっきょし、靖国神社やすくにじんじゃ廃止はいし主張しゅちょうした[56]

Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつあん

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Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしたいしては、Aきゅう戦犯せんぱん国際こくさいてきおよび国内こくないてきあつかい、靖国神社やすくにじんじゃによる合祀ごうし妥当だとうせい合祀ごうし取消とりけしとしての「ぶんまつ」の可能かのうせい是非ぜひ靖国神社やすくにじんじゃがわ自主じしゅてき対応たいおう可能かのうせいくにから靖国神社やすくにじんじゃへの要求ようきゅう可能かのうせい、などが議論ぎろんとなっている。

Aきゅう戦犯せんぱんあつか

いわゆるAきゅう戦犯せんぱんは、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん戦争せんそう犯罪はんざいじん判決はんけつ確定かくていし、その日本にっぽん政府せいふサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくむすび、そのだい11じょうにおいて「日本にっぽんこくは、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょならびに日本にっぽん国内こくないおよ国外こくがいほか連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい法廷ほうてい裁判さいばん受諾じゅだくし」とあり、国際こくさいてき日本にっぽんふくむ)には戦争せんそう犯罪はんざいじんであることは確定かくていしている。その発効はっこう1952ねん6がつ以降いこう条約じょうやくだい11じょうもとづいて極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん参加さんかしたすべてのくに政府せいふ交渉こうしょうし、国会こっかい決議けつぎとうにより服役ふくえきちゅう受刑じゅけいしゃたいする恩赦おんしゃけい執行しっこう終了しゅうりょう釈放しゃくほう合意ごうい形成けいせいし、生存せいぞんしていたAきゅう戦犯せんぱんしゃ10めいふく全員ぜんいん恩赦おんしゃによりけい執行しっこう終了しゅうりょう釈放しゃくほうした。ただ刑期けいき満了まんりょうしゃ恩赦おんしゃ減刑げんけいのしようがなく、靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされている14めいのうち死刑しけいによりけい執行しっこう満了まんりょうしているもの7めい(うち松井まついはBきゅう戦争せんそう犯罪はんざいとして)、収監しゅうかんちゅう死亡しぼうしたもの7めいについては死亡しぼうにより権利けんり能力のうりょく喪失そうしつしたため恩赦おんしゃ減刑げんけい対象たいしょうにはなりない(恩赦おんしゃ減刑げんけいとは無罪むざいとすることとことなるため[57]。 1952ねん恩給おんきゅうほう改正かいせいでは受刑じゅけいしゃ本人ほんにん恩給おんきゅう支給しきゅう期間きかん拘禁こうきん期間きかん通算つうさんすると規定きていされ、戦犯せんぱん拘禁こうきんちゅう死者ししゃはすべて「法務ほうむ」とされた[58]1978ねん昭和しょうわ53ねんあき靖国神社やすくにじんじゃにいわゆるAきゅう戦犯せんぱんが「昭和しょうわ殉難じゅんなんしゃ」として合祀ごうしされた[59]よく1979ねん4がつ19にち新聞しんぶん各紙かくし合祀ごうし一斉いっせい報道ほうどうした[60]。また2005ねん10がつ25にち衆議院しゅうぎいんにおいて、当時とうじ小泉こいずみ内閣ないかくは、政府せいふだい大戦たいせん終結しゅうけつ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょやその連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい法廷ほうてい判決はんけつにより、Aきゅう・Bきゅう・Cきゅう戦争せんそう犯罪はんざいじんとして有罪ゆうざい判決はんけつけた軍人ぐんじん軍属ぐんぞくらが死刑しけい禁固刑きんこけいなどをけたことについて、「くに国内こくないほうもとづいていいわたされたけいではない」と回答かいとうし、戦犯せんぱん名誉めいよ回復かいふくについては「名誉めいよ」および「回復かいふく」の内容ないよう明確めいかくではないという理由りゆう回答かいとうけた。 上記じょうき経緯けいい解釈かいしゃくとして、以下いかふくめた議論ぎろんつづいている。

  • 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん判決はんけつ公正こうせいであったか。いずれにしても戦争せんそう責任せきにんいのか。
  • サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくは、裁判さいばん全体ぜんたい受諾じゅだくしたのか、たん判決はんけつ結果けっかのみを受諾じゅだくしたのか。
  • 恩給おんきゅうほう改正かいせいは、たんなる遺族いぞく救済きゅうさいなのか、本人ほんにん名誉めいよ回復かいふくされたのか。
  • 昭和しょうわ天皇てんのうはAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし不快ふかいかんいたかどうか(富田とみたメモ解釈かいしゃく)。

この国際こくさいてき意味いみでの戦争せんそう犯罪はんざいじんであることと、国内こくないてきには法務ほうむとされていること、この齟齬そご国内外こくないがいでのAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしたいする認識にんしきになっている側面そくめんがある(ただしAきゅう戦犯せんぱんであったものでもその国内外こくないがい活躍かつやくしたものもいる)。その側面そくめん解決かいけつ方法ほうほうとして提案ていあんされているものである。

Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし不当ふとうまたは適当てきとうとする立場たちばからは、「合祀ごうし取消とりけし」による現状げんじょう復旧ふっきゅうあんとしてぶんまつまたははいまつあんがある。

靖国神社やすくにじんじゃ意見いけん
靖国神社やすくにじんじゃがわはAきゅう戦犯せんぱんぶんまつあんについて「神道しんとうではぶんまつでは分離ぶんりできない、かみはひとつになっており選別せんべつもできない」として、神道しんとうにおけるぶんまつ分霊ぶんれい)とは、全国ぜんこくおな名前なまえかんする神社じんじゃがあちらこちらにあるように、ある神社じんじゃから勧請かんじょうされておな神霊しんれいをおけすることであり、もと祭神さいじん同一どういつのものがまたべつ出来上できあがること(いわゆるコピー)[61][62]なので「分離ぶんり」にはならない。また、一旦いったん合祀ごうしした個々ここ神霊しんれいうつすことはありえない。かりぜん遺族いぞくぶんまつ賛成さんせいしてもぶんまつ出来できないとこたえている[63]
意見いけん
  • 1979ねんはるれい大祭たいさい総理そうり大臣だいじん大平おおひら正芳まさよし参拝さんぱいし、「Aきゅう戦犯せんぱんあるいはだい東亜とうあ戦争せんそうというものにたいする審判しんぱん歴史れきしがいたすであろう」とこたえた[64]
  • 戦後せんご靖国神社やすくにじんじゃいち民間みんかん宗教しゅうきょう法人ほうじんであり、どのようなかんがかた祭祀さいしおこなっても自由じゆうであり、国家こっか政治せいじ介入かいにゅうしてぶんまつせまることは、政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはんしできない[65]。1986ねんには神道しんとう政治せいじ連盟れんめいぶんまつ要請ようせい憲法けんぽう違反いはんとして抗議こうぎした[65]
  • 哲学てつがくしゃ高橋たかはし哲哉てつや靖国神社やすくにじんじゃ神社じんじゃことなるし、ぶんまつ拒否きょひは「日本にっぽん神社じんじゃ神道しんとう古来こらい伝統でんとうではない」として、ぶんまつ不可能ふかのうではなく、靖国神社やすくにじんじゃ遺族いぞくがそれを了承りょうしょうすればむと主張しゅちょうしている[65]。ただし、高橋たかはしはAきゅう戦犯せんぱんぶんまつ戦争せんそう責任せきにん問題もんだい矮小わいしょうするものであり、Aきゅう戦犯せんぱんスケープゴートにすることは昭和しょうわ天皇てんのう免責めんせきされた東京とうきょう裁判さいばん構図こうずふりふたつであるとも批判ひはんしている[65][66]。また高橋たかはしは、野中のなか広務ひろむ内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん当時とうじ)が1999ねん8がつに「だれかが戦争せんそう責任せきにんわなくてはならない」という発言はつげんについても戦争せんそう責任せきにん問題もんだい矮小わいしょうする発言はつげんであり、その状況じょうきょうながされて発言はつげんしたことは御都合主義ごつごうしゅぎとして批判ひはんしている[66]。また毎日新聞まいにちしんぶんぶんまつとは「まつ対象たいしょうからはずす」ことであり、可能かのうだと主張しゅちょうしている[67]
  • 2006ねん韓国かんこく聯合れんごうニュースは、かりにAきゅう戦犯せんぱんはずことができても、政治せいじ問題もんだい解消かいしょうしないならば、意味いみいと主張しゅちょうした[68]
  • 2015ねん8がつに、靖国神社やすくにじんじゃ共同通信社きょうどうつうしんしゃ質問しつもんたいして「自衛じえいかん戦死せんししても靖国神社やすくにじんじゃまつることはしない」と回答かいとうした[69]

国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ設置せっち

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国家こっかてき常設じょうせつ戦没せんぼつしゃ追悼ついとう施設しせつ必要ひつようだが、靖国神社やすくにじんじゃでは歴史れきしてき宗教しゅうきょうてき国際こくさいてきなどの問題もんだいがあるとかんがえる立場たちばからは、靖国神社やすくにじんじゃわる国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ設置せっちするという提案ていあんされており、それへの反対はんたい意見いけんふくめ、議論ぎろん存在そんざいしている。

靖国神社やすくにじんじゃ常設じょうせつ施設しせつであるが、戦後せんごいち宗教しゅうきょう法人ほうじんであり、国立こくりつではなく、神道しんとう神社じんじゃであり、戦前せんぜん国家こっか神道しんとう戦後せんごのいわゆるAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし問題もんだいへの議論ぎろん存在そんざいしている。靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか管理かんり施設しせつ復活ふっかつさせるあんとして靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん国会こっかい提出ていしゅつされたが、宗教しゅうきょうしょくうすめる内容ないようへの反対はんたいもあり廃案はいあんとなった。Aきゅう戦犯せんぱんの「ぶんまつ」は「不可能ふかのう」として靖国神社やすくにじんじゃ拒否きょひしている。

隣接りんせつする千鳥ケ淵ちどりがふち戦没せんぼつしゃはかえん国立こくりつ宗教しゅうきょう形式けいしき施設しせつであるが、おさめられているのはがない無名むめい戦士せんし遺骨いこつのみであり、戦死せんししゃ全体ぜんたい追悼ついとう慰霊いれいするではない。

1952ねん以降いこう全国ぜんこく戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしき毎年まいとし開催かいさいされ、特定とくてい宗教しゅうきょうによらないかたち天皇てんのう内閣ないかく総理そうり大臣だいじん衆参しゅうさん議長ぎちょう最高裁判所さいこうさいばんしょ長官ちょうかんなども出席しゅっせきしている。対象たいしょう民間みんかん空襲くうしゅう被災ひさいしゃなどもふくむが、常設じょうせつ施設しせつではない。なお1964ねん靖国神社やすくにじんじゃ開催かいさいされたがスペースの問題もんだいもあり、以後いご日本武道館にほんぶどうかん開催かいさいされている。

以上いじょう現状げんじょう前提ぜんていに、くに公式こうしき戦士せんし戦没せんぼつしゃ追悼ついとうする常設じょうせつ施設しせつ必要ひつようとの立場たちばからは、あらたな国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ必要ひつようとの意見いけんがあり、そのなかには千鳥ケ淵ちどりがふち戦没せんぼつしゃはかえん拡充かくじゅうあんもある。なお国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ設置せっちろん靖国神社やすくにじんじゃ廃止はいしろんではない(そもそも民間みんかんいち宗教しゅうきょう法人ほうじん国家こっか廃止はいしするなど信教しんきょう自由じゆうじょう不可能ふかのうである)。ただし現在げんざい民間みんかんいち宗教しゅうきょう法人ほうじんである靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか公式こうしき追悼ついとう慰霊いれい役割やくわりになわせることそのものは、地鎮祭じちんさい訴訟そしょうしめされた目的もくてき効果こうか基準きじゅんらし政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはん憲法けんぽう違反いはんである(愛媛えひめけん靖国神社やすくにじんじゃ玉串たまぐしりょう訴訟そしょう)。

公明党こうめいとうは「日本にっぽん国民こくみん外国がいこく要人ようじん天皇陛下てんのうへいかもわだかまりなく、しんから戦没せんぼつしゃ追悼ついとうできるような施設しせつのありかた検討けんとうしてもいいのではないか」と「国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ」に賛成さんせいしている[70]。2001ねん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう政権せいけん時代じだい首相しゅしょう官邸かんていにおいて、戦没せんぼつしゃ追悼ついとう施設しせつかた必要ひつようせい既存きそん施設しせつとの関係かんけいについて議論ぎろんするため「追悼ついとう平和へいわ祈念きねんのための記念きねんとう施設しせつかたかんがえる懇談こんだんかい[71]もうけられ、2002ねん報告ほうこくしょされた。また2005ねん超党派ちょうとうは議員ぎいん連盟れんめい国立こくりつ追悼ついとう施設しせつかんがえるかい発足ほっそくした。

なお、他国たこく国立こくりつ追悼ついとう施設しせつにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアーリントン国立こくりつ墓地ぼちイギリス連邦れんぽうコモンウェルス戦争せんそう墓地ぼち委員いいんかい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく人民じんみん英雄えいゆうねん韓国かんこく国立こくりつソウルあきらちゅういん戦争せんそう記念きねんかん (韓国かんこく)北朝鮮きたちょうせん愛国あいこく烈士れっしりょうインドネシアカリバタ英雄えいゆう墓地ぼちなどがある。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアーリントン国立こくりつ墓地ぼち南北戦争なんぼくせんそうつくられたが、きたぐんみなみぐん双方そうほう兵士へいし埋葬まいそうされている。くにめた埋葬まいそう基準きじゅんたしたなかでの希望きぼうしゃ埋葬まいそうされ、敷地しきちない教会きょうかいキリスト教きりすときょうだが、埋葬まいそう慰霊いれい追悼ついとうさいには、キリストきょう形式けいしきかぎらずどの宗教しゅうきょう形式けいしきでも、あるいは宗教しゅうきょう形式けいしきでも、本人ほんにん遺族いぞく自由じゆう選択せんたくできる。一方いっぽう靖国神社やすくにじんじゃ東京とうきょう招魂しょうこんしゃとして戊辰戦争ぼしんせんそうつくられたがまつられているのは維新いしん政府せいふぐんのみであり、まくぐんがわきゅう士族しぞく反乱はんらん西南せいなん戦争せんそうなど)の死者ししゃなどはまつられていない。現在げんざい民間みんかんいち宗教しゅうきょう法人ほうじんであり、くにとの公的こうてきかかわりはなく、生前せいぜん本人ほんにん宗教しゅうきょう信仰しんこうかかわりなく合祀ごうしされるが、合祀ごうし形式けいしき神道しんとう形式けいしきかぎられる。そのまつられる基準きじゅん靖国神社やすくにじんじゃさだめ、事前じぜん遺族いぞくなどに合祀ごうし同意どういもとめず、遺族いぞくなどが合祀ごうししまたは合祀ごうしもとめてもそれにはおうじず、そういったことと無関係むかんけい勝手かってまつるものである。

合祀ごうしされたAきゅう戦犯せんぱん14めいなかでも広田ひろた弘毅こうき遺族いぞくまご弘太郎こうたろうは「合意ごういしたおぼえはない。いま靖国神社やすくにじんじゃ祖父そふまつられているとはかんがえていない」とはなした。靖国やすくにからむこれらのおもいは「広田ひろた代表だいひょうするかんがえ」としている[72]

2013ねん5がつ訪米ほうべい安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうが「日本人にっぽんじん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいするのは米国べいこくじんがアーリントン墓地ぼち参拝さんぱいするのとおなじ」と『フォーリンアフェアーズ』こたえた。それにたい韓国かんこくの『中央日報ちゅうおうにっぽう』は「アーリントンが国民こくみん統合とうごう和解わかい象徴しょうちょうなら、靖国やすくに戦死せんししゃ顕彰けんしょうする軍国ぐんこく主義しゅぎ象徴しょうちょうにすぎない」として批判ひはんした[73]。2013ねん10がつ3にち米国べいこくジョン・ケリー国務こくむ長官ちょうかんチャック・ヘーゲル国防こくぼう長官ちょうかん千鳥ちどりふち戦没せんぼつしゃはかえんおとずれ、献花けんかした。千鳥ちどりふち戦没せんぼつしゃはかえんによると、この訪問ほうもん日本にっぽん招待しょうたいではなく米国べいこくがわ意向いこうであった。同行どうこうした米国防総省べいこくぼうそうしょう高官こうかん記者きしゃだんたいし、千鳥ちどりふち戦没せんぼつしゃはかえんはアーリントン国立こくりつ墓地ぼちに「もっとちか存在そんざい」だと説明せつめいした。ケリーとヘーゲルは「日本にっぽん防衛ぼうえいしょうがアーリントン国立こくりつ墓地ぼち献花けんかするのとおなじように」戦没せんぼつしゃ哀悼あいとうしめしたとべた。安倍あべが5月に訪米ほうべいしたさい靖国神社やすくにじんじゃ米国べいこくのアーリントン国立こくりつ墓地ぼちになぞらえたことにたいする牽制けんせいとみられる[74]。その2013ねん12月に安倍あべ参拝さんぱいするとかん官房かんぼう長官ちょうかん記者きしゃ会見かいけんで「宗教しゅうきょう国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ建設けんせつ構想こうそうについては『国民こくみん理解りかいされ、敬意けいいあらわされることがきわめて大事だいじなことだ。国民こくみん世論せろん動向どうこう見極みきわめながら慎重しんちょう検討けんとうすることが大事だいじだ』とべ、現時点げんじてんではかんがえがないことを示唆しさした」[75]。また安倍あべ参院さんいん予算よさん委員いいんかいで「おおくのご遺族いぞく方々かたがたがどうおもわれるかが大変たいへんおおきな問題もんだいだ」としん施設しせつ慎重しんちょう姿勢しせいしめした。また首相しゅしょう側近そっきん萩生田はぎうだ光一こういち総裁そうさい特別とくべつ補佐ほさは「しん施設しせつけっして無駄むだとはおもわないが、靖国やすくにへのおもいとはことなる」と指摘してきした[76]公明党こうめいとうは2013ねん12月に安倍あべ参拝さんぱいをうけて「どのような立場たちばひともわだかまりなく追悼ついとうできる施設しせつ」を提案ていあんした[77]

日本にっぽん遺族いぞくかいは「靖国神社やすくにじんじゃわるあらたな追悼ついとう施設しせつみとめない」との立場たちばで、設置せっち不要ふようである。

もと陸軍りくぐん少尉しょうい小野田おのだひろしろうは、「んだらかみさまになつておう」と約束やくそくした場所ばしょ靖国神社やすくにじんじゃであり、戦後せんごその靖国神社やすくにじんじゃ国家こっかまもらないことにたいして、「くにわたしたちがんだら靖国神社やすくにじんじゃまつると約束やくそくしておいて、戦争せんそうけてしまったら、靖国やすくになどらないというのはあまりにも身勝手みがって」という見解けんかいしめし、靖国神社やすくにじんじゃとはまったべつ追悼ついとう施設しせつつくるというのは、「んだ人間にんげんたいする裏切うらぎり」行為こういだと批判ひはんしている[9]

れい璽簿

[編集へんしゅう]

靖国神社やすくにじんじゃでは、戦没せんぼつしゃとしていったん合祀ごうしされたものののちになって生存せいぞんしていることがあきらかになった場合ばあい祭神さいじん簿に「生存せいぞん確認かくにん」との注釈ちゅうしゃくけるにとどめ、れい璽簿削除さくじょ訂正ていせいしない。この処置しょちは、のち生存せいぞん確認かくにんされた横井よこい庄一しょういち小野田おのだひろしろう、そして韓国かんこくなど海外かいがい生存せいぞんしゃについても同様どうようである[78]。また、この毎日新聞まいにちしんぶん記事きじによれば「死亡しぼうしていない以上いじょう、もともと合祀ごうしされておらず、たましいもここにはていない」と靖国神社やすくにじんじゃ説明せつめいしている。

れい璽簿を一切いっさい変更へんこうせずただ名前なまえ追加ついかするのみという靖国神社やすくにじんじゃ態度たいどは、生存せいぞんしゃだけでなく内外ないがい遺族いぞく削除さくじょ要求ようきゅうたいしても一貫いっかんしている[よう出典しゅってん]

朝鮮ちょうせん戦争せんそうでの殉職じゅんしょくしゃ合祀ごうし拒否きょひ問題もんだい

2006ねん平成へいせい18ねん)9がつ2にちけの各紙かくし報道ほうどうによれば、朝鮮ちょうせん戦争せんそうなかの1950ねん昭和しょうわ25ねん)10がつべいぐん要請ようせい北朝鮮きたちょうせん元山もとやまおき掃海そうかい作業さぎょうちゅう乗船じょうせんしていた掃海そうかいてい機雷きらい爆発ばくはつ殉職じゅんしょくした海上保安庁かいじょうほあんちょう職員しょくいん当時とうじ21)の男性だんせい遺族いぞく(79)が、靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうし申請しんせいしていたが、神社じんじゃがわ合祀ごうし要請ようせい拒否きょひしていたことがあきらかになった。神社じんじゃがわ8がつ25にちづけ回答かいとうしょで「時代じだいごとの基準きじゅんによってくにが『戦没せんぼつしゃ』とみとめ、名前なまえ判明はんめいしたほうをおまつりしてきた」「協議きょうぎ結果けっか朝鮮ちょうせん戦争せんそうにあっては現在げんざいのところ合祀ごうし基準きじゅんがい」とした。海上保安庁かいじょうほあんちょうは、日本国にっぽんこく憲法けんぽう発効はっこうしていたことから、遺族いぞく口外こうがいきんじ、事故じこ記録きろく廃棄はいきされたという。男性だんせい遺族いぞくは「戦後せんごの『戦死せんししゃだい1ごうであり、神社じんじゃには再考さいこうもとめたい」とはなしている[79]。なお、この職員しょくいんには、戦没せんぼつしゃ叙勲じょくんはされたものの、恩給おんきゅう支給しきゅうされていない[よう出典しゅってん]

特攻とっこう作戦さくせん関与かんよした海軍かいぐん中枢ちゅうすう将官しょうかんのうち、終戦しゅうせん直後ちょくご8がつ15にちに「オレもからかならく」とってそれを実行じっこうした宇垣うがきまといは、靖国神社やすくにじんじゃまつられていない[よう出典しゅってん]終戦しゅうせん直後ちょくご部下ぶかとも特攻とっこうした(特別とくべつ攻撃こうげきたい#日本にっぽん海軍かいぐん行為こういが、停戦ていせん命令めいれい理由りゆうなき戦闘せんとう行為こういきんじた海軍かいぐん刑法けいほう31じょう抵触ていしょくするものであり、また、無駄むだ部下ぶか道連みちづれにしたことが非難ひなんされてもおり、部下ぶかふく戦死せんししゃ(あるいは受難じゅなんしゃ)とはみとめられていない[よう出典しゅってん]。しかし、特攻とっこう作戦さくせん命令めいれいくだした人物じんぶつとして自決じけつにより責任せきにんった、と評価ひょうかする有識者ゆうしきしゃなかからは、靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしすべきとの意見いけんている。そのため郷里きょうりである岡山おかやまけん護国ごこく神社じんじゃ境内けいだいには、かれ部下ぶかじゅうなな勇士ゆうしの「菊水きくすい慰霊いれい」が建立こんりゅうされている。

その問題もんだいてん

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神道しんとうにおける教義きょうぎじょう問題もんだい

戦後せんご折口おりぐち信夫しのぶは、神道しんとうにおける人物じんぶつしんは、とく政治せいじてき問題もんだいについて、こころざしげることなくうらみをいだきながらくなった死者ししゃなぐさめるためにまつったものであり(所謂いわゆる御霊みたま信仰しんこうす)、「護国ごこく英雄えいゆう」のように死後しご賞賛しょうさん対象たいしょうとなるような人物じんぶつしん祭祀さいしすることは神道しんとう教学きょうがくじょう問題もんだいがある、とべている[よう出典しゅってん]。ただし、実際じっさいには近代きんだい以前いぜんでも豊国とよくに大明神だいみょうじん豊臣とよとみ秀吉ひでよし)やあずまあきらだい権現ごんげん徳川とくがわ家康いえやす)のようなれいがあるほか、明治めいじ以降いこうには鍋島なべしま直正なおまさよしみ神社じんじゃ山内やまうち一豊かずとよ山内やまうち神社じんじゃなど、うらみをいてくなったわけでもない古代こだい以来いらい幕末ばくまつまでの忠臣ちゅうしん名将めいしょうまつ神社じんじゃ各地かくち創建そうけんされている。

また哲学てつがくしゃ高橋たかはし哲哉てつや豊国とよくに大明神だいみょうじんはいまつ明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんりなどをげて、ぶんまつはいまつ出来できないとする靖国神社やすくにじんじゃ見解けんかいたいして、日本にっぽん伝統でんとうてき日本にっぽん神道しんとうのありかたのっとれば可能かのうであると主張しゅちょうしている[80]

祭神さいじんとなる基準きじゅん

戊辰戦争ぼしんせんそう明治維新めいじいしん戦死せんししゃではしん政府せいふぐんがわのみがまつられ、賊軍ぞくぐんとされたきゅう幕府ばくふぐんあきらたい新撰しんせんぐみふくむ)や奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん戦死せんししゃ対象たいしょうがい西南せいなん戦争せんそうにおいても政府せいふぐんがわのみがまつられ、西郷さいごう隆盛たかもり薩摩さつまぐん対象たいしょうがい西郷さいごうぐん戦死せんししゃ刑死けいししゃ鹿児島かごしまみなみしゅう神社じんじゃまつられている。)[81]

軍人ぐんじん軍属ぐんぞく戦死せんししゃ戦病死せんびょうししゃ自決じけつしゃ対象たいしょうで、戦闘せんとうまれたり空襲くうしゅうくなった文民ぶんみん民間みんかんじん対象たいしょうがい[よう出典しゅってん]。また、戦後せんごのいわゆる東京とうきょう裁判さいばんなどの軍事ぐんじ法廷ほうてい判決はんけつによる刑死けいししゃ勾留こうりゅう服役ふくえきちゅう死亡しぼうしたもの合祀ごうしされ、合祀ごうしされたものなか文民ぶんみんふくまれている。なお、「軍人ぐんじん軍属ぐんぞく戦死せんししゃ戦病死せんびょうししゃ自決じけつしゃ戦犯せんぱん裁判さいばんける死者ししゃ」であれば、民族みんぞく差別さべつ部落ぶらく差別さべつひとし影響えいきょう一切いっさいい。

日本にっぽんにおける見解けんかい

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日本にっぽん政府せいふ見解けんかい

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日本にっぽん政府せいふは1951ねん連合れんごうこくとの講和こうわ条約じょうやく所謂いわゆる「サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく」)に署名しょめいし、そのだい11じょうにおいて「日本にっぽんこくは、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょならびに日本にっぽん国内こくないおよ国外こくがいほか連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい法廷ほうてい裁判さいばん受諾じゅだくし」とあり、日本にっぽんこくふくめて国際こくさいてきには戦争せんそう犯罪はんざいしゃであることは確定かくていしている。その条約じょうやく発効はっこう条約じょうやくだい11じょうもとづいて、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん参加さんかしたすべてのくに政府せいふ交渉こうしょうして、服役ふくえきちゅう受刑じゅけいしゃたいする恩赦おんしゃけい執行しっこう終了しゅうりょう釈放しゃくほう合意ごうい形成けいせいし、けい満了まんりょうしゃおよ服役ふくえきちゅう死亡しぼうしたもののぞいて全員ぜんいん恩赦おんしゃによりけい執行しっこう終了しゅうりょう釈放しゃくほうした。日本にっぽん国会こっかいは、国内こくない国外こくがい軍事ぐんじ裁判さいばん戦犯せんぱんとして有罪ゆうざい判決はんけつけたものは、国内こくないほうでは犯罪はんざいしゃではないと決議けつぎした。

  • 1952ねん6がつ9にち参議院さんぎいんほん会議かいぎにて「戦犯せんぱん在所ざいしょしゃ釈放しゃくほうとうかんする決議けつぎ[82]
  • 1952ねん12月9にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにて「戦争せんそう犯罪はんざいによる受刑じゅけいしゃ釈放しゃくほうとうかんする決議けつぎ[83]
  • 1953ねん8がつ3にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにて「戦争せんそう犯罪はんざいによる受刑じゅけいしゃ赦免しゃめんかんする決議けつぎ[84]
  • 1955ねん7がつ19にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにて「戦争せんそう受刑じゅけいしゃ即時そくじ釈放しゃくほう要請ようせいかんする決議けつぎ[85]
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)12月3にち - 逢澤ひろし自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんが、「今度こんどできるおはか」(1959ねん竣工しゅんこう千鳥ケ淵ちどりがふち戦没せんぼつしゃはかえん)はぜん戦没せんぼつしゃ対象たいしょうとするものではないので政府せいふとして代表だいひょうてき慰霊いれい施設しせつとのあつかいはせず外国がいこく要人ようじん招待しょうたいしないよう要求ようきゅうする質問しつもんをして、小林こばやし英三えいぞう厚生こうせい大臣だいじんがこれをれている[86]

2005ねん10がつ25にち衆議院しゅうぎいんにおいて、当時とうじ小泉こいずみ内閣ないかく[87]政府せいふだい大戦たいせん終結しゅうけつ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょやその連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい法廷ほうてい判決はんけつにより、Aきゅう・Bきゅう・Cきゅう戦争せんそう犯罪はんざいじんとして有罪ゆうざい判決はんけつけた軍人ぐんじん軍属ぐんぞくらが死刑しけい禁固刑きんこけいなどをけたことについて、「くに国内こくないほうもとづいていいわたされたけいではない」と回答かいとうし、戦犯せんぱん名誉めいよ回復かいふくについては「名誉めいよ」および「回復かいふく」の内容ないよう明確めいかくではないという理由りゆう回答かいとうけた[88]みずからの参拝さんぱいについては「内閣ないかく総理そうり大臣だいじんである小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱいした」と公私こうし区別くべつ曖昧あいまいにしていたが、福岡ふくおか地裁ちさい判決はんけつけた小泉こいずみ首相しゅしょう記者きしゃだん質問しつもんに「私的してき参拝さんぱいってもいい」とかたり、公私こうし区別くべつをあえてあいまいにしてきた従来じゅうらい姿勢しせい転換てんかんさせた。

政党せいとう見解けんかい

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自由民主党じゆうみんしゅとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいまっていない。議員ぎいんなかには賛成さんせい反対はんたいもいる[89]過去かこに11にん首相しゅしょう多数たすう閣僚かくりょう参拝さんぱいしている。
立憲りっけん民主党みんしゅとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいまっていない。過去かこ首相しゅしょう経験けいけんしゃ閣僚かくりょう経験けいけん議員ぎいん参拝さんぱいしたことはない。
国民こくみん民主党みんしゅとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいまっていない。議員ぎいんなかには賛成さんせい反対はんたいもいる。過去かこ閣僚かくりょう経験けいけん議員ぎいん1人ひとり参拝さんぱいしている。
公明党こうめいとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい[90]閣僚かくりょう参拝さんぱいしたことはない。
日本にっぽん共産党きょうさんとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい[91]
社会しゃかい民主党みんしゅとう
とうとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい閣僚かくりょう参拝さんぱいしたことはない。

日本にっぽん遺族いぞくかい見解けんかい

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2005ねん平成へいせい17ねん6月11にち日本にっぽん遺族いぞくかい会長かいちょう自由民主党じゆうみんしゅとう古賀こがまこと幹部かんぶが、「首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいがたいが、近隣きんりん諸国しょこくへの配慮はいりょ気配きくばりが必要ひつよう」との見解けんかいをまとめる。しかし、6月17にち遺族いぞくかい会員かいいんから「方針ほうしん転換てんかんし、参拝さんぱい中止ちゅうしもとめるものではないか」と懸念けねんこえ相次あいついだのをけ、「今後こんご総理そうり大臣だいじん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい継続けいぞくもとめ、靖国神社やすくにじんじゃわるあらたな追悼ついとう施設しせつみとめない。Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつ靖国神社やすくにじんじゃ自身じしん問題もんだいだ」とし、「総理そうりちゅうかん両国りょうこく首脳しゅのう理解りかいるよう努力どりょくするべきだ。」という従来じゅうらいどおりの方針ほうしん確認かくにんした。

経済けいざいかい見解けんかい

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関西かんさい経済同友会けいざいどうゆうかい
2006ねん平成へいせい18ねん4がつ18にち関西かんさい経済同友会けいざいどうゆうかいは、「歴史れきしり、歴史れきしえ、歴史れきしつくる」とだいした提言ていげん発表はっぴょう[92]。いわゆる歴史れきし認識にんしき問題もんだいは、ちゅうかんりょう政権せいけん国内こくない体制たいせい維持いじ反日はんにち感情かんじょう利用りようしている一方いっぽう日本にっぽんがわは、政府せいふ高官こうかんふくめ、日本人にっぽんじん自身じしん歴史れきしらず、生煮なまにえの歴史れきし対話たいわとなっていると指摘してき日本にっぽんは、ちゅうかん両国りょうこくとのより関係かんけい構築こうちく観点かんてんから毅然きぜんとした態度たいど外交がいこう交渉こうしょうのぞむことが肝要かんようべ、靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいかんしては、にちちゅう国交こっこう正常せいじょう原則げんそくのっとり、相互そうご内政ないせい不干渉ふかんしょうとすべきで、このてんにちかんあいだでも同様どうようであるとべた。
経済同友会けいざいどうゆうかい見解けんかい
2006ねん平成へいせい18ねん5月9にち経済同友会けいざいどうゆうかいは、「今後こんごにちちゅう関係かんけいへの提言ていげん」を発表はっぴょう[93]にちちゅう両国りょうこく首脳しゅのう交流こうりゅう再開さいかい障害しょうがい小泉こいずみ首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱいがあると指摘してきし、参拝さんぱい再考さいこうもとめた。これにたい首相しゅしょうは「商売しょうばいのことをかんがえてってくれるなというこえもたくさんあったが、それと政治せいじべつだとはっきりことわっている」とべた。公明党こうめいとう神崎かんざき武法たけのり代表だいひょう10日とおか経済けいざい現場げんば悪影響あくえいきょうはじめたとの危機ききかん表明ひょうめいしたが、小泉こいずみ首相しゅしょう10日とおかよるにちちゅうあいだ経済けいざい関係かんけいいままでになく拡大かくだいしているし、交流こうりゅうふかまっている」と参拝さんぱいによる影響えいきょう明確めいかく否定ひていした。2005年度ねんどにちちゅう貿易ぼうえきがくななねん連続れんぞく増加ぞうかし、過去かこ最高さいこうになっており、記録きろく更新こうしんちゅうつたえられた(2006ねん4がつ矢先やさきのことであった。

宗教しゅうきょうかい見解けんかい

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神社じんじゃ本庁ほんちょう
2005ねん6がつ9にち発表はっぴょうした声明せいめいで、靖国神社やすくにじんじゃ日本にっぽんにおける戦没せんぼつしゃ慰霊いれい中心ちゅうしんてき施設しせつであり、神社じんじゃ祭祀さいしにおける「ぶんまつ」は「分離ぶんり」とはことなり、首相しゅしょう参拝さんぱいすべきであり、いわゆる「Aきゅう戦犯せんぱん」は国内こくないほうじょう犯罪はんざいしゃではなく、公正こうせい裁判さいばんであった、との見解けんかい表明ひょうめいした[94]
しん日本にっぽん宗教しゅうきょう団体だんたい連合れんごうかい
信教しんきょう自由じゆうおよび政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく観点かんてんから、首相しゅしょう閣僚かくりょう公式こうしき参拝さんぱい反対はんたいしている。Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしについては、(いち宗教しゅうきょう法人ほうじんとしての)靖国神社やすくにじんじゃ判断はんだんであるとして、問題もんだいしないとしている[95]
全日本ぜんにほん仏教ぶっきょうかい
公式こうしき私的してきども首相しゅしょう閣僚かくりょう参拝さんぱい反対はんたいしている[95]
日本にっぽんキリスト教きりすときょう協議きょうぎかい
プロテスタントかく教派きょうは連合れんごう組織そしきである日本にっぽんキリスト教きりすときょう協議きょうぎかいは、首相しゅしょう閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたいするおおくのパンフレットを出版しゅっぱんしており、たびたび抗議こうぎ声明せいめい発表はっぴょうしている[96]
真宗しんしゅう教団きょうだん連合れんごう
浄土真宗じょうどしんしゅう連合れんごう組織そしきである真宗しんしゅう教団きょうだん連合れんごうは、首相しゅしょう閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいにたびたび抗議こうぎ声明せいめい発表はっぴょうしている[97]
創価学会そうかがっかい
日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい20じょう政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく抵触ていしょくするおそれがあるとして、首相しゅしょう参拝さんぱい反対はんたいしている[95]
幸福こうふく科学かがく
首相しゅしょう参拝さんぱい賛成さんせいしている。また、参拝さんぱい反対はんたいする中国ちゅうごく韓国かんこく主張しゅちょうについては、日本にっぽんにおける信教しんきょう自由じゆうたいする侵害しんがいであるとしている。信者しんじゃ参拝さんぱいすることにも肯定こうていてきである[95]

新聞しんぶんしゃ見解けんかい

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読売新聞社よみうりしんぶんしゃ
しゃとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい読売新聞よみうりしんぶんグループ本社ほんしゃ会長かいちょう渡邉わたなべ恒雄つねおは、「産経新聞さんけいしんぶん以外いがい日本にっぽんのメディアは戦争せんそう責任せきにん靖国神社やすくにじんじゃとう問題もんだいについて重要じゅうよう共通きょうつう認識にんしきをもっている」としている[98]渡邉わたなべ自身じしん首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいには反対はんたい立場たちばっており、「日本にっぽん首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいは、わたし絶対ぜったい我慢がまんできないことである。すべての日本人にっぽんじんはいずれも戦犯せんぱんがどのような戦争せんそうつみおかしたのかをるべきである。」[99]今後こんごだれ首相しゅしょうとなるかをわず、いずれも靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいしないことを約束やくそくしなければならず、これはもっと重要じゅうよう原則げんそくである。…もしそのひと首相しゅしょうになるなら、わたしもそのひと靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいしないと約束やくそくするようもとめなければならない。さもなければ、わたし発行はっこう部数ぶすう1000すうまんの『読売新聞よみうりしんぶん』のちからでそれをたおす」[100]べている。
朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
しゃとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい
毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ
しゃとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする批判ひはん靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい反対はんたい
産経新聞さんけいしんぶんしゃ
しゃとしての公式こうしき見解けんかいは、靖国神社やすくにじんじゃたいする肯定こうてい靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい賛成さんせい。『産経新聞さんけいしんぶん』では、社説しゃせつ主張しゅちょう」にて首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいとく終戦しゅうせん参拝さんぱい)をつよ要望ようぼうしており、参拝さんぱいしなかった歴代れきだい首相しゅしょう参拝さんぱい否定ひていてき政治せいじ批判ひはんしている[101][102][103]2009ねん平成へいせい21ねん)に麻生あそう太郎たろう首相しゅしょう終戦しゅうせん記念きねん参拝さんぱい見送みおくったことについても批判ひはんし、「再考さいこうもとめたい」と要望ようぼうしていた[103]同年どうねん8がつ31にちにおこなわれただい45かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自民党じみんとう大敗たいはいしたさいには、「麻生あそう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ終戦しゅうせん参拝さんぱいしなかったことへの国民こくみん失望しつぼうおおきかった」と論評ろんぴょうした[104]。また、国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ建設けんせつたいしても反対はんたい立場たちばっている[105][106]

国外こくがい公的こうてき機関きかんによる見解けんかい

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アメリカ政府せいふ

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2013ねん12月26にち安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて、ちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使館たいしかんは「日本にっぽん大切たいせつ同盟どうめいこくであり友人ゆうじんである」と前置まえおきし、「米国べいこく日本にっぽん指導しどうしゃ近隣きんりん諸国しょこくとの緊張きんちょう悪化あっかさせる行動こうどうったことに失望しつぼうしている」、「日本にっぽん近隣きんりん諸国しょこく地域ちいき平和へいわ安定あんてい我々われわれ共通きょうつう目標もくひょう推進すいしんするなかでの協力きょうりょく促進そくしんするための建設けんせつてき方法ほうほうつけることを期待きたいしている」、「首相しゅしょう過去かこへの反省はんせい表明ひょうめいし、日本にっぽん平和へいわ関与かんよしていくとさい確認かくにんしたことに注目ちゅうもくする」とする声明せいめい発表はっぴょうした[107][108][109][110]。これをけて朝日新聞あさひしんぶんは、べい政府せいふ日本にっぽん首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱい批判ひはんしたのは異例いれいであるとほうじた[111]国務省こくむしょう報道ほうどうかんちゅうにち大使館たいしかんどう内容ないよう談話だんわ発表はっぴょうした[112]。その、12月31にち国務省こくむしょうのハーフふく報道ほうどうかんは、会見かいけんで「失望しつぼう」という言葉ことばについて質問しつもんされ、「日本にっぽん指導しどうしゃ行動こうどう近隣きんりん諸国しょこくとの関係かんけい悪化あっかしかねないことにたいするもので、それ以上いじょううことはありません」とこたえ、これをけてTBSニュースは、「失望しつぼうした」という言葉ことばは、靖国やすくに参拝さんぱいそのものではなく、近隣きんりん諸国しょこくとの関係かんけい悪化あっか懸念けねん表明ひょうめいしたことを強調きょうちょうした、とほうじた[113]どう会見かいけんではに、「日本にっぽん指導しどうしゃ近隣きんりん諸国しょこくとの関係かんけい悪化あっかさせるような行動こうどうったことに失望しつぼうしている」、「日本にっぽん大切たいせつ同盟どうめいこく様々さまざま課題かだい解決かいけつする緊密きんみつなパートナー。これはわらず、今後こんご日米にちべい意見いけんことなることははなつづける」とべた[114]

TBSニュース(12月31にち)は、「失望しつぼう」という表現ひょうげんについては、アメリカの一部いちぶ有識者ゆうしきしゃから「戦没せんぼつしゃ追悼ついとう方法ほうほうくにがとやかくうべきではない」という指摘してきがっているとしている[113]カート・キャンベルぜん国務こくむ次官補じかんほは2014ねん1がつ15にち戦略せんりゃく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょにおける会合かいごう安倍あべ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて「アメリカの外交がいこう政策せいさくたすけにはならない。こめにちなかかんあいだ緊張きんちょうたかまっておりあらたな懸念けねんをもたらす」と批判ひはんし、マイケル・グリーンもと国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎ(NSC)アジア上級じょうきゅう部長ぶちょうどう会合かいごうで、参拝さんぱいに「失望しつぼうしている」とした国務省こくむしょう対応たいおうを「ただしい反応はんのうだった」と指摘してきしつつ、「日米にちべい防衛ぼうえい協力きょうりょくのための指針ししんさい改定かいていといった日米にちべいあいだ課題かだい変化へんかすることはない。それらの課題かだい米国べいこく国益こくえきでもある」と、参拝さんぱい日米にちべい関係かんけいあたえる影響えいきょう限定げんていてきとの認識にんしきべた[115]

べいウォール・ストリート・ジャーナル電子でんしばん)は2014ねん1がつ23にち複数ふくすうべい政府せいふ当局とうきょくしゃはなしとして、安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいかえさない保証ほしょうを、べい政府せいふ日本にっぽん政府せいふ非公式ひこうしきもとめているとつたえた。にちちゅうにちかん関係かんけいがさらに悪化あっかすることを懸念けねんしているとみられる。同紙どうしによると、べい政府せいふ参拝さんぱいにワシントンと東京とうきょうひらかれた日本にっぽんがわとの「一連いちれん会談かいだん」をつうじ、近隣きんりん諸国しょこくをいらたせるさらなる言動げんどう首相しゅしょうひかえるよう要請ようせいにちべいかん連携れんけい阻害そがいしているにちかん関係かんけい改善かいぜんけて韓国かんこくはたらきかけるよううながし、従軍じゅうぐん慰安いあん問題もんだい対処たいしょすることももとめた。さらに今後こんご過去かこ侵略しんりゃく植民しょくみん支配しはいたいする「おわび」をさい確認かくにんすることを検討けんとうするよう首相しゅしょうもとめるかんがえだという。べい国務省こくむしょうふく報道ほうどうかんのハーフは23にち記者きしゃ会見かいけんで、同紙どうし報道ほうどうについてわれ、「事実じじつかどうかからない」とべた[116]

リチャード・アーミテージもと国務こくむふく長官ちょうかんは2014ねん2がつ27にち首都しゅとワシントンでひらかれたシンポジウムで、安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて「中国ちゅうごく政府せいふよろこんだはずだ」とべ、中国ちゅうごく日本にっぽん批判ひはん結果けっかてき後押あとおしするかたちになったという意味いみ反対はんたいだとかたった。日本にっぽん政府せいふ首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい自体じたいについては「日本にっぽん指導しどうしゃくに全体ぜんたいにとってなに最善さいぜんかをかんがえてめることだ」とはなした。中国ちゅうごくが「(だい世界せかい大戦たいせん国際こくさい秩序ちつじょ基礎きそとなった)カイロ宣言せんげんやポツダム宣言せんげんれていないのが日本にっぽんだ」との批判ひはんひろめているとし、「中国ちゅうごく政府せいふ首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱいよろこんだはずだ。なぜなら、かれらは参拝さんぱい各国かっこく外交がいこう担当たんとうしゃ電話でんわをし『た? ったとおりでしょ』とうだけでかったからだ。これが参拝さんぱいへの反対はんたい理由りゆうだ」とかたった。またアミテージもと国務こくむふく長官ちょうかんかりに(靖国神社やすくにじんじゃから)Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつされても中国ちゅうごくは(靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだいつづけるとの見方みかたしめした[117][118]

国連こくれん

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国際こくさい連合れんごうは、1946ねんだい1かいから2012ねんだい67かいまでの国際こくさい連合れんごう総会そうかいにおいて、日本にっぽんたいして首相しゅしょう国務大臣こくむだいじん衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議長ぎちょうなどの立法府りっぽうふ行政府ぎょうせいふ要人ようじんによる、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい禁止きんし自粛じしゅく決議けつぎとして採択さいたくしたことはなく、決議けつぎあん総会そうかい安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい経済けいざい社会しゃかい理事りじかい人権じんけん理事りじかい提案ていあんされたことはない[119][120]

2013ねん12月26にち安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいけて、はんはじめぶん国連こくれん事務じむ総長そうちょう報道ほうどうかんは27にち安倍あべ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて「過去かこかんする緊張きんちょうが、いまも(北東ほくとうアジアの)地域ちいき苦悩くのうさせていることは非常ひじょう遺憾いかんだ」との声明せいめいした。声明せいめいは「事務じむ総長そうちょう共有きょうゆうする歴史れきしかんして、共通きょうつう認識にんしき理解りかいつよう一貫いっかんしてうながしてきた」と指摘してき事務じむ総長そうちょう被害ひがいしゃ感情かんじょう敏感びんかんであることや、相互そうご信頼しんらいきずくことの重要じゅうようせい強調きょうちょうしているとして、指導しどうしゃは「特別とくべつ責任せきにん」をっていることをげた[121]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふ

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中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふは、1979ねん4がつにAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしおおやけになったときから1985ねん7がつまでの6ねん4がつあいだ、3にん首相しゅしょうけい21かい参拝さんぱいしたことにたいしてはなん反応はんのうしめさなかったが、1985ねん8がつ中曽根なかそね首相しゅしょう参拝さんぱい以後いごは、「Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしされている靖国神社やすくにじんじゃ首相しゅしょう参拝さんぱいすること」は、中国ちゅうごくたいする日本にっぽん侵略しんりゃく戦争せんそう正当せいとうすることであり、絶対ぜったい容認ようにんしないという見解けんかい表明ひょうめいつづけている。中国ちゅうごく政府せいふ国際こくさいてきおよび国内こくないてきに「日本にっぽん侵略しんりゃく戦争せんそう原因げんいん責任せきにん日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎにあり、日本にっぽん国民こくみんにはい。しかし日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん除去じょきょされた。」と説明せつめいしている。また1972ねんにちちゅう国交こっこう正常せいじょうさい共同きょうどう声明せいめいでは「日本にっぽんがわは、過去かこにおいて日本にっぽんこく戦争せんそうつうじて中国ちゅうごく国民こくみん重大じゅうだい損害そんがいあたえたことについての責任せきにん痛感つうかんし、ふか反省はんせいする。」とも記載きさいされている[122]。このため中国ちゅうごくからて「日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ責任せきにんしゃ象徴しょうちょう」であるAきゅう戦犯せんぱんを、現在げんざい日本にっぽん行政ぎょうせい最高さいこう責任せきにんしゃである首相しゅしょう行政府ぎょうせいふ幹部かんぶである閣僚かくりょうが、「賞賛しょうさんまたは称揚しょうよう」することは「歴史れきし問題もんだい」となるからである[123]

中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん政府せいふ

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当時とうじ日本にっぽんりょうであった台湾たいわんでは、台湾たいわんじん日本にっぽんへい高砂たかさご義勇ぎゆうたいへの徴兵ちょうへいによる戦死せんししゃ靖国やすくにへの合祀ごうしたいし、一部いちぶ批判ひはんがある。2005ねん民主進歩党みんしゅしんぽとうひねすいひらた政権せいけん台湾たいわんどく立派りっぱ政党せいとう関係かんけいしゃらが靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいしたさいには国内こくない賛成さんせい中立ちゅうりつ反対はんたいかれている(台湾たいわん団結だんけつ連盟れんめい靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい事件じけん)。事実じじつじょうの「在日ざいにち台湾たいわん大使館たいしかん」にあたる台北たいぺい駐日ちゅうにち経済けいざい文化ぶんか代表だいひょうしょは、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい批判ひはんする中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく牽制けんせいし、「小国しょうこくはすべて中国ちゅうごくしたにあるとなし、命令めいれい方式ほうしきによる外交がいこうすすめている。小泉こいずみ首相しゅしょうに、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいするなとっているのもこのためである。」との見解けんかい表明ひょうめいしている[124]

本省ほんしょうじんとしてはじめて中国ちゅうごく国民党こくみんとう主席しゅせき中華民国ちゅうかみんこく総統そうとうになった登輝とうき退任たいにん靖国やすくに参拝さんぱいしている[125]

中国ちゅうごく国民党こくみんとううまえいきゅう総統そうとうは、安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうによる2013ねん12月26にち靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいもと慰安いあんとされる女性じょせいたちの「傷口きずぐちしおをぬる」行為こういたるとして、「隣国りんごく慰安いあんけた迫害はくがいなどの悲惨ひさん歴史れきしすこしもかえりみていない」、「日本にっぽん政府せいふ行為こうい大変たいへん遺憾いかんだ」と非難ひなんした[126]うまえいきゅう政権せいけん台湾たいわん外交がいこう尖閣せんかく靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい日本にっぽんがわ動向どうこうつたわるごとにしていた批判ひはんてき声明せいめい報道ほうどうぶんによる抗議こうぎをしていた。

その、2016ねん5がつ政権せいけん交代こうたいきて民主進歩党みんしゅしんぽとう政権せいけんとなった蔡英文えいぶん総統そうとう時代じだいには、上記じょうきのような抗議こうぎ台湾たいわん外交がいこうがしなくなった[127]

韓国かんこく政府せいふ

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韓国かんこく政府せいふは「Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしされている靖国神社やすくにじんじゃ首相しゅしょう閣僚かくりょう参拝さんぱいすること」を問題もんだいしている[128]。ただし韓国かんこく場合ばあいは、にちかん併合へいごうから日本にっぽん降伏ごうぶくまでのあいだは、日本にっぽん併合へいごうされていたため、日本にっぽん交戦こうせん相手あいてこく戦勝せんしょうこくではないと同時どうじに、きゅう日本にっぽんぐんがわとしての募集ぼしゅう徴用ちょうよう結果けっか靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうしもの存在そんざいする。このため韓国かんこくおよび台湾たいわんでは、「靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうし訴訟そしょう」も発生はっせいしている[129]。なお、韓国かんこく政府せいふは2006ねん、Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつだけでは靖国やすくに問題もんだい解決かいけつにはならないとの認識にんしき政府せいふ方針ほうしんとして決定けっていしている[よう出典しゅってん]

シンガポール政府せいふ

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首相しゅしょうリー・シェンロンは 2005ねん5がつに「どう神社じんじゃには(だい2大戦たいせんの)戦争せんそう犯罪はんざいじんまつられており、シンガポールをふくおおくのくに人々ひとびと不幸ふこう記憶きおくこす。戦犯せんぱんをあがめる対象たいしょうにすべきではない」[130]、「わる記憶きおくおもこさせる。シンガポールじんふくおおくのひとにとって、靖国やすくに参拝さんぱい日本にっぽん戦時せんじちゅうわることをしたという責任せきにんれていないことの表明ひょうめい、とれる」[131]べ、2001ねん8がつには「日本にっぽん戦争せんそう責任せきにん問題もんだい片付かたづけていない」[132]、「戦犯せんぱん合祀ごうし(ごうし)されている靖国神社やすくにじんじゃ性格せいかくから、小泉こいずみ首相しゅしょう過去かこ侵略しんりゃく反省はんせいした談話だんわじゅうさんにち発表はっぴょうしたにもかかわらず近隣きんりんこく反発はんぱつきた」[132]批判ひはんしている。上級じょうきゅうしょうゴー・チョクトンも2006ねんに「日本にっぽん指導しどうしゃ靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいをやめ、戦没せんぼつしゃまつべつ方法ほうほうさぐるべきだ」とべた[133]。シンガポール外務省がいむしょう小泉こいずみ首相しゅしょうの2006年度ねんど参拝さんぱいけて、「小泉こいずみ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい遺憾いかんおもう。シンガポール政府せいふ靖国やすくに問題もんだいかんする立場たちばかえ表明ひょうめいしてきたが、それに変化へんかはない」「ひがしアジア域内いきない緊密きんみつ連携れんけい関係かんけいきずくという大局たいきょくてき共通きょうつう利益りえきたすけとはならない」と批判ひはんした[134]

他方たほうロイタろいた通信つうしん報道ほうどうによれば、小泉こいずみ首相しゅしょうリー・クァンユーもと首相しゅしょうとの会談かいだん記者きしゃだんたいし、「リーもと首相しゅしょうが、「靖国やすくに問題もんだい中国ちゅうごく心理しんりてきなプレッシャーをかけているだけで、にちちゅう友好ゆうこう底流ていりゅうわらない」とべたのにたいし、「わたしもそのとおりだとおもう」とこたえた。」とべている[135]共同通信きょうどうつうしんによれば、リーもと首相しゅしょうは、小泉こいずみ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて「(にちちゅうにちかん関係かんけいの)基礎きそつよいが、靖国やすくに問題もんだい不幸ふこうなことだ」と懸念けねん表明ひょうめい、そのうえで「アジアとの経済けいざい関係かんけいひととのつながりをみだすものではない」とも指摘してきしたとされる[136]

2013ねん12月に安倍あべ首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱいしたことにたいし、シンガポール外務省がいむしょう報道ほうどうかんは、「シンガポールは、安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいしたことを遺憾いかんおもっている。このような参拝さんぱいは、不満ふまんかえし、地域ちいき信頼しんらい信用しんよう構築こうちく役立やくだたないというのが、我々われわれ一貫いっかんした立場たちばだ。」とべた[137]

パキスタン政府せいふ

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パキスタンの外務省がいむしょうは、2013ねん12月27にち首相しゅしょう靖国やすくに参拝さんぱいかんする質問しつもんたいし、「地域ちいき他国たこく感情かんじょうきずつけ、地域ちいき調和ちょうわあやうくするような反応はんのうこすような行動こうどうつつしむべきだ。緊張きんちょうをもたらす過去かこ問題もんだい再燃さいねんすることなく、協力きょうりょく精神せいしん浸透しんとうすることをねがっている。」と表明ひょうめいした[138]

ロシア政府せいふ

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ロシア外務省がいむしょう公式こうしき代表だいひょうのルカシェビッチ情報じょうほう局長きょくちょうは、2013ねん12月26にち安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて、「遺憾いかんこさざるをえない」というコメントを発表はっぴょうした[139]

また2013ねん12月30にち中国ちゅうごくおうあつし外相がいしょうとロシアのラブロフ外相がいしょう電話でんわ会談かいだんし、安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいとも批判ひはんしたうえで、歴史れきし問題もんだい共闘きょうとうする方針ほうしん確認かくにんした。おうは「安倍あべ首相しゅしょう)の行為こういは、世界せかいすべての平和へいわあいする国家こっか人民じんみん警戒けいかいしんたかめた」とべ、参拝さんぱい批判ひはん。そのうえで「(ちゅう両国りょうこくは)はんファシスト戦争せんそう勝利しょうりこくとしてとも国際こくさい正義せいぎ戦後せんご国際こくさい秩序ちつじょまもるべきだ」とべ、歴史れきし問題もんだい共闘きょうとうするようけた。それにたいしラブロフは「靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいではロシアの立場たちば中国ちゅうごく完全かんぜん一致いっちする」とおうじ、日本にっぽんたいし「あやまった歴史れきしかんただすよううながす」と主張しゅちょうした[140]

欧州おうしゅう連合れんごう(EU)

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EU外務がいむ安全あんぜん保障ほしょう政策せいさく上級じょうきゅう代表だいひょう外相がいしょう)・キャサリン・アシュトン報道ほうどうかんは、2013ねん12月26にち安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて「建設けんせつてきではない」と批判ひはんする声明せいめい発表はっぴょうした[141][142]

フランス
  • フランスのシラク大統領だいとうりょう(2002ねん当時とうじ):参拝さんぱいまえ小泉こいずみ総理そうり大臣だいじんに「参拝さんぱいすれば日本にっぽんのアジアとの関係かんけいむずかしくなり、世界せかいなか日本にっぽん孤立こりつする危険きけんがある。注意ちゅういしてほしい」と忠告ちゅうこく[143]

その

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国際こくさい危機ききグループは、2005ねん12月に報告ほうこくしょ北東ほくとうアジアの紛争ふんそう底流ていりゅう」を提出ていしゅつし、「小泉こいずみ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい右翼うよくグループによる歴史れきし解釈かいしゃく修正しゅうせいする歴史れきし教科書きょうかしょ作成さくせいこころみはちゅうかん両国りょうこく警戒けいかいしん刺激しげきし、日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせんでの犯罪はんざい反省はんせいしていないとの感情かんじょう増幅ぞうふくさせた」「ドイツとことなり、自国じこく歴史れきし継続けいぞくてき批判ひはんてき検証けんしょうにほとんど関心かんしんしめしていない」と批判ひはんしている[144]

ホロコースト記録きろく保存ほぞんはんユダヤ主義しゅぎ監視かんしとうおこなっているユダヤけい団体だんたいサイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部ほんぶ米国べいこくロサンゼルス)は、2013ねん12月の安倍あべ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについて同月どうげつ26にち靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいを「倫理りんりはんしている」と非難ひなんする声明せいめいをクーパーふく所長しょちょう発表はっぴょうした。「戦没せんぼつしゃふくめ、くなったひといた権利けんりまんにんのものだが、戦争せんそう犯罪はんざい人道じんどうたいするつみ実行じっこうするようめいじたり、おこなったりした人々ひとびと一緒いっしょにしてはならない」と指摘してきした。北朝鮮きたちょうせん情勢じょうせい緊迫きんぱくしているなか安倍あべ首相しゅしょう参拝さんぱいしたことにも懸念けねん表明ひょうめいし、「安倍あべ首相しゅしょう目指めざしてきた日米にちべい関係かんけい強化きょうかや、アジア諸国しょこく連携れんけいして地域ちいき安定あんていさせようという構想こうそう打撃だげきあたえる」と批判ひはんした[145]

年表ねんぴょう

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靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいにまつわる歴史れきし以下いかげる。訴訟そしょうについては「#靖国やすくに問題もんだいかんする訴訟そしょう」のふし参照さんしょう

1932ねん5月5にち
学校がっこう教練きょうれんのために上智大学じょうちだいがく配属はいぞくされていた陸軍りくぐん将校しょうこうが、学生がくせい60めい引率いんそつ靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいしたさいカトリック信者しんじゃ学生がくせい2めい参拝さんぱい見送みおくったことにたいし、陸軍りくぐん圧力あつりょくをかけ、カトリック教会きょうかい弾圧だんあつ
1945ねん12月15にち
連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)の国家こっか神道しんとう廃止はいし方針ほうしん神道しんとう指令しれい」で、靖国神社やすくにじんじゃいち宗教しゅうきょう法人ほうじんに。
1946ねん9月
宗教しゅうきょう法人ほうじん靖国神社やすくにじんじゃ登記とうき完了かんりょう
1947ねん5月3にち
日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこう(政教せいきょう分離ぶんり規定きてい)。
1951ねん10月18にち
だい49だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん吉田よしだしげる以下いか閣僚かくりょう衆参しゅうさん両院りょういん議長ぎちょうそろって、靖国神社やすくにじんじゃ宗教しゅうきょう法人ほうじんになってはじめて挙行きょこうした秋季しゅうきれい大祭たいさい公式こうしき参拝さんぱい首相しゅしょう参拝さんぱいは6ねんぶり。この公式こうしき参拝さんぱいは、同年どうねん9がつ8にちたいにち講和こうわ条約じょうやく(いわゆるサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく)の調印ちょういんにともなうとされている。
1952ねん4がつ28にち
サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく発効はっこう
1955ねん11月17にち
政府せいふ統一とういつ見解けんかい政府せいふとしては従来じゅうらいから、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんその国務大臣こくむだいじん国務大臣こくむだいじんとしての資格しかく靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいすることは、憲法けんぽう20じょう3こうとの関係かんけい問題もんだいがあるとの立場たちば一貫いっかんしてきている」、「そこで政府せいふとしては従来じゅうらいから事柄ことがら性質せいしつじょう慎重しんちょう立場たちばをとり、国務大臣こくむだいじんとして靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいすることはひかえることを一貫いっかんした方針ほうしんとしてきたところである」。
1959ねん3月28にち
国立こくりつ千鳥ケ淵ちどりがふち戦没せんぼつしゃはかえん竣工しゅんこう
1964ねん8がつ15にち
靖国神社やすくにじんじゃ境内けいだい政府せいふ主催しゅさい戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしき開催かいさい
1969ねん6月30にち
自民党じみんとうはじめて靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん国会こっかい提出ていしゅつ。(審議しんぎ未了みりょう廃案はいあん)
1970ねん4がつ14にち
靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん、2度目どめ提出ていしゅつ。(5がつ13にち廃案はいあん)
1971ねん1がつ21にち
靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん、3度目どめ提出ていしゅつ。(5がつ24にち提案ていあん理由りゆう説明せつめいのち廃案はいあん)
1972ねん5月22にち
靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん、4度目どめ提出ていしゅつ。(6がつ16にち廃案はいあん)
1973ねん4がつ27にち
靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん、5度目どめ提出ていしゅつ。(衆院しゅういん内閣ないかく継続けいぞく審議しんぎ審議しんぎ凍結とうけつ)
1973ねん12月20にち
衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう前尾まえおしげる三郎さぶろう靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん審議しんぎ凍結とうけつ解除かいじょ
1974ねん5月25にち
靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん衆院しゅういんほん会議かいぎ可決かけつ。(6がつ3にち参議院さんぎいん廃案はいあん)
1975ねん8がつ15にち
だい66だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん三木みき武夫たけお参拝さんぱい。「私人しじん」としての参拝さんぱい私的してき参拝さんぱい4条件じょうけん公用こうようしゃ使用しよう玉串たまぐしりょう私費しひ支出ししゅつ肩書かたがきをけない、公職こうしょくしゃ随行ずいこうさせない)と明言めいげん首相しゅしょうによる終戦しゅうせん参拝さんぱいはじめて。
1976ねん6がつ
神社じんじゃ本庁ほんちょうおよび日本にっぽん遺族いぞくかい中心ちゅうしんとなって「英霊えいれいにこたえるかい」が結成けっせいされ、「首相しゅしょう閣僚かくりょうによる公式こうしき参拝さんぱい」を要請ようせいする運動うんどう展開てんかい
1978ねん8がつ15にち
だい67だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん福田ふくだ赳夫たけお参拝さんぱい公用こうようしゃ使用しよう公職こうしょくしゃ随行ずいこうのうえ「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん」と記帳きちょうしながらも、私的してき参拝さんぱい主張しゅちょう
1978ねん10月17にち
極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん(いわゆる東京とうきょう裁判さいばん)におけるAきゅう戦犯せんぱん14にん国家こっか犠牲ぎせいしゃ昭和しょうわ殉難じゅんなんしゃ」として合祀ごうし(よく1979ねん4がつ19にち新聞しんぶん報道ほうどうにより一般いっぱんられることとなる)。首相しゅしょう三木みきの「私的してき参拝さんぱいよん条件じょうけん」(1975ねん)を政府せいふ統一とういつ見解けんかいとしてみとめたことがないと内閣ないかく法制ほうせいきょく言明げんめい(参議院さんぎいん内閣ないかく委員いいんかい)。合祀ごうしされたのは、死刑しけいしょされた東條とうじょう英機ひでき広田ひろた弘毅こうき松井まついいし土肥どいはら賢二けんじ板垣いたがき征四郎せいしろう木村きむら兵太郎へいたろう武藤むとうあきらの7にんと、勾留こうりゅう服役ふくえきちゅう死亡しぼうした梅津うめづ美治よしはるろう小磯こいそ国昭くにあき平沼ひらぬま騏一郎きいちろう東郷とうごう茂徳しげのり白鳥しらとり敏夫としお松岡まつおか洋右ようすけ永野ながの修身しゅうしんの7にんけい14にん
1979ねん4がつ21にち
キリスト教徒きりすときょうとだい68だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん大平おおひら正芳まさよし春期しゅんきれい大祭たいさい参拝さんぱい(Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうし報道ほうどうの2にち)。
1980ねん8がつ15にち
だい70だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん鈴木すずき善幸ぜんこうとも閣僚かくりょう大挙たいきょして参拝さんぱい
1980ねん11月17にち
私人しじん参拝さんぱいみとめる官房かんぼう長官ちょうかん宮沢みやざわ喜一きいちが、衆議院しゅうぎいんにおける答弁とうべん(政府せいふ統一とういつ見解けんかい)「政府せいふ首相しゅしょうその国務大臣こくむだいじんがその資格しかく参拝さんぱいすることは、憲法けんぽう20じょう3こうとの関係かんけい問題もんだいがあるとの立場たちば一貫いっかんしている。違憲いけんとも合憲ごうけんとも断定だんていしていないが、違憲いけんではないかとのうたがいをなお否定ひていできない。そこで政府せいふは、国務大臣こくむだいじんとしての資格しかく靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいすることはひかえることを一貫いっかんした方針ほうしんとしてきたところである」[146]
1981ねん3月18にち
みんなで靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいする国会こっかい議員ぎいんかい」が結成けっせいされる。
1981ねん8がつ15にち
鈴木すずき善幸ぜんこう参拝さんぱい
1982ねん8がつ15にち
鈴木すずき善幸ぜんこう参拝さんぱい。マスコミの「私人しじん」か「公人こうじん」かの質問しつもんこたえず。
1984ねん1がつ5にち
だい72だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん中曽根なかそね康弘やすひろ参拝さんぱい質問しつもんに「内閣ないかく総理そうり大臣だいじんたる中曽根なかそね康弘やすひろ」とこたえる。現職げんしょく首相しゅしょう年頭ねんとう参拝さんぱい戦後せんごはつであった。
1985ねん8がつ9にち
官房かんぼう長官ちょうかん藤波ふじなみ孝生たかお私的してき諮問しもん機関きかん閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだいかんする懇談こんだんかい」(靖国やすくにこん)が、公式こうしき参拝さんぱい可能かのうとの報告ほうこくしょ発表はっぴょう
1985ねん8がつ14にち
官房かんぼう長官ちょうかん藤波ふじなみ孝生たかお談話だんわ中曽根なかそね首相しゅしょうは、首相しゅしょうとしての資格しかく靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいする。憲法けんぽう政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくとの関係かんけいつよ留意りゅういしており、公式こうしき参拝さんぱい宗教しゅうきょうてき意義いぎたないものであることを参拝さんぱい方式ほうしきなどであきらかにする。(かしわたず、玉串たまぐしりょうでなく供花きょうかりょう公費こうひから支出ししゅつするなどの)今回こんかい方法ほうほうであれば、憲法けんぽう禁止きんしする宗教しゅうきょうてき活動かつどう該当がいとうしないと判断はんだんした」。
1985ねん8がつ15にち
首相しゅしょう中曽根なかそね閣僚かくりょう17にん参拝さんぱい(「はい拍手はくしゅいちはい」の神道しんとう形式けいしきではなく、本殿ほんでん一礼いちれい公費こうひから供花きょうかりょう支出ししゅつ。これ以後いご参拝さんぱいは、形式けいしきじょう私的してき参拝さんぱいということになる)。以降いこう11年間ねんかん終戦しゅうせん参拝さんぱいおこなわれない時期じきつづいた。
1985ねん8がつ20日はつか
官房かんぼう長官ちょうかん藤波ふじなみ戦没せんぼつしゃたいする追悼ついとう目的もくてきとして本殿ほんでんまたは社頭しゃとう一礼いちれいする方式ほうしき参拝さんぱいすることはどうこう(憲法けんぽう20じょう3こう)の規定きてい違反いはんするうたがいはないとの判断はんだんいたった」ので「昭和しょうわ55ねん(1980ねん)11月17にち政府せいふ統一とういつ見解けんかいをそのかぎりにおいて変更へんこう」(衆議院しゅうぎいん)[25]
1986ねん8がつ14にち
内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん後藤田ごとうだ正晴まさはる談話だんわ昨年さくねん実施じっしした公式こうしき参拝さんぱいは、過去かこにおけるくに行為こういにより多大ただい苦痛くつう損害そんがいこうむった近隣きんりん諸国しょこく国民こくみんあいだに、そのようなくに行為こうい責任せきにんゆうするAきゅう戦犯せんぱんたいして礼拝れいはいしたのではないかとの批判ひはんみ、ひいては、くに様々さまざま機会きかい表明ひょうめいしてきた過般かはん戦争せんそうへの反省はんせいとそのうえった平和へいわ友好ゆうこうへの決意けついたいする誤解ごかい不信ふしんさえまれるおそれがある」ため「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん靖国神社やすくにじんじゃへの公式こうしき参拝さんぱいひかえることとした」[33]
1986ねん8がつ15にち
みんなで靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいする国会こっかい議員ぎいんかい(会長かいちょう奥野おくのまことあきら)が集団しゅうだん参拝さんぱい首相しゅしょう参拝さんぱい見送みおくった。
1988ねん3月14にち
あかほうたいから、中曽根なかそね康弘やすひろ事務所じむしょ竹下たけしたのぼるもと脅迫きょうはくじょうおくられた(差出さしで日付ひづけ3月11にち)。中曽根なかそねには「わがたい去年きょねんがつななにちのよる ぜんなまあん貴殿きでんねらった」、「靖国やすくに教科書問題きょうかしょもんだい民族みんぞく裏切うらぎった」、「もし処刑しょけいリストからはずしてほしければ 竹下たけした圧力あつりょくをかけろ」、竹下たけしたには「貴殿きでんはちがつ靖国やすくに参拝さんぱいをしなかったら わがたい処刑しょけいリストに名前なまえをのせる」という内容ないようだった。ぜんなまあん中曽根なかそね座禅ざぜんみにしばしばおとずれたぜんてらで、脅迫きょうはくじょう日時にちじには実際じっさい座禅ざぜんんでいたという。参拝さんぱい中止ちゅうしした中曽根なかそね標的ひょうてきにし、後継こうけい首相しゅしょうとなった竹下たけした参拝さんぱいせまったもの。
1991ねん1がつ10日とおか
仙台せんだい高裁こうさい岩手いわてけん靖国やすくに訴訟そしょう合憲ごうけん判決はんけつ。(はたろんとして違憲いけん言及げんきゅう総理そうり大臣だいじん公式こうしき参拝さんぱい違憲いけんとしたのははじめて)。
1991ねん9月4にち
1991ねん3がつはたろん不服ふふくとしたけん上告じょうこくし、仙台せんだい高裁こうさいは「岩手いわてけん判決はんけつ主文しゅぶん全面ぜんめん勝訴しょうそしている」として却下きゃっか。9月4にちに、この仙台せんだい高裁こうさい決定けってい不服ふふくとしたけん特別とくべつ抗告こうこくについて、最高裁さいこうさいだい2しょう法廷ほうていは「抗告こうこく理由りゆうがない」として却下きゃっか確定かくてい
1992ねん2がつ28にち
中曽根なかそね公式こうしき参拝さんぱい(1985ねん8がつ15にち)にたいする九州靖国神社公式参拝違憲訴訟の福岡ふくおか高裁こうさい判決はんけつ違憲いけん判示はんじ
1992ねん7がつ30にち
中曽根なかそね公式こうしき参拝さんぱい(1985ねん8がつ15にち)にたいする関西かんさい靖国やすくに公式こうしき参拝さんぱい訴訟そしょう大阪おおさか高裁こうさい判決はんけつ違憲いけんうたがいありと判示はんじ。のち確定かくてい
1996ねん7がつ29にち
だい82だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん橋本はしもと龍太郎りゅうたろう自身じしんの59さい誕生たんじょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい。11ねんぶり。
1997ねん4がつ2にち
愛媛えひめ玉串たまぐしりょう訴訟そしょう違憲いけん判決はんけつ最高裁さいこうさいだい法廷ほうてい判決はんけつ「たとえ戦歿せんぼつしゃ遺族いぞく慰藉いしゃ目的もくてきであってもけん靖国神社やすくにじんじゃ護国ごこく神社じんじゃなどに玉串たまぐしりょう公費こうひから支出ししゅつしたことは憲法けんぽう禁止きんしした宗教しゅうきょう活動かつどうにあたり、違憲いけんである」[147]
1999ねん8がつ6にち
官房かんぼう長官ちょうかん野中のなか広務ひろむ記者きしゃ会見かいけん個人こじんてき見解けんかいことわりつつ、「首相しゅしょうはじめすべての国民こくみんしんから慰霊いれいできるよう、ありかたかんがえる非常ひじょう重要じゅうよう時期じきにさしかかっている」、「Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつし、靖国やすくに宗教しゅうきょう法人ほうじんかくはずして純粋じゅんすい特殊とくしゅ法人ほうじんとして国家こっか犠牲ぎせいになった人々ひとびと国家こっか責任せきにんにおいておまつりし、国民こくみん全体ぜんたい慰霊いれいおこない、各国かっこく首脳しゅのう献花けんかしてもらえる環境かんきょうつくるべきではないか」とべた[148]
2001ねん5月9にち
だい87だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう戦没せんぼつしゃにおまいりすることが宗教しゅうきょうてき活動かつどうわれればそれまでだが、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいすることが憲法けんぽう違反いはんだとはおもわない」「しんをこめて敬意けいい感謝かんしゃまことをささげたい。そういうおもいをめて、個人こじんとして靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいするつもりだ」と衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ明言めいげん[149][150]
2001ねん7がつ11にち
公明党こうめいとう代表だいひょう神崎かんざき武法たけのり憲法けんぽう20じょう(政教せいきょう分離ぶんり)と89じょう(公費こうひ支出ししゅつ)に違反いはんするような(首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ)参拝さんぱい問題もんだいがある」。自由党じゆうとう党首とうしゅ小沢おざわ一郎いちろう連立れんりつむなかで、憲法けんぽう違反いはん理由りゆうにして消極しょうきょくてきならば、首相しゅしょう議論ぎろんしてきちんと結論けつろんさなくてはいけない。あいまいにすませるのはゆるされない」(日本にっぽん記者きしゃクラブでの党首とうしゅ討論とうろんで)。
2001ねん7がつ30にち
外務がいむ大臣だいじん田中たなか真紀子まきこコメント: 「憲法けんぽう20じょうにあるように、総理そうりくに最終さいしゅうてき責任せきにんしゃであり、国家こっか意思いしそのものだ。ここは個人こじんなにだとけるふうな姑息こそく手段しゅだん使つかわないでいただきたい」。
2001ねん8がつ13にち
小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱい参拝さんぱい反対はんたいする立場たちばからは参拝さんぱいしたことへの、参拝さんぱい積極せっきょくてき支持しじする立場たちばからは、前言ぜんげんひるがえして終戦しゅうせんけたことへの批判ひはんがった。参拝さんぱいは、8がつ11にち秘書官ひしょかんとおして「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう」というりの献花けんかりょう3まんえん私費しひ納入のうにゅう靖国やすくにへの往復おうふく公用こうようしゃもちいて内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん福田ふくだ康夫やすお秘書官ひしょかん随行ずいこう参集さんしゅうしょで「内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう」と記帳きちょう神社じんじゃ拝殿はいでんきよめる「おはらい」をけ、本殿ほんでん昇殿しょうでんして祭壇さいだん黙祷もくとうしたのち神道しんとうしきによらない一礼いちれい方式ほうしき参拝さんぱいおこなった。供花きょうかりょうではなく、献花けんかりょうとしたのは、兵庫ひょうごけん多紀たきぐん篠山しのやままち(げん丹波たんば篠山しのやま)が、ぼん戦没せんぼつしゃ遺族いぞく線香せんこうやロウソクを配布はいふしたことをめぐって憲法けんぽう政教せいきょう分離ぶんり原則げんそくはんするかをあらそった訴訟そしょうで、「ぼん」、「ごだん」、「英霊えいれい」、「そな」、「合掌がっしょう」などの宗教しゅうきょう用語ようご使つかった文書ぶんしょ違憲いけんにあたると判断はんだんした神戸こうべ地裁ちさい指摘してき考慮こうりょしたとされている[151]
2001ねん8がつ15にち
靖国神社やすくにじんじゃめんしたとおりで、靖国やすくに賛成さんせい反対はんたい衝突しょうとつがあり、こうじまち警察けいさつしょによると双方そうほう負傷ふしょうしゃたという。斎藤さいとう貴男たかおは、賛成さんせい一方いっぽうてき負傷ふしょうさせたとしている[152]
2001ねん11月1にち
小泉こいずみ公式こうしき参拝さんぱい(同年どうねん8がつ13にち)にたいする大阪おおさか松山まつやま福岡ふくおかかく地裁ちさい提訴ていそについて、小泉こいずみ首相しゅしょうがコメント: 「はなしにならんね。なかおかしいひとたちがいるもんだ。もうはなしにならんよ」(同日どうじつ各紙かくし夕刊ゆうかん翌日よくじつどう朝刊ちょうかん)。官房かんぼう長官ちょうかん福田ふくだのコメント: 「どこが憲法けんぽう違反いはんなんですかね。内閣ないかく総理そうり大臣だいじんである小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱいしたんですよ」、「そういうことをって、小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう信仰しんこう自由じゆうさまたげるというのは、それこそ憲法けんぽう違反いはんじゃないですか」。
2001ねん12月14にち
中国ちゅうごく韓国かんこくなどから批判ひはんたのをけ、内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん福田ふくだ康夫やすおは、国立こくりつ戦没せんぼつしゃ追悼ついとう施設しせつ建設けんせつする構想こうそうげ、私的してき諮問しもん機関きかん追悼ついとう平和へいわ祈念きねんのための記念きねんとう施設しせつかたかんがえる懇談こんだんかい」(座長ざちょう今井いまいたかし)を発足ほっそくさせた[153]
2002ねん2がつ
ブッシュ大統領だいとうりょうたいテロ戦争せんそう協力きょうりょくへの返礼へんれいめて靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいもうる。戦勝せんしょうこくであるアメリカの大統領だいとうりょう参拝さんぱいすれば批判ひはん根拠こんきょうしな可能かのうせいもあったが、当時とうじ政府せいふはそれを決断けつだんできず、日本にっぽんがわから要請ようせいして明治めいじ神宮じんぐうへの参拝さんぱい変更へんこう[154]
2002ねん3がつ
韓国かんこく駐在ちゅうざい武官ぶかん参拝さんぱい
2002ねん4がつ21にち
小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱい
2002ねん12月24にち
内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん福田ふくだ諮問しもん機関きかん追悼ついとう平和へいわ祈念きねんのための記念きねんとう施設しせつかたかんがえる懇談こんだんかい」が報告ほうこくしょ[155]提出ていしゅつ。「追悼ついとう平和へいわ祈念きねんおこなうための国立こくりつ宗教しゅうきょう恒久こうきゅうてき施設しせつ必要ひつようかんがえるが、最終さいしゅうてきには政府せいふ責任せきにん判断はんだんされるべきだ」。その懇談こんだんかい開催かいさいされていない。
2003ねん1がつ14にち
小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱい
2004ねん1がつ1にち
だい88だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう参拝さんぱい
2004ねん4がつ7にち
福岡ふくおか地方裁判所ちほうさいばんしょ小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい(2001ねん8がつ13にち)で被告ひこくがわ勝訴しょうそ判決はんけつ(亀川かめかわしんちょう裁判さいばんちょうはたろん違憲いけん言及げんきゅう)。それをけた小泉こいずみ首相しゅしょう記者きしゃだん質問しつもんに「私的してき参拝さんぱいってもいい」とかたり、公私こうし区別くべつをあえてあいまいにしてきた従来じゅうらい姿勢しせい転換てんかんさせた。
2004ねん11月25にち
千葉ちば地方裁判所ちほうさいばんしょ(裁判さいばんちょう安藤あんどう裕子ゆうこ)は、小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい(2001ねん8がつ13にち)について、参拝さんぱい公的こうてき認定にんていしたうえ被告ひこくがわ勝訴しょうそ判決はんけつ憲法けんぽう判断はんだんおこなわず)。
2004ねん12月8にち
日本にっぽん記者きしゃクラブでの講演こうえん公明党こうめいとう神崎かんざき武法たけのり代表だいひょうは、小泉こいずみ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいにちちゅう関係かんけい障害しょうがいになっていると指摘してき。「わたしからると解決かいけつ方法ほうほうは(1)参拝さんぱい自粛じしゅくする(2)Aきゅう戦犯せんぱんぶんまつ検討けんとうする(3)国立こくりつ追悼ついとう施設しせつ建設けんせつする――の3つしかない」とべた[156]
2005ねん4がつ27にち
中国ちゅうごくおうあつしちゅうにち大使たいしは、にちちゅうりょう政府せいふあいだで、靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいかんする「紳士しんし協定きょうてい」が存在そんざいし、首相しゅしょう外相がいしょう官房かんぼう長官ちょうかん参拝さんぱいすべきではないと、自民党じみんとう外交がいこう調査ちょうさかいでの講演こうえんなか発言はつげん中国ちゅうごく政府せいふ関係かんけいしゃは、「紳士しんし協定きょうてい」は、中曽根なかそね内閣ないかく当時とうじ中国ちゅうごくがわもとめにより口頭こうとうでなされたと発言はつげん日本にっぽん外務省がいむしょう関係かんけいしゃ協定きょうてい存在そんざい否定ひていよく4がつ28にち中曽根なかそねもと首相しゅしょうは「おう大使たいし記憶きおくちがい」とべて「紳士しんし協定きょうてい」の存在そんざい否定ひてい中国ちゅうごく大使館たいしかん電話でんわ抗議こうぎしたと記者きしゃだんかたる。
2005ねん9月29にち
靖国やすくに訴訟そしょう東京とうきょう高裁こうさい(浜野はまの惺(しずか)裁判さいばんちょう)は1しん千葉ちば地裁ちさい判決はんけつ支持しじ原告げんこくがわ控訴こうそ棄却ききゃくただ参拝さんぱい私的してきなものと変更へんこう憲法けんぽう判断はんだんおこなわず)。
2005ねん9月30にち
大阪おおさか高裁こうさい小泉こいずみやすしこく訴訟そしょう被告ひこくがわ勝訴しょうそ判決はんけつ(大谷おおや正治しょうじ裁判さいばんちょうはたろん小泉こいずみ首相しゅしょう参拝さんぱいをめぐる訴訟そしょうとしては高裁こうさい段階だんかいはつ違憲いけん言及げんきゅう)。
2005ねん11月3にち
中国ちゅうごくとうせん(おうへんに旋)国務こくむ委員いいん(前外相ぜんがいしょう)は、1985ねん中曽根なかそね首相しゅしょうによる靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいけ、首相しゅしょう外相がいしょうおよ官房かんぼう長官ちょうかん参拝さんぱいしないとの紳士しんし協定きょうていにちちゅうりょう政府せいふあいだむすんだと、訪中ほうちゅうしていた大阪おおさか京都きょうと兵庫ひょうごけんかく知事ちじとの会談かいだんなか発言はつげん
2005ねん11月5にち
公明党こうめいとう全国ぜんこく代表だいひょうしゃ会議かいぎとう代表だいひょう神崎かんざき武法たけのりは、「政権せいけん中枢ちゅうすうにある首相しゅしょう外相がいしょう官房かんぼう長官ちょうかん参拝さんぱい自粛じしゅくすべきだ。今後こんご自粛じしゅくもとめていく」、とべた。神崎かんざきはこれまで再三再四さいさんさいし首相しゅしょう自粛じしゅくもとめていたが、外務がいむ大臣だいじん官房かんぼう長官ちょうかんについてまで自粛じしゅく要求ようきゅうしたのははじめて。神崎かんざき発言はつげんは、4がつ27にち中国ちゅうごくおうあつしちゅうにち大使たいしが、にちちゅうりょう政府せいふあいだ首相しゅしょう外相がいしょうおよ官房かんぼう長官ちょうかん参拝さんぱいしないとの「紳士しんし協定きょうてい」が存在そんざいするとした発言はつげん念頭ねんとういたものとみられている(ただし日本にっぽん外務省がいむしょう中曽根なかそねもと首相しゅしょうは「紳士しんし協定きょうてい」の存在そんざい否定ひてい)。
2005ねん11月9にち
靖国神社やすくにじんじゃわる国立こくりつ戦没せんぼつしゃ追悼ついとう施設しせつ目指めざ超党派ちょうとうは議員ぎいん連盟れんめい国立こくりつ追悼ついとう施設しせつかんがえるかい」が発足ほっそく会長かいちょう山崎やまざきたく(自民党じみんとう2009ねん衆議院しゅうぎいんせん落選らくせん)、ふく会長かいちょう鳩山はとやま由紀夫ゆきお(民主党みんしゅとう)とふゆしば鉄三てつぞう(公明党こうめいとう)。設立せつりつ総会そうかいには福田ふくだ康夫やすお(自民党じみんとう)や当時とうじ公明党こうめいとう代表だいひょう神崎かんざき武法たけのりら100にん参加さんかした。
2006ねん8がつ15にち
小泉こいずみ首相しゅしょうは、自身じしん首相しゅしょうとしての最後さいごなつXデー参拝さんぱいするのではないか?」自民党じみんとう中心ちゅうしん内外ないがい推測すいそくされていたが、2006ねん8がつ15にち午前ごぜん740ふんごろ、現職げんしょく総理そうりとしては1985ねん中曽根なかそね康弘やすひろ以来いらい21ねんぶりに8がつ15にち参拝さんぱいおこなった。午前ごぜん730ふんごろ、首相しゅしょう官邸かんてい出発しゅっぱつし10ふんにモーニング姿すがた到着とうちゃく本殿ほんでんはいり「2はい2拍手はくしゅ1はい」の神道しんとう形式けいしきではなく一礼いちれい形式けいしき参拝さんぱい滞在たいざい時間じかんは15ふんほどだった。
2013ねん12月26にち
安倍晋三あべしんぞうだい90だい首相しゅしょう参拝さんぱいができなかったのは「痛恨つうこんきわみ」とべていたが、だい96だい首相しゅしょう就任しゅうにん1ねんしたこの首相しゅしょう官邸かんていから出発しゅっぱつ午前ごぜん1130ふんころモーニング姿すがた参拝さんぱいした。あわせて鎮霊しゃ英語えいごばんChinreisha)にも参拝さんぱいした。参拝さんぱい神社じんじゃ社殿しゃでんないからNHKなどのテレビ中継ちゅうけいかいして記者きしゃ会見かいけんおこな参拝さんぱい気持きもちをかたった。また同日どうじつ総理そうり大臣だいじん官邸かんていホームページ日本語にほんご英語えいご中国ちゅうごく言語げんごによる「安倍あべ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん談話だんわ恒久こうきゅう平和へいわへのちかい〜」とする談話だんわ掲載けいさいされた[157]

歴代れきだい首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい回数かいすう

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2020ねん現在げんざい最初さいしょ伊藤いとう博文ひろぶみ就任しゅうにん以降いこう歴代れきだい首相しゅしょう57にんちゅう14にん参拝さんぱいしているが、最初さいしょ参拝さんぱいしたのは戦後せんごはつ首相しゅしょうであるひがし久邇くにみや稔彦としひこおう(30にん重複じゅうふくれると43代目だいめ)である。戦後せんご限定げんていすると、28にんちゅう14にん首相しゅしょうが62年間ねんかんけい67かい参拝さんぱいしている。終戦しゅうせん参拝さんぱいは8かい。Aきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしおおやけになった1979ねん4がつ以後いごでは、5にん首相しゅしょうけい29かい参拝さんぱいしている。

だい 首相しゅしょう 回数かいすう 参拝さんぱい年月日ねんがっぴ 在任ざいにん期間きかん
だい43だい ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう 01かい 1945ねん8がつ18にち 1945ねん8がつ17にち - 1945ねん10がつ9にち
だい44だい ぬさはら喜重郎きじゅうろう 02かい 1945ねん10がつ23にち、1945ねん11月20にち 1945ねん10がつ9にち - 1946ねん5がつ22にち
だい45だい
だい48-51だい
吉田よしだしげる 05かい 1951ねん10がつ18にち、1952ねん10がつ17にち、1953ねん4がつ23にち、1953ねん10がつ24にち、1954ねん4がつ24にち 1946ねん5がつ22にち - 1947ねん5がつ24にち
1948ねん10がつ15にち - 1954ねん12がつ10日とおか
だい56-57だい きし信介しんすけ 02かい 1957ねん4がつ24にち、1958ねん10がつ21にち 1957ねん2がつ25にち - 1960ねん7がつ19にち
だい58-60だい 池田いけだ勇人はやと 05かい 1960ねん10がつ10日とおか、1961ねん6がつ18にち、1961ねん11月15にち、1962ねん11月4にち、1963ねん9がつ22にち 1960ねん7がつ19にち - 1964ねん11月9にち
だい61-63だい 佐藤さとう栄作えいさく 11かい 1965ねん4がつ21にち、1966ねん4がつ21にち、1967ねん4がつ22にち、1968ねん4がつ23にち、1969ねん4がつ22にち、1969ねん10がつ18にち、1970ねん4がつ22にち、1970ねん10がつ17にち、1971ねん4がつ22にち、1971ねん10がつ19にち、1972ねん4がつ22にち 1964ねん11月9にち - 1972ねん7がつ7にち
だい64-65だい 田中たなか角栄かくえい 05かい 1972ねん7がつ8にち、1973ねん4がつ23にち、1973ねん10がつ18にち、1974ねん4がつ23にち、1974ねん10がつ19にち 1972ねん7がつ7にち - 1974ねん12月9にち
だい66だい 三木みき武夫たけお 03かい 1975ねん4がつ22にち、1975ねん8がつ15にち、1976ねん10がつ18にち 1974ねん12月9にち - 1976ねん12月24にち
だい67だい 福田ふくだ赳夫たけお 04かい 1977ねん4がつ21にち、1978ねん4がつ21にち、1978ねん8がつ15にち、1978ねん10がつ18にち 1976ねん12月24にち - 1978ねん12月7にち
だい68-69だい 大平おおひら正芳まさよし 03かい 1979ねん4がつ21にち、1979ねん10がつ18にち、1980ねん4がつ21にち 1978ねん12月7にち - 1980ねん6がつ12にち
だい70だい 鈴木すずき善幸ぜんこう 09かい 1980ねん8がつ15にち、1980ねん10がつ18にち、1980ねん11月21にち、1981ねん4がつ21にち、1981ねん8がつ15にち、1981ねん10がつ17にち、1982ねん4がつ21にち、1982ねん8がつ15にち、1982ねん10がつ18にち 1980ねん7がつ17にち - 1982ねん11月27にち
だい71-73だい 中曽根なかそね康弘やすひろ 10かい 1983ねん4がつ21にち、1983ねん8がつ15にち、1983ねん10がつ18にち、1984ねん1がつ5にち、1984ねん4がつ21にち、1984ねん8がつ15にち、1984ねん10がつ18にち、1985ねん1がつ21にち、1985ねん4がつ22にち、1985ねん8がつ15にち 1982ねん11月27にち - 1987ねん11月6にち
だい82-83だい 橋本はしもと龍太郎りゅうたろう 01かい 1996ねん7がつ29にち 1996ねん1がつ11にち - 1998ねん7がつ30にち
だい87-89だい 小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう 06かい 2001ねん8がつ13にち、2002ねん4がつ21にち、2003ねん1がつ14にち、2004ねん1がつ1にち、2005ねん10がつ17にち、2006ねん8がつ15にち 2001ねん4がつ26にち - 2006ねん9がつ26にち
だい90だい
だい96だい
安倍晋三あべしんぞう 01かい 2013ねん12月26にち 2006ねん9がつ26にち - 2007ねん9がつ26にち
2012ねん12月26にち -2020ねん9がつ16にち

参考さんこう文献ぶんけん

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1960年代ねんだい
  • 田中たなか正明まさあきちょ『パール判事はんじ日本にっぽん無罪むざいろん慧文けいぶんしゃ、1963ねん小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2001ねん
  • 日本にっぽん遺族いぞくかいへん靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか護持ごじかんする調査ちょうさかい報告ほうこくしょ日本にっぽん遺族いぞくかい非売品ひばいひん)、1966ねん
  • 新宗連しんしゅうれんへん靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいかんするわたしたちの意見いけんしん宗教しゅうきょう新聞しんぶんしゃ、1968ねん
  • 民主みんしゅ主義しゅぎ研究けんきゅうかいへん靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか護持ごじをめぐる対立たいりつ論議ろんぎ問題もんだいてん民主みんしゅ主義しゅぎ研究けんきゅうかい、1969ねん
1970年代ねんだい
  • 戸村とむら政博まさひろへん靖国やすくに闘争とうそう おわりなき自由じゆうへのたたかい』(『今日きょうキリスト教きりすときょう双書そうしょ』8)新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1970ねん
  • JPC研究けんきゅう調査ちょうさ専門せんもん委員いいんかいへん『キリストしゃ靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい 靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん問題もんだいてんとその背景はいけい日本にっぽんプロテスタント聖書せいしょ信仰しんこう同盟どうめい、1970ねん4がつ
  • 戸村とむら政博まさひろ編著へんちょ日本人にっぽんじん靖国やすくに問題もんだい ぞく靖国やすくに闘争とうそう』(『今日きょうキリスト教きりすときょう双書そうしょ』11)新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1971ねん
  • JPC研究けんきゅう調査ちょうさ専門せんもん委員いいんかいへん聖書せいしょ信仰しんこう日本にっぽん精神せいしん風土ふうど : 靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん源流げんりゅうをさぐる』日本にっぽんプロテスタント聖書せいしょ信仰しんこう同盟どうめい、1971ねん2がつ
  • 戸村とむら政博まさひろ編著へんちょ靖国やすくに問題もんだい戦争せんそう責任せきにん 続々ぞくぞく靖国やすくに闘争とうそう』(『今日きょうキリスト教きりすときょう双書そうしょ』13)新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1973ねん
  • 戸村とむら政博まさひろ編著へんちょ日本にっぽんのファシズムと靖国やすくに問題もんだい しん靖国やすくに闘争とうそう』(『今日きょうキリスト教きりすときょう双書そうしょ』17)新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1974ねん
  • 村上むらかみ重良しげよし慰霊いれい招魂しょうこん 靖国やすくに思想しそう岩波いわなみ新書しんしょ、1974ねん
  • 西川にしかわ重則しげのり靖国やすくに法案ほうあんねん 撤回てっかいをめざすたたかいの記録きろく』すぐ書房しょぼう、1974ねん
  • 靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい特別とくべつ委員いいんかいへんがりかどの靖国やすくに法案ほうあん 強行きょうこう採決さいけつから表敬ひょうけい法案ほうあんまで』日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく、1975ねん
  • 西川にしかわ重則しげのりちょ靖国やすくに法案ほうあん展望てんぼう』すぐ書房しょぼう、1976ねん
  • 東京とうきょう弁護士べんごしかいへん靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん問題もんだいてん その矛盾むじゅんく』新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1976ねん
  • 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん調査ちょうさ立法りっぽう考査こうさきょくへん靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい資料集しりょうしゅう』(『調査ちょうさ資料しりょう』76-2)、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん調査ちょうさ立法りっぽう考査こうさきょく、1976ねん
  • 福嶋ふくしまひろしたかし編集へんしゅう神社じんじゃ問題もんだい真宗しんしゅう永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1977ねん5がつ
  • はなわ三郎さぶろうへん靖国やすくに問題もんだいをどうすべきか』善本ぜんぽんしゃ、1977ねん8がつ
  • 角田つのだ三郎さぶろうちょ靖国やすくに鎮魂ちんこんさんいち書房しょぼう、1977ねん9がつ
  • 静岡しずおか靖国やすくに問題もんだい連絡れんらく協議きょうぎかいへん静岡しずおか・マチのヤスクニを渡辺わたなべ牧師ぼくしによってまかれたたね静岡しずおか靖国やすくに問題もんだい連絡れんらく協議きょうぎかい、1978ねん4がつ
  • はん靖国やすくにはん天皇てんのうせい連続れんぞく講座こうざ実行じっこう委員いいんかいへん天皇てんのうせい靖国やすくにう』勁草書房しょぼう、1978ねん4がつ
  • 靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい特別とくべつ委員いいんかいへん国家こっか宗教しゅうきょう靖国やすくに」から「」、そして大嘗祭だいじょうさいへ』日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく、1978ねん5がつ
  • 池永いけなが倫明みちあき沖縄おきなわからヤスクニをう』新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1979ねん2がつ
  • 小林こばやし孝輔こうすけちょ『「靖国やすくに問題もんだい 憲法けんぽう靖国やすくに法案ほうあん』(『時事じじ問題もんだい解説かいせつ』No.190)教育きょういくしゃ入門にゅうもん新書しんしょ、1979ねん2がつ
1980年代ねんだい
  • 靖国やすくに問題もんだいキリストしゃかいへん今日きょう靖国やすくに問題もんだい』キリストきょう図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1980ねん1がつ
  • 田中たなかしんなお自衛隊じえいたいよ、おっとかえ合祀ごうし拒否きょひ訴訟そしょう現代書館げんだいしょかん、1980ねん2がつ社会しゃかい思想しそうしゃ現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ、1988ねん10がつ
  • 渡部わたなべたかしただしちょくささけまちのヤスクニ闘争とうそう記録きろく(岩手いわてけん北上ほくじょう)』愛隣あいりんしゃ、1980ねん11月
  • 太田おおた正造しょうぞう国家こっか構築こうちく 公式こうしき制度せいど靖国神社やすくにじんじゃ有事ゆうじ立法りっぽうぎょうせい、1981ねん5がつ
  • 高橋たかはし富士雄ふじおキリスト教きりすときょう靖国神社やすくにじんじゃ擁護ようごろん大日だいにち書房しょぼう、1982ねん8がつ
  • 靖国やすくに 国民こくみん神社じんじゃ戦争せんそうのないくにまつぶんかん、1983ねん2がつ
  • 桐山きりやまろくへんはん靖国やすくに」の射程しゃてい永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1983ねん9がつ
  • 野口のぐちひさしじゅちょ靖国神社やすくにじんじゃ閣僚かくりょう公式こうしき参拝さんぱい合憲ごうけんろん古川ふるかわ書店しょてん、1983ねん9がつ
  • 小川おがわ武満たけみつ平和へいわねが遺族いぞくさけび』新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1983ねん10がつ
  • 大江おおえ志乃しのおっと靖国神社やすくにじんじゃ岩波いわなみ新書しんしょ、1984ねん3がつ
  • しんかいへん靖国やすくに親鸞しんらん教学きょうがく教団きょうだん』(『こころ叢書そうしょ』2)永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1984ねん12月
  • 土方ひじかた美雄よしおちょ靖国神社やすくにじんじゃ国家こっか神道しんとうよみがえるか!』(『天皇てんのうせい叢書そうしょ』1)社会しゃかい評論ひょうろんしゃ、1985ねん5がつ
  • 靖国やすくに公式こうしき参拝さんぱい批判ひはんする 「靖国やすくにこん報告ほうこくしょ問題もんだいてん』(『新教しんきょうコイノーニア』2)新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1985ねん10がつ
  • 仲尾なかお俊博としひろちょ靖国やすくに因果いんが差別さべつ永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1985ねん11月
  • 和田わだ稠著、真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱんへんしん回復かいふく』(『同朋どうほう選書せんしょ』16)真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱん、1986ねん3がつISBN 4834101525
  • 村上むらかみ重良しげよしちょ靖国神社やすくにじんじゃ 1869-1945-1985』 岩波書店いわなみしょてん(『岩波いわなみブックレット』No.57)、1986ねん3がつISBN 4000049976
  • 西にしおさむちょ日本国にっぽんこく憲法けんぽうの40ねん改憲かいけん」と「靖国やすくに」』(『時事じじ問題もんだい解説かいせつ』467)、教育きょういくしゃ入門にゅうもん新書しんしょ、1986ねん5がつ
  • 江藤えとうあつし小堀こぼり桂一郎けいいちろうへん靖国やすくに論集ろんしゅう 日本にっぽん鎮魂ちんこん伝統でんとうのために』日本教文社にっぽんきょうぶんしゃきょう文選ぶんせんしょ)、1986ねん12月。新版しんぱん近代きんだい出版しゅっぱんしゃ、2004ねん
  • 藤原ふじわら正信まさのぶへんはん靖国やすくに」の射程しゃてい. つづけ永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1987ねん5がつ
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  • 神道しんとう政治せいじ連盟れんめいAきゅう戦犯せんぱんとはなにだ!昭和しょうわ62ねん11月22にち
  • 教科書きょうかしょかれなかった戦争せんそう』part 5、なししゃ、1988ねん4がつ (増補ぞうほばん、2000ねん2がつ) ISBN 4816600019
  • 戸村とむら政博まさひろ編著へんちょ神話しんわ祭儀さいぎ 靖国やすくにから大嘗祭だいじょうさいへ』日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく、1988ねん8がつ
  • しんかいへん靖国やすくにぞく』(『こころ叢書そうしょ』5)、永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1989ねん1がつ
  • 真宗しんしゅう本願寺ほんがんじはん靖国やすくに連帯れんたい会議かいぎへんはん靖国やすくにへの連帯れんたい 朝枝あさえだみのるあきら先生せんせい追悼ついとう論集ろんしゅう永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1989ねん4がつ
1990年代ねんだい
  • 戸村とむら政博まさひろちょ検証けんしょう国家こっか儀礼ぎれい 1945 - 1990』作品社さくひんしゃ、1990ねん8がつISBN 4878931566
  • 高石たかいし史人ふみとへん『「靖国やすくに問題もんだい関連かんれん年表ねんぴょう永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1990ねん11月
  • 花本はなもとあつしちょ靖国やすくに問題もんだいへの試論しろん花本はなもとあつし、1991ねん
  • 大江おおえ志乃しのおっとちょ靖国やすくに違憲いけん訴訟そしょう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみブックレット No.211)、1991ねん8がつISBN 4000031511
  • 浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじはん靖国やすくに連帯れんたい会議かいぎへん真宗しんしゅう靖国やすくに問題もんだい永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1991ねん9がつ
  • 岩手いわて靖国やすくに違憲いけん訴訟そしょう支援しえんするかいへん岩手いわて靖国やすくに違憲いけん訴訟そしょうたたかいの記録きろく 石割いしわりさくらのごとく』(『新教しんきょうコイノーニア 』10)、新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、1992ねん3がつ ISBN 4400407098
  • 沢藤さわふじみつる一郎いちろうちょ岩手いわて靖国やすくに違憲いけん訴訟そしょうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん新書しんしょ)、1992ねん3がつISBN 4406020632
  • 日本にっぽんバプテスト連盟れんめい靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだい特別とくべつ委員いいんかいへん『わかれみちって、よく ヤスクニ・天皇てんのうせい問題もんだい宣教せんきょうしゅう』ヨルダンしゃ、1994ねん10がつISBN 4842801778
  • 中曽根なかそね首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ公式こうしき参拝さんぱい抗議こうぎするかいへん遺族いぞくこえとどく 京都きょうと大阪おおさか靖国やすくに訴訟そしょう証言しょうげんしゅう行路こうろしゃ、1994ねん12月
  • 岩田いわたしげるのべ靖国神社やすくにじんじゃをめぐるしょ問題もんだいそうさかえ出版しゅっぱん、1995ねん2がつISBN 4882504936
  • 和田わだ稠著、真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱんへんのいのり・くにのいのり : ぞくしん回復かいふく』(『同朋どうほう選書せんしょ』20)真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱん、1995ねん7がつISBN 4834102335
  • 備後びんご靖国やすくに問題もんだいかんがえる念仏ねんぶつしゃかい会員かいいんちょ靖国やすくにう われらはいま、ここにつ』永田文昌堂ながたぶんしょうどう、1997ねん10がつ
  • 加地かじ伸行のぶゆきちょ靖国やすくに問題もんだい最高裁さいこうさい判決はんけつと』(『國民こくみん會館かいかん叢書そうしょ20』)國民こくみん會館かいかんブックレット、1997ねん11月
  • 基幹きかん運動うんどう本部ほんぶ事務じむきょくへん平和へいわ問題もんだい・ヤスクニ問題もんだい研修けんしゅうカリキュラム』本願寺ほんがんじ出版しゅっぱんしゃ、1998ねん4がつISBN 4894166208
  • 安西あんざいけんまこと浄土じょうど回復かいふく 愛媛えひめ玉串たまぐしりょう訴訟そしょう真宗しんしゅう教団きょうだんはなしゃ、1998ねん8がつISBN 4795250391
  • 小堀こぼり桂一郎けいいちろう靖国神社やすくにじんじゃ日本人にっぽんじん』PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP新書しんしょ 052〉、1998ねんISBN 4569601502NCID BA37730048全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:99019639https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002699054-00 
  • 坪内つぼうち祐三ゆうぞう靖国やすくに新潮社しんちょうしゃ、1999ねん1がつ新潮しんちょう文庫ぶんこ、2001ねん
2000年代ねんだい
特集とくしゅう靖国やすくに問題もんだいとはなにか」 梅原うめはらたけし横田よこた耕一こういちしまそのすすむ高橋たかはし哲哉てつや赤澤あかざわ史朗しろう保阪ほさかただしやすし田中たなかしんなお
安倍あべはじめゆう,石原いしはら慎太郎しんたろう,稲垣いながきたけし,稲田いなだ朋美ともみ,大原おおはら康男やすお,しょう田村たむら四郎しろう,加地かじ伸行のぶゆき,倉林くらばやし和男かずお,黒田くろだ勝弘かつひろ,黒田くろだ秀高ひでたか,文雄ふみお,さかもと未明みめい,佐藤さとう和男かずお,あいはやし,高森たかもりあきらみことのり,徳永とくなが信一しんいち,中嶋なかじまみねつよし,西村にしむらしんさとる,長谷川はせがわ三千子みちこ,藤波ふじなみ孝生たかお,ひゃくあきら,山本やまもと卓眞たくま,吉原よしはら恒雄つねお執筆しっぴつ)

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょう2ねん9がつじょう)には安芸あき長門ながとみん死者ししゃれい信奉しんぽうしているが養老ようろう律令りつりょうぞくぬすめりつの妖書妖言ようげんあたるのでめさせるよう詔勅しょうちょくされたむね記述きじゅつがある。
  2. ^ どう事典じてん平成へいせい12年版ねんばんでは、「つね問題もんだい先送さきおくりしてきたのはだい1せんまつしょくに(責任せきにんが)ある」とむすんでいる。
  3. ^ なお、靖国神社やすくにじんじゃではなく真言宗しんごんしゅうさとしやま高尾山たかおさん薬王院やくおういんでの政教せいきょう分離ぶんり訴訟そしょうであれば、護摩ごま祈祷きとう宗教しゅうきょう行為こうい認定にんていしたうえで、公務員こうむいん公務こうむとして正式せいしき参加さんかすることは政教せいきょう分離ぶんり違反いはんしないとする判例はんれいがある[26]
  4. ^ 国家こっかおよ地方ちほう公務員こうむいんにおける同様どうよう訴訟そしょうとして、公務こうむとして高尾山たかおさん薬王院やくおういん正式せいしき礼拝れいはい護摩ごま祈祷きとう参加さんかしたことが問題もんだいとなった事件じけんがある[31]
  5. ^ 日本にっぽん労働ろうどう年鑑ねんかんによれば、これをきっかけに、信仰しんこうじょう相違そうい靖国神社やすくにじんじゃ法案ほうあん反対はんたいする立場たちばから「日本にっぽん遺族いぞくかい」にぞくしていない、あるいは脱会だっかいしていた遺族いぞくが「平和へいわ遺族いぞくかい全国ぜんこく連絡れんらくかい」を結成けっせいするにいたったという[32]

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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