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松井まついいし

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松井まつい いし
陸軍りくぐん大将たいしょう 松井まついせき
生誕せいたん 1878ねん7がつ27にち
日本の旗 日本にっぽん 愛知あいちけん
死没しぼつ (1948-12-23) 1948ねん12月23にち(70さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1897ねん - 1935ねん
1937ねん - 1938ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 殉国じゅんこくななびょう
靖国神社やすくにじんじゃ
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松井まつい いし(まつい いわね、明治めいじ11ねん1878ねん7がつ27にち - 昭和しょうわ23ねん1948ねん12月23にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん大将たいしょう荒尾あらおきよし信奉しんぽうしゃ[1]として、「ささえ提携ていけい」「アジア保全ほぜん」の運動うんどう生涯しょうがいをかけたが、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく、「南京なんきん事件じけん」の責任せきにんわれて極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)にて死刑しけい判決はんけつ(Bきゅう戦犯せんぱん[2])をけ、処刑しょけいされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

愛知あいちけん愛知あいちぐん牧野まきのむらげん名古屋なごや中村なかむら牧野まきのまち出身しゅっしん[よう出典しゅってん]きゅう尾張おわりはん松井まついたけしこく、ひさのろくおとことしてまれた。成城せいじょう学校がっこう卒業そつぎょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうへとすすんだ。

在学ざいがくちゅう松井まつい感銘かんめいけた思想しそうがあった。それは川上かわかみ操六そうろくとなえた「日本にっぽんぐん存在そんざい理由りゆう東洋とうよう平和へいわ確保かくほにあり」という見識けんしきであった。川上かわかみは、日本にっぽん将来しょうらい、ロシアとの戦争せんそう回避かいひすることは困難こんなんだとだんじ、その防備ぼうびとしてアジア全体ぜんたい秩序ちつじょ構築こうちくなお必要ひつようせいうったえていた。そのためのじくとなるのは、日本にっぽん中国ちゅうごくささえ)の良好りょうこう提携ていけいであるという。この川上かわかみ思想しそうせっしてつよ共鳴きょうめいおぼえた松井まついは、中国ちゅうごくへの興味きょうみあらためてふかめていった。[3]

幼年ようねん学校がっこう卒業そつぎょう松井まつい順調じゅんちょう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうへと入学にゅうがくした。

明治めいじ30ねん(1897ねん)、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう9)を次席じせき卒業そつぎょうし、明治めいじ34ねん(1901ねん)に陸軍りくぐんだい学校がっこう18)に入学にゅうがくした。りくだい在学ざいがくちゅう明治めいじ37ねん(1904ねん)ににち戦争せんそう勃発ぼっぱつによりりくだい中退ちゅうたいし、歩兵ほへいだい6連隊れんたい中隊ちゅうたいちょうとして従軍じゅうぐんした。りょう会戦かいせんでは戦傷せんしょうっている。 この時期じき松井まつい思想しそうてき影響えいきょうけたのは、同郷どうきょう先輩せんぱいにもあたる荒尾あらおきよしであった[3]荒尾あらお思想しそう根底こんていにあるのは、にちちゅうつよ提携ていけいである。欧米おうべい列強れっきょう侵略しんりゃくたいし、アジア諸国しょこく連携れんけいしあって対抗たいこうしていこうというのが、その主張しゅちょうようであった。[4]

そのにち戦争せんそうのため中退ちゅうたいしたりくだいふくこうし、明治めいじ39ねん(1906ねん)に次席じせき卒業そつぎょうした。(恩賜おんし軍刀ぐんとう拝受はいじゅ松井まついは、前途ぜんと嘱望しょくぼうされる逸材いつざいとして、参謀さんぼう本部ほんぶへの配属はいぞくとなり、一旦いったんフランスへと派遣はけんされた[3]

中国ちゅうごく赴任ふにん時代じだいまごぶん、蔣介せき支援しえん[編集へんしゅう]

明治めいじ40ねん(1907ねん)フランスから帰国きこくした松井まついは、つぎ勤務きんむさきとして清国きよくに派遣はけんされた。これは松井まついみずか志願しがんしてのことであった。にちちゅう関係かんけい良好りょうこうなものとしてきずきあげることが、日本にっぽんさらにはアジア全体ぜんたい安寧あんねいつながるとかんがえたからである[3]

明治めいじ42ねん(1909ねん)、清国きよくに滞在たいざいちゅう大尉たいいから少佐しょうさへと昇進しょうしんした。このころからまごぶんふか親交しんこうするようになった[3]

松井まついまごぶんだいアジア主義しゅぎつよ共鳴きょうめいし、からし革命かくめい支援しえん陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ宇都宮うつのみや太郎たろう三菱みつびし財閥ざいばつ岩崎いわさき久弥ひさやに10まんえん資金しきん供出きょうしゅつさせて、これを松井まついまかせ、まごぶん支援しえんするための元金がんきん使つかわせた[3]。その中国ちゅうごく国民党こくみんとう袁世凱打倒だとう協力きょうりょくした。

松井まつい日本にっぽん留学りゅうがくした蔣介せきとも親交しんこうがあり、昭和しょうわ2ねん(1927ねん)9がつ、蔣が政治せいじてき困難こんなんさい訪日ほうにちはたらきかけ、田中たなか義一ぎいち首相しゅしょうとの会談かいだん事態じたい打開だかいさせた[5]田中たなか首相しゅしょうは①このさい揚子江ようすこう以南いなん掌握しょうあくすることに全力ぜんりょくそそぎ、きたこげるなということ、 ②共産きょうさん主義しゅぎ蔓延まんえん警戒けいかいし、防止ぼうしせよということ、 ③この①②にたいして日本にっぽん支援しえんしまないということこのさんてんべた。 最終さいしゅうてき二人ふたりのあいだで合意ごういしたのは、国民こくみん革命かくめい成功せいこうし、中国ちゅうごく統一とういつ完成かんせいしたあかつきには、日本にっぽんはこれを承認しょうにんすること。これにたいして国民こくみん政府せいふは、まんしゅうにおける日本にっぽん地位ちい特殊とくしゅ権益けんえきみとめるーということであった[5]

松井まつい秘書ひしょ田中たなか正明まさあきによれば「松井まつい当時とうじすでに中国ちゅうごくは蔣介せきによって統一とういつされるであろうという見透みとおしをいていた。日本にっぽんは、このさいすすんで目下もっか失意しつい状態じょうたいにある蔣を援助えんじょして、蔣の全国ぜんこく統一とういつ可能かのうならしむよう助力じょりょくする。そのためにはちょうさくはおとなしく山海さんかいせき以北いほくふうじ、その統治とうちみとめるが、ただし蔣の国民こくみん政府せいふによる中国ちゅうごく統一とういつ成就じょうじゅしたあかつきには、わがくに満蒙まもう特殊とくしゅ権益けんえき開発かいはつ大幅おおはば承認しょうにんさせることを条件じょうけんとするという構想こうそうであった。」[5]

松井まつい構想こうそう(蔣介せきとの連携れんけい)の破綻はたん[編集へんしゅう]

ところが、昭和しょうわ3ねん(1928ねん)5がつ3にちすみみなみ事件じけんき、陸軍りくぐんないで蔣介せきへの批判ひはん相次あいついで、にちちゅう関係かんけい松井まつい意図いとはんした方向ほうこうへとながれていった[3]

同年どうねん6がつ4にちちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん勃発ぼっぱつ。この事件じけん発生はっせいにより、松井まつい実現じつげんさせた「田中たなか・蔣介せき会談かいだん」の合意ごうい内容ないよう完全かんぜん瓦解がかいした。松井まついちょうさく霖を「反共はんきょう防波堤ぼうはてい」と位置いちづけていた。それは当時とうじ田中たなか義一ぎいち首相しゅしょうらとも共通きょうつうした認識にんしきであった。松井まつい首謀しゅぼうしゃである関東軍かんとうぐん河本かわもと大作だいさく厳罰げんばつ要求ようきゅうした[3]このことから、若手わかて将校しょうこうあいだでは松井まつい頑固がんこしゃあつかいして敬遠けいえんするこえおおかったとわれている[よう出典しゅってん])。しかし、結局けっきょくうやむやのままになり、昭和しょうわ天皇てんのういかりをって田中たなか義一ぎいち首相しゅしょうめることになった。こうして松井まつい構想こうそう破綻はたんした(田中たなか正明まさあきげん[5]

一方いっぽう、蔣介せき日本にっぽんへの不信ふしんかんくした。昭和しょうわ6ねん(1931ねん)9がつ満州まんしゅう事変じへん昭和しょうわ7ねん(1932ねん)3がつ満州まんしゅうこく建国けんこくて、蔣介せき反日はんにち姿勢しせい間違まちがいなくつよまっていった。

だい亜細亜あじあ協会きょうかい活動かつどう[編集へんしゅう]

蔣介せきとの連携れんけいによるアジア保全ほぜん構想こうそう破綻はたんしたものの、松井まつい昭和しょうわ8ねん1933ねん)3がつ1にちだい亜細亜あじあ協会きょうかい設立せつりつした(松井まつい設立せつりつ発起人ほっきにんのち会長かいちょう就任しゅうにん)。会員かいいんには近衛このえ文麿ふみまろ広田ひろた弘毅こうき小畑おばたさとし四郎しろう本間ほんま雅晴まさはる鈴木すずき貞一さだいち荒木あらき貞夫さだお本庄ほんじょうしげるなど、錚々たるメンバーであった。「欧米おうべい列強れっきょう支配しはいされるアジア」からだっし、「アジアじんのためのアジア」を実現じつげんするためには「にちちゅう提携ていけいだいいち条件じょうけんである」とする松井まついらの「だい亜細亜あじあ主義しゅぎ」が、いよいよ本格ほんかくてき航海こうかいへと船出ふなでした[3]当時とうじ松井まついかんがかた下記かき引用いんようする[6]

世界せかい政治せいじてき経済けいざいてきブロックのさかいしたがって区画くかくせられてり、そのうち若干じゃっかん大国たいこく主体しゅたいとなって国際こくさい聯盟れんめい利用りようせられてるのである。亜細亜あじあおいささえ両国りょうこくごと鮮明せんめいなる政治せいじてき大陸たいりく形成けいせいするものが、相互そうごあいだなんとう諒解りょうかいもなく、個々ここ別々べつべつ聯盟れんめい加入かにゅうし、両国りょうこくあいだ直接ちょくせつ交渉こうしょうによって解決かいけつせらるべき問題もんだいをも、本来ほんらい極東きょくとうにはえんもゆかりもなき、したがって認識にんしき理解りかいもなきおうともみ諸国しょこく鍛錬たんれんせられて、ささえ相互そうご反目はんもくこうそうげきなりするのつぶさ逆用ぎゃくようせられたこと、せられっゝあることは、東洋とうよう永遠えいえん平和へいわためめにも、亜細亜あじあ復興ふっこうためめにも、遺憾いかん至極しごくうんはなければならぬ。

昭和しょうわ9ねん1934ねん)1がつ6にちだい亜細亜あじあ協会きょうかい台湾たいわん支部しぶ設立せつりつされ、松井まつい名誉めいよ顧問こもん就任しゅうにん

昭和しょうわ10ねん1935ねん)8がつ現役げんえき退しりぞき、予備よびやくへとはいった。

蔣介せきへの不信ふしん[編集へんしゅう]

一方いっぽうべい勢力せいりょく接近せっきん反日はんにち排日はいにちいろくする蔣介せき国民党こくみんとう政府せいふたいして不信ふしんかんいだくようになった。くわえてこの時期じき中国共産党ちゅうごくきょうさんとう華南かなん地域ちいき勢力せいりょく拡大かくだいしていたが、このうごきに歯止はどめをかけることのできない国民党こくみんとうについて、松井まつい批判ひはんてき姿勢しせいつよめていた。国民党こくみんとう政府せいふが、リットン調査ちょうさだん報告ほうこくしょ嬉々ききとしてれたことについても不満ふまんつのらせた。当時とうじ松井まついつぎのようにべている。

英国えいこく勢力せいりょく長江ちょうこう一帯いったい再建さいけんせしめ、これぜんささえに拡延せしめたるもの国民こくみん政府せいふであり、米国べいこく資本しほん侵略しんりゃくてき勢力せいりょくみなみささえちゅうささえ誘因ゆういんしつゝあるもの、また国民こくみん政府せいふとそのとうあずかとである。しかして、その実質じっしつおいひとまんしゅうのみならずささえ全土ぜんどをも国際こくさい管理かんりかんことを意図いとせるおっとのリットン報告ほうこくしょ―リットン報告ほうこくしょ基礎きそとする国際こくさい連盟れんめい総会そうかい勧告かんこくあん無条件むじょうけん受諾じゅだくするにいたりては、ささえみずからを亜細亜あじあ裏切うらぎ彼等かれら罪責ざいせきまたきわまれりともうさねばならぬ。 「ささえすくえふのだい亜細亜あじあ協会きょうかい機関きかんだい亜細亜あじあ主義しゅぎ創刊そうかんごう昭和しょうわ8ねん5がつ発行はっこう

陸軍りくぐん内部ないぶでは統制とうせい中心ちゅうしんに「中国ちゅうごく一撃いちげきろん」がさかんにかれるようになっていた。日本にっぽんへの敵対てきたいつづける中国ちゅうごくがわ動向どうこう看過かんかできず、それならば蔣介せき政権せいけん政治せいじ基盤きばん脆弱ぜいじゃくいまうちに、一気いっきたたいておこうというろんである。国民党こくみんとう政府せいふたいする不信ふしんくする松井まついは、徐々じょじょに「中国ちゅうごく一撃いちげきろん」へとかたむいていった[3]

西南せいなんたび[編集へんしゅう]

昭和しょうわ11ねん(1936ねん)2がつ3にち、蔣介せきとの関係かんけいもどすために、田中たなか正明まさあきともなって「西南せいなんたび」に出発しゅっぱつした[5]広東かんとん広西ひろせ胡漢民こかんみんちんわたるどうそうひとしはくたかし西南せいなん指導しどうしゃらと会談かいだん、さらに3がつ14にち南京なんきんで蔣介せきなにおうちょうぐんらと会談かいだんしている。蔣介せきとの会談かいだんは1あいだはんおよんだが、ほとんどが松井まついと蔣介せきにんだけの問答もんどうわった。最後さいごにんは、まごぶんのアジア主義しゅぎ遂行すいこうたがいに了解りょうかいってわかれた。しかし、わかれぎわに蔣介せき松井まついたいし「今後こんご部下ぶかちょうぐんはなしをしてくれ」と失礼しつれい言動げんどうをしたため、松井まついかお瞬間しゅんかんくもったという。(田中たなか正明まさあきげん[7]

同年どうねん12がつ12にち西安しーあん事件じけん勃発ぼっぱつとらえられた蔣介せき国共こっきょう合作がっさくにより抗日こうにちへと方針ほうしんを180転換てんかんした。ここにおよんで、蔣介せき連携れんけいするという松井まつい構想こうそう完全かんぜん破綻はたんした[5]

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の上海しゃんはいせん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ12ねん(1937ねん)7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんによりにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん勃発ぼっぱつ同年どうねん7がつ29にちとおりしゅう事件じけん、8がつ9にち大山おおやま事件じけん上海しゃんはい)が発生はっせい同年どうねん8がつ13にちだい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつすると、予備よびやく松井まついに8がつ14にち陸軍りくぐん次官じかんからしがかかった。8がつ20日はつか上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかんとして2師団しだんやく2まん)をひきいて、20まん中国ちゅうごくぐん上海しゃんはいけて出港しゅっこうした。

参謀さんぼう本部ほんぶ戦闘せんとう上海しゃんはいとその周辺しゅうへん地域ちいきだけに限定げんていしていたが、松井まついは2師団しだんではなく5師団しだん一気いっきに蔣介せきぐんたたつぶし、はや和平わへいむべきだとかんがえていた。8月23にち上海しゃんはい派遣はけんぐん上陸じょうりく開始かいししたが、上陸じょうりく作戦さくせん難渋なんじゅうをきわめた。

11月5にち柳川やながわ平助へいすけ中将ちゅうじょうひきいるだい10ぐん杭州こうしゅうわん上陸じょうりく作戦さくせん敢行かんこう、これを成功せいこうさせて、状況じょうきょう日本にっぽんぐん有利ゆうりになってきた。しかし、だい10ぐん松井まつい指揮しき系統けいとうにはなかった。11月12にち上海しゃんはい陥落かんらくしたが、日本にっぽんぐん死者ししゃは1まんにんちかくにおよんだ。

松井まつい体調たいちょうは、上海しゃんはい上陸じょうりくからあまかんばしくなく、11月にはいってからは、軽度けいどマラリア症状しょうじょうて、高熱こうねつにもくるしめられ、軍医ぐんいから処方しょほうされたキニーネ服用ふくようしながら指揮しきった[8]。11月4にち松井まついは「自身じしんいちにちヨリ多少たしょう風邪かぜ気味ぎみニテななはちねつアリシカ「マラリア」ラシク、本日ほんじつヨリぶんまわし服用ふくよう経過けいか良好りょうこう 此分ナラさんにちニテぜんふく見込みこみ」としるしている[9]南京なんきん攻略こうりゃくせんたけなわの12月5にちから15にちまで蘇州そしゅう司令しれい病臥びょうが滞留たいりゅうしていた[10]武藤むとうあきらは「松井まつい大将たいしょう十二月じゅうにがつにちごろ蘇州そしゅう司令しれい推進すいしんさられた。だが大将たいしょう長期間ちょうきかん苦心くしん肉体にくたいてき無理むりつもってやまいせられた。」としるしている[11]

南京なんきんせん[編集へんしゅう]

南京なんきん入城にゅうじょうしき閲兵えっぺいする松井まついいし
南京なんきんじょうちゅう山門さんもんうちみや飛行場ひこうじょう戦没せんぼつ勇士ゆうし慰霊いれいさい弔辞ちょうじべる松井まついいし(1937ねん12月18にち

松井まつい南京なんきん攻略こうりゃくを12月中旬ちゅうじゅんころ想定そうていしてへい休息きゅうそくさせていた。松井まついトラウトマン工作こうさくっていてその成果せいかるために、待機たいきしていたのではないかという見方みかたもある[5][7]。ところが、11月19にちだい10ぐん独断どくだんで(松井まつい指揮しきけん無視むしして)「南京なんきん攻略こうりゃくせん」を開始かいしした。松井まつい制止せいししようとしたがわず、だい10ぐん暴走ぼうそう追認ついにんした。11月28にち参謀さんぼう本部ほんぶはついに南京なんきん攻略こうりゃく命令めいれいはっした。12月7にち松井まつい南京なんきん攻略こうりゃくまえに「南京なんきんじょう攻略こうりゃく要領ようりょう」(略奪りゃくだつ行為こうい不法ふほう行為こうい厳罰げんばつしょすなどきびしい軍紀ぐんきふくむ)を兵士へいししめした(蔣介せきはこのうち南京なんきん脱出だっしゅつ)。12月9にち日本にっぽんぐんは「降伏ごうぶく勧告かんこくぶん」を南京なんきんまち飛行機ひこうき撒布さんぷした。翌日よくじつ降伏ごうぶく勧告かんこくたいする回答かいとうはなく、南京なんきんそう攻撃こうげきはじまった。13にち南京なんきん陥落かんらくした。その松井まついは、12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん入城にゅうじょうしきおこなむね通達つうたつした[12][13]。しかし、入城にゅうじょうしきのための治安ちあんがまだ確立かくりつされておらず、皇族こうぞく朝香あさかみやばと彦王(12月2にち上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん就任しゅうにん)の安全あんぜん確保かくほふくめて、中国ちゅうごくぐん便衣べんいへいおそれるあまり「うたがわしいものはすべてそののうちに始末しまつする方針ほうしんがとられた[14]」ため、結果けっかてきに、だい9師団しだんなどのように、民間みんかんじんである成年せいねん男子だんしをも便衣べんいへいなしてうたがわしいもの数多かずおお処刑しょけいするような事態じたいとなった[15]松井まついは、南京なんきん城内じょうのうち戦闘せんとう日本にっぽんぐん兵士へいしによる不法ふほう行為こうい発生はっせいしたと事件じけんほうき、「皇軍こうぐんぬぐいようのない汚点おてんをつけた」となげいたという[16]翌日よくじつ慰霊いれいさいまえに、かく師団しだん参謀さんぼうちょうらをまえに、松井まついかれらにつよ調子ちょうし訓示くんじあたえた。松井まついは「軍紀ぐんきヲ緊粛スヘキコト」「ささえじん馬鹿ばかニセヌコト」「えいべいとう外国がいこくニハきょうせいシク、ささえニハ軟ク以テえいべい依存いぞん放棄ほうきセシム」などとかたったという。松井まつい軍紀ぐんき粛正しゅくせいあらためてめいじ、わせて中国人ちゅうごくじんへの軽侮けいぶ思想しそうねんすようにしていましめた(上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう副長ふくちょう上村うえむら利道としみち陣中じんちゅう日記にっきより)[3]松井まついは、戦後せんごに、このときのことを回想かいそうし、日本にっぽんぐん中国人ちゅうごくじん捕虜ほりょへのあつかいが人道的じんどうてきでなかったこともなげき、「武士ぶしどうとか人道じんどう」のかんがえがむかし日本にっぽんぐんから後退こうたいしたことをもなげいた[17]東京とうきょう裁判さいばんにおける宣誓せんせい口述こうじゅつしょでは、松井まついは、兵士へいしによる軍規ぐんき違反いはん掠奪りゃくだつ暴行ぼうこうとう不法ふほう行為こういみとめたものの、組織そしきてきだい虐殺ぎゃくさつかんしては否定ひていしている[19]

一方いっぽう、トラウトマン工作こうさくは、日本にっぽんがわ戦争せんそう勝利しょうりをよいことに、提示ていじする条件じょうけんをつりあげたことによって頓挫とんざした[20]。しかし、松井まついはこの時期じきに蔣介せき信頼しんらいしていたそうぶんつうじて、独自どくじ和平わへい交渉こうしょうすすめようとしていた[21]。だが、昭和しょうわ13ねん(1938ねん)1がつ16にち近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうの「蔣介せきたいとせず」宣言せんげん近衛このえ声明せいめい)ですべてはわった。松井まついは2がつ21にち上海しゃんはいはなれて帰国きこく予備よびやくとなったが、その理由りゆうは、ぐん中央ちゅうおうから中国ちゅうごくりとられ、かんがかた相違そういから更迭こうてつされたとも[5]日本にっぽん政府せいふ外務省がいむしょう)が南京なんきんでの不法ふほう行為こういまえて陸軍りくぐんへの現地げんち軍紀ぐんき粛正しゅくせい要望ようぼうしたことで[22]陸軍りくぐん中央ちゅうおう現地げんち調査ちょうさ(1がつ)をけて日本にっぽん召喚しょうかんされた[23]とも、われている。

昭和しょうわ13ねん3がつ帰国きこく静岡しずおかけん熱海あたみ伊豆山いずさん滞在たいざいちゅうに、今回こんかいにちちゅうりょう兵士へいし犠牲ぎせいは、アジアのほとんどの欧米おうべい諸国しょこく植民しょくみんがいずれ独立どくりつするための犠牲ぎせいであると位置いちづけ、その供養くようについてかんがえていた。滞在たいざいさき宿やど主人しゅじん相談そうだんし、昭和しょうわ15ねん1940ねん)2がつにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)におけるにちちゅう双方そうほう犠牲ぎせいしゃとむらため静岡しずおかけん熱海あたみ伊豆山いずさん興亜こうあ観音かんのん建立こんりゅうし、みずからはふもとあんててそこにみ、毎朝まいあさ観音かんのんけいをあげていた[24]

興亜こうあ観音かんのん熱海あたみ伊豆山いずさん

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそうから終戦しゅうせんまで[編集へんしゅう]

軍籍ぐんせきはなれた松井まついは「だい亜細亜あじあ協会きょうかい会頭かいとうとして、アジア主義しゅぎ運動うんどう展開てんかいし、国内こくない各所かくしょでの講演こうえん活動かつどうおこなっていた。 1939ねん4がつには陸軍りくぐん美術びじゅつ協会きょうかい会長かいちょう就任しゅうにん[25]し、同年どうねん7がつ開催かいさいされた戦争せんそうきそだいいちかい聖戦せいせん美術びじゅつてんでは展覧てんらんかい名誉めいよ会長かいちょうつとめている[26]

たいべいえい開戦かいせんの1がつ松井まついは「思想しそう国防こくぼう協会きょうかい会長かいちょうとなり、日米にちべい開戦かいせん意義いぎ東南とうなんアジア占領せんりょうにおける興亜こうあ思想しそう普及ふきゅうについてべている。

1942ねん6がつ松井まついだい亜細亜あじあ協会きょうかい会頭かいとうとして国外こくがい視察しさつかけ、上海しゃんはい~南京なんきん~台湾たいわん~広東かんとん~海南かいなんとう~ふつしるし~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島すまとらとう~ジャワ島じゃわとう~セレベスとう~フィリピンをおとずれ、だい東亜とうあ共栄きょうえいけん確立かくりつ重要じゅうようせいいた。南京なんきんではひろしちょうめいと、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談かいだんしている。

帰国きこく松井まついは、栄養失調えいようしっちょうから風邪かぜをこじらせ、かる肺炎はいえんこした。敗戦はいせんまでのあいだ松井まつい仏門ぶつもんはげみ、あさひるかいちかくの観音堂かんのんどう参拝さんぱいするのが日課にっかだった。

1945ねん8がつ15にち松井まつい終戦しゅうせん玉音ぎょくおん放送ほうそう熱海あたみ自宅じたくいた。 同年どうねん11月19にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいは、日本にっぽん政府せいふたい松井まついらを戦争せんそう犯罪はんざいじんとして逮捕たいほし、巣鴨すがも刑務所けいむしょ拘禁こうきんするよう命令めいれい[27]松井まつい肺炎はいえんわずらい、病床びょうしょうにあった。松井まつい個人こじん通訳つうやくつとめていた岡田おかだしょうは、松井まつい巣鴨すがも出頭しゅっとうおくらせようと、松井まつい親交しんこうのあった岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ茂雄しげお社長しゃちょうたのみ、岩波いわなみしたしい間柄あいだがらであるGHQの派遣はけん医師いしである武見たけみ太郎たろう松井まつい診断しんだんしょいてもらい、巣鴨すがも出頭しゅっとうを1946ねん3がつ5にちまで延期えんきさせることに成功せいこうしている。このあいだ松井まついは、死後しごそなえて「ささえ事変じへん日誌にっし抜粋ばっすい」と「とう興亜こうあ理念りねん併其運動うんどう回顧かいこ」をげている。

巣鴨すがも[編集へんしゅう]

1946ねん3がつ4にち松井まつい巣鴨すがもプリズン収容しゅうようされる前夜ぜんや近親きんしんしゃたちをまねいてうたげもよおし、さかずきわしながら「乃公はどうせころされるだろうが、ねがいわくば興亜こうあいしずえ人柱ひとばしらとしてきたい。かりそめにも親愛しんあいなる中国人ちゅうごくじん虐殺ぎゃくさつ云々うんぬんではなんとしてもかばれないなぁ」とかたった(陸軍りくぐん後輩こうはい有末ありすえ精三せいぞうげん[5]よく5にち出頭しゅっとう収監しゅうかんされてからも毎朝まいあさ観音かんのんけいをあげるのが習慣しゅうかんだった[28]。また、重光しげみつまもるの『巣鴨すがも日記にっき』によると、ひと依頼いらいおうじて揮毫きごうする文字もじまって「ころせためじん」であり、獄中ごくちゅうではつね国民こくみんふく姿すがただったという。

東京とうきょう裁判さいばん[編集へんしゅう]

東京とうきょう裁判さいばんでの松井まついいし

戦後せんご戦争せんそう犯罪はんざいじんとして逮捕たいほ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんにおいて起訴きそされる。裁判さいばんちゅうは、東条とうじょう英機ひできまめにメモをつづけたのにたいして、松井まつい頬杖ほおづえをついてだまつづける姿すがた記録きろくされている[29]判決はんけつは、松井まつい司令しれいかんつとめたなかささえ方面ほうめんぐん南京なんきんこしたとされる不法ふほう行為こういについて、その防止ぼうし阻止そし関係かんけいしゃ処罰しょばつおこたったとして死刑しけい判決はんけつける[30]当時とうじキーナンの秘書ひしょけん通訳つうやくをしていた山崎やまざき晴一せいいちいた「おに検事けんじキーナン行状ぎょうじょう」によれば、ジョセフ・キーナン検事けんじはこの判決はんけつについて、『なんというバカげた判決はんけつか。シゲミツは、平和へいわ主義しゅぎしゃだ。無罪むざい当然とうぜんだ。マツイ、ヒロタが死刑しけいなどとは、まったくかんがえられない。マツイのつみは、部下ぶかつみだから、終身しゅうしんけいがふさわしい。ヒロタも絞首刑こうしゅけい不当ふとうだ。どんなにおも刑罰けいばつかんがえても、終身しゅうしんけいまではないか。』と判決はんけつ批判ひはんしていたという[31]

なお東京とうきょう裁判さいばんで 「(だい虐殺ぎゃくさつは)公的こうてき報告ほうこくけたことがなく、終戦しゅうせんべいぐん放送ほうそうはじめてった」と証言しょうげんしている。また12ねん12月17にち南京なんきん入城にゅうじょうした松井まついは、当時とうじ様子ようすをつづった日記にっきもとにした供述きょうじゅつしょで「巡視じゅんしさいやく20にん中国ちゅうごくへい戦死せんしたいたが、市内しない秩序ちつじょはおおむね回復かいふくした」といった内容ないようべている。一方いっぽう入城にゅうじょう一部いちぶへいによる軍律ぐんりつ違反いはん報告ほうこくけており、法廷ほうていで「南京なんきん入城にゅうじょう非行ひこうおこなわれたと憲兵けんぺい隊長たいちょうからき、かく部隊ぶたい調査ちょうさ処罰しょばつをさせた」と証言しょうげんした。松井まつい部下ぶか裁判さいばんまえ尋問じんもん非行ひこう件数けんすうを「10か20の事件じけんだった」とべている。だが、判決はんけつはこう断罪だんざいした。「自分じぶん軍隊ぐんたい行動こうどう厳正げんせいにせよと命令めいれいしたが、なん効果こうかももたらさなかった。自分じぶん軍隊ぐんたい統制とうせいし、南京なんきん市民しみん保護ほごする義務ぎむ権限けんげんをもっていたが、履行りこうおこたった」また、南京なんきん攻略こうりゃく松井まつい帰国きこくしたことをめぐり、検察けんさつがわ日本にっぽん南京なんきんでの多数たすう不法ふほう行為こうい責任せきにんい、司令しれいかんしょく召還しょうかんしたという構図こうずした。松井まついは「それは理由りゆうにはならない。自分じぶん仕事しごと南京なんきん終了しゅうりょうしたとかんがえ、制服せいふくいだ」と明確めいかく否定ひていしたものの、反論はんろん一切いっさいきいれられなかった。「南京なんきんで2まん強姦ごうかん(ごうかん)、20まんにん以上いじょう殺害さつがいがあった」と断定だんていした東京とうきょう裁判さいばんだが、松井まついたいする判決はんけつでは「南京なんきん陥落かんらくから6、7週間しゅうかんなんせんという婦人ふじん強姦ごうかんされ、10まんにん以上いじょう殺害さつがい」とそれぞれすうげた。[32]

死刑しけい執行しっこう[編集へんしゅう]

松井まつい昭和しょうわ23ねん(1948ねん)12月9にち巣鴨すがも拘置こうちしょにおいて、教誨きょうかい花山はなやま信勝のぶかつつぎ言葉ことばのこした[33]

南京なんきん事件じけんではおずかしいかぎりです。南京なんきん入城にゅうじょうのち慰霊いれいさいのときに、ささえじん死者ししゃもいっしょにとわたしもうしたところ[24]参謀さんぼうちょう以下いかなにからんから、日本にっぽんぐん士気しきかんするでしょうといって、師団しだんちょうはじめ、あんなことをしたのだ。わたしにち戦争せんそうのとき、大尉たいいとして従軍じゅうぐんしたが、その当時とうじ師団しだんちょうと、今度こんど師団しだんちょうなどとくらべてみると、問題もんだいにならんほどわるいですね。にち戦争せんそうのときは、ささえじんたいしてはもちろんだが、ロシアじんたいしても、俘虜ふりょあつかい、そのよくいっていた。今度こんどはそうはいかなかった。政府せいふ当局とうきょくではそうかんがえたわけではなかったろうが、武士ぶしどうとか人道じんどうとかいうてんでは、当時とうじとはまったくわっておった。慰霊いれいさい直後ちょくごわたしみなあつめてぐんそう司令しれいかんとしていておこった。そのときは朝香あさかみやもおられ、柳川やながわ中将ちゅうじょう方面ほうめんぐん司令しれいかんだったが、せっかくすめらぎかがやかしたのに、あのへい暴行ぼうこうによって一挙いっきょにしてそれをとしてしまった。ところが、そのことのあとで、みながわらった。はなはだしいのは、ある師団しだんちょうのごときは、たりまえですよ、とさえいった。したがって、わたしだけでも、こういう結果けっかになるということは、当時とうじ軍人ぐんじんたちに一人ひとりでもおおく、ふか反省はんせいをあたえるという意味いみ大変たいへんうれしい。せっかくこうなったのだから、このまま往生おうじょうしたい、とおもっている。

昭和しょうわ23ねん1948ねん)12月23にち巣鴨すがもプリズンうち松井まついふくめ、7にんのこりの6にん東條とうじょう英機ひでき広田ひろた弘毅こうき板垣いたがき征四郎せいしろう土肥どいはら賢二けんじ木村きむら兵太郎へいたろう武藤むとうあきら)の死刑しけい執行しっこうされた。70さいぼつ

辞世じせいは、3しゅである。

天地あまち(あやつち)も ひともうらみず ひとすじに かしこ(むい)をねんじて やすらけく[3]
いきにえに つきくるいのちは 惜かれど こくささげて のこりしなればく[3]
ひとに のこさばやとおもこと自他じた平等びょうどうまことしん[3]

これらのについて早坂はやさかたかしは、「いちしゅ使つかわれている「かしこ」というかたりは「ふつほうくときのなにものをもおそれない態度たいど」のことであるが、これは松井まつい熱海あたみ自宅じたくかんした言葉ことばでもある。しかし、さきいちしゅ辞世じせいであることをかんがえれば、「おそれないこと」への意味合いみあいがつよ意識いしきされているとかんがえるのが自然しぜんであろう。また、最後さいごいちしゅなかの「自他じた」という表現ひょうげんは、日本人にっぽんじん中国人ちゅうごくじんのことを暗喩あんゆしているにちがいないとわたしおもう。」とのべている[3]

1960ねん殉国じゅんこくななびょう、1978ねん靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく[編集へんしゅう]

中国共産党ちゅうごくきょうさんとうでは松井まつい南京なんきん事件じけん責任せきにんしゃ日本にっぽんぐんによる非道ひどう象徴しょうちょうてき人物じんぶつ位置いちづけている。また、国家こっか中枢ちゅうすうにあったとされるほかのAきゅう戦犯せんぱん同格どうかく人物じんぶつとみなしている。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

ノンフィクション作家さっか早坂はやさかたかしは、2011ねん刊行かんこうした『松井まついいし南京なんきん事件じけん真実しんじつ』(文春ぶんしゅん新書しんしょ)のなかで、松井まつい南京なんきん占領せんりょう平和へいわうらすすめようとしていた過程かていや、親中しんちゅうとしての松井まつい思想しそう東京とうきょう裁判さいばんにおける松井まついかんする審理しんり矛盾むじゅんなどを指摘してきした。

田原たはら総一朗そういちろうは「松井まついいし構想こうそうによって日本にっぽん政府せいふと蔣介せき信頼しんらい関係かんけい堅持けんじされていれば、日本にっぽん中国ちゅうごく歴史れきしおおきくわっていたはずである。日本にっぽんが蔣介せき中国ちゅうごく戦争せんそうこすこともなく、当然とうぜん南京なんきん事件じけんきえなかった。」とのべている[5]

南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ事件じけんかんして[編集へんしゅう]

事件じけん責任せきにん東京とうきょう裁判さいばんでの答弁とうべん[編集へんしゅう]

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん昭和しょうわ22ねん(1947ねん)11月24にち、ノーラン検察官けんさつかん南京なんきん事件じけんかんして反対はんたい尋問じんもんしたさい松井まついいし証言しょうげんについて政治せいじ学者がくしゃ丸山まるやま眞男まさお昭和しょうわ24ねん(1949ねん)に発表はっぴょうした「軍国ぐんこく支配しはいしゃ精神せいしん形態けいたい」でろんじた[34]丸山まるやまは、検察けんさつから部下ぶか兵士へいし)の暴行ぼうこう懲罰ちょうばつについて努力どりょくしたかと尋問じんもんされると松井まついが「全般ぜんぱん指揮しきかんとして、部下ぶかぐん司令しれいかん師団しだんちょうにそれを希望きぼうするよりほかに、権限けんげんはありません」と証言しょうげんしたことを部分ぶぶんてき引用いんようしながら「自己じこにとって不利ふり状況じょうきょうのときにはなんでも法規ほうき規定きていされた厳密げんみつ職務しょくむ権限けんげんしたがって行動こうどうする専門せんもん官吏かんりになりすますことが出来できる」のであるとして、松井まついのような態度たいどを「権限けんげんへの逃避とうひ」とひょうした[35]丸山まるやまはこうした「権限けんげんへの逃避とうひ」は、ナチスゲーリングぜん責任せきにんうとした「明快めいかいさ」とことなり、「日本にっぽんファシズム矮小わいしょうせい」のいち側面そくめんであるとし、日本にっぽん軍人ぐんじん戦犯せんぱん一様いちように「うなぎのようにぬらくらし、かすみのように曖昧あいまい」な答弁とうべんをするとあらわした[36]

このような丸山まるやま眞男まさお松井まつい評価ひょうかについてうしむらけいは、松井まついいしどう尋問じんもんで「わたし方面ほうめんぐん司令しれいかんとして、部下ぶかひきいて南京なんきん攻略こうりゃくするにさいしてこったすべての事件じけんたいして責任せきにん回避かいひするものではありませんけれども、しかしかく軍隊ぐんたい将兵しょうへい軍紀ぐんき風紀ふうき直接ちょくせつ責任せきにんしゃわたしではないということをもうした」と自分じぶん責任せきにん回避かいひしないと答弁とうべんしたことが裁判さいばん記録きろくのこっており[37]丸山まるやま論文ろんぶん引用いんようにするさい松井まつい答弁とうべん意図いとてき省略しょうりゃくしていたことを発見はっけんした[38]。また、当時とうじ東京とうきょう裁判さいばん検察けんさつ松井まつい責任せきにん回避かいひしないと答弁とうべんしたことを確実かくじつっていた[39]のであって、松井まつい答弁とうべんは「道義どうぎじょう責任せきにん」と「法律ほうりつじょう責任せきにん」を区別くべつした明瞭めいりょうなものであるとうしむらさい評価ひょうかした[40]うしむらけい裁判さいばん記録きろく虚心坦懐きょしんたんかい読解どっかいすれば、松井まついが「道義どうぎじょう責任せきにんけっして回避かいひせぬが日本にっぽん陸軍りくぐん法規ほうきではこうなっていると説明せつめいしている」と解釈かいしゃくするほう自然しぜんであり、丸山まるやま眞男まさおろんについては「松井まつい人格じんかく歪曲わいきょくする削除さくじょくわえ」「予断よだん先入観せんにゅうかんを、恣意しいてきんでいい論証ろんしょうほうもちいてとおそうとした。このような論法ろんぽうにつき、丸山まるやま眞男まさおは<道義どうぎじょう責任せきにん>をかんじてしかるべきであろう」と批判ひはんしている[41]

松井まついかんする蔣介せきの「発言はつげん[編集へんしゅう]

興亜こうあ観音かんのんまもかい会報かいほう(『興亜こうあ観音かんのんだい15ごう』2002ねん4がつ18にちごう)に田中たなか正明まさあきいたところによれば、1966ねん9月に、田中たなから5にんきし信介しんすけ名代なだいとして台湾たいわん訪問ほうもんしたさい、蔣介せきが「南京なんきんにはだい虐殺ぎゃくさつなどありはしない。なにおう将軍しょうぐん軍事ぐんじ報告ほうこくなかで、ちゃんとそのことを記録きろくしているはずです。わたし当時とうじだい虐殺ぎゃくさつなどという報告ほうこくみみにしたことはない。松井まついかく冤罪えんざい処刑しょけいされたのです」となみだながらにかたったという体験たいけんだんしるされている[よう出典しゅってん][42]。このはなしは『興亜こうあ観音かんのんだい10ごう』(1999ねん10がつ18にちごう)にも掲載けいさいされており、両方りょうほうとも蔣介せきは「もうわけないことをした」と田中たなかかたったとしるされているが、なにおう欽の軍事ぐんじ報告ほうこく松井まつい大将たいしょう冤罪えんざいだったという部分ぶぶんは、10ごうでは田中たなかかんがえる事実じじつとしてしるされているのに、15ごうでは蔣介せき自身じしん発言はつげんしるされており、異同いどうがある。

なお、蔣介せき自身じしん公式こうしき回顧かいころくである産経新聞さんけいしんぶん当時とうじはサンケイ新聞しんぶん)が1976ねん紙面しめん掲載けいさいした『蔣介せき秘録ひろく』の「ぜん世界せかいふるがらせた蛮行ばんこう」によれば、蔣介せきは1938ねん1がつ22にちづけ日記にっきに「日本にっぽんぐん南京なんきんであくなき惨殺ざんさつ姦淫かんいんをくりひろげている。野獣やじゅうにもたこの暴行ぼうこうは、もとよりかれ自身じしん滅亡めつぼうはやめるものである。それにしても同胞どうほう痛苦つうくはそのきょくたっしているのだ」としるしている。また、日本にっぽんぐんによる南京なんきん攻略こうりゃくせん終了しゅうりょうしたのち自軍じぐん損害そんがいについては、「南京なんきん防衛ぼうえいせんにおける中国ちゅうごくぐん死傷ししょうしゃろくせんにんえた。しかし、より以上いじょう悲劇ひげき日本にっぽんぐん占領せんりょうきた。いわゆる南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつである。」「日本にっぽんぐんはまず、撤退てったいわなかった中国ちゅうごくぐん部隊ぶたい武装ぶそう解除かいじょしたあと、長江ながえ揚子江ようすこうきし整列せいれつさせ、これに機銃きじゅう掃射そうしゃびせてみなころしにした。」「虐殺ぎゃくさつ対象たいしょう軍隊ぐんたいだけでなく、一般いっぱん婦女子ふじょしにもおよんだ。」「こうした戦闘せんとういん戦闘せんとういん老幼ろうよう男女だんじょわない大量たいりょう虐殺ぎゃくさつは2カ月かげつおよんだ。」「犠牲ぎせいしゃさんじゅうまんにんともよんじゅうまんにんともいわれ、いまだにその実数じっすうがつかみえないほどである。」 とも発表はっぴょうしている[43]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

関連かんれんする作品さくひん[編集へんしゅう]

南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ責任せきにんしゃとして、南京なんきん事件じけんあつかった映画えいが登場とうじょうする。以下いか松井まついえんじた俳優はいゆう

資料しりょう映像えいぞう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 井上いのうえ雅二まさじ巨人きょじん荒尾あらおきよし佐久良さくら書房しょぼう、1910ねん田中たなか正明まさあき解説かいせつ
  2. ^ 松井まつい東京とうきょう裁判さいばんAきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎ起訴きそされて有罪ゆうざい判決はんけつけたが、「aこう-平和へいわたいするつみ」では無罪むざいであり、訴因そいんだい55こう戦時せんじ国際こくさいほうまた慣習かんしゅうほうたいする違反いはんざい。で有罪ゆうざいとなったため、実際じっさいにはBきゅう戦犯せんぱんBCきゅう戦犯せんぱん参照さんしょう)である。しかし、世間せけんでは東京とうきょう裁判さいばん日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざいじんさば裁判さいばんとしてつよ印象いんしょうのこっていること、東京とうきょう裁判さいばんは「aこう-平和へいわたいするつみ」によって有罪ゆうざい判決はんけつけた被告ひこくほとんめられたために「東京とうきょう裁判さいばん被告人ひこくにん=Aきゅう戦犯せんぱん」という印象いんしょうつよく、松井まついいしがAきゅう戦犯せんぱんであるという事実じじつはんする認識にんしき浸透しんとうしている。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 早坂はやさか 2011
  4. ^ しかし、現状げんじょう中国ちゅうごく国力こくりょくよわく、欧米おうべい列強れっきょうものにされている。そういった国状こくじょう中国ちゅうごくを、強国きょうこくとして「改造かいぞう」していくことが、日本にっぽん国防こくぼうじょうからも重要じゅうようである。荒尾あらおのこのような姿勢しせいたか評価ひょうかし、後援こうえんしていたのが川上かわかみ操六そうろくであった。松井まついはこの荒尾あらお思想しそうれて感銘かんめいつよくした。荒尾あらおのこのようなかんがかたが、その松井まつい精神せいしんてき中核ちゅうかくやしない、血肉けつにくとなり、思想しそう体系たいけい基調きちょう形作かたちづくったとえる。荒尾あらおかかげた理想りそうは、のち松井まつい創立そうりつするだい亜細亜あじあ協会きょうかいへの土壌どじょうとなった[3]
  5. ^ a b c d e f g h i j 田原たはら 2013
  6. ^ 亜細亜あじあ聯盟れんめいろん外交がいこう時報じほう」679ごう昭和しょうわ8ねん3がつ15にち発行はっこう
  7. ^ a b 早瀬はやせ 1999
  8. ^ 早坂はやさかたかし松井まついいし南京なんきん事件じけん真実しんじつ文春ぶんしゅん新書しんしょ 817〉』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2011ねん平成へいせい23ねん)7がつ20日はつか だいさつ発行はっこうISBN 978-4-16-660817-1、112~113ぺーじ
  9. ^ 松井まついいし大将たいしょう陣中じんちゅう日記にっき南京なんきん戦史せんし編集へんしゅう委員いいんかい編纂へんさん南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう II』財団ざいだん法人ほうじん 偕行社かいこうしゃ平成へいせいねん十二月じゅうにがつはちにち、109ぺーじ
  10. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん <岩波いわなみ新書しんしょ(しんあかばん)530>』岩波書店いわなみしょてん、1997ねん11月20にち だいさつ発行はっこうISBN 4-00-430530-6、112~113ぺーじ
  11. ^ 武藤むとうあきらちょうえほうかいおとこへん軍務ぐんむ局長きょくちょう 武藤むとうあきら回想かいそうろく芙蓉ふよう書房しょぼう昭和しょうわ56ねんがつにち だいさつ発行はっこう、80ぺーじ
  12. ^ 笠原かさはらじゅうきゅう南京なんきん事件じけん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉165ぺーじ
  13. ^ はたいく彦『南京なんきん事件じけん―「虐殺ぎゃくさつ」の構造こうぞう増補ぞうほばん)』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、104ぺーじ
  14. ^ はたいく彦『南京なんきん事件じけん―「虐殺ぎゃくさつ」の構造こうぞう増補ぞうほばん)』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、105ぺーじ
  15. ^ はたいく彦『南京なんきん事件じけん―「虐殺ぎゃくさつ」の構造こうぞう増補ぞうほばん)』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、104ぺーじ
  16. ^ 「偕行」60ねん3がつごう証言しょうげんによる南京なんきん戦史せんし」(最終さいしゅうかい
  17. ^ 花山はなやま信勝のぶかつ平和へいわ発見はっけん』P229
  18. ^ 早瀬はやせ 1999, p.304
  19. ^ 昭和しょうわ22ねん11月24にち宣誓せんせい口述こうじゅつしょだい5こう南京なんきん略奪りゃくだつ暴行ぼうこう事件じけん法定ほうていしょう3498ごう)「・・・松井まついいしは「検察けんさつがわ主張しゅちょうするごとき計画けいかくてきまたは集団しゅうだんてき虐殺ぎゃくさつおこないたる事実じじつだんじてなしとしんずる」と主張しゅちょうした。」[18]
  20. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公ちゅうこう文庫ぶんこ)p.179-183 185-187
  21. ^ 昭和しょうわ12ねん10がつ松井まつい茅野ちのちょうとも和平わへい工作こうさく依頼いらいした。茅野ちの松本まつもと蔵次くらなみともに、賈存とく和平わへい交渉こうしょうはいった。賈存とくあなさち連絡れんらくり、和平わへい交渉こうしょう秘密裏ひみつり進展しんてんした。しかし、松本まつもと重治しげはるこう宗武むねたけ策略さくりゃくによって和平わへい交渉こうしょうつぶされてしまった。これは尾崎おざき秀実ひでみいぬやしなえけん西園寺さいおんじ公一こういちかげただしあきららによるひろしちょうめい工作こうさくにつながっている。三田村みたむら武夫たけお、"はな全面ぜんめん和平わへい工作こうさくこわしたもの"『だい東亜とうあ戦争せんそうとスターリンの謀略ぼうりゃく』、自由じゆうしゃ、1987ねん
  22. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公ちゅうこう文庫ぶんこ)p.184
  23. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公ちゅうこう文庫ぶんこ)p.185
  24. ^ a b 山田やまだ雄司ゆうじ松井まついいし興亜こうあ観音かんのん
  25. ^ 戦争せんそう名作めいさく目指めざして『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ14ねん4がつ16にち)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp787 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  26. ^ 朝日新聞あさひしんぶん主催しゅさい戦争せんそう美術びじゅつてんひらく『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ14ねん7がつ7にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp311
  27. ^ 荒木あらきみなみ小磯こいそ松岡まつおかじゅういちにん逮捕たいほ命令めいれい昭和しょうわ20ねん11月20にち 朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース事典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん本編ほんぺんp340
  28. ^ 重光しげみつ 1953, p.39
  29. ^ 表情ひょうじょうにあきらめ やせてもまめな東條とうじょう」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ22ねん8がつ5にち,4めん
  30. ^ ラダ・ビノード・パール判事はんじは、南京なんきん日本にっぽんぐんによる一定いってい犯罪はんざい行為こうい存在そんざい認定にんていする一方いっぽうで、「裁判さいばんかた自体じたい有効ゆうこうせいがないため『有罪ゆうざい』という概念がいねんそのものが成立せいりつしない」との立場たちばから、松井まついふくめた被告ひこく全員ぜんいん無罪むざい主張しゅちょうした。
  31. ^ 山崎やまざき晴一せいいち 『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう昭和しょうわ24ねん10がつごう 「おに検事けんじキーナン行状ぎょうじょう
  32. ^ 歴史れきしせんだい 南京なんきん攻略こうりゃくせん 兵士へいしたちの証言しょうげん(4)】「虐殺ぎゃくさつ終戦しゅうせんべいぐん放送ほうそうった」 絞首刑こうしゅけい松井まついいし大将たいしょう 産経新聞さんけいしんぶん(2015.2.18)web魚拓ぎょたく
  33. ^ 花山はなやま信勝のぶかつ、「巣鴨すがもなま―ある教誨きょうかい記録きろく」、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1995ねん
  34. ^ 丸山まるやま 1964
  35. ^ 丸山まるやま 1964, pp.118-120
  36. ^ 丸山まるやま 1964, pp.102-103
  37. ^ 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん速記そっきろく』320ごう、p14、雄松おまつどう、1968ねん
  38. ^ うしむら 2001, pp.48-51
  39. ^ うしむら 2001, pp.55-56
  40. ^ うしむら 2001, pp.65-66
  41. ^ うしむら 2001, p.69
  42. ^ 同様どうよう内容ないよう田中たなか門下生もんかせいであるという深田ふかたたくみ著書ちょしょ日本人にっぽんじんらない「ふたつのアメリカ」の世界せかい戦略せんりゃく高木たかぎ書房しょぼう (2004)、P72でもしるされている。
  43. ^ 『蔣介せき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』サンケイ新聞しんぶんしゃP67~P70
  44. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 法廷ほうていしょうだい115ごう: [松井まついいしせきスル人事じんじきょく履歴りれきしょ]
  45. ^ 官報かんぽうだい7949ごう叙任じょにん及辞れい」1909ねん12月21にち
  46. ^ 官報かんぽうだい263ごう叙任じょにん及辞れい」1927ねん11月12にち
  47. ^ 官報かんぽう』1933ねん04がつ10日とおか 敍任じょにん及辭れい
  48. ^ 官報かんぽうだい2626ごう叙任じょにん及辞れい」1935ねん10がつ2にち
  49. ^ 官報かんぽうだい4570ごう宮廷きゅうていろくごと 勲章くんしょう親授しんじゅしき」1942ねん4がつ7にち

参考さんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 丸山まるやま眞男まさお軍国ぐんこく支配しはいしゃ精神せいしん形態けいたい」『現代げんだい政治せいじ思想しそう行動こうどう未來社みらいしゃ増補ぞうほばん〉、1964ねん 
  • うしむらけい責任せきにん回避かいひせず 松井まついいし大将たいしょう南京なんきん事件じけん」『「文明ぶんめいさばき」をこえて : たいにち戦犯せんぱん裁判さいばん読解どっかいこころみ』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公叢書ちゅうこうそうしょ〉、2001ねんISBN 4120030970 
  • 田原たはら総一朗そういちろう日本にっぽんきん現代げんだいの「うら主役しゅやく」たち : きた一輝いっき大川おおかわ周明しゅうめい頭山とうやまみつる松井まついいし……「アジア主義しゅぎしゃ」のゆめ挫折ざせつPHP研究所けんきゅうじょ、2013ねんISBN 9784569760575 
  • 早坂はやさかたかし松井まついいし南京なんきん事件じけん真実しんじつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ〉、2011ねんISBN 9784166608171 
  • 重光しげみつまもる巣鴨すがも日記にっき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ、1953ねん 
  • 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ へん極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん速記そっきろく雄松おまつどう書店しょてん、1968ねん 
  • 早瀬はやせ利之としゆき将軍しょうぐん真実しんじつ : 南京なんきん事件じけん-松井まついいし人物じんぶつでん光人みつひとしゃ、1999ねんISBN 4769809301 (2007ねん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこより「南京なんきんせん真実しんじつ 松井まついせき将軍しょうぐん無念むねん」と改題かいだいして刊行かんこう
  • 田中たなか正明まさあき井上いのうえ雅二まさじ巨人きょじん荒尾あらおきよし解説かいせつ」(井上いのうえ雅二まさじ巨人きょじん荒尾あらおきよし佐久良さくら書房しょぼう明治めいじ43年刊ねんかんの1997ねん復刻ふっこくばん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

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