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こう宗武むねたけ

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こう宗武むねたけ
最新さいしんささえ要人ようじんでん』1941ねん
プロフィール
出生しゅっしょう 1905ねんきよしひかりいとぐち31ねん[1]
死去しきょ 1994ねん[2]
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん 清の旗 きよし浙江せっこうしょう温州うんしゅうらくせいけん
職業しょくぎょう 政治せいじ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ こう宗武むねたけ
簡体字かんたいじ こう宗武むねたけ
拼音 Gāo Zòngwǔ
ラテン Kao Tzung-wu
和名わみょう表記ひょうき こう そうぶ
発音はつおん転記てんき ガオ ゾンウー
テンプレートを表示ひょうじ

こう 宗武むねたけ(こう そうぶ、1905ねん - 1994ねん)は、中華民国ちゅうかみんこく外交がいこうかんにちちゅう戦争せんそう和平わへいであり、のちハノイ脱出だっしゅつしたひろしちょうめい行動こうどうともにしたが、ひろしちょうめい政府せいふ樹立じゅりつ直前ちょくぜん日本にっぽんがわ条件じょうけんがあまりにも過酷かこくであること批判ひはんしてひろしちょうめい訣別けつべつした。

にちちゅう戦争せんそうまで

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1928ねんわたりして九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがく政治せいじがく専攻せんこう。その東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学士がくし入学にゅうがく。1932ねん中国ちゅうごく帰国きこく。『中央日報ちゅうおうにっぽういた「いち事件じけん」についての論文ろんぶん注目ちゅうもくされ、まもなく蔣介せきのブレーンの一人ひとりとなった。1934ねん、28さいわかさにして国民党こくみんとう政府せいふしゅうつかさちょう日本にっぽんの「外務省がいむしょうアジア局長きょくちょう」に相当そうとう)に就任しゅうにん

和平わへい工作こうさくのための極秘ごくひ来日らいにち

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盧溝橋ろこうきょう事件じけんさいに、こう宗武むねたけ和平わへい交渉こうしょうちゅう日高ひだか信六郎しんろくろう会見かいけんをしている。7月25にち南京なんきんでは日高ひだかこう宗武むねたけ会見かいけんで、国民こくみん政府せいふ現地げんち協定きょうてい解決かいけつ条件じょうけん黙認もくにんする意向いこうであることあきらかにされた。しかし中国ちゅうごくがわによる広安ひろやすもん事件じけんろうぼう事件じけん勃発ぼっぱつする。8月7にち船津ふなつ辰一郎たついちろうもと総領事そうりょうじ上海しゃんはい到着とうちゃくすると、9にちこう宗武むねたけ会談かいだんし、華北かほく問題もんだい迅速じんそくかつ局部きょくぶてき解決かいけつすること得策とくさくであると説得せっとくした。こう同日どうじつ午後ごご川越かわごえ大使たいしとも会談かいだんして交渉こうしょう順調じゅんちょうすすんでいくかにえたが、同日どうじつ夕刻ゆうこく上海しゃんはい大山おおやま事件じけん発生はっせいすると、事態じたいはにわかに緊迫きんぱくたびたかた。船津ふなつかく方面ほうめん奔走ほんそうし、平和へいわてき解決かいけつけて中国ちゅうごくがわ説得せっとくつとめたが、13にちには上海しゃんはいにちちゅうりょうぐんあいだ交戦こうせんはじまり(だい上海しゃんはい事変じへん)、14にちには全面ぜんめん衝突しょうとつ発展はってんした[3]

にちちゅう戦争せんそう2ねんの1938ねんトラウトマンによる調停ちょうていトラウトマン工作こうさく)が不調ふちょうわったのち、いくつかのルートでのにちちゅう和平わへい交渉こうしょう水面すいめん進展しんてんしていた。「こう宗武むねたけ工作こうさく」も、そのうちのひとつと位置いちづけられる。

1938ねん3がつ5にちこう宗武むねたけは、日本にっぽんがわ和平わへいかんするかんがかたさぐるために、親交しんこうのあった松本まつもと重治しげはる同盟どうめい通信つうしんしゃ上海しゃんはい支社ししゃちょう)をひそかにたずねた。これをきっかけにこう宗武むねたけ日本にっぽんがわ和平わへい度々たびたび接触せっしょくかさねるようになり、その西にしよしあきらまんてつ南京なんきん出張所しゅっちょうしょちょう)のつよすすめもあり、こう宗武むねたけ和平わへい工作こうさくのための極秘ごくひ来日らいにち決意けついした。

7がつ3にちこう宗武むねたけは「エンブレス・オヴ・ジャパン」ごうにて日本にっぽん出発しゅっぱつ。このとき松本まつもと重治しげはるが「同盟どうめい通信つうしんしゃ」の自動車じどうしゃひそかにこう宗武むねたけせ、「同盟どうめい通信つうしん!」と大声おおごえさけんで歩哨ほしょうをごまかし、日本にっぽんがわ警戒けいかいする「ガーデン・ブリッジ」を通過つうかしたエピソードは有名ゆうめいである。

7がつ5にち来日らいにち。その21にち日本にっぽんはなれるまで(来日らいにち離日りにちについては諸説しょせつあり)、こう宗武むねたけは、かげただしあきら当時とうじ参謀さんぼう本部ほんぶだいはち課長かちょう)のみちびきにより、近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょう板垣いたがき征四郎せいしろう陸相りくしょう今井いまい武夫たけお参謀さんぼう本部ほんぶささえ班長はんちょうなどの日本にっぽん要人ようじん会談かいだんした。こう宗武むねたけは「蔣介せき政権せいけん存続そんぞく」を前提ぜんていとして「和平わへいひろしちょうめいへの支持しじもとめたが、「蔣介せき下野げや」に固執こしつする日本にっぽんがわは、中国ちゅうごくの「和平わへい」の存在そんざい過大かだい期待きたいする結果けっかとなった。

この極秘ごくひ来日らいにちは蔣介せき命令めいれい無視むししたものであったため、こう宗武むねたけはこれ以降いこう蔣介せき不興ふきょううこととなった。

ひろしちょうめい政府せいふとのかかわり

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そのひろしちょうめい工作こうさく進展しんてんなかで、1938ねん12月18にちひろしちょうめい重慶たーちん脱出だっしゅつ、蔣介せき訣別けつべつした。しかし日本にっぽんがわとの「密約みつやく」であった「日本にっぽんぐん撤兵てっぺい」の約束やくそく反故ほごにされ、こんあきら四川しせん中国ちゅうごくがわ軍閥ぐんばつからも期待きたいしたような同調どうちょううごきはなく、さらに工作こうさく中心ちゅうしんであった近衛このえ首相しゅしょう突然とつぜん辞職じしょくしてしまったため、最初さいしょ構想こうそうであった「和平わへい工作こうさく」は頓挫とんざした。

こう宗武むねたけひろしちょうめい重慶たーちん脱出だっしゅつをせかし、さらにひろしちょうめいのハノイ脱出だっしゅつひろしちょうめいグループの一員いちいんとして行動こうどうするなど、初期しょきから工作こうさくかかわりをったが、「樹立じゅりつする政権せいけん日本にっぽん傀儡かいらいになってはならない」ことをだれよりもつよ主張しゅちょうしていたのもこう宗武むねたけであったとつたえられる(西園寺さいおんじ公一こういち回想かいそうによる)。

にちはなしん関係かんけい調整ちょうせい要綱ようこう

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ひろしちょうめい政権せいけん傀儡かいらいせい懸念けねんつよめたこう宗武むねたけは、ひろしちょうめい政権せいけん樹立じゅりつ(1940ねん3がつ直前ちょくぜんの1940ねん1がつおなじく日本にっぽんとの和平わへい工作こうさく従事じゅうじしていたとうのぞみきよしとともに突然とつぜん香港ほんこん逃亡とうぼうした。逃亡とうぼうさい日本にっぽんがわ和平わへい条件じょうけん原案げんあん不満ふまんいて、ひろしちょうめい政府せいふ構想こうそうかか日本にっぽんがわ内約ないやく原案げんあんである「はな日新にっしん関係かんけい調整ちょうせい要綱ようこう」を国民党こくみんとうけい新聞しんぶんだい公報こうほう』で暴露ばくろし、香港ほんこんかく新聞しんぶんはいっせいにトップ記事きじでこの内容ないよう報道ほうどうし、ひろしちょうめいがわおおきなショックをあたえた。

軍事ぐんじ
1.防共ぼうきょう駐屯ちゅうとんけん 
2.治安ちあん駐屯ちゅうとんけん
3.駐屯ちゅうとん区域くいきない鉄道てつどう航空こうくう通信つうしん主要しゅよう港湾こうわん水路すいろ軍事ぐんじじょう要求ようきゅうけんおよび監督かんとくけん
4.日本にっぽんぐん軍事ぐんじ顧問こもんだん中国ちゅうごくぐん指導しどうけん
経済けいざい
1.ぜん中国ちゅうごくにおける航空こうくう支配しはいけん
2.国防こくぼうじょう必要ひつよう特定とくてい資源しげん開発かいはつ利用りようかんする企業きぎょうけん華北かほくにおいては日本にっぽん優位ゆうい、その地域ちいきではにちちゅう平等びょうどう
3.ごう疆における経済けいざい指導しどうけんおよび参与さんよけん
4.華北かほく鉄道てつどう掌握しょうあくけん
5.華北かほくにおける無線むせん通信つうしんはな共同きょうどう経営けいえいけん
6.華北かほくにおける特定とくてい資源しげん、なかでも国防こくぼうじょう必要ひつよう埋蔵まいぞう資源しげん開発かいはつ利用りようけん
7.華北かほくでの国防こくぼうじょう必要ひつよう特定とくてい事業じぎょうかんする合弁ごうべん事業じぎょう参与さんよけん日本にっぽん優位ゆうい
8.きた政務せいむ委員いいんかい臨時りんじ政府せいふ)の経済けいざい行政ぎょうせいかんする内面ないめん指導しどうけん 
9.満州まんしゅうこく承認しょうにん
[4]

こう宗武むねたけらがかく新聞しんぶんしゃあてに「調整ちょうせい要項ようこう過酷かこくさは、じゅういちりょくじょう要求ようきゅう(1915ねん)に2ばいし、中国ちゅうごく属国ぞっこくにしようとするものだ」と手紙てがみして、調整ちょうせい要項ようこうのコピーを暴露ばくろしたのである。

そのこう宗武むねたけ

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ひろしちょうめいとの訣別けつべつは、アメリカにわたった。一方いっぽう、1939ねんされた過酷かこく条件じょうけんは1940ねんきり工作こうさく緩和かんわされた。しばらく惨憺さんたんたる生活せいかつをしていたが、証券しょうけん会社かいしゃでタイピストとしてはたらいていた夫人ふじんからかぶ知識ちしきさづけられ、晩年ばんねん悠々自適ゆうゆうじてきであったとつたえられる(松本まつもと重治しげはる上海しゃんはい時代じだい」による)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ りゅうすぐる漢奸かんかん裁判さいばん』p.275による。じょともはるぬしへんみんこく人物じんぶつだい辞典じてん ぞうていばん』は1906ねんひかりいとぐち32ねん)としている。
  2. ^ りゅうすぐる同上どうじょうによる。じょともはるぬしへん同上どうじょう1995ねんとしている。
  3. ^ 外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん 特別とくべつ展示てんじII 全面ぜんめん戦争せんそうへの拡大かくだい
  4. ^ 『蔣介せき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』より

参考さんこう文献ぶんけん

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  • こう宗武むねたけかい憶録」(中国ちゅうごくだい百科全書ひゃっかぜんしょ出版しゅっぱんしゃ)(ちゅうぶん英文えいぶんからのなかぶんやく
  • 松本まつもと重治しげはる上海しゃんはい時代じだい」「近衛このえ時代ときよ
  • 西園寺さいおんじ公一こういち西園寺さいおんじ公一こういち回顧かいころく りし、昭和しょうわ
  • いぬやしなえけん揚子江ようすこういまながれている」(文中ぶんちゅう、「こう宗武むねたけ」は「かん紹武」と表記ひょうきされている)

関連かんれん項目こうもく

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