畑 俊六
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1879 | |
1962 | |
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1900 | |
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生涯
[生 い立 ち
[軍 歴
[ドイツ
1939
太平洋戦争
[1941
1945
戦後
[東京 裁判
[しかし、この
開戦 (太平洋戦争 )と海軍 の責任 について
[また、
しかし、
最期
[1962
戦陣 訓
[年譜
[- 1896
年 (明治 29年 )9月 -陸軍 幼年 学校 入学 - 1898
年 (明治 31年 )11月 -同校 卒業 、陸軍 士官 学校 入学 (12期 ) - 1900
年 (明治 33年 )11月 -同校 卒業 - 1901
年 (明治 34年 )6月 -少尉 に任官 、野砲 兵 第 1連隊 付 - 1903
年 (明治 36年 )11月 -中尉 に進級 - 1905
年 (明治 38年 )- 4
月 -野砲 兵 第 1連隊 補充 大隊 中隊 長 - 6
月 -大尉 に進級
- 4
- 1906
年 (明治 39年 )12月 -陸軍 砲 工 学校 高等 科 卒業 - 1907
年 (明治 40年 )12月 -陸軍 大 学校 入学 (22期 ) - 1910
年 (明治 43年 )- 11月 -
陸 大 卒業 - 12月 -
参謀 本部 員
- 11月 -
- 1912
年 (明治 45年 )3月 -駐 ドイツ大使館 付 武官 補佐 官 - 1914
年 (大正 3年 )- 4
月 -少佐 に進級 - 8
月 - スウェーデン駐在
- 4
- 1916
年 (大正 5年 )5月 -参謀 本部 員 - 1918
年 (大正 7年 )- 7
月 -中佐 に進級 - 8
月 -軍令 部 参謀 - 12月 -
欧州 出張 (パリ講和 会議 全権 随員 )
- 7
- 1919
年 (大正 8年 )- 4
月 -陸軍 大 学校 教官 - 12月25
日 -参謀 本部 作戦 班長
- 4
- 1921
年 (大正 10年 )7月 20日 -大佐 に進級 、野砲 兵 第 16連隊 長 - 1922
年 (大正 11年 )8月 15日 -陸軍 野戦 砲兵 学校 教導 連隊 長 - 1923
年 (大正 12年 )8月 6日 -参謀 本部 作戦 課長 兼 軍令 部 参謀 - 1926
年 (大正 15年 )3月 2日 -少将 に進級 、野戦 重砲 兵 第 4旅団 長 - 1927
年 (昭和 2年 )7月 26日 -参謀 本部 第 4部長 - 1928
年 (昭和 3年 )8月 10日 -参謀 本部 第 1部長 - 1931
年 (昭和 6年 )8月 1日 -中将 に進級 、砲兵 監 - 1933
年 (昭和 8年 )8月 1日 -第 14師団 長 - 1935
年 (昭和 10年 )12月2日 -航空 本部 長 - 1936
年 (昭和 11年 )8月 1日 -台湾 軍 司令 官 - 1937
年 (昭和 12年 ) - 1938
年 (昭和 13年 )- 2
月 14日 -中 支 那 派遣 軍 司令 官 - 12月15
日 -軍事 参議 官
- 2
- 1939
年 (昭和 14年 ) - 1940
年 (昭和 15年 )7月 22日 -陸軍 大臣 を単独 辞任 、軍事 参議 官 - 1941
年 (昭和 16年 )3月 1日 -支 那 派遣 軍 総 司令 官 - 1944
年 (昭和 19年 )- 6月2
日 -元帥 府 に列 す - 11月23
日 -教育 総監
- 6月2
- 1945
年 (昭和 20年 ) - 1948
年 (昭和 23年 ) - 1954
年 (昭和 29年 )10月 -仮釈放 - 1958
年 (昭和 33年 )- 4
月 -赦免 - 7
月 -偕行社 会長
- 4
- 1962
年 (昭和 37年 )5月 10日 -福島 県 棚倉 で戦没 者 慰霊 碑 除幕 式 出席 中 に倒 れ死去 、満 82歳
栄典
[位階
- 1901
年 (明治 34年 )10月 10日 -正 八 位 [17][18] - 1904
年 (明治 37年 )2月 19日 -従 七 位 [17][19] - 1905
年 (明治 38年 )8月 11日 -正 七 位 [17][20] - 1910
年 (明治 43年 )9月30日 -従 六 位 [17][21] - 1915
年 (大正 4年 )10月30日 -正 六 位 [17][22] - 1920
年 (大正 9年 )11月30日 -従 五 位 [17][23] - 1925
年 (大正 14年 )12月28日 -正 五 位 [17][24] - 1931
年 (昭和 6年 )1月 16日 -従 四 位 [17][25] - 1933
年 (昭和 8年 )9月1日 -正 四 位 [17][26] - 1936
年 (昭和 11年 )10月1日 -従 三 位 [17][27] - 1939
年 (昭和 14年 )9月1日 -正 三 位 [17] - 1944
年 (昭和 19年 )6月15日 -従 二 位 [17]
勲章 等
- 1906
年 (明治 39年 )4月 1日 -功 五 級 金鵄勲章 ・勲 六 等 単 光 旭日 章 ・明治 三 十 七 八 年 従軍 記章 [17] - 1913
年 (大正 2年 )5月31日 -勲 五 等 瑞宝章 [17][28] - 1915
年 (大正 4年 )11月7日 -勲 四 等 旭日 小 綬章 ・大正 三 四 年 従軍 記章 [17] - 1920
年 (大正 9年 )9月7日 -勲 三 等 旭日 中 綬章 [29]・大正 三 年 乃至 九 年 戦役 従軍 記章 [17] - 1930
年 (昭和 5年 )?月 ?日 -勲 二 等 瑞宝章 [17] - 1934
年 (昭和 9年 )4月 29日 -勲一等 旭日大綬章 ・昭和 六 年 乃至 九 年 事変 従軍 記章 [17] - 1940
年 (昭和 15年 ) - 1944
年 (昭和 19年 )6月2日 -元帥 [31]
外国 勲章 佩用 允許
著作
[小見山 登 編著 編 『巣鴨 日記 』日本 文化 連合 会 、1977年 10月 。 NCID BN01708366。全国 書誌 番号 :77012827。小見山 登 編著 編 『元帥 畑 俊六 獄中 獄 外 の日誌 』前 篇 (巣鴨 日記 )、日本人 道 主義 協会 、1992年 5月 。 NCID BN07359328。全国 書誌 番号 :92044714。小見山 登 編著 編 『元帥 畑 俊六 獄中 獄 外 の日誌 』後 篇 (陋廬日誌 )、日本人 道 主義 協会 、1992年 5月 。 NCID BN07359328。全国 書誌 番号 :92044715。
伊藤 隆 、照沼 康孝 編 『陸軍 畑 俊六 日誌 』みすず書房 〈続 ・現代 史 資料 4〉、1983年 3月 。ISBN 9784622026549。 NCID BN00409290。全国 書誌 番号 :83028754。伊藤 隆 ・照沼 康孝 編 『陸軍 畑 俊六 日誌 』(オンデマンド版 )みすず書房 〈続 ・現代 史 資料 4〉、2004年 12月。ISBN 9784622061502。 NCID BA7362264X。全国 書誌 番号 :20771530。
軍事 史 学会 編 『元帥 畑 俊六 回顧 録 』伊藤 隆 ・原 剛 監修 、錦 正 社 、2009年 7月 。ISBN 9784764603295。 NCID BA90659599。全国 書誌 番号 :21634136。
逸話
[畑 は極東 国際 軍事 裁判 で終身 禁固 の判決 を受 け服役 した。やはり禁固刑 を受 けて巣鴨 プリズンで服役 していた重光 葵 によると、畑 は服役 中 に揮毫 を求 められると、決 まって「馬上 五 十 年 夢 又 夢 俊六 」と書 いたという。その達筆 ぶりはなかなかのもので、本人 もこれだけは自慢 できると誇 らしげだったという。
脚注
[注釈
[- ^ 『
忠 鑑 畑 元帥 』によれば、畑 家 の遠祖 は畑 時 能 。白虎隊 士 として飯盛山 で自刃 した西川 勝太郎 は畑 能 賢 の従弟 である。 - ^
参謀 次長 河辺 虎 四 郎 の日記 8月 14日 の項 に「以 て吾 人 の主張 を更 に押 して貰 い度 き気持 にてありしが、実 は其 の目的 には適 わざる実状 となり、昨夜 の皇族 会議 と同様 、元帥 に対 しても克 く大 御 心 を心 として助力 する様 にとの仰 せ言 ありし由 なり」とあり(ここでの河邊 の主張 とは抗戦 の意 )、これによれば元帥 の奉答 もしくは上奏 にかかわらず昭和 天皇 が戦争 終結 の大元帥 命令 をくだしたと考 えられる。 - ^
検察官 による証人 尋問 中 、米 内 は何 度 注意 されても、検察官 の質問 にはきちんと答 えずに、自身 の主張 したい否定 発言 ばかりを返 していた。裁判 長 ・ウェッブは「この総理 は、これまで証言 を聴 いた中 でもっともstupid(「鈍 い」「鈍感 な」といった意味合 いであろうか)な証人 だ」と本人 の面前 で語 ったが、米内 自身 は証言 後 友人 に「裁判 長 に、大 バカ提督 と罵 られちゃったよ」とニコニコしていたという。 また、米内 本人 に証拠 の新聞 記事 を読 み上 げさせた上 で回答 させることになったが、そのときも同様 な態度 でなかなか読 み上 げようとしなかったところ、弁護人 から、字 が小 さいので拡大鏡 がなければ読 めないと助 け舟 を出 された。これも本人 が言 うべきことで弁護人 がそのような暗示 を出 すべきでないといった注意 を複 数 回 受 けている。米 内 は、この弁護人 の話 に調子 を合 わせたが、いざ新聞 を読 み上 げる段 になって、ウェッブ裁判 長 に「拡大鏡 が無 いと読 めないことを忘 れたのではありませんか」と皮肉 を言 われ、今度 は「灯 りがつきましたね(だから、読 めるようになった)」と返 している。 ただし、このような態度 が検察官 に対 し畑 の責任 を最後 まで認 めなかったことにはなるとしても、どれほど弁護 に役立 ったかは分 からない。尋問 中 、検察官 の質問 にまともに回答 しないようならば信憑 性 のない証人 として退廷 させることになると、米 内 は裁判 長 から注意 を受 けていて、むしろ新聞 記事 の方 が信頼 性 があるとの印象 を与 えた可能 性 さえある。
出典
[- ^ 『
忠 鑑 畑 元帥 』7頁 - ^ 「
陸軍 畑 俊六 日誌 」(みすず書房 、平成 16年 (2004年 )) - ^ 「
後継 首班 に畑 大将 内 府 と枢 相 奏請 に傾 く問題 は軍 の反対 気勢 」大阪 朝日新聞 1940.1.14 (昭和 15) - ^ a b c
新名 丈夫 『海軍 戦争 検討 会議 記録 』(株) KADOKAWA、2022年 10月 10日 、58-59頁 。 - ^ この
場合 、軍部 大臣 現役 武官 制 により内閣 の運営 は困難 となる。 - ^ 『
日本人 はなぜ戦争 へと向 かったのか メディアと民衆 ・指導 者 編 』p135 - ^
長谷川 毅 『暗闘 スターリン、トルーマンと日本 降伏 (下 )』中央公論 新 社 、2011年 。152頁 - ^ “A
級 極東 国際 軍事 裁判 速記 録 (和文 )・昭和 22.9.11~昭和 22.11.20(第 269~318号 )”.国立 公文書 館 . pp. 61-64コマ. 2023年 11月24日 閲覧 。 - ^ 『
秘録 大 東亜 戦史 東京 裁判 篇 』富士 書 苑 、1953年 、120頁 。 - ^ “A
級 極東 国際 軍事 裁判 速記 録 (和文 )・昭和 23.11.4~昭和 23.11.12(判決 )”.国立 公文書 館 . 2023年 11月27日 閲覧 。 - ^
畑 俊六 著 、伊藤 隆 ,照沼 康孝 編 『続 ・現代 史 資料 (4)陸軍 畑 俊六 日誌 』みすず書房 、1983年 3月 1日 、539-541頁 。 - ^
軍事 史 学会 (伊藤 隆 ・原 剛 監修 )編 『元帥 畑 俊六 回顧 録 』錦 正 社 、2009年 、469-480頁 。 - ^
実松 譲 『新版 米内 光政 』光人 社 、1975年 。329頁 - ^
阿川 弘之 『米内 光政 』(新潮 文庫 、2002年 改版 ) ISBN 4-10-111006-9 623頁 - ^
服部 敏 良 『事典 有名人 の死亡 診断 近代 編 』付録 「近代 有名人 の死因 一覧 」(吉川弘文館 、2010年 )22頁 - ^
総理 庁 官房 監査 課 編 『公職 追放 に関 する覚書 該当 者 名簿 』日比谷 政経 会 、1949年 、「昭和 二 十 三 年 一 月 三 十 一 日 仮 指定 者 」210頁 。 - ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s
法廷 証 第 106号 : [畑 俊六 履歴 書 關 スル人事 局 履歴 書 ] - ^ 『
官報 』第 5484号 「叙任 及辞令 」1901年 10月 11日 。 - ^ 『
官報 』第 6188号 「叙任 及辞令 」1904年 2月 20日 。 - ^ 『
官報 』第 6640号 「叙任 及辞令 」1905年 8月 17日 。 - ^ 『
官報 』第 8185号 「叙任 及辞令 」1910年 10月 1日 。 - ^ 『
官報 』第 976号 「叙任 及辞令 」1915年 11月1日 。 - ^ 『
官報 』第 2500号 「叙任 及辞令 」1920年 12月1日 。 - ^ 『
官報 』第 4045号 「叙任 及辞令 」1926年 2月 20日 。 - ^ 『
官報 』第 1225号 「叙任 及辞令 」1931年 1月 31日 。 - ^ 『
官報 』第 2007号 「叙任 及辞令 」1933年 9月 7日 。 - ^ 『
官報 』第 2928号 「叙任 及辞令 」1936年 10月 3日 。 - ^ 『
官報 』1913年 06月 02日 敍任 及辭令 - ^ 『
官報 』第 2431号 「授爵 ・叙任 及辞令 」1920年 9月 8日 。 - ^ 『
官報 』第 4438号 ・付録 「辞令 二 」1941年 10月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 5214号 「叙任 及辞令 」1944年 6月 3日 。 - ^ 「
陸軍 中将 畑 俊 六外九千三百六十八名満洲国建国功労章受領及佩用ノ件 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A10113140200 - ^ 「
畑 俊六 外 七 十 二 名 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A10113475800
参考 文献
[梅谷 芳光 編著 『忠 鑑 畑 元帥 』(国風 会 本部 )、昭和 39年 (1964年 )- NHKスペシャル
取材 班 編 『日本人 はなぜ戦争 へと向 かったのか メディアと民衆 ・指導 者 編 』、新潮社 、2015年
関連 項目
[外部 リンク
[- 『
畑 俊六 』 - コトバンク - 『
畑 俊六 』 - コトバンク 日本 ニュース第 56号 (1941年 7月 1日 公開 )(支 那 派遣 軍 総 司令 官 として、ニュース映画 をとおして国民 向 けに演説 する畑 を収録 )畑 俊六 |『靖国 の絵巻 』|國學院大學
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