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秦 はた 淮河のほとりで死体 したい とともに写真 しゃしん に撮 と られた日本 にっぽん 兵 へい
南京 なんきん 事件 じけん (ナンキンじけん)は、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 中 なか の1937年 ねん 12月に日本 にっぽん 軍 ぐん が南京 なんきん 戦 せん において、つまり中国 ちゅうごく の南京 なんきん 市 し を占領 せんりょう した後 のち (もしくはその前後 ぜんご )、数 すう か月 げつ にわたって多数 たすう の一般 いっぱん 市民 しみん 、捕虜 ほりょ 、敗残 はいざん 兵 へい 、便衣 べんい 兵 へい を虐殺 ぎゃくさつ した事件 じけん である[1] [2] 。南京 なんきん 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん [2] や南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ [3] とも呼 よ ばれる。事件 じけん の規模 きぼ 、虐殺 ぎゃくさつ の存否 そんぴ 、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん か否 ひ かについては南京 なんきん 事件 じけん 論争 ろんそう 、犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう をめぐる論争 ろんそう は、南京 なんきん 事件 じけん の被害 ひがい 者 しゃ 数 すう にて詳細 しょうさい が論 ろん じられている。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 中 なか の1937年 ねん 12月 がつ 上旬 じょうじゅん 、日本 にっぽん 軍 ぐん が中華民国 ちゅうかみんこく の首都 しゅと 南京 なんきん を攻略 こうりゃく した。この南京 なんきん 攻略 こうりゃく の前後 ぜんご に日本 にっぽん 軍 ぐん によって行 おこな われた一連 いちれん の虐殺 ぎゃくさつ 、および略奪 りゃくだつ ・暴行 ぼうこう ・強姦 ごうかん ・放火 ほうか などの不法 ふほう 行為 こうい を総称 そうしょう して南京 なんきん 事件 じけん という[4] 。犠牲 ぎせい 者 しゃ の数 かず は正確 せいかく には不明 ふめい であるが、日本 にっぽん の研究 けんきゅう 者 しゃ の多 おお くは、一定 いってい 規模 きぼ の虐殺 ぎゃくさつ があったと考 かんが え、数 すう 万 まん 人 にん から10数 すう 万 まん 人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ があったと推定 すいてい している。中国 ちゅうごく 政府 せいふ の見解 けんかい では30万 まん 人 にん とされるもの、日本 にっぽん の研究 けんきゅう 者 しゃ はこの数字 すうじ を過大 かだい とみている[5] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。
事件 じけん の名称 めいしょう については「南京 なんきん 事件 じけん 」の他 ほか 、「南京 なんきん 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん 」「南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 」とも呼 よ ばれ、適切 てきせつ な呼称 こしょう を巡 めぐ っては様々 さまざま に議論 ぎろん がある[7] 。研究 けんきゅう 者 しゃ によって、「南京 なんきん 事件 じけん 」という用語 ようご は「南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん 」の略称 りゃくしょう であるとも[8] 、不法 ふほう な殺害 さつがい の他 ほか に略奪 りゃくだつ や強姦 ごうかん なども含 ふく めた不祥事 ふしょうじ 全体 ぜんたい を意味 いみ しているようだとも説明 せつめい される[2] 。中国 ちゅうごく では「南京 なんきん 大 だい 屠殺 とさつ 」という呼称 こしょう が使 つか われ、日本 にっぽん などにも「南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 」という形 かたち で普及 ふきゅう している[7] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
この事件 じけん は、戦後 せんご 、日本 にっぽん 社会 しゃかい において、東京 とうきょう 裁判 さいばん で披露 ひろう された南京 なんきん での20万 まん 人 にん の犠牲 ぎせい という数字 すうじ や大 だい 虐殺 ぎゃくさつ という表現 ひょうげん に疑問 ぎもん を持 も つ声 こえ があがったため、その発生 はっせい 規模 きぼ や被害 ひがい 状況 じょうきょう や発生 はっせい 要因 よういん についての論争 ろんそう がはじまることとなる。田中 たなか 正明 まさあき が虚構 きょこう 説 せつ を発表 はっぴょう してから、完全 かんぜん 否定 ひてい も含 ふく めた否定 ひてい 論 ろん (一般 いっぱん 中国人 ちゅうごくじん への被害 ひがい は少数 しょうすう で、むしろ中国 ちゅうごく 軍 ぐん の殺害 さつがい ・強姦 ごうかん 等 とう が少 すく なくなく、日本 にっぽん 軍 ぐん の中国 ちゅうごく 兵 へい 殺害 さつがい は戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 上 じょう では合法 ごうほう もしくは一般 いっぱん 戦闘 せんとう での止 や む無 な い殺害 さつがい である等 ひとし )を支持 しじ する政治 せいじ 家 か も含 ふく めたグループと、それに対 たい して、一定 いってい 規模 きぼ の犠牲 ぎせい 者 しゃ があったのは史実 しじつ とする研究 けんきゅう 者 しゃ との間 あいだ で論争 ろんそう が起 お こり、未 いま だに論争 ろんそう は続 つづ いている[9] 。
事件 じけん の経緯 けいい を時 とき 系列 けいれつ で見 み る。昭和 しょうわ 6年 ねん の満州 まんしゅう 事変 じへん ・翌年 よくねん の満州 まんしゅう 国 こく 建国 けんこく 以降 いこう 、日本 にっぽん と中国 ちゅうごく は、それぞれの権益 けんえき をめぐって対立 たいりつ する中 なか 、日本 にっぽん の侵略 しんりゃく 行為 こうい (華北 かほく 分離 ぶんり 工作 こうさく )もあって、1937年 ねん 7月 がつ に日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が始 はじ まった。その後 ご 、戦線 せんせん は、当初 とうしょ の中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ のみならず上海 しゃんはい 付近 ふきん にまで広 ひろ がった。11月には、上海 しゃんはい に派遣 はけん された日本 にっぽん 軍 ぐん (中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 麾下 きか の上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん および第 だい 10軍 ぐん )は、中国 ちゅうごく 軍 ぐん を駆逐 くちく して上海 しゃんはい を占領 せんりょう したが、その後 ご 、首都 しゅと 南京 なんきん へ進撃 しんげき ・占領 せんりょう することとなる。日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう は当初 とうしょ 、南京 なんきん への進撃 しんげき に反対 はんたい したものの、現地 げんち での命令 めいれい を無視 むし した南京 なんきん へ向 む けた出撃 しゅつげき などの行動 こうどう を追認 ついにん する形 かたち で、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の南京 なんきん 進撃 しんげき は正式 せいしき な命令 めいれい となった[10] 。
さて、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん は、いくつかの問題 もんだい を持 も っていた。上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の頃 ころ から、士気 しき 低下 ていか ・軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい は問題 もんだい 化 か しており、そのうえ、軍 ぐん に対 たい する軍紀 ぐんき ・風紀 ふうき の取 と り締 し まりを行 おこな う実行 じっこう 能力 のうりょく を持 も たなかった[11] [12] 。また、捕虜 ほりょ をむやみに殺 ころ さないで人道的 じんどうてき に取 と り扱 あつか うための戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう であるハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく (1907年 ねん 改定 かいてい 後 ご )を、遵守 じゅんしゅ ・履行 りこう しなくても良 よ いと解釈 かいしゃく できる命令 めいれい を当時 とうじ の軍部 ぐんぶ が出 だ していた[13] [14] うえ、作戦 さくせん 行動 こうどう に必要 ひつよう な物資 ぶっし の補給 ほきゅう ・兵站 へいたん の確保 かくほ が行 おこな われず、必要 ひつよう な物資 ぶっし の大半 たいはん を現地 げんち 調達 ちょうたつ (徴発 ちょうはつ ・略奪 りゃくだつ )に依存 いぞん することになっており[11] [12] 、また上海 しゃんはい 戦 せん において、日本 にっぽん 軍人 ぐんじん が戦友 せんゆう の多 おお くを失 うしな い、中国 ちゅうごく 側 がわ への復讐 ふくしゅう 感情 かんじょう を芽生 めば えさせていた[15] 。この様 よう な状況 じょうきょう が、日本 にっぽん 軍 ぐん が軍紀 ぐんき ・風紀 ふうき を守 まも らないで中国 ちゅうごく 国内 こくない で略奪 りゃくだつ や違法 いほう 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな うという異常 いじょう 事態 じたい をうむこととなる。
以上 いじょう の様 よう な理由 りゆう により、日本 にっぽん 軍 ぐん は、南京 なんきん へ向 む かう進撃 しんげき 中 ちゅう で、現地 げんち 家屋 かおく の破壊 はかい ・放火 ほうか 、一般 いっぱん 市民 しみん ・捕虜 ほりょ ・敗残 はいざん 兵 へい に対 たい する虐殺 ぎゃくさつ ・強姦 ごうかん などを行 おこな い、南京 なんきん 攻略 こうりゃく 後 ご の12月13日 にち から(南京 なんきん 市内 しない の安全 あんぜん 区 く (難民 なんみん 区 く :欧米 おうべい 人 じん が設置 せっち )に避難 ひなん できた住民 じゅうみん を除 のぞ く)多 おお くの住民 じゅうみん に対 たい する南京 なんきん 城 じょう 内外 ないがい での虐殺 ぎゃくさつ 、それより多 おお くの中国 ちゅうごく 軍 ぐん 兵士 へいし (捕虜 ほりょ ・敗残 はいざん 兵 へい )への違法 いほう (戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 上 じょう )虐殺 ぎゃくさつ 、また城内 じょうない での略奪 りゃくだつ ・放火 ほうか を行 おこな った[16] [12] 。12月17日 にち 以降 いこう は1月 がつ 5日 にち まで続 つづ いた敗残 はいざん 兵 へい 狩 か りを除 のぞ き、日本 にっぽん 兵 へい による組織 そしき 的 てき 虐殺 ぎゃくさつ は一応 いちおう 終了 しゅうりょう するが、一部 いちぶ の殺人 さつじん や強姦 ごうかん ・放火 ほうか の発生 はっせい は継続 けいぞく し、完全 かんぜん に終息 しゅうそく するのは4か月 げつ 後 ご の1938年 ねん 3月 がつ 頃 ごろ であった[17] 。南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん の前 まえ に、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね は、南京 なんきん 城 じょう 攻略 こうりゃく 要領 ようりょう を示達 じたつ し、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい に統制 とうせい の強化 きょうか と綱紀 こうき 粛正 しゅくせい を命 めい じていた[18] [19] が、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい の司令 しれい 部 ぶ は通達 つうたつ を守 まも らず、不法 ふほう 行為 こうい ・殺戮 さつりく に歯止 はど めがかからなかった[20] [21] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ (外務省 がいむしょう )も東京 とうきょう の陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう も、発生 はっせい 直後 ちょくご から南京 なんきん 事件 じけん に気付 きづ くこととなる。現地 げんち の日本 にっぽん 軍 ぐん の殺害 さつがい ・不法 ふほう 行為 こうい について、南京 なんきん の日本 にっぽん 総領事館 そうりょうじかん が東京 とうきょう の外務 がいむ 本省 ほんしょう に報告 ほうこく したため、外務 がいむ 大臣 だいじん 広田 ひろた 弘毅 こうき から石 いし 射 い 東亜 とうあ 局長 きょくちょう を通 とお して陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく に厳重 げんじゅう 注意 ちゅうい の申 もう し入 い れがあり、杉山 すぎやま 元 はじめ 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん にも軍紀 ぐんき 粛正 しゅくせい を要望 ようぼう した[22] 。東京 とうきょう の陸軍 りくぐん も、南京 なんきん での日本 にっぽん 軍 ぐん の虐殺 ぎゃくさつ ・不法 ふほう 行為 こうい の問題 もんだい を知 し っていたことが、当時 とうじ の高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん の記録 きろく ・証言 しょうげん で明 あき らかになっており、後 のち に陸軍 りくぐん 大臣 だいじん となる阿南 あなみ 惟幾 これちか は、南京 なんきん 事件 じけん 直後 ちょくご に現地 げんち を視察 しさつ した結果 けっか 、「言語 げんご に絶 ぜっ するものあり」と述 の べている[23] 。その様 よう な状況 じょうきょう の中 なか で、陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう から本間 ほんま 雅晴 まさはる 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 二 に 部長 ぶちょう が1938年 ねん 1月 がつ に南京 なんきん へ派遣 はけん され、その調査 ちょうさ を受 う けて、松井 まつい 石 いし 根 ね 中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん は2月 がつ に日本 にっぽん に召還 しょうかん され[24] (第 だい 10軍 ぐん ・上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん も解任 かいにん )、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん も新 あら たに中 ちゅう 支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん に再 さい 編制 へんせい されて廃止 はいし される[25] 。
なお、日本 にっぽん 軍 ぐん は、それ以前 いぜん の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう のときは戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう を忠実 ちゅうじつ に守 まも り外国 がいこく 人 じん 捕虜 ほりょ への人道的 じんどうてき 配慮 はいりょ を行 おこな った[26] ことが国際 こくさい 的 てき に知 し られており、続 つづ く第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん のときも捕虜 ほりょ への配慮 はいりょ や捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ での人道的 じんどうてき 扱 あつか い[27] が広 ひろ く知 し られていたが、その後 ご のシベリア出兵 しゅっぺい 以降 いこう は、日本 にっぽん 軍 ぐん の軍規 ぐんき 律 りつ に問題 もんだい が起 お こり始 はじ めたとされた[28] 。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が始 はじ まると日本 にっぽん 国民 こくみん の暴支膺懲 ようちょう の声 こえ や中国 ちゅうごく 側 がわ の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい 通 とおり 州 しゅう 事件 じけん も背景 はいけい にあって、日本 にっぽん 軍 ぐん はチャハル作戦 さくせん で一般 いっぱん 中国人 ちゅうごくじん や中国 ちゅうごく 兵 へい 捕虜 ほりょ を無辜 むこ に殺害 さつがい する事件 じけん をすでに起 お こしていた[29] 。
当時 とうじ 、南京 なんきん 在住 ざいじゅう であったニューヨーク・タイムズ のティルマン・ダーディン 特派 とくは 員 いん は「南京 なんきん における大 だい 残虐 ざんぎゃく 行為 こうい と蛮行 ばんこう によって、日本 にっぽん 軍 ぐん は南京 なんきん の中国 ちゅうごく 市民 しみん および外交 がいこう 人 じん から尊敬 そんけい と信頼 しんらい を受 う けるわずかな機会 きかい を失 うしな ってしまった...」[30] と述 の べて、他 た の記者 きしゃ の記事 きじ とともに世界 せかい にこの事実 じじつ を発信 はっしん する[31] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。南京 なんきん 占領 せんりょう 直後 ちょくご を直接 ちょくせつ 経験 けいけん したジャーナリストの報道 ほうどう にもかかわらず、南京 なんきん 事件 じけん への欧米 おうべい 各国 かっこく の反応 はんのう は、アジア に対 たい する欧米 おうべい 社会 しゃかい の関心 かんしん の低 ひく さもあって限 かぎ られたものであり、アメリカの場合 ばあい 、アメリカの船舶 せんぱく が南京 なんきん 近 ちか くで日本 にっぽん 軍 ぐん によって撃沈 げきちん されたパナイ号 ごう 事件 じけん や治安 ちあん が落 お ち着 つ いてきた時期 じき に南京 なんきん で起 お こった米人 べいじん 外交 がいこう 官 かん への日本 にっぽん 兵 へい の乱暴 らんぼう (アリソン殴打 おうだ 事件 じけん )が、南京 なんきん 戦 せん に関係 かんけい して、より大 おお きな報道 ほうどう となり、日本 にっぽん への非難 ひなん も、このふたつの事件 じけん によるものであった[32] [33] [34] 。ただし、その後 ご 、南京 なんきん 事件 じけん に代表 だいひょう される日本 にっぽん 軍 ぐん による中国人 ちゅうごくじん への非 ひ 人道的 じんどうてき な行為 こうい についての報道 ほうどう が、アメリカにおける対 たい 日 にち 感情 かんじょう を悪化 あっか させ、非 ひ 人道的 じんどうてき 野蛮 やばん 行為 こうい を行 おこな う日本 にっぽん 兵 へい というイメージを国民 こくみん の間 あいだ に醸成 じょうせい させる側面 そくめん があった[35] 。
首都 しゅと である南京 なんきん を占領 せんりょう する、という日本 にっぽん 軍 ぐん の華々 はなばな しい軍事 ぐんじ 的 てき 成果 せいか が、日本 にっぽん 政府 せいふ を強気 つよき にさせ、中国 ちゅうごく との和平 わへい 交渉 こうしょう の条件 じょうけん を引 ひ き上 あ げたため、 1938年 ねん 1月 がつ に和平 わへい 交渉 こうしょう は決裂 けつれつ した[36] 。近衛 このえ 内 ない 閣 かく は中国 ちゅうごく の政府 せいふ を相手 あいて にせずと声明 せいめい (第 だい 一 いち 次 じ 近衛 このえ 声明 せいめい )を発 はっ し、その後 ご 、3月に南京 なんきん において日本 にっぽん の傀儡 かいらい 政権 せいけん (中華民国 ちゅうかみんこく 維新 いしん 政府 せいふ )が創設 そうせつ され、以後 いご 、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう は解決 かいけつ の道 みち が探 さぐ れない状況 じょうきょう のまま、終 お わることなく継続 けいぞく することとなる[37] 。
終戦 しゅうせん 後 ご に開 ひら かれた極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )において、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん であった松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう が、南京 なんきん とその周辺 しゅうへん における一般 いっぱん 市民 しみん と捕虜 ほりょ の殺害 さつがい について犯罪 はんざい 的 てき 責任 せきにん があるとして絞首刑 こうしゅけい が宣告 せんこく された[6] [38] 。A級 きゅう 戦犯 せんぱん (平和 へいわ に対 たい する罪 つみ )を裁 さば いた東京 とうきょう 裁判 さいばん とは別 べつ に、BC級 きゅう 戦犯 せんぱん (交戦 こうせん 法規 ほうき 違反 いはん )とされた被告 ひこく が連合 れんごう 国 こく 各国 かっこく の軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい で裁 さば かれ、南京 なんきん 事件 じけん に関 かか わるものは南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい で審理 しんり された[39] 。この法廷 ほうてい で南京 なんきん 戦 せん に参加 さんか した日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい の関係 かんけい 者 しゃ 4名 めい (谷 たに 寿夫 としお 中将 ちゅうじょう 等 とう )に死刑 しけい 判決 はんけつ が下 くだ され処刑 しょけい された[40] 。
上海 しゃんはい 占領 せんりょう と南京 なんきん 空爆 くうばく 、南京 なんきん への進撃 しんげき [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん と中国 ちゅうごく (中華民国 ちゅうかみんこく )は1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち の盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん 以降 いこう 、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう に突入 とつにゅう した。8月15日 にち には日本 にっぽん 海軍 かいぐん 機 き によって南京 なんきん の飛行場 ひこうじょう などの軍事 ぐんじ 施設 しせつ と周辺 しゅうへん の人口 じんこう 密集 みっしゅう 地帯 ちたい に対 たい して爆 ばく 撃 げき が行 おこな われた[41] 。以降 いこう 、南京 なんきん 市 し には繰 く り返 かえ し爆撃 ばくげき が行 おこな われ、8月 がつ 29日 にち は南京 なんきん 駐在 ちゅうざい のアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの外交 がいこう 代表 だいひょう が日本 にっぽん に抗議 こうぎ 書 しょ を出 だ した[42] 。しかし、日本 にっぽん 軍 ぐん の空襲 くうしゅう は継続 けいぞく し、9月には上海 しゃんはい の飛行場 ひこうじょう からより更 さら に本格 ほんかく 的 てき な攻撃 こうげき が可能 かのう となる[43] 。日本 にっぽん 軍 ぐん は早期 そうき に南京 なんきん 周辺 しゅうへん の制空権 せいくうけん を確保 かくほ し、また「爆 ばく 撃 げき はかならずしも目標 もくひょう に直撃 ちょくげき するを要 よう せず、敵 てき の人心 じんしん に恐慌 きょうこう を惹起 じゃっき せしむるを主眼 しゅがん とするをもって...[44] 」という通達 つうたつ が出 だ され、民間 みんかん 人 じん への被害 ひがい を考慮 こうりょ せず、爆 ばく 撃 げき 犠牲 ぎせい 者 しゃ は増大 ぞうだい した[45] 。日本 にっぽん は9月には上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の増派 ぞうは も決定 けってい したが、中国 ちゅうごく 軍 ぐん の激 はげ しい抵抗 ていこう もあって11月まで膠着 こうちゃく 状態 じょうたい が続 つづ く[46] [47] 。しかし11月半 なか ばには上海 しゃんはい 全域 ぜんいき を占領 せんりょう することに成功 せいこう した[48] [47] 。
上海 しゃんはい の占領 せんりょう 後 ご 、11月後半 こうはん に日本 にっぽん 軍 ぐん の一部 いちぶ は、陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう は南京 なんきん 進軍 しんぐん に反対 はんたい したものの、現地 げんち 軍 ぐん (第 だい 10軍 ぐん )は南京 なんきん へ向 む けて独断 どくだん 専行 せんこう で南京 なんきん 進軍 しんぐん を開始 かいし した[49] [50] 。日本 にっぽん の上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん は上海 しゃんはい 占領 せんりょう 時点 じてん で軍紀 ぐんき 弛緩 しかん が深刻 しんこく で、士気 しき 低下 ていか や食糧 しょくりょう 不足 ふそく によって現地 げんち からの徴発 ちょうはつ (実質 じっしつ 的 てき な略奪 りゃくだつ )や暴行 ぼうこう が増大 ぞうだい した[48] ので、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は南京 なんきん 進軍 しんぐん に反対 はんたい していた[49] [50] 。そして、南京 なんきん への進軍 しんぐん では日本 にっぽん 軍 ぐん は兵站 へいたん の大半 たいはん を現地 げんち 徴発 ちょうはつ に依存 いぞん し、軍紀 ぐんき の紊乱 びんらん と相 あい まって進撃 しんげき 路上 ろじょう の町 まち や村 むら では略奪 りゃくだつ と暴行 ぼうこう が繰 く り返 かえ された[51] [52] 。南京 なんきん への進軍 しんぐん 途上 とじょう で発生 はっせい した一連 いちれん の略奪 りゃくだつ ・暴行 ぼうこう は、「南京 なんきん に向 む かう追撃 ついげき 戦 せん の全 ぜん 過程 かてい は、すでに上海 しゃんはい 戦 せん の段階 だんかい で顕著 けんちょ になっていたさまざまな不法 ふほう 行為 こうい 、残虐 ざんぎゃく 行為 こうい がより大 だい 規模 きぼ な形 かたち で拡大 かくだい される過程 かてい であり、南京 なんきん 事件 じけん の直接 ちょくせつ の前史 ぜんし をなす道程 どうてい であった」と評 ひょう される[51] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。
12月1日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん では正式 せいしき な南京 なんきん 攻略 こうりゃく の命令 めいれい が出 だ された。当時 とうじ 南京 なんきん は中華民国 ちゅうかみんこく の首都 しゅと であったが、主 おも だった政府 せいふ 首脳 しゅのう 部 ぶ や各国 かっこく の外交 がいこう 使節 しせつ は日本 にっぽん 軍 ぐん の進撃 しんげき を前 まえ に脱出 だっしゅつ し、重慶 たーちん や漢 かん 口 こう に拠点 きょてん を移 うつ した[52] [54] 。12月9日 にち に日本 にっぽん 軍 ぐん による開城 かいじょう 勧告 かんこく が航空機 こうくうき により城内 きうち に投下 とうか されたが応答 おうとう はなく、翌日 よくじつ に総 そう 攻撃 こうげき が命 めい じられた。中国 ちゅうごく 軍 ぐん の南京 なんきん 防衛 ぼうえい 準備 じゅんび は遅滞 ちたい しており、三 さん 方 ぽう から包囲 ほうい する日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して長江 ながえ (揚子江 ようすこう )を背 せ に背水 はいすい の陣 じん の形 かたち をとり、各 かく 部隊 ぶたい に死守 ししゅ 命令 めいれい を出 だ すと共 とも に船舶 せんぱく の管理 かんり を厳格 げんかく 化 か することで兵士 へいし たちの退路 たいろ を塞 ふさ ぎ、南京 なんきん を死守 ししゅ することを企図 きと した[52] [55] 。
しかし、12月12日 にち 午後 ごご には中国 ちゅうごく 軍 ぐん に南京 なんきん の放棄 ほうき と退却 たいきゃく 命令 めいれい が出 だ された[56] 。日本 にっぽん 軍 ぐん による利用 りよう を阻止 そし するため、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は重要 じゅうよう 建造 けんぞう 物 ぶつ の放火 ほうか 破壊 はかい を開始 かいし し、市内 しない の主要 しゅよう な建造 けんぞう 物 ぶつ が破 やぶ 却された[56] 。13日 にち 朝 あさ には中国 ちゅうごく 軍 ぐん の組織 そしき 的 てき 抵抗 ていこう は終了 しゅうりょう した。中国 ちゅうごく 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん は部下 ぶか ・一般 いっぱん 市民 しみん を無 む 対策 たいさく のまま置 お き去 ざ りにして逃亡 とうぼう し、さらに長江 ながえ を渡 わた ろうとする中国 ちゅうごく 軍 ぐん 部隊 ぶたい では船 ふね の奪 うば い合 あ いが発生 はっせい し、また渡江 とのえ を阻止 そし しようとする部隊 ぶたい の間 あいだ での同士討 どうしう ちも発生 はっせい した[57] [58] 。
南京 なんきん 市 し に進軍 しんぐん する途上 とじょう での不法 ふほう 行為 こうい (殺害 さつがい ・略奪 りゃくだつ ・放火 ほうか ・強姦 ごうかん )[ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん 占領 せんりょう に向 む かう途中 とちゅう 、日本 にっぽん 軍 ぐん 進撃 しんげき 中 ちゅう に村落 そんらく で発生 はっせい した略奪 りゃくだつ は、兵站 へいたん 上 じょう の問題 もんだい を解決 かいけつ するために組織 そしき 的 てき に行 おこな われた[53] 。日本 にっぽん 軍 ぐん が必要 ひつよう とする物資 ぶっし の大 だい 部分 ぶぶん が現地 げんち 調達 ちょうたつ によって賄 まかな われた事 こと は『陸 りく 支 ささえ 密 みつ 大 だい 日記 にっき 』において「丁 ちょう 集団 しゅうだん (第 だい 十 じゅう 〇軍 ぐん )作戦 さくせん 地域 ちいき は地方 ちほう 物資 ぶっし 特 とく に※、野菜 やさい 、肉類 にくるい は全 まった く糧 かて は敵 てき に依 よ るを得 え たり[注釈 ちゅうしゃく 6] 」と記録 きろく され、第 だい 9師団 しだん 参謀 さんぼう 部 ぶ は「軍 ぐん 補給 ほきゅう 点 てん の推進 すいしん は師団 しだん の追撃 ついげき 前進 ぜんしん に追随 ついずい するを得 え ずして上海 しゃんはい 付近 ふきん より南京 なんきん に至 いた る約 やく 百 ひゃく 里 さと の間 あいだ 殆 ほとん ど糧秣 りょうまつ の補給 ほきゅう を受くることなくほとんど現地 げんち 物資 ぶっし のみに依 よ り追撃 ついげき を敢行 かんこう 」したとすることなどからわかる[59] 。
こうした物資 ぶっし の強奪 ごうだつ は「徴発 ちょうはつ 」という体裁 ていさい をとり、徴発 ちょうはつ 証券 しょうけん が発行 はっこう されることになっていたが、その実態 じったい は略奪 りゃくだつ であった[60] [61] 。東京 とうきょう 裁判 さいばん において上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 参謀 さんぼう 榊原 さかきばら 主計 かずえ は占領 せんりょう 地 ち に行政 ぎょうせい 上 じょう の責任 せきにん 者 しゃ も一般 いっぱん 住民 じゅうみん も残留 ざんりゅう していない場合 ばあい 、軍事 ぐんじ 上 じょう の必要 ひつよう 性 せい から徴発 ちょうはつ が必要 ひつよう であった場合 ばあい には、徴発 ちょうはつ した物資 ぶっし を明記 めいき し、所有 しょゆう 者 しゃ 判明 はんめい の場合 ばあい は代金 だいきん を受領 じゅりょう しに出頭 しゅっとう するよう張 は り紙 がみ をしていたことを証言 しょうげん している[59] 。しかしこの徴発 ちょうはつ 証券 しょうけん の運用 うんよう は極 きわ めて杜撰 ずさん であり、実際 じっさい には発行 はっこう されなかった場合 ばあい が多 おお く、発行 はっこう されたものも内容 ないよう の正確 せいかく 性 せい について注意 ちゅうい が払 はら われなかった。第 だい 9師団 しだん 経理 けいり 部 ぶ 付 づけ の将校 しょうこう であった渡辺 わたなべ 卯吉 うきち は日本 にっぽん 軍 ぐん が発行 はっこう した徴発 ちょうはつ 証券 しょうけん について次 つぎ のように回想 かいそう している。
然 しか るに
後日 ごじつ (
中国人 ちゅうごくじん の)
所有 しょゆう 者 しゃ が
代金 だいきん の
請求 せいきゅう に
持参 じさん したものを
見 み れば其
記入 きにゅう が
甚 はなは だ
出鱈目 でたらめ である。
例 たと えば〇〇
部隊 ぶたい 先鋒 せんぽう 隊長 たいちょう 加藤 かとう 清正 きよまさ とか
退却 たいきゃく 部隊 ぶたい 長 ちょう 蒋介石 しょうかいせき と
書 か いて其品
種 しゅ 数量 すうりょう も
箱 はこ 入 にゅう 丸 まる 斥とか
樽 たる 詰 つめ 少量 しょうりょう と
云 い うものや
全 まった く
何 なに も
記入 きにゅう していないもの、
甚 はなは だしいものは
単 たん に
馬鹿 ばか 野郎 やろう と
書 か いたものもある。
全 まった く
熱意 ねつい も
誠意 せいい もない。...
徴発 ちょうはつ したものの
話 はなし では乃公(
自分 じぶん のこと)は
石川 いしかわ 五右衛門 ごえもん と
書 か いて
風呂 ふろ 釜 がま 大 だい 一 いち 個 こ と
書 か いて
置 お いたが
経理 けいり 部 ぶ の
奴 やつ はどうした
事 こと だろうかと
面白 おもしろ 半分 はんぶん の
自慢 じまん 話 ばなし をして
居 い る
有様 ありさま である
[62] 。
—渡辺 わたなべ 卯吉 うきち
略奪 りゃくだつ には住民 じゅうみん の殺害 さつがい が伴 ともな い、戦闘 せんとう 行為 こうい の巻 ま き添 ぞ えも含 ふく め、住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ が横行 おうこう し多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た[63] [64] 。同 どう 県 けん の本 もと 湖村 こそん でも村民 そんみん 40名 めい 余 あま りが殺害 さつがい された[64] 。また、掃討 そうとう の延長 えんちょう として敗残 はいざん 兵 へい や捕虜 ほりょ の殺害 さつがい も頻繁 ひんぱん に行 おこな われた[注釈 ちゅうしゃく 7] "。この捕虜 ほりょ の虐殺 ぎゃくさつ は、当時 とうじ 複数 ふくすう の日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい が功名 こうみょう 心 しん に駆 か られ「南京 なんきん 一番乗 いちばんの り」を目指 めざ して急進 きゅうしん 撃 げき を行 おこな っていたため、捕虜 ほりょ を足手 あして まといと見 み たことによってより激 はげ しい形 かたち で行 おこな われた[66] 。
以上 いじょう の様 よう に、日本 にっぽん 軍 ぐん は、南京 なんきん 周辺 しゅうへん の農村 のうそん 部 ぶ (南京 なんきん 市 し の行政 ぎょうせい 区 く にも含 ふく まれる)で、組織 そしき 的 てき でときに村 むら 単位 たんい の住民 じゅうみん 虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな った[67] 。農村 のうそん での虐殺 ぎゃくさつ は日 にち 中 ちゅう 共同 きょうどう 研究 けんきゅう においても中国 ちゅうごく 側 がわ が具体 ぐたい 的 てき に指摘 してき しており、スマイス調査 ちょうさ でも農村 のうそん 地域 ちいき の一般 いっぱん 住民 じゅうみん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は2万 まん 6千 せん 人 にん 以上 いじょう と記録 きろく している[68] 。
進撃 しんげき 中 ちゅう の不法 ふほう 行為 こうい としては日本 にっぽん 兵 へい による放火 ほうか や強姦 ごうかん も深刻 しんこく な問題 もんだい となった。兵站 へいたん が脆弱 ぜいじゃく な日本 にっぽん 兵 へい にとって、食糧 しょくりょう と並 なら んで現地 げんち 調達 ちょうたつ が必要 ひつよう な物資 ぶっし の一 ひと つとして防寒 ぼうかん 用 よう の薪 たきぎ があった。これを現地 げんち 調達 ちょうたつ する手段 しゅだん として、タンスなどの家財道具 かざいどうぐ が略奪 りゃくだつ された他 ほか 、家 いえ そのものを破壊 はかい して薪 たきぎ とすることが行 おこな われた[69] 。また単 たん なる気晴 きば らしや余興 よきょう として軍事 ぐんじ 上 じょう の必要 ひつよう 性 せい が全 まった くない家屋 かおく への放火 ほうか も頻発 ひんぱつ した[70] 。中国人 ちゅうごくじん 女性 じょせい に対 たい する強姦 ごうかん 事件 じけん も頻発 ひんぱつ した[71] 。
南京 なんきん 市内 しない へ日本 にっぽん 軍 ぐん 突入 とつにゅう と南京 なんきん 市 し 陥落 かんらく 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん は外国 がいこく の首都 しゅと 占領 せんりょう が長 なが く歴史 れきし に残 のこ り諸 しょ 外国 がいこく の注目 ちゅうもく を集 あつ める出来事 できごと になるとして12月7日 にち に中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね は、南京 なんきん 城 じょう 攻略 こうりゃく 要領 ようりょう を示達 じたつ し、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい に統制 とうせい の強化 きょうか と綱紀 こうき 粛正 しゅくせい を命 めい じていた[18] [19] 。しかし、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい の司令 しれい 部 ぶ はこうした通達 つうたつ を遵守 じゅんしゅ させる意思 いし に乏 とぼ しく(なお、松井 まつい 司令 しれい 官 かん は、病気 びょうき のために南京 なんきん 戦 せん の前後 ぜんご の12月5日 にち ‐15日 にち の間 あいだ は通達 つうたつ 等 とう 以外 いがい の直接 ちょくせつ の現場 げんば 部隊 ぶたい への指導 しどう ・指揮 しき はおこなえず)、また南京 なんきん への進軍 しんぐん 自体 じたい が準備 じゅんび 不足 ふそく で行 おこな われた中 なか で現実 げんじつ 的 てき に統制 とうせい に十分 じゅうぶん な憲兵 けんぺい を備 そな えておらず、12月17日 にち 時点 じてん において7万 まん 人 にん の日本 にっぽん 兵 へい に対 たい し憲兵 けんぺい は17人 にん しか存在 そんざい しなかった[72] [注釈 ちゅうしゃく 8] 。このため日本 にっぽん 軍 ぐん は兵員 へいいん による不法 ふほう 行為 こうい を統制 とうせい する手段 しゅだん を欠 か いており、更 さら に南京 なんきん 制圧 せいあつ 直前 ちょくぜん に中国 ちゅうごく 軍 ぐん が実施 じっし した焦土 しょうど 戦術 せんじゅつ によって周辺 しゅうへん 地域 ちいき で物資 ぶっし の調達 ちょうたつ ができていなかったことが日本 にっぽん 軍 ぐん の略奪 りゃくだつ に拍車 はくしゃ をかけることになった[74] 。
中国 ちゅうごく 軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 攻略 こうりゃく に先立 さきだ ち、12月7日 にち には南京 なんきん 周辺 しゅうへん 地域 ちいき における焦土 しょうど 作戦 さくせん を開始 かいし した(「清野 きよの 作戦 さくせん 」)。南京 なんきん 周囲 しゅうい の居住 きょじゅう 地 ち 、道路 どうろ 沿 ぞ いの村落 そんらく が焼 や き払 はら われた[74] 。日本 にっぽん 軍 ぐん の司令 しれい 部 ぶ は現地 げんち 部隊 ぶたい に南京 なんきん 城内 じょうのうち への駐屯 ちゅうとん を禁止 きんし していたが、攻撃 こうげき の余勢 よせい を駆 か った日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい は司令 しれい 部 ぶ の統制 とうせい 外 がい で城内 じょうない に入場 にゅうじょう するものが相次 あいつ ぎ、また焦土 しょうど 作戦 さくせん の結果 けっか 場外 じょうがい 区域 くいき に駐屯 ちゅうとん することが困難 こんなん になった上 うえ 、飲料 いんりょう 水 すい も不足 ふそく していたことから、7万 まん 人 にん の大軍 たいぐん が南京 なんきん 城内 じょうのうち に駐屯 ちゅうとん することになり、食糧 しょくりょう の略奪 りゃくだつ が城内 じょうない で行 おこな われることになった[74] [73] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん が押 お し寄 よ せたとき、南京 なんきん で戦災 せんさい に巻 ま き込 こ まれた住民 じゅうみん は、南京 なんきん 市内 しない の欧米 おうべい 人 じん が人道的 じんどうてき 活動 かつどう として設置 せっち した、南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く (別称 べっしょう :南京 なんきん 難民 なんみん 区 く 。南京 なんきん 城内 じょうのうち の約 やく 8分 ぶん の1の面積 めんせき に相当 そうとう する範囲 はんい )に逃 に げ込 こ み、南京 なんきん 陥落 かんらく 直後 ちょくご の安全 あんぜん 区内 くない は、約 やく 20万 まん 人 にん 、安全 あんぜん 区 く 外 がい からその後 ご も流 なが れ込 こ み後 ご に25万 まん 人 にん (ただし諸説 しょせつ あり、推測 すいそく 値 ち )の人口 じんこう に膨 ふく れ上 あ がり、南京 なんきん 城 じょう 市内 しない の南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く の外 そと には住民 じゅうみん が少 すく ない状況 じょうきょう となる[75] [76] 。南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く (別称 べっしょう 難民 なんみん 区 く )に対 たい しては、日本 にっぽん 軍 ぐん は砲撃 ほうげき を仕掛 しか けなかった(いわゆる「ラーベ感謝 かんしゃ 状 じょう 」[注釈 ちゅうしゃく 9] [78] [79] )とされ、占領 せんりょう 後 ご も日本 にっぽん 軍 ぐん は立 た ち入 い りは制限 せいげん された(日本 にっぽん 軍 ぐん と住民 じゅうみん の仲良 なかよ い交流 こうりゅう 写真 しゃしん が撮 と られたのは安全 あんぜん 区 く あたり。しかし、後 のち に、安全 あんぜん 区内 くない での日本 にっぽん 兵 へい の強姦 ごうかん 事案 じあん 等 とう が頻発 ひんぱつ する)。その一方 いっぽう で、日本 にっぽん 軍 ぐん は、逃 に げる途中 とちゅう 等 とう の安全 あんぜん 区 く 外 がい の民間 みんかん 人 じん を南京 なんきん 市内 しない において殺傷 さっしょう しており、「残敵 ざんてき 掃討 そうとう 」(敗残 はいざん 兵 へい 狩 か り)として安全 あんぜん 区内 くない でも民間 みんかん 人 じん の誤認 ごにん 殺害 さつがい 等 とう の問題 もんだい 有 あ る行為 こうい を行 おこな った。
日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 市 し 地域 ちいき での民間 みんかん 人 じん の殺傷 さっしょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん が、南京 なんきん 市内 しない に突入 とつにゅう したあとの市民 しみん への主 おも な殺害 さつがい 行為 こうい は以下 いか のとおりである。
日本 にっぽん 軍 ぐん は、南京 なんきん 市内 しない の警察官 けいさつかん や消防 しょうぼう 夫 おっと を殺害 さつがい 、中国 ちゅうごく 側 がわ の発電 はつでん 所 しょ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ も政府 せいふ 企業 きぎょう に勤 つと めていたというだけの理由 りゆう で殺害 さつがい した[80] 。また、南京 なんきん 城市 じょうし 陥落 かんらく (12月13日 にち 以降 いこう 、住民 じゅうみん の多 おお くが前述 ぜんじゅつ の安全 あんぜん 区 く に避難 ひなん したものの(避難 ひなん 民 みん は20万 まん 以上 いじょう で、最終 さいしゅう 的 てき に25万 まん ぐらいまでに膨 ふく れ上 あ がる)、安全 あんぜん 区 く に逃 に げる前 ぜん や逃 に げられなった住民 じゅうみん が日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき や掃討 そうとう や暴力 ぼうりょく 行為 こうい に巻 ま き込 こ まれて城内 じょうない で殺害 さつがい された証言 しょうげん (新 しん 路 みち 口 こう 事件 じけん など)や、その他 た かなりの市民 しみん (数 かず は不明 ふめい )が南京 なんきん 城 じょう 外 がい の長江 ちょうこう 沿 ぞ いに避難 ひなん していて兵卒 へいそつ とともに巻 ま き込 こ まれて日本 にっぽん 軍 ぐん に殺害 さつがい された記録 きろく や、長江 ながえ 渡河 とか を試 こころ みようとして攻撃 こうげき を受 う けて亡 な くなった老若男女 ろうにゃくなんにょ の民間 みんかん 人 じん と見 み られる無数 むすう の遺体 いたい が長江 ちょうこう の中 なか で浮 う いて流 なが れていたという証言 しょうげん が、日本 にっぽん 側 がわ も含 ふく めて存在 そんざい するものの、それらの正確 せいかく な死者 ししゃ 数 すう は不明 ふめい である[81] 。その他 た は、以下 いか の「残敵 ざんてき 掃討 そうとう 」の際 さい に脱走 だっそう 兵 へい ・便衣 べんい 兵 へい と見 み なされて殺害 さつがい された民間 みんかん 人 じん が相当 そうとう 数 すう 含 ふく まれる。 一般 いっぱん 住民 じゅうみん の犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう は、笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ の説 せつ では、南京 なんきん 城内 きうち :1万 まん 2千 せん 人 にん (ちなみに農村 のうそん 部 ぶ :2万 まん 7千 せん 人 にん )[82] で、 秦 はた 郁 いく 彦 は、1万 まん 人 にん (南京 なんきん 城市 じょうし のみ)[83] と述 の べる。
民間 みんかん 人 じん の殺傷 さっしょう のうち、南京 なんきん 市 し と市 し の城壁 じょうへき 周辺 しゅうへん で行 おこな われたのは、12月13日 にち -16日 にち が大半 たいはん であり、その後 ご も、敗残 はいざん 兵 へい に間違 まちが えられた成人 せいじん 男子 だんし 民間 みんかん 人 じん の虐殺 ぎゃくさつ が1月 がつ 5日 にち まで起 お きており、その他 た の一部 いちぶ の殺人 さつじん もあり、完全 かんぜん に終息 しゅうそく するのは3月 がつ に南京 なんきん に傀儡 かいらい 政権 せいけん ができたときである。
また、日本 にっぽん 軍 ぐん は「残敵 ざんてき 掃討 そうとう 」を南京 なんきん を陥落 かんらく させた翌日 よくじつ から(安全 あんぜん 区 く も含 ふく めて)開始 かいし した[84] とき、「あらゆる手段 しゅだん を尽 つ くして敵 てき を殲滅 せんめつ 」することを要求 ようきゅう し、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 残 ざん 兵 へい が「便衣 べんい に化 か せると判断 はんだん 」し「青壮年 せいそうねん は全 すべ て敗残 はいざん 兵 へい または便衣 べんい 兵 へい と見 み なし」て逮捕 たいほ 監禁 かんきん すべしとされ、しかも捕虜 ほりょ を取 と らない方針 ほうしん で行動 こうどう していた[84] ので、誤認 ごにん による民間 みんかん 人 じん 殺傷 さっしょう も行 おこな った[85] 。これ等 とう の「残敵 ざんてき 掃討 そうとう 」は、以下 いか の「捕虜 ほりょ の「解決 かいけつ 」と民間 みんかん 人 じん の殺傷 さっしょう 」に詳細 しょうさい が記 しる されている。
捕虜 ほりょ の殺傷 さっしょう (民間 みんかん 人 じん も誤認 ごにん 殺害 さつがい ) / 便衣 べんい 兵 へい としての敗残 はいざん 兵 へい 虐殺 ぎゃくさつ [ 編集 へんしゅう ]
ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく の規定 きてい では戦意 せんい を喪失 そうしつ し組織 そしき 的 てき な行動 こうどう 能力 のうりょく を失 うしな った敗残 はいざん 兵 へい に対 たい しては降伏 ごうぶく を勧告 かんこく し捕虜 ほりょ として待遇 たいぐう する必要 ひつよう があった[86] 。戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう であるハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく (1907年 ねん 改定 かいてい 後 ご )を、日本 にっぽん ・中華民国 ちゅうかみんこく がともに受 う け入 い れて条約 じょうやく として批准 ひじゅん (中華民国 ちゅうかみんこく :1917年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、日本 にっぽん :1911年 ねん 12月13日 にち )[87] していた。しかし、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 時 じ に、日本 にっぽん の軍部 ぐんぶ が戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう (ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく )を遵守 じゅんしゅ ・履行 りこう しなくても良 よ いと解釈 かいしゃく できる命令 めいれい を出 だ した記録 きろく が残 のこ っている[13] [88] 。
また、自軍 じぐん の補給 ほきゅう にも窮 きゅう していた日本 にっぽん 軍 ぐん は制圧 せいあつ 当初 とうしょ から全体 ぜんたい として捕虜 ほりょ を殺害 さつがい する方針 ほうしん で臨 のぞ んでいた[86] 。南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん に参加 さんか した第 だい 16師団 しだん の旅団 りょだん 長 ちょう 佐々木 ささき 到 いた 一 いち は当時 とうじ の状況 じょうきょう について次 つぎ のような回想 かいそう を残 のこ している。
この
日 ひ 、
我 わ が
支隊 したい の
作戦 さくせん 地域 ちいき 内 ない に
遺棄 いき された
敵 てき 屍 かばね は
一 いち 万 まん 数 すう 千 せん に
上 のぼ りその
外 そと 、
装甲車 そうこうしゃ が
江上 こうじょう に
撃滅 げきめつ したものならびに
各 かく 部隊 ぶたい の
俘虜 ふりょ を
合算 がっさん すれば、
我 わ が
支隊 したい のみにて
二 に 万 まん 以上 いじょう の
敵 てき は
解決 かいけつ されている
筈 はず である。(
中略 ちゅうりゃく )
午後 ごご 二 に 時 じ ごろ、
掃蕩 そうとう を
終 お わって
背後 はいご を
安全 あんぜん にし、
部隊 ぶたい を
纏 まと めつつ
前進 ぜんしん 、
和平 わへい 門 もん にいたる。その
後 ご 、
俘虜 ふりょ 続々 ぞくぞく 投稿 とうこう し
来 き たり
数 すう 千 せん に
達 たっ す、
激昂 げっこう せる
兵 へい は
上官 じょうかん の
制止 せいし を
肯 うなず かばこそ、
片 かた はしより
殺戮 さつりく する。
多数 たすう 戦友 せんゆう の
流血 りゅうけつ と
十 じゅう 日間 にちかん の
辛 からし 惨 むご を
顧 かえり みれば、
兵隊 へいたい ならずとて「
皆 みな やってしまえ」と
言 い いたくなる。
白米 はくまい はもはや
一 いち 粒 つぶ もなし、
城内 きうち には
有 あ るだろうが、
俘虜 ふりょ に
食 く わせるものの
持 も ち
合 あ わせなんか
我 わ が
軍 ぐん には
無 な い
筈 はず だった
[89] 。
—佐々木 ささき 到 いた 一 いち
この証言 しょうげん のような状況 じょうきょう は他 た の部隊 ぶたい でも同様 どうよう に発生 はっせい していたと見 み られる[90] 。捕虜 ほりょ を取 と らないとするのは第 だい 16師団 しだん の方針 ほうしん であり[91] [92] 、12月13日 にち に処理 しょり (殺害 さつがい )された投降 とうこう 兵 へい ・敗残 はいざん 兵 へい は第 だい 16師団 しだん のみで23,000人 にん を超 こ えた[93] 。
12月14日 にち 、南京 なんきん 陥落 かんらく を喜 よろこ ぶ日本 にっぽん 国内 こくない の世論 せろん の熱狂 ねっきょう や昭和 しょうわ 天皇 てんのう による祝賀 しゅくが の「御 ご 言葉 ことば 」の下賜 かし があり、松井 まつい 石 いし 根 ね 司令 しれい 官 かん が、12月17日 にち に中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の南京 なんきん 入城 にゅうじょう 式 しき を挙行 きょこう する旨 むね を、現地 げんち 軍 ぐん に通達 つうたつ した[94] 。現地 げんち 部隊 ぶたい は敗残 はいざん 兵 へい の掃討 そうとう まで時間 じかん が足 た りないことを主張 しゅちょう したが、12月17日 にち の入城 にゅうじょう 式 しき の挙行 きょこう は強行 きょうこう されることとなった[95] 。この結果 けっか 、入城 にゅうじょう 式 しき の日程 にってい に合 あ わせて12月14日 にち から17日 にち にかけて残敵 ざんてき の掃討 そうとう が徹底的 てっていてき に行 おこな われることになった[96] 。
第 だい 16師団 しだん 以外 いがい のもの含 ふく め、日本 にっぽん 軍 ぐん 各 かく 部隊 ぶたい が行 おこな った敗残 はいざん 兵 へい ・便衣 べんい 兵 へい の「掃討 そうとう 」では時期 じき や部隊 ぶたい によって温度 おんど 差 さ があり、「良民 りょうみん 」と「便衣 べんい 兵 へい 」の選別 せんべつ が多少 たしょう 行 おこな われていた場合 ばあい もあったが、十分 じゅうぶん な調査 ちょうさ を行 おこな うような人員 じんいん が存在 そんざい しなかったためその選別 せんべつ は非常 ひじょう に荒 あら っぽいものとなった[97] 。秦 はた 郁 いく 彦はこの「良民 りょうみん 」と「便衣 べんい 兵 へい 」の選別 せんべつ について「選 え り分 わ けるといっても、軍帽 ぐんぼう による日焼 ひや けの線 せん (面 めん ずれ)や目付 めつけ で識別 しきべつ し、家族 かぞく らしいものに泣 な きつかれると放 はな してやる式 しき のおよそ非 ひ 科学 かがく 的 てき なやり方 かた だったから、末端 まったん 兵士 へいし の気分 きぶん しだいで連行 れんこう はふえも減 へ りもしたようだ。こうした気 き まぐれな選別 せんべつ が、安全 あんぜん 区 く の住民 じゅうみん に与 あた えた衝撃 しょうげき と恐怖 きょうふ 感 かん は想像 そうぞう に余 あま りある[98] 」と述 の べている。
南 みなみ 満州 まんしゅう 鉄道 てつどう 株式会社 かぶしきがいしゃ に務 つと めていた小川 おがわ 愛次郎 あいじろう は南京 なんきん における日本 にっぽん 軍 ぐん の軍紀 ぐんき 退廃 たいはい ・虐殺 ぎゃくさつ について1938年 ねん 7月 がつ 27日 にち 、日本 にっぽん の外務 がいむ 大臣 だいじん 宇垣 うがき 一成 いっせい に宛 あ てた「時局 じきょく の動向 どうこう と収拾 しゅうしゅう 策 さく (講和 こうわ 大綱 たいこう )」と題 だい する意見 いけん 書 しょ の中 なか で次 つぎ のように述 の べている[99] 。
虐殺 ぎゃくさつ 放火 ほうか が
盛 もり に
行 おこな われた。
南京 なんきん 陥落 かんらく 直後 ちょくご 丈 たけ でも
市民 しみん 中 ちゅう の
男子 だんし の
狩 か り
出 だ されて
機関 きかん 銃 じゅう の
掃射 そうしゃ を
蒙 こうむ ったもの
万 まん を
以 もっ て
数 すう うべく、
市街 しがい 火災 かさい の
多 おお くは
占領 せんりょう 後 ご 日本 にっぽん 兵 へい の
放火 ほうか である。
之 これ 等 とう は、
日 にち 清 しん 役 やく (
日 にち 清 しん 戦争 せんそう )
当時 とうじ は
捕虜 ほりょ を
所謂 いわゆる 「
可 か 然 しか (しかるべく)
処分 しょぶん 」したり、
又 また 旅順 りょじゅん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん の
如 ごと き、
又 また 満州 まんしゅう 事変 じへん 後 ご の
匪賊 ひぞく 討伐 とうばつ で
賊 ぞく の
逃込 にげこ んだ
部落 ぶらく を
焼払 やきはら うと
謂 い うが
如 し き、
実情 じつじょう 不 ふ 得 とく 已 やめ して採 と りたる処置 しょち とか又 また は敵愾心 てきがいしん の発露 はつろ とは全然 ぜんぜん 其 そ の精神 せいしん を異 こと にし、殆 ほとん ど悪戯 いたずら 的 てき に行 おこな われて居 い る、
全 まった く
軍規 ぐんき の
廃頽 はいたい から
来 き て
居 い る
[100] 。
—小川 おがわ 愛次郎 あいじろう
南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん とその後 ご の占領 せんりょう に携 たずさ わった日本 にっぽん の現地 げんち 軍 ぐん は上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 10軍 ぐん であったが、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の第 だい 16師団 しだん 、第 だい 9師団 しだん 、第 だい 13師団 しだん 山田 やまだ 支隊 したい 、第 だい 10軍 ぐん の第 だい 6師団 しだん 、第 だい 114師団 しだん について、それぞれの指揮 しき 下 か の部隊 ぶたい がどのように敗残 はいざん 兵 へい ・市民 しみん の殺害 さつがい を行 おこな ったかについては、秦 はた 郁 いく 彦が整理 せいり している[101] 。
公式 こうしき 文書 ぶんしょ による捕虜 ほりょ ・摘出 てきしゅつ 逮捕 たいほ した敗残 はいざん 兵 へい ・便衣 べんい 兵 へい への対応 たいおう
部隊 ぶたい
総数 そうすう
対応 たいおう
出典 しゅってん
適用 てきよう
第 だい 114師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 66連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい
1,657 12、13日 にち に雨 あめ 花 はな 門 もん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 外 そと で収容 しゅうよう
処断 しょだん 1,657 13日 にち 午後 ごご
第 だい 114師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 66連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
雨 あめ 花台 かだい 事件 じけん [102]
第 だい 6師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 45連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい
約 やく 5,500 14日 にち 午前 ごぜん 、下関 しものせき で収容 しゅうよう
釈放 しゃくほう 14日 にち 午後 ごご
第 だい 6師団 しだん 戦時 せんじ 旬報 じゅんぽう
第 だい 16師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 33連隊 れんたい
3,09610日 とおか - 14日 にち 、紫 むらさき 金山 かなやま 北方 ほっぽう から下関 しものせき 附近 ふきん 、太平山 たいへいざん 、獅子 しし 山 さん 附近 ふきん の戦闘 せんとう 間 あいだ
処断 しょだん 3,096
歩兵 ほへい 第 だい 33聯隊 れんたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
第 だい 16師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 38連隊 れんたい 第 だい 10中隊 ちゅうたい
7,200 14日 にち 、堯化門 もん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 附近 ふきん
収容 しゅうよう 7,200 17日 にち 、18日 にち 頃 ごろ 、南京 なんきん へ護送 ごそう
歩兵 ほへい 第 だい 38聯隊 れんたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
国崎 くにさき 支隊 したい (歩兵 ほへい 第 だい 41連隊 れんたい 基幹 きかん )
120 3日 にち - 15日 にち
不明 ふめい 120
第 だい 9旅団 りょだん 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
歩兵 ほへい 第 だい 41連隊 れんたい 第 だい 12中隊 ちゅうたい
2,350 14日 にち 夕 ゆう 、江 こう 興 きょう 洲 しゅう
釈放 しゃくほう 2,350
第 だい 12中隊 ちゅうたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
第 だい 16師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 20連隊 れんたい 第 だい 4中隊 ちゅうたい
328 14日 にち 、安全 あんぜん 区 く (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 東方 とうほう
処断 しょだん 328
第 だい 4中隊 ちゅうたい 陣 じん 中日 ちゅうにち 誌 し
「銃殺 じゅうさつ ニシテ埋葬 まいそう ス」
第 だい 9師団 しだん
約 やく 7,000 13日 にち - 14日 にち
処断 しょだん 約 やく 7,000
第 だい 9師団 しだん 作戦 さくせん 記録 きろく 概要 がいよう
第 だい 9師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 7連隊 れんたい
(6,670)安全 あんぜん 区 く 掃蕩 そうとう 間 あいだ
処断 しょだん (6,670)
歩兵 ほへい 第 だい 7聯隊 れんたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
戦車 せんしゃ 第 だい 1大隊 だいたい 第 だい 1中隊 ちゅうたい
(320) 14日 にち 、掃蕩 そうとう 間 あいだ
処断 しょだん (70)
第 だい 1中隊 ちゅうたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
戦争 せんそう 処置 しょち
第 だい 3師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 68連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい
8
不明 ふめい 8
第 だい 1大隊 だいたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
第 だい 3師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 68連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい
25
不明 ふめい 25
第 だい 3大隊 だいたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
第 だい 16師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 9連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい
19
不明 ふめい 19
第 だい 2大隊 だいたい 戦闘 せんとう 詳報 しょうほう
集計 しゅうけい (公式 こうしき 文書 ぶんしょ )
約 やく 27,000[注釈 ちゅうしゃく 10]
収容 しゅうよう 7450、釈放 しゃくほう 7850、不明 ふめい 172、処断 しょだん 約 やく 12,000
公式 こうしき 文書 ぶんしょ 以外 いがい による捕虜 ほりょ ・摘出 てきしゅつ 逮捕 たいほ した敗残 はいざん 兵 へい ・便衣 べんい 兵 へい への対応 たいおう
部隊 ぶたい
総数 そうすう
対応 たいおう
出典 しゅってん
適用 てきよう
山田 やまだ 支隊 したい (歩兵 ほへい 第 だい 65連隊 れんたい 基幹 きかん )
8,000 14日 にち 幕府 ばくふ 山 やま 附近 ふきん で収容 しゅうよう された14,000のうち非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん 6,000は釈放 しゃくほう
逃亡 とうぼう 7,000、処断 しょだん 1,000 14日 にち 夜 よる 、4,000が逃亡 とうぼう 、残余 ざんよ は観音 かんのん 門 もん へ連行 れんこう
『戦史 せんし 叢書 そうしょ 』
幕府 ばくふ 山 やま 事件 じけん [103]
第 だい 16師団 しだん 第 だい 30旅団 りょだん
約 やく 2,000 24日 にち - 翌年 よくねん 1月 がつ 5日 にち 、安全 あんぜん 区内 くない の兵 へい 民 みん 分離 ぶんり
収容 しゅうよう 約 やく 2,000
『佐々木 ささき 少将 しょうしょう 私記 しき 』
その他 た 入院 にゅういん 中 ちゅう の500は収容 しゅうよう
第 だい 16師団 しだん 第 だい 19旅団 りょだん 歩兵 ほへい 第 だい 20連隊 れんたい 第 だい 12中隊 ちゅうたい 及第 きゅうだい 3機関 きかん 銃 じゅう 中隊 ちゅうたい
200 - 300
処断 しょだん 200 - 300
『小 しょう 戦 せん 例 れい 集 しゅう 』、『牧原 まきはら 日記 にっき 』
第 だい 16師団 しだん 第 だい 30旅団 りょだん 歩兵 ほへい 第 だい 33連隊 れんたい
数 すう 百 ひゃく 16日 にち 、17日 にち 、紫 むらさき 金山 かなやま 北方 ほっぽう
処断 しょだん 数 すう 百 ひゃく
『佐々木 ささき 少将 しょうしょう 私記 しき 』
第 だい 16師団 しだん 第 だい 30旅団 りょだん 歩兵 ほへい 第 だい 38連隊 れんたい
数 すう 百 ひゃく 16日 にち 、17日 にち 、紫 むらさき 金山 かなやま 北方 ほっぽう
処断 しょだん 数 すう 百 ひゃく
『佐々木 ささき 少将 しょうしょう 私記 しき 』
掃蕩 そうとう 戦 せん 間 あいだ の処分 しょぶん
第 だい 16師団 しだん 第 だい 30旅団 りょだん
数 すう 千 せん 24日 にち - 翌年 よくねん 1月 がつ 5日 にち 、南京 なんきん 近郊 きんこう 、不逞 ふてい の徒 と
処断 しょだん 数 すう 千 せん
『佐々木 ささき 少将 しょうしょう 私記 しき 』
下関 しものせき にて処分 しょぶん
そして、これ等 とう の捕虜 ほりょ となった中国 ちゅうごく 軍 ぐん 兵士 へいし への殺害 さつがい のうち、軍服 ぐんぷく を脱 ぬ いで逃 に げた敗残 はいざん 兵 へい を捕獲 ほかく したとき、民間 みんかん 人 じん を装 よそお って戦闘 せんとう 行為 こうい を行 おこな う便衣 べんい 兵 へい と見 み なして、日本 にっぽん 軍 ぐん が合法 ごうほう 的 てき な殺人 さつじん と見 み なして虐殺 ぎゃくさつ した事案 じあん がみられた。例 たと えば12月14日 にち -16日 にち の安全 あんぜん 区 く において、日本 にっぽん 軍 ぐん が元 もと 中国 ちゅうごく 兵 へい を約 やく 6500-6700名 めい ほど摘発 てきはつ し処刑 しょけい したのもその様 よう な考 かんが えを根拠 こんきょ とする[104] 。便衣 べんい 兵 へい 、つまり兵士 へいし が民間 みんかん 人 じん を装 よそお って行 おこな う戦闘 せんとう 行動 こうどう は、当時 とうじ の戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう ではハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく 第 だい 23条 じょう (ヘ)の趣旨 しゅし から禁止 きんし される[105] 。当時 とうじ の国際 こくさい 法学 ほうがく 者 しゃ 立 たて 作太郎 さくたろう も昭和 しょうわ 19年 ねん に民間 みんかん 人 じん の敵対 てきたい 行為 こうい は原則 げんそく 禁止 きんし されるし、戦時 せんじ 犯罪 はんざい として「概 おおむ ね死刑 しけい に処 しょ し得 え べきもの」であり、正規 せいき 軍人 ぐんじん が民間 みんかん 人 じん に偽装 ぎそう した場合 ばあい は交戦 こうせん 者 しゃ としての特権 とっけん を失 うしな う[106] とされる[107] 。ただし、この軍服 ぐんぷく を脱 ぬ いだ敗残 はいざん 兵 へい を便衣 べんい 兵 へい として殺 ころ したことについては、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 上 じょう 、間違 まちが った解釈 かいしゃく ・行動 こうどう であるとする批判 ひはん を、戦前 せんぜん の国際 こくさい 法学 ほうがく 者 しゃ 信夫 しのぶ 淳 じゅん 平 ひらた [108] や北岡 きたおか 伸一 しんいち は[109] が主張 しゅちょう する(後述 こうじゅつ する、「捕虜 ほりょ への人道的 じんどうてき 配慮 はいりょ の欠如 けつじょ ・中国 ちゅうごく への復讐 ふくしゅう 心 しん / 敗残 はいざん 兵 へい を便衣 べんい 兵 へい と見 み なしたことへの疑問 ぎもん 」を参照 さんしょう )。
一方 いっぽう で、日本 にっぽん 軍 ぐん が中国 ちゅうごく 兵 へい を人道的 じんどうてき に扱 あつか った例 れい として、旧 きゅう 中国 ちゅうごく 政府 せいふ 施設 しせつ の野戦 やせん 病院 びょういん を継承 けいしょう した欧米 おうべい 人 じん の医療 いりょう 関係 かんけい 者 しゃ の自発 じはつ 的 てき メンバー(彼 かれ らが国際 こくさい 赤十字 せきじゅうじ を設置 せっち したうえでの活動 かつどう )が病院 びょういん に運 はこ び込 こ んだ中国 ちゅうごく 軍 ぐん 負傷 ふしょう 兵 へい を、日本 にっぽん 軍 ぐん が、ある期間 きかん 、欧米 おうべい 人 じん が自由 じゆう に治療 ちりょう することを許 ゆる したことを、ニューヨークタイムズの記事 きじ と当時 とうじ の日本 にっぽん の雑誌 ざっし の写真 しゃしん から説明 せつめい する例 れい がある[110] [注釈 ちゅうしゃく 11] 。
南京 なんきん 占領 せんりょう 中 ちゅう の不法 ふほう 行為 こうい (略奪 りゃくだつ ・放火 ほうか ・強姦 ごうかん )[ 編集 へんしゅう ]
占領 せんりょう 後 ご の南京 なんきん 城内 きうち および周辺 しゅうへん 地域 ちいき では激 はげ しい略奪 りゃくだつ ・放火 ほうか が行 おこな われた。南京 なんきん 国際 こくさい 救済 きゅうさい 委員 いいん 会 かい の調査 ちょうさ によれば、南京 なんきん 城内 じょうのうち の建物 たてもの 73パーセントが日本 にっぽん 軍 ぐん による略奪 りゃくだつ の被害 ひがい を受 う けた[111] 。日本 にっぽん 軍 ぐん による略奪 りゃくだつ 行為 こうい の実情 じつじょう は統計 とうけい 情報 じょうほう が残 のこ るようなものではないものの、当時 とうじ 南京 なんきん に在住 ざいじゅう していた欧米 おうべい 人 じん や日本 にっぽん 兵 へい の日記 にっき 、戦後 せんご の証言 しょうげん などによって把握 はあく されている。第 だい 16師団 しだん 長 ちょう 中島 なかじま 今朝 けさ 吾 われ は1937年 ねん 12月19日 にち の日記 にっき に以下 いか のように記 しる している[112] 。
「
日本 にっぽん 軍 ぐん が
又 また 我先 われさき きにと
侵入 しんにゅう し
他 ほか の
区域 くいき であろうとなかろうと
御構 おかま いなしに
強奪 ごうだつ して
往 ゆ く。此は
地方 ちほう 民家 みんか 屋 や につきては
真 しん に
徹底 てってい して
居 い る。
結局 けっきょく ずうずうしい
奴 やつ が
得 とく というのである。」、「
日本人 にっぽんじん は
物好 ものず きである。
国民 こくみん 政府 せいふ (の
建物 たてもの )というのでわざわざ
見物 けんぶつ に
来 く る。
唯 ただ 見物 けんぶつ 丈 たけ ならば
可 か なるも
何 なに か
目 め につけば
直 じか にカッパラッて
行 い く。
兵卒 へいそつ の
監督 かんとく 位 い では
何 なに にもならぬ。
堂々 どうどう たる
将校 しょうこう 様 さま の
盗人 ぬすっと だから
真 しん に
驚 おどろ いたことである。」、「
最 もっと も
悪質 あくしつ のものは
貨幣 かへい 略奪 りゃくだつ である。
中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう の
紙幣 しへい を
目 め がけ
到 いた 処 しょ の
銀行 ぎんこう の
金庫 きんこ 破 やぶ り
専 せん 門 もん のものがある
[113] 。
—中島 なかじま 今朝 けさ 吾 われ
略奪 りゃくだつ された貨幣 かへい は兵営 へいえい で日本円 にほんえん への換金 かんきん が行 おこな われ、略奪 りゃくだつ 品 ひん の一部 いちぶ は日本 にっぽん 国内 こくない に転送 てんそう された[114] 。一連 いちれん の日本 にっぽん 軍 ぐん による略奪 りゃくだつ はアメリカ大使館 あめりかたいしかん にまでおよんだ[112] 。
また、入城 にゅうじょう 式 しき が行 おこな われた12月17日 にち 前後 ぜんこう から日本 にっぽん 兵 へい による強姦 ごうかん 事件 じけん が安全 あんぜん 区内 くない も含 ふく めて多発 たはつ した[115] 。日本 にっぽん 軍 ぐん による残敵 ざんてき 掃討 そうとう においては民家 みんか 一 いち 軒 けん 一 いち 軒 けん に侵入 しんにゅう しての捜索 そうさく が行 おこな われたが、その過程 かてい で発見 はっけん された女性 じょせい が頻繁 ひんぱん に強姦 ごうかん ・輪姦 りんかん の被害 ひがい にあい、酔 よ っぱらった兵士 へいし による強姦 ごうかん 事件 じけん も多発 たはつ した[116] 。恐怖 きょうふ にかられた女性 じょせい たちが庇護 ひご を求 もと めて逃 に げ込 こ んだ先 さき に安全 あんぜん 区内 くない の金 きむ 陵 りょう 女子 じょし 文理 ぶんり 学院 がくいん にある難民 なんみん キャンプがあり、これを運営 うんえい していた欧米 おうべい 人 じん が一連 いちれん の事件 じけん について部分 ぶぶん 的 てき な証言 しょうげん を残 のこ している[116] 。南京 なんきん 国際 こくさい 救済 きゅうさい 委員 いいん 会 かい のメンバーとして活動 かつどう したアメリカ人 じん 大学 だいがく 教授 きょうじゅ マイナー・シール・ベイツ は次 つぎ のような手紙 てがみ を残 のこ している。
有能 ゆうのう なドイツ
人 じん の
同僚 どうりょう たちは(
安全 あんぜん 区 く 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう ラーベらのこと)
強姦 ごうかん の
件数 けんすう を
二 に 万 まん 件 けん とみています。
私 わたし にも
八 はち 〇〇〇
件 けん 以下 いか とは
思 おも われません。いずれにしても、それを
上回 うわまわ る
数 かず でしょう。われわれ
職員 しょくいん 家族 かぞく の
若干 じゃっかん と
現在 げんざい アメリカ
人 じん が
住 す んでいる
住宅 じゅうたく を
含 ふく めて
金 かね 陵 りょう 大学 だいがく 構内 こうない だけでも、
一 いち 〇〇
件 けん 以上 いじょう の
強姦 ごうかん 事件 じけん の
詳細 しょうさい な
記録 きろく がありますし、
三 さん 〇〇
件 けん ほどの
証拠 しょうこ もあります。ここでの
苦痛 くつう と
恐怖 きょうふ はあなたにはほとんど
想像 そうぞう できないでしょう。
金 かね 陵 りょう 大学 だいがく 構内 こうない だけでも、
十 じゅう 一 いち 歳 さい の
少女 しょうじょ から
五 ご 十 じゅう 三 さん 歳 さい になる
婦人 ふじん まで
強姦 ごうかん されています。
他 た の
難民 なんみん グループでは
酷 ひど いことにも、
七 なな 十 じゅう 二 に 歳 さい と
七 なな 十 じゅう 六 ろく 歳 さい になる
老婆 ろうば までが
冒 おか されているのです。
神学 しんがく 院 いん では
白昼 はくちゅう 、
十 じゅう 七 なな 名 めい の
日本 にっぽん 兵 へい が
一人 ひとり の
女性 じょせい を
輪姦 りんかん しました。
実 じつ に
強姦 ごうかん 事件 じけん の
三 さん 分 ぶん の
一 いち は
日 ひ 中 ちゅう に
発生 はっせい したのです
[117] 。
—マイナー・S・ベイツ
金 きむ 陵 りょう 女子大 じょしだい 学 がく で教師 きょうし ・教務 きょうむ 主任 しゅにん を務 つと めたアメリカ人 じん の女性 じょせい 宣教師 せんきょうし ミニー・ヴォートリン は、このときに大学 だいがく 構内 こうない で女性 じょせい の保護 ほご に専心 せんしん していた。その時 とき の頻発 ひんぱつ した事件 じけん について本人 ほんにん の記録 きろく に残 のこ っている。1例 れい として、12月17日 にち 夜 よる キャンパスに大勢 おおぜい の日本 にっぽん 兵 へい がやってきて中国人 ちゅうごくじん の使用人 しようにん を正門 せいもん 付近 ふきん へ連行 れんこう し、尋問 じんもん を装 よそお ってヴォートリンら学院 がくいん の責任 せきにん 者 しゃ を拘束 こうそく している間 あいだ に、通用 つうよう 門 もん から女性 じょせい 12人 にん が連行 れんこう される、という事件 じけん を体験 たいけん した。日本 にっぽん 兵 へい が校舎 こうしゃ に入 はい るのを阻止 そし しようとした際 さい にヴォートリン自身 じしん も殴 なぐ られ、また尋問 じんもん に際 さい して銃撃 じゅうげき の恐怖 きょうふ にさらされたことが記録 きろく されている[118] 。
この強姦 ごうかん 事件 じけん の頻発 ひんぱつ は日本 にっぽん 軍 ぐん 首脳 しゅのう 部 ぶ も現地 げんち からのき取 きと り等 とう によって把握 はあく するところとなり対策 たいさく が考 かんが えられた[119] 。第 だい 10軍 ぐん は12月20日 にち に次 つぎ のような通牒 つうちょう を発 はっ した。
掠奪 りゃくだつ 婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 、
放火 ほうか 等 とう の
厳禁 げんきん に
関 かん しては
屡次 るじ 訓示 くんじ せられたる
所 ところ なるも
本 ほん 次 じ 南京 なんきん 攻略 こうりゃく の
実績 じっせき に
徴 ちょう するに
婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう のみにても
百 ひゃく 余 よ 件 けん に
上 のぼ る
忌 い むべき
事態 じたい を
発生 はっせい せるを
以 もっ て
重複 じゅうふく をも
顧 かえり みず
注意 ちゅうい するところあらんとす
[120] 。
—丁 ひのと 集 しゅう 参 さん 一 いち 第 だい 一 いち 四 よん 五 ご 号 ごう
しばらく時間 じかん を置 お き、1938年 ねん 7月 がつ 、第 だい 11軍 ぐん 司令 しれい 官 かん として上海 しゃんはい に赴任 ふにん した岡村 おかむら 寧 やすし 次 じ は宮崎 みやざき 周一 しゅういち 参謀 さんぼう 、原田 はらだ 棟 とう 少将 しょうしょう らからのき取 きと り結果 けっか として次 つぎ のように回想 かいそう している。
上海 しゃんはい に
上陸 じょうりく して、
一 いち 、
二日 ふつか の
間 あいだ に...
先遣 せんけん の
宮崎 みやざき 周一 しゅういち 参謀 さんぼう 、
中 ちゅう 支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん 特務 とくむ 部長 ぶちょう 原田 はらだ 少将 しょうしょう 、
抗 こう 州 しゅう 特務 とくむ 機関 きかん 長 ちょう 萩原 はぎはら 中佐 ちゅうさ 等 とう から
聴取 ちょうしゅ したところを
総合 そうごう すれば
次 つぎ のとおりであった。
一 いち 、
南京 なんきん 攻略 こうりゃく 時 じ 、
数 すう 万 まん の
市民 しみん に
対 たい する
掠奪 りゃくだつ 強姦 ごうかん 等 とう の
大 だい 暴行 ぼうこう があったことは
事実 じじつ である。
一 いち 、
第 だい 一線 いっせん 部隊 ぶたい は
給養 きゅうよう 困難 こんなん を
名 な として
俘虜 ふりょ を
殺 ころ してしまう
弊 へい がある
[121] 。
—岡村 おかむら 寧 やすし 次 じ
進軍 しんぐん 中 ちゅう にも行 おこな われていた放火 ほうか も各所 かくしょ で行 おこな われた。南京 なんきん 国際 こくさい 救済 きゅうさい 委員 いいん 会 かい の調査 ちょうさ によれば、南京 なんきん 城内 じょうのうち のメインストリート地区 ちく の建物 たてもの 2828棟 むね の損傷 そんしょう のうち、軍事 ぐんじ 行動 こうどう に起因 きいん するもの2.7パーセント、放火 ほうか に起因 きいん するもの32.6パーセント、略奪 りゃくだつ に起因 きいん するもの54.1パーセントだとされる[122] 。ニューヨークキリスト教 きりすときょう 青年 せいねん 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい 書記 しょき として南京 なんきん に駐在 ちゅうざい していたジョージ・A・フィッチは東京 とうきょう 裁判 さいばん において日記 にっき に基 もと づいて以下 いか のように証言 しょうげん している[123] 。
十二月 じゅうにがつ 十 じゅう 九 きゅう 日 にち は
全 まった く
無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい の
一 いち 日 にち であった。
兵隊 へいたい の
手 て で
放火 ほうか された
幾 いく つかの
大火 たいか が
荒 あ れ
狂 くる い、其後も
尚 なお 多 おお くの
火事 かじ が
約束 やくそく されて
居 い た。「アメリカ」の
旗 はた は
多数 たすう の
場所 ばしょ で
引 ひ き
裂 さ かれた。
軍 ぐん 当局 とうきょく は
兵隊 へいたい の
統制 とうせい が
出来 でき ない。
十二月 じゅうにがつ 二 に 十 じゅう 日 にち 、
月曜日 げつようび 、
蛮行 ばんこう 及 およ び
暴行 ぼうこう が
阻止 そし されることも
無 な く
続行 ぞっこう された。
市街 しがい 中 ちゅう 最 さい 枢要 すうよう の
商店 しょうてん 街 がい 、
太平 たいへい 路 ろ は
全 まった く
火災 かさい に
包 つつ まれた。
私 わたし は
火 ひ を
放 はな つ
前 まえ に
店舗 てんぽ から
取 と り
出 だ された
掠奪 りゃくだつ 品 ひん を
積載 せきさい した
数多 すうた の
日本 にっぽん 軍 ぐん 貨物 かもつ 自動車 じどうしゃ を
見受 みう け、
又 また 兵隊 へいたい の
一団 いちだん が
建物 たてもの に
現実 げんじつ に
放火 ほうか して
居 い るのを
目撃 もくげき した
[124] 。
—ジョージ・A・フィッチ
12月21日 にち には南京 なんきん 在住 ざいじゅう の外国 がいこく 人 じん が日本 にっぽん 大使館 たいしかん に「市 し の大 だい 部分 ぶぶん にたいする放火 ほうか をやめ、残 のこ りの部分 ぶぶん を、気 き まぐれからおこなわれたり、組織 そしき 的 てき におこなわれたりする放火 ほうか から救 すく うこと」を要望 ようぼう 事項 じこう として提出 ていしゅつ した[123] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん による不法 ふほう 行為 こうい が一応 いちおう の終息 しゅうそく を見 み せたのは日本 にっぽん 軍 ぐん の下 した で中華民国 ちゅうかみんこく 維新 いしん 政府 せいふ が南京 なんきん で設立 せつりつ された1938年 ねん 3月 がつ 28日 にち になってからであった[125] 。
南京 なんきん 城内 じょうのうち の外国 がいこく 人 じん の人道 じんどう 支援 しえん と外国 がいこく 人 じん 記者 きしゃ の報道 ほうどう と国際 こくさい 社会 しゃかい の反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん が南京 なんきん に進軍 しんぐん する最中 さいちゅう の1937年 ねん 11月 がつ 下旬 げじゅん 、中国人 ちゅうごくじん 避難 ひなん 民 みん が安全 あんぜん に過 す ごせる場所 ばしょ を確保 かくほ するため、南京 なんきん 城内 じょうのうち を東西 とうざい 南北 なんぼく に四 よん 等分 とうぶん したうちの西北 せいほく 部 ぶ 南半 みなみはん 、南京 なんきん 城内 じょうのうち の約 やく 8分 ぶん の1の面積 めんせき に相当 そうとう する範囲 はんい (アメリカ支援 しえん のミッションスクールである金 きむ 陵 りょう 大学 だいがく や金 かね 陵 りょう 女子 じょし 文理 ぶんり 学院 がくいん 、中国 ちゅうごく の最高法院 さいこうほういん や司法 しほう 院 いん 、金 きむ 陵 りょう 大学 だいがく の附属 ふぞく 病院 びょういん である鼓 つづみ 楼 ろう 医院 いいん が存在 そんざい する)に南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く (別名 べつめい 南京 なんきん 難民 なんみん 区 く 。The Nangking Safety Zone)が設置 せっち された[126] 。安全 あんぜん 区 く は、ジーメンス 社 しゃ 南京 なんきん 支社 ししゃ 支配人 しはいにん であったドイツ人 じん ジョン・H・D・ラーベ を委員 いいん 長 ちょう とし、アメリカ聖 せい 公会 こうかい 伝道 でんどう 団 だん 宣教師 せんきょうし だったジョン・マギー 、アーネスト・フォスターや金 かね 陵 りょう 大学 だいがく の教授 きょうじゅ であったルイス・スマイス、マイナー・シール・ベイツ 、ミニー・ヴォートリン 女史 じょし らアメリカ人 じん を中心 ちゅうしん に南京 なんきん に残留 ざんりゅう した22人 にん の外国 がいこく 人 じん によって立 た ち上 あ げられた南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい によって設置 せっち された[127] [32] 。ラーベが委員 いいん 長 ちょう に就任 しゅうにん したのは、ドイツ人 じん かつナチ党 とう 員 いん であったので、日本 にっぽん の当局 とうきょく と交渉 こうしょう しやすいとされたためである[128] 。アメリカ人 じん らは災害 さいがい に対応 たいおう した救援 きゅうえん 活動 かつどう を通 つう じて、中国人 ちゅうごくじん への組織 そしき ・指導 しどう のノウハウを持 も ち、南京 なんきん 市 し の行政 ぎょうせい 的 てき 機能 きのう を引 ひ き継 つ いで組織 そしき 化 か することができた[129] 。日本 にっぽん 軍 ぐん の侵攻 しんこう 前 まえ に、南京 なんきん 周辺 しゅうへん 地域 ちいき の住民 じゅうみん がこの南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く に殺到 さっとう し[130] 、最終 さいしゅう 的 てき に250,000人 にん にまで達 たっ するが[129] 、安全 あんぜん 区 く には中国 ちゅうごく 軍 ぐん の敗残 はいざん 兵 へい が武器 ぶき ・軍服 ぐんぷく を捨 す てて多数 たすう 逃 に げ込 こ んでおり、日本 にっぽん 軍 ぐん は安全 あんぜん 区 く に対 たい しても敗残 はいざん 兵 へい 狩 か りを実施 じっし した[131] 。
当時 とうじ 、南京 なんきん には現地 げんち 駐在 ちゅうざい の欧米 おうべい 人 じん 記者 きしゃ 5名 めい (ニューヨーク・タイムズ のティルマン・ダーディン 特派 とくは 員 いん やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール 記者 きしゃ 、ロイタ ろいた ー通信 つうしん 社 しゃ のスミス記者 きしゃ 、アソシエイツプレスのマクダニエル記者 きしゃ 、パラマウントニュースリールのメンケン記者 きしゃ )が駐在 ちゅうざい し、[132] 、南京 なんきん 占領 せんりょう 後 ご の状況 じょうきょう を見 み た後 のち 、上海 しゃんはい 方面 ほうめん へ船 ふね で避難 ひなん した[133] 。この5人 にん の記者 きしゃ は実際 じっさい に南京 なんきん 戦 せん に遭遇 そうぐう しており、彼 かれ らの南京 なんきん 事件 じけん についての記事 きじ が国際 こくさい 社会 しゃかい に対 たい して1937年 ねん 12月 がつ 以降 いこう 翌年 よくねん にかけて掲載 けいさい された[133] [注釈 ちゅうしゃく 12] 。その5人 にん の記者 きしゃ の中 なか のひとり、ニューヨーク・タイムス の記者 きしゃ ティルマン・ダーディンが、12月17日 にち 、上海 しゃんはい 沖 おき に停泊 ていはく 中 ちゅう のアメリカ軍 ぐん 砲艦 ほうかん オアフ (英語 えいご 版 ばん ) から打電 だでん したレポートが、南京 なんきん 事件 じけん に関 かん する第一報 だいいっぽう となった[134] 。
「
南京 なんきん における
大 だい 残虐 ざんぎゃく 行為 こうい と
蛮行 ばんこう によって、
日本 にっぽん 軍 ぐん は
南京 なんきん の
中国 ちゅうごく 市民 しみん および
外交 がいこう 人 じん から
尊敬 そんけい と
信頼 しんらい を
受 う けるわずかな
機会 きかい を
失 うしな ってしまった...」「
中国 ちゅうごく 政府 せいふ 機構 きこう の
瓦解 がかい と
中国 ちゅうごく 軍 ぐん の
解体 かいたい のため
南京 なんきん にいた
多 おお くの
中国人 ちゅうごくじん は、
日本 にっぽん 軍 ぐん の
入城 にゅうじょう とともに
確立 かくりつ されると
思 おも われた
秩序 ちつじょ と
組織 そしき に、すぐにも
応 おう じる
用意 ようい があった。
日本 にっぽん 軍 ぐん が
城内 きうち を
制圧 せいあつ すると、これで
恐 おそ ろしい
爆 ばく 撃 げき が
止 や み、
中国 ちゅうごく 軍 ぐん から
大 だい 被害 ひがい を
受 う けることもなくなったと
考 かんが えて、
中国人 ちゅうごくじん 住民 じゅうみん の
間 あいだ に
大 おお きな
安堵 あんど の
気持 きもち が
広 ひろ がった。
歓呼 かんこ の
声 こえ で
先頭 せんとう の
日本 にっぽん 兵 へい を
迎 むか えた
住民 じゅうみん もいた。
しかし
日本 にっぽん 軍 ぐん が
占領 せんりょう してから
二 に 日 にち の
間 あいだ に
事態 じたい の
見通 みとお しは
一変 いっぺん した。
大 だい 規模 きぼ な
略奪 りゃくだつ 、
婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 、
一般 いっぱん 市民 しみん の
虐殺 ぎゃくさつ 、
自宅 じたく からの
追 お い
立 た て、
捕虜 ほりょ の
集団 しゅうだん 処刑 しょけい 、
青年 せいねん 男子 だんし の
強制 きょうせい 連行 れんこう が、
南京 なんきん を
恐怖 きょうふ の
町 まち と
化 か してしまった
[135] 。」
—ティルマン・ダーディン
南京 なんきん 占領 せんりょう 直後 ちょくご を直接 ちょくせつ 経験 けいけん したジャーナリストによる初期 しょき の欧米 おうべい 諸国 しょこく への報道 ほうどう があったものの、南京 なんきん 事件 じけん についての欧米 おうべい 各国 かっこく の反応 はんのう は概 がい して大 おお きなものではなかった[32] 。これはアジア での出来事 できごと に対 たい する欧米 おうべい 社会 しゃかい の関心 かんしん の低 ひく さに加 くわ え、1937年 ねん 12月12日 にち に長江 ながえ (揚子江 ようすこう )でアメリカ海軍 かいぐん の砲艦 ほうかん パナイ号 ごう が日本 にっぽん 軍 ぐん によって撃沈 げきちん される事件 じけん (パナイ号 ごう 事件 じけん )が発生 はっせい したことに影響 えいきょう されていた[32] [136] 。この事件 じけん は最終 さいしゅう 的 てき には日本 にっぽん とアメリカの間 あいだ で外交 がいこう 的 てき に決着 けっちゃく されたものの、事件 じけん を通 つう じて日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 占領 せんりょう に対 たい するジャーナリストの取材 しゅざい 活動 かつどう が大 おお きく阻害 そがい された他 ほか 、パナイ号 ごう 事件 じけん の報道 ほうどう が連日 れんじつ トップニュースとして掲載 けいさい される一方 いっぽう 、南京 なんきん 事件 じけん の報道 ほうどう は隅 すみ に追 お いやられ、世論 せろん の注目 ちゅうもく 自体 じたい がパナイ号 ごう 事件 じけん に集中 しゅうちゅう することにもなった[137] [注釈 ちゅうしゃく 13] 。その後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん の不法 ふほう 行為 こうい が少 すく なくなり、欧米 おうべい のジャーナリストもいなくなっていた1938年 ねん 1月 がつ 26日 にち に、日本 にっぽん 兵 へい の一部 いちぶ が旧 きゅう 米人 べいじん 住居 じゅうきょ に住 す みこみ、何人 なんにん もの女性 じょせい を拉致 らち しては皆 みな で強姦 ごうかん していたことをとがめるために日本人 にっぽんじん 憲兵 けんぺい とともにその住居 じゅうきょ に入 にゅう ろうとしたアメリカ人 じん 外交 がいこう 官 かん ジョン・ムーア・アリソン (この人 ひと は戦後 せんご 、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし になる外交 がいこう 官 かん 。南京 なんきん 赴任 ふにん 前 まえ も日本 にっぽん 在住 ざいじゅう 経験 けいけん ある元々 もともと 親日 しんにち 家 か )が日本 にっぽん 兵 へい に殴打 おうだ される事件 じけん がおきる[141] 。外交 がいこう 官 かん が兵卒 へいそつ に殴打 おうだ されるという国家 こっか の面子 めんつ を潰 つぶ された事件 じけん であり、アメリカでは南京 なんきん 事件 じけん よりも報道 ほうどう されて、米 べい 本土 ほんど で日本 にっぽん に対 たい する世論 せろん の憤慨 ふんがい を巻 ま き起 お こし、ワシントンでは日本 にっぽん 特産 とくさん シルクのボイコットを求 もと めるデモも発生 はっせい し、外務省 がいむしょう 側 がわ の陳謝 ちんしゃ でようやく沈静 ちんせい 化 か した[142] 。
一方 いっぽう で、南京 なんきん 事件 じけん に代表 だいひょう される日本 にっぽん 軍 ぐん による中国人 ちゅうごくじん 大量 たいりょう 殺戮 さつりく の報道 ほうどう は、アメリカにおける対 たい 日 にち 感情 かんじょう を悪化 あっか させ、「『非 ひ 人道的 じんどうてき 野蛮 やばん 行為 こうい 』を平然 へいぜん とおこなう日本 にっぽん 兵 へい にたいする嫌悪 けんお ・憎悪 ぞうお の感情 かんじょう を国民 こくみん の間 あいだ に醸成 じょうせい させ、それが日米 にちべい 開戦 かいせん 時 じ の『敵国 てきこく 日本 にっぽん 』のイメージを形成 けいせい した側面 そくめん もあった[35] 」。ジョン・ラーベはドイツに帰国 きこく 後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん の行為 こうい についての講演 こうえん を行 おこな いアドルフ・ヒトラー を始 はじ めとしたドイツの政府 せいふ 幹部 かんぶ へこの事件 じけん を報告 ほうこく したが、同盟 どうめい 国 こく 日本 にっぽん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい についての記述 きじゅつ がヒトラーの怒 いか りを買 か い逮捕 たいほ された[35] 。彼 かれ はその後 ご 、南京 なんきん 事件 じけん について発言 はつげん しないことを条件 じょうけん に釈放 しゃくほう されることになる[143] 。
中国 ちゅうごく では口 くち コミの形 かたち で広 ひろ く中国人 ちゅうごくじん 全体 ぜんたい に知 し られることになり、また1938年 ねん 7月 がつ に南京 なんきん における日本 にっぽん 軍 ぐん の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい の写真 しゃしん 集 しゅう 『日 にち 寇暴行実 ぎょうじつ 録 ろく 』が発行 はっこう された[143] 。とりわけ中国人 ちゅうごくじん 女性 じょせい に対 たい する凌辱 りょうじょく は日本 にっぽん に対 たい する敵意 てきい を強 つよ く醸成 じょうせい し、抗日 こうにち 運動 うんどう の活発 かっぱつ 化 か に繋 つな がった[143] 。
中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ や統治 とうち する中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう の南京 なんきん 事件 じけん に係 かか る広報 こうほう は、国民党 こくみんとう の新聞 しんぶん では、外国 がいこく 報道 ほうどう の翻訳 ほんやく のみで南京 なんきん 事件 じけん について報 ほう じており[144] 当時 とうじ の中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう が1937年 ねん 12月から約 やく 11か月 げつ の間 あいだ に300回 かい の記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこな ったが、国民党 こくみんとう の秘密 ひみつ 文書 ぶんしょ の中 なか には「南京 なんきん 事件 じけん の記者 きしゃ 会見 かいけん があった」という記録 きろく はない[145] 。その背景 はいけい として、事実 じじつ 上 じょう 国民党 こくみんとう 政府 せいふ は、南京 なんきん から逃 に げ出 だ して後 ご 、その全貌 ぜんぼう を知 し りえない日本 にっぽん 軍 ぐん 支配 しはい 下 か で南京 なんきん 事件 じけん が起 お こり、外国 がいこく 人 じん 記者 きしゃ の報道 ほうどう で直後 ちょくご は被害 ひがい を知 し る状態 じょうたい であり、また、当時 とうじ 中国 ちゅうごく 側 がわ の新聞 しんぶん は戦意 せんい 高揚 こうよう のために戦勝 せんしょう 記事 きじ を繰 く り返 かえ しており、南京 なんきん 戦 せん での敗北 はいぼく を報 ほう じたくなかったためと推察 すいさつ される[146] 。中国 ちゅうごく 政府 せいふ 主席 しゅせき の蒋介石 しょうかいせき は、その声明 せいめい [日本 にっぽん 国民 こくみん に告 つ ぐ」で明 あき らかに南京 なんきん 事件 じけん に触 ふ れており[147] 、蒋の日記 にっき でも「南京 なんきん であくなき惨殺 ざんさつ と姦淫 かんいん 」と述 の べている[148] 。
南京 なんきん 事件 じけん 発生 はっせい の約 やく 2か月 げつ 後 ご の1938年 ねん 2月 がつ に開催 かいさい された国際 こくさい 連盟 れんめい 第 だい 100回 かい 理事 りじ 会 かい [注釈 ちゅうしゃく 14] では、日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 行動 こうどう に対 たい して、前年 ぜんねん 10月 がつ の国際 こくさい 連盟 れんめい 総会 そうかい での非難 ひなん 決議 けつぎ を確認 かくにん する形 かたち で再度 さいど 非難 ひなん の決議 けつぎ をした[149] 。中国 ちゅうごく 側 がわ 代表 だいひょう の顧維鈞 ひとし はこの会議 かいぎ で演説 えんぜつ を行 おこな い、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 全般 ぜんぱん の状況 じょうきょう ついて、深刻 しんこく な事態 じたい であると「南京 なんきん 2万 まん 人 にん 虐殺 ぎゃくさつ 」もその一部 いちぶ として含 ふく めて主張 しゅちょう し、中国 ちゅうごく の存亡 そんぼう にかかわる深刻 しんこく な状況 じょうきょう (日本 にっぽん が南京 なんきん に傀儡 かいらい 政権 せいけん を作 つく り、中国 ちゅうごく 経済 けいざい を破壊 はかい するような不利 ふり な関税 かんぜい 策 さく を設置 せっち したなど)を訴 うった えた[150] 。日本 にっぽん の前途 ぜんと と歴史 れきし 教育 きょういく を考 かんが える議員 ぎいん の会 かい の戸井田 といだ 徹 とおる 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん (2008年 ねん 当時 とうじ )は、中国 ちゅうごく 側 がわ 代表 だいひょう 顧維鈞 ひとし が、南京 なんきん 事件 じけん (死者 ししゃ 2万 まん 人 にん などの当時 とうじ 中国 ちゅうごく の把握 はあく した被害 ひがい 内容 ないよう で説明 せつめい )や空爆 くうばく などの日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう による中国 ちゅうごく の深刻 しんこく な被害 ひがい について説明 せつめい したことに関 かん して、そのときの演説 えんぜつ での南京 なんきん 事件 じけん の説明 せつめい が国際 こくさい 連盟 れんめい の非難 ひなん 決議 けつぎ 案 あん に含 ふく まれなかった(連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい がすでに起案 きあん した非難 ひなん 決議 けつぎ 案 あん に「追加 ついか 」で記述 きじゅつ されなかった)ことから、国際 こくさい 連盟 れんめい がデマにもとづく南京 なんきん 事件 じけん を無視 むし して、「南京 なんきん 2万 まん 人 にん 虐殺 ぎゃくさつ 」すら認 みと めなかったとみなし、さらに、当時 とうじ 中国 ちゅうごく は虐殺 ぎゃくさつ 2万 まん 人 にん と主張 しゅちょう していたことから後 のち の虐殺 ぎゃくさつ 30万 まん 人 にん 説 せつ は虚偽 きょぎ であるとし、日本 にっぽん への制裁 せいさい を中国 ちゅうごく は希望 きぼう したが国際 こくさい 連盟 れんめい が実施 じっし しなかったことも含 ふく めて強調 きょうちょう した[151] 。戸井田 といだ は、1937年 ねん 9月 がつ に日本 にっぽん 軍 ぐん の中国 ちゅうごく の都市 とし への空爆 くうばく (渡洋 とよう 爆撃 ばくげき など)には国際 こくさい 連盟 れんめい の具体 ぐたい 的 てき な非難 ひなん 決議 けつぎ があったものの、南京 なんきん 事件 じけん は(虚偽 きょぎ であったので)無視 むし していると主張 しゅちょう [152] 。これに対 たい して笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ は、南京 なんきん 事件 じけん が、連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい が非難 ひなん 決議 けつぎ 案 あん に「追加 ついか で記述 きじゅつ されて」いないのは事実 じじつ であるが、中国 ちゅうごく 側 がわ 代表 だいひょう 顧維鈞 ひとし の演説 えんぜつ の趣旨 しゅし は、ナチスドイツの台頭 たいとう 等 とう の危機 きき に欧米 おうべい の関心 かんしん が向 む く中 なか 、何 なに とか国際 こくさい 社会 しゃかい の中国 ちゅうごく 支援 しえん を引 ひ き出 だ し、「中国 ちゅうごく 滅亡 めつぼう の危機 きき を阻止 そし 」することであって、南京 なんきん 事件 じけん への非難 ひなん 決議 けつぎ を個別 こべつ に要求 ようきゅう しておらず(決議 けつぎ でも、日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 行動 こうどう への全体 ぜんたい 的 てき な非難 ひなん が述 の べられており)、南京 なんきん 事件 じけん を虚偽 きょぎ であるので「国際 こくさい 連盟 れんめい が無視 むし した」とまでは見 み なせないと主張 しゅちょう [152] 。
南京 なんきん 戦 せん における日本 にっぽん 軍 ぐん の編成 へんせい [ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん 攻略 こうりゃく に参加 さんか した日本 にっぽん 軍 ぐん は、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 隷下 れいか の上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん ならびに第 だい 10軍 ぐん である[52] 。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が始 はじ まって一 いち 月 がつ あまり経過 けいか した1937年 ねん 8月 がつ 11日 にち 、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は主戦 しゅせん 場 じょう を華北 かほく から華中 かちゅう に移 うつ すべく、上海 しゃんはい に駐留 ちゅうりゅう する日本 にっぽん 海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい への攻撃 こうげき を指示 しじ した[153] 。海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい の兵員 へいいん 4,000人 にん に対 たい し、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は約 やく 30,000人 にん であり、日本 にっぽん 政府 せいふ は陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を増援 ぞうえん として派遣 はけん することを決定 けってい した。この増援 ぞうえん 部隊 ぶたい が上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん :松井 まつい 石 いし 根 ね )であり、第 だい 3 、第 だい 11師団 しだん を基幹 きかん とした[154] 。その後 ご 、9月には第 だい 9 、第 だい 13師団 しだん 、第 だい 101師団 しだん 、重藤 しげとう 支隊 したい 、野戦 やせん 重砲 じゅうほう 兵 へい 第 だい 5旅団 りょだん が順次 じゅんじ 増援 ぞうえん として上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん に加 くわ わった[155] 。
もともと、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん は、上海 しゃんはい 周辺 しゅうへん での限定 げんてい 的 てき な出兵 しゅっぺい (1937年 ねん 8月 がつ 15日 にち 編組 へんそ 。上海 しゃんはい 周辺 しゅうへん の中国 ちゅうごく 軍 ぐん を排除 はいじょ し日本人 にっぽんじん 居留民 きょりゅうみん の安全 あんぜん を確保 かくほ するため)であった[156] 。その後 ご 、中国 ちゅうごく 軍 ぐん との間 あいだ で苦戦 くせん するなか、10月には華北 かほく に展開 てんかい していた部隊 ぶたい を引 ひ き抜 ぬ き、第 だい 10軍 ぐん が編成 へんせい された(司令 しれい 官 かん :柳川 やながわ 平助 へいすけ )[155] 。第 だい 10軍 ぐん は第 だい 6 、第 だい 18 、第 だい 114師団 しだん と国崎 くにさき 支隊 したい を基幹 きかん とし、11月5日 にち に杭州 こうしゅう 湾 わん に上陸 じょうりく して上海 しゃんはい 戦 せん に参加 さんか した[157] 。加 くわ えて第 だい 16師団 しだん が華北 かほく から転用 てんよう されて上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん に加 くわ わり、11月13日 にち に上海 しゃんはい に上陸 じょうりく した[155] 。上海 しゃんはい 戦 せん 末期 まっき の11月7日 にち に上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 10軍 ぐん を統括 とうかつ する中 なか 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん :松井 まつい 石 いし 根 ね 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん と兼任 けんにん )が新 あら たに編 へん 合 あわ された[158] 。
この方面 ほうめん 軍 ぐん が上海 しゃんはい 戦 せん の後 のち 、南京 なんきん 攻略 こうりゃく へと向 む かうことになった。もともと、司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう は、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん のころから、大 だい 規模 きぼ な部隊 ぶたい で迅速 じんそく に南京 なんきん を攻略 こうりゃく したいと主張 しゅちょう していた[159] 。
翌 よく 1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )2月 がつ 14日 にち に、再 さい 編制 へんせい により隷下 れいか の両 りょう 軍 ぐん と共 とも に中 なか 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん は廃止 はいし された。新 あら たに中 ちゅう 支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん が編制 へんせい され(司令 しれい 官 かん は方面 ほうめん 軍 ぐん 及 およ び第 だい 10軍 ぐん ・上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん も含 ふく めて全員 ぜんいん 解任 かいにん のうえ日本 にっぽん へ召還 しょうかん )、2月 がつ 10日 とおか に北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん に編入 へんにゅう された第 だい 114師団 しだん を除 のぞ く隷下 れいか の全 すべ ての師団 しだん の指揮 しき を引 ひ き継 つ ぎ[160] 、華中 かちゅう での戦闘 せんとう を継続 けいぞく した。
以下 いか に秦 はた 郁 いく 彦のまとめに従 したが って南京 なんきん 戦 せん における日本 にっぽん 軍 ぐん 現地 げんち 部隊 ぶたい の編成 へんせい をまとめる(1937年 ねん 12月10日 にち 現在 げんざい )。
1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち :盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん 。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 開始 かいし [169] [170] 。
1937年 ねん 8月 がつ 11日 にち :蒋介石 しょうかいせき が上海 しゃんはい に駐留 ちゅうりゅう する日本 にっぽん 海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい への攻勢 こうせい を指示 しじ [153] 。
1937年 ねん 8月 がつ 13日 にち :日 にち 中 ちゅう 両 りょう 軍 ぐん が上海 しゃんはい で戦闘 せんとう 開始 かいし 、日本 にっぽん 、陸軍 りくぐん の上海 しゃんはい 派遣 はけん が決定 けってい [169] 。
1937年 ねん 8月 がつ 15日 にち :日本 にっぽん 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん を編組 へんそ [169] 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 、南京 なんきん に初 はつ の空襲 くうしゅう [41] 。
1937年 ねん 9月 がつ 11日 にち :日本 にっぽん 、3個 こ 師団 しだん (第 だい 9 、第 だい 13師団 しだん 、第 だい 101師団 しだん )の上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん への増派 ぞうは を決定 けってい [169] [155] 。
1937年 ねん 9月 がつ 28日 にち :石原 いしはら 莞爾 かんじ 少将 しょうしょう 、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 一 いち 部長 ぶちょう から関東軍 かんとうぐん 参謀 さんぼう 副長 ふくちょう に転出 てんしゅつ [171]
1937年 ねん 10月 がつ 20日 はつか :日本 にっぽん 、第 だい 10軍 ぐん を編成 へんせい [169] 。
1937年 ねん 11月5日 にち :第 だい 10軍 ぐん が杭州 こうしゅう 湾 わん に上陸 じょうりく 、上海 しゃんはい 戦 せん に参加 さんか [169] 。
1937年 ねん 11月7日 にち :日本 にっぽん 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 10軍 ぐん を統括 とうかつ する中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん を編組 へんそ [169] 。
1937年 ねん 11月13日 にち :第 だい 16師団 しだん (上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん )が白 しろ 茆江 に上陸 じょうりく [169] 。
1937年 ねん 11月15日 にち :第 だい 10軍 ぐん 、南京 なんきん への追撃 ついげき 前進 ぜんしん を独断 どくだん 決定 けってい 、進撃 しんげき を開始 かいし [172] [173] 。
1937年 ねん 11月15日 にち :中国 ちゅうごく 、南京 なんきん 分散 ぶんさん 遷都 せんと を決議 けつぎ [169] 。この日 ひ までブリュッセルにて九 きゅう カ国 かこく 条約 じょうやく 会議 かいぎ が開催 かいさい されており、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう を何 なん 等 とう かの方法 ほうほう で解決 かいけつ すべきであることが論議 ろんぎ されたが、この会議 かいぎ の影響 えいきょう で、日本 にっぽん もドイツを仲介 ちゅうかい とした中国 ちゅうごく との和平 わへい 交渉 こうしょう (トラウトマン和平 わへい 工作 こうさく )に真剣 しんけん に取 と り組 く むこととなる[174] 。
1937年 ねん 11月19日 にち :日本 にっぽん 、上海 しゃんはい における予定 よてい の占領 せんりょう 線 せん (蘇州 そしゅう -嘉 よしみ 興 きょう )に到達 とうたつ [52] [169] 。
1937年 ねん 11月 がつ 20日 はつか :日本 にっぽん 、大本営 だいほんえい を設置 せっち [169] 。
1937年 ねん 11月22日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう 、南京 なんきん 進撃 しんげき を参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に意見 いけん 具申 ぐしん [173] 。
1937年 ねん 11月25日 にち :上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 、南京 なんきん への進撃 しんげき を開始 かいし [173] 。
以降 いこう 、進撃 しんげき 路 ろ ・南京 なんきん 近郊 きんこう の村 むら 々で日本 にっぽん 軍 ぐん による虐殺 ぎゃくさつ ・略奪 りゃくだつ ・強姦 ごうかん ・放火 ほうか 等 とう が発生 はっせい [175] 。
1937年 ねん 11月28日 にち :日本 にっぽん 、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 次長 じちょう 多田 ただ 駿 しゅん 中将 ちゅうじょう 、南京 なんきん 攻略 こうりゃく に同意 どうい [173] 。
1937年 ねん 12月1日 にち :日本 にっぽん 、大本営 だいほんえい が南京 なんきん 攻略 こうりゃく を命令 めいれい [169] 。
1937年 ねん 12月2日 にち :上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん が朝香 あさか 宮 みや 鳩 ばと 彦王中将 ちゅうじょう に交代 こうたい [169] 。
1937年 ねん 12月4日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 、南京 なんきん 戦 せん 区 く に突入 とつにゅう 。日本 にっぽん 近 きん 現代 げんだい 史 し 学者 がくしゃ 笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ は、この日 ひ 前後 ぜんご (南京 なんきん 行政 ぎょうせい 区 く の農村 のうそん 部 ぶ の虐殺 ぎゃくさつ なども含 ふく むので)を南京 なんきん 事件 じけん の開始 かいし とする[125] 。
1937年 ねん 12月5日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の松井 まつい 石 いし 根 ね 司令 しれい 官 かん は、南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん 中 なか の12月5日 にち から15日 にち まで蘇州 そしゅう の司令 しれい 部 ぶ に留 と まり、病気 びょうき で休 やす み、南京 なんきん 戦 せん 参加 さんか も戦闘 せんとう 指揮 しき もできず[176] 。
1937年 ねん 12月7日 にち :総統 そうとう 蔣介石 せき 夫妻 ふさい はアメリカ人 じん パイロットの操縦 そうじゅう する大型 おおがた 単葉 たんよう 機 き で南京 なんきん を脱出 だっしゅつ [177] 。中国 ちゅうごく 軍 ぐん の南京 なんきん 周辺 しゅうへん 地域 ちいき における焦土 しょうど 作戦 さくせん が開始 かいし [178] 中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね は、南京 なんきん 城 じょう 攻略 こうりゃく 要領 ようりょう を示達 じたつ し、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい に統制 とうせい の強化 きょうか と綱紀 こうき 粛正 しゅくせい を命 めい じた[18] [19] 。
1937年 ねん 12月 がつ 10日 とおか :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 、南京 なんきん 総 そう 攻撃 こうげき 開始 かいし [169] 。
1937年 ねん 12月12日 にち :日本 にっぽん 軍 ぐん 、アメリカ軍 ぐん の砲艦 ほうかん パナイ号 ごう を撃沈 げきちん (パナイ号 ごう 事件 じけん )[179] 。
1937年 ねん 12月13日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 、南京 なんきん 占領 せんりょう [179] 、日本 にっぽん 軍 ぐん による中国 ちゅうごく 軍 ぐん 兵士 へいし への「残敵 ざんてき 掃討 そうとう 」が開始 かいし [84] される。中国 ちゅうごく 兵 へい の捕虜 ほりょ ・敗残 はいざん 兵 へい (間 あいだ 違 ちが って兵士 へいし とされた民間 みんかん 人 じん 含 ふく む)の殺害 さつがい 、安全 あんぜん 区 く 外 がい や南京 なんきん 市外 しがい での民間 みんかん 人 じん の殺害 さつがい の大半 たいはん がこの時期 じき (12月13日 にち -12月16日 にち )に発生 はっせい [180] した。日本 にっぽん 軍 ぐん による略奪 りゃくだつ ・放火 ほうか も発生 はっせい [181]
1937年 ねん 12月15日 にち :ニューヨーク・タイムズ のティルマン・ダーディン 特派 とくは 員 いん やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール 記者 きしゃ などの在 ざい 南京 なんきん の新聞 しんぶん 記者 きしゃ が、南京 なんきん から上海 しゃんはい へ脱出 だっしゅつ して世界 せかい に南京 なんきん 事件 じけん を発信 はっしん するが、南京 なんきん にはジャーナリスト不在 ふざい となる[182] [183] 。
1937年 ねん 12月17日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん が、南京 なんきん で入城 にゅうじょう 式 しき を実施 じっし [179] 。これ以降 いこう 、南京 なんきん での日本 にっぽん 軍 ぐん の虐殺 ぎゃくさつ は散発 さんぱつ 的 てき に起 お きる。ただし、強姦 ごうかん は一時 いちじ 増加 ぞうか し、放火 ほうか も発生 はっせい 継続 けいぞく [184] 。
1938年 ねん 1月 がつ 1日 にち :南京 なんきん 自治 じち 委員 いいん 会 かい 発会 はっかい (日本 にっぽん 軍 ぐん に協力 きょうりょく する現地 げんち の中国人 ちゅうごくじん の自治 じち 機関 きかん )[185] 。
1938年 ねん 1月 がつ 4日 にち :陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう の閑院宮 みや が、松井 まつい 石 いし 根 ね 司令 しれい 官 かん 宛 あて に、軍紀 ぐんき ・風紀 ふうき の改善 かいぜん の要望 ようぼう を通達 つうたつ した[186] 。
1938年 ねん 1月 がつ 5日 にち :安全 あんぜん 区 く での便衣 べんい 兵 へい 狩 か りは、この日 ひ まで続 つづ いた。
1938年 ねん 1月 がつ 16日 にち :近衛 このえ 内閣 ないかく は「帝国 ていこく 政府 せいふ は爾後 じご 国民 こくみん 政府 せいふ を対 たい 手 て とせず」と声明 せいめい を発 はっ し(第 だい 一 いち 次 じ 近衛 このえ 声明 せいめい )、中国 ちゅうごく との和平 わへい 交渉 こうしょう (トラウトマン和平 わへい 工作 こうさく )も打 う ち切 き られた[187] 。蔣介石 せき も、日本 にっぽん 政府 せいふ が厳 きび しい講和 こうわ 条件 じょうけん を繰 く り返 かえ すなら拒否 きょひ すると和平 わへい を仲介 ちゅうかい したドイツ側 がわ に伝 つた えた[188] 。
1938年 ねん 1月 がつ 26日 にち :南京 なんきん 市内 しない の元 もと アメリカ人 じん 邸宅 ていたく において、日本 にっぽん 軍 ぐん の下士官 かしかん がアメリカ人 じん 外交 がいこう 官 かん ジョン・ムーア・アリソン を殴打 おうだ するというアリソン殴打 おうだ 事件 じけん (1938年 ねん 1月 がつ 26日 にち )が起 お きた[189] 。アメリカで反日 はんにち デモも発生 はっせい し、日本 にっぽん 外務省 がいむしょう 側 がわ の陳謝 ちんしゃ でようやく沈静 ちんせい 化 か [190] 。
1938年 ねん 2月 がつ 2日 にち :国際 こくさい 連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい 第 だい 100回 かい がジュネーブにて開催 かいさい され、中国 ちゅうごく 側 がわ 代表 だいひょう の顧維鈞 ひとし は、国際 こくさい 社会 しゃかい に中国 ちゅうごく 支援 しえん を訴 うった える演説 えんぜつ を行 おこな うとき、日本 にっぽん 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 行動 こうどう への非難 ひなん を行 おこな う中 なか で、南京 なんきん での中国 ちゅうごく 市民 しみん 2万 まん 人 にん の虐殺 ぎゃくさつ と多 おお くの婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 事件 じけん が起 お こったこととして南京 なんきん 事件 じけん についても述 の べた[191] 。
1938年 ねん 2月 がつ 14日 にち :中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん は再 さい 編制 へんせい により隷下 れいか の両 りょう 軍 ぐん と共 とも に廃止 はいし された。新 あら たに中 ちゅう 支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん が編制 へんせい 、すでに北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん に編入 へんにゅう された第 だい 114師団 しだん を除 のぞ く隷下 れいか の全 すべ ての師団 しだん の指揮 しき を引 ひ き継 つ ぎ[160] 、松井 まつい 、柳川 やながわ 、朝香 あさか 宮 みや の3司令 しれい 官 かん は解任 かいにん され、その後 ご 日本 にっぽん に召還 しょうかん される。
1938年 ねん 3月 がつ 28日 にち :日本 にっぽん 軍 ぐん によって設立 せつりつ した言 い わば傀儡 かいらい 政権 せいけん 中華民国 ちゅうかみんこく 維新 いしん 政府 せいふ が南京 なんきん に成立 せいりつ 。日本 にっぽん 軍 ぐん による不法 ふほう 行為 こうい は終息 しゅうそく 。笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 し はこの日 ひ 前後 ぜんご を南京 なんきん 事件 じけん の終了 しゅうりょう とする[125] 。
事件 じけん を引 ひ き起 お こした要因 よういん [ 編集 へんしゅう ]
軍紀 ぐんき の廃頽 はいたい と憲兵 けんぺい の少 すく なさ[ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん はもともと軍紀 ぐんき が厳 いかめ しかったものの、この時期 じき は、軍 ぐん 中央 ちゅうおう も問題 もんだい 視 し するほど軍紀 ぐんき が乱 みだ れていた。南京 なんきん 事件 じけん を引 ひ き起 お こした大 おお きな要因 よういん として挙 あ げられるのが、日本 にっぽん 軍 ぐん の軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい であり、指揮 しき 系統 けいとう から末端 まったん の兵士 へいし の統制 とうせい に至 いた るまで様々 さまざま に存在 そんざい した。上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の頃 ころ から、士気 しき 低下 ていか ・軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい は既 すで に問題 もんだい 化 か しており[192] 、方面 ほうめん 軍 ぐん が麾下 きか の軍 ぐん に対 たい する軍紀 ぐんき ・風紀 ふうき の取 と り締 し まりを行 おこな う実行 じっこう 能力 のうりょく を持 も っていなかった[193]
軍紀 ぐんき を引 ひ き締 し めるため、12月7日 にち に中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 松井 まつい 石 いし 根 ね (12月5日 にち から15日 にち は療養 りょうよう 中 ちゅう で現地 げんち 軍 ぐん の直接 ちょくせつ 指揮 しき はとれず)は、南京 なんきん 城 じょう 攻略 こうりゃく 要領 ようりょう を示達 じたつ し、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい に統制 とうせい の強化 きょうか と綱紀 こうき 粛正 しゅくせい を命 めい じた[18] [19] ものの、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい の司令 しれい 部 ぶ はこうした通達 つうたつ を遵守 じゅんしゅ させる意思 いし に乏 とぼ しく、また南京 なんきん への進軍 しんぐん 自体 じたい が準備 じゅんび 不足 ふそく で行 おこな われた中 なか で現実 げんじつ 的 てき に統制 とうせい に十分 じゅうぶん な憲兵 けんぺい を備 そな えておらず、12月17日 にち 時点 じてん において7万 まん 人 にん の日本 にっぽん 兵 へい に対 たい し憲兵 けんぺい は17人 にん しか存在 そんざい しなかった[72] [注釈 ちゅうしゃく 18] 。
陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 軍事 ぐんじ 課長 かちょう 田中 たなか 新一 しんいち 大佐 たいさ は上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい について以下 いか のように記 しる している。
軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい の
根元 ねもと は、
召集 しょうしゅう 兵 へい にある。
高 こう 年次 ねんじ 召集 しょうしゅう 者 しゃ にある。
召集 しょうしゅう の
憲兵 けんぺい 下士官 かしかん などに
唾棄 だき すべき
知能犯 ちのうはん 的 てき 軍紀 ぐんき 破壊 はかい 行為 こうい がある。
現地 げんち 依存 いぞん の
給養 きゅうよう 上 じょう の
処置 しょち が
誤 あやま って
軍紀 ぐんき 破壊 はかい の
第一歩 だいいっぽ ともなる。すなわち
地方 ちほう 民 みん からの
物資 ぶっし 購買 こうばい が
徴発 ちょうはつ 化 か し、
掠奪 りゃくだつ 化 か し、
暴行 ぼうこう に
転化 てんか するごときがそれである……
補給 ほきゅう の
定 てい 滞 とどこお (
停滞 ていたい )から
第 だい 一線 いっせん を
飢餓 きが 欠乏 けつぼう に
陥 おちい らしめることも
軍紀 ぐんき 破壊 はかい のもととなる。
軍紀 ぐんき 粛正 しゅくせい の
道 みち はそれらの
全 ぜん 局面 きょくめん にわたって
施策 しさく せられなければならないが、
当面 とうめん 緊急 きんきゅう の
問題 もんだい は、
後方 こうほう 諸 しょ 機関 きかん にある。
後方 こうほう 諸 しょ 機関 きかん の
混乱 こんらん は、
動員 どういん 編成 へんせい 上 じょう ならびに
指揮 しき 系統 けいとう 上 じょう の
見 み 陥 おちい にももちろん
起因 きいん するが、
後方 こうほう 特設 とくせつ 部隊 ぶたい の
軍紀 ぐんき 的 てき 乱脈 らんみゃく が
大 だい 問題 もんだい である。
軍事 ぐんじ 的 てき 無知 むち 、
無 む 規律 きりつ 、
無責任 むせきにん 、
怠慢 たいまん など、およそ
国体 こくたい 行動 こうどう の
要素 ようそ は
皆無 かいむ というべく、これをこのまま
放置 ほうち しておいては
全 ぜん 軍規 ぐんき 律 りつ を
同様 どうよう せしめることにもなる。
問題 もんだい は
制度 せいど や
機構 きこう よりも
人事 じんじ 的 てき 刷新 さっしん にある
[194] 。」
—田中 たなか 新一 しんいち
松井 まつい 大将 たいしょう としては、
南京 なんきん 攻略 こうりゃく を
切望 せつぼう す。
目的 もくてき は
倒 たおせ 蔣……ただし、
師団 しだん の
現状 げんじょう では
戦闘 せんとう 能力 のうりょく なかんずく
攻撃 こうげき 能力 のうりょく に
不足 ふそく するものと、
見 み あり。
軍紀 ぐんき 風紀 ふうき の
維持 いじ については、
憂慮 ゆうりょ すべきもの
多 おお く、その
原因 げんいん の
重大 じゅうだい なるものは、
指揮 しき 官 かん 各 かく 級 きゅう ともに
威力 いりょく なきにあるといえる。
軍 ぐん 再建 さいけん に
関 かん する
件 けん (1)
情況 じょうきょう 上 じょう 、
整理 せいり 可能 かのう なるに
従 したが って
予 よ 後備 こうび 兵 へい の
召集 しょうしゅう 解除 かいじょ を
行 おこな い、できるだけ
速 すみ やかに
平常 へいじょう の
体制 たいせい に
移 うつ し、
右 みぎ による
兵員 へいいん の
不足 ふそく は、
補充 ほじゅう 兵 へい 、
新兵 しんぺい によって
充足 じゅうそく する。
(2)
下士官 かしかん の
精 せい 違 たがえ 整理 せいり をおこない、かつ
徹底 てってい せる
短期 たんき 再 さい 教育 きょういく を
行 おこな う。
将校 しょうこう についても
同断 どうだん 。
右 みぎ のほか、
戦地 せんち 教育 きょういく の
徹底 てってい をはかる
[195] 。」
—田中 たなか 新一 しんいち
命令 めいれい 違反 いはん を追認 ついにん した南京 なんきん 攻略 こうりゃく [ 編集 へんしゅう ]
もともと、日本 にっぽん 軍 ぐん の上海 しゃんはい 派遣 はけん は、上海 しゃんはい 周辺 しゅうへん での限定 げんてい 的 てき な出兵 しゅっぺい [156] であったが、第 だい 10軍 ぐん [155] を含 ふく み、11月7日 にち に上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 10軍 ぐん を統括 とうかつ する中 なか 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん :松井 まつい 石 いし 根 ね 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん と兼任 けんにん )が新 あら たに創設 そうせつ されていく[158] 。
つまり、上海 しゃんはい への派遣 はけん 兵力 へいりょく は当初 とうしょ 想定 そうてい を超 こ えて大 だい 規模 きぼ なものとなった。そして、その軍隊 ぐんたい の一部 いちぶ が、命令 めいれい 無視 むし による南京 なんきん 攻略 こうりゃく へと向 む かうことが南京 なんきん 戦 せん (南京 なんきん 事件 じけん )のきっかけであるが、その後 ご 、現地 げんち 軍 ぐん の暴走 ぼうそう を陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう の拡大 かくだい 派 は が容認 ようにん した、文字通 もじどお り、なし崩 くず し的 てき なプロセスであった。
背景 はいけい として、陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう に拡大 かくだい 派 は が着任 ちゃくにん したことがある。当初 とうしょ 、上海 しゃんはい 現地 げんち 軍 ぐん の増援 ぞうえん を参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ・第 だい 一 いち 部長 ぶちょう (作戦 さくせん 部 ぶ )石原 いしはら 莞爾 かんじ 少将 しょうしょう は、反対 はんたい していた。しかし、石原 いしはら は更迭 こうてつ され、後任 こうにん に戦線 せんせん 拡大 かくだい 派 は の下村 しもむら 定 じょう 少将 しょうしょう が就任 しゅうにん し、拡大 かくだい 派 は の武藤 むとう 章 あきら 大佐 たいさ らが主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ った[46] 。なお、上海 しゃんはい における戦闘 せんとう が一段落 いちだんらく した1937年 ねん 11月 がつ 上旬 じょうじゅん 、武藤 むとう や塚田 つかだ 攻 おさむ 少将 しょうしょう ら拡大 かくだい 派 は の指揮 しき 官 かん たちが中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の幕僚 ばくりょう として出向 しゅっこう した[193] 。そのとき、陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 軍事 ぐんじ 課長 かちょう 田中 たなか 新一 しんいち 大佐 たいさ は武藤 むとう らと同 おな じく戦線 せんせん 拡大 かくだい を主張 しゅちょう しつつ、彼 かれ の目 め から見 み ても上海 しゃんはい の日本 にっぽん 軍 ぐん の兵站 へいたん ・軍紀 ぐんき には重大 じゅうだい な問題 もんだい があることが明 あき らかであり[49] 、軍 ぐん の再編 さいへん を望 のぞ んだ。しかし、この軍 ぐん の再編 さいへん 処置 しょち は実行 じっこう されなかった。
そして、11月15日 にち 、第 だい 10軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は、進撃 しんげき 不可 ふか としていた陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう の命令 めいれい を無視 むし てし、撤退 てったい する中国 ちゅうごく 軍 ぐん を追撃 ついげき して南京 なんきん への進撃 しんげき を独断 どくだん 決定 けってい した[172] [173] 。この報告 ほうこく を受 う けた参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 次長 じちょう 多田 ただ 駿 しゅん 中将 ちゅうじょう は前進 ぜんしん 停止 ていし を命令 めいれい したが、11月20日 にち に設置 せっち された大本営 だいほんえい では下村 しもむら 少将 しょうしょう らにより、南京 なんきん その他 た を攻撃 こうげき することも状況 じょうきょう 如何 いか によってあり得 え るとして、なし崩 くず し的 てき に方針 ほうしん に組 く み込 こ まれていった[196] 。
第 だい 10軍 ぐん の南京 なんきん 進撃 しんげき の直後 ちょくご 、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん (上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん )の松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう も南京 なんきん への進撃 しんげき を参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に意見 いけん 具申 ぐしん し[197] 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん も南京 なんきん への突進 とっしん を開始 かいし し、第 だい 10軍 ぐん と上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん による先陣 せんじん 争 あらそ いのような状況 じょうきょう となった[注釈 ちゅうしゃく 19] 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ ・大本営 だいほんえい は最終 さいしゅう 的 てき に現地 げんち の状況 じょうきょう を制御 せいぎょ できず、11月28日 にち には南京 なんきん 攻略 こうりゃく を承認 しょうにん した[199] 。このような意思 いし 決定 けってい のため、南京 なんきん に向 む かう部隊 ぶたい は上海 しゃんはい 戦 せん の損害 そんがい を補充 ほじゅう することもできず、また必要 ひつよう な兵站 へいたん を殆 ほとん ど欠 か いた状態 じょうたい で進軍 しんぐん することになった。これは日本 にっぽん 軍 ぐん の軍紀 ぐんき 廃頽 はいたい に拍車 はくしゃ をかけ、また兵站 へいたん のほとんどを現地 げんち 調達 ちょうたつ に依存 いぞん したことは略奪 りゃくだつ を拡大 かくだい することになった[51] [173] 。
秦 はた 郁 いく 彦はこの状況 じょうきょう について、「血気 けっき 盛 ざか りの若 わか い中隊 ちゅうたい 長 ちょう が功名 こうみょう 心 しん にはやるぐらいならともかく、二 に 十 じゅう 万 まん の大軍 たいぐん をひきいる軍 ぐん 司令 しれい 官 かん が、方面 ほうめん 軍 ぐん はもちろん中央 ちゅうおう の命令 めいれい 、方針 ほうしん を無視 むし して、敵 てき 首都 しゅと 攻略 こうりゃく を抜 ぬ けがけしようというのである。軍紀 ぐんき ・軍律 ぐんりつ を守 まも れと部下 ぶか 兵士 へいし に要求 ようきゅう するどころではない。それに南京 なんきん までの四 よん 百 ひゃく キロの長距離 ちょうきょり 急進 きゅうしん を支 ささ える装備 そうび も補給 ほきゅう の準備 じゅんび もなかった。さすがに幕僚 ばくりょう 会議 かいぎ では、兵士 へいし の多 おお くが軍靴 ぐんか を持 も たず、地下足袋 じかたび 姿 すがた なので追撃 ついげき は無理 むり ではないか、という声 こえ もでたが、作戦 さくせん 主任 しゅにん 参謀 さんぼう 寺田 てらだ 雅夫 まさお 中佐 ちゅうさ が、「地下足袋 じかたび が破 やぶ れたら手 て ぬぐいを巻 ま いても前進 ぜんしん できる。弾薬 だんやく がなくても相手 あいて は支 ささえ 那 な 軍 ぐん 、銃剣 じゅうけん で足 た りる。神速 しんそく なる追撃 ついげき をやれば現地 げんち 物資 ぶっし の徴発 ちょうはつ 利用 りよう がかえって容易 ようい になる」(寺田 てらだ 「第 だい 十 じゅう 軍 ぐん 作戦 さくせん 指導 しどう ニ関 せき スル考察 こうさつ 」)と強気 つよき でまとめ、衆議 しゅうぎ 一決 いっけつ したという[200] 」とまとめている。
中国 ちゅうごく 軍 ぐん の南京 なんきん 焦土 しょうど 戦術 せんじゅつ による日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 城内 じょうのうち 駐留 ちゅうりゅう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 進撃 しんげき に先立 さきだ ち、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は12月7日 にち から12月9日 にち にかけて「清野 きよの 作戦 さくせん 」を実行 じっこう した。これは日本 にっぽん 軍 ぐん に遮蔽 しゃへい 物 ぶつ として利用 りよう される可能 かのう 性 せい のある建物 たてもの を焼却 しょうきゃく する焦土 しょうど 作戦 さくせん であり、南京 なんきん 城壁 じょうへき 周囲 しゅうい の居住 きょじゅう 区 く および南京 なんきん 城 じょう から半径 はんけい 16キロ以内 いない にある道路 どうろ 沿 ぞ いの村落 そんらく と民家 みんか が焼払 やきはら われた[74] 。食糧 しょくりょう 物資 ぶっし を現地 げんち 調達 ちょうたつ に依存 いぞん していた日本 にっぽん 軍 ぐん はこの焦土 しょうど 戦術 せんじゅつ の結果 けっか 、南京 なんきん 周辺 しゅうへん で駐屯 ちゅうとん することができなくなり、南京 なんきん 城内 じょうのうち に駐屯 ちゅうとん することになった(これは中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の司令 しれい 部 ぶ からは厳禁 げんきん されていた行動 こうどう であった)[74] [19] 。南京 なんきん 市街 しがい でも軍政 ぐんせい 部 ぶ や鉄道 てつどう 部 ぶ などの主要 しゅよう 建造 けんぞう 物 ぶつ が焼却 しょうきゃく された[56] 。また、南京 なんきん 防衛 ぼうえい を巡 めぐ る中国 ちゅうごく 軍 ぐん の方針 ほうしん が死守 ししゅ と撤退 てったい で一貫 いっかん せず、防衛 ぼうえい 兵力 へいりょく を確保 かくほ するために兵士 へいし の逃亡 とうぼう を防止 ぼうし する処置 しょち がとられていたことは、中国 ちゅうごく 軍 ぐん が実際 じっさい に撤退 てったい する段階 だんかい に入 はい って多数 たすう の兵士 へいし が置 お き去 ざ りにされたり、逃走 とうそう 防止 ぼうし のための同士討 どうしう ちをする事態 じたい を引 ひ き起 お こした[57] 。
しかし、その後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん の放火 ほうか がやはり大 だい 規模 きぼ に起 お こる。「中国人 ちゅうごくじん 兵士 へいし および南京 なんきん 市民 しみん の悲劇 ひげき は日本 にっぽん 軍 ぐん 南京 なんきん 入城 にゅうじょう 前 まえ に始 はじ まり、そしてさらに陰 かげ 残 ざん な悲劇 ひげき が日本 にっぽん 軍 ぐん 入城 にゅうじょう 後 ご 待 ま ちうけていた[57] 」と臼井 うすい 勝美 かつみ はこの状況 じょうきょう を評 ひょう する。日本 にっぽん 軍 ぐん の放火 ほうか は、「南京 なんきん っ子 こ の自慢 じまん の種 たね だった太平 たいへい 路 ろ 」を跡形 あとかた もなく焼 や き尽 つ くす[201] 等 ひとし 、大 おお きな損害 そんがい を与 あた えた。
入城 にゅうじょう 式 しき の強行 きょうこう による民間 みんかん 人 じん の誤認 ごにん 虐殺 ぎゃくさつ も含 ふく めた敗残 はいざん 兵 へい 虐殺 ぎゃくさつ [ 編集 へんしゅう ]
すでに、南京 なんきん を占領 せんりょう した後 のち の12月17日 にち に、日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 入城 にゅうじょう 式 しき が行 おこな われることになったことが、平穏 へいおん な入城 にゅうじょう 式 しき のために、治安 ちあん を守 まも ることに神経 しんけい を研 と ぎすませ、城内 きうち の敗残 はいざん 兵 へい とみられるものの虐殺 ぎゃくさつ (間違 まちが えて殺 ころ された一般 いっぱん 住民 じゅうみん も含 ふく む)につながったとされる。
南京 なんきん での戦闘 せんとう が終 お わっていなかった12月14日 にち から日本 にっぽん 国内 こくない では南京 なんきん 占領 せんりょう を祝賀 しゅくが する各種 かくしゅ 行事 ぎょうじ や報道 ほうどう が広範 こうはん に繰 く り広 ひろ げられ戦勝 せんしょう ムードを盛 も り上 あ げた[202] 。現地 げんち 軍 ぐん の独断 どくだん 専行 せんこう から始 はじ まった南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん であったが、昭和 しょうわ 天皇 てんのう から南京 なんきん 占領 せんりょう を喜 よろこ ぶ「御 ご 言葉 ことば 」も下賜 かし され(昭和 しょうわ 天皇 てんのう は戦後 せんご に南京 なんきん 事件 じけん を知 し り、「実 じつ にひどい」とおっしゃった[203] )南京 なんきん 占領 せんりょう は公式 こうしき にも認 みと められた[202] 。
中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の松井 まつい 石 いし 根 ね 司令 しれい 官 かん は、南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん 中 なか の12月5日 にち から15日 にち まで蘇州 そしゅう の司令 しれい 部 ぶ に留 と まり、病気 びょうき で休 やす んでおり、南京 なんきん 戦 せん 参加 さんか も戦闘 せんとう 指揮 しき もできなかった[204] 。その松井 まつい が、12月17日 にち に中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の南京 なんきん 入城 にゅうじょう 式 しき を挙行 きょこう する旨 むね を、現地 げんち 軍 ぐん に通達 つうたつ した[94] 。現地 げんち 部隊 ぶたい は時期 じき 尚早 しょうそう として繰 く り返 かえ し延期 えんき を求 もと めたが、松井 まつい は頑 がん として12月17日 にち の入城 にゅうじょう 式 しき 実行 じっこう を譲 ゆず らなかった[94] [205] 。一方 いっぽう で上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 麾下 きか の第 だい 16師団 しだん は12月15日 にち には既 すで に独自 どくじ に入城 にゅうじょう 式 しき を行 おこな っており、現地 げんち 軍 ぐん の功績 こうせき を横取 よこど りするような中 なか 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の入城 にゅうじょう 式 しき に関 かん する通達 つうたつ に強 つよ い不快 ふかい 感 かん を示 しめ した[94]
結局 けっきょく 12月 がつ 17日 にち の中 なか 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん の入城 にゅうじょう 式 しき は強行 きょうこう され、南京 なんきん 戦中 せんちゅう は病床 びょうしょう に居 い た(前々 まえまえ 日 び まで)松井 まつい 石 いし 根 ね 司令 しれい 官 かん も乗馬 じょうば 姿 すがた で堂々 どうどう 入城 にゅうじょう 閲兵 えっぺい した。しかし、その入城 にゅうじょう 式 しき の準備 じゅんび 期間 きかん には、南京 なんきん 城内 じょうのうち での戦闘 せんとう はまだ散発 さんぱつ 的 てき に発生 はっせい しており治安 ちあん が確立 かくりつ されていなかった。また多 おお くの敗残 はいざん 兵 へい が市民 しみん の中 なか に紛 まぎ れ込 こ んだことが予想 よそう され、上海 しゃんはい 戦 せん 以来 いらい 便衣 べんい 兵 へい の奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき による損害 そんがい を経験 けいけん していた日本 にっぽん 軍 ぐん はこれに強 つよ い警戒 けいかい 心 しん を持 も っていた。このため皇族 こうぞく である朝香 あさか 宮 みや 鳩 ばと 彦王 (12月2日 にち 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん )の身 み の安全 あんぜん の確保 かくほ やその他 た の不祥事 ふしょうじ を防 ふせ ぐため、入城 にゅうじょう 式 しき の挙行 きょこう に合 あ わせて早急 そうきゅう な治安 ちあん 回復 かいふく が必要 ひつよう になると「疑 うたが わしいものはすべてその日 ひ のうちに始末 しまつ する方針 ほうしん がとられた[206] 」[207] 。この結果 けっか 、例 たと えば南京 なんきん の安全 あんぜん 区 く における掃討 そうとう を担当 たんとう した第 だい 9師団 しだん などは、兵士 へいし と民間 みんかん 人 じん を選別 せんべつ する余裕 よゆう をもたなかったために成年 せいねん 男子 だんし のほとんどを便衣 べんい 兵 へい と見 み なして処刑 しょけい するような事態 じたい となった[206] 。
捕虜 ほりょ への人道的 じんどうてき 配慮 はいりょ の欠如 けつじょ ・中国 ちゅうごく への復讐 ふくしゅう 心 しん / 敗残 はいざん 兵 へい を便衣 べんい 兵 へい と見 み なしたことへの疑問 ぎもん [ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん 戦 せん では、非常 ひじょう に多 おお かったとされる殺害 さつがい 事案 じあん が、日本 にっぽん 軍 ぐん による中国人 ちゅうごくじん 捕虜 ほりょ の組織 そしき 的 てき 殺害 さつがい であり、1万 まん 人 にん 単位 たんい の大掛 おおが かりな捕虜 ほりょ 殺害 さつがい は稀 まれ であり、数 すう 十 じゅう 人 にん や数 すう 百 ひゃく 人 にん 単位 たんい の虐殺 ぎゃくさつ が数多 かずおお く発生 はっせい したと、秦 はた 郁 いく 彦 は説明 せつめい する[208] 。(但 ただ し、実際 じっさい には、揚子江 ようすこう での数 すう 千 せん から数 すう 万 まん 程度 ていど の大量 たいりょう 処刑 しょけい の各種 かくしゅ 証言 しょうげん や大量 たいりょう 処刑 しょけい との関連 かんれん 性 せい を疑 うたが わせる一 いち か所 しょ での大量 たいりょう 死体 したい 埋葬 まいそう の記録 きろく が存在 そんざい する。)
なお、日本 にっぽん 軍 ぐん は、それ以前 いぜん の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう のときは戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう を忠実 ちゅうじつ に守 まも り外国 がいこく 人 じん 捕虜 ほりょ への人道的 じんどうてき 配慮 はいりょ を行 おこな った[209] ことが国際 こくさい 的 てき に知 し られており、続 つづ く第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん のときもドイツ人 じん 捕虜 ほりょ への配慮 はいりょ や捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ での人道的 じんどうてき 扱 あつか い[210] が内外 ないがい に広 ひろ く知 し られていたが、武藤 むとう 章 あきら (南京 なんきん にも参謀 さんぼう として従軍 じゅうぐん )は、その後 ご のシベリア出兵 しゅっぺい 以降 いこう は、日本 にっぽん 軍 ぐん の軍規 ぐんき 律 りつ に問題 もんだい が起 お こり始 はじ めたとされた[211] 。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が始 はじ まると、日本 にっぽん 国民 こくみん は政府 せいふ の暴支膺懲 ようちょう の声 こえ に押 お され、また中国 ちゅうごく 側 がわ が日本 にっぽん 陸軍 りくぐん が傀儡 かいらい 地方 ちほう 政権 せいけん をつくった地域 ちいき にある通 とおり 州 しゅう に住 す む日本 にっぽん 在住 ざいじゅう 民 みん へ残虐 ざんぎゃく な殺害 さつがい 行為 こうい を行 おこな った通 とおり 州 しゅう 事件 じけん も背景 はいけい にあって、日本 にっぽん 軍 ぐん はチャハル作戦 さくせん で一般 いっぱん 中国人 ちゅうごくじん や中国 ちゅうごく 兵 へい 捕虜 ほりょ を無辜 むこ に殺害 さつがい する事件 じけん をすでに起 お こしており[212] 、そのうえ、また上海 しゃんはい 戦 せん において、日本 にっぽん 軍人 ぐんじん が中国 ちゅうごく との激 はげ しい戦 たたか いの中 なか で、戦友 せんゆう の多 おお くを失 うしな い、中国 ちゅうごく 側 がわ へ復讐 ふくしゅう する感情 かんじょう を芽生 めば えさせていた[213] ことも原因 げんいん であった。
当時 とうじ の捕虜 ほりょ の取 と り扱 あつか いに係 かか る戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう ・ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく (1907年 ねん 改定 かいてい 後 ご )は、日本 にっぽん ・中華民国 ちゅうかみんこく がともに条約 じょうやく として批准 ひじゅん (中華民国 ちゅうかみんこく :1917年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、日本 にっぽん :1911年 ねん 12月13日 にち )[214] していたが、日本 にっぽん の軍部 ぐんぶ が、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう (ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく )を遵守 じゅんしゅ ・履行 りこう しなくても良 よ いと解釈 かいしゃく できる命令 めいれい を出 だ した(日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 次官 じかん から北 きた 支 ささえ 那 な 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう 宛 あて の1937年 ねん 8月 がつ 5日 にち の通牒 つうちょう 「交戰 こうせん 法規 ほうき ノ適用 てきよう ニ關 せき スル件 けん 」(陸 りく 支 ささえ 密 みつ 第 だい 198号 ごう )[13] [215] 。秦 はた 郁 いく 彦はこれは国際 こくさい 法 ほう を遵守 じゅんしゅ しなくともよいとも読 よ めるが、解釈 かいしゃく の責任 せきにん は受 う け取 と る方 ほう に任 まか せて逃 に げたともとれるとした[13] 。日本 にっぽん 軍 ぐん は明確 めいかく な軍令 ぐんれい を出 だ してはいないが、殺害 さつがい を事実 じじつ 上 じょう 黙認 もくにん していたかのように読 よ める命令 めいれい を発 はっ していた((1937年 ねん 10月 がつ 15日 にち 付 づけ 軍務 ぐんむ 一 いち 機密 きみつ 第 だい 40号 ごう )「現地 げんち で」「俘虜 ふりょ にしないかぎり」殺害 さつがい しても良 よ いとのニュアンスが読 よ み取 と れる)[216] 。
後 のち に陸軍 りくぐん 大臣 だいじん となる阿南 あなみ 惟幾 これちか 一 いち 行 ぎょう が、南京 なんきん 事件 じけん 直後 ちょくご に現地 げんち を視察 しさつ して、その際 さい に現地 げんち 軍 ぐん の不法 ふほう を行為 こうい を批判 ひはん すると、現地 げんち 軍 ぐん 将校 しょうこう が「捕虜 ほりょ を殺 ころ すぐらい何 なに だ」と述 の べたとされ、軍 ぐん 中央 ちゅうおう も呆 あき れる状態 じょうたい であった[217] 。
このように、日本 にっぽん 側 がわ が、自 みずか ら批准 ひじゅん した戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう に忠実 ちゅうじつ にならなかった背景 はいけい には、日本 にっぽん 側 がわ が宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな わず「事変 じへん 」とみなす政策 せいさく をとったため(もし宣戦 せんせん 布告 ふこく した場合 ばあい 、アメリカが中立 ちゅうりつ 法 ほう を発動 はつどう して軍需 ぐんじゅ 品 ひん をアメリカから輸入 ゆにゅう できなくなるなど不利 ふり であるため)に、本来 ほんらい と公的 こうてき に「戦争 せんそう 」を宣言 せんげん しないことの影響 えいきょう として、戦争 せんそう なら当然 とうぜん 適応 てきおう される戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう による捕虜 ほりょ の対処 たいしょ 策 さく などがおろそかになったのでは、という説 せつ が日 にち 中 ちゅう 歴史 れきし 共同 きょうどう 研究 けんきゅう にて指摘 してき されている[218] 。
また、このときの日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は捕虜 ほりょ 管理 かんり のための機構 きこう を設置 せっち しなかった[13] 。捕虜 ほりょ を管轄 かんかつ する軍務 ぐんむ 局 きょく にいた武藤 むとう 章 あきら (参謀 さんぼう 本部 ほんぶ )によれば、1938年 ねん に「中国人 ちゅうごくじん ノ捕 と ヘラレタル者 しゃ ハ俘虜 ふりょ トシテ取扱 とりあつかい ハレナイトイフ事 ごと ガ決定 けってい 」されており、つまり、陸軍 りくぐん は戦争 せんそう ではない支 ささえ 那 な 事変 じへん では捕虜 ほりょ そのものを捕 と らないという方針 ほうしん を採用 さいよう 、したがって、正式 せいしき の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ も設 もう けなかった[219] (但 ただ し、1941年 ねん には俘虜 ふりょ 情報 じょうほう 局 きょく と俘虜 ふりょ 収容 しゅうよう 所 しょ が設置 せっち された)。日本 にっぽん 軍 ぐん では捕虜 ほりょ をタブー視 し しており、上海 しゃんはい 戦 せん では捕虜 ほりょ 処刑 しょけい が暗黙 あんもく の方針 ほうしん になっていたが、首都 しゅと の南京 なんきん 攻略 こうりゃく では明確 めいかく な方針 ほうしん があるべきだったと秦 はた 郁 いく 彦 は述 の べる[220] 。
また、日本 にっぽん 軍 ぐん が、軍服 ぐんぷく を脱 ぬ いで民衆 みんしゅう に紛 まぎ れようとした中国 ちゅうごく 軍 ぐん の敗残 はいざん 兵 へい を便衣 べんい 兵 へい として大量 たいりょう に殺 ころ した行為 こうい は、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の解釈 かいしゃく の間違 まちが いであるとする考 かんが えがある。つまり、(軍服 ぐんぷく 着用 ちゃくよう などの)交戦 こうせん 者 しゃ 資格 しかく を満 み たしていないだけでなく、「害 がい 敵 てき 手段 しゅだん (戦闘 せんとう 行為 こうい やテロ行為 こうい )を行 おこな うもの」を便衣 べんい 兵 へい とみなす、と戦前 せんぜん の国際 こくさい 法学 ほうがく 者 しゃ 信夫 しのぶ 淳 じゅん 平 ひらた は説明 せつめい する[221] 。北岡 きたおか 伸一 しんいち も、「便衣隊 べんいたい についても、本来 ほんらい は兵士 へいし は軍服 ぐんぷく を着 き たまま降伏 ごうぶく すべきであるが、軍服 ぐんぷく を脱 ぬ いで民衆 みんしゅう に紛 まぎ れようとしたから殺 ころ してもよいというのは、とんでもない論理 ろんり の飛躍 ひやく 」と主張 しゅちょう している[109] 。ただし、南京 なんきん 事件 じけん 否定 ひてい 派 は の意見 いけん (軍服 ぐんぷく を脱 ぬ いで民衆 みんしゅう に紛 まぎ れようとしただけで便衣 べんい 兵 へい とみなすという考 かんが えを主張 しゅちょう する)も存在 そんざい する。(軍服 ぐんぷく 着用 ちゃくよう などの)交戦 こうせん 者 しゃ 資格 しかく を満 み たしていない場合 ばあい は(そのまま)非合法 ひごうほう 戦闘 せんとう 員 いん (便衣 べんい 兵 へい )となり、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう に照 て らして処刑 しょけい しても合法 ごうほう であり虐殺 ぎゃくさつ ではないと東中野 ひがしなかの 修道 しゅうどう は主張 しゅちょう した[222] 佐藤 さとう 和男 かずお も、武器 ぶき を捨 す てても(機会 きかい があれば自軍 じぐん に合流 ごうりゅう しようとして)逃走 とうそう する兵 へい は、逃走 とうそう したとは認 みと められないと述 の べた[223] 。
責任 せきにん 者 しゃ の処罰 しょばつ [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 時 じ まで、日本 にっぽん において南京 なんきん 事件 じけん が公式 こうしき に問題 もんだい として取 と り扱 あつか われることがなかったため、一連 いちれん の虐殺 ぎゃくさつ ・不法 ふほう 行為 こうい に関連 かんれん する責任 せきにん が問 と われたのは戦後 せんご に連合 れんごう 国 こく によって開催 かいさい された極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )と、中華民国 ちゅうかみんこく で開催 かいさい された南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい によってである。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に日本 にっぽん の戦犯 せんぱん を裁 さば いたこれらの裁判 さいばん では、戦犯 せんぱん とされた人々 ひとびと が種別 しゅべつ によってA級 きゅう 戦犯 せんぱん とBC級 きゅう 戦犯 せんぱん に区別 くべつ された[224] 。このA級 きゅう 、B級 きゅう 、C級 きゅう という用語 ようご は、先行 せんこう してナチス・ドイツ の戦争 せんそう 犯罪 はんざい を裁 さば くために開催 かいさい されたニュルンベルク裁判 さいばん の基本 きほん 法 ほう である国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判所 さいばんしょ 憲章 けんしょう の第 だい 6条 じょう において戦争 せんそう 犯罪 はんざい の類型 るいけい が(a)平和 へいわ に対 たい する罪 つみ (b)戦争 せんそう 犯罪 はんざい (c)人道 じんどう に対 たい する罪 つみ に区分 くぶん されていたものを適用 てきよう したものであり、A級 きゅう がBC級 きゅう より重大 じゅうだい であるというような序列 じょれつ を示 しめ すものではない[225] 。日本 にっぽん においては東京 とうきょう 裁判 さいばん の被告 ひこく が即 すなわ ちA級 きゅう 戦犯 せんぱん であると言 い え、BC級 きゅう 戦犯 せんぱん は各国 かっこく で開催 かいさい された法廷 ほうてい で審理 しんり された[224] [39] 。南京 なんきん 事件 じけん を取 と り扱 あつか ったのが南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい である。
東京 とうきょう 裁判 さいばん においては、南京 なんきん 事件 じけん (南京 なんきん およびその周辺 しゅうへん における市民 しみん ・捕虜 ほりょ の虐殺 ぎゃくさつ )が事実 じじつ であると判断 はんだん され、中 ちゅう 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん であった松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう が絞首刑 こうしゅけい となった[6] 。松井 まつい 大将 たいしょう の責任 せきにん に対 たい する判断 はんだん は以下 いか のようなものである。
「
日本 にっぽん 軍 ぐん が
占領 せんりょう してから
最初 さいしょ の
六 ろく 週間 しゅうかん に、
南京 なんきん とその
周辺 しゅうへん で
殺害 さつがい された
一般人 いっぱんじん と
捕虜 ほりょ の
総数 そうすう は
二 に 十 じゅう 万 まん 以上 いじょう であった」「
自分 じぶん の
軍隊 ぐんたい を
統制 とうせい し、
南京 なんきん の
不幸 ふこう な
市民 しみん を
保護 ほご する
義務 ぎむ をもっていたとともに、その
権限 けんげん をももっていた。この
義務 ぎむ を
怠 おこた ったことについて、かれは
犯罪 はんざい 的 てき 責任 せきにん がある」
[226] 。
—東京 とうきょう 裁判 さいばん
そして、同 おな じくA級 きゅう 戦犯 せんぱん であった当時 とうじ の外務 がいむ 大臣 だいじん の広田 ひろた 弘毅 こうき は事件 じけん の情報 じょうほう を知 し っていて陸軍 りくぐん に厳重 げんじゅう 注意 ちゅうい の申 もう し入 い れを行 おこな ったにもかかわらず、閣議 かくぎ に持 も ち込 こ まなかったことが虐殺 ぎゃくさつ への不作為 ふさくい とされてやはり死刑 しけい 判決 はんけつ につながった(このことで広田 ひろた に対 たい して同情 どうじょう する声 こえ は当時 とうじ から強 つよ かった)[227] 。
また、南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい において次 つぎ の4名 めい が死刑 しけい となった[40] 。
東京 とうきょう 裁判 さいばん では南京 なんきん 事件 じけん について処断 しょだん された軍人 ぐんじん は松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう 一 いち 人 にん であり、実質 じっしつ 的 てき に彼 かれ が南京 なんきん 事件 じけん の責任 せきにん を負 お う形 かたち となった[228] 。また、南京 なんきん 事件 じけん についてBC級 きゅう 戦犯 せんぱん として訴追 そつい されたのはこの4名 めい だけであった[229] 。秦 はた 郁 いく 彦は「東京 とうきょう 裁判 さいばん に先立 さきだ って軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい が起訴 きそ した戦犯 せんぱん が一 いち 五 ご 〇八 はち 名 めい もいたのに、南京 なんきん 事件 じけん に対 たい する起訴 きそ 者 しゃ がわずか四 よん 人 にん にすぎなかったのは、いかにも不自然 ふしぜん 」としてその要因 よういん を次 つぎ のようにまとめている[229] 。まず、東京 とうきょう 裁判 さいばん から見 み て8年 ねん 前 まえ の事件 じけん 容疑 ようぎ 者 しゃ を特定 とくてい し確認 かくにん することが技術 ぎじゅつ 的 てき に困難 こんなん であったことがある。その後 ご の戦争 せんそう で南京 なんきん 戦 せん に参加 さんか した兵士 へいし たちは各地 かくち に移動 いどう してしまっており、戦死 せんし している者 もの も多 おお く、当時 とうじ の所属 しょぞく 部隊 ぶたい を特定 とくてい するのも難 むずか しかった上 うえ 、指揮 しき 官 かん クラスにも死者 ししゃ が多 おお かった[229] 。第 だい 2に終戦 しゅうせん 直後 ちょくご から中国 ちゅうごく で始 はじ まった国共 こっきょう 内戦 ないせん の結果 けっか 、中国 ちゅうごく において十分 じゅうぶん な調査 ちょうさ を行 おこな う余裕 よゆう が無 な かった[229] 。最後 さいご に、東京 とうきょう 裁判 さいばん は基本 きほん 的 てき にアメリカのペースで進 すす められたが、アメリカは日本 にっぽん 軍 ぐん の毒 どく ガス ・細菌 さいきん 戦 せん の方 ほう を重視 じゅうし し南京 なんきん 事件 じけん に力点 りきてん をおかなかった[229] 。これらの要因 よういん から、南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい で裁 さば かれた南京 なんきん 事件 じけん のBC級 きゅう 戦犯 せんぱん は、谷 たに 寿夫 としお 中将 ちゅうじょう 以外 いがい は実際 じっさい の責任 せきにん の所在 しょざい というよりも中国 ちゅうごく における知名度 ちめいど によって選別 せんべつ されたものであった。
田中 たなか 軍 ぐん 吉 きち 大尉 たいい は1940年 ねん に日本 にっぽん 国内 こくない で「三 さん 百 ひゃく 人 にん 斬 ぎ り」の勇士 ゆうし として、向井 むかい 敏明 としあき 少尉 しょうい と野田 のだ 穀 こく 少尉 しょうい も「百 ひゃく 人 にん 斬 ぎ り」の英雄 えいゆう として日本 にっぽん 国内 こくない のマスコミで紹介 しょうかい されていた[230] 。結果 けっか として、彼 かれ らは名前 なまえ が知 し られていたために「不 ふ 特定 とくてい 多数 たすう の犯人 はんにん の代表 だいひょう として」裁 さば かれる形 かたち となった[231] 。向井 むかい 敏明 としあき 少尉 しょうい と野田 のだ 穀 こく 少尉 しょうい の百 ひゃく 人 にん 斬 ぎ りは、近代 きんだい 戦 せん では普通 ふつう ありえないので、軍 ぐん の宣伝 せんでん やマスコミの誇張 こちょう の犠牲 ぎせい 者 しゃ ではないか、えん罪 ざい による有罪 ゆうざい ・処刑 しょけい ではないか、とされて戦後 せんご 、名誉 めいよ 回復 かいふく のための裁判 さいばん が行 おこな われており、その経緯 けいい は百 ひゃく 人 にん 斬 ぎ り競争 きょうそう に詳 くわ しい。
南京 なんきん 事件 じけん の史料 しりょう (証言 しょうげん ・遺体 いたい 処理 しょり 記録 きろく )[ 編集 へんしゅう ]
大 だい 規模 きぼ な虐殺 ぎゃくさつ や戦争 せんそう 犯罪 はんざい において、正確 せいかく な情報 じょうほう を示 しめ すことには困難 こんなん が伴 ともな うが、南京 なんきん 事件 じけん においても例外 れいがい ではなく、歴史 れきし 学者 がくしゃ が実証 じっしょう 的 てき 見地 けんち から使用 しよう できる南京 なんきん 事件 じけん (南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ )の史料 しりょう には多 おお くの制約 せいやく がある[232] 。この事件 じけん についての主 しゅ たる情報 じょうほう 源 げん のうち、具体 ぐたい 的 てき 証言 しょうげん は、次 つぎ のようなものに分類 ぶんるい される。
第三者 だいさんしゃ (ジャーナリストや南京 なんきん 国際 こくさい 安全 あんぜん 区 く にいた外国 がいこく 人 じん )の報道 ほうどう ・証言 しょうげん
被害 ひがい 者 しゃ (中国 ちゅうごく 側 がわ )の証言 しょうげん
加害 かがい 者 しゃ (日本 にっぽん 軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ )の証言 しょうげん
また、遺体 いたい 処理 しょり 記録 きろく についても述 の べる。
第三者 だいさんしゃ (ジャーナリストや南京 なんきん 国際 こくさい 安全 あんぜん 区 く にいた外国 がいこく 人 じん )の報道 ほうどう ・証言 しょうげん [ 編集 へんしゅう ]
このうち、第三者 だいさんしゃ による証言 しょうげん は南京 なんきん 事件 じけん を報告 ほうこく する最 もっと も早 はや い世界 せかい に向 む けた情報 じょうほう 発信 はっしん であった[233] [234] 。ジャーナリストによる記録 きろく は日本 にっぽん 軍 ぐん による南京 なんきん 占領 せんりょう のあと一 いち 週間 しゅうかん 以内 いない に伝 つた えられており、ニューヨーク・タイムズ やシカゴ・デイリーニュース に掲載 けいさい された[235] 。[236] ことで、世界 せかい に発信 はっしん されることになる。なお、当時 とうじ 上海 しゃんはい に居 い たオーストラリア人 じん 記者 きしゃ でマンチェスター・ガーディアン 紙 かみ のハロルド・J・ティンパーリ は、南京 なんきん 事件 じけん の直前 ちょくぜん 9月 がつ まで南京 なんきん に居 い たのだが、他 た のジャーナリストの情報 じょうほう などを元 もと に、後 のち に南京 なんきん 事件 じけん について1938年 ねん 著作 ちょさく 「戦争 せんそう とは何 なに か」を出版 しゅっぱん し[237] [238] て、極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん にも影響 えいきょう を及 およ ぼしたが、出版 しゅっぱん 後 ご の1939年 ねん に国民党 こくみんとう 顧問 こもん になったこの人物 じんぶつ の行動 こうどう を中国 ちゅうごく 側 がわ のプロパガンダであるという批判 ひはん もあり、その反論 はんろん も存在 そんざい する[238] 。
外国 がいこく 人 じん のジャーナリストは1937年 ねん 12月16日 にち にAP通信 つうしん の記者 きしゃ が離 はな れて以降 いこう 、数 すう か月 げつ にわたって南京 なんきん には一人 ひとり もいない状態 じょうたい になったが[236] [32] 、南京 なんきん 国際 こくさい 安全 あんぜん 区 く にはその後 ご も二 に 十 じゅう 数 すう 名 めい の欧米 おうべい 人 じん が残留 ざんりゅう しており、彼 かれ らの証言 しょうげん や記録 きろく も当時 とうじ の状況 じょうきょう を知 し るための重要 じゅうよう な史料 しりょう になっている[236] [32] 。しかし、これらは直接 ちょくせつ 日本 にっぽん 軍 ぐん の行動 こうどう を目撃 もくげき した人々 ひとびと が間 あいだ を置 お かずに記録 きろく した史料 しりょう であるが、限定 げんてい 的 てき な情報 じょうほう でもあるし、同時 どうじ にその位置 いち づけは重要 じゅうよう である。例 たと えば、東京 とうきょう 裁判 さいばん のときのジョン・マギー の証言 しょうげん は、虐殺 ぎゃくさつ の事実 じじつ を伝 つた えたが、多 おお くは他 た の証言 しょうげん の伝聞 でんぶん であり、直接 ちょくせつ 見 み たのは皆無 かいむ に等 ひと しいとも述 の べたが、そのマギーの証言 しょうげん に対 たい して東京 とうきょう 裁判 さいばん の被告人 ひこくにん の弁護人 べんごにん のブルックスが「この証人 しょうにん は公平 こうへい を務 つと めていると信 しん じます」と答 こた え、ニ、三 さん 追加 ついか の質問 しつもん をしたあと裁判 さいばん 長 ちょう の勧告 かんこく に従 したが い反対 はんたい 尋問 じんもん を終了 しゅうりょう したことから、信 しん ぴょう性 せい は低 ひく くないとされた[注釈 ちゅうしゃく 20] 。歴史 れきし 学者 がくしゃ 楊大慶 たいけい はこうした欧米 おうべい 人 じん の証言 しょうげん を「残虐 ざんぎゃく 行為 こうい 等 とう の説得 せっとく 力 りょく ある情報 じょうほう を提供 ていきょう したが、残留 ざんりゅう したわずかの欧米 おうべい 人 じん が、非常 ひじょう に多 おお くの住民 じゅうみん がいる広大 こうだい な地域 ちいき のほんの一部分 いちぶぶん を目撃 もくげき したにすぎない」とまとめる[236]
[注釈 ちゅうしゃく 21] 。これ等 とう の欧米 おうべい 人 じん のうち、南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう のジョン・ラーベ の記載 きさい した日記 にっき は、その孫 まご が戦後 せんご に出版 しゅっぱん し(邦訳 ほうやく 『南京 なんきん の真実 しんじつ 』講談社 こうだんしゃ )、南京 なんきん の金 かね 陵 りょう 女子大 じょしだい 学 がく で教師 きょうし だったミニー・ヴォートリン 女史 じょし の当時 とうじ の日記 にっき も出版 しゅっぱん されている(邦訳 ほうやく 『南京 なんきん 事件 じけん の日々 ひび ―ミニー・ヴォートリンの日記 にっき 』大月書店 おおつきしょてん )。
中国 ちゅうごく 側 がわ の証言 しょうげん [ 編集 へんしゅう ]
被害 ひがい 者 しゃ の証言 しょうげん (中国 ちゅうごく 側 がわ )も重要 じゅうよう な情報 じょうほう 源 げん である。しかし、死者 ししゃ が証言 しょうげん を残 のこ すことはなく、生存 せいぞん した者 もの だけが証言 しょうげん を残 のこ すことが可能 かのう である[236] 。こうした証言 しょうげん のうち最 もっと も早 はや いものは、日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう から数 すう ヶ月 かげつ 後 ご に南京 なんきん を脱出 だっしゅつ した一部 いちぶ の人々 ひとびと の証言 しょうげん が中国 ちゅうごく 語 ご 新聞 しんぶん に掲載 けいさい されたものである[236] 。しかし、南京 なんきん で生 い き残 のこ った人々 ひとびと はその後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か で生活 せいかつ することを余儀 よぎ なくされており、彼 かれ らが公然 こうぜん と日本 にっぽん 軍 ぐん の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい について語 かた ることが可能 かのう になったのは事件 じけん から第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終了 しゅうりょう まで8年 ねん 弱 じゃく にわたる時間 じかん 的 てき 懸隔 けんかく を置 お いた後 のち であった[236] 。これらの証言 しょうげん の中 なか でも早期 そうき のものは東京 とうきょう 裁判 さいばん や南京 なんきん 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい に提出 ていしゅつ された。しかし戦争 せんそう 犯罪 はんざい の被害 ひがい 者 しゃ たちが必 かなら ずしも積極 せっきょく 的 てき に証言 しょうげん を行 おこな うことを望 のぞ んだわけではなく、とりわけ強姦 ごうかん の被害 ひがい 者 しゃ とその親族 しんぞく は証言 しょうげん を拒否 きょひ することが多 おお かった[240] 。さらにその後 ご 成立 せいりつ した中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では、1950年代 ねんだい と60年代 ねんだい に生存 せいぞん 者 しゃ たちに面接 めんせつ 調査 ちょうさ が行 おこな われ、1971年 ねん 以降 いこう 、朝日新聞 あさひしんぶん 記者 きしゃ 本多 ほんだ 勝一 かついち による大 だい 規模 きぼ な面接 めんせつ 調査 ちょうさ が行 おこな われて被害 ひがい 者 しゃ の証言 しょうげん が集 あつ められた[240] 。中国 ちゅうごく で本格 ほんかく 的 てき に歴史 れきし 上 じょう の証拠 しょうこ として被害 ひがい 者 しゃ の証言 しょうげん が収集 しゅうしゅう されたのは1980年代 ねんだい 以降 いこう になってからである[240] 。
事件 じけん 当時 とうじ の中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ やそれを統治 とうち する中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう やその関係 かんけい 者 しゃ の南京 なんきん 事件 じけん に係 かか る広報 こうほう については、以下 いか のとおりである。国民党 こくみんとう の新聞 しんぶん では、外国 がいこく 報道 ほうどう の翻訳 ほんやく のみではあるが南京 なんきん 事件 じけん について報 ほう じており、国民党 こくみんとう の新聞 しんぶん 中央日報 ちゅうおうにっぽう 、新 しん 華 はな 日報 にっぽう はアメリカの上海 しゃんはい 新聞 しんぶん Shanghai Evening Post and Mercury(大美 おおみ 晩 ばん 報 ほう ),The China Weekly Review(John W. Powell主幹 しゅかん )の事件 じけん 報道 ほうどう の記事 きじ を翻訳 ほんやく して掲載 けいさい した[241] 。関根 せきね 謙 けん は、中国 ちゅうごく 側 がわ が独自 どくじ 取材 しゅざい の記事 きじ としては南京 なんきん 事件 じけん を報道 ほうどう しなかった理由 りゆう として、当時 とうじ 中国 ちゅうごく 側 がわ の新聞 しんぶん は戦意 せんい 高揚 こうよう のために戦勝 せんしょう 記事 きじ を繰 く り返 かえ しており、南京 なんきん 戦 せん での敗北 はいぼく を報 ほう じたくなかったためと主張 しゅちょう している[242] 。
なお、事件 じけん 当時 とうじ の中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう が1937年 ねん 12月から約 やく 11か月 げつ の間 あいだ に300回 かい の記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこな ったが、国民党 こくみんとう の秘密 ひみつ 文書 ぶんしょ の中 なか には「南京 なんきん 事件 じけん の記者 きしゃ 会見 かいけん があった」という記録 きろく はなく、事件 じけん の存在 そんざい 自体 じたい が疑 うたが わしいと主張 しゅちょう がある[243] が、その背景 はいけい として、南京 なんきん 事件 じけん は事実 じじつ 上 じょう 国民党 こくみんとう 政府 せいふ が全貌 ぜんぼう を知 し りえない日本 にっぽん 軍 ぐん 支配 しはい 下 か で起 お こっており、寧 むし ろ外国 がいこく 人 じん 記者 きしゃ の報道 ほうどう によって直後 ちょくご はその内容 ないよう を知 し るような状態 じょうたい であり、また前述 ぜんじゅつ されているとおり、当時 とうじ 中国 ちゅうごく 側 がわ の新聞 しんぶん は戦勝 せんしょう 記事 きじ を繰 く り返 かえ しており敗北 はいぼく を報 ほう じたくなかったためと推察 すいさつ できる。
欧米 おうべい 人 じん の記事 きじ 等 とう から入 はい った情報 じょうほう もあって、政府 せいふ 主席 しゅせき の蒋介石 しょうかいせき がその声明 せいめい [日本 にっぽん 国民 こくみん に告 つ ぐ」で「日本 にっぽん 軍 ぐん が占領 せんりょう したどの地区 ちく においても掠奪 りゃくだつ 、暴行 ぼうこう 火 ひ 附 つ けを行 くだり つた余勢 よせい で、わが方 ほう の遠 とお くに避難 ひなん 出来 でき なかつた無辜 むこ の人民 じんみん および負傷 ふしょう 兵士 へいし に対 たい しても大 だい 規模 きぼ な屠殺 とさつ が行 くだり はれた。また数 すう 千 せん 人 にん を広場 ひろば に縛 ばく してこれに機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を加 か へ、あるひは数 すう 十 じゅう 人 にん を一室 いっしつ に集 あつ めて油 あぶら を注 そそ ぎ火炙 ひあぶ りに処 しょ し、甚 はなはだ しきに至 いたり つては殺人 さつじん の多少 たしょう を以 もっ て競争 きょうそう し、互ひに冗談 じょうだん の種 たね としてゐる」と明 あき らかに南京 なんきん 事件 じけん に触 ふ れており[244] 、蒋の日記 にっき でも「『倭 やまと 寇(日本 にっぽん 軍 ぐん )は南京 なんきん であくなき惨殺 ざんさつ と姦淫 かんいん をくり広 ひろ げている。野獣 やじゅう にも似 に たこの暴行 ぼうこう は、もとより彼 かれ ら自身 じしん の滅亡 めつぼう を早 はや めるものである。それにしても同胞 どうほう の痛苦 つうく はその極 きょく に達 たっ しているのだ』(一 いち 九 きゅう 三 さん 八 はち 年 ねん 一 いち 月 がつ 二 に 十 じゅう 二 に 日 にち の日記 にっき )」と述 の べている[245] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ の証言 しょうげん [ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん 戦 せん 直後 ちょくご から、日本 にっぽん 外務省 がいむしょう や東京 とうきょう の陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう が南京 なんきん 事件 じけん を把握 はあく していた[246] ことは知 し られているが、他 ほか にも、軍 ぐん 中央 ちゅうおう が、南京 なんきん での日本 にっぽん 軍 ぐん の虐殺 ぎゃくさつ ・不法 ふほう 行為 こうい の問題 もんだい を知 し っていたことが、当時 とうじ の高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん の日記 にっき 等 とう の記録 きろく ・証言 しょうげん (戦後 せんご に一般 いっぱん に公開 こうかい 。例 れい :「真崎 まさき 甚三郎 さぶろう 日記 にっき 」、河辺 かわべ 虎 とら 四 よん 郎 ろう 「市ヶ谷 いちがや 台 だい から市ヶ谷 いちがや 台 だい へ最後 さいご の参謀 さんぼう 次長 じちょう の回想 かいそう 録 ろく 」、「岡村 おかむら 寧 やすし 次 じ 大将 たいしょう 資料 しりょう 」「阿南 あなみ 惟幾 これちか の南京 なんきん 視察 しさつ メモ」などによって、明 あき らかになっている[247] 。
一方 いっぽう で、戦時 せんじ 中 ちゅう は、日本 にっぽん の戦時 せんじ 検閲 けんえつ 制度 せいど によって南京 なんきん における日本 にっぽん 軍 ぐん の犯罪 はんざい についての情報 じょうほう が統制 とうせい されており[248] 、多 おお くの軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ の証言 しょうげん ・記録 きろく は、1950年代 ねんだい 以降 いこう になってから公表 こうひょう された[248] 。また、旧 きゅう 日本 にっぽん 兵 へい の日記 にっき や日誌 にっし などの加害 かがい 者 しゃ の証言 しょうげん も得 え られており、旧 きゅう 軍 ぐん の関係 かんけい 者 しゃ による「南京 なんきん 戦史 せんし 資料集 しりょうしゅう 」(偕行社 かいこうしゃ )にもまとめられており、殺害 さつがい ・不法 ふほう 行為 こうい も掲載 けいさい されており(例 れい :山田 やまだ 栴二『陣中 じんちゅう 日記 にっき 』)、その他 た 、旧 きゅう 日本 にっぽん 兵 へい の証言 しょうげん が、笠原 かさはら ・秦 はた の著作 ちょさく [249] や戦後 せんご まとめられた部隊 ぶたい の記録 きろく [250] 等 ひとし に掲載 けいさい されており、その中 なか に南京 なんきん 事件 じけん (途中 とちゅう の農村 のうそん 部 ぶ も含 ふく めて)虐殺 ぎゃくさつ や不法 ふほう 行為 こうい がその規模 きぼ の大小 だいしょう に関 かか わらず記述 きじゅつ されている。このため日本 にっぽん 軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ による証言 しょうげん 文書 ぶんしょ は「歴史 れきし 上 じょう の証拠 しょうこ という点 てん から言 い えば、それは、戦後 せんご の戦犯 せんぱん 裁判 さいばん が始 はじ まって以来 いらい 最 もっと も重要 じゅうよう な新 あたら しい状況 じょうきょう である[248] 」。
また、当時 とうじ の南京 なんきん 在住 ざいじゅう の新聞 しんぶん 記者 きしゃ (守山 もりやま 義雄 よしお 記者 きしゃ 、今井 いまい 正 ただし 剛 つよし 記者 きしゃ 、中村 なかむら 正吾 しょうご 記者 きしゃ 、足立 あだち 和雄 かずお 記者 きしゃ )は、戦後 せんご 、明確 めいかく に虐殺 ぎゃくさつ ・違法 いほう 殺人 さつじん を証言 しょうげん しており、特 とく に守山 もりやま 義雄 よしお 記者 きしゃ は語学 ごがく を生 い かして在住 ざいじゅう 外国 がいこく 人 じん との取材 しゅざい ・交流 こうりゅう を行 おこな っていたことがジョン・ラーベ の日記 にっき にも残 のこ っている[251] 。一方 いっぽう で、阿 おもね 羅 ら 健一 けんいち は、当時 とうじ 、上海 しゃんはい 支局 しきょく に居 い た二 に 名 めい の記者 きしゃ (山本 やまもと ・橋本 はしもと )が南京 なんきん 出張 しゅっちょう した経験 けいけん を語 かた ったことをもとに、「南京 なんきん 事件 じけん はなかった」と主張 しゅちょう する(その他 た にも阿 おもね 羅 ら は、日本 にっぽん 兵 へい の南京 なんきん では虐殺 ぎゃくさつ はなかった、見 み なかったという証言 しょうげん を集 あつ めている)[252] 。
遺体 いたい 処理 しょり 記録 きろく [ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん での、軍人 ぐんじん ・民間 みんかん 人 じん の遺体 いたい のうち、長江 ちょうこう に流 なが された例 れい が数多 かずおお く記録 きろく されているものの、城内 きうち ・外 そと にも遺棄 いき 遺体 いたい が数多 かずおお く残 のこ されていたので、中国 ちゅうごく 側 がわ の慈善 じぜん 団体 だんたい である紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい と崇 たかし 善 ぜん 堂 どう とが、多 おお くの遺体 いたい 処理 しょり を行 おこな った記録 きろく が残 のこ っている。両 りょう 団体 だんたい が4月 がつ まで行 い った遺体 いたい の埋葬 まいそう の記録 きろく は、以下 いか のとおりであり、南京 なんきん 城内 じょうのうち での作業 さぎょう 分担 ぶんたん は、紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい が安全 あんぜん 区 く のある城内 きうち 西側 にしがわ を、そして崇 たかし 善 ぜん 堂 どう が城内 きうち 東側 ひがしがわ を担当 たんとう した[253] 。
紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい が、城内 きうち (主 おも に安全 あんぜん 区 く を含 ふく む城内 きうち 西側 にしがわ )埋葬 まいそう 1,795(当時 とうじ の資料 しりょう では1,793)、城 しろ 外 がい 埋葬 まいそう 41,330。
崇 たかし 善 ぜん 堂 どう が、城内 きうち (主 おも に城内 きうち 東側 ひがしがわ )埋葬 まいそう 7,549、城 しろ 外 がい 埋葬 まいそう 104,718。ただし、3月 がつ まで城内 じょうない で、4月 がつ より城 しろ 外 がい での埋葬 まいそう 。
なお、死者 ししゃ は城内 きうち 外 がい ともに9割 わり 以上 いじょう が成人 せいじん 男性 だんせい であり、違法 いほう 殺人 さつじん か戦死 せんし かは別 べつ として中国 ちゅうごく 軍人 ぐんじん が多数 たすう であり、ミニー・ヴォートリン 日記 にっき では、紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい の処理 しょり 遺体 いたい の3分 ぶん の1は民間 みんかん 人 じん の死体 したい であった報告 ほうこく があり(4月 がつ 2日 にち )、紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい の処理 しょり した城内 きうち 1,793体 たい の遺体 いたい の80%は民間 みんかん 人 じん (4月 がつ 15日 にち )との伝聞 でんぶん 情報 じょうほう を記述 きじゅつ した[254] 。
埋葬 まいそう 数 すう に関 かん して、崇 たかし 善 ぜん 堂 どう は、その活動 かつどう に疑問 ぎもん があり、埋葬 まいそう 数 すう の信憑 しんぴょう 性 せい が低 ひく いとみなし、南京 なんきん 事件 じけん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を過大 かだい にするための虚構 きょこう の活動 かつどう と見 み なす意見 いけん があり、それについての反論 はんろん も存在 そんざい する[255] [256] [257] [258] 。
また、紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい の記録 きろく には、わずか1日 にち で6,000体 たい の城 しろ 外 がい の埋葬 まいそう という記録 きろく があり、その記録 きろく を虚構 きょこう という説 せつ があるが、洞 ほら 富雄 とみお が中国 ちゅうごく にある原本 げんぽん を調 しら べたところ、その時 とき 、長江 ちょうこう 沿 ぞ いに遺棄 いき された大量 たいりょう の遺体 いたい をそのまま長江 ちょうこう に(埋葬 まいそう せず)流 なが したととされていて、説明 せつめい がつくと反論 はんろん する[259] 。
大 おお きな史料 しりょう 的 てき 制約 せいやく によって、南京 なんきん 事件 じけん において、あるいは日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 占領 せんりょう に関連 かんれん して発生 はっせい した虐殺 ぎゃくさつ の犠牲 ぎせい 者 しゃ の正確 せいかく な数 かず は今日 きょう では完全 かんぜん に特定 とくてい することは不可能 ふかのう になっている[260] [261] 。日本 にっぽん の研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では数 すう 万 まん 人 にん から10数 すう 万 まん 人 にん とする者 もの が多 おお い[5] 。日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し 学者 がくしゃ 秦 はた 郁 いく 彦 は38,000人 にん から42,000人 にん [注釈 ちゅうしゃく 22] 、中国 ちゅうごく 近 きん 現代 げんだい 史 し 学者 がくしゃ の笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ は10数 すう 万 まん 以上 いじょう 、20万 まん 人 にん 近 ちか いかあるいはそれ以上 いじょう [263] 、という推定 すいてい を出 だ している。以下 いか に詳細 しょうさい で示 しめ す。
11万 まん 9000人 にん 以上 いじょう - 笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ が、南京 なんきん 郊外 こうがい を含 ふく む説 せつ としては、中国 ちゅうごく 兵 へい 犠牲 ぎせい 8万 まん 、民間 みんかん 人 じん 犠牲 ぎせい 3万 まん 9千 せん (南京 なんきん 城内 きうち :1万 まん 2千 せん 人 にん 、農村 のうそん 部 ぶ :2万 まん 7千 せん 人 にん )、計 けい 11万 まん 9千 せん 人 にん 以上 いじょう という[264] 。
4万 まん 人 にん - 秦 はた 郁 いく 彦 は、中国 ちゅうごく 兵 へい 犠牲 ぎせい 3万 まん 、一般人 いっぱんじん 犠牲 ぎせい 者 しゃ 1万 まん 人 にん (南京 なんきん 城市 じょうし のみ)で、4万 まん 人 にん を上限 じょうげん とした[265] [注釈 ちゅうしゃく 23] 。ほか久野 くの 輝夫 てるお は37,820人 にん とする[267] 。中国 ちゅうごく 文献 ぶんけん では、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 約 やく 11-12万 まん 人 にん のうち約 やく 4-6万 まん 人 にん が南京 なんきん で戦死 せんし と捕虜 ほりょ (行方 ゆくえ 不明 ふめい を含 ふく む)とされる[268] 。
1〜2万 まん - 板倉 いたくら 由明 よしあき は、中国 ちゅうごく 兵 へい の犠牲 ぎせい 8千 せん 人 にん と一般人 いっぱんじん の犠牲 ぎせい 者 しゃ 5千 せん 人 にん (南京 なんきん 城市 じょうし と周辺 しゅうへん 農村 のうそん 部 ぶ の一部 いちぶ (江 こう 寧 やすし 県 けん のみ))を合計 ごうけい し、1万 まん -2万 まん 人 にん とする[269] 。当時 とうじ の戦闘 せんとう 詳報 しょうほう などの公式 こうしき 記録 きろく には約 やく 1万 まん 前後 ぜんこう の敗残 はいざん 兵 へい (捕虜 ほりょ )の殺害 さつがい 記録 きろく もある[270] 。
中国 ちゅうごく では30万 まん 人 にん という説 せつ が主流 しゅりゅう であり、南京 なんきん の南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ 記念 きねん 館 かん の正面 しょうめん 入 い り口 くち にもこの数字 すうじ がかかれている[5] 。
南京 なんきん 事件 じけん を扱 あつか った作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん への追撃 ついげき に向 む かう部隊 ぶたい が、民間 みんかん 人 じん などを虐殺 ぎゃくさつ する事例 じれい などが書 か かれており、当時 とうじ 新聞紙 しんぶんし 法 ほう に問 と われ発禁 はっきん 処分 しょぶん 、石川 いしかわ も禁固 きんこ 4ヶ月 かげつ 執行 しっこう 猶予 ゆうよ 3年 ねん の判決 はんけつ を受 う ける。
戦時 せんじ 中 ちゅう の記録 きろく 映像 えいぞう による映画 えいが [ 編集 へんしゅう ]
『南京 なんきん 』(日本 にっぽん 、1938年 ねん ) - 南京 なんきん 陥落 かんらく 翌日 よくじつ 昼 ひる から翌年 よくねん 1月 がつ 上旬 じょうじゅん までの間 あいだ に南京 なんきん 城 じょう 内外 ないがい を撮影 さつえい したが、南京 なんきん 事件 じけん の場面 ばめん はない。撮影 さつえい 者 しゃ による、見 み たもの全部 ぜんぶ を撮 と ったわけではなく撮 と った中 なか にも切 き られたものがあるとの証言 しょうげん がある。
『ザ・バトル・オブ・チャイナ 』(米国 べいこく 、1944年 ねん ) - 南京 なんきん 事件 じけん が映 うつ されているが米 べい 中 ちゅう のプロパガンダによる誇張 こちょう 説 せつ がある。
『中国 ちゅうごく 之 の 怒 いか 吼 ほえ 』(中華民国 ちゅうかみんこく 、1945年 ねん ) - 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集 へんしゅう したもの。
中華 ちゅうか 圏 けん 映画 えいが [ 編集 へんしゅう ]
^ 東京 とうきょう 裁判 さいばん 判決 はんけつ では20万 まん 人 にん 以上 いじょう とされている[6] 。
^ 2000年 ねん 時点 じてん
^ ジョージ・ワシントン大学 だいがく 教授 きょうじゅ [注釈 ちゅうしゃく 2] の歴史 れきし 学者 がくしゃ 楊大慶 たいけい (Daqing Yang)は名称 めいしょう を巡 めぐ る議論 ぎろん について次 つぎ のようにまとめている。「一 いち 九 きゅう 三 さん 七 なな 年 ねん の議論 ぎろん をどう呼称 こしょう するかについて合意 ごうい がないということは、言語 げんご 上 じょう の問題 もんだい の一 ひと つの反映 はんえい である。初 はじ めは中国 ちゅうごく で使 つか われ、その後 ご 、日本 にっぽん 、その他 た の国 くに でも使 つか われている『南京 なんきん 大 だい 屠 ほふ (虐 しいたげ )殺 ころせ 』という語 かたり は、それが南京 なんきん での事件 じけん の内容 ないよう をどのように限定 げんてい しているかを示 しめ している。大 だい 屠 ほふ (虐 しいたげ )殺 ころせ という語 かたり は、強姦 ごうかん や略奪 りゃくだつ や放火 ほうか を軽 かる く見 み ている語 かたり ではないだろうか。それはたんに虐殺 ぎゃくさつ だったのだろうか、それとも大 だい 虐殺 ぎゃくさつ だったのだろうか。他方 たほう 、日本 にっぽん では、さまざまな文筆 ぶんぴつ 家 か によって『南京 なんきん 事件 じけん 』という語 かたり が使 つか われてきたが、しかし、他 た の国 くに ぐにではそれは、一 いち 九 きゅう 三 さん 七 なな 年 ねん の恐怖 きょうふ に、ありふれた事件 じけん であるかのような響 ひび きを与 あた えるものだとして多分 たぶん に批判 ひはん をまねいている[7] 」
^ 当時 とうじ の新聞 しんぶん 記事 きじ をまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
^ 引用 いんよう は笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 つかさ 『南京 なんきん 事件 じけん 』72頁 ぺーじ より。ほとんど同文 どうぶん の評 ひょう は吉田 よしだ 裕 ひろし 『もうひとつの日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 史 し 、天皇 てんのう の軍隊 ぐんたい と南京 なんきん 事件 じけん 』にも見 み られる。以下 いか は吉田 よしだ の評 ひょう の引用 いんよう である。「上海 しゃんはい 攻略 こうりゃく 後 ご 、南京 なんきん に向 む かう追撃 ついげき 戦 せん の全 ぜん 過程 かてい は、すでに上海 しゃんはい 戦 せん の段階 だんかい で顕著 けんちょ になっていたさまざまな不法 ふほう 行為 こうい 、残虐 ざんぎゃく 行為 こうい がより大 だい 規模 きぼ な形 かたち で拡大 かくだい される過程 かてい であり、南京 なんきん 事件 じけん の直接 ちょくせつ の前史 ぜんし をなす過程 かてい でもあった[53] 。」
^ 原文 げんぶん のカタカナ表記 ひょうき をひらがなに改 あらた めた。
^ このような行軍 こうぐん 中 ちゅう の虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい には様々 さまざま な証言 しょうげん がある。歩兵 ほへい 第 だい 20連隊 れんたい の上等 じょうとう 兵 へい 牧原 まきはら 信夫 しのぶ の陣中 じんちゅう 日記 にっき は以下 いか のような記述 きじゅつ を残 のこ す。「(十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 二 に 日 にち )道路 どうろ 上 じょう には支 ささえ 那 な 兵 へい の死体 したい 、民衆 みんしゅう および婦人 ふじん の死体 したい が見 み ずらい様子 ようす でのびていたのも可 か 愛想 あいそ である。橋 はし の付近 ふきん には五 ご 、六 ろく 個 こ の支 ささえ 那 な 軍 ぐん の死体 したい がやかれたり、あるいは首 くび をはねられて倒 たお れている。話 はなし では砲兵 ほうへい 隊 たい の将校 しょうこう がためし切 ぎ りをやったそうである。(十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 六 ろく 日 にち )午前 ごぜん (原文 げんぶん 注 ちゅう :午後 ごご の誤 あやま り)四 よん 時 じ 、第 だい 二 に 大隊 だいたい は喚声 かんせい をあげ勇 いさ ましく敵陣 てきじん 地 ち に突撃 とつげき し、敵 てき 第 だい 一線 いっせん を奪取 だっしゅ 。住民 じゅうみん は家 いえ をやかれ、逃 に げるに道 みち なく、失神 しっしん 状態 じょうたい で右往左往 うおうさおう しているのもまったく可 か 愛想 あいそ だがしかたがない。(十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 七 なな 日 にち )支 ささえ 那 な 人 じん のメリケン粉 めりけんこ を焼 や いて食 く う。休憩 きゅうけい 中 ちゅう に家 いえ に隠 かく れていた敗残 はいざん 兵 へい をなぐり殺 ころ す。支 ささえ 那 な 人 じん 二 に 名 めい を連 つ れて十 じゅう 一 いち 時 じ 、出発 しゅっぱつ す。...鉄道 てつどう 路線 ろせん 上 じょう を前進 ぜんしん す。休憩 きゅうけい 中 ちゅう に五 ご 、六 ろく 軒 けん の藁 わら ぶきの家 いえ を焼 や いた。炎 ほのお は天 てん 高 たか くもえあがり、気持 きも ちがせいせいした。(十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 八 はち 日 にち )午前 ごぜん 十 じゅう 一 いち 時 じ 、大隊 だいたい 長 ちょう の命令 めいれい により、下野 げや 班長 はんちょう 以下 いか 六 ろく 名 めい は小銃 しょうじゅう を持 も ち、残敵 ざんてき の掃討 そうとう に行 い く。その前 まえ にある橋梁 きょうりょう に来 き たとき、橋本 はしもと 与一 よいち は船 ふね で逃 に げる五 ご 、六 ろく 名 めい を発見 はっけん 、照準 しょうじゅん をつけ一 いち 名 めい 射殺 しゃさつ 。掃討 そうとう はすでにこの時 とき から始 はじ まったのである。自分 じぶん たちが前進 ぜんしん するにつれて支 ささえ 那 な 人 じん の若 わか い者 もの が先 さき を競 きそ って逃 に げて行 い く。何 なに のために逃 に げるのかわからないが、逃 に げる者 もの は怪 あや しいと見 み て射殺 しゃさつ する。部落 ぶらく の十 じゅう 二 に 、三 さん 家 いえ に付火 つけび すると、たちまち火 ひ は全 ぜん 村 むら を包 つつ み、全 まった く火 ひ の海 うみ である。老人 ろうじん が二 に 、三 さん 人 にん いて可 か 愛想 あいそ だったが、命令 めいれい だから仕方 しかた がない。次 つぎ 、次 つぎ と三 さん 部落 ぶらく を全焼 ぜんしょう さす。そのうえ五 ご 、六 ろく 名 めい を射殺 しゃさつ する。意気揚々 いきようよう とあがる。(十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 九 きゅう 日 にち )武 たけ 進 すすむ (常 つね 州 しゅう 市 し に属 ぞく する)は抗日 こうにち 、排日 はいにち の根拠地 こんきょち であるため全 ぜん 町 まち 掃討 そうとう し、老若男女 ろうにゃくなんにょ をとわず全員 ぜんいん 銃殺 じゅうさつ す。敵 てき は無 む 錫 すず の線 せん で破 やぶ れてより、全 まった く浮足立 うきあしだ って戦意 せんい がないのか、あるいは後方 こうほう の強固 きょうこ な陣地 じんち にたてこもるのかわからないが、全 まった く見 み えない[65] 。」
^ 秦 はた 郁 いく 彦が引用 いんよう する日本 にっぽん の外交 がいこう 官 かん 日高 ひだか 信六郎 しんろくろう の東京 とうきょう 裁判 さいばん での証言 しょうげん によれば12月17日 にち 時点 じてん で憲兵 けんぺい 14人 にん 、数日 すうじつ 中 ちゅう に補助 ほじょ 憲兵 けんぺい 40人 にん が得 え られるはずという状況 じょうきょう であった。秦 はた 郁 いく 彦は上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 十 じゅう 軍 ぐん を合 あ わせて、南京 なんきん 占領 せんりょう 直後 ちょくご に城内 じょうない で活動 かつどう していた日本 にっぽん 軍 ぐん の正規 せいき の憲兵 けんぺい は30人 にん を越 こ えなかったと推定 すいてい している[73] 。
^ 「ラーべの感謝 かんしゃ 状 じょう 」とは、1937年 ねん 12月14日 にち に南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい のジョン・ラーベ より日本 にっぽん 軍 ぐん に提出 ていしゅつ された文書 ぶんしょ 「南京 なんきん 安全 あんぜん 区 く トウ案 あん 」第 だい 1号 ごう 文書 ぶんしょ (Z1)のことである[77] 。この文書 ぶんしょ の冒頭 ぼうとう に「貴 き 軍 ぐん の砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい が安全 あんぜん 区 く に攻撃 こうげき を加 くわ えなかったことにたいして感謝 かんしゃ 申 もう し上 あ げるとともに、安全 あんぜん 区内 くない に居住 きょじゅう する中国人 ちゅうごくじん 一般 いっぱん 市民 しみん の保護 ほご につき今後 こんご の計画 けいかく をたてるために貴下 きか と接触 せっしょく をもちたいのであります。」とある。
^ 『南京 なんきん 戦史 せんし 』によれば、「大雑把 おおざっぱ な目安 めやす にすぎない」という。
^ 一 いち 九 きゅう 三 さん 八 はち 年 ねん 一 いち 月 がつ 九 きゅう 日 にち 中国 ちゅうごく 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ の逃走 とうそう した南京 なんきん で日本 にっぽん 軍 ぐん 虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい F・ティルマン・ダーディン上海 しゃんはい 十 じゅう 二 に 月 がつ 二 に 十 じゅう 二 に 日 にち 発 はつ
(中略 ちゅうりゃく )アメリカ伝道 でんどう 団 だん の大学 だいがく 病院 びょういん は戦闘 せんとう 中 ちゅう も開業 かいぎょう し、一般 いっぱん 市民 しみん の負傷 ふしょう 者 しゃ のために病院 びょういん が利用 りよう できるよう努力 どりょく がなされていた。しかし、若干 じゃっかん の兵隊 へいたい も入院 にゅういん していた。二人 ふたり のアメリカ人 じん 医師 いし (フランク・ウィルソン(訳注 やくちゅう 正 まさ しくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカ人 じん 看護 かんご 婦 ふ 二 に 人 にん (グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかの数 かず の中国人 ちゅうごくじん の助 たす けをえて、昼夜 ちゅうや を分 わ かたず、二 に 〇〇人 にん 近 ちか い患者 かんじゃ の世話 せわ をした。日本 にっぽん 軍 ぐん が市 し を占領 せんりょう するや、戦傷 せんしょう 者 しゃ 救済 きゅうさい 委員 いいん 会 かい は国際 こくさい 赤十字 せきじゅうじ の支部 しぶ として組織 そしき され、外交 がいこう 部 ぶ の建物 たてもの 内 ない にあった中国 ちゅうごく 陸軍 りくぐん の主要 しゅよう な病院 びょういん を引 ひ き継 つ いだ。配備 はいび 可能 かのう な輸送 ゆそう 手段 しゅだん は、町 まち の全域 ぜんいき にくりだして負傷 ふしょう 兵 へい を運 はこ び込 こ んだ。市 し にまだ残 のこ っていた医師 いし や看護 かんご 婦 ふ を集 あつ め、この病院 びょういん で仕事 しごと についてもらった。日本 にっぽん 軍 ぐん は当初 とうしょ 、この病院 びょういん を自由 じゆう に活動 かつどう させてくれたが、十二月 じゅうにがつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 火曜日 かようび の朝 あさ 、この場所 ばしょ へ外国 がいこく 人 じん が立 た ち入 い ることを禁止 きんし し、中 なか にいる五 ご 〇〇人 にん の中国 ちゅうごく 兵 へい の運命 うんめい に関与 かんよ させないようにした。(以下 いか 略 りゃく )
(「南京 なんきん 事件 じけん 資料集 しりょうしゅう 1 アメリカ関係 かんけい 資料 しりょう 編 へん 」所収 しょしゅう )
(以下 いか 英文 えいぶん )The American mission University Hospital operated throughout the battle, and an effort was made to keep it reserved for civilian casualties. However, a few soldiers were admitted. Two American doctors, Frank Wilson and C. S. Trimmer, and two American nurses, Grace Bauer and Iva Hynds, labored day and night with only a few Chinese helpers to care for the nearly 200 patients in their charge.
When the Japanese had occupied the city, the war wounded relief committee within a few minutes organized themselves as a chapter of the International Red Cross and took over the main hospital of the Chinese Army in the Foreign Ministry building. What transport could be marshaled was sent throughout the city to bring in wounded soldiers, and Chinese doctors and nurses still in the city were rallied to work at the institution.
The Japanese at first permitted free function of this hospital, but on Wednesday morning, Dec. 15, they barred foreign access to the place and would make no commitments as to the fate of the 500 Chinese soldiers within.
和文 わぶん 「南京 なんきん 事件 じけん 資料集 しりょうしゅう 1 アメリカ関係 かんけい 資料 しりょう 編 へん 」所収 しょしゅう 英文 えいぶん New York Times Jan 9 1938)
^ 当時 とうじ の新聞 しんぶん 記事 きじ をまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
^ 笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 し によれば、当時 とうじ の駐 ちゅう 日 にち アメリカ大使 たいし ジョセフ・グルー は日記 にっき においてパナイ号 ごう 事件 じけん によって日米 にちべい の国交 こっこう 断絶 だんぜつ を覚悟 かくご したと記 しる している。日米 にちべい 開戦 かいせん にも繋 つな がりかねないこの事件 じけん を巡 めぐ る交渉 こうしょう の方 ほう に注目 ちゅうもく が集中 しゅうちゅう したのは自然 しぜん の成 な り行 ゆ きであった[138] 。また、パナイ号 ごう はジャーナリストの一時 いちじ 待機 たいき 所 しょ になっており、日本 にっぽん 軍 ぐん の南京 なんきん 占領 せんりょう 直前 ちょくぜん までに行 おこな われた取材 しゅざい 活動 かつどう の資料 しりょう などはパナイ号 ごう と共 とも に失 うしな われた[139] 。パナイ号 ごう 事件 じけん を研究 けんきゅう するアメリカの研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では、この事件 じけん は真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき に至 いた る日米 にちべい 開戦 かいせん への転機 てんき と位置付 いちづ けられている[140] 。
^ 国際 こくさい 連盟 れんめい の理事 りじ 会 かい の第 だい 100回 かい 議事 ぎじ 録 ろく は、国際 こくさい 連盟 れんめい が刊行 かんこう した公開 こうかい 資料 しりょう であり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」の中 なか に決議 けつぎ 文 ぶん とともに中国 ちゅうごく 側 がわ 演説 えんぜつ や各国 かっこく の議事 ぎじ 内容 ないよう が詳細 しょうさい に掲載 けいさい されていた。「ドイツ外交 がいこう 官 かん の見 み た南京 なんきん 事件 じけん 」(大月書店 おおつきしょてん )でも2001年 ねん にも掲載 けいさい 。
^ 1937年 ねん 12月2日 にち に松井 まつい 石 いし 根 ね 大将 たいしょう から交代 こうたい 。
^ 1937年 ねん 12月28日 にち 、稲葉 いなば 四郎 しろう 中将 ちゅうじょう に交代 こうたい 。
^ 海軍 かいぐん
^ 秦 はた 郁 いく 彦が引用 いんよう する日本 にっぽん の外交 がいこう 官 かん 日高 ひだか 信六郎 しんろくろう の東京 とうきょう 裁判 さいばん での証言 しょうげん によれば12月17日 にち 時点 じてん で憲兵 けんぺい 14人 にん 、数日 すうじつ 中 ちゅう に補助 ほじょ 憲兵 けんぺい 40人 にん が得 え られるはずという状況 じょうきょう であった。秦 はた 郁 いく 彦は上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん と第 だい 十 じゅう 軍 ぐん を合 あ わせて、南京 なんきん 占領 せんりょう 直後 ちょくご に城内 じょうない で活動 かつどう していた日本 にっぽん 軍 ぐん の正規 せいき の憲兵 けんぺい は30人 にん を越 こ えなかったと推定 すいてい している[73] 。
^ これについて秦 はた 郁 いく 彦は「松井 まつい 大将 たいしょう は元来 がんらい が南京 なんきん 攻略 こうりゃく 論 ろん 者 しゃ だったし、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん をひきいる立場 たちば から第 だい 十 じゅう 軍 ぐん とのライバル意識 いしき を刺激 しげき されたのかもしれない」と評 ひょう している[197] 。また、笠原 かさはら 十 じゅう 九 きゅう 司 し は現地 げんち 入 い りしていた武藤 むとう が南京 なんきん 進撃 しんげき を成功 せいこう させるために、第 だい 10軍 ぐん (第 だい 6師団 しだん )の急進 きゅうしん 撃 げき と戦果 せんか を称 たた える一方 いっぽう で上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん (第 だい 16師団 しだん )の戦果 せんか をこき下 お ろすような電報 でんぽう を第 だい 16師団 しだん 宛 あ てに送 おく り、第 だい 10軍 ぐん と上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん の南京 なんきん 一番乗 いちばんの り競争 きょうそう を煽 あお ったことを指摘 してき している[198]
^ 東京 とうきょう 裁判 さいばん のときのジョン・マギー の証言 しょうげん は、虐殺 ぎゃくさつ の事実 じじつ を伝 つた えたが、多 おお くは他 た の証言 しょうげん の伝聞 でんぶん であり、直接 ちょくせつ 見 み たのは皆無 かいむ に等 ひと しいとも述 の べた。ただし、そのマギーの証言 しょうげん に対 たい して東京 とうきょう 裁判 さいばん の被告人 ひこくにん の弁護人 べんごにん のブルックスが「尋問 じんもん 技術 ぎじゅつ を駆使 くし してもマギーの証言 しょうげん の一貫 いっかん 性 せい と真実 しんじつ 性 せい を崩 くず すことはできなかった。そのことはブルックス自身 じしん も法廷 ほうてい で実感 じっかん し、またウェッブ裁判 さいばん 長 ちょう にも次第 しだい に明白 めいはく になっていった。(中略 ちゅうりゃく )ブルックスはあらためて「この証人 しょうにん は公平 こうへい を務 つと めていると信 しん じます」と答 こた え、ニ、三 さん 追加 ついか の質問 しつもん をしたあと裁判 さいばん 長 ちょう の勧告 かんこく に従 したが い反対 はんたい 尋問 じんもん を終了 しゅうりょう したのだった。」[239]
^ 歴史 れきし 学者 がくしゃ 楊大慶 たいけい の発言 はつげん 「第三者 だいさんしゃ の観察 かんさつ 者 しゃ としてこれらの人 ひと たちは、日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし 、場合 ばあい によっては中国 ちゅうごく 軍 ぐん 兵士 へいし が加 くわ えた残虐 ざんぎゃく 行為 こうい や損害 そんがい について説得 せっとく 力 りょく ある情報 じょうほう を提供 ていきょう した。しかし、この種類 しゅるい の証拠 しょうこ には限界 げんかい もある。(中略 ちゅうりゃく )残留 ざんりゅう した欧米 おうべい 人 じん 二 に 十 じゅう 四 よん 、五 ご 人 にん -大 だい 部分 ぶぶん が安全 あんぜん 区内 くない に残 のこ っていた-は、何 なん 十 じゅう 万 まん という住民 じゅうみん がいるより広 ひろ い地域 ちいき でその後 ご 実際 じっさい に起 お こったことのほんの一部分 いちぶぶん を目撃 もくげき したにすぎない」
^ 兵士 へいし 30,000人 にん 、一般 いっぱん 市民 しみん 8,000人 にん から12,000人 にん の合計 ごうけい 。これはルイス・S・C・スマイス による民間 みんかん 慈善 じぜん 団体 だんたい の紅 べに 卍 まんじ 字 じ 会 かい および崇 たかし 善 ぜん 堂 どう の死体 したい 埋葬 まいそう 記録 きろく の調査 ちょうさ で得 え られた数字 すうじ を参考 さんこう に調整 ちょうせい したものである[262] 。
^ 秦 はた は南京 なんきん の中国 ちゅうごく 軍 ぐん の兵力 へいりょく 10万 まん 、5万 まん が戦死 せんし 、4万 まん が捕虜 ほりょ 、3万 まん が殺害 さつがい (生存 せいぞん 捕虜 ほりょ は1万 まん )と推定 すいてい 。台湾 たいわん 公式 こうしき 戦史 せんし 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう 飯沼 いいぬま 守 まもる 少将 しょうしょう 日記 にっき 、上海 しゃんはい 派遣 はけん 軍 ぐん 郵便 ゆうびん 長 ちょう 佐々木 ささき 元 もと 勝 かち の12月15日 にち 日記 にっき の「俘虜 ふりょ はおよそ四 よん 万 まん 二 に 千 せん と私 わたし は聞 き かされている」に符合 ふごう [266] 。
^ 笠原 かさはら (1997) 、214-215頁 ぺーじ
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^ 笠原 かさはら (1997) 194_215頁 ぺーじ
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^ 秦 はた (2007) 、80頁 ぺーじ
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^ 吉田 よしだ (1985) 、81頁 ぺーじ より孫引 まごび き引用 いんよう 。旧 きゅう 仮名遣 かなづか いを現代 げんだい 式 しき に改 あらた めた。
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^ 笠原 かさはら (1997) 、88頁 ぺーじ より孫引 まごび き引用 いんよう (一部 いちぶ 抜粋 ばっすい )
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^ 笠原 かさはら (1997) 、153-154頁 ぺーじ および秦 はた (2007) 、116頁 ぺーじ 引用 いんよう より孫引 まごび き。原文 げんぶん は旧 きゅう 仮名遣 かなづか いであるが、笠原 かさはら 引用 いんよう では現代 げんだい 文 ぶん に直 なお されている。
^ 秦 はた (2007) 、116頁 ぺーじ
^ 笠原 かさはら (1997) 、154頁 ぺーじ
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^ 吉田 よしだ (1985) 、148頁 ぺーじ
^ 吉田 よしだ (1985) 、148頁 ぺーじ の引用 いんよう より孫引 まごび き。引用 いんよう 元 もと は旧 きゅう 字 じ 旧 きゅう 仮名遣 かなづか いカタカナ表記 ひょうき 。いずれも現代 げんだい 文 ぶん に改 あらた めた。強調 きょうちょう は原文 げんぶん ママ、ただし吉田 よしだ による強調 きょうちょう は太字 ふとじ ではなく傍点 ぼうてん 。
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^ 東 ひがし 網 もう 「国内 こくない 首部 しゅぶ 南京 なんきん 大 だい 屠 ほふ 杀漫画 が 《南京 なんきん 1937》出版 しゅっぱん 」2014年 ねん 11月 がつ 10日 とおか (一 いち ) 17:50.重慶 たーちん 日報 にっぽう 「国内 こくない 首部 しゅぶ 讲述南京 なんきん 大 だい 屠 ほふ 杀的漫画 まんが 书《南京 なんきん 1937》」2014年 ねん 11月 がつ 10日 とおか
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