南京なんきん事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
はた淮河のほとりで死体したいとともに写真しゃしんられた日本にっぽんへい

南京なんきん事件じけん(ナンキンじけん)は、にちちゅう戦争せんそうなかの1937ねん12月に日本にっぽんぐん南京なんきんせんにおいて、つまり中国ちゅうごく南京なんきん占領せんりょうしたのち(もしくはその前後ぜんご)、すうげつにわたって多数たすう一般いっぱん市民しみん捕虜ほりょ敗残はいざんへい便衣べんいへい虐殺ぎゃくさつした事件じけんである[1][2]南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん[2]南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ[3]ともばれる。事件じけん規模きぼ虐殺ぎゃくさつ存否そんぴ戦時せんじ国際こくさいほう違反いはんかについては南京なんきん事件じけん論争ろんそう犠牲ぎせいしゃすうをめぐる論争ろんそうは、南京なんきん事件じけん被害ひがいしゃすうにて詳細しょうさいろんじられている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそうなかの1937ねん12がつ上旬じょうじゅん日本にっぽんぐん中華民国ちゅうかみんこく首都しゅと南京なんきん攻略こうりゃくした。この南京なんきん攻略こうりゃく前後ぜんご日本にっぽんぐんによっておこなわれた一連いちれん虐殺ぎゃくさつ、および略奪りゃくだつ暴行ぼうこう強姦ごうかん放火ほうかなどの不法ふほう行為こうい総称そうしょうして南京なんきん事件じけんという[4]犠牲ぎせいしゃかず正確せいかくには不明ふめいであるが、日本にっぽん研究けんきゅうしゃおおくは、一定いってい規模きぼ虐殺ぎゃくさつがあったとかんがえ、すうまんにんから10すうまんにん犠牲ぎせいしゃがあったと推定すいていしている。中国ちゅうごく政府せいふ見解けんかいでは30まんにんとされるもの、日本にっぽん研究けんきゅうしゃはこの数字すうじ過大かだいとみている[5][注釈ちゅうしゃく 1]

事件じけん名称めいしょうについては「南京なんきん事件じけん」のほか、「南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん」「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ」ともばれ、適切てきせつ呼称こしょうめぐっては様々さまざま議論ぎろんがある[7]研究けんきゅうしゃによって、「南京なんきん事件じけん」という用語ようごは「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ事件じけん」の略称りゃくしょうであるとも[8]不法ふほう殺害さつがいほか略奪りゃくだつ強姦ごうかんなどもふくめた不祥事ふしょうじ全体ぜんたい意味いみしているようだとも説明せつめいされる[2]中国ちゅうごくでは「南京なんきんだい屠殺とさつ」という呼称こしょう使つかわれ、日本にっぽんなどにも「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ」というかたち普及ふきゅうしている[7][注釈ちゅうしゃく 3]

この事件じけんは、戦後せんご日本にっぽん社会しゃかいにおいて、東京とうきょう裁判さいばん披露ひろうされた南京なんきんでの20まんにん犠牲ぎせいという数字すうじだい虐殺ぎゃくさつという表現ひょうげん疑問ぎもんこえがあがったため、その発生はっせい規模きぼ被害ひがい状況じょうきょう発生はっせい要因よういんについての論争ろんそうがはじまることとなる。田中たなか正明まさあき虚構きょこうせつ発表はっぴょうしてから、完全かんぜん否定ひていふくめた否定ひていろん一般いっぱん中国人ちゅうごくじんへの被害ひがい少数しょうすうで、むしろ中国ちゅうごくぐん殺害さつがい強姦ごうかんとうすくなくなく、日本にっぽんぐん中国ちゅうごくへい殺害さつがい戦時せんじ国際こくさいほうじょうでは合法ごうほうもしくは一般いっぱん戦闘せんとうでの殺害さつがいであるひとし)を支持しじする政治せいじふくめたグループと、それにたいして、一定いってい規模きぼ犠牲ぎせいしゃがあったのは史実しじつとする研究けんきゅうしゃとのあいだ論争ろんそうこり、いまだに論争ろんそうつづいている[9]

事件じけん経緯けいいとき系列けいれつる。昭和しょうわ6ねん満州まんしゅう事変じへん翌年よくねん満州まんしゅうこく建国けんこく以降いこう日本にっぽん中国ちゅうごくは、それぞれの権益けんえきをめぐって対立たいりつするなか日本にっぽん侵略しんりゃく行為こうい華北かほく分離ぶんり工作こうさく)もあって、1937ねん7がつにちちゅう戦争せんそうはじまった。その戦線せんせんは、当初とうしょ中国ちゅうごく北部ほくぶのみならず上海しゃんはい付近ふきんにまでひろがった。11月には、上海しゃんはい派遣はけんされた日本にっぽんぐんちゅうささえ方面ほうめんぐん麾下きか上海しゃんはい派遣はけんぐんおよびだい10ぐん)は、中国ちゅうごくぐん駆逐くちくして上海しゃんはい占領せんりょうしたが、その首都しゅと南京なんきん進撃しんげき占領せんりょうすることとなる。日本にっぽん陸軍りくぐん中央ちゅうおう当初とうしょ南京なんきんへの進撃しんげき反対はんたいしたものの、現地げんちでの命令めいれい無視むしした南京なんきんけた出撃しゅつげきなどの行動こうどう追認ついにんするかたちで、ちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん進撃しんげき正式せいしき命令めいれいとなった[10]

さて、ちゅうささえ方面ほうめんぐんは、いくつかの問題もんだいっていた。上海しゃんはい派遣はけんぐんころから、士気しき低下ていか軍紀ぐんき廃頽はいたい問題もんだいしており、そのうえ、ぐんたいする軍紀ぐんき風紀ふうきまりをおこな実行じっこう能力のうりょくたなかった[11][12]。また、捕虜ほりょをむやみにころさないで人道的じんどうてきあつかうための戦時せんじ国際こくさいほうであるハーグ陸戦りくせん条約じょうやく(1907ねん改定かいてい)を、遵守じゅんしゅ履行りこうしなくてもいと解釈かいしゃくできる命令めいれい当時とうじ軍部ぐんぶしていた[13][14]うえ、作戦さくせん行動こうどう必要ひつよう物資ぶっし補給ほきゅう兵站へいたん確保かくほおこなわれず、必要ひつよう物資ぶっし大半たいはん現地げんち調達ちょうたつ徴発ちょうはつ略奪りゃくだつ)に依存いぞんすることになっており[11][12]、また上海しゃんはいせんにおいて、日本にっぽん軍人ぐんじん戦友せんゆうおおくをうしない、中国ちゅうごくがわへの復讐ふくしゅう感情かんじょう芽生めばえさせていた[15]。このよう状況じょうきょうが、日本にっぽんぐん軍紀ぐんき風紀ふうきまもらないで中国ちゅうごく国内こくない略奪りゃくだつ違法いほう虐殺ぎゃくさつおこなうという異常いじょう事態じたいをうむこととなる。

以上いじょうよう理由りゆうにより、日本にっぽんぐんは、南京なんきんかう進撃しんげきちゅうで、現地げんち家屋かおく破壊はかい放火ほうか一般いっぱん市民しみん捕虜ほりょ敗残はいざんへいたいする虐殺ぎゃくさつ強姦ごうかんなどをおこない、南京なんきん攻略こうりゃくの12月13にちから(南京なんきん市内しない安全あんぜん(難民なんみん欧米おうべいじん設置せっち)に避難ひなんできた住民じゅうみんのぞく)おおくの住民じゅうみんたいする南京なんきんじょう内外ないがいでの虐殺ぎゃくさつ、それよりおおくの中国ちゅうごくぐん兵士へいし捕虜ほりょ敗残はいざんへい)への違法いほう(戦時せんじ国際こくさいほうじょう虐殺ぎゃくさつ、また城内じょうないでの略奪りゃくだつ放火ほうかおこなった[16][12]。12月17にち以降いこうは1がつ5にちまでつづいた敗残はいざんへいりをのぞき、日本にっぽんへいによる組織そしきてき虐殺ぎゃくさつ一応いちおう終了しゅうりょうするが、一部いちぶ殺人さつじん強姦ごうかん放火ほうか発生はっせい継続けいぞくし、完全かんぜん終息しゅうそくするのは4かげつの1938ねん3がつごろであった[17]南京なんきん攻略こうりゃくせんまえに、ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいしは、南京なんきんじょう攻略こうりゃく要領ようりょう示達じたつし、前線ぜんせん部隊ぶたい統制とうせい強化きょうか綱紀こうき粛正しゅくせいめいじていた[18][19]が、前線ぜんせん部隊ぶたい司令しれい通達つうたつまもらず、不法ふほう行為こうい殺戮さつりく歯止はどめがかからなかった[20][21]

日本にっぽん政府せいふ外務省がいむしょう)も東京とうきょう陸軍りくぐん中央ちゅうおうも、発生はっせい直後ちょくごから南京なんきん事件じけん気付きづくこととなる。現地げんち日本にっぽんぐん殺害さつがい不法ふほう行為こういについて、南京なんきん日本にっぽん総領事館そうりょうじかん東京とうきょう外務がいむ本省ほんしょう報告ほうこくしたため、外務がいむ大臣だいじん広田ひろた弘毅こうきからいし東亜とうあ局長きょくちょうとおして陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく厳重げんじゅう注意ちゅういもうれがあり、杉山すぎやまはじめ陸軍りくぐん大臣だいじんにも軍紀ぐんき粛正しゅくせい要望ようぼうした[22]東京とうきょう陸軍りくぐんも、南京なんきんでの日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつ不法ふほう行為こうい問題もんだいっていたことが、当時とうじ高級こうきゅう軍人ぐんじん記録きろく証言しょうげんあきらかになっており、のち陸軍りくぐん大臣だいじんとなる阿南あなみ惟幾これちかは、南京なんきん事件じけん直後ちょくご現地げんち視察しさつした結果けっか、「言語げんごぜっするものあり」とべている[23]。そのよう状況じょうきょうなかで、陸軍りくぐん中央ちゅうおうから本間ほんま雅晴まさはる参謀さんぼう本部ほんぶだい部長ぶちょうが1938ねん1がつ南京なんきん派遣はけんされ、その調査ちょうさけて、松井まついいしちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんは2がつ日本にっぽん召還しょうかんされ[24]だい10ぐん上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん解任かいにん)、ちゅうささえ方面ほうめんぐんあらたにちゅうささえ派遣はけんぐんさい編制へんせいされて廃止はいしされる[25]

なお、日本にっぽんぐんは、それ以前いぜんにち戦争せんそうのときは戦時せんじ国際こくさいほう忠実ちゅうじつまも外国がいこくじん捕虜ほりょへの人道的じんどうてき配慮はいりょおこなった[26]ことが国際こくさいてきられており、つづだいいち大戦たいせんのときも捕虜ほりょへの配慮はいりょ捕虜ほりょ収容しゅうようしょでの人道的じんどうてきあつか[27]ひろられていたが、そのシベリア出兵しゅっぺい以降いこうは、日本にっぽんぐん軍規ぐんきりつ問題もんだいこりはじめたとされた[28]にちちゅう戦争せんそうはじまると日本にっぽん国民こくみん暴支膺懲ようちょうこえ中国ちゅうごくがわ残虐ざんぎゃく行為こういとおりしゅう事件じけん背景はいけいにあって、日本にっぽんぐんチャハル作戦さくせん一般いっぱん中国人ちゅうごくじん中国ちゅうごくへい捕虜ほりょ無辜むこ殺害さつがいする事件じけんをすでにこしていた[29]

当時とうじ南京なんきん在住ざいじゅうであったニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派とくはいんは「南京なんきんにおけるだい残虐ざんぎゃく行為こうい蛮行ばんこうによって、日本にっぽんぐん南京なんきん中国ちゅうごく市民しみんおよび外交がいこうじんから尊敬そんけい信頼しんらいけるわずかな機会きかいうしなってしまった...」[30]べて、記者きしゃ記事きじとともに世界せかいにこの事実じじつ発信はっしんする[31][注釈ちゅうしゃく 4]南京なんきん占領せんりょう直後ちょくご直接ちょくせつ経験けいけんしたジャーナリストの報道ほうどうにもかかわらず、南京なんきん事件じけんへの欧米おうべい各国かっこく反応はんのうは、アジアたいする欧米おうべい社会しゃかい関心かんしんひくさもあってかぎられたものであり、アメリカの場合ばあい、アメリカの船舶せんぱく南京なんきんちかくで日本にっぽんぐんによって撃沈げきちんされたパナイごう事件じけん治安ちあんいてきた時期じき南京なんきんこった米人べいじん外交がいこうかんへの日本にっぽんへい乱暴らんぼうアリソン殴打おうだ事件じけん)が、南京なんきんせん関係かんけいして、よりおおきな報道ほうどうとなり、日本にっぽんへの非難ひなんも、このふたつの事件じけんによるものであった[32][33][34]。ただし、その南京なんきん事件じけん代表だいひょうされる日本にっぽんぐんによる中国人ちゅうごくじんへの人道的じんどうてき行為こういについての報道ほうどうが、アメリカにおけるたいにち感情かんじょう悪化あっかさせ、人道的じんどうてき野蛮やばん行為こういおこな日本にっぽんへいというイメージを国民こくみんあいだ醸成じょうせいさせる側面そくめんがあった[35]

首都しゅとである南京なんきん占領せんりょうする、という日本にっぽんぐん華々はなばなしい軍事ぐんじてき成果せいかが、日本にっぽん政府せいふ強気つよきにさせ、中国ちゅうごくとの和平わへい交渉こうしょう条件じょうけんげたため、 1938ねん1がつ和平わへい交渉こうしょう決裂けつれつした[36]近衛このえないかく中国ちゅうごく政府せいふ相手あいてにせずと声明せいめいだいいち近衛このえ声明せいめい)をはっし、その、3月に南京なんきんにおいて日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけん中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふ)が創設そうせつされ、以後いごにちちゅう戦争せんそう解決かいけつみちさぐれない状況じょうきょうのまま、わることなく継続けいぞくすることとなる[37]

終戦しゅうせんひらかれた極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)において、ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんであった松井まついいし大将たいしょうが、南京なんきんとその周辺しゅうへんにおける一般いっぱん市民しみん捕虜ほりょ殺害さつがいについて犯罪はんざいてき責任せきにんがあるとして絞首刑こうしゅけい宣告せんこくされた[6][38]Aきゅう戦犯せんぱん平和へいわたいするつみ)をさばいた東京とうきょう裁判さいばんとはべつに、BCきゅう戦犯せんぱん交戦こうせん法規ほうき違反いはん)とされた被告ひこく連合れんごうこく各国かっこく軍事ぐんじ法廷ほうていさばかれ、南京なんきん事件じけんかかわるものは南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい審理しんりされた[39]。この法廷ほうてい南京なんきんせん参加さんかした日本にっぽんぐん部隊ぶたい関係かんけいしゃ4めいたに寿夫としお中将ちゅうじょうとう)に死刑しけい判決はんけつくだされ処刑しょけいされた[40]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

上海しゃんはい占領せんりょう南京なんきん空爆くうばく南京なんきんへの進撃しんげき[編集へんしゅう]

日本にっぽん中国ちゅうごく中華民国ちゅうかみんこく)は1937ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけん以降いこうにちちゅう戦争せんそう突入とつにゅうした。8月15にちには日本にっぽん海軍かいぐんによって南京なんきん飛行場ひこうじょうなどの軍事ぐんじ施設しせつ周辺しゅうへん人口じんこう密集みっしゅう地帯ちたいたいしてばくげきおこなわれた[41]以降いこう南京なんきんにはかえ爆撃ばくげきおこなわれ、8がつ29にち南京なんきん駐在ちゅうざいのアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの外交がいこう代表だいひょう日本にっぽん抗議こうぎしょした[42]。しかし、日本にっぽんぐん空襲くうしゅう継続けいぞくし、9月には上海しゃんはい飛行場ひこうじょうからよりさら本格ほんかくてき攻撃こうげき可能かのうとなる[43]日本にっぽんぐん早期そうき南京なんきん周辺しゅうへん制空権せいくうけん確保かくほし、また「ばくげきはかならずしも目標もくひょう直撃ちょくげきするをようせず、てき人心じんしん恐慌きょうこう惹起じゃっきせしむるを主眼しゅがんとするをもって...[44]」という通達つうたつされ、民間みんかんじんへの被害ひがい考慮こうりょせず、ばくげき犠牲ぎせいしゃ増大ぞうだいした[45]日本にっぽんは9月には上海しゃんはい派遣はけんぐん増派ぞうは決定けっていしたが、中国ちゅうごくぐんはげしい抵抗ていこうもあって11月まで膠着こうちゃく状態じょうたいつづ[46][47]。しかし11月なかばには上海しゃんはい全域ぜんいき占領せんりょうすることに成功せいこうした[48][47]

上海しゃんはい占領せんりょう、11月後半こうはん日本にっぽんぐん一部いちぶは、陸軍りくぐん中央ちゅうおう南京なんきん進軍しんぐん反対はんたいしたものの、現地げんちぐん(だい10ぐん)は南京なんきんけて独断どくだん専行せんこう南京なんきん進軍しんぐん開始かいしした[49][50]日本にっぽん上海しゃんはい派遣はけんぐん上海しゃんはい占領せんりょう時点じてん軍紀ぐんき弛緩しかん深刻しんこくで、士気しき低下ていか食糧しょくりょう不足ふそくによって現地げんちからの徴発ちょうはつ実質じっしつてき略奪りゃくだつ)や暴行ぼうこう増大ぞうだいした[48]ので、参謀さんぼう本部ほんぶ南京なんきん進軍しんぐん反対はんたいしていた[49][50]。そして、南京なんきんへの進軍しんぐんでは日本にっぽんぐん兵站へいたん大半たいはん現地げんち徴発ちょうはつ依存いぞんし、軍紀ぐんき紊乱びんらんあいまって進撃しんげき路上ろじょうまちむらでは略奪りゃくだつ暴行ぼうこうかえされた[51][52]南京なんきんへの進軍しんぐん途上とじょう発生はっせいした一連いちれん略奪りゃくだつ暴行ぼうこうは、「南京なんきんかう追撃ついげきせんぜん過程かていは、すでに上海しゃんはいせん段階だんかい顕著けんちょになっていたさまざまな不法ふほう行為こうい残虐ざんぎゃく行為こういがよりだい規模きぼかたち拡大かくだいされる過程かていであり、南京なんきん事件じけん直接ちょくせつ前史ぜんしをなす道程どうていであった」とひょうされる[51][注釈ちゅうしゃく 5]

12月1にち日本にっぽんぐんでは正式せいしき南京なんきん攻略こうりゃく命令めいれいされた。当時とうじ南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく首都しゅとであったが、おもだった政府せいふ首脳しゅのう各国かっこく外交がいこう使節しせつ日本にっぽんぐん進撃しんげきまえ脱出だっしゅつし、重慶たーちんかんこう拠点きょてんうつした[52][54]。12月9にち日本にっぽんぐんによる開城かいじょう勧告かんこく航空機こうくうきにより城内きうち投下とうかされたが応答おうとうはなく、翌日よくじつそう攻撃こうげきめいじられた。中国ちゅうごくぐん南京なんきん防衛ぼうえい準備じゅんび遅滞ちたいしており、さんぽうから包囲ほういする日本にっぽんぐんたいして長江ながえ揚子江ようすこう)を背水はいすいじんかたちをとり、かく部隊ぶたい死守ししゅ命令めいれいすととも船舶せんぱく管理かんり厳格げんかくすることで兵士へいしたちの退路たいろふさぎ、南京なんきん死守ししゅすることを企図きとした[52][55]

しかし、12月12にち午後ごごには中国ちゅうごくぐん南京なんきん放棄ほうき退却たいきゃく命令めいれいされた[56]日本にっぽんぐんによる利用りよう阻止そしするため、中国ちゅうごくぐん重要じゅうよう建造けんぞうぶつ放火ほうか破壊はかい開始かいしし、市内しない主要しゅよう建造けんぞうぶつやぶ却された[56]。13にちあさには中国ちゅうごくぐん組織そしきてき抵抗ていこう終了しゅうりょうした。中国ちゅうごくぐん司令しれいかん部下ぶか一般いっぱん市民しみん対策たいさくのままりにして逃亡とうぼうし、さらに長江ながえわたろうとする中国ちゅうごくぐん部隊ぶたいではふねうばいが発生はっせいし、また渡江とのえ阻止そししようとする部隊ぶたいあいだでの同士討どうしうちも発生はっせいした[57][58]

南京なんきん進軍しんぐんする途上とじょうでの不法ふほう行為こうい殺害さつがい略奪りゃくだつ放火ほうか強姦ごうかん[編集へんしゅう]

南京なんきん占領せんりょうかう途中とちゅう日本にっぽんぐん進撃しんげきちゅう村落そんらく発生はっせいした略奪りゃくだつは、兵站へいたんじょう問題もんだい解決かいけつするために組織そしきてきおこなわれた[53]日本にっぽんぐん必要ひつようとする物資ぶっしだい部分ぶぶん現地げんち調達ちょうたつによってまかなわれたことは『りくささえみつだい日記にっき』において「ちょう集団しゅうだんだいじゅうぐん作戦さくせん地域ちいき地方ちほう物資ぶっしとくに※、野菜やさい肉類にくるいまったかててきるをたり[注釈ちゅうしゃく 6]」と記録きろくされ、だい9師団しだん参謀さんぼうは「ぐん補給ほきゅうてん推進すいしん師団しだん追撃ついげき前進ぜんしん追随ついずいするをずして上海しゃんはい付近ふきんより南京なんきんいたやくひゃくさとあいだほとん糧秣りょうまつ補給ほきゅうを受くることなくほとんど現地げんち物資ぶっしのみに追撃ついげき敢行かんこう」したとすることなどからわかる[59]

こうした物資ぶっし強奪ごうだつは「徴発ちょうはつ」という体裁ていさいをとり、徴発ちょうはつ証券しょうけん発行はっこうされることになっていたが、その実態じったい略奪りゃくだつであった[60][61]東京とうきょう裁判さいばんにおいて上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう榊原さかきばら主計かずえ占領せんりょう行政ぎょうせいじょう責任せきにんしゃ一般いっぱん住民じゅうみん残留ざんりゅうしていない場合ばあい軍事ぐんじじょう必要ひつようせいから徴発ちょうはつ必要ひつようであった場合ばあいには、徴発ちょうはつした物資ぶっし明記めいきし、所有しょゆうしゃ判明はんめい場合ばあい代金だいきん受領じゅりょうしに出頭しゅっとうするようがみをしていたことを証言しょうげんしている[59]。しかしこの徴発ちょうはつ証券しょうけん運用うんようきわめて杜撰ずさんであり、実際じっさいには発行はっこうされなかった場合ばあいおおく、発行はっこうされたものも内容ないよう正確せいかくせいについて注意ちゅういはらわれなかった。だい9師団しだん経理けいりづけ将校しょうこうであった渡辺わたなべ卯吉うきち日本にっぽんぐん発行はっこうした徴発ちょうはつ証券しょうけんについてつぎのように回想かいそうしている。

しかるに後日ごじつ中国人ちゅうごくじんの)所有しょゆうしゃ代金だいきん請求せいきゅう持参じさんしたものをれば其記入きにゅうはなは出鱈目でたらめである。たとえば〇〇部隊ぶたい先鋒せんぽう隊長たいちょう加藤かとう清正きよまさとか退却たいきゃく部隊ぶたいちょう蒋介石しょうかいせきいて其品しゅ数量すうりょうはこにゅうまる斥とかたるつめ少量しょうりょううものやまったなに記入きにゅうしていないもの、はなはだしいものはたん馬鹿ばか野郎やろういたものもある。まった熱意ねつい誠意せいいもない。...徴発ちょうはつしたもののはなしでは乃公(自分じぶんのこと)は石川いしかわ五右衛門ごえもんいて風呂ふろがまだいいちいていたが経理けいりやつはどうしたことだろうかと面白おもしろ半分はんぶん自慢じまんばなしをして有様ありさまである[62]
渡辺わたなべ卯吉うきち

略奪りゃくだつには住民じゅうみん殺害さつがいともない、戦闘せんとう行為こういえもふくめ、住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ横行おうこうおおくの犠牲ぎせいしゃ[63][64]どうけんもと湖村こそんでも村民そんみん40めいあまりが殺害さつがいされた[64]。また、掃討そうとう延長えんちょうとして敗残はいざんへい捕虜ほりょ殺害さつがい頻繁ひんぱんおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 7]"。この捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつは、当時とうじ複数ふくすう日本にっぽんぐん部隊ぶたい功名こうみょうしんられ「南京なんきん一番乗いちばんのり」を目指めざして急進きゅうしんげきおこなっていたため、捕虜ほりょ足手あしてまといとたことによってよりはげしいかたちおこなわれた[66]

以上いじょうように、日本にっぽんぐんは、南京なんきん周辺しゅうへん農村のうそん南京なんきん行政ぎょうせいにもふくまれる)で、組織そしきてきでときにむら単位たんい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつおこなった[67]農村のうそんでの虐殺ぎゃくさつにちちゅう共同きょうどう研究けんきゅうにおいても中国ちゅうごくがわ具体ぐたいてき指摘してきしており、スマイス調査ちょうさでも農村のうそん地域ちいき一般いっぱん住民じゅうみん犠牲ぎせいしゃは2まん6せんにん以上いじょう記録きろくしている[68]

進撃しんげきちゅう不法ふほう行為こういとしては日本にっぽんへいによる放火ほうか強姦ごうかん深刻しんこく問題もんだいとなった。兵站へいたん脆弱ぜいじゃく日本にっぽんへいにとって、食糧しょくりょうならんで現地げんち調達ちょうたつ必要ひつよう物資ぶっしひとつとして防寒ぼうかんようたきぎがあった。これを現地げんち調達ちょうたつする手段しゅだんとして、タンスなどの家財道具かざいどうぐ略奪りゃくだつされたほかいえそのものを破壊はかいしてたきぎとすることがおこなわれた[69]。またたんなる気晴きばらしや余興よきょうとして軍事ぐんじじょう必要ひつようせいまったくない家屋かおくへの放火ほうか頻発ひんぱつした[70]中国人ちゅうごくじん女性じょせいたいする強姦ごうかん事件じけん頻発ひんぱつした[71]

南京なんきん市内しない日本にっぽんぐん突入とつにゅう南京なんきん陥落かんらく[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん外国がいこく首都しゅと占領せんりょうなが歴史れきしのこしょ外国がいこく注目ちゅうもくあつめる出来事できごとになるとして12月7にちちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいしは、南京なんきんじょう攻略こうりゃく要領ようりょう示達じたつし、前線ぜんせん部隊ぶたい統制とうせい強化きょうか綱紀こうき粛正しゅくせいめいじていた[18][19]。しかし、前線ぜんせん部隊ぶたい司令しれいはこうした通達つうたつ遵守じゅんしゅさせる意思いしとぼしく(なお、松井まつい司令しれいかんは、病気びょうきのために南京なんきんせん前後ぜんごの12月5にち‐15にちあいだ通達つうたつとう以外いがい直接ちょくせつ現場げんば部隊ぶたいへの指導しどう指揮しきはおこなえず)、また南京なんきんへの進軍しんぐん自体じたい準備じゅんび不足ふそくおこなわれたなか現実げんじつてき統制とうせい十分じゅうぶん憲兵けんぺいそなえておらず、12月17にち時点じてんにおいて7まんにん日本にっぽんへいたい憲兵けんぺいは17にんしか存在そんざいしなかった[72][注釈ちゅうしゃく 8]。このため日本にっぽんぐん兵員へいいんによる不法ふほう行為こうい統制とうせいする手段しゅだんいており、さら南京なんきん制圧せいあつ直前ちょくぜん中国ちゅうごくぐん実施じっしした焦土しょうど戦術せんじゅつによって周辺しゅうへん地域ちいき物資ぶっし調達ちょうたつができていなかったことが日本にっぽんぐん略奪りゃくだつ拍車はくしゃをかけることになった[74]

中国ちゅうごくぐん日本にっぽんぐん南京なんきん攻略こうりゃく先立さきだち、12月7にちには南京なんきん周辺しゅうへん地域ちいきにおける焦土しょうど作戦さくせん開始かいしした(「清野きよの作戦さくせん」)。南京なんきん周囲しゅうい居住きょじゅう道路どうろ沿いの村落そんらくはらわれた[74]日本にっぽんぐん司令しれい現地げんち部隊ぶたい南京なんきん城内じょうのうちへの駐屯ちゅうとん禁止きんししていたが、攻撃こうげき余勢よせいった日本にっぽんぐん部隊ぶたい司令しれい統制とうせいがい城内じょうない入場にゅうじょうするものが相次あいつぎ、また焦土しょうど作戦さくせん結果けっか場外じょうがい区域くいき駐屯ちゅうとんすることが困難こんなんになったうえ飲料いんりょうすい不足ふそくしていたことから、7まんにん大軍たいぐん南京なんきん城内じょうのうち駐屯ちゅうとんすることになり、食糧しょくりょう略奪りゃくだつ城内じょうないおこなわれることになった[74][73]

日本にっぽんぐんせたとき、南京なんきん戦災せんさいまれた住民じゅうみんは、南京なんきん市内しない欧米おうべいじん人道的じんどうてき活動かつどうとして設置せっちした、南京なんきん安全あんぜん別称べっしょう南京なんきん難民なんみん南京なんきん城内じょうのうちやく8ぶんの1の面積めんせき相当そうとうする範囲はんい)にみ、南京なんきん陥落かんらく直後ちょくご安全あんぜん区内くないは、やく20まんにん安全あんぜんがいからそのながに25まんにん(ただし諸説しょせつあり、推測すいそく)の人口じんこうふくがり、南京なんきんじょう市内しない南京なんきん安全あんぜんそとには住民じゅうみんすくない状況じょうきょうとなる[75][76]南京なんきん安全あんぜん別称べっしょう 難民なんみん)にたいしては、日本にっぽんぐん砲撃ほうげき仕掛しかけなかった(いわゆる「ラーベ感謝かんしゃじょう[注釈ちゅうしゃく 9][78][79])とされ、占領せんりょう日本にっぽんぐんりは制限せいげんされた(日本にっぽんぐん住民じゅうみん仲良なかよ交流こうりゅう写真しゃしんられたのは安全あんぜんあたり。しかし、のちに、安全あんぜん区内くないでの日本にっぽんへい強姦ごうかん事案じあんとう頻発ひんぱつする)。その一方いっぽうで、日本にっぽんぐんは、げる途中とちゅうとう安全あんぜんがい民間みんかんじん南京なんきん市内しないにおいて殺傷さっしょうしており、「残敵ざんてき掃討そうとう」(敗残はいざんへいり)として安全あんぜん区内くないでも民間みんかんじん誤認ごにん殺害さつがいとう問題もんだい行為こういおこなった。

日本にっぽんぐん南京なんきん地域ちいきでの民間みんかんじん殺傷さっしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんが、南京なんきん市内しない突入とつにゅうしたあとの市民しみんへのおも殺害さつがい行為こうい以下いかのとおりである。 日本にっぽんぐんは、南京なんきん市内しない警察官けいさつかん消防しょうぼうおっと殺害さつがい中国ちゅうごくがわ発電はつでんしょ技術ぎじゅつしゃ政府せいふ企業きぎょうつとめていたというだけの理由りゆう殺害さつがいした[80]。また、南京なんきん城市じょうし陥落かんらく(12月13にち以降いこう住民じゅうみんおおくが前述ぜんじゅつ安全あんぜん避難ひなんしたものの(避難ひなんみんは20まん以上いじょうで、最終さいしゅうてきに25まんぐらいまでにふくがる)、安全あんぜんげるぜんげられなった住民じゅうみん日本にっぽんぐん攻撃こうげき掃討そうとう暴力ぼうりょく行為こういまれて城内じょうない殺害さつがいされた証言しょうげんしんみちこう事件じけんなど)や、そのかなりの市民しみん(かず不明ふめい)が南京なんきんじょうがい長江ちょうこう沿いに避難ひなんしていて兵卒へいそつとともにまれて日本にっぽんぐん殺害さつがいされた記録きろくや、長江ながえ渡河とかこころみようとして攻撃こうげきけてくなった老若男女ろうにゃくなんにょ民間みんかんじんられる無数むすう遺体いたい長江ちょうこうなかいてながれていたという証言しょうげんが、日本にっぽんがわふくめて存在そんざいするものの、それらの正確せいかく死者ししゃすう不明ふめいである[81]。そのは、以下いかの「残敵ざんてき掃討そうとう」のさい脱走だっそうへい便衣べんいへいなされて殺害さつがいされた民間みんかんじん相当そうとうすうふくまれる。 一般いっぱん住民じゅうみん犠牲ぎせいしゃすうは、笠原かさはらじゅうきゅうつかさせつでは、南京なんきん城内きうち:1まん2せんにん(ちなみに農村のうそん:2まん7せんにん[82]で、 はたいくは、1まんにん南京なんきん城市じょうしのみ)[83]べる。

民間みんかんじん殺傷さっしょうのうち、南京なんきん城壁じょうへき周辺しゅうへんおこなわれたのは、12月13にち-16にち大半たいはんであり、そのも、敗残はいざんへい間違まちがえられた成人せいじん男子だんし民間みんかんじん虐殺ぎゃくさつが1がつ5にちまできており、その一部いちぶ殺人さつじんもあり、完全かんぜん終息しゅうそくするのは3がつ南京なんきん傀儡かいらい政権せいけんができたときである。

また、日本にっぽんぐんは「残敵ざんてき掃討そうとう」を南京なんきん陥落かんらくさせた翌日よくじつから(安全あんぜんふくめて)開始かいしした[84]とき、「あらゆる手段しゅだんくしててき殲滅せんめつ」することを要求ようきゅうし、中国ちゅうごくぐんざんへいが「便衣べんいせると判断はんだん」し「青壮年せいそうねんすべ敗残はいざんへいまたは便衣べんいへいなし」て逮捕たいほ監禁かんきんすべしとされ、しかも捕虜ほりょらない方針ほうしん行動こうどうしていた[84]ので、誤認ごにんによる民間みんかんじん殺傷さっしょうおこなった[85]。これとうの「残敵ざんてき掃討そうとう」は、以下いかの「捕虜ほりょの「解決かいけつ」と民間みんかんじん殺傷さっしょう」に詳細しょうさいしるされている。

捕虜ほりょ殺傷さっしょう(民間みんかんじん誤認ごにん殺害さつがい) / 便衣べんいへいとしての敗残はいざんへい虐殺ぎゃくさつ[編集へんしゅう]

ハーグ陸戦りくせん条約じょうやく規定きていでは戦意せんい喪失そうしつ組織そしきてき行動こうどう能力のうりょくうしなった敗残はいざんへいたいしては降伏ごうぶく勧告かんこく捕虜ほりょとして待遇たいぐうする必要ひつようがあった[86]戦時せんじ国際こくさいほうであるハーグ陸戦りくせん条約じょうやく(1907ねん改定かいてい)を、日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくがともにれて条約じょうやくとして批准ひじゅん中華民国ちゅうかみんこく:1917ねん5がつ10日とおか日本にっぽん:1911ねん12月13にち[87]していた。しかし、にちちゅう戦争せんそうに、日本にっぽん軍部ぐんぶ戦時せんじ国際こくさいほう(ハーグ陸戦りくせん条約じょうやく)を遵守じゅんしゅ履行りこうしなくてもいと解釈かいしゃくできる命令めいれいした記録きろくのこっている[13][88]

また、自軍じぐん補給ほきゅうにもきゅうしていた日本にっぽんぐん制圧せいあつ当初とうしょから全体ぜんたいとして捕虜ほりょ殺害さつがいする方針ほうしんのぞんでいた[86]南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんかしただい16師団しだん旅団りょだんちょう佐々木ささきいたいち当時とうじ状況じょうきょうについてつぎのような回想かいそうのこしている。

この支隊したい作戦さくせん地域ちいきない遺棄いきされたてきかばねいちまんすうせんのぼりそのそと装甲車そうこうしゃ江上こうじょう撃滅げきめつしたものならびにかく部隊ぶたい俘虜ふりょ合算がっさんすれば、支隊したいのみにてまん以上いじょうてき解決かいけつされているはずである。(中略ちゅうりゃく午後ごごごろ、掃蕩そうとうわって背後はいご安全あんぜんにし、部隊ぶたいまとめつつ前進ぜんしん和平わへいもんにいたる。その俘虜ふりょ続々ぞくぞく投稿とうこうたりすうせんたっす、激昂げっこうせるへい上官じょうかん制止せいしうなずかばこそ、かたはしより殺戮さつりくする。多数たすう戦友せんゆう流血りゅうけつじゅう日間にちかんからしむごかえりみれば、兵隊へいたいならずとて「みなやってしまえ」といたくなる。白米はくまいはもはやいちつぶもなし、城内きうちにはるだろうが、俘虜ふりょわせるもののわせなんかぐんにははずだった[89]
佐々木ささきいたいち

この証言しょうげんのような状況じょうきょう部隊ぶたいでも同様どうよう発生はっせいしていたとられる[90]捕虜ほりょらないとするのはだい16師団しだん方針ほうしんであり[91][92]、12月13にち処理しょり殺害さつがい)された投降とうこうへい敗残はいざんへいだい16師団しだんのみで23,000にんえた[93]

12月14にち南京なんきん陥落かんらくよろこ日本にっぽん国内こくない世論せろん熱狂ねっきょう昭和しょうわ天皇てんのうによる祝賀しゅくがの「言葉ことば」の下賜かしがあり、松井まついいし司令しれいかんが、12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん入城にゅうじょうしき挙行きょこうするむねを、現地げんちぐん通達つうたつした[94]現地げんち部隊ぶたい敗残はいざんへい掃討そうとうまで時間じかんりないことを主張しゅちょうしたが、12月17にち入城にゅうじょうしき挙行きょこう強行きょうこうされることとなった[95]。この結果けっか入城にゅうじょうしき日程にっていわせて12月14にちから17にちにかけて残敵ざんてき掃討そうとう徹底的てっていてきおこなわれることになった[96]

だい16師団しだん以外いがいのものふくめ、日本にっぽんぐんかく部隊ぶたいおこなった敗残はいざんへい便衣べんいへいの「掃討そうとう」では時期じき部隊ぶたいによって温度おんどがあり、「良民りょうみん」と「便衣べんいへい」の選別せんべつ多少たしょうおこなわれていた場合ばあいもあったが、十分じゅうぶん調査ちょうさおこなうような人員じんいん存在そんざいしなかったためその選別せんべつ非常ひじょうあらっぽいものとなった[97]はたいく彦はこの「良民りょうみん」と「便衣べんいへい」の選別せんべつについて「けるといっても、軍帽ぐんぼうによる日焼ひやけのせんめんずれ)や目付めつけ識別しきべつし、家族かぞくらしいものにきつかれるとはなしてやるしきのおよそ科学かがくてきなやりかただったから、末端まったん兵士へいし気分きぶんしだいで連行れんこうはふえもりもしたようだ。こうしたまぐれな選別せんべつが、安全あんぜん住民じゅうみんあたえた衝撃しょうげき恐怖きょうふかん想像そうぞうあまりある[98]」とべている。

みなみ満州まんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃつとめていた小川おがわ愛次郎あいじろう南京なんきんにおける日本にっぽんぐん軍紀ぐんき退廃たいはい虐殺ぎゃくさつについて1938ねん7がつ27にち日本にっぽん外務がいむ大臣だいじん宇垣うがき一成いっせいてた「時局じきょく動向どうこう収拾しゅうしゅうさく講和こうわ大綱たいこう)」とだいする意見いけんしょなかつぎのようにべている[99]

虐殺ぎゃくさつ放火ほうかもりおこなわれた。南京なんきん陥落かんらく直後ちょくごたけでも市民しみんちゅう男子だんしされて機関きかんじゅう掃射そうしゃこうむったものまんもっすううべく、市街しがい火災かさいおおくは占領せんりょう日本にっぽんへい放火ほうかである。これとうは、にちしんやくにちしん戦争せんそう当時とうじ捕虜ほりょ所謂いわゆるしか(しかるべく)処分しょぶん」したり、また旅順りょじゅんだい虐殺ぎゃくさつ事件じけんごとき、また満州まんしゅう事変じへん匪賊ひぞく討伐とうばつぞく逃込にげこんだ部落ぶらく焼払やきはらうとうがき、実情じつじょうとくやめしてりたる処置しょちとかまた敵愾心てきがいしん発露はつろとは全然ぜんぜん精神せいしんことにし、ほとん悪戯いたずらてきおこなわれてまった軍規ぐんき廃頽はいたいから[100]
小川おがわ愛次郎あいじろう

南京なんきん攻略こうりゃくせんとその占領せんりょうたずさわった日本にっぽん現地げんちぐん上海しゃんはい派遣はけんぐんだい10ぐんであったが、上海しゃんはい派遣はけんぐんだい16師団しだんだい9師団しだんだい13師団しだん山田やまだ支隊したいだい10ぐんだい6師団しだんだい114師団しだんについて、それぞれの指揮しき部隊ぶたいがどのように敗残はいざんへい市民しみん殺害さつがいおこなったかについては、はたいく彦が整理せいりしている[101]

公式こうしき文書ぶんしょによる捕虜ほりょ摘出てきしゅつ逮捕たいほした敗残はいざんへい便衣べんいへいへの対応たいおう
部隊ぶたい 総数そうすう 対応たいおう 出典しゅってん 適用てきよう
だい114師団しだん歩兵ほへいだい66連隊れんたいだい1大隊だいたい 1,657
12、13にちあめはなもん中国語ちゅうごくごばんそと収容しゅうよう
処断しょだん 1,657
13にち午後ごご
だい114師団しだん歩兵ほへいだい66連隊れんたいだい1大隊だいたい戦闘せんとう詳報しょうほう あめ花台かだい事件じけん[102]
だい6師団しだん歩兵ほへいだい45連隊れんたいだい2大隊だいたい やく5,500
14にち午前ごぜん下関しものせき収容しゅうよう
釈放しゃくほう
14にち午後ごご
だい6師団しだん戦時せんじ旬報じゅんぽう
だい16師団しだん歩兵ほへいだい33連隊れんたい 3,096
10日とおか - 14にちむらさき金山かなやま北方ほっぽうから下関しものせき附近ふきん太平山たいへいざん獅子ししさん附近ふきん戦闘せんとうあいだ
処断しょだん 3,096 歩兵ほへいだい33聯隊れんたい戦闘せんとう詳報しょうほう
だい16師団しだん歩兵ほへいだい38連隊れんたいだい10中隊ちゅうたい 7,200
14にち堯化もん中国語ちゅうごくごばん附近ふきん
収容しゅうよう 7,200
17にち、18にちごろ南京なんきん護送ごそう
歩兵ほへいだい38聯隊れんたい戦闘せんとう詳報しょうほう
国崎くにさき支隊したい歩兵ほへいだい41連隊れんたい基幹きかん 120
3にち - 15にち
不明ふめい 120 だい9旅団りょだん戦闘せんとう詳報しょうほう
歩兵ほへいだい41連隊れんたいだい12中隊ちゅうたい 2,350
14にちゆうこうきょうしゅう
釈放しゃくほう 2,350 だい12中隊ちゅうたい戦闘せんとう詳報しょうほう
だい16師団しだん歩兵ほへいだい20連隊れんたいだい4中隊ちゅうたい 328
14にち安全あんぜん中国語ちゅうごくごばん東方とうほう
処断しょだん 328 だい4中隊ちゅうたいじん中日ちゅうにち 銃殺じゅうさつニシテ埋葬まいそうス」
だい9師団しだん やく7,000
13にち - 14にち
処断しょだん やく7,000 だい9師団しだん作戦さくせん記録きろく概要がいよう
だい9師団しだん歩兵ほへいだい7連隊れんたい (6,670)
安全あんぜん掃蕩そうとうあいだ
処断しょだん (6,670) 歩兵ほへいだい7聯隊れんたい戦闘せんとう詳報しょうほう
戦車せんしゃだい1大隊だいたいだい1中隊ちゅうたい (320)
14にち掃蕩そうとうあいだ
処断しょだん (70) だい1中隊ちゅうたい戦闘せんとう詳報しょうほう 戦争せんそう処置しょち
だい3師団しだん歩兵ほへいだい68連隊れんたいだい1大隊だいたい 8 不明ふめい 8 だい1大隊だいたい戦闘せんとう詳報しょうほう
だい3師団しだん歩兵ほへいだい68連隊れんたいだい3大隊だいたい 25 不明ふめい 25 だい3大隊だいたい戦闘せんとう詳報しょうほう
だい16師団しだん歩兵ほへいだい9連隊れんたいだい2大隊だいたい 19 不明ふめい 19 だい2大隊だいたい戦闘せんとう詳報しょうほう
集計しゅうけい公式こうしき文書ぶんしょ やく27,000[注釈ちゅうしゃく 10] 収容しゅうよう 7450、釈放しゃくほう 7850、不明ふめい 172、処断しょだん やく12,000
公式こうしき文書ぶんしょ以外いがいによる捕虜ほりょ摘出てきしゅつ逮捕たいほした敗残はいざんへい便衣べんいへいへの対応たいおう
部隊ぶたい 総数そうすう 対応たいおう 出典しゅってん 適用てきよう
山田やまだ支隊したい歩兵ほへいだい65連隊れんたい基幹きかん 8,000
14にち 幕府ばくふやま附近ふきん収容しゅうようされた14,000のうち戦闘せんとういん6,000は釈放しゃくほう
逃亡とうぼう 7,000、処断しょだん1,000
14にちよる、4,000が逃亡とうぼう残余ざんよ観音かんのんもん連行れんこう
戦史せんし叢書そうしょ 幕府ばくふやま事件じけん[103]
だい16師団しだんだい30旅団りょだん やく2,000
24にち - 翌年よくねん1がつ5にち安全あんぜん区内くないへいみん分離ぶんり
収容しゅうよう やく2,000 佐々木ささき少将しょうしょう私記しき その入院にゅういんちゅうの500は収容しゅうよう
だい16師団しだんだい19旅団りょだん歩兵ほへいだい20連隊れんたいだい12中隊ちゅうたい及第きゅうだい3機関きかんじゅう中隊ちゅうたい 200 - 300 処断しょだん 200 - 300 しょうせんれいしゅう』、『牧原まきはら日記にっき
だい16師団しだんだい30旅団りょだん歩兵ほへいだい33連隊れんたい すうひゃく
16にち、17にちむらさき金山かなやま北方ほっぽう
処断しょだん すうひゃく 佐々木ささき少将しょうしょう私記しき  
だい16師団しだんだい30旅団りょだん歩兵ほへいだい38連隊れんたい すうひゃく
16にち、17にちむらさき金山かなやま北方ほっぽう
処断しょだん すうひゃく 佐々木ささき少将しょうしょう私記しき 掃蕩そうとうせんあいだ処分しょぶん
だい16師団しだんだい30旅団りょだん すうせん
24にち - 翌年よくねん1がつ5にち南京なんきん近郊きんこう不逞ふてい
処断しょだん すうせん 佐々木ささき少将しょうしょう私記しき 下関しものせきにて処分しょぶん

そして、これとう捕虜ほりょとなった中国ちゅうごくぐん兵士へいしへの殺害さつがいのうち、軍服ぐんぷくいでげた敗残はいざんへい捕獲ほかくしたとき、民間みんかんじんよそおって戦闘せんとう行為こういおこな便衣べんいへいなして、日本にっぽんぐん合法ごうほうてき殺人さつじんなして虐殺ぎゃくさつした事案じあんがみられた。たとえば12月14にち-16にち安全あんぜんにおいて、日本にっぽんぐんもと中国ちゅうごくへいやく6500-6700めいほど摘発てきはつ処刑しょけいしたのもそのようかんがえを根拠こんきょとする[104]便衣べんいへい、つまり兵士へいし民間みんかんじんよそおっておこな戦闘せんとう行動こうどうは、当時とうじ戦時せんじ国際こくさいほうではハーグ陸戦りくせん条約じょうやくだい23じょう(ヘ)の趣旨しゅしから禁止きんしされる[105]当時とうじ国際こくさい法学ほうがくしゃたて作太郎さくたろう昭和しょうわ19ねん民間みんかんじん敵対てきたい行為こうい原則げんそく禁止きんしされるし、戦時せんじ犯罪はんざいとして「おおむ死刑しけいしょべきもの」であり、正規せいき軍人ぐんじん民間みんかんじん偽装ぎそうした場合ばあい交戦こうせんしゃとしての特権とっけんうしな[106]とされる[107]。ただし、この軍服ぐんぷくいだ敗残はいざんへい便衣べんいへいとしてころしたことについては、戦時せんじ国際こくさいほうじょう間違まちがった解釈かいしゃく行動こうどうであるとする批判ひはんを、戦前せんぜん国際こくさい法学ほうがくしゃ信夫しのぶじゅんひらた[108]北岡きたおか伸一しんいち[109]主張しゅちょうする(後述こうじゅつする、「捕虜ほりょへの人道的じんどうてき配慮はいりょ欠如けつじょ中国ちゅうごくへの復讐ふくしゅうしん / 敗残はいざんへい便衣べんいへいなしたことへの疑問ぎもん」を参照さんしょう)。

一方いっぽうで、日本にっぽんぐん中国ちゅうごくへい人道的じんどうてきあつかったれいとして、きゅう中国ちゅうごく政府せいふ施設しせつ野戦やせん病院びょういん継承けいしょうした欧米おうべいじん医療いりょう関係かんけいしゃ自発じはつてきメンバー(かれらが国際こくさい赤十字せきじゅうじ設置せっちしたうえでの活動かつどう)が病院びょういんはこんだ中国ちゅうごくぐん負傷ふしょうへいを、日本にっぽんぐんが、ある期間きかん欧米おうべいじん自由じゆう治療ちりょうすることをゆるしたことを、ニューヨークタイムズの記事きじ当時とうじ日本にっぽん雑誌ざっし写真しゃしんから説明せつめいするれいがある[110][注釈ちゅうしゃく 11]

南京なんきん占領せんりょうちゅう不法ふほう行為こうい略奪りゃくだつ放火ほうか強姦ごうかん[編集へんしゅう]

占領せんりょう南京なんきん城内きうちおよび周辺しゅうへん地域ちいきでははげしい略奪りゃくだつ放火ほうかおこなわれた。南京なんきん国際こくさい救済きゅうさい委員いいんかい調査ちょうさによれば、南京なんきん城内じょうのうち建物たてもの73パーセントが日本にっぽんぐんによる略奪りゃくだつ被害ひがいけた[111]日本にっぽんぐんによる略奪りゃくだつ行為こうい実情じつじょう統計とうけい情報じょうほうのこるようなものではないものの、当時とうじ南京なんきん在住ざいじゅうしていた欧米おうべいじん日本にっぽんへい日記にっき戦後せんご証言しょうげんなどによって把握はあくされている。だい16師団しだんちょう中島なかじま今朝けさわれは1937ねん12月19にち日記にっき以下いかのようにしるしている[112]

日本にっぽんぐんまた我先われさききにと侵入しんにゅうほか区域くいきであろうとなかろうと御構おかまいなしに強奪ごうだつしてく。此は地方ちほう民家みんかにつきてはしん徹底てっていしてる。結局けっきょくずうずうしいやつとくというのである。」、「日本人にっぽんじん物好ものずきである。国民こくみん政府せいふ(の建物たてもの)というのでわざわざ見物けんぶつる。ただ見物けんぶつたけならばなるもなににつけばじかにカッパラッてく。兵卒へいそつ監督かんとくではなににもならぬ。堂々どうどうたる将校しょうこうさま盗人ぬすっとだからしんおどろいたことである。」、「もっと悪質あくしつのものは貨幣かへい略奪りゃくだつである。中央ちゅうおう銀行ぎんこう紙幣しへいがけいたしょ銀行ぎんこう金庫きんこやぶせんもんのものがある[113]
中島なかじま今朝けさわれ

略奪りゃくだつされた貨幣かへい兵営へいえい日本円にほんえんへの換金かんきんおこなわれ、略奪りゃくだつひん一部いちぶ日本にっぽん国内こくない転送てんそうされた[114]一連いちれん日本にっぽんぐんによる略奪りゃくだつアメリカ大使館あめりかたいしかんにまでおよんだ[112]

また、入城にゅうじょうしきおこなわれた12月17にち前後ぜんこうから日本にっぽんへいによる強姦ごうかん事件じけん安全あんぜん区内くないふくめて多発たはつした[115]日本にっぽんぐんによる残敵ざんてき掃討そうとうにおいては民家みんかいちけんいちけん侵入しんにゅうしての捜索そうさくおこなわれたが、その過程かてい発見はっけんされた女性じょせい頻繁ひんぱん強姦ごうかん輪姦りんかん被害ひがいにあい、っぱらった兵士へいしによる強姦ごうかん事件じけん多発たはつした[116]恐怖きょうふにかられた女性じょせいたちが庇護ひごもとめてんださき安全あんぜん区内くないきむりょう女子じょし文理ぶんり学院がくいんにある難民なんみんキャンプがあり、これを運営うんえいしていた欧米おうべいじん一連いちれん事件じけんについて部分ぶぶんてき証言しょうげんのこしている[116]南京なんきん国際こくさい救済きゅうさい委員いいんかいのメンバーとして活動かつどうしたアメリカじん大学だいがく教授きょうじゅマイナー・シール・ベイツつぎのような手紙てがみのこしている。

有能ゆうのうなドイツじん同僚どうりょうたちは(安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいんちょうラーベらのこと)強姦ごうかん件数けんすうまんけんとみています。わたしにもはち〇〇〇けん以下いかとはおもわれません。いずれにしても、それを上回うわまわかずでしょう。われわれ職員しょくいん家族かぞく若干じゃっかん現在げんざいアメリカじんんでいる住宅じゅうたくふくめてかねりょう大学だいがく構内こうないだけでも、いち〇〇けん以上いじょう強姦ごうかん事件じけん詳細しょうさい記録きろくがありますし、さん〇〇けんほどの証拠しょうこもあります。ここでの苦痛くつう恐怖きょうふはあなたにはほとんど想像そうぞうできないでしょう。かねりょう大学だいがく構内こうないだけでも、じゅういちさい少女しょうじょからじゅうさんさいになる婦人ふじんまで強姦ごうかんされています。難民なんみんグループではひどいことにも、ななじゅうさいななじゅうろくさいになる老婆ろうばまでがおかされているのです。神学しんがくいんでは白昼はくちゅうじゅうななめい日本にっぽんへい一人ひとり女性じょせい輪姦りんかんしました。じつ強姦ごうかん事件じけんさんぶんいちちゅう発生はっせいしたのです[117]
マイナー・S・ベイツ

きむりょう女子大じょしだいがく教師きょうし教務きょうむ主任しゅにんつとめたアメリカじん女性じょせい宣教師せんきょうしミニー・ヴォートリンは、このときに大学だいがく構内こうない女性じょせい保護ほご専心せんしんしていた。そのとき頻発ひんぱつした事件じけんについて本人ほんにん記録きろくのこっている。1れいとして、12月17にちよる キャンパスに大勢おおぜい日本にっぽんへいがやってきて中国人ちゅうごくじん使用人しようにん正門せいもん付近ふきん連行れんこうし、尋問じんもんよそおってヴォートリンら学院がくいん責任せきにんしゃ拘束こうそくしているあいだに、通用つうようもんから女性じょせい12にん連行れんこうされる、という事件じけん体験たいけんした。日本にっぽんへい校舎こうしゃはいるのを阻止そししようとしたさいにヴォートリン自身じしんなぐられ、また尋問じんもんさいして銃撃じゅうげき恐怖きょうふにさらされたことが記録きろくされている[118]

この強姦ごうかん事件じけん頻発ひんぱつ日本にっぽんぐん首脳しゅのう現地げんちからのききととうによって把握はあくするところとなり対策たいさくかんがえられた[119]だい10ぐんは12月20にちつぎのような通牒つうちょうはっした。

掠奪りゃくだつ婦女ふじょ暴行ぼうこう放火ほうかとう厳禁げんきんかんしては屡次るじ訓示くんじせられたるところなるもほん南京なんきん攻略こうりゃく実績じっせきちょうするに婦女ふじょ暴行ぼうこうのみにてもひゃくけんのぼむべき事態じたい発生はっせいせるをもっ重複じゅうふくをもかえりみず注意ちゅういするところあらんとす[120]
ひのとしゅうさんいちだいいちよんごう

しばらく時間じかんき、1938ねん7がつだい11ぐん司令しれいかんとして上海しゃんはい赴任ふにんした岡村おかむらやすし宮崎みやざき周一しゅういち参謀さんぼう原田はらだとう少将しょうしょうらからのききと結果けっかとしてつぎのように回想かいそうしている。

上海しゃんはい上陸じょうりくして、いち二日ふつかあいだに...先遣せんけん宮崎みやざき周一しゅういち参謀さんぼうちゅうささえ派遣はけんぐん特務とくむ部長ぶちょう原田はらだ少将しょうしょうこうしゅう特務とくむ機関きかんちょう萩原はぎはら中佐ちゅうさとうから聴取ちょうしゅしたところを総合そうごうすればつぎのとおりであった。
いち南京なんきん攻略こうりゃくすうまん市民しみんたいする掠奪りゃくだつ強姦ごうかんとうだい暴行ぼうこうがあったことは事実じじつである。
いちだい一線いっせん部隊ぶたい給養きゅうよう困難こんなんとして俘虜ふりょころしてしまうへいがある[121]
岡村おかむらやすし

進軍しんぐんちゅうにもおこなわれていた放火ほうか各所かくしょおこなわれた。南京なんきん国際こくさい救済きゅうさい委員いいんかい調査ちょうさによれば、南京なんきん城内じょうのうちのメインストリート地区ちく建物たてもの2828むね損傷そんしょうのうち、軍事ぐんじ行動こうどう起因きいんするもの2.7パーセント、放火ほうか起因きいんするもの32.6パーセント、略奪りゃくだつ起因きいんするもの54.1パーセントだとされる[122]。ニューヨークキリスト教きりすときょう青年せいねん国際こくさい委員いいんかい書記しょきとして南京なんきん駐在ちゅうざいしていたジョージ・A・フィッチは東京とうきょう裁判さいばんにおいて日記にっきもとづいて以下いかのように証言しょうげんしている[123]

十二月じゅうにがつじゅうきゅうにちまった政府せいふ状態じょうたいいちにちであった。兵隊へいたい放火ほうかされたいくつかの大火たいかくるい、其後もなおおおくの火事かじ約束やくそくされてた。「アメリカ」のはた多数たすう場所ばしょかれた。ぐん当局とうきょく兵隊へいたい統制とうせい出来できない。
十二月じゅうにがつじゅうにち月曜日げつようび蛮行ばんこうおよ暴行ぼうこう阻止そしされることも続行ぞっこうされた。市街しがいちゅうさい枢要すうよう商店しょうてんがい太平たいへいまった火災かさいつつまれた。わたしはなまえ店舗てんぽからされた掠奪りゃくだつひん積載せきさいした数多すうた日本にっぽんぐん貨物かもつ自動車じどうしゃ見受みうけ、また兵隊へいたい一団いちだん建物たてもの現実げんじつ放火ほうかしてるのを目撃もくげきした[124]
ジョージ・A・フィッチ

12月21にちには南京なんきん在住ざいじゅう外国がいこくじん日本にっぽん大使館たいしかんに「だい部分ぶぶんにたいする放火ほうかをやめ、のこりの部分ぶぶんを、まぐれからおこなわれたり、組織そしきてきにおこなわれたりする放火ほうかからすくうこと」を要望ようぼう事項じこうとして提出ていしゅつした[123]

日本にっぽんぐんによる不法ふほう行為こうい一応いちおう終息しゅうそくせたのは日本にっぽんぐんした中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふ南京なんきん設立せつりつされた1938ねん3がつ28にちになってからであった[125]

南京なんきん城内じょうのうち外国がいこくじん人道じんどう支援しえん外国がいこくじん記者きしゃ報道ほうどう国際こくさい社会しゃかい反応はんのう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん南京なんきん進軍しんぐんする最中さいちゅうの1937ねん11がつ下旬げじゅん中国人ちゅうごくじん避難ひなんみん安全あんぜんごせる場所ばしょ確保かくほするため、南京なんきん城内じょうのうち東西とうざい南北なんぼくよん等分とうぶんしたうちの西北せいほく南半みなみはん南京なんきん城内じょうのうちやく8ぶんの1の面積めんせき相当そうとうする範囲はんい(アメリカ支援しえんのミッションスクールであるきむりょう大学だいがくかねりょう女子じょし文理ぶんり学院がくいん中国ちゅうごく最高法院さいこうほういん司法しほういんきむりょう大学だいがく附属ふぞく病院びょういんであるつづみろう医院いいん存在そんざいする)に南京なんきん安全あんぜん (別名べつめい 南京なんきん難民なんみん。The Nangking Safety Zone)が設置せっちされた[126]安全あんぜんは、ジーメンスしゃ南京なんきん支社ししゃ支配人しはいにんであったドイツじんジョン・H・D・ラーベ委員いいんちょうとし、アメリカせい公会こうかい伝道でんどうだん宣教師せんきょうしだったジョン・マギー、アーネスト・フォスターやかねりょう大学だいがく教授きょうじゅであったルイス・スマイス、マイナー・シール・ベイツミニー・ヴォートリン女史じょしらアメリカじん中心ちゅうしん南京なんきん残留ざんりゅうした22にん外国がいこくじんによってげられた南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかいによって設置せっちされた[127][32]。ラーベが委員いいんちょう就任しゅうにんしたのは、ドイツじんかつナチとういんであったので、日本にっぽん当局とうきょく交渉こうしょうしやすいとされたためである[128]。アメリカじんらは災害さいがい対応たいおうした救援きゅうえん活動かつどうつうじて、中国人ちゅうごくじんへの組織そしき指導しどうのノウハウをち、南京なんきん行政ぎょうせいてき機能きのういで組織そしきすることができた[129]日本にっぽんぐん侵攻しんこうまえに、南京なんきん周辺しゅうへん地域ちいき住民じゅうみんがこの南京なんきん安全あんぜん殺到さっとう[130]最終さいしゅうてきに250,000にんにまでたっするが[129]安全あんぜんには中国ちゅうごくぐん敗残はいざんへい武器ぶき軍服ぐんぷくてて多数たすうんでおり、日本にっぽんぐん安全あんぜんたいしても敗残はいざんへいりを実施じっしした[131]

当時とうじ南京なんきんには現地げんち駐在ちゅうざい欧米おうべいじん記者きしゃ5めいニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派とくはいんやシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者きしゃロイタろいた通信つうしんしゃのスミス記者きしゃ、アソシエイツプレスのマクダニエル記者きしゃ、パラマウントニュースリールのメンケン記者きしゃ)が駐在ちゅうざいし、[132]南京なんきん占領せんりょう状況じょうきょうのち上海しゃんはい方面ほうめんふね避難ひなんした[133]。この5にん記者きしゃ実際じっさい南京なんきんせん遭遇そうぐうしており、かれらの南京なんきん事件じけんについての記事きじ国際こくさい社会しゃかいたいして1937ねん12がつ以降いこう翌年よくねんにかけて掲載けいさいされた[133][注釈ちゅうしゃく 12]。その5にん記者きしゃなかのひとり、ニューヨーク・タイムス記者きしゃティルマン・ダーディンが、12月17にち上海しゃんはいおき停泊ていはくちゅうのアメリカぐん砲艦ほうかんオアフ英語えいごばんから打電だでんしたレポートが、南京なんきん事件じけんかんする第一報だいいっぽうとなった[134]

南京なんきんにおけるだい残虐ざんぎゃく行為こうい蛮行ばんこうによって、日本にっぽんぐん南京なんきん中国ちゅうごく市民しみんおよび外交がいこうじんから尊敬そんけい信頼しんらいけるわずかな機会きかいうしなってしまった...」「中国ちゅうごく政府せいふ機構きこう瓦解がかい中国ちゅうごくぐん解体かいたいのため南京なんきんにいたおおくの中国人ちゅうごくじんは、日本にっぽんぐん入城にゅうじょうとともに確立かくりつされるとおもわれた秩序ちつじょ組織そしきに、すぐにもおうじる用意よういがあった。日本にっぽんぐん城内きうち制圧せいあつすると、これでおそろしいばくげきみ、中国ちゅうごくぐんからだい被害ひがいけることもなくなったとかんがえて、中国人ちゅうごくじん住民じゅうみんあいだおおきな安堵あんど気持きもちひろがった。歓呼かんここえ先頭せんとう日本にっぽんへいむかえた住民じゅうみんもいた。
しかし日本にっぽんぐん占領せんりょうしてからにちあいだ事態じたい見通みとおしは一変いっぺんした。だい規模きぼ略奪りゃくだつ婦女ふじょ暴行ぼうこう一般いっぱん市民しみん虐殺ぎゃくさつ自宅じたくからのて、捕虜ほりょ集団しゅうだん処刑しょけい青年せいねん男子だんし強制きょうせい連行れんこうが、南京なんきん恐怖きょうふまちしてしまった[135]。」
ティルマン・ダーディン

南京なんきん占領せんりょう直後ちょくご直接ちょくせつ経験けいけんしたジャーナリストによる初期しょき欧米おうべい諸国しょこくへの報道ほうどうがあったものの、南京なんきん事件じけんについての欧米おうべい各国かっこく反応はんのうがいしておおきなものではなかった[32]。これはアジアでの出来事できごとたいする欧米おうべい社会しゃかい関心かんしんひくさにくわえ、1937ねん12月12にち長江ながえ揚子江ようすこう)でアメリカ海軍かいぐん砲艦ほうかんパナイごう日本にっぽんぐんによって撃沈げきちんされる事件じけんパナイごう事件じけん)が発生はっせいしたことに影響えいきょうされていた[32][136]。この事件じけん最終さいしゅうてきには日本にっぽんとアメリカのあいだ外交がいこうてき決着けっちゃくされたものの、事件じけんつうじて日本にっぽんぐん南京なんきん占領せんりょうたいするジャーナリストの取材しゅざい活動かつどうおおきく阻害そがいされたほか、パナイごう事件じけん報道ほうどう連日れんじつトップニュースとして掲載けいさいされる一方いっぽう南京なんきん事件じけん報道ほうどうすみいやられ、世論せろん注目ちゅうもく自体じたいがパナイごう事件じけん集中しゅうちゅうすることにもなった[137][注釈ちゅうしゃく 13]。その日本にっぽんぐん不法ふほう行為こういすくなくなり、欧米おうべいのジャーナリストもいなくなっていた1938ねん1がつ26にちに、日本にっぽんへい一部いちぶきゅう米人べいじん住居じゅうきょみこみ、何人なんにんもの女性じょせい拉致らちしてはみな強姦ごうかんしていたことをとがめるために日本人にっぽんじん憲兵けんぺいとともにその住居じゅうきょにゅうろうとしたアメリカじん外交がいこうかんジョン・ムーア・アリソン(このひと戦後せんごちゅうにち大使たいしになる外交がいこうかん南京なんきん赴任ふにんまえ日本にっぽん在住ざいじゅう経験けいけんある元々もともと親日しんにち)が日本にっぽんへい殴打おうだされる事件じけんがおきる[141]外交がいこうかん兵卒へいそつ殴打おうだされるという国家こっか面子めんつつぶされた事件じけんであり、アメリカでは南京なんきん事件じけんよりも報道ほうどうされて、べい本土ほんど日本にっぽんたいする世論せろん憤慨ふんがいこし、ワシントンでは日本にっぽん特産とくさんシルクのボイコットをもとめるデモも発生はっせいし、外務省がいむしょうがわ陳謝ちんしゃでようやく沈静ちんせいした[142]

一方いっぽうで、南京なんきん事件じけん代表だいひょうされる日本にっぽんぐんによる中国人ちゅうごくじん大量たいりょう殺戮さつりく報道ほうどうは、アメリカにおけるたいにち感情かんじょう悪化あっかさせ、「『人道的じんどうてき野蛮やばん行為こうい』を平然へいぜんとおこなう日本にっぽんへいにたいする嫌悪けんお憎悪ぞうお感情かんじょう国民こくみんあいだ醸成じょうせいさせ、それが日米にちべい開戦かいせんの『敵国てきこく日本にっぽん』のイメージを形成けいせいした側面そくめんもあった[35]」。ジョン・ラーベはドイツに帰国きこく日本にっぽんぐん行為こういについての講演こうえんおこなアドルフ・ヒトラーはじめとしたドイツの政府せいふ幹部かんぶへこの事件じけん報告ほうこくしたが、同盟どうめいこく日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざいについての記述きじゅつがヒトラーのいかりを逮捕たいほされた[35]かれはその南京なんきん事件じけんについて発言はつげんしないことを条件じょうけん釈放しゃくほうされることになる[143]

中国ちゅうごくではくちコミのかたちひろ中国人ちゅうごくじん全体ぜんたいられることになり、また1938ねん7がつ南京なんきんにおける日本にっぽんぐん残虐ざんぎゃく行為こうい写真しゃしんしゅうにち寇暴行実ぎょうじつろく』が発行はっこうされた[143]。とりわけ中国人ちゅうごくじん女性じょせいたいする凌辱りょうじょく日本にっぽんたいする敵意てきいつよ醸成じょうせいし、抗日こうにち運動うんどう活発かっぱつつながった[143]

中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ統治とうちする中国ちゅうごく国民党こくみんとう南京なんきん事件じけんかか広報こうほうは、国民党こくみんとう新聞しんぶんでは、外国がいこく報道ほうどう翻訳ほんやくのみで南京なんきん事件じけんについてほうじており[144]当時とうじ中国ちゅうごく国民党こくみんとうが1937ねん12月からやく11かげつあいだに300かい記者きしゃ会見かいけんおこなったが、国民党こくみんとう秘密ひみつ文書ぶんしょなかには「南京なんきん事件じけん記者きしゃ会見かいけんがあった」という記録きろくはない[145]。その背景はいけいとして、事実じじつじょう国民党こくみんとう政府せいふは、南京なんきんからして、その全貌ぜんぼうりえない日本にっぽんぐん支配しはい南京なんきん事件じけんこり、外国がいこくじん記者きしゃ報道ほうどう直後ちょくご被害ひがい状態じょうたいであり、また、当時とうじ中国ちゅうごくがわ新聞しんぶん戦意せんい高揚こうようのために戦勝せんしょう記事きじかえしており、南京なんきんせんでの敗北はいぼくほうじたくなかったためと推察すいさつされる[146]中国ちゅうごく政府せいふ主席しゅせき蒋介石しょうかいせきは、その声明せいめい[日本にっぽん国民こくみんぐ」であきらかに南京なんきん事件じけんれており[147]、蒋の日記にっきでも「南京なんきんであくなき惨殺ざんさつ姦淫かんいん」とべている[148]

南京なんきん事件じけん発生はっせいやく2かげつの1938ねん2がつ開催かいさいされた国際こくさい連盟れんめいだい100かい理事りじかい[注釈ちゅうしゃく 14]では、日本にっぽん軍事ぐんじ行動こうどうたいして、前年ぜんねん10がつ国際こくさい連盟れんめい総会そうかいでの非難ひなん決議けつぎ確認かくにんするかたち再度さいど非難ひなん決議けつぎをした[149]中国ちゅうごくがわ代表だいひょう顧維ひとしはこの会議かいぎ演説えんぜつおこない、にちちゅう戦争せんそう全般ぜんぱん状況じょうきょうついて、深刻しんこく事態じたいであると「南京なんきん2まんにん虐殺ぎゃくさつ」もその一部いちぶとしてふくめて主張しゅちょうし、中国ちゅうごく存亡そんぼうにかかわる深刻しんこく状況じょうきょう日本にっぽん南京なんきん傀儡かいらい政権せいけんつくり、中国ちゅうごく経済けいざい破壊はかいするような不利ふり関税かんぜいさく設置せっちしたなど)をうったえた[150]日本にっぽん前途ぜんと歴史れきし教育きょういくかんがえる議員ぎいんかい戸井田といだとおる衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(2008ねん当時とうじ)は、中国ちゅうごくがわ代表だいひょう顧維ひとしが、南京なんきん事件じけん死者ししゃ2まんにんなどの当時とうじ中国ちゅうごく把握はあくした被害ひがい内容ないよう説明せつめい)や空爆くうばくなどのにちちゅう戦争せんそうによる中国ちゅうごく深刻しんこく被害ひがいについて説明せつめいしたことにかんして、そのときの演説えんぜつでの南京なんきん事件じけん説明せつめい国際こくさい連盟れんめい非難ひなん決議けつぎあんふくまれなかった(連盟れんめい理事りじかいがすでに起案きあんした非難ひなん決議けつぎあんに「追加ついか」で記述きじゅつされなかった)ことから、国際こくさい連盟れんめいがデマにもとづく南京なんきん事件じけん無視むしして、「南京なんきん2まんにん虐殺ぎゃくさつ」すらみとめなかったとみなし、さらに、当時とうじ中国ちゅうごく虐殺ぎゃくさつ2まんにん主張しゅちょうしていたことからのち虐殺ぎゃくさつ30まんにんせつ虚偽きょぎであるとし、日本にっぽんへの制裁せいさい中国ちゅうごく希望きぼうしたが国際こくさい連盟れんめい実施じっししなかったこともふくめて強調きょうちょうした[151]戸井田といだは、1937ねん9がつ日本にっぽんぐん中国ちゅうごく都市としへの空爆くうばく渡洋とよう爆撃ばくげきなど)には国際こくさい連盟れんめい具体ぐたいてき非難ひなん決議けつぎがあったものの、南京なんきん事件じけんは(虚偽きょぎであったので)無視むししていると主張しゅちょう[152]。これにたいして笠原かさはらじゅうきゅうつかさは、南京なんきん事件じけんが、連盟れんめい理事りじかい非難ひなん決議けつぎあんに「追加ついか記述きじゅつされて」いないのは事実じじつであるが、中国ちゅうごくがわ代表だいひょう顧維ひとし演説えんぜつ趣旨しゅしは、ナチスドイツの台頭たいとうとう危機きき欧米おうべい関心かんしんなかなにとか国際こくさい社会しゃかい中国ちゅうごく支援しえんし、「中国ちゅうごく滅亡めつぼう危機きき阻止そし」することであって、南京なんきん事件じけんへの非難ひなん決議けつぎ個別こべつ要求ようきゅうしておらず(決議けつぎでも、日本にっぽん軍事ぐんじ行動こうどうへの全体ぜんたいてき非難ひなんべられており)、南京なんきん事件じけん虚偽きょぎであるので「国際こくさい連盟れんめい無視むしした」とまではなせないと主張しゅちょう[152]

南京なんきんせんにおける日本にっぽんぐん編成へんせい[編集へんしゅう]

南京なんきん攻略こうりゃく参加さんかした日本にっぽんぐんは、ちゅうささえ方面ほうめんぐん隷下れいか上海しゃんはい派遣はけんぐんならびにだい10ぐんである[52]

にちちゅう戦争せんそうはじまっていちがつあまり経過けいかした1937ねん8がつ11にち中国ちゅうごくぐん主戦しゅせんじょう華北かほくから華中かちゅううつすべく、上海しゃんはい駐留ちゅうりゅうする日本にっぽん海軍かいぐん陸戦りくせんたいへの攻撃こうげき指示しじした[153]海軍かいぐん陸戦りくせんたい兵員へいいん4,000にんたいし、中国ちゅうごくぐんやく30,000にんであり、日本にっぽん政府せいふ陸軍りくぐん部隊ぶたい増援ぞうえんとして派遣はけんすることを決定けっていした。この増援ぞうえん部隊ぶたい上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん松井まついいし)であり、だい3だい11師団しだん基幹きかんとした[154]。その、9月にはだい9だい13師団しだんだい101師団しだん重藤しげとう支隊したい野戦やせん重砲じゅうほうへいだい5旅団りょだん順次じゅんじ増援ぞうえんとして上海しゃんはい派遣はけんぐんくわわった[155]

もともと、上海しゃんはい派遣はけんぐんは、上海しゃんはい周辺しゅうへんでの限定げんていてき出兵しゅっぺい(1937ねん8がつ15にち編組へんそ上海しゃんはい周辺しゅうへん中国ちゅうごくぐん排除はいじょ日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん安全あんぜん確保かくほするため)であった[156]。その中国ちゅうごくぐんとのあいだ苦戦くせんするなか、10月には華北かほく展開てんかいしていた部隊ぶたいき、だい10ぐん編成へんせいされた(司令しれいかん柳川やながわ平助へいすけ[155]だい10ぐんだい6だい18だい114師団しだん国崎くにさき支隊したい基幹きかんとし、11月5にち杭州こうしゅうわん上陸じょうりくして上海しゃんはいせん参加さんかした[157]くわえてだい16師団しだん華北かほくから転用てんようされて上海しゃんはい派遣はけんぐんくわわり、11月13にち上海しゃんはい上陸じょうりくした[155]上海しゃんはいせん末期まっきの11月7にち上海しゃんはい派遣はけんぐんだい10ぐん統括とうかつするなかささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいし上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん兼任けんにん)があらたにへんあわされた[158]

この方面ほうめんぐん上海しゃんはいせんのち南京なんきん攻略こうりゃくへとかうことになった。もともと、司令しれいかん松井まついいし大将たいしょうは、上海しゃんはい派遣はけんぐんのころから、だい規模きぼ部隊ぶたい迅速じんそく南京なんきん攻略こうりゃくしたいと主張しゅちょうしていた[159]

よく1938ねん昭和しょうわ13ねん2がつ14にちに、さい編制へんせいにより隷下れいかりょうぐんともなかささえ方面ほうめんぐん廃止はいしされた。あらたにちゅうささえ派遣はけんぐん編制へんせいされ(司令しれいかん方面ほうめんぐんおよだい10ぐん上海しゃんはい派遣はけんぐんふくめて全員ぜんいん解任かいにんのうえ日本にっぽん召還しょうかん)、2がつ10日とおかきたささえ方面ほうめんぐん編入へんにゅうされただい114師団しだんのぞ隷下れいかすべての師団しだん指揮しき[160]華中かちゅうでの戦闘せんとう継続けいぞくした。

以下いかはたいく彦のまとめにしたがって南京なんきんせんにおける日本にっぽんぐん現地げんち部隊ぶたい編成へんせいをまとめる(1937ねん12月10にち現在げんざい)。

どき系列けいれつ[編集へんしゅう]

  • 1937ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんにちちゅう戦争せんそう開始かいし[169][170]
  • 1937ねん8がつ11にち蒋介石しょうかいせき上海しゃんはい駐留ちゅうりゅうする日本にっぽん海軍かいぐん陸戦りくせんたいへの攻勢こうせい指示しじ[153]
  • 1937ねん8がつ13にちにちちゅうりょうぐん上海しゃんはい戦闘せんとう開始かいし日本にっぽん陸軍りくぐん上海しゃんはい派遣はけん決定けってい[169]
  • 1937ねん8がつ15にち日本にっぽん上海しゃんはい派遣はけんぐん編組へんそ[169]日本にっぽん海軍かいぐん南京なんきんはつ空襲くうしゅう[41]
  • 1937ねん9がつ11にち日本にっぽん、3師団しだんだい9だい13師団しだんだい101師団しだん)の上海しゃんはい派遣はけんぐんへの増派ぞうは決定けってい[169][155]
  • 1937ねん9がつ28にち石原いしはら莞爾かんじ少将しょうしょう参謀さんぼう本部ほんぶだいいち部長ぶちょうから関東軍かんとうぐん参謀さんぼう副長ふくちょう転出てんしゅつ[171]
  • 1937ねん10がつ20日はつか日本にっぽんだい10ぐん編成へんせい[169]
  • 1937ねん11月5にちだい10ぐん杭州こうしゅうわん上陸じょうりく上海しゃんはいせん参加さんか[169]
  • 1937ねん11月7にち日本にっぽん上海しゃんはい派遣はけんぐんだい10ぐん統括とうかつするちゅうささえ方面ほうめんぐん編組へんそ[169]
  • 1937ねん11月13にちだい16師団しだん上海しゃんはい派遣はけんぐん)がしろ茆江上陸じょうりく[169]
  • 1937ねん11月15にちだい10ぐん南京なんきんへの追撃ついげき前進ぜんしん独断どくだん決定けってい進撃しんげき開始かいし[172][173]
  • 1937ねん11月15にち中国ちゅうごく南京なんきん分散ぶんさん遷都せんと決議けつぎ[169]。このまでブリュッセルにてきゅうカ国かこく条約じょうやく会議かいぎ開催かいさいされており、にちちゅう戦争せんそうなんとうかの方法ほうほう解決かいけつすべきであることが論議ろんぎされたが、この会議かいぎ影響えいきょうで、日本にっぽんもドイツを仲介ちゅうかいとした中国ちゅうごくとの和平わへい交渉こうしょうトラウトマン和平わへい工作こうさく)に真剣しんけんむこととなる[174]
  • 1937ねん11月19にち日本にっぽん上海しゃんはいにおける予定よてい占領せんりょうせん蘇州そしゅう-よしみきょう)に到達とうたつ[52][169]
  • 1937ねん11がつ20日はつか日本にっぽん大本営だいほんえい設置せっち[169]
  • 1937ねん11月22にちちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいし大将たいしょう南京なんきん進撃しんげき参謀さんぼう本部ほんぶ意見いけん具申ぐしん[173]
  • 1937ねん11月25にち上海しゃんはい派遣はけんぐん南京なんきんへの進撃しんげき開始かいし[173]
    • 以降いこう進撃しんげき南京なんきん近郊きんこうむら々で日本にっぽんぐんによる虐殺ぎゃくさつ略奪りゃくだつ強姦ごうかん放火ほうかとう発生はっせい[175]
  • 1937ねん11月28にち日本にっぽん参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょう多田ただ駿しゅん中将ちゅうじょう南京なんきん攻略こうりゃく同意どうい[173]
  • 1937ねん12月1にち日本にっぽん大本営だいほんえい南京なんきん攻略こうりゃく命令めいれい[169]
  • 1937ねん12月2にち上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん朝香あさかみやばと彦王中将ちゅうじょう交代こうたい[169]
  • 1937ねん12月4にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきんせん突入とつにゅう日本にっぽんきん現代げんだい学者がくしゃ笠原かさはらじゅうきゅうつかさは、この前後ぜんご南京なんきん行政ぎょうせい農村のうそん虐殺ぎゃくさつなどもふくむので)を南京なんきん事件じけん開始かいしとする[125]
  • 1937ねん12月5にちちゅうささえ方面ほうめんぐん松井まついいし司令しれいかんは、南京なんきん攻略こうりゃくせんなかの12月5にちから15にちまで蘇州そしゅう司令しれいまり、病気びょうきやすみ、南京なんきんせん参加さんか戦闘せんとう指揮しきもできず[176]
  • 1937ねん12月7にち総統そうとう蔣介せき夫妻ふさいはアメリカじんパイロットの操縦そうじゅうする大型おおがた単葉たんよう南京なんきん脱出だっしゅつ[177]中国ちゅうごくぐん南京なんきん周辺しゅうへん地域ちいきにおける焦土しょうど作戦さくせん開始かいし[178]ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいしは、南京なんきんじょう攻略こうりゃく要領ようりょう示達じたつし、前線ぜんせん部隊ぶたい統制とうせい強化きょうか綱紀こうき粛正しゅくせいめいじた[18][19]
  • 1937ねん12がつ10日とおかちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきんそう攻撃こうげき開始かいし[169]
  • 1937ねん12月12にち日本にっぽんぐん、アメリカぐん砲艦ほうかんパナイごう撃沈げきちんパナイごう事件じけん[179]
  • 1937ねん12月13にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん占領せんりょう[179]日本にっぽんぐんによる中国ちゅうごくぐん兵士へいしへの「残敵ざんてき掃討そうとう」が開始かいし[84]される。中国ちゅうごくへい捕虜ほりょ敗残はいざんへいあいだちがって兵士へいしとされた民間みんかんじんふくむ)の殺害さつがい安全あんぜんがい南京なんきん市外しがいでの民間みんかんじん殺害さつがい大半たいはんがこの時期じき(12月13にち-12月16にち)に発生はっせい[180]した。日本にっぽんぐんによる略奪りゃくだつ放火ほうか発生はっせい[181]
  • 1937ねん12月15にちニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派とくはいんやシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者きしゃなどのざい南京なんきん新聞しんぶん記者きしゃが、南京なんきんから上海しゃんはい脱出だっしゅつして世界せかい南京なんきん事件じけん発信はっしんするが、南京なんきんにはジャーナリスト不在ふざいとなる[182][183]
  • 1937ねん12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐんが、南京なんきん入城にゅうじょうしき実施じっし[179]。これ以降いこう南京なんきんでの日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつ散発さんぱつてききる。ただし、強姦ごうかん一時いちじ増加ぞうかし、放火ほうか発生はっせい継続けいぞく[184]
  • 1938ねん1がつ1にち南京なんきん自治じち委員いいんかい発会はっかい日本にっぽんぐん協力きょうりょくする現地げんち中国人ちゅうごくじん自治じち機関きかん)[185]
  • 1938ねん1がつ4にち:陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう閑院みやが、松井まついいし司令しれいかんあてに、軍紀ぐんき風紀ふうき改善かいぜん要望ようぼう通達つうたつした[186]
  • 1938ねん1がつ5にち:安全あんぜんでの便衣べんいへいりは、このまでつづいた。
  • 1938ねん1がつ16にち近衛このえ内閣ないかくは「帝国ていこく政府せいふ爾後じご国民こくみん政府せいふたいとせず」と声明せいめいはっし(だいいち近衛このえ声明せいめい)、中国ちゅうごくとの和平わへい交渉こうしょうトラウトマン和平わへい工作こうさく)もられた[187]。蔣介せきも、日本にっぽん政府せいふきびしい講和こうわ条件じょうけんかえすなら拒否きょひすると和平わへい仲介ちゅうかいしたドイツがわつたえた[188]
  • 1938ねん1がつ26にち南京なんきん市内しないもとアメリカじん邸宅ていたくにおいて、日本にっぽんぐん下士官かしかんがアメリカじん外交がいこうかんジョン・ムーア・アリソン殴打おうだするというアリソン殴打おうだ事件じけん(1938ねん1がつ26にち)がきた[189]。アメリカで反日はんにちデモも発生はっせいし、日本にっぽん外務省がいむしょうがわ陳謝ちんしゃでようやく沈静ちんせい[190]
  • 1938ねん2がつ2にち国際こくさい連盟れんめい理事りじかいだい100かいがジュネーブにて開催かいさいされ、中国ちゅうごくがわ代表だいひょう顧維ひとしは、国際こくさい社会しゃかい中国ちゅうごく支援しえんうったえる演説えんぜつおこなうとき、日本にっぽんぐん軍事ぐんじ行動こうどうへの非難ひなんおこななかで、南京なんきんでの中国ちゅうごく市民しみんまんにん虐殺ぎゃくさつおおくの婦女ふじょ暴行ぼうこう事件じけんこったこととして南京なんきん事件じけんについてもべた[191]
  • 1938ねん2がつ14にちちゅうささえ方面ほうめんぐんさい編制へんせいにより隷下れいかりょうぐんとも廃止はいしされた。あらたにちゅうささえ派遣はけんぐん編制へんせい、すでにきたささえ方面ほうめんぐん編入へんにゅうされただい114師団しだんのぞ隷下れいかすべての師団しだん指揮しき[160]松井まつい柳川やながわ朝香あさかみやの3司令しれいかん解任かいにんされ、その日本にっぽん召還しょうかんされる。
  • 1938ねん3がつ28にち日本にっぽんぐんによって設立せつりつしたわば傀儡かいらい政権せいけん中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふ南京なんきん成立せいりつ日本にっぽんぐんによる不法ふほう行為こうい終息しゅうそく笠原かさはらじゅうきゅうはこの前後ぜんご南京なんきん事件じけん終了しゅうりょうとする[125]

事件じけんこした要因よういん[編集へんしゅう]

軍紀ぐんき廃頽はいたい憲兵けんぺいすくなさ[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんはもともと軍紀ぐんきいかめしかったものの、この時期じきは、ぐん中央ちゅうおう問題もんだいするほど軍紀ぐんきみだれていた。南京なんきん事件じけんこしたおおきな要因よういんとしてげられるのが、日本にっぽんぐん軍紀ぐんき廃頽はいたいであり、指揮しき系統けいとうから末端まったん兵士へいし統制とうせいいたるまで様々さまざま存在そんざいした。上海しゃんはい派遣はけんぐんころから、士気しき低下ていか軍紀ぐんき廃頽はいたいすで問題もんだいしており[192]方面ほうめんぐん麾下きかぐんたいする軍紀ぐんき風紀ふうきまりをおこな実行じっこう能力のうりょくっていなかった[193]

軍紀ぐんきめるため、12月7にちちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいし(12月5にちから15にち療養りょうようちゅう現地げんちぐん直接ちょくせつ指揮しきはとれず)は、南京なんきんじょう攻略こうりゃく要領ようりょう示達じたつし、前線ぜんせん部隊ぶたい統制とうせい強化きょうか綱紀こうき粛正しゅくせいめいじた[18][19]ものの、前線ぜんせん部隊ぶたい司令しれいはこうした通達つうたつ遵守じゅんしゅさせる意思いしとぼしく、また南京なんきんへの進軍しんぐん自体じたい準備じゅんび不足ふそくおこなわれたなか現実げんじつてき統制とうせい十分じゅうぶん憲兵けんぺいそなえておらず、12月17にち時点じてんにおいて7まんにん日本にっぽんへいたい憲兵けんぺいは17にんしか存在そんざいしなかった[72][注釈ちゅうしゃく 18]

陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく軍事ぐんじ課長かちょう田中たなか新一しんいち大佐たいさ上海しゃんはい派遣はけんぐん軍紀ぐんき廃頽はいたいについて以下いかのようにしるしている。

軍紀ぐんき廃頽はいたい根元ねもとは、召集しょうしゅうへいにある。こう年次ねんじ召集しょうしゅうしゃにある。召集しょうしゅう憲兵けんぺい下士官かしかんなどに唾棄だきすべき知能犯ちのうはんてき軍紀ぐんき破壊はかい行為こういがある。現地げんち依存いぞん給養きゅうようじょう処置しょちあやまって軍紀ぐんき破壊はかい第一歩だいいっぽともなる。すなわち地方ちほうみんからの物資ぶっし購買こうばい徴発ちょうはつし、掠奪りゃくだつし、暴行ぼうこう転化てんかするごときがそれである……補給ほきゅうていとどこお停滞ていたい)からだい一線いっせん飢餓きが欠乏けつぼうおちいらしめることも軍紀ぐんき破壊はかいのもととなる。
軍紀ぐんき粛正しゅくせいみちはそれらのぜん局面きょくめんにわたって施策しさくせられなければならないが、当面とうめん緊急きんきゅう問題もんだいは、後方こうほうしょ機関きかんにある。後方こうほうしょ機関きかん混乱こんらんは、動員どういん編成へんせいじょうならびに指揮しき系統けいとうじょうおちいにももちろん起因きいんするが、後方こうほう特設とくせつ部隊ぶたい軍紀ぐんきてき乱脈らんみゃくだい問題もんだいである。
軍事ぐんじてき無知むち規律きりつ無責任むせきにん怠慢たいまんなど、およそ国体こくたい行動こうどう要素ようそ皆無かいむというべく、これをこのまま放置ほうちしておいてはぜん軍規ぐんきりつ同様どうようせしめることにもなる。問題もんだい制度せいど機構きこうよりも人事じんじてき刷新さっしんにある[194]。」
田中たなか新一しんいち
松井まつい大将たいしょうとしては、南京なんきん攻略こうりゃく切望せつぼうす。目的もくてきたおせ蔣……ただし、師団しだん現状げんじょうでは戦闘せんとう能力のうりょくなかんずく攻撃こうげき能力のうりょく不足ふそくするものと、あり。軍紀ぐんき風紀ふうき維持いじについては、憂慮ゆうりょすべきものおおく、その原因げんいん重大じゅうだいなるものは、指揮しきかんかくきゅうともに威力いりょくなきにあるといえる。ぐん再建さいけんかんするけん
(1)情況じょうきょうじょう整理せいり可能かのうなるにしたがって後備こうびへい召集しょうしゅう解除かいじょおこない、できるだけすみやかに平常へいじょう体制たいせいうつし、みぎによる兵員へいいん不足ふそくは、補充ほじゅうへい新兵しんぺいによって充足じゅうそくする。
(2)下士官かしかんせいたがえ整理せいりをおこない、かつ徹底てっていせる短期たんきさい教育きょういくおこなう。将校しょうこうについても同断どうだんみぎのほか、戦地せんち教育きょういく徹底てっていをはかる[195]。」
田中たなか新一しんいち

命令めいれい違反いはん追認ついにんした南京なんきん攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

もともと、日本にっぽんぐん上海しゃんはい派遣はけんは、上海しゃんはい周辺しゅうへんでの限定げんていてき出兵しゅっぺい[156]であったが、だい10ぐん[155]ふくみ、11月7にち上海しゃんはい派遣はけんぐんだい10ぐん統括とうかつするなかささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついいし上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん兼任けんにん)があらたに創設そうせつされていく[158]

つまり、上海しゃんはいへの派遣はけん兵力へいりょく当初とうしょ想定そうていえてだい規模きぼなものとなった。そして、その軍隊ぐんたい一部いちぶが、命令めいれい無視むしによる南京なんきん攻略こうりゃくへとかうことが南京なんきんせん(南京なんきん事件じけん)のきっかけであるが、その現地げんちぐん暴走ぼうそう陸軍りくぐん中央ちゅうおう拡大かくだい容認ようにんした、文字通もじどおり、なしくずてきなプロセスであった。

背景はいけいとして、陸軍りくぐん中央ちゅうおう拡大かくだい着任ちゃくにんしたことがある。当初とうしょ上海しゃんはい現地げんちぐん増援ぞうえん参謀さんぼう本部ほんぶだいいち部長ぶちょう作戦さくせん石原いしはら莞爾かんじ少将しょうしょうは、反対はんたいしていた。しかし、石原いしはら更迭こうてつされ、後任こうにん戦線せんせん拡大かくだい下村しもむらじょう少将しょうしょう就任しゅうにんし、拡大かくだい武藤むとうあきら大佐たいさらが主導しゅどうけんにぎった[46]。なお、上海しゃんはいにおける戦闘せんとう一段落いちだんらくした1937ねん11がつ上旬じょうじゅん武藤むとう塚田つかだおさむ少将しょうしょう拡大かくだい指揮しきかんたちがちゅうささえ方面ほうめんぐん幕僚ばくりょうとして出向しゅっこうした[193]。そのとき、陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく軍事ぐんじ課長かちょう田中たなか新一しんいち大佐たいさ武藤むとうらとおなじく戦線せんせん拡大かくだい主張しゅちょうしつつ、かれからても上海しゃんはい日本にっぽんぐん兵站へいたん軍紀ぐんきには重大じゅうだい問題もんだいがあることがあきらかであり[49]ぐん再編さいへんのぞんだ。しかし、このぐん再編さいへん処置しょち実行じっこうされなかった。

そして、11月15にちだい10ぐん司令しれいは、進撃しんげき不可ふかとしていた陸軍りくぐん中央ちゅうおう命令めいれい無視むしてし、撤退てったいする中国ちゅうごくぐん追撃ついげきして南京なんきんへの進撃しんげき独断どくだん決定けっていした[172][173]。この報告ほうこくけた参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょう多田ただ駿しゅん中将ちゅうじょう前進ぜんしん停止ていし命令めいれいしたが、11月20にち設置せっちされた大本営だいほんえいでは下村しもむら少将しょうしょうらにより、南京なんきんその攻撃こうげきすることも状況じょうきょう如何いかによってありるとして、なしくずてき方針ほうしんまれていった[196]

だい10ぐん南京なんきん進撃しんげき直後ちょくごちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん兼任けんにん)の松井まついいし大将たいしょう南京なんきんへの進撃しんげき参謀さんぼう本部ほんぶ意見いけん具申ぐしん[197]上海しゃんはい派遣はけんぐん南京なんきんへの突進とっしん開始かいしし、だい10ぐん上海しゃんはい派遣はけんぐんによる先陣せんじんあらそいのような状況じょうきょうとなった[注釈ちゅうしゃく 19]参謀さんぼう本部ほんぶ大本営だいほんえい最終さいしゅうてき現地げんち状況じょうきょう制御せいぎょできず、11月28にちには南京なんきん攻略こうりゃく承認しょうにんした[199]。このような意思いし決定けっていのため、南京なんきんかう部隊ぶたい上海しゃんはいせん損害そんがい補充ほじゅうすることもできず、また必要ひつよう兵站へいたんほとんいた状態じょうたい進軍しんぐんすることになった。これは日本にっぽんぐん軍紀ぐんき廃頽はいたい拍車はくしゃをかけ、また兵站へいたんのほとんどを現地げんち調達ちょうたつ依存いぞんしたことは略奪りゃくだつ拡大かくだいすることになった[51][173]

はたいく彦はこの状況じょうきょうについて、「血気けっきざかりのわか中隊ちゅうたいちょう功名こうみょうしんにはやるぐらいならともかく、じゅうまん大軍たいぐんをひきいるぐん司令しれいかんが、方面ほうめんぐんはもちろん中央ちゅうおう命令めいれい方針ほうしん無視むしして、てき首都しゅと攻略こうりゃくけがけしようというのである。軍紀ぐんき軍律ぐんりつまもれと部下ぶか兵士へいし要求ようきゅうするどころではない。それに南京なんきんまでのよんひゃくキロの長距離ちょうきょり急進きゅうしんささえる装備そうび補給ほきゅう準備じゅんびもなかった。さすがに幕僚ばくりょう会議かいぎでは、兵士へいしおおくが軍靴ぐんかたず、地下足袋じかたび姿すがたなので追撃ついげき無理むりではないか、というこえもでたが、作戦さくせん主任しゅにん参謀さんぼう寺田てらだ雅夫まさお中佐ちゅうさが、「地下足袋じかたびやぶれたらぬぐいをいても前進ぜんしんできる。弾薬だんやくがなくても相手あいてささえぐん銃剣じゅうけんりる。神速しんそくなる追撃ついげきをやれば現地げんち物資ぶっし徴発ちょうはつ利用りようがかえって容易よういになる」(寺田てらだだいじゅうぐん作戦さくせん指導しどうせきスル考察こうさつ」)と強気つよきでまとめ、衆議しゅうぎ一決いっけつしたという[200]」とまとめている。

中国ちゅうごくぐん南京なんきん焦土しょうど戦術せんじゅつによる日本にっぽんぐん南京なんきん城内じょうのうち駐留ちゅうりゅう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん南京なんきん進撃しんげき先立さきだち、中国ちゅうごくぐんは12月7にちから12月9にちにかけて「清野きよの作戦さくせん」を実行じっこうした。これは日本にっぽんぐん遮蔽しゃへいぶつとして利用りようされる可能かのうせいのある建物たてもの焼却しょうきゃくする焦土しょうど作戦さくせんであり、南京なんきん城壁じょうへき周囲しゅうい居住きょじゅうおよび南京なんきんじょうから半径はんけい16キロ以内いないにある道路どうろ沿いの村落そんらく民家みんか焼払やきはらわれた[74]食糧しょくりょう物資ぶっし現地げんち調達ちょうたつ依存いぞんしていた日本にっぽんぐんはこの焦土しょうど戦術せんじゅつ結果けっか南京なんきん周辺しゅうへん駐屯ちゅうとんすることができなくなり、南京なんきん城内じょうのうち駐屯ちゅうとんすることになった(これはちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいからは厳禁げんきんされていた行動こうどうであった)[74][19]南京なんきん市街しがいでも軍政ぐんせい鉄道てつどうなどの主要しゅよう建造けんぞうぶつ焼却しょうきゃくされた[56]。また、南京なんきん防衛ぼうえいめぐ中国ちゅうごくぐん方針ほうしん死守ししゅ撤退てったい一貫いっかんせず、防衛ぼうえい兵力へいりょく確保かくほするために兵士へいし逃亡とうぼう防止ぼうしする処置しょちがとられていたことは、中国ちゅうごくぐん実際じっさい撤退てったいする段階だんかいはいって多数たすう兵士へいしりにされたり、逃走とうそう防止ぼうしのための同士討どうしうちをする事態じたいこした[57]

しかし、その日本にっぽんぐん放火ほうかがやはりだい規模きぼこる。「中国人ちゅうごくじん兵士へいしおよび南京なんきん市民しみん悲劇ひげき日本にっぽんぐん南京なんきん入城にゅうじょうまえはじまり、そしてさらにかげざん悲劇ひげき日本にっぽんぐん入城にゅうじょうちうけていた[57]」と臼井うすい勝美かつみはこの状況じょうきょうひょうする。日本にっぽんぐん放火ほうかは、「南京なんきん自慢じまんたねだった太平たいへい」を跡形あとかたもなくくす[201]ひとしおおきな損害そんがいあたえた。

入城にゅうじょうしき強行きょうこうによる民間みんかんじん誤認ごにん虐殺ぎゃくさつふくめた敗残はいざんへい虐殺ぎゃくさつ[編集へんしゅう]

すでに、南京なんきん占領せんりょうしたのちの12月17にちに、日本にっぽんぐん南京なんきん入城にゅうじょうしきおこなわれることになったことが、平穏へいおん入城にゅうじょうしきのために、治安ちあんまもることに神経しんけいぎすませ、城内きうち敗残はいざんへいとみられるものの虐殺ぎゃくさつ(間違まちがえてころされた一般いっぱん住民じゅうみんふくむ)につながったとされる。

南京なんきんでの戦闘せんとうわっていなかった12月14にちから日本にっぽん国内こくないでは南京なんきん占領せんりょう祝賀しゅくがする各種かくしゅ行事ぎょうじ報道ほうどう広範こうはんひろげられ戦勝せんしょうムードをげた[202]現地げんちぐん独断どくだん専行せんこうからはじまった南京なんきん攻略こうりゃくせんであったが、昭和しょうわ天皇てんのうから南京なんきん占領せんりょうよろこぶ「言葉ことば」も下賜かしされ(昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご南京なんきん事件じけんり、「じつにひどい」とおっしゃった[203]南京なんきん占領せんりょう公式こうしきにもみとめられた[202]

ちゅうささえ方面ほうめんぐん松井まついいし司令しれいかんは、南京なんきん攻略こうりゃくせんなかの12月5にちから15にちまで蘇州そしゅう司令しれいまり、病気びょうきやすんでおり、南京なんきんせん参加さんか戦闘せんとう指揮しきもできなかった[204]。その松井まついが、12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん入城にゅうじょうしき挙行きょこうするむねを、現地げんちぐん通達つうたつした[94]現地げんち部隊ぶたい時期じき尚早しょうそうとしてかえ延期えんきもとめたが、松井まついがんとして12月17にち入城にゅうじょうしき実行じっこうゆずらなかった[94][205]一方いっぽう上海しゃんはい派遣はけんぐん麾下きかだい16師団しだんは12月15にちにはすで独自どくじ入城にゅうじょうしきおこなっており、現地げんちぐん功績こうせき横取よこどりするようななかささえ方面ほうめんぐん入城にゅうじょうしきかんする通達つうたつつよ不快ふかいかんしめした[94]

結局けっきょく12がつ17にちなかささえ方面ほうめんぐん入城にゅうじょうしき強行きょうこうされ、南京なんきん戦中せんちゅう病床びょうしょうた(前々まえまえまで)松井まついいし司令しれいかん乗馬じょうば姿すがた堂々どうどう入城にゅうじょう閲兵えっぺいした。しかし、その入城にゅうじょうしき準備じゅんび期間きかんには、南京なんきん城内じょうのうちでの戦闘せんとうはまだ散発さんぱつてき発生はっせいしており治安ちあん確立かくりつされていなかった。またおおくの敗残はいざんへい市民しみんなかまぎんだことが予想よそうされ、上海しゃんはいせん以来いらい便衣べんいへい奇襲きしゅう攻撃こうげきによる損害そんがい経験けいけんしていた日本にっぽんぐんはこれにつよ警戒けいかいしんっていた。このため皇族こうぞくである朝香あさかみやばと彦王(12月2にち上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん就任しゅうにん)の安全あんぜん確保かくほやその不祥事ふしょうじふせぐため、入城にゅうじょうしき挙行きょこうわせて早急そうきゅう治安ちあん回復かいふく必要ひつようになると「うたがわしいものはすべてそののうちに始末しまつする方針ほうしんがとられた[206][207]。この結果けっかたとえば南京なんきん安全あんぜんにおける掃討そうとう担当たんとうしただい9師団しだんなどは、兵士へいし民間みんかんじん選別せんべつする余裕よゆうをもたなかったために成年せいねん男子だんしのほとんどを便衣べんいへいなして処刑しょけいするような事態じたいとなった[206]

捕虜ほりょへの人道的じんどうてき配慮はいりょ欠如けつじょ中国ちゅうごくへの復讐ふくしゅうしん / 敗残はいざんへい便衣べんいへいなしたことへの疑問ぎもん[編集へんしゅう]

南京なんきんせんでは、非常ひじょうおおかったとされる殺害さつがい事案じあんが、日本にっぽんぐんによる中国人ちゅうごくじん捕虜ほりょ組織そしきてき殺害さつがいであり、1まんにん単位たんい大掛おおがかりな捕虜ほりょ殺害さつがいまれであり、すうじゅうにんすうひゃくにん単位たんい虐殺ぎゃくさつ数多かずおお発生はっせいしたと、はたいく説明せつめいする[208]。(ただし、実際じっさいには、揚子江ようすこうでのすうせんからすうまん程度ていど大量たいりょう処刑しょけい各種かくしゅ証言しょうげん大量たいりょう処刑しょけいとの関連かんれんせいうたがわせるいちしょでの大量たいりょう死体したい埋葬まいそう記録きろく存在そんざいする。)

なお、日本にっぽんぐんは、それ以前いぜんにち戦争せんそうのときは戦時せんじ国際こくさいほう忠実ちゅうじつまも外国がいこくじん捕虜ほりょへの人道的じんどうてき配慮はいりょおこなった[209]ことが国際こくさいてきられており、つづだいいち大戦たいせんのときもドイツじん捕虜ほりょへの配慮はいりょ捕虜ほりょ収容しゅうようしょでの人道的じんどうてきあつか[210]内外ないがいひろられていたが、武藤むとうあきら南京なんきんにも参謀さんぼうとして従軍じゅうぐん)は、そのシベリア出兵しゅっぺい以降いこうは、日本にっぽんぐん軍規ぐんきりつ問題もんだいこりはじめたとされた[211]

にちちゅう戦争せんそうはじまると、日本にっぽん国民こくみん政府せいふ暴支膺懲ようちょうこえされ、また中国ちゅうごくがわ日本にっぽん陸軍りくぐん傀儡かいらい地方ちほう政権せいけんをつくった地域ちいきにあるとおりしゅう日本にっぽん在住ざいじゅうみん残虐ざんぎゃく殺害さつがい行為こういおこなったとおりしゅう事件じけん背景はいけいにあって、日本にっぽんぐんチャハル作戦さくせん一般いっぱん中国人ちゅうごくじん中国ちゅうごくへい捕虜ほりょ無辜むこ殺害さつがいする事件じけんをすでにこしており[212]、そのうえ、また上海しゃんはいせんにおいて、日本にっぽん軍人ぐんじん中国ちゅうごくとのはげしいたたかいのなかで、戦友せんゆうおおくをうしない、中国ちゅうごくがわ復讐ふくしゅうする感情かんじょう芽生めばえさせていた[213]ことも原因げんいんであった。

当時とうじ捕虜ほりょあつかいにかか戦時せんじ国際こくさいほうハーグ陸戦りくせん条約じょうやく(1907ねん改定かいてい)は、日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくがともに条約じょうやくとして批准ひじゅん中華民国ちゅうかみんこく:1917ねん5がつ10日とおか日本にっぽん:1911ねん12月13にち[214]していたが、日本にっぽん軍部ぐんぶが、戦時せんじ国際こくさいほう(ハーグ陸戦りくせん条約じょうやく)を遵守じゅんしゅ履行りこうしなくてもいと解釈かいしゃくできる命令めいれいした(日本にっぽん陸軍りくぐん次官じかんからきたささえ駐屯ちゅうとんぐん参謀さんぼうちょうあての1937ねん8がつ5にち通牒つうちょう交戰こうせん法規ほうき適用てきようせきスルけん」(りくささえみつだい198ごう)[13][215]はたいく彦はこれは国際こくさいほう遵守じゅんしゅしなくともよいともめるが、解釈かいしゃく責任せきにんほうまかせてげたともとれるとした[13]日本にっぽんぐん明確めいかく軍令ぐんれいしてはいないが、殺害さつがい事実じじつじょう黙認もくにんしていたかのようにめる命令めいれいはっしていた((1937ねん10がつ15にちづけ軍務ぐんむいち機密きみつだい40ごう)「現地げんちで」「俘虜ふりょにしないかぎり」殺害さつがいしてもいとのニュアンスがれる)[216]

のち陸軍りくぐん大臣だいじんとなる阿南あなみ惟幾これちかいちぎょうが、南京なんきん事件じけん直後ちょくご現地げんち視察しさつして、そのさい現地げんちぐん不法ふほう行為こうい批判ひはんすると、現地げんちぐん将校しょうこうが「捕虜ほりょころすぐらいなにだ」とべたとされ、ぐん中央ちゅうおうあきれる状態じょうたいであった[217]

このように、日本にっぽんがわが、みずか批准ひじゅんした戦時せんじ国際こくさいほう忠実ちゅうじつにならなかった背景はいけいには、日本にっぽんがわ宣戦せんせん布告ふこくおこなわず「事変じへん」とみなす政策せいさくをとったため(もし宣戦せんせん布告ふこくした場合ばあい、アメリカが中立ちゅうりつほう発動はつどうして軍需ぐんじゅひんをアメリカから輸入ゆにゅうできなくなるなど不利ふりであるため)に、本来ほんらい公的こうてきに「戦争せんそう」を宣言せんげんしないことの影響えいきょうとして、戦争せんそうなら当然とうぜん適応てきおうされる戦時せんじ国際こくさいほうによる捕虜ほりょ対処たいしょさくなどがおろそかになったのでは、というせつにちちゅう歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅうにて指摘してきされている[218]

また、このときの日本にっぽん陸軍りくぐん捕虜ほりょ管理かんりのための機構きこう設置せっちしなかった[13]捕虜ほりょ管轄かんかつする軍務ぐんむきょくにいた武藤むとうあきら参謀さんぼう本部ほんぶ)によれば、1938ねんに「中国人ちゅうごくじんヘラレタルしゃ俘虜ふりょトシテ取扱とりあつかいハレナイトイフごと決定けってい」されており、つまり、陸軍りくぐん戦争せんそうではないささえ事変じへんでは捕虜ほりょそのものをらないという方針ほうしん採用さいよう、したがって、正式せいしき捕虜ほりょ収容しゅうようしょもうけなかった[219]ただし、1941ねんには俘虜ふりょ情報じょうほうきょく俘虜ふりょ収容しゅうようしょ設置せっちされた)。日本にっぽんぐんでは捕虜ほりょをタブーしており、上海しゃんはいせんでは捕虜ほりょ処刑しょけい暗黙あんもく方針ほうしんになっていたが、首都しゅと南京なんきん攻略こうりゃくでは明確めいかく方針ほうしんがあるべきだったとはたいくべる[220]

また、日本にっぽんぐんが、軍服ぐんぷくいで民衆みんしゅうまぎれようとした中国ちゅうごくぐん敗残はいざんへい便衣べんいへいとして大量たいりょうころした行為こういは、戦時せんじ国際こくさいほうじょう解釈かいしゃく間違まちがいであるとするかんがえがある。つまり、(軍服ぐんぷく着用ちゃくようなどの)交戦こうせんしゃ資格しかくたしていないだけでなく、「がいてき手段しゅだん戦闘せんとう行為こういやテロ行為こうい)をおこなうもの」を便衣べんいへいとみなす、と戦前せんぜん国際こくさい法学ほうがくしゃ信夫しのぶじゅんひらた説明せつめいする[221]北岡きたおか伸一しんいちも、「便衣隊べんいたいについても、本来ほんらい兵士へいし軍服ぐんぷくたまま降伏ごうぶくすべきであるが、軍服ぐんぷくいで民衆みんしゅうまぎれようとしたからころしてもよいというのは、とんでもない論理ろんり飛躍ひやく」と主張しゅちょうしている[109]。ただし、南京なんきん事件じけん否定ひてい意見いけん軍服ぐんぷくいで民衆みんしゅうまぎれようとしただけで便衣べんいへいとみなすというかんがえを主張しゅちょうする)も存在そんざいする。(軍服ぐんぷく着用ちゃくようなどの)交戦こうせんしゃ資格しかくたしていない場合ばあいは(そのまま)非合法ひごうほう戦闘せんとういん便衣べんいへい)となり、戦時せんじ国際こくさいほうらして処刑しょけいしても合法ごうほうであり虐殺ぎゃくさつではないと東中野ひがしなかの修道しゅうどう主張しゅちょうした[222]佐藤さとう和男かずおも、武器ぶきてても(機会きかいがあれば自軍じぐん合流ごうりゅうしようとして)逃走とうそうするへいは、逃走とうそうしたとはみとめられないとべた[223]

責任せきにんしゃ処罰しょばつ[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまで、日本にっぽんにおいて南京なんきん事件じけん公式こうしき問題もんだいとしてあつかわれることがなかったため、一連いちれん虐殺ぎゃくさつ不法ふほう行為こうい関連かんれんする責任せきにんわれたのは戦後せんご連合れんごうこくによって開催かいさいされた極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)と、中華民国ちゅうかみんこく開催かいさいされた南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていによってである。だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん戦犯せんぱんさばいたこれらの裁判さいばんでは、戦犯せんぱんとされた人々ひとびと種別しゅべつによってAきゅう戦犯せんぱんBCきゅう戦犯せんぱん区別くべつされた[224]。このAきゅう、Bきゅう、Cきゅうという用語ようごは、先行せんこうしてナチス・ドイツ戦争せんそう犯罪はんざいさばくために開催かいさいされたニュルンベルク裁判さいばん基本きほんほうである国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょうだい6じょうにおいて戦争せんそう犯罪はんざい類型るいけいが(a)平和へいわたいするつみ(b)戦争せんそう犯罪はんざい(c)人道じんどうたいするつみ区分くぶんされていたものを適用てきようしたものであり、AきゅうがBCきゅうより重大じゅうだいであるというような序列じょれつしめすものではない[225]日本にっぽんにおいては東京とうきょう裁判さいばん被告ひこくすなわちAきゅう戦犯せんぱんであるとえ、BCきゅう戦犯せんぱん各国かっこく開催かいさいされた法廷ほうてい審理しんりされた[224][39]南京なんきん事件じけんあつかったのが南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていである。

東京とうきょう裁判さいばんにおいては、南京なんきん事件じけん南京なんきんおよびその周辺しゅうへんにおける市民しみん捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつ)が事実じじつであると判断はんだんされ、ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんであった松井まついいし大将たいしょう絞首刑こうしゅけいとなった[6]松井まつい大将たいしょう責任せきにんたいする判断はんだん以下いかのようなものである。

日本にっぽんぐん占領せんりょうしてから最初さいしょろく週間しゅうかんに、南京なんきんとその周辺しゅうへん殺害さつがいされた一般人いっぱんじん捕虜ほりょ総数そうすうじゅうまん以上いじょうであった」「自分じぶん軍隊ぐんたい統制とうせいし、南京なんきん不幸ふこう市民しみん保護ほごする義務ぎむをもっていたとともに、その権限けんげんをももっていた。この義務ぎむおこたったことについて、かれは犯罪はんざいてき責任せきにんがある」[226]
東京とうきょう裁判さいばん

そして、おなじくAきゅう戦犯せんぱんであった当時とうじ外務がいむ大臣だいじん広田ひろた弘毅こうき事件じけん情報じょうほうっていて陸軍りくぐん厳重げんじゅう注意ちゅういもうれをおこなったにもかかわらず、閣議かくぎまなかったことが虐殺ぎゃくさつへの不作為ふさくいとされてやはり死刑しけい判決はんけつにつながった(このことで広田ひろたたいして同情どうじょうするこえ当時とうじからつよかった)[227]

また、南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていにおいてつぎの4めい死刑しけいとなった[40]

東京とうきょう裁判さいばんでは南京なんきん事件じけんについて処断しょだんされた軍人ぐんじん松井まついいし大将たいしょういちにんであり、実質じっしつてきかれ南京なんきん事件じけん責任せきにんかたちとなった[228]。また、南京なんきん事件じけんについてBCきゅう戦犯せんぱんとして訴追そついされたのはこの4めいだけであった[229]はたいく彦は「東京とうきょう裁判さいばん先立さきだって軍事ぐんじ法廷ほうてい起訴きそした戦犯せんぱんいちはちめいもいたのに、南京なんきん事件じけんたいする起訴きそしゃがわずかよんにんにすぎなかったのは、いかにも不自然ふしぜん」としてその要因よういんつぎのようにまとめている[229]。まず、東京とうきょう裁判さいばんからて8ねんまえ事件じけん容疑ようぎしゃ特定とくてい確認かくにんすることが技術ぎじゅつてき困難こんなんであったことがある。その戦争せんそう南京なんきんせん参加さんかした兵士へいしたちは各地かくち移動いどうしてしまっており、戦死せんししているものおおく、当時とうじ所属しょぞく部隊ぶたい特定とくていするのもむずかしかったうえ指揮しきかんクラスにも死者ししゃおおかった[229]だい2に終戦しゅうせん直後ちょくごから中国ちゅうごくはじまった国共こっきょう内戦ないせん結果けっか中国ちゅうごくにおいて十分じゅうぶん調査ちょうさおこな余裕よゆうかった[229]最後さいごに、東京とうきょう裁判さいばん基本きほんてきにアメリカのペースですすめられたが、アメリカは日本にっぽんぐんどくガス細菌さいきんせんほう重視じゅうし南京なんきん事件じけん力点りきてんをおかなかった[229]。これらの要因よういんから、南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていさばかれた南京なんきん事件じけんのBCきゅう戦犯せんぱんは、たに寿夫としお中将ちゅうじょう以外いがい実際じっさい責任せきにん所在しょざいというよりも中国ちゅうごくにおける知名度ちめいどによって選別せんべつされたものであった。

田中たなかぐんきち大尉たいいは1940ねん日本にっぽん国内こくないで「さんひゃくにんり」の勇士ゆうしとして、向井むかい敏明としあき少尉しょうい野田のだこく少尉しょういも「ひゃくにんり」の英雄えいゆうとして日本にっぽん国内こくないのマスコミで紹介しょうかいされていた[230]結果けっかとして、かれらは名前なまえられていたために「特定とくてい多数たすう犯人はんにん代表だいひょうとして」さばかれるかたちとなった[231]向井むかい敏明としあき少尉しょうい野田のだこく少尉しょういひゃくにんりは、近代きんだいせんでは普通ふつうありえないので、ぐん宣伝せんでんやマスコミの誇張こちょう犠牲ぎせいしゃではないか、えんざいによる有罪ゆうざい処刑しょけいではないか、とされて戦後せんご名誉めいよ回復かいふくのための裁判さいばんおこなわれており、その経緯けいいひゃくにん競争きょうそうくわしい。

南京なんきん事件じけん史料しりょう(証言しょうげん遺体いたい処理しょり記録きろく[編集へんしゅう]

だい規模きぼ虐殺ぎゃくさつ戦争せんそう犯罪はんざいにおいて、正確せいかく情報じょうほうしめすことには困難こんなんともなうが、南京なんきん事件じけんにおいても例外れいがいではなく、歴史れきし学者がくしゃ実証じっしょうてき見地けんちから使用しようできる南京なんきん事件じけん南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ)の史料しりょうにはおおくの制約せいやくがある[232]。この事件じけんについてのしゅたる情報じょうほうげんのうち、具体ぐたいてき証言しょうげんは、つぎのようなものに分類ぶんるいされる。

  • 第三者だいさんしゃ(ジャーナリストや南京なんきん国際こくさい安全あんぜんにいた外国がいこくじん)の報道ほうどう証言しょうげん
  • 被害ひがいしゃ中国ちゅうごくがわ)の証言しょうげん
  • 加害かがいしゃ日本にっぽんぐん関係かんけいしゃ)の証言しょうげん 

また、遺体いたい処理しょり記録きろくについてもべる。

第三者だいさんしゃ(ジャーナリストや南京なんきん国際こくさい安全あんぜんにいた外国がいこくじん)の報道ほうどう証言しょうげん[編集へんしゅう]

このうち、第三者だいさんしゃによる証言しょうげん南京なんきん事件じけん報告ほうこくするもっとはや世界せかいけた情報じょうほう発信はっしんであった[233][234]。ジャーナリストによる記録きろく日本にっぽんぐんによる南京なんきん占領せんりょうのあといち週間しゅうかん以内いないつたえられており、ニューヨーク・タイムズシカゴ・デイリーニュース掲載けいさいされた[235][236]ことで、世界せかい発信はっしんされることになる。なお、当時とうじ上海しゃんはいたオーストラリアじん記者きしゃマンチェスター・ガーディアンかみハロルド・J・ティンパーリは、南京なんきん事件じけん直前ちょくぜん9がつまで南京なんきんたのだが、のジャーナリストの情報じょうほうなどをもとに、のち南京なんきん事件じけんについて1938ねん著作ちょさく戦争せんそうとはなにか」を出版しゅっぱん[237][238]て、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんにも影響えいきょうおよぼしたが、出版しゅっぱんの1939ねん国民党こくみんとう顧問こもんになったこの人物じんぶつ行動こうどう中国ちゅうごくがわのプロパガンダであるという批判ひはんもあり、その反論はんろん存在そんざいする[238]

外国がいこくじんのジャーナリストは1937ねん12月16にちAP通信つうしん記者きしゃはなれて以降いこうすうげつにわたって南京なんきんには一人ひとりもいない状態じょうたいになったが[236][32]南京なんきん国際こくさい安全あんぜんにはそのじゅうすうめい欧米おうべいじん残留ざんりゅうしており、かれらの証言しょうげん記録きろく当時とうじ状況じょうきょうるための重要じゅうよう史料しりょうになっている[236][32]。しかし、これらは直接ちょくせつ日本にっぽんぐん行動こうどう目撃もくげきした人々ひとびとあいだかずに記録きろくした史料しりょうであるが、限定げんていてき情報じょうほうでもあるし、同時どうじにその位置いちづけは重要じゅうようである。たとえば、東京とうきょう裁判さいばんのときのジョン・マギー証言しょうげんは、虐殺ぎゃくさつ事実じじつつたえたが、おおくは証言しょうげん伝聞でんぶんであり、直接ちょくせつたのは皆無かいむひとしいともべたが、そのマギーの証言しょうげんたいして東京とうきょう裁判さいばん被告人ひこくにん弁護人べんごにんのブルックスが「この証人しょうにん公平こうへいつとめているとしんじます」とこたえ、ニ、さん追加ついか質問しつもんをしたあと裁判さいばんちょう勧告かんこくしたが反対はんたい尋問じんもん終了しゅうりょうしたことから、しんぴょうせいひくくないとされた[注釈ちゅうしゃく 20]歴史れきし学者がくしゃ大慶たいけいはこうした欧米おうべいじん証言しょうげんを「残虐ざんぎゃく行為こういとう説得せっとくりょくある情報じょうほう提供ていきょうしたが、残留ざんりゅうしたわずかの欧米おうべいじんが、非常ひじょうおおくの住民じゅうみんがいる広大こうだい地域ちいきのほんの一部分いちぶぶん目撃もくげきしたにすぎない」とまとめる[236] [注釈ちゅうしゃく 21]。これとう欧米おうべいじんのうち、南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいんちょうジョン・ラーベ記載きさいした日記にっきは、そのまご戦後せんご出版しゅっぱんし(邦訳ほうやく南京なんきん真実しんじつ講談社こうだんしゃ)、南京なんきんかねりょう女子大じょしだいがく教師きょうしだったミニー・ヴォートリン女史じょし当時とうじ日記にっき出版しゅっぱんされている(邦訳ほうやく南京なんきん事件じけん日々ひび―ミニー・ヴォートリンの日記にっき大月書店おおつきしょてん)。

中国ちゅうごくがわ証言しょうげん[編集へんしゅう]

被害ひがいしゃ証言しょうげん中国ちゅうごくがわ)も重要じゅうよう情報じょうほうげんである。しかし、死者ししゃ証言しょうげんのこすことはなく、生存せいぞんしたものだけが証言しょうげんのこすことが可能かのうである[236]。こうした証言しょうげんのうちもっとはやいものは、日本にっぽんぐん占領せんりょうからすうヶ月かげつ南京なんきん脱出だっしゅつした一部いちぶ人々ひとびと証言しょうげん中国ちゅうごく新聞しんぶん掲載けいさいされたものである[236]。しかし、南京なんきんのこった人々ひとびとはその日本にっぽんぐん占領せんりょう生活せいかつすることを余儀よぎなくされており、かれらが公然こうぜん日本にっぽんぐん残虐ざんぎゃく行為こういについてかたることが可能かのうになったのは事件じけんからだい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうまで8ねんじゃくにわたる時間じかんてき懸隔けんかくいたのちであった[236]。これらの証言しょうげんなかでも早期そうきのものは東京とうきょう裁判さいばん南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい提出ていしゅつされた。しかし戦争せんそう犯罪はんざい被害ひがいしゃたちがかならずしも積極せっきょくてき証言しょうげんおこなうことをのぞんだわけではなく、とりわけ強姦ごうかん被害ひがいしゃとその親族しんぞく証言しょうげん拒否きょひすることがおおかった[240]。さらにその成立せいりつした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでは、1950年代ねんだいと60年代ねんだい生存せいぞんしゃたちに面接めんせつ調査ちょうさおこなわれ、1971ねん以降いこう朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ本多ほんだ勝一かついちによるだい規模きぼ面接めんせつ調査ちょうさおこなわれて被害ひがいしゃ証言しょうげんあつめられた[240]中国ちゅうごく本格ほんかくてき歴史れきしじょう証拠しょうことして被害ひがいしゃ証言しょうげん収集しゅうしゅうされたのは1980年代ねんだい以降いこうになってからである[240]

事件じけん当時とうじ中華民国ちゅうかみんこく政府せいふやそれを統治とうちする中国ちゅうごく国民党こくみんとうやその関係かんけいしゃ南京なんきん事件じけんかか広報こうほうについては、以下いかのとおりである。国民党こくみんとう新聞しんぶんでは、外国がいこく報道ほうどう翻訳ほんやくのみではあるが南京なんきん事件じけんについてほうじており、国民党こくみんとう新聞しんぶん中央日報ちゅうおうにっぽうしんはな日報にっぽうはアメリカの上海しゃんはい新聞しんぶんShanghai Evening Post and Mercury(大美おおみばんほう),The China Weekly Review(John W. Powell主幹しゅかん)の事件じけん報道ほうどう記事きじ翻訳ほんやくして掲載けいさいした[241]関根せきねけんは、中国ちゅうごくがわ独自どくじ取材しゅざい記事きじとしては南京なんきん事件じけん報道ほうどうしなかった理由りゆうとして、当時とうじ中国ちゅうごくがわ新聞しんぶん戦意せんい高揚こうようのために戦勝せんしょう記事きじかえしており、南京なんきんせんでの敗北はいぼくほうじたくなかったためと主張しゅちょうしている[242]

なお、事件じけん当時とうじ中国ちゅうごく国民党こくみんとうが1937ねん12月からやく11かげつあいだに300かい記者きしゃ会見かいけんおこなったが、国民党こくみんとう秘密ひみつ文書ぶんしょなかには「南京なんきん事件じけん記者きしゃ会見かいけんがあった」という記録きろくはなく、事件じけん存在そんざい自体じたいうたがわしいと主張しゅちょうがある[243]が、その背景はいけいとして、南京なんきん事件じけん事実じじつじょう国民党こくみんとう政府せいふ全貌ぜんぼうりえない日本にっぽんぐん支配しはいこっており、むし外国がいこくじん記者きしゃ報道ほうどうによって直後ちょくごはその内容ないようるような状態じょうたいであり、また前述ぜんじゅつされているとおり、当時とうじ中国ちゅうごくがわ新聞しんぶん戦勝せんしょう記事きじかえしており敗北はいぼくほうじたくなかったためと推察すいさつできる。

欧米おうべいじん記事きじとうからはいった情報じょうほうもあって、政府せいふ主席しゅせき蒋介石しょうかいせきがその声明せいめい[日本にっぽん国民こくみんぐ」で「日本にっぽんぐん占領せんりょうしたどの地区ちくにおいても掠奪りゃくだつ暴行ぼうこうけをくだりつた余勢よせいで、わがほうとおくに避難ひなん出来できなかつた無辜むこ人民じんみんおよび負傷ふしょう兵士へいしたいしてもだい規模きぼ屠殺とさつくだりはれた。またすうせんにん広場ひろばばくしてこれに機銃きじゅう掃射そうしゃへ、あるひはすうじゅうにん一室いっしつあつめてあぶらそそ火炙ひあぶりにしょし、はなはだしきにいたりつては殺人さつじん多少たしょうもっ競争きょうそうし、互ひに冗談じょうだんたねとしてゐる」とあきらかに南京なんきん事件じけんれており[244]、蒋の日記にっきでも「『やまと寇(日本にっぽんぐん)は南京なんきんであくなき惨殺ざんさつ姦淫かんいんをくりひろげている。野獣やじゅうにもたこの暴行ぼうこうは、もとよりかれ自身じしん滅亡めつぼうはやめるものである。それにしても同胞どうほう痛苦つうくはそのきょくたっしているのだ』(いちきゅうさんはちねんいちがつじゅうにち日記にっき)」とべている[245]

日本にっぽんぐん関係かんけいしゃ証言しょうげん[編集へんしゅう]

南京なんきんせん直後ちょくごから、日本にっぽん外務省がいむしょう東京とうきょう陸軍りくぐん中央ちゅうおう南京なんきん事件じけん把握はあくしていた[246]ことはられているが、ほかにも、ぐん中央ちゅうおうが、南京なんきんでの日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつ不法ふほう行為こうい問題もんだいっていたことが、当時とうじ高級こうきゅう軍人ぐんじん日記にっきとう記録きろく証言しょうげん(戦後せんご一般いっぱん公開こうかいれい:「真崎まさき三郎さぶろう日記にっき」、河辺かわべとらよんろう市ヶ谷いちがやだいから市ヶ谷いちがやだい最後さいご参謀さんぼう次長じちょう回想かいそうろく」、「岡村おかむらやすし大将たいしょう資料しりょう」「阿南あなみ惟幾これちか南京なんきん視察しさつメモ」などによって、あきらかになっている[247]

一方いっぽうで、戦時せんじちゅうは、日本にっぽん戦時せんじ検閲けんえつ制度せいどによって南京なんきんにおける日本にっぽんぐん犯罪はんざいについての情報じょうほう統制とうせいされており[248]おおくのぐん関係かんけいしゃ証言しょうげん記録きろくは、1950年代ねんだい以降いこうになってから公表こうひょうされた[248]。また、きゅう日本にっぽんへい日記にっき日誌にっしなどの加害かがいしゃ証言しょうげんられており、きゅうぐん関係かんけいしゃによる「南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう」(偕行社かいこうしゃ)にもまとめられており、殺害さつがい不法ふほう行為こうい掲載けいさいされており(れい山田やまだ栴二『陣中じんちゅう日記にっき』)、そのきゅう日本にっぽんへい証言しょうげんが、笠原かさはらはた著作ちょさく[249]戦後せんごまとめられた部隊ぶたい記録きろく[250]ひとし掲載けいさいされており、そのなか南京なんきん事件じけん途中とちゅう農村のうそんふくめて)虐殺ぎゃくさつ不法ふほう行為こういがその規模きぼ大小だいしょうかかわらず記述きじゅつされている。このため日本にっぽんぐん関係かんけいしゃによる証言しょうげん文書ぶんしょは「歴史れきしじょう証拠しょうこというてんからえば、それは、戦後せんご戦犯せんぱん裁判さいばんはじまって以来いらいもっと重要じゅうようあたらしい状況じょうきょうである[248]」。

また、当時とうじ南京なんきん在住ざいじゅう新聞しんぶん記者きしゃ守山もりやま義雄よしお記者きしゃ今井いまいただしつよし記者きしゃ中村なかむら正吾しょうご記者きしゃ足立あだち和雄かずお記者きしゃ)は、戦後せんご明確めいかく虐殺ぎゃくさつ違法いほう殺人さつじん証言しょうげんしており、とく守山もりやま義雄よしお記者きしゃ語学ごがくかして在住ざいじゅう外国がいこくじんとの取材しゅざい交流こうりゅうおこなっていたことがジョン・ラーベ日記にっきにものこっている[251]一方いっぽうで、おもね健一けんいちは、当時とうじ上海しゃんはい支局しきょくめい記者きしゃ(山本やまもと橋本はしもと)が南京なんきん出張しゅっちょうした経験けいけんかたったことをもとに、「南京なんきん事件じけんはなかった」と主張しゅちょうする(そのにもおもねは、日本にっぽんへい南京なんきんでは虐殺ぎゃくさつはなかった、なかったという証言しょうげんあつめている)[252]

遺体いたい処理しょり記録きろく[編集へんしゅう]

南京なんきんでの、軍人ぐんじん民間みんかんじん遺体いたいのうち、長江ちょうこうながされたれい数多かずおお記録きろくされているものの、城内きうちそとにも遺棄いき遺体いたい数多かずおおのこされていたので、中国ちゅうごくがわ慈善じぜん団体だんたいであるべにまんじかいたかしぜんどうとが、おおくの遺体いたい処理しょりおこなった記録きろくのこっている。りょう団体だんたいが4がつまでった遺体いたい埋葬まいそう記録きろくは、以下いかのとおりであり、南京なんきん城内じょうのうちでの作業さぎょう分担ぶんたんは、べにまんじかい安全あんぜんのある城内きうち西側にしがわを、そしてたかしぜんどう城内きうち東側ひがしがわ担当たんとうした[253]

  • べにまんじかいが、城内きうちおも安全あんぜんふく城内きうち西側にしがわ埋葬まいそう 1,795(当時とうじ資料しりょうでは1,793)、しろがい埋葬まいそう 41,330。
  • たかしぜんどうが、城内きうちおも城内きうち東側ひがしがわ埋葬まいそう 7,549、しろがい埋葬まいそう 104,718。ただし、3がつまで城内じょうないで、4がつよりしろがいでの埋葬まいそう

なお、死者ししゃ城内きうちがいともに9わり以上いじょう成人せいじん男性だんせいであり、違法いほう殺人さつじん戦死せんしかはべつとして中国ちゅうごく軍人ぐんじん多数たすうであり、ミニー・ヴォートリン日記にっきでは、べにまんじかい処理しょり遺体いたいの3ぶんの1は民間みんかんじん死体したいであった報告ほうこくがあり(4がつ2にち)、べにまんじかい処理しょりした城内きうち1,793たい遺体いたいの80%は民間みんかんじん(4がつ15にち)との伝聞でんぶん情報じょうほう記述きじゅつした[254]

埋葬まいそうすうかんして、たかしぜんどうは、その活動かつどう疑問ぎもんがあり、埋葬まいそうすう信憑しんぴょうせいひくいとみなし、南京なんきん事件じけん犠牲ぎせいしゃ過大かだいにするための虚構きょこう活動かつどうなす意見いけんがあり、それについての反論はんろん存在そんざいする[255][256][257][258]

また、べにまんじかい記録きろくには、わずか1にちで6,000たいしろがい埋葬まいそうという記録きろくがあり、その記録きろく虚構きょこうというせつがあるが、ほら富雄とみお中国ちゅうごくにある原本げんぽん調しらべたところ、そのとき長江ちょうこう沿いに遺棄いきされた大量たいりょう遺体いたいをそのまま長江ちょうこうに(埋葬まいそうせず)ながしたととされていて、説明せつめいがつくと反論はんろんする[259]

犠牲ぎせいしゃすう[編集へんしゅう]

おおきな史料しりょうてき制約せいやくによって、南京なんきん事件じけんにおいて、あるいは日本にっぽんぐん南京なんきん占領せんりょう関連かんれんして発生はっせいした虐殺ぎゃくさつ犠牲ぎせいしゃ正確せいかくかず今日きょうでは完全かんぜん特定とくていすることは不可能ふかのうになっている[260][261]日本にっぽん研究けんきゅうしゃあいだではすうまんにんから10すうまんにんとするものおお[5]日本にっぽん近代きんだい学者がくしゃはたいくは38,000にんから42,000にん[注釈ちゅうしゃく 22]中国ちゅうごくきん現代げんだい学者がくしゃ笠原かさはらじゅうきゅうつかさは10すうまん以上いじょう、20まんにんちかいかあるいはそれ以上いじょう[263]、という推定すいていしている。以下いか詳細しょうさいしめす。

  • 11まん9000にん以上いじょう - 笠原かさはらじゅうきゅうつかさが、南京なんきん郊外こうがいふくせつとしては、中国ちゅうごくへい犠牲ぎせい8まん民間みんかんじん犠牲ぎせい3まん9せん南京なんきん城内きうち:1まん2せんにん農村のうそん:2まん7せんにん)、けい11まん9せんにん以上いじょうという[264]
  • 4まんにん - はたいくは、中国ちゅうごくへい犠牲ぎせい3まん一般人いっぱんじん犠牲ぎせいしゃ1まんにん南京なんきん城市じょうしのみ)で、4まんにん上限じょうげんとした[265][注釈ちゅうしゃく 23]。ほか久野くの輝夫てるおは37,820にんとする[267]中国ちゅうごく文献ぶんけんでは、中国ちゅうごくぐんやく11-12まんにんのうちやく4-6まんにん南京なんきん戦死せんし捕虜ほりょ行方ゆくえ不明ふめいふくむ)とされる[268]
  • 1〜2まん - 板倉いたくら由明よしあきは、中国ちゅうごくへい犠牲ぎせい8せんにん一般人いっぱんじん犠牲ぎせいしゃ5せんにん南京なんきん城市じょうし周辺しゅうへん農村のうそん一部いちぶこうやすしけんのみ))を合計ごうけいし、1まん-2まんにんとする[269]当時とうじ戦闘せんとう詳報しょうほうなどの公式こうしき記録きろくにはやく1まん前後ぜんこう敗残はいざんへい捕虜ほりょ)の殺害さつがい記録きろくもある[270]

中国ちゅうごくでは30まんにんというせつ主流しゅりゅうであり、南京なんきん南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ記念きねんかん正面しょうめんくちにもこの数字すうじがかかれている[5]

南京なんきん事件じけんあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

南京なんきんへの追撃ついげきかう部隊ぶたいが、民間みんかんじんなどを虐殺ぎゃくさつする事例じれいなどがかれており、当時とうじ新聞紙しんぶんしほうわれ発禁はっきん処分しょぶん石川いしかわ禁固きんこ4ヶ月かげつ執行しっこう猶予ゆうよ3ねん判決はんけつける。

映画えいが[編集へんしゅう]

戦時せんじちゅう記録きろく映像えいぞうによる映画えいが[編集へんしゅう]

  • 南京なんきん』(日本にっぽん、1938ねん) - 南京なんきん陥落かんらく翌日よくじつひるから翌年よくねん1がつ上旬じょうじゅんまでのあいだ南京なんきんじょう内外ないがい撮影さつえいしたが、南京なんきん事件じけん場面ばめんはない。撮影さつえいしゃによる、たもの全部ぜんぶったわけではなくったなかにもられたものがあるとの証言しょうげんがある。
  • ザ・バトル・オブ・チャイナ』(米国べいこく、1944ねん) - 南京なんきん事件じけんうつされているがべいちゅうのプロパガンダによる誇張こちょうせつがある。
  • 中国ちゅうごくいかほえ』(中華民国ちゅうかみんこく、1945ねん) - 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集へんしゅうしたもの。

日本にっぽん映画えいが[編集へんしゅう]

中華ちゅうかけん映画えいが[編集へんしゅう]

欧米おうべい映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 東京とうきょう裁判さいばん判決はんけつでは20まんにん以上いじょうとされている[6]
  2. ^ 2000ねん時点じてん
  3. ^ ジョージ・ワシントン大学だいがく教授きょうじゅ[注釈ちゅうしゃく 2]歴史れきし学者がくしゃ大慶たいけい(Daqing Yang)は名称めいしょうめぐ議論ぎろんについてつぎのようにまとめている。「いちきゅうさんななねん議論ぎろんをどう呼称こしょうするかについて合意ごういがないということは、言語げんごじょう問題もんだいひとつの反映はんえいである。はじめは中国ちゅうごく使つかわれ、その日本にっぽん、そのくにでも使つかわれている『南京なんきんだいほふしいたげころせ』というかたりは、それが南京なんきんでの事件じけん内容ないようをどのように限定げんていしているかをしめしている。だいほふしいたげころせというかたりは、強姦ごうかん略奪りゃくだつ放火ほうかかるているかたりではないだろうか。それはたんに虐殺ぎゃくさつだったのだろうか、それともだい虐殺ぎゃくさつだったのだろうか。他方たほう日本にっぽんでは、さまざまな文筆ぶんぴつによって『南京なんきん事件じけん』というかたり使つかわれてきたが、しかし、くにぐにではそれは、いちきゅうさんななねん恐怖きょうふに、ありふれた事件じけんであるかのようなひびきをあたえるものだとして多分たぶん批判ひはんをまねいている[7]
  4. ^ 当時とうじ新聞しんぶん記事きじをまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
  5. ^ 引用いんよう笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん』72ぺーじより。ほとんど同文どうぶんひょう吉田よしだひろし『もうひとつのにちちゅう戦争せんそう天皇てんのう軍隊ぐんたい南京なんきん事件じけん』にもられる。以下いか吉田よしだひょう引用いんようである。「上海しゃんはい攻略こうりゃく南京なんきんかう追撃ついげきせんぜん過程かていは、すでに上海しゃんはいせん段階だんかい顕著けんちょになっていたさまざまな不法ふほう行為こうい残虐ざんぎゃく行為こういがよりだい規模きぼかたち拡大かくだいされる過程かていであり、南京なんきん事件じけん直接ちょくせつ前史ぜんしをなす過程かていでもあった[53]。」
  6. ^ 原文げんぶんのカタカナ表記ひょうきをひらがなにあらためた。
  7. ^ このような行軍こうぐんちゅう虐殺ぎゃくさつ行為こういには様々さまざま証言しょうげんがある。歩兵ほへいだい20連隊れんたい上等じょうとうへい牧原まきはら信夫しのぶ陣中じんちゅう日記にっき以下いかのような記述きじゅつのこす。「(じゅういちがつにち道路どうろじょうにはささえへい死体したい民衆みんしゅうおよび婦人ふじん死体したいずらい様子ようすでのびていたのも愛想あいそである。はし付近ふきんにはろくささえぐん死体したいがやかれたり、あるいはくびをはねられてたおれている。はなしでは砲兵ほうへいたい将校しょうこうがためしりをやったそうである。(じゅういちがつろくにち午前ごぜん原文げんぶんちゅう午後ごごあやまり)よんだい大隊だいたい喚声かんせいをあげいさましく敵陣てきじん突撃とつげきし、てきだい一線いっせん奪取だっしゅ住民じゅうみんいえをやかれ、げるにみちなく、失神しっしん状態じょうたい右往左往うおうさおうしているのもまったく愛想あいそだがしかたがない。(じゅういちがつななにちささえじんメリケン粉めりけんこいてう。休憩きゅうけいちゅういえかくれていた敗残はいざんへいをなぐりころす。ささえじんめいれてじゅういち出発しゅっぱつす。...鉄道てつどう路線ろせんじょう前進ぜんしんす。休憩きゅうけいちゅうろくけんわらぶきのいえいた。ほのおてんたかくもえあがり、気持きもちがせいせいした。(じゅういちがつはちにち午前ごぜんじゅういち大隊だいたいちょう命令めいれいにより、下野げや班長はんちょう以下いかろくめい小銃しょうじゅうち、残敵ざんてき掃討そうとうく。そのまえにある橋梁きょうりょうたとき、橋本はしもと与一よいちふねげるろくめい発見はっけん照準しょうじゅんをつけいちめい射殺しゃさつ掃討そうとうはすでにこのときからはじまったのである。自分じぶんたちが前進ぜんしんするにつれてささえじんわかものさききそってげてく。なにのためにげるのかわからないが、げるものあやしいと射殺しゃさつする。部落ぶらくじゅうさんいえ付火つけびすると、たちまちぜんむらつつみ、まったうみである。老人ろうじんさんにんいて愛想あいそだったが、命令めいれいだから仕方しかたがない。つぎつぎさん部落ぶらく全焼ぜんしょうさす。そのうえろくめい射殺しゃさつする。意気揚々いきようようとあがる。(じゅういちがつきゅうにちたけすすむつねしゅうぞくする)は抗日こうにち排日はいにち根拠地こんきょちであるためぜんまち掃討そうとうし、老若男女ろうにゃくなんにょをとわず全員ぜんいん銃殺じゅうさつす。てきすずせんやぶれてより、まった浮足立うきあしだって戦意せんいがないのか、あるいは後方こうほう強固きょうこ陣地じんちにたてこもるのかわからないが、まったえない[65]。」
  8. ^ はたいく彦が引用いんようする日本にっぽん外交がいこうかん日高ひだか信六郎しんろくろう東京とうきょう裁判さいばんでの証言しょうげんによれば12月17にち時点じてん憲兵けんぺい14にん数日すうじつちゅう補助ほじょ憲兵けんぺい40にんられるはずという状況じょうきょうであった。はたいく彦は上海しゃんはい派遣はけんぐんだいじゅうぐんわせて、南京なんきん占領せんりょう直後ちょくご城内じょうない活動かつどうしていた日本にっぽんぐん正規せいき憲兵けんぺいは30にんえなかったと推定すいていしている[73]
  9. ^ 「ラーべの感謝かんしゃじょう」とは、1937ねん12月14にち南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかいジョン・ラーベより日本にっぽんぐん提出ていしゅつされた文書ぶんしょ南京なんきん安全あんぜんトウあんだい1ごう文書ぶんしょ(Z1)のことである[77]。この文書ぶんしょ冒頭ぼうとうに「ぐん砲兵ほうへい部隊ぶたい安全あんぜん攻撃こうげきくわえなかったことにたいして感謝かんしゃもうげるとともに、安全あんぜん区内くない居住きょじゅうする中国人ちゅうごくじん一般いっぱん市民しみん保護ほごにつき今後こんご計画けいかくをたてるために貴下きか接触せっしょくをもちたいのであります。」とある。
  10. ^ 南京なんきん戦史せんし』によれば、「大雑把おおざっぱ目安めやすにすぎない」という。
  11. ^ いちきゅうさんはちねんいちがつきゅうにち 中国ちゅうごくぐん司令しれい逃走とうそうした南京なんきん日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつ行為こうい F・ティルマン・ダーディン上海しゃんはいじゅうがつじゅうにちはつ (中略ちゅうりゃく)アメリカ伝道でんどうだん大学だいがく病院びょういん戦闘せんとうちゅう開業かいぎょうし、一般いっぱん市民しみん負傷ふしょうしゃのために病院びょういん利用りようできるよう努力どりょくがなされていた。しかし、若干じゃっかん兵隊へいたい入院にゅういんしていた。二人ふたりのアメリカじん医師いし(フランク・ウィルソン(訳注やくちゅう まさしくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカじん看護かんごにん(グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかのかず中国人ちゅうごくじんたすけをえて、昼夜ちゅうやかたず、〇〇にんちか患者かんじゃ世話せわをした。日本にっぽんぐん占領せんりょうするや、戦傷せんしょうしゃ救済きゅうさい委員いいんかい国際こくさい赤十字せきじゅうじ支部しぶとして組織そしきされ、外交がいこう建物たてものないにあった中国ちゅうごく陸軍りくぐん主要しゅよう病院びょういんいだ。配備はいび可能かのう輸送ゆそう手段しゅだんは、まち全域ぜんいきにくりだして負傷ふしょうへいはこんだ。にまだのこっていた医師いし看護かんごあつめ、この病院びょういん仕事しごとについてもらった。日本にっぽんぐん当初とうしょ、この病院びょういん自由じゆう活動かつどうさせてくれたが、十二月じゅうにがつじゅうよんにち火曜日かようびあさ、この場所ばしょ外国がいこくじんることを禁止きんしし、なかにいる〇〇にん中国ちゅうごくへい運命うんめい関与かんよさせないようにした。(以下いかりゃく) (「南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう1 アメリカ関係かんけい資料しりょうへん所収しょしゅう) (以下いか英文えいぶん)The American mission University Hospital operated throughout the battle, and an effort was made to keep it reserved for civilian casualties. However, a few soldiers were admitted. Two American doctors, Frank Wilson and C. S. Trimmer, and two American nurses, Grace Bauer and Iva Hynds, labored day and night with only a few Chinese helpers to care for the nearly 200 patients in their charge. When the Japanese had occupied the city, the war wounded relief committee within a few minutes organized themselves as a chapter of the International Red Cross and took over the main hospital of the Chinese Army in the Foreign Ministry building. What transport could be marshaled was sent throughout the city to bring in wounded soldiers, and Chinese doctors and nurses still in the city were rallied to work at the institution. The Japanese at first permitted free function of this hospital, but on Wednesday morning, Dec. 15, they barred foreign access to the place and would make no commitments as to the fate of the 500 Chinese soldiers within. 和文わぶん南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう1 アメリカ関係かんけい資料しりょうへん所収しょしゅう 英文えいぶん New York Times Jan 9 1938)
  12. ^ 当時とうじ新聞しんぶん記事きじをまとめたサイトのひとつ https://www.readex.com/readex-report/issues/volume-7-issue-2/nanjing-atrocities-reported-us-newspapers-1937-38
  13. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうによれば、当時とうじちゅうにちアメリカ大使たいしジョセフ・グルー日記にっきにおいてパナイごう事件じけんによって日米にちべい国交こっこう断絶だんぜつ覚悟かくごしたとしるしている。日米にちべい開戦かいせんにもつながりかねないこの事件じけんめぐ交渉こうしょうほう注目ちゅうもく集中しゅうちゅうしたのは自然しぜんきであった[138]。また、パナイごうはジャーナリストの一時いちじ待機たいきしょになっており、日本にっぽんぐん南京なんきん占領せんりょう直前ちょくぜんまでにおこなわれた取材しゅざい活動かつどう資料しりょうなどはパナイごうともうしなわれた[139]。パナイごう事件じけん研究けんきゅうするアメリカの研究けんきゅうしゃあいだでは、この事件じけん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきいた日米にちべい開戦かいせんへの転機てんき位置付いちづけられている[140]
  14. ^ 国際こくさい連盟れんめい理事りじかいだい100かい議事ぎじろくは、国際こくさい連盟れんめい刊行かんこうした公開こうかい資料しりょうであり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」のなか決議けつぎぶんとともに中国ちゅうごくがわ演説えんぜつ各国かっこく議事ぎじ内容ないよう詳細しょうさい掲載けいさいされていた。「ドイツ外交がいこうかん南京なんきん事件じけん」(大月書店おおつきしょてん)でも2001ねんにも掲載けいさい
  15. ^ 1937ねん12月2にち松井まついいし大将たいしょうから交代こうたい
  16. ^ 1937ねん12月28にち稲葉いなば四郎しろう中将ちゅうじょう交代こうたい
  17. ^ 海軍かいぐん
  18. ^ はたいく彦が引用いんようする日本にっぽん外交がいこうかん日高ひだか信六郎しんろくろう東京とうきょう裁判さいばんでの証言しょうげんによれば12月17にち時点じてん憲兵けんぺい14にん数日すうじつちゅう補助ほじょ憲兵けんぺい40にんられるはずという状況じょうきょうであった。はたいく彦は上海しゃんはい派遣はけんぐんだいじゅうぐんわせて、南京なんきん占領せんりょう直後ちょくご城内じょうない活動かつどうしていた日本にっぽんぐん正規せいき憲兵けんぺいは30にんえなかったと推定すいていしている[73]
  19. ^ これについてはたいく彦は「松井まつい大将たいしょう元来がんらい南京なんきん攻略こうりゃくろんしゃだったし、上海しゃんはい派遣はけんぐんをひきいる立場たちばからだいじゅうぐんとのライバル意識いしき刺激しげきされたのかもしれない」とひょうしている[197]。また、笠原かさはらじゅうきゅう現地げんちりしていた武藤むとう南京なんきん進撃しんげき成功せいこうさせるために、だい10ぐんだい6師団しだん)の急進きゅうしんげき戦果せんかたたえる一方いっぽう上海しゃんはい派遣はけんぐんだい16師団しだん)の戦果せんかをこきろすような電報でんぽうだい16師団しだんてにおくり、だい10ぐん上海しゃんはい派遣はけんぐん南京なんきん一番乗いちばんの競争きょうそうあおったことを指摘してきしている[198]
  20. ^ 東京とうきょう裁判さいばんのときのジョン・マギー証言しょうげんは、虐殺ぎゃくさつ事実じじつつたえたが、おおくは証言しょうげん伝聞でんぶんであり、直接ちょくせつたのは皆無かいむひとしいともべた。ただし、そのマギーの証言しょうげんたいして東京とうきょう裁判さいばん被告人ひこくにん弁護人べんごにんのブルックスが「尋問じんもん技術ぎじゅつ駆使くししてもマギーの証言しょうげん一貫いっかんせい真実しんじつせいくずすことはできなかった。そのことはブルックス自身じしん法廷ほうてい実感じっかんし、またウェッブ裁判さいばんちょうにも次第しだい明白めいはくになっていった。(中略ちゅうりゃく)ブルックスはあらためて「この証人しょうにん公平こうへいつとめているとしんじます」とこたえ、ニ、さん追加ついか質問しつもんをしたあと裁判さいばんちょう勧告かんこくしたが反対はんたい尋問じんもん終了しゅうりょうしたのだった。」[239]
  21. ^ 歴史れきし学者がくしゃ大慶たいけい発言はつげん第三者だいさんしゃ観察かんさつしゃとしてこれらのひとたちは、日本にっぽんぐん兵士へいし場合ばあいによっては中国ちゅうごくぐん兵士へいしくわえた残虐ざんぎゃく行為こうい損害そんがいについて説得せっとくりょくある情報じょうほう提供ていきょうした。しかし、この種類しゅるい証拠しょうこには限界げんかいもある。(中略ちゅうりゃく残留ざんりゅうした欧米おうべいじんじゅうよんにんだい部分ぶぶん安全あんぜん区内くないのこっていた-は、なんじゅうまんという住民じゅうみんがいるよりひろ地域ちいきでその実際じっさいこったことのほんの一部分いちぶぶん目撃もくげきしたにすぎない」
  22. ^ 兵士へいし30,000にん一般いっぱん市民しみん8,000にんから12,000にん合計ごうけい。これはルイス・S・C・スマイスによる民間みんかん慈善じぜん団体だんたいべにまんじかいおよびたかしぜんどう死体したい埋葬まいそう記録きろく調査ちょうさられた数字すうじ参考さんこう調整ちょうせいしたものである[262]
  23. ^ はた南京なんきん中国ちゅうごくぐん兵力へいりょく10まん、5まん戦死せんし、4まん捕虜ほりょ、3まん殺害さつがい生存せいぞん捕虜ほりょは1まん)と推定すいてい台湾たいわん公式こうしき戦史せんし上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼうちょう飯沼いいぬままもる少将しょうしょう日記にっき上海しゃんはい派遣はけんぐん郵便ゆうびんちょう佐々木ささきもとかちの12月15にち日記にっきの「俘虜ふりょはおよそよんまんせんわたしかされている」に符合ふごう[266]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 笠原かさはら (1997)、214-215ぺーじ
  2. ^ a b c 世界せかい戦争せんそう犯罪はんざい事典じてん、78-87ぺーじ、「南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん」の項目こうもくより
  3. ^ フォーゲル (2000)
  4. ^ 笠原かさはら (1997)、214-232ぺーじ
  5. ^ a b c 現代げんだいアジア事典じてん、866-867ぺーじ南京なんきん事件じけん」の項目こうもくより。
  6. ^ a b c はた (2007)、44ぺーじ
  7. ^ a b c 楊 (2000)、182ぺーじ
  8. ^ 笠原かさはら (1997)、214ぺーじ
  9. ^ はたいく彦(2007)p185 272-273
  10. ^ はた (2007)、75-77ぺーじ
  11. ^ a b 笠原かさはら (1997)
  12. ^ a b c はた (2007)
  13. ^ a b c d e はたいく彦 2007, p. 197
  14. ^ 陸軍りくぐん次官じかんはつささえ駐屯ちゅうとんぐん参謀さんぼうちょうあて交戰こうせん法規ほうき適用てきようせきスルけんりくささえみつだい198ごう(1937ねん8がつ5にち) (「昭和しょうわ13 ねんささえ受大日記にっきひそか〕」〔防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかんぞう〕)。防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ 「平成へいせい19年度ねんど戦争せんそう研究けんきゅう国際こくさいフォーラム報告ほうこくしょ」の研究けんきゅう報告ほうこく日本にっぽんぐん捕虜ほりょ取扱とりあつかいの背景はいけい方針ほうしん」(立川たちかわ京一きょういち)76ぺーじ
  15. ^ はた (2007) 67ぺーじ
  16. ^ 笠原かさはら (1997)、143ぺーじ-200ぺーじ 217ぺーじ
  17. ^ 笠原かさはら(1997) 194_215ぺーじ
  18. ^ a b c d 笠原かさはら (1997)、117-119ぺーじ
  19. ^ a b c d e はた (2007)、100ぺーじ
  20. ^ さばかれる歴史れきし 敗戦はいせん秘話ひわ新風しんぷうしゃ、44-46ぺーじ 
  21. ^ 南京なんきん日々ひび」ミニヴァートン p.70-72, 99,134,183, 230, 234, 243。『南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だい1かん』95-99ぺーじ南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だい2かん」103-4ぺーじ ひとし ほかにも記録きろく多数たすう 
  22. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公新書ちゅうこうしんしょ)p.184
  23. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p252
  24. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公新書ちゅうこうしんしょ)p.185
  25. ^ 南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう偕行社かいこうしゃ、1989ねん、420ぺーじ
  26. ^ 喜多きた義人よしひとにち戦争せんそう人道じんどう主義しゅぎ : 松山まつやま俘虜ふりょ収容しゅうようしょにおけるロシア傷病しょうびょうしゃ救護きゅうご検討けんとう」(PDF)『日本にっぽん法學ほうがくだい80かんだい2ごう日本にっぽん大学だいがくほう学会がっかい、2014ねん10がつ、591-627ぺーじCRID 1520009408715017472ISSN 02874601 
  27. ^ 瀬戸せと武彦たけひこだい1大戦たいせん100ねん日本にっぽん」(2014)
  28. ^ にちちゅう戦争せんそう 南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん』(かぶ)青木あおき書店しょてん、1985ねん11月1にち、174ぺーじ 
  29. ^ 畠山はたけやま 清行きよゆき東京とうきょう兵団へいだん Ⅰ胎動たいどうへん光風こうふうしゃ、1963ねん1がつ1にち、138-141ぺーじ 
  30. ^ はた (2007) p.2
  31. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう1 アメリカ関係かんけい資料しりょうへん南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへんやく 青木あおき書店しょてん 1992 558-561ぺーじ笠原かさはらじゅうきゅうつかさが1986ねん9がつにインタビュー
  32. ^ a b c d e f はた (2007)、6ぺーじ
  33. ^ 笠原かさはら (1994)、71-80ぺーじ
  34. ^ 南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう1」184ぺーじ
  35. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、230ぺーじ
  36. ^ にちちゅう戦争せんそう 復刻ふっこく新版しんぱん』p.151.
  37. ^ にちちゅう戦争せんそう 復刻ふっこく新版しんぱん』p.151.
  38. ^ 笠原かさはら (1997)、4ぺーじ
  39. ^ a b 笠原かさはら (1997)、6ぺーじ
  40. ^ a b はた (2007)、46ぺーじ
  41. ^ a b 笠原かさはら (1997)、18ぺーじ
  42. ^ 笠原かさはら (1997)、30-32ぺーじ
  43. ^ 笠原かさはら (1997)、32ぺーじ
  44. ^ 笠原かさはら (1997)、34ぺーじの「海軍かいぐんだいじゅうさん航空こうくうたい戦闘せんとう詳報しょうほう引用いんようより孫引まごびき。
  45. ^ 笠原かさはら (1997)、34-36ぺーじ
  46. ^ a b 笠原かさはら (1997)、58-59ぺーじ
  47. ^ a b 臼井うすい (2000)、80ぺーじ
  48. ^ a b 笠原かさはら (1997)、62ぺーじ
  49. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、64ぺーじ
  50. ^ a b はた (2007)、74ぺーじ
  51. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、72ぺーじ
  52. ^ a b c d e 臼井うすい (2000)、82ぺーじ
  53. ^ a b 吉田よしだ (1985)、80ぺーじ
  54. ^ はた (2007)、79ぺーじ
  55. ^ はた (2007)、80ぺーじ
  56. ^ a b c 臼井うすい (2000)、84ぺーじ
  57. ^ a b c 臼井うすい (2000)、85ぺーじ
  58. ^ はた (2007)、94ぺーじ
  59. ^ a b 吉田よしだ (1985)、81ぺーじ
  60. ^ 吉田よしだ (1985)、80-82ぺーじ
  61. ^ 笠原かさはら (1997)、83-102ぺーじ
  62. ^ 吉田よしだ (1985)、81ぺーじより孫引まごび引用いんようきゅう仮名遣かなづかいを現代げんだいしきあらためた。
  63. ^ はた (2007)、72ぺーじ
  64. ^ a b 笠原かさはら (1997)、83ぺーじ
  65. ^ 笠原かさはら (1997)、88ぺーじより孫引まごび引用いんよう一部いちぶ抜粋ばっすい
  66. ^ 吉田よしだ (1985)、93ぺーじ
  67. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 2007、84-106ぺーじ
  68. ^ 南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかい 1999, p. 94
  69. ^ 吉田よしだ (1985)、88ぺーじ
  70. ^ 吉田よしだ (1985)、87-89ぺーじ
  71. ^ 吉田よしだ (1985)、85-87ぺーじ
  72. ^ a b 笠原かさはら (1997)、119ぺーじ
  73. ^ a b c はた (2007)、102ぺーじ
  74. ^ a b c d e 笠原かさはら (1997)、120ぺーじ
  75. ^ 南京なんきん難民なんみんひゃくにち 虐殺ぎゃくさつ外国がいこくじん笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ 岩波書店いわなみしょてん78-82ぺーじ
  76. ^ はたいく彦 2007, p. 5-14、笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 2007172-3ぺーじ
  77. ^ にちちゅう戦争せんそう資料しりょう9』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ (1973)p120.田中たなか正明まさあき南京なんきん事件じけん総括そうかつ』p176
  78. ^ 南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だい2かん」 103-104ぺーじなど
  79. ^ はたいく彦 2007, pp. 132–134
  80. ^ 南京なんきん難民なんみん真実しんじつジョン・ラーベ 136ぺーじ
  81. ^ 最後さいご殿様とのさま 徳川とくがわ義親よしちか自伝じでん徳川とくがわ義親よしちか講談社こうだんしゃ、1973ねん笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 2007、138ぺーじ、ラーベ『南京なんきん真実しんじつ』(講談社こうだんしゃ, 1997ねん)213ぺーじ、「戦争せんそうらない世代せだいだい53かん」より「揚子江ようすこういている 熊本くまもとだいろく師団しだん出兵しゅっぺい記録きろく」(創価学会そうかがっかい青年せいねん反戦はんせん出版しゅっぱん委員いいんかい)94-96ぺーじ
  82. ^ 笠原かさはらじゅうきゅう(1997)pp.218-228
  83. ^ はたいく彦(2007)p.317
  84. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、143ぺーじ
  85. ^ 笠原かさはら (1997)、145ぺーじ
  86. ^ a b 笠原かさはら (1997)、153ぺーじ
  87. ^ Convention (IV) respecting the Laws and Customs of War on Land and its annex: Regulations concerning the Laws and Customs of War on Land. The Hague, 18 October 1907. ただし日本にっぽんだい44じょうのみ留保りゅうほ
  88. ^ 陸軍りくぐん次官じかんはつささえ駐屯ちゅうとんぐん参謀さんぼうちょうあて交戰こうせん法規ほうき適用てきようせきスルけんりくささえみつだい198ごう(1937ねん8がつ5にち) (「昭和しょうわ13 ねんささえ受大日記にっきひそか〕」〔防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかんぞう〕)。防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ平成へいせい19年度ねんど戦争せんそう研究けんきゅう国際こくさいフォーラム報告ほうこくしょ」の研究けんきゅう報告ほうこく日本にっぽんぐん捕虜ほりょ取扱とりあつかいの背景はいけい方針ほうしん」(立川たちかわ京一きょういち)76ぺーじ
  89. ^ 笠原かさはら (1997)、153-154ぺーじおよびはた (2007)、116ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。原文げんぶんきゅう仮名遣かなづかいであるが、笠原かさはら引用いんようでは現代げんだいぶんなおされている。
  90. ^ はた (2007)、116ぺーじ
  91. ^ 笠原かさはら (1997)、154ぺーじ
  92. ^ はた (2007)、117ぺーじ
  93. ^ 笠原かさはら (1997)、155ぺーじ
  94. ^ a b c d 笠原かさはら (1997)、165ぺーじ
  95. ^ 笠原かさはら (1997)、166ぺーじ
  96. ^ 笠原かさはら (1997)、167ぺーじ
  97. ^ はた (2007)、132-135ぺーじ
  98. ^ はた (2007)、134ぺーじ
  99. ^ 吉田よしだ (1985)、148ぺーじ
  100. ^ 吉田よしだ (1985)、148ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。引用いんようもときゅうきゅう仮名遣かなづかいカタカナ表記ひょうき。いずれも現代げんだいぶんあらためた。強調きょうちょう原文げんぶんママ、ただし吉田よしだによる強調きょうちょう太字ふとじではなく傍点ぼうてん
  101. ^ はた (2007)、112-160ぺーじ
  102. ^ 板倉いたくら由明よしあき南京なんきん事件じけん—「虐殺ぎゃくさつ」の責任せきにんろん—」軍事ぐんじ学会がっかいへんにちちゅう戦争せんそう諸相しょそう』[『軍事ぐんじ史学しがくだい130ごう記念きねん特集とくしゅうごう (だい33かん2・3合併がっぺいごう) ]にしきせいしゃ平成へいせいきゅうねん十二月じゅうにがついちにちだいいちさつ発行はっこう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID 4644796、183ぺーじ
  103. ^ 板倉いたくら (1997)、187ぺーじ
  104. ^ 南京なんきん戦史せんし 資料集しりょうしゅうI」偕行社かいこうしゃ,334ぺーじ 524ぺーじ
  105. ^ 信夫しのぶじゅんひらた戦時せんじ国際こくさいほう講義こうぎⅡ」384ぺーじ
  106. ^ 戦時せんじ国際こくさい法論ほうろん』p62「正規せいき兵力へいりょくぞくするものも、不正規ふせいきへいちゅう民兵みんぺいまた義勇ぎゆう兵団へいだん後述こうじゅつよん条件じょうけんを備へざることをるものではない。正規せいき兵力へいりょくたるときは、とう条件じょうけんは、当然とうぜん具備ぐびするものと思惟しいせらるるのである。正規せいき兵力へいりょくぞくするものが、とう条件じょうけんくときは、交戦こうせんしゃたるの特権とっけんうしなうにいたるのである。 たとえば正規せいき兵力へいりょくぞくするものが、敵対てきたい行為こういくだりふにあたり、制服せいふくうえひらめじんふくまたまった交戦こうせんしゃたるの特殊とくしゅ徽章きしょうしたるふくせさるときは、てき交戦こうせんしゃたる特権とっけんみとめられざることあるべきである。」
  107. ^ たて作太郎さくたろう戦時せんじ国際こくさい法論ほうろん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ昭和しょうわ19ねん、p49-62
  108. ^ 信夫しのぶじゅんひらめ戦時せんじ国際こくさいほう提要ていよう上巻じょうかん だいさんこう 私服しふく狙撃そげきしゃ便衣隊べんいたい) 400ぺーじ
  109. ^ a b 『「にちちゅう歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう」をかえる』北岡きたおか伸一しんいち、236ぺーじ
  110. ^ 水間みずま政憲まさのり完結かんけつ南京なんきん事件じけん日米にちべいちゅう歴史れきしせん」に終止符しゅうしふつ』 ビジネスしゃ、2017ねん8がつ24にち水間みずまは、日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐん負傷ふしょうへいはこんだとするが、「注釈ちゅうしゃく」にあるニューヨークタイムズの記事きじいちきゅうさんはちねんいちがつきゅうにち 中国ちゅうごくぐん司令しれい逃走とうそうした南京なんきん日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつ行為こうい F・ティルマン・ダーディン上海しゃんはいじゅうがつじゅうにちはつ)をただしくやくすと、実際じっさい中国ちゅうごくへい負傷ふしょうへい病院びょういんへの搬送はんそうは、日本にっぽんぐんではなく、きゅう中国ちゅうごく政府せいふ施設しせつ野戦やせん病院びょういん継承けいしょうした欧米おうべいじん医療いりょう関係かんけいしゃ自発じはつてきメンバー(かれらが国際こくさい赤十字せきじゅうじ設置せっちしたうえでの活動かつどう)であると記載きさいされている)
  111. ^ 笠原かさはら (1997)、217ぺーじ
  112. ^ a b 吉田よしだ (1985)、150ぺーじ
  113. ^ 吉田よしだ (1985)、150ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。引用いんようもときゅうきゅう仮名遣かなづかいカタカナ表記ひょうき。いずれも現代げんだいぶんあらためた。「かっぱらっテ」のみは吉田よしだによる引用いんよう平仮名ひらがなであるが、ここではぎゃくにカタカナにあらためた。
  114. ^ 吉田よしだ (1985)、151-152ぺーじ
  115. ^ 笠原かさはら (1997)、193ぺーじ
  116. ^ a b 笠原かさはら (1997)、194-200ぺーじ
  117. ^ 笠原かさはら (1997)、199ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。
  118. ^ 南京なんきん事件じけん日々ひび」pp.27-237
  119. ^ 吉田よしだ (1985)、157ぺーじ
  120. ^ 吉田よしだ (1985)、157ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。引用いんようもときゅう仮名遣かなづかいカタカナ表記ひょうき。いずれも現代げんだいぶんあらためた。
  121. ^ 吉田よしだ (1985)、157ぺーじ引用いんようより孫引まごび
  122. ^ はた (2007)、201ぺーじ
  123. ^ a b 吉田よしだ (1985)、154ぺーじ
  124. ^ 吉田よしだ (1985)、154ぺーじ引用いんようより孫引まごび
  125. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、215ぺーじ
  126. ^ 笠原かさはら (1997)、172ぺーじ
  127. ^ 笠原かさはら (1997)、172, 202ぺーじ
  128. ^ 笠原かさはら (1997)、129, 172ぺーじ
  129. ^ a b 笠原かさはら (1997)、173ぺーじ
  130. ^ 笠原かさはら (1997)、129ぺーじ
  131. ^ 笠原かさはら (1997)、174ぺーじ
  132. ^ Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press p345-346.
  133. ^ a b 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう1 アメリカ関係かんけい資料しりょうへん南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへんやく 青木あおき書店しょてん 1992 558-561ぺーじ笠原かさはらじゅうきゅうつかさが1986ねん9がつにインタビュー。
  134. ^ はた (2007)、3ぺーじ
  135. ^ はた (2007)、2-3ぺーじ引用いんようより孫引まごび
  136. ^ 笠原かさはら (1994)、74-78ぺーじ
  137. ^ 笠原かさはら (1994)、79ぺーじ
  138. ^ 笠原かさはら (1994)、80ぺーじ
  139. ^ 笠原かさはら (1994)、73ぺーじ
  140. ^ 笠原かさはら (1994)、71ぺーじ
  141. ^ 南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう1」184ぺーじ
  142. ^ はた (2007)
  143. ^ a b c 笠原かさはら (1997)、231ぺーじ
  144. ^ 関根せきねけん抗日こうにち戦争せんそう初期しょきにおける重慶たーちん新聞しんぶん雑誌ざっし事情じじょう小説しょうせつ南京なんきん」」藝文げいぶん研究けんきゅう Vol.87(2004ねん),p.246.『抗日こうにち時期じきてき重慶たーちん新聞しんぶんかい重慶たーちん日報にっぽうしゃ1995.
  145. ^ 日本にっぽん前途ぜんと歴史れきし教育きょういくかんがえる議員ぎいんかい監修かんしゅう) 2008 [ようページ番号ばんごう]
  146. ^ 関根せきねけん抗日こうにち戦争せんそう初期しょきにおける重慶たーちん新聞しんぶん雑誌ざっし事情じじょう小説しょうせつ南京なんきん」」藝文げいぶん研究けんきゅう Vol.87(2004ねん),p.246.『抗日こうにち時期じきてき重慶たーちん新聞しんぶんかい重慶たーちん日報にっぽうしゃ1995.
  147. ^ 蒋介石しょうかいせき『暴をもって暴にむくいゆる勿れ』P13~P15『蒋介石しょうかいせき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』p67-70
  148. ^ 蒋介石しょうかいせき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』p67-70
  149. ^ 『ドイツ外交がいこうかん南京なんきん事件じけん』136、138-139ぺーじ
  150. ^ 『ドイツ外交がいこうかん南京なんきん事件じけん』136、138-139ぺーじ
  151. ^ 南京なんきん実相じっそう 国際こくさい連盟れんめいは「南京なんきん2まんにん虐殺ぎゃくさつ」すらみとめなかった」40ぺーじ
  152. ^ a b 南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかい 1999, pp. 47–48
  153. ^ a b はた (2007)、58ぺーじ
  154. ^ はた (2007)、60ぺーじ
  155. ^ a b c d e はた (2007)、63ぺーじ
  156. ^ a b 笠原かさはら (1997)、50ぺーじ
  157. ^ はた (2007)、64ぺーじ
  158. ^ a b はた (2007)、73ぺーじ
  159. ^ 笠原かさはら (1997)、51-52ぺーじ
  160. ^ a b 南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう偕行社かいこうしゃ、1989ねん、420ぺーじ
  161. ^ はた (2007)、330
  162. ^ a b はた (2007)、331ぺーじ
  163. ^ a b はた (2007)、333ぺーじ
  164. ^ a b はた (2007)、332ぺーじ
  165. ^ a b はた (2007)、334ぺーじ
  166. ^ a b はた (2007)、335ぺーじ
  167. ^ a b はた (2007)、336ぺーじ
  168. ^ a b c d はた (2007)、337ぺーじ
  169. ^ a b c d e f g h i j k l m n はた (2007)、328ぺーじ
  170. ^ 臼井うすい (2000)、66ぺーじ
  171. ^ 笠原かさはら (1997)、58ぺーじ
  172. ^ a b 笠原かさはら (1997)、66ぺーじ
  173. ^ a b c d e f はた (2007)、75ぺーじ
  174. ^ はた(2007)148ぺーじ
  175. ^ 笠原かさはら (1997)、74-106ぺーじ
  176. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん <岩波いわなみ新書しんしょ(しんあかばん)530>』岩波書店いわなみしょてん、1997ねん11月20にち だいさつ発行はっこうISBN 4-00-430530-6、112~113ぺーじ
  177. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん』1997ねん、p116
  178. ^ 笠原かさはら (1997)、120ぺーじ
  179. ^ a b c はた (2007)、329ぺーじ
  180. ^ 最後さいご殿様とのさま 徳川とくがわ義親よしちか自伝じでん徳川とくがわ義親よしちか講談社こうだんしゃ、1973ねん笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 2007、138ぺーじ、ラーベ『南京なんきん真実しんじつ』(講談社こうだんしゃ, 1997ねん)213ぺーじ
  181. ^ 笠原かさはら(2007)217ぺーじ
  182. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう1 アメリカ関係かんけい資料しりょうへん南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへんやく 青木あおき書店しょてん 1992 558-561ぺーじ笠原かさはらじゅうきゅうつかさが1986ねん9がつにインタビュー。
  183. ^ はた (2007)3ぺーじ
  184. ^ 笠原かさはら (1997)、193ぺーじ
  185. ^ 『アサヒグラフ』(朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ13ねん1がつ26にち発行はっこう
  186. ^ 南京なんきん戦史せんし』(増補ぞうほ改訂かいていばん)398-99ぺーじ
  187. ^ はた(2007)151ぺーじ
  188. ^ 波多野はたの澄夫すみお戸部とべ良一りょういち松元まつもとたかし庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう川島かわしましん決定けっていばん ちゅう戦争せんそう新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう新書しんしょ〉、2018ねん11がつ20日はつか、99ぺーじISBN 978-4-106-10788-7 
  189. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう 1アメリカ関係かんけい資料しりょうへん」233-236ぺーじ
  190. ^ はた (2007) p.177
  191. ^ 国際こくさい連盟れんめい理事りじかいだい100かい会期かいき議事ぎじろく
  192. ^ 笠原かさはら (1997)、62ぺーじ
  193. ^ a b 笠原かさはら (1997)、60ぺーじ
  194. ^ 笠原かさはら (1997)、p. 62-63ぺーじ引用いんようより孫引まごび
  195. ^ 笠原かさはら (1997)、p. 63-64ぺーじ引用いんようより孫引まごび
  196. ^ 笠原かさはら (1997)、68ぺーじ
  197. ^ a b はた (2007)、76ぺーじ
  198. ^ 笠原かさはら (1997)、70ぺーじ
  199. ^ はた (2007)、77ぺーじ
  200. ^ はた (2007)、p. 75ぺーじ
  201. ^ ジョン・ラーベ『南京なんきん真実しんじつ』 (P215~P216)
  202. ^ a b 笠原かさはら (1997)、163ぺーじ
  203. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつ──初代しょだい宮内庁くないちょう長官ちょうかん田島たじま道治みちはる記録きろく岩波書店いわなみしょてん 1952ねんがつ20にち記述きじゅつ
  204. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん <岩波いわなみ新書しんしょ(しんあかばん)530>』岩波書店いわなみしょてん、1997ねん11月20にち だいさつ発行はっこうISBN 4-00-430530-6、112~113ぺーじ
  205. ^ はた (2007)、104ぺーじ
  206. ^ a b はた (2007)、105ぺーじ
  207. ^ 笠原かさはら (1997)、179ぺーじ
  208. ^ はたいく彦 2007, p. 191・210
  209. ^ 喜多きた義人よしひとにち戦争せんそう人道じんどう主義しゅぎ : 松山まつやま俘虜ふりょ収容しゅうようしょにおけるロシア傷病しょうびょうしゃ救護きゅうご検討けんとう」(PDF)『日本にっぽん法學ほうがくだい80かんだい2ごう日本にっぽん大学だいがくほう学会がっかい、2014ねん10がつ、591-627ぺーじCRID 1520009408715017472ISSN 02874601 
  210. ^ 瀬戸せと武彦たけひこだい1大戦たいせん100ねん日本にっぽん」(2014)
  211. ^ にちちゅう戦争せんそう 南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん』(かぶ)青木あおき書店しょてん、1985ねん11月1にち、174ぺーじ 
  212. ^ 畠山はたけやま 清行きよゆき東京とうきょう兵団へいだん Ⅰ胎動たいどうへん光風こうふうしゃ、1963ねん1がつ1にち、138-141ぺーじ 
  213. ^ はた (2007) 67ぺーじ
  214. ^ Convention (IV) respecting the Laws and Customs of War on Land and its annex: Regulations concerning the Laws and Customs of War on Land. The Hague, 18 October 1907. ただし日本にっぽんだい44じょうのみ留保りゅうほ
  215. ^ 陸軍りくぐん次官じかんはつささえ駐屯ちゅうとんぐん参謀さんぼうちょうあて交戰こうせん法規ほうき適用てきようせきスルけんりくささえみつだい198ごう(1937ねん8がつ5にち) (「昭和しょうわ13 ねんささえ受大日記にっきひそか〕」〔防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかんぞう〕)。防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ 「平成へいせい19年度ねんど戦争せんそう研究けんきゅう国際こくさいフォーラム報告ほうこくしょ」の研究けんきゅう報告ほうこく日本にっぽんぐん捕虜ほりょ取扱とりあつかいの背景はいけい方針ほうしん」(立川たちかわ京一きょういち)76ぺーじ
  216. ^ 吉田よしだひろしいちねん戦争せんそう研究けんきゅう戦争せんそう責任せきにん問題もんだい : 南京なんきん事件じけん中心ちゅうしん」『いちきょう論叢ろんそうだい97かんだい2ごう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1987ねん2がつ、196-215ぺーじCRID 1390009224863786496doi:10.15057/12733hdl:10086/12733ISSN 0018-2818  脚注きゃくちゅう45.P.214 (P.20)
  217. ^ はた (2007) 174ぺーじ
  218. ^ 波多野はたの澄雄すみお; 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう (2010ねん1がつ31にち). “<きん現代げんだいだい2 だい2しょう ちゅう戦争せんそう日本にっぽんぐん侵略しんりゃく中国ちゅうごく抗戦こうせん”. だい1にちちゅう歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう報告ほうこくしょ. p. 271(PDFファイルのとお番号ばんごう). 2013ねん9がつ28にち閲覧えつらん
  219. ^ 東京とうきょう裁判さいばん提出ていしゅつされた武藤むとうあきらささえ事変じへん発生はっせい当時とうじ参謀さんぼう本部ほんぶだい1だい3課長かちょう)の尋問じんもん調書ちょうしょ(1946ねん4がつ16にちづけ)による。立川たちかわ京一きょういち日本にっぽん捕虜ほりょ取扱とりあつかいの背景はいけい方針ほうしん』 p76
  220. ^ はたいく彦 2007, p. 103
  221. ^ 信夫しのぶじゅんひらめ戦時せんじ国際こくさいほう提要ていよう上巻じょうかん だいさんこう 私服しふく狙撃そげきしゃ便衣隊べんいたい) 400ぺーじ
  222. ^ 東中野ひがしなかの「「南京なんきん虐殺ぎゃくさつ」の徹底てってい検証けんしょう」1998ねん p.193-195
  223. ^ 別冊べっさつ正論せいろん26 73ページ 正論せいろん2001.3の加筆かひつ修正しゅうせい
  224. ^ a b 日暮ひぐらし (2008)、18-20ぺーじ
  225. ^ 日暮ひぐらし (2008)、20-22ぺーじ
  226. ^ はた (2007)、44ぺーじ引用いんようより孫引まごびき。
  227. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公ちゅうこう文庫ぶんこ)p.251-253 260 263 264
  228. ^ はた (2007)、43ぺーじ
  229. ^ a b c d e はた (2007)、47ぺーじ
  230. ^ はた (2007)、48-50ぺーじ
  231. ^ はた (2007)、50ぺーじ
  232. ^ 楊(2000) p173
  233. ^ 楊(2000) p173
  234. ^ はた(2007) p2
  235. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう 1アメリカ関係かんけい資料しりょうへん」417-422ぺーじはたいく彦 2007, pp. 1–7
  236. ^ a b c d e f g 楊 (2000)、174ぺーじ
  237. ^ What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor Gollancz Ltd,1938.New York, Modern Age Books.
  238. ^ a b 歴史れきしせん だい10わらぬプロパガンダ(6)】南京なんきん事件じけんひろめたほん 著者ちょしゃごうじん記者きしゃ中国ちゅうごくからカネもらって執筆しっぴつした…そんなほんが「ひゃくにんり」脚色きゃくしょく裁判さいばんをも影響えいきょう 産経新聞さんけいしんぶん2015.4.23(池田いけだ祥子さちこ岡部おかべしん河崎かわさき真澄ますみ田北たきた真樹子まきこ田中たなか靖人やすひと原川はらがわろう矢板やいた明夫あきお担当たんとう
  239. ^ 現代げんだい歴史れきしがく南京なんきん事件じけん所収しょしゅう戸谷とたにゆかりあさ P139
  240. ^ a b c 楊 (2000)、175ぺーじ
  241. ^ 関根せきねけん抗日こうにち戦争せんそう初期しょきにおける重慶たーちん新聞しんぶん雑誌ざっし事情じじょう小説しょうせつ南京なんきん」」藝文げいぶん研究けんきゅう Vol.87(2004ねん),p.246.『抗日こうにち時期じきてき重慶たーちん新聞しんぶんかい重慶たーちん日報にっぽうしゃ1995.
  242. ^ 関根せきねけん抗日こうにち戦争せんそう初期しょきにおける重慶たーちん新聞しんぶん雑誌ざっし事情じじょう小説しょうせつ南京なんきん」」藝文げいぶん研究けんきゅう Vol.87(2004ねん),p.246.『抗日こうにち時期じきてき重慶たーちん新聞しんぶんかい重慶たーちん日報にっぽうしゃ1995.
  243. ^ 日本にっぽん前途ぜんと歴史れきし教育きょういくかんがえる議員ぎいんかい監修かんしゅう) 2008 [ようページ番号ばんごう]
  244. ^ 蒋介石しょうかいせき『暴をもって暴にむくいゆる勿れ』P13~P15『蒋介石しょうかいせき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』p67-70
  245. ^ 蒋介石しょうかいせき秘録ひろく12 にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう』p67-70
  246. ^ 広田ひろた弘毅こうき悲劇ひげき宰相さいしょう」の実像じつぞう」(服部はっとり龍二りゅうじちょ 中公ちゅうこう文庫ぶんこ)p.184-185
  247. ^ 真崎まさき三郎さぶろう日記にっき山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ p.291-292、河辺かわべとらよんろう市ヶ谷いちがやだいから市ヶ谷いちがやだい最後さいご参謀さんぼう次長じちょう回想かいそうろく時事通信社じじつうしんしゃ p.153-154、「岡村おかむらやすし大将たいしょう資料しりょう」(うえはら書房しょぼう p.280 290-291 293-294   木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p252
  248. ^ a b c 楊 (2000)、176ぺーじ
  249. ^ はた(2009) p112-175、笠原かさはら(2000) p.84-106とう
  250. ^ 熊本くまもと兵団へいだん戦史せんし」(熊本日日新聞社くまもとにちにちしんぶんしゃ)p128-129、「いちよん物語ものがたり」p427 443、「歩兵ほへいだい33連隊れんたい 栄光えいこうじゅうねんあゆみ」よりp411-413
  251. ^ 目撃もくげきしゃかたにちちゅう戦争せんそう』P53-P55、『守山もりやま義雄よしお文集ぶんしゅう』P448、ジョン・ラーベ『南京なんきん真実しんじつ』より12がつ20日はつか
  252. ^ おもね健一けんいち『「南京なんきん事件じけん日本人にっぽんじん48にん証言しょうげん
  253. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう 中国ちゅうごく関係かんけい資料しりょうへん」p270-273 p275-277 たかしぜんどうについては、おも中国ちゅうごくがわ戦後せんご資料しりょう(『おかせはなぐん南京なんきんだい屠殺とさつ档案』など)による。
  254. ^ 南京なんきん事件じけん日々ひび」240ぺーじ
  255. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん 中国ちゅうごく関係かんけい資料しりょうへん』(かぶ)青木あおき書店しょてん、1992ねん10がつ15にち、277ぺーじ 
  256. ^ にちちゅう戦争せんそう 南京なんきんだい残虐ざんぎゃく事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん関係かんけい資料しりょうへん中国ちゅうごく関係かんけい資料しりょうへん』(かぶ)青木あおき書店しょてん、1985ねん11月1にち、377ぺーじ 
  257. ^ 南京なんきん事件じけんかんがえる』(かぶ)大月書店おおつきしょてん、1987ねん8がつ20日はつか、100ぺーじ 
  258. ^ 笠原かさはらじゅうきゅう南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん 13のウソ』(南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへん柏書房かしわしょぼう、1999ねんISBN 4-7601-1784-9)120-137ぺーじ
  259. ^ ほら富雄とみお南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ証明しょうめい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ p.82-83
  260. ^ 笠原かさはら (1997)、218ぺーじ
  261. ^ はた (2007)、207ぺーじ
  262. ^ はた (2007)、214ぺーじ
  263. ^ 笠原かさはら (1997)、227-228ぺーじ
  264. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ 1997, pp. 218–228。このせつちかものほら富雄とみお藤原ふじわらあきら吉田よしだひろし井上いのうえひさ本多ほんだ勝一かついち小野おの賢二けんじひとしほら富雄とみお藤原ふじわらあきら本多ほんだ勝一かついちへん 1987, p. 28
  265. ^ はたいく彦 2007, p. 317
  266. ^ 現代げんだいひかりかげ」P26‐27
  267. ^ 中京学院大学ちゅうきょうがくいんだいがく研究けんきゅう紀要きよう中華民国ちゅうかみんこく史料しりょう(1946ねん)からみた「南京なんきん事件じけん中華民国ちゅうかみんこく調査ちょうさ資料しりょう国立こくりつ中央ちゅうおう研究けんきゅういん社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ中国ちゅうごくたいにち戦時せんじ損失そんしつ合計ごうけい
  268. ^ みんこく档案 2004.3、133ぺーじ
  269. ^ 板倉いたくら由明よしあき本当ほんとうはこうだった南京なんきん事件じけん」199-200ぺーじ中国ちゅうごくぐん総数そうすう5まん戦死せんししゃすう1まん5,000にんらわれて殺害さつがいされたものを1まん6,000にん市民しみんたいする被害ひがいしゃ総数そうすう城内じょうないこうやすしけんわせて1まん5,000にん、うち虐殺ぎゃくさつ被害ひがいを5,000-8,000にん兵士へいし市民しみん虐殺ぎゃくさつすう合計ごうけいは1まん3,000にんとなるが、これにはばたせて1〜2まんにん推計すいけいする。このせつちかものうねほんただしおのれはらつよし中村なかむらつばら
  270. ^ 南京なんきん戦史せんし』(1993)偕行社かいこうしゃ
  271. ^ Chi-Wei Manは,The Rape of Nanking vs. The Incident of Nanking: A Literature Review,in Momentum,Vol. 1: Iss. 1, Article 9,the University of Pennsylvania,2012.で「novel」としている。
  272. ^ 新華社しんかしゃ 「(國際こくさいちゅう法主ほっしゅそう人員じんいん推介漫畫まんがしょ南京なんきん1937》」Oct 29, 2014
  273. ^ ひがしもう国内こくない首部しゅぶ南京なんきんだいほふ杀漫南京なんきん1937》出版しゅっぱん」2014ねん11がつ10日とおか(いち) 17:50.重慶たーちん日報にっぽう国内こくない首部しゅぶ讲述南京なんきんだいほふ杀的漫画まんが书《南京なんきん1937》」2014ねん11がつ10日とおか

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ウィキメディア・コモンズには、南京なんきん事件じけんかんするメディアがあります。