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A・T・スティール

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A・T・スティール(Archibald Trojan Steele,1903ねん6月25にち - 1992ねん2がつ28にち)はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのジャーナリスト。1937ねん南京なんきんせんにおける南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ南京なんきん事件じけん)を報道ほうどうしたことでられる[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

カナダトロントまれ、1916ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移民いみんし、ユタしゅうソルトレイクシティみ、のちアイダホしゅうボイシうつ[2]。1924ねんスタンフォード大学だいがく卒業そつぎょうボイシもどり、キャピタルニュース(the Capital News)の見習みなら記者きしゃになる[2]。カリフォルニアにうつり、ウィロージャーナル(the Willows Journal)、ダウニーチャンピオン(The Downey Champion)の編集へんしゅう委員いいんとなる[2]

中国ちゅうごく海外かいがい特派とくはいん[編集へんしゅう]

世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょう資産しさんうしなったスティールは、中国ちゅうごく旅行りょこうし、そこで海外かいがい特派とくはいんとなった[2]

1932ねん6がつから10がつまで満州まんしゅうこく[2]

1932ねんから1934ねんまでAP通信つうしん特派とくはいん、1935ねんから1937ねんまでニューヨーク・タイムズ特派とくはいん、1937ねんから1945ねんまでシカゴ・デイリー・ニューズ特派とくはいん、1945ねんから1960ねんまでニューヨークヘラルド・トリビューン極東きょくとう特派とくはいんとなった[2][1]

1933ねん1がつ16にち日本にっぽん東京とうきょう麹町こうじまちでエスター・フランセス・ジョンソンと結婚けっこんした[2]

1930年代ねんだい毛沢東もうたくとう会見かいけんした[1]中国ちゅうごくてからは中国ちゅうごく情況じょうきょう非常ひじょうつよ同情どうじょうしんいだくようになった[3]にちちゅう戦争せんそう(ささえ事変じへん)を報道ほうどうし、1937ねんには南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつについて世界せかいはじめて報道ほうどうした[1][4][2]

1941ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい世界せかい大戦たいせん参加さんかしてからは、中国ちゅうごく、ビルマ、インド戦線せんせん報道ほうどうした[2]

戦時せんじちゅう訪問ほうもん場所ばしょ[2]
  • 1940ねん1がつから2がつまで日本にっぽん滞在たいざい[2]
    • 5月から6がつまで米国べいこく
    • 8がつ日本にっぽん
    • 9月〜10月、中国ちゅうごく滞在たいざい[2]
  • 1941ねん1がつ日本にっぽん滞在たいざい
    • 1がつ-4がつ 東南とうなんアジア
    • 5月-6月 中国ちゅうごく
    • 8がつから翌年よくねん5がつまでソ連それん滞在たいざい[2]
  • 1942ねん中東ちゅうとう、インド
    • 12月から1944ねんまでパキスタン、インド、ビルマ、中国ちゅうごく

戦後せんご[編集へんしゅう]

戦後せんご戦犯せんぱん裁判さいばんソ連それん極東きょくとうへの影響えいきょう報道ほうどうし、チベットダライ・ラマ会見かいけんした[2]

1949ねん極東きょくとうはなれて、アフリカ、東南とうなんアジアを旅行りょこう[2]

1960ねん退職たいしょくし、アリゾナしゅうセドナみ、1966ねんに『アメリカじん中国ちゅうごく』、1977ねんに『上海しゃんはい満州まんしゅう 1932』を刊行かんこう[2]

1970年代ねんだいには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくなんおとずれ、1978ねんには鄧小ひらたへインタビューをした[1]

1992ねん、アリゾナしゅうセドナでぼつ

南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ報道ほうどう[編集へんしゅう]

1937ねん南京なんきんせんにおいて南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ南京なんきん事件じけん)を目撃もくげきしたとして1937ねん12月15にちシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”と世界せかいはじめて報道ほうどうした[1][4]

  • 1937ねん12月15にちシカゴ・デイリー・ニューズ”NANKING MASSACRE STORY”(南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ物語ものがたり)」
  • 1937ねん12月17にちシカゴ・デイリー・ニューズ「特派とくはいんえが中国ちゅうごくせん恐怖きょうふ ―南京なんきんにおける虐殺ぎゃくさつ略奪りゃくだつ支配しはい
  • 1937ねん12月18にちシカゴ・デイリー・ニューズ「南京なんきんのアメリカじん勇敢ゆうかんさをかたる 」
  • 1938ねん2がつ3にちシカゴ・デイリー・ニューズ「南京なんきん占領せんりょう中国人ちゅうごくじんのパニック◇いま暴露ばくろされる恐怖きょうふ残虐ざんぎゃく光景こうけい
  • 1938ねん2がつ4にちシカゴ・デイリー・ニューズ「記者きしゃは、パニックの南京なんきん中国人ちゅうごくじん虐殺ぎゃくさつをアメリカのジャックラビットり(ウサギ)にす」では、日本にっぽんぐんによる中国人ちゅうごくじん虐殺ぎゃくさつについて「西部せいぶでジャックラビットりをたことがある。それは、ハンターのなす警戒けいかいせん無力むりょくなウサギにかってせばめられ、がこいにてられ、そこでなぐころされるか、ころされるかするのだった。南京なんきんでの光景こうけいはまったくおなじで、そこでは人間にんげん餌食えじきなのだ。 うしなった人々ひとびとはウサギのように無力むりょくで、戦意せんいうしなっていた。そのおおくは武器ぶきをすでに放棄ほうきしていた。」「日本にっぽんぐん兵士へいし便衣べんいへいらえるため市内しないをくまなく捜索そうさくした。なにひゃくにんもが難民なんみんキャンプからされ、処刑しょけいされた。」「日本にっぽんぐんにとってはこれが戦争せんそうなのかもしれないが、わたしにはたんなる殺戮さつりくのようにえる。」とほうじた。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • Present-day Japan, American Institute of Pacific Relations, 1947.
  • The American people and China, McGraw-Hill, 1966.
  • Shanghai and Manchuria, 1932 : recollections of a war correspondent. Center for Asian Studies, Arizona State University, 1977.
  • In the kingdom of the Dalai Lama, In Print Pub., 1993.
文集ぶんしゅう

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

1950ねんにはロングアイランド大学だいがくジョージ・ポークしょう、1955ねんコロンビア大学ころんびあだいがくマリアムーアカボットしょう受賞じゅしょう[2]

注釈ちゅうしゃく出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press p345-346.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Biographical Note,A. T. Steele Papers 1931-1982, 1995-1999,Arizona State University Libraries Special Collections.
  3. ^ Paul French,Through the Looking Glass: China's Foreign Journalists from Opium Wars p.214.
  4. ^ a b  『南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう 1アメリカ関係かんけい資料しりょうへん』p464-477

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Suping Lu, The Nanjing Atrocities Reported in the U.S. Newspapers, 1937-38, The Readex Report, Vol7, Issue2.
  • Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals, 2004, Hong Kong University Press.
  • 南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかい へんやく 『南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう 1アメリカ関係かんけい資料しりょうへん青木あおき書店しょてん 1992ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]