南京 事件 の証言
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日本人 による証言 [編集 ]
東京 裁判 [編集 ]
上海 派遣 軍 法務 官 兼 検察官 の塚本 浩次 は「私 の処断 した事件 の中 に将校 は四 、五 人 いたと思 うが、その他 は兵卒 による散発 的 な事件 が大 部分 であった。罪 種 は主 として掠奪 、強姦 であり、傷害 、窃盗 は少 なく、それに起因 する致死 は極 めて少 なかったと記憶 している。殺人 も二 、三 件 あったと思 うが放火 犯 を処断 した記憶 はなく、また集団 的 虐殺 犯 は取 り扱 ったこともない」と証言 した[1][4]。中 支 那 方面 軍 参謀 の中山 寧 人 は当時 情報 収集 を主務 としていた[4]。中山 は「南京 に数 回 行 ったが、世 に言 われるような大 事件 は、当時 聞 かなかったし、また見 たこともない。」「巡察 の際 見 た二 箇所 の死体 はいずれも軍人 の死体 であり、南京 の城内 でも城 外 でも、民間 人 の死体 は見 たことがない」と証言 [1]。また南京 事件 を聞 いたのは終戦 後 であるとし、南京 事件 なるものは、次 の4つに区分 して考 える必要 があり、1)市民 に対 する虐殺 事件 は「絶対 にそういうことはない」、2)俘虜 の虐殺 は「誤 り伝 えられた外 に、これもない」、3)外国 権益 、特 に財産 に対 する侵害 は一部 にあったが、中国 兵 がやったのか日本 兵 がやったのかは不明 である、4)婦女子 に対 する不法 行為 および掠奪 は「小規模 においてはあったと考 え、はなはだ遺憾 に思 う」と宣誓 供述 書 で証言 した[4][5]。中澤 三夫 第 16師団 参謀 長 は「日本 軍人 による物資 取得 の事実 は、憲兵 から少数 の通報 を受 けた。しかし、住民 の逃亡 とともに資材 もほとんど搬出 されており、家屋 も空家 同様 のものが多 かった。従 って組織 的 、集団 的 に掠奪 したという事実 は全 く聞知 しないし、勿論 司令 部 として、かかる不法 行為 を命令 し、默認 し、許容 した事実 は、全 くない。中国 の戦場 における掠奪 、破壊 は大 部分 が、退却 する支 那 軍 に続 いて挺身 闖入 する窮民 の常套 手段 である、ということを私 は掠奪 の被害 者 である支 那 人 から直接 聞 いている。(略 )南京 で日本 軍 によって計画 的 な強姦 が行 われたという事実 は、全 くない。少数 の散発 的 な風紀 犯 はあったが、それらはすべて法 に従 って処罰 された」と証言 [1]。松井 石 根 大将 ・中 支 那 派遣 軍 司令 官 は「当時 、自分 が我 軍 将兵 の軍紀 風紀 の粛正 、その他 右 目的 達成 のため執 った諸般 の処置 については、先 に証人 中山 寧 人 が詳細 に証言 しているので、再説 はしない。自分 の南京 占領 に対 する周到 な配慮 に拘 らず、占領 当時 のこうそうたる状態 における、興奮 した一部 若年 将兵 の間 に忌 むべき暴行 を行 った者 があったらしく、これは自分 のはなはだ遺憾 とするところである。ちなみに南京 陥落 当時 、自分 は南京 を去 ること略 々140マイルの蘇州 で病臥 中 で、自分 の命令 に拘 らずこれら暴行 が行 われたことは知 らず、また何等 の報告 に接 せず、17日 南京 入城 後 初 めて憲兵 隊長 よりこれを聞 き、各 部隊 に命 じて、即刻 厳格 な調査 と処罰 をなさしめた。ただし、戦時 における支 那 兵 および一部 不逞 の民衆 が、戦乱 に乗 じて常習 的 ノ暴行 掠奪 を行 うことは周知 の事実 であって、南京 陥落 当時 の暴行 掠奪 も支 那 軍民 の冒 したものも、また少 なくなかった。これを全部 日本 軍 将兵 の責任 に帰 そうとするのは、事実 を誣 いるものである。(略 )南京 陥落 後 昭和 13年 2月 まで上海 に在住 したが、その間 、12月下旬 南京 で若干 の不祥 事件 があったとの噂 を聞 いただけであって、何等 このような事実 について公的 報告 を受 けたことなく、当 法廷 で検察 側 の主張 するような大 規模 な虐殺 事件 に関 しては、1945年 終戦 後 東京 での米 軍 放送 によって、初 めて聞 き知 ったものである(略 )南京 攻略 戦闘 に際 して、支 那 軍民 が爆 撃 、銃砲 火 等 によって多数 死傷 したことはあっただろうけれども、検察 側 が主張 するような、計画 的 または集団 的 虐殺 を行 った事実 は断 じてない」と証言 した[4]。不 作為 による致死 も保護 責任 者 遺棄 致死 のようなものであれば故殺 (故意 による殺害 )の一 類型 とみる英 米 法 の裁判官 が多 い東京 裁判 において、松井 は他 の訴因 全 てが退 けられながら唯一 この南京 事件 に関 し不 作為 による責任 を問 われBC級 戦犯 に該当 する形 で有罪 となり、処刑 された。なお、巣鴨 拘置 所 の教誨 士 である花山 信勝 によれば、判決 が出 た後 は、松井 は南京 事件 の存在 を認 める形 で、お恥 ずかしいかぎりです、皆 を集 めて泣 いて怒 った、ところがこのことのあとで皆 が笑 った、或 る師団 長 の如 きは「当 り前 ですよ」と言 ったと、花山 に語 った[6]とされる。当時 、中 支 那 方面 軍 参謀 副長 として松井 石 根 の下 にあった武藤 章 大佐 は1946年 4月 22日 の東京 裁判 に備 えた国際 検察 局 の尋問 で、自分 らが入城 したのは南京 陥落 の数日 後 で市内 は既 に清掃 されていて伝 えられるような程 の数 の事件 があったとは信 じられないとしながらも、彼 自身 も松井 も10-20くらいの事件 があったと報告 を受 けた事 、また実際 に軍事 法廷 が開 かれ10-20くらいの数 の裁判 がかけられていた事 、自分 が確 かに知 っている法廷 はそれ一 つだが他 にも複数 あったと信 じている事 、またさらには一 つの事件 で10人 かそれ以上 の人数 が裁判 にかけられているものもあった事 を述 べ、日本 軍 について、シベリア出兵 以来 質 が悪 くなり、略奪 や強姦 を行 うようになったと述 べている[7]。また、松井 石 根 については、報告 を聞 いて激怒 し、事件 の調査 と犯人 の処罰 を直 ちに命 じたと、武藤 は述 べている。東京 裁判 では、彼 自身 は、この南京 での事件 や戦争 開始 責任 については当時 の地位 がそれほど高 くなかったとして無罪 とされたが、フィリピンやインドネシアでの虐殺 事件 の責任 を問 われ、BC級 戦犯 に該当 する形 で有罪 となり処刑 された。
虐殺 があったとする証言 [編集 ]
陸軍
谷 壽夫 は当時 陸軍 中将 。第 10軍 隷下 第 6師団 長 。南京 攻略 時 、南側 より南京 城 を攻 めた。戦後 、日本 で南京 事件 の責任 者 の一人 として逮捕 、南京 軍事 法廷 に送 られた。当人 は自身 の部隊 は軍紀 厳正 で虐殺 はしていないとしながら、中島 ・末松 らの部隊 が行 ったものだと主張 した[8]。これは司令 官 クラスで公 に南京 虐殺 の存在 を認 めた唯一 のものだとされる。中島 今朝 吾 は事件 当時 陸軍 中将 。南京 攻略 時 、第 16師団 長 として北側 より南京 城 を攻 めた。その日記 がジャーナリストの木村 久邇 典 が中島 の評伝 をまとめるために遺族 に取材 をしていた際 に提供 され、中央公論 の助 けを得 て分析 された。その日記 には、この戦 いにおいて捕虜 を取 らない方針 であること、麾下 の佐々木 到 一 少将 等 の部隊 がそれぞれ捕虜 を千 や万 を超 える単位 で処理 したものがあること、彼 自身 も七 、八 千 人 の捕虜 をまとめて「片付 くる」予定 だが、それには「大 なる壕 を要 し中 々見当 らず」代案 を考 えていること、刀 の使 い手 が来 たのでたまたまいた捕虜 7人 を試 し斬 りに使 ったこと等 の記述 がある[9]。なお、中島 は掠奪 に積極 的 に参加 しており、南京 の国民党 政府 の宝物 類 を組織 的 に掠奪 している。一方 、他 の将兵 の掠奪 については、日記 に、他 の部隊 の士官 ・兵士 が中島 の管轄 地域 にまで入 って盗 みを働 くこと、しかも司令 部 の標識 が出 されている建物 でさえ平気 で盗 みを働 くことが、頻発 していることに驚 き、本人 自身 の管轄 地域 で行 う分 にはよいが其処までいくと行 き過 ぎだと非難 している[9]。また、掠奪 について松井 大将 が「(国民党 政府 の財宝 類 の)かっぱらいの主人 は方面 軍 の幕僚 なりと突込 みたるに、是 はさすがにしらばくれて居 りたり」(←この記述 から中島 自身 が財宝 類 の盗 みを働 いている幕僚 らの黒幕 であると思 われる。)と書 き、さらに中島 は一流 ホテルから掠奪 した家具 を自身 の南京 での居所 に運 び込 んでおり、「(松井 大将 が)家具 の問題 も何 だかけちけちしたことを愚 須愚須言 い居 りたれば、国 を取 り人命 を取 るのに家具 位 を師団 が持 ち帰 る位 が何 かあらん、之 を残 して置 きたりとて何人 が喜 ぶものあらんと突 ぱねて置 きたり」と述 べている[9]。田中 隆吉 は憲兵 隊 を統括 する兵務 課長 、さらに兵務 局 局長 を太平洋戦争 中 の東条 首相 当時 務 める。その際 、各種 報告 書 を見 たという。また、陸軍 内 に人脈 も広 い。双極 性 障害 があり、その症状 として見 られることがあるとされる驚異 的 な記憶 力 を持 つ。東京 裁判 に備 えたGHQ検察 局 の尋問 で、南京 事件 当時 の総 司令 官 である松井 大将 がやめさせようとしたが彼 の力 ではできなかったので其 の責任 を負 わねばならないだろうと語 っていた事 、中島 今朝 吾 中将 が蒋介石 の住居 から大量 の財宝 を持 ち帰 ったことを調査 した事 、佐々木 到 一 中将 が誰 よりもひどい人物 だったと思 う事 、その他 に谷 壽夫 中将 、柳川 中将 の軍 、朝香 宮 の軍 も問題 のあったものとして挙 げて、証言 している[10]。佐々木 到 一 は、南京 攻略 時 中島 今朝 吾 中将 の麾下 で歩兵 第 30旅団 長 (当時 少将 )を務 める。中島 今朝 吾 日記 で門 で1万 5千 人 を処分 したことを聞 いたと書 かれた人物 。南京 警備 司令 官 となり、南京 城内 の敗残 兵 剔抉 を担当 。本人 の書 いたものによれば、12月22日 粛清 委員 長 となり、24日 査問 開始 、1月 5日 まで続 く[11]。敗残 兵 ばかりでなく、些細 な理由 を根拠 に単 なる住民 ・難民 も多数 剔抉 され連 れ去 られたが、その後 無事 に帰 らされた者 は少数 とされる。南京 全体 での大量 虐殺 の証言 は多 く、佐々木 による剔抉 もはじめから殺害 の予定 であったケースが殆 どであった事 が疑 われるが、他 の者 が行 った虐殺 との区別 も困難 である。捕 らえられた者 たちの裁判 が行 われた記録 も少 ない。敗戦 とともに、軍 や政府 の命令 で、南京 においても関係 諸 機関 の資料 が証拠 隠滅 のため廃棄 ・焼却 されたために、文書 の形 での物証 は殆 ど残 っていないが、逆 に彼 の措置 が問題 なかった事 を示 す資料 も殆 どない。憲兵 を統括 する兵務 課 畑 の長 い田中 隆吉 は、GHQ検察 局 の尋問 に対 し、佐々木 が誰 よりもひどい人物 だったと思 うと答 えている[10]。佐々木 の死後 、遺族 のもとにあった遺稿 が出版 された。(本人 の回想 自伝 と通常 解 されているが、厳密 にいえば、回想 記 か日記 体 風 の自伝 的 小説 か分 からない。)その中 では、南京 攻略 戦 で戦闘 に激昂 した兵士 が降伏 してきた敵 兵 を上官 の制止 も聞 かず殺 した事件 のことや、南京 陥落 後 の査問 等 による拘束 者 については”収容 ”という語 を使 っているが、城 外 近郊 で捕捉 した敗残 兵 については下関 で何 千 人 ”処分 ”した[11]と書 いている。畑 俊六 (松井 石 根 の後任 の中 支 那 派遣 軍 司令 官 、事件 当時 は陸軍 教育 総監 )は、日誌 の1938年 1月 29日 の箇所 に、「支 那 派遣 軍 も作戦 一段落 と共 に軍紀 風紀 漸 く頽廃 、掠奪 、強姦 類 の誠 に忌 はしき行為 も少 からざる様 なれば、召集 予 后 備役者 を現役 兵 と交代 せしめ、又 松井 大将 も現役 者 に、又 軍 司令 官 、師団 長等 の召集 者 も逐次 現役 者 を交代 せしむるの必要 あり」と、松井 司令 官 の更迭 を杉山 元 陸相 に進言 したことが書 かれている[12]。なお、畑 自身 は表向 きには、東京 裁判 時 に南京 事件 について「夢 にも考 えていなかつた。南京 に到着 してみても、なんの痕跡 もなかつたし、人 の耳 にも入 つていない。ところが、裁判 が始 まると虐殺 の証拠 が山 のように出 された。」と述 べて、自身 が事件 に頬被 りしていたことを誤魔化 した上 で、「いまにして思 えば、虐殺 も若干 行 われたことを私 も認 めている。掠奪 もたしかに行 われていた。」として、これらの証拠 が全体 としては誤 りではないことを事実 上 認 めている。小川 關 次郎 は第 十 軍 (柳川 兵団 )に同行 した法務 官 。その陣中 日記 には、上海 から南京 及 び其 れ以降 における日本 兵 の行 った暴行 ・窃取 ・掠奪 ・強姦 ・殺人 ・放火 また日本 軍 内部 では上官 脅迫 が記 されている。事態 を憂慮 しつつも、とくに南京 あたりからは個人 判断 として強姦 は悪質 なものを除 いて裁 かないことにした(このため憲兵 からは苦情 を受 けている)等 の記述 が見 える。短期間 いた南京 自体 では裁判 について触 れられていないが、南京 出立 後 、彼 の下 に送致 されてくる事件 が行 った先 での事件 か南京 から追 って送 られてきた事件 か不明 である。また、南京 への途上 で度々 国際 問題 になることを恐 れて証拠 隠滅 策 を講 じることを献策 している[13]。元 教育 総監 真崎 甚三郎 大将 は、上海 派遣 軍 を視察 してきた衆院 議員 の江藤 源九郎 予備 役 少将 の報告 を聞 き、1938年 1月 28日 の日記 に「軍紀 風紀 退廃 し、これを建 て直 さざれば真面目 の戦闘 に耐 えずということに帰着 せり。強盗 、強姦 、掠奪 、聞 くに忍 びざるものありたり」と記 している[12]。航空 兵団 所属 田中 大尉 よりの通信 。下関 の揚子江 に突出 してゐる桟橋 の端 で、捕虜 や敗残 兵 を斬殺 及 び銃殺 で処分 している所 を見 て来 たとし、河 には「あるある首 のない奴 、首 ばかりの奴 何 百 と浮 きつ沈 みつしています」と、当時 極秘 扱 いとされた文書 で述 べている[14]。秦 賢介 は1957年 、山田 支隊 が幕府 山 で2万 人 捕虜 を虐殺 したと書 いた[15][16]。但 し、両角 連隊 長 は当人 は現場 にいなかったものの福島民友新聞 「郷土 部隊 戦記 」でこれは暴動 のような状態 になったため自衛 発砲 であったと反論 している[16]。山田 支隊 に従軍 した福島 民 報 の箭内 正 五郎 は、当時 秦 賢介 は南京 にも上海 にも行 っていないので、戦後 兵隊 が酒飲 み話 に話 したことを書 いたのだろうと述 べている[16]。鈴木 明 は秦 賢介 の文 はフィクションであるとし[17][16]、本多 勝一 も「不正確 な伝聞 」と評 し[18]、板倉 由明 は秦 賢介 は「ニセ証言 者 」と否定 した[19]。(ただし、小野 賢二 の当時 の兵士 に取材 した研究 によれば、初 めから処刑 のための準備 がなされていたとする。また、清水 潔 の調査 によれば、両角 連隊 長 の主張 は戦後 だいぶ経 ってから加害 者 側 の自己 弁護 としてい出 されたものであり、自衛 発砲 説 の方 が寧 ろ信頼 できない説 とされている[20]。)-
田所 耕三 は1971年 に『アサヒ芸能 』で、「私 らは下関 (南京 城西 北端 の船着場 )にいた。鉄条 網 の鉄条 を外 して、捕 まえた連中 を十 人 ぐらいずつ束 にして、井 げたに積 み上 げて油 をかけて燃 やしちゃった。(略 )女 が一番 の被害 者 だったな。年寄 りから何 から全部 やっちまった。トラックで部落 に乗 りつけて、女 どもを略奪 して兵隊 にわける。兵隊 十 五 人 から二 十 人 に女 ひとり。支 那 の女 は技術 はうまいね。殺 されたくないから必死 なんだろうけど、なかなかいい」「見 せしめの為 に捕虜 を傷 つけることもやった。耳 を削 ぎとる。鼻 をけずる。口 の中 に帯剣 を差 し込 んで切 り開 く。目 の下 に帯剣 を横 にして突 っ込 むと、魚 の目 のようなドロリとした白 いものが五 寸 くらい垂 れる。こんなことでもやらないと、ほかに楽 しみがない。上陸 以来 久 しぶりの遊戯 なんだから。将校 ?知 らんぷりをしていたな」と証言 [21][22]。その後 、田所 証言 は洞 富雄 、アイリス・チャン[23]、本宮 ひろ志 の『国 が燃 える』で引用 された。またニューズウィーク1997年 11月30日 は田所 証言 (第 114師団 )を紹介 しながら、1971年 のインド・パキスタン分離 独立 でのパキスタン軍 兵士 によるベンガル女性 への集団 レイプを除 くならば、南京 事件 での集団 レイプは世界 史上 最大 だったと主張 した[24]。しかし、板倉 由明 によれば、水戸 の兵士 なら第 102連隊 で下関 までは行 っていないし、また数日 後 には南京 から転進 しており、証言 は信憑 性 がないとして「ニセ証言 者 」であると主張 した[25]。ただし、兵士 たちが時間 の空 いたようなときに他 の部隊 の管轄 する地域 にも遊 びで行 くようなことがよくあることは佐々木 倒 一 の私記 でも書 かれている。阿 羅 健一 の主張 では、後 に彼 が田所 に面会 すると「(ルポライターが)南京 での残忍 な話 に執心 するので、しばらくして南京 での作 り話 をしてやると、ルポライターは目 の色 を変 えてそれらを書 き留 めだした。その態度 を見 て、わたしはいっそう膨 らまして話 をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言 で、私 自身 は城内 に入 ってもいなければ、下関 にも行 っていない。あの話 はまったくのウソなのだ」と言 ったとする[26]。 -
赤星 義雄 (歩兵 13連隊 二等兵 )は1979年 、創価学会 青年 部 反戦 出版 委員 会 本 で、14日 下関 の揚子江 岸 で「広 い川幅 いっぱいに、数 え切 れないほどの死体 が浮遊 し」「5万 人 以上 」「ほとんどが民間 人 の死体 」が流 れていた、と証言 [27]。板倉 由明 は、流速 は時速 数 キロとみて数時間 たてば南京 から見 られなくなる。水 は濁 っており一部 しか水面 上 に出 ていない水死 体 を遠望 して軍民 別 、年齢 などが解 かるわけがない。下関 は中国 軍 によって焼 き払 われ住民 は避難 していたと思 われる、城門 は9日 に閉鎖 され住民 は出入 りできない状態 だった。揚子江 上 にいた米 、英 、日 の艦船 、連絡 線 乗組 員 、便乗 の新聞 記者 、碇泊 場 司令 部 の日記 にはこのような記録 がない、等 の疑問 点 を挙 げた[28]。(対 して、あまりに死体 が多 く屡々 絡 み合 って停滞 することは考 えられる又 は虐殺 が続 き次 から次 へと大量 の死体 が流 されていた可能 性 がある、下関 はもともと揚子江 を渡 ろうとしていた住民 が殺到 していたし建物 等 は12日 でも半分 程度 しか焼 き払 われていなかった、他国 艦船 は上流 に避難 しており遅 れて南京 に戻 っている等 の点 が無視 されていることが指摘 しうる。) -
高城 守一 (輜重 6連隊 小隊 長 )も同 創価学会 青年 部 反戦 出版 委員 会 本 [27]で、南京 に2日 いた。1937年 12月14日 下関 (シャーカン)の兵站 まで物資 を取 りに行 った。下関 には数 隻 の輸送 船 、護衛 艦 も見 えた。揚子江 に「民間 人 と思 われる累々 たる死体 が浮 かび」「十 名 前後 のクーリーが射殺 されるのを目撃 した」「おびただしい糧秣 が揚陸 されていた」と証言 。しかし、板倉 は、軍艦 の突入 が12月13日 15時 40分 で、「軍艦 以外 の貨物 船 などが南京 まで運航 するのは、機雷 除去 が進 んだ18日 以降 であり、14日 というのはおかしい」と批判 [29]。(しかし、当時 の新聞 記事 によれば軍艦 が13日 夕 には下関 あたりに来 ており、記者 がどの程度 実態 を把握 しうるかはともかくとして、それは機雷 除去 を順調 に果 たして遡上 し、着 いたものとされている。そもそも機雷 除去 が済 んだのは18日 乃至 その直前 とすることに何 ら根拠 を挙 げておらず、自身 の結論 に合 わせて勝手 に作 った自説 と思 われる。) 中川 誠一郎 (仮名 、野砲 六 連隊 ) も同 創価学会 青年 部 反戦 出版 委員 会 本 [27]で中華 門 攻撃 に加 わり陥落 後 、「南京 城 を素通 りして、ただちに蕪 湖 へと向 かった」「途中 の下関 で、延々 と黒焦 げの何 百 台 という自動車 と何 百 人 にのぼる住民 の死体 を見 た」「『この肉 もうまいぞ』と出 された肉 を何人 かの兵 が食 べた」「それは中国 兵 の大腿 部 の肉 だったと後 で聞 かされた」、と人 肉食 を証言 した。秦 郁 彦はこの証言 者 の「老 農夫 をなぐり殺 したシーンも見 た」「二 百 人 近 い敗残 兵 ・・・“捕虜 をつれて戦 ができるか”と一喝 され、数日 後 に皆殺 しにしたと聞 かされた」との回想 を、下関 釈放 捕虜 の行 く末 だった可能 性 が高 いとして採用 [30]。中華 門 は南京 城 の南端 で、蕪 湖 は南京 の南南西 90キロ辺 りにある。下関 は南京 の北西 端 城 外 であるため、もし素通 りしていれば下関 は通 らない。応召 し砲 の取扱 い訓練 も経 ずに6日 後 には分隊 長 となり、蕪 湖 では野砲 を離 れ宣撫 班 の班長 になったと、軍 歴 はやや不自然 である(ただし、元々 の兵 歴 記載 は無 い。)。中山 重夫 (陸軍 戦車 隊 の上等 兵 ・修理 兵 )は、1984年 6月23日 の朝日新聞 で「南京 入城 の2日 前 、郊外 の雨 花台 で」「白旗 を掲 げて来 る中国人 を壕 の上 に座 らせては、日本 兵 が次々 に銃剣 で刺 し殺 していく。一 突 きでは死 に切 れず苦 しんでいる人 を軍靴 で壕 にけ落 としては土 をかける。年寄 りであろうが、子 どもであろうが見境 なしの殺 りくが続 いた」「4時 間 余 りも凝視 していた」と証言 、戦争 の語 り部 として記録 映画 なども紹介 された[31][32]。しかし、その後 の畝 本 正巳 や板倉 由明 の調査 で、中山 が所属 していた戦車 第 一 大隊 (岩 仲 義治 大佐 )は中 山門 正面 で戦闘 をしており、雨 花台 で目撃 することは場所 的 にも時間 的 にも不可能 ではないかとの指摘 があった[33][32]。また田中 正明 が朝日新聞 に事実 確認 を依頼 すると拒絶 された[32]。-
曽根 一夫 は1984年 頃 、手記 で、分隊 長 として面子 から捕虜 の斬首 をした、分隊 の先頭 を決死 の渡河 をした、分隊 員 を率 い掠奪 、(分隊 員 の後 で)輪姦 、殺人 をした、等々 と記 す[34]。笠原 十 九 司 が執筆 した教科書 『世界 史 B』(平成 5年 検定 )は曽根 の文章 に似 た文 を引 き、“掠奪 ”は軍 の命令 だった[35]とした。板倉 は原本 提示 を要求 したが、笠原 も一 橋 出版 も無視 した[36]。板倉 は文部省 に改定 を要求 し、『諸君 !』に論考 を発表 するなど各 方面 へ働 きかけて、出版 側 は「命令 」が曽根 本 からの引用 であることを認 め、内容 も修正 された[37]。
もともと曽根 一夫 は戦友 の名誉 を守 るためとして所属 部隊 については明 かしていなかった[38]。板倉 由明 によれば、曽根 に取材 を断 られたことから調査 を行 い、その結果 曽根 は手記 にあるような歩兵 隊 の分隊 長 ではなく砲兵 隊 の馭者 であったとする。但 し、その調査 は戦友 会 名簿 から曽根 と同 じ字 (アザ)出身 の6名 に尋 ね2名 から曽根 が歩兵 ではなく砲兵 と聞 いた[38]、別 ルートからもその人物 を知 る人 に会 えた[38]というものだが、板倉 自身 がこの地域 に曽根 姓 が多 いことを述 べており[38]、彼 らの言 う曽根 が果 たして問題 の曽根 一夫 であるのか、単 なる同姓 同名 ではないのか、判然 としない。この当時 一般 に第三者 による住民 票 調査 に対 して自治体 の規制 が緩 やかであった頃 だが、板倉 は曽根 の親族 等 への確認 を行 った形跡 はない。板倉 は当時 の曽根 の写真 の襟章 が白 っぽく見 えるところから、砲兵 の襟章 は黄色 であるためで曽根 が砲兵 であったことは間違 いないとしている[38]。その一方 で、板倉 自身 が、連隊 にいた元 兵士 から提供 された昭和 13年 の編制 表 では曽根 一夫 は観測 班 徒歩 通信 手 となっていたとし、これらの食 い違 いを放置 している。この時期 、曽根 自身 が体調 を崩 して入院 し其 の儘亡 くなったともいわれ、本人 乃至 その親族 への確認 はない儘となっている。
また板倉 は、曽根 の身元 だけでなく手記 の内容 そのものも否定 し、馭者 である曽根 が南京 辺 りであまり出歩 くことがあるとは考 えられず掠奪 などありえないとする。その証 として、例 えば曽根 が南京 の光 華 門 で辻 ・街角 と書 いているが、此のあたりに人家 など無 いからこれを虚偽 とする。但 し、板倉 は清野 戦術 (焦土 戦術 )で人家 が焼 き払 われたことを人家 がなかった根拠 とするものだが、むしろ曽根 は焼 け跡 を見 てそれらを辻 や街角 だと述 べている。また、板倉 は曽根 が死体 が散乱 していたと述 べていることに対 し、清野 戦術 で人 が追 い払 われていたから死体 がある筈 がないとしている。これは近郊 農民 も全 て清野 戦術 で焼 け出 され南京 城内 の安全 区 に全 て逃 げ込 んだ筈 だとする板倉 本人 の自説 に基 づく主張 であり、南京 城 外 には通常 の農民 の居住 者 はもとより、寧 ろ城内 から逃 れ出 てきた市民 、また他 地域 から日本 軍 を逃 れて流入 してきた難民 も多数 いて、南京 城 外 にも幾 つかの難民 集落 さえあった事実 を無視 している[38]。
また、日本 軍 が補給 を無視 して南京 に進軍 したことが糧秣 に欠 ける現地 部隊 の掠奪 やそれに伴 う非行 を招 き南京 での軍 の非行 に繋 がったとする曽根 の主張 に対 し、板倉 は当時 の兵士 の日記 等 を根拠 に南京 に向 けて出発 した当初 の11月半 ば頃 の時期 が補給 が最悪 でその後 は改善 されており、曽根 の説明 は糧秣 欠乏 の時期 が半月 ずらされており[39]、虚偽 とする。しかし、軍 中央 の命 に背 いて事前 に計画 も無 かった南京 に進軍 を始 めながら補給 が改善 されるとは考 えにくく、まさに曽根 の述 べる通 りに、南京 進軍 途上 のあらたな土地 での掠奪 により補給 状 況 が改善 された可能 性 が高 く、実際 に、『第 九 師団 戦史 』に殆 ど糧秣 の補給 を受 けることなく、専 ら現地 調達 の物資 だけに頼 って追撃 を実施 しなければならなかったこと[40][41]や、山砲 兵 第 19連隊 のある兵士 の日記 には16日 から中国人 家屋 から徴発 を始 め、25日 には酒 の掠奪 ができることを喜 ぶ者 が出 るまでになっていることが書 かれている[42]。
さらに、板倉 は、曽根 が糧秣 の受取 に下関 地区 に行 った際 に南京 城内 を斜 めに突切って目的 地 にまっすぐ向 かわずに城壁 の外側 に沿 ってわざわざ北回 りに下関 に行 ったこと、帰路 は下流 側 に迂回 してさらに遠回 りで帰 ったことを理由 に、手記 を偽 り[38]としている。が、曽根 は手書 きの地図 を渡 されただけで、南京 城内 の道路 と多数 存在 する門 の位置 関係 が分 かっているわけではなく、確実 に下関 に行 こうとすれば寧 ろ城壁 に沿 って行 くのが自然 である。また、往路 は焼 けた瓦礫 が道路 にも散 らばり進 みにくかったとあり、荷物 が増 えた帰路 はそれを避 けたものと、普通 に手記 の理解 が可能 である。また、板倉 は糧秣 受領 は輜重 や主計 ・大 行李 などの仕事 であり事件 当時 の他 の者 にも糧秣 受領 に出 たものはいなかったとしているが、逆 に曽根 が馭者 であったならば輜重 部隊 から協力 を求 められた可能 性 もある。先 の編制 表 での通信 手 との記載 の食 い違 いなどもあり、確 かな人事 の動 きやこの時期 の扱 いについての確認 が必要 である。板倉 は曽根 の糧秣 受取 に関 し下関 が兵站 基地 になったのは12月下旬 以降 であるから偽 り[38]とするが、もともと下関 は水上 交通 主体 とはいえ物資 の集積 地 であり倉庫 等 が蝟集 し、以前 からの中国 側 の物資 や日本 軍 が既 に陸路 で運 び込 んだ物資 が集積 されていた可能 性 がある。米人 記者 ダーディンによれば12日 段階 で下関 の施設 は清野 戦術 による焼 き払 いにもかかわらず、まだ半分 程度 残 っていたとされる[43]。現 に、のちにマギー神父 は下関 に残 る外国 人 資産 と現地 人 資産 の区分 のため、下関 への同行 を日本 側 から求 められている[44]。また、下関 の水上 輸送 が回復 したのは12月下旬 以降 とする説 は、あくまで後記 の梶谷 日記 にあるように、明 らかに下関 地区 における死体 の片付 けの終了 後 、18日 に停泊 場 の看板 上 げをし、その後 本格 稼働 したと考 えられるためであるが、板倉 は特段 の根拠 なくそれまでは機雷 除去 がすんでいなかったという前提 を設 けて、それゆえ下関 地区 に艦艇 は機雷 を強行 突破 しかまわず来 ていても商船 は全 く来 ていなかった筈 という自説 に基 づく主張 をしている[45]。実際 には、たびたび揚子江 岸 や下関 では捕虜 の処刑 や敵 死体 の持 ち込 みが行 われており、後記 の太田 供述 や梶谷 日記 に見 られるように、12月下旬 以前 から死体 片付 けと一部 水上 輸送 を度々 繰 り返 しており、また、近辺 に商船 が待機 していた可能 性 も高 い。現 に、太田 日記 では商船 に便乗 して、太田 はいったん15日 夕 に下関 に来 ている。また、当時 の新聞 報道 からは、海軍 による機雷 除去 や水上 封鎖 の除去 は13日 の南京 到着 までに順調 に進 んでいるように見 える。そのほかには、下関 大 虐殺 [46]、戦友 の残虐 談 ・部落 襲撃 もその戦友 らは否定 している[47]、日記 も創作 であった[48]とする。一方 で、秦 郁 彦は「ほぼ(事態 を解明 したいとの)要望 に答 えてくれる絶好 の証言 記録 」として評価 し[49]」、他 の「伝聞 記 [50]」でなく曽根 手記 から捕虜 殺害 例 [51]、紫 金山 付近 の住民 殺害 [52]、クーニャン狩 り[53]、残虐 行為 の心 的 要因 [50]に引用 した。板倉 由明 は秦 に曽根 手記 の全 削除 を要求 した[54]。 -
東 史郎 は1987年 頃 、日記 を日本 共産党 の新聞 赤旗 に連載 し、自著 『わが南京 プラトーン―一 召集 兵 の体験 した南京 大 虐殺 』を刊行 [55]。証言 では、1938年 1月 23日 、南京 転出 のため立寄 った下関 と思 しき波止場 で、なぎさに敵 兵 の死体 が山 となって転 がっており、毎日 トラックで敗残 兵 で積 んできた奴 を河 の中 へ突 き落 とし射 ち殺 すのだと、その兵士 から聞 いた。産経新聞 によると、隠 れている女 の子 を見 つけると犯 した、1人 ではなく5人 で犯 した、その後 は殺 し、火 をつけて燃 やした、罪悪 感 はなかった、上官 の元 陸軍 第 16師団 歩兵 第 20連隊 伍長 が「中国人 を郵便 袋 の中 に入 れ、ガソリンをかけて火 をつけ、手榴弾 を袋 のひもに結 びつけて沼 の中 にほうり込 んだ」と証言 した[56]とされる。しかし、元 上官 から名誉 棄損 で提訴 された。1993年 、笠原 十 九 司 は東 史郎 手記 から農民 虐殺 について教科書 『世界 史 B』に引用 していた[57]が、上杉 千年 は出版 社 に対 し、出典 を示 せ、裁判 で係争 中 の東 日記 からの引用 であれば不適切 だと主張 [58]し、さらに、板倉 は出版 社 に8回 以上 のファックスや電話 で「勝手 にデモでもかけなければだめか」と伝 え、教科書 編者 の笠原 十 九 司 には「こちらから出向 く」と簡易 書留 を送 ったという[59]。板倉 は、停泊 場 司令 部 は12月28日 までに港湾 の死体 処理 を終 わらせた[60]、敗残 兵 の掃蕩 も第 二 次 便衣 狩 りが1月 5日 に完了 している[61]という自説 に基 づいて、東 史郎 証言 をその内容 が抵触 するため事実 に反 するものと主張 した。前記 名誉 棄損 裁判 に批判 的 な立場 の者 からは、もともと日記 は仮名 で書 かれており、当人 と目 される人物 も無関心 であったところ、板倉 自身 も加 わった周辺 の者 の奨 めによって、裁判 自体 が起 こされており、前記 教科書 を内容 の真偽 をめぐる裁判 が係争 中 であると抗議 して、内容 を差 し替 えさせる目的 であり、裁判 に藉口 して言論 、表現 、出版 の自由 を妨害 しようとするためのマッチポンプだとして批判 された[59]。板倉 は、教科書 中 の証言 内容 の引用 を、自説 を前提 に、検証 なき引用 [62]と主張 した。元 となった東 史郎 手記 は戦後 、本人 が浄書 したもので原本 は紛失 していた。板倉 はこれを何故 浄書 などしたのか、改竄 に等 しい行為 と非難 した。これに対 し、本人 が浄書 するのが何故 いけないのか、松井 大将 も裁判 準備 用 に自身 の日記 をまとめていた、それをも非難 するのかとの反論 を、板倉 は東 支持 者 らから受 けた。さらに、板倉 は裁判 にあたって、南京 大 虐殺 が無 かったことや東 史郎 手記 の誤 りを証明 できる別人 の資料 が発見 された、これが裁判 を起 こす決 め手 となったとして雑誌 等 で喧伝 していた[63]。しかし、原告 側 は、東側 からこの資料 の不審 な点 を指摘 され、説明 ができなくなり、抄録 については他 の者 がまとめ直 したものであることを原告 側 は認 めるに至 った[59]。さらに、そのおおもととなる元 の日記 の原本 自体 も、裁判 前 に関係 者 間 でやり取 りされる間 に紛失 していたことが東 支持 者 側 から日記 の書 き手 へのインタビューにより明 らかにされた[59]。しかし、教科書 自体 は抗議 を受 けて、東 支持 者 らのいう所 によれば、"板倉 の狙 い通 りに"内容 を差 し替 えられた[59]。名誉 棄損 裁判 自体 は、南京 虐殺 自体 は裁判所 で判断 するところのものではないとされ、二 審 までに、上官 がやったという、冬 服 の人間 を郵便 袋 に入 れての殺害 は物理 的 に不可能 であり、日記 も数 年 後 に書 いたもので、元 の手記 も本当 にあったものか疑 わしいと判断 され、被告 側 は上訴 したものの損害 賠償 が最高裁 で確定 した[56]。これについては、厚手 の冬 服 とはいえ大型 の郵便 袋 に入 れられないとは限 らないという批判 の他 に、なぜ元 の手記 の存在 まで否定 するのか、原告 側 ですらそこまでは主張 しておらず、さすがにこれは法的 にも最高裁 の勇 み足 ではないかとの批判 、さらには、後 から現物 が発見 されでもすれば裁判所 にとってもいい恥 晒 しではないかとの声 が出 たという。その後 、中国 側 研究 者 が日記 の内容 を検証 、そこに書 かれた習俗 が実際 に現地 に存在 している事 を確認 、少 なくとも元 となる手記 が存在 したことは間違 いないだろうとしている。東 は訪中 するたびに、周囲 の圧力 を跳 ね返 して真実 を認 めた英雄 として各地 で歓迎 を受 け[64]、アメリカでも2015年 、カリフォルニア州 の公立 高校 の世界 史 の授業 で東 証言 が教材 として使用 されている[56]。 -
太田 寿男 が撫 順 戦犯 管理 所 で1954年 に供述 した内容 が1990年 に報道 された。(産経新聞 1990年 9月 4日 。毎日新聞 1990年 12月14日 夕刊 [65]) 。供述 では、A少佐 は昭和 12年 12月14日 から15日 まで下関 で死体 処理 作業 に携 わり6.5万 の死体 のうち3.5万 人 を揚子江 に流 し、3万 体 を対岸 で焼却 、太田 は16日 から18日 まで1.9万 人 、A少佐 は1.6万 の死体 を流 した。南京 碇泊 場 司令 部 が14万 から18日 までに処理 した死体 は10万 人 (産経新聞 )[66]。同 司令 部 以外 の南京 攻略 部隊 による5万 人 の死体 処理 と合計 すると15万 の死体 を処理 した[65]とする。毎日新聞 は、供述 が事実 なら、中国 側 「15万 5千 余 」と合 わせ「南京 大 屠殺 30万 」が証明 されることになり、『侵 華 日 軍 南京 大 屠殺 史 稿 』他 に要旨 を載 せたと報 じた[65]。これに対 して、板倉 由明 は梶谷 日記 の12月25日 に「常 熟 より太田 少佐 外 来 る」とあり、板倉 はこれを太田 少佐 がそれまで現場 である下関 に全 くいなかったものと考 え、したがって太田 少佐 には死体 処理 に関 わっていないアリバイがあるとして、太田 が戦犯 管理 所 で中国 側 の意 を迎 えて虚偽 の供述 をしたものと解 した。これに対 しては、死体 処理 の話 自体 は正 しいものの単 なる太田 少佐 の記憶 違 い(事件 から17年 後 の1954年 の供述 )により日付 等 にズレが生 じたものと見 る説 だけでなく、寧 ろ太田 少佐 の記憶 は正 しく太田 少佐 は許 浦 鎮→下関 (死体 処理 作業 )→常 熟 →蕪 湖 と配属 を移動 し蕪 湖 への移動 の途中 で下関 にまた立 ち寄 ったと見 る説 [67]等 がある。いずれにせよ、太田 少佐 は陸軍 船舶 輸送 司令 部 (陸軍 の海上 ・河川 等 の水上 輸送 を担当 する部署 )に所属 しており、常 熟 ・下関 間 を輸送 のために往来 したり河川 港 の死体 処理 の為 に駆 り出 されたりすることに何 ら不思議 はない。当時 、揚子江 は冬 の渇水 期 で日 に日 に水位 が下 がっており、日本 軍 が揚子江 に流 したつもりの死体 があまりに多 すぎて互 いに絡 み合 い、河底 や河辺 にひっかかり、水位 の低下 とともにそれらが水面 に顕 われるに連 れ、桟橋 や河岸 に輸送 船 が接岸 できなくなるため、死体 処理 を行 わねばならなくなったと伝 えられる[68]。また、これらの処理 は度々 行 われた可能 性 がある。現 に、南京 陥落 直後 は下関 地区 で敗残 兵 狩 りに携 わっていた梶谷 も、他 の同輩 らが去 ったと見 られる26日 以降 になって、新 たに必要 となったとみられる1000体 ほどの死体 処理 に携 わっている。板倉 は、死体 処理 は梶谷 日記 にある梶谷 の部隊 だけが行 った26日 以降 の1000体 のみで、それまで開設 準備 多忙 のために死体 処理 には取 り掛 かれなかったと主張 、太田 の供述 は後 から見聞 きした話 を元 に作 話 したものとし、毎日新聞社 の報道 や対応 に抗議 しているが、社 は謝罪 しなかった[69]。板倉 は太田 の供述 は「客観 的 に信憑 性 ゼロ」と主張 している[70]。産経新聞 は部下 の日記 を下 にしたとして信憑 性 を否定 した[66]。毎日新聞 は「内容 は信用 できる」と報 じた[65]。江口 は板倉 への書簡 で、梶谷 日記 (の内容 )に触 れないことは説得 力 に欠 けると考 えており、竹田 昌弘 記者 から毎日 が梶谷 日記 に触 れなかったことについては説明 を受 けたこと、また同 記者 には自分 のコメントの表現 がより断定 的 になっている事 に苦言 を呈 したがこれ以上 毎日 と争 うつもりはないこと、しかし板倉 がこのことを問題 にすることに自分 の書簡 等 を使 う事 は書簡 を編集 等 せず原文 通 りに使 う分 には差支 えないことを伝 えた[71]とされる。後 に毎日 は梶谷 日記 についても報 じた[72][73]。一方 、早稲田大学 教授 中原 道子 は太田 の供述 を“真実 ”とする[74]。板倉 は中原 の著作 7論点 11ヵ所 に真実 である証明 を求 めた[75]が、「日 中 両国 の専門 家 の研究 をふまえ」とのみ岩波 側 から回答 があった[76]。中原 は板倉 の証明 要求 を「前向 きで建設 的 な姿勢 はいささかも読 み取 ることができ[77]」ないと言 い、自 らは「戦争 を知 らない世代 に歴史 の真実 を伝 える[78]」として板倉 を一蹴 した。
その後 1993年 に出版 された南京 戦史 資料集 第 2巻 を見 ると、26日 まで開設 準備 多忙 のために死体 処理 には取 り掛 かれなかったとの板倉 の主張 には潤色 があり、実際 には18日 には既 に一 通 りの開設 準備 が終 わり、19日 からは板倉 の表現 では曖昧 に業務 と船 の投錨 となっていたものの、実際 には荷揚 作業 もいったん本格 的 に開始 していたこと、さらに梶谷 日記 に記載 されたものだけでも22日 にも使役 兵 を使 って数 百 体 の死体 の揚子江 投棄 が行 われていたことが記 されていた。(26日 の梶谷 の死体 処理 は、太田 供述 にある18日 までと梶谷 日記 にある22日 に揚子江 に投棄 された死体 が、河 の水位 低下 とともに水面 上 に再 露出 したものである可能 性 が高 い。)しかし、編集 者 は基本 的 に板倉 の見解 に立 ち、その論拠 は、梶谷 日記 を根拠 として概 ね以下 の通 り。①(本題 とは関係 ないが)太田 は停泊 場 司令 部 は小舟 で南京 に着 いたとするが、陸路 到着 しているという点 で太田 供述 が一般 的 な信用 性 に欠 ける、②太田 は15日 夕 南京 に到着 し16-18日 死体 処理 に携 わったとするが、到着 次第 本来 の輸送 業務 に着手 する筈 、③太田 以前 に安達 少佐 が6.5万 人 の死体 処理 をしたことになっているが、安達 が実質 行 えたのは1日 だけで6.5万 体 の処理 は不可能 な筈 、④17~18日 は佐官 以上 は入城 式 や慰霊 祭 参加 で死体 処理 は不可能 。
ただし、実際 には、①太田 の供述 には、司令 部 が小舟 で常 熟 を11日 出発 したとあるだけである、寧 ろ梶谷 日記 では撫 順 で11日 に部隊 長 らが明日 来 ると聞 いて迎 える準備 を始 め、12日 同所 で合流 、13日 自動車 が手配 できたので出発 したとしており、太田 の供述 と一致 している、また、南京 までの距離 を考 えれば乗換 えは当然 と思 われる、②下関 地区 にあった死体 や市内 から運 び込 まれる死体 で道路 が塞 がり、それを撤去 しないと物資 輸送 どころではなかったと考 えられる、また、梶谷 自身 も15日 は敗残 兵 の捜索 等 で本然 の業務 の筈 の輸送 業務 に現 に取 り掛 かれていない、③この部分 はあくまで太田 が安達 から聞 いた話 である、また、梶谷 部隊 以外 の安達 少佐 の部下 は全 て安達 少佐 自身 も含 めて当初 から死体 処理 に従事 していた可能 性 が高 い、実際 に13日 夕 を最後 に梶谷 日記 から消 えていた安達 少佐 や部隊 長 が、地区 を分担 とはいえ太田 少佐 が手伝 いに入 って余裕 が出来 たとも考 えられる16日 になって、ようやく梶谷 日記 に梶谷 とともに下関 地区 を巡視 する形 で再 登場 してくる、④梶谷 日記 自体 に入城 式 参加 者 は全体 の1/3とあり、実際 に幕府 山 の田 山大 隊長 (少佐 )は捕虜 処分 のため入城 式 に出席 していない等 、佐官 以上 は全 て出席 したとは限 らない、まして太田 はそもそも南京 攻略 戦 の参加 者 ではなく、初 めから死体 処理 の手伝 いに南京 に来 ただけの者 であり、板倉 もそれを分 かっていた筈 である、全 くの読者 を欺 くためだけの記述 である。また、梶谷 日記 には16日 に後続 部隊 来 たるとあり、これが15日 夕 に下関 に到着 した太田 少佐 らのことで、死体 処理 の手伝 いをして、その終了 後 、いったん太田 は元 の配属 地区 に戻 っていた可能 性 がある。 -
船橋 照 吉 は、 1991年 頃 石原 発言 を許 さない京都 集会 実行 委員 会 の冊子 『歴史 を偽造 するのは誰 か?』で証言 した[79]。しかし、板倉 由明 の主張 によれば、当時 改訂 版 を準備 中 の『南京 戦史 』の資料 編 に載 せることも考 えて文書 や電話 でいろいろ板倉 が確認 すると、基本 的 事項 があやふやで、肝心 の点 は忘 れたといい、板倉 によれば証言 に歩兵 九 連隊 の実戦 記録 と異 なる点 があるものの、それへの説明 もなかったとする。結局 、板倉 は資料 価値 無 しと判断 したものの、その後 も船橋 の方 からコンタクトをしてきて、東 史郎 の悪口 まで送 ってきた上 、結局 、船橋 は電話 で別 の者 に自身 が輜重 特務 兵 であったことを告 げたという。板倉 は、輜重 特務 兵 であれば(この板倉 の説明 も曖昧 であるが)経歴 の矛盾 は少 なくなるとし、(はっきり言 えることとしては)自身 でトーチカ攻撃 をしたり、捕虜 を機関 銃 で虐殺 したのは架空 の話 となるとする(目撃 した可能 性 は残 る)。さらに、大 小田 正雄 の立会 の会談 で、船橋 は日記 も偽造 したものだと認 めたと板倉 はする。船橋 は「東 史郎 、赤旗 記者 下里 正樹 (「隠 された連隊 史 」著者 )、吉田 保 (京都 機関 紙 印刷 センター代表 )などに説 き伏 せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費 は持 つから中国 へ行 こう、と誘 われた」とも語 ったと、板倉 はする。このようなことが起 こることについて、板倉 は、体験 談 を創作 して、人気 者 になりたい、小遣 いも稼 げるという人間 が現 れるのであろうとしたが、もし、板倉 の言 った通 りのことが実際 に起 こったのであれば、むしろ、この経緯 は、船橋 が南京 大 虐殺 論 に組 しても大 して利 にならなかったため、今度 は虐殺 否定 論 に鞍替 えを図 ろうとしたことになる。であれば、板倉 は、船橋 が日記 の偽造 を白状 したとするが、実際 には、初 めから虐殺 否定 論 に鞍替 えするための当人 の持込 ネタであった可能 性 が高 い。また、東 史郎 らの言 う「中国 へ行 く」とは、自 らの行為 の告白 ・謝罪 のために現地 訪問 をすることであり[80]、板倉 自身 は東 史郎 の告白 まで虚偽 扱 いしており気付 いていないようだが、板倉 の話 が事実 であれば、むしろ東 史郎 自身 は、船橋 が東 史郎 と同様 な体験 を持 つ人間 と本心 から信 じていたことになる。[81] 松岡 環 編纂 の証言 集 「南京 戦 ・閉 ざされた記憶 を尋 ねて-元 兵士 一 〇二 人 の証言 」(社会 評論 社 )が証言 者 を仮名 にして2002年 刊行 された。取材 記録 自体 はビデオ、写真 等 に録 ってあるとされ、実際 に一部 はニュース・ステーションで関連 して放送 された。東中野 修道 と阿 羅 健一 らの否定 派 が証言 の一部 の内容 に不自然 さや間違 いがあると主張 して批判 しただけでなく、小野 賢二 らの虐殺 存在 派 からも証言 者 の細 かな誤認 等 をそのまま紹介 しており、それがいわば虐殺 否定 派 の口実 として利 することになりかねないとみるような批判 があった。これに対 し、証言 を集 める活動 をしている市民 団体 のメンバーである林 伯 耀は、兵士 たち自身 の体験 に係 わるような部分 については史料 に基 づいて否定 派 こそ実態 を知 らず誤 っていることを示 して反論 、さらに単 なる誤植 による兵士 の生 まれ年 の誤 りを突 いて揚 げ足 をとるような否定 派 のやり方 への批判 だけでなく、大 虐殺 否定 派 ・存在 派 共 に証言 者 の証言 の重箱 の隅 を突つくような事 をするのではなく、当人 たちに当時 伝 わり、当人 たちが信 じていたままの証言 を忠実 に録 る事 こそ大切 で、それらを突 き合 わせることで見 えてくる真実 があるのではないかとの反論 をした[82]。
海軍
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奥宮 正武 は1997年 の著書 で、1937年 12月25日 、碼頭の下流 の倉庫 群 に約 30名 の中国人 が無蓋 のトラックで運 ばれ、構内 の広場 では、縛 られた中国人 十 数 名 が軍刀 や銃剣 で惨殺 され揚子江 に投棄 されていた。12月27日 にも同 じような処刑 が行 なわれていたので、混乱 もなく中国人 をどうやって連 れてきたのかと、下士官 に尋 ねると、下司 官 は「城内 で、戦場 の跡片付 けをさせている中国人 に、”腹 のすいた者 は手 を上 げよ”と言 って、手 を上 げた者 を食事 の場所 に連 れていくかのようにして、トラックに乗 せているとのことです」と説明 。また、日本 刀 や銃剣 で処刑 しているのは、弾薬 節約 のために上官 から命 じられたと答 えたと証言 [83]。 - 2014
年 、第 24駆逐 隊 、海風 の信号 兵 だった三谷 翔 は松岡 環 の募集 に応 じて、証言 をするようになった[84]。証言 によれば、12月12日 の烏 竜山 砲台 を揚子江 から攻撃 し、12月13日 に中山 埠頭 の方 から中国人 の死体 を載 せた4隻 の筏 を目撃 、陥落 4日 後 の中山北 路 の広場 にあった50〜60体 の死体 の山 の「多 くは老人 や女性 で、子 どももおり、すぐに一般 市民 であることがわかった」との証言 を中国 網 のインタビューに答 えた[84]。12月18日 午後 、軍艦 のブリッジで見張 りをしていると、下関 南岸 から機関 銃 の銃声 が聞 こえたので望遠鏡 で見 ると中国人 が処刑 されていた、その後 数日 、朝 から晩 までトラックで20人 、30人 が連行 され処刑 された、「南京 を離 れたのは12月25日 だが、それまで下関 の岸 では毎日 こうだった」と証言 [84]。三谷 は「中山北 路 だけがこうだったわけでなく、南京 全体 が地獄 だったはずだ。陸軍 は恥知 らずで、やりすぎた」と述 べている[84]。江蘇 省 社会 科学 院 の孫 宅 巍 は、この証言 は、時 、地点 、死体 処理 の方法 など既存 の大 虐殺 の史実 と符合 し、重要 な史料 的 価値 を持 っていると評価 した[84]。三谷 は2015年 に日本 テレビのNNNドキュメントでもインタビューに答 えた[84]。
報道 員
今井 正 剛 (朝日新聞 )は1956年 に、(1937年 12月15日 夜 )「数 百 人 、数 千 人 」の中国人 が下関 (シャアカン)、揚子江 の碼頭で射殺 された音 を聞 き、今井 は「おそらくそのうちの何 パーセントだけが敗残 兵 であつたほかは、その大 部分 が南京 市民 であつただろうことは想像 に難 くなかった」として、敗残 兵 でない者 も含 まれていたとした[85][86]。さらに、早朝 に遺体 を処理 していた苦力 たちも射殺 され、ある将校 は約 2万 人 をやったと言 った、として「完全 な殲滅 掃蕩 」である、とした[85]。当時 の新聞紙 面 にのった12月17日 東京 朝日新聞 の座談 会 では事件 について触 れていない[87]。南京 虐殺 者 数 を限定 する立場 に立 つ阿 羅 健一 は、座談 会 に出席 していた橋本 登美 三郎 が、当時 虐殺 について聞 いていないと戦後 に自分 に答 えた、また、当時 の報道 規制 について、何 も不自由 は感 じていない。思 ったこと、見 たことはしゃべれたし、書 いてたと、答 えたとしている[88]。しかし、現 に検閲 や逮捕 摘発 を怖 れての自主 的 な社内 検閲 が当時 実際 に行 われており、例 えば当時 の新聞 では戦地 の地名 や軍 の部隊 名 は全 て伏字 となっており[89]、雑誌 社 から派遣 された石川 達三 の著作 『生 きている兵隊 』は削除 や伏字 を多数 施 してなお、発禁 を受 け、作者 は逮捕 されることとなっている。橋本 登美 三郎 は戦後 、自民党 から国会 議員 に立候補 し、ロッキード事件 で逮捕 され失脚 するまで長 く自民党 の有力 議員 としてキャリアを積 んできた人物 であり、その縁故 上 そのように言 ったか、橋本 ・阿 羅 のいずれかが誤 りを言 っているものと考 えられる。阿 羅 は、さらに東京 朝日新聞 の足立 和雄 は「今井 君 は自分 で見 て書 く人 じゃなかった。危険 な前線 には出 ないで、いつも後方 にいたと聞 いている」「今井 君 は人 から聞 いたことを脚色 して書 くのがうまかった」と証言 したと主張 する[90]。竹本 忠雄 と大原 康男 は、当時 の今井 のスケジュールから現場 を見 ることは不可能 であったと評 している[1](ただし、実際 の記載 内容 を見 ると、15日 夜 の座談 会 後 の夜更 けに大量 の兵士 が行列 させられ連行 されて虐殺 される事件 に遭遇 したと考 えられ、なぜそれを無理 と考 えているのか全 く不可解 である。また、この種 の揚子江 岸 で処刑 するために敵 兵 を揚子江 に連 れていく行進 については佐々木 元 勝 も目撃 している。)。また、南京 攻略 軍 の総 司令 官 であった松井 石 根 大将 の陣中 日誌 を南京 事件 が無 かったかのような方向 に改竄 して出版 したとの非難 を受 けたことで知 られる田中 正明 は、普段 今井 と同行 していた朝日新聞 記者 森山 喬 から「そんな話 はついぞ聞 いたことがない」と聞 いたと主張 する[91]。東京日日新聞 の佐藤 振 寿 カメラマンは、その手記 に、南京 の中 山門 内 の励志社 先 で百 人 ほどの武器 を持 たない無抵抗 の敗残 兵 が日本 兵 に殺害 されるのを見 たことを記録 している。また、後 で仲間 にこの時 のことを話 すと、「カメラマンとしてどうして写真 を撮 らなかったか」と反問 され、「写真 を撮 っていたら、恐 らくこっちも殺 されていたよ」と答 えることしかできなかったと述 べている。[92]-
守山 義雄 は1964年 以前 [93](証言 初出 不明 [94])、非 戦闘 員 の市民 を数多 く殺 した。多 くの婦女子 に暴行 を加 えて殺 した、少 なくとも4万 人 が殺害 されたと証言 [94]。また、戦時 中 ドイツ留学生 だった篠原 正 瑛 は守山 からの伝聞 として、日本 軍 は、老人 、婦人 、子供 など三 万 数 千 の中国人 を城壁 内 に追 い込 んで、城壁 の上 から手榴弾 と機関 銃 で皆殺 しにし、城壁 内 は血 の海 に長靴 がつかるほどだったと述 べた[95]。 ただし、南京 で守山 と同行 した東京 朝日新聞 の足立 和雄 は、南京 で我々 は「(長靴 に血 が流 れこむなどという)そんなことは見 ていないし、後 で守山 君 から聞 いたこともない」と証言 している[90]。(長靴 はともかく、城壁 のほとりに生 民 の死体 がツクダニのように折 り重 なっていたことは、杉山 平助 が当時 の朝日新聞 に寄稿 している。少 なくともこれを含 めて杉山 は被害 状況 を無辜 の生 民 の受 けた被害 として述 べている。また、当時 の朝日新聞 の尾張 版 には、兵士 か市民 か不明 ながら南京 城 内外 や揚子江 のあちこちに万 という死体 があることが述 べられている。 -
大宅 壮一 (従軍 記者 )は1966年 、 「入城 前後 、入城 までの過程 において相当 の大 虐殺 があったことは事実 だと思 う。三 十 万 とか、建物 の三 分 の一 とか、数字 はちょっと信用 できないけどね。まあ相当 の大 規模 の虐殺 があったということは、私 も目撃 者 として十 分 いえるね。」と証言 している[96]。 読売新聞 の真柄 カメラマンは、入城 式 の二 日 ぐらい前 に土手 のある小 さい川 に中国人 二 百 人 位 が「機関 銃 でやられていた。あれが世 にいう“南京 大 虐殺 ”だったのではないのか」と証言 [97]。映画 「南京 」の製作 者 の白井 茂 は「虐殺 の現場 は二 度 見 た。一 度 は柵 があったように思 う。はるか離 れているところで、銃殺 していた。数 は覚 えていない。揚子江 でない川 のところで、機関 銃 で撃 っているところも見 た。(略 )川 にとび込 んで、向 うに泳 ぎついた者 もいた。二 百 人 ぐらいいたと思 う。場所 は覚 えていない。当時 、“大 虐殺 ”という噂 はなかった。」と証言 [98]。映画 「南京 」の録音 技師 の藤井 慎一 は「挹江門 付近 は物凄 い死体 で、死骸 の上 に板 を渡 し、その上 を自動車 が通 っているほどだった。空襲 のあとが生々 しかった。小 さな川 の傍 らの門 の中 で捕虜 らしき者 を撃 っているのを見 た。(略 )白井 氏 と一緒 だった。(略 )それ以外 にも、銀行 の裏 で百 人 以上 が殺 されているのを見 た。(略 )虐殺 の噂 はきいたように思 うが、見 たのはこの時 だけである。」と証言 [99]。
文官
事件 当時 南京 大使館 参事官 であった日高 信六郎 (外交 官 ) は東京 裁判 で松井 の行動 に問題 がなかったことを証言 するために弁護 側 証人 として出廷 、自身 の尋問 供述 に基 づいて弁護 をした。読 み上 げられた尋問 調書 の中 で既 に、1938年 1月 1日 上海 で松井 に会 って、部下 の中 に悪 いことをしたものがいると初 めて知 ったと語 るのを聞 いて、それまで松井 は知 らなかったのだという印象 を持 ったと述 べていたが、退廷 直前 に裁判官 の質問 に対 して、正月 で挨拶 に行 った際 に酒 をのみ自分 が質問 したわけでなく松井 自 ら語 ったことと回答 [100]し、当時 の報道 では、寧 ろ日高 が口 をすべらして、あらためて虐殺 の存在 を裏付 けたように受止 められている[101]。1966年 には、「残虐 事件 の最大 の原因 の一 つは、上層 部 の命令 が徹底 しなかったことであろう。たとえば捕虜 の処遇 については、高級 参謀 は松井 さん同様 心胆 を砕 いていたが、実際 には、入城 直後 でもあり、恐怖 心 も手伝 って無闇 に殺 してしまったらしい。揚子江 岸 に捕虜 たちの死骸 が数珠 つなぎになって累々 を打 ち捨 てられているさまは、いいようもないほど不愉快 であった。(中略 )兵 の取締 りに手 が廻 らなかったのは当然 だった。そして一度 残虐 な行為 が始 まると自然 残虐 なことに慣 れ、また一種 の嗜虐 的 心理 になるらしい。(中略 )荷物 を市民 に運 ばせて、用 が済 むと「ご苦労 さん」という代 りに射 ち殺 してしまう。不感症 になっていて、たいして驚 かないという有様 であった」と語 っている[102]。
「大 虐殺 」がなかったとする証言 [編集 ]
ほとんどが
陸軍
松井 石 根 中 支 那 方面 軍 司令 官 は東京 裁判 で「(大 虐殺 は)公的 な報告 を受 けたことがなく、終戦 後 米 軍 の放送 で初 めて知 った」と証言 し、供述 書 では「巡視 の際 、約 20人 の中国 兵 の戦死 体 を見 たが、市内 の秩序 はおおむね回復 した」と述 べ、「南京 入城 後 、非行 が行 われたと憲兵 隊長 から聞 き、各 部隊 に調査 と処罰 をさせた」と証言 した。当時 松井 の部下 である武藤 章 は、南京 入城 時 に松井 とともに10ー20件 程度 の事件 があったと聞 いたこと、軍法 会議 で10件 から20件 程度 の事件 がかけられていた事 、1件 で10人 かそれを超 える人数 が裁 かれていたものもあった事 、彼 が確 かに存在 したことを知 る軍法 会議 法廷 は一 つだけだが他 にも法廷 が複数 開 かれていただろうと信 じている事 等 を裁判 前 の尋問 で供述 している[104]。上海 派遣 軍 参謀 ・大西 一 大尉 [105]。1937年 12月13日 午後 から南京 に入城 し[106]、南京 陥落 後 一 年間 特務 機関 長 として滞在 した[105]。当時 、上海 派遣 軍 の中 で虐殺 について「話題 になったことはない」、強姦 は何 件 かあったが、暴行 や掠奪 は見 たことがないと証言 [105]。ただし、偕行社 の高橋 登志 郎 は、大西 の論文 について単 にシロだシロだというだけとして、反論 にならない[107]ものと考 えている。上海 派遣 軍 嘱託 、軍 司令 官 付 ・岡田 尚 は、強姦 は数 えるほどで、「(一般 市民 を)虐殺 したということはありえません」、城内 での火事 についても記憶 がない、しかし捕虜 や敗残 兵 について「やったことはある」が、当時 の状況 で「果 たしてそれが虐殺 といえるか」疑問 であると証言 したうえで、自 らを中国 びいきであるとし、満州 国 建設 にも反対 であったし、日 支 事変 で日本 がやりすぎたこともあるが、南京 防衛 の中国 軍 が降伏 勧告 を受 け入 れなかったのは中国 側 で、その責任 者 の唐 生 智 が逃 げたことを批判 し、降伏 拒否 がなければ捕虜 殺害 もなかったと述 べている[108]。なお岡田 は1937年 12月12日 に蘇州 から湯水 鎮へ向 かう途中 で女性 兵士 を含 む中国 兵 捕虜 千 人 から二 千 人 がクリークの土手 に座 らされて処刑 されているのを目撃 している。第 10軍 参謀 ・谷田 勇 は、1937年 12月14日 午後 3時 、下関 埠頭 に死体 1000人 〜3000人 があったが、これは第 16師団 が追 い詰 めたもので、「これが後日 虐殺 を称 されているものではないか」と述 べ、さらに12月19日 までの南京 滞在 の間 に「死体 数 は数 千 ないし一 万 程度 で、まして集団 虐殺 の跡 などは発見 できませんでした。したがって、中国 側 が終戦 後 の極東 国際 軍事 裁判 で主張 した数 十 万 は誇大 意図 的 な誇張 であると確信 いたしております」と証言 した[109]。第 10軍 参謀 ・金子 倫 介 は、南京 事件 について「聞 いたことはありませんでした。戦後 、東京 裁判 で聞 いてびっくりしました。何 か隠 しているとか、言 い渋 っているとかいうことはなく、本当 に南京 では何 も見 てません。」と証言 した[110]。第 10軍 参謀 ・吉永 朴 (すなお)[111]。「南京 大 虐殺 は白髪 三 千 丈 式 に、後 で中国人 が言 っていること」と証言 した[111]。第 10軍 参謀 ・寺田 雅雄 は、第 10軍 の軍紀 はそれほど悪 くはなかったし、当時 南京 事件 を聞 いたことはないと証言 した[112]。第 10軍 参謀 ・仙頭 俊三 は「12月12日 、浦口 (揚子江 をはさんで下関 の対岸 )に進出 した時 、浦口 には味方 の十 五 榴(九 六 式 十 五 糎 榴弾 砲 )が盛 んに落下 していました。揚子江 両 岸 に浮遊 した敵 の死体 は目撃 したところ数 百 でしょうか、中流 にはあまり死体 は認 めませんでした。下関 の岸壁 が鮮血 に染 っていたのを目撃 し、かつ死体 は手足 をしばられていたようでした。虐殺 ということは当時 は全 く知 りませんでした。軍紀 に関 して国崎 支隊 に関 する限 り悪 かったことはありません」と証言 した[113]。侍従 武官 の後藤 光蔵 は南京 に入城 した時 、「南京 は人 一 人 いない街 となっており、小生 はその一 軒 に泊 まったのですが、何事 もありませんでした」と証言 した[114]。上海 派遣 軍 特務 部員 ・経理 将校 の岡田 酉 次 [115]。中国 軍 には女性 兵士 がいた、抵抗 する敗残 兵 もいて、便衣 兵 もいて、「これらがやられるのも見 ました。これらの屍 があとで虐殺 と言 われたのではないでしょうか」と証言 している[115]。参謀 本部 庶務 課長 ・諫山 春樹 は、参謀 本部 庶務 課 は全 ての報告 に目 を通 すが、日本 兵 の軍紀 が悪 かったと当時 話題 になったことはなく、また「虐殺 事件 が話題 になったことも、箝口令 をしいたことも絶対 にありません」と証言 した[116]。陸軍 省 軍務 局 軍事 課 編成 班 ・中 支 那 派遣 軍 参謀 (昭和 13年 )大槻 章 は、虐殺 事件 について「そういった形跡 は全然 ありませんでした。何 もない。軍 司令 部 参謀 といろんな話 をしたが、話題 になったことも、聞 いたこともない。虐殺 があったというのは嘘 」であり、「虐殺 なんていうのは命令 がなければできないこと」で、あったとすれば当時 話題 になったはずだと証言 している[117]。野砲 兵 第 22連隊 長 ・(終戦 時 第 21師団 長 )三 国直 福 は、当時 日本 兵 の軍紀 の乱 れや事件 について何 も聞 かなかったと証言 し[118]、さらに自分 が広東 での戦犯 裁判 で被告 になった経験 について、裁判 はめちゃくちゃで、罪状 では三 国 が汪 兆 銘 政権 を作 ったとか(三 国 は南京 特務 機関 長 だったが深 くかかわっていないと述 べている)、中国 市民 に暴行 をふるったなどで、証拠 を求 めると、中国 軍 が市民 に被害 を出 せと命令 して出 したもので、場所 も日付 も師団 のいた場所 とほとんど合致 しないものであったと証言 している[119]上海 憲兵 隊 の岡村 適 三 は、当時 、事件 についても軍紀 についても特別 聞 いたことはない、日本 軍 が威張 っているということは聞 いたと証言 した[120]第 16師団 歩兵 第 20連隊 (福知山 連隊 )大 隊長 森 王 琢 は「私 の大隊 は南京 城 の東 正門 の中 山門 を攻撃 した。激戦 したが、13日 の午前 3時 10分 、砲撃 で城壁 を崩 し、その勢 いではい上 がり、軍旗 を立 てました。私 はその時 は城 外 の丘 の上 におり、城内 には師団 長 と共 に十 五 日 に入場 した。宿営 地 について陸軍 省 の先輩 に会 い、その日 の午後 、二人 で戦場 の視察 に出 かけた。山陵 、紫 金山 など見 て歩 いた。翌年 の1月 19日 に命令 で転進 したが、それまでは南京 とその周辺 の警備 に当 たつていた。したがって南京 の大 虐殺 が行 われたという時期 、あったかないか、私 は確信 をもってお話 しできるただ一 人 の人間 だと思 っています。例 えば火事 があったという人 、なかったという人 がいる。あったという場合 には焼 け跡 を示 すことが出来 るが、なかった場合 というのは、明 かしは立 てにくい。それと同 じで、南京 で虐殺 があった、婦人 が乱暴 された、家 が焼 かれたと盛 んに言 われているが、それがほとんどウソであることを申 し上 げる」と証言 している[121]。第 6師団 歩兵 第 23連隊 中隊 長 の吉川 正司 は、「突入 翌日 の12月13日 には城内 の掃蕩 をやっているが、城内 に敵 兵 は一 兵 も見 ず、一般 住民 もいない全 くの死 の街 であった。連隊 はそれ以降 、主力 を水 西 門東 南方 地区 の市街地 に、第 1大隊 をもって12月21日 まで水 西門 外 に駐屯 し、警備 にあたったが、翌 13年 1月 13日 に蕪 湖 へと転進 するまで、虐殺 事件 など見 たことも聞 いたこともなかったと断言 できる。」と証言 [122]。第 6師団 歩兵 第 23連隊 第 2中隊 長 ・坂元 昵[122]。第 6師団 歩兵 第 23連隊 安楽 秀雄 [122]。第 6師団 歩兵 第 23連隊 中山 有 良 [122]。第 6師団 歩兵 第 13連隊 伍長 古沢 智 [123]第 6師団 歩兵 第 47連隊 獣 医務 曹長 の城 光宣 は、昭和 12年 12月13日 中華 門 から入城 、「城内 は空 っぽ」で兵隊 も住民 もいなかった、「無抵抗 の民間 人 を殺 すのが虐殺 。だが、人 がいない以上 、虐殺 があるはずがない」し、城内 では遺体 も見 ていないと証言 [124]。また中国 戦線 に5年間 従軍 したが、中国人 の集落 に駐留 する場合 は、日本 軍 と住民 を分 けるため集落 の中央 に線 を引 き、住民 側 に立入禁止 を厳命 され、憲兵 もいたし、違反 は絶対 にできなかった。軍紀 はそれほど厳 しかったと証言 している[125]。さらに30万 人 虐殺 したはでっち上 げであり、貶 められるのは我慢 ならないし、南京 裁判 で死刑 になった谷 寿夫 中将 に対 して何 もしていないので哀 れであると述 べた[124]。第 6師団 第 13連隊 第 3大隊 砲兵 小隊 ・永田 尚武 [123]第 9師団 第 18旅団 司令 部 ・齋藤 敏 胤 [123]第 9師団 歩兵 第 7連隊 ・喜多 留治 [123]は、12月14日 からの掃討 戦 に参加 し、安全 区 の警備 も担当 した[125]。喜多 は、安全 区 の民間 人 になりすました便衣 兵 掃討 には厳重 な命令 があり、住民 への配慮 や、将校 の指揮 に必 ず従 うことを命 じられており、掃討 は同 師団 の金沢 、富山 連隊 が担当 し、他 部隊 が安全 区 に入 らないよう「金沢 」「富山 」という合言葉 を使 うなど警備 は厳重 で、そうした警備 をすり抜 けて日本 軍 が略奪 や強姦 するなどということは「ありえないことです」と証言 [125]。第 9師団 歩兵 第 7連隊 第 11中隊 ・納谷 勝 [123]第 9師団 歩兵 第 36連隊 伍長 ・近藤 平太 夫 [123]は陥落 後 は「露店 が何 軒 か出 ていて、日本 兵 相手 に商売 をしていた。靴 修理 店 、散髪 屋 などだった」「露店 で印鑑 を作 り、城内 は極 めて平穏 だった」「住民 が平和 に商売 をしている一方 で、毎日 たくさんの人 が虐殺 されているというようなことは全 く考 えられません」と証言 [126]。野中 祥 三郎 [123]第 16師団 歩兵 第 20連隊 伍長 の橋本 光治 は、昭和 12年 12月13日 に入城 、12月23日 まで城内 外 の敗残 兵 掃討 作戦 に参加 。橋下 は戦後 、当時 部下 の上等 兵 だった東 史郎 から著書 で郵便 袋 に中国人 を入 れて殺害 したと著書 に書 かれ、名誉 毀損 で提訴 し勝訴 した(最高裁 確定 )[125]。橋下 は「戦争 中 も軍紀 は守 られていた。そんな残虐 行為 ができるわけがない」また、「婦女子 に手 をかけてはいけないと厳命 されていたし、夜間 外出 は禁止 され、任務 以外 に自由 な時間 はありませんでした」と主張 した[125]。第 16師団 輜重 兵 16連隊 第 6中隊 ・稲垣 清 [123]は12月16日 に入城 し、住民 の姿 をみかけ、時計 の修理 のため時計 屋 を訪 れたと証言 [126]。第 16師団 第 33連隊 第 2大隊 第 5中隊 第 1小隊 長 ・市川 治平 [123]歩兵 第 65連隊 (両角 業 作 部隊 )の栗原 利一 は12月17日 幕府 山 事件 での捕虜 殺害 について証言 を残 しているが、「殺 したなかに一般人 は一人 もいない。当時 日本 軍 の戦果 は私 たちの13,500を含 めて7万 といわれていたが、現在 中国 で言 うような30万 、40万 という大 虐殺 などとても考 えられない。」と述 べた[127]。但 し、栗原 は様々 な人 から取材 を受 けており、後 の方 の取材 は往々 にして先行 取材 を難 じ、当初 から計画 されていた殺害 であった可能 性 をより強 く否定 する方向 のものになっているが、寧 ろ後 の方 の取材 の方 に、その取材 結果 とする内容 に疑義 が出 されている。第 36師団 歩兵 第 224連隊 の内 貴 直次 少尉 は陥落 の6年 後 の昭和 18年 夏 に南京 に滞在 したが「街 は商店 や人 であふれ、平和 な様子 だった。もし、大 虐殺 があれば、住民 の恨 みを買 い、われわれは平穏 に駐留 できなかったはずだ」と証言 [104]。陸軍 士官 学校 58期 の和田 泰一 少尉 は「当時 の記録 を読 めば事実 は別 にあることは明 らかなのに大 虐殺 説 を許 してきた私 たちの責任 も大 きい」と述 べた[104]。独立 軽 装甲車 第 二 中隊 小隊 長 の畝 元正 己 が、以下 のように南京 戦 の実態 を述 べる。江南 平野 200マイルの南京 追撃 戦 で日本 軍 は一 地 に長 く駐留 することはなかったし、掠奪 や暴行 を行 っておらず、都市 の戦禍 は攻防 戦 によって生 じたもので、日本 軍 のみの故意 のものではないと述 べている。日本 軍 は追撃 にあたって敗残 兵 を深追 いしなかったため、村落 や山中 に逃走 した敗残 兵 が、便衣 兵 としてゲリラ化 し、後方 部隊 を襲撃 して日本 軍 を悩 ませたとする。また、日本 軍 は補給 が不十分 であったため将兵 が鬼 獣 化 したと称 されるが、上海 南京 間 200里 を約 一 ヶ月 (11/11〜12/13)で進撃 したため、一 日 行程 平均 7里 で補給 作戦 は困難 なものではなかったし、上陸 後 引 き続 いて追撃 に移 った当初 は補給 不足 のため現地 物資 によったが、12月10日 以後 は後方 兵站 も追随 していた、と証言 する。また、上海 派遣 軍 参謀 大西 一 は、松井 司令 官 よる蘇州 の文化 と住民 の保護 を命 じられ、日本 軍 入城 を禁 じたと主張 する。上海 攻略 戦 において、第 9師団 司令 部 は城内 に入 らず、その翌日 に到着 した軍 司令 部 は蘇州 城 外 に司令 部 を置 いた[128]。但 し、この蘇州 は上海 に隣接 した都市 であり、東京 裁判 に備 えた尋問 で松井 大将 が上海 の南市 安全 区 に寄付 した事 を自己 弁護 に使 うほどで、この地域 の状況 は相当 異 なっていたと考 えられる。
海軍
第 3艦隊 第 11戦隊 の砲艦 勢多 艦長 の寺崎 隆治 は、「その時 は戦争 ですから抵抗 する中国 兵 は射殺 しましたし、混乱 してますから逃 げまどっている住民 や反抗 する市民 も多少 はいたでしょう。それは戦争 の続 きです。こういう情況 のもとに起 こった戦死 体 を戦後 、南京 虐殺 だと言 っている」と証言 している[129]。また南京 裁判 で処刑 された谷 寿夫 について「国際 通 で、国際 法 に詳 しい人 ですから、それを考 えても南京 虐殺 は間違 いだ」と証言 している[129]。第 三 艦隊 第 11戦隊 の砲艦 比良 艦長 の土井 申 二 は、宝塔 橋 街 の治安 回復 を行 い、紅 卍 字 会 の陳 漢 森 から礼状 を受 け取 ったが、虐殺 はなかった、礼状 もそうだが中国人 は誇張 して表現 すると証言 した[130]。上海 海軍 武官 府 、第 3艦隊 司令 部 付 の重村 実 は、入城 式 のため12月 17日 に到着 したが、目撃 したのは中国人 が民家 に入 って、便器 など手当 たり次第 掠奪 している姿 で、日本 兵 による残虐 行為 は見 ていないが、便衣 兵 を殺害 したとは聞 いた、「この時 、兵隊 なのか市民 なのか、それは中国人 に指摘 させた」と聞 いたと証言 した[131]。第 二 連合 航空 隊 参謀 ・源田 実 [132]。海軍 第 12航空 隊 3等 航空 兵曹 の原田 要 は九 五 式 艦上 戦闘 機 で光 華 門 を攻撃 したが、陥落 後 の城内 は露店 が立 ち、「南京 は誠 に和 やかに尽 きる、という印象 でした」「非常 に平和 な進駐 」だったと記憶 していると証言 し、「何 十 万 人 もの大 虐殺 は信用 できない。もし、大 虐殺 があれば、中国人 はわれわれに和 やかに接 しただろうか」と述 べている[126]。
文官
福田 篤 泰 は当時 南京 の日本 大使館 で南京 安全 区 国際 委員 会 委員 長 ジョン・ラーベとの交渉 にもあたっていた[133]外交 官 補 。「20万 、30万 の虐殺 はおろか千 単位 の虐殺 も絶対 にない。(略 )衆人 環視 の中 である。そんなことなどしたら、それこそ大 問題 だ。絶対 にウソである。宣伝 謀略 である」と述 べた[134]。また、「残虐 行為 の現場 は見 ていないがあれだけ言 われる以上 残念 ながら相当 あったと思 う、しかし私 の体験 からすれば、本 に書 いてあるものはずいぶん誇張 されているようだ[135]」と述 べた。ただし、戦後 長 らく国会 議員 として、南京 虐殺 があったという話 を喜 ばない政治 家 の多 い自民党 で渡 っていかねばならなかった人物 であるため、立場 上 言 えないこともあったとも考 えられる。実際 に発言 の主眼 となる部分 があまりに奇妙 な内容 であったりするため、聞 いた人 が真 に受 けないよう敢 えてわざとそのようない方 をしたのではないかとさえ思 え、真実 か疑 う声 [136]もある。企画 院 事務 官 (陸軍 省 から出向 )岡田 芳正 は、南京 事件 について当時 聞 いたことはなく、戦後 はじめて聞 いた、「南京 事件 というのは、中国 がそれまでやってきた宣伝 戦 を戦後 を行 ったまでのこと」と証言 した[137]。外務省 領事館 補 の岩井 英一 [138]。陥落 と同時 に南京 入 りし、年明 けに南京 総領事館 で勤務 した領事館 補 の粕谷 孝夫 は、事件 について直接 聞 いたことはなく、渉外 部長 広田 豊 大佐 からも聞 いていないと証言 した[139]。西本願寺 の従軍 僧侶 大谷 光照 法主 は12月14日 に南京 入 りし、17日 の入城 式 に参列 、18日 の慰霊 祭 を行 ったが「虐殺 を見 ておりませんし、噂 も聞 きませんでした。もうその時 は戦闘 は全 く終息 していて一 市内 は平静 で一 市民 の盗 もほとんど見 かけず、虐殺 の起 るような環境 ではありませんでした。日本 軍 は城内 城 外 に適宜 宿営 し、のんびり休養 をとっていました」と証言 [140]。
報道 員
大阪 朝日新聞 の山本 治 は、「朝日新聞 では話題 になったこともありません」、また白川 威 海 上海 支局 長 からも聞 いていないと証言 [141]。東京 朝日新聞 ・橋本 登美 三郎 (当時 上海 支局 次長 )は、事件 は全然 聞 いていない、もし事件 が発生 していれば、記者 の間 で話題 になるはずだと証言 した[142]。陥落 後 から一 ヶ月 間 南京 にいた東京 日 々新聞 金沢 喜雄 カメラマンは、「私 は南京 をやたら歩 いていますが、虐殺 を見 たことがなければ兵隊 から聞 いたこともありません」、また新聞 社内 では一 度 も話題 になっていないと証言 した[143]。大阪毎日新聞 の五島 広 作 [144]は第 6師団 (谷 寿夫 師団 長 )に従軍 し1938年 1月 10日 まで南京 にいたが、中国人 虐殺 命令 は聞 いたことがなく、「東京 裁判 があってからの作 り話 」ではないか、と証言 した[145]。また、事件 があったらしいと噂 を当時 聞 いたので朝日 、読売 、同盟 各社 に問 い合 わせたが、どの社 も知 らないので、中国 の宣伝 工作 だろうと考 えたとも証言 した[146]。報知 新聞 の二村 次郎 カメラマンは、揚子江 での死体 について聞 いたことがあるが「虐殺 されたものではなく、数 が多 いので話題 になったのだと思 います」と証言 した[147]。報知 新聞 の田口 利 介 は、南京 城内 で見 た死体 は2,3体 で、下関 にも何 もなかったと証言 [148]。読売新聞 の樋口 哲雄 カメラマンは、「(虐殺 の)形跡 を見 たことがありません。あったとよくいわれていますが、どこでどんなものがあったのか」「やらなきゃこっちがたられるからやったのを虐殺 と言 っているのだと思 います」と証言 した[149]。東京日日新聞 の鈴木 二郎 は、戦後 検事 側 証人 として「百 人 斬 りは虐殺 ではない」と証言 し、さらにその後 百 人 斬 り競争 について文章 を発表 し[150]、山本 七 平 、鈴木 明 と論争 になったが[151][152]、中山 門 上 、励志社 前 などでそれぞれ数 人 ほどの敗残 兵 の処刑 、下関 の死体 1000体 以上 を目撃 し「これら全 てが虐殺 だったかどうかというと、全 てが虐殺 だと必 ずしも言 えない。しかし、それは敗戦 国 の運命 で、虐殺 になってしまいます。」、南京 全体 の虐殺 については「自分 が見 たことではないから言 えない、わかりません」と証言 した[152]。読売新聞 の森 博 カメラマンは、「捕虜 にやる食糧 がないし、収容 する所 がない、放 してもまた兵隊 になる、それで困 って」捕虜 を揚子江 で殺戮 したと聞 いた、しかし南京 では市民 への虐殺 は見 ていないと証言 した[153]。同盟 通信 の新井 正義 は、中国 兵 の死体 に便衣 の者 もいたし、中 に捕虜 の死体 もあっただろうが、20万 の大 虐殺 は聞 いたことがない、日本 兵 が捕虜 に米 を入 れてあげるのを見 た、入城 式 直後 には小売 店 や甘味 料 もよく売 っていた、虐殺 については東京 裁判 ではじめて聞 いた、と証言 した[154]。同盟 通信 の浅井 達三 カメラマンは、阿 羅 健一 に対 して、当時 社内 で事件 は話題 にならなかった、パラマウントのアーサー・メンケンからも聞 かなかった、浅井 は戦後 東京 裁判 を撮影 したが、松井 大将 が起訴 されるのは責任 者 だから仕方 ない、ただし「20万 もの虐殺 と言 ってますが、数 の面 ではそうは思 いません。南京 の人口 の大半 がいなくなる数 ですから」と証言 した[155]とされる。しかし、戦後 の日本 占領 終了 後 まもなく出版 された東京 裁判 を扱 った本 に、浅井 は南京 事件 に関 し、南京 陥落 後 兵士 たちが続々 と城壁 内 に入 ってきて、そのころから火事 が発生 、市内 の目抜 き通 りが焼払 われた、兵士 たちが市民 にした虐殺 などは1週間 に亘 って続 いた、それがいたたまれず自身 は南京 を去 ったと、寄稿 している[156]。同盟 通信 の細波 孝 は、湯山 からと推測 される捕虜 の連行 を見 たあと、入城 式 前日 か当日 の早朝 に下関 でのトーチカ内 や揚子江 での死体 を見 た、「それを見 て、国際 法 違反 も考 えましたが、戦闘 の犠牲 者 だと思 いました」「その頃 は、やらなければこちらがやられますから」と証言 し、また上海 支社 長 の松本 重治 と大学 で何 かがあったらしいので四 人 で行 ったが何 も事件 の形跡 はなかったと証言 した[157]新 愛知 新聞 の南 正義 は、13日 に中 山門 から入城 すると日本 兵 の死体 2、3体 が街路 樹 のプラタナスに吊 るされ、火 で炙 ってあるのを見 たが、中国人 への「虐殺 があったなど誰 も言 ってませんし、見 ていない。日本 が戦争 で負 けてから中国 がでっちあげてい出 したことです」と述 べ、また捕虜 殺害 については「その時 『決戦 に捕虜 なし』という言葉 があって、捕虜 という考 えは日本 軍 にはなかったと思 います。もちろん中国 だって、逃 げる時 は家 を焼 き払 い、物 を壊 して逃 げ、便衣隊 になってスパイをやるし、捕虜 になって助 かるという気 はありません。お互 い捕虜 という概念 がなく、助 かろうという気 もないから、捕虜 をやったというのも変 な話 です。それは、あとからこういう国際 法 に照 らし合 わせればということでね。戦場 を知 らない人 がそれを虐殺 だと言 っているだけです。便衣隊 のことを虐殺 だと言 ってる人 もいますが、それは虐殺 ではありません」と証言 した[158]。福岡 日 日 新聞 の三苫 幹之助 は、陥落 直後 の南京 入 りしたが「大 虐殺 の話 なんか見 ても聞 いてもおりません。痕跡 すら何一 つありませんでした」と証言 している[159]。また三 苫 が書 いた昭和 14年 の福岡 日 日 新聞 記事 では、中国人 市民 の証言 として、日本 軍 が到着 する以前 の南京 安全 区 のイホロ難民 区 では、中国 軍 兵士 や銃 を持 って夜昼 検察 に来 て、食糧 や物品 を強奪 し、独身 男性 は労役 のために拉致 され、夜 は女性 が拉致 されていた、と証言 している[160][159]。都 新聞 の小池 秋 羊 は、中国 兵 の戦死 体 は何 十 体 見 たが、虐殺 の話 を聞 いたことはない、ただし南京 全部 を見 たわけではない、と証言 した[161]。また小池 は、日本 の補助 憲兵 が難民 区 に潜入 している敗残 兵 を摘出 し、十 人 か二 十 人 かにまとめて連行 したを見 ている。直接 見 ていないが、郊外 で射殺 したのではないかと推測 している。また、第 16師団 の兵隊 が食糧 などを掠奪 しているのは目撃 し、それをシャンハイ・イブニング・ポストやノースチャイナ・デイリー・ニューズなどの外人 記者 が記事 にした。小池 はそれらの記事 を当時 上海 で目 にした。阿 羅 健一 によれば、福島 民 報 の箭内 正 五郎 は、第 65連隊 (山田 支隊 )に従軍 したが軍紀 が乱 れたこともなく、上海 と比 べると南京 はあまり激 しくない戦線 であった、戦後 にいわれた大 虐殺 はなかったと証言 したという[16]。阿 羅 健一 によれば、海軍 従軍 絵画 通信員 で画家 の住 谷 磐根 は、埠頭 で敗残 兵 1000人 弱 を銃剣 で処刑 したのを目撃 し、翌朝 いってみると遺体 は約 800体 ほどでまだ動 いている中国 兵 もいた、「これがあとで南京 虐殺 といわれたものだと思 います」、ただし「日本 軍 としては中国 兵 を殲滅 しなければなりません。それが戦争 ですし、そうしないと今度 は日本 軍 がやられてしまいます。そういう全体 をわからなければ一部分 を取 り上 げても間違 いになります。南京 虐殺 といわれるのもそういうものです」、市民 は避難 区 にいたし中国 兵 は逃走 していたからいわゆる南京 大 虐殺 はありえない、自転車 で城内 をスケッチしてまわったが、虐殺 は一 度 も見 ていない、と証言 したという[162]。阿 羅 健一 によれば、外務省 情報 部 付 の渡辺 義雄 カメラマンは、入城 式 の前日 か2日 前 に現地 入 りして、下関 で中国 兵 を処刑 していたと聞 いた、あとで将校 と下士官 に聞 くと捕虜 を監獄 に入 れたが入 りきれないし食糧 もなく、やむをえずやった、捕虜 と犯罪 人 で合計 一 万 人 位 いたと聞 いたという。渡辺 が直接 見 たのは中国 兵 の死体 ばかりで、日本 兵 による残虐 行為 は見 ていないと証言 したという[163]。阿 羅 健一 によれば、陸軍 報道 班 員 の小柳 次 一 カメラマンは、揚子江 で300人 中国 兵 を殺 したとは聞 いたが「戦場 だからそういう話 はいくらでもありますし、戦後 いわれているような話 は聞 いたことがありません」と証言 したという[164]。田中 正明 によれば、読売新聞 上海 特派 員 だった原 四郎 は、陥落 後 三 ヶ月 後 に虐殺 があったらしいと聞 いたが、当時 軍 が箝口令 を敷 いたわけでもなく、不思議 に思 ったので各 支局 に問 い合 わせたが不明 だったので、中国 の宣伝 工作 だろうというのが大方 の意見 だった、と証言 したという[165]。雑誌 「大 亜細亜 主義 」従軍 記者 の田中 正明 [166]。1938年 8月 に南京 に滞在 した[166]。田中 は当時 従軍 した大宅 壮一 、木村 毅 、杉山 平助 、野依 秀市 、西條 八十 、草野 心 平 、林 芙美子 、石川 達三 もそれらの視察 記 や紀行 文 の中 には"大 虐殺 ”を匂 わすような文章 はどこにも見当 たらない[167]とする。(実際 には、大宅 は戦後 、相当 の大 規模 の虐殺 があったということは十 分 いえると述 べている。また、石川 達三 は戦後 、読売新聞 から二 度 取材 を受 けており、いずれも、自分 はは遅 れて南京 に入 ったので現場 は見 ていないがかなりの虐殺 があった痕跡 ・余燼 はあったと述 べている。西條 八十 にも雑誌 ・新聞 への寄稿 文 でかなりの数 の捕虜 虐殺 と思 われるものについて書 いているものがあるとされる[168][169]。杉山 平助 に至 っては、事件 当時 の朝日新聞 に、城壁 のほとりには中国人 の死骸 がツクダニのように折 り重 なっている、それを善悪 ではなく現実 の問題 だ、たわけた指導 について国民党 政府 がいかに筋 の通 ったことを言 おうと無辜 の生 民 が惨害 を受 けたことは償 われない、と文 を寄稿 している[170]。また、当時 の朝日新聞 の南京 支社 で若手 記者 らに、勝利 の為 には一切 の道徳 律 は無力 であり無能 だ、と語 った[171]という。)阿 羅 健一 によれば、朝日新聞 ・藤本 亀 記者 は12月13日 、光 華 門 から南京 に入 ったが、「従軍 の間 、特別 に何 の事件 も見 たり聞 いたりはしませんでした」と証言 したという[172]。阿 羅 健一 によれば、大阪毎日新聞 ・西野 源 記者 は第 九 師団 と共 に光 華 門 方面 から南京 に入城 したが、虐殺 は当時 聞 いたことがない、「戦場 では幾多 の流説 があるのが当然 のことです」と語 ったという[140]。中央公論社 特派 員 として従軍 した作家 の石川 達三 は1946年 、「女 をはづかしめ、殺害 し、民家 のものを掠奪 し、等々 の暴行 はいたるところで行 はれた、入城 式 におくれて正月 私 が南京 へ着 いたとき街 上 は屍 累々 大変 なものだつた、大 きな建物 へ一般 の中国人 数 千 をおしこめて床 へ手榴弾 をおき油 を流 して火 をつけ焦熱 地獄 の中 で悶死 させた。また武装 解除 した捕虜 を練兵 場 へあつめて機銃 の一斉 射撃 で葬 つた、しまひには弾丸 を使 ふのはもつたいないとあつて、揚子江 へ長 い桟橋 を作 り、河中 へ行 くほど低 くなるやうにしておいて、 この上 へ中国人 を行列 させ、先頭 から順々 に日本 刀 で首 を切 つて河中 へつきおとしたり逃 げ口 をふさがれた黒山 のやうな捕虜 が戸板 や机 へつかまつて川 を流 れて行 くのを下流 で待 ちかまへた駆逐 艦 が機銃 のいつせい掃射 で片 ツぱしから殺害 した。戦争 中 の興奮 から兵隊 が無軌道 の行動 に逸脱 するのはありがちのことではあるが、南京 の場合 はいくら何 でも無茶 だと思 つた、三重 県 からきた片山 某 といふ従軍 僧 は読経 なんかそツちのけで殺人 をしてあるいた、左手 に数珠 をかけ右手 にシヤベルを持 つて民衆 にとびこみ、にげまどふ武器 なき支 那 兵 をたゝき殺 して歩 いた、その数 は廿 名 を下 らない、彼 の良心 はそのことで少 しも痛 まず部隊 長 や師団 長 のところで自慢 話 してゐた、支 那 へさへ行 けば簡単 に人 も殺 せるし女 も勝手 にできるといふ考 へが日本人 全体 の中 に永年 培 はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺 や暴行 を松井 司令 官 が知 つてゐたかどうかは知 らぬ 『一般 住民 でも抵抗 するものは容赦 なく殺 してよろしい』といふ命令 が首脳 部 からきたといふ話 をきいたことがあるがそれが師団 長 からきたものか部隊 長 からきたものかそれも知 らなかつた」と書 いた[173]。が、後年 、田中 正明 は、石川 は田中 へのインタビューに「大 殺戮 の痕跡 は一片 も見 ておりません」と証言 したと主張 した[174]。また石原 慎太郎 は、大 虐殺 はなかったと石川 が言 ったのを直 に聞 いたと主張 する[175]。阿 羅 健一 は石川 が亡 くなる3か月 前 の1984年 10月 にインタビューを申込 み、その時 には石川 が胃潰瘍 の病後 で会 えなかったが、「私 が南京 に入 ったのは入城 式 から二 週間 後 です。大 殺戮 の痕跡 は一片 も見 ておりません。何 万 の死体 の処理 はとても二 、三 週間 では終 わらないと思 います。あの話 は私 は今 も信 じてはおりません」と返事 を貰 った[176]とする。しかし、これら田中 、石原 、阿 羅 3名 の主張 はいずれも石川 達三 の死後 になって為 されたもので、実際 には、石川 達三 は、生前 、南京 事件 に関 して読売新聞 の取材 を戦後 も二 度 にわたって受 けており、そこではいずれも虐殺 の痕跡 があったことを述 べている[177]。また自著 においては虐殺 現場 を目撃 はしていないものの「大体 のこと」を知 っており「事件 そのものを否定 することはできなかった」ことや、東京 裁判 に対 する批判 的 意識 もあり当時 は「日本 軍 の立場 を弁護 した」ことを記 している[178]。田中 、石原 、阿 羅 3名 はいずれもこのことを知 らなかったと見 られる。石原 慎太郎 は、都知事 時代 の記者 会見 で石川 達三 の話 との違 いを記者 の一人 に指摘 されると、石川 達三 が二枚舌 を使 ったのかも分 からないと主張 、あくまで嘘 をついているのは、自分 ではなく石川 の方 だとする立場 をとって、その記者 の質問 を打切 り、他 の記者 への質問 回答 を始 めた[175]。-
前田 雄二 (同盟 通信 社 社会 部 記者 ) は1937年 12月16日 、新井 と写真 の祓川 らと軍 官 学校 で処刑 現場 を目撃 した[179]。捕虜 を一人 ずつ校庭 に引 きだし、下士官 がそれを前方 の防空壕 の方向 に走 らせ、待 ち構 えた兵隊 が銃剣 で背後 から突 き貫 き、壕 に転 げ落 ちると、止 めを刺 すという「処刑 」を三 カ所 で並行 して実行 しており、傍 らの将校 は「新兵 教育 だ」といったという[179]。午後 、交通 銀行 の裏 の池 の畔 でも捕虜 が処刑 されているのを連絡 員 の中村 太郎 と目撃 した[179]。12月17日 夜 には揚子江 岸 の千 、二 千 に達 する死体 を見 て、城内 の警備 司令 部 参謀 に尋 ねると「少数 の日本 部隊 が、多数 の投降 部隊 を護送 中 に逆襲 を受 けたので撃滅 した」との説明 を受 けた[179]。前田 は後年 、これらは戦闘 の範囲 に入 るものであり、十 数 万 とも三 十 万 人 ともいわれる「大 虐殺 」に対 して、「長江 沿 いや江 門 、それに“処刑 ”、私 自身 が見 た事実 、これらの中 には戦闘 につながるものがあるかも知 れないが、これらの事実 が核 になって噂 が拡幅 され、戦争 被害 までが積 み重 ねられて、巨大 な数字 にふくれあがった」ものであると主張 している[179]。 東京 朝日新聞 記者 の足立 和雄 は1965年 に「日本 軍 の大 部隊 が、南京 をめざして四方八方 から殺到 した。それといっしょに、多数 の従軍 記者 が南京 に集 ってきた。そのなかに、守山 君 と私 もふくまれていた。朝日新聞 支局 のそばに、焼跡 でできた広場 があった。そこに、日本 兵 に看 視 されて、中国人 が長 い列 を作 っていた。南京 にとどまっていたほとんどすべての中国人 男子 が、便衣隊 と称 して捕 えられたのである。私 たちの仲間 がその中 の一人 を、事変 前 に朝日 の支局 で使 っていた男 だと証言 して、助 けてやった。そのことがあってから、朝日 の支局 には助命 を願 う女 こどもが押 しかけてきたが、私 たちの力 では、それ以上 何 ともできなかった。"便衣隊 "は、その妻 や子 が泣 き叫 ぶ眼 の前 で、つぎつぎに銃殺 された。「悲 しいねえ」私 は、守山 君 にいった。守山 君 も、泣 かんばかりの顔 をしていた。そして、つぶやいた。「日本 は、これで戦争 に勝 つ資格 を失 ったよ」と。内地 では、おそらく南京 攻略 の祝賀 行事 に沸 いていたときに、私 たちの心 は、怒 りと悲 しみにふるえていた」と書 いた[180]。しかし、阿 羅 健一 は、後 に足立 和雄 は、「大 虐殺 」は見 ていない、ただし、軍 の便衣隊 掃蕩 にはやりすぎがあったかもしれないと阿 羅 に語 り、また、『守山 義雄 文集 』に寄稿 した「私 と南京 大 虐殺 」という題名 について「不用意 だった」と反省 の弁 と、「南京 大 虐殺 については意識 的 に嘘 をついている人 がたくさんいる」と述 べて、後輩 の本多 勝一 の主張 にも残念 だと批判 したと、主張 している[181][90]。同盟 通信 社 特派 員 の小山 丈夫 は、1938年 夏 の外人 記者 南京 視察 団 から虐殺 事件 について質問 も受 けなかったし、小山 も東京 裁判 で初 めて事件 を知 ったと証言 [167]。
中国人 の証言 [編集 ]
東京 裁判 で中国人 証人 に対 しての反対 尋問 は行 われていない[1]とする説 があるが、実際 には中国人 証人 5人 の内 、被告人 側 弁護人 は虐殺 の生存 者 1名 を含 む3人 に対 し反対 尋問 を行 っている。残 り2人 に対 する反対 尋問 を被告人 側 弁護人 は放棄 したが、その2人 はいずれも虐殺 の生存 者 である[182]。また、多数 の被害 を受 けた中国人 から多数 の口供 書 が裁判 に提出 されている。李 秀 英 -松村 俊夫 は、李 について「証言 のたびに内容 がクルクル変 わるのは、実体験 でない証拠 だろう」と著書 に書 き、名誉 毀損 に当 たるとして民事 裁判 を1999年 9月 に起 こされた。東京 地裁 は判決 で「(松村 には、李 が)嘘 を言 ったと信 じる相当 の理由 はなかった」と述 べ、松村 に150万 円 の支払 いを命 じた。2005年 1月 に最高裁 上告 棄却 となり原告 の勝訴 が確定 した。夏 淑 琴 -新 路 口 事件 の証言 者 。これに対 し、東中野 修道 は事件 発生 時間 、本人 の年齢 に関 する情報 、一家 の人数 等 につき不合理 な点 がみられるとして、偽 の証言 と主張 し[183]、さらに事件 の被害 者 と夏 淑 琴 は別人 と主張 した[184]。夏 は中国 と日本 で東中野 に対 して名誉 毀損 訴訟 を起 こした。東中野 自身 の誤訳 により不合理 な内容 になっている事 などが明 らかになり、日本 では最高裁 まで争 われたが、原告 が一 審 から最高裁 まで全 て勝訴 した。
欧米 人 の証言 [編集 ]
- ジョン・マギー -
南京 安全 区 国際 委員 会 委員 。南京 国際 赤十字 委員 会 委員 長 。宣教師 であり、被害 者 の南京 の鼓 楼 病院 (金 陵 大学 病院 )への救助 活動 に携 わる。ために、担 ぎこまれる多 くの被害 者 と接 し、また、本来 、外国 人 でも安全 が保障 されない安全 区 外 にも果敢 に出 ていき、被害 跡 を見 ることが多 かった為 、南京 で発生 していた事態 の状況 を証言 する為 に東京 に呼 ばれた。鼓 楼 病院 で救助 活動 にあたり日本 兵 より被害 を受 けたと言 う多数 の被害 者 を見 た経験 、新 路 口 事件 の現場 跡 を見 に行 ったこと、多数 の住民 が連 れ去 られ城内 あるいは下関 で処刑 されたことを聞 いたこと、下関 に行 こうとした途中 の路上 が民間 人 の死体 で埋 まっていたこと等 を、東京 裁判 で証言 した。日本 では伝聞 証拠 だと寧 ろ法律 の専門 家 ではない者 からの批判 にしばしば晒 される。実際 には、彼 の発言 だけで個々 の犯罪 の犯人 を立証 する為 の直接 証拠 として目撃 証言 を求 められたわけではなく、事件 の全体 像 あるいは事件 直後 の被害 者 の状況 を知 る為 の間接 証拠 の一 つとして、あるいは、英 米 法 にしばしば見 られる罪 体 (犯罪 となる事実 事件 そのものの存在 )の証明 として現場 の目撃 証言 を求 められたものと考 えられる。マギーの撮影 したフィルム(マギー・フィルム)[185]は2015年 10月 ユネスコ記憶 遺産 登録 。 - マイナー・シール・ベイツ-
南京 安全 区 国際 委員 会 委員 。副 委員 長 格 か。南京 の金 陵 大学 の歴史 学 教授 で南京 裁判 で証人 となる。宣教師 としての資格 を持 ち、日本 に来 た時 に教会 に出入 りしていた事 から、日本人 クリスチャンに知人 も多 く、親中 家 であると共 に親日 家 としても知 られていた。事件 前 も日本 に家族 と共 に旅行 に来 ており、上海 事変 を知 って、家族 を日本 に残 した儘、急遽 南京 に戻 った。上海 のティンパーリに南京 での事件 を連絡 する等 、日本 軍 のいわゆる残虐 行為 を抑 える為 にティンパーリに密 かに協力 していたが、事件 後 も親日 家 である事 そのものは変 わらなかったという。東中野 修道 は、当時 のアメリカの一部 の新聞 の写真 のキャプション[186]に書 いてあることを根拠 に、マイナー・シール・ベイツは中国 国民 政府 顧問 であるとする。ただし、これは今 の日本 でも見 られる大学 教授 などが政府 関係 の委員 会 のメンバーや顧問 に名 を連 ねることと同様 なものとの説 がある。ベイツは東京日日新聞 昭和 12年 12月26日 では「秩序 ある日本 軍 の入城 で南京 に平和 が早 くも訪 れたのは何 よりです」とやむをえない社交 辞令 か新聞 側 の脚色 か、そのような発言 をしたとされた。なお、同 12月 17日 号 第 11面 ではベイツは「日 支 親善 のため活躍 を続 けてゐる親日 家 」と報道 されている。証言 記録 は2015年 10月 ユネスコ記憶 遺産 登録 。 - ルイス・S・C・スマイス -
南京 安全 区 国際 委員 会 委員 。ベイツの秘書 的 役割 を果 たした。南京 裁判 で証人 となる。スマイス報告 の作成 者 。東京 裁判 では、司法 職員 の作成 によるとみられるスマイスの口供 書 は検察 側 から証拠 提出 されたものの、当時 スマイスは国際 連合 乃至 その下部 機構 の設立 準備 に関 わっていたため、いわば被告 の敵 側 関係 者 とされる立場 (当時 の国連 は日 独 を敵 とみなす敵国 条項 を備 えた、日 独 の再 侵略 を防止 するため団体 であった)にあった。スマイス報告 の作成 自体 はスマイスの国連 準備 活動 以前 だが司法 職員 の作成 による調書 となるわけではなく、おそらくは、国連 活動 や英 米 法 訴訟 手続 きルールのために敵 側 人物 であるスマイス自身 がその信憑 性 を出廷 して証言 できるかも微妙 であったことから提出 資料 とされなかったものではないかと思 われる。彼 はコピーの残 るタイプライターを使 っていたため、この当時 友人 ・知人 ・家族 に出 した手紙 の原文 だけでなく、日本 を含 む大使館 関係 者 に出 した手紙 のコピーまで、イェール大学 神学 部 図書館 (Divinity Library)の"南京 大 虐殺 資料 プロジェクト"(The Nanking Massacre Archival Project)で収集 され、PDF公開 されている。そのうちの家族 への私信 は、しばしば日本人 論 者 によって、その中 の都合 の良 いわずかな数 の箇所 が抜 き出 されて、南京 で残虐 事件 がなかったかのように利用 されるが、実際 には、それ以外 は1ページ約 5800字 は打 てるように思 われるタイプライターで日記 体形 式 にて4ページ目 途中 の1937年 12月14日 部分 から最後 の29ページ目 まで殆 どギッシリと南京 での日本 軍 の残虐 行為 を伝 えたものである[187]。(なお、この日記 に関連 して、アメリカ人 で虐殺 を見 た者 は無 いと主張 されることもあるが、外国 人 らは南京 の国際 安全 区 に事実 上 押 し込 められており、そこでの虐殺 は日本 軍 は避 けていたため、外国 人 らは死体 は見 ても虐殺 現場 そのものを見 ることは殆 ど無 かった。が、それでも実際 にはニューヨークタイムズのダーディン記者 、シカゴディリーニューズのスティール記者 等 が虐殺 現場 を目撃 している[188]。) - ベルンハルト・シンドバーグ -
当初 、英 デイリーテレグラフ社 記者 の運転 手 をしていたが、その後 南京 郊外 のデンマークのセメント工場 の警備 に雇 われ、日本 軍 が進出 するとドイツ人 カール・ギュンターとともに工場 周辺 一帯 を安全 区 に似 た難民 キャンプとした。南京 大 虐殺 紀 念 館 の朱 成山 館長 は、シンバーグは南京 大 虐殺 の目撃 者 であるとする[189][190]。対 して日本 では、近隣 の山 向 こうの地 にやはり同様 な難民 施設 を設 けた棲霞山寺 の僧侶 の依頼 を受 けて、シンドバーグは日本 兵 の掠奪 や強姦 からの保護 を海外 に求 まる信書 の翻訳 ・連絡 をしたにとどまる[191]とする主張 も出 されている。が、シンドバーグは写真 を趣味 とし、この当時 写真 を撮 りためており、テキサス大学 オースチン校 には、日本 軍 の残虐 行為 に関連 するものもを含 む、彼 がとったとされる1937-1938年 の写真 がコレクションされている[192](ただし、時期 から見 てどれが上海 事変 のものでどれが南京 事件 のものであるかは注意 を要 する)。また、エール大学 神学 部 にはシンドバーグとベイツがの間 で交 わされた日本 軍 の残虐 行為 に関 する書簡 が保管 されているという話 がある。近年 、再 認識 されるようになった資料 では、シンドバーグ自身 の方 の難民 施設 では、大 きな問題 は起 こらなかったように見 える[193]が、東京 裁判 でマギーは、そこを訪問 した際 に、日本 兵 が女 を求 めてくるので村長 格 の者 たちが10~20人 程度 で警戒 に当 たっており、彼 らが日本 兵 の要求 を断 るため日本 兵 に暴力 をふるわれると語 っていたことを証言 [194]している。また、関係 性 は不明 であるがカール・ギュンターの遺族 からも南京 大 虐殺 紀 念 館 は南京 事件 に関 する写真 の提供 を受 けている[195]。
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
出典 [編集 ]
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板倉 由明 1999, p. 277紫 金山 付近 の「残酷 な話 も兵科 を歩兵 とし、部隊 の駐留 地 を南京 東北 方 (実際 には野砲 三 は光 華 門 南方 の山西 村 付近 に19日 まで宿営 )に設定 したウソの上 に構成 されている」。戦友 はいずれも強 く否定 。「自分 は南京 には行 っていないとN氏 は語 っている」 - ^
板倉 由明 1999, p. 258 『原本 は二 年 前 に処分 し』たという日記 は、すべて新 カナ遣 いで書 かれている。続編 「出版 の際 作 ったものと推定 するのが自然 であろう」 - ^
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参考 文献 [編集 ]
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南京 事件 の日々 ミニー・ヴォートリンの日記 」大月書店 1999年 渡辺 正男 「上海 ・南京 ・漢 口 五 十 五 年 目 の真実 」別冊 文芸春秋 1993年 新春 特別 号