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南京事件の証言 - Wikipedia コンテンツにスキップ

南京なんきん事件じけん証言しょうげん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

南京なんきん事件じけん証言しょうげんでは、南京なんきん事件じけん証言しょうげんについて解説かいせつする。

日本人にっぽんじんによる証言しょうげん[編集へんしゅう]

東京とうきょう裁判さいばん[編集へんしゅう]

東京とうきょう裁判さいばん出廷しゅっていした日本人にっぽんじん証言しょうげん宣誓せんせいしたうえ証言しょうげんし、かつ検察官けんさつかんによる反対はんたい尋問じんもんおこなわれた[1]南京なんきん事件じけんにおいて弁護士べんごし用意よういした、これら被告人ひこくにんがわ証人しょうにんさらには口供こうきょうしょ提出ていしゅつしゃはいずれも日本にっぽん政府せいふ出身しゅっしんしゃ日本にっぽんぐんもと将校しょうこう(一般いっぱん兵士へいしはいなかった)ばかりで、あとは元々もともと政治せいじてき思想しそうてき被告人ひこくにん松井まつい同調どうちょうして活動かつどうしていた民間みんかん人間にんげん若干じゃっかんいただけであった[2]。なお、被告人ひこくにんがわ弁護士べんごし検察官けんさつかんがわ証人しょうにんである外国がいこくじん証人しょうにん3にん全員ぜんいん中国人ちゅうごくじん証人しょうにん5にんうち3にんたいして反対はんたい尋問じんもんおこない、のこり2にん中国人ちゅうごくじん証人しょうにんたいする反対はんたい尋問じんもん放棄ほうきしている[3]

  • 上海しゃんはい派遣はけんぐん法務ほうむかんけん検察官けんさつかん塚本つかもと浩次こうじは「わたし処断しょだんした事件じけんなか将校しょうこうよんにんいたとおもうが、その兵卒へいそつによる散発さんぱつてき事件じけんだい部分ぶぶんであった。つみしゅしゅとして掠奪りゃくだつ強姦ごうかんであり、傷害しょうがい窃盗せっとうすくなく、それに起因きいんする致死ちしきわめてすくなかったと記憶きおくしている。殺人さつじんさんけんあったとおもうが放火ほうかはん処断しょだんした記憶きおくはなく、また集団しゅうだんてき虐殺ぎゃくさつはんあつかったこともない」と証言しょうげんした[1][4]
  • ちゅうささえ方面ほうめんぐん参謀さんぼう中山なかやまやすしじん当時とうじ情報じょうほう収集しゅうしゅう主務しゅむとしていた[4]中山ちゅうざんは「南京なんきんすうかいおこなったが、われるようなだい事件じけんは、当時とうじかなかったし、またたこともない。」「巡察じゅんさつさい箇所かしょ死体したいはいずれも軍人ぐんじん死体したいであり、南京なんきん城内じょうないでもしろがいでも、民間みんかんじん死体したいたことがない」と証言しょうげん[1]。また南京なんきん事件じけんいたのは終戦しゅうせんであるとし、南京なんきん事件じけんなるものは、つぎの4つに区分くぶんしてかんがえる必要ひつようがあり、1)市民しみんたいする虐殺ぎゃくさつ事件じけんは「絶対ぜったいにそういうことはない」、2)俘虜ふりょ虐殺ぎゃくさつは「あやまつたえられたそとに、これもない」、3)外国がいこく権益けんえきとく財産ざいさんたいする侵害しんがい一部いちぶにあったが、中国ちゅうごくへいがやったのか日本にっぽんへいがやったのかは不明ふめいである、4)婦女子ふじょしたいする不法ふほう行為こういおよび掠奪りゃくだつは「小規模しょうきぼにおいてはあったとかんがえ、はなはだ遺憾いかんおもう」と宣誓せんせい供述きょうじゅつしょ証言しょうげんした[4][5]
  • 中澤なかざわ三夫みつおだい16師団しだん参謀さんぼうちょうは「日本にっぽん軍人ぐんじんによる物資ぶっし取得しゅとく事実じじつは、憲兵けんぺいから少数しょうすう通報つうほうけた。しかし、住民じゅうみん逃亡とうぼうとともに資材しざいもほとんど搬出はんしゅつされており、家屋かおく空家あきや同様どうようのものがおおかった。したがって組織そしきてき集団しゅうだんてき掠奪りゃくだつしたという事実じじつまった聞知ぶんちしないし、勿論もちろん司令しれいとして、かかる不法ふほう行為こうい命令めいれいし、默認もくにんし、許容きょようした事実じじつは、まったくない。中国ちゅうごく戦場せんじょうにおける掠奪りゃくだつ破壊はかいだい部分ぶぶんが、退却たいきゃくするささえぐんつづいて挺身ていしん闖入ちんにゅうする窮民きゅうみん常套じょうとう手段しゅだんである、ということをわたし掠奪りゃくだつ被害ひがいしゃであるささえじんから直接ちょくせついている。(りゃく南京なんきん日本にっぽんぐんによって計画けいかくてき強姦ごうかんおこなわれたという事実じじつは、まったくない。少数しょうすう散発さんぱつてき風紀ふうきはんはあったが、それらはすべてほうしたがって処罰しょばつされた」と証言しょうげん[1]
  • 松井まついいし大将たいしょうちゅうささえ派遣はけんぐん司令しれいかんは「当時とうじ自分じぶんわがぐん将兵しょうへい軍紀ぐんき風紀ふうき粛正しゅくせい、そのみぎ目的もくてき達成たっせいのためった諸般しょはん処置しょちについては、さき証人しょうにん中山なかやまやすしじん詳細しょうさい証言しょうげんしているので、再説さいせつはしない。自分じぶん南京なんきん占領せんりょうたいする周到しゅうとう配慮はいりょかかわらず、占領せんりょう当時とうじのこうそうたる状態じょうたいにおける、興奮こうふんした一部いちぶ若年じゃくねん将兵しょうへいあいだむべき暴行ぼうこうおこなったものがあったらしく、これは自分じぶんのはなはだ遺憾いかんとするところである。ちなみに南京なんきん陥落かんらく当時とうじ自分じぶん南京なんきんることりゃく々140マイルの蘇州そしゅう病臥びょうがちゅうで、自分じぶん命令めいれいかかわらずこれら暴行ぼうこうおこなわれたことはらず、また何等なんら報告ほうこくせっせず、17にち南京なんきん入城にゅうじょうはじめて憲兵けんぺい隊長たいちょうよりこれをき、かく部隊ぶたいめいじて、即刻そっこく厳格げんかく調査ちょうさ処罰しょばつをなさしめた。ただし、戦時せんじにおけるささえへいおよび一部いちぶ不逞ふてい民衆みんしゅうが、戦乱せんらんじょうじて常習じょうしゅうてき暴行ぼうこう掠奪りゃくだつおこなうことは周知しゅうち事実じじつであって、南京なんきん陥落かんらく当時とうじ暴行ぼうこう掠奪りゃくだつささえ軍民ぐんみんおかしたものも、またすくなくなかった。これを全部ぜんぶ日本にっぽんぐん将兵しょうへい責任せきにんそうとするのは、事実じじついるものである。(りゃく南京なんきん陥落かんらく昭和しょうわ13ねんがつまで上海しゃんはい在住ざいじゅうしたが、そのあいだ、12月下旬げじゅん南京なんきん若干じゃっかん不祥ふしょう事件じけんがあったとのうわさいただけであって、何等なんらこのような事実じじつについて公的こうてき報告ほうこくけたことなく、とう法廷ほうてい検察けんさつがわ主張しゅちょうするようなだい規模きぼ虐殺ぎゃくさつ事件じけんかんしては、1945ねん終戦しゅうせん東京とうきょうでのべいぐん放送ほうそうによって、はじめてったものである(りゃく南京なんきん攻略こうりゃく戦闘せんとうさいして、ささえ軍民ぐんみんばくげき銃砲じゅうほうとうによって多数たすう死傷ししょうしたことはあっただろうけれども、検察けんさつがわ主張しゅちょうするような、計画けいかくてきまたは集団しゅうだんてき虐殺ぎゃくさつおこなった事実じじつだんじてない」と証言しょうげんした[4]作為さくいによる致死ちし保護ほご責任せきにんしゃ遺棄いき致死ちしのようなものであれば故殺こさつ(故意こいによる殺害さつがい)のいち類型るいけいとみるえいべいほう裁判官さいばんかんおお東京とうきょう裁判さいばんにおいて、松井まつい訴因そいんすべてが退しりぞけられながら唯一ゆいいつこの南京なんきん事件じけんかん作為さくいによる責任せきにんわれBCきゅう戦犯せんぱん該当がいとうするかたち有罪ゆうざいとなり、処刑しょけいされた。なお、巣鴨すがも拘置こうちしょ教誨きょうかいである花山はなやま信勝のぶかつによれば、判決はんけつのちは、松井まつい南京なんきん事件じけん存在そんざいみとめるかたちで、おずかしいかぎりです、みなあつめていておこった、ところがこのことのあとでみなわらった、ある師団しだんちょうごときは「あたまえですよ」とったと、花山はなやまかたった[6]とされる。
  • 当時とうじちゅうささえ方面ほうめんぐん参謀さんぼう副長ふくちょうとして松井まついいししたにあった武藤むとうあきら大佐たいさは1946ねん4がつ22にち東京とうきょう裁判さいばんそなえた国際こくさい検察けんさつきょく尋問じんもんで、自分じぶんらが入城にゅうじょうしたのは南京なんきん陥落かんらく数日すうじつ市内しないすで清掃せいそうされていてつたえられるようなほどかず事件じけんがあったとはしんじられないとしながらも、かれ自身じしん松井まついも10-20くらいの事件じけんがあったと報告ほうこくけたこと、また実際じっさい軍事ぐんじ法廷ほうていひらかれ10-20くらいのかず裁判さいばんがかけられていたこと自分じぶんたしかにっている法廷ほうていはそれひとつだがほかにも複数ふくすうあったとしんじていること、またさらにはひとつの事件じけんで10にんかそれ以上いじょう人数にんずう裁判さいばんにかけられているものもあったことべ、日本にっぽんぐんについて、シベリア出兵しゅっぺい以来いらいしつわるくなり、略奪りゃくだつ強姦ごうかんおこなうようになったとべている[7]。また、松井まついいしについては、報告ほうこくいて激怒げきどし、事件じけん調査ちょうさ犯人はんにん処罰しょばつただちにめいじたと、武藤むとうべている。東京とうきょう裁判さいばんでは、かれ自身じしんは、この南京なんきんでの事件じけん戦争せんそう開始かいし責任せきにんについては当時とうじ地位ちいがそれほどたかくなかったとして無罪むざいとされたが、フィリピンやインドネシアでの虐殺ぎゃくさつ事件じけん責任せきにんわれ、BCきゅう戦犯せんぱん該当がいとうするかたち有罪ゆうざいとなり処刑しょけいされた。

虐殺ぎゃくさつがあったとする証言しょうげん[編集へんしゅう]

実際じっさい従軍じゅうぐんしたもと日本にっぽん軍人ぐんじん外交がいこうかん報道ほうどう記者きしゃなどの証言しょうげん多数たすう存在そんざいする。ただし、証言しょうげんしゃによって目撃もくげきした事件じけん現場げんば被害ひがいしゃはそれぞれことなることに注意ちゅうい

陸軍りくぐん
  • たに壽夫としお当時とうじ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうだい10ぐん隷下れいかだい6師団しだんちょう南京なんきん攻略こうりゃく南側みなみがわより南京なんきんじょうめた。戦後せんご日本にっぽん南京なんきん事件じけん責任せきにんしゃ一人ひとりとして逮捕たいほ南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていおくられた。当人とうにん自身じしん部隊ぶたい軍紀ぐんき厳正げんせい虐殺ぎゃくさつはしていないとしながら、中島なかじま末松すえまつらの部隊ぶたいおこなったものだと主張しゅちょうした[8]。これは司令しれいかんクラスでおおやけ南京なんきん虐殺ぎゃくさつ存在そんざいみとめた唯一ゆいいつのものだとされる。
  • 中島なかじま今朝けさわれ事件じけん当時とうじ陸軍りくぐん中将ちゅうじょう南京なんきん攻略こうりゃくだい16師団しだんちょうとして北側きたがわより南京なんきんじょうめた。その日記にっきがジャーナリストの木村きむら 久邇くにのり中島なかじま評伝ひょうでんをまとめるために遺族いぞく取材しゅざいをしていたさい提供ていきょうされ、中央公論ちゅうおうこうろんたすけを分析ぶんせきされた。その日記にっきには、このたたかいにおいて捕虜ほりょらない方針ほうしんであること、麾下きか佐々木ささきいたいち少将しょうしょうとう部隊ぶたいがそれぞれ捕虜ほりょせんまんえる単位たんい処理しょりしたものがあること、かれ自身じしんななはちせんにん捕虜ほりょをまとめて「片付かたづけくる」予定よていだが、それには「だいなるごうようちゅう見当みあたらず」代案だいあんかんがえていること、かたな使つかたのでたまたまいた捕虜ほりょにんためりに使つかったこととう記述きじゅつがある[9]。なお、中島なかじま掠奪りゃくだつ積極せっきょくてき参加さんかしており、南京なんきん国民党こくみんとう政府せいふ宝物ほうもつるい組織そしきてき掠奪りゃくだつしている。一方いっぽう将兵しょうへい掠奪りゃくだつについては、日記にっきに、部隊ぶたい士官しかん兵士へいし中島なかじま管轄かんかつ地域ちいきにまではいってぬすみをはたらくこと、しかも司令しれい標識ひょうしきされている建物たてものでさえ平気へいきぬすみをはたらくことが、頻発ひんぱつしていることにおどろき、本人ほんにん自身じしん管轄かんかつ地域ちいきおこなぶんにはよいが其処までいくとぎだと非難ひなんしている[9]。また、掠奪りゃくだつについて松井まつい大将たいしょうが「(国民党こくみんとう政府せいふ財宝ざいほうるいの)かっぱらいの主人しゅじん方面ほうめんぐん幕僚ばくりょうなりと突込つっこみたるに、はさすがにしらばくれてりたり」(←この記述きじゅつから中島なかじま自身じしん財宝ざいほうるいぬすみをはたらいている幕僚ばくりょうらの黒幕くろまくであるとおもわれる。)とき、さらに中島なかじま一流いちりゅうホテルから掠奪りゃくだつした家具かぐ自身じしん南京なんきんでの居所きょしょはこんでおり、「(松井まつい大将たいしょうが)家具かぐ問題もんだいなんだかけちけちしたことを須愚須りたれば、くに人命じんめいるのに家具かぐ師団しだんかえなにかあらん、これのこしてきたりとて何人なんにんよろこぶものあらんとつっぱねてきたり」とべている[9]
  • 田中たなか隆吉りゅうきち憲兵けんぺいたい統括とうかつする兵務へいむ課長かちょう、さらに兵務へいむきょく局長きょくちょう太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう東条とうじょう首相しゅしょう当時とうじつとめる。そのさい各種かくしゅ報告ほうこくしょたという。また、陸軍りくぐんない人脈じんみゃくひろい。双極そうきょくせい障害しょうがいがあり、その症状しょうじょうとしてられることがあるとされる驚異きょういてき記憶きおくりょくつ。東京とうきょう裁判さいばんそなえたGHQ検察けんさつきょく尋問じんもんで、南京なんきん事件じけん当時とうじそう司令しれいかんである松井まつい大将たいしょうがやめさせようとしたがかれちからではできなかったので責任せきにんわねばならないだろうとかたっていたこと中島なかじま今朝けさわれ中将ちゅうじょう蒋介石しょうかいせき住居じゅうきょから大量たいりょう財宝ざいほうかえったことを調査ちょうさしたこと佐々木ささきいたいち中将ちゅうじょうだれよりもひどい人物じんぶつだったとおもこと、そのたに壽夫としお中将ちゅうじょう柳川やながわ中将ちゅうじょうぐん朝香あさかみやぐん問題もんだいのあったものとしてげて、証言しょうげんしている[10]
  • 佐々木ささきいたいちは、南京なんきん攻略こうりゃく中島なかじま今朝けさわれ中将ちゅうじょう麾下きか歩兵ほへいだい30旅団りょだんちょう(当時とうじ少将しょうしょう)をつとめる。中島なかじま今朝けさわれ日記にっきもんで1まん5せんにん処分しょぶんしたことをいたとかれた人物じんぶつ南京なんきん警備けいび司令しれいかんとなり、南京なんきん城内じょうのうち敗残はいざんへい剔抉てっけつ担当たんとう本人ほんにんいたものによれば、12月22にち粛清しゅくせい委員いいんちょうとなり、24にち査問さもん開始かいし、1がつ5にちまでつづ[11]敗残はいざんへいばかりでなく、些細ささい理由りゆう根拠こんきょたんなる住民じゅうみん難民なんみん多数たすう剔抉てっけつされられたが、その無事ぶじかえらされたもの少数しょうすうとされる。南京なんきん全体ぜんたいでの大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ証言しょうげんおおく、佐々木ささきによる剔抉てっけつもはじめから殺害さつがい予定よていであったケースがほとんどであったことうたがわれるが、ものおこなった虐殺ぎゃくさつとの区別くべつ困難こんなんである。らえられたものたちの裁判さいばんおこなわれた記録きろくすくない。敗戦はいせんとともに、ぐん政府せいふ命令めいれいで、南京なんきんにおいても関係かんけいしょ機関きかん資料しりょう証拠しょうこ隠滅いんめつのため廃棄はいき焼却しょうきゃくされたために、文書ぶんしょかたちでの物証ぶっしょうほとんのこっていないが、ぎゃくかれ措置そち問題もんだいなかったことしめ資料しりょうほとんどない。憲兵けんぺい統括とうかつする兵務へいむはたけなが田中たなか隆吉りゅうきちは、GHQ検察けんさつきょく尋問じんもんたいし、佐々木ささきだれよりもひどい人物じんぶつだったとおもうとこたえている[10]佐々木ささき死後しご遺族いぞくのもとにあった遺稿いこう出版しゅっぱんされた。(本人ほんにん回想かいそう自伝じでん通常つうじょうかいされているが、厳密げんみつにいえば、回想かいそう日記にっきからだふう自伝じでんてき小説しょうせつからない。)そのなかでは、南京なんきん攻略こうりゃくせん戦闘せんとう激昂げっこうした兵士へいし降伏ごうぶくしてきたてきへい上官じょうかん制止せいしかずころした事件じけんのことや、南京なんきん陥落かんらく査問さもんとうによる拘束こうそくしゃについては”収容しゅうよう”というかたり使つかっているが、しろがい近郊きんこう捕捉ほそくした敗残はいざんへいについては下関しものせきなんせんにん処分しょぶん”した[11]いている。
  • はた俊六しゅんろく(松井まついいし後任こうにんちゅうささえ派遣はけんぐん司令しれいかん事件じけん当時とうじ陸軍りくぐん教育きょういく総監そうかん)は、日誌にっしの1938ねん1がつ29にち箇所かしょに、「ささえ派遣はけんぐん作戦さくせん一段落いちだんらくとも軍紀ぐんき風紀ふうきようや頽廃たいはい掠奪りゃくだつ強姦ごうかんるいまことはしき行為こういすくなからざるようなれば、召集しょうしゅうきさき備役しゃ現役げんえきへい交代こうたいせしめ、また松井まつい大将たいしょう現役げんえきしゃに、またぐん司令しれいかん師団しだん長等ながら召集しょうしゅうしゃ逐次ちくじ現役げんえきしゃ交代こうたいせしむるの必要ひつようあり」と、松井まつい司令しれいかん更迭こうてつ杉山すぎやまもと陸相りくしょう進言しんげんしたことがかれている[12]。なお、はたけ自身じしん表向おもてむきには、東京とうきょう裁判さいばん南京なんきん事件じけんについて「ゆめにもかんがえていなかつた。南京なんきん到着とうちゃくしてみても、なんの痕跡こんせきもなかつたし、ひとみみにもいれつていない。ところが、裁判さいばんはじまると虐殺ぎゃくさつ証拠しょうこやまのようにされた。」とべて、自身じしん事件じけん頬被ほおかむりしていたことを誤魔化ごまかしたうえで、「いまにしておもえば、虐殺ぎゃくさつ若干じゃっかんおこなわれたことをわたしみとめている。掠奪りゃくだつもたしかにおこなわれていた。」として、これらの証拠しょうこ全体ぜんたいとしてはあやまりではないことを事実じじつじょうみとめている。
  • 小川おがわせき次郎じろうだいじゅうぐん(柳川やながわ兵団へいだん)に同行どうこうした法務ほうむかん。その陣中じんちゅう日記にっきには、上海しゃんはいから南京なんきんおよ以降いこうにおける日本にっぽんへいおこなった暴行ぼうこう窃取せっしゅ掠奪りゃくだつ強姦ごうかん殺人さつじん放火ほうかまた日本にっぽんぐん内部ないぶでは上官じょうかん脅迫きょうはくしるされている。事態じたい憂慮ゆうりょしつつも、とくに南京なんきんあたりからは個人こじん判断はんだんとして強姦ごうかん悪質あくしつなものをのぞいてさばかないことにした(このため憲兵けんぺいからは苦情くじょうけている)とう記述きじゅつえる。短期間たんきかんいた南京なんきん自体じたいでは裁判さいばんについてれられていないが、南京なんきん出立しゅったつかれした送致そうちされてくる事件じけんおこなったさきでの事件じけん南京なんきんからっておくられてきた事件じけん不明ふめいである。また、南京なんきんへの途上とじょう度々たびたび国際こくさい問題もんだいになることをおそれて証拠しょうこ隠滅いんめつさくこうじることを献策けんさくしている[13]
  • もと教育きょういく総監そうかん真崎まさき三郎さぶろう大将たいしょうは、上海しゃんはい派遣はけんぐん視察しさつしてきた衆院しゅういん議員ぎいん江藤えとう源九郎げんくろう予備よびやく少将しょうしょう報告ほうこくき、1938ねん1がつ28にち日記にっきに「軍紀ぐんき風紀ふうき退廃たいはいし、これをなおさざれば真面目まじめ戦闘せんとうえずということに帰着きちゃくせり。強盗ごうとう強姦ごうかん掠奪りゃくだつくにしのべびざるものありたり」としるしている[12]
  • 航空こうくう兵団へいだん所属しょぞく田中たなか大尉たいいよりの通信つうしん下関しものせき揚子江ようすこう突出とっしゅつしてゐる桟橋さんばしはしで、捕虜ほりょ敗残はいざんへい斬殺ざんさつおよ銃殺じゅうさつ処分しょぶんしているところたとし、かわには「あるあるくびのないやつくびばかりのやつなんひゃくきつしずみつしています」と、当時とうじ極秘ごくひあつかいとされた文書ぶんしょべている[14]
  • はた賢介けんすけ1957ねん山田やまだ支隊したい幕府ばくふやまで2まんにん捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつしたといた[15][16]ただし、両角もろずみ連隊れんたいちょう当人とうにん現場げんばにいなかったものの福島民友新聞ふくしまみんゆうしんぶん郷土きょうど部隊ぶたい戦記せんき」でこれは暴動ぼうどうのような状態じょうたいになったため自衛じえい発砲はっぽうであったと反論はんろんしている[16]山田やまだ支隊したい従軍じゅうぐんした福島ふくしまみんほう箭内やないただし五郎ごろうは、当時とうじはた賢介けんすけ南京なんきんにも上海しゃんはいにもおこなっていないので、戦後せんご兵隊へいたい酒飲さけのばなしはなしたことをいたのだろうとべている[16]鈴木すずきあきらはた賢介けんすけぶんはフィクションであるとし[17][16]本多ほんだ勝一かついちも「不正確ふせいかく伝聞でんぶん」とひょう[18]板倉いたくら由明よしあきはた賢介けんすけは「ニセ証言しょうげんしゃ」と否定ひていした[19]。(ただし、小野おの賢二けんじ当時とうじ兵士へいし取材しゅざいした研究けんきゅうによれば、はじめから処刑しょけいのための準備じゅんびがなされていたとする。また、清水しみずきよし調査ちょうさによれば、両角もろずみ連隊れんたいちょう主張しゅちょう戦後せんごだいぶってから加害かがいしゃがわ自己じこ弁護べんごとしていいだされたものであり、自衛じえい発砲はっぽうせつほうむし信頼しんらいできないせつとされている[20]。)
  • 田所たどころ耕三こうぞう1971ねんに『アサヒ芸能げいのう』で、「わたしらは下関しものせき南京なんきん城西じょうさい北端ほくたん船着場ふなつきば)にいた。鉄条てつじょうもう鉄条てつじょうはずして、つかまえた連中れんちゅうじゅうにんぐらいずつたばにして、げたにげてあぶらをかけてやしちゃった。(りゃくおんな一番いちばん被害ひがいしゃだったな。年寄としよりからなにから全部ぜんぶやっちまった。トラックで部落ぶらくりつけて、おんなどもを略奪りゃくだつして兵隊へいたいにわける。兵隊へいたいじゅうにんからじゅうにんおんなひとり。ささえおんな技術ぎじゅつはうまいね。ころされたくないから必死ひっしなんだろうけど、なかなかいい」「せしめのため捕虜ほりょきずつけることもやった。みみぎとる。はなをけずる。くちなか帯剣たいけんんでひらく。した帯剣たいけんよこにしてむと、うおのようなドロリとしたしろいものがすんくらいれる。こんなことでもやらないと、ほかにたのしみがない。上陸じょうりく以来いらいひさしぶりの遊戯ゆうぎなんだから。将校しょうこうらんぷりをしていたな」と証言しょうげん[21][22]。その田所たどころ証言しょうげんほら富雄とみおアイリス・チャン[23]本宮もとみやひろこころざしの『くにえる』で引用いんようされた。またニューズウィーク1997ねん11月30にち田所たどころ証言しょうげんだい114師団しだん)を紹介しょうかいしながら、1971ねんインド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつでのパキスタンぐん兵士へいしによるベンガル女性じょせいへの集団しゅうだんレイプをのぞくならば、南京なんきん事件じけんでの集団しゅうだんレイプは世界せかい史上しじょう最大さいだいだったと主張しゅちょうした[24]。しかし、板倉いたくら由明よしあきによれば、水戸みと兵士へいしならだい102連隊れんたい下関しものせきまではおこなっていないし、また数日すうじつには南京なんきんから転進てんしんしており、証言しょうげん信憑しんぴょうせいがないとして「ニセ証言しょうげんしゃ」であると主張しゅちょうした[25]。ただし、兵士へいしたちが時間じかんいたようなときに部隊ぶたい管轄かんかつする地域ちいきにもあそびでくようなことがよくあることは佐々木ささきたおせいち私記しきでもかれている。おもね健一けんいち主張しゅちょうでは、のちかれ田所たどころ面会めんかいすると「(ルポライターが)南京なんきんでの残忍ざんにんはなし執心しゅうしんするので、しばらくして南京なんきんでのつくばなしをしてやると、ルポライターはいろえてそれらをめだした。その態度たいどて、わたしはいっそうふくらましてはなしをした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言しょうげんで、わたし自身じしん城内じょうないはいってもいなければ、下関しものせきにもおこなっていない。あのはなしはまったくのウソなのだ」とったとする[26]
  • 赤星あかほし義雄よしお歩兵ほへい13連隊れんたい二等兵にとうへい)は1979ねん創価学会そうかがっかい青年せいねん反戦はんせん出版しゅっぱん委員いいんかいほんで、14にち下関しものせき揚子江ようすこうがんで「ひろ川幅かわはばいっぱいに、かぞれないほどの死体したい浮遊ふゆうし」「5まんにん以上いじょう」「ほとんどが民間みんかんじん死体したい」がながれていた、と証言しょうげん[27]板倉いたくら由明よしあきは、流速りゅうそく時速じそくすうキロとみて数時間すうじかんたてば南京なんきんからられなくなる。みずにごっており一部いちぶしか水面すいめんじょうていない水死すいしたい遠望えんぼうして軍民ぐんみんべつ年齢ねんれいなどがほどけかるわけがない。下関しものせき中国ちゅうごくぐんによってはらわれ住民じゅうみん避難ひなんしていたとおもわれる、城門じょうもんは9にち閉鎖へいさされ住民じゅうみん出入でいりできない状態じょうたいだった。揚子江ようすこうじょうにいたべいえいにち艦船かんせん連絡れんらくせん乗組のりくみいん便乗びんじょう新聞しんぶん記者きしゃ碇泊ていはくじょう司令しれい日記にっきにはこのような記録きろくがない、ひとし疑問ぎもんてんげた[28]。(たいして、あまりに死体したいおお屡々しばしばからって停滞ていたいすることはかんがえられるまた虐殺ぎゃくさつつづからつぎへと大量たいりょう死体したいながされていた可能かのうせいがある、下関しものせきはもともと揚子江ようすこうわたろうとしていた住民じゅうみん殺到さっとうしていたし建物たてものとうは12にちでも半分はんぶん程度ていどしかはらわれていなかった、他国たこく艦船かんせん上流じょうりゅう避難ひなんしておりおくれて南京なんきんもどっているひとしてん無視むしされていることが指摘してきしうる。)
  • 高城たかぎ守一しゅいち (輜重しちょう6連隊れんたい小隊しょうたいちょう)もどう創価学会そうかがっかい青年せいねん反戦はんせん出版しゅっぱん委員いいんかいほん[27]で、南京なんきんに2にちいた。1937ねん12月14にち下関しものせき(シャーカン)の兵站へいたんまで物資ぶっしりにった。下関しものせきにはすうせき輸送ゆそうせん護衛ごえいかんえた。揚子江ようすこうに「民間みんかんじんおもわれる累々るいるいたる死体したいかび」「じゅうめい前後ぜんこうのクーリーが射殺しゃさつされるのを目撃もくげきした」「おびただしい糧秣りょうまつ揚陸ようりくされていた」と証言しょうげん。しかし、板倉いたくらは、軍艦ぐんかん突入とつにゅうが12月13にち1540ふんで、「軍艦ぐんかん以外いがい貨物かもつせんなどが南京なんきんまで運航うんこうするのは、機雷きらい除去じょきょすすんだ18にち以降いこうであり、14にちというのはおかしい」と批判ひはん[29]。(しかし、当時とうじ新聞しんぶん記事きじによれば軍艦ぐんかんが13にちゆうには下関しものせきあたりにており、記者きしゃがどの程度ていど実態じったい把握はあくしうるかはともかくとして、それは機雷きらい除去じょきょ順調じゅんちょうたして遡上そじょうし、いたものとされている。そもそも機雷きらい除去じょきょんだのは18にち乃至ないしその直前ちょくぜんとすることになん根拠こんきょげておらず、自身じしん結論けつろんわせて勝手かってつくった自説じせつおもわれる。)
  • 中川なかがわ誠一郎せいいちろう(仮名かめい野砲やほうろく連隊れんたい) もどう創価学会そうかがっかい青年せいねん反戦はんせん出版しゅっぱん委員いいんかいほん[27]中華ちゅうかもん攻撃こうげきくわわり陥落かんらく、「南京なんきんじょう素通すどおりして、ただちにかぶらみずうみへとかった」「途中とちゅう下関しものせきで、延々のびのび黒焦くろこげのなんひゃくだいという自動車じどうしゃなんひゃくにんにのぼる住民じゅうみん死体したいた」「『このにくもうまいぞ』とされたにく何人なんにんかのへいべた」「それは中国ちゅうごくへい大腿だいたいにくだったとあとかされた」、とひと肉食にくしょく証言しょうげんした。はたいくはこの証言しょうげんしゃの「ろう農夫のうふをなぐりころしたシーンもた」「ひゃくにんちか敗残はいざんへい・・・“捕虜ほりょをつれてせんができるか”と一喝いっかつされ、数日すうじつ皆殺みなごろしにしたとかされた」との回想かいそうを、下関しものせき釈放しゃくほう捕虜ほりょすえだった可能かのうせいたかいとして採用さいよう[30]中華ちゅうかもん南京なんきんじょう南端なんたんで、かぶらみずうみ南京なんきん南南西なんなんせい90キロあたりにある。下関しものせき南京なんきん北西ほくせいはしじょうがいであるため、もし素通すどおりしていれば下関しものせきとおらない。応召おうしょうほう取扱とりあつか訓練くんれんずに6にちには分隊ぶんたいちょうとなり、かぶらみずうみでは野砲やほうはな宣撫せんぶはん班長はんちょうになったと、ぐんれきはやや不自然ふしぜんである(ただし、元々もともとへいれき記載きさいい。)。
  • 中山なかやま重夫しげお陸軍りくぐん戦車せんしゃたい上等じょうとうへい修理しゅうりへい)は、1984ねん6月23にち朝日新聞あさひしんぶんで「南京なんきん入城にゅうじょうの2にちまえ郊外こうがいあめ花台かだいで」「白旗はっきかかげて中国人ちゅうごくじんごううえすわらせては、日本にっぽんへい次々つぎつぎ銃剣じゅうけんころしていく。いちとっきではれずくるしんでいるひと軍靴ぐんかごうにけとしてはをかける。年寄としよりであろうが、どもであろうが見境みさかいなしのさつりくがつづいた」「4あいだあまりも凝視ぎょうししていた」と証言しょうげん戦争せんそうかたとして記録きろく映画えいがなども紹介しょうかいされた[31][32]。しかし、そのうねもと正巳まさみ板倉いたくら由明よしあき調査ちょうさで、中山なかやま所属しょぞくしていた戦車せんしゃだいいち大隊だいたいいわなか義治よしはる大佐たいさ)はちゅう山門さんもん正面しょうめん戦闘せんとうをしており、あめ花台かだい目撃もくげきすることは場所ばしょてきにも時間じかんてきにも不可能ふかのうではないかとの指摘してきがあった[33][32]。また田中たなか正明まさあき朝日新聞あさひしんぶん事実じじつ確認かくにん依頼いらいすると拒絶きょぜつされた[32]
  • 曽根そね一夫かずお1984ねんころ手記しゅきで、分隊ぶんたいちょうとして面子めんつから捕虜ほりょ斬首ざんしゅをした、分隊ぶんたい先頭せんとう決死けっし渡河とかをした、分隊ぶんたいいんひき掠奪りゃくだつ、(分隊ぶんたいいんのちで)輪姦りんかん殺人さつじんをした、等々とうとうしる[34]笠原かさはらじゅうきゅうつかさ執筆しっぴつした教科書きょうかしょ世界せかいB』(平成へいせい5ねん検定けんてい)は曽根そね文章ぶんしょうぶんき、“掠奪りゃくだつ”はぐん命令めいれいだった[35]とした。板倉いたくら原本げんぽん提示ていじ要求ようきゅうしたが、笠原かさはらいちきょう出版しゅっぱん無視むしした[36]板倉いたくら文部省もんぶしょう改定かいてい要求ようきゅうし、『諸君しょくん!』に論考ろんこう発表はっぴょうするなどかく方面ほうめんはたらきかけて、出版しゅっぱんがわは「命令めいれい」が曽根そねほんからの引用いんようであることをみとめ、内容ないよう修正しゅうせいされた[37]
    もともと曽根そね一夫かずお戦友せんゆう名誉めいよまもるためとして所属しょぞく部隊ぶたいについてはかしていなかった[38]板倉いたくら由明よしあきによれば、曽根そね取材しゅざいことわられたことから調査ちょうさおこない、その結果けっか曽根そね手記しゅきにあるような歩兵ほへいたい分隊ぶんたいちょうではなく砲兵ほうへいたい馭者ぎょしゃであったとする。ただし、その調査ちょうさ戦友せんゆうかい名簿めいぼから曽根そねおな(アザ)出身しゅっしんの6めいたずね2めいから曽根そね歩兵ほへいではなく砲兵ほうへいいた[38]べつルートからもその人物じんぶつひとえた[38]というものだが、板倉いたくら自身じしんがこの地域ちいき曽根そねせいおおいことをべており[38]かれらの曽根そねたして問題もんだい曽根そね一夫かずおであるのか、たんなる同姓どうせい同名どうめいではないのか、判然はんぜんとしない。この当時とうじ一般いっぱん第三者だいさんしゃによる住民じゅうみんひょう調査ちょうさたいして自治体じちたい規制きせいゆるやかであったころだが、板倉いたくら曽根そね親族しんぞくとうへの確認かくにんおこなった形跡けいせきはない。板倉いたくら当時とうじ曽根そね写真しゃしん襟章えりしょうしろっぽくえるところから、砲兵ほうへい襟章えりしょう黄色きいろであるためで曽根そね砲兵ほうへいであったことは間違まちがいないとしている[38]。その一方いっぽうで、板倉いたくら自身じしんが、連隊れんたいにいたもと兵士へいしから提供ていきょうされた昭和しょうわ13ねん編制へんせいひょうでは曽根そね一夫かずお観測かんそくはん徒歩とほ通信つうしんしゅとなっていたとし、これらのちがいを放置ほうちしている。この時期じき曽根そね自身じしん体調たいちょうくずして入院にゅういんの儘くなったともいわれ、本人ほんにん乃至ないしその親族しんぞくへの確認かくにんはない儘となっている。
    また板倉いたくらは、曽根そね身元みもとだけでなく手記しゅき内容ないようそのものも否定ひていし、馭者ぎょしゃである曽根そね南京なんきんあたりであまり出歩であるくことがあるとはかんがえられず掠奪りゃくだつなどありえないとする。そのあかしとして、たとえば曽根そね南京なんきんひかりはなもんつじ街角まちかどいているが、此のあたりに人家じんかなどいからこれを虚偽きょぎとする。ただし、板倉いたくら清野きよの戦術せんじゅつ(焦土しょうど戦術せんじゅつ)で人家じんかはらわれたことを人家じんかがなかった根拠こんきょとするものだが、むしろ曽根そねあとてそれらをつじ街角まちかどだとべている。また、板倉いたくら曽根そね死体したい散乱さんらんしていたとべていることにたいし、清野きよの戦術せんじゅつひとはらわれていたから死体したいがあるはずがないとしている。これは近郊きんこう農民のうみんすべ清野きよの戦術せんじゅつされ南京なんきん城内じょうのうち安全あんぜんすべんだはずだとする板倉いたくら本人ほんにん自説じせつもとづく主張しゅちょうであり、南京なんきんじょうがいには通常つうじょう農民のうみん居住きょじゅうしゃはもとより、むし城内きうちからのがてきた市民しみん、また地域ちいきから日本にっぽんぐんのがれて流入りゅうにゅうしてきた難民なんみん多数たすういて、南京なんきんじょうがいにもいくつかの難民なんみん集落しゅうらくさえあった事実じじつ無視むししている[38]
    また、日本にっぽんぐん補給ほきゅう無視むしして南京なんきん進軍しんぐんしたことが糧秣りょうまつける現地げんち部隊ぶたい掠奪りゃくだつやそれにともな非行ひこうまね南京なんきんでのぐん非行ひこうつながったとする曽根そね主張しゅちょうたいし、板倉いたくら当時とうじ兵士へいし日記にっきとう根拠こんきょ南京なんきんけて出発しゅっぱつした当初とうしょの11月なかごろ時期じき補給ほきゅう最悪さいあくでその改善かいぜんされており、曽根そね説明せつめい糧秣りょうまつ欠乏けつぼう時期じき半月はんつきずらされており[39]虚偽きょぎとする。しかし、ぐん中央ちゅうおういのちそむいて事前じぜん計画けいかくかった南京なんきん進軍しんぐんはじめながら補給ほきゅう改善かいぜんされるとはかんがえにくく、まさに曽根そねべるとおりに、南京なんきん進軍しんぐん途上とじょうのあらたな土地とちでの掠奪りゃくだつにより補給ほきゅうじょうきょう改善かいぜんされた可能かのうせいたかく、実際じっさいに、『だいきゅう師団しだん戦史せんし』にほとん糧秣りょうまつ補給ほきゅうけることなく、もっぱ現地げんち調達ちょうたつ物資ぶっしだけにたよって追撃ついげき実施じっししなければならなかったこと[40][41]や、山砲さんぽうへいだい19連隊れんたいのある兵士へいし日記にっきには16にちから中国人ちゅうごくじん家屋かおくから徴発ちょうはつはじめ、25にちにはさけ掠奪りゃくだつができることをよろこものるまでになっていることがかれている[42]
    さらに、板倉いたくらは、曽根そね糧秣りょうまつ受取うけとり下関しものせき地区ちくったさい南京なんきん城内じょうのうちななめに突切って目的もくてきにまっすぐかわずに城壁じょうへき外側そとがわ沿ってわざわざ北回きたまわりに下関しものせきったこと、帰路きろ下流かりゅうがわ迂回うかいしてさらに遠回とおまわりでかえったことを理由りゆうに、手記しゅきいつわ[38]としている。が、曽根そね手書てがきの地図ちずわたされただけで、南京なんきん城内じょうのうち道路どうろ多数たすう存在そんざいするもん位置いち関係かんけいかっているわけではなく、確実かくじつ下関しものせきこうとすればむし城壁じょうへき沿ってくのが自然しぜんである。また、往路おうろけた瓦礫がれき道路どうろにもらばりすすみにくかったとあり、荷物にもつえた帰路きろはそれをけたものと、普通ふつう手記しゅき理解りかい可能かのうである。また、板倉いたくら糧秣りょうまつ受領じゅりょう輜重しちょう主計しゅけいだい行李こうりなどの仕事しごとであり事件じけん当時とうじほかものにも糧秣りょうまつ受領じゅりょうたものはいなかったとしているが、ぎゃく曽根そね馭者ぎょしゃであったならば輜重しちょう部隊ぶたいから協力きょうりょくもとめられた可能かのうせいもある。さき編制へんせいひょうでの通信つうしんしゅとの記載きさいちがいなどもあり、たしかな人事じんじうごきやこの時期じきあつかいについての確認かくにん必要ひつようである。
    板倉いたくら曽根そね糧秣りょうまつ受取うけとりかん下関しものせき兵站へいたん基地きちになったのは12月下旬げじゅん以降いこうであるからいつわ[38]とするが、もともと下関しものせき水上すいじょう交通こうつう主体しゅたいとはいえ物資ぶっし集積しゅうせきであり倉庫そうことう蝟集いしゅうし、以前いぜんからの中国ちゅうごくがわ物資ぶっし日本にっぽんぐんすで陸路りくろはこんだ物資ぶっし集積しゅうせきされていた可能かのうせいがある。米人べいじん記者きしゃダーディンによれば12にち段階だんかい下関しものせき施設しせつ清野きよの戦術せんじゅつによるはらいにもかかわらず、まだ半分はんぶん程度ていどのこっていたとされる[43]げんに、のちにマギー神父しんぷ下関しものせきのこ外国がいこくじん資産しさん現地げんちじん資産しさん区分くぶんのため、下関しものせきへの同行どうこう日本にっぽんがわからもとめられている[44]。また、下関しものせき水上すいじょう輸送ゆそう回復かいふくしたのは12月下旬げじゅん以降いこうとするせつは、あくまで後記こうき梶谷かじたに日記にっきにあるように、あきらかに下関しものせき地区ちくにおける死体したい片付かたづけの終了しゅうりょう、18にち停泊ていはくじょう看板かんばんげをし、その本格ほんかく稼働かどうしたとかんがえられるためであるが、板倉いたくら特段とくだん根拠こんきょなくそれまでは機雷きらい除去じょきょがすんでいなかったという前提ぜんていもうけて、それゆえ下関しものせき地区ちく艦艇かんてい機雷きらい強行きょうこう突破とっぱしかまわずていても商船しょうせんまったていなかったはずという自説じせつもとづく主張しゅちょうをしている[45]実際じっさいには、たびたび揚子江ようすこうがん下関しものせきでは捕虜ほりょ処刑しょけいてき死体したいみがおこなわれており、後記こうき太田おおた供述きょうじゅつ梶谷かじたに日記にっきられるように、12月下旬げじゅん以前いぜんから死体したい片付かたづけと一部いちぶ水上すいじょう輸送ゆそう度々たびたびかえしており、また、近辺きんぺん商船しょうせん待機たいきしていた可能かのうせいたかい。げんに、太田おおた日記にっきでは商船しょうせん便乗びんじょうして、太田おおたはいったん15にちゆう下関しものせきている。また、当時とうじ新聞しんぶん報道ほうどうからは、海軍かいぐんによる機雷きらい除去じょきょ水上すいじょう封鎖ふうさ除去じょきょは13にち南京なんきん到着とうちゃくまでに順調じゅんちょうすすんでいるようにえる。そのほかには、下関しものせきだい虐殺ぎゃくさつ[46]戦友せんゆう残虐ざんぎゃくだん部落ぶらく襲撃しゅうげきもその戦友せんゆうらは否定ひていしている[47]日記にっき創作そうさくであった[48]とする。
    一方いっぽうで、はたいくは「ほぼ(事態じたい解明かいめいしたいとの)要望ようぼうこたえてくれる絶好ぜっこう証言しょうげん記録きろく」として評価ひょうか[49]」、の「伝聞でんぶん[50]」でなく曽根そね手記しゅきから捕虜ほりょ殺害さつがいれい[51]むらさき金山かなやま付近ふきん住民じゅうみん殺害さつがい[52]、クーニャン[53]残虐ざんぎゃく行為こういしんてき要因よういん[50]引用いんようした。板倉いたくら由明よしあきはた曽根そね手記しゅきぜん削除さくじょ要求ようきゅうした[54]
  • あずま史郎しろう1987ねんころ日記にっき日本にっぽん共産党きょうさんとう新聞しんぶん赤旗あかはた連載れんさいし、自著じちょ『わが南京なんきんプラトーン―いち召集しょうしゅうへい体験たいけんした南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ』を刊行かんこう[55]証言しょうげんでは、1938ねん1がつ23にち南京なんきん転出てんしゅつのため立寄たちよった下関しものせきおぼしき波止場はとばで、なぎさにてきへい死体したいやまとなってころがっており、毎日まいにちトラックで敗残はいざんへいんできたやつかわなかとしころすのだと、その兵士へいしからいた。
    産経新聞さんけいしんぶんによると、かくれているおんなつけるとおかした、1人ひとりではなく5にんおかした、そのころし、をつけてやした、罪悪ざいあくかんはなかった、上官じょうかんもと陸軍りくぐんだい16師団しだん歩兵ほへいだい20連隊れんたい伍長ごちょうが「中国人ちゅうごくじん郵便ゆうびんぶくろなかれ、ガソリンをかけてをつけ、手榴弾しゅりゅうだんふくろのひもにむすびつけてぬまなかにほうりんだ」と証言しょうげんした[56]とされる。しかし、もと上官じょうかんから名誉めいよ棄損きそん提訴ていそされた。1993ねん笠原かさはらじゅうきゅうつかさあずま史郎しろう手記しゅきから農民のうみん虐殺ぎゃくさつについて教科書きょうかしょ世界せかいB』に引用いんようしていた[57]が、上杉うえすぎ千年ちとし出版しゅっぱんしゃたいし、出典しゅってんしめせ、裁判さいばん係争けいそうちゅうひがし日記にっきからの引用いんようであれば不適切ふてきせつだと主張しゅちょう[58]し、さらに、板倉いたくら出版しゅっぱんしゃに8かい以上いじょうのファックスや電話でんわで「勝手かってにデモでもかけなければだめか」とつたえ、教科書きょうかしょ編者へんしゃ笠原かさはらじゅうきゅうには「こちらから出向でむく」と簡易かんい書留かきとめおくったという[59]板倉いたくらは、停泊ていはくじょう司令しれいは12月28にちまでに港湾こうわん死体したい処理しょりわらせた[60]敗残はいざんへい掃蕩そうとうだい便衣べんいりが1がつ5にち完了かんりょうしている[61]という自説じせつもとづいて、あずま史郎しろう証言しょうげんをその内容ないよう抵触ていしょくするため事実じじつはんするものと主張しゅちょうした。前記ぜんき名誉めいよ棄損きそん裁判さいばん批判ひはんてき立場たちばものからは、もともと日記にっき仮名かめいかれており、当人とうにんされる人物じんぶつ無関心むかんしんであったところ、板倉いたくら自身じしんくわわった周辺しゅうへんものすすめによって、裁判さいばん自体じたいこされており、前記ぜんき教科書きょうかしょ内容ないよう真偽しんぎをめぐる裁判さいばん係争けいそうちゅうであると抗議こうぎして、内容ないようえさせる目的もくてきであり、裁判さいばん藉口しゃこうして言論げんろん表現ひょうげん出版しゅっぱん自由じゆう妨害ぼうがいしようとするためのマッチポンプだとして批判ひはんされた[59]板倉いたくらは、教科書きょうかしょちゅう証言しょうげん内容ないよう引用いんようを、自説じせつ前提ぜんていに、検証けんしょうなき引用いんよう[62]主張しゅちょうした。もととなったあずま史郎しろう手記しゅき戦後せんご本人ほんにん浄書じょうしょしたもので原本げんぽん紛失ふんしつしていた。板倉いたくらはこれを何故なぜ浄書じょうしょなどしたのか、改竄かいざんひとしい行為こうい非難ひなんした。これにたいし、本人ほんにん浄書じょうしょするのが何故なぜいけないのか、松井まつい大将たいしょう裁判さいばん準備じゅんびよう自身じしん日記にっきをまとめていた、それをも非難ひなんするのかとの反論はんろんを、板倉いたくらひがし支持しじしゃらからけた。さらに、板倉いたくら裁判さいばんにあたって、南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつかったことやあずま史郎しろう手記しゅきあやまりを証明しょうめいできる別人べつじん資料しりょう発見はっけんされた、これが裁判さいばんこすとなったとして雑誌ざっしとう喧伝けんでんしていた[63]。しかし、原告げんこくがわは、東側ひがしがわからこの資料しりょう不審ふしんてん指摘してきされ、説明せつめいができなくなり、抄録しょうろくについてはものがまとめなおしたものであることを原告げんこくがわみとめるにいたった[59]。さらに、そのおおもととなるもと日記にっき原本げんぽん自体じたいも、裁判さいばんまえ関係かんけいしゃあいだでやりりされるあいだ紛失ふんしつしていたことがひがし支持しじしゃがわから日記にっきへのインタビューによりあきらかにされた[59]。しかし、教科書きょうかしょ自体じたい抗議こうぎけて、ひがし支持しじしゃらのいうところによれば、"板倉いたくらねらどおりに"内容ないようえられた[59]名誉めいよ棄損きそん裁判さいばん自体じたいは、南京なんきん虐殺ぎゃくさつ自体じたい裁判所さいばんしょ判断はんだんするところのものではないとされ、しんまでに、上官じょうかんがやったという、ふゆふく人間にんげん郵便ゆうびんぶくろれての殺害さつがい物理ぶつりてき不可能ふかのうであり、日記にっきすうねんいたもので、もと手記しゅき本当ほんとうにあったものかうたがわしいと判断はんだんされ、被告ひこくがわ上訴じょうそしたものの損害そんがい賠償ばいしょう最高裁さいこうさい確定かくていした[56]。これについては、厚手あつでふゆふくとはいえ大型おおがた郵便ゆうびんぶくろれられないとはかぎらないという批判ひはんほかに、なぜもと手記しゅき存在そんざいまで否定ひていするのか、原告げんこくがわですらそこまでは主張しゅちょうしておらず、さすがにこれは法的ほうてきにも最高裁さいこうさいいさあしではないかとの批判ひはん、さらには、から現物げんぶつ発見はっけんされでもすれば裁判所さいばんしょにとってもいいはじざらしではないかとのこえたという。その中国ちゅうごくがわ研究けんきゅうしゃ日記にっき内容ないよう検証けんしょう、そこにかれた習俗しゅうぞく実際じっさい現地げんち存在そんざいしていること確認かくにんすくなくとももととなる手記しゅき存在そんざいしたことは間違まちがいないだろうとしている。ひがし訪中ほうちゅうするたびに、周囲しゅうい圧力あつりょくがえして真実しんじつみとめた英雄えいゆうとして各地かくち歓迎かんげい[64]、アメリカでも2015ねん、カリフォルニアしゅう公立こうりつ高校こうこう世界せかい授業じゅぎょうひがし証言しょうげん教材きょうざいとして使用しようされている[56]
  • 太田おおた寿男としおなでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょで1954ねん供述きょうじゅつした内容ないよう1990ねん報道ほうどうされた。(産経新聞さんけいしんぶん1990ねん9がつ4にち毎日新聞まいにちしんぶん1990ねん12月14にち夕刊ゆうかん[65]) 。供述きょうじゅつでは、A少佐しょうさ昭和しょうわ12ねん12月14にちから15にちまで下関しものせき死体したい処理しょり作業さぎょうたずさわり6.5まん死体したいのうち3.5まんにん揚子江ようすこうながし、3まんたい対岸たいがん焼却しょうきゃく太田おおたは16にちから18にちまで1.9まんにん、A少佐しょうさは1.6まん死体したいながした。南京なんきん碇泊ていはくじょう司令しれいが14まんから18にちまでに処理しょりした死体したいは10まんにん産経新聞さんけいしんぶん)[66]どう司令しれい以外いがい南京なんきん攻略こうりゃく部隊ぶたいによる5まんにん死体したい処理しょり合計ごうけいすると15まん死体したい処理しょりした[65]とする。
    毎日新聞まいにちしんぶんは、供述きょうじゅつ事実じじつなら、中国ちゅうごくがわ「15まん5せんあまり」とわせ「南京なんきんだい屠殺とさつ30まん」が証明しょうめいされることになり、『おかせはなぐん南京なんきんだい屠殺とさつ稿こう要旨ようしせたとほうじた[65]。これにたいして、板倉いたくら由明よしあき梶谷かじたに日記にっきの12月25にちに「つねじゅくより太田おおた少佐しょうさがいる」とあり、板倉いたくらはこれを太田おおた少佐しょうさがそれまで現場げんばである下関しものせきまったくいなかったものとかんがえ、したがって太田おおた少佐しょうさには死体したい処理しょりかかわっていないアリバイがあるとして、太田おおた戦犯せんぱん管理かんりしょ中国ちゅうごくがわむかえて虚偽きょぎ供述きょうじゅつをしたものとかいした。これにたいしては、死体したい処理しょりはなし自体じたいただしいもののたんなる太田おおた少佐しょうさ記憶きおくちがい(事件じけんから17ねんの1954ねん供述きょうじゅつ)により日付ひづけとうにズレがしょうじたものとせつだけでなく、むし太田おおた少佐しょうさ記憶きおくまさしく太田おおた少佐しょうさもとうら鎮→下関しものせき(死体したい処理しょり作業さぎょう)→つねじゅくかぶら配属はいぞく移動いどうかぶらみずうみへの移動いどう途中とちゅう下関しものせきにまたったとせつ[67]ひとしがある。いずれにせよ、太田おおた少佐しょうさ陸軍りくぐん船舶せんぱく輸送ゆそう司令しれい(陸軍りくぐん海上かいじょう河川かせんとう水上すいじょう輸送ゆそう担当たんとうする部署ぶしょ)に所属しょぞくしており、つねじゅく下関しものせきあいだ輸送ゆそうのために往来おうらいしたり河川かせんみなと死体したい処理しょりためされたりすることになん不思議ふしぎはない。
    当時とうじ揚子江ようすこうふゆ渇水かっすい水位すいいがっており、日本にっぽんぐん揚子江ようすこうながしたつもりの死体したいがあまりにおおすぎてたがいにからい、河底かわぞこ河辺かわべにひっかかり、水位すいい低下ていかとともにそれらが水面すいめんあらわわれるにれ、桟橋さんばし河岸かわぎし輸送ゆそうせん接岸せつがんできなくなるため、死体したい処理しょりおこなわねばならなくなったとつたえられる[68]。また、これらの処理しょり度々たびたびおこなわれた可能かのうせいがある。げんに、南京なんきん陥落かんらく直後ちょくご下関しものせき地区ちく敗残はいざんへいりにたずさわっていた梶谷かじたにも、同輩どうはいらがったとられる26にち以降いこうになって、あらたに必要ひつようとなったとみられる1000たいほどの死体したい処理しょりたずさわっている。
    板倉いたくらは、死体したい処理しょり梶谷かじたに日記にっきにある梶谷かじたに部隊ぶたいだけがおこなった26にち以降いこうの1000たいのみで、それまで開設かいせつ準備じゅんび多忙たぼうのために死体したい処理しょりにはかれなかったと主張しゅちょう太田おおた供述きょうじゅつから見聞みききしたはなしもとさくはなしたものとし、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ報道ほうどう対応たいおう抗議こうぎしているが、しゃ謝罪しゃざいしなかった[69]板倉いたくら太田おおた供述きょうじゅつは「客観きゃっかんてき信憑しんぴょうせいゼロ」と主張しゅちょうしている[70]産経新聞さんけいしんぶん部下ぶか日記にっきしたにしたとして信憑しんぴょうせい否定ひていした[66]毎日新聞まいにちしんぶんは「内容ないよう信用しんようできる」とほうじた[65]江口えぐち板倉いたくらへの書簡しょかんで、梶谷かじたに日記にっき(の内容ないよう)にれないことは説得せっとくりょくけるとかんがえており、竹田たけだ昌弘まさひろ記者きしゃから毎日まいにち梶谷かじたに日記にっきれなかったことについては説明せつめいけたこと、またどう記者きしゃには自分じぶんのコメントの表現ひょうげんがより断定だんていてきになっていること苦言くげんていしたがこれ以上いじょう毎日まいにちあらそうつもりはないこと、しかし板倉いたくらがこのことを問題もんだいにすることに自分じぶん書簡しょかんとう使つかこと書簡しょかん編集へんしゅうとうせず原文げんぶんどおりに使つかぶんには差支さしつかえないことをつたえた[71]とされる。のち毎日まいにち梶谷かじたに日記にっきについてもほうじた[72][73]一方いっぽう早稲田大学わせだだいがく教授きょうじゅ中原なかはら道子みちこ太田おおた供述きょうじゅつを“真実しんじつ”とする[74]板倉いたくら中原なかはら著作ちょさく7論点ろんてん11ヵ所かしょ真実しんじつである証明しょうめいもとめた[75]が、「にちちゅう両国りょうこく専門せんもん研究けんきゅうをふまえ」とのみ岩波いわなみがわから回答かいとうがあった[76]中原なかはら板倉いたくら証明しょうめい要求ようきゅうを「前向まえむきで建設けんせつてき姿勢しせいはいささかもることができ[77]」ないとい、みずからは「戦争せんそうらない世代せだい歴史れきし真実しんじつつたえる[78]」として板倉いたくら一蹴いっしゅうした。
    その1993ねん出版しゅっぱんされた南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅうだいかんると、26にちまで開設かいせつ準備じゅんび多忙たぼうのために死体したい処理しょりにはかれなかったとの板倉いたくら主張しゅちょうには潤色じゅんしょくがあり、実際じっさいには18にちにはすでいちとおりの開設かいせつ準備じゅんびわり、19にちからは板倉いたくら表現ひょうげんでは曖昧あいまい業務ぎょうむふね投錨とうびょうとなっていたものの、実際じっさいには荷揚にあげ作業さぎょうもいったん本格ほんかくてき開始かいししていたこと、さらに梶谷かじたに日記にっき記載きさいされたものだけでも22にちにも使役しえきへい使つかってすうひゃくたい死体したい揚子江ようすこう投棄とうきおこなわれていたことがしるされていた。(26にち梶谷かじたに死体したい処理しょりは、太田おおた供述きょうじゅつにある18にちまでと梶谷かじたに日記にっきにある22にち揚子江ようすこう投棄とうきされた死体したいが、かわ水位すいい低下ていかとともに水面すいめんじょうさい露出ろしゅつしたものである可能かのうせいたかい。)しかし、編集へんしゅうしゃ基本きほんてき板倉いたくら見解けんかいち、その論拠ろんきょは、梶谷かじたに日記にっき根拠こんきょとしておおむ以下いかとおり。①(本題ほんだいとは関係かんけいないが)太田おおた停泊ていはくじょう司令しれい小舟こぶね南京なんきんいたとするが、陸路りくろ到着とうちゃくしているというてん太田おおた供述きょうじゅつ一般いっぱんてき信用しんようせいける、②太田おおたは15にちゆう南京なんきん到着とうちゃくし16-18にち死体したい処理しょりたずさわったとするが、到着とうちゃく次第しだい本来ほんらい輸送ゆそう業務ぎょうむ着手ちゃくしゅするはず、③太田おおた以前いぜん安達あだち少佐しょうさが6.5まんにん死体したい処理しょりをしたことになっているが、安達あだち実質じっしつおこなえたのは1にちだけで6.5まんたい処理しょり不可能ふかのうはず、④17~18にち佐官さかん以上いじょう入城にゅうじょうしき慰霊いれいさい参加さんか死体したい処理しょり不可能ふかのう
    ただし、実際じっさいには、①太田おおた供述きょうじゅつには、司令しれい小舟こぶねつねじゅくを11にち出発しゅっぱつしたとあるだけである、むし梶谷かじたに日記にっきではなでじゅんで11にち部隊ぶたいちょうらが明日あしたるといてむかえる準備じゅんびはじめ、12にち同所どうしょ合流ごうりゅう、13にち自動車じどうしゃ手配てはいできたので出発しゅっぱつしたとしており、太田おおた供述きょうじゅつ一致いっちしている、また、南京なんきんまでの距離きょりかんがえれば乗換のりかえは当然とうぜんおもわれる、②下関しものせき地区ちくにあった死体したい市内しないからはこまれる死体したい道路どうろふさがり、それを撤去てっきょしないと物資ぶっし輸送ゆそうどころではなかったとかんがえられる、また、梶谷かじたに自身じしんも15にち敗残はいざんへい捜索そうさくとう本然ほんぜん業務ぎょうむはず輸送ゆそう業務ぎょうむげんかれていない、③この部分ぶぶんはあくまで太田おおた安達あだちからいたはなしである、また、梶谷かじたに部隊ぶたい以外いがい安達あだち少佐しょうさ部下ぶかすべ安達あだち少佐しょうさ自身じしんふくめて当初とうしょから死体したい処理しょり従事じゅうじしていた可能かのうせいたかい、実際じっさいに13にちゆう最後さいご梶谷かじたに日記にっきからえていた安達あだち少佐しょうさ部隊ぶたいちょうが、地区ちく分担ぶんたんとはいえ太田おおた少佐しょうさ手伝てつだいにはいって余裕よゆう出来できたともかんがえられる16にちになって、ようやく梶谷かじたに日記にっき梶谷かじたにとともに下関しものせき地区ちく巡視じゅんしするかたちさい登場とうじょうしてくる、④梶谷かじたに日記にっき自体じたい入城にゅうじょうしき参加さんかしゃ全体ぜんたいの1/3とあり、実際じっさい幕府ばくふやま山大やまだい隊長たいちょう少佐しょうさ)は捕虜ほりょ処分しょぶんのため入城にゅうじょうしき出席しゅっせきしていないひとし佐官さかん以上いじょうすべ出席しゅっせきしたとはかぎらない、まして太田おおたはそもそも南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんかしゃではなく、はじめから死体したい処理しょり手伝てつだいに南京なんきんただけのものであり、板倉いたくらもそれをかっていたはずである、まったくの読者どくしゃあざむくためだけの記述きじゅつである。また、梶谷かじたに日記にっきには16にち後続こうぞく部隊ぶたいたるとあり、これが15にちゆう下関しものせき到着とうちゃくした太田おおた少佐しょうさらのことで、死体したい処理しょり手伝てつだいをして、その終了しゅうりょう、いったん太田おおたもと配属はいぞく地区ちくもどっていた可能かのうせいがある。
  • 船橋ふなばしあきらきち は、 1991ねんごろ石原いしはら発言はつげんゆるさない京都きょうと集会しゅうかい実行じっこう委員いいんかい冊子さっし歴史れきし偽造ぎぞうするのはだれか?』で証言しょうげんした[79]。しかし、板倉いたくら由明よしあき主張しゅちょうによれば、当時とうじ改訂かいていばん準備じゅんびちゅうの『南京なんきん戦史せんし』の資料しりょうへんせることもかんがえて文書ぶんしょ電話でんわでいろいろ板倉いたくら確認かくにんすると、基本きほんてき事項じこうがあやふやで、肝心かんじんてんわすれたといい、板倉いたくらによれば証言しょうげん歩兵ほへいきゅう連隊れんたい実戦じっせん記録きろくことなるてんがあるものの、それへの説明せつめいもなかったとする。結局けっきょく板倉いたくら資料しりょう価値かちしと判断はんだんしたものの、その船橋ふなばしほうからコンタクトをしてきて、あずま史郎しろう悪口わるぐちまでおくってきたうえ結局けっきょく船橋ふなばし電話でんわべつもの自身じしん輜重しちょう特務とくむへいであったことをげたという。板倉いたくらは、輜重しちょう特務とくむへいであれば(この板倉いたくら説明せつめい曖昧あいまいであるが)経歴けいれき矛盾むじゅんすくなくなるとし、(はっきりえることとしては)自身じしんでトーチカ攻撃こうげきをしたり、捕虜ほりょ機関きかんじゅう虐殺ぎゃくさつしたのは架空かくうはなしとなるとする(目撃もくげきした可能かのうせいのこる)。さらに、だい小田おだ正雄まさお立会たちあい会談かいだんで、船橋ふなばし日記にっき偽造ぎぞうしたものだとみとめたと板倉いたくらはする。船橋ふなばしは「あずま史郎しろう赤旗あかはた記者きしゃ下里しもさと正樹まさき(「かくされた連隊れんたい著者ちょしゃ)、吉田よしだたもつ京都きょうと機関きかん印刷いんさつセンター代表だいひょう)などにせられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費りょひつから中国ちゅうごくこう、とさそわれた」ともかたったと、板倉いたくらはする。このようなことがこることについて、板倉いたくらは、体験たいけんだん創作そうさくして、人気にんきしゃになりたい、小遣こづかいもかせげるという人間にんげんあらわれるのであろうとしたが、もし、板倉いたくらったとおりのことが実際じっさいこったのであれば、むしろ、この経緯けいいは、船橋ふなばし南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつろんくみしてもたいしてにならなかったため、今度こんど虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん鞍替くらがえをはかろうとしたことになる。であれば、板倉いたくらは、船橋ふなばし日記にっき偽造ぎぞう白状はくじょうしたとするが、実際じっさいには、はじめから虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん鞍替くらがえするための当人とうにん持込もちこめネタであった可能かのうせいたかい。また、あずま史郎しろうらのう「中国ちゅうごくく」とは、みずからの行為こうい告白こくはく謝罪しゃざいのために現地げんち訪問ほうもんをすることであり[80]板倉いたくら自身じしんあずま史郎しろう告白こくはくまで虚偽きょぎあつかいしており気付きづいていないようだが、板倉いたくらはなし事実じじつであれば、むしろあずま史郎しろう自身じしんは、船橋ふなばしあずま史郎しろう同様どうよう体験たいけん人間にんげん本心ほんしんからしんじていたことになる。[81]
  • 松岡まつおかたまき編纂へんさん証言しょうげんしゅう南京なんきんせんざされた記憶きおくたずねて-もと兵士へいしいちにん証言しょうげん」(社会しゃかい評論ひょうろんしゃ)が証言しょうげんしゃ仮名かめいにして2002ねん刊行かんこうされた。取材しゅざい記録きろく自体じたいはビデオ、写真しゃしんとうろくってあるとされ、実際じっさい一部いちぶニュース・ステーション関連かんれんして放送ほうそうされた。東中野ひがしなかの修道しゅうどうおもね健一けんいちらの否定ひてい証言しょうげん一部いちぶ内容ないよう不自然ふしぜんさや間違まちがいがあると主張しゅちょうして批判ひはんしただけでなく、小野おの賢二けんじらの虐殺ぎゃくさつ存在そんざいからも証言しょうげんしゃこまかな誤認ごにんとうをそのまま紹介しょうかいしており、それがいわば虐殺ぎゃくさつ否定ひてい口実こうじつとしてすることになりかねないとみるような批判ひはんがあった。これにたいし、証言しょうげんあつめる活動かつどうをしている市民しみん団体だんたいのメンバーであるはやしはく耀は、兵士へいしたち自身じしん体験たいけんかかわるような部分ぶぶんについては史料しりょうもとづいて否定ひていこそ実態じったいらずあやまっていることをしめして反論はんろん、さらにたんなる誤植ごしょくによる兵士へいしまれねんあやまりをいてあしをとるような否定ひていのやりかたへの批判ひはんだけでなく、だい虐殺ぎゃくさつ否定ひてい存在そんざいとも証言しょうげんしゃ証言しょうげん重箱じゅうばこすみを突つくようなことをするのではなく、当人とうにんたちに当時とうじつたわり、当人とうにんたちがしんじていたままの証言しょうげん忠実ちゅうじつろくことこそ大切たいせつで、それらをわせることでえてくる真実しんじつがあるのではないかとの反論はんろんをした[82]
海軍かいぐん
  • 奥宮おくのみや正武まさたけ1997ねん著書ちょしょで、1937ねん12月25にち、碼頭の下流かりゅう倉庫そうこぐんやく30めい中国人ちゅうごくじん無蓋むがいのトラックではこばれ、構内こうない広場ひろばでは、しばられた中国人ちゅうごくじんじゅうすうめい軍刀ぐんとう銃剣じゅうけん惨殺ざんさつされ揚子江ようすこう投棄とうきされていた。12月27にちにもおなじような処刑しょけいおこなわれていたので、混乱こんらんもなく中国人ちゅうごくじんをどうやってれてきたのかと、下士官かしかんたずねると、下司げすかんは「城内きうちで、戦場せんじょう跡片付あとかたづけをさせている中国人ちゅうごくじんに、”はらのすいたものげよ”とって、げたもの食事しょくじ場所ばしょれていくかのようにして、トラックにせているとのことです」と説明せつめい。また、日本にっぽんがたな銃剣じゅうけん処刑しょけいしているのは、弾薬だんやく節約せつやくのために上官じょうかんからめいじられたとこたえたと証言しょうげん[83]
  • 2014ねんだい24駆逐くちくたい海風かいふう信号しんごうへいだった三谷みたにしょう松岡まつおかたまき募集ぼしゅうおうじて、証言しょうげんをするようになった[84]証言しょうげんによれば、12月12にちがらす竜山たつやま砲台ほうだい揚子江ようすこうから攻撃こうげきし、12月13にち中山なかやま埠頭ふとうほうから中国人ちゅうごくじん死体したいせた4せきいかだ目撃もくげき陥落かんらく4にち中山北なかやまきた広場ひろばにあった50〜60たい死体したいやまの「おおくは老人ろうじん女性じょせいで、どももおり、すぐに一般いっぱん市民しみんであることがわかった」との証言しょうげん中国ちゅうごくもうのインタビューにこたえた[84]。12月18にち午後ごご軍艦ぐんかんのブリッジで見張みはりをしていると、下関しものせき南岸なんがんから機関きかんじゅう銃声じゅうせいこえたので望遠鏡ぼうえんきょうると中国人ちゅうごくじん処刑しょけいされていた、その数日すうじつあさからばんまでトラックで20にん、30にん連行れんこうされ処刑しょけいされた、「南京なんきんはなれたのは12月25にちだが、それまで下関しものせききしでは毎日まいにちこうだった」と証言しょうげん[84]三谷みたには「中山北なかやまきただけがこうだったわけでなく、南京なんきん全体ぜんたい地獄じごくだったはずだ。陸軍りくぐん恥知はじしらずで、やりすぎた」とべている[84]江蘇ちぁんすーしょう社会しゃかい科学かがくいんまごたくたかしは、この証言しょうげんは、とき地点ちてん死体したい処理しょり方法ほうほうなど既存きそんだい虐殺ぎゃくさつ史実しじつ符合ふごうし、重要じゅうよう史料しりょうてき価値かちっていると評価ひょうかした[84]三谷みたには2015ねん日本にほんテレビNNNドキュメントでもインタビューにこたえた[84]
報道ほうどういん
  • 今井いまいただしつよし (朝日新聞あさひしんぶん)は1956ねんに、(1937ねん12月15にちよる)「すうひゃくにんすうせんにん」の中国人ちゅうごくじん下関しものせき(シャアカン)、揚子江ようすこうの碼頭で射殺しゃさつされたおとき、今井いまいは「おそらくそのうちのなんパーセントだけが敗残はいざんへいであつたほかは、そのだい部分ぶぶん南京なんきん市民しみんであつただろうことは想像そうぞうかたくなかった」として、敗残はいざんへいでないものふくまれていたとした[85][86]。さらに、早朝そうちょう遺体いたい処理しょりしていた苦力くーりーたちも射殺しゃさつされ、ある将校しょうこうやく2まんにんをやったとった、として「完全かんぜん殲滅せんめつ掃蕩そうとう」である、とした[85]当時とうじ新聞紙しんぶんしめんにのった12月17にち東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん座談ざだんかいでは事件じけんについてれていない[87]南京なんきん虐殺ぎゃくさつしゃすう限定げんていする立場たちばおもね健一けんいちは、座談ざだんかい出席しゅっせきしていた橋本はしもと登美とみ三郎さぶろうが、当時とうじ虐殺ぎゃくさつについていていないと戦後せんご自分じぶんこたえた、また、当時とうじ報道ほうどう規制きせいについて、なに不自由ふじゆうかんじていない。おもったこと、たことはしゃべれたし、いてたと、こたえたとしている[88]。しかし、げん検閲けんえつ逮捕たいほ摘発てきはつこわれての自主じしゅてき社内しゃない検閲けんえつ当時とうじ実際じっさいおこなわれており、たとえば当時とうじ新聞しんぶんでは戦地せんち地名ちめいぐん部隊ぶたいめいすべ伏字ふせじとなっており[89]雑誌ざっししゃから派遣はけんされた石川いしかわ達三たつぞう著作ちょさくきている兵隊へいたい』は削除さくじょ伏字ふせじ多数たすうほどこしてなお、発禁はっきんけ、作者さくしゃ逮捕たいほされることとなっている。橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう戦後せんご自民党じみんとうから国会こっかい議員ぎいん立候補りっこうほし、ロッキード事件じけん逮捕たいほされ失脚しっきゃくするまでなが自民党じみんとう有力ゆうりょく議員ぎいんとしてキャリアをんできた人物じんぶつであり、その縁故えんこじょうそのようにったか、橋本はしもとおもねのいずれかがあやまりをっているものとかんがえられる。おもねは、さらに東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん足立あだち和雄かずおは「今井いまいくん自分じぶんひとじゃなかった。危険きけん前線ぜんせんにはないで、いつも後方こうほうにいたといている」「今井いまいくんひとからいたことを脚色きゃくしょくしてくのがうまかった」と証言しょうげんしたと主張しゅちょうする[90]竹本たけもと忠雄ただお大原おおはら康男やすおは、当時とうじ今井いまいのスケジュールから現場げんばることは不可能ふかのうであったとひょうしている[1](ただし、実際じっさい記載きさい内容ないようると、15にちよる座談ざだんかい夜更よふけに大量たいりょう兵士へいし行列ぎょうれつさせられ連行れんこうされて虐殺ぎゃくさつされる事件じけん遭遇そうぐうしたとかんがえられ、なぜそれを無理むりかんがえているのかまった不可解ふかかいである。また、このたね揚子江ようすこうがん処刑しょけいするためにてきへい揚子江ようすこうれていく行進こうしんについては佐々木ささきもとかち目撃もくげきしている。)。また、南京なんきん攻略こうりゃくぐんそう司令しれいかんであった松井まついいし大将たいしょう陣中じんちゅう日誌にっし南京なんきん事件じけんかったかのような方向ほうこう改竄かいざんして出版しゅっぱんしたとの非難ひなんけたことでられる田中たなか正明まさあきは、普段ふだん今井いまい同行どうこうしていた朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ森山もりやまたかしから「そんなはなしはついぞいたことがない」といたと主張しゅちょうする[91]
  • 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん佐藤さとう寿ことぶきカメラマンは、その手記しゅきに、南京なんきんなか山門さんもんないの励志しゃさきひゃくにんほどの武器ぶきたない無抵抗むていこう敗残はいざんへい日本にっぽんへい殺害さつがいされるのをたことを記録きろくしている。また、あと仲間なかまにこのときのことをはなすと、「カメラマンとしてどうして写真しゃしんらなかったか」と反問はんもんされ、「写真しゃしんっていたら、おそらくこっちもころされていたよ」とこたえることしかできなかったとべている。[92]
  • 守山もりやま義雄よしお1964ねん以前いぜん[93]証言しょうげん初出しょしゅつ不明ふめい[94])、戦闘せんとういん市民しみん数多かずおおころした。おおくの婦女子ふじょし暴行ぼうこうくわえてころした、すくなくとも4まんにん殺害さつがいされたと証言しょうげん[94]。また、戦時せんじちゅうドイツ留学生りゅうがくせいだった篠原しのはらただしあきら守山もりやまからの伝聞でんぶんとして、日本にっぽんぐんは、老人ろうじん婦人ふじん子供こどもなどさんまんすうせん中国人ちゅうごくじん城壁じょうへきないんで、城壁じょうへきうえから手榴弾しゅりゅうだん機関きかんじゅう皆殺みなごろしにし、城壁じょうへきないうみ長靴ながぐつがつかるほどだったとべた[95]。 ただし、南京なんきん守山もりやま同行どうこうした東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん足立あだち和雄かずおは、南京なんきん我々われわれは「(長靴ながぐつながれこむなどという)そんなことはていないし、あと守山もりやまくんからいたこともない」と証言しょうげんしている[90]。(長靴ながぐつはともかく、城壁じょうへきのほとりになまみん死体したいがツクダニのようにかさなっていたことは、杉山すぎやま平助へいすけ当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん寄稿きこうしている。すくなくともこれをふくめて杉山すぎやま被害ひがい状況じょうきょう無辜むこなまみんけた被害ひがいとしてべている。また、当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん尾張おわりばんには、兵士へいし市民しみん不明ふめいながら南京なんきんじょう内外ないがい揚子江ようすこうのあちこちにまんという死体したいがあることがべられている。
  • 大宅おおたく壮一そういち (従軍じゅうぐん記者きしゃ)は1966ねん、 「入城にゅうじょう前後ぜんこう入城にゅうじょうまでの過程かていにおいて相当そうとうだい虐殺ぎゃくさつがあったことは事実じじつだとおもう。さんじゅうまんとか、建物たてものさんぶんいちとか、数字すうじはちょっと信用しんようできないけどね。まあ相当そうとうだい規模きぼ虐殺ぎゃくさつがあったということは、 わたし目撃もくげきしゃとしてじゅうふんいえるね。」と証言しょうげんしている[96]
  • 読売新聞よみうりしんぶん 真柄まがら カメラマンは、入城にゅうじょうしきにちぐらいまえ土手どてのあるちいさいかわ中国人ちゅうごくじんひゃくにんが「機関きかんじゅうでやられていた。あれがにいう“南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ”だったのではないのか」と証言しょうげん[97]
  • 映画えいが南京なんきん」の製作せいさくしゃ 白井しらいしげる は「虐殺ぎゃくさつ現場げんばた。いちしがらみがあったようにおもう。はるかはなれているところで、銃殺じゅうさつしていた。かずおぼえていない。揚子江ようすこうでないかわのところで、機関きかんじゅうっているところもた。(りゃくかわにとびんで、むこうにおよぎついたものもいた。ひゃくにんぐらいいたとおもう。場所ばしょおぼえていない。当時とうじ、“だい虐殺ぎゃくさつ”といううわさはなかった。」と証言しょうげん[98]
  • 映画えいが南京なんきん」の録音ろくおん技師ぎし 藤井ふじい慎一しんいち は「挹江もん付近ふきん物凄ものすご死体したいで、死骸しがいうえいたわたし、そのうえ自動車じどうしゃかよっているほどだった。空襲くうしゅうのあとが生々なまなましかった。ちいさなかわかたわらのもんなか捕虜ほりょらしきものっているのをた。(りゃく白井しらい一緒いっしょだった。(りゃく)それ以外いがいにも、銀行ぎんこううらひゃくにん以上いじょうころされているのをた。(りゃく虐殺ぎゃくさつうわさはきいたようにおもうが、たのはこのときだけである。」と証言しょうげん[99]
文官ぶんかん
  • 事件じけん当時とうじ南京なんきん大使館たいしかん参事官さんじかんであった 日高ひだか信六郎しんろくろう (外交がいこうかん) は東京とうきょう裁判さいばん松井まつい行動こうどう問題もんだいがなかったことを証言しょうげんするために弁護べんごがわ証人しょうにんとして出廷しゅってい自身じしん尋問じんもん供述きょうじゅつもとづいて弁護べんごをした。げられた尋問じんもん調書ちょうしょなかすでに、1938ねん1がつにち上海しゃんはい松井まついって、部下ぶかなかわるいことをしたものがいるとはじめてったとかたるのをいて、それまで松井まついらなかったのだという印象いんしょうったとべていたが、退廷たいてい直前ちょくぜん裁判官さいばんかん質問しつもんたいして、正月しょうがつ挨拶あいさつったさいさけをのみ自分じぶん質問しつもんしたわけでなく松井まついみずかかたったことと回答かいとう[100]し、当時とうじ報道ほうどうでは、むし日高ひだかくちをすべらして、あらためて虐殺ぎゃくさつ存在そんざい裏付うらづけたように受止うけとめられている[101]。1966ねんには、「残虐ざんぎゃく事件じけん最大さいだい原因げんいんひとつは、上層じょうそう命令めいれい徹底てっていしなかったことであろう。たとえば捕虜ほりょ処遇しょぐうについては、高級こうきゅう参謀さんぼう松井まついさん同様どうよう心胆しんたんくだいていたが、実際じっさいには、入城にゅうじょう直後ちょくごでもあり、恐怖きょうふしん手伝てつだって無闇むやみころしてしまったらしい。揚子江ようすこうがん捕虜ほりょたちの死骸しがい数珠じゅずつなぎになって累々るいるいてられているさまは、いいようもないほど不愉快ふゆかいであった。(中略ちゅうりゃくへい取締とりしまりにまわらなかったのは当然とうぜんだった。そして一度いちど残虐ざんぎゃく行為こういはじまると自然しぜん残虐ざんぎゃくなことにれ、また一種いっしゅ嗜虐しぎゃくてき心理しんりになるらしい。(中略ちゅうりゃく荷物にもつ市民しみんはこばせて、ようむと「ご苦労くろうさん」というかわりにころしてしまう。不感症ふかんしょうになっていて、たいしておどろかないという有様ありさまであった」とかたっている[102]

だい虐殺ぎゃくさつ」がなかったとする証言しょうげん[編集へんしゅう]

ほとんどが現場げんばにかかわってない士官しかんであることに注意ちゅうい。また、歴史れきしはたいく彦によれば、かれ経験けいけんによるとして、将校しょうこうがいしてくちかたく、クロの状況じょうきょうかたったり、日記にっきやメモを提供ていきょうするのは、応召おうしょう兵士へいしだい多数たすうであるとする[103]

陸軍りくぐん
  • 松井まついいしちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん東京とうきょう裁判さいばんで「(だい虐殺ぎゃくさつは)公的こうてき報告ほうこくけたことがなく、終戦しゅうせんべいぐん放送ほうそうはじめてった」と証言しょうげんし、供述きょうじゅつしょでは「巡視じゅんしさいやく20にん中国ちゅうごくへい戦死せんしたいたが、市内しない秩序ちつじょはおおむね回復かいふくした」とべ、「南京なんきん入城にゅうじょう非行ひこうおこなわれたと憲兵けんぺい隊長たいちょうからき、かく部隊ぶたい調査ちょうさ処罰しょばつをさせた」と証言しょうげんした。当時とうじ松井まつい部下ぶかである武藤むとうあきらは、南京なんきん入城にゅうじょう松井まついとともに10ー20けん程度ていど事件じけんがあったといたこと、軍法ぐんぽう会議かいぎで10けんから20けん程度ていど事件じけんがかけられていたこと、1けんで10にんかそれをえる人数にんずうさばかれていたものもあったことかれたしかに存在そんざいしたことを軍法ぐんぽう会議かいぎ法廷ほうていひとつだけだがほかにも法廷ほうてい複数ふくすうひらかれていただろうとしんじていることとう裁判さいばんまえ尋問じんもん供述きょうじゅつしている[104]
  • 上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう大西おおにしいち大尉たいい[105]。1937ねん12月13にち午後ごごから南京なんきん入城にゅうじょう[106]南京なんきん陥落かんらくいち年間ねんかん特務とくむ機関きかんちょうとして滞在たいざいした[105]当時とうじ上海しゃんはい派遣はけんぐんなか虐殺ぎゃくさつについて「話題わだいになったことはない」、強姦ごうかんなんけんかあったが、暴行ぼうこう掠奪りゃくだつたことがないと証言しょうげん[105]。ただし、偕行社かいこうしゃ高橋たかはし登志としろうは、大西おおにし論文ろんぶんについてたんにシロだシロだというだけとして、反論はんろんにならない[107]ものとかんがえている。
  • 上海しゃんはい派遣はけんぐん嘱託しょくたくぐん司令しれいかんづけ岡田おかだしょうは、強姦ごうかんかぞえるほどで、「(一般いっぱん市民しみんを)虐殺ぎゃくさつしたということはありえません」、城内きうちでの火事かじについても記憶きおくがない、しかし捕虜ほりょ敗残はいざんへいについて「やったことはある」が、当時とうじ状況じょうきょうで「たしてそれが虐殺ぎゃくさつといえるか」疑問ぎもんであると証言しょうげんしたうえで、みずからを中国ちゅうごくびいきであるとし、満州まんしゅうこく建設けんせつにも反対はんたいであったし、ささえ事変じへん日本にっぽんがやりすぎたこともあるが、南京なんきん防衛ぼうえい中国ちゅうごくぐん降伏ごうぶく勧告かんこくれなかったのは中国ちゅうごくがわで、その責任せきにんしゃとうせいさとしげたことを批判ひはんし、降伏ごうぶく拒否きょひがなければ捕虜ほりょ殺害さつがいもなかったとべている[108]。なお岡田おかだは1937ねん12月12にち蘇州そしゅうから湯水ゆみず鎮へかう途中とちゅう女性じょせい兵士へいしふく中国ちゅうごくへい捕虜ほりょせんにんからせんにんクリーク土手どてすわらされて処刑しょけいされているのを目撃もくげきしている。
  • だい10ぐん参謀さんぼう谷田たにだいさむは、1937ねん12月14にち午後ごご3下関しものせき埠頭ふとう死体したい1000にん〜3000にんがあったが、これはだい16師団しだんめたもので、「これが後日ごじつ虐殺ぎゃくさつしょうされているものではないか」とべ、さらに12月19にちまでの南京なんきん滞在たいざいあいだに「死体したいすうすうせんないしいちまん程度ていどで、まして集団しゅうだん虐殺ぎゃくさつあとなどは発見はっけんできませんでした。したがって、中国ちゅうごくがわ終戦しゅうせん極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん主張しゅちょうしたすうじゅうまん誇大こだい意図いとてき誇張こちょうであると確信かくしんいたしております」と証言しょうげんした[109]
  • だい10ぐん参謀さんぼう金子かねこりんかいは、南京なんきん事件じけんについて「いたことはありませんでした。戦後せんご東京とうきょう裁判さいばんいてびっくりしました。なにかくしているとか、しぶっているとかいうことはなく、本当ほんとう南京なんきんではなにてません。」と証言しょうげんした[110]
  • だい10ぐん参謀さんぼう吉永よしながほお(すなお)[111]。「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ白髪はくはつさんせんたけしきに、あと中国人ちゅうごくじんっていること」と証言しょうげんした[111]
  • だい10ぐん参謀さんぼう寺田てらだ雅雄まさおは、だい10ぐん軍紀ぐんきはそれほどわるくはなかったし、当時とうじ南京なんきん事件じけんいたことはないと証言しょうげんした[112]
  • だい10ぐん参謀さんぼう仙頭せんどう俊三しゅんぞうは「12月12にち浦口うらぐち(揚子江ようすこうをはさんで下関しものせき対岸たいがん)に進出しんしゅつしたとき浦口うらぐちには味方みかたじゅう榴(きゅうろくしきじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほう)がさかんに落下らっかしていました。揚子江ようすこうりょうきし浮遊ふゆうしたてき死体したい目撃もくげきしたところすうひゃくでしょうか、中流ちゅうりゅうにはあまり死体したいみとめませんでした。下関しものせき岸壁がんぺき鮮血せんけつそまっていたのを目撃もくげきし、かつ死体したい手足てあしをしばられていたようでした。虐殺ぎゃくさつということは当時とうじまったりませんでした。軍紀ぐんきかんして国崎くにさき支隊したいかんするかぎわるかったことはありません」と証言しょうげんした[113]
  • 侍従じじゅう武官ぶかん後藤ごとう光蔵みつぞう南京なんきん入城にゅうじょうしたとき、「南京なんきんひといちにんいないまちとなっており、小生しょうせいはそのいちけんまったのですが、何事なにごともありませんでした」と証言しょうげんした[114]
  • 上海しゃんはい派遣はけんぐん特務とくむ部員ぶいん経理けいり将校しょうこう岡田おかだとり[115]中国ちゅうごくぐんには女性じょせい兵士へいしがいた、抵抗ていこうする敗残はいざんへいもいて、便衣べんいへいもいて、「これらがやられるのもました。これらのかばねがあとで虐殺ぎゃくさつわれたのではないでしょうか」と証言しょうげんしている[115]
  • 参謀さんぼう本部ほんぶ庶務しょむ課長かちょう諫山いさやま春樹はるきは、参謀さんぼう本部ほんぶ庶務しょむすべての報告ほうこくとおすが、日本にっぽんへい軍紀ぐんきわるかったと当時とうじ話題わだいになったことはなく、また「虐殺ぎゃくさつ事件じけん話題わだいになったことも、箝口令かんこうれいをしいたことも絶対ぜったいにありません」と証言しょうげんした[116]
  • 陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく軍事ぐんじ編成へんせいはんちゅうささえ派遣はけんぐん参謀さんぼう昭和しょうわ13ねん大槻おおつきあきらは、虐殺ぎゃくさつ事件じけんについて「そういった形跡けいせき全然ぜんぜんありませんでした。なにもない。ぐん司令しれい参謀さんぼうといろんなはなしをしたが、話題わだいになったことも、いたこともない。虐殺ぎゃくさつがあったというのはうそ」であり、「虐殺ぎゃくさつなんていうのは命令めいれいがなければできないこと」で、あったとすれば当時とうじ話題わだいになったはずだと証言しょうげんしている[117]
  • 野砲やほうへいだい22連隊れんたいちょう・(終戦しゅうせんだい21師団しだんちょうさん国直くになおぶくは、当時とうじ日本にっぽんへい軍紀ぐんきみだれや事件じけんについてなにかなかったと証言しょうげん[118]、さらに自分じぶん広東かんとんでの戦犯せんぱん裁判さいばん被告ひこくになった経験けいけんについて、裁判さいばんはめちゃくちゃで、罪状ざいじょうではさんこくひろしちょうめい政権せいけんつくったとか(さんこく南京なんきん特務とくむ機関きかんちょうだったがふかくかかわっていないとべている)、中国ちゅうごく市民しみん暴行ぼうこうをふるったなどで、証拠しょうこもとめると、中国ちゅうごくぐん市民しみん被害ひがいしゅっせと命令めいれいしてしたもので、場所ばしょ日付ひづけ師団しだんのいた場所ばしょとほとんど合致がっちしないものであったと証言しょうげんしている[119]
  • 上海しゃんはい憲兵けんぺいたい岡村おかむらてきさんは、当時とうじ事件じけんについても軍紀ぐんきについても特別とくべついたことはない、日本にっぽんぐん威張いばっているということはいたと証言しょうげんした[120]
  • だい16師団しだん歩兵ほへいだい20連隊れんたい(福知山ふくちやま連隊れんたい)だい隊長たいちょうもりおうみがくは「わたし大隊だいたい南京なんきんじょうひがし正門せいもんなか山門さんもん攻撃こうげきした。激戦げきせんしたが、13にち午前ごぜん310ふん砲撃ほうげき城壁じょうへきくずし、そのいきおいではいがり、軍旗ぐんきてました。わたしはそのときしろがいおかうえにおり、城内きうちには師団しだんちょうともじゅうにち入場にゅうじょうした。宿営しゅくえいについて陸軍りくぐんしょう先輩せんぱいい、その午後ごご二人ふたり戦場せんじょう視察しさつかけた。山陵さんりょうむらさき金山かなやまなどあるいた。翌年よくねんの1がつ19にち命令めいれい転進てんしんしたが、それまでは南京なんきんとその周辺しゅうへん警備けいびとうたつていた。したがって南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつおこなわれたという時期じき、あったかないか、わたし確信かくしんをもっておはなしできるただいちにん人間にんげんだとおもっています。たとえば火事かじがあったというひと、なかったというひとがいる。あったという場合ばあいにはあとしめすことが出来できるが、なかった場合ばあいというのは、かしはてにくい。それとおなじで、南京なんきん虐殺ぎゃくさつがあった、婦人ふじん乱暴らんぼうされた、いえかれたとさかんにわれているが、それがほとんどウソであることをもうげる」と証言しょうげんしている[121]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい23連隊れんたい中隊ちゅうたいちょう吉川よしかわ正司せいじは、「突入とつにゅう翌日よくじつの12月13にちには城内じょうない掃蕩そうとうをやっているが、城内きうちてきへいいちへいず、一般いっぱん住民じゅうみんもいないまったくのまちであった。連隊れんたいはそれ以降いこう主力しゅりょくみず西にし門東もんとう南方なんぽう地区ちく市街地しがいちに、だい1大隊だいたいをもって12月21にちまでみず西門にしもんがい駐屯ちゅうとんし、警備けいびにあたったが、よく13ねん1がつ13にちかぶらみずうみへと転進てんしんするまで、虐殺ぎゃくさつ事件じけんなどたこともいたこともなかったと断言だんげんできる。」と証言しょうげん[122]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい23連隊れんたいだい2中隊ちゅうたいちょう坂元さかもと[122]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい23連隊れんたい安楽あんらく秀雄ひでお[122]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい23連隊れんたい中山なかやまゆうりょう[122]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい13連隊れんたい伍長ごちょう古沢ふるさわさとし[123]
  • だい6師団しだん歩兵ほへいだい47連隊れんたいしし医務いむ曹長そうちょうじょう光宣みつのぶは、昭和しょうわ12ねん12月13にち中華ちゅうかもんから入城にゅうじょう、「城内きうちからっぽ」で兵隊へいたい住民じゅうみんもいなかった、「無抵抗むていこう民間みんかんじんころすのが虐殺ぎゃくさつ。だが、じんがいない以上いじょう虐殺ぎゃくさつがあるはずがない」し、城内きうちでは遺体いたいていないと証言しょうげん[124]。また中国ちゅうごく戦線せんせんに5年間ねんかん従軍じゅうぐんしたが、中国人ちゅうごくじん集落しゅうらく駐留ちゅうりゅうする場合ばあいは、日本にっぽんぐん住民じゅうみんけるため集落しゅうらく中央ちゅうおうせんき、住民じゅうみんがわ立入禁止たちいりきんし厳命げんめいされ、憲兵けんぺいもいたし、違反いはん絶対ぜったいにできなかった。軍紀ぐんきはそれほどいかめしかったと証言しょうげんしている[125]。さらに30まんにん虐殺ぎゃくさつしたはでっちげであり、おとしめられるのは我慢がまんならないし、南京なんきん裁判さいばん死刑しけいになったたに寿夫としお中将ちゅうじょうたいしてなにもしていないのであわれであるとべた[124]
  • だい6師団しだんだい13連隊れんたい だい3大隊だいたい 砲兵ほうへい小隊しょうたい永田ながた尚武なおたけ[123]
  • だい9師団しだん だい18旅団りょだん司令しれい齋藤さいとうさとしたね[123]
  • だい9師団しだん歩兵ほへいだい7連隊れんたい喜多きた留治とめじ[123]は、12月14にちからの掃討そうとうせん参加さんかし、安全あんぜん警備けいび担当たんとうした[125]喜多きたは、安全あんぜん民間みんかんじんになりすました便衣べんいへい掃討そうとうには厳重げんじゅう命令めいれいがあり、住民じゅうみんへの配慮はいりょや、将校しょうこう指揮しきかならしたがうことをめいじられており、掃討そうとうどう師団しだん金沢かなざわ富山とやま連隊れんたい担当たんとうし、部隊ぶたい安全あんぜんはいらないよう「金沢かなざわ」「富山とやま」という合言葉あいことば使つかうなど警備けいび厳重げんじゅうで、そうした警備けいびをすりけて日本にっぽんぐん略奪りゃくだつ強姦ごうかんするなどということは「ありえないことです」と証言しょうげん[125]
  • だい9師団しだん 歩兵ほへいだい7連隊れんたい だい11中隊ちゅうたい納谷なやまさる[123]
  • だい9師団しだん歩兵ほへいだい36連隊れんたい伍長ごちょう近藤こんどう平太へいたおっと[123]陥落かんらくは「露店ろてんなんけんていて、日本にっぽんへい相手あいて商売しょうばいをしていた。くつ修理しゅうりてん散髪さんぱつなどだった」「露店ろてん印鑑いんかんつくり、城内きうちきわめて平穏へいおんだった」「住民じゅうみん平和へいわ商売しょうばいをしている一方いっぽうで、毎日まいにちたくさんのひと虐殺ぎゃくさつされているというようなことはまったかんがえられません」と証言しょうげん[126]
  • 野中のなかさち三郎さぶろう[123]
  • だい16師団しだん歩兵ほへいだい20連隊れんたい伍長ごちょう橋本はしもと光治こうじは、昭和しょうわ12ねん12月13にち入城にゅうじょう、12月23にちまで城内きうちがい敗残はいざんへい掃討そうとう作戦さくせん参加さんか橋下はしもと戦後せんご当時とうじ部下ぶか上等じょうとうへいだったあずま史郎しろうから著書ちょしょ郵便ゆうびんぶくろ中国人ちゅうごくじんれて殺害さつがいしたと著書ちょしょかれ、名誉めいよ毀損きそん提訴ていそ勝訴しょうそした(最高裁さいこうさい確定かくてい[125]橋下はしもとは「戦争せんそうちゅう軍紀ぐんきまもられていた。そんな残虐ざんぎゃく行為こういができるわけがない」また、「婦女子ふじょしをかけてはいけないと厳命げんめいされていたし、夜間やかん外出がいしゅつ禁止きんしされ、任務にんむ以外いがい自由じゆう時間じかんはありませんでした」と主張しゅちょうした[125]
  • だい16師団しだん輜重しちょうへい16連隊れんたいだい6中隊ちゅうたい稲垣いながききよし[123]は12月16にち入城にゅうじょうし、住民じゅうみん姿すがたをみかけ、時計とけい修理しゅうりのため時計とけいおとずれたと証言しょうげん[126]
  • だい16師団しだんだい33連隊れんたいだい2大隊だいたいだい5中隊ちゅうたいだい1小隊しょうたいちょう市川いちかわ治平じへい[123]
  • 歩兵ほへいだい65連隊れんたい両角もろずみぎょうさく部隊ぶたい)の栗原くりはら利一としかずは12月17にち幕府ばくふやま事件じけんでの捕虜ほりょ殺害さつがいについて証言しょうげんのこしているが、「ころしたなかに一般人いっぱんじん一人ひとりもいない。当時とうじ日本にっぽんぐん戦果せんかわたしたちの13,500をふくめて7まんといわれていたが、現在げんざい中国ちゅうごくうような30まん、40まんというだい虐殺ぎゃくさつなどとてもかんがえられない。」とべた[127]ただし、栗原くりはら様々さまざまひとから取材しゅざいけており、ほう取材しゅざい往々おうおうにして先行せんこう取材しゅざいなんじ、当初とうしょから計画けいかくされていた殺害さつがいであった可能かのうせいをよりつよ否定ひていする方向ほうこうのものになっているが、むしほう取材しゅざいほうに、その取材しゅざい結果けっかとする内容ないよう疑義ぎぎされている。
  • だい36師団しだん歩兵ほへいだい224連隊れんたいうち直次なおじ少尉しょうい陥落かんらくの6ねん昭和しょうわ18ねんなつ南京なんきん滞在たいざいしたが「まち商店しょうてんひとであふれ、平和へいわ様子ようすだった。もし、だい虐殺ぎゃくさつがあれば、住民じゅうみんうらみをい、われわれは平穏へいおん駐留ちゅうりゅうできなかったはずだ」と証言しょうげん[104]
  • 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう58和田わだ泰一やすいち少尉しょういは「当時とうじ記録きろくめば事実じじつべつにあることはあきらかなのにだい虐殺ぎゃくさつせつゆるしてきたわたしたちの責任せきにんおおきい」とべた[104]
  • 独立どくりつけい装甲車そうこうしゃだい中隊ちゅうたい小隊しょうたいちょううね元正がんしょうおのれが、以下いかのように南京なんきんせん実態じったいべる。江南こうなん平野へいや200マイルの南京なんきん追撃ついげきせん日本にっぽんぐんいちなが駐留ちゅうりゅうすることはなかったし、掠奪りゃくだつ暴行ぼうこうおこなっておらず、都市とし戦禍せんか攻防こうぼうせんによってしょうじたもので、日本にっぽんぐんのみの故意こいのものではないとべている。日本にっぽんぐん追撃ついげきにあたって敗残はいざんへい深追ふかおいしなかったため、村落そんらく山中さんちゅう逃走とうそうした敗残はいざんへいが、便衣べんいへいとしてゲリラし、後方こうほう部隊ぶたい襲撃しゅうげきして日本にっぽんぐんなやませたとする。また、日本にっぽんぐん補給ほきゅう不十分ふじゅうぶんであったため将兵しょうへいおにじゅうしたとしょうされるが、上海しゃんはい南京なんきんあいだ200さとやくいちヶ月かげつ(11/11〜12/13)で進撃しんげきしたため、いちにち行程こうてい平均へいきん7さと補給ほきゅう作戦さくせん困難こんなんなものではなかったし、上陸じょうりくつづいて追撃ついげきうつった当初とうしょ補給ほきゅう不足ふそくのため現地げんち物資ぶっしによったが、12月10にち以後いご後方こうほう兵站へいたん追随ついずいしていた、と証言しょうげんする。また、上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう大西おおにしはじめは、松井まつい司令しれいかんよる蘇州そしゅう文化ぶんか住民じゅうみん保護ほごめいじられ、日本にっぽんぐん入城にゅうじょうきんじたと主張しゅちょうする。上海しゃんはい攻略こうりゃくせんにおいて、だい9師団しだん司令しれい城内じょうないはいらず、その翌日よくじつ到着とうちゃくしたぐん司令しれい蘇州そしゅうじょうがい司令しれいいた[128]ただし、この蘇州そしゅう上海しゃんはい隣接りんせつした都市としであり、東京とうきょう裁判さいばんそなえた尋問じんもん松井まつい大将たいしょう上海しゃんはい南市みなみいち安全あんぜん寄付きふしたこと自己じこ弁護べんご使つかうほどで、この地域ちいき状況じょうきょう相当そうとうことなっていたとかんがえられる。
海軍かいぐん
  • だい3艦隊かんたいだい11戦隊せんたい砲艦ほうかん勢多せた艦長かんちょう寺崎てらさき隆治りゅうじは、「そのとき戦争せんそうですから抵抗ていこうする中国ちゅうごくへい射殺しゃさつしましたし、混乱こんらんしてますからげまどっている住民じゅうみん反抗はんこうする市民しみん多少たしょうはいたでしょう。それは戦争せんそうつづきです。こういう情況じょうきょうのもとにこった戦死せんしたい戦後せんご南京なんきん虐殺ぎゃくさつだとっている」と証言しょうげんしている[129]。また南京なんきん裁判さいばん処刑しょけいされたたに寿夫としおについて「国際こくさいどおりで、国際こくさいほうくわしいひとですから、それをかんがえても南京なんきん虐殺ぎゃくさつ間違まちがいだ」と証言しょうげんしている[129]
  • だいさん艦隊かんたいだい11戦隊せんたい砲艦ほうかん比良びら艦長かんちょう土井どいさるは、宝塔ほうとうきょうがい治安ちあん回復かいふくおこない、べにまんじかいちんかんもりから礼状れいじょうったが、虐殺ぎゃくさつはなかった、礼状れいじょうもそうだが中国人ちゅうごくじん誇張こちょうして表現ひょうげんすると証言しょうげんした[130]
  • 上海しゃんはい海軍かいぐん武官ぶかんだい3艦隊かんたい司令しれいづけ重村しげむらみのるは、入城にゅうじょうしきのため12がつ17にち到着とうちゃくしたが、目撃もくげきしたのは中国人ちゅうごくじん民家みんかはいって、便器べんきなど手当てあてたり次第しだい掠奪りゃくだつしている姿すがたで、日本にっぽんへいによる残虐ざんぎゃく行為こういていないが、便衣べんいへい殺害さつがいしたとはいた、「このとき兵隊へいたいなのか市民しみんなのか、それは中国人ちゅうごくじん指摘してきさせた」といたと証言しょうげんした[131]
  • だい連合れんごう航空こうくうたい参謀さんぼう源田げんた[132]
  • 海軍かいぐんだい12航空こうくうたい3とう航空こうくう兵曹へいそう原田はらだかなめきゅうしき艦上かんじょう戦闘せんとうひかりはなもん攻撃こうげきしたが、陥落かんらく城内きうち露店ろてんち、「南京なんきんまことなごやかにきる、という印象いんしょうでした」「非常ひじょう平和へいわ進駐しんちゅう」だったと記憶きおくしていると証言しょうげんし、「なんじゅうまんにんものだい虐殺ぎゃくさつ信用しんようできない。もし、だい虐殺ぎゃくさつがあれば、中国人ちゅうごくじんはわれわれになごやかにせっしただろうか」とべている[126]
文官ぶんかん
  • 福田ふくだあつしやすし当時とうじ南京なんきん日本にっぽん大使館たいしかん南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいんちょうジョン・ラーベとの交渉こうしょうにもあたっていた[133]外交がいこうかん。「20まん、30まん虐殺ぎゃくさつはおろかせん単位たんい虐殺ぎゃくさつ絶対ぜったいにない。(りゃく)衆人しゅうじん環視かんしなかである。そんなことなどしたら、それこそだい問題もんだいだ。絶対ぜったいにウソである。宣伝せんでん謀略ぼうりゃくである」とべた[134]。また、「残虐ざんぎゃく行為こうい現場げんばていないがあれだけわれる以上いじょう残念ざんねんながら相当そうとうあったとおもう、しかしわたし体験たいけんからすれば、ほんいてあるものはずいぶん誇張こちょうされているようだ[135]」とべた。ただし、戦後せんごながらく国会こっかい議員ぎいんとして、南京なんきん虐殺ぎゃくさつがあったというはなしよろこばない政治せいじおお自民党じみんとうわたっていかねばならなかった人物じんぶつであるため、立場たちばじょうえないこともあったともかんがえられる。実際じっさい発言はつげん主眼しゅがんとなる部分ぶぶんがあまりに奇妙きみょう内容ないようであったりするため、いたひとしんけないようえてわざとそのようないいかたをしたのではないかとさえおもえ、真実しんじつうたがこえ[136]もある。
  • 企画きかくいん事務じむかん陸軍りくぐんしょうから出向しゅっこう岡田おかだ芳正よしまさは、南京なんきん事件じけんについて当時とうじいたことはなく、戦後せんごはじめていた、「南京なんきん事件じけんというのは、中国ちゅうごくがそれまでやってきた宣伝せんでんせん戦後せんごおこなったまでのこと」と証言しょうげんした[137]
  • 外務省がいむしょう領事館りょうじかん岩井いわい英一ひでかず[138]
  • 陥落かんらく同時どうじ南京なんきんりし、年明としあけに南京なんきん総領事館そうりょうじかん勤務きんむした領事館りょうじかん粕谷あらや孝夫たかおは、事件じけんについて直接ちょくせついたことはなく、渉外しょうがい部長ぶちょう広田ひろたゆたか大佐たいさからもいていないと証言しょうげんした[139]
  • 西本願寺にしほんがんじ従軍じゅうぐん僧侶そうりょ大谷おおや光照みつてる法主ほっしゅは12月14にち南京なんきんりし、17にち入城にゅうじょうしき参列さんれつ、18にち慰霊いれいさいおこなったが「虐殺ぎゃくさつておりませんし、うわさきませんでした。もうそのとき戦闘せんとうまった終息しゅうそくしていていち市内しない平静へいせいいち市民しみんぬすめもほとんどかけず、虐殺ぎゃくさつおこるような環境かんきょうではありませんでした。日本にっぽんぐん城内きうちしろがい適宜てきぎ宿営しゅくえいし、のんびり休養きゅうようをとっていました」と証言しょうげん[140]
報道ほうどういん
  • 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん山本やまもとおさむは、「朝日新聞あさひしんぶんでは話題わだいになったこともありません」、また白川しらかわたけしかい上海しゃんはい支局しきょくちょうからもいていないと証言しょうげん[141]
  • 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう当時とうじ上海しゃんはい支局しきょく次長じちょう)は、事件じけん全然ぜんぜんいていない、もし事件じけん発生はっせいしていれば、記者きしゃあいだ話題わだいになるはずだと証言しょうげんした[142]
  • 陥落かんらくからいちヶ月かげつあいだ南京なんきんにいた東京とうきょう新聞しんぶん金沢かなざわ喜雄よしおカメラマンは、「わたし南京なんきんをやたらあるいていますが、虐殺ぎゃくさつたことがなければ兵隊へいたいからいたこともありません」、また新聞しんぶん社内しゃないではいち話題わだいになっていないと証言しょうげんした[143]
  • 大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん五島ごしまひろさく[144]だい6師団しだんたに寿夫としお師団しだんちょう)に従軍じゅうぐんし1938ねん1がつ10日とおかまで南京なんきんにいたが、中国人ちゅうごくじん虐殺ぎゃくさつ命令めいれいいたことがなく、「東京とうきょう裁判さいばんがあってからのつくばなし」ではないか、と証言しょうげんした[145]。また、事件じけんがあったらしいとうわさ当時とうじいたので朝日あさひ読売よみうり同盟どうめい各社かくしゃわせたが、どのしゃらないので、中国ちゅうごく宣伝せんでん工作こうさくだろうとかんがえたとも証言しょうげんした[146]
  • 報知ほうち新聞しんぶん二村にむら次郎じろうカメラマンは、揚子江ようすこうでの死体したいについていたことがあるが「虐殺ぎゃくさつされたものではなく、かずおおいので話題わだいになったのだとおもいます」と証言しょうげんした[147]
  • 報知ほうち新聞しんぶん田口たぐちとしかいは、南京なんきん城内じょうのうち死体したいは2,3たいで、下関しものせきにもなにもなかったと証言しょうげん[148]
  • 読売新聞よみうりしんぶん樋口ひぐち哲雄てつおカメラマンは、「(虐殺ぎゃくさつの)形跡けいせきたことがありません。あったとよくいわれていますが、どこでどんなものがあったのか」「やらなきゃこっちがたられるからやったのを虐殺ぎゃくさつっているのだとおもいます」と証言しょうげんした[149]
  • 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん鈴木すずき二郎じろうは、戦後せんご検事けんじがわ証人しょうにんとして「ひゃくにんりは虐殺ぎゃくさつではない」と証言しょうげんし、さらにそのひゃくにん競争きょうそうについて文章ぶんしょう発表はっぴょう[150]山本やまもとななひらめ鈴木すずきあきら論争ろんそうになったが[151][152]中山なかやまもんじょう、励志しゃまえなどでそれぞれすうにんほどの敗残はいざんへい処刑しょけい下関しものせき死体したい1000たい以上いじょう目撃もくげきし「これらすべてが虐殺ぎゃくさつだったかどうかというと、すべてが虐殺ぎゃくさつだとかならずしもえない。しかし、それは敗戦はいせんこく運命うんめいで、虐殺ぎゃくさつになってしまいます。」、南京なんきん全体ぜんたい虐殺ぎゃくさつについては「自分じぶんたことではないからえない、わかりません」と証言しょうげんした[152]
  • 読売新聞よみうりしんぶんもりひろしカメラマンは、「捕虜ほりょにやる食糧しょくりょうがないし、収容しゅうようするところがない、はなしてもまた兵隊へいたいになる、それでこまって」捕虜ほりょ揚子江ようすこう殺戮さつりくしたといた、しかし南京なんきんでは市民しみんへの虐殺ぎゃくさつていないと証言しょうげんした[153]
  • 同盟どうめい通信つうしん新井あらい正義まさよしは、中国ちゅうごくへい死体したい便衣べんいものもいたし、なか捕虜ほりょ死体したいもあっただろうが、20まんだい虐殺ぎゃくさついたことがない、日本にっぽんへい捕虜ほりょこめれてあげるのをた、入城にゅうじょうしき直後ちょくごには小売こうりてん甘味あまみりょうもよくっていた、虐殺ぎゃくさつについては東京とうきょう裁判さいばんではじめていた、と証言しょうげんした[154]
  • 同盟どうめい通信つうしん浅井あさい達三たつぞうカメラマンは、おもね健一けんいちたいして、当時とうじ社内しゃない事件じけん話題わだいにならなかった、パラマウントのアーサー・メンケンからもかなかった、浅井あさい戦後せんご東京とうきょう裁判さいばん撮影さつえいしたが、松井まつい大将たいしょう起訴きそされるのは責任せきにんしゃだから仕方しかたない、ただし「20まんもの虐殺ぎゃくさつってますが、かずめんではそうはおもいません。南京なんきん人口じんこう大半たいはんがいなくなるかずですから」と証言しょうげんした[155]とされる。しかし、戦後せんご日本にっぽん占領せんりょう終了しゅうりょうまもなく出版しゅっぱんされた東京とうきょう裁判さいばんあつかったほんに、浅井あさい南京なんきん事件じけんかんし、南京なんきん陥落かんらく兵士へいしたちが続々ぞくぞく城壁じょうへきないはいってきて、そのころから火事かじ発生はっせい市内しない目抜めぬどおりが焼払やきはらわれた、兵士へいしたちが市民しみんにした虐殺ぎゃくさつなどは1週間しゅうかんわたってつづいた、それがいたたまれず自身じしん南京なんきんったと、寄稿きこうしている[156]
  • 同盟どうめい通信つうしん細波さざなみこうは、湯山ゆやまからと推測すいそくされる捕虜ほりょ連行れんこうたあと、入城にゅうじょうしき前日ぜんじつ当日とうじつ早朝そうちょう下関しものせきでのトーチカない揚子江ようすこうでの死体したいた、「それをて、国際こくさいほう違反いはんかんがえましたが、戦闘せんとう犠牲ぎせいしゃだとおもいました」「そのころは、やらなければこちらがやられますから」と証言しょうげんし、また上海しゃんはい支社ししゃちょう松本まつもと重治しげはる大学だいがくなにかがあったらしいのでよんにんおこなったがなに事件じけん形跡けいせきはなかったと証言しょうげんした[157]
  • しん愛知あいち新聞しんぶんみなみ正義まさよしは、13にちちゅう山門さんもんから入城にゅうじょうすると日本にっぽんへい死体したい2、3たい街路がいろじゅプラタナスるされ、あぶってあるのをたが、中国人ちゅうごくじんへの「虐殺ぎゃくさつがあったなどだれってませんし、ていない。日本にっぽん戦争せんそうけてから中国ちゅうごくがでっちあげていいだしたことです」とべ、また捕虜ほりょ殺害さつがいについては「そのとき決戦けっせん捕虜ほりょなし』という言葉ことばがあって、捕虜ほりょというかんがえは日本にっぽんぐんにはなかったとおもいます。もちろん中国ちゅうごくだって、げるときいえはらい、ものこわしてげ、便衣隊べんいたいになってスパイをやるし、 捕虜ほりょになってたすかるというはありません。おたが捕虜ほりょという概念がいねんがなく、たすかろうというもないから、捕虜ほりょをやったというのもへんはなしです。それは、あとからこういう国際こくさいほうらしわせればということでね。 戦場せんじょうらないひとがそれを虐殺ぎゃくさつだとっているだけです。便衣隊べんいたいのことを虐殺ぎゃくさつだとってるひともいますが、それは虐殺ぎゃくさつではありません」と証言しょうげんした[158]
  • 福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん三苫みとま幹之助みきのすけは、陥落かんらく直後ちょくご南京なんきんりしたが「だい虐殺ぎゃくさつはなしなんかてもいてもおりません。痕跡こんせきすら何一なにひとつありませんでした」と証言しょうげんしている[159]。またさんとまいた昭和しょうわ14ねん福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん記事きじでは、中国人ちゅうごくじん市民しみん証言しょうげんとして、日本にっぽんぐん到着とうちゃくする以前いぜん南京なんきん安全あんぜんのイホロ難民なんみんでは、中国ちゅうごくぐん兵士へいしじゅうって夜昼よるひる検察けんさつて、食糧しょくりょう物品ぶっぴん強奪ごうだつし、独身どくしん男性だんせい労役ろうえきのために拉致らちされ、よる女性じょせい拉致らちされていた、と証言しょうげんしている[160][159]
  • 新聞しんぶん小池こいけあきひつじは、中国ちゅうごくへい戦死せんしたいなんじゅうたいたが、虐殺ぎゃくさつはなしいたことはない、ただし南京なんきん全部ぜんぶたわけではない、と証言しょうげんした[161]。また小池こいけは、日本にっぽん補助ほじょ憲兵けんぺい難民なんみん潜入せんにゅうしている敗残はいざんへい摘出てきしゅつし、じゅうにんじゅうにんかにまとめて連行れんこうしたをている。直接ちょくせつていないが、郊外こうがい射殺しゃさつしたのではないかと推測すいそくしている。また、だい16師団しだん兵隊へいたい食糧しょくりょうなどを掠奪りゃくだつしているのは目撃もくげきし、それをシャンハイ・イブニング・ポストやノースチャイナ・デイリー・ニューズなどの外人がいじん記者きしゃ記事きじにした。小池こいけはそれらの記事きじ当時とうじ上海しゃんはいにした。
  • おもね健一けんいちによれば、福島ふくしまみんほう箭内やないただし五郎ごろうは、だい65連隊れんたい山田やまだ支隊したい)に従軍じゅうぐんしたが軍紀ぐんきみだれたこともなく、上海しゃんはいくらべると南京なんきんはあまりはげしくない戦線せんせんであった、戦後せんごにいわれただい虐殺ぎゃくさつはなかったと証言しょうげんしたという[16]
  • おもね健一けんいちによれば、海軍かいぐん従軍じゅうぐん絵画かいが通信員つうしんいん画家がかじゅうたに磐根いわねは、埠頭ふとう敗残はいざんへい1000にんじゃく銃剣じゅうけん処刑しょけいしたのを目撃もくげきし、翌朝よくあさいってみると遺体いたいやく800たいほどでまだうごいている中国ちゅうごくへいもいた、「これがあとで南京なんきん虐殺ぎゃくさつといわれたものだとおもいます」、ただし「日本にっぽんぐんとしては中国ちゅうごくへい殲滅せんめつしなければなりません。それが戦争せんそうですし、そうしないと今度こんど日本にっぽんぐんがやられてしまいます。そういう全体ぜんたいをわからなければ一部分いちぶぶんげても間違まちがいになります。南京なんきん虐殺ぎゃくさつといわれるのもそういうものです」、市民しみん避難ひなんにいたし中国ちゅうごくへい逃走とうそうしていたからいわゆる南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつはありえない、自転車じてんしゃ城内きうちをスケッチしてまわったが、虐殺ぎゃくさついちていない、と証言しょうげんしたという[162]
  • おもね健一けんいちによれば、外務省がいむしょう情報じょうほうづけ渡辺わたなべ義雄よしおカメラマンは、入城にゅうじょうしき前日ぜんじつか2にちまえ現地げんちりして、下関しものせき中国ちゅうごくへい処刑しょけいしていたといた、あとで将校しょうこう下士官かしかんくと捕虜ほりょ監獄かんごくれたがはいりきれないし食糧しょくりょうもなく、やむをえずやった、捕虜ほりょ犯罪はんざいじん合計ごうけいいちまんにんいたといたという。渡辺わたなべ直接ちょくせつたのは中国ちゅうごくへい死体したいばかりで、日本にっぽんへいによる残虐ざんぎゃく行為こういていないと証言しょうげんしたという[163]
  • おもね健一けんいちによれば、陸軍りくぐん報道ほうどうはんいん小柳こやなぎいちカメラマンは、揚子江ようすこうで300にん中国ちゅうごくへいころしたとはいたが「戦場せんじょうだからそういうはなしはいくらでもありますし、戦後せんごいわれているようなはなしいたことがありません」と証言しょうげんしたという[164]
  • 田中たなか正明まさあきによれば、読売新聞よみうりしんぶん上海しゃんはい特派とくはいんだったはら四郎しろうは、陥落かんらくさんヶ月かげつ虐殺ぎゃくさつがあったらしいといたが、当時とうじぐん箝口令かんこうれいいたわけでもなく、不思議ふしぎおもったのでかく支局しきょくわせたが不明ふめいだったので、中国ちゅうごく宣伝せんでん工作こうさくだろうというのが大方おおかた意見いけんだった、と証言しょうげんしたという[165]
  • 雑誌ざっしだい亜細亜あじあ主義しゅぎ従軍じゅうぐん記者きしゃ田中たなか正明まさあき[166]。1938ねん8がつ南京なんきん滞在たいざいした[166]田中たなか当時とうじ従軍じゅうぐんした大宅おおたく壮一そういち木村きむらあつし杉山すぎやま平助へいすけ野依のより秀市しゅういち西條さいじょう八十やそ草野くさのこころひらたはやし芙美子ふみこ石川いしかわ達三たつぞうもそれらの視察しさつ紀行きこうぶんなかには"だい虐殺ぎゃくさつ”をにおわすような文章ぶんしょうはどこにも見当みあたらない[167]とする。(実際じっさいには、大宅おおたく戦後せんご相当そうとうだい規模きぼ虐殺ぎゃくさつがあったということはじゅうふんいえるとべている。また、石川いしかわ達三たつぞう戦後せんご読売新聞よみうりしんぶんから取材しゅざいけており、いずれも、自分じぶんははおくれて南京なんきんはいったので現場げんばていないがかなりの虐殺ぎゃくさつがあった痕跡こんせき余燼よじんはあったとべている西條さいじょう八十やそにも雑誌ざっし新聞しんぶんへの寄稿きこうぶんでかなりのかず捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつおもわれるものについていているものがあるとされる[168][169]杉山すぎやま平助へいすけいたっては、事件じけん当時とうじ朝日新聞あさひしんぶんに、城壁じょうへきのほとりには中国人ちゅうごくじん死骸しがいがツクダニのようにかさなっている、それを善悪ぜんあくではなく現実げんじつ問題もんだいだ、たわけた指導しどうについて国民党こくみんとう政府せいふがいかにすじとおったことをおうと無辜むこなまみん惨害さんがいけたことはつぐなわれない、とぶん寄稿きこうしている[170]。また、当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん南京なんきん支社ししゃ若手わかて記者きしゃらに、勝利しょうりためには一切いっさい道徳どうとくりつ無力むりょくであり無能むのうだ、とかたった[171]という。)
  • おもね健一けんいちによれば、朝日新聞あさひしんぶん藤本ふじもとひさし記者きしゃは12月13にちひかりはなもんから南京なんきんはいったが、「従軍じゅうぐんあいだ特別とくべつなん事件じけんたりいたりはしませんでした」と証言しょうげんしたという[172]
  • おもね健一けんいちによれば、大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん西野にしのはじめ記者きしゃだいきゅう師団しだんともひかりはなもん方面ほうめんから南京なんきん入城にゅうじょうしたが、虐殺ぎゃくさつ当時とうじいたことがない、「戦場せんじょうでは幾多いくた流説るせつがあるのが当然とうぜんのことです」とかたったという[140]
  • 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ特派とくはいんとして従軍じゅうぐんした作家さっか石川いしかわ達三たつぞう1946ねん、「おんなをはづかしめ、殺害さつがいし、民家みんかのものを掠奪りゃくだつし、等々とうとう暴行ぼうこうはいたるところでくだりはれた、入城にゅうじょうしきにおくれて正月しょうがつわたし南京なんきんいたときまちじょうかばね累々るいるい大変たいへんなものだつた、おおきな建物たてもの一般いっぱん中国人ちゅうごくじんすうせんをおしこめてゆか手榴弾しゅりゅうだんをおきながしてをつけ焦熱しょうねつ地獄じごくなか悶死もんしさせた。また武装ぶそう解除かいじょした捕虜ほりょ練兵れんぺいじょうへあつめて機銃きじゅう一斉いっせい射撃しゃげきそうつた、しまひには弾丸だんがん使つかいふのはもつたいないとあつて、揚子江ようすこうなが桟橋さんばしつくり、河中かわなかくほどひくくなるやうにしておいて、 このうえ中国人ちゅうごくじん行列ぎょうれつさせ、先頭せんとうから順々じゅんじゅん日本にっぽんがたなくびせつつて河中かわなかへつきおとしたりぐちをふさがれた黒山くろやまのやうな捕虜ほりょ戸板といたつくえへつかまつてかわながれてくのを下流かりゅうちかまへた駆逐くちくかん機銃きじゅうのいつせい掃射そうしゃかたツぱしから殺害さつがいした。戦争せんそうちゅう興奮こうふんから兵隊へいたい無軌道むきどう行動こうどう逸脱いつだつするのはありがちのことではあるが、南京なんきん場合ばあいはいくらなんでも無茶むちゃだとおもえつた、 三重みえけんからきた片山かたやまぼうといふ従軍じゅうぐんそう読経どきょうなんかそツちのけで殺人さつじんをしてあるいた、左手ひだりて数珠じゅずをかけ右手みぎてにシヤベルをつて民衆みんしゅうにとびこみ、にげまどふ武器ぶきなきささえへいをたゝきころしてあるいた、そのかず廿にじゅうめいくだらない、かれ良心りょうしんはそのことですこしもいたまず部隊ぶたいちょう師団しだんちょうのところで自慢じまんはなしてゐた、ささえへさへけば簡単かんたんひところせるしじょ勝手かってにできるといふこうへが日本人にっぽんじん全体ぜんたいなか永年えいねんつちかえはれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺ぎゃくさつ暴行ぼうこう松井まつい司令しれいかんつてゐたかどうかはらぬ 『一般いっぱん住民じゅうみんでも抵抗ていこうするものは容赦ようしゃなくころしてよろしい』といふ命令めいれい首脳しゅのうからきたといふはなしをきいたことがあるがそれが師団しだんちょうからきたものか部隊ぶたいちょうからきたものかそれもらなかつた」といた[173]。が、後年こうねん田中たなか正明まさあきは、石川いしかわ田中たなかへのインタビューに「だい殺戮さつりく痕跡こんせき一片いっぺんておりません」と証言しょうげんしたと主張しゅちょうした[174]。また石原いしはら慎太郎しんたろうは、だい虐殺ぎゃくさつはなかったと石川いしかわったのをじかいたと主張しゅちょうする[175]おもね健一けんいち石川いしかわくなる3かげつまえの1984ねん10がつにインタビューを申込もうしこみ、そのときには石川いしかわ胃潰瘍いかいよう病後びょうごえなかったが、「わたし南京なんきんはいったのは入城にゅうじょうしきから週間しゅうかんです。だい殺戮さつりく痕跡こんせき一片いっぺんておりません。なにまん死体したい処理しょりはとてもさん週間しゅうかんではわらないとおもいます。あのはなしわたしいましんじてはおりません」と返事へんじもらった[176]とする。しかし、これら田中たなか石原いしはらおもね3めい主張しゅちょうはいずれも石川いしかわ達三たつぞう死後しごになってされたもので、実際じっさいには、石川いしかわ達三たつぞうは、生前せいぜん南京なんきん事件じけんかんして読売新聞よみうりしんぶん取材しゅざい戦後せんごにわたってけており、そこではいずれも虐殺ぎゃくさつ痕跡こんせきがあったことをべている[177]。また自著じちょにおいては虐殺ぎゃくさつ現場げんば目撃もくげきはしていないものの「大体だいたいのこと」をっており「事件じけんそのものを否定ひていすることはできなかった」ことや、東京とうきょう裁判さいばんたいする批判ひはんてき意識いしきもあり当時とうじは「日本にっぽんぐん立場たちば弁護べんごした」ことをしるしている[178]田中たなか石原いしはらおもね3めいはいずれもこのことをらなかったとられる。石原いしはら慎太郎しんたろうは、都知事とちじ時代じだい記者きしゃ会見かいけん石川いしかわ達三たつぞうはなしとのちがいを記者きしゃ一人ひとり指摘してきされると、石川いしかわ達三たつぞう二枚舌にまいじた使つかったのかもからないと主張しゅちょう、あくまでうそをついているのは、自分じぶんではなく石川いしかわほうだとする立場たちばをとって、その記者きしゃ質問しつもん打切うちきり、記者きしゃへの質問しつもん回答かいとうはじめた[175]
  • 前田まえだ雄二ゆうじ (同盟どうめい通信つうしんしゃ社会しゃかい記者きしゃ) は1937ねん12月16にち新井あらい写真しゃしん祓川はらいかわらとぐんかん学校がっこう処刑しょけい現場げんば目撃もくげきした[179]捕虜ほりょ一人ひとりずつ校庭こうていきだし、下士官かしかんがそれを前方ぜんぽう防空壕ぼうくうごう方向ほうこうはしらせ、かまえた兵隊へいたい銃剣じゅうけん背後はいごからとっつらぬき、ごうころちると、めをすという「処刑しょけい」をさんカ所かしょ並行へいこうして実行じっこうしており、かたわらの将校しょうこうは「新兵しんぺい教育きょういくだ」といったという[179]午後ごご交通こうつう銀行ぎんこううらいけほとりでも捕虜ほりょ処刑しょけいされているのを連絡れんらくいん中村なかむら太郎たろう目撃もくげきした[179]。12月17にちよるには揚子江ようすこうがんせんせんたっする死体したいて、城内きうち警備けいび司令しれい参謀さんぼうたずねると「少数しょうすう日本にっぽん部隊ぶたいが、多数たすう投降とうこう部隊ぶたい護送ごそうちゅう逆襲ぎゃくしゅうけたので撃滅げきめつした」との説明せつめいけた[179]前田まえだ後年こうねん、これらは戦闘せんとう範囲はんいはいるものであり、じゅうすうまんともさんじゅうまんにんともいわれる「だい虐殺ぎゃくさつ」にたいして、「長江ちょうこう沿いやこうもん、それに“処刑しょけい”、わたし自身じしん事実じじつ、これらのなかには戦闘せんとうにつながるものがあるかもれないが、これらの事実じじつかくになってうわさ拡幅かくふくされ、戦争せんそう被害ひがいまでがかさねられて、巨大きょだい数字すうじにふくれあがった」ものであると主張しゅちょうしている[179]
  • 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ 足立あだち和雄かずお1965ねんに「日本にっぽんぐんだい部隊ぶたいが、南京なんきんをめざして四方八方しほうはっぽうから殺到さっとうした。それといっしょに、多数たすう従軍じゅうぐん記者きしゃ南京なんきんつどってきた。そのなかに、守山もりやまくんわたしもふくまれていた。朝日新聞あさひしんぶん支局しきょくのそばに、焼跡やけあとでできた広場ひろばがあった。そこに、日本にっぽんへいされて、中国人ちゅうごくじんながれつつくっていた。南京なんきんにとどまっていたほとんどすべての中国人ちゅうごくじん男子だんしが、便衣隊べんいたいしょうしてとらえられたのである。わたしたちの仲間なかまがそのなか一人ひとりを、事変じへんまえ朝日あさひ支局しきょく使つかっていたおとこだと証言しょうげんして、たすけてやった。そのことがあってから、朝日あさひ支局しきょくには助命じょめいねがおんなこどもがしかけてきたが、わたしたちのちからでは、それ以上いじょうなんともできなかった。"便衣隊べんいたい"は、そのつまさけまえで、つぎつぎに銃殺じゅうさつされた。「かなしいねえ」わたしは、守山もりやまくんにいった。守山もりやまくんも、かんばかりのかおをしていた。そして、つぶやいた。「日本にっぽんは、これで戦争せんそう資格しかくうしなったよ」と。内地ないちでは、おそらく南京なんきん攻略こうりゃく祝賀しゅくが行事ぎょうじいていたときに、わたしたちのしんは、いかりとかなしみにふるえていた」といた[180]。しかし、おもね健一けんいちは、のち足立あだち和雄かずおは、「だい虐殺ぎゃくさつ」はていない、ただし、ぐん便衣隊べんいたい掃蕩そうとうにはやりすぎがあったかもしれないとおもねかたり、また、『守山もりやま義雄よしお文集ぶんしゅう』に寄稿きこうした「わたし南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ」という題名だいめいについて「不用意ふよういだった」と反省はんせいべんと、「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつについては意識いしきてきうそをついているひとがたくさんいる」とべて、後輩こうはい本多ほんだ勝一かついち主張しゅちょうにも残念ざんねんだと批判ひはんしたと、主張しゅちょうしている[181][90]
  • 同盟どうめい通信つうしんしゃ特派とくはいん小山こやま丈夫たけおは、1938ねんなつ外人がいじん記者きしゃ南京なんきん視察しさつだんから虐殺ぎゃくさつ事件じけんについて質問しつもんけなかったし、小山こやま東京とうきょう裁判さいばんはじめて事件じけんったと証言しょうげん[167]

中国人ちゅうごくじん証言しょうげん[編集へんしゅう]

  • 東京とうきょう裁判さいばん中国人ちゅうごくじん証人しょうにんたいしての反対はんたい尋問じんもんおこなわれていない[1]とするせつがあるが、実際じっさいには中国人ちゅうごくじん証人しょうにんにんうち被告人ひこくにんがわ弁護人べんごにん虐殺ぎゃくさつ生存せいぞんしゃ1めいふくむ3にんたい反対はんたい尋問じんもんおこなっている。のこり2にんたいする反対はんたい尋問じんもん被告人ひこくにんがわ弁護人べんごにん放棄ほうきしたが、その2人ふたりはいずれも虐殺ぎゃくさつ生存せいぞんしゃである[182]。また、多数たすう被害ひがいけた中国人ちゅうごくじんから多数たすう口供こうきょうしょ裁判さいばん提出ていしゅつされている。
  • しげるえい - 松村まつむら俊夫としおは、について「証言しょうげんのたびに内容ないようがクルクルわるのは、実体験じつたいけんでない証拠しょうこだろう」と著書ちょしょき、名誉めいよ毀損きそんたるとして民事みんじ裁判さいばんを1999ねん9がつこされた。東京とうきょう地裁ちさい判決はんけつで「(松村まつむらには、が)うそったとしんじる相当そうとう理由りゆうはなかった」とべ、松村まつむらに150まんえん支払しはらいをめいじた。2005ねん1がつ最高裁さいこうさい上告じょうこく棄却ききゃくとなり原告げんこく勝訴しょうそ確定かくていした。
  • なつよしきん -しんみちこう事件じけん証言しょうげんしゃ。これにたいし、東中野ひがしなかの修道しゅうどう事件じけん発生はっせい時間じかん本人ほんにん年齢ねんれいかんする情報じょうほう一家いっか人数にんずうとうにつき不合理ふごうりてんがみられるとして、にせ証言しょうげん主張しゅちょう[183]、さらに事件じけん被害ひがいしゃなつよしきん別人べつじん主張しゅちょうした[184]なつ中国ちゅうごく日本にっぽん東中野ひがしなかのたいして名誉めいよ毀損きそん訴訟そしょうこした。東中野ひがしなかの自身じしん誤訳ごやくにより不合理ふごうり内容ないようになっていることなどがあきらかになり、日本にっぽんでは最高裁さいこうさいまであらそわれたが、原告げんこくいちしんから最高裁さいこうさいまですべ勝訴しょうそした。

欧米おうべいじん証言しょうげん[編集へんしゅう]

  • ジョン・マギー - 南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいん南京なんきん国際こくさい赤十字せきじゅうじ委員いいんかい委員いいんちょう宣教師せんきょうしであり、被害ひがいしゃ南京なんきんろう病院びょういん(かねりょう大学だいがく病院びょういん)への救助きゅうじょ活動かつどうたずさわる。ために、かつぎこまれるおおくの被害ひがいしゃせっし、また、本来ほんらい外国がいこくじんでも安全あんぜん保障ほしょうされない安全あんぜんがいにも果敢かかんていき、被害ひがいあとることがおおかったため南京なんきん発生はっせいしていた事態じたい状況じょうきょう証言しょうげんするため東京とうきょうばれた。ろう病院びょういん救助きゅうじょ活動かつどうにあたり日本にっぽんへいより被害ひがいけたと多数たすう被害ひがいしゃ経験けいけんしんみちこう事件じけん現場げんばあとったこと、多数たすう住民じゅうみんられ城内きうちあるいは下関しものせき処刑しょけいされたことをいたこと、下関しものせきこうとした途中とちゅう路上ろじょう民間みんかんじん死体したいまっていたこととうを、東京とうきょう裁判さいばん証言しょうげんした。日本にっぽんでは伝聞でんぶん証拠しょうこだとむし法律ほうりつ専門せんもんではないものからの批判ひはんにしばしばさらされる。実際じっさいには、かれ発言はつげんだけで個々ここ犯罪はんざい犯人はんにん立証りっしょうするため直接ちょくせつ証拠しょうことして目撃もくげき証言しょうげんもとめられたわけではなく、事件じけん全体ぜんたいぞうあるいは事件じけん直後ちょくご被害ひがいしゃ状況じょうきょうため間接かんせつ証拠しょうこひとつとして、あるいは、えいべいほうにしばしばられるつみたい(犯罪はんざいとなる事実じじつ事件じけんそのものの存在そんざい)の証明しょうめいとして現場げんば目撃もくげき証言しょうげんもとめられたものとかんがえられる。マギーの撮影さつえいしたフィルム(マギー・フィルム)[185]は2015ねん10がつユネスコ記憶きおく遺産いさん登録とうろく
  • マイナー・シール・ベイツ- 南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいんふく委員いいんちょうかくか。南京なんきんかねりょう大学だいがく歴史れきしがく教授きょうじゅ南京なんきん裁判さいばん証人しょうにんとなる。宣教師せんきょうしとしての資格しかくち、日本にっぽんとき教会きょうかい出入でいりしていたことから、日本人にっぽんじんクリスチャンに知人ちじんおおく、親中しんちゅうであるととも親日しんにちとしてもられていた。事件じけんまえ日本にっぽん家族かぞくとも旅行りょこうており、上海しゃんはい事変じへんって、家族かぞく日本にっぽんのこした儘、急遽きゅうきょ南京なんきんもどった。上海しゃんはいのティンパーリに南京なんきんでの事件じけん連絡れんらくするひとし日本にっぽんぐんのいわゆる残虐ざんぎゃく行為こういおさえるためにティンパーリにひそかに協力きょうりょくしていたが、事件じけん親日しんにちであることそのものはわらなかったという。東中野ひがしなかの修道しゅうどうは、当時とうじのアメリカの一部いちぶ新聞しんぶん写真しゃしんのキャプション[186]いてあることを根拠こんきょに、マイナー・シール・ベイツ中国ちゅうごく国民こくみん政府せいふ顧問こもんであるとする。ただし、これはいま日本にっぽんでもられる大学だいがく教授きょうじゅなどが政府せいふ関係かんけい委員いいんかいのメンバーや顧問こもんつらねることと同様どうようなものとのせつがある。ベイツは東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ12ねん12月26にちでは「秩序ちつじょある日本にっぽんぐん入城にゅうじょう南京なんきん平和へいわはやくもおとずれたのはなによりです」とやむをえない社交しゃこう辞令じれい新聞しんぶんがわ脚色きゃくしょくか、そのような発言はつげんをしたとされた。なお、どう12がつ17にちごうだい11めんではベイツは「ささえ親善しんぜんのため活躍かつやくつづけてゐる親日しんにち」と報道ほうどうされている。証言しょうげん記録きろくは2015ねん10がつユネスコ記憶きおく遺産いさん登録とうろく
  • ルイス・S・C・スマイス - 南京なんきん安全あんぜん国際こくさい委員いいんかい委員いいん。ベイツの秘書ひしょてき役割やくわりたした。南京なんきん裁判さいばん証人しょうにんとなる。スマイス報告ほうこく作成さくせいしゃ東京とうきょう裁判さいばんでは、司法しほう職員しょくいん作成さくせいによるとみられるスマイスの口供こうきょうしょ検察けんさつがわから証拠しょうこ提出ていしゅつされたものの、当時とうじスマイスは国際こくさい連合れんごう乃至ないしその下部かぶ機構きこう設立せつりつ準備じゅんびかかわっていたため、いわば被告ひこくてきがわ関係かんけいしゃとされる立場たちば(当時とうじ国連こくれんにちどくてきとみなす敵国てきこく条項じょうこうそなえた、にちどくさい侵略しんりゃく防止ぼうしするため団体だんたいであった)にあった。スマイス報告ほうこく作成さくせい自体じたいはスマイスの国連こくれん準備じゅんび活動かつどう以前いぜんだが司法しほう職員しょくいん作成さくせいによる調書ちょうしょとなるわけではなく、おそらくは、国連こくれん活動かつどうえいべいほう訴訟そしょう手続てつづきルールのためにてきがわ人物じんぶつであるスマイス自身じしんがその信憑しんぴょうせい出廷しゅっていして証言しょうげんできるかも微妙びみょうであったことから提出ていしゅつ資料しりょうとされなかったものではないかとおもわれる。
    かれはコピーののこるタイプライターを使つかっていたため、この当時とうじ友人ゆうじん知人ちじん家族かぞくした手紙てがみ原文げんぶんだけでなく、日本にっぽんふく大使館たいしかん関係かんけいしゃした手紙てがみのコピーまで、イェール大学だいがく神学しんがく図書館としょかん(Divinity Library)の"南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ資料しりょうプロジェクト"(The Nanking Massacre Archival Project)で収集しゅうしゅうされ、PDF公開こうかいされている。そのうちの家族かぞくへの私信ししんは、しばしば日本人にっぽんじんろんしゃによって、そのなか都合つごういわずかなかず箇所かしょされて、南京なんきん残虐ざんぎゃく事件じけんがなかったかのように利用りようされるが、実際じっさいには、それ以外いがいは1ページやく5800てるようにおもわれるタイプライターで日記にっき体形たいけいしきにて4ページ途中とちゅうの1937ねん12月14にち部分ぶぶんから最後さいごの29ページまでほとんどギッシリと南京なんきんでの日本にっぽんぐん残虐ざんぎゃく行為こういつたえたものである[187]。(なお、この日記にっき関連かんれんして、アメリカじん虐殺ぎゃくさつものいと主張しゅちょうされることもあるが、外国がいこくじんらは南京なんきん国際こくさい安全あんぜん事実じじつじょうめられており、そこでの虐殺ぎゃくさつ日本にっぽんぐんけていたため、外国がいこくじんらは死体したいても虐殺ぎゃくさつ現場げんばそのものをることはほとんかった。が、それでも実際じっさいにはニューヨークタイムズのダーディン記者きしゃ、シカゴディリーニューズのスティール記者きしゃとう虐殺ぎゃくさつ現場げんば目撃もくげきしている[188]。)
  • ベルンハルト・シンドバーグ -当初とうしょえいデイリーテレグラフしゃ記者きしゃ運転うんてんしゅをしていたが、その南京なんきん郊外こうがいのデンマークのセメント工場こうじょう警備けいびやとわれ、日本にっぽんぐん進出しんしゅつするとドイツじんカール・ギュンターとともに工場こうじょう周辺しゅうへん一帯いったい安全あんぜん難民なんみんキャンプとした。 南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつねんかんしゅ成山なりやま館長かんちょうは、シンバーグは南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ目撃もくげきしゃであるとする[189][190]たいして日本にっぽんでは、近隣きんりんやまこうのにやはり同様どうよう難民なんみん施設しせつもうけた棲霞山寺やまでら僧侶そうりょ依頼いらいけて、シンドバーグは日本にっぽんへい掠奪りゃくだつ強姦ごうかんからの保護ほご海外かいがいもとまる信書しんしょ翻訳ほんやく連絡れんらくをしたにとどまる[191]とする主張しゅちょうされている。が、シンドバーグは写真しゃしん趣味しゅみとし、この当時とうじ写真しゃしんりためており、テキサス大学だいがくオースチンこうには、日本にっぽんぐん残虐ざんぎゃく行為こうい関連かんれんするものもをふくむ、かれがとったとされる1937-1938ねん写真しゃしんがコレクションされている[192](ただし、時期じきからてどれが上海しゃんはい事変じへんのものでどれが南京なんきん事件じけんのものであるかは注意ちゅういようする)。また、エール大学だいがく神学しんがくにはシンドバーグとベイツがのあいだわされた日本にっぽんぐん残虐ざんぎゃく行為こういかんする書簡しょかん保管ほかんされているというはなしがある。近年きんねんさい認識にんしきされるようになった資料しりょうでは、シンドバーグ自身じしんほう難民なんみん施設しせつでは、おおきな問題もんだいこらなかったようにえる[193]が、東京とうきょう裁判さいばんでマギーは、そこを訪問ほうもんしたさいに、日本にっぽんへいおんなもとめてくるので村長そんちょうかくものたちが10~20にん程度ていど警戒けいかいたっており、かれらが日本にっぽんへい要求ようきゅうことわるため日本にっぽんへい暴力ぼうりょくをふるわれるとかたっていたことを証言しょうげん[194]している。また、関係かんけいせい不明ふめいであるがカール・ギュンターの遺族いぞくからも南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつねんかん南京なんきん事件じけんかんする写真しゃしん提供ていきょうけている[195]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 再審さいしん南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ世界せかいうったえる日本にっぽん冤罪えんざい,2016ねん9がつ30にち閲覧えつらん書籍しょせき明成めいせいしゃ (2000)
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  3. ^ にちちゅう戦争せんそう 南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん青木あおき書店しょてん、1985ねん、41-43,73ぺーじ 
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  8. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう だいかん 中国ちゅうごく関係かんけい資料しりょうへん(株)かぶしきがいしゃ青木あおき書店しょてん、1992ねん、302ぺーじ 
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  36. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 353 「カギ括弧かっこくくられた文章ぶんしょう引用いんようぶんだから、・・・原典げんてん原文げんぶん存在そんざいするはず」と原本げんぽん提示ていじもとめたが、笠原かさはら出版しゅっぱんしゃがわ無視むし
  37. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 365 『諸君しょくん!』「世界せかい教科書きょうかしょ出現しゅつげんした曽根そね一夫かずお亡霊ぼうれい」。7箇月かげつ出版しゅっぱんがわは「命令めいれい」が曽根そねほんからの引用いんようであることをみとめ、その部分ぶぶんあらためた。「あったにちがいない個々人ここじん不行跡ふぎょうせきが、あたかも軍命ぐんめいれい最終さいしゅうてきには国家こっか意志いし、によっておこなわれたかのよう」な笠原かさはら記述きじゅつは、使用しようほんから削除さくじょされた。
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  39. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 260 「師団しだん記録きろくなどでも・・・20日はつかぎると水運すいうん糧秣りょうまつはこばれ・・・供給きょうきゅう緩和かんわされていく」
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  47. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 277 むらさき金山かなやま付近ふきんの「残酷ざんこくはなし兵科へいか歩兵ほへいとし、部隊ぶたい駐留ちゅうりゅう南京なんきん東北とうほくかた実際じっさいには野砲やほうさんひかりはなもん南方なんぽう山西さんせいむら付近ふきんに19にちまで宿営しゅくえい)に設定せっていしたウソのうえ構成こうせいされている」。戦友せんゆうはいずれもつよ否定ひてい。「自分じぶん南京なんきんにはおこなっていないとNかたっている」
  48. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 258 『原本げんぽんねんまえ処分しょぶんし』たという日記にっきは、すべてしんカナづかいでかれている。続編ぞくへん出版しゅっぱんさいつくったものと推定すいていするのが自然しぜんであろう」
  49. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 243 『諸君しょくん!』1984ねん10がつごうの「松井まつい大将たいしょういたか?」はたいく
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  54. ^ 板倉いたくら由明よしあき 1999, p. 235 「あいだちがってもらってはこまるが、筆者ひっしゃはた要求ようきゅうしているのは、たんなるレイプ場面ばめん削除さくじょではなく、曽根そね一夫かずお手記しゅき全部ぜんぶ削除さくじょなのである」
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]