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百人斬り競争 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ひゃくにん競争きょうそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひゃくにん競争きょうそうほうじる1937ねん12月13にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん写真しゃしんみぎ野田のだあつし少尉しょうい向井むかい敏明としあき少尉しょういつねしゅうにて佐藤さとうことぶき撮影さつえい

ひゃくにん競争きょうそう(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937ねん11月から12がつにかけての南京なんきんせんにおいて、上海しゃんはい派遣はけんぐん だい16師団しだん歩兵ほへいだい9連隊れんたいだい3大隊だいたい副官ふっかん野田のだあつし少尉しょういどう大隊だいたい砲兵ほうへい小隊しょうたいちょう向井むかい敏明としあき少尉しょういてきへいひゃくにんりをどちらがさき達成たっせいするかを、競争きょうそうしていると報道ほうどうされたはなし[1]南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていでは、報道ほうどう記事きじ証拠しょうことされりょう少尉しょうい死刑しけい判決はんけつけ、あめ花台かだい処刑しょけいされた[1]

戦中せんちゅう前線ぜんせん勇士ゆうし武勇ぶゆうだんとして賞賛しょうさんされたが、戦後せんご南京なんきん事件じけん象徴しょうちょうするものとして[2]非難ひなんされた[3]戦後せんご本多ほんだ勝一かついちの『中国ちゅうごくたび』で紹介しょうかいされ、これにたいして鈴木すずきあきらが『「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ」のまぼろし』、山本やまもとななたいらが『わたしなか日本にっぽんぐん』で、虚構きょこうせいろんじたことにより一般いっぱんられるようになった[4]山本やまもとたいしてほら富雄とみお反論はんろんした[4]

2003ねん4がつ28にち向井むかい敏明としあき長女ちょうじょ二女じじょ野田のだあつしいもうと遺族いぞくさんにん原告げんこくとなって、毎日新聞まいにちしんぶん朝日新聞あさひしんぶん執筆しっぴつしゃ本多ほんだ勝一かついちえもの競争きょうそうだったと主張しゅちょうする本多ほんだろん稿こうふくむ『南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん13のウソ』を刊行かんこうした柏書房かしわしょぼう被告ひこくとし、「信憑しんぴょうせいとぼしいはなしをあたかも歴史れきしてき事実じじつとする報道ほうどう出版しゅっぱんいまつづ名誉めいよ傷付きずつけられた」として、東京とうきょう地裁ちさい提訴ていそし、出版しゅっぱんめ、謝罪しゃざい広告こうこく損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうした[5]。2005ねん8がつ23にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ (土肥どいあきらだい裁判さいばんちょう)で原告げんこくらの請求せいきゅう棄却ききゃくされ[6][7][注釈ちゅうしゃく 1]、2006ねん5がつ24にち控訴こうそしん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ (石川いしかわ善則よしのり裁判さいばんちょう) で控訴こうそ棄却ききゃくされ[10][注釈ちゅうしゃく 2]、2006ねん12月22にち上告じょうこくしん最高裁判所さいこうさいばんしょ (今井いまいいさお裁判さいばんちょう) で上告じょうこく棄却ききゃくされた。『当時とうじとしては、「ひゃくにん競争きょうそう」として新聞しんぶん報道ほうどうされることに違和感いわかんたない競争きょうそうをした事実じじつ自体じたい否定ひていすることはできず』『本件ほんけん日日ひび記事きじは、りょう少尉しょうい浅海せんかい新聞しんぶん記者きしゃに「ひゃくにん競争きょうそう」のはなしをしたことが契機けいきとなって連載れんさいされた』『りょう少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」をおこなったこと自体じたいが、なん事実じじつもとづかない新聞しんぶん記者きしゃ創作そうさくによるものであるとまでみとめることは困難こんなん』と認定にんていされ、原告げんこく敗訴はいそ確定かくていした[12]

当時とうじ報道ほうどう

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戦時せんじちゅうに、以下いか記事きじ報道ほうどうされた。

番号ばんごう 媒体ばいたい 日付ひづけ おも内容ないよう
1 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん11月30にち 向井むかい少尉しょうい野田のだ少尉しょういてきへいをどちらがはやひゃくにんりするか競争きょうそうしている。すずからはじめて現在げんざい65たい25(つねしゅうでのインタビュー記事きじ)(つねしゅうにて29にち浅海あさみ光本みつもと安田やすだ
2 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん12月4にち つねしゅう出発しゅっぱつから丹陽たんようまでに数字すうじ更新こうしんして86たい65。向井むかい少尉しょうい丹陽たんよう中正ちゅうせいもん一番乗いちばんのりを決行けっこう野田のだ少尉しょういみぎ手首てくび軽傷けいしょう丹陽たんようにて3にち浅海せんかい光本みつもと
3 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん12月6にち よう入城にゅうじょうにもりょう少尉しょうい最前線さいぜんせんって奮戦ふんせん」、89たい78(ようにて5にち浅海せんかい光本みつもと
4 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん12月13にち むらさき金山かなやま攻略こうりゃくせんさいに106たい105、野田のだ「おいおれはひゃくだが貴様きさまは?」向井むかい「おれはひゃくろくだ!」10にち正午しょうご対面たいめんしドロンゲームとしてあらたに150にん競争きょうそうはじめた。11にちひるちゅう山陵さんりょう眼下がんか見下みくだす(むらさき金山かなやまふもとにて12にち浅海せんかい鈴木すずき)-向井むかい野田のだりょうならんでともにられた記念きねん写真しゃしん紙面しめんる。
5 鹿児島かごしま毎日新聞まいにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん12月16にち 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん後追あとお記事きじ
6 鹿児島かごしま毎日新聞まいにちしんぶん 昭和しょうわ12ねん12月18にち 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん後追あとお記事きじ
7 大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん 昭和しょうわ13ねん1がつ25にち 野田のだ少尉しょうい中村なかむらすずりろうあてにひゃくにんりを自慢じまんする手紙てがみとどいた。そのなかで、南京なんきん入場にゅうじょうまでに105にんったがその253にんったこと、『ひゃくにんりのうた』がつくられていることが紹介しょうかいされている。
8 鹿児島かごしま朝日新聞あさひしんぶん 昭和しょうわ13ねん3がつ20日はつか 野田のだ少尉しょうい鹿児島かごしま帰還きかん。374にんったとかたった。
9 鹿児島かごしま新聞しんぶん 昭和しょうわ13ねん3がつ21にち 野田のだ少尉しょういが374にんったとかたった。地元じもと児童じどう生徒せいとひゃくにんりの競争きょうそうだんをなした。
10 鹿児島かごしま朝日新聞あさひしんぶん 昭和しょうわ13ねん3がつ22にち 野田のだ少尉しょういちち伊勢いせぐま息子むすこ戦果せんか(374にんり)を紹介しょうかい。(野田のだ少尉しょうい両親りょうしんじょとよ写真しゃしん掲載けいさい
11 鹿児島かごしま新聞しんぶん 昭和しょうわ13ねん3がつ26にち 野田のだ少尉しょういかみがたなかんひゃくにんりの講演こうえんおこなった。
12 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ14ねん5がつ19にち 向井むかい少尉しょうい野田のだ少尉しょういわかれてから約束やくそくの500にんりをはたすため、奮闘ふんとうちゅういままでに305にんった。
13 しん世界せかい朝日新聞あさひしんぶん 昭和しょうわ14ねん6がつ12にち 野田のだ中尉ちゅうい戦死せんししたが(誤報ごほう)、向井むかい中尉ちゅうい約束やくそくの500にんりをはたすためあいがたなれるまで頑張がんばるという[注釈ちゅうしゃく 3]

反響はんきょう

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この競争きょうそう地元じもと英雄えいゆうたんとして、おおいに称賛しょうさんされた。鹿児島かごしま草牟田そうむた尋常じんじょう小学校しょうがっこうふく教材きょうざいではひゃくにん競争きょうそうをとりあげ、「わき、にくおどるような、ほがらかなはなしであります」と紹介しょうかいされた[14][2] だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ高木たかぎ義賢よしかたちょ南京なんきんじょうそう攻撃こうげき(ささえ事変じへん少年しょうねん軍談ぐんだん)』はこのことを「報国ほうこくひゃくにん競争きょうそう」とんでいる。[3]

野田のだは、地元じもと小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこうで、おおくの公演こうえんおこない、ひゃくにん競争きょうそうについてはなしをした[15][16][17][18][19]

南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい

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1947ねんなつ、ともに陸軍りくぐん少佐しょうさとして復員ふくいん除隊じょたいしていた向井むかい敏明としあき野田のだあつしはGHQにより逮捕たいほされ、警察けいさつしょ拘留こうりゅうされたのち巣鴨すがも拘置こうちしょさらに中国ちゅうごく南京なんきん戦犯せんぱん拘留こうりゅうしょ移送いそうされ、12月4にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんやその転載てんさい翻訳ほんやく資料しりょうとする『外人がいじん目睹もくとちゅうにちぐん暴行ぼうこう[20]もと南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていにおいて「我国わがくにじん殺害さつがい容疑ようぎでそれぞれ起訴きそされた。12月5にち向井むかい法廷ほうてい弁論べんろんえたのち二人ふたり事件じけん合同ごうどう裁判さいばんすることとなり、さらにのちべつさんひゃくにんりを理由りゆうすで起訴きそされ同月どうげつ12にちにも公判こうはんおこなわれていた田中たなかぐんきち陸軍りくぐん少佐しょうさ[注釈ちゅうしゃく 4]事件じけん当時とうじだいろく師団しだんだいよん連隊れんたい中隊ちゅうたいちょう陸軍りくぐん大尉たいい)と合同ごうどう公判こうはんおこなうこととなった。18にちおこなわれた公判こうはんではよりおおくのひとけるよう法廷ほうていがいにも拡声かくせいもうけられ、いし裁判さいばんちょうによって当日とうじつ18にちには「戦争せんそうちゅう捕虜ほりょおよ戦闘せんとういん共同きょうどう連続れんぞくして虐殺ぎゃくさつおこなった」[22]として全員ぜんいん死刑しけい判決はんけつけた。3めい中華民国ちゅうかみんこくによって1948ねん1がつ28にち南京なんきん郊外こうがいあめ花台かだい)で処刑しょけいされた。(詳細しょうさい後述こうじゅつひゃくにん競争きょうそう#南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい詳細しょうさい)

論争ろんそう

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1971ねん本多ほんだ勝一かついちは、朝日新聞あさひしんぶん連載れんさいしていたルポルタージュ『中国ちゅうごくたび』(のちに単行本たんこうぼん)で、この事件じけんげた。このとき、本多ほんだは、りょう少尉しょういをA少尉しょうい、B少尉しょうい匿名とくめい表現ひょうげんした。これにたいして、イザヤ・ベンダサン山本やまもとななたいら)は、「ひゃくにん競争きょうそう存在そんざいしない」とし、「なぜりょう少尉しょうい匿名とくめいにしたのか。実名じつめいあきらかにしていただきたい。このはなしは「伝説でんせつ」なのでしょう。この二人ふたり存在そんざいしないから実名じつめいしるせないのでしょう。」と批判ひはんした[23]。これにたいして、本多ほんだは、りょう少尉しょうい実名じつめいりの新聞しんぶん記事きじ鈴木すずき二郎じろう記者きしゃこころざしあきら稿こう(後述こうじゅつ)をげ、「これでも伝説でんせつ主張しゅちょうしますか」と反論はんろんした[24]

山本やまもと軍隊ぐんたい常識じょうしきという経験けいけんもとづいた論法ろんぽうで、鈴木すずきあきら南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい記録きろく向井むかい少尉しょういるものたちへの取材しゅざいという方法ほうほうにより虚偽きょぎ主張しゅちょう[25]。 その鈴木すずき雑誌ざっしぶん主張しゅちょうをまとめた「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつのまぼろし」を出版しゅっぱん[26]大宅おおたくしょう受賞じゅしょうする。山本やまもと殺陣師たてし談話だんわ軍刀ぐんとう修理しゅうりたった成瀬なるせせき著書ちょしょたたか日本刀にっぽんとう』、軍刀ぐんとう強度きょうど試験しけんった材料ざいりょう工学こうがくのO工学こうがく博士はかせからの手紙てがみ[27]自身じしん体験たいけんとうから、「日本にっぽんがたな本当ほんとうれるのはいいとこさんにん」(殺陣師たてしとう引用いんようして「日本にっぽんがたなにはバッタバッタとひゃくにんりができるものでない」と結論けつろんづける[28]

はたいくは、その山本やまもとたいし、「1.無抵抗むていこう捕虜ほりょえものりすること[注釈ちゅうしゃく 5]想定そうていがいとしていること」「2.成瀬なるせちょから都合つごうのよい部分ぶぶんだけを利用りようし、都合つごうわる事例じれい無視むししている[注釈ちゅうしゃく 6][注釈ちゅうしゃく 7]こと」から『トリックないしミスリーディングといえよう』とひょうした[30]ほら富雄とみおも、おな観点かんてんから同様どうよう山本やまもとななたいら鈴木すずきあきら批判ひはんしている[注釈ちゅうしゃく 8]

(山本やまもとの「えものりを想定そうていがい」について[注釈ちゅうしゃく 9]。また「都合つごうわる事例じれい」すなわちは日本にっぽんがたな優秀ゆうしゅうせいうた個所かしょはたによるとこの4箇所かしょ[33][34][35][36][37]。)

野田のだ少尉しょうい手紙てがみ中村なかむらすずりろうひゃくにんりを告白こくはくし、新聞しんぶん報道ほうどう内容ないようにいささかの否定ひていてき見解けんかいしめしていない(「当時とうじ報道ほうどう」の8ばん記事きじ)[38]記事きじや、向井むかい中尉ちゅういみずからが浅海せんかい光本みつもと鈴木すずき記者きしゃとはべつ特派とくはいんに、それもねんにおいてはなした「305にんり」の記事きじが2004ねんさい発見はっけんされたことで、「ひゃくにん競争きょうそう浅海せんかい記者きしゃらの一方いっぽうてき創作そうさく記事きじだった」という鈴木すずきあきら山本やまもとななたいらせつ否定ひていされることになる [39]

ぶつり」せつ

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本多ほんだ勝一かついちによる「えものひゃくにんり」せつ

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本多ほんだ勝一かついちは、てきしめされている事実じじつからの推論すいろん形式けいしきにより論者ろんしゃ個人こじんてき位置いち見解けんかいとしての体裁ていさいりつつ、りょう少尉しょうい行為こういがいわゆる「えものり」(通常つうじょう軍刀ぐんとうとうもちいてしているものとうることを意味いみする)であり、捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつ競争きょうそうおこなったものであること、および、その結果けっかりょう少尉しょうい南京なんきん軍事ぐんじ裁判さいばん死刑しけいしょせられたことを事実じじつとして摘示した。[40]

主張しゅちょう根拠こんきょ

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本多ほんだ勝一かついちらは、「ひゃくにん競争きょうそう」の事実じじつつぎのような各種かくしゅ資料しりょう裏付うらづけられている、と主張しゅちょうした。[41]

  1.  当時とうじ新聞しんぶんとう資料しりょう東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記事きじ
  2.  東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記事きじ以外いがいにも、つぎのような報道ほうどうがされている。
    1. 野田のだ少尉しょうい中村なかむらすずりろうあての手紙てがみ紹介しょうかいされている。そのなかで、「ひゃくにん競争きょうそうなんてスポーツてきなことが出来できた」こと、南京なんきん入城にゅうじょうまでに「105った」がその「253にんはたった」として「ひゃくにん競争きょうそう」の事実じじつ自認じにんしている。
    2. 野田のだ少尉しょうい帰国きこくしたさい記事きじでは「374にんった」として野田のだ少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」について詳細しょうさいかたっている。
    3. 向井むかい少尉しょういは、「今度こんどせんにんりである」「野田のだ少尉しょういわかれてから約束やくそくひゃくにんりをたすため、一生懸命いっしょうけんめいやっている」「いままでに305にんりました」とべている。
  3. 野田のだ少尉しょういちち野田のだ伊勢いせぐま昭和しょうわ42ねん6がつ段階だんかい野田のだ少尉しょういが「南京なんきん入城にゅうじょうまえひゃくにん競争きょうそうどう連隊れんたい向井むかい少尉しょういとなし」たことをみとめている[42]
  4. 野田のだ少尉しょういおな中隊ちゅうたい所属しょぞくしていた望月もちづき五三いつみろう手記しゅきわたしささえ事変じへん私家版しかばん)』(P42-45)に、野田のだ少尉しょうい武装ぶそう一般いっぱん農民のうみんったこと、ささえじんつければ向井むかい少尉しょういうばいをするほどエスカレートしたこと、をしるしている。
  5. こころざしあきらは、「中国ちゅうごく」1971ねん12がつごう投稿とうこうしたろん稿こうなかで、野田のだ少尉しょうい講演こうえん内容ないようを「郷土きょうど出身しゅっしん勇士ゆうしとか、ひゃくにん競争きょうそう勇士ゆうしとか新聞しんぶんいているのはわたしのことだ。実際じっさい突撃とつげきしていって白兵戦はくへいせんなかったのはよんにんしかいない。占領せんりょうしたてき塹壕ざんごうにむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナへいはバカだから、ぞろぞろとてこちらへやってくる。それをならばせておいて、かたっぱしからる。ひゃくにんりと評判ひょうばんになったけれども、本当ほんとうはこうしてったものが殆んどだ。」と紹介しょうかいしている。そして、こころざしあきら同級生どうきゅうせいであった辛島からしま勝一かついちこころざしにあてた手紙てがみなかに、野田のだ捕虜ほりょったはなしをしていたむねしるしている。
  6. 2少尉しょうい作成さくせいした遺書いしょなかでも、2少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」についてはなしたことにより新聞しんぶん記事きじになった、とみとめている
  7. 浅海あさみ鈴木すずきりょう記者きしゃおよ佐藤さとうことぶきカメラマンのろん稿こうでは、記者きしゃにん少尉しょういからいたはなし記事きじにした、と一致いっちしてべられている。
  8. 南京なんきん攻略こうりゃくせんにおいては、捕虜ほりょ一般いっぱん民衆みんしゅうたいする殺害さつがいはごくありふれた現象げんしょうだったことをしめ資料しりょう多数たすう存在そんざいしている。
  9. 以上いじょうしめしたかく資料しりょうは、野田のだらが農民のうみんとう殺害さつがいした現場げんば目撃もくげきした資料しりょう野田のだ少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」をなし、捕虜ほりょ殺害さつがいしたむねはなした資料しりょうりょう少尉しょうい取材しゅざい記者きしゃたいしてみずから「ひゃくにん競争きょうそう」についてかたっていた資料しりょうであり、さらにはこれらの資料しりょう裏付うらづける資料しりょう存在そんざいなどおたがいの資料しりょうささえあい、おぎなって「ひゃくにん競争きょうそう」の事実じじつ捕虜ほりょ殺害さつがい事実じじつあきらかにしているのである。

はたいく彦による「ぶつり」せつ

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はたいくは「ひゃくにんりについて、わたし通説つうせつとはちょっとちが見解けんかいなんですよ。これは捕虜ほりょえものりだったのではないかと推定すいていしています。もちろんひゃくにんはオーバーでしょうが、ひゃくにんりをやったとされる二人ふたり少尉しょういのうち、一人ひとり有名ゆうめいになってから母校ぼこう小学校しょうがっこう講演こうえんして、生徒せいとたちに、あれは捕虜ほりょったんだとはなしているんです。それをいたひと何人なんにんかいるんですよ。捕虜ほりょえものりなら可能かのうなんです。」とべた[43]

はたいくは、1991ねんなつこころざしあきら証言しょうげん裏付うらづけをとるために鹿児島かごしま師範しはん学校がっこう付属ふぞく小学校しょうがっこう同級生どうきゅうせい名簿めいぼたよりにわせ、「野田のだ中尉ちゅういこしからかたないてえものりをする恰好かっこうせてくれたのが印象いんしょうてきだった」という辛島からしま勝一かついち証言しょうげん、「実際じっさいには捕虜ほりょったのだとい、かれらは綿服めんぷくているのでなかなかれるものではなかった」とくわえたという北之きたのえんとく証言しょうげん野田のだ全校ぜんこう生徒せいとまえ剣道けんどうじょう捕虜ほりょぶつりの恰好かっこうをしてせたのを記憶きおくしており、あとで剣道けんどう教師きょうしから「とんでもない所行しょぎょうだ」といましめられたという日高ひだかまこと証言しょうげんなどを紹介しょうかいし、「どうやら一般いっぱん住民じゅうみんはともかく、野田のだ白兵戦はくへいせんだけでなく、捕虜ほりょならべてのぶつりをやったと『告白こくはく』したのは事実じじつらしい。」とべた[44]

望月もちづき五三いつみろう回想かいそうろく

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野田のだ少尉しょうい部下ぶかであったという望月もちづき五三いつみろうは、私家しかばん回想かいそうろくわたしささえ事変じへん』で野田のだ少尉しょうい行為こうい下記かきのように描写びょうしゃしている。

このあたりから野田のだ向井むかいりょう少尉しょういひゃくにんりがはじめるのである。野田のだ少尉しょうい見習みならい士官しかんとしてだい11中隊ちゅうたい赴任ふにん我々われわれ教官きょうかんであった。少尉しょうい任官にんかん大隊だいたい副官ふっかんとして、行軍こうぐんちゅううまにまたがり、配下はいか中隊ちゅうたい命令めいれい伝達でんたつ奔走ほんそうしていた。
このひとひゃくにんりの勇士ゆうしとさわがれ、内地ないち新聞しんぶん、ラジオニュースで賞賛しょうさんされ一躍いちやく有名ゆうめいになったひとである。
「おい望月もちづきあこにいるささえじんをつれてこい」命令めいれいのままにささえじんをひっぱってた。たすけてくれと哀願あいがんするが、やがてあきらめてまえすわる。少尉しょういげた軍刀ぐんとうにしてふりかえり、にくしみまるだしのわらいひをこめて、軍刀ぐんとうをにらみつける。
一刀いっとうのもとにくびがとんで胴体どうたいが、がっくりとまえたおれる。くびからふきしたいきおい小石こいしがころころとうごいている。をそむけたい気持きもちも、少尉しょうい手前てまえじっとこらえる。
戦友せんゆうまえ幾多いくたかばねえてきたわたしではあったが、抵抗ていこうなき農民のうみんなにんの理由りゆうもなく血祭ちまつりにあげる行為こういはどうしても納得なっとく出来できなかった。
その行為こういは、ささえじんつければ、向井むかい少尉しょういとうばいごうひするほど、エスカレートしてきた。
りょう少尉しょういなみだながしてたすけをもとめる農民のうみん無残むざんにもてた。ささえへい戦闘せんとうちゅうたたきったのならいざらず。この行為こうい連隊れんたいちょう大隊だいたいちょうっていたはずである。にもかかわらずこれを黙認もくにんした。そしてこのひゃくにんりは続行ぞっこうされたのである。

朝日新聞あさひしんぶん名誉めいよ棄損きそん裁判さいばんにて、望月もちづき回想かいそうろく証拠しょうことして提出ていしゅつ[45]裁判所さいばんしょ反証はんしょうがないことを以って回想かいそう真実しんじつ証拠しょうこの1つにしている[46]

おも否定ひていせつ

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りょう少尉しょういおな大隊だいたい歩兵ほへい9連隊れんたいだい3大隊だいたい)の大野おおの少尉しょういだい3大隊だいたいだい9中隊ちゅうたいだい1小隊しょうたい陣中じんちゅう日誌にっし東中野ひがしなかの修道しゅうどう検証けんしょう

大野おおの少尉しょういじん中日ちゅうにち[47]解説かいせつ
日付ひづけ 行跡ぎょうせき 解説かいせつ
12月2にち 13:45丹陽たんよう停車場ていしゃじょう(しろがい)を占領せんりょうさら追撃ついげき新豊しんゆたかえきうら高地こうちにていちばんちゅう交戦こうせん 丹陽たんようはいらず、22:00陽東ようとうもん占領せんりょうしたのは20連隊れんたいだい4中隊ちゅうたい[48]
12月3にち 7:00大隊だいたい出撃しゅつげきす、てきかげなし、村落そんらく占領せんりょう一夜いちやかす あさだい4中隊ちゅうたい大隊だいたいとも丹陽たんよう城内じょうのうち掃蕩そうとう[49]
12月5にち しろもと崗、いんちまた大隊だいたいかい岡里おかざと進出しんしゅつ、ここにて一泊いっぱく ようかわず、北西ほくせいすす丘陵きゅうりょう地帯ちたい[50]、5にちよる(ゆう?)20連隊れんたいだい1中隊ちゅうたいよう占領せんりょう[51]
12月11にち れいたにてらより(くだって)山腹さんぷくに。迫撃はくげきほう射撃しゃげきもりに受く、いちばんちゅうごうちゅうにて射撃しゃげき猛烈もうれつなり だい3大隊だいたいちゅう山陵さんりょうよりもひく地点ちてんにいた、うえから射撃しゃげきされ苦戦くせん敗残はいざんへいていない[52][53]
  1. 当時とうじ向井むかい少尉しょういは、丹陽たんよう砲撃ほうげきせん負傷ふしょうして前線ぜんせんはなれ、「ひゃくにん競争きょうそう」に参加さんかすることは不可能ふかのうであったという証言しょうげんをおこなった[54]鈴木すずきあきらあて衛生えいせいへいT手紙てがみがあり、「向井むかい少尉しょうい負傷ふしょう事実じじつで」負傷ふしょう行動こうどう具体ぐたいてきかれている[55]名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょう判決はんけつは、富山大とやまだい隊長たいちょう受傷じゅしょう証明しょうめいしょ事後じご提出ていしゅつされた、犬飼いぬかい総一郎そういちろう手記しゅき具体ぐたいせいけるとし、証拠しょうこ能力のうりょく否定ひていして負傷ふしょうみとめない。がT手紙てがみには言及げんきゅうしていない[56]。(ただし、この主張しゅちょうはケガにより前線ぜんせんはなれることがあったならば当然とうぜん直属ちょくぞく部下ぶかである田中たなか金平きんぺい手記しゅきにそのことがあるはずとする判決はんけつ理由りゆうこうせるようなものとおもえない。また、ひゃくにん競争きょうそうねんはん報道ほうどうでも、向井むかいみずか出征しゅっせい以来いらい病気びょうきもケガもしたことがないとかたっている[57]。)
  2. 銃器じゅうき発達はったつした近代きんだい陸上りくじょう戦闘せんとうでは、白兵戦はくへいせんにおける個人こじん戦果せんかきそうという概念がいねんはほぼない[54]
  3. 向井むかい少尉しょうい砲兵ほうへいたいしょう隊長たいちょうであり、野田のだ少尉しょうい大隊だいたい副官ふっかんであった[58]両者りょうしゃとも所属しょぞくことなり、最前線さいぜんせん積極せっきょくてき白兵戦はくへいせん参加さんかする兵科へいかではない。さらに、兵科へいかちが2人ふたり相談そうだんして「なんらかの戦果せんか競争きょうそうする」ことは不自然ふしぜんである。また、向井むかい少尉しょういには軍刀ぐんとうでの戦闘せんとう経験けいけんはない[54]。2少尉しょうい浅海あさみ記者きしゃ会見かいけん居合いあわせ、2少尉しょうい写真しゃしん[注釈ちゅうしゃく 10]撮影さつえいした東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんカメラマンの佐藤さとう寿ことぶきは、1994ねん5がつに『産経新聞さんけいしんぶん紙上しじょうで、「修羅場しゅらばになったら(野田のだ少尉しょういつとめる)大隊だいたい副官ふっかん大隊だいたいちょう命令めいれい指示しじけて、なに中隊ちゅうたいはどうする、と命令めいれいくだしてなくちゃいけないわけです。(向井むかい少尉しょういつとめる)歩兵ほへいほう小隊しょうたいちょうは『距離きょりなんひゃくメートル、げきてーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定かんじょうするの。おかしいなとわたしおもったんですよ」と証言しょうげんしている[58]
  4. 戦時せんじ報道ほうどうは、うまでもなく、りょう少尉しょうい証言しょうげん戦意せんい高揚こうよう武勇ぶゆうでんとしてのものである[54]
  5. かり抜刀ばっとうによる戦闘せんとう実際じっさいあったとしても、民間みんかんじん殺害さつがいさせ、勝者しょうしゃにはしょうされるという「殺人さつじんゲーム」のようなものは、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記述きじゅつとはまったことなるものである[54]
  6. 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんなどの記事きじでは、野田のだ少尉しょうい向井むかい少尉しょうい戦場せんじょうで「ひゃくにん競争きょうそう」をはじめ、その途中とちゅう経過けいか記者きしゃらに逐次ちくじつたえたことになっているが、野田のだ戦後せんごのこした手記しゅきによると、二人ふたりは1937ねんあきすず東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記者きしゃから「ドウデスすずカラ南京なんきんマデ何人なんにんレルモノカ競争きょうそうシテミタラ。記事きじ特種とくしゅさがせシテヰルンデスガ」とちかけられ、向井むかい冗談じょうだんのつもりでおうじると、記者きしゃは「ひゃくにん競争きょうそう武勇ぶゆうでん記事きじタラ花嫁はなよめサンガ殺到さっとうシマスゾ」「記事きじ一切いっさい記者きしゃにんセテサイ」とべた[59]。2少尉しょうい記者きしゃすずわかれ、野田のだ少尉しょういによれば、けん記者きしゃ再会さいかいしたときには、すでに「ひゃくにん競争きょうそう」の記事きじ日本にっぽん話題わだいになっていたという[59]
  7. 向井むかい少尉しょうい昭和しょうわ15,6ねんごろ母校ぼこうきょうじょう公立こうりつ商業しょうぎょう学校がっこうおとずれたさい、「校長こうちょうから『生徒せいとたち是非ぜひひゃくにんりのはなしを』とすすめられたが、何故なぜ固辞こじしてかたらなかった」、とともおとずれた同級生どうきゅうせい田辺たなべ証言しょうげんがある[60]
  8. 3ねん後向うしろむき井中いなか隊長たいちょう直属ちょくぞく部下ぶかになった宮村みやむら喜代治きよじは、昭和しょうわ15ねんあきごろ広東かんとん向井むかい中隊ちゅうたいちょうから「あれは冗談じょうだんだ」「冗談じょうだんばなし新聞しんぶん記事きじにしたんだ」「冗談じょうだん新聞しんぶんって、内地ないちでえらいことになった」といた。そのむね裁判さいばんでも陳述ちんじゅつしょにしている。報道陣ほうどうじんだい一線いっせんまではず、突撃とつげき演習えんしゅう実戦じっせんとして放映ほうえいされたことがあるがわるはしなかった、ともかたっている[61]
  9. 当時とうじ向井むかい少尉しょうい直属ちょくぞく部下ぶかだった田中たなか金平きんぺいは、おもね健一けんいち取材しゅざい[よう出典しゅってん]に1983ねんごろのようにこたえたとされる。「まわりの兵隊へいたいたちもそのはなしっていました。しかしだれ信用しんようしていません」「すずから南京なんきんにいくまでほとんどわたしがわにいました。このあいだ小隊しょうたいちょうかたないたのをいちていません」「我々われわれまわりに中国ちゅうごくへいなどいません」[注釈ちゅうしゃく 11]
  10. 2人ふたりとも丹陽たんようにもようにも入城にゅうじょうしていない、ちゅう山陵さんりょう見下みくだ地点ちてんっていない。『記事きじ一切いっさい記者きしゃまかせてください』どおり、記事きじ創作そうさく。13にち記事きじ写真しゃしんが11月29にち(または30にち)に撮影さつえいしたものなのは、3しゃっていなかったから[63]
  11. だい3ほう(12月6にち)を掲載けいさいした「記事きじとなり記事きじは、浅海あさみ記者きしゃおなじ12がつ5にち丹陽たんよう取材しゅざいした記事きじであり、丹陽たんよう取材しゅざいしているはずの浅海せんかい記者きしゃがはるかはなれたようで2少尉しょういから『ひゃくにん競争きょうそう』の結果けっか取材しゅざいしたことになり、まったくありえない」[64]浅海せんかい記者きしゃはその丹陽たんようにとどまり、12月10にち鈴木すずき記者きしゃ合流ごうりゅうした[65]ことが戦後せんご東京とうきょう裁判さいばん尋問じんもん調書ちょうしょられる。このてんからも「12月5にちよう丹陽たんようさき)での記事きじ虚偽きょぎである[66]」。さらに、検事けんじから『1937ねん12月5にち記事きじ執筆しっぴつしゃはあなたですか』と質問しつもんされ『はい。わたしがこの記事きじ執筆しっぴつしゃです』とこたえている[67]。これにより記事きじ光本みつもと記者きしゃではなく、浅海あさみ記者きしゃいたものと確認かくにんされた[注釈ちゅうしゃく 12]
  12. 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ自身じしん毎日新聞まいにちしんぶん平成へいせい元年がんねん3がつ5にち発行はっこうの『昭和しょうわぜん記録きろく』のなかで、ひゃくにんりにれ、『この記事きじ当時とうじ前線ぜんせん勇士ゆうし武勇ぶゆうでんとして華々はなばなしく報道ほうどうされ、戦後せんご南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ象徴しょうちょうするものとして非難ひなんされた。ところがこの記事きじひゃくにんりは事実無根じじつむこんだった』といている」[68]
  13. 「(軍隊ぐんたいでは)ボク・キミ・アナタ・ワタシとう絶対ぜったいくちにできない禁句きんくひとしかった」、「一人称いちにんしょう代名詞だいめいし原則げんそくとして使つかってはならず・・・使つか場合ばあいは『自分じぶん』であって、言葉ことば使つかえない」、「軍隊ぐんたい二人称ににんしょう代名詞だいめいし俗説ぞくせつでは貴様きさまだが・・・わたし自身じしん将校しょうこう同士どうし貴様きさまといいあったれいらない」、貴公きこうのはず。山本やまもとななたいら自身じしん将校しょうこう経験けいけんから会話かいわぶん分析ぶんせきする。軍隊ぐんたいではこれをたたまれ、さんカ月かげつもすれば反射はんしゃてき軍隊ぐんたいてくるという[69]
  14. 本多ほんだはこの論争ろんそうを『死人しにんくちなし』、『今後こんご相手あいてはごめんこうむる』と一方いっぽうてきった[25]

佐藤さとうことぶき証言しょうげん

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  • だい1ほう会見かいけん居合いあわせ2少尉しょうい写真しゃしんった、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんカメラマン・佐藤さとう寿ことぶき名誉めいよ毀損きそん訴訟そしょう陳述ちんじゅつしょなかで「記事きじたのは、翌年よくねんいちがつ南京なんきんから上海しゃんはいかえってからですが、そのときの印象いんしょうは『浅海せんかいはうそっぱちをいたな』という感想かんそうです」とべた[70]訴訟そしょう証人しょうにん尋問じんもんでは、「(ひゃくにんりは)100%しんじることはできません」「(記事きじは)うそだとおもいましたよ」とべた[71]

肯定こうていがわ主張しゅちょうについて

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  • 民衆みんしゅう殺害さつがいについて
民衆みんしゅうたいする殺害さつがい”にかんし、研究けんきゅうしゃつぎ留意りゅういしるしている。ちゅうささえでは民衆みんしゅうに「抵抗ていこうすることが要求ようきゅうされ」た。(ただし、中国ちゅうごく住民じゅうみんがわからこのようなことがもとめられたとの証言しょうげんはほとんどられない。また、この主張しゅちょうをするもの抵抗ていこう戦闘せんとうとの区別くべつがついているのかも不明ふめいである。)「上海しゃんはい日本にっぽんぐん歓迎かんげいはた婦人ふじんれつかげから便衣隊べんいたい一斉いっせい射撃しゃげきをした[注釈ちゅうしゃく 13]不意ふいかれた日本にっぽんぐん死体したいは、るうちにやまきずかれていった[注釈ちゅうしゃく 14]。「老婆ろうばといえども情報じょうほうさぐって通報つうほうするおそれ」があった。ぼうカメラマンのげんいち自分じぶんがやられそうになったとき相手あいてをやらなければ自分じぶんがやられるのだな、ということをしみじみ痛感つうかんさせられた[74]」。なお昭和しょうわ20ねん小磯こいそ國昭くにあき内閣ないかく本土ほんど決戦けっせんのために「国民こくみん義勇ぎゆうたい」を組織そしきすると発表はっぴょうしたとき、南原なんばらしげる教授きょうじゅ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶちょう)はつぎのようにかたっている。「ゲリラをしますとね、虐殺ぎゃくさつされても仕方しかたないです。本当ほんとう戦闘せんとういんですと、捕虜ほりょとして待遇たいぐうされ、そうにひどいうことはないですが、ゲリラですとただちにころされても文句もんくはいえません。あれは一番いちばんひどいいます」[75]
  • こころざしあきらおよび回想かいそう(1971ねん発表はっぴょう)について
    • こころざしあきら野田のだからいたという講演こうえん内容ないようによれば「「占領せんりょうしたてき塹壕ざんごうにむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナへいはバカだから、ぞろぞろとてこちらへやってくる。それをならばせておいてかたっぱしから[76]」。一方いっぽう、「ひゃくにん訴訟そしょう裁判さいばん原告げんこくがわは「中国ちゅうごく国民党こくみんとうは、ドイツしき組織そしき防衛ぼうえいせんおこない、日本にっぽんぐん遜色そんしょくない武器ぶき携帯けいたいした近代きんだい軍隊ぐんたいでありニーライライとびかけられ、塹壕ざんごうからてくることはありない」と主張しゅちょうした[77]
    • 処刑しょけいについて「日本にっぽん新聞しんぶんはニュースさえ報道ほうどうしていない」[78]野田のだ同期生どうきせい手島てじまきよしちゅうも「銃殺じゅうさつされたことをったのはのことである」[79]と1972ねんかたっている。こころざしが“新聞しんぶん記事きじ”をみ「銃殺じゅうさつたりまえ」とかんがえた[注釈ちゅうしゃく 15]のは極東きょくとう裁判さいばん(1948ねん)当時とうじではない。情報じょうほうつぎ話題わだいになるのは23ねん)をもとかんがえたことを、当時とうじはなしとしてかたっている[だれによって?]。(ただし、この主張しゅちょうはあまり意味いみがあるとおもえない。前年ぜんねん酒井さかいたかし陸軍りくぐん中将ちゅうじょう[81]同年どうねん3がつ田中たなか久一ひさいち陸軍りくぐん中将ちゅうじょう[82]銃殺じゅうさつされたことや、野田のだらに12月に死刑しけい判決はんけつたこと[83]はそれぞれ当時とうじ新聞しんぶんでもほうじられている。こころざしがそのような記事きじたと当時とうじからおもいこむことがあったとしても不思議ふしぎはない。)
  • 望月もちづき五三いつみろう回想かいそう(1985年刊ねんかん)について
    • 望月もちづき回想かいそうに「じゅう機関きかんじゅうけい機関きかんじゅうもうしゃ城壁じょうへき破壊はかいされていく」「戦車せんしゃ城門じょうもんめがけてげき突破とっぱした」などとあるが、本当ほんとう体験たいけんなのかとおもうほど間違まちがいがおおいとおもね健一けんいち[84]
    • ひゃくにんりの勇士ゆうしと・・・一躍いちやく有名ゆうめいになったひとである」。望月もちづきはこれを昭和しょうわ12ねん11月27にち-11月28にちじょうしるしている[85]東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんだい1ほうるのが昭和しょうわ12ねん11月30にち有名ゆうめいになるのはそのである。また、だい1ほうるまでに“競争きょうそう”がはじまっていないことは、名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょうける佐藤さとう寿ことぶき証言しょうげんがある[注釈ちゅうしゃく 16]。これについては、日記にっき回想かいそう混同こんどうしているとする反論はんろんがある。
    • 望月もちづき回想かいそうでは、「連隊れんたいちょう大隊だいたいちょうっていたはずである。にもかかわらずこれを黙認もくにんした」としている[87]。が、野田のだ士官しかん学校がっこう同期生どうきせい吉田よしだだいかつらつかさからは、伝聞でんぶんかたちではあるものの片桐かたぎり連隊れんたいちょう野田のだきびしくいましめたとく、あるいはしかったらしいとの証言しょうげん[88]もある。(ただし、おな連隊れんたい向井むかいはかなりまでなんひゃくにんりといったかたちつづけていたことが当時とうじのその報道ほうどうにもている。(「当時とうじ報道ほうどうらん参照さんしょう))
    • 遺族いぞく名誉めいよ棄損きそんによる賠償ばいしょう訴訟そしょう担当たんとうした弁護士べんごし稲田いなだ朋美ともみは、望月もちづき親族しんぞく電話でんわ取材しゅざいたいし「だれもあんなひとのいうことを信用しんようしていませんよ。親族しんぞくにも迷惑めいわくばかりかけていました。そういうほんいて関係かんけいしゃ方々かたがたおくったということですが、だれも相手あいてにしていないとおもいます」とかたったという[89]
  • 本多ほんだ勝一かついちのルポについて
ほとんどられることのなかった「ひゃくにん伝説でんせつ」を「本多ほんだ勝一かついち記者きしゃ中国ちゅうごく旅行りょこうちゅう南京なんきんきこん」で「『朝日新聞あさひしんぶん』の連載れんさいでむしかえ[90]」たと非難ひなんする意見いけんがある。鈴木すずきあきらは、「ルポは、そのネタとなった35ねんまえの『毎日まいにち』の記事きじくらべて、1.戦闘せんとうちゅう手柄てがらばなしが、故意こい平時へいじ殺人さつじんゲームにスリかえられている。2.『上官じょうかん命令めいれい』というフィクションがつけくわえられている。3.『ひゃくにんり』が3かいもくりがえされたように誇張こちょうされた表現ひょうげんとなっている、など、あきらかに『かんちがい』とはいえない『つくりかえ』がされており・・すうじゅうばい強烈きょうれつである」という[91]。これにたいしては、実際じっさい現地げんちにそのようにつたわっている、さらに当時とうじこの裁判さいばん模様もよう裁判所さいばんしょないはいりきれないひと公開こうかいできるよう所内しょない発言はつげん拡声かくせいピーカーでそと中継ちゅうけいされたことは研究けんきゅうしゃもの比較的ひかくてきおおく、その中継ちゅうけい内容ないようといいつたえとの関係かんけいすら調しらべずにこのような批判ひはんができるのかという反論はんろんむし戦闘せんとうちゅうにこのようなことをおこなうのは困難こんなんだからこそ戦闘せんとうがいでの捕虜ほりょ処刑しょけいではないかと人々ひとびとうたがっているほうこそただしいのではないかといった反論はんろんがある。(なお、実際じっさい当事とうじしゃからそれぞれ300にん人間にんげんったというはなしていたことがそのかっている。「当時とうじ報道ほうどうらん参照さんしょう
名誉めいよ棄損きそん裁判さいばん後述こうじゅつ)に原告げんこくがわ証人しょうにんとして出廷しゅっていした佐藤さとうことぶき証人しょうにん尋問じんもんで、本多ほんだ取材しゅざい手法しゅほう検証けんしょうのなかったことを批判ひはんした。佐藤さとうは「わたしかないでひゃくにんりのはなしなんかかるはずはないとおもって、したがって、朝日新聞あさひしんぶん記事きじはうそであるという結論けつろんいたりました。ジャーナリストがひとつの事実じじつ報道ほうどうする場合ばあいに、あくまでそれが真実しんじつであると確信かくしんしなければ、原稿げんこういてはいけないことなんですよ」とかたった[92]。ただし、この主張しゅちょうたいしては、その論法ろんぽうであれば虚偽きょぎはなしながれているときにもとはなし事実じじつでないかもしれないかられについてかたってはいけないということになりってうそながれるままにしなければならないという理屈りくつになってしまう、本多ほんだ中国ちゅうごくでそういうはなしつたわっているというまさに事実じじつほうつたえたものだ、そもそもジャーナリズムには引用いんようという手法しゅほう確立かくりつしているという反論はんろんがある。
はたいくは、田中たなか正明まさあき本多ほんだを"無責任むせきにんなレポーター"とひょうしたことを紹介しょうかいしている[93]

記事きじ疑問ぎもんとする主張しゅちょう

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だい1ほう会見かいけんすずではなくつねしゅう[注釈ちゅうしゃく 17]浅海あさみ一男かずお記者きしゃは“すず一番乗いちばんのり”という、11月27にちはつ記事きじいている[97]。2少尉しょういぞく冨山とやま大隊だいたいは26にち、すでにつねしゅうすずさき)に追撃ついげきうつっており[98]すずでの会見かいけん不可能ふかのうだった[99]。29にち(か30にち)つねしゅう会見かいけんくわわった佐藤さとうことぶきは、“競争きょうそう”はいまはじまっていなかったと証言しょうげんしている[注釈ちゅうしゃく 18]一方いっぽう浅海せんかい記者きしゃは、さかのぼってすずからつねしゅうまでに「25めい」った、「こぼれが」した、ひとし記事きじいている。なお名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょう判決はんけつは、「ききとった内容ないよう記事きじにした」という記者きしゃ供述きょうじゅつ信頼しんらい[100]結果けっかがこのだい1ほうであり2,3,4ほうである。

だい2ほう当時とうじ当事とうじしゃいた『大野おおの日記にっき』に、2少尉しょういぞく冨山とやま大隊だいたい丹陽たんよう入城にゅうじょうした形跡けいせきはない[101]

だい3ほう冨山とやま大隊だいたいぞくす9連隊れんたいよう迂回うかいした[102]。5にち浅海せんかい記者きしゃはまだ丹陽たんようにいて[103]ようにいない(否定ひていろんだい3ほう参照さんしょう)。

だい4ほう:11にち向井むかい少尉しょういったと記事きじいた鈴木すずき二郎じろう記者きしゃは、『抵抗ていこうもだんだんよわまって、頂上ちょうじょうへとめられていったんですよ。・・・いぶりされたてき掃蕩そうとうしていたときですよ、二人ふたり少尉しょういったのは[104]』と1972ねん取材しゅざいこたえている。「むらさき金山かなやま(488m)攻撃こうげき」の戦況せんきょうかぎれば、鈴木すずき記者きしゃ間違まちがっていない[105]。その公文書こうぶんしょだい1資料しりょう大量たいりょう発掘はっくつされ、精緻せいち研究けんきゅうすすむ。『南京なんきん戦史せんし(1989ねん)』によると、冨山とやま大隊だいたいたたかったのは、むらさき金山かなやまふもとではあるが「ほん街道かいどう地区ちく戦闘せんとう」で[106]両者りょうしゃには明確めいかく線引せんひきがあった[107]。「ちゅう山陵さんりょう眼下がんか見下みくだす」地点ちてんにもおこなっていない[108]。9にち(9連隊れんたい10日とおか)からはじまったこの戦闘せんとうは11にちも、「益々ますますてき射撃しゃげき猛烈もうれつ[109]」でうえから終日しゅうじつ射撃しゃげきされ孤立こりつないしは苦戦くせんして[110]戦況せんきょう進展しんてんしなかった[106]」。だい3大隊だいたい当初とうしょ目指めざす73(m)高地こうちいま攻略こうりゃくされていない[111]

一方いっぽう浅海せんかい記者きしゃは、直接ちょくせつ戦場せんじょうでなかった「まごぶんりょうまえ公道こうどうあたり」で「りょう少尉しょうい訪問ほうもんけた[112]」とかたる。そのには『向井むかい少尉しょうい野田のだ少尉しょうい浅海あさみさん、ぼく(鈴木すずき)の4にんがいた[113]』という。『記事きじ浅海あさみさんがおも執筆しっぴつしたもの』[114]とは東京とうきょう裁判さいばん検事けんじに、『どちらが直接ちょくせつ執筆しっぴつしたかはわすれました』[115]は「週刊しゅうかん新潮しんちょう」に、鈴木すずき記者きしゃ各々おのおのこたえている。記事きじ写真しゃしんつねしゅう中山ちゅうざんもん佐藤さとうことぶきが11月29にち(か30にち)に撮影さつえいしたもので、むらさき金山かなやまふもと合致がっちしないもんかる部分ぶぶんはカットされて掲載けいさいされた[116]

なお判決はんけつは、記事きじとして具体ぐたいてきには唯一ゆいいつだい4ほうだけに言及げんきゅうし「冨山とやま大隊だいたいがおよそむらさき金山かなやま付近ふきん活動かつどうしていたことすらなかったものとまではみとめられない[56]」ことをいち理由りゆうとして、新聞しんぶん報道ほうどう完全かんぜん虚偽きょぎではなかった[117]としている。

論争ろんそう当時とうじ著名ちょめい著述ちょじゅつ反応はんのう

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  • 臼井うすい吉見よしみ特派とくはいん署名しょめい記事きじで、銃後じゅうご話題わだいにぎわそうとのとくダネゲームの与太よたばなしであった・・」
  • 開高かいこうけん「ジャーナリズムの幼稚ようち無責任むせきにんをうまくついた作品さくひんで・・もっと正面しょうめんから告発こくはつしてもよかった」
  • 小田おだみのるひゃくにんりというような事件じけんは、真実しんじつには、それ自体じたいはたしかになかったものにちがいない」[118]

はらつよしによれば、「りょう少尉しょういは、戦闘せんとうちゅう白兵戦はくへいせん捕虜ほりょ捕獲ほかくさいに、何人なんにんかをったことがあるのを、浅海あさみ記者きしゃなどのさそいにり、つい「ひゃくにんり」という大言壮語たいげんそうごをしたのではないかとおもわれる。」という[4]。 ボブ・ワカバヤシは、「総合そうごうすると、わたしは、浅海せんかい記述きじゅつにん将校しょうこうかれにした自慢じまんばなしがもとになっているため、完全かんぜん捏造ねつぞうされたものではないものの、二人ふたり将校しょうこう不当ふとう処刑しょけいされ、事件じけん虚構きょこうであったとの結論けつろんたっした。この結論けつろんは、南京なんきんアトロシティ全体ぜんたい捏造ねつぞうであることを意味いみするものでもなく、帝国ていこく陸軍りくぐん戦争せんそう犯罪はんざいから免除めんじょされることを意味いみするものでもない。」とべた[119][よう検証けんしょう]

名誉めいよ毀損きそん裁判さいばん

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2003ねん4がつ28にち野田のだ向井むかい遺族いぞく遺族いぞくおよ死者ししゃたいする名誉めいよ毀損きそんにあたるとして毎日新聞まいにちしんぶん朝日新聞あさひしんぶん柏書房かしわしょぼう本多ほんだ勝一かついちらを提訴ていそした。原告げんこくがわ代理人だいりにん弁護士べんごし稲田いなだ朋美ともみ[120][121]

訴訟そしょうおも争点そうてん

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戦闘せんとうによるひゃくにんり」をいだしたのはだれ

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佐藤さとうことぶきカメラマン、ちゅう山陵さんりょうまえ昭和しょうわじゅうさんねん十二月じゅうにがつじゅうさんにち撮影さつえい
  • 原告げんこく主張しゅちょう - 報道ほうどうされた新聞しんぶん記事きじ大阪おおさか毎日新聞まいにちしんぶん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記者きしゃらが戦意せんい高揚こうようのために創作そうさくした[122]
  • 被告ひこく毎日新聞まいにちしんぶん)の主張しゅちょう - 報道ほうどうされた新聞しんぶん記事きじりょう少尉しょうい記者きしゃたちにかたったことをそのままつたえた。記者きしゃたちは実際じっさい二人ふたり中国人ちゅうごくじんったところはていない。
  • 裁判所さいばんしょ判断はんだん
    1. 日日ひび新聞しんぶん掲載けいさいされた写真しゃしんった佐藤さとうカメラマン(原告げんこくがわ証人しょうにん)は、記事きじ執筆しっぴつには関与かんよしていないが、「ひゃくにん競争きょうそう」のはなしりょう少尉しょういから直接ちょくせついたと供述きょうじゅつしており、これは当時とうじ従軍じゅうぐんメモをもとにしているてんからも信憑しんぴょうせいたかい。
    2. りょう少尉しょうい自身じしんも、遺書いしょとうりょう少尉しょういのいずれかが記者きしゃはなしたとしるしている。
    3. 野田のだ少尉しょうい中村なかむらすずりろうあてにひゃくにんりを自慢じまんする手紙てがみおくったり、地元じもと鹿児島かごしまひゃくにんりをみとめるコメントをしたり講演こうえんかいをしたりしており、すくなくとも野田のだ少尉しょういひゃくにんりをみとめる発言はつげんをしている。
ひとし理由りゆうにより、『りょう少尉しょうい浅見せんけん記者きしゃ新聞しんぶん記者きしゃはなしをしたことが契機けいきとなり、「ひゃくにん競争きょうそう」の記事きじ作成さくせいされたことがみとめられる。』と判断はんだんした[123]

向井むかい少尉しょうい負傷ふしょうについて

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  • 原告げんこく主張しゅちょう - 当時とうじ向井むかい少尉しょうい丹陽たんよう砲撃ほうげきせん負傷ふしょうして前線ぜんせんはなれ、「ひゃくにん競争きょうそう」に参加さんかすることは不可能ふかのうであった[124]りょう少尉しょうい手記しゅきや、冨山とやま大隊だいたいちょう証明しょうめいしょにも同旨どうし記載きさいがある。
  • 被告ひこく本多ほんだ勝一かついち)の主張しゅちょう - それらは南京なんきん軍事ぐんじ裁判さいばん向井むかい少尉しょうい死刑しけい回避かいひするために捏造ねつぞうしたものである。検察けんさつ主張しゅちょうをそのままみとめたら死刑しけいになってしまうのでこの行為こうい自体じたい仕方しかたない行為こういだが、資料しりょう裏付うらづけはく、信憑しんぴょうせいはない。
  • 裁判所さいばんしょ判断はんだん
    1. りょう少尉しょうい手記しゅきや、冨山とやま大隊だいたいちょう証明しょうめいしょ南京なんきん軍事ぐんじ裁判さいばんになってはじめて提出ていしゅつされたものであり、南京なんきんせん当時とうじ作成さくせいされた客観きゃっかんてき証拠しょうこ提出ていしゅつされていない。
    2. 向井むかい少尉しょうい丹陽たんよう戦闘せんとう負傷ふしょうし、はなれたいしているのであれば、向井むかい少尉しょうい直属ちょくぞく部下ぶかであった田中たなか金平きんぺい行軍こうぐん記録きろく当然とうぜん記載きさいがあるはずだが、そのような記載きさいはない。
ひとし理由りゆうにより、『向井むかい少尉しょうい丹陽たんよう戦闘せんとう負傷ふしょうして前線ぜんせんはなれ、むらさき金山かなやま戦闘せんとう参加さんかすることができなかったとの主張しゅちょう事実じじつみとめるにたりない』と判断はんだんした[124]

戦闘せんとうによるひゃくにんりは実際じっさいおこなわれたか

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  • 原告げんこく主張しゅちょう - 山本やまもとななたいら著書ちょしょわたしなか日本にっぽんぐん」で「日本にっぽんがたなさんにん戦闘せんとうれば使つかものにならなくなる。だから100にんれるはずがないので100にん報道ほうどう虚偽きょぎである」と主張しゅちょう原告げんこくもそれを引用いんようして同様どうよう主張しゅちょうをした。
  • 被告ひこく本多ほんだ勝一かついち)の主張しゅちょう - 宮本みやもと武蔵むさし佐々木ささき小次郎こじろうでもない一般人いっぱんじんひゃくにん戦闘せんとうれるはずがない。実際じっさいにはりょう少尉しょうい捕虜ほりょ農民のうみんったのであり、それを新聞しんぶん記者きしゃにぼかしてつたえたのだ。
  • 裁判所さいばんしょ判断はんだん - 南京なんきん攻略こうりゃくせん当時とうじ戦闘せんとう実態じったいりょう少尉しょうい軍隊ぐんたいにおける任務にんむ一本いっぽん日本にっぽんがたな剛性ごうせいないし近代きんだい戦争せんそうにおける戦闘せんとう武器ぶきとしての有用ゆうようせいとうらしても、本件ほんけん日日ひび記事きじにある「ひゃくにん競争きょうそう」の実体じったいおよびその殺傷さっしょうすうについて、どう記事きじ内容ないようしんじることはできないのであって、どう記事きじの「ひゃくにんり」の戦闘せんとう戦果せんかははなはだうたがわしいものとかんがえるのが合理ごうりてきである[125]

実際じっさいにはなにおこなわれたか

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  • 被告ひこく本多ほんだ勝一かついち)の主張しゅちょう -
    1. 野田のだ少尉しょうい教官きょうかんだった望月もちづき五三いつみろう靖国神社やすくにじんじゃ寄贈きぞうした体験たいけんわたしささえ事変じへん」に、野田のだ少尉しょうい農民のうみんをひっぱってきてくびり、その行為こうい中国人ちゅうごくじんつければ向井むかい少尉しょういうばいをするほどエスカレートしていった記述きじゅつがある。
    2. 野田のだ少尉しょうい同郷どうきょうであるこころざしあきら小学生しょうがくせいころ学校がっこう野田のだ少尉しょうい講演こうえんおこない、野田のだ少尉しょういみずから「じつひゃくにんりの内容ないよう捕虜ほりょった」ことをかたったと証言しょうげんしている
    3. 南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつのまぼろし」をしるした鈴木すずきあきらも、対象たいしょうしゃ捕虜ほりょであれば可能かのうせいがあることをみとめている。
    4. 南京なんきん攻略こうりゃくせん当時とうじ日本にっぽんぐんには捕虜ほりょ農民のうみん殺害さつがいはありふれていたことであり、そのことを裏付うらづける資料しりょう多数たすう存在そんざいする。
ひとし根拠こんきょから、実際じっさいにはりょう少尉しょうい捕虜ほりょ農民のうみん殺害さつがいすうきそう「殺人さつじんゲーム」をしていたと推察すいさつされる。
  • 裁判所さいばんしょ判断はんだん
    1. 望月もちづき五三いつみろう記述きじゅつ真偽しんぎさだかでないというほかないが、これをただちに虚偽きょぎであるとする客観きゃっかんてき資料しりょう存在そんざいしない。
    2. こころざしあきら小学校しょうがっこう同級生どうきゅうせいである辛島からしま勝一かついちも、こころざしあきら一緒いっしょ機会きかいに、野田のだ少尉しょういから、ひゃくにんという多人数たにんずうではないが逃走とうそうする捕虜ほりょをみせしめ処刑しょけいのために斬殺ざんさつしたというはなしいたむねべている。辛島からしま野田のだ少尉しょうい擁護ようごする立場たちばでそのような内容ないようべていることにかんがみれば、ことさら虚偽きょぎべたものともかんががたく、すくなくとも野田のだ少尉しょういが「捕虜ほりょった」というはなしをしたことはりょう記憶きおく一致いっちしている。
    3. 本多ほんだ捕虜ほりょったとする鵜野うのすすむ太郎たろう手記しゅき引用いんようしている。これらのはなしも、真偽しんぎのほどはさだかではないというほかないが、自身じしん実体験じつたいけんもとづくはなしとして具体ぐたいせい迫真はくしんせいゆうするものとえる。
以上いじょうてんから、その重要じゅうよう部分ぶぶんにおいてまったくの虚偽きょぎであるとみとめることはできないというべきである。以上いじょうことなる前提ぜんてい原告げんこくらの主張しゅちょうは、いずれも採用さいようすることはできない。

時効じこう

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  • 被告ひこく毎日新聞まいにちしんぶん)の主張しゅちょう - 新聞しんぶん記事きじは1937ねんのものであり、民法みんぽう724じょうじょ斥期あいだ(3ねん)は経過けいかしており、訂正ていせい謝罪しゃざい義務ぎむはない。
  • 原告げんこく主張しゅちょう - 新聞しんぶん記事きじは60ねん以上いじょうまえものであるが、その記事きじ虚報きょほうであり、その虚報きょほうたださずに放置ほうちつづけるかぎり、時効じこう延長えんちょうする。
  • 裁判所さいばんしょ判断はんだん - 前述ぜんじゅつとお新聞しんぶん記事きじが「虚偽きょぎであることがあきらかになったとまでみとめることはできない」。よって時効じこう考慮こうりょするまでもない[注釈ちゅうしゃく 19]。またかり原告げんこくらの請求せいきゅうけん存在そんざいしていたとしてもじょ斥期あいだ経過けいかしており時効じこう成立せいりつしている。

上記じょうきとう理由りゆうにより、2005ねん8がつ23にち東京とうきょう地裁ちさいにおいて原告げんこく請求せいきゅう全面ぜんめん棄却ききゃく判決はんけつされた[126]

原告げんこく控訴こうそ2006ねん2がつ22にち東京とうきょう高裁こうさいいちかい審理しんり結審けっしんした。なお、控訴こうそじん提出ていしゅつしただい2準備じゅんび書面しょめん一部いちぶ陳述ちんじゅつについて、裁判さいばんちょう内容ないよう不適切ふてきせつ裁判官さいばんかん侮辱ぶじょく)につき陳述ちんじゅつみとめないとした。結審けっしんのち控訴こうそじんがわ弁護士べんごし裁判官さいばんかん忌避きひもうてたが3月1にち却下きゃっかされた(結審けっしん申立もうしたてや訴訟そしょう指揮しき理由りゆうとした裁判官さいばんかん忌避きひ通常つうじょうみとめられない)。5月24にち控訴こうそ棄却ききゃく判決はんけつ[127]

原告げんこくがわ上告じょうこくしたが12月22にち最高裁さいこうさいにおいても上告じょうこく棄却ききゃく判決はんけつ原告げんこくがわ敗訴はいそ確定かくていした。

備考びこう

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  • 証人しょうにん制限せいげん原告げんこくがわ証人しょうにんとして出廷しゅっていした佐藤さとう寿ことぶき原告げんこくがわ唯一ゆいいつ証人しょうにんだった。原告げんこくがわ弁護人べんごにんつとめた稲田いなだ朋美ともみによると、原告げんこくがわ佐藤さとう以外いがいにも証人しょうにん申請しんせいし、上申じょうしんしょ提出ていしゅつしたが、裁判所さいばんしょから却下きゃっかされたという[128]


南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうてい詳細しょうさい

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1947ねんなつ、ともに陸軍りくぐん少佐しょうさとして復員ふくいん除隊じょたいしていた向井むかい敏明としあき野田のだあつしはGHQにより逮捕たいほされ、警察けいさつしょ拘留こうりゅうされたのち巣鴨すがも拘置こうちしょさらに中国ちゅうごく南京なんきん戦犯せんぱん拘留こうりゅうしょ移送いそうされ、12月4にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんやその転載てんさい翻訳ほんやく資料しりょうとする『外人がいじん目睹もくとちゅうにちぐん暴行ぼうこう[20]もと南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていにおいて「我国わがくにじん殺害さつがい容疑ようぎでそれぞれ起訴きそされた。12月5にち向井むかい法廷ほうてい弁論べんろんえたのち二人ふたり事件じけん合同ごうどう裁判さいばんすることとなり、さらにのちべつさんひゃくにんりを理由りゆうすで起訴きそされ同月どうげつ12にちにも公判こうはんおこなわれていた田中たなかぐんきち陸軍りくぐん少佐しょうさ[注釈ちゅうしゃく 4]事件じけん当時とうじだいろく師団しだんだいよん連隊れんたい中隊ちゅうたいちょう陸軍りくぐん大尉たいい)と合同ごうどう公判こうはんおこなうこととなった。18にちおこなわれた公判こうはんではよりおおくのひとけるよう法廷ほうていがいにも拡声かくせいもうけられ、いし裁判さいばんちょうによって当日とうじつ18にちには「戦争せんそうちゅう捕虜ほりょおよ戦闘せんとういん共同きょうどう連続れんぞくして虐殺ぎゃくさつおこなった」[22]として全員ぜんいん死刑しけい判決はんけつけた。3めい中華民国ちゅうかみんこくによって1948ねん1がつ28にち南京なんきん郊外こうがいあめ花台かだい)で処刑しょけいされた。

りょうひゃくにんりはホラばなしあるいは戦闘せんとう行為こういであったと主張しゅちょう部下ぶか証人しょうにんとして出廷しゅっていさせてしいと希望きぼうしていたものの、部下ぶか証言しょうげんでは信頼しんらいせいけるとされ、たんなる時間じかんかせぎのための主張しゅちょうとみなされて退しりぞけられた。一方いっぽうで、向井むかい家族かぞく尽力じんりょくにより、直轄ちょっかつ隊長たいちょう浅海あさみ記者きしゃから弁護べんごのための上申じょうしんしょしてもらっている。また、りょう競争きょうそうにブランデーをけていたとされる。

北村きたむらみのるは、ティンパリーによる脚色きゃくしょくや『戦争せんそうとはなにか』の中国語ちゅうごくごやくばんにおける事実じじつえが影響えいきょうし、死刑しけい判決はんけつくだったと主張しゅちょうしている[129]

判決はんけつ新聞しんぶん報道ほうどう証拠しょうこにならないという中国ちゅうごく最高法院さいこうほういん判例はんれい違背いはいし、告訴こくそじょうの「我国わがくにじん」を説明せつめいきで「捕虜ほりょおよ戦闘せんとういん」にすりかえ[130]判示はんじしているとする主張しゅちょうがある。ただし、世界せかいてきには軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ通常つうじょう司法しほう裁判所さいばんしょとはべつ系統けいとう独立どくりつした特別とくべつ裁判所さいばんしょとなっていることもおおく、フランスやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのように軍事ぐんじ法廷ほうていから一般いっぱん司法しほう裁判所さいばんしょとう上訴じょうそかその申立もうしたて可能かのうになっている[131]のが例外れいがいてきだとする意見いけんもあって、当時とうじ中華民国ちゅうかみんこく最高法院さいこうほういん判例はんれい既判力きはんりょくおよぶのかは検討けんとう余地よちがある。(ちなみに、きゅう日本にっぽんぐん軍法ぐんぽう会議かいぎ特別とくべつ裁判所さいばんしょとして、また、軍律ぐんりつ審判しんぱん行政ぎょうせい審判しんぱんとして、大審院だいしんいんをトップとする一般いっぱん司法しほう裁判所さいばんしょから別個べっこ独立どくりつのものであり、そこから一般いっぱん司法しほう裁判所さいばんしょへの控訴こうそ上訴じょうそとう不可能ふかのうであった。)また、判決はんけつしょ本文ほんぶん事実じじつ認定にんてい部分ぶぶんると「老若ろうにゃくべつなくえばころした」、「ゲームとして捕虜ほりょおよび戦闘せんとういんたいする虐殺ぎゃくさつ競争きょうそうおこなった」とされており[132]裁判さいばんなか検察官けんさつかん主張しゅちょうあるいは裁判官さいばんかん自身じしん判断はんだんもとづいて、捕虜ほりょおよ戦闘せんとういん虐殺ぎゃくさつがあったと事実じじつ認定にんていしたものとかんがえられる。なお、この事実じじつ認定にんてい部分ぶぶんくわしくると、りょう既決きけつたに団長だんちょうによる南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん実行じっこう行為こういしゃとして、共同きょうどう正犯せいはんつみわれていることがかる。鈴木すずきあきらは1972ねんごろいしもと裁判さいばんちょうい、そのとき録音ろくおんしたテープのなかいしは「この3にん銃殺じゅうさつにしなくてもいいという意見いけんはあった。しかし、5にん判事はんじのうち3にん賛成さんせいすればけい決定けっていされたし、さらにこのたね裁判さいばんにはなにおう将軍しょうぐん蔣介せき総統そうとう直接ちょくせつ意見いけんはいっていた」とっている[133]とその著書ちょしょいている。(ただし、その意見いけん具体ぐたいてき内容ないようかれていない。鈴木すずきのこの主張しゅちょう蒋介石しょうかいせきはむしろ戦犯せんぱん少数しょうすうにとどめたがっていたとする一般いっぱんてきなイメージとかなりことなる。たとえば、岡村おかむらやすし次元じげんささえ派遣はけんぐん司令しれいかんは、戦犯せんぱん抑留よくりゅうしゃかずえたことについて中国ちゅうごくがわから蒋介石しょうかいせき戦犯せんぱん最小限さいしょうげんにとどめる方針ほうしんだが民衆みんしゅうから告発こくはつ投書とうしょ続出ぞくしゅつしているためといたはなし真相しんそうちかいのではないかと回想かいそうしている[134]ほどである。)

遺書いしょでは、野田のだ向井むかいども死刑しけい天命てんめいあきらめるが、捕虜ほりょ戦闘せんとういん殺害さつがいしたことはない、南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん罪名ざいめいれられないといている。さらに、向井むかいは、野田のだくん発言はつげん記事きじになり、だれわるいわけでなくひとあつまれば冗談じょうだんるとしたうえで、自身じしんらの行為こういあきらかに戦闘せんとう行為こういだったとする[135]鈴木すずきあきら著作ちょさくによれば、浅海あさみ記者きしゃはもうよくおぼえていないとしながらもどくおもって向井むかい家族かぞくからの依頼いらい本人ほんにんったとお上申じょうしんしょいた[136]とし、家族かぞくほうからは、具体ぐたいてきいてもらった内容ないようかたられるものの、ひゃくにんりは浅海せんかい記者きしゃ創作そうさくだといてしかった、それは無理むりだったのだろうとかたられている[137]が、家族かぞくがそのてんまではっきりとたのんだのかは内容ないよう具体ぐたいてきなだけにかえって曖昧あいまいなようにもめる。なお、浅海せんかい自身じしん創作そうさくとしなかったことについて非難ひなんするきもあるが、これについては、裁判さいばんひゃくにんりが野田のだ向井むかい冗談じょうだん誇張こちょうだという主張しゅちょうとおすのであればそれが当然とうぜんだとするろんがある。向井むかい自身じしんは、浅海あさみからの上申じょうしんしょ本当ほんとう証明しょうめいだったがいちヶ条かじょうだけ誤解ごかいをすればわるくとれるし、そのいちヶ条かじょうだけが人情にんじょうとしてかかったとべながらも、浅海せんかいにも(上申じょうしんしょいてくれたことに)れいってくれるよう家族かぞくつたえている[135]

鈴木すずき著書ちょしょでは、向井むかい家族かぞく当時とうじ向井むかい直属ちょくぞく隊長たいちょう連絡れんらくがとれ、その結果けっか事件じけん当時とうじ向井むかい怪我けがっていてひゃくにんりなどできない、12月2にち怪我けが救護班きゅうごはん収容しゅうようされ15にちたい治療ちりょうすとの証明しょうめいしょられたのでおくった、それで向井むかい家族かぞく向井むかいたすけられたとしんじていたものの、1947ねん12月20にち朝日新聞あさひしんぶん向井むかい野田のだ田中たなか死刑しけい宣告せんこくされほかもの反証はんしょう提出ていしゅつできたが此の3にん反証はんしょう提出ていしゅつできなかったとほうじられたことで、向井むかいおとうとくるったように心当こころあたりをけずりまわったが東京とうきょう南京なんきん距離きょりあまりにとおかった[138]かれている(←鈴木すずきかたはこのままこのとおりで、結局けっきょく家族かぞく具体ぐたいてきなにをして結果けっかはどうであったのか、本質ほんしつまったからない表現ひょうげんになっている。また、重要じゅうよう問題もんだいであるとおもわれるにもかかわらず、著作ちょさくかぎり、鈴木すずき自身じしん言葉ことばつうじなかったとする石元いしもと裁判官さいばんかんのところではともかくとして、此の問題もんだいについて調しらべてまわったようにはえない。)。「向井むかい浅海せんかい記者きしゃった記念きねん写真しゃしん(←つねしゅうで29にちられた写真しゃしん)にうつっているのが自分じぶんであることを否定ひていできなかった」と石元いしもと裁判さいばんちょうかたっているところから、実際じっさい記者きしゃらとってみずか一連いちれん発言はつげんおこなったとみなされ、それら取材しゅざいけたこととケガをしたとするはなしとの矛盾むじゅん説明せつめいができなかったのではないかとおもわれること証明しょうめいしょといってももと隊長たいちょう向井むかい家族かぞくたのまれていた真偽しんぎさだかでない個人こじんてき書類しょるいであったこととうひびいたことがかんがえられる。(笠原かさはらじゅうきゅうは、向井むかい負傷ふしょう入院にゅういん部下ぶか田中たなか金平きんぺい手記しゅきまったくそのような記述きじゅつこと向井むかい本人ほんにんのち出征しゅっせい以来いらい病気びょうきもケガもないとかたっているところから、信頼しんらいできないものとしている[139]。)

その

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台湾たいわん台北たいぺい国軍こくぐん歴史れきし文物ぶんぶつかん展示てんじはくれつの"What's War Means"のなかぶんばん外人がいじん目睹もくとちゅうにちぐん暴行ぼうこう』及軍事ぐんじ委員いいんかい政治せいじにち寇暴行実ぎょうじつろく』に掲載けいさいされた写真しゃしん左右さゆう反転はんてん画像がぞうのパネルに、きゅうじゅうはちしき軍刀ぐんとう (昭和しょうわじゅうさんねん制式せいしき)がはめまれて展示てんじされている(「きゅうはちしきてつから軍刀ぐんとう南京なんきんだい屠殺とさつざんころせわが同胞どうほう107にん軍刀ぐんとう炳文将軍しょうぐん公子こうしあきら先生せんせい捐贈」)。
  • 2004ねん集英社しゅうえいしゃ週刊しゅうかんヤングジャンプ43ごう本宮もとみやひろこころざし漫画まんがくにえるだい88掲載けいさいされた。そこでは、南京なんきん事件じけんをとりあげ、二人ふたり兵士へいし捕虜ほりょべてはや競争きょうそうをする描写びょうしゃをしたが、政治せいじ結社けっしゃ正氣しょうきじゅくや『集英社しゅうえいしゃ問題もんだいかんがえる地方ちほう議員ぎいんかい』の抗議こうぎけて集英社しゅうえいしゃは、「現在げんざい戦犯せんぱんとして処罰しょばつされた方々かたがたのご遺族いぞく皆様みなさま裁判さいばんちゅうです。係争けいそうちゅうという時期じきに、誤解ごかいまねきかねない描写びょうしゃ掲載けいさいしたけんにつきましては、関係かんけいしゃ皆様みなさまには、ふかくおもうげます」とし、当該とうがいシーンを削除さくじょした。
  • 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ1989ねん平成へいせい元年がんねん)に刊行かんこうした『昭和しょうわぜん記録きろく Chronicle 1926-1989』には、向井むかい少尉しょうい負傷ふしょうして不在ふざいであったことを理由りゆうとして、この記事きじひゃくにんりは事実無根じじつむこんだったと記載きさいしている[3][140]
  • 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく南京なんきんにある南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつねんかんでは、この東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記事きじを「虐殺ぎゃくさつ証拠しょうこ」として等身とうしんだいパネルを作成さくせいして展示てんじをしている[58]
  • 台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく台北たいぺいにある中華民国ちゅうかみんこくぐん歴史れきし資料しりょうかんである国軍こくぐん歴史れきし文物ぶんぶつかんには、炳文少将しょうしょう親族しんぞくよりおくられた、刀身とうしんに「南京なんきんやく ころせいちななにん」ときざまれた軍刀ぐんとう展示てんじされている。同館どうかんはこの軍刀ぐんとうを、“南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつさい同胞どうほう中国人ちゅうごくじんを107にんった日本にっぽん軍刀ぐんとう”であるとして、向井むかい野田のだりょう少尉しょういのいずれかが使用しようしたものに間違まちがいないと主張しゅちょうしている。2人ふたりったとされる人数にんずう向井むかい105にん野田のだ106にん)よりおおいことについては、ひゃくにんりが日本にっぽん報道ほうどうされたのちに、さらに1にんった可能かのうせいがあるとしている[141]
  • 日本にっぽんぐん軍刀ぐんとうだいいち上海しゃんはい事変じへんせんくんから改良かいりょうされ[142]下士官かしかんへいにも支給しきゅうされていた[143][注釈ちゅうしゃく 20]
  • 日本にっぽんがたな実戦じっせん使用しようすると、損傷そんしょうはなはだしかった[146]。そこで日本にっぽん刀匠とうしょう協会きょうかい理事りじちょう栗原くりはら彦三郎ひこさぶろう)は、修理しゅうり慰問いもんだん中国ちゅうごく大陸たいりく派遣はけんしている[147][注釈ちゅうしゃく 21]
  • にちちゅう戦争せんそうでは、日本にっぽんへいが「てきへい○○にんった」とする記事きじ複数ふくすう掲載けいさいされた[149][150][151]。「ある准尉じゅんいシベリア出兵しゅっぺいからにちちゅう戦争せんそうにかけてひゃくにんりに挑戦ちょうせんしていたが、70にんったところで戦死せんしした。」という記事きじもある[152]名刀めいとうならば80めいってもすこしもこぼれせず、新刀しんとう現代げんだいがたなでも正式せいしき鍛錬たんれんしたものなら20~30めいってもビクともせず、ただし昭和しょうわがたな論外ろんがいであったという[153]。またかた筋肉きんにく発達はったつしているうえ着衣ちゃくいもあって日本にっぽんがたな損傷そんしょうしやすく、くびほうりやすかったとの回想かいそうもある[154]
  • 野田のだ少尉しょうい向井むかい少尉しょういとも処刑しょけいされた田中たなかぐんきちは「300にんりのおに部隊ぶたいちょう」の肩書かたがきでアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくわたり、ロサンゼルスサンフランシスコ講演こうえんかいをおこなっている[注釈ちゅうしゃく 4]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ すくなくとも、本件ほんけん日日ひび記事きじは、りょう少尉しょうい浅海せんかい記者きしゃ新聞しんぶん記者きしゃに「ひゃくにん競争きょうそう」のはなしをしたことが契機けいきとなって連載れんさいされたものであり、その報道ほうどう野田のだ少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」をみとめる発言はつげんおこなっていたこともうかがわれるのであるから、連載れんさい記事きじ行軍こうぐん経路けいろ殺人さつじん競争きょうそう具体ぐたいてき内容ないようについては、虚偽きょぎ誇張こちょうふくまれている可能かのうせいまったくないとはいえないものの、りょう少尉しょういが「ひゃくにん競争きょうそう」をおこなったこと自体じたいが、なん事実じじつもとづかない新聞しんぶん記者きしゃ創作そうさくによるものであるとまでみとめることは困難こんなんである。」[8][9]
  2. ^ 南京なんきん攻略こうりゃくせん当時とうじ戦闘せんとう実施じっしりょう少尉しょうい軍隊ぐんたいにおける任務にんむ一本いっぽん日本にっぽんがたな剛性ごうせいないし近代きんだい戦争せんそうにおける戦闘せんとう武器ぶきとしての有用ゆうようせいとうらしても、本件ほんけん日日ひび記事きじにある「ひゃくにん競争きょうそう」の実体じったいおよびその殺傷さっしょうすうについて、どう記事きじ内容ないようしんじることはできないのであって、どう記事きじの「ひゃくにんり」の戦闘せんとう成果せいかはなはうたがわしいものとかんがえるのが合理ごうりてきである。しかしながら、その競争きょうそう内実ないじつ本件ほんけん日日ひび記事きじ内容ないようとはことなるものであったとしても、つぎ諸点しょてんらせば、りょう少尉しょういが、南京なんきん攻略こうりゃくせんにおいて軍務ぐんむふくする過程かていで、当時とうじとしては、「ひゃくにん競争きょうそう」として新聞しんぶん報道ほうどうされることに違和感いわかんたない競争きょうそうをした事実じじつ自体じたい否定ひていすることはできず、本件ほんけん日日ひび記事きじの「ひゃくにん競争きょうそう」を新聞しんぶん記者きしゃ創作そうさく記事きじであり、まったくの虚偽きょぎであるとみとめることはできないというべきである。」[11]
  3. ^ 悲願ひがん ひゃくにんり せきまごろく向井むかい中尉ちゅうい[13] 炎熱えんねつおかしての湖北こほく殲滅せんめつせん從軍じゅうぐんした記者きしゃ大海たいかい)はあるてらそうといふしょう部落ぶらく奮戰ふんせんちゅう向井むかい中尉ちゅういにぴよつこりつた。どう中尉ちゅうい一昨年いっさくねん南京なんきん攻略こうりゃくせんおり戰友せんゆう野田のだ中尉ちゅういひゃくにんごうつてあいがたなせき孫六まごろくてきへいひゃくななにんつた勇敢ゆうかん青年せいねん将校しょうこうである。その戰友せんゆう野田のだ中尉ちゅういとさらにひゃくにんりをやくかちしゅう大別たいべつさんかんこうおもりさち各地かくち奮戰ふんせんてきへいさんひゃくにんつたが野田のだ中尉ちゅういが○○にち海南かいなんとうにおいて戰死せんしいま一人ひとり約束やくそくひゃくにんりをはたすため奮戰ふんせんしてゐる。記者きしゃが「孫六まごろくはよくれますか」とはなしかけると朴訥ぼくとつ中尉ちゅういは「よくれます、ちよつと劍先けんさきがひつかゝりますが自信じしんをもつてゐるから大丈夫だいじょうぶです。野田のだ中尉ちゅういへの手向たむけのためにも一人ひとり約束やくそくひゃくにんりをはたすためかたなれるまで一生懸命いっしょうけんめいやつてゐます」とかたりつた(かんすい東方とうほう○○にて西元にしもと大海たいかい特派とくはいん)
  4. ^ a b c さんひゃくにんりの「田中たなかおに部長ぶちょう戰線せんせんさんねん奮戰ふんせんかた 今夜こんやリフォームド教會きょうかい[21] 元旦がんたん當地とうちいたりゅう田丸たまる渡米とべい方面ほうめん講演こうえんちゅう陸軍りくぐん少佐しょうさ田中たなかぐんよしいまじゅういちにち夕方ゆうがたから飛行機ひこうきくわはちからリフオームド教會きょうかいいてくわ主催しゅさいりょう新聞しんぶんおよ鹿兒島かごしまけんじんかい後援こうえんのもとに講演こうえんかい開催かいさいすることになつたが、田中たなか少佐しょうさ大尉たいい時代じだい二・二六事件ににろくじけん關聯かんれんして現役げんえき退しりぞいたが、事變じへん勃發ぼっぱつするや名譽めいよ應召おうしょうとなり、さんヶ年かねんあいだちゅうささえ戰線せんせん勇猛ゆうもう果敢かかん戰闘せんとうつづけ、「こうすみ一番乗いちばんのりの田中たなか部隊ぶたい」として「さんひゃくにんりのおに部隊ぶたいちょう」の勇名ゆうめい赫々かくかくたる武勲ぶくん少佐しょうさ榮進えいしん歸還きかんかん解除かいじょとなるや指揮しきがたなてゝペンとカメラで文化ぶんか戰線せんせん乗出のりだ國策こくさく映畫えいが研究けんきゅう挺身ていしんするといふ軍人ぐんじんかわだねで、とく今夜こんや後援こうえんかいには戰線せんせんさんねん奮闘ふんとうおもかたるよしなれば、その盛況せいきょうすで決定的けっていてきである(記事きじおわり)
  5. ^ 戦闘せんとうてきることとは難易なんいまったことなる。
  6. ^ 成瀬なるせたたか日本刀にっぽんとう』は山本やまもとななへい引用いんようしたれなかった事例じれい少数しょうすうで、だい部分ぶぶん日本にっぽんがたな優秀ゆうしゅうせい印象いんしょうける内容ないようである。
  7. ^ 成瀬なるせ臨戦りんせんがたなじゅつ』(1944ねん)では、以下いかのように記述きじゅつしている。〔 眞劍しんけん勝負しょうぶ心理しんり[29]中略ちゅうりゃく上海しゃんはいから南京なんきんまでのせんでは、かたみひゃくにんりの悲願ひがんで、あい呼應こおうしてすすんだといふわか将校しょうこうにん挿話そうわが、そのころ新聞しんぶんえてゐた。/ 著者ちょしゃは、じょしゅうせん延長えんちょうであるかれ土肥どいげん兵團へいだんらんふうせんつたゞなかで、よんじゅうななにんつたといふわか少尉しょういのその血刀ちがたな修理しゅうりしてやつたことがある。にんつた、じゅうにんつたといふやうなはなしは、ざらなはなしめずらしくもなかつた。(以下いかりゃく)〕。
  8. ^ 山本やまもとへの批判ひはんは「『"南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ"はまぼろし』か」(本多ほんだ勝一かついち編集へんしゅう「ペンの陰謀いんぼう」に収録しゅうろく鈴木すずき批判ひはんは「南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ―「まぼろし」化工かこうさく批判ひはん
  9. ^ 山本やまもと遺体いたい手首てくびあし軍刀ぐんとう切断せつだんしたのちかたながぐらついた自身じしん体験たいけん出発しゅっぱつてんにしている[31]はた鵜野うのすすむ太郎たろうちゅうれん活動かつどう)を引合ひきあいに、ぶつりなら何人なんにん(10にん)でも故障こしょうなくれそうなことを[32]が、『日本にっぽんがたな近代きんだいてき研究けんきゅう』(小泉こいずみ久男ひさお)によると、2人ふたり故障こしょうこり重大じゅうだい故障こしょうもある。以下いかその研究けんきゅうぶつ限定げんていで、った人数にんずう故障こしょう個所かしょの8れい:(1).2人ふたり, (2).1人ひとり, (3).1人ひとり, (4).7にん,すこしくこぼれ (5).42にん, (6).すうにん,こぼれ (7).2人ふたり,2,3箇所かしょこぼれ (8).2人ふたり,がりまもるこぶしガタガタで使用しようじょうはなは不便ふべん(32ぺーじひゃくにん競争きょうそう南京なんきん事件じけん』)》 (5)の42人ふたり故障こしょうしは、いわゆる突出とっしゅつデータ。
  10. ^ 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』(昭和しょうわ13ねん12月13にちづけ)に掲載けいさい[58]
  11. ^ はなしいたときかたなひゃくにんなどれないのでなにっているのかとおもいましてね。それでよくおぼえています。まわりの兵隊へいたいたちもそのはなしっていました。しかしだれ信用しんようしていません」「小隊しょうたいちょう砲撃ほうげき我々われわれ分隊ぶんたいちょうまかせて、全体ぜんたいていて、すずから南京なんきんにいくまでほとんどわたしがわにいました。このあいだ小隊しょうたいちょうかたないたのをいちていません。・・・ひゃくにんるとかなにとかのまえに、我々われわれまわりに中国ちゅうごくへいなどいません。中国ちゅうごくへいがいないのですから、るもらないもありません」[62]
  12. ^ 記事きじいたのは光本みつもと記者きしゃとの見方みかた一部いちぶにあった[よう出典しゅってん]が、りょう少尉しょうい手記しゅき遺書いしょには、浅海あさみ記者きしゃなんてくるが光本みつもと記者きしゃいちてこない。光本みつもと記者きしゃ日日ひび新聞しんぶん京都きょうと支局しきょく特派とくはいんで、地元じもと部隊ぶたい・9連隊れんたい活躍かつやくほうずる立場たちばにあった。
  13. ^ 女性じょせいあかぼうよそおって手榴弾しゅりゅうだんはこんだり、ゲリラを手引てびきして日本にっぽんぐん陣地じんち誘導ゆうどうしたり、まして壮年そうねん男子だんし突然とつぜんかくした武器ぶきでテロをおこな危険きけんがあった」[72]
  14. ^ 「たとえ子供こどもといえども、一刻いっこく油断ゆだんはできないということであった。にわ食事しょくじをしていただけでねらちにされたというようなれいはいくらでもある」[73]
  15. ^ こころざし証言しょうげん極東きょくとう裁判さいばんひらかれた・・・南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけん報道ほうどうはすなおにれることができた。・・・しばらくすると地方ちほう新聞しんぶんで、N少尉しょういらは南京なんきん戦犯せんぱんとして銃殺じゅうさつされたという記事きじほうぜられた。ああ、そうだらうな、たりまえだな」[80]
  16. ^ ---「(いまからか、)現在げんざいひゃくにんりの競争きょうそうをしているというはなしなのか、どっちですか」佐藤さとういまからです」[86]
  17. ^ 東中野ひがしなかの修道しゅうどうは「すずからつねしゅうまでは不眠ふみん不休ふきゅう激戦げきせんだった」「はな余裕よゆうはなかったはずだ」「つねしゅう間違まちがいであろう」[94]とし、笠原かさはらじゅうきゅうは「駅前えきまえ広場ひろば日本にっぽんぐん様子ようすからすずではなくつねしゅうであることはほぼ間違まちがいなく」「りょう少尉しょうい所属しょぞくした冨山とやま大隊だいたいすず入城にゅうじょうすぐに追撃ついげき先発せんぱつたいとしてすず出発しゅっぱつしていることは、戦闘せんとう詳報しょうほうるいから確認かくにんできる」[95]としている。山本やまもとななたいらは「すず駅頭えきとうではりょう少尉しょういにインタビューする時間じかんなどなかった」とし、すずでまず浅海せんかい特派とくはいん向井むかい少尉しょういあいだ談合だんごうおこなわれ、つねしゅう野田のだがそれにったと推定すいていしている[96]
  18. ^ ---(いまからか、)現在げんざいひゃくにんりの競争きょうそうをしているというはなしなのか、どっちですか。佐藤さとういまからです』[86]
  19. ^ 「したがって,そのてんについて検討けんとうするまでもなく、原告げんこくらの上記じょうき主張しゅちょう理由りゆうはなく、被告ひこく毎日まいにちたいする請求せいきゅうみとめられないというべきである。」
  20. ^ 日本にっぽんがたな不足ふそくしたため、有志ゆうし[144]全国ぜんこく神社じんじゃから献納けんのうされる事例じれいもあった[145]
  21. ^ てきりまくつた日本にっぽんがたな修理しゅうり刀匠とうしょう協會きょうかいから戰地せんちへ![148](東京とうきょうななにち同盟どうめい)にちささえ事變じへん發生はっせい以來いらい皇軍こうぐんきたささえみなみささえ壮烈そうれつ肉彈にくだんへいしろせん展開てんかいしてささえへい壓倒あっとう潰滅かいめつてき打撃だげきをあたへてゐるが、これがため将兵しょうへい日本にっぽんがたな損傷そんしょうはなはだしくなつたので日本にっぽん刀匠とうしょう協會きょうかいではこれら損傷そんしょうがたな修理しゅうり研磨けんま奉仕ほうし現地げんちくだりふためどう協會きょうかい理事りじちょう栗原くりはら彦三郎ひこさぶろう以下いかななめいは、じゅうよんにちころ修理しゅうり慰問いもんだんとしてきたささえこうつて出發しゅっぱつするはずである(記事きじおわり)

出典しゅってん

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  153. ^ 日本にっぽんがたな無敵むてきたましい 1943, pp. 68, 76–77(原本げんぽん106-107ぺーじ原本げんぽん123-124ぺーじ)
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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
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  • ひゃくにん訴訟そしょう支援しえんするかいへん『「ひゃくにん訴訟そしょう裁判さいばん記録きろくしゅう』(てんてんしゃ2007ねんISBN 9784886563095

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 板倉いたくら由明よしあき本当ほんとうはこうだった南京なんきん事件じけん』(日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、1999ねんISBN 4-8231-0504-4
  • 鵜野うの光博みつひろひゃくにん競争きょうそう虚報きょほう証明しょうめいした野田のだ少尉しょうい日記にっき」(『正論せいろん』2001ねん8がつごう
  • 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ『「ひゃくにん競争きょうそう」と南京なんきん事件じけん』(大月書店おおつきしょてん、2008ねんISBN 978-4-272-52080-0
  • 熊谷くまがいしん一郎いちろう歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎとのたたか検証けんしょう 南京なんきん事件じけん・「ひゃくにんり」訴訟そしょう--われる戦後せんご責任せきにん報道ほうどう責任せきにん」(『世界せかい』745、2005.11)
  • 小野おの賢二けんじ報道ほうどうされた無数むすうの〈ひゃくにんり〉」(『戦争せんそう責任せきにん研究けんきゅう』50、2005.冬季とうき
  • 鈴木すずきせんとし「〈ひゃくにん競争きょうそう訴訟そしょうはなぜこされたか」(『歴史れきし地理ちり教育きょういく』666、2004.3)
  • はたいく「いわゆる「ひゃくにんり」事件じけんきょ (1)(2)」(『政経せいけい研究けんきゅうだいよんじゅうかんだいいちごうだいよんごう 日本にっぽん大学だいがくほう学会がっかい
  • ほら富雄とみお軍隊ぐんたい教育きょういくつちかわれた青年せいねん将校しょうこう精神せいしん構造こうぞう--「ひゃくにん競争きょうそう」は「事実じじつ」であったか「かたられた事実じじつ」であったか」(『歴史れきし評論ひょうろん』269、1972.11)
  • 向井むかい千恵子ちえこ向井むかい敏明としあき次女じじょ)「さばかれるひゃくにん捏造ねつぞう報道ほうどう」(『諸君しょくん!』2003ねん9がつごう
  • 本多ほんだ勝一かついちほしとおる渡辺わたなべはるおのれ南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつと「ひゃくにん競争きょうそう」の全貌ぜんぼう」(株式会社かぶしきがいしゃ金曜日きんようびISBN 9784906605538
  • 山本やまもとななたいらわたしなか日本にっぽんぐん」(うえした)(文春ぶんしゅん文庫ぶんこISBN 9784167306014 ISBN 9784167306021