向井 敏明
1912 | |
1948 | |
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略歴 [編集 ]
- 1933
年 (昭和 8年 )12月 1日 任 歩兵 予備 少尉 。 - 1936
年 (昭和 11年 )3月 31日 任 歩兵 少尉 (特別 志願 士官 )。- 9月 1
日 、補 歩兵 第 9聯隊 附 。
- 9月 1
- 1937
年 (昭和 12年 )- 11月13
日 、所属 する第 16師団 は揚子江 下流 に上陸 。向井 の身分 は第 16師団 歩兵 第 9聯隊 第 3大隊 第 3歩兵 砲 小隊 の小隊 長 。所属 部隊 は南京 へ敗走 する中国 軍 を追撃 。 - 11月29
日 、常 州 の無 錫 郊外 で東京日日新聞 の浅海 記者 及 び佐藤 カメラマンと会 い、向井 少尉 と百 人 斬 りの競争 をしていると話 したとされる。 - 11月30
日 、東京日日新聞 と大阪毎日新聞 によって野田 毅 少尉 と行 われたとする百 人 斬 り競争 がはじめて報道 される。 - 12月4
日 、新聞 による百 人 斬 り競争 報道 の第 2報 。 - 12月6
日 、新聞 による百 人 斬 り競争 報道 の第 3報 。 - 12月11
日 、浅海 記者 及 び鈴木 記者 と会 い、百 人 斬 りの競争 の経過 について話 したとされる。 - 12月13
日 、新聞 による百 人 斬 り競争 報道 の第 4報 。
- 11月13
- 1939
年 (昭和 14年 )5月 19日 、東京日日新聞 によって向井 は戦死 した野田 少尉 との約束 である五 百 人 斬 りの約束 を実行 していると報道 される。この時期 、実際 は、野田 少尉 は日本 国内 。 - 1946
年 (昭和 21年 )7月 1日 、極東 軍事 裁判 の検事 から出頭 の求 めに応 じ、米国 パーキンソン検事 の尋問 を受 ける。向井 は百 人 斬 り競争 の報道 が創作 であることを説明 。向井 は釈放 され日当 、旅費 の支給 を受 けて帰宅 する。 - 1947
年 (昭和 22年 )- 9月2
日 、GHQにより逮捕 、身柄 は南京 に送致 される。 - 12月4
日 、住民 捕虜 虐殺 としての百 人 斬 り競争 の容疑 で起訴 される。 - 12月18
日 、南京 軍事 法廷 において最初 の公判 が行 われ、その当日 に死刑 判決 を受 ける。東京日日新聞 の記事 と写真 、後 に国民党 宣伝 工作 員 となったハロルド・J・ティンパーリがその記事 を殺人 競争 という章 で紹介 した英文 書籍 等 が証拠 とされ、証人 尋問 は行 われなかった。向井 と野田 は無実 を証明 する書類 の到着 を待 つために公判 の延期 、また問題 の記事 を書 いた記者 と当時 の直属 の上官 の証人 召喚 を求 めていたが認 められなかった。死刑 判決 後 にも記者 と当時 の上司 からの証明 書 などにより再審 を求 めたがこれも認 められなかった[2]。
- 9月2
- 1948
年 (昭和 23年 )1月 28日 、南京 の雨 花台 において、銃殺 刑 が執行 される。
東京日日新聞 の記事 内容 [編集 ]
- 1937
年 11月30日 付 東京日日新聞 朝刊 (第 1報 )- (
見出 し)百 人 斬 り競争 !/両 少尉 、早 くも八 十 人 - (
本文 )【常 州 にて廿 九 日 浅海 、光本 、安田 特派 員 発 】常 熟 、無 錫 間 の四 十 キロを六 日間 で踏破 した○○部隊 の快速 はこれと同一 の距離 の無 錫 、常 州 間 をたつた三 日間 で突破 した、まさに神速 、快 進撃 、その第 一線 に立 つ片桐 部隊 に「百 人 斬 り競争 」を企 てた二 名 の青年 将校 がある、無 錫 出発 後 早 くも一人 は五 十 六 人 斬 り、一人 は廿 五 人 斬 りを果 たしたといふ、一人 は富山 部隊 向井 敏明 少尉 (二 六 )=山口 県 玖珂 郡 神代 村 出身 =一人 は同 じ部隊 野田 毅 少尉 (二 五 )=鹿児島 県 肝属 郡 田代 村 出身 =銃剣 道 三 段 の向井 少尉 が腰 の一刀 「関 の孫 六 」を撫 でれば野田 少尉 は無銘 ながら先祖 伝来 の宝刀 を語 る。 無 錫 進発 後 向井 少尉 は鉄道 路線 廿 六 、七 キロの線 を大 移動 しつつ前進 、野田 少尉 は鉄道 線路 に沿 うて前進 することになり一旦 二 人 は別 れ、出発 の翌朝 野田 少尉 は無 錫 を距る八 キロの無名 部落 で敵 トーチカに突進 し四 名 の敵 を斬 つて先陣 の名乗 りをあげこれを聞 いた向井 少尉 は奮然 起 つてその夜 横林 鎮の敵陣 に部下 とともに躍 り込 み五 十 五 名 を斬 り伏 せた 。- その
後 野田 少尉 は横林 鎮で九 名 、威 関 鎮で六 名 、廿九日 常 州 駅 で六 名 、合計 廿 五 名 を斬 り、向井 少尉 はその後 常 州 駅 付近 で四 名 斬 り記者 等 が駅 に行 つた時 この二人 が駅頭 で会見 してゐる光景 にぶつかつた。 向井 少尉 この分 だと南京 どころか丹陽 で俺 の方 が百 人 くらゐ斬 ることになるだらう、野田 の敗 けだ、俺 の刀 は五 十 六 人 斬 つて歯 こぼれがたつた一 つしかないぞ。野田 少尉 僕 等 は二人 共 逃 げるのは斬 らないことにしてゐます、僕 は○官 をやつてゐるので成績 があがらないが丹陽 までには大 記録 にしてみせるぞ。
- (
- 1937
年 (昭和 12年 )12月4日 東京日日新聞 朝刊 (第 2報 )- (
見出 し)急 ピッチに躍進 /百 人 斬 り競争 の経過 - (
本文 )【丹陽 にて三 日 浅海 、光本 特派 員 発 】既報 、南京 までに『百 人 斬 り競争 』を開始 した○○部隊 の急先鋒 片桐 部隊 、富山 部隊 の二 青年 将校 、向井 敏明 、野田 毅 両 V*:少尉 は常 州 出発 以来 の奮戦 につぐ奮戦 を重 ね、二日午後六時丹陽入塲(原文 通 り)までに、向井 少尉 は八 十 六 人 斬 、野田 少尉 六 十 五 人 斬 、互 いに鎬を削 る大 接戦 となつた。 常 州 から丹陽 までの十 里 の間 に前者 は三 十 名 、後者 は四 十 名 の敵 を斬 つた訳 で壮烈 言語 に絶 する阿修羅 の如 き奮戦 振 りである。今回 は両 勇士 とも京 滬鉄道 に沿ふ同 一戦線上奔牛鎮、呂 城 鎮、陵 口 鎮(何 れも丹陽 の北方 )の敵陣 に飛 び込 んでは斬 りに斬 つた。中 でも向井 少尉 は丹陽 中正 門 の一番乗 りを決行 、野田 少尉 も右 の手首 に軽傷 を負 ふなど、この百 人 斬 競争 は赫々 たる成果 を挙 げつゝある。記者 等 が丹陽 入城 後 息 をもつかせず追撃 に進発 する富山 部隊 を追 ひかけると、向井 少尉 は行進 の隊列 の中 からニコニコしながら語 る。野田 のやつが大部 追 ひついて来 たのでぼんやりしとれん。野田 の傷 は軽 く心配 ない。陵 口 鎮で斬 つた奴 の骨 で俺 の孫 六 に一 ヶ所 刃 こぼれが出来 たがまだ百 人 や二 百 人 斬 れるぞ。東 日大 毎 の記者 に審判官 になつて貰 ふよ。
- (
- 1937
年 (昭和 12年 )12月6日 東京日日新聞 朝刊 (第 3報 )- (
見出 し)89-78/〝百 人 斬 り〟大 接戦 /勇 壮 !向井 、野田 両 少尉 - (
本文 )【句 容 にて五 日 浅海 、光本 両 特派 員 発 】南京 をめざす「百 人 斬 り競争 」の二 青年 将校 、片桐 部隊 向井 敏明 、野田 毅 両 少尉 は句 容 入城 にも最前線 に立 つて奮戦 入城 直前 までの戦績 は向井 少尉 は八 十 九 名 、野田 少尉 は七 十 八 名 といふ接戦 となつた。
- (
- 1937
年 (昭和 12年 )12月13日 東京日日新聞 朝刊 (第 4報 )- (
見出 し)百 人 斬 り〝超 記録 〟向井 106-105野田 /両 少尉 さらに延長 戦 - (
本文 ) 【紫 金山 麓 にて十 二 日 浅海 、鈴木 両 特派 員 発 】南京 入 りまで〝百 人 斬 り競争 〟といふ珍 競争 を始 めた例 の片桐 部隊 の勇士 向井 敏明 、野田 巌 (原文 通 り)両 少尉 は十 日 の紫 金山 攻略 戦 のどさくさに百 六 対 百 五 といふレコードを作 つて、十 日 正午 両 少尉 はさすがに刃 こぼれした日本 刀 を片手 に対面 した 野田 「おいおれは百 五 だが貴様 は?」向井 「おれは百 六 だ!」……両 少尉 は〝アハハハ〟結局 いつまでにいづれが先 に百 人 斬 ったかこれは不問 、結局 「ぢやドロンゲームと致 さう、だが改 めて百 五 十 人 はどうぢや」と忽 ち意見 一致 して十 一 日 からいよいよ百 五 十 人 斬 りがはじまつた、十 一 日 昼中 山陵 を眼下 に見下 ろす紫 金山 で敗残 兵 狩 真最中 の向井 少尉 が「百 人 斬 ドロンゲーム」の顛末 を語 つてのち知 らぬうちに両方 で百 人 を超 えていたのは愉快 ぢや、俺 の関 孫 六 が刃 こぼれしたのは一人 を鉄兜 もろともに唐竹 割 にしたからぢや、戦 ひ済 んだらこの日本刀 は貴社 に寄贈 すると約束 したよ十 一 日 の午前 三 時 友軍 の珍 戦術 紫 金山 残敵 あぶり出 しには俺 もあぶりだされて弾雨 の中 を「えいまゝよ」と刀 をかついで棒立 ちになってゐたが一 つもあたらずさこれもこの孫 六 のおかげだ- と
飛来 する敵 弾 の中 で百 六 の生血 を吸 った孫 六 を記者 に示 した。 - (
写真 説明 )〝百 人 斬 り競争 〟の両 将校 /(右 )野田 巌 (原文 通 り)少尉 (左 )向井 敏明 少尉 =常 州 にて佐藤 (振 )特派 員 撮影 。
- (
遺書 [編集 ]
辞世
我 は天地神明 に誓 ひ捕虜 住民 を殺害 せる事 全然 なし。南京 虐殺 事件 等 の罪 は絶対 に受 けません。死 は天命 と思 ひ日本 男子 として立派 に中国 の土 になります。然 れ共 魂 は大 八 州 に帰 ります。
我 が死 を以 て中国 抗戦 八 年 の苦杯 の遺恨 流 れ去 り日 華 親善 、東洋 平和 の因 ともなれば捨石 となり幸 です。
中国 の御 奮闘 を祈 る
日本 の敢闘 を祈 る
中国 万歳
日本 万歳
天皇陛下 万 歳
死 して護国 の鬼 となります十二月 三 十 一 日 十 時 記 す向井 敏明
参考 文献 [編集 ]
- 『「
百 人 斬 り」報道 を斬 る :敵 はシナ中共 政府 と我 が国 の偏向 マスコミだ』(畠 奈津子 .日新 報道 、 2004年 ) ISBN 4817405805 - 『「
南京 大 虐殺 」のまぼろし』(鈴木 明 . ワック・マガジンズ、2006年 )ISBN 4898315461 - 『
南京 「百 人 斬 り競争 」の真実 』(東中野 修道 . ワック・マガジンズ、2007年 ) ISBN 9784898311011 - 『
百 人 斬 り裁判 から南京 へ』(稲田 朋美 .文藝春秋 、2007年 ) ISBN 9784166605668 - 『「
百 人 斬 り訴訟 」裁判 記録 集 』(百 人 斬 り訴訟 を支援 する会 編集 .展 転 社 、2007年 ) ISBN 9784886563095 -
特別 志願 士官 名簿 (昭和 11年 9月 1日 調 )
脚注 [編集 ]
- ^
現 毎日新聞 の前身 である姉妹 紙 の2紙 東京日日新聞 と大阪毎日新聞 で報道 された。大阪 毎日 小学生 新聞 、鹿児島 朝日新聞 、大阪毎日新聞 鹿児島 沖縄 版 でも後追 い記事 が出 された。(『「百 人 斬 り訴訟 」裁判 記録 集 』35-36頁 ) - ^
記事 を書 いた浅海 記者 と鈴木 二郎 記者 及 び佐藤 振 壽 カメラマンは、2少尉 の百 人 斬 り行為 は見 ておらず、浅海 は南京 軍事 裁判 に対 して目撃 していない旨 を証明 書 で提出 し、向井 と野田 両 名 の上司 も「百 人 斬 り競争 」は虚偽 とする証明 書 を提出 した。(『「百 人 斬 り訴訟 」裁判 記録 集 』32頁 ) - ^
巣鴨 遺書 編纂 委員 会 『世紀 の遺書 』昭和 28年 講談社 (1984再刊 )。稲田 朋美 『百 人 斬 り裁判 から南京 へ』文藝春秋 、p12