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向井むかい敏明としあき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
向井むかい 敏明としあき
べいぐんにより撮影さつえいされたマグショット(1947ねん9がつ
生誕せいたん 1912ねん明治めいじ45ねん6月3にち
日本の旗 日本にっぽん 山口やまぐちけん
死没しぼつ 1948ねん昭和しょうわ23ねん1がつ28にち
中華民国ちゅうかみんこく 南京なんきんあめ花台かだい
所属しょぞく組織そしき 日本にっぽん陸軍りくぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん少佐しょうさ
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向井むかい 敏明としあき(むかい としあき、1912ねん6月3にち - 1948ねん1がつ28にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん敗戦はいせん階級かいきゅう陸軍りくぐん少佐しょうさ

山口やまぐちけん出身しゅっしんにちちゅう戦争せんそう参加さんか南京なんきん攻略こうりゃくせんさい実施じっしされたとされる「ひゃくにん競争きょうそう[1]容疑ようぎしゃとして逮捕たいほされ、南京なんきんにて処刑しょけいされた。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)12月 1にち にん歩兵ほへい予備よび少尉しょうい
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)3がつ31にち にん歩兵ほへい少尉しょうい特別とくべつ志願しがん士官しかん)。
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん
    • 11月13にち所属しょぞくするだい16師団しだん揚子江ようすこう下流かりゅう上陸じょうりく向井むかい身分みぶんだい16師団しだん歩兵ほへいだい9聯隊れんたいだい3大隊だいたいだい3歩兵ほへいほう小隊しょうたい小隊しょうたいちょう所属しょぞく部隊ぶたい南京なんきん敗走はいそうする中国ちゅうごくぐん追撃ついげき
    • 11月29にちつねしゅうすず郊外こうがい東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん浅海せんかい記者きしゃおよ佐藤さとうカメラマンとい、向井むかい少尉しょういひゃくにんりの競争きょうそうをしているとはなしたとされる。
    • 11月30にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶんによって野田のだあつし少尉しょういおこなわれたとするひゃくにん競争きょうそうがはじめて報道ほうどうされる。
    • 12月4にち新聞しんぶんによるひゃくにん競争きょうそう報道ほうどうだい2ほう
    • 12月6にち新聞しんぶんによるひゃくにん競争きょうそう報道ほうどうだい3ほう
    • 12月11にち浅海あさみ記者きしゃおよ鈴木すずき記者きしゃい、ひゃくにんりの競争きょうそう経過けいかについてはなしたとされる。
    • 12月13にち新聞しんぶんによるひゃくにん競争きょうそう報道ほうどうだい4ほう
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ19にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんによって向井むかい戦死せんしした野田のだ少尉しょういとの約束やくそくであるひゃくにんりの約束やくそく実行じっこうしていると報道ほうどうされる。この時期じき実際じっさいは、野田のだ少尉しょうい日本にっぽん国内こくない
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん)7がつ1にち極東きょくとう軍事ぐんじ裁判さいばん検事けんじから出頭しゅっとうもとめにおうじ、米国べいこくパーキンソン検事けんじ尋問じんもんける。向井むかいひゃくにん競争きょうそう報道ほうどう創作そうさくであることを説明せつめい向井むかい釈放しゃくほうされ日当にっとう旅費りょひ支給しきゅうけて帰宅きたくする。
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん
    • 9月2にちGHQにより逮捕たいほ身柄みがら南京なんきん送致そうちされる。
    • 12月4にち住民じゅうみん捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつとしてのひゃくにん競争きょうそう容疑ようぎ起訴きそされる。
    • 12月18にち南京なんきん軍事ぐんじ法廷ほうていにおいて最初さいしょ公判こうはんおこなわれ、その当日とうじつ死刑しけい判決はんけつける。東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記事きじ写真しゃしんのち国民党こくみんとう宣伝せんでん工作こうさくいんとなったハロルド・J・ティンパーリがその記事きじ殺人さつじん競争きょうそうというしょう紹介しょうかいした英文えいぶん書籍しょせきとう証拠しょうことされ、証人しょうにん尋問じんもんおこなわれなかった。向井むかい野田のだ無実むじつ証明しょうめいする書類しょるい到着とうちゃくつために公判こうはん延期えんき、また問題もんだい記事きじいた記者きしゃ当時とうじ直属ちょくぞく上官じょうかん証人しょうにん召喚しょうかんもとめていたがみとめられなかった。死刑しけい判決はんけつにも記者きしゃ当時とうじ上司じょうしからの証明しょうめいしょなどにより再審さいしんもとめたがこれもみとめられなかった[2]
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)1がつ28にち南京なんきんあめ花台かだいにおいて、銃殺じゅうさつけい執行しっこうされる。

東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん記事きじ内容ないよう[編集へんしゅう]

  • 1937ねん11月30にちづけ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん朝刊ちょうかんだいほう
    見出みだし)ひゃくにん競争きょうそう!/りょう少尉しょういはやくもはちじゅうにん
    本文ほんぶん)【つねしゅうにて廿にじゅうきゅうにち浅海せんかい光本みつもと安田やすだ特派とくはいんはつつねじゅくすずあいだよんじゅうキロをろく日間にちかん踏破とうはした○○部隊ぶたい快速かいそくはこれと同一どういつ距離きょりすずつねしゅうあいだをたつたさん日間にちかん突破とっぱした、まさに神速しんそくかい進撃しんげき、そのだい一線いっせん片桐かたぎり部隊ぶたいに「ひゃくにん競争きょうそう」をくわだてためい青年せいねん将校しょうこうがある、すず出発しゅっぱつはやくも一人ひとりじゅうろくにんり、一人ひとり廿にじゅうにんりをたしたといふ、一人ひとり富山とやま部隊ぶたい向井むかい敏明としあき少尉しょういろく)=山口やまぐちけん玖珂くがぐん神代かくみむら出身しゅっしん一人ひとりおな部隊ぶたい野田のだあつし少尉しょうい)=鹿児島かごしまけん肝属きもつきぐん田代たしろむら出身しゅっしん銃剣じゅうけんどうさんだん向井むかい少尉しょういこし一刀いっとうせきまごろく」をでれば野田のだ少尉しょうい無銘むめいながら先祖せんぞ伝来でんらい宝刀ほうとうかたる。
    すず進発しんぱつ向井むかい少尉しょうい鉄道てつどう路線ろせん廿にじゅうろくななキロのせんだい移動いどうしつつ前進ぜんしん野田のだ少尉しょうい鉄道てつどう線路せんろ沿うて前進ぜんしんすることになり一旦いったんにんわかれ、出発しゅっぱつ翌朝よくあさ野田のだ少尉しょういすずを距るはちキロの無名むめい部落ぶらくてきトーチカに突進とっしんよんめいてきつて先陣せんじん名乗なのりをあげこれをいた向井むかい少尉しょうい奮然ふんぜんつてそのよる横林よこばやし鎮の敵陣てきじん部下ぶかとともにおどじゅうめいせた 。
    その野田のだ少尉しょうい横林よこばやし鎮できゅうめいせき鎮でろくめい廿九日ひずめつねしゅうえきろくめい合計ごうけい廿にじゅうめいり、向井むかい少尉しょういはそのつねしゅうえき付近ふきんよんめい記者きしゃとうえきくだりつたこの二人ふたり駅頭えきとう会見かいけんしてゐる光景こうけいにぶつかつた。
    向井むかい少尉しょうい このぶんだと南京なんきんどころか丹陽たんようおれほうひゃくにんくらゐることになるだらう、野田のだけだ、おれかたなじゅうろくにんつてこぼれがたつたひとつしかないぞ。
    野田のだ少尉しょうい ぼくとう二人ふたりどもげるのはらないことにしてゐます、ぼくは○かんをやつてゐるので成績せいせきがあがらないが丹陽たんようまでにはだい記録きろくにしてみせるぞ。
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月4にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん朝刊ちょうかんだいほう
    見出みだし)きゅうピッチに躍進やくしんひゃくにん競争きょうそう経過けいか
    本文ほんぶん)【丹陽たんようにてさんにち浅海せんかい光本みつもと特派とくはいんはつ既報きほう南京なんきんまでに『ひゃくにん競争きょうそう』を開始かいしした○○部隊ぶたい急先鋒きゅうせんぽう片桐かたぎり部隊ぶたい富山とやま部隊ぶたい青年せいねん将校しょうこう向井むかい敏明としあき野田のだあつしりょうV*:少尉しょういつねしゅう出発しゅっぱつ以来いらい奮戦ふんせんにつぐ奮戦ふんせんかさね、二日午後六時丹陽入塲(原文げんぶんどおり)までに、向井むかい少尉しょういはちじゅうろくにん野田のだ少尉しょういろくじゅうにんたがいに鎬をけずだい接戦せっせんとなつた。
    つねしゅうから丹陽たんようまでのじゅうさとあいだ前者ぜんしゃさんじゅうめい後者こうしゃよんじゅうめいてきつたやく壮烈そうれつ言語げんごぜっする阿修羅あしゅらごと奮戦ふんせんりである。今回こんかいりょう勇士ゆうしともきょう鉄道てつどうに沿ふどう一戦線上奔牛鎮、りょじょう鎮、りょうこう鎮(いずれも丹陽たんよう北方ほっぽう)の敵陣てきじんんではりにつた。
    なかでも向井むかい少尉しょうい丹陽たんよう中正ちゅうせいもん一番乗いちばんのりを決行けっこう野田のだ少尉しょういみぎ手首てくび軽傷けいしょうふなど、このひゃくにん競争きょうそう赫々かくかくたる成果せいかげつゝある。記者きしゃとう丹陽たんよう入城にゅうじょういきをもつかせず追撃ついげき進発しんぱつする富山とやま部隊ぶたいついひかけると、向井むかい少尉しょうい行進こうしん隊列たいれつなかからニコニコしながらかたる。
    野田のだのやつが大部おおぶついひついてたのでぼんやりしとれん。野田のだきずかる心配しんぱいない。りょうこう鎮でつたやつほねおれまごろくいちヶ所かしょこぼれが出来できたがまだひゃくにんひゃくにんれるぞ。ひがし日大にちだいごと記者きしゃ審判官しんぱんかんになつてもらいふよ。
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月6にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん朝刊ちょうかんだいほう
    見出みだし)89-78/〝ひゃくにんり〟だい接戦せっせんいさむたけし向井むかい野田のだりょう少尉しょうい
    本文ほんぶん)【ようにてにち浅海せんかい光本みつもとりょう特派とくはいんはつ南京なんきんをめざす「ひゃくにん競争きょうそう」の青年せいねん将校しょうこう片桐かたぎり部隊ぶたい向井むかい敏明としあき野田のだあつしりょう少尉しょういよう入城にゅうじょうにも最前線さいぜんせんつて奮戦ふんせん入城にゅうじょう直前ちょくぜんまでの戦績せんせき向井むかい少尉しょういはちじゅうきゅうめい野田のだ少尉しょういななじゅうはちめいといふ接戦せっせんとなつた。
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月13にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん朝刊ちょうかんだいほう
    見出みだし) ひゃくにんり〝ちょう記録きろく向井むかい 106-105 野田のだりょう少尉しょういさらに延長えんちょうせん
    本文ほんぶん) 【むらさき金山かなやまふもとにてじゅうにち浅海せんかい鈴木すずきりょう特派とくはいんはつ南京なんきんりまで〝ひゃくにん競争きょうそう〟といふちん競争きょうそうはじめたれい片桐かたぎり部隊ぶたい勇士ゆうし向井むかい敏明としあき野田のだいわお原文げんぶんどおり)りょう少尉しょういじゅうにちむらさき金山かなやま攻略こうりゃくせんのどさくさにひゃくろくたいひゃくといふレコードをさくつて、じゅうにち正午しょうごりょう少尉しょういはさすがにこぼれした日本にっぽんがたな片手かたて対面たいめんした
    野田のだ「おいおれはひゃくだが貴様きさまは?」向井むかい「おれはひゃくろくだ!」……りょう少尉しょういは〝アハハハ〟結局けっきょくいつまでにいづれがさきひゃくにんったかこれは不問ふもん結局けっきょく「ぢやドロンゲームといたさう、だがあらためてひゃくじゅうにんはどうぢや」とたちま意見いけん一致いっちしてじゅういちにちからいよいよひゃくじゅうにんりがはじまつた、じゅういちにち昼中ひるなか山陵さんりょう眼下がんか見下みおろすむらさき金山かなやま敗残はいざんへいかり真最中まっさいちゅう向井むかい少尉しょういが「ひゃくにんドロンゲーム」の顛末てんまつかたりつてのち
    らぬうちに両方りょうほうひゃくにんえていたのは愉快ゆかいぢや、おれせきまごろくこぼれしたのは一人ひとり鉄兜てつかぶともろともに唐竹からたけわりにしたからぢや、たたかんだらこの日本刀にっぽんとう貴社きしゃ寄贈きぞうすると約束やくそくしたよじゅういちにち午前ごぜんさん友軍ゆうぐんちん戦術せんじゅつむらさき金山かなやま残敵ざんてきあぶりしにはおれもあぶりだされて弾雨だんうなかを「えいまゝよ」とかたなをかついで棒立ぼうだちになってゐたがひとつもあたらずさこれもこのまごろくのおかげだ
    飛来ひらいするてきだんなかひゃくろく生血なまちったまごろく記者きしゃしめした。
    写真しゃしん説明せつめい)〝ひゃくにん競争きょうそう〟のりょう将校しょうこう/(みぎ野田のだいわお原文げんぶんどおり)少尉しょういひだり向井むかい敏明としあき少尉しょういつねしゅうにて佐藤さとう特派とくはいん撮影さつえい

遺書いしょ[編集へんしゅう]

自筆じひつ遺書いしょのこされている[3]

辞世じせい

 天地神明てんちしんめいちかい捕虜ほりょ住民じゅうみん殺害さつがいせること全然ぜんぜんなし。南京なんきん虐殺ぎゃくさつ事件じけんとうつみ絶対ぜったいけません。天命てんめいおも日本にっぽん男子だんしとして立派りっぱ中国ちゅうごくになります。しかきょうたましいだいはちしゅうかえります。
 もっ中国ちゅうごく抗戦こうせんはちねん苦杯くはい遺恨いこんながはな親善しんぜん東洋とうよう平和へいわよしともなれば捨石すていしとなりこうです。
中国ちゅうごく奮闘ふんとういの
日本にっぽん敢闘かんとういの

中国ちゅうごく万歳ばんざい
日本にっぽん万歳ばんざい
天皇陛下てんのうへいかまんさい
して護国ごこくおにとなります

十二月じゅうにがつさんじゅういちにち じゅうしる向井むかい敏明としあき

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ げん毎日新聞まいにちしんぶん前身ぜんしんである姉妹しまいの2東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん報道ほうどうされた。大阪おおさか毎日まいにち小学生しょうがくせい新聞しんぶん鹿児島かごしま朝日新聞あさひしんぶん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん鹿児島かごしま沖縄おきなわばんでも後追あとお記事きじされた。(『「ひゃくにん訴訟そしょう裁判さいばん記録きろくしゅう』35-36ぺーじ)
  2. ^ 記事きじいた浅海あさみ記者きしゃ鈴木すずき二郎じろう記者きしゃおよ佐藤さとうことぶきカメラマンは、2少尉しょういひゃくにん行為こういておらず、浅海せんかい南京なんきん軍事ぐんじ裁判さいばんたいして目撃もくげきしていないむね証明しょうめいしょ提出ていしゅつし、向井むかい野田のだりょう上司じょうしも「ひゃくにん競争きょうそう」は虚偽きょぎとする証明しょうめいしょ提出ていしゅつした。(『「ひゃくにん訴訟そしょう裁判さいばん記録きろくしゅう』32ぺーじ)
  3. ^ 巣鴨すがも遺書いしょ編纂へんさん委員いいんかい世紀せいき遺書いしょ昭和しょうわ28ねん講談社こうだんしゃ (1984再刊さいかん)。稲田いなだ朋美ともみひゃくにん裁判さいばんから南京なんきんへ』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、p12

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]