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本土ほんど決戦けっせん

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本土ほんど決戦けっせん

日本にっぽん本土ほんど決戦けっせん概略がいりゃく
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1945ねん11月予定よてい
場所ばしょ日本にっぽん本土ほんどおよ周辺しゅうへん島嶼とうしょ海域かいいき
結果けっか日本にっぽん降伏ごうぶくにより作戦さくせん中止ちゅうし
交戦こうせん勢力せいりょく
枢軸すうじくこく 連合れんごうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 昭和しょうわ天皇てんのう
大日本帝国の旗 鈴木すずき貫太郎かんたろう
満洲国の旗 あいしんさとし溥儀ふぎ
中華民国の旗 ちん公博きみひろ
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン
イギリスの旗 クレメント・アトリー
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
中華民国の旗 蔣介せき
戦力せんりょく
30,000,000以上いじょう
だい1そうぐん東日本ひがしにっぽん
だい2そうぐん西日本にしにほん
だい5方面ほうめんぐん北海道ほっかいどう
関東軍かんとうぐん (満州まんしゅう)
海軍かいぐんそうたい
航空こうくうそうぐん
特設とくせつ警備けいびたい
国民こくみん義勇ぎゆうたい
満州まんしゅう国軍こくぐん
和平わへい建国けんこくぐん
稼働かどう可能かのう陸海りくかいぐんぜん兵器へいき
1,500,000以上いじょう
戦艦せんかん24せき以上いじょう
航空こうくう母艦ぼかん60せき以上いじょう
駆逐くちくかん450せき以上いじょう
補助ほじょ艦艇かんてい3,500せき以上いじょう
航空機こうくうき6,000以上いじょう
原子げんしばくだん随時ずいじ投下とうか
生物せいぶつ化学かがく兵器へいき常時じょうじ使用しよう
損害そんがい
中止ちゅうしのため 中止ちゅうしのため
日本にっぽん本土ほんどたたか

本土ほんど決戦けっせん(ほんどけっせん、きゅう字体じたい本土ほんど決戰けっせん)とは、だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう)において想定そうていされた日本にっぽん本土ほんどへの連合れんごうぐん陸上りくじょう戦闘せんとうたいする日本にっぽんがわ呼称こしょうである。

アメリカぐんイギリスぐんフランスぐん中心ちゅうしんとした連合れんごうこくぐん1945ねんあき以降いこうに「ダウンフォール作戦さくせん」として実施じっし予定よていし、日本にっぽんぐんすべてをけっするという意味いみで「けつごう作戦さくせん」としょうする防衛ぼうえい作戦さくせん計画けいかくしていた[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだくして降伏ごうぶくしたため、本土ほんど決戦けっせんおこなわれることがなかった。

背景はいけい

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日本にっぽん政府せいふ大本営だいほんえいが「日米にちべい天王山てんのうざん」と呼号こごうし、死守ししゅすべく全力ぜんりょくそそいだフィリピンのたたかでは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ9にち連合れんごう国軍こくぐんルソン島るそんとうリンガエンわん上陸じょうりくによって日本にっぽんぐん敗北はいぼくがほぼ決定的けっていてきなものとなり、同地どうち喪失そうしつ本土ほんど進攻しんこう時間じかん問題もんだいとなっていた。

また、連合れんごう国軍こくぐん潜水せんすいかん航空機こうくうき攻撃こうげきによる輸送ゆそうせん喪失そうしつくわえ、マリアナおき海戦かいせんレイテおき海戦かいせん以後いご制海権せいかいけん制空権せいくうけんうばわれた。機雷きらいによる日本にっぽん沿岸えんがん封鎖ふうさもあって内地ないち外地がいち連絡れんらくもう完全かんぜん遮断しゃだんされ、撤退てったい増援ぞうえん絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうおちいっていた。

一方いっぽう連合れんごう国軍こくぐん本土ほんど上陸じょうりくそなえた防衛ぼうえいのための準備じゅんび挙国一致きょこくいっち体制たいせいごえでおこなわれていたが、本土ほんど占領せんりょうとのあいだ制海権せいかいけん制空権せいくうけん喪失そうしつによる石油せきゆ金属きんぞくなど軍需ぐんじゅ物資ぶっし深刻しんこく不足ふそく遅々ちちとしてすすまず、航空機こうくうきよう代替だいたい燃料ねんりょうとして松根おうねあぶら生産せいさんや、鋼材こうざい節約せつやくできるコンクリートせん武智たけちまる)の建造けんぞうさえおこなわれていた。そのじょう日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうによるばくげきくわわり、有効ゆうこう防衛ぼうえい体制たいせい構築こうちくすること自体じたい絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうであった。

本土ほんど防衛ぼうえいせん準備じゅんび

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基本きほん構想こうそう

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当初とうしょ大本営だいほんえい本土ほんどでの地上ちじょうせん想定そうていしていなかったが、絶対ぜったい国防こくぼうけん破綻はたんし、本土ほんど防衛ぼうえいせんいちから考慮こうりょせざるをない状況じょうきょうとなった。 だいいち国体こくたい護持ごじさい優先ゆうせん課題かだいであったため、1944ねん1がつごろから大本営だいほんえい転進てんしん計画けいかく松代まつだい大本営だいほんえい建設けんせつ)が秘密裏ひみつりすすめられた。 1944ねん7がつ20日はつか参謀さんぼう総長そうちょうは『本土ほんど沿岸えんがん築城ちくじょう実施じっし要綱ようこう』をしめし、連合れんごう国軍こくぐん上陸じょうりくそなえ、九十九里浜くじゅうくりはま鹿島灘かしまなだ八戸はちのへ陣地じんち構築こうちくめいじた。また、関東かんとう防衛ぼうえいのための大本営だいほんえい直属ちょくぞく部隊ぶたいとしてだい36ぐん編成へんせいされた。 1944ねん7がつ24にち大本営だいほんえいは『陸海りくかいぐん爾後じご作戦さくせん大綱たいこう』をじょうし、フィリピン、千島ちしま列島れっとう本土ほんど台湾たいわんの4方面ほうめんで、連合れんごう国軍こくぐん侵攻しんこう想定そうていした迎撃げいげき作戦さくせん準備じゅんびめいじた(としごう作戦さくせん)。 そのやくカ月かげつにフィリピンにべいぐん侵攻しんこう。これにたい大本営だいほんえいはフィリピンを死守ししゅすべく捷一しょういちごう作戦さくせん発動はつどうしたが、ぎゃくレイテおき海戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい壊滅かいめつする大敗たいはいきっし、日本にっぽん海上かいじょう作戦さくせん能力のうりょく事実じじつじょう喪失そうしつした。

その結果けっかをうけ、大本営だいほんえい本格ほんかくてき本土ほんど防衛ぼうえい計画けいかくせまられることになった。連合れんごう国軍こくぐん本土ほんど上陸じょうりく侵攻しんこう遅延ちえんさせ、そのあいだ本土ほんど作戦さくせん準備じゅんび態勢たいせい確立かくりつするための『帝國ていこく陸海りくかいぐん作戦さくせん計画けいかくだいもう』を1945ねん1がつ20日はつかさだめ、陸上りくじょう防衛ぼうえいせんへの準備じゅんびすすめられていくことになる。この作戦さくせん計画けいかくは、「ぜんえん地帯ちたい」つまり千島ちしま列島れっとう小笠原諸島おがさわらしょとう南西諸島なんせいしょとう沖縄おきなわ本島ほんとう以南いなん台湾たいわんなどの地域ちいきを「外郭がいかく」とし、連合れんごう国軍こくぐん侵攻しんこうしてきた場合ばあい出来できかぎ抗戦こうせんしててき出血しゅっけつはかりつつ、長駆ちょうく侵攻しんこうしてくるてき日本にっぽん本土ほんどふかくまでさそんだじょう撃退げきたいするという海軍かいぐん漸減ぜんげん迎撃げいげき戦略せんりゃく採用さいようされた。

1945ねん4がつ8にち大本営だいほんえいは、連合れんごうぐん上陸じょうりくさいにはかく方面ほうめんぐん独立どくりつして最期さいごまで戦闘せんとうにあたることと、『けつごう作戦さくせん準備じゅんび要綱ようこう』を示達じたつし、一連いちれん防衛ぼうえい計画けいかく正式せいしき作戦さくせんめいけつごう作戦さくせん」とした。以降いこう大本営だいほんえい構想こうそうは、部隊ぶたい後退こうたい持久じきゅうみとめないむねかく部隊ぶたい通達つうたつ[1]いちおく玉砕ぎょくさい思想しそうにとらわれていくことになる。

日本にっぽんぐんは、連合れんごう国軍こくぐん本土ほんど侵攻しんこうしてくる時期じきを1945ねんあき予測よそくしていた。当時とうじ敵情てきじょう分析ぶんせきをした書類しょるいには、

わが本土ほんど攻略こうりゃく開始かいし時期じき方面ほうめんおよ規模きぼなどはなお予断よだんゆるさないが、わが、空海くうかい武力ぶりょく打倒だとう空海くうかい基地きち推進すいしんにちまんささえ生産せいさんおよ交通こうつう徹底的てっていてき破壊はかいなどにより戦争せんそう遂行すいこう能力のうりょく打倒だとうし、大陸たいりく本土ほんどとの兵力へいりょく機動きどう遮断しゃだんし、そのうえ、十分じゅうぶんりくへい集中しゅうちゅう指向しこうととのえたのち、決行けっこうするのが至当しとう順序じゅんじょであろう。その時期じき今後こんご情況じょうきょうにより変化へんかするが、本年ほんねんあき以降いこうとく警戒けいかいようするものと思考しこうする — 戦史せんし叢書そうしょ本土ほんど決戦けっせん準備じゅんび<1>関東かんとう防衛ぼうえい防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつちょあさくも新聞しんぶんしゃかん

とされており、連合れんごう国軍こくぐん日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうのスケジュールとほぼ一致いっちしていた。

陸軍りくぐん

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指揮しき系統けいとう一新いっしん

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1945ねん1がつ22にち、すでに沖縄おきなわせんまえ解体かいたいされていた北方ほっぽうぐん台湾たいわんぐんくわえて、1944ねんより本土ほんど防衛ぼうえいそう指揮しきっていた防衛ぼうえいそう司令しれい隷下れいかにあった東部とうぶぐん中部ちゅうぶぐん西部せいぶぐんおよ朝鮮ちょうせんぐん廃止はいしして、あらたに方面ほうめんぐんぐん管区かんく新設しんせつした。これによって、作戦さくせん軍政ぐんせい分離ぶんりおこない、本土ほんど決戦けっせんにおける指揮しき系統けいとう明確めいかくはかった。防衛ぼうえいそう司令しれいはこれまでと同様どうように、直接ちょくせつ部隊ぶたいとして東京とうきょう防衛ぼうえいのためのだい36ぐんだい6航空こうくうぐん指揮しきいていた。

さらに4がつ8にち指揮しき円滑えんかつはかるため、防衛ぼうえいそう司令しれいだい1そうぐんだい2そうぐん分割ぶんかつされた。りょうそうぐん指揮しき範囲はんい鈴鹿山脈すずかさんみゃく境界きょうかいとしていた。また、航空こうくう戦力せんりょく一元いちげん運用うんようのため、航空こうくうそうぐん新設しんせつされた。このさいに、だい36ぐんだい12方面ほうめんぐん隷下れいかになり、だい6航空こうくうぐん航空こうくうそうぐん隷下れいかとなった。

これら一連いちれんしん指揮しき系統けいとう確立かくりつ結果けっか以下いかしめす。

兵力へいりょく配備はいび

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1944ねんマリアナ諸島しょとう喪失そうしつしたころ日本にっぽん陸軍りくぐんそう兵力へいりょくはおよそ400まんにんであったが、そのうち、日本にっぽん本土ほんどにあったのは、東部とうぶ中部ちゅうぶ西部せいぶかくぐんわせてもやく45まん6せんにんで、そう兵力へいりょくのわずか11%にぎず、防衛ぼうえいせんおこなうには兵力へいりょく不足ふそくしていた[注釈ちゅうしゃく 2]

兵力へいりょく欠乏けつぼうおぎなうため、まんしゅう北方ほっぽうからの部隊ぶたい転用てんようおこなわれたほか、「こそぎ動員どういん」とばれる現役げんえきへいから国民こくみん兵役へいえきいたるまでの大量たいりょう召集しょうしゅう部隊ぶたい新設しんせつすすめられた。こそぎ動員どういんは、以下いかとおり、おおきく3かいけて実施じっしされた。

これらの動員どういんによって、一般いっぱん師団しだん40独立どくりつ混成こんせい旅団りょだん22などやく150まんにんちかくが動員どういんされた。日本にっぽんぐんは、前述ぜんじゅつ時期じき念頭ねんとう部隊ぶたい編成へんせい実施じっしした。しかし、期間きかん物資ぶっし制限せいげんから最終さいしゅうてきには、兵力へいりょく装備そうび不足ふそくしていても、編成へんせい完結かんけつしたとなす方針ほうしんられた。そのため、これらの師団しだん結局けっきょく中途半端ちゅうとはんぱ人員じんいん装備そうびのままで配備はいびされていった。

さらに、緊急きんきゅうにのみ召集しょうしゅうする防衛ぼうえい召集しょうしゅう方式ほうしき部隊ぶたいも、補助ほじょてき戦力せんりょくとして増設ぞうせつされた。沿岸えんがん警備けいびなどを目的もくてきとした特設とくせつ警備けいびたいつづ編成へんせいされたほか、後述こうじゅつ国民こくみん戦闘せんとう組織そしき連携れんけいする部隊ぶたいとして地区ちく特設とくせつ警備けいびたい編成へんせいはじまった。従来じゅうらい徴兵ちょうへい関係かんけい事務じむ処理しょり機関きかんだった連隊れんたい司令しれいも、地区ちく特設とくせつ警備けいびたいなどを指揮しきして戦闘せんとう任務にんむうことになり、職員しょくいん兼任けんにん地区ちく司令しれいあらたに編成へんせいされた。これらの部隊ぶたい兵器へいき訓練くんれんともきわめて不十分ふじゅうぶん状態じょうたいであった。

以上いじょうのほか、本土ほんど所在しょざい軍部ぐんぶたい増加ぞうかおうじたぐん秩序ちつじょ維持いじ軍民ぐんみん関係かんけい調整ちょうせいはかることなどを目的もくてきに、国内こくない配備はいび憲兵けんぺい大幅おおはば増強ぞうきょうおこなわれた。正規せいき憲兵けんぺいだけで14203にんおよび、さらに補助ほじょ憲兵けんぺい9222にん増加ぞうか配属はいぞくされた。これにより、国内こくない憲兵けんぺい一挙いっきょに3ばい兵力へいりょくとなった。

特殊とくしゅ軍務ぐんむ機関きかん移転いてん

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帝國ていこく陸海りくかいぐん作戦さくせん計画けいかくだいもう』の方針ほうしんのっとり、本土ほんど防衛ぼうえいせんでの諜報ちょうほうせん秘密ひみつせんゆうげきせん細菌さいきんせんそなえ、陸軍りくぐん中野なかの学校がっこう群馬ぐんま移転いてん、および登戸のぼりと研究所けんきゅうじょ長野ながの移転いてんおこなわれた。

海軍かいぐん

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指揮しき系統けいとう一新いっしん

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レイテおき海戦かいせん敗北はいぼくによりおおくの艦艇かんていうしない、すでに組織そしきてき戦闘せんとうりょく喪失そうしつしていた海軍かいぐんは、南東なんとう方面ほうめん艦隊かんたいおよ南西なんせい方面ほうめん艦隊かんたいのぞいた、ぜん部隊ぶたい統一とういつ指揮しきするため、陸軍りくぐん指揮しき系統けいとう改編かいへんおな時期じき、1945ねん4がつ25にちに、慶應大学けいおうだいがく日吉ひよしキャンパスに海軍かいぐんそうたい司令しれい設置せっちし、初代しょだい海軍かいぐんそう司令しれい長官ちょうかんには連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん兼務けんむ豊田とよだふく大将たいしょう、ついで小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう任命にんめいされた。

行政ぎょうせい民兵みんぺいとう整備せいび

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軍事ぐんじじょう要望ようぼう国民こくみん権利けんり調整ちょうせいするために「軍事ぐんじ特別とくべつ措置そちほう」が施行しこうされ、船舶せんぱく港湾こうわんなどの一元いちげんてき運営うんえい地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき臨戦りんせんはかられた。たとえば、船舶せんぱく運営うんえいかいゆだねられていた船舶せんぱく管理かんりは、ぐん徴用ちょうようせんわせて新設しんせつ大本営だいほんえい海運かいうん総監そうかんおこなうことになった。

さらに、3がつ下旬げじゅん以降いこうは、陸海りくかいぐんべつぜん国民こくみん戦力せんりょくはか国民こくみん戦闘せんとう組織そしき編成へんせいすすめられた。3月23にち統制とうせい強化きょうか民間みんかん防衛ぼうえいのための国民こくみん義勇ぎゆうたい設置せっち閣議かくぎ決定けっていされ、国民こくみん学校がっこう初等しょとう終了しゅうりょう以上いじょうの65さい以下いか男性だんせい、45さい以下いか女性じょせいのうち、病弱びょうじゃくしゃ兵役へいえきしゃのぞ全員ぜんいん地域ちいき単位たんい組織そしきした。6月22にち義勇ぎゆう兵役へいえきほう公布こうふにより、国民こくみん義勇ぎゆうたい陸海りくかいぐん正規せいき部隊ぶたい以外いがい補助ほじょ戦闘せんとう組織そしきである国民こくみん義勇ぎゆう戦闘せんとうたいへの編入へんにゅう可能かのうとなった。義勇ぎゆう兵役へいえきほうでは、兵役へいえきほう対象たいしょうがいである若年じゃくねんしゃ高齢こうれいしゃ女性じょせい対象たいしょうまれ、男性だんせいは15さい以上いじょう60さい以下いか当時とうじ男子だんし平均へいきん寿命じゅみょう46.9さい)、女性じょせいは17さい以上いじょう45さい以下いかまでが「義勇ぎゆう召集しょうしゅう」によって、国民こくみん義勇ぎゆう戦闘せんとう隊員たいいん編入へんにゅうされ、「義勇ぎゆうへい」として戦闘せんとう参加さんかすることが可能かのうとなった。ただし召集しょうしゅう拒否きょひ不可ふかであり、逃亡とうぼう忌避きひたいしては罰則ばっそくくわえられた。対象たいしょう年齢ねんれいしゃ以外いがいもの志願しがんすれば、戦闘せんとうたい参加さんかすることが可能かのうで、それ以外いがいもの戦闘せんとう予測よそく地域ちいきからの退避たいひ予定よていされていた。これにともない、在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい自主じしゅてき組織そしきしていた防衛ぼうえいたいは、国民こくみん義勇ぎゆうたい一本いっぽんされた。

準備じゅんび経過けいか

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連合れんごう国軍こくぐん1945ねん4がつ沖縄おきなわ侵攻しんこう沖縄おきなわせん)を開始かいし、6がつには沖縄おきなわ占領せんりょうをほぼ完了かんりょうした。連合れんごう国軍こくぐん日本にっぽん早期そうき降伏ごうぶくねらい、機雷きらい潜水せんすいかんによる日本にっぽん本土ほんど海上かいじょう封鎖ふうさばくげきによる都市とし空襲くうしゅうおこなったものの、それらの降伏ごうぶく意思いしたいする効果こうか明確めいかくであり、本土ほんど上陸じょうりくたし、東京とうきょう占領せんりょうによって戦争せんそう終結しゅうけつ目指めざすことが計画けいかくされた。

一方いっぽう日本にっぽん政府せいふにち戦争せんそう念頭ねんとうソ連それん仲介ちゅうかいとし、天皇てんのうせい維持いじおも目的もくてきとする「国体こくたい護持ごじ」をかかげた講和こうわ工作こうさくおこなってはいたが、国家こっか体制たいせい破壊はかい太平洋戦争たいへいようせんそう最終さいしゅう目標もくひょうとする連合れんごう国軍こくぐんれられるはずがなく[2]、はかばかしい結果けっかさなかった。結局けっきょくきで日本にっぽん本土ほんどにおける戦争せんそう継続けいぞく方針ほうしん採用さいようされた。

昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』によれば、6月12にちには、「わたしいままでいてゐたところでは、海岸かいがん地方ちほう防備ぼうびわるいといふことであつたが、報告ほうこくると、海岸かいがんのみならず、決戦けっせん師団しだんさへ、武器ぶき満足まんぞくわたしつてゐないとうんごとだつた。てきおとしたばくだんてつ利用りようして「シャベル」をつくるのだとうんふ、これでは戦争せんそう不可能ふかのううんごと確認かくにんした。」また、「終戦しゅうせんもと侍従じじゅうちょうつぼとうからいたことだが一番いちばん防備ぼうび出来できているはず鹿児島かごしま半島はんとう部隊ぶたいでさえ、たい戦車せんしゃほうがない有様ありさまで、へい毎日まいにち塹壕ざんごうほり使役しえきされ、満足まんぞく訓練くんれん出来できらぬ有様ありさまだったそうだ。」とある[3]

1945ねん7がつ26にち連合れんごうこく共同きょうどう声明せいめいとしてポツダム宣言せんげんされる。最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎではソ連それんからの仲介ちゅうかい回答かいとうるまで静観せいかんするとされたが、軍部ぐんぶがわから政府せいふ国民こくみん士気しきかかわるという理由りゆう非難ひなん声明せいめい要求ようきゅうがあり、鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょう記者きしゃ会見かいけんで「重大じゅうだい価値かちあるものとはみとめない、ただ黙殺もくさつするのみである」とべた。

その原子げんしばくだん投下とうかソ連それん参戦さんせんによって最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ御前ごぜん会議かいぎにおいて昭和しょうわ天皇てんのうのいわゆる「聖断せいだん」によりポツダム宣言せんげん受諾じゅだくによる停戦ていせん決意けつい、8がつ14にち宣言せんげん正式せいしき受諾じゅだく連合れんごうこく通告つうこくする。よく15にちにはそれが発表はっぴょうされ、9月2にち宣言せんげん正式せいしき調印ちょういんがなされた。これによって「本土ほんど決戦けっせん」は想定そうてい計画けいかくだけにわる結果けっかとなった。

各国かっこくぐん想定そうてい

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日本にっぽん本土ほんど決戦けっせん概略がいりゃく

日本にっぽんぐん作戦さくせん

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千島ちしまから九州きゅうしゅうまで、日本にっぽん全土ぜんどにおいて防御ぼうぎょ陣地じんち構築こうちくこそぎ動員どういんにより戦闘せんとう要員よういん確保かくほする。とく陣地じんち構築こうちくおおかった地区ちく九州きゅうしゅう関東かんとうである。軍人ぐんじんのほかに地元じもと住民じゅうみんなども動員どういんして、塹壕ざんごう飛行場ひこうじょう構築こうちくおこなわれた。航空こうくう攻撃こうげきについては夜間やかんかみなりばくげきおもとする通常つうじょう攻撃こうげきふくまれていたが、特攻とっこう主体しゅたいになるとかんがえられていた。

連合れんごう国軍こくぐん作戦さくせん

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ソ連それんぐん動向どうこう

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ソ連それんは1945ねん8がつ8にち日本にっぽん宣戦せんせんし、よく9にち未明みめいまんしゅう朝鮮ちょうせん北部ほくぶ千島ちしま樺太からふと侵攻しんこうしている(ソ連それんたいにち参戦さんせん)。ソ連それん北海道ほっかいどうきた半分はんぶん占領せんりょうをアメリカに要求ようきゅうしており、実際じっさいに1945ねん8がつ後半こうはんにはぐん北海道ほっかいどう上陸じょうりく準備じゅんび命令めいれいしていた。

中国ちゅうごくぐん動向どうこう

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中国ちゅうごくぐん日本にっぽん本土ほんど決戦けっせん支援しえんする陽動ようどう作戦さくせんとして10月の後半こうはん中国ちゅうごく大陸たいりくでの全面ぜんめん攻勢こうせいをする計画けいかくをしていた。

ちゅうにち外交がいこうかんへの対応たいおう

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ドイツなどの同盟どうめいこくソ連それんのような交戦こうせんこくスウェーデンスイススペインなどの中立ちゅうりつこく外交がいこうかんおおくは東京とうきょう疎開そかいさき軽井沢かるいざわなどで通常つうじょう活動かつどうおこなっており、連合れんごう国軍こくぐん上陸じょうりくさいには日本にっぽん政府せいふとともに疎開そかい移動いどうすることとなっていた。

現代げんだいへの影響えいきょう

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本土ほんど決戦けっせん」は、絶対ぜったい国防こくぼうけんやぶられたのち軍部ぐんぶ作成さくせいした泥縄どろなわてき戦略せんりゃくで、その計画けいかく未完みかんわったため、戦後せんご日本にっぽん防衛ぼうえい戦略せんりゃくあたえた影響えいきょうおおくはない。しかし、本土ほんど決戦けっせん準備じゅんびのために凄惨せいさん持久じきゅうせんとなった沖縄おきなわせんでは多数たすう人的じんてき損害そんがい発生はっせいした。国民こくみん領土りょうど戦略せんりゃくてき犠牲ぎせいにするという国民こくみん国家こっかとして「ありうる選択肢せんたくし」を、日本にっぽん政府せいふたいべい戦争せんそうにおいては沖縄おきなわにのみわせる結果けっかわったことは、戦後せんご基地きち問題もんだい代表だいひょうされる沖縄おきなわ本土ほんどへの不信ふしんかんいだかせるにいたった。

作家さっか笠井かさいきよしは、本土ほんど防衛ぼうえいせんおこなわれた犠牲ぎせいしゃすう試算しさんを200まんから300まんと、沖縄おきなわせんくらべて「これでもひかえめな数字すうじ」と予測よそくしている。そしてこの惨禍さんかのがれたのは「幸運こううんであった」としながらも、同時どうじに、この代償だいしょうとして日本人にっぽんじんがなにをうしなったかを正確せいかく必要ひつようがある、とべている[4]

本土ほんど決戦けっせん兵器へいき」のひとつとして疲労ひろう回復かいふくようヒロポン大量たいりょう生産せいさんされたが、戦闘せんとうおこなわれなかったことで終戦しゅうせんには大量たいりょう備蓄びちくされていた。一旦いったんGHQ押収おうしゅうされたが、のちに日本にっぽんぐん貯蔵ちょぞう医薬品いやくひん開放かいほう指令しれいにより、医療いりょうひんとともに大量たいりょう市場いちば流出りゅうしゅつしたことで、不足ふそくしていたさけやタバコの代用だいようとしてひろまりおおくの薬物やくぶつ依存いぞんしゃ発生はっせいさせた[5]

舞台ぶたい設定せっていとしての本土ほんど防衛ぼうえいせん

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本土ほんど防衛ぼうえいせんは、それが非常ひじょうはげしい陸上りくじょう戦闘せんとうともなうとおもわれること、またその結果けっかとして20世紀せいき後半こうはん日本にっぽん分断ぶんだん国家こっかとなった可能かのうせいがあったことから、架空かくう戦記せんきやSFなどの設定せっていやプロットにもちいられることがある。

本土ほんど決戦けっせん」を題材だいざいとしたフィクション作品さくひん

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研究けんきゅうしょ、テレビドキュメンタリー

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  • まぼろし本土ほんど決戦けっせん 房総半島ぼうそうはんとう防衛ぼうえいぜん8かん千葉ちば日報にっぽうしゃ、1989-1994ねん
  • 大西おおにし比呂志ひろし栗田くりた尚弥なおやしょうかぜ秀雅ひでまさ相模さがみわん上陸じょうりく作戦さくせんだい大戦たいせん終結しゅうけつへのみち』(有隣堂ゆうりんどう新書しんしょ、1995ねん
  • 保阪ほさかただしやすし本土ほんど作戦さくせん幻想げんそう/オリンピック作戦さくせんへん』『コロネット作戦さくせんへん』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2009ねん
  • 決定けっていばん太平洋戦争たいへいようせんそう8「いちおくそう特攻とっこう」「本土ほんど決戦けっせん」へのみち』(歴史れきしぐんぞうシリーズ、2010ねん
  • 藤田ふじた昌雄まさお日本にっぽん本土ほんど決戦けっせんられざる国民こくみん義勇ぎゆう戦闘せんとうたい全貌ぜんぼう』(しお書房しょぼう光人みつひとしゃ、2015ねん
  • 土門どもん周平しゅうへい本土ほんど決戦けっせんまぼろし防衛ぼうえい作戦さくせんべいぐん進攻しんこう計画けいかく』(光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2015ねん
  • 広域こういき高速こうそくネットきゅうろくまぼろし本土ほんど最終さいしゅう決戦けっせん首都しゅとたて 房総ぼうそう千葉ちば~』(2015ねん) 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ また、ソ連それんぐんによる北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほうでの陸上りくじょう戦闘せんとう可能かのうせいふくまれる。
  2. ^ 北海道ほっかいどう千島ちしま樺太からふと小笠原諸島おがさわらしょとう南西諸島なんせいしょとう本土ほんど周辺しゅうへんぐん学校がっこうなどのおよそ41まん2せんにん航空こうくう部隊ぶたい船舶せんぱく部隊ぶたいなどの人員じんいんやく45まん3せんにんわせても132まん1せんにんであり、そう兵力へいりょくの3ぶんの1程度ていどぎなかった。

出典しゅってん

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  1. ^ 大本営だいほんえい国土こくど決戦けっせんきょうれい」1945ねん4がつ20日はつか発令はつれいなど
  2. ^ 笠井かさいきよし『8・15と3・11 戦後せんご死角しかく』(NHK出版しゅっぱん新書しんしょ)p.85
  3. ^ 寺崎てらさき英成えいせい昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、136ぺーじ
  4. ^ 笠井かさいきよし『8・15と3・11 戦後せんご死角しかく』(NHK出版しゅっぱん新書しんしょ)p.63
  5. ^ SCAPIN-389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS 1945/12/04”. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2020ねん2がつ6にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山田やまだあきら=監修かんしゅう日吉台ひよしだい地下ちかごう保存ほぞんかい=へんいちたずねてみたい戦争せんそう遺跡いせき 本土ほんど決戦けっせん虚像きょぞう実像じつぞうこうぶんけん 2011ねん8がつ ISBN 978-4-87498-464-2

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 本土ほんど上陸じょうりくたいする反撃はんげき作戦さくせん準備じゅんびだい復員ふくいんきょく残務ざんむ処理しょり、1947ねんNDLJP:8815604 

関連かんれん項目こうもく

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