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昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく

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昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和しょうわ天皇てんのう戦前せんぜん戦中せんちゅう出来事できごとかんして1946ねん昭和しょうわ21ねん)に側近そっきんたいしてかたった談話だんわをまとめた記録きろく最初さいしょは『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1990ねん12がつごう公開こうかいされた。

作成さくせい発見はっけん経緯けいい

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独白どくはくろく』は、外務省がいむしょう出身しゅっしん当時とうじみや内省ないせい御用ごようかけとして昭和しょうわ天皇てんのう通訳つうやくつとめていた寺崎てらさき英成えいせいにより作成さくせいされた。寺崎てらさきによる結語けつごには、この記録きろく作成さくせい経緯けいいについて以下いかしるされている[1]

ほんへん昭和しょうわじゅういちねんさんがつじゅうはちにちじゅうにちじゅうにちよんがつはちにちかい)、合計ごうけいかい前後ぜんごはちあいだあまりわただい東亜とうあ戦争せんそう遠因えんいん近因きんいん経過けいか及終せん事情じじょうとうづけ聖上せいじょう陛下へいか記憶きおく松平まつだいらみや内大臣ないだいじんけいみん)、木下きのした侍従じじゅう次長じちょう松平まつだいらはじめ秩寮総裁そうさい康昌やすまさ)、稲田いなだ内記ないき部長ぶちょう及寺さき御用ごようかけにんうけたまわりたるしょ記録きろくである、陛下へいかなにも「メモ」をたせられなかった

ぜんさんかい風気かざけため文庫ぶんこ引篭ひっこもなかとくに「ベッド」を政務せいむしつ持込もちこみなされかりゆかのままはなくだされ、さいきさきかい葉山はやま御用邸ごようてい休養きゅうようちゅうとくに、松平まつだいらけいみんほかにん葉山はやま参内さんだいしてうけたまわったものである

記録きろく大体だいたい稲田いなだ作成さくせいし、不明瞭ふめいりょうてんづけては木下きのしたおりあるごとうかが添削てんさくへたものである — 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく

木下きのした道雄みちおの『側近そっきん日誌にっし』によると、1945ねん12月4にち梨本なしもと宮守みやもりただしおう戦犯せんぱん容疑ようぎ逮捕たいほされたのをきっかけとして、昭和しょうわ天皇てんのうとの相談そうだんうえ記憶きおくくわえて内大臣ないだいじん日記にっき侍従じじゅうしょく記録きろく参考さんこうとしてひとつの記録きろくつくくを」として松平まつだいら康昌やすまさとも木下きのした作成さくせいすることになった。作業さぎょう一旦いったん中止ちゅうしされたが、翌年よくねん2がつ25にちになり戦犯せんぱん裁判さいばんとの関連かんれん手記しゅき用意よういする必要ひつようがないかとの天皇てんのう下問かもんがあり調査ちょうさ再開さいかいされた[2]

1030ふん~12陛下へいか風邪かぜいま全快ぜんかいいたらざるも、かねてのわれ々の研究けんきゅう事項じこう進捗しんちょくすべき熱意ねついあり。よって政務せいむしつ寝台しんだいれ、かりゆかのまま、大臣だいじん松平まつだいら総裁そうさいいねこく内記ないき部長ぶちょう寺崎てらさき御用ごようかけにんして、田中たなか内閣ないかくよりの政変せいへんほか今般こんぱん戦犯せんぱん裁判さいばん関係かんけいある問題もんだいにつき記憶きおくをたどりて事柄ことがらうけたまわ — 木下きのした道雄みちお側近そっきん日誌にっし昭和しょうわ21ねん3がつ18にち

稲田いなだ周一しゅういちになる正文せいぶんがあったとみられるがこれは発見はっけんされていない。

独白どくはくろく』の一部いちぶは、木下きのしたの『側近そっきん日誌にっし』に関係かんけい文書ぶんしょとして収録しゅうろくされている。この「木下きのしたメモ」は菊花きっか紋章もんしょうがついた罫紙けいし用箋ようせんかれており、独白どくはくろく冒頭ぼうとうだい東亜とうあ戦争せんそう遠因えんいん」に対応たいおうしているが、独白どくはくろくよりも詳細しょうさいである。寺崎てらさきばんでは「木下きのしたメモ」の文章ぶんしょう口語こうご変換へんかんされ省略しょうりゃくされている。

寺崎てらさきやまいのため1948ねんから実務じつむはなれ、翌年よくねんにグエン夫人ふじんむすめマリコは、マリコの教育きょういくのためアメリカ・テネシーしゅう帰国きこくした。寺崎てらさきは2ねん死去しきょした。寺崎てらさき遺品いひんふくまれていた独白どくはくろくおとうと寺崎てらさきへい保管ほかんしていた。グエンが執筆しっぴつした『太陽たいようにかけるはし』が日米にちべいでベストセラーとなり出版しゅっぱんしゃ招待しょうたいで1958ねん来日らいにちした夫人ふじんたいらから遺品いひん手渡てわたされた。グエンとマリコは日本語にほんごめなかったため記録きろくるいはしまいまれた。30ねんにマリコの息子むすこコールが記録きろく整理せいりする過程かてい文書ぶんしょ鑑定かんていみなみカリフォルニア大学だいがくゴードン・バーガー教授きょうじゅ歴史れきしがく)に依頼いらいし、教授きょうじゅはさらにこれを東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ伊藤いとうたかし転送てんそうした。「歴史れきしてき資料しりょうとして稀有けうなもの」との評価ひょうかった寺崎てらさきでは重要じゅうようせいかんがみて公表こうひょうすることにした[1]

独白どくはくろく』の存在そんざいは1990ねん11月7にち新聞しんぶん各紙かくしはじめて報道ほうどうされた。月刊げっかん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1990ねん12がつごう全文ぜんぶん掲載けいさいされ、だい反響はんきょうをよび追加ついか増刷ぞうさつ発行はっこう部数ぶすうは100まんえた。翌月よくげつごう識者しきしゃ感想かんそうと、下記かき4めい座談ざだんかい掲載けいさいされた。

刊行かんこうその

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寺崎てらさき日記にっきむすめマリコの回想かいそう塩谷しおやひろし構成こうせい)をくわえ、1991ねん3がつに『昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく寺崎てらさき英成えいせい御用ごようかけ日記にっき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう刊行かんこうされた。1995ねん寺崎てらさき日記にっきはぶき『昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』が文春ぶんしゅん文庫ぶんこ再刊さいかんした。

直筆じきひつ原本げんぽんとされるものが2017ねん12月にボナムズ英語えいごばんにより競売きょうばいされ、日本にっぽん美容びよう外科医げかいである高須たかすかつわたるが27まん5000USドル手数料てすうりょうみ・やく3080まんえん)で落札らくさつし、この「直筆じきひつ原本げんぽん」を皇室こうしつ提供ていきょうしたいとべた[3]宮内庁くないちょう2018ねん2がつに「直筆じきひつ原本げんぽん」を高須たかすからあずかり「(1)寺崎てらさき英成えいせい直筆じきひつであること」「(2)文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうから刊行かんこうされている活字かつじほんおおむどう内容ないようであること」の2てん確認かくにんした[4]。2018ねん5がつ28にち宮内庁くないちょうは、高須たかすからの「直筆じきひつ原本げんぽん」の寄贈きぞうれたこと、宮内庁くないちょう公式こうしきサイトで公開こうかいする予定よていであることを発表はっぴょうした[4]

内容ないよう

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寺崎てらさき用箋ようせんかれた特注とくちゅう便箋びんせん170まいからなる。一部いちぶふでかれている以外いがい鉛筆えんぴつきとなっている。表題ひょうだいされていない。原稿げんこう一部いちぶかれており、それぞれがひもじられていた。だいいちかんは「だい東亜とうあ戦争せんそう遠因えんいん」および「ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん」から「開戦かいせん決定けってい」まで、だいかんは「宣戦せんせん詔書しょうしょ」から「8がつ14にち御前ごぜん会議かいぎぜんきさき」までに「結論けつろん」をくわわっている[1]

陸海りくかいぐん軍人ぐんじん政治せいじたいする率直そっちょく批評ひひょうかれている。東條とうじょう英機ひでき嶋田しまだ繁太郎しげたろう岡田おかだ啓介けいすけ米内よない光政みつまさなどの評価ひょうかたか一方いっぽうで、松岡まつおか洋右ようすけ平沼ひらぬま騏一郎きいちろう宇垣うがき一成いっせい小磯こいそ国昭くにあき近衛このえ文麿ふみまろ有末ありすえ精三せいぞうなどは酷評こくひょうされている[5]。またおとうとみやである秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのうおよび高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうとの関係かんけい微妙びみょうなものであったことがうかがわれる。

ただし『木戸きど幸一こういち日記にっき』、『西園寺さいおんじこう政局せいきょく』(はら田熊たぐまつよし公的こうてき日記にっき)とくらべれば史料しりょうてき価値かち自体じたいひく[6]、「昭和しょうわ理解りかい根底こんていからくつがえすような、まったくあたらしい事実じじつ提示ていじ期待きたいするべきではない」[7]ともひょうされている。

英語えいごばん発見はっけん

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1991ねん1がつごうの『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』では独白どくはくろく評価ひょうかをめぐり、伊藤いとうたかし児島こじまじょうはたいく半藤はんどう一利かずとしによる座談ざだんかい「『独白どくはくろく』を徹底てってい研究けんきゅうする」が掲載けいさいされ、伊藤いとう児島こじまは、記録きろく政治せいじてき背景はいけいたない内輪うちわばなしであるとした見解けんかいしめしたが、はた極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)で天皇てんのう戦犯せんぱんとして訴追そついされる可能かのうせい懸念けねんしてGHQ提出ていしゅつすることを念頭ねんとうにおいた「弁明べんめいしょ」であり英語えいごばん存在そんざいするはずであると主張しゅちょうした[1]

1997ねんにNHKで放送ほうそうされた『NHKスペシャル 昭和しょうわ天皇てんのう ふたつの「独白どくはくろく」』の取材しゅざい過程かていで、GHQの当時とうじじゅんしょうボナー・フェラーズ文書ぶんしょから英語えいごばん発見はっけんされた[8]英語えいごばん作成さくせいされGHQにわたっていたことが確認かくにんされたことから、独白どくはくろく作成さくせい目的もくてきはた主張しゅちょうするように東京とうきょう裁判さいばん対策たいさくであることが確実視かくじつしされるようになった[6][9]。 この英語えいごばん独白どくはくろく』はぶんりょうちがいや表現ひょうげんことなる部分ぶぶんから、日本語にほんごばんをそのまま翻訳ほんやくしたものではなく稲田いなだ周一しゅういちによる「速記そっきろく」を底本ていほんとして別個べっこ作成さくせいされ、東京とうきょう裁判さいばん開廷かいていまえにフェラーズらに手渡てわたされた可能かのうせい指摘してきされている[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)、1995ねんISBN 4167198037 
  2. ^ 側近そっきん日誌にっし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1990ねんISBN 4163442103 
  3. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく落札らくさつしゃ高須たかすクリニック院長いんちょう高須たかすかつわたる 皇室こうしつ提供ていきょう意向いこう”. 産経新聞さんけいしんぶん (2017ねん12月7にち). 2019ねん5がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 宮内庁くないちょう文書ぶんしょ高須たかす落札らくさつ昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2018ねん5がつ28にち). 2019ねん5がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ 昭和しょうわなぞう〈した〉』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1999ねんISBN 4167453053 
  6. ^ a b c 『NHKスペシャルセレクション 昭和しょうわ天皇てんのうふたつの「独白どくはくろく」』東野とうのしんへん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、1998ねんISBN 4140803819 
  7. ^ きん現代げんだい日本にっぽん史料しりょうむ―「大久保おおくぼ利通としみち日記にっき」から「富田とみたメモ」まで』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2011ねん、201ぺーじISBN 978-4-12-102107-6 
  8. ^ フェラーズを主役しゅやくにした映画えいがが『終戦しゅうせんのエンペラー
  9. ^ 吉田よしだひろし昭和しょうわ天皇てんのう終戦しゅうせん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1992ねんISBN 4004302579 

関連かんれん項目こうもく

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