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秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう

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秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう
秩父宮ちちぶのみや
陸軍りくぐん歩兵ほへい中佐ちゅうさ時期じき(1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつから1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ)に撮影さつえい
続柄つづきがら 大正天皇たいしょうてんのうだい2すめらぎ男子だんし[1]

みやごう 秩父宮ちちぶのみや(ちちぶのみや)
ぜん 雍仁(やすひと)
称号しょうごう じゅんみや(あつのみや)
親王しんのう
敬称けいしょう 殿下でんか
しるし 若松わかまつ(わかまつ)
出生しゅっしょう 1902ねん6月25にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう赤坂あかさか青山あおやま東宮御所とうぐうごしょ
げん東京とうきょうみなと赤坂あかさか
死去しきょ (1953-01-04) 1953ねん1がつ4にち(50さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん藤沢ふじさわ鵠沼くげぬま別邸べってい
埋葬まいそう 1953ねん1がつ12にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう文京ぶんきょう豊島としまおか墓地ぼち
配偶はいぐうしゃ 親王しんのう勢津子せつこ松平まつだいら節子せつこ
父親ちちおや 大正天皇たいしょうてんのう
母親ははおや 貞明皇后ていめいこうごう
役職やくしょく 陸軍りくぐん少将しょうしょう
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1921ねん大正たいしょう10ねん)、大正天皇たいしょうてんのうの4皇子おうじ
ひだりから皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)、きよしみやたかしじん親王しんのう三笠みかさみや)、ひかりみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや)、あつしみや雍仁親王やすひとしんのう

秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902ねん明治めいじ35ねん6月25にち - 1953ねん昭和しょうわ28ねん1がつ4にち)は、日本にっぽん皇族こうぞく大正天皇たいしょうてんのう貞明皇后ていめいこうごうだい皇子おうじ明治天皇めいじてんのう皇孫こうそんにあたる。昭和しょうわ天皇てんのうあにちょうおとうと高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうおとうと三笠みかさみやたかしじん親王しんのうがいる。だい125だい天皇てんのう明仁あきひとおいだい126だい天皇てんのうとくひとし秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのうだいおいにあたる。

勢津子せつこきゅう会津あいづはんおも松平まつだいら容保かたもりよんなん外交がいこうかんつとめた松平まつだいら恆雄つねお長女ちょうじょ)。称号しょうごうじゅんみや(あつのみや)[2]親王しんのうしるし若松わかまつ(わかまつ)。日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじんでもあり、階級かいきゅう少将しょうしょう勲等くんとうこうきゅうだいくんこうさんきゅう勢津子せつことのあいだ子女しじょはない。

来歴らいれき

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赤坂あかさかおもてまち秩父宮ちちぶのみや御殿ごてん

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東京とうきょう赤坂あかさか青山あおやま御所ごしょ東宮御所とうぐうごしょ)で誕生たんじょうし、あにすすむみや裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)とともに、生後せいご4カ月かげつ皇孫こうそん養育よういくかけ枢密すうみつ顧問こもんかん川村かわむらじゅんよし海軍かいぐん中将ちゅうじょう伯爵はくしゃくていあづけられた。1904ねん明治めいじ37ねん11月9にち川村かわむら死去しきょけいみやとともに沼津ぬまづ御用邸ごようていまいをうつした。

幼少ようしょうころあにみやおとうとひかりみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや)とともそだち、年齢ねんれいちかい3兄弟きょうだいともなかかったとう。兄弟きょうだいなかではもっと活溌かっぱつであり、そのことは1つちがいのあにみやとよく比較ひかくされた。玩具おもちゃいであにみや喧嘩けんかし、さきすことも多々たたあった。しかしあにがいないとき小心しょうしんであり、みずから「内弁慶うちべんけいであった」と、戦後せんご回想かいそうしている。

祖父そふである明治天皇めいじてんのうには「よく玩具おもちゃあたえられた」と回想かいそうしているが、実際じっさいには明治天皇めいじてんのう機会きかいは、天皇てんのう自身じしん公務こうむ優先ゆうせんしたため生涯しょうがいほとんどく、崩御ほうぎょ寸前すんぜんまで玉音ぎょくおんくこともなかった。反面はんめん義理ぎり祖母そぼにあたる昭憲皇太后しょうけんこうたいごうにはよくい、兄弟きょうだい学友がくゆうとも芝居しばい披露ひろうしたこともあった。

陸軍りくぐん軍人ぐんじんとして

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1909ねん明治めいじ42ねん)4がつ学習がくしゅういん初等しょとう入学にゅうがく学習がくしゅういん中等ちゅうとう2ねん修了しゅうりょう皇族こうぞくれいもとづき陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうだい2学年がくねんに、学友がくゆう9にんとともに[3]編入へんにゅうした(19[4]。このさい幼年ようねん学校がっこうがわ親王しんのう配慮はいりょし、二人称ににんしょう一人称いちにんしょう学習がくしゅういん同様どうように「きみぼく」を生徒せいと使つかわせようとしたが、雍仁親王やすひとしんのう本人ほんにんが「貴様きさまおれ」を率先そっせんしてもちいた[4]在学ざいがくちゅうは、従来じゅうらい武道ぶどう以外いがいに、野球やきゅうテニス卓球たっきゅうひとしほかのスポーツがさかんになり、極東きょくとう選手権せんしゅけん競技きょうぎ大会たいかい観戦かんせんするひとし雍仁親王やすひとしんのう幼年ようねん学校がっこう校風こうふう影響えいきょうあたえた[4]少年しょうねんらしい悪戯いたずら失敗しっぱい逸話いつわのこされており、同期どうき団結だんけつ中心ちゅうしんとなった[3]

1920ねん大正たいしょう9ねん)10がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入校にゅうこうした。同期どうきには服部はっとりたく四郎しろう西田にしだみつぐなどがいる。卒業そつぎょう1922ねん大正たいしょう11ねん)10がつ陸軍りくぐん少尉しょうい任官にんかんした。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月に陸軍りくぐんだい学校がっこう入校にゅうこう1931ねん昭和しょうわ6ねん)11月に卒業そつぎょうした(43)。りくだい卒業そつぎょうには、成績せいせき優秀ゆうしゅうであったため慣例かんれいはんして恩賜おんし軍刀ぐんとうあたえてはとの議論ぎろん教官きょうかんあいだであった[5]。そして最終さいしゅうてきにはあに陛下へいかよりたまわることとなる[6]

1922ねん大正たいしょう11ねん6月25にちに20さい成年せいねんしきおこない、宮家みやけ秩父宮ちちぶのみや」を創立そうりつした。みやごう由来ゆらいは、秩父ちちぶみね帝都ていと東京とうきょうおな武蔵むさしこく名山めいざんであり、雍仁親王やすひとしんのうてい西北せいほく位置いちしたことにちなみ選定せんていされた。同日どうじつ貴族きぞくいん皇族こうぞく議員ぎいん就任しゅうにん[7]。1928ねん昭和しょうわ3ねん9月28にち松平まつだいら節子せつこ結婚けっこん成婚せいこんにあたり皇太后こうたいごう九条くじょう節子せつこ)に遠慮えんりょして勢津子せつこ改名かいめいした。当時とうじは「世紀せいきだい恋愛れんあい」と報道ほうどうされたが、実際じっさいには自由じゆう恋愛れんあいではなかった。

勢津子せつことのあいだ結果けっかとして子女しじょはなかったが、1935ねん昭和しょうわ10ねん)にいちだけ勢津子せつこ懐妊かいにん兆候ちょうこうしめした。親王しんのう非常ひじょうよろこんだがよく1936ねん昭和しょうわ11ねん)、流産りゅうざんした。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)12月5にち帝都ていと復興ふっこう記念きねんしょう授与じゅよされた[8]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)11月23にちよりだいいち師団しだん歩兵ほへいだい3連隊れんたいさん)の中隊ちゅうたいちょうつとめた[9]さん時代じだいには安藤あんどう輝三てるぞうなどとも交流こうりゅうち、かれらの革新かくしん思想しそう影響えいきょうけた。本庄ほんじょうしげる日記にっきによると、このころ秩父宮ちちぶのみや昭和しょうわ天皇てんのうたいして親政しんせい必要ひつようき、憲法けんぽう停止ていしかんがえるべきと意見いけんしたため激論げきろんとなった。昭和しょうわ天皇てんのう鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょうたいして「秩父宮ちちぶのみやかんがえはだんじて不可ふか」とべ、さらにこれをけて1932ねん昭和しょうわ7ねん)6がつ21にち宮内みやうち大臣だいじん官邸かんていにおいて、一木いちき喜徳郎きとくろう木戸きど幸一こういち近衛このえ文麿ふみまろはら田熊たぐまつよしが「秩父宮ちちぶのみや最近さいきん時局じきょくたいするこうがややもすれば軍国ぐんこくてきになれるてんとうにつき意見いけん交換こうかん」している。はたいく谷田たにだいさむからいたはなしとして、秩父宮ちちぶのみや村中むらなか孝次たかじ同行どうこうきた一輝いっき自宅じたく訪問ほうもんしていたとしている[5]昭和しょうわ天皇てんのうからの内意ないいにより、青年せいねん将校しょうこうからはなすため同年どうねん9がつ陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶだい一部いちぶだい作戦さくせん)に転補てんぽされた。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ青森あおもりけん弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたいだい3大隊だいたいちょうにんぜられた。勢津子せつこ同行どうこうし、弘前ひろさき紺屋こんやまち菊池きくちちょう別邸べってい居住きょじゅうした[10]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ26にち早朝そうちょうすめらぎどう青年せいねん将校しょうこうらによってろく事件じけん発生はっせいした。26にちあさ高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうから連絡れんらくけた秩父宮ちちぶのみやくらしげる周蔵しゅうぞう連隊れんたいちょう許可きょかけたうえで、翌日よくじつの27にち奥羽本線おううほんせん羽越本線うえつほんせん信越本線しんえつほんせん上越線じょうえつせん経由けいゆ上京じょうきょうした。平泉ひらいずみきよし群馬ぐんまけん水上みずかみえきまでむかえにき、車中しゃちゅう一時いちじあいだはんほど会談かいだんしている。平泉ひらいずみはのちに「みちのくのつもるしろゆきかきけていま皇子おうじのぼりますなり」と和歌わかんだ[11]秩父宮ちちぶのみや夕方ゆうがた上野うえのえき到着とうちゃくして憲兵けんぺい護衛ごえい参内さんだいし、昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつしたが、翌日よくじつ谷田たにたには「しかられたよ」とかたっている。同日どうじつさん森田もりた利八りはち大尉たいいかいして青年せいねん将校しょうこうらに自決じけつせよとつたえた。『木戸きど幸一こういち日記にっき』によると、昭和しょうわ天皇てんのうは「秩父宮ちちぶのみやいち事件じけんときよりは余程よほどよろしくなった」とこうはたただしたかし侍従じじゅう次長じちょうべている[5]

同年どうねん12がつ参謀さんぼう本部ほんぶだい1づけとなる。1937ねん昭和しょうわ12ねん)にあに昭和しょうわ天皇てんのう名代なだいとしてイギリスジョージ6せい国王こくおう戴冠たいかんしき出席しゅっせき。その静養せいようとしてスイススウェーデンオランダ訪問ほうもんした。当初とうしょ予定よていにはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルクセンちゅうにちドイツ大使たいし要請ようせいによりドイツおとずれ、にちどく親善しんぜんあかしとしてニュルンベルクおこなわれていたナチスとうニュルンベルクとう大会たいかい来賓らいひんとして出席しゅっせきし、ヒトラー総統そうとうニュルンベルクじょう会談かいだんした。ヒトラーはソビエト連邦れんぽう指導しどうしゃヨシフ・スターリンはげしくののしり、「わたしかれしんじない、またにくみます」とくちにした。これにたいして秩父宮ちちぶのみや英語えいごで「おたがいにいちこく責任せきにんしゃとして、民族みんぞく指導しどうし、世界せかい平和へいわ貢献こうけんしなければならない重大じゅうだい責務せきむのある貴方あなたのようなほうが、他国たこく代表だいひょうしゃを、そのように毛嫌けぎらいしたりまたにくんでもよいものでしょうか?」とかえした[12]この面会めんかいについて秩父宮ちちぶのみやは、武官ぶかん本間ほんま雅晴まさはるたいして「ヒトラーは役者やくしゃだ。かれ信用しんようすることはむずかしい」とべている[よう出典しゅってん]。なお、秩父宮ちちぶのみや訪独ほうどくにあたり、外務省がいむしょうよりちゅうどく大使たいしたいし、ヒトラーとの会見かいけん場所ばしょについてナチスとう大会たいかい開催かいさいされるニュルンベルクとなることをけるようかえ訓令くんれいがなされた(結局けっきょく場所ばしょ変更へんこうかなわなかったものの、とう大会たいかい終了しゅうりょう直後ちょくご秩父宮ちちぶのみやがニュルンベルクをおとずれることで決着けっちゃくした)[13][14]

昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』によると、にちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ議論ぎろんされていた1939ねん昭和しょうわ14ねん)、同盟どうめい消極しょうきょくてきあに昭和しょうわ天皇てんのうたいしてしゅうに3参内さんだいして締結ていけつすすめたが、「この問題もんだいについては直接ちょくせつみやにはこたえぬ」と天皇てんのうっぱねられている[15]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)1がつ大本営だいほんえい戦争せんそう指導しどうはん参謀さんぼうに、同年どうねん3がつ陸軍りくぐん中佐ちゅうさに、1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ陸軍りくぐん大佐たいさ昇進しょうしんした。

秩父宮ちちぶのみや華北かほく出征しゅっせいしていた閑院みやはる仁王におうおくった、1937ねん12月30にちづけと1938ねん2がつ22にちづけ書簡しょかん神奈川かながわけん小田原おだわらたて図書館としょかん所蔵しょぞう資料しりょうから発見はっけんされている。「ちゅうささえ方面ほうめん軍紀ぐんき風紀ふうきかんしては、これ日本にっぽん軍隊ぐんたいかとただ嘆せられることのみかれまして遺憾いかんもうそとありません」「ささえ親善しんぜん東洋とうよう平和へいわ確立かくりついしずえうん見地けんちからまして疑問ぎもんおもはれることもすくなくないようかんがへられます」「南京なんきん陥落かんらくしたとてささえじん小学生しょうがくせい旗行列はたぎょうれつをやらせるのがささえ親善しんぜんひゃくねん大計たいけいでありませうか」と、日本にっぽんぐん中国ちゅうごく住民じゅうみんへのいなどをうれ気持きもちを吐露とろしていた。1972ねん刊行かんこう伝記でんき秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう』によれば、中国ちゅうごくでの戦線せんせん拡大かくだい自体じたい批判ひはんてきで、早期そうき収拾しゅうしゅうであった[16]評伝ひょうでん秩父宮ちちぶのみや』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ著者ちょしゃでもあるきん現代げんだい研究けんきゅう保坂ほさかただしやすしは、この書簡しょかん内容ないようについて、南京なんきん事件じけんについて昭和しょうわ天皇てんのう周辺しゅうへんつたわっていたことをしめすとひょうしている[17]

闘病とうびょう生活せいかつ

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勢津子せつこけい作業さぎょうをする(1951ねん撮影さつえい

1940ねん昭和しょうわ15ねん)に肺結核はいけっかく診断しんだんされ、翌年よくねんより静岡しずおかけん御殿場ごてんば療養りょうよう生活せいかつおくる。1941ねん昭和しょうわ16ねん)3がつ参謀さんぼう本部ほんぶ、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ陸軍りくぐん少将しょうしょう昇進しょうしんしたが、戦時せんじちゅう御殿場ごてんば別邸べっていにて療養りょうよう余儀よぎなくされた。戦後せんご療養りょうよう生活せいかつおくりながら皇族こうぞくとして執筆しっぴつふく活動かつどうおこなった。 1946ねん昭和しょうわ21ねん)5がつ23にち貴族きぞくいん議員ぎいん辞職じしょく[18]1947ねん昭和しょうわ22ねん)11月28にち公職こうしょく追放ついほうかり指定していけた[19]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)1がつに、静岡しずおかけん御殿場ごてんばから神奈川かながわけん藤沢ふじさわ鵠沼くげぬま別邸べっていうつった。同年どうねんくれ病状びょうじょう悪化あっかし、1953ねん昭和しょうわ28ねん1がつ4にちに50さい薨去こうきょした[20]

薨去こうきょ

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葬儀そうぎ様子ようす

薨去こうきょ先立さきだ遺書いしょをしたためており、そのなかで「遺体いたい解剖かいぼうすこと」「火葬かそうにすること」「葬式そうしき如何いかなる宗教しゅうきょうにもよらない形式けいしきとすること」を指示しじしていた。勢津子せつこ天皇てんのう許可きょかもとめたところ、昭和しょうわ天皇てんのうは「秩父宮ちちぶのみや遺志いし尊重そんちょうするように」とこれを即座そくざゆるし、皇族こうぞくとしては異例いれい病理びょうり解剖かいぼうおこなわれた。

1953ねん1がつ12にち葬儀そうぎ皇族こうぞくとして最低限さいていげん神道しんとう形式けいしきおこなわれ、皇族こうぞく各国かっこく大使たいし、スポーツ関係かんけいしゃら800にん参列さんれつした[21]。その宗教しゅうきょうでの一般いっぱん告別こくべつしきおこなわれ、2まん5000めいあまりの市民しみん秩父宮ちちぶのみや遺体いたい拝礼はいれいした[22]。その午後ごご1から火葬かそうされた(皇族こうぞく埋葬まいそうは、当時とうじ土葬どそう基本きほん)。遺骨いこつは、同日どうじつ午後ごご420ふんに、豊島としまおか墓地ぼち比翼塚ひよくづか形式けいしき簡素かんそはか愛用あいよう品々しなじなとともに埋葬まいそうされた。

この葬儀そうぎに、昭和しょうわ天皇てんのう出御しゅつぎょしなかった。これは天皇てんのう親王しんのうなど「目下めした」のもの葬儀そうぎ出御しゅつぎょした前例ぜんれいがなく、皇室こうしつれい廃止はいしされたが、基準きじゅんとなっている)にも規定きていがないため、天皇てんのう出御しゅつぎょすることで仰々ぎょうぎょうしくなり秩父宮ちちぶのみや遺志いし沿わないとの懸念けねんから、出御しゅつぎょ断念だんねんしたものである[23]。ただし、天皇てんのう皇后こうごうなん遺骸いがい対面たいめんし、よく13にちにははか参拝さんぱいしている。また秩父宮ちちぶのみや存命ぞんめい見舞みまいも、天皇てんのう見舞みまうのは危篤きとく場合ばあいのみという前例ぜんれいから、結局けっきょくたせなかった。

1995ねん平成へいせい7ねん8がつ25にちに、秩父宮ちちぶのみや勢津子せつこ薨去こうきょにより秩父宮ちちぶのみや絶家ぜっけとなった。

栄典えいてん

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系譜けいふ

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雍仁親王やすひとしんのう ちち:
大正天皇たいしょうてんのう
祖父そふ:
明治天皇めいじてんのう
曾祖父そうそふ:
孝明天皇こうめいてんのう
曾祖母そうそぼ:
中山なかやま慶子けいこ
祖母そぼ:
柳原やなぎはら愛子あいこ
曾祖父そうそふ:
柳原やなぎはらひかりあい
曾祖母そうそぼ:
長谷川はせがわ歌野うたの
はは:
貞明皇后ていめいこうごう
祖父そふ:
九条くじょうみちこう
曾祖父そうそふ:
九条くじょうしょうただし
曾祖母そうそぼ:
菅山すがやま
祖母そぼ:
野間のま幾子いくこ
曾祖父そうそふ:
野間のまよりゆききょう[25]
曾祖母そうそぼ:
しょう

系図けいず

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122 明治天皇めいじてんのう
 
 
 
 
123 大正天皇たいしょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和しょうわ天皇てんのう
 
秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう
 
高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう
 
三笠みかさみやたかしじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇じょうこう
 
常陸宮ひたちのみやただしじん親王しんのう
 
寬仁かんじん親王しんのう
 
かつらみやむべひとし親王しんのう
 
高円宮たかまどのみや憲仁のりひと親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上きんじょう天皇てんのう
 
秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゆうじん親王しんのう


人物じんぶつ

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秩父宮ちちぶのみや親王しんのうぞう秩父宮ちちぶのみや記念きねん公園こうえんうち朝倉あさくら文夫ふみおさく
だい11名人めいじんせんだい2きょく観戦かんせんする秩父宮ちちぶのみやみぎはし)。
  • 社会しゃかい活動かつどうとしてはスキーラグビーとうスポーツの振興しんこうくし[26]「スポーツのみやさま」としてひろ国民こくみんしたしまれた。1953ねん薨去こうきょ同年どうねんちゅう改称かいしょうされた秩父宮ちちぶのみやラグビーじょう旧称きゅうしょう東京とうきょうラグビーじょう)、1955ねん薨去こうきょである藤沢ふじさわ開館かいかんした秩父宮ちちぶのみや記念きねん体育館たいいくかん1959ねん国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょううち開館かいかんした秩父宮ちちぶのみや記念きねんスポーツ博物館はくぶつかんにそのみやごうのこしている。
  • 1928ねん10月に橿原神宮かしはらじんぐう参拝さんぱいのため大阪おおさか電気でんき軌道きどうだい軌)の電車でんしゃ乗車じょうしゃしたさい、「このあたりこん台頭たいとうしつつあるラグビーの専用せんよう競技きょうぎじょうつくったらどうか」という内容ないよう発言はつげんだい軌役いんとの歓談かんだんちゅうにあったとされ、同年どうねん12がつだい軌がラグビーじょう建設けんせつ決議けつぎし、よく1929ねん11月に日本にっぽんはつのラグビー専用せんよう競技きょうぎじょうとなる花園はなぞのラグビー運動うんどうじょう現在げんざい東大阪ひがしおおさか花園はなぞのラグビーじょう)が開場かいじょうした[27]
  • 寡黙かもく学者がくしゃはだであった昭和しょうわ天皇てんのうたいテニス登山とざんこのんだ活溌かっぱつ性格せいかくであり、上流じょうりゅう階級かいきゅう子弟していからなるインテリそうサロンにおける中心ちゅうしん人物じんぶつであった。
  • 将棋しょうぎ愛好あいこうであり、全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんせんが1949ねんにタイトルせんの「きゅうだんせん」に編成へんせいされたさいには秩父宮ちちぶのみやから優勝ゆうしょうはい下賜かしされることになり、秩父宮ちちぶのみやはいともばれた。1952ねん5がつ20日はつかおこなわれただい11名人めいじんせんでは初代しょだいきゅうだんとなった大山おおやま康晴やすはる挑戦ちょうせんすることもあり、だい2きょく対局たいきょくしつ観戦かんせんしている。
  • 1928ねん2がつ北海道ほっかいどうにおりをしたさい札幌さっぽろ手稲山ていねやま山小屋やまごや将来しょうらい冬季とうき五輪ごりん招致しょうちのために世界せかい規格きかく大型おおがたジャンプだい建設けんせつ発案はつあんし、建設けんせつ尽力じんりょくした。
  • また、オリンピック開催かいさいそなえ、札幌さっぽろ洋式ようしきのホテルを建設けんせつすることもあわ発案はつあんし、北海道庁ほっかいどうちょう札幌さっぽろ商工しょうこう会議かいぎしょ中心ちゅうしんになり推進すいしんした結果けっか1934ねん札幌さっぽろグランドホテルとして開業かいぎょうした。札幌さっぽろオリンピックは、1940ねん開催かいさいりやめとなったが、秩父宮ちちぶのみや死後しご1972ねん実現じつげんし、どうホテルは昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう宿舎しゅくしゃとなったほか、選手せんしゅむら台所だいどころ運営うんえいという大任たいにんたした。
  • にちえい協会きょうかい日本にっぽんみずてんスウェーデン協会きょうかい総裁そうさいとうつとめ、国際こくさい親善しんぜん事業じぎょうにおいても足跡あしあとのこした。
  • 登山とざんにも積極せっきょくてきであり、英国えいこく留学りゅうがくちゅうにはアルプス山脈あるぷすさんみゃくあしばしマッターホルン登頂とうちょうたしている。秩父宮ちちぶのみや記念きねん公園こうえんぞうは、富士山ふじさん方角ほうがくいててられている。
  • 療養りょうようちゅうは、地元じもと御殿場ごてんば住民じゅうみんしたしくせっし、高校こうこう卒業そつぎょうしき来賓らいひんとしてまねかれ祝辞しゅくじべたこともあった。
  • 戦後せんご積極せっきょくてきにメディアに寄稿きこうし「ひらかれた皇室こうしつ」のあるべき姿すがたについて率直そっちょく意見いけんべた。また、しん時代じだい皇室こうしつ立役者たてやくしゃたる皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのうにかける期待きたいおおきかったといわれ、英国えいこく女王じょおうエリザベス2せい戴冠たいかんしき出席しゅっせきする天皇てんのう名代なだい皇太子こうたいしとするよう、宮内庁くないちょうつよはたらきかけたとつたえられている(皇太子こうたいし当時とうじ大学だいがく在学ざいがくちゅうであり、宮内庁くないちょう内部ないぶにはべつ名代なだいてるこえすくなからずあった)。戴冠たいかんしきたずして秩父宮ちちぶのみや薨去こうきょしたものの、皇太子こうたいし欧州おうしゅう訪問ほうもん無事ぶじ実現じつげんした。
  • 誕生たんじょう母后ぼこうおなじ(6がつ25にち)だったため、母后ぼこうつよえんかんじ、最愛さいあい息子むすこだったとされている。

皇位こうい継承けいしょう順位じゅんいだい1

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  • このつぎ皇位こうい継承けいしょう順位じゅんいだい1人物じんぶつすめらぎおとうと皇太子こうたいし空位くういとなったケースは、2019ねんれい元年がんねん5月1にちだい126だい天皇てんのうとくひとし即位そくいから現在げんざい秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう天皇てんのうとくじんおとうと雍仁親王やすひとしんのうだいおい)である。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 宮内庁くないちょう きゅう秩父宮ちちぶのみや
  2. ^ 皇室こうしつりゃくみや内省ないせい図書としょりょう
  3. ^ a b わがたけりょう 1982 p.515
  4. ^ a b c わがたけりょう 1982 p.413
  5. ^ a b c 昭和しょうわなぞう〈うえ〉』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1999ねんISBN 4167453045 
  6. ^ ぎんのボンボニエール』主婦しゅふ友社ともしゃ、1991ねん、225ぺーじ 
  7. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、31ぺーじ
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  15. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1995ねんISBN 4167198037 
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  21. ^ 1953ねん1がつ12にち朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん氷雨ひさめのなか秩父宮ちちぶのみや葬儀そうぎ 告別こくべつ人波ひとなみまんせん
  22. ^ 1953ねん1がつ12にち朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん豊島としまおかへのしめやかな葬列そうれつ 殿下でんかあたまのぼらず」
  23. ^ 1953ねん1がつ10日とおか朝日新聞あさひしんぶん』「陛下へいかはなぜおだしにならぬか 親王しんのう葬儀そうぎ参列さんれつは“異例いれい”」
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • ひがしよう編集へんしゅう委員いいんかい へん東京とうきょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう わがたけりょうひがしようかい、1982ねん10がつ15にちNDLJP:12017444 

関連かんれん書籍しょせき

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  • 著作ちょさく - 『皇族こうぞくまれて-秩父宮ちちぶのみや随筆ずいひつしゅう』(渡辺わたなべ出版しゅっぱん、2005ねんISBN 4902119048
    • えいべい生活せいかつおも』(文明ぶんめいしゃ出版しゅっぱん、1947ねん)ほかを収録しゅうろく
  • 著作ちょさく - 『皇族こうぞくまれてII-秩父宮ちちぶのみや談話だんわしゅう』(渡辺わたなべ出版しゅっぱん 2008ねんISBN 4902119072
  • 伝記でんき - 『秩父宮ちちぶのみや勢津子せつこ』(渡辺わたなべ出版しゅっぱん 2003ねん復刻ふっこく秩父宮ちちぶのみや殿下でんか成婚せいこん記念きねんかいへん、1928年刊ねんかん
  • 回想かいそうろく - 秩父宮ちちぶのみや勢津子せつこぎんボンボニエール 親王しんのうとして』(主婦しゅふ友社ともしゃ、1991ねん講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ 1994ねん
  • 伝記でんき - 『雍仁親王やすひとしんのう実紀みき秩父宮ちちぶのみやへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 1972ねん)※松方まつかた三郎さぶろうひとし編纂へんさん
  • 伝記でんき - 『秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう秩父宮ちちぶのみやしのかいへん(1970ねん)※関係かんけいしゃ文集ぶんしゅう
    • 秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう じょう』(復刻ふっこく 皇族こうぞく軍人ぐんじん伝記でんき集成しゅうせい 12/佐藤さとうもとえい解説かいせつゆまに書房しょぼう、2012ねん)※上記じょうき復刻ふっこくばん
    • 秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのう 』(どう 13/同上どうじょう、2012ねん)- 復刻ふっこくとう秩父宮ちちぶのみや殿下でんか』(姫野ひめの寅之助とらのすけだい日本にっぽんすめらぎどうかい、1928年刊ねんかん
  • 伝記でんき - 保阪ほさかただしやすし秩父宮ちちぶのみや 昭和しょうわ天皇てんのうおとうとみや生涯しょうがい』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2000ねんISBN 4122037301
  • 見聞けんぶん - 吉田よしだ雪子ゆきこ長岡ながおか祥三しょうぞうへんやくジョージろくせい戴冠たいかんしき秩父宮ちちぶのみや』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1996ねん
    • 英文えいぶん著作ちょさく訪英ほうえい見聞けんぶんろく著者ちょしゃ吉田よしだしげる夫人ふじん当時とうじ吉田よしだちゅうえい大使たいし

秩父宮ちちぶのみやあつかった作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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