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閑院みやじん親王しんのう

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閑院みやじん親王しんのう
閑院みや
御真影ごしんえい1936ねん撮影さつえい
続柄つづきがら

ぜん ひとし(ことひと)
親王しんのう
敬称けいしょう 殿下でんか
出生しゅっしょう 1865ねん11月10にち
慶応けいおう元年がんねん9月22にち
山城やましろこく京都きょうと
江戸えど幕府ばくふ政権せいけん幕末ばくまつ
死去しきょ (1945-05-20) 1945ねん5がつ20日はつか(79さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん小田原おだわら
埋葬まいそう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう文京ぶんきょう豊島としまおか墓地ぼち
配偶はいぐうしゃ じん親王しんのう智恵子ちえこ三条さんじょう智恵子ちえこ
子女しじょ あつし仁王におう
安藤あんどう恭子きょうこ恭子きょうこ女王じょおう
黒田くろだ茂子しげこ茂子しげこ女王じょおう
季子としこ女王じょおう
はる仁王におう
寛子ひろこ女王じょおう
戸田とだ華子はなこ華子はなこ女王じょおう
父親ちちおや 伏見ふしみみや邦家ほうか親王しんのう
母親ははおや 伊丹いたみ吉子よしこ
栄典えいてん だいくん菊花きっかあきら頸飾
こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
こうよんきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
大正たいしょうさんねん乃至ないしきゅうねん戦役せんえき従軍じゅうぐん記章きしょう
大正たいしょうさんよんねん従軍じゅうぐん記章きしょう
明治めいじさんじゅうななはちねん従軍じゅうぐん記章きしょう
役職やくしょく 元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう
貴族きぞくいん議員ぎいん
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称号しょうごう親王しんのう

閑院みやじん親王しんのう(かんいんのみや ことひとしんのう、1865ねん11月10にち慶応けいおう元年がんねん9月22にち) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん5がつ20日はつか)は、日本にっぽん皇族こうぞく陸軍りくぐん軍人ぐんじん日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ総裁そうさい東京とうきょう地学ちがく協会きょうかい総裁そうさい(1895ねん - 1945ねん[1]にち協会きょうかい総裁そうさい(1911ねん - )[2]伏見ふしみみや邦家ほうか親王しんのうだい16王子おうじ称号しょうごう階級かいきゅうならびに勲等くんとうこうきゅう元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょうだいくんこういちきゅう世襲せしゅう親王しんのう閑院みやだい6だい当主とうしゅ

1900ねん以後いごからだい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょう直前ちょくぜんまで皇族こうぞく軍人ぐんじんとして活躍かつやく親王しんのう宣下せんげによる親王しんのうでは最後さいご生存せいぞんしゃであり、また大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしも最後さいご国葬こくそうおこなった人物じんぶつである。

貴族きぞくいん創設そうせつともなって皇族こうぞく議員ぎいんとなり薨去こうきょまで54ねん6ヶ月かげつあいだつとめた。これは貴族きぞくいんのみならず参議院さんぎいんまでふくめても最長さいちょう在任ざいにん記録きろくである。

経歴けいれき

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3さい出家しゅっけし、真言宗しんごんしゅう醍醐だいご総本山そうほんざん三宝さんぼういん門跡もんぜき相続そうぞくする。1871ねん明治めいじ4ねん伏見ふしみみや復籍ふくせきのうえ、翌年よくねんぜん当主とうしゅ閑院みやだい5だいあいじん親王しんのう没後ぼつご孝仁たかひと親王しんのう鷹司たかつかさ吉子よしこ閑院みや初代しょだいちょくじん親王しんのう曾孫そうそん)がとう主格しゅかくぐうされていた閑院みやいえ継承けいしょうする。

1877ねん明治めいじ10ねん)、京都きょうとから東京とうきょううつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入学にゅうがく1878ねん明治めいじ11ねん8がつ26にち親王しんのう宣下せんげされ、幼名ようみょうえきみや」をあらためてじん親王しんのうしょうした。幼年ようねん学校がっこう同期どうきには明石あかし元二郎もとじろう由比ゆひ光衛みつえひとしがいる。1883ねん明治めいじ16ねん)、幼年ようねん学校がっこう卒業そつぎょうするやフランス留学りゅうがくサン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう、ソーミュール騎兵きへい学校がっこうフランス陸軍りくぐんだい学校がっこう卒業そつぎょうけい騎兵きへいだい7連隊れんたいづけ1891ねん明治めいじ24ねん)に帰国きこく同年どうねん12がつ19にち三条さんじょう実美みみ二女じじょ智恵子ちえこ結婚けっこんにちしん戦争せんそうでは当初とうしょだい1ぐん司令しれいづけ大尉たいいとして従軍じゅうぐんかもみどりこうきしとらやま付近ふきん戦闘せんとうさい伝令でんれい将校しょうこうとして弾雨だんうおかしてうませ、その任務にんむ達成たっせいし、「みやさま伝令でんれい使」のエピソードをのこした。その騎兵きへいだい1連隊れんたいちょう参謀さんぼう本部ほんぶ勤務きんむのち1901ねん明治めいじ34ねん)に陸軍りくぐん少将しょうしょう進級しんきゅう騎兵きへいだい2旅団りょだんちょう就任しゅうにん

にち戦争せんそうでは、1904ねん明治めいじ37ねん)10がつ12にちもとけいたたかいで旅団りょだんてきがわ進出しんしゅつうえ不意討ふいうちの攻撃こうげき実行じっこうし、ロシアぐん敗走はいそうさせた。またこのとき親王しんのうのアイデアで機関きかんじゅう三脚さんきゃくけて進軍しんぐんするなど、機関きかんじゅう巧妙こうみょう活用かつようしたことも日本にっぽんぐん勝利しょうりおおいに貢献こうけんしたという。その満州まんしゅうぐんそう司令しれいきの武官ぶかんとして従軍じゅうぐんし、戦後せんご陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅうした。

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)に陸軍りくぐん大将たいしょうとなり、1919ねん大正たいしょう8ねん)には元帥げんすいれつした。1921ねん大正たいしょう10ねん3月3にちより同年どうねん9月3にちまで、皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう欧州おうしゅう外遊がいゆう補導ほどうすべく随行ずいこうした。1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち小田原おだわらの閑院みや別邸べってい家族かぞくとともに滞在たいざいちゅう関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐういち倒壊とうかいした別邸べってい下敷したじきとなったが、たいした怪我けがはなく無事ぶじであった。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)に参謀さんぼう総長そうちょう就任しゅうにん[3]親王しんのう参謀さんぼう総長そうちょう就任しゅうにんしたれいは、明治めいじ年間ねんかん有栖川ありすがわみや小松こまつみやつづさんれい[4]青年せいねんから立派りっぱひげやしており、「ひげ参謀さんぼう総長そうちょう」とばれた。この参謀さんぼう総長そうちょう就任しゅうにんは、当時とうじ陸軍りくぐん大臣だいじん荒木あらき貞夫さだお思惑おもわくがあったとされる。在任ざいにんちゅう皇族こうぞくという出自しゅつじもあり、傀儡かいらいとして政治せいじてき利用りようされることもおおかった。派閥はばつあらそいのはげしかった陸軍りくぐん内部ないぶでは、どの勢力せいりょく参謀さんぼう総長そうちょうみやかかむことによる発言はつげんけん伸張しんちょうはかった。しかしながら、当人とうにん直属ちょくぞく参謀さんぼう次長じちょうとしてややもすれば独断どくだん実務じつむまわすめらぎどう真崎まさき三郎さぶろうへの反感はんかんつよく、いわゆる統制とうせいちか立場たちばった。また陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう騎兵きへい出身しゅっしんであることから、宇垣うがきけいみなみ次郎じろう鈴木すずきそうろく植田うえだ謙吉けんきちらとのつながりもあった。荒木あらき貞夫さだお陸相りくしょう辞任じにんしたさいには真崎まさき後任こうにん候補こうほがったが、はやしずくじゅうろうして陸相りくしょうけ、真崎まさき教育きょういく総監そうかんまわった。さらに真崎まさき教育きょういく総監そうかんわれたさいにも、渡辺わたなべじょう太郎たろうつうじてつよはやしはたらきかけていたともわれた。渡辺わたなべ二・二六事件ににろくじけん凶弾きょうだんたおれたのは、じん親王しんのう皇族こうぞくであり手出てだしが出来できなかったため、身代みがわりとして襲撃しゅうげきされたのではないか、と松本まつもと清張せいちょう推測すいそくしている。 1936ねん昭和しょうわ11ねん)のろく事件じけん発生はっせいには、その対応たいおうつたなさから、かつてみずからが教育きょういくした昭和しょうわ天皇てんのう叱責しっせきけた。このとき親王しんのうは70さい天皇てんのうは35さいであった[注釈ちゅうしゃく 1]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)には、べい内内うちうちかく陸軍りくぐん大臣だいじんであったはた俊六しゅんろく辞表じひょう提出ていしゅつするよう指示しじし、べい内内うちうちかく倒閣とうかくさせた。にちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ積極せっきょくてきであった陸軍りくぐん全般ぜんぱん意向いこうけて、さんこく同盟どうめい締結ていけつ反対はんたいしていた海軍かいぐん出身しゅっしん米内よない光政みつまさ首相しゅしょう退陣たいじんさせるためであったとされる。同年どうねん10月3にち参謀さんぼう総長そうちょう地位ちい杉山すぎやまはじめゆずって軍務ぐんむから退しりぞき、議定ぎていかんとなる。なお、総長そうちょう在任ざいにん当時とうじ皇族こうぞくということもあって実務じつむにはあまり関与かんよせず、参謀さんぼう次長じちょう総長そうちょう業務ぎょうむおこなっていた。陸軍りくぐん次官じかん時代じだい東條とうじょう英機ひでき当時とうじ多田ただ駿しゅん参謀さんぼう次長じちょう本来ほんらいのカウンターパートである東條とうじょうきにして、おな満州まんしゅうとしてしたしかった陸相りくしょう板垣いたがき征四郎せいしろう直接ちょくせつ協議きょうぎくのを大変たいへんきらっていたという。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ20日はつかみや別邸べっていにて79さい薨去こうきょした。直後ちょくご山手やまて空襲くうしゅうみやてい炎上えんじょうしたため、薨去こうきょともな儀式ぎしき大幅おおはば削減さくげんされるなどまさにさびしい最後さいごであった。

翌月よくげつ国葬こくそうたまわった。親王しんのう宣下せんげによる親王しんのうおよび邦家ほうか親王しんのうの32めい子女しじょ最後さいご生存せいぞんしゃであり、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうでは最後さいご国葬こくそうとなった。まれ美丈夫びじょうふで、北原きたはら白秋はくしゅう作詞さくし陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこう軍楽隊ぐんがくたい作曲さっきょくによる国民こくみん「閑院参謀さんぼう總長そうちょうみやたたたてまつる」もつくられている。貴族きぞくいん創設そうせつともない1890ねん明治めいじ23ねん)2がつ皇族こうぞく議員ぎいんとなり[5]薨去こうきょまで54ねん6ヶ月かげつあいだつとめたが、これは貴族きぞくいんのみならず参議院さんぎいんまでふくめても最長さいちょう在任ざいにん記録きろくである[注釈ちゅうしゃく 2]衆議院しゅうぎいんふく全国ぜんこく会議かいぎいんちゅうでも尾崎おざき行雄ゆきお中曽根なかそね康弘やすひろ史上しじょうだい3である。

栄典えいてん

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血縁けつえん

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三条さんじょう実美みみ次女じじょ智恵子ちえことのあいだに2なん5じょもうける。

年譜ねんぷ

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慶応けいおう元年がんねん1865ねん)11がつ10日とおか 誕生たんじょう
慶応けいおう3ねん1867ねん 出家しゅっけ三宝さんぼういん門跡もんぜき相続そうぞく
明治めいじ4ねん1871ねん 伏見ふしみみや復籍ふくせき
明治めいじ5ねん1872ねん01がつ 閑院宮家みやけ6代目だいめ継承けいしょう
1877ねん明治めいじ10ねん)10がつ 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入校にゅうこう
1878ねん明治めいじ11ねん08がつ 親王しんのう宣下せんげじんたまわ
1882ねん明治めいじ15ねん09月 フランス留学りゅうがくサン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう、ソーミュール騎兵きへい学校がっこうフランス陸軍りくぐんだい学校がっこうかく卒業そつぎょう
1887ねん明治めいじ20ねん08がつ18にち 陸軍りくぐん騎兵きへい少尉しょういだいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう受章じゅしょう
1890ねん明治めいじ23ねん)11月 陸軍りくぐん騎兵きへい中尉ちゅうい
1891ねん明治めいじ24ねん07がつ 帰朝きちょう
1891ねん明治めいじ24ねん09月 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう生徒せいとたいづけ
1892ねん明治めいじ25ねん)11月 陸軍りくぐん騎兵きへい大尉たいい陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう教官きょうかん
1893ねん明治めいじ26ねん07がつ 騎兵きへいだい1大隊だいたい中隊ちゅうたいちょう
1894ねん明治めいじ27ねん08がつ 陸軍りくぐん乗馬じょうば学校がっこう教官きょうかん
1894ねん明治めいじ27ねん09月 だい1ぐん司令しれいづけ
1894ねん明治めいじ27ねん)11月 陸軍りくぐん騎兵きへい少佐しょうさ
1894ねん明治めいじ27ねん)11月03にち 騎兵きへいだい1大隊だいたいちょう心得こころえ
1895ねん明治めいじ28ねん)10がつ 騎兵きへいだい1大隊だいたいづけ
1896ねん明治めいじ29ねん)11がつ20日はつか 騎兵きへいだい1連隊れんたいちょう心得こころえ
1897ねん明治めいじ30ねん)11月 陸軍りくぐん騎兵きへい中佐ちゅうさ騎兵きへいだい1連隊れんたいちょう
1899ねん明治めいじ32ねん)10がつ28にち 参謀さんぼう本部ほんぶ出仕しゅっし欧州おうしゅう出張しゅっちょう
1899ねん明治めいじ32ねん)11月03にち 陸軍りくぐん騎兵きへい大佐たいさ
1900ねん明治めいじ33ねん01がつ25にち 参謀さんぼう本部ほんぶ部員ぶいん
1900ねん明治めいじ33ねん02がつ17にち 欧州おうしゅう出張しゅっちょう(ロシアほか)[15]
1900ねん明治めいじ33ねん09月03にち 帰朝きちょう
1901ねん明治めいじ34ねん)11月03にち 陸軍りくぐん少将しょうしょう騎兵きへいだい2旅団りょだんなが
1902ねん明治めいじ35ねん06がつ 来日らいにちしたボリス・ウラジーミロヴィチアレクサンドル2せいまご)と会見かいけん
1903ねん明治めいじ36ねん 日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ総裁そうさい
1904ねん明治めいじ37ねん09月21にち 満州まんしゅうぐんそう司令しれいづけ
1904ねん明治めいじ37ねん)11月03にち 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
1905ねん明治めいじ38ねん05月 大本営だいほんえいづけ
1905ねん明治めいじ38ねん)12がつ20日はつか 参謀さんぼう本部ほんぶづけ
1906ねん明治めいじ39ねん02がつ03にち だい1師団しだんなが
1911ねん明治めいじ44ねん09月06にち 近衛このえ師団しだんちょうにち協会きょうかい総裁そうさい就任しゅうにん
1912ねん大正たいしょう元年がんねん)11月27にち 陸軍りくぐん大将たいしょう軍事ぐんじ参議さんぎかん
1914ねん大正たいしょう3ねん 昭憲皇太后しょうけんこうたいごう大葬たいそう総裁そうさい
1916ねん大正たいしょう5ねん08がつ ロシア出張しゅっちょう[注釈ちゅうしゃく 3]皇帝こうていニコライ2せい皇太子こうたいし皇太后こうたいごうらロシア皇族こうぞく会見かいけんし、皇太后こうたいごうから「非常ひじょう愛想あいそい、はなきな人物じんぶつ」とあらわされる[16]
1916ねん大正たいしょう5ねん)10がつ 帰朝きちょう
1919ねん大正たいしょう8ねん)12月12にち 元帥げんすい
1921ねん大正たいしょう10ねん)3がつ3にちより 皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのうわたりおう随行ずいこう
1921ねん大正たいしょう10ねん09月03にち 帰朝きちょう
1921ねん大正たいしょう10ねん09月24にち だいくん菊花きっかあきら頸飾
1923ねん大正たいしょう12ねん09月01にち 小田原おだわらの閑院みや別邸べってい滞在たいざいちゅう関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐう
1923ねん大正たいしょう12ねん)10がつ27にち 議定ぎていかん
1927ねん昭和しょうわ2ねん 大正天皇たいしょうてんのう大葬たいそう総裁そうさい
1928ねん昭和しょうわ3ねん 昭和しょうわ天皇てんのう即位そくい大礼たいれい総裁そうさい
1930ねん昭和しょうわ5ねん)12月05にち 帝都ていと復興ふっこう記念きねんしょう授与じゅよされた。
1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月23にち 参謀さんぼう総長そうちょう[17]
1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ03にち 辞職じしょく議定ぎていかん
1942ねん昭和しょうわ17ねん04がつ04にち こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
1944ねん昭和しょうわ19ねん01がつ15にち かぞどし80さいしゅく宮中きゅうちゅうつえ鳩杖はとづえ下賜かしされる。
1945ねん昭和しょうわ20ねん05がつ20日はつか 小田原おだわらの閑院みや別邸べっていにて薨去こうきょ
1945ねん昭和しょうわ20ねん06月18にち 国葬こくそう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 参謀さんぼう総長そうちょうとしてのじん親王しんのうについては、浅見あさみ雅男まさお皇族こうぞく帝国ていこく陸海りくかいぐん』(文春ぶんしゅん新書しんしょ、2010ねん)101ぺーじ~110ぺーじくわしい。
  2. ^ なお皇族こうぞく議員ぎいんおなじく具体ぐたいてき議員ぎいんとしての活動かつどうはしていない。
  3. ^ 日本にっぽん皇族こうぞくのロシア訪問ほうもんはこれ以降いこう2018ねん憲仁のりひと親王しんのう久子ひさこ訪問ほうもんするまで途絶とだえることになる。

出典しゅってん

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  1. ^ 東京とうきょう地学ちがく協会きょうかい報告ほうこく』(明治めいじいち-さんねん) : 明治めいじ前半ぜんはん日本にっぽん地理ちりがく資料しりょうとして石田いしだ龍次りゅうじろう, 一橋大学ひとつばしだいがく研究けんきゅう年報ねんぽう. 社会しゃかいがく研究けんきゅう, 10, 1969-03-31
  2. ^ にち協会きょうかいデジタルばん渋沢しぶさわ栄一えいいち伝記でんき資料しりょう
  3. ^ 閑院みやおやしき挙行きょこう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ6ねん12月24にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp221 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ 閑院みや就任しゅうにん皇族こうぞくでは明治めいじ以来いらいさんにん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ6ねん12月23にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp220)
  5. ^ 衆議院しゅうぎいん & 参議院さんぎいん 1990, p. 2.
  6. ^ 官報かんぽうだい3737ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん12月11にち
  7. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月30にち
  8. ^ 官報かんぽうだい1187ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ15にち
  9. ^ 官報かんぽうだい2209ごう叙任じょにん及辞れい」1919ねん12月13にち
  10. ^ 官報かんぽうだい2612ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん4がつ19にち
  11. ^ 官報かんぽうだい1499ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん12月28にち、p.742。
  12. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  13. ^ 官報かんぽうだい4570ごう宮廷きゅうていろくごと 勲章くんしょう親授しんじゅしき」1942ねん4がつ7にち、p.213。
  14. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせいじょうp33
  15. ^ 官報かんぽう 1900ねん02がつ17にち 宮廷きゅうていろくごと 閑院みや出發しゅっぱつ(p236)」NDLJP:2948278/1/3
  16. ^ 1916ねん閑院みやじん親王しんのうのロシア訪問ほうもんらい100ねん記念きねんしてセルゲイ・チェルニャフスキー、東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ研究けんきゅう紀要きよう だい27ごう 2017ねんがつ
  17. ^ 官報かんぽうだい1497ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん12月24にち、p.653。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅見あさみ雅男まさお皇族こうぞく帝国ていこく陸海りくかいぐん』(文春ぶんしゅん新書しんしょ、2010ねん
  • 閑院じゅんひとしわたし自叙伝じじょでん』(人物じんぶつ往来おうらいしゃ 1966ねん
  • 閑院じゅんひとし日本にっぽん史上しじょう秘録ひろく』(日本にっぽん民主みんしゅ協会きょうかい 1967ねん
  • 宮家みやけ時代じだい鹿島かしましげるへん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 2006ねん
  • 日本にっぽん肖像しょうぞう だいじゅうかん きゅう皇族こうぞく 閑院 ひがし久邇くに 梨本なしもと大久おおひさ保利ほりけん監修かんしゅう 社団しゃだん法人ほうじんかすみ会館かいかん協力きょうりょく毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1991ねん
  • 皇族こうぞく華族かぞく 写真しゃしんじょう 愛蔵あいぞうばん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 2003ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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日本にっぽん皇室こうしつ
先代せんだい
あいじん親王しんのう
閑院みや
1872ねん - 1945ねん
次代じだい
はる仁王におう
ぐんしょく
先代せんだい
-
騎兵きへいだい2旅団りょだんちょう
初代しょだい:1901ねん4がつ2にち - 1904ねん7がつ10日とおか
次代じだい
田村たむら久井くい
先代せんだい
飯田いいだ俊助しゅんすけ
だい1師団しだんちょう
だい5だい:1906ねん2がつ3にち - 1911ねん9がつ6にち
次代じだい
木越きごしやすつな
先代せんだい
上田うえだ有沢ありさわ
近衛このえ団長だんちょう
だい11だい:1911ねん9がつ6にち - 1912ねん11月27にち
次代じだい
山根やまねたけあきら
先代せんだい
金谷かなやはんさん
参謀さんぼう総長そうちょう
だい14だい:1931ねん12月23にち - 1940ねん10がつ3にち
次代じだい
杉山すぎやまはじめ
がくしょく
先代せんだい
久邇くにみや邦彦くにひこおう
すめらぎてん講究こうきゅうしょ総裁そうさい
だい5だい:1930ねん - 1945ねん
次代じだい
梨本なしもと宮守みやもりただしおう