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大久おおひさ保利ほりけん

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大久保おおくぼ としけん
おおくぼ としあき
貴族きぞくいん侯爵こうしゃく議員ぎいん大久おおひさ保利ほりけん
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん 1900ねん1がつ25にち
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう
死没しぼつ (1995-12-31) 1995ねん12月31にち(95さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
両親りょうしん 大久おおひさ保利ほりたけしちち
大久保おおくぼさかえはは
子供こども 大久おおひさ保利ほりやすし
学問がくもん
時代じだい 昭和しょうわ時代じだい
研究けんきゅう分野ぶんや 日本にっぽん近代きんだい史学しがく
研究けんきゅう機関きかん 名古屋大学なごやだいがく立教大学りっきょうだいがく明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかい、薩藩研究けんきゅうかい
称号しょうごう したがえよん
侯爵こうしゃく
朝日あさひしょう
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大久保おおくぼ としけん(おおくぼ としあき、1900ねん明治めいじ33ねん1がつ25にち - 1995ねん平成へいせい7ねん12月31にち)は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ華族かぞく侯爵こうしゃく)。維新いしんさんすぐる一人ひとり大久保おおくぼ利通としみちまごで、大久保おおくぼだい3だい当主とうしゅちち利通としみち三男さんなん大久おおひさ保利ほりたけしはは近藤こんどう廉平れんぺい長女ちょうじょさかえつま子爵ししゃく米田よねだ国臣くにおみ長女ちょうじょ八重子やえこ長男ちょうなん大久おおひさ保利ほりやすし

人物じんぶつ業績ぎょうせき

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東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょうさい論文ろんぶんは、近世きんせいをテーマにしたものであった。理由りゆうは、当時とうじ歴史れきし学界がっかいにおいては、維新いしん以後いご歴史れきしについては、歴史れきしれてはいけないという空気くうきつよかったからである[1]

戦時せんじでは皇国こうこく史観しかんたいして批判ひはんてき立場たちばり、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく中心ちゅうしんとした官学かんがくアカデミズム歴史れきしがくや、戦後せんご流行りゅうこうしたマルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがくともことなる、実証じっしょう主義しゅぎ本領ほんりょうとした独自どくじ近代きんだい研究けんきゅう構築こうちくした[2]

ちちとぎ没後ぼつごは、侯爵こうしゃくとして貴族きぞくいん議員ぎいんつとめた[3][4]

戦後せんご歴史れきし学者がくしゃとして、名古屋大学なごやだいがく教授きょうじゅ立教大学りっきょうだいがく文学部ぶんがくぶ史学しがく教授きょうじゅ歴任れきにんし、日本にっぽん近代きんだい史学しがく研究けんきゅうを、草創そうそうからおおきく発展はってんさせた。

また戦後せんごはじめて刊行かんこうされた国定こくてい歴史れきし教科書きょうかしょくにのあゆみ』の編纂へんさん家永いえなが三郎さぶろう岡田おかだ章雄あきお森末もりすえ義彰よしあきらとともに参加さんか小学校しょうがっこうよう教科書きょうかしょきん現代げんだい部分ぶぶん執筆しっぴつ担当たんとうした[5]。その1977ねんNHK放送ほうそうした「日本にっぽん戦後せんご」シリーズでは学者がくしゃグループの一人ひとりとして番組ばんぐみ制作せいさく関与かんよし、こうのとおりだい6しゅう「くにのあゆみ 戦後せんご教育きょういくまくあき」では大久保おおくぼらによる編纂へんさん作業さぎょうえがいたドラマが挿入そうにゅうされている。

研究けんきゅう論考ろんこうは、政治せいじ文化ぶんか教育きょういくとう広範こうはんわたるが、とく大学だいがく史学しがくなどの学芸がくげいにすぐれた業績ぎょうせきのこしている。明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかい参加さんかし、『東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくじゅうねん』の編纂へんさん従事じゅうじしたさいには教育きょういく文化ぶんか関係かんけいを、薩藩研究けんきゅうかい参加さんかし、重野しげの安繹やすつぐいえ文書ぶんしょ調査ちょうさつうじては史学しがく研究けんきゅうを、シーボルト文献ぶんけん調査ちょうさつうじ、洋学ようがく蘭学らんがく研究けんきゅう紹介しょうかいした。

多面ためんてき活躍かつやくは、出自しゅつじからみたどった経歴けいれきふか関係かんけいしている。戦後せんご国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん憲政けんせい資料しりょうしつ開設かいせつにあたり、明治めいじ元勲げんくん子孫しそんたちがおおく、大久保おおくぼつう資料しりょう提供ていきょうし、きん現代げんだい史学しがく研究けんきゅう開拓かいたく発展はってんさせたことも特筆とくひつされる[1]

栄典えいてん

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りゃく年譜ねんぷ

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家族かぞく親族しんぞく

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大久保おおくぼ

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おも著書ちょしょ

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  • 日本にっぽん近代きんだい文芸ぶんげい三笠みかさ書房しょぼう日本にっぽん歴史れきし文庫ぶんこ〉、1939ねん5がつ 
  • 日本にっぽん近代きんだい史学しがくはくようしゃ、1940ねん10がつ 
  • 日本にっぽん大学だいがくつくもとしゃそうもと選書せんしょ〉、1943ねん5がつ 
新版しんぱん日本にっぽん図書としょセンター、1981ねん玉川大学たまがわだいがく出版しゅっぱん、1997ねん、オンデマンドばん2008ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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年譜ねんぷ著述ちょじゅつ目録もくろく

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上記じょうきの『大久おおひさ保利ほりけん歴史れきし著作ちょさくしゅうだい8かん、および『日本にっぽん近代きんだい史学しがく事始ことはじめ』巻末かんまつ収録しゅうろく

論集ろんしゅう

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回想かいそう

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  • はやし英夫ひでお「「大久保おおくぼ利通としみち関係かんけい文書ぶんしょ」と「大久おおひさ保利ほりけん文庫ぶんこ追悼ついとう言葉ことばたくして」『ふみえんだい57かんだい1ごう立教大学りっきょうだいがく学会がっかい、1996ねん、110-112ぺーじ 

その

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えんじた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 日本にっぽん近代きんだい史学しがく事始ことはじめ』。
  2. ^ 著作ちょさくしゅう だい8かん解説かいせつ
  3. ^ a b 貴族きぞくいん要覽ようらん 昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい へい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、52ぺーじ
  4. ^ 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどななじゅうねん だい1』大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1960ねん、13ぺーじ
  5. ^ 日本にっぽん近代きんだい史学しがく事始ことはじめ』pp.147-150。
  6. ^ 官報かんぽうだい639ごう叙任じょにん及辞れい」1929ねん2がつ18にち
  7. ^ 官報かんぽうだい2426ごう叙任じょにん及辞れい」1935ねん2がつ5にち
  8. ^ 官報かんぽうだい4858ごう叙任じょにん及辞れい」1943ねん3がつ25にち
  9. ^ 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』14ぺーじ
  10. ^ 立教大学りっきょうだいがく講師こうし着任ちゃくにん経緯けいいは、はやし英夫ひでお 1996参照さんしょう
  11. ^ 朝日あさひしょう 1971-2000年度ねんど”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
大久おおひさ保利ほりたけし
侯爵こうしゃく
大久保おおくぼ利通としみちだい3だい
1943ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし