大久保 利通
おおくぼ としみち | |
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生涯 [編集 ]
生 い立 ち[編集 ]
幕末 [編集 ]
倒幕 ・王政 復古 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Toshimichi_Okubo.jpg/200px-Toshimichi_Okubo.jpg)
10月14
明治維新 後 [編集 ]
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また4
その
暗殺 [編集 ]
人物 ・逸話 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/2/23/Ohkubo_Toshimichi_statue.jpg/200px-Ohkubo_Toshimichi_statue.jpg)
仕事 ぶり[編集 ]
金銭 には潔白 で私財 を蓄 えることをせず、それどころか必要 だが予算 のつかなかった公共 事業 には私財 を投 じてまで行 い、国 の借金 を個人 で埋 めていた。そのために死後 の財産 が現金 140円 に対 して8,000円 もの借金 が残 り、所有 財産 も全 て抵当 に入 っていたが[16]、大久保 の志 を知 っていた債権 者 たちは借財 の返済 を遺族 に求 めなかった。政府 は協議 の結果 、大久保 が生前 に鹿児島 県庁 に学校 費 として寄付 した8,000円 を回収 し、さらに8,000円 の募金 を集 めてこの1万 6,000円 で遺族 を養 うことにした。- 「わしの
国 (薩摩 )のものは政治 には役 に立 ちません、戦 にはいいが」と語 り、出身 藩 に関 わらず能力 が高 い者 を登用 した。伊地知 貞 馨 のようにこれまで親交 を結 んでいた者 であっても、不正 (琉球 から賄賂 を受 け取 った)が明 らかになった場合 は容赦 なく切 り捨 て、公正 無私 に取 り扱 った[17]。 寡黙 で他 を圧倒 する威厳 を持 ち、冷静 な理論 家 でもあったため、面 と向 かって大久保 に意見 できる人 は少 なかった。「人 斬 り半次郎 」の異名 を持 つ桐野 利秋 (中村 半次郎 )も大久保 に対 してまともに話 ができず、大 酒 を飲 んで酔 っ払 った上 で意見 しようとしても大久保 に一瞥 されただけで気迫 に呑 まれていた。大久保 の部下 だった河瀬 秀治 は、大久保 没 後 の内務省 で後任 の内務 卿 ・伊藤 博文 の部屋 で西郷 従道 や中井 弘 が盛 んに夕 べの宴会 の話 をしたり、用 もないのに中居 が出入 りするようになるなどの例 を挙 げ、「すべてが奢侈 に流 れ堕落 した」と嘆 いている。今日 でいう風光 関係 の問題 にも関心 があった。明治 6年 (1873年 )に五代 友 厚 に浜寺公園 へ案内 された大久保 は、堺 県令 ・税所 篤 が園内 の松 を伐採 して住宅 地 として開発 しようとするのを知 り、「音 に聞 く高師 の浜 のはま松 も世 のあだ波 は のがれざりけり」と反対 する歌 を詠 んだ[注釈 5]。税所 はこの歌 を知 り開発 計画 を撤回 した。なお、浜寺公園 の入 り口 付近 にこの時 に詠 んだ歌 が、「惜松碑 (せきしょうひ)」として顕彰 されている。
技能 [編集 ]
嗜好 [編集 ]
家庭 内 では子煩悩 で優 しい父親 だったという。出勤 前 のわずか10分 か15分 の間 を、唯一 の娘 である芳子 を抱 き上 げて慈 しんだ。また大久保 が馬車 で自宅 に帰 ってくると、三男 の大久 保利 武 ら子 どもたちが争 って、玄関 に出迎 え靴 を脱 がせようとして、勢 いあまって後 ろに転 がるのを見 て笑 って喜 んでいた。平生 は公務 が忙 しく、家族 と夕食 を摂 ることもままならなかったが、土曜日 は自 らの妹 たちも呼 んで家族 と夕食 を摂 るようにしていた。大久保 はこの土曜日 の家族 との夕食 を無上 の楽 しみにしていたという。趣味 は囲碁 。碁 好 きの島津 久光 に接近 するために碁 を学 んだといわれるが、それ以前 の嘉 永 元年 (1848年 )の日記 に碁 を三 番 打 って負 けたとの記述 もある。また囲碁 に関 しては負 けず嫌 いで、負 けたときは露骨 に機嫌 を悪 くすることもあった。大隈 重信 本因坊 秀栄 「大久保 公 の碁 は珍 しい品 の好 い碁 であって、永年 の間 相手 となったが、一 度 も手許 の乱 れたことはなかった」伊藤 博文 「公 の一番 好 きなのは碁 じゃ。余程 好 きで能 くやって居 った。詩 もチョイチョイあるが、詩人 としては成功 しない方 だが、自分 の志 を云 うだけのことは出来 た」[21]牧野 伸 顕 「父 は碁 が非常 に好 きだった。あまり好 きなので、体 に障 りはしないかと心配 するものがあり、或 る日 松方 さんが同志 を代表 して出掛 けて行 き、父 に注意 すると、『私 に碁 を止 めろと言 うのですか。私 は碁 が出来 なければ死 んでしまいます』と父 が答 えたので、勿論 冗談 ではあったが、死 なれては困 るというので、碁 を止 めさせる計画 は沙汰止 みになった。父 は翌日 があるので夜更 しはしなかったが、少 しでも暇 があると碁 を打 っていた。気分 転換 の意味 もあったと思 う」[22]
- ヘビースモーカーで、
濃厚 な指宿 煙草 (日本 で初 めて栽培 されたたばこ)を愛用 し、子供 達 が朝晩 パイプを掃除 しなければすぐに目 詰 まりするほどだった。また、朝 用 と夜 用 のパイプをそれぞれ分 けて使 っていた(そうしなければならないほど、年中 煙草 を吸 っていた)。 茶 は京都 宇治 の玉露 を濃 く淹 れたものを好 んだ。漬物 も好 きで、何 種類 か並 んでいないと機嫌 が悪 かったという。写真 嫌 いだった西郷 隆盛 とは対照 的 に、これを好 んだため多 くの肖像 写真 が残 っている。青 いガラス製 の洗面 器具 を使 い、家庭 内 においても洋間 に滞在 しながら洋服 を着用 し、当時 としては非常 に洋風 な生活 をしていた。また頭髪 をポマードでセットしていた。頭頂 部 に大 きな禿 があり、それを髪 で隠 していたため、早朝 に邸宅 を訪問 しても髪 をセットするまで応対 に現 れなかったという。明治 8年 (1875年 )から1年 かけて、麹 町 三 年 町 (旧 丹羽 左京 大夫 邸 及 び旧 佐野 日向 守 邸 跡 )に白 い木造 洋館 を建 てた(建築 費用 は恩賜 金 と盟友 の税所 篤 からの借金 で賄 ったとされる。後 にこの邸 はベルギー公使館 となった)。当時 は個人 の家 としては珍 しい洋館 であったが、金 をかけたものではなかった。また、これとは別 に高輪 に純 和風 の別邸 を所有 していた。
士族 反乱 ~最期 [編集 ]
征 韓 論 で対立 した江藤 新平 と確執 があり、佐賀 の乱 で江藤 が裁判 にかけられた際 には日記 に「江東 (ママ)陳述 曖昧 実 ニ笑止千万 人物 推 而 知 ラレタリ」、死罪 判決 が出 た際 には「江東 (ママ)醜体 笑止 なり、今日 は都合 よく済 み大 安心 」と意図 的 に名字 の名 を変 え、江藤 への罵倒 ともとれる言葉 を記 している[24]。このことから「江藤 を死罪 にした裁判 長 の河野 敏 鎌 は大久保 から1,000円 で買収 された」[25]「上京 していた江藤 の弟 ・江藤 源 作 を見 て江藤 の亡霊 を見 たかのように驚 いた」[26]など当時 から現在 に至 るまで様々 な風説 を生 み出 している。なお、大久保 は江藤 の才能 を認 めつつも、その強引 さ故 に政府 を去 り反乱 を起 こして死亡 した様 を秦 の商 鞅に例 えている[27]。萩 の乱 の一報 を千坂 高雅 から受 けると、大久保 は「これ(電報 )を伊藤 (博文 )参議 の所 へ持 っていって、どうか木戸 (孝允 )さんへお渡 し下 さいと言 ってくれ」と送 り出 した。意味 がわからぬまま千 坂 が持 っていくと伊藤 が涙 を流 したため訳 を聞 くと、(萩 の乱 の首謀 者 である)前原 一誠 は木戸 と伊藤 が参議 に推挙 したが、前原 についてき及 ぶところがあった大久保 が難渋 を示 したところ、木戸 が天下 の志士 を疑 ったとして立腹 したという経緯 があり、木戸 の面子 を立 てようとする大久保 の配慮 であった[28]。西南 戦争 の時 には、伊藤 博文 に対 して「朝廷 不幸 の幸 と、ひそかに心中 には笑 いを生 じ候 ぐらいにこれあり候 」と鹿児島 の暴徒 を一掃 できるとし、また西郷 については、これでは私 学校 党 に同意 せず「無名 の軽挙 」をやらかさないだろうと書 き送 っている(明治 10年 2月 7日 付 書簡 )。一方 で、「あの男 のことだから進退 去就 には困 っているだろう」として、勅使 を立 てて明治天皇 の意向 を伝 えて挙兵 を防 ごうとし、その意向 を受 けて西郷 の縁戚 の川村 純 義 が会見 を試 みたが、実現 しなかった。周囲 の者 達 が西郷 が乱 に与 するに違 いないと伝 えても、大久保 は最後 まで西郷 の不参加 を信 じて疑 わなかったが、西郷 が反乱 軍 を率 いて鹿児島 を出立 したという確報 や証拠 を突 きつけられ、「そうであったか」と言 って涙 を流 した[29]。大久保 は西郷 と会談 したいと鹿児島 への派遣 を希望 したが、大久保 が殺 されることを危惧 した伊藤 博文 らに朝議 で反対 されたため、希望 は叶 わなかった。西郷 死亡 の報 せを聞 くと号泣 し、時々 鴨居 に頭 をぶつけながらも家 の中 をグルグル歩 き回 っていた(この際 、「おはんの死 と共 に、新 しか日本 が生 まれる。強 か日本 が……」と呟 いた[30])。西南 戦争 終了 後 に「自分 ほど西郷 を知 っている者 はいない」と言 って、西郷 の伝記 の執筆 を重野 安繹 に頼 んだりもしていた[31]。また暗殺 された時 には、生前 の西郷 から送 られた手紙 を持 っていたとされる[32]。明治 11年 (1878年 )に暗殺 される日 の朝 、福島 県 令 ・山吉 盛典 に対 し、「ようやく戦乱 も収 まって平和 になった。よって維新 の精神 を貫徹 することにするが、それには30年 の時期 が要 る。それを仮 に三 分割 すると、明治 元年 から10年 までの第 一 期 は戦乱 が多 く創業 の時期 であった。明治 11年 から20年 までの第 二 期 は内 治 を整 え、民 産 を興 す即 ち建設 の時期 で、私 はこの時 まで内務 の職 に尽 くしたい。明治 21年 から30年 までの第 三 期 は後進 の賢者 に譲 り、発展 を待 つ時期 だ」と将来 の構想 を語 った[33]。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Ookubo_jnajya2.jpg/200px-Ookubo_jnajya2.jpg)
大久保 利通 を水神 として祀 る「大久保 神社 」が、福島 県 郡山 市 にあり、地元 の人々 によって「大久保 様 の水 祭 り」が毎年 9月 1日 に執行 されている[34]。地元 鹿児島 では長 らく「西郷 どんの敵 」とされていた。彫刻 家 の中村 晋 也が制作 した銅像 が建 てられたのは、徐々 に再 評価 が高 まってもいた昭和 54年 (1979年 )の西南 戦争 百 周年 の機会 であった。
評価 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/%C5%8Ckubo_Toshimichi_1872.jpg/200px-%C5%8Ckubo_Toshimichi_1872.jpg)
西郷 隆盛 - 「もし
一 個 の家屋 に譬 ふれば、われは築造 することにおいて、遥 に甲 東 (大久保 )に優 って居 ることを信 ずる。然 し、既 に之 を建築 し終 りて、造作 を施 し室内 の装飾 を為 し一家 の観 を備ふるまでに整備 することに於 ては、実 に甲 東 に天稟 あって、我 等 の如 き者 は雪隠 (便所 )の隅 を修理 するも尚 ほ足 らないのである。然 しまた一度 之 を破壊 することに至 っては甲 東 も乃公(おれ)に及 ばない」[35] - 「
大久保 は予 の畏友 で実 に予 の手駒 である。予 若 し事 に死 することあらば、予 に代 わって起 つべきは大久保 である」
- 「もし
長州 閥 の総帥 である木戸 孝允 とは、維新 後 は政治 的 に対立 することが多 かったが、公人 としては互 いに認 め合 っていた。木戸 は大久保 に多 くの不快 を持 ちながらも、政治 家 としての大久保 については「大久保 先生 の人物 には毫 も間然 するところこれ無 く敬服 つかまつり候 」と評価 し、大久保 も参議 を辞任 した木戸 の慰留 に何 度 も努 めるなど、政治 的 な同僚 としての木戸 を強 く必要 とした。松平 春 嶽 「大久保 利通 は、古今 未曾有 の英雄 と申 すべし。威 望 凛々 霜 の如 く、徳望 は自然 に備へたり。力量 に至 っては、世界 第 一 ならん。余 が大久保 をかくのごとく稱 讃 するは、他人 の稱 讃 とは違 へり。支 那 の談判 、江藤 の討伐 、其 の他 公 の事業 に種々 あれども、余 の見 る所 は御 維新 也。(中略 )日本 全国 の人心 を鎮定 して、その方向 を定 む。皆 大久保 一人 の全国 を維持 するに依 り、維新 の功業 は大久保 を以 て第 一 とするゆえなり。御一新 の功労 に、智勇 仁 あり。智勇 は大久保 、智仁 は木戸 、勇 は西郷 也。此の三 人 なくんば、如何 に三条 、岩倉 の精 心 あるも貫徹 せざるべし。大久保 は豪傑 なれども、どこ迄 も朝廷 を輔賛するの心 ありて、倒 れて止 むの気象 也。余 の見 る所 にては大久保 、木戸 、西郷 、廣澤 、この四 人 なくんば御一新 は出来 まじ」[36]勝 海舟 「情実 の間 を踏 み切 って、ものの見事 にやりのけるのは、そうさなアー大久保 だろうよ。大久保 のほかにはあるまいよ。だがね、大久保 という男 はあんまり功名 を急 ぐ欠点 があるから、折々 やりそこないがあったけれど、あの男 のように思 い切 った果断 に富 んだ者 はマアー珍 しいだよ。それだから情実 の相撲取 りをする今 の世 の中 には、ああいう男 が是非 とも入用 ださ」[37]大隈 重信 は大久保 を「維新 時代 唯一 の大 政事 家 」と評 し、意思 の堅固 と冷静 で決断 力 に富 んでいる点 を挙 げている。さらに同 じく維新 の三 傑 の一人 木戸 孝允 とともに「維新 時代 の二 大 英傑 」と評 している(大隈 は西郷 を評価 していなかった)。- 「
大久保 は辛抱強 い人 で、喜怒哀楽 顔色 に現 はさない。寡言 沈黙 、常 に他人 の説 を聴 いて居 る、『宜 かろふ』と言 ったら最後 、必 ず断行 する。決 して変更 しない、百 難 を排 しても遂行 すると云 ふのが特色 であった。(中略 )大久保 は一見 陰湿 な方 で、且 つ武 骨無 意気 な風 であった」[20] - 「
彼 の頭脳 が明晰 で、その判断 が嘗 て正鵠 をあやまらなかったのは、畢竟 この沈着 の態度 を失 わなかったところに基 づいている。或 る場合 には、彼 の性格 は如何 にも頑固 に見 えて、甚 だ才略 に乏 しいように受 け取 られたが、之 れ畢竟 極 めて強固 なる意志 の力 と執着 力 の甚 だ猛烈 なるものありしことと、赫々 たる政治 的 熱心 の絶 えず活動 していた結果 である。假令 彼 に対 する反対 の声 が、四方 に起 っても、彼 は毫 も恐 れず、騒 がず、怨 まず、決 して愚痴 も零 さなかったのである。(中略 )決 して彼 は機敏 な人 ではなかった。併し全 く自 らを恃む人 であって、常人 が狐疑 逡巡 して居 る間 に、どしどし断行 して行 ったのであるから、その執 る仕事 には非常 な成績 が挙 った。素 より彼 は、意思 の人 であって、感情 の人 ではなかった。その冷 ややかなることは、鉄 の如 くであって、毫 も温 かみのない人 のように見 えた。或 場合 には、甚 しく保守 的 の思想 を表 わすことがあったが、さりとて頑冥 な保守党 の因循 家 ではなかった。例 えば、学者 の説 を聞 いても容易 に同意 しない、黙考 し再考 し三 考 するという風 で、沈思 黙考 の結果 善 いと確信 したならば、彼 は猛然 進 んで毫 も余力 を残 さないという遣方 であったから、彼 の進行 の前 路 に立 ち塞 がり得 る者 は、殆 ど無 かった」 - 「
大久保 は意思 の代表 的 人物 であり、木戸 は感情 の代表 的 人物 である。木戸 は頴敏で磊落 な才子 の方 で、大久保 は堅 剛 の君子人 である」 - 「
柔 か物 を、チャンと衣紋 を繕 い、丁寧 に着 て汚 れた物 などは一 つも身 に着 けず、髭 にも丹念 に櫛 を入 れ、油 を用 いて一本 々々癖 を直 し、形 を造 る。髭 の捌 き方 にも注意 する跡 の見 えたのは大久保 だった。悪 く言 えば派手 だったね。彼 の謹厳 な人 にしてはと思 われるほどに」[38] - 「
殊 に彼 の偉大 であった一 つは、彼 が斯の藩閥 的 関係 を以 て、身 を立 てたるにも拘 らず、殆んど藩閥 的 偏見 に超脱 していた点 である。如何 にも同 藩 の者 を多 く採用 したことはあるが、之 れとて其間に偏見 のあった訳 では毫 もない。この大 見識 は彼 の人物 を見 る上 に就て、最 も深 く注意 すべき点 である」 - 「
大久保 公 は、沈着 で喜怒 色 に顕 れない。知 らぬ人 は近 づく能 はず、知 る人 も狎るるを得 ずという風 で、木戸 公 はリベラル、大久保 公 はコンサバチーブ、両 公 相俟 って大政 維新 を成就 し、維新 後 の難局 を処理 して、開国 進取 の基 を開 かれた」[39]
- 「
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![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Saikai_y%C5%8Dha_kigen_by_Kisei_Sh%C5%8Dzan.jpg/220px-Saikai_y%C5%8Dha_kigen_by_Kisei_Sh%C5%8Dzan.jpg)
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伊藤 博文 - 「
公 の事績 を、一言 にして掩へば、危難 の際 に局面 を維持 する力 が非常 に強 い、という一句 で盡 されると思 う。木戸 公 は才識 共 に勝 れた人 で、どちらかといえば、寛仁 大度 、識力の広 い人 といってよかろう。大久保 公 の方 は沈毅 で、忍耐 力 の強 い人 で、容易 に進退 するということをしなかった。木戸 公 は識の高 いだけに、識によって物事 を判断 して往 こうという人 だから、忍耐 力 の方 では自 ずから大久保 公 に一 歩 を譲 っていた。その代 わり識力の方 では、大久保 公 も木戸 公 に一目 置 いた。両雄 の取組 みは、こんな具合 のものだった。岩倉 、木戸 、大久保 三公 はとにかく度量 といい、胆力 といい、時流 に卓絶 した点 といい、遥 かに儕輩 を抜 いていた。予 が先輩 として見 る所 では彼 の三 人 に及 ぶものは一人 もない」[40] - 「
大久保 さんの威厳 は一種 天稟 であった。兎角 人間 の威厳 は傲岸 偏狭 をともなうものであるが、大久保 さんは全 く違 っていて、誠 に珍 しい度量 の広大 なる方 で、しかも公平 無私 で、誰 でも人 を重 んずる風 がある、非常 に広 い大 きな人物 であった」 - 「
大久保 さんは、誠 に度量 のひろい大 きな方 であった。かの西郷 の如 きは、誠 に竹馬 の友 として幼少 のときから親 しい間柄 であったにもかかわらず、我輩 などに対 して話 されるときでもつねに、老 西郷 、老 西郷 といわれ、また先代 木戸 公 に対 しては、木戸 先生 と鄭重 に尊称 しておられた。これは単 に表面 上 ばかりでなく、殊更 につくられた態度 でもなく、実際 に心中 に敬意 を表 せられ、推称 しておられたように思 われる。それに、平生 、誰 の系統 とか、何 藩 人 とかの区別 を設 けず、何人 に対 しても推 すべきは心中 からこれを推 し、用 いるべきは心中 から敬 して用 いておられた。それゆえ大久保 さんにはみんな心 から服 し、喜 んで力 を致 したのである。ゆえに天下 に志 ある者 は、多 く大久保 さんの知遇 を得 んことを欲 したのも、決 して偶然 ではない。それで、明治 の世 となって以来 、大久保 さんほどに国家 の難局 を処理 し、また事業 を多 く遂行 された方 は、維新 の諸 先輩 中 他 に類例 を見 ないのである」 - 「わが
国 憲法 制定 の歴史 中 、(板垣 が)民選 議員 の建白 に尽力 されたことは宜 しいが、しかし大久保 さんが極端 なる専制 主義 の人 で、盛 んに圧制 政治 を行 い、立憲 政治 のことなどは、少 しもその念頭 になかったように述 べてあるが、これは全然 間違 った話 である。(中略 )大久保 さんは永 らく政府 の枢軸 に立 ち、国政 上 の盤根錯節 を一身 に引 き受 けて切 り開 かれたために、民間 の政客 に敵 が多 く、誤解 も多 かったが、おおよそ大久保 さんほど誤解 された人 も少 ないのである」 - 「
世間 には大久保 公 を目 して圧政 家 のように思 う者 もあるようだが、それは甚 だしい間違 いである。大久保 公 は早 くより立憲政体 を主唱 された有力 な一人 である」 - 「
公 は中 々思慮 もあり、決断 もあり、軽 忽 に事 を為 さないと云 う、所謂 持 長 する所 の力 は余程 持 って居 られた。難事 が起 これば率先 して自 ら当 たるの人 であった」[41] - 「(
佐賀 の乱 、台湾 事件 等 )公 は自 ら請 うてその難局 の任 に当 たられた。こういう大事 の時 に当 たっては、何時 も危険 を避 けず、自 ら奮 ってその局 に投 ぜられた。是 れは実 に公 の一種 人 に異 って居 った所 の特性 である」[41]
- 「
山縣 有朋 「大久保 と云 う人 は薩人の中 にても一種 特別 なる性格 あり。云 わば当時 文明 流 の政治 家 なり。故 に動 もすれば薩人中 には大久保 を目 して、彼 は驕奢 に長 じたる者 なりとか、金殿玉楼 を造 れりとか云 うて誹 毀 する者 あり。大久保 の所 に往 きては茶 一 つ飲 まぬと云 う様 なる傾 きありし。現 に今 の侯爵 大山 などもその一人 なりき。加 うるに征 韓 論 以来 二 派 に分 れ、一方 は西郷 に属 して野 に下 り、一方 は大久保 に属 して朝 に留 まることとなりしより、自 ら政府 の為 す事 は大久保 一身 に責任 を負 い、西郷 と大久保 と確執 せしとはなかるべしと雖も、総 て反対 者 より怨を受くるように為 りたるなり」[42]板垣 退助 鳥尾 小弥太 「大久保 の理想 は主 して維新 の大成 に在 り。木戸 の眼光 は宇内 列国 に注 ぎ、外海 を禦 ぐを主 としたりしと雖も、大久保 は専 ら維新 当初 の志 に基 き、内政 を整 え、国 礎 を建 て、以 て尊王 の業 を大成 せんとするの精神 なりき」[42]山本 権兵衛 「西郷 さんのところにいくといつも喜 ばれて、『自分 は落語 家 でないから話 が聞 きたければ物事 を尋 ねてくれ』という風 で、有益 なる談話 に時 のうつるを覚 えず、あたかも春風 に触 れるよう長閑 な気持 ちになり、辞 して門 を去 るときは、誰 も心中 に云 うに言 われぬ愉快 を感 じたものである。然 るに、大久保 さんの前 へ出 るとこれと反対 で、いかにも怖 い顔 をしておられた。言葉 は少 なく、ただその威厳 にうたれて、この方 から言 いたいことも言 われず、小 さくなって帰 るので、人気 は自然 に西郷 さんの方 に集 まった。我輩 も西郷 党 であったのである」伊東 祐亨 「余 は今 までに大久保 さんほど厳格 な、几帳面 な、そして怖 い人 に出会 ったことがない」[45]松方 正義 - 「
実 に果 決断 行 の人 であったが、しかし怒 るときは常 よりも声 低 く、落着 いて物 を言 い、頗 る沈着 の態度 を取 られた。そこで、西郷 さんも大久保 が声 を低 くして語 り出 すときには、用心 ものだと言 われたことがある」 - 「
非常 なる精力 家 であって、あれほどの位置 にあるひとであるから、座 っていて部下 を駆使 して万事 を慮 理 されたように思 われるが、決 して左様 ではなく、何 か事件 があると自分 で手紙 を書 き、自分 で出 かけて活動 された。実 に機敏 なるものであった」
- 「
後藤 象二 郎 「余 は従来 議論 においては多 く人 に譲 らぬ自信 があった。ただ大久保 という人 に向 っては、誠 に議論 の仕 悪 い困 った人 であると思 うて閉口 していた。大久保 は弁 説 の滔々 として爽 かな人 ではなかったが、しかし一度 大久保 と議論 を上下 するときは、丸 で岩石 にでもぶつかるような心地 がして、実 にこの人 だけは、議論 のしにくい人 であった」[46]佐々木 高行 「彼 、椅子 に凭 れ、端然 として事務 を執 る。同僚 あるいは外国 公使 が試 みに大久保 を壓服 せんと欲 して、その室 に入 るや、彼 『なんですか』と中音 にて云 う。来 りし者 はその威儀 に打 たれて贅語 を発 すること能 はず、要談 を了 りてそうそう去 るなり。その官房 の煙草 盆 の清潔 なりしは、人 の長 談 せざりし証拠 なり」[42]西園寺 公望 「大久保 は中 々悧巧な男 で、政治 向 きの事 は全然 伊藤 に任 せて何 うか斯うか切 り盛 りして居 ったが、大久保 が世帯 風 の才 があったと云 っても宜 い。また極 く低級 の語 で云 えばズルかった。彼 にもズルい位 の智慧 はあった」[47]副島 種臣 - 「
胆 は泰山 の如 く、量 は大洋 に如 く、識見 高邁 才幹 古今 に絶 して居 る。洵 に前代未聞 の豪傑 である」 - 「
公 の長 ずる所 は、つとめて大体 を総覧 するにあり。民心 を収拾 するにあり。苛察ならざるにあり。賢良 を親 づけ、宵 小 を憎 むにあり。毅然 不抜 、確乎 篤信 の気象 あれども、事 はなはだ執拗 せず。執拗 せざるが故 に、時 と流通 して、身 権 貴 を失 わず。故 西郷 氏 も、所長 多 けれども、不 執拗 の三 字 だけは、この公 に譲 られしなり。余 ももとよりこの公 に恥 るなり。この公 の長 ずる所 は、区々 たる一 事業 にあらざるなり」[48]
- 「
千坂 高雅 - 「
大久保 卿 が内務省 に登庁 しその靴音 が廊下 に響 くと職員 たちは私語 を止 め、それまでざわついていた庁舎 内 が水 を打 ったように静 まり返 った」 - 「
大久保 の威 望 の高 かったことは、実 に前代未聞 といってよかった。われわれが内務省 に出 て見 ると、卿 が出 て居 られるかなど尋 ねる必要 は少 しもない。卿 が居 れば廰内がひっそり閑として水 を打 ったようであるから、直 ぐにそれと分 った」[49]
- 「
福地 源一郎 「大久保 公 は渾身 これ政治 家 なり。凡 そ政治 家 の資格 として必要 なる冷血 を、多量 にその脈 管 にたたえたる。余 は未 だ公 の如 きを視 ざるなり。公 の顔色 を望 み、風采 を仰 ぐごとに、余 は恰 も北洋 の氷塊 に逢ふが如 き思 いをなしたれば、このことを藍田 三郎 、小松 齋 治 君 ら告 げたるに、諸氏 もまた同 じ思 いをなすものなりといえり。その平常 沈黙 にして言語 挙動 を慎重 にし、容易 には笑顔 を我 らに見 せられたることなかりき。故 に余 は公 に用 いられ、公 に咫尺 せること殆 ど一 年 半 の長 きに渉 れるに拘 らず、よく公 の性情 を洞察 すること能 わず。たまたま伊藤 伯 の物語 に依 ってこれを推知 するに止 まりたるなり。且 つや気 稟の相 異 る、公 は常 に余 を冷眼 視 せられ、余 もまた敢 えて勉 めて公 の知 を求 めんとはせず、長 ・属 の間 にありながら、宛然 疎遠 の状 にてその日 を送 りたり。(中略 )公 が政治 家 としては最上 の冷血 たるに似 ず、個人 としては懇切 なる温 血 に富 んでおられたことがわかるのである」前島 密 「よく人 にも計 り、人 の言 も容 れた人 で、一事 を裁断 するにも念 には念 を入 れる流儀 だったが、ただ裁決 した以上 は、もう何事 が起 こっても気 が迷 うの、躊躇 するのということはなかった」[50]牧野 伸 顕 - 「
父 はこういう相談 には頭 から反対 したり、いけないと言 って止 めたりはせず、あまり賛成 しない時 は、ただもっとよく考 えてみたらよかろうと言 うのが常 であった」[51] - 「
私 が子供 心 に大 西郷 や大久保 から受 けた印象 を言 えば、この人 たちは普通 の人 たちよりも一 桁 上 の人間 であるという感 じがした。私 が偉 いと思 った周囲 の人 たちでさえこの両人 を特別 扱 いするのを見 たためもあろうか、とにかく押 し付 けられる気分 がした。体 も大 きかった。そして西郷 は身 なりを構 わない人 で、ご承知 のような薩摩 飛白 の筒袖 を着 て平気 だったが、それでも船宿 などに行 く時 には気 になったと見 えて、私 の父 の衣服 に着 換 えた。大久保 は背 が高 く、西郷 は太 っていたので間 に合 ったのだろう」[52]
- 「
林 董 - 「
大久保 は明治 年間 における唯一 の大 宰相 であったと思 う。社稷 の臣 、宰相 の器 として其右に出 づる者 はない。(中略 )事務 などを以 て大久保 を論 じては大変 な間違 だ。裁決 流 るるが如 しとか何 とかいうのは、ヤリ手 とか才子 とかいうもので、畢竟 それは刀 筆 の吏である。大久保 はそんなものを超越 しておる。あれはただその人 その物 が国家 の柱石 であったのだ」[53] - 「
一 の建議 案 が諸 参議 の間 に全部 賛成 を得 てから大久保 の処 へ出 ると、その場合 大久保 がもう一遍 よくお考 えになったらいいでしょうと言 ったら、その案 はもう潰 れてしまったことにされた。(中略 )よく考 えたらいいでしょうの一言 で以 て諸 参議 の賛成 案 もたちどころに潰 れた威 重 は、要 するに、あの人 の至誠 国 に尽 くすの心 、己 を空 しくして国 のためにした、あの人格 の力 である。だから、あの人 のいた間 は天下 はピリッともしなかった」[54]
- 「
高橋 新吉 「大久保 公 は部下 に対 しては大変 親切 な人 でした。親切 で大変 よく世話 もされたが、しかし決 して礼譲 を疎 そかにされなかった。私 どもを呼 ぶのでも決 して呼 び捨 てにはせず、また高橋 君 とさえも言 われなかった。何時 も、『高橋 さん、あなたが』と言 う風 の物 の言 い振 りで、私 どもが行 って辞儀 をしても、先方 はやはり丁寧 に頭 を下 げて、畳 へ二 、三 寸 ばかりのところまで俯 いて辞儀 される。帰 る時 は玄関 まで送 って出 て、シッカリと辞儀 をされた。この点 は大 西郷 がよく似 ていた」[55]久米 邦武 「なにしろ大久保 さんは無口 な人 で、(洋行 中 の)汽車 の中 でも終始 煙草 ばかり吹 かしていた。(中略 )大久保 さんの煙草 のみは非常 なもので、大久保 さんが汽車 におると、外 から戸 をあけて這入 った時 、煙 が濛々 としているくらいだった。(中略 )大久保 さんの笑 い振 りはどこか親 しげな微笑 が浮 かぶのみで、そう愛想 笑 いをするのでもなく、ただなんとなく打 ち解 けた笑 い方 で、恐 ろしい中 にも心 から信頼 のできる親 に対 するような気持 ちがされた」[56]佐藤 進 「公 の風貌 は他 諸君 の談話 にも尽 くされてある如 く、眼光 炯々 として鋭 く輝 き、頬 より頤にかけて漆黒 なる髭 を厳 しく垂 れ、一見 人 をして覚 えずその権威 に畏敬 の念 を懐 かしめ、しかのみならず寡言 沈黙 いやしくも口 を開 かざるため、善 く言 えばますますその権威 が加 わり、悪口 をするとなおなお窮屈 と畏怖 が増 すのであった」[57]速水 堅 曹 「士族 授産 はつまらぬと言 ったら、大久保 公 は私 をギロリと睨 んで『すでに勅 が出 た』とただ一言 いわれた。ピシリと頭 に応 えて、私 は黙 って還 ったが、イヤもう恐 ろしい威厳 で、私 は生涯 あんな怖 いことはなかった」[58]石井 省一 郎 「大久保 公 が今 少 し永 く朝廷 に立 って居 られたらば、世 の中 も今日 の如 きものではなかったであろう。公 の如 きは誠 に国家 棟梁 の臣 であった」武井 守正 「大久保 さんは未 だ嘗 て一 度 たりとも『之 は困 った』と云 ったことがないとて有名 な話 になっていた」安場 保 和 - 「
余 が驚 いたのは、欧米 巡 廻 の旅行 によって公 の人品 が変化 していたことであった。従前 は、只 豪 邁沈毅 の気象 のみに富 んだ人 であったが、巡 廻 後 はそれに洒落 の風 を交 え、加 うるにその識見 が大 いに増進 せるを感 じたのである。初 は全 く政治 の大體 のみに心 を傾 けて、餘 り些細 な事 には留意 されない人 であったが、帰朝 後 は、我 帝國 をして宇内 萬邦 に対峙 せしめんには、必 ず富国 の基礎 を強固 ならしめなければならないと語 られ、施政 方針 は、専 ら教育 、殖産 、工業 、貿易 、航海 等 の事業 にあって是 等 を盛 んに奨励 せられたのであった」 - 「
大久保 さんに接 してその端厳 な威容 と、そのよく人 言 を傾聴 して倦 まなかった熱心 さとを見 ると、まるで大久保 さんが二 人 居 るようであった。一人 の大久保 さんは威儀 端然 たる大久保 さんで、他 の一人 の大久保 さんは謙遜 で、敬虔 で、よく人 言 に耳 を傾 ける大久保 さん。私 はこの二人 の大久保 さんを見 た」[49]
- 「
河瀬 秀治 - 「
公 は部下 を使 わるるに、よく其心を人 の腹中 において其力を信認 され、部下 に遣 れるだけのことを遣 らせるという風 であった。(中略 )『各部 の専任 者 は、決 して私 一己 に使 われるとか、薩長 に使 われるとか思 わずに、国家 の役人 である、国家 の事務 を掌 るというつもりで自任 してやって貰 わなければならない。且また細 かい事 は自分 は不得手 である、事務 の方 は、万事 諸君 に一任 するから力 を盡 して遣 って貰 いたい。其代 り、責任 は我輩 が引受 けてやる。顧慮 せずに遣 って貰 いたい』と云 われた。(中略 )殊 に公 に敬服 すべきは、人 に任 しておいて動 かなかったことである」 - 「
大久保 公 の内務 卿 時代 には、内務 卿 の室 は、神聖 なものと見 做されていた。何時 行 ってもシーンとしたもので、大久保 公 の所 へ何 か一 つ議論 でもしようと押 しかけて行 く者 があっても、内務 卿 の室 へ入 ると、議論 を始 めるどころか縮 み上 って還 って来 るという風 であった。卿 の室 には粛然 として声 が無 かった。仕事 の上 の事 でも唯 黙 って聞 いて居 られた。自分 でも議論 はされず、伺 い書 があると呼 び付 けて聞 いて、『ヨシ』と言 ってポツンと印形 を押 して、黙 って返 してよこすという風 であった」 - 「
大久保 公 はそういう厳格 な人 ではあったが、しかし人 を叱 るというようなことは決 してされなかった。私 はたった一度 叱 られたことがある。恐 らく、あれくらい烈 しく叱 られた者 は、私 一 人 であろうと思 う。(中略 )一旦 やりかけた事 を、不 詮索 の結果 、後 になって変更 するようなことは、ひどく嫌 いであった」
- 「
金原 明善 「(天竜川 の)治水 の問題 で、伊藤 内務 卿 の時代 は三 ヶ月 を費 し、大久保 内務 卿 の時 には僅に一 日 にて慮 断 された。たとひ時代 の推移 はあるにせよ、その人物 の等差 も隔 りがあるものである」渡辺 昇 「木戸 公 が(地方 官 会議 の)議長 席 に着 き、議場 整理 の任 に当 られたけれども徹底 しなかった。そこへ大久保 公 が入 って来 、議長 の外側 に着席 されると、満場 水 を打 ったように静粛 となり、議論 好 の議員 達 も、成 るべく発言 を遠慮 し、殊 に寡言 な大久保 公 が簡単 な説明 でもされようものなら、分 からぬでもわかったような顔 をして引下 ったものであった。木戸 公 に粛清 な風 があれば、大久保 公 には慥 に雄大 な趣 があった。大久保 公 をして明治 二 十 三 年 まで長命 せしめ、帝国 議会 に臨 ましめたならば、堂々 たる一 国 の大 宰相 として議 政府 三 百 の頭 顱、恐 らく正面 より戦 う者 なかったであろう」渡辺 国武 - 「
沈毅 果断 の人 で、天稟 により国家 の大臣 たる資格 を備 えて居 られたというてよろしい。多弁 でもなければ事 を軽々 しく決断 もされなかった。また大久保 さんは随分 信義 を重 んぜられた。その一 諾 には実 に千金 の値 があった」 - 「
大久保 さんの在世 中 は、執拗 偏見 だとか、専断 専制 だとか、随分 天下 の怨府 となって居 られた」[35]
- 「
多田 某 (内閣 吏員 ) 「大久保 氏 は極 めて寡言 のひとなり。然 れども始終 黙 するにもあらず。普通 の事 は役所 にてもよく笑 いし事 あり。しかして公務 につきては多 く口 を開 かず、黙 して人 の言 う所 を聴 き居 たり。明治 八 年 より開 きたる地本 官 会議 において、府知事 県令 はいずれも当時 の豪傑 にして、容易 に屈服 するの人 あらず。然 るに大久保 内務 卿 の前 においては、議場 粛然 あたかも水 を打 ちたる如 く、その言 はただ命 これ従 うの状 なりき。沈黙 なる代 りに一 たび引 き受 けたる事 は百 礙を除 き、万難 を排 して遂行 するの概 あり。よって地方 官 は皆 大久保 氏 に信 を置 き、一 諾 千金 より重 しとは大久保 の事 をいうなりと感歎 する者 ありき」河島 醇 「世人 は動 もすれば甲 東 の謹厳 にして沈黙 なるが為 に、青年 書生 の如 きは軽視 して引見 することが尠かったように考 える。しかし甲 東 は決 してそんな人 ではなかった。青年 輩 が相 携 えて其邸に到 り教 を乞 うことがあれば、熱心 と親切 とを以 て諄々 として誨へ導 くのを常 とせられた」高島 嘉右衛門 「私 が逢 った人物 の中 で大久保 さんほど恐 い人 はない。大久保 さんが人 に対 して言 う言葉 が三 つあった。それは『よろしい』、『いけませぬ』、『考 えときましょう』という三 語 である」[59]本因坊 秀栄 「当時 威 権 赫々 たる廟堂 の大黒柱 でありながら、少 しも辺幅 を飾 らぬ純真 無垢 な、懐 かしみの深 い御方 で、まことに居心地 が好 かった。だから私 は物質 的 にはあまりめぐまれなかったけれども、公 の御 邸 から御 使 が来 るか、来状 がありますと、何 を差 し置 いても、勇 んで参上 いたしました。時 には家 従 から何 の挨拶 もない事 もあり、またこの次 に御 一緒 にというような申訳 もありましたが、そこが私 の最 も感激 した所 でありました。あれ程 の御 身分 でありながら、内帑 はそんなに満 たされてないのであろうかと思 いやりますと、荘厳 崇高 なる公 の人格 の神々 しさが、キラキラと眼前 に輝 いて、そぞろに頭 の下 がるを禁 じ得 ませんでした。あんな純真 無垢 な。そして恬澹 寡欲 な大 宰相 がまたと世 にあるでしょうか」[60]中江 兆民 西村 捨三 「大久保 公 は従容 端然 五 代 (友 厚 )氏 等 と、日々 碁 を囲 みたり。木戸 公 来訪 のときは、必 ず上座 に招して、玄関 まで見送 せられたれど、その他 は左 なかりし。また日々 文書 は、細大 盲 印 を捺 するということなし。事 の軽重 を甲乙 に分 ち、観覧 の便 を計 りたれど、矢 張 り丁寧 に検閲 せらるること、平時 に変 るなし。假令 は法制 のことは、伊藤 公 に謀 り、経済 のことは大隈 公 に問 い、大事 吾 之 を決 すという如 く、大臣 の態度 を備 えたり。公正 剛毅 申 し分 なき大 宰相 なりき」[62]渋沢 栄一 - 「
大久保 利通 公 は私 を嫌 ひで、私 は酷 く公 に嫌 はれたものであるが、私 も亦 、大久保 公 を不断 でも厭 な人 だと思 つて居 つたことは、前 にも申述 べて置 いた如 くである。然 し、仮令 、公 は私 に取 つて虫 の好 かぬ厭 な人 であつたにしろ公 の達識 であつたには驚 かざるを得 なかつた。私 は大久保 卿 の日常 を見 る毎 に、器 ならずとは、必 ずや公 の如 き人 を謂 ふものであらうと、感歎 の情 を禁 じ得 なかつたものである。大抵 の人 は、如何 に識見 が卓抜 であると評判 せらるゝほどでも、其 の心事 の大凡 は外 間 から窺ひ知 られるものであるが、大久保 卿 に至 つては、何処 辺 が卿 の真相 であるか、何 を胸底 に蔵 して居 られるのか、不肖 の私 なぞには到底 知 り得 らるゝもので無 く、底 が何 れぐらゐあるか全 く測 ることの能 きぬ底 の知 れない人 であつた。毫 も器 らしい処 が見 えず、外間 から人 をして容易 に窺ひ得 せしめなかつた非凡 の達識 を蔵 して居 られたものである。私 も之 には常 に驚 かされて『器 ならず』とは大久保 卿 の如 き人 のことだらうと思 つてたのである。底 が知 れぬだけに又 卿 に接 すると何 んだか気味 の悪 いやうな心情 を起 させぬでも無 かつた。之 が私 をして、何 となく卿 を『厭 やな人 だ』と感 ぜしめた一因 だらうとも思 ふ」[63] - 「
大体 から其平素 を謂 へば、大久保 卿 は江藤 さんや黒田 伯 とは異 つて、容姿 の閑雅 な、挙動 に落付 いた処 のあつた方 で、容易 に他人 と争 はれるやうな事 をせられなかつたものである。私 と争 つた場合 の事 に就て謂 へば、若 し大久保 卿 にいま一段 と大 きな性格 がありさへしたら、あの場合 にも私 などと争 はず、私 の言 ふ処 にも理 があるから、一 つその意見 を訊し詳細 を聞 いてやらうとの気 を起 され、私 と争 ふ如 き児戯 に類 する事 をせられなかつた筈 だと思 ふのである。ここが木戸 先生 と大久保 卿 との異 る処 である」[64] - 「
大久保 は、とかく財政 には関心 がなく各省 が欲 しがるままにその費用 を支給 しようという考 えで、自分 は一人 この間 にいて、とくに苦慮 し、尽力 もしました。大久保 は国家 の柱石 ともいわれる人 で、現 に大蔵省 の最高 権力 者 である。それなのに財政 の実務 に詳 しくないどころか、その根本 原理 さえわかってなかった」[65]
- 「
高島 鞆之助 「南 州 翁 を訪 うてその警咳に接 した時 には、心持 がさっぱりとして胸 が開 け、何 とも知 れず愉快 な心持 になる。去 って甲 東 と話 してみると、これはまた南 州 と正 反対 に何 とも知 れぬ厳粛 な心持 になる。そうして今 まで楽 しかった春 のような気分 も、忽 ち消失 せて寒 厳 骨 に徹 する冬 の思 いがする」[49]鮫島 武之 助 「森 有礼 さんが公使 として赴任 を命 ぜられた時 のことであった。築地 の自邸 に別離 の宴 が催 されて、当時 の顕官 達 が大抵 その席 に列 した。時刻 が近付 くと客 が追 々に集 まって来 て、話 が遊 びのことに及 び、お互 いに素 っ破抜 きだの皮肉 だのが出 て興 が漸 く熟 して来 た。そこへ大久保 さんが見 えて上座 に着 かれると、今 まで沸 き返 って居 た宴席 は忽 ちひっそりとして、如何 にも真面目 なしんみりとした別宴 となった。自分 はその頃 年少 でたまたま森 家 に居合 わせたが、この光景 を見 て、偉人 の威力 というものはかようなものかと深 く感激 した。その時 のことを想 い起 すと未 だに大久保 さんに対 する畏敬 の念 を新 しくせずには居 られぬ」[49]松田 秀彦 「当時 私 の妻 の兄 が霞ヶ関 の大久保 邸 門前 に住 んでいたので、私 は同家 に止宿 し大久保 の一挙一動 を探 った。そして彼 の顔 をよく知 っておく必要 から再度 訪問 もしたが、身丈 五 尺 五 寸 凄味 のある彼 であるが、私 には極 く親切 で何事 も話 してくれた。話 をそっちのけにして顔 ばかり見 つめていたので、あるとき『貴公 はどうして顔 ばかりみるんじゃ』と質問 されたこともあり、彼 の生活 は質素 なものであったと後世 伝 えられているが、銀 の火鉢 に金 の煙管 で煙草 を吹 かしており、しかも一 か月 の煙草 代 十 六 圓 であることを知 って憤慨 したものだ」[66]小野 梓 「大久保 ほど世人 に誤解 されてる人 はいない。世人 は凶賊 島田 一良 らと同 じように誤解 して、大久保 が専制 の治 を主張 したと思 っている。しかし、大久保 こそ真 に国家 の利益 を図 ったのであり、明治維新 の目的 を成就 したのである。それは、明治 十 一 年 に府県 会 を開設 し、人民 が参政 権 を得 る端緒 を開 いたことにあらわれている。いやしくも専制 の主義 によって政治 を行 うような下心 があるならば、府県 会 を開 くような自由 の制度 を実行 するはずがない。大久保 は、決 して専制 の政治 を永 く行 うことなどは欲 してはいなかった。ところが、とかく世人 に誤解 されて専制 主義 の政治 家 である、と言 われるようになったことは甚 だ惜 しいことである。大久保 を追懐 する一文 を掲 げたのは、彼 の冤を訴 えてその本意 を明 らかにするためである。大久保 が世人 に誤解 されているのは、国家 のために不利 であると思 うからである」[67]島田 一郎 「(紀尾井町 事件 の際 )甲 東 この急場 に臨 み、命 を助 けよと言 わずして、しばらく命 を貸 せという。その大胆 、実 に驚 くべし。我 れ大 人物 を殺 せしを悔ゆ」[68]
系譜 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Japanese_Crest_Kuroda_Fuji_tomoe.svg/100px-Japanese_Crest_Kuroda_Fuji_tomoe.svg.png)
大久保 氏 明確 ではないが藤原 氏 末流 を称 している。家紋 は左 三 つ藤 巴 。戦国 時代 末 に京都 から薩摩 に移 るというが、系図 は貞享 年間 に市来 郷 川上 (現在 の鹿児島 県 いちき串木野 市 )に中宿 (城下 に籍 を残 したまま他郷 へ移住 すること)した大久保 仲 兵衛 より始 まる。明治 11年 (1878年 )5月 23日 、明治天皇 の特旨 により、大久保 家 は木戸 孝允 の木戸 家 とともに華族 に列 した。勲功 のみによって華族 令 公布 以前 に華族 に列 したのは広沢 真 臣 の広沢 家 とこの2家 のみである。明治 17年 (1884年 )の華族 令 公布 時 には当主 大久保 利和 は侯爵 に叙 された。
家族 ・子孫 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/%C5%8Ckubo_Toshinaka_%26_Nao.jpg/220px-%C5%8Ckubo_Toshinaka_%26_Nao.jpg)
官位 及 び栄典 の履歴 [編集 ]
明治 元年 閏 4月 21日 (1868年 6月11日 ):従 四 位 (辞退 )明治 2年 6月2日 (1869年 7月 10日 ):従 三 位 、永世 賞 典 禄 1,800石 明治 10年 (1877年 )11月2日 :勲一等 旭日大綬章 明治 11年 (1878年 )5月15日 :贈 正 二 位 右大臣 明治 17年 (1884年 )7月 7日 :継嗣 利和 が侯爵 に叙爵 される。明治 34年 (1901年 )5月22日 :贈 従 一 位
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^
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寺島 成 信 『帝国 海運 政策 論 』巌 松 堂 書店 、1923年 、第 二 篇 「本邦 海運 政策 の沿革 」第 一 章 「海運 政策 の変遷 」第 一 期 「本邦 海運 の萌芽 発育 時代 (明治維新 より日 清 戦役 に至 る)」二 「本邦 海運 政策 の濫觴 」に、「八 年 五 月 大久保 内務 卿 の建議 」「八 年 九 月 三菱 に対 する政府 命令 書 と航海 補助 金 」「本邦 近代 的 海運 政策 の起原 」「三菱 と米 英 船 との競争 」の項 。 - ^
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植村 花 菜 のルーツは大久保 利通 !祖母 の故郷 で知 る”. スポニチAnnex. 2015年 3月 7日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2011年 3月 10日 閲覧 。
参考 文献 [編集 ]
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- 『
勝田 政治 『大久保 利通 と東 アジア国家 構想 と外交 戦略 』吉川弘文館 〈歴史 文化 ライブラリー〉、2016年 2月 。続編 - 『
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大久保 利通 文書 』全 10冊 本 史籍 協会 叢書 、1927年 -1929年 。東京大学 出版 会 、1983年 に復刻 。 - 『
大久保 利通 関係 文書 』全 5冊 立教大学 文学部 史 学科 日本 史 研究 室 編 吉川弘文館 、1965年 、復刻 マツノ書店 、2005-2008年 。 - 『
木戸 孝允 日記 』、全 三 冊 組 、新版 ・東京 大学 出版 会 、1985年 。復刻 版 2015年 勝田 孫 弥 『大久保 利通 伝 』同文 館 (上中 下 )、1910年 、1911年 、1921年 。勝田 孫 弥 『甲 東 逸話 』冨山 房 、1928年 。清沢 洌 『外政 家 としての大久保 利通 』中央公論社 、1942年 /中公 文庫 、1993年 /ちくま学芸 文庫 、2023年 - 『
大久保 利通 』佐々木 克 編 、講談社 学術 文庫 、2004年 。ISBN 978-4061596832。※関係 者 による大久保 の実像 を伝 える証言 集 。 牧野 伸 顕 『回顧 録 』新版 ・中公 文庫 (上下 )、改版 2018年 。※牧野 は大久保 の次男 。毛利 敏彦 『大久保 利通 維新 前夜 の群像 5』中公新書 、1974年 。佐々木 克 『大久保 利通 と明治維新 』吉川弘文館 〈歴史 文化 ライブラリー〉、1998年 。佐々木 克 『志士 と官僚 明治 を「創業 」した人 びと』講談社 学術 文庫 、2000年 。佐々木 克 『大久保 利通 ―明治維新 と志 の政治 家 』山川 出版 社 〈日本 史 リブレット人 072〉、2009年 。加来 耕三 『不敗 の宰相 大久保 利通 』講談社 +α 文庫 、1994年 。笠原 英彦 『大久保 利通 幕末 維新 の個性 3』吉川弘文館 、2005年 。落合 功 『大久保 利通 国権 の道 は経済 から』日本 経済 評論 社 〈評伝 日本 の経済 思想 〉、2008年 。- 『
大久保 家 秘蔵 写真 大久保 利通 とその一族 』、大久 保利 泰 監修 、国書刊行会 、2013年 。 徳富 蘇峰 『近世 日本 国民 史 明治 三 傑 』新版 ・講談社 学術 文庫 、1981年 。遠矢 浩規 『利通 暗殺 紀尾井町 事件 の基礎 的 研究 』行人 社 、1986年 。
関連 作品 [編集 ]
史論
現代 の小説 ・ドラマ・漫画 など
関連 項目 [編集 ]
外部 リンク[編集 ]
国立 国会図書館 憲政 資料 室 大久保 利通 関係 文書 (MF:黎明 館 ・国立 歴史 民俗 博物館 蔵 ほか)(左記 オリジナルURLの2012.12.9時 点 のアーカイブ)国立 国会図書館 憲政 資料 室 大久保 利通 関係 文書 (所蔵 )(左記 オリジナルURLの2013.2.4時 点 のアーカイブ)維新 名家 書簡 (MF:個人 蔵 ) |国立 国会図書館 (左記 オリジナルURLの2013.2.4時 点 のアーカイブ)大久保 利通 |近代 日本人 の肖像 - 「
大久保 利通 と惜松碑 の関係 」 - レファレンス協同 データベース 第 1章 幕末 ・維新 の人々 (2) | あの人 の直筆 -国立 国会図書館 - 『
大久保 利通 』 - コトバンク
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