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大久保おおくぼ利通としみち

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大久保おおくぼ 利通としみち
おおくぼ としみち
明治維新めいじいしん大久保おおくぼ
生年月日せいねんがっぴ 1830ねん9月26にち
文政ぶんせい13ねん8がつ10日とおか
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 薩摩さつまこく鹿児島かごしまぐん鹿児島かごしま城下じょうか高麗こうらいまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1878-05-14) 1878ねん5月14にち(47さいぼつ
死没しぼつ 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん 東京とうきょう麹町こうじまち紀尾井町きおいちょう
出身しゅっしんこう みやつこかん
ぜんしょく 武士ぶし薩摩さつま藩士はんし
称号しょうごう おく右大臣うだいじん
おくしたがえいち
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
配偶はいぐうしゃ 大久保おおくぼ満寿子ますこ
子女しじょ 大久保おおくぼ利和としかず長男ちょうなん
牧野まきのしんあきら次男じなん
大久おおひさ保利ほりたけし三男さんなん
親族しんぞく 大久おおひさ保利ほりたかし祖父そふ
大久保おおくぼとしちち
皆吉みなよしおおとりいさお祖父そふ
大久おおひさ保利ほりけん伯父おじ
牧野まきのしんどおりまご
大久おおひさ保利ほりけんまご
大久保おおくぼ利春としはるまご
吉田よしだ雪子ゆきこまご
吉田よしだ健一けんいち曾孫そうそん
大久保おおくぼ利晃としあき曾孫そうそん
寬仁かんじん親王しんのう信子のぶこ玄孫げんそん
牧野まきのつとむ玄孫げんそん
麻生あそう太郎たろう玄孫げんそん
武見たけみ敬三けいぞう玄孫げんそん
堀内ほりうち詔子しょうこらいまご
伊集院いじゅういん彦吉女婿じょせい

日本における郵船商船規則の旗 だい5だい 内務ないむきょう
在任ざいにん期間きかん 1874ねん11月28にち - 1878ねん5月15にち

日本における郵船商船規則の旗 だい3だい 内務ないむきょう
在任ざいにん期間きかん 1874ねん4がつ27にち - 1874ねん8がつ2にち

日本における郵船商船規則の旗 初代しょだい 内務ないむきょう
在任ざいにん期間きかん 1873ねん11月29にち - 1874ねん2がつ4にち

日本における郵船商船規則の旗 だい3だい 大蔵おおくらきょう
在任ざいにん期間きかん 1871ねん6月27にち - 1873ねん10月12にち
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大久保おおくぼ 利通としみち(おおくぼ としみち、文政ぶんせい13ねん8がつ10日とおか1830ねん9月26にち〉- 明治めいじ11ねん1878ねん5月14にち)は、日本にっぽん政治せいじ[1]武士ぶしきゅう薩摩さつま藩士はんし)。幼名ようみょうせい袈裟けさ通称つうしょうせいすけいちぞういみなずみ、のち利通としみちごうきのえひがし位階いかい勲等くんとうおくしたがえいち勲一等くんいっとう

明治維新めいじいしん元勲げんくんであり、西郷さいごう隆盛たかもり木戸きど孝允たかよしならんで「維新いしんさんすぐる」としょうされ、「維新いしんじゅうすぐる」の1人ひとりでもある。初代しょだい内務ないむきょうで、内閣ないかく制度せいど発足ほっそくまえ日本国にっぽんこく政府せいふ太政官だじょうかん)の実質じっしつてき事実じじつじょうはつ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん[2][3][4]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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文政ぶんせい13ねん8がつ10日とおか1830ねん9月26にち)、薩摩さつまこく鹿児島かごしまじょうした高麗こうらいまちげん鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま高麗こうらいまち)に、薩摩さつま藩士はんし大久保おおくぼとしぶくあいだ長男ちょうなんとしてまれる。幼名ようみょうせい袈裟けさ(しょうけさ)。家格かかく小姓こしょうあずかばれる下級かきゅう藩士はんしとされている。幼少ようしょう加治屋かじやまち下加治しもかじ町方まちかたげん移住いじゅう加治屋かじやまち郷中ごうなか藩校はんこうみやつこかん西郷さいごう隆盛たかもり税所さいしょあつし吉井よしい友実ともみ海江田かいえだ信義のぶよしらととも学問がくもんまな親友しんゆう同志どうしとなった。子供こどもころは、当時とうじ禁忌きんきとされていた桜島さくらじま火口かこういしとしたり、温泉おんせん滝水たきみず使つかった温度おんど調整ちょうせいをいじって温泉おんせんきゃくおどろかせたりと、悪戯いたずら小僧こぞうであった。武術ぶじゅつよわかったため得意とくいではなかったが、学問がくもん郷中ごうなかのなかではきんていた[5]

天保てんぽう15ねん1844ねん)に元服げんぷくし、せいすけ(しょうすけ)と名乗なのる。

幕末ばくまつ[編集へんしゅう]

ひろし3ねん1846ねん)よりはん記録きろくしょ書役かきやくすけとして出仕しゅっしよしみひさし3ねん1850ねん)のよし騒動そうどうちちとぎ喜界島きかいじま流罪るざい、それに連座れんざしてしょく罷免ひめんされ謹慎きんしん処分しょぶんとなり、まずしい生活せいかついられる。島津しまつ斉彬なりあきら藩主はんしゅとなると謹慎きんしんかれ、よしみひさし6ねん1853ねん)5がつ記録きろくしょ復職ふくしょくし、御蔵おぐらやくとなる。安政あんせい4ねん1857ねん10月1にち目付めつけとなる。同年どうねん11がつ西郷さいごう同伴どうはん熊本くまもとたっ長岡ながおかかんぶつ津田つださん三郎さぶろうらと時事じじだんずる[6]せいちゅうぐみ領袖りょうしゅうとして活動かつどうし、安政あんせい5ねん1858ねん)7がつ斉彬なりあきら死後しごは、11月に失脚しっきゃくした西郷さいごうわりぐみひきいる。同年どうねん12がつ西郷さいごうしょおく脱藩だっぱん義挙ぎきょいて意見いけん[7]安政あんせい6ねん1859ねん)11月、同志どうし40余人よにん脱藩だっぱん企画きかくする。しかし、しん藩主はんしゅ島津しまつ茂久しげひさから親書しんしょくだされおもまる。同月どうげつ藩主はんしゅ実父じっぷ島津しまつ久光ひさみつ時事じじ建言けんげんおこな[7]税所さいしょあつし助力じょりょく接近せっきんする。あつしあに吉祥院きっしょういん住職じゅうしょくじょうねがい久光ひさみつ囲碁いご相手あいてであったことから、じょうねがい経由けいゆ手紙てがみわたしたりもしている。万延まんえん元年がんねん1860ねん3月11にち久光ひさみつはじめて面会めんかいし、うるう3月、勘定かんじょうかた小頭こがしらかくとなる。文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)9がつ同志どうしはか親族しんぞく町田まちだ秘蔵ひぞうしていた楠木くすのき正成まさしげ木像もくぞうけて伊集院いじゅういん石谷いしがや社殿しゃでん造営ぞうえいする[8]同年どうねん10月23にち小納戸こなんどやく抜擢ばってきされ藩政はんせい参与さんよ10月7にちにはほりなか左衛門さえもん小納戸こなんどやく抜擢ばってき)し、家格かかくいちだいしんばんとなる[注釈ちゅうしゃく 1]

文久ぶんきゅう元年がんねん12月15にち1862ねん1がつ14にち)からどう2ねん(1862ねん)1がつ中旬ちゅうじゅんまでのあいだ久光ひさみつからいちぞう(いちぞう)のたまわる。元年がんねん12月28にち久光ひさみつ内命ないめいにより京都きょうとのぼ[8]

倒幕とうばく王政おうせい復古ふっこ[編集へんしゅう]

薩摩さつま藩士はんし時代じだい大久保おおくぼ明治めいじもと年頃としごろ

文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)、正月しょうがつよりひさこう擁立ようりつして京都きょうと政局せいきょくかかわり、公家くげ岩倉いわくら具視ともみらとともに公武こうぶ合体がったい路線ろせん指向しこうして、一橋ひとつばし慶喜よしのぶ将軍しょうぐん後見こうけんしょく福井ふくいはんおも松平まつだいら慶永よしなが政事せいじ総裁そうさいしょく就任しゅうにんなどをすすめた。同年どうねん正月しょうがつ14にちまえ左大臣さだいじん近衛このえただしひろしちゅうぼう父子ふしに謁して、久光ひさみつ上京じょうきょう国事こくじ周旋しゅうせんおこなうことを内々ないない上陳かみじんする。同年どうねん2がつ1にち近衛このえ父子ふししょたずさえてはんする。同月どうげつ12にち大久保おおくぼらの進言しんげんけて久光ひさみつ召喚しょうかんされた西郷さいごう奄美あまみ大島おおしまよりもどる。よく13にち小松こまつきよしれんやしきにおいて、西郷さいごうらと久光ひさみつ上京じょうきょうかんしてわせる。3月にはいり、西郷さいごう先発せんぱつして村田むらた新八しんぱちらとともに上京じょうきょう同月どうげつ16にち久光ひさみつせんにんえるへいひきいて公武こうぶ合体がったい運動うんどう推進すいしんのため上京じょうきょうく。大久保おおくぼはこれにしたがった。同月どうげつ30にちへい先駆さきがけて、下関しものせきより西郷さいごうのちって大久保おおくぼのみ急遽きゅうきょ東上とうじょうする。4がつ6にち西郷さいごうい、京都きょうと大阪おおさか形勢けいせいだんずる。同月どうげつ8にち播州ばんしゅう大蔵谷おおくらだににおいて久光ひさみつむかえる。同月どうげつ16にち久光ひさみつ入京にゅうきょうする。大久保おおくぼはこれに随行ずいこうよく17にち久光ひさみつ浪士ろうし鎮撫ちんぶ勅命ちょくめいける。同月どうげつ19にち大久保おおくぼ大阪おおさかおもむき、志士しし説得せっとくする。同月どうげつ23にち伏見ふしみにおいて寺田てらだ騒動そうどう勃発ぼっぱつ奈良原ならはらしげるらが有馬ありま新七しんしちらの義挙ぎきょめるも、これをれず。しんななら8めいられる。5月6にち大久保おおくぼは、正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい中山なかやま忠能ただやす岩倉いわくら具視ともみしょきょうに謁して、勅使ちょくし関東かんとう下向げこうさせることにかんしてけんさくする。同月どうげつ9にち久光ひさみつ勅使ちょくし大原おおはら重徳しげのりきょう随行ずいこうめいじられる[9]5がつ20日はつか小納戸こなんど頭取とうどり昇進しょうしんとなる。この昇進しょうしんにより、小松こまつきよしれん中山なかやま尚之なおゆきかいならんで久光ひさみつ側近そっきんとなる。同日どうじつ久光ひさみつ関東かんとうけて進発しんぱつする。大久保おおくぼはこれに随行ずいこうする。6月7にち江戸えど同月どうげつ26にち大久保おおくぼは、大原おおはら勅使ちょくしに謁したうえで、まくかく勅命ちょくめいほうじない場合ばあい決心けっしんするところがあることをげた。8がつ21にち久光ひさみつ江戸えど出発しゅっぱつ西上にしがみする。大久保おおくぼはこれに随行ずいこうする。この生麦なまむぎ事件じけんあり。よくうるう8がつ7にち京都きょうとく。同月どうげつ9にち久光ひさみつによる参内さんだい復命ふくめい大久保おおくぼはこれにしたがう。同月どうげつ23にち久光ひさみつはんのため京都きょうと出発しゅっぱつする。大久保おおくぼ随行ずいこう同月どうげつ30にち大久保おおくぼ御用ごよう取次とりつぎ見習みならいとなる[9]文久ぶんきゅう3ねん1863ねん2がつ10日とおかには、側役そばやく小納戸こなんど頭取とうどり兼務けんむ)に昇進しょうしんする[注釈ちゅうしゃく 2]慶応けいおう元年がんねん1865ねん)1がつ下旬げじゅんから5がつあいだ利通としみちあらためいみなする[注釈ちゅうしゃく 3]

慶応けいおう2ねん1866ねん)、だい長州ちょうしゅう征討せいとう反対はんたいし、薩摩さつまはん出兵しゅっぺい拒否きょひおこなっている。慶応けいおう3ねん1867ねん)、雄藩ゆうはん会議かいぎ開催かいさい小松こまつ西郷さいごう計画けいかくし、よんこう会議かいぎ開催かいさいさせる。しかしよんこう会議かいぎ慶喜よしのぶによって頓挫とんざさせられたため、いままでの公武こうぶ合体がったい路線ろせんあらためて武力ぶりょく倒幕とうばく路線ろせん指向しこうすることとなる。

小松こまつ西郷さいごうとともにおおやけ政体せいたいである土佐とさはん後藤ごとう象二しょうじろう寺村てらむら道成みちなり真辺まなべただしこころ栄三郎えいさぶろう)、福岡ふくおか孝弟こうてい浪人ろうにん坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろうとのあいだ将軍しょうぐんしょく廃止はいししん政府せいふ樹立じゅりつとうかんする薩土盟約めいやく三本木さんぼんぎ料亭りょうていにてむすぶも、思惑おもわくちがいから短期間たんきかん破棄はき

武力ぶりょくによるしん政府せいふ樹立じゅりつ目指めざ大久保おおくぼ西郷さいごう小松こまつは8がつ14にち長州ちょうしゅうはんかしわむら数馬かずま武力ぶりょく政変せいへん計画けいかくけ、それをに9月8にち京都きょうとにおいて薩摩さつまはん大久保おおくぼ西郷さいごう長州ちょうしゅうはん広沢ひろさわしんしん品川しながわ弥二郎やじろう広島ひろしまはんつじ維岳かい出兵しゅっぺい協定きょうていであるさんはん盟約めいやくむすんだ。なお、このさんはん盟約めいやくしょ草案そうあん大久保おおくぼ自筆じひつによってかれたもので、現在げんざいのこっている。

10月14にち正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあいから倒幕とうばく密勅みっちょく詔書しょうしょした(ただしこの密勅みっちょくには偽造ぎぞうせつもある)大久保おおくぼは、小松こまつ西郷さいごうらと詔書しょうしょ請書うけしょ署名しょめいし、倒幕とうばく実行じっこう直前ちょくぜんまでむことに成功せいこうした。しかし、翌日よくじつ土佐とさはん建白けんぱくけていた将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんたしたため、岩倉いわくら倒幕とうばく公家くげとともに、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい計画けいかくして実行じっこうする。王政おうせい復古ふっこのち参与さんよ任命にんめいされ、しょう御所ごしょ会議かいぎにて慶喜よしのぶかん納地のうち主張しゅちょうした。

明治維新めいじいしん[編集へんしゅう]

明治めいじ4ねん12月から翌年よくねん1がつごろサンフランシスコ
右側みぎがわ大久保おおくぼ左側ひだりがわさかいけん知事ちじ時代じだい税所さいしょあつしおもわれる。大久保おおくぼ日記にっき明治めいじよんねんがつろくにちじょう)に「今日きょう税所さいしょ同行どうこう写真しゃしんしょとうこうまいり」とある。大久保おおくぼ洋装ようそうで、かたなしている。
だい礼服れいふく軍刀ぐんとうけた大久保おおくぼ利通としみち
1922ねんジョン・ガビンズ日本にっぽん研究けんきゅう書籍しょせき維新いしん第一人者だいいちにんしゃとして紹介しょうかいされた。

慶応けいおう4ねん1868ねん1がつ23にち太政官だじょうかんにて大阪おおさかへの遷都せんと主張しゅちょうする。

明治めいじ2ねん7がつ22にち1869ねん8がつ29にち)に参議さんぎ就任しゅうにんし、版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけんなどの明治めいじ政府せいふ中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつおこなう。

明治めいじ4ねん1871ねん)には大蔵おおくらきょう就任しゅうにんし、岩倉いわくら使節しせつだん副使ふくしとして外遊がいゆうする。

明治めいじ6ねん1873ねん)に帰国きこく外遊がいゆうちゅう留守るす政府せいふ問題もんだいになっていた朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいめぐせいかんろん論争ろんそうでは、西郷さいごう隆盛たかもり板垣いたがき退助たいすけせいかん対立たいりつし、明治めいじろくねん政変せいへんにて西郷さいごうらを失脚しっきゃくさせた。同年どうねん内務省ないむしょう設置せっちし、みずか初代しょだい内務ないむきょう参議さんぎ兼任けんにん)として実権じっけんにぎると、学制がくせい地租ちそ改正かいせい徴兵ちょうへいれいなどを実施じっしした。そして「富国強兵ふこくきょうへい」をスローガンとして、殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく推進すいしんした。

明治めいじ7ねん1874ねん)2がつ佐賀さがらん勃発ぼっぱつすると、ただちにみずか鎮台ちんだいへいひきいて遠征えんせい鎮圧ちんあつしている。首謀しゅぼうしゃ江藤えとう新平しんぺいら13にんを、ほうによらない裁判さいばん処刑しょけいした。さらに江藤えとう梟首きょうしゅしただけでなく、くび写真しゃしん撮影さつえいして、全国ぜんこく県庁けんちょうさらしゃにした。しかし問題もんだいにはされなかった。

また4がつ台湾たいわん出兵しゅっぺいおこなわれると、戦後せんご処理しょりのために全権ぜんけん弁理べんり大臣だいじんとして9月14にちきよしわたった。交渉こうしょうすえに、10月31にちきよし台湾たいわん出兵しゅっぺい義挙ぎきょみとめ、50まんりょう償金しょうきん支払しはらうことをさだめたにちしん両国りょうこくあいだ互換ごかんじょう款・互換ごかん憑単に調印ちょういんする。また出兵しゅっぺい経験けいけんから、明治めいじ8ねん1875ねん)5がつ太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ海運かいうん政策せいさく樹立じゅりつかんする意見いけんしょ提出ていしゅつした[注釈ちゅうしゃく 4]

台湾たいわん出兵しゅっぺいのあいだの1873ねん明治めいじ6ねん)10がつ9にち当時とうじ日本にっぽん紙幣しへいである明治めいじ通宝つうほう印刷いんさつ業者ぎょうしゃであり、オリエンタル・バンク東洋とうよう銀行ぎんこう)の取引とりひきさきであったドンドルフ・ナウマンがロンドン駐在ちゅうざい外交がいこうかん経営けいえいなんうったえて原版げんばんなど印刷いんさつ設備せつび日本にっぽん売却ばいきゃくしたいともう、ロンドン本店ほんてんから横浜よこはま支店してん設備せつびだい支払しはらい請求せいきゅうしょ送付そうふされたとき、大久保おおくぼ利通としみち吉田よしだ清成きよなりは、横浜よこはま支店してんから大蔵省おおくらしょう送付そうふされるその支払しはらい請求せいきゅうしょに、支払しはらいをもとめる2人ふたり書簡しょかんえさせている。

大久保おおくぼ目標もくひょうとしていた国家こっかプロイセンドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれる[14]当時とうじ大久保おおくぼへの権力けんりょく集中しゅうちゅうは「有司ゆうし専制せんせい」として批判ひはんされた。また、現在げんざいいたるまでの日本にっぽん官僚かんりょう機構きこう基礎きそは、内務省ないむしょう設置せっちした大久保おおくぼによってきずかれたともいわれている。

明治めいじ10ねん1877ねん)には、西南せいなん戦争せんそう京都きょうとにて政府せいふぐん指揮しきした。またみずか総裁そうさいとなり、上野公園うえのこうえん8がつ21にちから11月30にちまで、だい1かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい開催かいさいしている。

そのさむらいからの要請ようせいかたちみずからが宮内卿くないきょう就任しゅうにんすることで明治めいじ政府せいふ天皇てんのう一体化いったいかおこな構想こうそういていた。

暗殺あんさつ[編集へんしゅう]

大久保おおくぼはか青山あおやま霊園れいえん

明治めいじ11ねん1878ねん5月14にち馬車ばしゃ皇居こうきょかっていた。大久保おおくぼはそのとき西郷さいごう隆盛たかもり生前せいぜんころ手紙てがみんでいたとされている。その途中とちゅう紀尾井きおいざか付近ふきん清水谷しみずだに東京とうきょう千代田ちよだ紀尾井町きおいちょう)にて6にん不平ふへい士族しぞく殺害さつがいされた(紀尾井町きおいちょう事件じけん[15]享年きょうねん49〈かぞどし〉、まん47さいぼつ墓所はかしょ東京とうきょうみなと青山あおやま霊園れいえんにある。この事件じけん紀尾井町きおいちょう清水谷しみずだにきたにもかかわらず「紀尾井きおいざかへん」とばれている。

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

大久保おおくぼ銅像どうぞう鹿児島かごしま

仕事しごとぶり[編集へんしゅう]

  • 金銭きんせんには潔白けっぱく私財しざいたくわえることをせず、それどころか必要ひつようだが予算よさんのつかなかった公共こうきょう事業じぎょうには私財しざいとうじてまでおこない、くに借金しゃっきん個人こじんめていた。そのために死後しご財産ざいさん現金げんきん140えんたいして8,000えんもの借金しゃっきんのこり、所有しょゆう財産ざいさんすべ抵当ていとうはいっていたが[16]大久保おおくぼこころざしっていた債権さいけんしゃたちは借財しゃくざい返済へんさい遺族いぞくもとめなかった。政府せいふ協議きょうぎ結果けっか大久保おおくぼ生前せいぜん鹿児島かごしま県庁けんちょう学校がっこうとして寄付きふした8,000えん回収かいしゅうし、さらに8,000えん募金ぼきんあつめてこの1まん6,000えん遺族いぞくやしなうことにした。
  • 「わしのくに薩摩さつま)のものは政治せいじにはやくちません、せんにはいいが」とかたり、出身しゅっしんはんかかわらず能力のうりょくたかもの登用とうようした。伊地知いじちさだかおるのようにこれまで親交しんこうむすんでいたものであっても、不正ふせい琉球りゅうきゅうから賄賂わいろった)があきらかになった場合ばあい容赦ようしゃなくて、公正こうせい無私むしあつかった[17]
  • 寡黙かもく圧倒あっとうする威厳いげんち、冷静れいせい理論りろんでもあったため、めんかって大久保おおくぼ意見いけんできるひとすくなかった。「ひと半次郎はんじろう」の異名いみょう桐野きりの利秋としあき中村なかむら半次郎はんじろう大久保おおくぼたいしてまともにはなしができず、だいさけんでぱらったうえ意見いけんしようとしても大久保おおくぼ一瞥いちべつされただけで気迫きはくまれていた。
  • 大久保おおくぼ部下ぶかだった河瀬かわせ秀治しゅうじは、大久保おおくぼぼつ内務省ないむしょう後任こうにん内務ないむきょう伊藤いとう博文ひろぶみ部屋へや西郷さいごう従道つぐみち中井なかいひろしさかんにゆうべの宴会えんかいはなしをしたり、ようもないのに中居なかい出入でいりするようになるなどのれいげ、「すべてが奢侈しゃしなが堕落だらくした」となげいている。
  • 今日きょうでいう風光ふうこう関係かんけい問題もんだいにも関心かんしんがあった。明治めいじ6ねん(1873ねん)に五代ごだいともあつし浜寺公園はまでらこうえん案内あんないされた大久保おおくぼは、さかい県令けんれい税所さいしょあつし園内えんないまつ伐採ばっさいして住宅じゅうたくとして開発かいはつしようとするのをり、「おと高師たかしはまのはままつのあだは のがれざりけり」と反対はんたいするうたんだ[注釈ちゅうしゃく 5]税所さいしょはこのうた開発かいはつ計画けいかく撤回てっかいした。なお、浜寺公園はまでらこうえんくち付近ふきんにこのときんだうたが、「惜松(せきしょうひ)」として顕彰けんしょうされている。

技能ぎのう[編集へんしゅう]

たたみまわすという技能ぎのうっていた[18]薩長さっちょうとの会合かいごうさい長州ちょうしゅう代表だいひょう主催しゅさいしゃ周布すふ政之助まさのすけこころよおもっていなかったほり小太郎こたろう(伊地知いじちさだかおる)が言葉ことばじりをらえ、あざけった。空気くうき非常ひじょうおもくなったが、さらにほり周布すふあざけつづけた。おこった周布すふは「げいせる」と抜刀ばっとうおどはじめた。ほりることをさっした、長州ちょうしゅうはん藩士はんしほりとのあいだはい抜刀ばっとうしておどめようとし、空気くうき緊張きんちょうかんがましたそのとき大久保おおくぼたたみいちまいひっぺがえし、たたみまわすというげいせた。これで空気くうき弛緩しかんし、ことなきをた。これはのちの幕末ばくまつおおとりもんかいばれている。[よう出典しゅってん]

嗜好しこう[編集へんしゅう]

  • 家庭かていないでは子煩悩こぼんのうやさしい父親ちちおやだったという。出勤しゅっきんまえのわずか10ふんか15ぶんあいだを、唯一ゆいいつむすめである芳子よしこげていつくしんだ。また大久保おおくぼ馬車ばしゃ自宅じたくかえってくると、三男さんなん大久おおひさ保利ほりたけしどもたちがあらそって、玄関げんかん出迎でむかくつがせようとして、いきおいあまってうしろにころがるのをわらってよろこんでいた。平生へいぜい公務こうむいそがしく、家族かぞく夕食ゆうしょくることもままならなかったが、土曜日どようびみずからのいもうとたちもんで家族かぞく夕食ゆうしょくるようにしていた。大久保おおくぼはこの土曜日どようび家族かぞくとの夕食ゆうしょく無上むじょうたのしみにしていたという。
  • 趣味しゅみ囲碁いごきの島津しまつ久光ひさみつ接近せっきんするためにまなんだといわれるが、それ以前いぜんよしみひさし元年がんねん1848ねん)の日記にっきさんばんってけたとの記述きじゅつもある。また囲碁いごかんしてはけずぎらいで、けたときは露骨ろこつ機嫌きげんわるくすることもあった。
    • 大隈おおくま重信しげのぶ
      • 「(かんしては)岩倉いわくら大久保おおくぼ両人りょうにんともなかなか上手じょうずであった。どちらかとうと大久保おおくぼほうすこ上手じょうずであった。ところが大久保おおくぼは、はげやすひとであったので、岩倉いわくらはその呼吸こきゅうってるから、対局たいきょくちゅうつね大久保おおくぼおこらせてちをった」[19]
      • 道楽どうらくすくないおとこで、一番いちばん大好だいすきであった。何処どこくにもおこうおんな碁打ごうちさんだん)をれてあるいた。我輩わがはいたくなどへあそびにるにも、さきづおだかさきあんない寄越よこすとふうである。大久保おおくぼけるといやかおをするけれども、けっしてそのでははらてない。併しかえると家人かじん書生しょせいあたらしたそうだ。ナンでもけてかえると、玄関げんかんから足音あしおとちがったという評判ひょうばんであった」[20]
    • 本因坊ほんいんぼう秀栄しゅうえい大久保おおくぼこうめずらしいしなであって、永年えいねんあいだ相手あいてとなったが、いち手許てもとみだれたことはなかった」
    • 伊藤いとう博文ひろぶみおおやけ一番いちばんきなのはじゃ。余程よほどきでのうくやってった。もチョイチョイあるが、詩人しじんとしては成功せいこうしないほうだが、自分じぶんこころざしうだけのことは出来できた」[21]
    • 牧野まきのしんあきらちち非常ひじょうきだった。あまりきなので、からだざわりはしないかと心配しんぱいするものがあり、ある松方まつかたさんが同志どうし代表だいひょうして出掛でかけてき、ちち注意ちゅういすると、『わたしとどめろとうのですか。わたし出来できなければんでしまいます』とちちこたえたので、勿論もちろん冗談じょうだんではあったが、なれてはこまるというので、めさせる計画けいかく沙汰止さたやみになった。ちち翌日よくじつがあるので夜更よふかしはしなかったが、すこしでもひまがあるとっていた。気分きぶん転換てんかん意味いみもあったとおもう」[22]
  • ヘビースモーカーで、濃厚のうこう指宿いぶすき煙草たばこ日本にっぽんはじめて栽培さいばいされたたばこ)を愛用あいようし、子供こどもたち朝晩あさばんパイプ掃除そうじしなければすぐにまりするほどだった。また、ちょうようよるようのパイプをそれぞれけて使つかっていた(そうしなければならないほど、年中ねんじゅう煙草たばこっていた)。
  • ちゃ京都きょうと宇治うじ玉露ぎょくろれたものをこのんだ。
  • 漬物つけものきで、なに種類しゅるいならんでいないと機嫌きげんわるかったという。
  • 写真しゃしんきらいだった西郷さいごう隆盛たかもりとは対照たいしょうてきに、これをこのんだためおおくの肖像しょうぞう写真しゃしんのこっている。
  • あおいガラスせい洗面せんめん器具きぐ使つかい、家庭かていないにおいても洋間ようま滞在たいざいしながら洋服ようふく着用ちゃくようし、当時とうじとしては非常ひじょう洋風ようふう生活せいかつをしていた。また頭髪とうはつポマードでセットしていた。
  • 頭頂とうちょうおおきな禿かぶろがあり、それをかみかくしていたため、早朝そうちょう邸宅ていたく訪問ほうもんしてもかみをセットするまで応対おうたいあらわれなかったという。
    • 大隈おおくま重信しげのぶ如何いかいうものかあたまいただきはや禿げた。ぼうやかなひげくろ々とかれとおりの謹直きんちょくひといかめしくえたが、かなしいことには肝腎かんじんあたまなかい。そこで苦心くしんしてひげのあたりからはこんでかくしてた。大久保おおくぼなか洒落しゃれで、身体しんたい修飾しゅうしょくをやったて、すこぶる勉強べんきょう毎朝まいあさはち時半じはんごろからとうしょうしてことるというひとであったが、そのまえにこのようなことですくなからず時間じかんついやしたものだ」[23]
  • 明治めいじ8ねん(1875ねん)から1ねんかけて、こうじまちさんねんまちきゅう丹羽にわ左京さきょう大夫たいふやしきおよきゅう佐野さの日向ひゅうがまもるやしきあと)にしろ木造もくぞう洋館ようかんてた(建築けんちく費用ひよう恩賜おんしかね盟友めいゆう税所さいしょあつしからの借金しゃっきんまかなったとされる。のちにこのやしきベルギー公使館こうしかんとなった)。当時とうじ個人こじんいえとしてはめずらしい洋館ようかんであったが、かねをかけたものではなかった。また、これとはべつ高輪たかなわじゅん和風わふう別邸べってい所有しょゆうしていた。

士族しぞく反乱はんらん最期さいご[編集へんしゅう]

遭難そうなん近隣きんりん清水谷しみずだに公園こうえん哀悼あいとう
  • せいかんろん対立たいりつした江藤えとう新平しんぺい確執かくしつがあり、佐賀さがらん江藤えとう裁判さいばんにかけられたさいには日記にっきに「江東こうとう(ママ)陳述ちんじゅつ曖昧あいまいじつ笑止千万しょうしせんばん人物じんぶつおしラレタリ」、死罪しざい判決はんけつさいには「江東こうとう(ママ)醜体しゅうたい笑止しょうしなり、今日きょう都合つごうよくだい安心あんしん」と意図いとてき名字みょうじえ、江藤えとうへの罵倒ばとうともとれる言葉ことばしるしている[24]。このことから「江藤えとう死罪しざいにした裁判さいばんちょう河野こうのさとしがま大久保おおくぼから1,000えん買収ばいしゅうされた」[25]上京じょうきょうしていた江藤えとうおとうと江藤えとうはじめさく江藤えとう亡霊ぼうれいたかのようにおどろいた」[26]など当時とうじから現在げんざいいたるまで様々さまざま風説ふうせつしている。なお、大久保おおくぼ江藤えとう才能さいのうみとめつつも、その強引ごういんゆえ政府せいふ反乱はんらんこして死亡しぼうしたようはたしょうたとえている[27]
  • はぎらん一報いっぽう千坂ちさか高雅こうがからけると、大久保おおくぼは「これ(電報でんぽう)を伊藤いとう博文ひろぶみ参議さんぎところっていって、どうか木戸きど孝允たかよし)さんへおわたくださいとってくれ」とおくした。意味いみがわからぬまませんざかっていくと伊藤いとうなみだながしたためやくくと、(はぎらん首謀しゅぼうしゃである)前原まえはら一誠いっせい木戸きど伊藤いとう参議さんぎ推挙すいきょしたが、前原まえはらについてききおよぶところがあった大久保おおくぼ難渋なんじゅうしめしたところ、木戸きど天下てんか志士ししうたがったとして立腹りっぷくしたという経緯けいいがあり、木戸きど面子めんつてようとする大久保おおくぼ配慮はいりょであった[28]
  • 西南せいなん戦争せんそうときには、伊藤いとう博文ひろぶみたいして「朝廷ちょうてい不幸ふこうこうと、ひそかに心中しんちゅうのにはわらいをしょうこうぐらいにこれありこう」と鹿児島かごしま暴徒ぼうと一掃いっそうできるとし、また西郷さいごうについては、これではわたし学校がっこうとう同意どういせず「無名むめい軽挙けいきょ」をやらかさないだろうとおくっている(明治めいじ10ねん2がつ7にちづけ書簡しょかん)。一方いっぽうで、「あのおとこのことだから進退しんたい去就きょしゅうにはこまっているだろう」として、勅使ちょくしてて明治天皇めいじてんのう意向いこうつたえて挙兵きょへいふせごうとし、その意向いこうけて西郷さいごう縁戚えんせき川村かわむらじゅんよし会見かいけんこころみたが、実現じつげんしなかった。周囲しゅういものたち西郷さいごうらんくみするにちがいないとつたえても、大久保おおくぼ最後さいごまで西郷さいごう不参加ふさんかしんじてうたがわなかったが、西郷さいごう反乱はんらんぐんひきいて鹿児島かごしま出立しゅったつしたという確報かくほう証拠しょうこきつけられ、「そうであったか」とってなみだながした[29]大久保おおくぼ西郷さいごう会談かいだんしたいと鹿児島かごしまへの派遣はけん希望きぼうしたが、大久保おおくぼころされることを危惧きぐした伊藤いとう博文ひろぶみらに朝議ちょうぎ反対はんたいされたため、希望きぼうかなわなかった。
  • 西郷さいごう死亡しぼうしらせをくと号泣ごうきゅうし、時々ときどき鴨居かもいあたまをぶつけながらもいえなかをグルグルあるまわっていた(このさい、「おはんのともに、あたらしか日本にっぽんまれる。きょう日本にっぽんが……」とつぶやいた[30])。西南せいなん戦争せんそう終了しゅうりょうに「自分じぶんほど西郷さいごうっているものはいない」とって、西郷さいごう伝記でんき執筆しっぴつ重野しげの安繹やすつぐたのんだりもしていた[31]。また暗殺あんさつされたときには、生前せいぜん西郷さいごうからおくられた手紙てがみっていたとされる[32]
  • 明治めいじ11ねん(1878ねん)に暗殺あんさつされるあさ福島ふくしまけんれい山吉やまよし盛典せいてんたいし、「ようやく戦乱せんらんおさまって平和へいわになった。よって維新いしん精神せいしん貫徹かんてつすることにするが、それには30ねん時期じきる。それをかりさん分割ぶんかつすると、明治めいじ元年がんねんから10ねんまでのだいいち戦乱せんらんおお創業そうぎょう時期じきであった。明治めいじ11ねんから20ねんまでのだいうちととのえ、みんさんおこすなわ建設けんせつ時期じきで、わたしはこのときまで内務ないむしょくくしたい。明治めいじ21ねんから30ねんまでのだいさん後進こうしん賢者けんじゃゆずり、発展はってん時期じきだ」と将来しょうらい構想こうそうかたった[33]
大久保おおくぼ神社じんじゃ郡山こおりやま安積あさかまち
  • 大久保おおくぼ利通としみち水神すいじんとしてまつる「大久保おおくぼ神社じんじゃ」が、福島ふくしまけん郡山こおりやまにあり、地元じもと人々ひとびとによって「大久保おおくぼさまみずまつり」が毎年まいとし9がつ1にち執行しっこうされている[34]
  • 地元じもと鹿児島かごしまではながらく「西郷さいごうどんのてき」とされていた。彫刻ちょうこく中村なかむらすすむ制作せいさくした銅像どうぞうてられたのは、徐々じょじょさい評価ひょうかたかまってもいた昭和しょうわ54ねん(1979ねん)の西南せいなん戦争せんそうひゃく周年しゅうねん機会きかいであった。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

1872ねん2がつワシントンDCにて撮影さつえい大蔵おおくらきょう時代じだい
  • 西郷さいごう隆盛たかもり
    • 「もしいち家屋かおくたとえふれば、われは築造ちくぞうすることにおいて、はるかかぶとひがし大久保おおくぼ)にまさってることをしんずる。しかし、すでこれ建築けんちくおわりて、造作ぞうさくほどこ室内しつない装飾そうしょく一家いっかかんを備ふるまでに整備せいびすることにおいては、じつかぶとひがし天稟てんぴんあって、とうしゃ雪隠せっちん便所べんじょ)のすみ修理しゅうりするもなおらないのである。しかしまた一度いちどこれ破壊はかいすることにいたってはかぶとひがしも乃公(おれ)におよばない」[35]
    • 大久保おおくぼ畏友いゆうじつ手駒てごまである。わかことすることあらば、わってつべきは大久保おおくぼである」
  • 長州ちょうしゅうばつ総帥そうすいである木戸きど孝允たかよしとは、維新いしん政治せいじてき対立たいりつすることがおおかったが、公人こうじんとしてはたがいにみとっていた。木戸きど大久保おおくぼおおくの不快ふかいちながらも、政治せいじとしての大久保おおくぼについては「大久保おおくぼ先生せんせい人物じんぶつにはごう間然かんぜんするところこれ敬服けいふくつかまつりこう」と評価ひょうかし、大久保おおくぼ参議さんぎ辞任じにんした木戸きど慰留いりゅうなんつとめるなど、政治せいじてき同僚どうりょうとしての木戸きどつよ必要ひつようとした。
  • 松平まつだいらはるだけ大久保おおくぼ利通としみちは、古今ここん未曾有みぞう英雄えいゆうもうすべし。もち凛々りんりんしもごとく、徳望とくぼう自然しぜんに備へたり。力量りきりょういたっては、世界せかいだいいちならん。大久保おおくぼをかくのごとくしょうさんするは、他人たにんしょうさんとはたがえへり。ささえ談判だんぱん江藤えとう討伐とうばつおおやけ事業じぎょう種々しゅじゅあれども、ところ維新いしん也。(中略ちゅうりゃく日本にっぽん全国ぜんこく人心じんしん鎮定ちんていして、その方向ほうこうていむ。みな大久保おおくぼ一人ひとり全国ぜんこく維持いじするにり、維新いしん功業こうぎょう大久保おおくぼもっだいいちとするゆえなり。御一新ごいっしん功労こうろうに、智勇ちゆうじんあり。智勇ちゆう大久保おおくぼ智仁ともひと木戸きどいさむ西郷さいごう也。此のさんにんなくんば、如何いか三条さんじょう岩倉いわくらせいしんあるも貫徹かんてつせざるべし。大久保おおくぼ豪傑ごうけつなれども、どこまで朝廷ちょうていを輔賛するのこころありて、たおれてむの気象きしょう也。ところにては大久保おおくぼ木戸きど西郷さいごう廣澤ひろさわ、このよんにんなくんば御一新ごいっしん出来できまじ」[36]
  • かつ海舟かいしゅう情実じょうじつあいだって、ものの見事みごとにやりのけるのは、そうさなアー大久保おおくぼだろうよ。大久保おおくぼのほかにはあるまいよ。だがね、大久保おおくぼというおとこはあんまり功名こうみょういそ欠点けってんがあるから、折々おりおりやりそこないがあったけれど、あのおとこのようにおもった果断かだんんだものはマアーめずらしいだよ。それだから情実じょうじつ相撲取すもうとりをするいまなかには、ああいうおとこ是非ぜひとも入用にゅうようださ」[37]
  • 大隈おおくま重信しげのぶ大久保おおくぼを「維新いしん時代じだい唯一ゆいいつだい政事せいじ」とひょうし、意思いし堅固けんご冷静れいせい決断けつだんりょくんでいるてんげている。さらにおなじく維新いしんさんすぐる一人ひとり木戸きど孝允たかよしとともに「維新いしん時代じだいだい英傑えいけつ」とひょうしている(大隈おおくま西郷さいごう評価ひょうかしていなかった)。
    • 大久保おおくぼ辛抱強しんぼうづよひとで、喜怒哀楽きどあいらく顔色かおいろげんはさない。寡言かげん沈黙ちんもくつね他人たにんせついてる、『よろしかろふ』とったら最後さいごかなら断行だんこうする。けっして変更へんこうしない、ひゃくなんはいしても遂行すいこうするとうんふのが特色とくしょくであった。(中略ちゅうりゃく大久保おおくぼ一見いっけん陰湿いんしつほうで、たけ骨無ほねなし意気いきふうであった」[20] 
    • かれ頭脳ずのう明晰めいせきで、その判断はんだんかつ正鵠せいこくをあやまらなかったのは、畢竟ひっきょうこの沈着ちんちゃく態度たいどうしなわなかったところにもとづいている。ある場合ばあいには、かれ性格せいかく如何いかにも頑固がんこえて、はなは才略さいりゃくとぼしいようにられたが、これ畢竟ひっきょうきわめて強固きょうこなる意志いしちから執着しゅうちゃくりょくはなは猛烈もうれつなるものありしことと、赫々かくかくたる政治せいじてき熱心ねっしんえず活動かつどうしていた結果けっかである。假令たといかれたいする反対はんたいこえが、四方しほうっても、かれごうおそれず、さわがず、うらまず、けっして愚痴ぐちこぼさなかったのである。(中略ちゅうりゃくけっしてかれ機敏きびんひとではなかった。併しまったみずからを恃むじんであって、常人じょうじん狐疑こぎ逡巡しゅんじゅんしてあいだに、どしどし断行だんこうしてったのであるから、その仕事しごとには非常ひじょう成績せいせきあがった。もとよりかれは、意思いしひとであって、感情かんじょうひとではなかった。そのややかなることは、てつごとくであって、ごうあたたかみのないひとのようにえた。ある場合ばあいには、はなはだしく保守ほしゅてき思想しそうあらわすことがあったが、さりとて頑冥がんめい保守党ほしゅとう因循いんじゅんではなかった。たとえば、学者がくしゃせついても容易ようい同意どういしない、黙考もっこう再考さいこうさんこうするというふうで、沈思ちんし黙考もっこう結果けっかいと確信かくしんしたならば、かれ猛然もうぜんすすんでごう余力よりょくのこさないという遣方やりかたであったから、かれ進行しんこうぜんみちふさがりものは、ほとんかった」
    • 大久保おおくぼ意思いし代表だいひょうてき人物じんぶつであり、木戸きど感情かんじょう代表だいひょうてき人物じんぶつである。木戸きどは頴敏で磊落らいらく才子さいしほうで、大久保おおくぼけんごう君子人くんしじんである」
    • にこやぶつを、チャンと衣紋えもんつくろい、丁寧ていねいよごれたものなどはひとつもけず、ひげにも丹念たんねんくしれ、あぶらもちいて一本いっぽん々々くせなおし、かたちつくる。ひげさばかたにも注意ちゅういするあとえたのは大久保おおくぼだった。わるえば派手はでだったね。かれ謹厳きんげんひとにしてはとおもわれるほどに」[38]
    • ことかれ偉大いだいであったひとつは、かれが斯の藩閥はんばつてき関係かんけいもって、てたるにもかかわらず、殆んど藩閥はんばつてき偏見へんけん超脱ちょうだつしていたてんである。如何いかにもどうはんものおお採用さいようしたことはあるが、これれとて其間に偏見へんけんのあったわけではごうもない。このだい見識けんしきかれ人物じんぶつうえに就て、もっとふか注意ちゅういすべきてんである」
    • 大久保おおくぼこうは、沈着ちんちゃく喜怒きどしょくあらわれない。らぬひとちかづくのうはず、ひとも狎るるをずというふうで、木戸きどこうはリベラル、大久保おおくぼこうはコンサバチーブ、りょうおおやけ相俟あいまって大政たいせい維新いしん成就じょうじゅし、維新いしん難局なんきょく処理しょりして、開国かいこく進取しんしゅもとひらかれた」[39]
おう需進ときひつ開明かいめい貴族きぞくひょう」、大判おおばんさんまいぞく錦絵にしきえなか)。左下ひだりしたに、したがえさん大久保おおくぼこうとある。
かえりまこと松山まつやまひつ西海にしうみようなみ起原きげん」、大判おおばんさんまいぞく錦絵にしきえ手前てまえみぎから番目ばんめに、大久保おおくぼ利通としみちえがかれている。
きのえひがしごうもちいての七言しちごん絶句ぜっく。「奉勅ほうちょくたんこうこう北京ぺきん くろけむりうずたかうらなみぎょう 和成かずなりゆるがせ下通しもとおりしゅうすい 閑臥篷窓ゆめたいら」とあり、台湾たいわん出兵しゅっぺい講話こうわ成立せいりつしたとき心境しんきょうかたっている。
  • 伊藤いとう博文ひろぶみ
    • おおやけ事績じせきを、一言ひとことにして掩へば、危難きなんさい局面きょくめん維持いじするちから非常ひじょうつよい、という一句いっくつくされるとおもう。木戸きどこう才識さいしきどもすぐれたひとで、どちらかといえば、寛仁かんじん大度たいど、識力のひろひとといってよかろう。大久保おおくぼこうほう沈毅ちんきで、忍耐にんたいりょくつよひとで、容易ようい進退しんたいするということをしなかった。木戸きどこうは識のたかいだけに、識によって物事ものごと判断はんだんしてこうというひとだから、忍耐にんたいりょくほうではおのずから大久保おおくぼこういちゆずっていた。そのわり識力のほうでは、大久保おおくぼこう木戸きどこう一目いちもくいた。両雄りょうゆう取組とりくみは、こんな具合ぐあいのものだった。岩倉いわくら木戸きど大久保おおくぼ三公みつきみはとにかく度量どりょうといい、胆力たんりょくといい、時流じりゅう卓絶たくぜつしたてんといい、はるかに儕輩さいはいいていた。先輩せんぱいとしてところではかれさんにんおよぶものは一人ひとりもない」[40]
    • 大久保おおくぼさんの威厳いげん一種いっしゅ天稟てんぴんであった。兎角とかく人間にんげん威厳いげん傲岸ごうがん偏狭へんきょうをともなうものであるが、大久保おおくぼさんはまったちがっていて、まことめずらしい度量どりょう広大こうだいなるほうで、しかも公平こうへい無私むしで、だれでもひとおもんずるかぜがある、非常ひじょうひろおおきな人物じんぶつであった」
    • 大久保おおくぼさんは、まこと度量どりょうのひろいおおきなほうであった。かの西郷さいごうごときは、まこと竹馬たけうまともとして幼少ようしょうのときからしたしい間柄あいだがらであったにもかかわらず、我輩わがはいなどにたいしてはなされるときでもつねに、ろう西郷さいごうろう西郷さいごうといわれ、また先代せんだい木戸きどこうたいしては、木戸きど先生せんせい鄭重ていちょう尊称そんしょうしておられた。これはたん表面ひょうめんじょうばかりでなく、殊更ことさらにつくられた態度たいどでもなく、実際じっさい心中しんちゅうの敬意けいいあらわせられ、推称すいしょうしておられたようにおもわれる。それに、平生へいぜいだれ系統けいとうとか、なにはんじんとかの区別くべつもうけず、何人なんにんたいしてもすべきは心中しんちゅうのからこれをし、もちいるべきは心中しんちゅうのからけいしてもちいておられた。それゆえ大久保おおくぼさんにはみんなしんからふくし、よろこんでちからいたしたのである。ゆえに天下てんかこころざしあるものは、おお大久保おおくぼさんの知遇ちぐうんことをほっしたのも、けっして偶然ぐうぜんではない。それで、明治めいじとなって以来いらい大久保おおくぼさんほどに国家こっか難局なんきょく処理しょりし、また事業じぎょうおお遂行すいこうされたほうは、維新いしんしょ先輩せんぱいちゅうほか類例るいれいないのである」
    • 「わがくに憲法けんぽう制定せいてい歴史れきしちゅう、(板垣いたがきが)民選みんせん議員ぎいん建白けんぱく尽力じんりょくされたことはよろしいが、しかし大久保おおくぼさんが極端きょくたんなる専制せんせい主義しゅぎひとで、さかんに圧制あっせい政治せいじおこない、立憲りっけん政治せいじのことなどは、すこしもその念頭ねんとうになかったようにべてあるが、これは全然ぜんぜん間違まちがったはなしである。(中略ちゅうりゃく大久保おおくぼさんはながらく政府せいふ枢軸すうじくち、国政こくせいじょう盤根錯節ばんこんさくせつ一身いっしんけてひらかれたために、民間みんかん政客せいかくてきおおく、誤解ごかいおおかったが、おおよそ大久保おおくぼさんほど誤解ごかいされたひとすくないのである」
    • 世間せけんには大久保おおくぼこうして圧政あっせいのようにおもものもあるようだが、それははなはだしい間違まちがいである。大久保おおくぼこうはやくより立憲政体りっけんせいたい主唱しゅしょうされた有力ゆうりょく一人ひとりである」
    • おおやけなか思慮しりょもあり、決断けつだんもあり、けいゆるがせことさないとう、所謂いわゆるちょうするところちから余程よほどってられた。難事なんじこれば率先そっせんしてみずかたるのひとであった」[41]
    • 「(佐賀さがらん台湾たいわん事件じけんとうおおやけみずかうてその難局なんきょくにんたられた。こういう大事だいじときたっては、何時いつ危険きけんけず、みずかふるってそのきょくとうぜられた。れはじつおおやけ一種いっしゅじんことなってったところ特性とくせいである」[41]
  • 山縣やまがた有朋ありとも大久保おおくぼひとは薩人のなかにても一種いっしゅ特別とくべつなる性格せいかくあり。わば当時とうじ文明ぶんめいりゅう政治せいじなり。ゆえややもすれば薩人ちゅうには大久保おおくぼして、かれ驕奢きょうしゃながじたるものなりとか、金殿玉楼きんでんぎょくろうつくれりとかうてそしこわするものあり。大久保おおくぼところきてはちゃひとまぬとようなるかたむきありし。げんいま侯爵こうしゃく大山おおやまなどもその一人ひとりなりき。うるにせいかんろん以来いらいわかれ、一方いっぽう西郷さいごうぞくしてくだり、一方いっぽう大久保おおくぼぞくしてあさまることとなりしより、みずか政府せいふこと大久保おおくぼ一身いっしん責任せきにんい、西郷さいごう大久保おおくぼ確執かくしつせしとはなかるべしと雖も、すべ反対はんたいしゃより怨を受くるようにりたるなり」[42]
  • 板垣いたがき退助たいすけ
    • 鹿児島かごしまひとには当時とうじあって、武人ぶじん西郷さいごうし、文官ぶんかん人々ひとびと大久保おおくぼぞくしていた。かように文武ぶんぶ両派りょうはかれて、その文人ぶんじんがわ開明かいめい状態じょうたいであるかというと、案外あんがい鹿児島かごしまはそうではない。大久保おおくぼなどの思想しそう余程よほどふるほうであったのである」[43]
    • 大久保おおくぼ先入せんにゅうぬしとなって、じつつよしじょうである。しかしこの強固きょうこなところが、またかれ長所ちょうしょでもあった」[44]
  • 鳥尾とりお小弥太こやた大久保おおくぼ理想りそうおもして維新いしん大成たいせいり。木戸きど眼光がんこう宇内うだい列国れっこくそそぎ、外海そとめふせぐをおもとしたりしと雖も、大久保おおくぼもっぱ維新いしん当初とうしょこころざしもとづき、内政ないせいととのえ、くにいしずえて、もっ尊王そんのうごう大成たいせいせんとするの精神せいしんなりき」[42]
  • 山本やまもと権兵衛ごんべえ西郷さいごうさんのところにいくといつもよろこばれて、『自分じぶん落語らくごでないからはなしきたければ物事ものごとたずねてくれ』というふうで、有益ゆうえきなる談話だんわどきのうつるをおぼえず、あたかも春風しゅんぷうれるよう長閑のどか気持きもちになり、してもんるときは、だれ心中しんちゅうのうにわれぬ愉快ゆかいかんじたものである。しかるに、大久保おおくぼさんのまえるとこれと反対はんたいで、いかにもこわかおをしておられた。言葉ことばすくなく、ただその威厳いげんにうたれて、このほうからいたいこともわれず、ちいさくなってかえるので、人気にんき自然しぜん西郷さいごうさんのほうあつまった。我輩わがはい西郷さいごうとうであったのである」
  • 伊東いとう祐亨すけゆきいままでに大久保おおくぼさんほど厳格げんかくな、几帳面きちょうめんな、そしてこわひと出会であったことがない」[45]
  • 松方まつかた正義まさよし
    • じつはて決断けつだんぎょうひとであったが、しかしおこるときはつねよりもこえひくく、落着おちついてものい、すこぶ沈着ちんちゃく態度たいどられた。そこで、西郷さいごうさんも大久保おおくぼこえひくくしてかたすときには、用心ようじんものだとわれたことがある」
    • 非常ひじょうなる精力せいりょくであって、あれほどの位置いちにあるひとであるから、すわっていて部下ぶか駆使くしして万事ばんじおもんばかされたようにおもわれるが、けっして左様さようではなく、なに事件じけんがあると自分じぶん手紙てがみき、自分じぶんかけて活動かつどうされた。じつ機敏きびんなるものであった」
  • 後藤ごとう象二しょうじろう従来じゅうらい議論ぎろんにおいてはおおじんゆずらぬ自信じしんがあった。ただ大久保おおくぼというひとむかっては、まこと議論ぎろんつかまつわるこまったひとであるとおもうて閉口へいこうしていた。大久保おおくぼわきまえせつ滔々とうとうとしてさわやかなひとではなかったが、しかし一度いちど大久保おおくぼ議論ぎろん上下じょうげするときは、まる岩石がんせきにでもぶつかるような心地ここちがして、じつにこのひとだけは、議論ぎろんのしにくいひとであった」[46]
  • 佐々木ささき高行たかゆきかれ椅子いすもたれ、端然たんぜんとして事務じむる。同僚どうりょうあるいは外国がいこく公使こうしこころみに大久保おおくぼ壓服あっぷくせんとほっして、そのしつはいるや、かれ『なんですか』と中音ちゅうおんにてう。きたりしものはその威儀いぎたれて贅語ぜいごはっすることのうはず、要談ようだんりょうりてそうそうるなり。その官房かんぼう煙草たばこぼん清潔せいけつなりしは、ひとちょうだんせざりし証拠しょうこなり」[42]
  • 西園寺さいおんじ公望きんもち大久保おおくぼなか々悧巧なおとこで、政治せいじきのこと全然ぜんぜん伊藤いとうまかせてなにうか斯うかりしてったが、大久保おおくぼ世帯せたいふうざいがあったとってもよろしい。またごく低級ていきゅうかたりえばズルかった。かれにもズルい智慧ちえはあった」[47]
  • 副島そえじま種臣たねおみ
    • きも泰山たいざんごとく、りょう大洋たいようく、識見しきけん高邁こうまい才幹さいかん古今ここんたやしてる。まこと前代未聞ぜんだいみもん豪傑ごうけつである」
    • おおやけちょうずるところは、つとめて大体だいたい総覧そうらんするにあり。民心みんしん収拾しゅうしゅうするにあり。苛察ならざるにあり。賢良けんりょうおやづけ、よいしょうにくむにあり。毅然きぜん不抜ふばつ確乎かっこ篤信とくしん気象きしょうあれども、ことはなはだ執拗しつようせず。執拗しつようせざるがゆえに、とき流通りゅうつうして、けんたかうしなわず。西郷さいごうも、所長しょちょうおおけれども、執拗しつようさんだけは、このおおやけゆずられしなり。ももとよりこのおおやけはじるなり。このおおやけちょうずるところは、区々くくたるいち事業じぎょうにあらざるなり」[48]
  • 千坂ちさか高雅こうが
    • 大久保おおくぼきょう内務省ないむしょう登庁とうちょうしその靴音くつおと廊下ろうかひびくと職員しょくいんたちは私語しごめ、それまでざわついていた庁舎ちょうしゃないみずったようにしずまりかえった」
    • 大久保おおくぼもちたかかったことは、じつ前代未聞ぜんだいみもんといってよかった。われわれが内務省ないむしょうると、きょうられるかなどたずねる必要ひつようすこしもない。きょうれば廰内がひっそり閑としてみずったようであるから、ぐにそれとわかった」[49]
  • 福地ふくち源一郎げんいちろう大久保おおくぼこう渾身こんしんこれ政治せいじなり。およ政治せいじ資格しかくとして必要ひつようなる冷血れいけつを、多量たりょうにそのみゃくかんにたたえたる。いまおおやけごときをざるなり。おおやけ顔色かおいろのぞみ、風采ふうさいあおぐごとに、あたか北洋ほくよう氷塊ひょうかいに逢ふがごとおもいをなしたれば、このことを藍田あいだ三郎さぶろう小松こまつひとしきみげたるに、諸氏しょしもまたおなおもいをなすものなりといえり。その平常へいじょう沈黙ちんもくにして言語げんご挙動きょどう慎重しんちょうにし、容易よういには笑顔えがおわれらにせられたることなかりき。ゆえおおやけもちいられ、おおやけ咫尺しせきせることほとんいちねんはんちょうきにわたるれるにかかわらず、よくおおやけ性情せいじょう洞察どうさつすることあたわず。たまたま伊藤いとうはく物語ものがたりってこれを推知すいちするにまりたるなり。つや稟のそうことなる、おおやけつね冷眼れいがんせられ、もまたえてつとめておおやけもとめんとはせず、ちょうぞくあいだにありながら、宛然えんぜん疎遠そえんじょうにてそのおくりたり。(中略ちゅうりゃくおおやけ政治せいじとしては最上さいじょう冷血れいけつたるにず、個人こじんとしては懇切こんせつなるゆたかんでおられたことがわかるのである」
  • 前島まえじまひそか 「よくひとにもはかり、ひとげんれたひとで、一事いちじ裁断さいだんするにもねんにはねんれる流儀りゅうぎだったが、ただ裁決さいけつした以上いじょうは、もう何事なにごとこってもまようの、躊躇ちゅうちょするのということはなかった」[50]
  • 牧野まきのしんあきら
    • ちちはこういう相談そうだんにはあたまから反対はんたいしたり、いけないとってめたりはせず、あまり賛成さんせいしないときは、ただもっとよくかんがえてみたらよかろうとうのがつねであった」[51]
    • わたし子供こどもしんだい西郷さいごう大久保おおくぼからけた印象いんしょうえば、このひとたちは普通ふつうひとたちよりもいちけたじょう人間にんげんであるというかんじがした。わたしえらいとおもった周囲しゅういひとたちでさえこの両人りょうにん特別とくべつあつかいするのをたためもあろうか、とにかくけられる気分きぶんがした。からだおおきかった。そして西郷さいごうなりをかまわないひとで、ご承知しょうちのような薩摩さつま飛白がすり筒袖つつそで平気へいきだったが、それでも船宿ふなやどなどにときにはになったとえて、わたしちち衣服いふくえた。大久保おおくぼたかく、西郷さいごうふとっていたのでったのだろう」[52]
  • はやしただし
    • 大久保おおくぼ明治めいじ年間ねんかんにおける唯一ゆいいつだい宰相さいしょうであったとおもう。社稷しゃしょくしん宰相さいしょううつわとして其右にづるしゃはない。(中略ちゅうりゃく事務じむなどをもっ大久保おおくぼろんじては大変たいへん間違まちがえだ。裁決さいけつりゅうるるがごとしとかなにとかいうのは、ヤリしゅとか才子さいしとかいうもので、畢竟ひっきょうそれはかたなひつの吏である。大久保おおくぼはそんなものを超越ちょうえつしておる。あれはただそのひとそのもの国家こっか柱石ちゅうせきであったのだ」[53]
    • いち建議けんぎあんしょ参議さんぎあいだ全部ぜんぶ賛成さんせいてから大久保おおくぼしょると、その場合ばあい大久保おおくぼがもう一遍いっぺんよくおかんがえになったらいいでしょうとったら、そのあんはもうつぶれてしまったことにされた。(中略ちゅうりゃく)よくかんがえたらいいでしょうの一言ひとこともっしょ参議さんぎ賛成さんせいあんもたちどころにつぶれたじゅうは、ようするに、あのひと至誠しせいこくくすのこころおのれむなしくしてくにのためにした、あの人格じんかくちからである。だから、あのひとのいたあいだ天下てんかはピリッともしなかった」[54]
  • 高橋たかはし新吉しんきち大久保おおくぼこう部下ぶかたいしては大変たいへん親切しんせつひとでした。親切しんせつ大変たいへんよく世話せわもされたが、しかしけっして礼譲れいじょううとそかにされなかった。わたしどもをぶのでもけっしててにはせず、また高橋たかはしくんとさえもわれなかった。何時いつも、『高橋たかはしさん、あなたが』とふうものりで、わたしどもがおこなって辞儀じぎをしても、先方せんぽうはやはり丁寧ていねいあたまげて、たたみさんすんばかりのところまでうつむいて辞儀じぎされる。かえとき玄関げんかんまでおくってて、シッカリと辞儀じぎをされた。このてんだい西郷さいごうがよくていた」[55]
  • 久米くめ邦武くにたけ 「なにしろ大久保おおくぼさんは無口むくちひとで、(洋行ようこうちゅうの)汽車きしゃなかでも終始しゅうし煙草たばこばかりかしていた。(中略ちゅうりゃく大久保おおくぼさんの煙草たばこのみは非常ひじょうなもので、大久保おおくぼさんが汽車きしゃにおると、そとからをあけて這入はいいったときけむり濛々もうもうとしているくらいだった。(中略ちゅうりゃく大久保おおくぼさんのわらりはどこかしたしげな微笑びしょうかぶのみで、そう愛想あいそわらいをするのでもなく、ただなんとなくけたわらかたで、おそろしいなかにもしんから信頼しんらいのできるおやたいするような気持きもちがされた」[56]
  • 佐藤さとうすすむおおやけ風貌ふうぼう諸君しょくん談話だんわにもくされてあるごとく、眼光がんこう炯々けいけいとしてするどかがやき、ほおより頤にかけて漆黒しっこくなるひげきびしくしだれ、一見いっけんじんをしておぼえずその権威けんい畏敬いけいねんいだかしめ、しかのみならず寡言かげん沈黙ちんもくいやしくもくちひらかざるため、えばますますその権威けんいくわわり、悪口わるぐちをするとなおなお窮屈きゅうくつ畏怖いふすのであった」[57]
  • 速水はやみけん士族しぞく授産じゅさんはつまらぬとったら、大久保おおくぼこうわたしをギロリとにらんで『すでにみことのりた』とただ一言ひとこといわれた。ピシリとあたまこたえて、わたしだまってかえったが、イヤもうおそろしい威厳いげんで、わたし生涯しょうがいあんなこわいことはなかった」[58]
  • 石井いしい省一しょういちろう大久保おおくぼこうこんすこなが朝廷ちょうていってられたらば、なか今日きょうごときものではなかったであろう。おおやけごときはまこと国家こっか棟梁とうりょうしんであった」
  • 武井たけい守正もりまさ大久保おおくぼさんはいまかついちたりとも『これこまった』とったことがないとて有名ゆうめいはなしになっていた」
  • 安場やすばたもつ
    • おどろいたのは、欧米おうべいじゅんまわり旅行りょこうによっておおやけ人品じんぴん変化へんかしていたことであった。従前じゅうぜんは、ただごう沈毅ちんき気象きしょうのみにんだひとであったが、めぐまわりはそれに洒落しゃれかぜまじえ、うるにその識見しきけんおおいに増進ぞうしんせるをかんじたのである。はつまった政治せいじ大體だいたいのみにしんかたむけて、あま些細ささいことには留意りゅういされないひとであったが、帰朝きちょうは、わが帝國ていこくをして宇内うだい萬邦ばんぽう対峙たいじせしめんには、かなら富国ふこく基礎きそ強固きょうこならしめなければならないとかたられ、施政しせい方針ほうしんは、もっぱ教育きょういく殖産しょくさん工業こうぎょう貿易ぼうえき航海こうかいとう事業じぎょうにあってとうさかんに奨励しょうれいせられたのであった」
    • 大久保おおくぼさんにせっしてその端厳たんげん威容いようと、そのよくひとげん傾聴けいちょうしてあぐまなかった熱心ねっしんさとをると、まるで大久保おおくぼさんがにんるようであった。一人ひとり大久保おおくぼさんは威儀いぎ端然たんぜんたる大久保おおくぼさんで、一人ひとり大久保おおくぼさんは謙遜けんそんで、敬虔けいけんで、よくひとごとみみかたむける大久保おおくぼさん。わたしはこの二人ふたり大久保おおくぼさんをた」[49]
  • 河瀬かわせ秀治しゅうじ
    • おおやけ部下ぶか使つかわるるに、よく其心をひと腹中ふくちゅうにおいて其力を信認しんにんされ、部下ぶかれるだけのことをらせるというふうであった。(中略ちゅうりゃく)『各部かくぶ専任せんにんしゃは、けっしてわたし一己いっこ使つかわれるとか、薩長さっちょう使つかわれるとかおもわずに、国家こっか役人やくにんである、国家こっか事務じむてのひらるというつもりで自任じにんしてやってもらわなければならない。且またこまかいこと自分じぶん不得手ふえてである、事務じむほうは、万事ばんじ諸君しょくん一任いちにんするからちからつくしてづかってもらいたい。其かわり、責任せきにん我輩わがはい引受ひきうけてやる。顧慮こりょせずにつかってもらいたい』とわれた。(中略ちゅうりゃくことおおやけ敬服けいふくすべきは、ひとまかしておいてうごかなかったことである」
    • 大久保おおくぼこう内務ないむきょう時代じだいには、内務ないむきょうしつは、神聖しんせいなものと做されていた。何時いつってもシーンとしたもので、大久保おおくぼこうところなにひと議論ぎろんでもしようとしかけてものがあっても、内務ないむきょうしつはいると、議論ぎろんはじめるどころかちぢのぼってかえってるというふうであった。きょうしつには粛然しゅくぜんとしてこえかった。仕事しごとうえことでもただだまっていてられた。自分じぶんでも議論ぎろんはされず、うかがしょがあるとけていて、『ヨシ』とってポツンと印形いんぎょうして、だまってかえしてよこすというふうであった」
    • 大久保おおくぼこうはそういう厳格げんかくひとではあったが、しかしひとしかるというようなことはけっしてされなかった。わたしはたった一度いちどしかられたことがある。おそらく、あれくらいはげしくしかられたものは、わたしいちにんであろうとおもう。(中略ちゅうりゃく一旦いったんやりかけたことを、詮索せんさく結果けっかのちになって変更へんこうするようなことは、ひどくきらいであった」
  • 金原かなはら明善あきよし 「(天竜川てんりゅうがわの)治水ちすい問題もんだいで、伊藤いとう内務ないむきょう時代じだいさんヶ月かげつついやし、大久保おおくぼ内務ないむきょうときには僅にいちにちにておもんばかだんされた。たとひ時代じだい推移すいいはあるにせよ、その人物じんぶつ等差とうさかくりがあるものである」
  • 渡辺わたなべのぼる木戸きどこうが(地方ちほうかん会議かいぎの)議長ぎちょうせきき、議場ぎじょう整理せいりにんあたられたけれども徹底てっていしなかった。そこへ大久保おおくぼこうはいって議長ぎちょう外側そとがわ着席ちゃくせきされると、満場まんじょうみずったように静粛せいしゅくとなり、議論ぎろんこのみ議員ぎいんたちも、るべく発言はつげん遠慮えんりょし、こと寡言かげん大久保おおくぼこう簡単かんたん説明せつめいでもされようものなら、からぬでもわかったようなかおをして引下ひきさげったものであった。木戸きどこう粛清しゅくせいかぜがあれば、大久保おおくぼこうにはたしか雄大ゆうだいおもむきがあった。大久保おおくぼこうをして明治めいじじゅうさんねんまで長命ちょうめいせしめ、帝国ていこく議会ぎかいのぞましめたならば、堂々どうどうたるいちこくだい宰相さいしょうとして政府せいふさんひゃくあたま顱、おそらく正面しょうめんよりたたかものなかったであろう」
  • 渡辺わたなべ国武くにたけ
    • 沈毅ちんき果断かだんひとで、天稟てんぴんにより国家こっか大臣だいじんたる資格しかくそなえてられたというてよろしい。多弁たべんでもなければこと軽々かるがるしく決断けつだんもされなかった。また大久保おおくぼさんは随分ずいぶん信義しんぎおもんぜられた。そのいちだくにはじつ千金せんきんがあった」
    • 大久保おおくぼさんの在世ざいせいちゅうは、執拗しつよう偏見へんけんだとか、専断せんだん専制せんせいだとか、随分ずいぶん天下でんか怨府えんぷとなってられた」[35]
  • 多田ただぼう内閣ないかく吏員りいん) 「大久保おおくぼきわめて寡言かげんのひとなり。しかれども始終しじゅうもくするにもあらず。普通ふつうこと役所やくしょにてもよくわらいしあり。しかして公務こうむにつきてはおおくちひらかず、もだしてひとところたり。明治めいじはちねんよりひらきたる地本じもとかん会議かいぎにおいて、府知事ふちじ県令けんれいはいずれも当時とうじ豪傑ごうけつにして、容易ようい屈服くっぷくするのにんあらず。しかるに大久保おおくぼ内務ないむきょうまえにおいては、議場ぎじょう粛然しゅくぜんあたかもみずちたるごとく、そのげんはただいのちこれしたがうのじょうなりき。沈黙ちんもくなるかわりにいちたびけたることひゃく礙をのぞき、万難ばんなんはいして遂行すいこうするのがいあり。よって地方ちほうかんみな大久保おおくぼしんき、いちだく千金せんきんよりおもしとは大久保おおくぼことをいうなりと感歎かんたんするものありき」
  • 河島かわしまあつし世人せじんややもすればかぶとひがし謹厳きんげんにして沈黙ちんもくなるがために、青年せいねん書生しょせいごときは軽視けいしして引見いんけんすることが尠かったようにかんがえる。しかしかぶとひがしけっしてそんなひとではなかった。青年せいねんやからあいたずさえて其邸にいたきょううことがあれば、熱心ねっしん親切しんせつとをもっ諄々じゅんじゅんとして誨へみちびくのをつねとせられた」
  • 高島たかしま嘉右衛門かえもんわたしった人物じんぶつなか大久保おおくぼさんほどこわひとはない。大久保おおくぼさんがひとたいして言葉ことばみっつあった。それは『よろしい』、『いけませぬ』、『かんがえときましょう』というさんである」[59]
  • 本因坊ほんいんぼう秀栄しゅうえい当時とうじけん赫々かくかくたる廟堂びょうどう大黒柱だいこくばしらでありながら、すこしも辺幅へんぷくかざらぬ純真じゅんしん無垢むくな、なつかしみのふか御方おかたで、まことに居心地いごこちかった。だからわたし物質ぶっしつてきにはあまりめぐまれなかったけれども、おおやけやしきから使つかいるか、来状らいじょうがありますと、なにいても、いさんで参上さんじょういたしました。ときにはいえしたがえからなん挨拶あいさつもないこともあり、またこのつぎ一緒いっしょにというような申訳もうしわけもありましたが、そこがわたしもっと感激かんげきしたところでありました。あれほど身分みぶんでありながら、内帑ないどはそんなにたされてないのであろうかとおもいやりますと、荘厳しょうごん崇高すうこうなるおおやけ人格じんかく神々こうごうしさが、キラキラと眼前がんぜんかがやいて、そぞろにあたまがるをきんませんでした。あんな純真じゅんしん無垢むくな。そして恬澹てんたん寡欲かよくだい宰相さいしょうがまたとにあるでしょうか」[60]
  • 中江なかえ兆民ちょうみん
    • 大久保おおくぼは凡派の豪傑ごうけつである。日本にっぽん法律ほうりつ経済けいざい道徳どうとく今日きょう方針ほうしんあたえたのが大久保おおくぼである。大久保おおくぼでなくとも日本にっぽん欧化おうか事業じぎょう可能かのうであったろうが、かれがいたためにこの事業じぎょう堅固けんご成就じょうじゅされ、障碍しょうがいにあわずに今日きょうごとくに成就じょうじゅされたのである。士族しぞく反乱はんらんとくに西南せいなん戦争せんそうさいし、大久保おおくぼのような剛毅ごうきなる態度たいどをとらなかったならば、欧化おうか事業じぎょうだい頓挫とんざをきたし、文明ぶんめい潮流ちょうりゅう一時いちじかきみだされたであろう。大久保おおくぼ屹然きつぜんたる態度たいど激流げきりゅうのなかでもどうじないはしらのようである」[61]
    • おおやけ一見いっけんして、志望しぼうれられ、はつ一念いちねん貫徹かんてつすることをたが、おおやけがよく青年せいねんあいし、そのげんかれたことは感服かんぷくこたえない」[45]
  • 西村にしむら捨三すてぞう大久保おおくぼこう従容しょうよう端然たんぜんだいともあつしとうと、日々ひびかこみたり。木戸きどこう来訪らいほうのときは、かなら上座かみざに招して、玄関げんかんまで見送みおくりせられたれど、そのひだりなかりし。また日々ひび文書ぶんしょは、細大さいだいめくらしるしするということなし。こと軽重けいちょう甲乙こうおつわかち、観覧かんらん便びんはかりたれど、丁寧ていねい検閲けんえつせらるること、平時へいじかわるなし。假令たとい法制ほうせいのことは、伊藤いとうこうはかり、経済けいざいのことは大隈おおくまこうい、大事だいじわれこれけっすというごとく、大臣だいじん態度たいどそなえたり。公正こうせい剛毅ごうきもうぶんなきだい宰相さいしょうなりき」[62]
  • 渋沢しぶさわ栄一えいいち
    • 大久保おおくぼ利通としみちおおやけわたしいやひで、わたしひどおおやけいやはれたものであるが、わたしまた大久保おおくぼこう不断ふだんでもいやひとだとおもえつてつたことは、まえにも申述もうしのべていたごとくである。しかし、仮令たといおおやけわたしつてちゅうかぬいやひとであつたにしろおおやけ達識たっしきであつたにはおどろかざるをなかつた。わたし大久保おおくぼきょう日常にちじょうごとに、うつわならずとは、かならずやおおやけごとひといいふものであらうと、感歎かんたんじょうきんなかつたものである。大抵たいていひとは、如何いか識見しきけん卓抜たくばつであると評判ひょうばんせらるゝほどでも、心事しんじ大凡おおよそそとあいだから窺ひられるものであるが、大久保おおくぼきょういたりつては、何処どこあたりきょう真相しんそうであるか、なに胸底きょうていぞうしてられるのか、不肖ふしょうわたしなぞには到底とうていとくらるゝものでく、そこいずれぐらゐあるかまったはかることののうきぬそこれないひとであつた。ごううつわらしいしょえず、外間ほかまからひとをして容易よういに窺ひとくせしめなかつた非凡ひぼん達識たっしきぞうしてられたものである。わたしこれにはつねおどろかされて『うつわならず』とは大久保おおくぼきょうごとひとのことだらうとおもえつてたのである。そこれぬだけにまたきょうせっするとなにんだか気味きみわるいやうな心情しんじょうおこさせぬでもかつた。これわたしをして、なんとなくきょうを『いややなひとだ』とかんぜしめた一因いちいんだらうともおもふ」[63]
    • 大体だいたいから其平素へいそいいへば、大久保おおくぼきょう江藤えとうさん黒田くろだはくとはつて、容姿ようし閑雅かんがな、挙動きょどうに落いたところのあつたほうで、容易ようい他人たにんそうはれるやうなことをせられなかつたものである。わたしそうつた場合ばあいことに就ていいへば、大久保おおくぼきょうにいま一段いちだんおおきな性格せいかくがありさへしたら、あの場合ばあいにもわたしなどとそうはず、わたしげんしょにもがあるから、ひとつその意見いけんを訊し詳細しょうさいいてやらうとのおこされ、わたしそうごと児戯じぎるいすることをせられなかつたはずだとおもふのである。ここが木戸きど先生せんせい大久保おおくぼきょうとのことなしょである」[64]
    • 大久保おおくぼは、とかく財政ざいせいには関心かんしんがなく各省かくしょうしがるままにその費用ひよう支給しきゅうしようというかんがえで、自分じぶん一人ひとりこのあいだにいて、とくに苦慮くりょし、尽力じんりょくもしました。大久保おおくぼ国家こっか柱石ちゅうせきともいわれるひとで、げん大蔵省おおくらしょう最高さいこう権力けんりょくしゃである。それなのに財政ざいせい実務じつむくわしくないどころか、その根本こんぽん原理げんりさえわかってなかった」[65]
  • 高島たかしま鞆之すけみなみしゅうおきなうてその警咳にせっしたときには、心持こころもちがさっぱりとしてむねけ、なんともれず愉快ゆかい心持こころもちになる。ってかぶとひがしはなしてみると、これはまたみなみしゅうせい反対はんたいなんともれぬ厳粛げんしゅく心持こころもちになる。そうしていままでたのしかったはるのような気分きぶんも、たちま消失きえうせせてかんげんこつてっするふゆおもいがする」[49]
  • 鮫島さめしま武之たけゆきすけもり有礼ありのりさんが公使こうしとして赴任ふにんめいぜられたときのことであった。築地つきじ自邸じてい別離べつりうたげもよおされて、当時とうじ顕官けんかんたち大抵たいていそのせきれつした。時刻じこく近付ちかづくときゃくおい々にあつまってて、はなしあそびのことにおよび、おたがいに破抜ぱぬきだの皮肉ひにくだのがきょうようやじゅくしてた。そこへ大久保おおくぼさんがえて上座かみざかれると、いままでかえって宴席えんせきたちまちひっそりとして、如何いかにも真面目まじめなしんみりとした別宴べつえんとなった。自分じぶんはそのころ年少ねんしょうでたまたまもり居合いあわせたが、この光景こうけいて、偉人いじん威力いりょくというものはかようなものかとふか感激かんげきした。そのときのことをおもおこすといまだに大久保おおくぼさんにたいする畏敬いけいねんあたらしくせずにはられぬ」[49]
  • 松田まつだ秀彦ひでひこ当時とうじわたしつまあに霞ヶ関かすみがせき大久保おおくぼてい門前もんぜんんでいたので、わたし同家どうけ止宿ししゅく大久保おおくぼ一挙一動いっきょいちどうさぐった。そしてかれかおをよくっておく必要ひつようから再度さいど訪問ほうもんもしたが、身丈みたけしゃくすん凄味すごみのあるかれであるが、わたしにはごく親切しんせつ何事なにごとはなしてくれた。はなしをそっちのけにしてかおばかりつめていたので、あるとき『貴公きこうはどうしてかおばかりみるんじゃ』と質問しつもんされたこともあり、かれ生活せいかつ質素しっそなものであったと後世こうせいつたえられているが、ぎん火鉢ひばちかね煙管きせる煙草たばこかしており、しかもいちげつ煙草たばこだいじゅうろくえんであることをって憤慨ふんがいしたものだ」[66]
  • 小野おのあずさ大久保おおくぼほど世人せじん誤解ごかいされてるひとはいない。世人せじん凶賊きょうぞく島田しまだ一良かずよしらとおなじように誤解ごかいして、大久保おおくぼ専制せんせい主張しゅちょうしたとおもっている。しかし、大久保おおくぼこそしん国家こっか利益りえきはかったのであり、明治維新めいじいしん目的もくてき成就じょうじゅしたのである。それは、明治めいじじゅういちねん府県ふけんかい開設かいせつし、人民じんみん参政さんせいけん端緒たんしょひらいたことにあらわれている。いやしくも専制せんせい主義しゅぎによって政治せいじおこなうような下心したごころがあるならば、府県ふけんかいひらくような自由じゆう制度せいど実行じっこうするはずがない。大久保おおくぼは、けっして専制せんせい政治せいじながおこなうことなどはほっしてはいなかった。ところが、とかく世人せじん誤解ごかいされて専制せんせい主義しゅぎ政治せいじである、とわれるようになったことははなはしいことである。大久保おおくぼ追懐ついかいする一文いちぶんかかげたのは、かれの冤をうったえてその本意ほんいあきらかにするためである。大久保おおくぼ世人せじん誤解ごかいされているのは、国家こっかのために不利ふりであるとおもうからである」[67]
  • 島田しまだ一郎いちろう 「(紀尾井町きおいちょう事件じけんさいきのえひがしこの急場きゅうばのぞみ、いのちけよとわずして、しばらくいのちせという。その大胆だいたんじつおどろくべし。わがだい人物じんぶつころせしを悔ゆ」[68]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ふじともみもん
大久保おおくぼ
明確めいかくではないが藤原ふじわら末流ばつりゅうしょうしている。家紋かもんひだりみっふじともみ戦国せんごく時代じだいすえ京都きょうとから薩摩さつまうつるというが、系図けいず貞享ていきょう年間ねんかん市来いちきごう川上かわかみ現在げんざい鹿児島かごしまけんいちき串木野くしきの)に中宿なかしゅく城下じょうかせきのこしたまま他郷たきょう移住いじゅうすること)した大久保おおくぼなか兵衛ひょうえよりはじまる。明治めいじ11ねん(1878ねん)5がつ23にち明治天皇めいじてんのう特旨とくしにより、大久保おおくぼ木戸きど孝允たかよし木戸きどとともに華族かぞくれつした。勲功くんこうのみによって華族かぞくれい公布こうふ以前いぜん華族かぞくれつしたのは広沢ひろさわしんしん広沢ひろさわとこの2いえのみである。明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい公布こうふには当主とうしゅ大久保おおくぼ利和としかず侯爵こうしゃくじょされた。

家族かぞく子孫しそん[編集へんしゅう]

長男ちょうなん大久保おおくぼ利和としかずと、つまなお

子供こども正妻せいさいとのあいだよんなんいちじょわらわとのあいだよんなんをもうけた[69]

大久保おおくぼまご大久おおひさ保利ほりけん日本にっぽん近代きんだい史家しか国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん憲政けんせい資料しりょうしつ成立せいりつ寄与きよした。もう一人ひとりまごである大久保おおくぼ利春としはるは、丸紅まるべに専務せんむで、1976ねんロッキード事件じけんさいしては贈賄ぞうわいがわ一人ひとりとして逮捕たいほ起訴きそされ、有罪ゆうざい判決はんけつけた。「じいさんにあわせるかおがない」が口癖くちぐせだったという。大久保おおくぼ利春としはる姉妹しまいであるユリコは、おっと安田やすだはじめ安田やすだ財閥ざいばつ当主とうしゅ)、安田やすだひろし安田やすだ不動産ふどうさん顧問こもんとう)。

曾孫そうそん吉田よしだ健一けんいち作家さっか)、杉山すぎやま淑子としこホーネンコーポレーションもと社長しゃちょう杉山すぎやま元太郎げんたろう杉山すぎやま金太郎きんたろう長男ちょうなん夫人ふじん)、大久保おおくぼ利晃としあき放射線ほうしゃせん影響えいきょう研究所けんきゅうじょ理事りじちょうもと産業医科大学さんぎょういかだいがく学長がくちょう)、玄孫げんそん寬仁かんじん親王しんのう信子のぶこ麻生あそう太郎たろうだい92だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)、武見たけみ敬三けいぞう参議院さんぎいん議員ぎいん)、らいまご堀内ほりうち詔子しょうこ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)、千聖ちひろ(ミュージシャン)がいる。

ちちとぎ沖永良部島おきのえらぶしま時代じだいしまつま子孫しそん植村うえむらはなさいがいる[71]

官位かんいおよ栄典えいてん履歴りれき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 小納戸こなんどやくは6にん扶持ふち以上いじょうしょくであるので、小姓こしょう与格よかく就任しゅうにんすると、いちだい小番こつがいになれる。
  2. ^ 市来いちき四郎しろう日記にっきに、「そくなる昇進しょうしんにて、ひとみなおどろきこわいたし物議ぶつぎはなはだしくこう」とかれるほどの異数いすうだい抜擢ばってきだったという。なお、このとし文久ぶんきゅう3ねん両親りょうしんをともにくす[10]
  3. ^ 久光ひさみつなななん真之助しんのすけ元服げんぷくし、ひさずみ名乗なのったため、「すみ」の避諱したという[11]
  4. ^ これが、かんせん政策せいさく濫觴らんしょうとなった[12][13]
  5. ^ 小倉おぐらひゃくにんいちしゅ祐子ゆうこ内親王ないしんのう紀伊きいおと高師たかしはまの あだは かけじやそでれもこそすれ」の本歌ほんか

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)「大久保おおくぼ利通としみち
  2. ^ 伊藤いとう博文ひろぶみ羽生はぶみちえい PHP研究所けんきゅうじょ 2004 133ぺーじ
  3. ^ 日本人にっぽんじん覚悟かくごしま信彦のぶひこ 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 2014 58ぺーじ
  4. ^ はやわかり幕末ばくまつ維新いしん ビジュアル図解ずかいでわかる時代じだいながれ!』外川そとかわあつし 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 2009 297ぺーじ
  5. ^ 毛利もうり敏彦としひこ大久保おおくぼ利通としみち』(中公新書ちゅうこうしんしょ)、5ぺーじ
  6. ^ 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん 附録ふろくきのえひがし年譜ねんぷ」p.11
  7. ^ a b 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん 附録ふろくきのえひがし年譜ねんぷ」p.12
  8. ^ a b 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん 附録ふろくきのえひがし年譜ねんぷ」p.13
  9. ^ a b 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん 附録ふろくきのえひがし年譜ねんぷ」pp.13-14
  10. ^ 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん p.280
  11. ^ 大久保おおくぼ利通としみち日記にっき1
  12. ^ 寺島てらしましげるしん帝国ていこく海運かいうん政策せいさくろんいわおまつどう書店しょてん、1923ねんだいへん本邦ほんぽう海運かいうん政策せいさく沿革えんかくだいいちしょう海運かいうん政策せいさく変遷へんせんだいいち本邦ほんぽう海運かいうん萌芽ほうが発育はついく時代じだい明治維新めいじいしんよりにちしん戦役せんえきいたる)」本邦ほんぽう海運かいうん政策せいさく濫觴らんしょう」に、「はちねんがつ大久保おおくぼ内務ないむきょう建議けんぎ」「はちねんきゅうがつ三菱みつびしたいする政府せいふ命令めいれいしょ航海こうかい補助ほじょきん」「本邦ほんぽう近代きんだいてき海運かいうん政策せいさく起原きげん」「三菱みつびしべいえいせんとの競争きょうそう」のこう
  13. ^ 逓信ていしんしょう逓信ていしん事業じぎょう だい6かん逓信ていしん協会きょうかい、1941ねんだいじゅうへんかんせんだいさんしょう海運かいうん造船ぞうせん事業じぎょうかんする政策せいさく及法れいだいいちせつ明治めいじ前期ぜんきだいさん款「大久保おおくぼ内務ないむきょう海運かいうん政策せいさく樹立じゅりつ建白けんぱく」。
  14. ^ 勝田かつた政治せいじ 『“政事せいじ大久保おおくぼ利通としみち近代きんだい日本にっぽん設計せっけいしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2003ねんだいしょうせいかんろん政変せいへん」3「国家こっか目標もくひょうとしての民力みんりょく養成ようせいろん」イギリスをモデルに
  15. ^ 遠矢とおや浩規ひろのり利通としみち暗殺あんさつ 紀尾井町きおいちょう事件じけん基礎きそてき研究けんきゅう』(行人こうじんしゃ、1986ねん
  16. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)58ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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    • だい政事せいじ 大久保おおくぼ利通としみち 近代きんだい日本にっぽん設計せっけいしゃ角川かどかわソフィア文庫ぶんこ、2015ねん3がつ改訂かいていばん
  • 勝田かつた政治せいじ大久保おおくぼ利通としみちひがしアジア 国家こっか構想こうそう外交がいこう戦略せんりゃく吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2016ねん2がつ続編ぞくへん
  • 大久保おおくぼ利通としみち日記にっきぜん2さつ ほん史籍しせき協会きょうかい叢書そうしょ、1927ねん復刻ふっこく北泉きたいずみしゃ、1997ねん
  • 大久保おおくぼ利通としみち文書ぶんしょぜん10さつ ほん史籍しせき協会きょうかい叢書そうしょ、1927ねん-1929ねん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1983ねん復刻ふっこく
  • 大久保おおくぼ利通としみち関係かんけい文書ぶんしょぜん5さつ 立教大学りっきょうだいがく文学部ぶんがくぶ学科がっか日本にっぽん研究けんきゅうしつへん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1965ねん復刻ふっこくマツノ書店しょてん、2005-2008ねん
  • 木戸きど孝允たかよし日記にっき』、ぜんさんさつぐみ新版しんぱん東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、1985ねん復刻ふっこくばん2015ねん
  • 勝田かつたまごわたる大久保おおくぼ利通としみちでん同文どうぶんかん上中かみなか)、1910ねん、1911ねん、1921ねん
  • 勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん
  • 清沢きよさわきよし外政がいせいとしての大久保おおくぼ利通としみち中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1942ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1993ねんちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2023ねん
  • 大久保おおくぼ利通としみち佐々木ささきかつへん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2004ねんISBN 978-4061596832 関係かんけいしゃによる大久保おおくぼ実像じつぞうつたえる証言しょうげんしゅう
  • 牧野まきのしんあきら回顧かいころく新版しんぱん中公ちゅうこう文庫ぶんこ上下じょうげ)、改版かいはん2018ねん。※牧野まきの大久保おおくぼ次男じなん。 
  • 毛利もうり敏彦としひこ大久保おおくぼ利通としみち 維新いしん前夜ぜんや群像ぐんぞう5』 中公新書ちゅうこうしんしょ、1974ねん
  • 佐々木ささきかつ大久保おおくぼ利通としみち明治維新めいじいしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、1998ねん
  • 佐々木ささきかつ志士しし官僚かんりょう 明治めいじを「創業そうぎょう」したひとびと』 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2000ねん
  • 佐々木ささきかつ大久保おおくぼ利通としみち明治維新めいじいしんこころざし政治せいじ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ日本にっぽんリブレット じん072〉、2009ねん
  • 加来かく耕三こうぞう不敗ふはい宰相さいしょう 大久保おおくぼ利通としみち講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、1994ねん
  • 笠原かさはら英彦ひでひこ大久保おおくぼ利通としみち 幕末ばくまつ維新いしん個性こせい3』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2005ねん
  • 落合おちあいいさお大久保おおくぼ利通としみち 国権こっけんみち経済けいざいから』 日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ評伝ひょうでん日本にっぽん経済けいざい思想しそう〉、2008ねん
  • 大久保おおくぼ秘蔵ひぞう写真しゃしん 大久保おおくぼ利通としみちとその一族いちぞく』、大久おおひさ保利ほりやすし監修かんしゅう国書刊行会こくしょかんこうかい、2013ねん
  • 徳富とくとみ蘇峰そほう近世きんせい日本にっぽん国民こくみん 明治めいじさんすぐる新版しんぱん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1981ねん
  • 遠矢とおや浩規ひろのり利通としみち暗殺あんさつ 紀尾井町きおいちょう事件じけん基礎きそてき研究けんきゅう行人こうじんしゃ、1986ねん

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

史論しろん
現代げんだい小説しょうせつ・ドラマ・漫画まんがなど

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
創設そうせつ
木戸きど孝允たかよし
伊藤いとう博文ひろぶみ
日本の旗 内務ないむきょう
初代しょだい:1873ねん11月29にち - 1874ねん2がつ14にち
だい3だい:1874ねん4がつ27にち - どう8がつ2にち
だい5だい:1874ねん11月28にち - 1878ねん5がつ15にち
次代じだい
木戸きど孝允たかよし
伊藤いとう博文ひろぶみ
伊藤いとう博文ひろぶみ
先代せんだい
伊達だて宗城むねなり
日本の旗 大蔵おおくらきょう
だい3だい:1871ねん6がつ27にち - 1873ねん10がつ12にち
次代じだい
大隈おおくま重信しげのぶ