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皆吉みなよしおおとりいさお

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皆吉みなよし おおとりいさお(みなよし ほうとく、? - 天保てんぽう9ねん1838ねん))は、江戸えど時代じだい後期こうき薩摩さつまはん侍医じい大久保おおくぼ利通としみち外祖父がいそふ

略歴りゃくれき

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わかいころに医学いがくこころざし、じゅうすうねんわたって江戸えど長崎ながさき遊学ゆうがくし、西洋せいよう医術いじゅつ取得しゅとくした。蘭学らんがくにもひいで、うみかこまれた薩摩さつまはん西洋せいようのようなおおきなふね必要ひつようがあるとの信念しんねんもとすう年間ねんかん独学どくがくによって西洋せいようがた帆船はんせん模型もけいつくった。幕府ばくふによって大型おおがたせん建造けんぞうきんじられている(大船おおふな建造けんぞうきん)ため、はん琉球りゅうきゅうふね模造もぞういつわり、おおとりいさおによって薩摩さつまはんはつ西洋せいよう帆船はんせん建造けんぞうされ、伊呂波いろはまる名付なづけられた。この伊呂波いろはまる琉球りゅうきゅう目指めざして運行うんこうこころみたが、暴風雨ぼうふううのため暗礁あんしょう衝突しょうとつして大破たいはした。

海防かいぼうかかわるはん重要じゅうよう人物じんぶつとなりかけていた30だいのころ、薩摩さつまはんのおいえ騒動そうどうであるきんおもえろくくずまれ、きんおもえろくとして処罰しょばつ出水しゅっすいさと蟄居ちっきょとなる。そのゆるされるもはんにはもどらず、世捨よすびとのようならしとなる。西洋せいようそでとうて、坊主ぼうずあたまめすうし背中せなかにまたがって市中しちゅう闊歩かっぽした。上級じょうきゅう武士ぶし出会であったときは、下馬げばれいをとらずにそのままみちばたのくさむらに牛首うしくび一緒いっしょ自分じぶんあたまんでとおぎるのをつという奇人きじんぶりで、人々ひとびとは「おおとりいさおあたまかくしてしりかくさず」とわらったという。

おおとりいさお次女じじょ・ふくの長男ちょうなんであるまごどおりをことのほかあいし、熱心ねっしん薫陶くんとうした。どおり8さいときおおとりいさお死去しきょしたのちは、きんおもえろくせき勇助ゆうすけ有馬ありま一郎いちろう利通としみち教育きょういくにあたった。ふくのおとうと皆吉みなよし金六きんろく(みなよしきんろく)もおさなどおり学問がくもんおしえている。

参考さんこう文献ぶんけん

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