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寺田てらだ事件じけん

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寺田てらだ騒動そうどうから転送てんそう
寺田てらだ事件じけん
現在げんざい寺田てらだ2020ねん4がつ19にち撮影さつえい
場所ばしょ 京都きょうと伏見ふしみ
標的ひょうてき 尊王そんのう攘夷じょうい過激かげき志士しし40めい程度ていど
おおくはたたかわず投降とうこう一部いちぶ逃亡とうぼう
日付ひづけ 文久ぶんきゅう2ねん4がつ23にち1862ねん5月21にち
概要がいよう 伏見ふしみ旅籠はたご船宿ふなやど)の寺田てらだ滞在たいざいしていた薩摩さつまはん久留くるべいはんおかはん秋月しゅうげつはんひとし尊王そんのう攘夷じょうい志士ししのうち、薩摩さつまはんから脱藩だっぱんした志士しし一部いちぶを、鎮撫ちんぶ使としてやってきた薩摩さつま藩士はんし上意じょういちとしょうして殺傷さっしょうし、のこりのおおくを投降とうこうさせた。
原因げんいん 志士ししらは佐幕さばく関白かんぱく九条くじょうしょうただし京都きょうと所司代しょしだい酒井さかい忠義ただよし暗殺あんさつするために寺田てらだ集結しゅうけつしていた。薩摩さつま藩主はんしゅちち島津しまつ久光ひさみつはこれをおさえるために奈良原ならはらしげるら9めい伏見ふしみおくって対処たいしょめいじた。
攻撃こうげきがわ人数にんずう 9めい
武器ぶき かたなやり
死亡しぼうしゃ 鎮撫ちんぶ使がわ:1めい志士ししがわ:6めい
負傷ふしょうしゃ 鎮撫ちんぶ使がわ:4めい志士ししがわ:2めい重傷じゅうしょうの2めい切腹せっぷく
動機どうき 上意じょうい
対処たいしょ 投降とうこうしたもののうち、薩摩さつまはん出身しゅっしん志士しし21めいはん謹慎きんしん久留くるべいはん出身しゅっしん志士しし9めいはん謹慎きんしん田中たなか河内かわうちかい浪人ろうにん志士しし6めい薩摩さつまはんるとしょうして海上かいじょう殺害さつがいされた。ほか、だま三平さんぺいすうめいからじゅうめい程度ていど逃亡とうぼうした。
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寺田てらだ事件じけん(てらだやじけん)は、江戸えど時代じだい末期まっき文久ぶんきゅう2ねん4がつ23にち1862ねん5月21にち)、伏見ふしみ旅館りょかん寺田てらだ滞在たいざいしていた尊皇そんのう攘夷じょうい過激かげき志士しし弾圧だんあつされた事件じけん

薩摩さつまはん事実じじつじょう指導しどうしゃ藩主はんしゅ茂久しげひさちち島津しまつ久光ひさみつはこのとき公武こうぶ合体がったい推進すいしんする立場たちばで、みずからの入京にゅうきょう勝手かって挙兵きょへい討幕とうばくくわだてる薩摩さつま藩士はんし有馬ありま新七しんしちらをこころよおもわず、志士ししらの暴発ぼうはつ防止ぼうししようと、藩士はんしめいじてしたがわぬものを上意じょういさせた。同郷どうきょう藩士はんし同士どうし凄惨せいさん乱闘らんとうとなり、7めい死亡しぼうして2めい致命傷ちめいしょうい、のち切腹せっぷくしたものをふくめて9にん殉難じゅんなんしゃした。事件じけん久光ひさみつおおくの志士しし京都きょうとから追放ついほうし、勅使ちょくし大原おおはら重徳しげのりようして江戸えどむかい、一橋ひとつばし慶喜よしのぶ将軍しょうぐん後見こうけんしょく松平まつだいら慶永よしなが政事せいじ総裁そうさいしょくとする幕政ばくせい改革かいかくおこなった。

別名べつめい寺田てらだ騒動そうどう(てらだやそうどう)ともばれる。

経緯けいい[編集へんしゅう]

はんへいせんめいひき上洛じょうらくした久光ひさみつ日本にっぽんちゅう尊王そんのう希望きぼうをその背負せおっていた。しかし久光ひさみつにはこの当時とうじ倒幕とうばく意志いしはなく、公武こうぶ合体がったいがその路線ろせんであった。また久光ひさみつ秩序ちつじょおもんじるきびしい性格せいかくで、すでに西郷さいごう隆盛たかもり村田むらた新八しんぱち森山もりやましんぞう捕縛ほばくしてだいさかからはんさせるようにめいじて粛清しゅくせいしており、京都きょうと志士しし思惑おもわくとはまったおもむきことにしたかんがえのぬしであった。それで4がつ13にち伏見ふしみ到着とうちゃくした久光ひさみつは、16にち入京にゅうきょうし、朝廷ちょうていより志士しし始末しまついのちさずかる。

この展開てんかい驚愕きょうがくした薩摩さつまはん過激かげきは、憂国ゆうこくねんから憤激ふんげきし、有馬ありま新七しんしち柴山しばやま愛次郎あいじろう橋口はしぐちたけしかいらは、しょはん尊王そんのう志士しし真木まき和泉いずみ田中たなか河内かわうちかいらと共謀きょうぼうして、関白かんぱく九条くじょうしょうただし京都きょうと所司代しょしだい酒井さかい忠義ただよし襲撃しゅうげきしてそのくびって久光ひさみつほうじることで、無理矢理むりやりにでも蜂起ほうきうながすということにけっした。この襲撃しゅうげきまえに、根城ねじろとしていた薩摩さつまはんじゅうはちばん長屋ながやからて、伏見ふしみ船宿ふなやど寺田てらだあつまることを計画けいかくしていたが、当時とうじ寺田てらだ薩摩さつまはん定宿じょうやどであり、このような謀議ぼうぎかんしての集結しゅうけつ場所ばしょとしては格好かっこう場所ばしょだったようである。

志士しし暴発ぼうはつうわさいていた久光ひさみつは、側近そっきん大久保おおくぼいちぞう海江田かいえだ武次たけつぐ奈良原ならはら左衛門さえもん次々つぎつぎ派遣はけんして説得せっとくめいじ、藩士はんしおさえようとこころみたが失敗しっぱいした。23にち薩摩さつま藩邸はんていでは永田ながた佐一郎さいちろう翻意ほんいし、決起けっきめようとしたがめられなかったために切腹せっぷくした。これによって計画けいかく決行けっこうせまったことをったざいばんやく高崎たかさきひだり太郎たろう藤井ふじいりょうぶし工藤くどう左門さもん)の二人ふたりいそ京都きょうと注進ちゅうしんした。久光ひさみつおどろき、出奔しゅっぽん藩士はんし藩邸はんていもどしてみずか勅旨ちょくし今後こんご方針ほうしん説明せつめいして説得せっとくしようとかんがえたが、一方いっぽうしたがわぬ場合ばあいには上意じょういちもあるといいふくめて、奈良原ならはら喜八郎きはちろう大山おおやまかくこれすけ道島どうじま五郎ごろう兵衛ひょうえ鈴木すずきいさむみぎ衛門えもん鈴木すずき昌之まさゆきすけ山口やまぐち金之かねゆきすすむ江夏えなつなか左衛門さえもん森岡もりおか善助ぜんすけとく剣術けんじゅつすぐれた藩士はんし8めい鎮撫ちんぶ使えらび、派遣はけんすることにした。奈良原ならはら道島どうじま江夏えなつ森岡もりおかほん街道かいどうを、大山おおやま鈴木すずき山口やまぐち竹田たけだ街道かいどうすすんだ。から上床うわとこはじめすけ志願しがんしてくわわり、けい9めいとなった。

寺田てらだ騒動そうどう[編集へんしゅう]

23にちよる寺田てらだ到着とうちゃくすると、奈良原ならはら喜八郎きはちろうら4めい有馬ありま新七しんしち面会めんかいもうたが、2かいから橋口はしぐち伝蔵でんぞうに「いない」とわれてことわられたので、江夏えなつ森岡もりおかちからづくで2かいがろうとして問答もんどうした。柴山しばやま愛次郎あいじろう応対おうたいして1かい面談めんだんすることになった。有馬ありま田中たなか謙助けんすけ橋口はしぐちたけしかいりてきて議論ぎろんくわわったが、らちかず、薩摩さつま藩士はんしはともかく藩邸はんてい同行どうこうするようにもとめたが、これが拒否きょひされた。そこに大山おおやまら4めいいつき、寺田てらだはいった。奈良原ならはら説得せっとくつづけたが、君命くんめいしたがわぬのかと激高げっこうする道島どうじまが「上意じょうい」とさけんで抜打ぬきうちで田中たなか謙助けんすけ頭部とうぶり、こうして“同志どうしち”のはげしいいがはじまった。

られた田中たなか謙助けんすけ眼球がんきゅうたまま昏倒こんとう山口やまぐち抜刀ばっとうして背後はいごから柴山しばやま愛次郎あいじろうて、これらを有馬ありま新七しんしち激高げっこうして道島どうじまに、橋口はしぐちたけしかい奈良原ならはらりかかった。有馬ありまけん達人たつじんであるのだが、わたっていてかたなれたので、道島どうじまつかみかかってかべさえつけた。ちかくにいた橋口はしぐち吉之丞きちのじょう狼狽ろうばいしてか加勢かせいできずにいたので、有馬ありまが「がごと[注釈ちゅうしゃく 1]」とめいじ、橋口はしぐち吉之丞きちのじょうはその言葉ことばしたがって有馬ありま背中せなかから道島どうじま共々ともどもつらぬいてりょう絶命ぜつめいさせた。他方たほう橋口はしぐちたけしかい奮戦ふんせんしていたが、奈良原ならはらかたからむねまでられてたおれ、最期さいごみず所望しょもうしてんだのちいきえた。森山もりやま新五しんご左衛門さえもんはちょうどかわやりてきたところにこのようないがはじまり、られて重傷じゅうしょうった。大山おおやまかくこれすけ梯子はしごっていて、騒動そうどういてりてきた弟子でしまるりゅうすけ刺殺さしころし、さらにりてきた橋口はしぐち伝蔵でんぞうあしはらった。橋口はしぐち伝蔵でんぞうがってかたなるい、鈴木すずきいさむみぎ衛門えもんみみとしたが、鈴木すずき昌之まさゆきすけされて絶命ぜつめいした。そこにまたりてきた西田にしだただし五郎ごろう森岡もりおかやりき、西田にしだころがりちたが、かたなるって森岡もりおか相打あいうちのようなかたちいきえた。

2かいした状況じょうきょうがわかっておらず、だま三平さんぺい高橋たかはしちかし輔)は伏見ふしみ奉行ぶぎょう捕方とりかたたと誤解ごかいして「捕方とりかただ、防戦ぼうせんせよ」とさけんだことから、柴山しばやまりゅう五郎ごろう先頭せんとう各々おのおの抜刀ばっとうして1かいりてこようとしたので、奈良原ならはら[注釈ちゅうしゃく 2]かたなててこれにふさがり、「ってくれ、君命くんめいだ、同志どうしちしたところで仕方しかたがない」と、ともかくけんおさめて同行どうこうするようにもとめて「仔細しさいはなし直接ちょくせつ久光ひさみつこういてくれ」とうったえた。1かいべつ部屋へやにいた(志士ししがわの)真木まき和泉いずみ田中たなか河内かわうちかいてきてこれに同調どうちょうして説得せっとくしたので、ようやくおさまった。

騒動そうどう始末しまつ[編集へんしゅう]

大黒おおくろてら伏見ふしみ寺田てらだ殉難じゅんなんきゅう烈士れっしはか

この戦闘せんとうによって、鎮撫ちんぶ使がわでは1めい道島どうじま五郎ごろう兵衛ひょうえ[注釈ちゅうしゃく 3])が死亡しぼう、1めい森岡もりおか善助ぜんすけ[注釈ちゅうしゃく 4])が重傷じゅうしょう、4めい奈良原ならはら喜八郎きはちろう山口やまぐち金之かねゆきすすむ鈴木すずきいさむみぎ衛門えもん江夏えなつなか左衛門さえもん)が軽傷けいしょうった。のこりの3めい無傷むきずだった。志士ししでは、6めい有馬ありま新七しんしち柴山しばやま愛次郎あいじろう橋口はしぐちたけしかい西田にしだただし五郎ごろう弟子でしまるりゅうすけ橋口はしぐち伝蔵でんぞう)が死亡しぼう、2めい田中たなか謙助けんすけ森山もりやま新五しんご左衛門さえもん)が重傷じゅうしょうったが、この負傷ふしょうしゃ2めいあと切腹せっぷくさせられた。

まだ2かいにいた尊王そんのう薩摩さつま藩士はんし大半たいはん投降とうこうし、だまさんたいらなどは逃亡とうぼうした。岩元いわもと勇助ゆうすけ西郷さいごう信吾しんご大山おおやまわたるすけ三島みしま弥兵衛やへえ木藤きとう市助いちすけ市之いちのかい)、伊集院いじゅういん直右衛門すぐえもん篠原しのはら冬一郎ふゆいちろうさか元彦もとひこみぎ衛門えもんもりしん兵衛ひょうえ兵衛ひょうえ)、深見ふかみきゅうぞう吉原よしはら弥二郎やじろう永山ながやま弥一郎やいちろう柴山しばやまりゅう五郎ごろう是枝これえだまんすけ柴山しばやまきち)、はやし正之まさゆきすすむたにもとへいみぎ衛門えもん吉田よしだきよしみぎ衛門えもん町田まちだ六郎ろくろう左衛門さえもん有馬ありまきゅうはちきしりょう三之さんのかい橋口はしぐち吉之丞きちのじょうの21めいはん謹慎きんしんめいじられた。

なお、京都きょうと藩邸はんてい療養りょうようちゅう薩摩さつま藩士はんし山本やまもと四郎しろう義徳よしのり)もこれにくわわるところであったので、はん謹慎きんしんめいじられた、しかしかれはこれをしとせず、ふくさなかったので切腹せっぷくさせられた(かれふくめて9にん殉難じゅんなんしゃ烈士れっしとされた)。

のこりのはん尊王そんのう志士ししたちのおおくも投降とうこうし、何人なんにんかは逃亡とうぼうした。真木まき和泉いずみとその息子むすこ真木まききく四郎しろう酒井さかい伝次郎でんじろう鶴田つるたとうつかさ原道はらみちふとし中垣なかがき健太郎けんたろう荒巻あらまき平太郎へいたろう吉武よしたけ助左衛門すけざえもん古賀こが簡ニ、淵上ふちがみ謙三けんぞう久留くるべいはんわたされ、すうめい土佐とさはんとう所属しょぞくするはんわたされた。

のない浪人ろうにんは、鹿児島かごしま送還そうかんされた。そのさいあらためた暴発ぼうはつ薩摩さつま藩士はんしたちが、首謀しゅぼうしゃ浪人ろうにん成敗せいばいしたいと島津しまつ久光ひさみつもうれ、承認しょうにんされた[2]。それをらない浪人ろうにん田中たなか河内かわうちかいとその息子むすこ田中たなか瑳磨かいおい千葉ちば郁太郎いくたろう、さらには中村なかむら主計かずえ[注釈ちゅうしゃく 5]青木あおきよりゆきはは、そして秋月しゅうげつはんだが同行どうこうのぞんだ海賀かいが宮門きゅうもんはこの条件じょうけんれ、すすんでふねった。4月28にち大坂おおさかよりせん分乗ぶんじょうして出航しゅっこう。5月2にち田中たなか親子ちかこ薩摩さつま藩士はんしによって斬殺ざんさつされてうみてられた。遺体いたい小豆島しょうどしま漂着ひょうちゃくして同地どうち農民のうみんによって埋葬まいそうされた。海賀かいが千葉ちば中村なかむらは7にち日向ひなた細島ほそじまおき決闘けっとうしょうして斬殺ざんさつされてうみてられ、遺体いたいちかくのかねはま漂着ひょうちゃくおなじく埋葬まいそうされ、中村なかむらのぞく2めい殉死じゅんししゃとされた[4][5][注釈ちゅうしゃく 6]青木あおき田中たなか親子ちかこ同船どうせんおなじくられたが、遺体いたいがらなかったのか、はかはない。

この事件じけんによって朝廷ちょうてい久光ひさみつたいする信望しんぼうおおいにたかまり、久光ひさみつ公武こうぶ合体がったい政策せいさく実現じつげん文久ぶんきゅう改革かいかく)のため江戸えどへとかった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 自分じぶん一緒いっしょせの意味いみ
  2. ^ 喜八郎きはちろう説得せっとくしたと、山口やまぐち金之かねゆきしん報告ほうこくしたとの記述きじゅつがある[1]
  3. ^ かれはこの事件じけんくなった人物じんぶつ唯一ゆいいつ烈士れっしとされていない。
  4. ^ 森岡もりおかじゅうそうって一時いちじ危篤きとくおちいったが、後日ごじつ快方かいほうかって生存せいぞんした。
  5. ^ いみな重義しげよし肥前ひぜん島原しまばらはん藩士はんし有馬ありま太郎たろうおよび中村なかむらさだ太郎たろうきた有馬ありま太郎たろう)のおとうと[3]
  6. ^ 田中たなか大納言だいなごん中山なかやま忠能ただやす旧臣きゅうしんであるだけでなくのち明治天皇めいじてんのう教育きょういくがかりであって、西郷さいごう隆盛たかもりはこの久光ひさみつ暴挙ぼうきょ憤激ふんげきしたとつたえられる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大久保おおくぼ利通としみち日記にっき
  2. ^ 町田まちだ明広あきひろ島津しまつ久光ひさみつ 幕末ばくまつ政治せいじ焦点しょうてん講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2009ねん1がつ8にち、113ぺーじ 
  3. ^ 長崎ながさきけん教育きょういくかい へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 大礼たいれい記念きねん長崎ながさきけん人物じんぶつでん長崎ながさきけんきょう、1901ねん、43ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960654/68 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  4. ^ 宮崎みやざきけん へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 日向ひなた聖地せいち伝説でんせつ史蹟しせき宮崎みやざきけん、1934ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242699/123 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  5. ^ 徳重とくしげ浅吉あさきち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 京都きょうと維新いしん史蹟しせき京都きょうと教育きょういくきょく文化ぶんか、1943ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042175/52 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]