(Translated by https://www.hiragana.jp/)
大山巌 - Wikipedia コンテンツにスキップ

大山おおやまいわお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大山おおやまおおやま いわおいわお
大山おおやま いわお
大山おおやまいわおにち戦争せんそう
生年月日せいねんがっぴ 1842ねん11月12にち
天保てんぽう13ねん10がつ10日とおか
出生しゅっしょう 日本にっぽん薩摩さつまこく鹿児島かごしまぐん加治屋かじやまち
げん鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま加治屋かじやまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1916-12-10) 1916ねん12月10にち(74さいぼつ
死没しぼつ 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん東京とうきょう
ぜんしょく 武士ぶし薩摩さつまはん
陸軍りくぐん軍人ぐんじん
称号しょうごう したがえいち
だいくん菊花きっかあきら頸飾
だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう
こういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう
元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう
公爵こうしゃく
配偶はいぐうしゃ 大山おおやまさわ先妻せんさい
大山おおやま捨松すてまつ後妻ごさい
子女しじょ 次男じなん大山おおやまかしわ
親族しんぞく 西郷さいごう隆盛たかもり従兄じゅうけい
西郷さいごう従道つぐみち従弟じゅうてい
吉井よしい友実ともみ義父ぎふ
山川やまかわひろし義兄ぎけい
山川やまかわ健次郎けんじろう義兄ぎけい
山川やまかわよう義姉ぎし
井田いだいわおくすのきむすめ婿むこ
大山おおやまあずさまご
大山おおやまかつらまご
渡邉わたなべあきらまご

日本における郵船商船規則の旗 だい4だい 内大臣ないだいじん
在任ざいにん期間きかん 1915ねん4がつ23にち - 1916ねん12月10にち
天皇てんのう 大正天皇たいしょうてんのう

内閣ないかく だい2伊藤いとう内閣ないかく
だい2松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1892ねん8がつ8にち - 1896ねん9がつ20日はつか

内閣ないかく 黒田くろだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1889ねん2がつ16にち - 1889ねん3月22にち

内閣ないかく だい1伊藤いとう内閣ないかく
黒田くろだ内閣ないかく
だい1やま縣内けんないかく
だい1松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1891ねん5月17にち

日本における郵船商船規則の旗 だい2だい だい警視けいし
在任ざいにん期間きかん 1879ねん10月16にち - 1880ねん2がつ28にち

その職歴しょくれき
日本における郵船商船規則の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
1895ねん8がつ5にち[1] - 1907ねん9がつ20日はつか
1907ねん9月21にち - 1916ねん12月10にち
テンプレートを表示ひょうじ

大山おおやま いわお(おおやま いわお、きゅう字体じたい大山おおやま いわお1842ねん11月12にち天保てんぽう13ねん10がつ10日とおか〉- 1916ねん大正たいしょう5ねん12月10にち)は、日本にっぽん政治せいじ陸軍りくぐん大臣だいじん初代しょだいだい3だい)、陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうだい4・6だい)、だい警視けいしだい2だい)、文部もんぶ大臣だいじん臨時りんじ兼任けんにん)、内大臣ないだいじんだい4だい)、元老げんろう貴族きぞくいん議員ぎいん歴任れきにんした。称号しょうごう階級かいきゅう元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう栄典えいてんしたがえいちだいくんこういちきゅう公爵こうしゃく雅号がごう赫山みずがん清海きよみ西郷さいごう隆盛たかもり従道つぐみち兄弟きょうだい従兄弟いとこ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

青年せいねん[編集へんしゅう]

薩摩さつまこく鹿児島かごしまじょうした加治屋かじやまち柿本かきもとてらどおり下加治しもかじ町方まちかたげん)に薩摩さつま藩士はんし大山おおやまつなあきら(彦八)の次男じなんとしてまれた。幼名ようみょう岩次郎いわじろう通称つうしょうわたるすけ家紋かもん佐々木ささきはじめ大山おおやまとして典型てんけいてきな「まるすみよっ」である。

どうはん有馬ありま新七しんしちらに影響えいきょうされて過激かげきぞくしたが、文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)の寺田てらだ騒動そうどうでは公武こうぶ合体がったいによって鎮圧ちんあつされ、大山おおやま帰国きこく謹慎きんしん処分しょぶんとなる。薩英戦争せんそうさいして謹慎きんしんかれ、砲台ほうだい配属はいぞくされた。ここで西欧せいおう列強れっきょう軍事ぐんじりょく衝撃しょうげきけ、幕臣ばくしん江川えがわ英龍ひでたつじゅくにて、黒田くろだ清隆きよたからとともに砲術ほうじゅつまなぶ。

戊辰戦争ぼしんせんそう[編集へんしゅう]

戊辰戦争ぼしんせんそうでは新式しんしきじゅうたいひきいて、鳥羽とば伏見ふしみたたか会津あいづ戦争せんそうなどの各地かくち転戦てんせん。また、12ドイム臼砲きゅうほうよんきん山砲さんぽう改良かいりょうおこなった。これら大山おおやま設計せっけいしたほうは「わたるすけほう」としょうされ、のちにち戦争せんそうまでなが使用しようされた(わたるすけ大山おおやま幼名ようみょうから)[2]

会津あいづ戦争せんそうでは薩摩さつまはんばん砲兵ほうへい隊長たいちょうとして従軍じゅうぐんしていたが、つるじょう攻撃こうげき初日しょにち大手門おおてもんまえきた出丸でまるからの篭城ろうじょうがわ射撃しゃげき攻略こうりゃく手間てまどる土佐とさはん部隊ぶたい援護えんご出動しゅつどうするも、弾丸だんがんみぎまた内側うちがわからつらぬ負傷ふしょうし、翌日よくじつ後送こうそうされている。そのため、実際じっさい大山おおやまづるじょうたたかったのは初日しょにちのみで砲撃ほうげき指揮しきしたわけでもなく、よくわれる「会津若松あいづわかまつじょうけて、大砲たいほう雨霰あめあられのようにちこんで勝利しょうり貢献こうけんした」というのも事実じじつではない。このとき篭城ろうじょうがわ会津あいづはんがわ)はおもだったへいがほとんど出撃しゅつげきちゅうで、城内きうちには老幼ろうようへい負傷ふしょうへいしかおらず、きた出丸でまるたたかっていたのは山本やまもと八重やえとわずかなへいたちだった。そのため狙撃そげきしゃはちじゅうであるともわれている。このとき会津若松あいづわかまつじょうには、のちに後妻ごさいとなる山川やまかわ捨松すてまつとその家族かぞく籠城ろうじょうしていた。

留学りゅうがく[編集へんしゅう]

維新いしん明治めいじ2ねん1869ねん)、わたしおうしてひろしふつ戦争せんそうなどを視察しさつ明治めいじ3ねん1870ねん)から6ねん1873ねん)のあいだジュネーヴ留学りゅうがくした。留学りゅうがくロシア革命かくめい運動うんどうレフ・メーチニコフう。メーチニコフはのち東京とうきょう外国がいこく学校がっこう教師きょうしとして赴任ふにんしたが、これは大山おおやま影響えいきょうによるといわれる。

西南せいなん戦争せんそう[編集へんしゅう]

西南せいなん戦争せんそうをはじめ、相次あいつ士族しぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつした。西南せいなん戦争せんそうでは政府せいふぐん指揮しきかんおさむしろほうたい司令しれいかん)として、城山しろやまもった親戚しんせきすじ西郷さいごう隆盛たかもり相手あいてたたかったが、大山おおやまはこのことを生涯しょうがいにして、二度にど鹿児島かごしまかえることはなかった。ただし西郷さいごうとは生涯しょうがいにわたってしたしく、とく西郷さいごう従道つぐみちとは親戚しんせき以上いじょう盟友めいゆう関係かんけいにあった。明治めいじ13ねん(1880ねん)には陸軍りくぐんきょうとなり[3]だい1伊藤いとう内閣ないかくにおいて最初さいしょ陸軍りくぐん大臣だいじんとなった。

1884ねん2がつ16にち陸軍りくぐんきょうとして、川上かわかみ操六そうろくかつら太郎たろう2大佐たいさらをしたがえ、欧州おうしゅう兵制へいせい視察しさつのために横浜よこはま出発しゅっぱつし、1885ねん1がつ25にち帰国きこくした。

にちしんにち戦争せんそう[編集へんしゅう]

にち戦争せんそうちゅうまんしゅう

にちしん戦争せんそう(1894ねん - 1895ねん直前ちょくぜんには右目みぎめ失明しつめいしていたという記録きろくのこっているが、にちしん戦争せんそうでは陸軍りくぐん大将たいしょうとしてだい2ぐん司令しれいかんとなった。明治めいじ32ねん(1899ねん)5がつ16にちには参謀さんぼう総長そうちょう就任しゅうにんし、元帥げんすいれっせられた[3]

1903ねん6がつ22にち参謀さんぼう総長そうちょうとして朝鮮ちょうせん問題もんだい解決かいけつかんする意見いけんしょ内閣ないかく提出ていしゅつした。にち戦争せんそう(1904ねん-1905ねん)では元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょうとして満州まんしゅうぐんそう司令しれいかんつとめ(1904ねん6がつ20日はつか)、にちしんにちともに日本にっぽん勝利しょうりおおきく貢献こうけんした。同郷どうきょう東郷とうごう平八郎へいはちろうならんで「りく大山おおやまうみ東郷とうごう」とわれた。ドイツライプチヒ新聞しんぶんは、ニコライ2せい (ロシア皇帝こうてい)が「さるのような」とひょうした日本人にっぽんじん単独たんどく大国たいこくロシアにてるとはかんがえられないとして、大山おおやま長年ながねんロシアにくるしめられてきたフィンランドじんであると報道ほうどうした[4]

元老げんろう[編集へんしゅう]

大山おおやま陸軍りくぐん代表だいひょうする存在そんざいであり、さい重要じゅうよう重臣じゅうしんである元老げんろうのメンバーとしても活動かつどうした。ただし、大山おおやま陸軍りくぐんない意向いこうしたが傾向けいこうがあり、黒田くろだ清隆きよたか西郷さいごう従道つぐみちぼつ会議かいぎないのバランスをとるためしばらく元老げんろう会議かいぎのメンバーからはずされている[5]大正たいしょう4ねん(1915ねん)4がつ23にちには内大臣ないだいじんとなり[6]宮中きゅうちゅうりした。

薨去こうきょ[編集へんしゅう]

大正たいしょう5ねん(1916ねん)、大正天皇たいしょうてんのう供奉ぐぶし、福岡ふくおかけんおこなわれた陸軍りくぐん特別とくべつだい演習えんしゅう参観さんかんした帰途きとに、胃病いびょうからたおれ、胆嚢たんのうえん併発へいはつ療養りょうようちゅうの12月10にち内大臣ないだいじん在任ざいにんのまま薨去こうきょ享年きょうねん75。病床びょうしょうについてから間際まぎわまで、永井ながい建子けんし作曲さっきょくの『ゆき進軍しんぐん』をいていたとつたえられている。本人ほんにん大変たいへんこのきょくっていたという。

臨終りんじゅう枕元まくらもとには山縣やまがた有朋ありとも川村かわむら景明かげあき寺内てらうち正毅まさき黒木くろきためなどが一堂いちどうかおそろえ、まるで元帥げんすい大山おおやましてきたようだったという。大山おおやま夏目なつめ漱石そうせき翌日よくじつのことだった。新聞しんぶんおおくは文豪ぶんごういたんでおおくの紙面しめんかれいたため、くる大山おおやま訃報ふほう元老げんろう訃報ふほうとは比較ひかくにならないほど地味じみなものだったが、それが大山おおやま元老げんろうたちのちがいをあらためて印象いんしょうづけた。12月17にち国葬こくそうでは、参列さんれつするちゅうにちロシア大使たいしとはべつにロシア大使館たいしかんづけ武官ぶかんのヤホントフ少将しょうしょうじか大山おおやまおとずれ、「ちょんロシア陸軍りくぐん代表だいひょうして」弔詞ちょうしべ、ひときわ目立めだ花輪はなわみずか霊前れいぜんそなえた。かつての敵国てきこく軍人ぐんじんからのこのような丁重ていちょう弔意ちょういけたのは、この大山おおやま東郷とうごう平八郎へいはちろう2人ふたりだけだった。

那須なすほうむられた。墓所はかしょ栃木とちぎけん那須塩原なすしおばら遺品いひん陸上りくじょう自衛隊じえいたい宇都宮うつのみや駐屯ちゅうとん多数たすう収蔵しゅうぞうされ、資料しりょうかん展示てんじされている。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

晩年ばんねん大山おおやまいわお捨松すてまつ夫妻ふさい

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

だい1伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ高官こうかんえがいた錦絵にしきえ
にち戦争せんそうにおける元帥げんすいろく大将たいしょう
中央ちゅうおう大山おおやまいわお

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

大山おおやま青年せいねんまでしゅんこととして際立きわだったが、壮年そうねん以降いこう自身じしん茫洋ぼうようたる風格ふうかくけるよう心掛こころがけた。にち戦争せんそうすなかわ会戦かいせんで、苦戦くせん経験けいけんそう司令しれい雰囲気ふんいき殺気立さっきだったとき、昼寝ひるねからきて大山おおやまの「児玉こだまさん(児玉こだま源太郎げんたろう参謀さんぼうちょう)、今日きょうもどこかでたたかえ(ゆっさ)がごわすか」のとぼけた一言ひとことで、部屋へや空気くうきがたちまちあかるくなり、みな冷静れいせいさをもどしたという逸話いつわがある。ただししゅんこと性格せいかくにち戦争せんそうちゅうのこっており、児玉こだま旅順りょじゅんだい3ぐん督励とくれいのため出張しゅっちょうしているあいだは、大山おおやまみずか参謀さんぼう会議かいぎ主宰しゅさいし、積極せっきょくてき報告ほうこくもと作戦さくせん指揮しきしたという公式こうしき記録きろくのこっている。

かつら太郎たろう大山おおやま参謀さんぼう総長そうちょう時代じだいはなしとして、つぎのようなはなしべている。児玉こだま川上かわかみ操六そうろくかつらだい議論ぎろんひろげていると、いつも大山おおやま仲裁ちゅうさいやくとなった。さんにんはそれぞれ理屈りくつべるが、結局けっきょく大山おおやま唯々いい諾々だくだくしたがったという[32]大隈おおくま重信しげのぶ世事せじうと武人ぶじんられていた大山おおやま新聞しんぶん雑誌ざっし手元てもといていた常識じょうしきじんであったとべている[33]

明治めいじ38ねん(1905ねん)12月7にちにようやく東京とうきょう穏田私邸してい凱旋がいせん帰国きこくした大山おおやまたいし、息子むすこかしわが「戦争せんそうちゅうそう司令しれいかんとして一番いちばんくるしかったことはなにか」とうたのにたいし、「わかもの心配しんぱいさせまいとして、っていることもらんかおをしなければならなかった」ことをげている。「茫洋ぼうよう」か「しゅんこと」かという事項じこうについての大山おおやま自身じしんによるひとつの解答かいとうとの指摘してきがなされている[34]

教養きょうよう[編集へんしゅう]

石黒いしぐろ忠悳ただのりは、大山おおやまたびをしていると、その土地とち々々の有名ゆうめい暗誦あんしょうしていておどろかされたと回想かいそうしている[35]まれ和歌わかむこともあったが、てにをはの使つかかたなどを注意ちゅういされることがあってもめなかったという[36]

容貌ようぼう[編集へんしゅう]

従兄弟いとこ西郷さいごう隆盛たかもり大柄おおがら肥満ひまんたいだったが、大山おおやまもなかなかのものであった。その体型たいけいかお印象いんしょうから「ガマ」(ガマガエル)というニックネームばれていた。しかもかなりの美食びしょくであった。息子むすこ大山おおやまかしわ回想かいそうによると40cm以上いじょうもあるうなぎ蒲焼かばやきがのったうなぎどんぶりをペロリとかんしょくし、ビーフステーキフランスから輸入ゆにゅうしたあかワイン好物こうぶつで、体重たいじゅうもっとおもいときで95kgをえていたという。その結果けっか晩年ばんねん糖尿とうにょうびょうなやまされていた。つま捨松すてまつ友人ゆうじんへの手紙てがみで「主人しゅじん最近さいきんますますふとり、わたしはますますやせほそっています。」と愚痴ぐちをこぼしていたという。ただし、『元帥げんすい公爵こうしゃく大山おおやまいわお』(大山おおやまいわおでん刊行かんこうかいへん、1935ねん)では肥満ひまんになったのは晩年ばんねんのことで、当初とうしょはどちらかというと気味ぎみであったといい、槍術そうじゅつ得意とくいとしたという。

西郷さいごう隆盛たかもりぞうのモデル[編集へんしゅう]

キヨッソーネによる西郷さいごう隆盛たかもり肖像しょうぞうかおした半分はんぶん大山おおやまいわおがモデルといわれる。

大山おおやま従兄弟いとこである西郷さいごう隆盛たかもり肖像しょうぞうとして、イタリアじん画家がかエドアルド・キヨッソーネえがいた肖像しょうぞうがよくられているが、西郷さいごう生前せいぜん写真しゃしん肖像しょうぞうのこしていなかったため、キヨッソーネはこの肖像しょうぞうかおうえ半分はんぶん西郷さいごう従道つぐみちした半分はんぶん大山おおやまいわおをモデルにしてえがいたといわれている[37][38][39]東京とうきょう上野うえのにある西郷さいごう隆盛たかもりぞうなどもキヨッソーネの肖像しょうぞうもとにしているとされる[37]

西洋せいようかぶれ[編集へんしゅう]

大山おおやま西洋せいようかぶれ非常ひじょう西洋せいよう文化ぶんかへの憧憬どうけいつよく、また造詣ぞうけいふかかった。後藤ごとう象二しょうじろう西園寺さいおんじ公望きんもちらとともに「ルイ・ヴィトン日本人にっぽんじん顧客こきゃくとなった最初さいしょひと」として、ヴィトンの顧客こきゃく名簿めいぼ自筆じひつのサインがのこっている。捨松すてまつとの再婚さいこんとき披露宴ひろうえん招待しょうたいじょう全文ぜんぶんフランス語ふらんすごかれたもの人々ひとびと仰天ぎょうてんさせたという。陸軍りくぐん大臣だいじん公邸こうていたあとにてた自邸じていドイツ古城こじょうをモチーフとしたものだった。しかし、趣味しゅみはお世辞せじにもいいとはいえない代物しろもので、ここをたずねた捨松すてまつ旧友きゅうゆうアリス・ベーコンにも酷評こくひょうされている。いわおはこの新居しんきょ満足まんぞくしていたが、つま捨松すてまつは「あまりにも洋式ようしき生活せいかつになれると日本にっぽん風俗ふうぞくになじめないのでは」と、自分じぶん経験けいけんから子供こども将来しょうらい心配しんぱいし、子供部屋こどもべや和室わしつにしつらえていた。

政治せいじとして[編集へんしゅう]

明治めいじ前期ぜんきには陸軍りくぐんきょうとしてたに干城かんじょう曾我そがゆうじゅん鳥尾とりお小弥太こやた三浦みうら梧楼ごろうのいわゆる「よん将軍しょうぐん」との内紛ないふん陸軍りくぐん紛議ふんぎ)に勝利しょうりして陸軍りくぐん分裂ぶんれつ阻止そしし、彼等かれら拠点きょてんしていた月曜げつようかい解散かいさんさせた。以後いご明治めいじ中期ちゅうきから大正たいしょうにかけて陸軍りくぐん大臣だいじん長期ちょうきにわたってつとめた。元老げんろうとしてもおもきをなし、陸軍りくぐんでは山縣やまがた有朋ありともならだい実力じつりょくしゃとなったが、政治せいじてき野心やしん権力けんりょくよくとぼしく、元老げんろうなかでは西郷さいごう従道つぐみちならんで総理そうり大臣だいじん候補こうほせられることを終始しゅうしつづけた。

大隈おおくま重信しげのぶ大山おおやま薩摩さつまじんでありながら、郷土きょうど縁故えんこをもってたのごとをされてもらず、超越ちょうえつした存在そんざいとして公平こうへいい、内大臣ないだいじん適任てきにんしゃであったと回想かいそうしている[33]。また山縣やまがた有朋ありとも私心ししんがなく公平こうへいであったと回想かいそうしている[33]

きみ[編集へんしゅう]

大山おおやま日本にっぽん国歌こっかとなるきみ制定せいていにもかかわっているとされることがあるが、曾孫そうそん[注釈ちゅうしゃく 1]大山おおやまかくいわお国歌こっか制定せいていかかわったというはなし大山おおやままったつたわっていないとしている[40]

大山おおやまいわお自身じしん談話だんわによれば、明治めいじ3ねんすえ、もしくは4ねんはじめごろ(グレゴリオれきでは1871ねん)、おやへいにおける薩摩さつまバンド薩摩さつまはん軍楽隊ぐんがくたい)の隊員たいいんたいイギリス公使館こうしかん護衛ごえいたい歩兵ほへい大隊だいたい軍楽隊ぐんがくたいちょうジョン・ウィリアム・フェントンは、国歌こっかあるいは儀礼ぎれい音楽おんがくてきものがあれば、それから指導しどうするとべた。これを薩摩さつまバンド隊員たいいん当時とうじはん砲兵ほうへい隊長たいちょうであった大山おおやま報告ほうこくしたさい大隊だいたいちょう野津のつ鎮雄しずお薩摩さつまはんだい参事さんじ大迫おおさこ貞清さだきよ臨席りんせきしていた。このさい大山おおやまは「(イギリス国歌こっかのように)よろしく宝祚ほうそ隆昌りゅうしょう天壌無窮てんじょうむきゅうならむことをいのたてまつれるうたせんむべきである」とべ、愛唱あいしょうである薩摩琵琶さつまびわの「蓬莱山ほうらいさん」を提案ていあんしたところ、野津のつ大迫おおさこ賛成さんせいした[41]大山おおやまはそのどのような経緯けいいて「きみ」が国歌こっかとなったのかはらないとべている[41]。ただし「きみ」を提案ていあんしたのは静岡しずおか藩士はんしおつこつ太郎たろうおつであるというせつ存在そんざいしている[42]

史跡しせき顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

きゅうだん坂上さかがみ大山おおやまいわお騎馬きばぞう

邸宅ていたく[編集へんしゅう]

大山おおやま生前せいぜん建設けんせつした本邸ほんてい大正たいしょう12ねん1923ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいにより崩壊ほうかいした。その大山おおやまは、東京とうきょう表参道おもてさんどう穏田いち丁目ちょうめ当時とうじ[注釈ちゅうしゃく 2]広大こうだい私邸していっていたが、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう末期まっき昭和しょうわ20ねん1945ねん)5がつ東京とうきょうだい空襲くうしゅう焼失しょうしつした。そのさいアメリカぐん大山おおやまていなどを目標もくひょうにしていたといわれる。

また本邸ほんていほか静岡しずおかけん沼津ぬまづ[注釈ちゅうしゃく 3]栃木とちぎけん那須なす当時とうじ西那須野にしなすのむら那須塩原なすしおばら)に別荘べっそう所有しょゆうしていた。このうち那須なすにあった別邸べっていは、のち大山おおやま記念きねん洋館ようかん大山おおやま別邸べってい)としてけん指定してい文化財ぶんかざいとなっており、県立けんりつ那須なすたく高等こうとう学校がっこう管理かんりしている[43]那須なすでは農場のうじょうっており[注釈ちゅうしゃく 4]ひまがあればやま仕事しごと従事じゅうじしていたという[44]

銅像どうぞう[編集へんしゅう]

現在げんざい大山おおやま騎馬きば姿すがた銅像どうぞうきゅうだんざかじょう存在そんざいしている。千代田ちよだ観光かんこう協会きょうかい解説かいせつによれば、このぞう新海しんかい竹太郎たけたろうさくによるもので、大正たいしょう8ねん(1919ねん)11月3にち国会こっかい前庭ぜんていきた地区ちく洋式ようしき庭園ていえんてられていたといわれているが、その経緯けいい不明ふめいながらも現在げんざい位置いち移設いせつされたとしている[45]一方いっぽうで、いわお曾孫そうそん歴史れきしライターの大山おおやまかくは、公刊こうかん伝記でんき元帥げんすい公爵こうしゃく大山おおやまいわお』やたんちょうはんの『大山おおやま元帥げんすい[46]例示れいじし、銅像どうぞう当初とうしょさんたくざか陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ構内こうないにあったとしている[47]大山おおやまかくによれば、銅像どうぞうはその東條とうじょう内閣ないかく金属きんぞく供出きょうしゅつされ三宅みやけざかから撤去てっきょされたが、戦後せんごになって上野うえの東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく構内こうない横倒よこだおしとなって放置ほうちされていたところを発見はっけんされ、昭和しょうわ39ねん1964ねん)5がつ17にち現在げんざい再建さいけんされた[47]いわおである大山おおやまかしわ著書ちょしょ大山おおやま元帥げんすいゆき進軍しんぐん』において、再建さいけん協力きょうりょくした人々ひとびと感謝かんしゃべている[47]

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

栃木とちぎけん那須塩原なすしおばら大山おおやまいわお墓所はかしょ参道さんどう

栃木とちぎけん那須塩原なすしおばらにある大山おおやま墓所はかしょ参道さんどうにはモミジヒノキ並木なみき整備せいびされており、あきには紅葉こうようのトンネルのような景観けいかんとなる[48][49]参道さんどう設計せっけい山本やまもと直三郎なおさぶろうによるもので[49]当初とうしょはモミジと交互こうごさくらえられていたが、さくられてしまったため伐採ばっさいされのこっていない[49]

顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

明治めいじ39ねんにち戦争せんそうこうとなえて、三島みしま中洲ちゅうしゅうにより赤城あかぎ神社じんじゃ (新宿しんじゅく)巨大きょだい石碑せきひ建立こんりゅうされたが、平成へいせい22ねんどう神社じんじゃのマンション建設けんせつともななおとき撤去てっきょされた[50][51]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 大隈おおくま重信しげのぶ常識じょうしきには非常ひじょうんでおられ、けっして世間せけん想像そうぞうするがごとく、世事せじくらいち武弁ぶべんたるにまるものではい。しかしおおやけはかくのごとくして独楽こまどくまきこととする君子くんしのおもかげはあるが、すすんで積極せっきょくてきあくしりぞぜんをなさるるごと言動げんどうにはでられない。畢竟ひっきょうするにおおやけいち君子人くんしじんであった」[33]
  • 山縣やまがた有朋ありとも沈黙ちんもく寡言かげんもって、あるいは茫漠ぼうばくとして捕捉ほそくするところなきがかいするひとあらんも、その聡明そうめいにして事物じぶつ推移すいい洞察どうさつし、大局たいきょく帰趨きすう達観たっかんするのあかりいたりては、じつ敬服けいふくそとなく、さら黙々もくもくあいだひとるの慧眼けいがんには、おおやけもの畏敬いけいかざるところなり」[52]
  • 伊藤いとう博文ひろぶみ西郷さいごうおう隆盛りゅうせい)はひとってまかせるし、大山おおやまひとまかせる。どっちもえらい」 [44]
  • 土方ひじかた久元ひさもととくたかいたって質素しっそ大海たいかいごと大量たいりょう人物じんぶつであった。した使つかわるる人々ひとびとだれとして敬服けいふく心服しんぷくせぬものはなかった。一言ひとことにしてひょうせばしょうしょうたる大将たいしょうぐんであった。こういう人物じんぶつはただきているということそれだけで国家こっかたいして利益りえきのあるものである。すなわ国宝こくほうもうすべき人物じんぶつである」[53]
  • かつら太郎たろう大山おおやまさんのえらいところは、大山おおやまさんの下僚かりょうったものでなければわからぬ」[32]
  • 川村かわむらじゅんよし 「壮年そうねん時代じだいからふとってたが、さけ煙草たばこ一切いっさいやらず、毎日まいにち起居ききょ動作どうさはすべて軍隊ぐんたいしき非常ひじょう摂生せっせいであった。一時いちじていない玉突たまつきだいもうけたこともあるが、遊戯ゆうぎふけるということけっしてない。無口むくちようだが、あれでなかなかひとわらわせるよう面白おもしろ冗談じょうだんことがあった」[54]
  • 樺山かばやま
    • 大山おおやまおれどもとは明治めいじじゅうさんねんからの知合しりあいで、従道つぐみち大山おおやまおれどもさんにん無二むにりょうともであった。このさんにんめしよりもりょうきで、毎週まいしゅう土曜どようから日曜にちようにかけてとまりがけで浦和うらわ保土ヶ谷ほどがや熊谷くまがや方面ほうめんへ雉打にかける。大山おおやま一番いちばん健脚けんきゃくで、あさくらいうちからやまくと昼飯ひるめしまでは一休ひとやすみもしないでとりっかけまわし、ちっとも草臥くたびれた様子ようすもない。そのわりよるよこになるとかみなりようだいいびきで、大山おおやまはたるとねむられたものではない。従道つぐみちひとわるいから樺山かばやまなかろとって、自分じぶんるべく大山おおやまとおほうたりした」[55]
    • 「あるばん鳩ケ谷はとがやとまったところが、となり座敷ざしきろくにんきゃく芸者げいしゃげて大騒おおさわぎをってる。流石さすが大山おおやまねむられないので癇癪かんしゃくおこし、宿やど女中じょちゅうんで安眠あんみん妨害ぼうがいだと小言こごとう。女中じょちゅうとなり座敷ざしきへおしずかにとたのみにくがなかなかしずまらぬ。大山おおやまさん女中じょちゅう使者ししゃったが手応てごたえがない。夜中よなか一時いちじごろいまさかんにさわいでる。大山おおやまこたえられなくなったとがって鉄砲てっぽうをドンドンした。となりきゃくおどろくまいこと芸者げいしゃきゃくきゅうしずかになった」[56]
    • 大山おおやまだい警視けいしになったとき保土ヶ谷ほどがやであったとおもうが、さんにん茶店ちゃみせのぼって昼飯ひるめしってると、ひょうつないでいた大山おおやまいぬとおりかかりの巡査じゅんさいてズボンをんだ。宿やどおんなびをったが巡査じゅんさ承知しょうちしない。いぬ飼主かいぬししゅつろとう。それから大山おおやま平謝ひらあやまりにあやまって勘弁かんべんしろとうが、巡査じゅんさ益々ますますたけだかでおまえ名前なまえなんうか名刺めいししゅっせと如何いかしてもだくかない。大山おおやま仕方しかたがないから不承ふしょう々々にだい警視けいし肩書かたがきのある名刺めいしすと、巡査じゅんさがっておどろき、今後こんご地位ちい顛倒てんとうだ。巡査じゅんさ平蜘蛛ひらぐもようになって無礼ぶれいびる。それから警察けいさつ署長しょちょう謝罪しゃざいするやら、こんな滑稽こっけいもあったよ」[56]
  • 石黒いしぐろ忠悳ただのり
    • 公爵こうしゃくけっして才智さいちひょうあらわことのないひとです。すなわさとしというものをまった超越ちょうえつしているひとであるとおもいます」[57]
    • 一見いっけん何事なにごとをもらざるがく、しかして何事なにごとをもっていた。おおやけ本領ほんりょうはもちろん、ぐんしょうとして三軍さんぐん叱咤しったするにあったが、いちめん政治せいじをもかい経済けいざいにもつうじ、八方はっぽうしこりだいざいであった」[58]
  • 福島ふくしま安正やすまさ 「ああいう偉人いじん真似まね出来できぬ。やまくずれてもけてもビクともしないあのおおきなところしん天下てんかちん国家こっか柱石ちゅうせきである。おおやけ中正ちゅうせい廉潔れんけつすこしの私心ししんももたない。薩摩さつまじんであって薩摩さつま贔屓ひいきをするでなく、私党しとうわたしつくることを絶対ぜったいしない。私行しこうじょうなんいちてん非難ひなんどころのない立派りっぱひとで、ことに礼譲れいじょうとく相手あいてえらひとであろうが凡人ぼんじんであろうがその態度たいどすこしも差別さべつい」[59]
  • 徳富とくとみ蘇峰そほう
    • おおやけさとしは、みずかわたくしするの小智しょうちにあらずして、天下てんか大局たいきょくしょするの大智たいちなり。古人こじんいわく、そのさとしにはおよく、そのにはおよからずと。さとし極致きょくちなり。ただ大山おおやまこういて、これにちかし。おおやけさとし大勢おおぜいるにながじ、ひと鑑別かんべつするにながじ、とくみずかしょするにちょうじたり。おおやけはある意味いみいて、個人こじん主義しゅぎしゃなり。親分おやぶんもなければ、子分こぶんもなし。したがって藩閥はんばつしんもなければ、党閥とうばつしんもなし。しかもまた利己りこてき個人こじん主義しゅぎしゃにあらずして、偉大いだいなる個人こじん主義しゅぎしゃなり」[60]
    • 大山おおやまこう非常ひじょう公平こうへいひと藩閥はんばつたましいせいなどは微塵みじんもなかった。すなわちとく子分こぶんやしなったり味方みかたつくったり、あるいは党派とうはむなどうことはすこしもなかった。つね一本立いっぽんだちで堂々どうどう天下てんかとおした。このあたり現代げんだいじん余程よほど調子ちょうしちがってる」[61]
    • 大山おおやまこうはまた節倹せっけん力行りっこうひとで、かれごと高位こうい高官こうかん地位ちいにありながら、驕奢きょうしゃをほしいままにするとか収賄しゅうわいするなどうことはさらになかった。かれの穏田のいえつくときごときも、その木材もくざい那須なす自分じぶん山林さんりんからしたものである。また他人たにんからおくものなどあったときは、仮令たとい如何程いかほど些細ささいなものにたいしても一々いちいちそれ相当そうとう返礼へんれいをしたものだ」[62]
  • 吉田よしだ清英きよひで
    • 「(少年しょうねん時代じだいの)大山おおやまこういまようえてはないせた貧相ひんそうほうであった。ことおおやけ家中いえじゅうでも評判ひょうばんやり使づかいでのうにわやり稽古けいこをしてるのをた。此のころ武士ぶし学問がくもんえば経書けいしょ源平げんぺい以後いご軍書ぐんしょであったが、大山おおやまこうきで得意とくいなのはもとかめ天正てんしょう軍書ぐんしょちゅうにも武田たけださんだい真田さなだ幸村ゆきむらなどでことごとこれ暗唱あんしょうし、武田たけださんだいなんかんえばこえおうじてちゅうんだものだ。しの記憶きおくいのには感服かんぷくしてた」[63]
    • いまでこそあのように円満えんまんえるものの、大山おおやまこうわかとき従道つぐみちさんのうえした腕白わんばくしゃで、豪胆ごうたんおもった横着おうちゃくしゃであった。そうして機敏きびん機略きりゃくんでた。併しちょうずるにしたが敏捷びんしょう機略きりゃくうちつつんでそとげんわさないようになった。あのひと巴里ぱりからかえった明治めいじ初年しょねんころ日本一にっぽんいちだいハイカラで加治屋かじやまち時代じだい叛骨はんこつわたるじょどんとはれなかった」[64]
  • 末松すえまつ謙澄けんちょう 「大山おおやまこう人物じんぶつ薩摩さつま豪傑ごうけつれんひとしく、ちいさい事務じむ才幹さいかんのあるひとではなく、万事ばんじ下僚かりょうまかせにするというひと頭目とうもくてきしてった。吾輩わがはいかつ書生しょせい時代じだい福地桜痴ふくちおうち居士こじが『大山おおやまさんは愚物ぐぶつのようなひとであるがじつはこの愚物ぐぶつのような性格せいかく成功せいこうするひとであろう』とったがはたして其どおりであった。おおやけ大義たいぎしたがって断然だんぜん大西おおにしさと砲煙ほうえんあいだあいゆるようになった。おおやけ大義名分たいぎめいぶんためにはじついちだく千金せんきんひとであった。おおやけ国家こっかたいする方針ほうしん大久保おおくぼこうそうひとしく、そのため大久保おおくぼこうおおやけ見抜みぬいてすこしもうたがうことなく軍隊ぐんたいあたえて戦場せんじょうおもむかしめたのである。大義名分たいぎめいぶんためしょするというおおやけ大義たいぎてんすれば、事務じむざいとぼしいなどうことはろんずるにらぬ」[65]
  • 吉田よしだしげるはち 「御前ごぜんはこの大山おおやま開墾かいこん)にだしでになるとかならずものさしをって森林しんりんちゅうあしれ、ばしてで『おまえはおおきくなったな、去年きょねんよりは一寸ちょっとおおきくなった』とものさしをててはなしをされます。この農場のうじょうなによりもきで此処ここら墓地ぼちつくりたいとっていられました」[66]
  • ジョルジュ・デラ・ファイユ・デ・ルーヴェルゲンオランダばん伯爵はくしゃくベルギー公使こうし) 「おおやけつね我々われわれ外国がいこくじんせっして、愉快ゆかい印象いんしょうあたえられた。宮中きゅうちゅうなどで山縣やまがたこう大山おおやまこうったとき印象いんしょう区別くべつすれば、山縣やまがたこう此方こちらからのといあればこたえんとう、きわめて厳格げんかくふうほうであるとおもわるるが、大山おおやまこうなに話題わだいつくってはなしかけようとおもわれている様子ようすがありありとえる、ごく平民へいみんてきほうであった。公爵こうしゃくていって種々しゅじゅはなししているあいだに、公爵こうしゃく外国がいこくかんすること正確せいかくはなされた。それでわたし公爵こうしゃく外国がいこく書物しょもつや、外国がいこくはなし始終しじゅう注意ちゅういしておらるるほうだとおもっていました。とうていたずらに外国がいこくはなしをしてその知識ちしきしめそうというほうではなく、あいだ々にはごく平易へいいなおはなしもあり、あるとき公爵こうしゃくわたしもっときなのは田園でんえん生活せいかつで、自然しぜんほど自分じぶんよろこばすものはいなどとかたられた」 [68]
  • ニコ・ミリアレッシーギリシャ軍事ぐんじ通信員つうしんいん) 「元帥げんすいとしかさねられて大分おおいたあたまふるいなどというひともありましたが、わたしはそうはおもいませんでした。わたし昨日きのう独逸どいつからかえったばかりなどというあたらしい将校しょうこうってはなしきますが、それとう人々ひとびと意見いけんよりもかえってろう元帥げんすい意見いけんほう新式しんしきで、またはるかにしんたっているのにおどろきました。わたしろう元帥げんすい先天的せんてんてき軍人ぐんじん軍人ぐんじんちゅうにはめずらしい遠大えんだい計画けいかく腹蔵ふくぞうしているとおもいました」[69]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 大山おおやま咲子さきこ(大山おおやまかしわ長女ちょうじょ)と大山おおやま健次けんじ(咲子さきこ婿養子むこようし)の
  2. ^ 現在げんざい東京とうきょう渋谷しぶや神宮前じんぐうまえ5丁目ちょうめ
  3. ^ 牛臥山うしぶせやまみなみ斜面しゃめんにあった。
  4. ^ 農場のうじょう敷地しきち現在げんざい西那須野にしなすのえき東側ひがしがわ那須塩原なすしおばら南町みなみまち西にし朝日町あさひまち一帯いったいであり、現在げんざい別邸べってい門衛もんえいしょ墓所はかしょがある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、6ぺーじ
  2. ^ あお鉛筆えんぴつ朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん昭和しょうわ51ねん)10がつ13にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん
  3. ^ a b アジア歴史れきし資料しりょうセンター.
  4. ^ 20世紀せいき初頭しょとうのライプチヒ-植物しょくぶつ学者がくしゃ大野おおの直枝なおえのドイツ日記にっき 増田ますだ芳雄よしお人間にんげん環境かんきょう科学かがく 8 9-38, 1999 帝塚山大学てづかやまだいがく人間にんげん環境かんきょう科学かがく研究所けんきゅうじょ
  5. ^ 伊藤いとうゆう 2016, p. 102-103.
  6. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん」1914ねん04がつ23にち
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 大山おおやまいわお」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051166100 
  8. ^ 官報かんぽうだい993ごう叙任じょにん及辞れい」1886ねん10がつ20日はつか
  9. ^ 官報かんぽうだい3746ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん12月21にち
  10. ^ 官報かんぽうだい1308ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん12月11にち
  11. ^ 官報かんぽうだい307ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1884ねん7がつ8にち
  12. ^ 官報かんぽうだい1928ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん11月30にち
  13. ^ 官報かんぽうだい1971ごう彙報いほう」1890ねん1がつ27にち
  14. ^ 官報かんぽうだい3631ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1895ねん8がつ6にち
  15. ^ 官報かんぽうだい3824ごう付録ふろく辞令じれい」1896ねん4がつ1にち
  16. ^ 官報かんぽうだい4363ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん1がつ21にち
  17. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月30にち
  18. ^ 官報かんぽうだい7272ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち
  19. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  20. ^ 官報かんぽうだい1187ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ15にち
  21. ^ 官報かんぽう号外ごうがいみことのりれい」1916ねん12月11にち
  22. ^ 官報かんぽうだい1311ごう大山おおやま内大臣ないだいじん葬儀そうぎ」1916ねん12月14にち
  23. ^ 官報かんぽうだい178ごうしょうくん叙任じょにん」1884ねん2がつ5にち
  24. ^ a b c 官報かんぽうだい482ごうしょうくん」1885ねん2がつ12にち
  25. ^ 官報かんぽうだい2350ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん5がつ4にち
  26. ^ 官報かんぽうだい2372ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん5がつ29にち
  27. ^ 官報かんぽうだい6828ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん4がつ7にち
  28. ^ 元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう侯爵こうしゃく大山おおやまいわおがい二名外国勲章受領及佩用ノけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10112619400 
  29. ^ 官報かんぽうだい7051ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月28にち
  30. ^ 大山おおやまこう令嬢れいじょう信子のぶこ新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんし. だいきゅうかん林泉りんせんしゃ、1940、p412
  31. ^ 渡辺わたなべとめコトバンク
  32. ^ a b 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 225.
  33. ^ a b c d 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく 1917, p. 342-343.
  34. ^ 長南ちょうなん政義まさよし日本にっぽんかつ国宝こくほう 大山おおやまいわお」『さかうえくも5つの疑問ぎもん並木なみき書房しょぼう、2011ねん
  35. ^ 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 190.
  36. ^ 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 188.
  37. ^ a b 西郷さいごう隆盛たかもりあらたな肖像しょうぞう発見はっけん NHKによる仕掛しかけなのか?”. NEWSポストセブン. 小学館しょうがくかん (2018ねん1がつ25にち). 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  38. ^ 吉国よしくにざい (2018ねん4がつ16にち). “本物ほんもの”のせごどん? 造幣局ぞうへいきょく行幸ぎょうこう写真しゃしんめぐ論争ろんそう資料しりょうには本人ほんにん」「写真しゃしんぎらいで特徴とくちょうちがう」…けんの1まい公開こうかい”. 産経さんけいニュース. 産経新聞さんけいしんぶんしゃ. p. 2. 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  39. ^ 宮下みやしたただしひさろう (2018ねん8がつ30にち). “西郷さいごう隆盛たかもり 肖像しょうぞうあらわれる英雄えいゆうへの思慕しぼ”. 産経さんけいニュース. 産経新聞さんけいしんぶんしゃ. 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  40. ^ かなり誤解ごかいもありまして 大山おおやまかくのブログ” (2015ねん10がつ3にち). 2019ねん9がつ27にち閲覧えつらん
  41. ^ a b 曾祖父そうそふは「きみ」を制定せいていしていない。にち戦争せんそうそう司令しれいかん大山おおやまいわおかんするウソ・ホント”. 和樂わらくweb 日本にっぽん文化ぶんかくちマガジン (2020ねん12月23にち). 2021ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  42. ^ さわあきらすすむ海軍かいぐんななじゅうねん史談しだん』「国歌こっかきみ」の歌詞かし選出せんしゅつ由来ゆらい」、339~343ぺーじ
  43. ^ 大山おおやま記念きねん洋館ようかん那須塩原なすしおばら
  44. ^ a b 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 220.
  45. ^ スポット(大山おおやまいわおぞう) 【公式こうしき東京とうきょう千代田ちよだ観光かんこう情報じょうほう公式こうしきサイト / Visit Chiyoda”. 千代田ちよだ観光かんこう協会きょうかい. 2019ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  46. ^ たんちょうはん大山おおやま元帥げんすい』(1942ねん富士ふじ書店しょてんNDLJP:1169365、135p
  47. ^ a b c わたしおこっている 大山おおやまかくのブログ” (2014ねん12月22にち). 2019ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  48. ^ 大山おおやま参道さんどうのモミジ並木なみき”. 那須塩原なすしおばら. 2009ねん12月6にち閲覧えつらん
  49. ^ a b c 那須なすマッキー (2019ねん11月15にち). 那須高原なすこうげん晩秋ばんしゅういろどる「大山おおやま公園こうえん紅葉こうようトンネル」は見逃みのがせない!”. eltha. LINEトラベル (オリコン). https://beauty.oricon.co.jp/article/994209/ 2020ねん2がつ21にち閲覧えつらん 
  50. ^ 矢来やらいまち神楽坂かぐらざかはなし飯田いいだ逸夫いつお触媒しょくばい学会がっかいシニア懇談こんだんかい触媒しょくばい懇談こんだんかいニュース101ごう、2017ねん4がつ1にち
  51. ^ 大山おおやまいわお赤城あかぎ神社じんじゃ東京とうきょう新宿しんじゅく歴史れきし、2006/12/04
  52. ^ 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 214-217.
  53. ^ 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく 1917, p. 344.
  54. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P126
  55. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P124
  56. ^ a b 武勲ぶくん大山おおやまこう』P125
  57. ^ 西村にしむら文則ふみのり, 1917 & p190-191.
  58. ^ 維新いしんざつこう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  59. ^ 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく 1917, p. 345.
  60. ^ 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく 1917, p. 324-333.
  61. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P148
  62. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P149
  63. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P11
  64. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P12
  65. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P111
  66. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P133
  67. ^ 武勲ぶくん大山おおやまこう』P99
  68. ^ 西村にしむら文則ふみのり 1917, p. 211-213.
  69. ^ 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく 1917, p. 346-347.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 児島こじまじょう大山おおやまいわお』(ぜん4かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)(双方そうほうともしなきり絶版ぜっぱんにちしん戦争せんそうまでをえがく、続編ぞくへんは『にち戦争せんそうどう
  • 長南ちょうなん政義まさよし日本にっぽんかつ国宝こくほう 大山おおやまいわお」ゲームジャーナル編集へんしゅうさかうえくも5つの疑問ぎもん』(並木なみき書房しょぼう、2011ねんISBN 4890632840
  • 西村にしむら文則ふみのり大山おおやま元帥げんすい』(1917ねん忠誠ちゅうせいどうNDLJP:951560
  • 明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょくへん武勲ぶくん大山おおやまこう』(1917ねん明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかいNDLJP:955878
  • 伊藤いとうゆう元老げんろう近代きんだい日本にっぽんしん指導しどうしゃたち』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016ねんISBN 978-4121023797 
  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 大山おおやまいわお”. にち戦争せんそう特別とくべつてん. アジア歴史れきし資料しりょうセンター. 2019ねん6がつ22にち閲覧えつらん

大山おおやまいわお登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
さだあい親王しんのう
内大臣ないだいじん出仕しゅっし
日本の旗 内大臣ないだいじん
だい4だい:1915ねん4がつ23にち - 1916ねん12がつ10日とおか
次代じだい
松方まつかた正義まさよし
先代せんだい
高島たかしま鞆之すけ
新設しんせつ
日本の旗 陸軍りくぐん大臣だいじん
だい3だい:1892ねん8がつ8にち - 1896ねん9がつ20日はつか
初代しょだい:1885ねん12月22にち - 1891ねん5がつ17にち
次代じだい
高島たかしま鞆之すけ
高島たかしま鞆之すけ
先代せんだい
新設しんせつ欠員けついん
日本の旗 内務ないむ大輔だいすけ
1879ねん - 1880ねん
次代じだい
前島まえじまひそか
先代せんだい
川路かわじ利良としよし
日本の旗 だい警視けいし
だい2だい:1879ねん10がつ16にち - 1880ねん2がつ28にち
次代じだい
樺山かばやま
先代せんだい
鳥尾とりお小弥太こやた(→欠員けついん
日本の旗 陸軍りくぐんしょう
1874ねん - 1878ねん
次代じだい
欠員けついん→)小沢おざわ武雄たけお
ぐんしょく
先代せんだい
山県やまがた有朋ありとも
川上かわかみ操六そうろく
参謀さんぼう総長そうちょう
だい6だい:1905ねん12がつ20日はつか - 1906ねん4がつ10日とおか
だい4だい:1899ねん5がつ16にち - 1904ねん6がつ20日はつか
次代じだい
児玉こだま源太郎げんたろう
山県やまがた有朋ありとも
先代せんだい
山県やまがた有朋ありとも
かんぐん
1889ねん - 1890ねん
次代じだい
三好みよし重臣じゅうしん
先代せんだい
山県やまがた有朋ありとも
参謀さんぼう本部ほんぶちょう
だい3だい:1882ねん9がつ4にち - 1884ねん2がつ13にち
次代じだい
山県やまがた有朋ありとも
先代せんだい
新設しんせつ
参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょう
1878ねん - 1880ねん
次代じだい
欠員けついん→)曽我そがゆうじゅん
先代せんだい
曽我そがゆうじゅん
陸軍りくぐん士官しかんがく校長こうちょう
1878ねん - 1879ねん
次代じだい
たに干城かんじょう
先代せんだい
種田たねた政明まさあき
熊本くまもと鎮台ちんだい司令しれい長官ちょうかん
1876ねん
次代じだい
たに干城かんじょう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
公爵こうしゃく
大山おおやま初代しょだい
1907ねん - 1916ねん
次代じだい
大山おおやまかしわ
先代せんだい
陞爵
侯爵こうしゃく
大山おおやま初代しょだい
1895ねん - 1907ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
大山おおやま初代しょだい
1884ねん - 1895ねん
次代じだい
陞爵