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西郷さいごうきくくさ

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さいごう きくそう

西郷さいごう きくくさ
生誕せいたん (1862-07-31) 1862ねん7がつ31にち
琉球りゅうきゅう王国おうこく奄美あまみ大島おおしま
死没しぼつ (1910-09-06) 1910ねん9月6にち(48さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん京都きょうと京都きょうと
別名べつめい 大山おおやま 菊子きくこ
配偶はいぐうしゃ 大山おおやま誠之助せいのすけ
子供こども
  • 米子よなご
  • けいきち
  • つなそく
  • 冬子どんこ
おや
家族かぞく 西郷さいごう菊次郎きくじろうあに
テンプレートを表示ひょうじ

西郷さいごう きくくさ(さいごう きくそう、文久ぶんきゅう2ねん7がつ5にち1862ねん7がつ31にち) - 明治めいじ42ねん1910ねん9月6にち)は、幕末ばくまつから明治めいじ時代じだい女性じょせい西郷さいごう隆盛たかもり長女ちょうじょははあい大山おおやま誠之助せいのすけつま同母どうぼけい西郷さいごう菊次郎きくじろう結婚けっこん大山おおやま 菊子きくこ

生涯しょうがい

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文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)7がつ奄美あまみ大島おおしま誕生たんじょうした。12さいごろ鹿児島かごしま西郷さいごうられ、明治めいじ9ねん(1876ねん)、14さい大山おおやまいわおおとうとである誠之助せいのすけ婚約こんやくする。ちち隆盛りゅうせい西南せいなん戦争せんそう戦死せんししたのちは、西郷さいごう正妻せいさい糸子いとこもと家事かじいそしんだ。婚約こんやくしゃ誠之助せいのすけ西南せいなん戦争せんそう従軍じゅうぐんし、負傷ふしょうして捕虜ほりょとなり3ねん釈放しゃくほうされ帰郷ききょうする。明治めいじ13ねん(1880ねん)、きくくさ17さいで30さい誠之助せいのすけ結婚けっこん名前なまえを「菊子きくこ」とあらためる。米子よなごけいきちつなそく冬子どんこの4をもうけるが、おっと誠之助せいのすけ定職ていしょくかず、家庭かていない暴力ぼうりょくもあったという。

菊子きくこおっと別居べっきょし、京都きょうと市長しちょうとなったあに菊次郎きくじろうたよって子供こども2にんとともに京都きょうとらすようになる。明治めいじ42ねん(1910ねん)9がつ6にち京都きょうと菊次郎きくじろうたく死去しきょした[1]。48さい葬儀そうぎには、西郷さいごう糸子いとこ大山おおやま捨松すてまつ有馬ありま国子くにこ大山おおやまいわおあね)、西郷さいごうまつ叔父おじであるしょう兵衛ひょうえつま)などが参列さんれつした。はか東京とうきょう杉並すぎなみ大円寺だいえんじ

近年きんねんあにともうつ菊子きくこ写真しゃしん菊次郎きくじろう曾孫そうそん自宅じたく発見はっけんされた[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 原田はらだ 2018; 原田はらだ 2019.
  2. ^ きくそう写真しゃしんつかる”. 奄美あまみ新聞しんぶん (2018ねん3がつ2にち). 2020ねん10がつ30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • いえきん良樹よしき西郷さいごう隆盛たかもり じん相手あいてにせず、てん相手あいてにせよ』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2017ねん8がつISBN 978-4-623-08097-7 
  • 原田はらだ良子りょうこ西郷さいごう菊次郎きくじろう京都きょうと邸宅ていたくきくそう終焉しゅうえん)について」『敬天けいてん愛人あいじんだい36ごう西郷さいごうみなみしゅう顕彰けんしょうかん、2018ねん 
  • 原田はらだ良子りょうこ西郷さいごう隆盛たかもりむすめ きくそう終焉しゅうえんについて」『地名ちめい探究たんきゅうだい17ごう京都きょうと地名ちめい研究けんきゅうかい、2019ねん