石黒いしぐろ忠悳ただのり

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石黒いしぐろ 忠悳ただのりいしぐろ ただのり
石黒いしぐろ忠悳ただのり(1897ねん
生誕せいたん 1845ねん3月18にち
日本にっぽん陸奥みちのくこく伊達だてぐん梁川はしかわ
死没しぼつ (1941-04-26) 1941ねん4がつ26にち(96さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1871 - 1901
最終さいしゅう階級かいきゅう 軍医ぐんい総監そうかん
戦闘せんとう 佐賀さがらん
西南せいなん戦争せんそう
にちしん戦争せんそう
除隊じょたい 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょう
墓所はかしょ 谷中たになか霊園れいえん
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石黒いしぐろ忠悳ただのり
生年月日せいねんがっぴ 1845ねん3月18にち
出生しゅっしょう 日本にっぽん陸奥みちのくこく伊達だてぐん梁川はしかわ
(げん福島ふくしまけん伊達だて)
ぼつ年月日ねんがっぴ (1941-04-26) 1941ねん4がつ26にち(96さいぼつ
ぜんしょく 軍医ぐんい総監そうかん
称号しょうごう したがえいち
旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
昭和しょうわろくねん乃至ないしきゅうねん事変じへん従軍じゅうぐん記章きしょう
大満だいましゅうこく建国けんこく功労こうろうあきら
大礼たいれい記念きねんあきら昭和しょうわ
せい
赤十字せきじゅうじだい一等いっとう名誉めいよあきら
ポルスキー勲章くんしょうグランクロア
したがえ
だいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねんあきら
紺綬こんじゅ褒章ほうしょう
大正たいしょうさんねん乃至ないしきゅうねん戦役せんえき従軍じゅうぐん記章きしょう
一等いっとうぶんとら勲章くんしょう
大礼たいれい記念きねんあきら大正たいしょう
韓国かんこく併合へいごう記念きねんあきら
せいさん
はなだい勲章くんしょう
赤十字せきじゅうじだいさんとう記章きしょう
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
明治めいじさんじゅうななはちねん従軍じゅうぐん記章きしょう
したがえさん
神聖しんせいスタニスラス星章せいしょうづけだいとう勲章くんしょう
せいよん
明治めいじじゅうななはちねん従軍じゅうぐん記章きしょう
こうさんきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう
だいとうだい双竜そうりゅうたからぼし
くんとう瑞宝章ずいほうしょう
したがえよん
大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ記念きねんあきら
せい
くんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう
したがえ
せいろく
したがえろく
せいなな
子女しじょ 長男ちょうなん石黒いしぐろ忠篤ただあつ

在任ざいにん期間きかん 1902ねん1がつ25にち[1] - 1920ねん2がつ27にち[2]
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石黒いしぐろ 忠悳ただのり(いしぐろ ただのり、ひろし2ねん2がつ11にち1845ねん3月18にち) - 昭和しょうわ16ねん1941ねん4がつ26にち)は、明治めいじ時代じだい日本にっぽん陸軍りくぐん軍医ぐんい日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょう茶人ちゃじん草創そうそう軍医ぐんい制度せいど確立かくりつした。爵位しゃくい子爵ししゃく

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1888ねんプロイセン王国おうこくベルリンにて日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせいと。1888ねん[3]前列ぜんれつひだりより河本かわもと重次郎しげじろう山根やまね正次まさつぐ田口たぐち和美かずみかた山國やまくによしみ石黑いしぐろ隈川くまがわ宗雄むねお尾澤おざわ主一しゅいち[4]ちゅうれつひだりからもり林太郎りんたろうたけしまつとむ中濱なかはま東一郎とういちろう佐方さがたせんぞう(のち侍医じい)、島田しまだ武次たけつぐ(のち宮城みやぎ病院びょういん産科さんかちょう)、谷口たにぐちけん瀬川せかわあきら北里きたさとしば三郎さぶろう江口えぐちじょう[4]後列こうれつひだりから濱田はまだげんたち加藤かとうあきら麿まろ北川きたがわおつ治郎じろう[4]

幼名ようみょう庸太郎ようたろう(つねたろう)。ちち平野ひらのじゅんさく良忠よしただ幕府ばくふ代官だいかん手代てだいになり、奥州おうしゅう福島ふくしまけん)の陣屋じんやつとめているときに庸太郎ようたろうまれた。1856ねん2がつ元服げんぷくして忠恕ただひろ(ただのり)を名乗なのり、平野ひらの庸太郎ようたろう忠恕ただひろしょうしたが、やがて忠徳ただのりのち忠悳ただのりあらためた(とくとく[5]父母ちちはははやくなり、天涯孤独てんがいこどくとなる。16さいのとき、ちちあねとついでいた越後えちごこく三島みしまぐん片貝かたかいむらいま新潟にいがたけん小千谷おじや)の石黒いしぐろ養子ようしになった。私塾しじゅくひらき、松代まつだい佐久間さくま象山ぞうさんって感銘かんめいけた。中山道なかせんどうつい分宿ぶんしゅくでは志士しし大島おおしま誠夫のぶおい、親交しんこうむすんだ。江戸えどて、幕府ばくふ医学いがくしょ卒業そつぎょう医学いがくしょ句読くとうとなる。

幕府ばくふたお医学いがくしょ解散かいさんいち帰郷ききょうするが、ふたた東京とうきょうもどり、医学いがくしょ後身こうしんである大学だいがくひがしこう東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ前身ぜんしん)につとめる。1871ねん松本まつもとりょうじゅんすすめで兵部ひょうぶしょうはい[6]草創そうそう軍医ぐんいとなった。

佐賀さがらん西南せいなん戦争せんそう従軍じゅうぐん明治めいじじゅうねん(1887ねん)9がつに、ドイツバーデンくにカルルスルーエ開催かいさいされただいよんかい赤十字せきじゅうじ国際こくさい会議かいぎ政府せいふ委員いいんとして出席しゅっせきし、北里きたさとしば三郎さぶろうもり林太郎りんたろう尾澤おざわ主一しゅいちらと出逢であ[7]1890ねん陸軍りくぐん軍医ぐんい総監そうかん昇進しょうしんするとともに、陸軍りくぐん軍医ぐんい人事じんじけんをにぎるトップの陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう陸軍りくぐん軍医ぐんい序列じょれつだいいち)に就任しゅうにんした。にちしん戦争せんそうのとき、医務いむ局長きょくちょうとして大本営だいほんえい陸軍りくぐん野戦やせん衛生えいせい長官ちょうかんをつとめた。にちしん戦争せんそうでは脚気かっけ惨害さんがい責任せきにん指摘してきされている(詳細しょうさいは、にちしん戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけだい流行りゅうこう参照さんしょうのこと)。戦後せんご台湾たいわんでの脚気かっけ惨害さんがい高島たかしま鞆之すけ陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにんすると、軍医ぐんい制度せいど確立かくりつした功労こうろうしゃでありながら、1897ねん医務いむきょくちょう辞任じにんした(事実じじつじょう引責いんせき辞任じにん[8]

長州ちょうしゅうばつのトップ山縣やまがた有朋ありとも薩摩さつまばつのトップ大山おおやまいわお、また児玉こだま源太郎げんたろうなどと懇意こんいで、その陸軍りくぐん軍医ぐんい後年こうねん陸軍りくぐん衛生えいせい改称かいしょう)に隠然いんぜんたる影響えいきょうりょくをもった。1901ねん4がつ17にち予備よびやく編入へんにゅう[9]1907ねん4がつ1にち後備こうびやく[10]1912ねん退官たいかん

茶人ちゃじんとしてもられ、况斎・况翁ごうがある。1898ねん明治めいじ31ねん)、松浦まつうらかい(心月しんげつあん在京ざいきょう華族かぞく知名ちめいとう設立せつりつした輪番りんばん茶事ちゃじグループ「和敬わけいかい」の会員かいいんとなる。会員かいいんは、青地あおち幾次いくつぐろうたたえうみ)・伊藤いとう雋吉(むねかそけ伊東いとうゆう麿まろげんとお岩見いわみあきらづくりむぐら叟)・岡崎おかざきおもんみもとふち冲)金澤かなざわ三右衛門さんえもんあおいおっと)・戸塚とつか文海ぶんかいかくれひがしたねじょう素雲そうんひがし久世くせどおり禧(久松ひさまつ勝成かつなりにん叟)松浦まつうらひさしちり)・三田みた葆光はぜのきえん)・三井みつい高弘たかひろ松籟しょうらい安田やすだ善次郎ぜんじろう松翁しょうおう以上いじょう16にんのち益田ますだたかしどんおきな高橋たかはし義雄よしおほうきあん入会にゅうかい)で、に「十六羅漢じゅうろくらかん」とばれた。

石黒いしぐろ忠悳ただのりが「陸軍りくぐん軍医ぐんい総監そうかん中将ちゅうじょう相当そうとう)」に任命にんめいされたさい辞令じれいしょ明治めいじ30ねん4がつ8にち

のち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃだい4だい社長しゃちょうなどをつとめた。1895ねん男爵だんしゃく1920ねん子爵ししゃくとなった。1941ねん老衰ろうすいのため死去しきょ[11]没後ぼつご石黒いしぐろ襲爵しゅうしゃく手続てつづきおこなわず、同年どうねん10がつ華族かぞく栄典えいてん喪失そうしつした[12]

家族かぞく[編集へんしゅう]

長男ちょうなん石黒いしぐろ忠篤ただあつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょうのう商務省しょうむしょうはいり、穂積ほづみ陳重のぶしげ次女じじょ光子こうし結婚けっこん太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんのうしょう大臣だいじんをつとめた。

その[編集へんしゅう]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょうとう佩用はいよう允許いんきょ

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 石黒いしぐろ忠悳ただのり 懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん』(博文ひろぶみかん、1936ねん私家版しかばん)。復刻ふっこくばん大空おおぞらしゃ(2004ねん
石黒いしぐろ懐古かいこだん坪谷つぼやみずらがへんさんした。文庫ぶんこばん小松こまつみやあきらじん親王しんのう日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ初代しょだい総裁そうさい)、乃木のぎ希典まれすけなどにかんする記事きじ全体ぜんたいの7ぶんの1じゃく)や、漢詩かんし図版ずはん削除さくじょされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、11ぺーじ
  2. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、29ぺーじ
  3. ^ 石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん、1936ねん、241ぺーじ。(ページ番号ばんごう記載きさいなし)
  4. ^ a b c 石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん、1936ねん、242ぺーじ。(ページ番号ばんごう記載きさいなし)
  5. ^ 懐旧かいきゅうきゅうじゅうねん岩波いわなみ文庫ぶんこ、P52、p65。
  6. ^ 上田うえだただしあきらほか監修かんしゅう ちょ三省堂さんせいどう編修へんしゅうしょ へん『コンサイス日本人にっぽんじんめい事典じてん だい5はん三省堂さんせいどう、2009ねん、98ぺーじ 
  7. ^ もり鷗外と医学いがく留学生りゅうがくせいたちの交流こうりゅう山崎やまざき光夫みつお日本にっぽん史学しがく雑誌ざっし だい55かんだい1ごう(2009)
  8. ^ 石黒いしぐろ自身じしんは「円満えんまん辞職じしょく」としている。『懐旧かいきゅうきゅうじゅうねん』、341-342ぺーじ
  9. ^ 官報かんぽうだい5334ごう明治めいじ34ねん4がつ18にち
  10. ^ 官報かんぽうだい7180ごう明治めいじ40ねん6がつ7にち
  11. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)3ぺーじ
  12. ^ 官報かんぽうだい4442ごう昭和しょうわ16ねん10がつ28にち
  13. ^ 裕司ゆうじ後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅうみなみまどしゃ、2007ねん、73-79ぺーじISBN 978-4-8165-0354-2
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq 石黒いしぐろ忠悳ただのり」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051181100 
  15. ^ 太政官だじょうかん日誌にっし明治めいじ5ねんだい29ごう
  16. ^ 太政官だじょうかん日誌にっし明治めいじ6ねんだい96ごう
  17. ^ 太政官だじょうかん日誌にっし明治めいじ6ねんだい152ごう
  18. ^ 官報かんぽうだい1019ごう叙任じょにん」1886ねん11月20にち
  19. ^ 官報かんぽうだい2187ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん10がつ11にち
  20. ^ 官報かんぽうだい3893ごう叙任じょにん及辞れい」1896ねん6がつ22にち
  21. ^ 官報かんぽうだい5390ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん6がつ22にち
  22. ^ 官報かんぽうだい8415ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん7がつ11にち
  23. ^ 官報かんぽうだい2692ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん7がつ21にち
  24. ^ 官報かんぽうだい533ごう叙任じょにん及辞れい」1928ねん10がつ3にち
  25. ^ 官報かんぽうだい4290ごう叙任じょにん及辞れい」1941ねん4がつ30にち
  26. ^ 官報かんぽうだい718ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん11月20にち
  27. ^ 官報かんぽうだい1933ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月6にち
  28. ^ 官報かんぽうだい3578ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん6がつ5にち
  29. ^ 官報かんぽうだい3644ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん8がつ21にち
  30. ^ 官報かんぽうだい3824ごう付録ふろく辞令じれい」1896ねん4がつ1にち
  31. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1907ねん1がつ28にち
  32. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  33. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち
  34. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  35. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  36. ^ 官報かんぽうだい3629ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん8がつ3にち
  37. ^ 官報かんぽうだい8101ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん6がつ24にち
  38. ^ 官報かんぽうだい3258ごう叙任じょにん及辞れい」1923ねん6がつ11にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ウィキソースには、日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃろくごと(1920ねん6がつ26にち官報かんぽう原文げんぶんがあります。


公職こうしょく
先代せんだい
長与ながよ専斎せんさい
日本の旗 中央ちゅうおう衛生えいせいかい会長かいちょう
1902ねん - 1920ねん
次代じだい
北里きたさとしば三郎さぶろう
先代せんだい
長谷川はせがわやすし
日本の旗 日本にっぽん薬局方やっきょくほう調査ちょうさ会長かいちょう
1902ねん - 1906ねん
次代じだい
長井ながい長義ながよし
ぐんしょく
先代せんだい
石坂いしざかおもんみひろし
陸軍りくぐん軍医ぐんい学舎がくしゃちょう
陸軍りくぐんぐん医学いがく校長こうちょう
1888ねん - 1890ねん
陸軍りくぐん軍医ぐんい学舎がくしゃちょう
1888ねん
次代じだい
足立あだちひろし
校長こうちょう心得こころえ
先代せんだい
新設しんせつ
陸軍りくぐん衛生えいせい会議かいぎ議長ぎちょう
1888ねん - 1890ねん
次代じだい
石坂いしざかおもんみひろし
その役職やくしょく
先代せんだい
花房はなふさよししつ
日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょう
1917ねん - 1920ねん
次代じだい
平山ひらやましげるしん
先代せんだい
新設しんせつ
大橋おおはし図書館としょかんなが
1902ねん - 1917ねん
次代じだい
坪谷つぼや善四郎ぜんしろう
先代せんだい
渡辺わたなべひろしもと
大倉おおくら商業しょうぎょう学校がっこうとくちょう
1901ねん - 1906ねん
次代じだい
立花たちばなひろしぞう
校長こうちょう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
子爵ししゃく
石黒いしぐろ忠悳ただのり初代しょだい
1920ねん - 1941ねん
次代じだい
栄典えいてん喪失そうしつ
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
石黒いしぐろ忠悳ただのり初代しょだい
1895ねん - 1920ねん
次代じだい
陞爵