尾澤おざわ主一しゅいち

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尾澤おざわ 主一しゅいち
生誕せいたん 1858ねん
日本の旗 武蔵むさしこく
死没しぼつ 1889ねん6月21にち
清の旗 上海しゃんはい
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ卒業そつぎょう
職業しょくぎょう 医師いし
医学いがくしゃ
活動かつどう期間きかん 1883ねん - 1889ねん
著名ちょめい実績じっせきしゅさん科學かがく』を上梓じょうし
医学いがく関連かんれん経歴けいれき
分野ぶんや 小児しょうに科学かがく
所属しょぞく 帝国ていこく大学だいがく

尾澤おざわ 主一しゅいち(おざわ しゅいち、1858ねん - 1889ねん6月21にち)は、日本にっぽん医師いし医学いがくしゃ小児しょうに科学かがく)。学位がくい医学いがく東京大学とうきょうだいがく1883ねん)。せいの「さわ」は「さわ」のきゅう字体じたいのため、しん字体じたい尾沢おざわ 主一しゅいち(おざわ しゅいち)とも表記ひょうきされる。旧姓きゅうせいじんノ內(じんのうち)。旧姓きゅうせいの「內」は「うち」のきゅう字体じたいのため、しん字体じたいじんうち(じんのうち)とも表記ひょうきされる。

帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく助手じょしゅなどを歴任れきにんした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

武蔵むさしこく出身しゅっしん医師いしである。東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶまな[1]帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがくにて小児科しょうにか担当たんとうした。また、ドイツこく医学いがくしゃであるカール・シュローダー著作ちょさく翻訳ほんやく手掛てがけるなど[2][3][4]西洋せいようすすんだ医療いりょう紹介しょうかいし、大日本帝国だいにっぽんていこく医学いがく発展はってん尽力じんりょくした。ドイツこく留学りゅうがくしたもののやまいにかかり[5]帰国きこく途上とじょうきよし客死かくしした[5]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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1858ねん安政あんせい年間ねんかん)、武蔵むさしこくにてまれ、江戸えど府内ふないらしていた。生家せいかであるじんノ內家は佐賀さがけんにルーツがあるが[6]、のちに東京とうきょう尾澤おざわ養子ようしとなった[6]明治維新めいじいしんあたらしいにおいて医学いがくてようとこころざし、くに設置せっちした官立かんりつ大学だいがくである東京大学とうきょうだいがく進学しんがく[1][註釈ちゅうしゃく 1]医学部いがくぶにてまなんだ[1][註釈ちゅうしゃく 2]1883ねん明治めいじ16ねん)、東京とうきょう大学だいがく卒業そつぎょうした。それにともない、医学いがく学位がくい取得しゅとくした[註釈ちゅうしゃく 3]医学部いがくぶからは、河本かわもと重次郎しげじろう[7]大谷おおやあまね[7]内田うちだ守一しゅいち[7]隈川くまがわ宗雄むねお[7]齋藤さいとう為信ためのぶ[7]川原かわはらひろし[7]いそ[7]北里きたさとしば三郎さぶろう[7]池田いけだ陽一よういち[7]高橋たかはしもりやすし[7]浦島うらしま堅吉けんきち[7]山根やまねぶんさく[7]中山なかやま專太郎せんたろう[7]緒方おがた太郎たろう[7]木村きむら孝藏こうぞう[1]佐々木ささき[1]川俣かわまた四男よつお[1]岩佐いわさのぼり彌太やた[1]鶴崎つるさき平三郎へいさぶろう[1]千原ちはらはるはじめ[1]りゅう小一郎こいちろう[1]みなみ二郎じろう[1]眞部まなべ於菟おと[1]淺田あさだ[1]黑柳くろやなぎ精一郎せいいちろう[1]、の25めい尾澤おざわとともに卒業そつぎょうしている[1]。いずれも明治めいじ、および、大正たいしょう年間ねんかん医学いがくかいにな人材じんざいとなった。大学だいがく卒業そつぎょう養家ようかである尾澤おざわむすめ正式せいしき結婚けっこん[6]むすめ婿むことなった。そのさい東京とうきょう牛込うしごめ邸宅ていたく[6]河本かわもと重次郎しげじろう高橋たかはしもりやすし同級生どうきゅうせいまねいたという[8]

医学いがくしゃとして[編集へんしゅう]

1888ねんプロイセン王国おうこくベルリンにて日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせい[9]前列ぜんれつひだりより河本かわもと重次郎しげじろう山根やまね正次まさつぐ田口たぐち和美かずみかた山國やまくによしみ石黑いしぐろ忠悳ただのり隈川くまがわ宗雄むねお尾澤おざわちゅうれつひだりからもり林太郎りんたろうたけしまつとむ中濱なかはま東一郎とういちろう佐方さがたせんぞう(のち侍医じい)、島田しまだ武次たけつぐ(のち宮城みやぎ病院びょういん産科さんかちょう)、谷口たにぐちけん瀬川せかわあきら北里きたさとしば三郎さぶろう江口えぐちじょう後列こうれつひだりから濱田はまだげんたち加藤かとうあきら麿まろ北川きたがわおつ治郎じろう[10]

大学だいがく卒業そつぎょうは、内科ないかとして活動かつどうするとともに、医学いがくしゃとしても活躍かつやくした。母校ぼこうである東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがくとして改組かいそされると[註釈ちゅうしゃく 4]、そこで小児科しょうにか担当たんとうした。なお、同級生どうきゅうせいだった河本かわもと重次郎しげじろう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく外科げか担当たんとうしていたことから[6]双方そうほうがともに宿直しゅくちょくのときは議論ぎろんはなかせたという[8]。その、よりふか医学いがくまなびたいとかんがえ、帝国ていこく大学だいがく決意けついかためた。

1888ねん明治めいじ21ねん4がつヨーロッパすすんだ内科ないかがく研究けんきゅうするため[5]フリードリヒさんせい皇帝こうてい治世ちせいドイツこく留学りゅうがくした。当時とうじのドイツこくは、ヴィルヘルムいちせい皇帝こうてい崩御ほうぎょにより、同年どうねん3月9にちにフリードリヒ三世さんぜ帝位ていいいたばかりであった。しかし、同年どうねん6月15にちにはフリードリヒさんせい皇帝こうてい崩御ほうぎょし、わってヴィルヘルムせい即位そくいするなど、激動げきどう時代じだいであった。ドイツこく連邦れんぽう国家こっかであり、複数ふくすうくにによって構成こうせいされているが、そのなかでもっと勢力せいりょくつよいのがプロイセン王国おうこくであった。尾澤おざわはプロイセン王国おうこくむことにし、同国どうこく首都しゅとであり、かつ、ドイツこく全体ぜんたい首都しゅとでもあるベルリンにて医学いがくまなはじめた。当時とうじのドイツこくには、かつての同級生どうきゅうせいである河本かわもと重次郎しげじろう[11]隈川くまがわ宗雄むねお[11]北里きたさとしば三郎さぶろうをはじめ[11]、のちに文豪ぶんごうとしてられるようになるもり林太郎りんたろうなど[11]多数たすう日本人にっぽんじん医学いがくせい留学りゅうがくしていた。石黑いしぐろ忠悳ただのりがベルリンを訪問ほうもんしたさい尾澤おざわ河本かわもと隈川くまがわ北里きたさともり日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせいとともに撮影さつえいした写真しゃしんのこされている。

その病魔びょうまにより体調たいちょうくずすようになった[5]肺炎はいえん診断しんだんされたことから[5]療養りょうようのためいったん帰国きこくすることにした[5]。しかし、帰国きこく途上とじょう1889ねん明治めいじ22ねん6月21にちきよし上海しゃんはい旅館りょかんにて死去しきょした[5]墓所はかしょ染井そめい霊園れいえん

研究けんきゅう[編集へんしゅう]

しゅさん科學かがく上巻じょうかん表紙ひょうし[12]

せんもん医学いがくであり、とく小児しょうに科学かがくかんする分野ぶんや研究けんきゅう従事じゅうじした。また、ヨーロッパの医学いがく紹介しょうかいするため、専門せんもんしょ学術がくじゅつしょ和訳わやくにもんだ。たとえば、石黒いしぐろ宇宙うちゅう浦嶋うらしま堅吉けんきちとともに、ドイツこく医学いがくしゃであるカール・シュローダー著作ちょさく翻訳ほんやくんだ。その成果せいかは、1886ねん明治めいじ19ねん)から1888ねん明治めいじ21ねん)にかけて『しゅさん科學かがく』としてまとめられた[2][3][4]。なお、『しゅさん科學かがく』は上下じょうげまき構成こうせいであるが[2][3][4]下巻げかんがあまりに大部たいぶであるため、下巻げかんをさらに「ひつじさる」と「いぬい」の2つにけている[3][4]。また、カール・シュローダーの氏名しめいは「カール・シロイテル」[13]表記ひょうきしたり、せいで「しゅ魯逸ありづか[14]表記ひょうきしている。同書どうしょはヨーロッパの最新さいしん産科さんかがく紹介しょうかいする本格ほんかくてき専門せんもんしょであり、明治めいじ時代じだい学術がくじゅつしょとしてよくられている。

顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだい医家いか多数たすう埋葬まいそうされていることでられる染井そめい霊園れいえんほうむられており[15][16]、「醫學いがく尾澤おざわ主一しゅいちはか」が建立こんりゅうされている[17]周囲しゅういには尾澤おざわはかおおく、すぐよこ薬種やくしゅしょう尾澤おざわりょうはじめ顕彰けんしょうする石碑せきひ建立こんりゅうされている[18]。なお、主一しゅいち東京とうきょう牛込うしごめ牛込うしごめ筑土八幡つくどはちまんまちんでいたが[19][20][21]りょうはじめおなじく牛込うしごめ筑土八幡つくどはちまんまちんでいた[22]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

  • 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん
  • 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1887ねん
  • 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかんひつじさる嶋村しまむら利助としすけどう支店してん南江堂なんこうどう1888ねん

講演こうえんろく[編集へんしゅう]

  • 尾澤おざわ主一しゅいち講述こうじゅつ瀨尾せおあきらさく筆記ひっき小児しょうに科學かがく瀨尾せおあきらさく1892ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

註釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 東京大学とうきょうだいがく帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくとなり、のちにあらたな東京大学とうきょうだいがく源流げんりゅうひとつとなった。
  2. ^ 東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶとなり、のちにあらたな東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ源流げんりゅうひとつとなった。
  3. ^ 1883ねん当時とうじ医学いがく学位がくいであったが、その医学いがく称号しょうごうとなった。のちの学士がくし医学いがく学位がくい相当そうとうする。
  4. ^ 帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがくは、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶとなり、のちにあらたな東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ源流げんりゅうひとつとなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 帝國ていこく大學だいがく編纂へんさん帝國ていこく大學だいがく一覧いちらん帝國ていこく大學だいがく1887ねん、249ぺーじ
  2. ^ a b c 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん
  3. ^ a b c d 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかんひつじさる嶋村しまむら利助としすけどう支店してん南江堂なんこうどう1888ねん
  4. ^ a b c d 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1887ねん
  5. ^ a b c d e f g h i 醫學いがく尾澤おざわ主一しゅいち訃音ふいん」『中外ちゅうがい醫事いじ新報しんぽう』223ごう中外ちゅうがい醫事いじ新報しんぽうしゃ1889ねん7がつ、53ぺーじ
  6. ^ a b c d e 河本かわもと重次郎しげじろうちょ『囘顧ろく河本かわもと先生せんせい喜壽きじゅ祝賀しゅくがかい事務所じむしょ1936ねん、76ぺーじ
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 帝國ていこく大學だいがく編纂へんさん帝國ていこく大學だいがく一覧いちらん帝國ていこく大學だいがく1887ねん、248ぺーじ
  8. ^ a b 河本かわもと重次郎しげじろうちょ『囘顧ろく河本かわもと先生せんせい喜壽きじゅ祝賀しゅくがかい事務所じむしょ1936ねん、77ぺーじ
  9. ^ 石黑いしぐろ忠悳ただのりちょ石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん1936ねん、241ぺーじ。(ページ番号ばんごう記載きさいなし)
  10. ^ 石黑いしぐろ忠悳ただのりちょ石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん1936ねん、242ぺーじ。(ページ番号ばんごう記載きさいなし)
  11. ^ a b c d 石黑いしぐろ忠悳ただのりちょ石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん1936ねん、206ぺーじ
  12. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん表紙ひょうし
  13. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん凡例はんれい
  14. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん、1ぺーじ
  15. ^ 堀江ほりえ幸司こうじ染井そめい霊園れいえん医家いかめいはかさぐる①――坪井つぼい信道のぶみち坪井つぼい信良のぶよし緒方おがた正規まさき」『医学いがく図書館としょかん』42かん3ごう日本にっぽん医学いがく図書館としょかん協会きょうかい1995ねん、339ぺーじ
  16. ^ 堀江ほりえ幸司こうじ染井そめい霊園れいえん医家いかめいはかさぐる②――さかき俶・田口たぐち和美かずみ」『医学いがく図書館としょかん』43かん3ごう日本にっぽん医学いがく図書館としょかん協会きょうかい1996ねん、363ぺーじ
  17. ^ 醫學いがく尾澤おざわ主一しゅいちはか1889ねん6月21にち
  18. ^ 岸田きしだ吟香ぎんこう篆額、もりあきら撰文せんぶん中根なかねはんみねしょせき安兵衛やすべえ鐫『尾澤おざわくんいしぶみ1894ねん11月
  19. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく上巻じょうかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1886ねん奥付おくづけ
  20. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかん嶋村しまむら利助としすけどう支店してん1887ねん奥付おくづけ
  21. ^ 石黑いしぐろ宇宙うちゅう尾澤おざわ主一しゅいち浦嶋うらしま堅吉けんきち飜譯『しゅさん科學かがく下巻げかんひつじさる嶋村しまむら利助としすけどう支店してん南江堂なんこうどう1888ねん奥付おくづけ
  22. ^ 神楽坂かぐらざか4丁目ちょうめ・6丁目ちょうめ――尾澤おざわ薬局やっきょく」『かぐらむら: 今月こんげつ特集とくしゅう : 記憶きおくなか神楽坂かぐらざか』サザンカンパニー。

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 醫學いがく尾澤おざわ主一しゅいち訃音ふいん」『中外ちゅうがい醫事いじ新報しんぽう』223ごう中外ちゅうがい醫事いじ新報しんぽうしゃ1889ねん7がつ、53ぺーじ
  • 石黑いしぐろ忠悳ただのりちょ石黑いしぐろ忠悳ただのり懷舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん1936ねん
  • 山崎やまざき光夫みつおちょ明治めいじじゅういちねんろくがつさんにち――鷗外「ベルリン写真しゃしん」のなぞく』講談社こうだんしゃ2012ねんISBN 978-4-06-217719-1

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]