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もり鷗外

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もり林太郎りんたろうから転送てんそう
もりもり 鷗外おうがい
54さいもり鷗外(1916ねん
誕生たんじょう もり 林太郎りんたろう(もり りんたろう)
(1862-02-17) 1862ねん2がつ17にち
石見いわみこく津和野つわの町田まちだむら現在げんざい島根しまねけん鹿足かのあしぐん津和野つわのまち町田まちだ
死没しぼつ (1922-07-09) 1922ねん7がつ9にち(60さいぼつ
東京とうきょうげん東京とうきょう
墓地ぼち 禅林寺ぜんりんじ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ評論ひょうろん翻訳ほんやく陸軍りくぐん軍医ぐんい官僚かんりょう教育きょういくしゃ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん
教育きょういく 医学いがく博士はかせ文学ぶんがく博士はかせ
最終さいしゅう学歴がくれき 東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ
活動かつどう期間きかん 1889ねん - 1922ねん
ジャンル 小説しょうせつ翻訳ほんやく史伝しでん
主題しゅだい 近代きんだい知識ちしきじん苦悩くのう
文学ぶんがく活動かつどう はん自然しぜん主義しゅぎ高踏こうとう
代表だいひょうさく舞姫まいひめ』(1890ねん
うたかたの』(1890ねん
ヰタ・セクスアリス』(1909ねん
青年せいねん』(1910ねん
かり』(1911ねん
阿部あべ一族いちぞく』(1913ねん
山椒さんしょう大夫たいふ』(1915ねん
最後さいご一句いっく』(1915ねん
高瀬舟たかせぶね』(1916ねん
渋江しぶえ抽斎ちゅうさい』(1916ねん
おも受賞じゅしょうれき 勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう(1915ねん
おくしたがえ(1922ねんぼつ叙位じょい
デビューさく於母かげ』(1889ねん
配偶はいぐうしゃ 登志子としこ(1889ねん - 1890ねん
(1902ねん - 1922ねん
子供こども 於菟おと長男ちょうなん
茉莉まり長女ちょうじょ
あんずやつ次女じじょ
りつ二男じなん
るい三男さんなん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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もり 鷗外(もり おうがい、文久ぶんきゅう2ねん1がつ19にち[1]1862ねん2がつ17にち[2][注釈ちゅうしゃく 1]〉- 大正たいしょう11ねん1922ねん7がつ9にち)は、日本にっぽん明治めいじ大正たいしょう小説しょうせつ評論ひょうろん翻訳ほんやく教育きょういくしゃ陸軍りくぐん軍医ぐんい軍医ぐんい総監そうかん陸軍りくぐん中将ちゅうじょう相当そうとう)、官僚かんりょう高等官こうとうかん一等いっとう)。位階いかい勲等くんとうしたがえ勲一等くんいっとうこうさんきゅう医学いがく博士はかせ文学ぶんがく博士はかせ石見いわみこく津和野つわの現在げんざい島根しまねけん鹿足かのあしぐん津和野つわのまち出身しゅっしん本名ほんみょうもり 林太郎りんたろう(もり りんたろう)。東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ[注釈ちゅうしゃく 2]卒業そつぎょう大学だいがく卒業そつぎょう陸軍りくぐん軍医ぐんいになり、陸軍りくぐんしょう派遣はけん留学生りゅうがくせいとしてドイツでも軍医ぐんいとして4ねんごした。

帰国きこく訳詩やくしへん「於母かげ」、小説しょうせつ舞姫まいひめ」、翻訳ほんやく即興そっきょう詩人しじん」を発表はっぴょうする一方いっぽう同人どうじんたちと文芸ぶんげい雑誌ざっししがらみ草紙ぞうし』を創刊そうかんして文筆ぶんぴつ活動かつどうはいった。そのにちしん戦争せんそう出征しゅっせい小倉おぐら転勤てんきんなどにより創作そうさく活動かつどうから一時期いちじきとおざかったものの、『スバル創刊そうかんに「ヰタ・セクスアリス」「かり」などを発表はっぴょう乃木のぎ希典まれすけ殉死じゅんし影響えいきょうされて「興津おきつわたる五右衛門ごえもん遺書いしょ」を発表はっぴょう、「阿部あべ一族いちぞく」「高瀬舟たかせぶね」など歴史れきし小説しょうせつ史伝しでん澁江しぶえ抽斎ちゅうさい」なども執筆しっぴつした。

陸軍りくぐん退しりぞいたのちみや内省ないせいてんじ、帝室ていしつ博物館はくぶつかん現在げんざい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんひとし総長そうちょう図書としょあたま死去しきょまでつとめたほか、帝国ていこく美術びじゅついんげん日本にっぽん芸術げいじゅついん初代しょだい院長いんちょうなども歴任れきにんした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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1862ねん2がつ17にち文久ぶんきゅう2ねん1がつ19にち)、鷗外こともり林太郎りんたろう石見いわみこく鹿足かのあしぐん津和野つわの町田まちだむらげん島根しまねけん鹿足かのあしぐん津和野つわのまち町田まちだ)でまれた[3]代々だいだい津和野つわのはんてんつとめるもりろくだかは50せき[1])では、祖父そふちち婿養子むこようし[注釈ちゅうしゃく 3]としてむかえているため、久々ひさびさ跡継あとつ誕生たんじょうであった[注釈ちゅうしゃく 4]

はん医家いか嫡男ちゃくなんとして、おさなころから『論語ろんご』『孟子もうし』といった漢学かんがくしょオランダなどをまなび、養老ようろうかんでは四書ししょ五経ごきょうふく読した。当時とうじ記録きろくから、9さいで15さい相当そうとう学力がくりょく推測すいそくされており[4]激動げきどう明治維新めいじいしん家族かぞく周囲しゅういから将来しょうらい期待きたいされることになった。

もり静男しずお経営けいえいしたたちばなどうあといしぶみ

1872ねん明治めいじ5ねん)、廃藩置県はいはんちけんなどをきっかけに10さいの鷗外はちち上京じょうきょうする。現在げんざい墨田すみだ東向島ひがしむこうじまむ。

東京とうきょうでは、官立かんりつ学校がっこうドイツじん教官きょうかんドイツ講義こうぎ)への入学にゅうがくそなえてドイツ習得しゅうとくするため、同年どうねん10がつ私塾しじゅくすすむ文学ぶんがくしゃ[注釈ちゅうしゃく 5]はいった。そのさい通学つうがく便びんから、鷗外は政府せいふ高官こうかん親族しんぞくである西にしあまね邸宅ていたく一時期いちじき寄宿きしゅくした。

翌年よくねんのこ家族かぞく住居じゅうきょなどを売却ばいきゃくして津和野つわのはなれ、ちち経営けいえいする医院いいんのある千住せんじゅうつむ。

東京とうきょう医学いがく校生こうせい[編集へんしゅう]

1873ねん明治めいじ6ねん)11月、鷗外は入校にゅうこう試問しもんけ、だい一大いちだい学区がっく学校がっこう東京とうきょう学校がっこう医学いがく本科ほんか定員ていいんやく60にん修業しゅうぎょう年限ねんげん3ねん[5])[6]じつ年齢ねんれいより2さいおおいつわり、まん11さい10ヶ月かげつ[注釈ちゅうしゃく 6]入学にゅうがくした。

当時とうじは、大学だいがく制度せいど確立かくりつまでの過渡かとであり、こうめい頻繁ひんぱん変更へんこうされるほどで、入学にゅうがく年齢ねんれい制限せいげんは14 - 17さいであった[7]

入学にゅうがくは9がつであったが、定員ていいんやく60めい最大さいだい定員ていいん100めいたっしなかったため、学生がくせい募集ぼしゅうつづけられており、じつ年齢ねんれいいつわった鷗外のほか、上限じょうげん年齢ねんれいえた18さいと19さい応募おうぼしゃ入学にゅうがくし、新入生しんにゅうせいは71めいだった[8]。しかし、そのうち本科ほんかすすめるのは30めいぎず、さらに上級じょうきゅう落第らくだいしゃ編入へんにゅうせいくわわり、予科よかせいきびしい競争きょうそうにさらされた。鷗外のぞくしたドイツ中位ちゅういのクラスで落第らくだいせず卒業そつぎょうしたのは24めいのうち11めい下位かいクラスでは41めいのうち2めいであった[8]

鷗外は、同校どうこう医学いがく本科ほんか定員ていいんやく30にん修業しゅうぎょう年限ねんげん5ねん)に進学しんがくし、ドイツじん教官きょうかんたちの講義こうぎけた。一方いっぽうで、医学いがくかん教授きょうじゅ佐藤さとう元長もとなが漢文かんぶん漢詩かんし漢方かんぽう医書いしょまなんだ。漢文かんぶん依田よだ學海がっかい伊藤いとう松渓まつたに孫一まごいち)からもまなび、佐藤さとう応挙おうきょから漢詩かんし和歌わかまなびながら、漢詩かんし和歌わかつくっていった[9]

西洋せいようにも堪能かんのうな鷗外は、「寄宿舎きしゅくしゃでは、その講義こうぎのうちにあった術語じゅつごだけを、まれ臘(ギリシア)ひしげ甸(ラテン)語原ごげん調しらべて、あかインキでペエジのえんしてく。教場きょうじょうそとでの為事しごとほとんどそれせつである。ひと術語じゅつごおぼえにくくてこまるというと、ぼく可笑おかしくてたまらない。何故なぜ語原ごげん調しらべずに、器械きかいてきおぼえようとするのだといたくなる。」と自伝じでんてき小説しょうせつヰタ・セクスアリス」で自身じしん学習がくしゅうほうしるしている。

いもうと回想かいそうには、下宿げしゅく同居どうきょして鷗外の世話せわをしていた祖母そぼが、卒業そつぎょう試験しけんまえ文学ぶんがくしょみふける鷗外を心配しんぱいするくだりがあり、卒業そつぎょう試験しけん最中さいちゅう下宿げしゅく火事かじになって講義こうぎノートるい焼失しょうしつしたり、鷗外のノートに漢文かんぶんみをつけた外科げかがくのシュルツ教授きょうじゅから反感はんかんったりしたこともあったが[10]1881ねん明治めいじ14ねん7がつ4にちまん19さい5ヶ月かげつ[注釈ちゅうしゃく 7]東京とうきょう学校がっこう本科ほんか席次せきじ8ばん卒業そつぎょうした。首席しゅせき卒業そつぎょうした同級生どうきゅうせい三浦みうら守治もりじ(のち東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ)は

大学だいがくざいルヤ同級生どうきゅうせいもり林太郎りんたろう俊才しゅんさいアリ、高橋たかはしじゅん太郎たろう勉強べんきょうアリ。きょう畏敬いけいセル競争きょうそうしゃナリキ

門下生もんかせいかたっており、卒業そつぎょう席次せきじ上位じょうい10めいなか他者たしゃより5 - 7さい年下とししたの鷗外は優秀ゆうしゅうであった[10]

陸軍りくぐん軍医ぐんいとして任官にんかん[編集へんしゅう]

しかし、卒業そつぎょうの鷗外は、医者いしゃ役人やくにんまた教育きょういくしゃ、ましてや軍人ぐんじんになることはかんがえず、なにか物書ものか夢見ゆめみており、文部省もんぶしょう派遣はけん留学生りゅうがくせいとしてドイツに希望きぼうちながら、ちち病院びょういん手伝てつだっていた。その進路しんろ未定みてい状況じょうきょうかねた同期生どうきせい小池こいけ正直まさなお(のちの陸軍りくぐんしょう医務いむちょう)は、陸軍りくぐん軍医ぐんい本部ほんぶ次長じちょう石黒いしぐろ忠悳ただのりに鷗外を採用さいようするよう長文ちょうぶんあつ推薦すいせんじょうしており、また親友しんゆう賀古かこ鶴所つるど(かこ・つると(のち日本にっぽん耳鼻咽喉じびいんこう科学かがくちちといわれる陸軍りくぐん軍医ぐんい)は、鷗外に陸軍りくぐんしょうりをすすめていた。結局けっきょくのところ鷗外は、同年どうねん12月16にち陸軍りくぐん軍医ぐんいふく中尉ちゅうい相当そうとう)になり、東京とうきょう陸軍りくぐん病院びょういん勤務きんむした[注釈ちゅうしゃく 8]

いもうと小金井こがねい喜美子きみこ回想かいそうによれば、わかの鷗外は、四君子しくんしえがいたり、にわ写生しゃせいしたり、職場しょくばから帰宅きたくしばしば寄席よせかけたり(喜美子きみこ一緒いっしょかけたとき、ある落語らくご長唄ながうたいて中座ちゅうざ)していたという[11]

ドイツ留学りゅうがく[編集へんしゅう]

1888ねんプロイセン王国おうこくベルリンにて日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせい[12]前列ぜんれつひだりより河本かわもと重次郎しげじろう山根やまね正次まさつぐ田口たぐち和美かずみかた山國やまくによしみ石黑いしぐろ忠悳ただのり隈川くまがわ宗雄むねお尾澤おざわ主一しゅいち[13]ちゅうれつひだりからはやし太郎たろう(鷗外)、たけしまつとむ中濱なかはま東一郎とういちろう佐方さがたせんぞう島田しまだ武次たけつぐ谷口たにぐちけん瀬川せかわあきら北里きたさとしば三郎さぶろう江口えぐちじょう[13]後列こうれつひだりから濱田はまだげんたち加藤かとうあきら麿まろ北川きたがわ乙次郎おとじろう[13]
ドイツのベルリンにあるもり鷗外記念きねんかん

入省にゅうしょうして半年はんとし1882ねん明治めいじ15ねん)5がつ、鷗外は東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ卒業そつぎょう同期どうき8めいなか最初さいしょ軍医ぐんい本部ほんぶづけとなり、プロイセン王国おうこく陸軍りくぐん衛生えいせい制度せいどかんする文献ぶんけん調査ちょうさ従事じゅうじした。はやくも翌年よくねん3がつには『せい全書ぜんしょ稿本こうほんぜん12かん[注釈ちゅうしゃく 9]役所やくしょおさめた。1884ねん明治めいじ17ねん)6がつ衛生えいせいがくおさめるとともにドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん衛生えいせい制度せいど調しらべるため、ドイツ留学りゅうがくめいじられた[注釈ちゅうしゃく 10]7がつ28にち明治天皇めいじてんのう拝謁はいえつし、賢所かしこどころ参拝さんぱい8がつ24にち陸軍りくぐんしょう派遣はけん留学生りゅうがくせいとして横浜よこはまこうから出国しゅっこくし、10月7にちフランス南部なんぶマルセイユみなと到着とうちゃく同月どうげつ11にちドイツ帝国ていこく首都しゅとベルリンはいった。鷗外は横浜よこはまからマルセイユにいた航海こうかいちゅうのことを「こう西にし日記にっき(こうせいにっき)」にしるしている。

最初さいしょの1ねんごしたライプツィヒ(1884ねん11月22にち翌年よくねん10月11にち)で、生活せいかつれていない鷗外をたすけたのが、昼食ちゅうしょく夜食やしょくをとっていたフォーゲルひとたちであった[注釈ちゅうしゃく 11]

また、黒衣くろご女性じょせいルチウスなど下宿げしゅくじんたちともしたしくい、ライプツィヒ大学だいがくではホフマンなどよき同僚どうりょうめぐまれた。軍事ぐんじ演習えんしゅうるためにおとずれたザクセン王国おうこく首都しゅとドレスデンでは、ドレスデン美術館びじゅつかんアルテ・マイスター絵画かいがかんにもき、ラファエロシスティーナの聖母せいぼ』を鑑賞かんしょうした。

つぎ滞在たいざいドレスデン(1885ねん10月11にち翌年よくねん3月7にち)では、しゅとして軍医ぐんいがく講習こうしゅうかい参加さんかするため、5かげつほど生活せいかつした。王室おうしつ関係かんけいしゃ軍人ぐんじんとの交際こうさいおおく、王宮おうきゅう舞踏ぶとうかい貴族きぞく夜会やかい宮廷きゅうてい劇場げきじょうなどに出入でいりした。そのあいだ2人ふたり大切たいせつ友人ゆうじんた。1人ひとりは鷗外の指導しどうしゃザクセン王国おうこく軍医ぐんいかんウィルヘルム・ロートドイツばんで、もう1人ひとり外国がいこく堪能かんのう同僚どうりょう軍医ぐんいのヴィルケ(鷗外は「ヰルケ」と表記ひょうき[注釈ちゅうしゃく 12]である。鷗外はドレスデンをはなれる前日ぜんじつナウマン講演こうえん反論はんろんし、のちにミュンヘン一流いちりゅうAllgemeine Zeitungじょう論争ろんそうとなった(鷗外・ナウマン論争ろんそう)。

ミュンヘン(1886ねん3月8にち翌年よくねん4がつ15にち)では、鷗外はミュンヘン大学だいがくペッテンコーファー師事しじした。研究けんきゅうのかたわら、邦人ほうじんすくなかったドレスデンとことなり、どう世代せだい原田はらだ直次郎なおじろう近衛このえ篤麿あつまろなど名士めいし子息しそく交際こうさいし、よく観劇かんげきしていた。

つぎのベルリン(1887ねん4がつ16にち翌年よくねん7がつ5にち)でも早速さっそく北里きたさとしば三郎さぶろうとともにコッホいにっており、細菌さいきんがく入門にゅうもん講座こうざてコッホの衛生えいせい試験しけんしょはいった[注釈ちゅうしゃく 13]当時とうじ居室きょしつ現在げんざいもなお、当時とうじ状況じょうきょうをとどめもり鷗外記念きねんかんとして公開こうかいされている。

9がつ下旬げじゅんカールスルーエ開催かいさいされるだい4かい赤十字せきじゅうじ国際こくさい会議かいぎ日本にっぽん代表だいひょう首席しゅせき)としてドイツをおとずれていた石黒いしぐろ忠悳ただのり随行ずいこうし、通訳つうやくかんとしてどう会議かいぎ出席しゅっせき。9月26・27にち発言はつげんし、とりわけ最終さいしゅうの27にちは「ブラボー」とさけひとるなどおおきな反響はんきょうがあった[注釈ちゅうしゃく 14]

会議かいぎえたいちぎょうは、9月28にちオーストリア=ハンガリー帝国ていこく首都しゅとウイーン移動いどうし、万国ばんこく衛生えいせいかい日本にっぽん政府せいふ代表だいひょうとして参加さんかした。11日間にちかん滞在たいざいちゅう、鷗外は恩師おんし知人ちじん再会さいかいした。1888ねん明治めいじ21ねん)1がつ大和やまとかい新年しんねんかいでドイツ講演こうえんをして公使こうし西園寺さいおんじ公望きんもち激賞げきしょうされており、18にちから田村たむら怡与づくり大尉たいいもとめにおうじてクラウゼヴィッツ戦争せんそうろん』をこうじた。留学りゅうがくいちねん延長えんちょうされたわりに、地味じみたいづけ勤務きんむ(プロイセン近衛このえ歩兵ほへいだい2連隊れんたい医務いむ)を経験けいけんしており、そうしたベルリンでの生活せいかつは、ミュンヘンなどにくらべ、より「おおやけてきなものであった。ただし、後述こうじゅつするドイツじん女性じょせい出会であった都市としでもあった。

同年どうねん7がつ5にち、鷗外は石黒いしぐろとともにベルリンをち、帰国きこくについた。英国えいこく首都しゅとロンドン保安ほあん条例じょうれいによって東京とうきょうからの退去たいきょ処分しょぶんけた尾崎おざき行雄ゆきおい、を4しゅおくった)やフランス首都しゅとパリりながら、7がつ29にちにマルセイユこうのちにした。

9月8にち横浜よこはまこうき、午後ごご帰京ききょう同日どうじつづけ陸軍りくぐん軍医ぐんい学舎がくしゃ教官きょうかんされ、11月には陸軍りくぐんだい学校がっこう教官きょうかん兼補けんぽめいじられた。帰国きこく直後ちょくご、ドイツじん女性じょせい来日らいにちして滞在たいざいいちがつ(1888ねん9月12にち - 10月17にち)ほどで離日りにちする出来事できごとがあり、小説しょうせつ舞姫まいひめ」の素材そざいひとつとなった[注釈ちゅうしゃく 15]後年こうねん文通ぶんつうをするなど、その女性じょせい生涯しょうがいわすれることはなかったとされる[14]。鷗外はドイツ留学りゅうがくちゅうのことを「獨逸どいつ日記にっき」にしるしている。

初期しょき文筆ぶんぴつ活動かつどう[編集へんしゅう]

1889ねん明治めいじ22ねん1がつ3にち、『読売新聞よみうりしんぶん』の付録ふろくに「小説しょうせつろん[注釈ちゅうしゃく 16]発表はっぴょうし、さらに同日どうじつの『読売新聞よみうりしんぶん』から、おとうと三木みき竹二たけじとともにカルデロン戯曲ぎきょく調しらべだか矣津つるいちきょく」(原題げんだい:サラメヤの村長そんちょう)をともやくして随時ずいじ発表はっぴょうした。その翻訳ほんやく戯曲ぎきょくたか評価ひょうかしたのが徳富とくとみ蘇峰そほうであり、8がつ蘇峰そほう主筆しゅひつつとめるみんともしゃ雑誌ざっし国民こくみんとも夏期かき文芸ぶんげい付録ふろくに、訳詩やくししゅう於母かげ」(署名しょめいは「S・S・S」(新声社しんせいしや略記りゃっき[注釈ちゅうしゃく 17])を発表はっぴょうした。その「於母かげ」は、日本にっぽん近代詩きんだいし形成けいせいなどにおおきな影響えいきょうあたえた。また「於母かげ」の原稿げんこうりょう50えん元手もとでに、たけなど同人どうじんたちと日本にっぽん最初さいしょ評論ひょうろん中心ちゅうしん専門せんもんしがらみ草紙ぞうし』を創刊そうかんした(1889ねん10がつ-1894ねん8がつにちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつにより59ごう廃刊はいかん[注釈ちゅうしゃく 18]

このように、外国がいこく文学ぶんがくなどの翻訳ほんやく手始てはじめに(「即興そっきょう詩人しじん」「ファウスト」などが有名ゆうめい[注釈ちゅうしゃく 19]熱心ねっしん評論ひょうろんてき啓蒙けいもう活動かつどうつづけた。当時とうじ情報じょうほうとぼしい欧州おうしゅうドイツを舞台ぶたいにした「舞姫まいひめ」を蘇峰そほう依頼いらいにより『国民こくみんとも』1890ねん1がつ発表はっぴょうした。つづいて「うたかたの」(『しがらみ草紙ぞうし』1890ねん8がつ)、1891ねん1がつ28にちぶんづかひ」(「新著しんちょひゃくしゅ」12ごう)を相次あいついで発表はっぴょうしたが、とりわけ日本人にっぽんじん外国がいこくじん恋愛れんあい関係かんけいになる「舞姫まいひめ」は、読者どくしゃおどろかせたとされる。そのドイツさんさくをめぐって石橋いしばし忍月にんげつ論争ろんそうを、また『しがらみ草紙ぞうしじょう坪内つぼうち逍遥しょうようじつ主義しゅぎ批判ひはんして没理想ぼつりそう論争ろんそうひろげた。

1889ねん明治めいじ22ねん)に東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく)の美術びじゅつ解剖かいぼうがく講師こうし[注釈ちゅうしゃく 20]1890ねん9月からやく2年間ねんかん東京とうきょう専門せんもん学校がっこうがい講師こうし[15]1892ねん明治めいじ25ねん)9がつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく審美しんびがく美学びがく旧称きゅうしょう[注釈ちゅうしゃく 21]講師こうし委嘱いしょくされた(いずれもにちしん戦争せんそう出征しゅっせい小倉おぐら転勤てんきんかいしょく)。

にちしん戦争せんそう出征しゅっせい小倉おぐら左遷させん[編集へんしゅう]

1894ねん明治めいじ27ねんなつにちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつにより、8がつ29にち東京とうきょうはなれ、9月2にち広島ひろしま宇品うじなこうった。翌年よくねん下関しものせき条約じょうやく調印ちょういん、5月に近衛このえ師団しだん従軍じゅうぐん記者きしゃ正岡子規まさおかしき帰国きこく挨拶あいさつのため、だい2ぐん兵站へいたん軍医ぐんい部長ぶちょうの鷗外をたずねた[注釈ちゅうしゃく 22]

きよしとの戦争せんそうわったものの、鷗外は日本にっぽん割譲かつじょうされた台湾たいわんでの勤務きんむめいじられており(朝鮮ちょうせん勤務きんむ小池こいけ正直まさなおとのバランスをとった人事じんじとされる)、5月22にち宇品うじなこうき(心配しんぱいする家族かぞく代表だいひょうしておとずれたおとうとたけ面会めんかい)、2にちには初代しょだい台湾たいわん総督そうとく樺山かばやまらとともに台湾たいわんかった。4かげつほどの台湾たいわん勤務きんむえ、10月4にち帰京ききょう

よく1896ねん明治めいじ29ねん)1がつ、『しがらみ草紙ぞうし』ののちけて幸田こうだ露伴ろはん斎藤緑雨さいとうりょくうともに『まんじ』を創刊そうかんし、合評がっぴょうさんにん冗語じょうご」をせ、当時とうじひょうだん先頭せんとうった(1902ねん廃刊はいかん[注釈ちゅうしゃく 23]

そのころより、評論ひょうろんてき啓蒙けいもう活動かつどう戦闘せんとうてきないし論争ろんそうてきなものから、穏健おんけんてきなものにわっていった[16]1898ねん明治めいじ31ねん)7がつ9にちづけまんあさほう』の連載れんさい弊風へいふういちむら 蓄妾ちくしょう実例じつれい」のなかで、児玉こだませきとの交情こうじょうをあばかれた[注釈ちゅうしゃく 24]

もり鷗外旧居きゅうきょ北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきた鍛冶かじまち

1899ねん明治めいじ32ねん)6がつ軍医ぐんいかん少将しょうしょう相当そうとう)に昇進しょうしんし、東京とうきょう東部とうぶ)、大阪おおさか中部ちゅうぶ)とともにとくかれていた小倉おぐら西部せいぶ)のだい12師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょうに「左遷させん[注釈ちゅうしゃく 25]された(1899ねん6がつ19にち-1902ねん3がつ26にち)。19世紀せいきまつからしん世紀せいき初頭しょとうごした小倉おぐら時代じだいには、歴史れきしかん近代きんだいかんにかかわる一連いちれん随筆ずいひつなどがかれた[17]

またドイツ留学りゅうがくちゅう田村たむら怡与づくりこうじていた難解なんかいなクラウゼヴィッツ『戦争せんそうろん』について、師団しだん将校しょうこうたちに講義こうぎをするとともに、師団しだんちょう井上いのうえひかりなどの依頼いらい翻訳ほんやくはじめた[注釈ちゅうしゃく 26]。その内部ないぶ資料しりょうは、部隊ぶたいもとめたという。

小倉おぐら時代じだいに「圭角けいかくがとれ、きもれてた」と末弟ばっていもり潤三郎じゅんざぶろう記述きじゅつしたように、そのころの鷗外は、社会しゃかい周縁しゅうえんないし底辺ていへんきる人々ひとびとへの親和しんわいつくしみの眼差まなざしを獲得かくとくしていた[注釈ちゅうしゃく 27]

私生活しせいかつでも、徴兵ちょうへい検査けんさ視察しさつなどで各地かくち歴史れきしてき文物ぶんぶつ文化ぶんか事蹟じせき出会であったことをとおし、とく後年こうねん史伝しでんにつながる掃苔(さがせはか趣味しゅみ[注釈ちゅうしゃく 28]

あらたな趣味しゅみただけではなく、1900ねん明治めいじ33ねん)1がつ先妻せんさい(1889ねん結婚けっこんして翌年よくねん離婚りこん)であった赤松あかまつ登志子としこ結核けっかくにより再婚さいこんさき死亡しぼうしたのち[注釈ちゅうしゃく 29]ははすすめるまま1902ねん明治めいじ35ねん)1がつ、18さい年下としした荒木あらき見合みあ結婚けっこんをした(41さいと23さい再婚さいこん同士どうし)。さらに、随筆ずいひつ二人ふたりとも』に登場とうじょうする友人ゆうじんた。1人ひとり仏教ぶっきょう曹洞宗そうとうしゅう僧侶そうりょ玉水たまみずしゅん通称つうしょう安国寺あんこくじ」)で、もう1人ひとり同郷どうきょう俊才しゅんさい福間ふくまひろし[注釈ちゅうしゃく 30]である。2人ふたりは鷗外の東京とうきょう転勤てんきんとともに上京じょうきょうし、鷗外の自宅じたくちかくにみ、交際こうさいつづけた[注釈ちゅうしゃく 31]

軍医ぐんいトップへの就任しゅうにん旺盛おうせい文筆ぶんぴつ活動かつどう[編集へんしゅう]

1902ねん明治めいじ35ねん)3がつ、鷗外はだい1師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょう辞令じれいけ、新妻にいづまとともに東京とうきょう赴任ふにんした。6月、廃刊はいかんになっていた『めざましそう』と上田うえださとし主宰しゅさいする『芸苑げいえん』とを合併がっぺいし、『芸文げいぶん』を創刊そうかん(その出版しゅっぱんしゃとのトラブルで廃刊はいかんしたものの、10月に後身こうしんの『まんねんそうこう』を創刊そうかん)。当時とうじは、12月にはじめて戯曲ぎきょく執筆しっぴつするなど、戯曲ぎきょくかかわる活動かつどう目立めだっていた。

1904ねん明治めいじ37ねん)2がつから1906ねん明治めいじ39ねん)1がつまで、鷗外はにち戦争せんそうだい2ぐん軍医ぐんい部長ぶちょう最初さいしょ発令はつれいときおつぐんといわれた)として出征しゅっせい[注釈ちゅうしゃく 32]おく保鞏やすかた大将たいしょう幕下まくしたぞくす。

1907ねん明治めいじ40ねん)10がつ陸軍りくぐん軍医ぐんい総監そうかん中将ちゅうじょう相当そうとう)に昇進しょうしんし、陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう人事じんじけん軍医ぐんいのトップ)に就任しゅうにんした[注釈ちゅうしゃく 33]

同年どうねん9がつ美術びじゅつ審査しんさいんにんじられ、だい1かい文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい初期しょき文展ぶんてん西洋せいよう部門ぶもん審査しんさ主任しゅにんつとめた[18]

1909ねん明治めいじ42ねん)に『スバル』が創刊そうかんされると、同誌どうし毎号まいごう寄稿きこうして創作そうさく活動かつどう再開さいかいした(木下きのした杢太郎もくたろうのいう「豊熟ほうじゅく時代じだい」)。「半日はんにち」「ヰタ・セクスアリス」「にわとり」「青年せいねん」などを同誌どうしせ、「仮面かめん」「せい」などの戯曲ぎきょく発表はっぴょう。『スバル』創刊そうかんねんの7がつ、鷗外は、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくから文学ぶんがく博士はかせ学位がくい授与じゅよされた。しかし、直後ちょくごに「ヰタ・セクスアリス」(同誌どうし7がつごう)が発売はつばい禁止きんし処分しょぶんけた。しかも、内務省ないむしょう警保局長きょくちょう陸軍りくぐんしょうおとずれた8がつ、鷗外は陸軍りくぐん次官じかん石本いしもとしんろくから戒飭かいしょく(かいちょく)された。同年どうねん12がつ、「立場たちば」でレジグナチオン(諦念ていねん)をキーワードにみずからの立場たちばあきらかにした。

1910ねん明治めいじ43ねん)、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく文学ぶんがく顧問こもん就任しゅうにん教授きょうじゅしょく永井ながい荷風かふう推薦すいせん)し、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく幹事かんじ石田いしだ新太郎しんたろう主導しゅどうにより、上田うえださとし顧問こもんに、永井ながい荷風かふう主幹しゅかんにして、「三田みた文學ぶんがく」を創刊そうかんした。またそのとしには、5月に大逆だいぎゃく事件じけん検挙けんきょはじまり[注釈ちゅうしゃく 34]、9月に『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』が連載れんさい危険きけんなる洋書ようしょ」を開始かいしして6かいに鷗外とつま掲載けいさいされ、また国内こくないでは南北なんぼくあさ教科書問題きょうかしょもんだいおおきくなりつつあった。そうした閉塞へいそくかんただよとしに「ファスチェス」で発禁はっきん問題もんだい、「沈黙ちんもくとう」「食堂しょくどう」では社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふ主義しゅぎれるなど政治せいじしょくのある作品さくひん発表はっぴょうした。

1911ねん明治めいじ44ねん)にも「カズイスチカ」「妄想もうそう」を発表はっぴょうし、「青年せいねん」の完結かんけつ、「かり」と「灰燼かいじん」の2長編ちょうへん同時どうじ連載れんさい開始かいし同年どうねん4がつの「文芸ぶんげい主義しゅぎ」(原題げんだい文芸ぶんげい断片だんぺん)では、冒頭ぼうとう芸術げいじゅつ主義しゅぎというものは本来ほんらいないとおもう。」としたうえで、

政府せいふ主義しゅぎと、それといちしょにざした社会しゃかい主義しゅぎとの排斥はいせきをするために、個人こじん主義しゅぎという漠然ばくぜんたるけて、芸術げいじゅつ迫害はくがいくわえるのは、国家こっかのために惜むべきことである。学問がくもん自由じゆう研究けんきゅう芸術げいじゅつ自由じゆう発展はってんとをさまたげるくにさかえるはずがない。 — [19]

むすんだ。

また陸軍りくぐん軍医ぐんいとして、懸案けんあんとされてきた軍医ぐんい人事じんじけんをめぐり、陸軍りくぐん次官じかん石本いしもとしんろくはげしく対立たいりつした。ついに医務いむ局長きょくちょうの鷗外が石本いしもと辞意じいげる事態じたいになった。結局けっきょくのところ陸軍りくぐんでは、医学いがく優先ゆうせん人事じんじ継続けいぞくされた。階級かいきゅう社会しゃかい軍隊ぐんたいで、それも一段いちだんひくあつかいをける衛生えいせいの鷗外の主張しゅちょうとおった背景はいけいひとつに、山縣やまがた有朋ありとも存在そんざいがあったとかんがえられている[注釈ちゅうしゃく 35]

1912ねん明治めいじ45ねん)から翌年よくねんにかけて、五条ごじょう秀麿ひでまろ主人公しゅじんこうにした「かのやうに」「どもぎゃく」「藤棚ふじだな」「づちいち」の連作れんさくを、また司令しれいかん揶揄やゆするなど戦場せんじょう体験たいけんえがかれた「ねずみざか[注釈ちゅうしゃく 36]などを発表はっぴょうした。当時とうじは、身辺しんぺん題材だいざいをとった作品さくひん思想しそうしょく作品さくひん教養きょうよう小説しょうせつ戯曲ぎきょくなどを執筆しっぴつした。もっとも公務こうむのかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品さくひんをはじめ、外国がいこく文学ぶんがく翻訳ほんやく紹介しょうかい解説かいせつつづけていた。

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)8がつ、「実在じつざい人間にんげん資料しりょうって事実じじつのまま叙述じょじゅつする、鷗外独自どくじ小説しょうせつ作品さくひん最初さいしょのもの」[20]である「羽鳥はとり千尋ちひろ」を発表はっぴょうよく9月13にち乃木のぎ希典まれすけ殉死じゅんし影響えいきょうけて5にちに「興津おきつわたる五右衛門ごえもん遺書いしょ」(初稿しょこう)をえた[注釈ちゅうしゃく 37]

これを歴史れきし小説しょうせつ[注釈ちゅうしゃく 38]すすみ、歴史れきし其儘の「阿部あべ一族いちぞく」、歴史れきしばなれの「山椒さんしょう大夫たいふ」「高瀬舟たかせぶね」などのあと、史伝しでん渋江しぶえ抽斎ちゅうさい」(『大阪おおさか毎日まいにち』『東京とうきょう日日ひにち』1916ねん1がつ13にち-5月20にち)に結実けつじつした。ただし、1915ねん大正たいしょう4ねんごろまで、現代げんだい小説しょうせつ並行へいこうして執筆しっぴつしていた。1916ねん大正たいしょう5ねん)には、後世こうせいの鷗外研究けんきゅう評論ひょうろんから重要じゅうようされる随筆ずいひつ空車くうしゃ(むなぐるま)[注釈ちゅうしゃく 39]1918ねん大正たいしょう7ねん)1がつには随筆ずいひつ礼儀れいぎ小言こごと」をあらわした[注釈ちゅうしゃく 40]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

えいあきらてらはか

1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ、鷗外は任官にんかん年齢ねんれいひくいこともあり、トップの陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょうを8ねんはんつとめて退しりぞき、予備よびやく編入へんにゅうされた。よく1918ねん大正たいしょう7ねん)12月、帝室ていしつ博物館はくぶつかんげん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん総長そうちょうけん図書としょあたまとしてみや内省ないせいはい[注釈ちゅうしゃく 41]翌年よくねん1がつ帝室ていしつ制度せいど審議しんぎかい御用ごようかけ就任しゅうにんした[注釈ちゅうしゃく 42]

さらに1918ねん大正たいしょう7ねん)9がつ帝国ていこく美術びじゅついんげん日本にっぽん芸術げいじゅついん初代しょだい院長いんちょう就任しゅうにんした。元号げんごうの「明治めいじ」と「大正たいしょう」に否定ひていてきであったため、みや内省ないせい図書としょあたまとして天皇てんのうおくりな元号げんごう考証こうしょう編纂へんさん着手ちゃくしゅした。しかし『みかどおくりなこう』は刊行かんこうしたものの、病状びょうじょう悪化あっかにより、みずかした吉田よしだ増蔵ますぞうこうたくしており、後年こうねんこの吉田よしだ未完みかんの『元号げんごうこう』の刊行かんこう尽力じんりょくし、元号げんごうあん昭和しょうわ」を提出ていしゅつした[注釈ちゅうしゃく 43]

1922ねん大正たいしょう11ねん7がつ9にち午前ごぜん7すぎ、鷗外は親族しんぞく親友しんゆう賀古かこ鶴所つるどらがうなか、じん萎縮いしゅく肺結核はいけっかくのために死去しきょ最期さいごゆかで「馬鹿馬鹿ばかばかしい」とうわごとをったとされる[21]まん60さいぼつ

石見いわみじんもり林太郎りんたろうトシテセントよく

はじまる最後さいご遺言ゆいごん7がつ6にちづけ)が有名ゆうめいであり[注釈ちゅうしゃく 44]、その遺言ゆいごんによりはかには「鷗外」のごうはもとより、生前せいぜん階級かいきゅう位階いかい勲等くんとうなどを一切いっさいはいして「もり林太郎りんたろうはか」とのみこくされた。

上京じょうきょうしたさいんだ鷗外ゆかりのである東京とうきょう本所ほんじょひろぶくてら埋葬まいそうされ、遺言ゆいごんにより中村なかむら不折ふせつ墓碑銘ぼひめいふでした。戒名かいみょうさだけんじいん殿どのぶんきよしおもえときだい居士こじ。なお、関東大震災かんとうだいしんさいのち北多摩きたたまぐん三鷹みたかむらげん東京とうきょう三鷹みたか)の禅林寺ぜんりんじ[注釈ちゅうしゃく 45]出生しゅっしょう津和野つわのまちえい明寺あけてら改葬かいそうされた。

人物じんぶつひょう[編集へんしゅう]

評論ひょうろんてき啓蒙けいもう活動かつどう[編集へんしゅう]

鷗外はみずからが専門せんもんとした文学ぶんがく医学いがくりょう分野ぶんやにおいて論争ろんそうえない人物じんぶつであった。文学ぶんがくにおいては理想りそう理念りねんなど主観しゅかんてきなものをえがくべきだとする理想りそう主義しゅぎかかげ、事物じぶつ現象げんしょう客観きゃっかんてきえがくべきだとする写実しゃじつ主義しゅぎてき没理想ぼつりそうかかげる坪内つぼうち逍遥しょうよう衝突しょうとつする。また医学いがくにおいては近代きんだい西洋せいよう医学いがくむねとし、和漢わかんかた激烈げきれつ論争ろんそうひろげたこともある。和漢わかんかたが7わり以上いじょうめていた当時とうじ医学いがくかいは、ドイツ医学いがくかいのような学問がくもんにおいて業績ぎょうせきげた学者がくしゃ不遇ふぐうであり、日本にっぽん医学いがく進歩しんぽさまたげている、大卒だいそつ医者いしゃやすべきだ、などと批判ひはんする。松本まつもとりょうじゅんなど近代きんだい医学いがく始祖しそばれている長老ちょうろうをはじめ専門医せんもんいだれ相手あいてにしなかったが、鷗外は新聞しんぶん記者きしゃなどを相手あいてにして6ねんほど論争ろんそうつづけた[22]

鷗外の論争ろんそうへき発端ほったんとして論争ろんそうきたこともある。逍遥しょうようが『早稲田わせだ文学ぶんがく』にシェークスピア評釈ひょうしゃくかんしてくわえたみじか説明せつめいたいし、批判ひはんてきひょうを『しがらみ草紙ぞうし』にせたことから論争ろんそうはじまった。このようなかたちで鷗外がかかわってきた論争ろんそうは「戦闘せんとうてき啓蒙けいもう主義しゅぎ[23]などと好意こういてきひょうされることもあるが、啓蒙けいもうあたいするといえるのか疑問ぎもんする見方みかたもある[24]。30さいだいになると、にちしん戦争せんそうのちに『めさましくさ』を創刊そうかんして「合評がっぴょう」をするなど、評論ひょうろんてき活動かつどうは、穏健おんけんなものにわっていったことから、小倉おぐら時代じだいに「圭角けいかくれた」という家族かぞく指摘してきもある。

はばひろ文芸ぶんげい活動かつどう交際こうさい[編集へんしゅう]

肩書かたがきのおおいことにあらわれているように、鷗外は文芸ぶんげい活動かつどうはばひろかった。たとえば、訳者やくしゃとしては、上記じょうき訳詩やくししゅう「於母かげ」(ともやく)と、1892ねん明治めいじ25ねん)–1901ねん明治めいじ34ねん)に断続だんぞくてき発表はっぴょうされた「即興そっきょう詩人しじん」とが初期しょき代表だいひょうてき仕事しごとである。「於母かげ」は明治めいじ詩壇しだん多大ただい影響えいきょうあたえており、「即興そっきょう詩人しじん」は、流麗りゅうれい雅文がぶん明治めいじ文人ぶんじん魅了みりょうし、そのほん片手かたてイタリア各地かくちしゅう文学ぶんがく青年せいねん正宗まさむね白鳥しらとりなど)が続出ぞくしゅつした。

戯曲ぎきょく翻訳ほんやくおおく(おとうと竹二たけじ責任せきにん編集へんしゅうつとめる雑誌ざっし歌舞伎かぶき』に掲載けいさいされたものはすくなくない)[注釈ちゅうしゃく 46]歌劇かげきオペラ)の翻訳ほんやくまでがけていた[注釈ちゅうしゃく 47]

ちなみに、訳語やくご和製わせい漢語かんご)の「交響楽こうきょうがく交響曲こうきょうきょく」をつくっており、6年間ねんかん欧米おうべい留学りゅうがくえた演奏えんそう幸田こうだのべ露伴ろはんいもうと)と洋楽ようがく談義だんぎをした(「西にしらく幸田こうだと」)。そうした外国がいこく作品さくひん翻訳ほんやくだけでなく、帰国きこくから演劇えんげきへの啓蒙けいもうてき評論ひょうろんすくなくない[注釈ちゅうしゃく 48]

翻訳ほんやくは、文学ぶんがく作品さくひんえ、ハルトマン『審美しんびがく綱領こうりょう』のような審美しんびがく美学びがく旧称きゅうしょう)も対象たいしょうになった。たんなる訳者やくしゃにとどまらない鷗外の審美しんびがくは、坪内つぼうち逍遥しょうようとの没理想ぼつりそう論争ろんそうにもあらわれており、田山たやま花袋かたいにも影響えいきょうあたえた[注釈ちゅうしゃく 49]。その鷗外は、上記じょうきとお東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく)の嘱託しょくたく教員きょういん美術びじゅつ解剖かいぼうがく審美しんびがく西洋せいよう美術びじゅつ)をはじめ、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく審美しんびがく講師こうし、「初期しょき文展ぶんてん西洋せいよう部門ぶもんなどの審査しんさいん帝室ていしつ博物館はくぶつかん総長そうちょう帝国ていこく美術びじゅついん初代しょだい院長いんちょうなどをつとめた[注釈ちゅうしゃく 50]

交際こうさいひろく、そのかおぶれが多彩たさいであった。しかし、弟子でしったり文壇ぶんだん党派とうはつくったりすることはなかった。ドイツに4ねん留学りゅうがくした鷗外は、閉鎖へいさてきしばられたような人間にんげん関係かんけいこのまず、西洋せいようふう社交しゃこうてきサロン雰囲気ふんいきこのんでいたとされる[注釈ちゅうしゃく 51]官吏かんり生活せいかつ合間あいまも、書斎しょさいにこもらず、同人どうじん主宰しゅさいしたり、自宅じたく歌会うたかいひらいたりして色々いろいろ人々ひとびと交際こうさいした。

文学ぶんがくしゃ文人ぶんじんかぎっても、訳詩やくししゅう「於母かげ」は5にんによるともやくであり、同人どうじんの『しがらみ草紙ぞうし』と『めさましくさ』にもおおくのひと参加さんかした。とりわけ、自宅じたくかんしおろう)で定期ていきてき開催かいさいされた歌会うたかい有名ゆうめいである。そのかんしおろう歌会うたかいは、1907ねん明治めいじ40ねん)3がつ、鷗外が与謝野よさの鉄幹てっかんの「しんしゃけい正岡子規まさおかしき系譜けいふ根岸ねぎしとの歌壇かだんない対立たいりつかね、両派りょうは代表だいひょう歌人かじんまねいてひらかれた。以後いご毎月まいつきだいいち土曜日どようびあつまり、1910ねん明治めいじ43ねん)4がつまでつづいた。伊藤いとう左千夫さちお平野ひらの万里ばんり上田うえださとし佐佐木ささき信綱のぶつなひとし参加さんかし、「しんしゃけい北原きたはら白秋はくしゅう吉井よしいいさむ石川いしかわ啄木たくぼく木下きのした杢太郎もくたろう、「根岸ねぎし斎藤さいとう茂吉しげよし古泉こいずみ千樫ちかしひとし新進しんしん歌人かじん参加さんかした(与謝野よさの晶子あきこふくめてべ22めい[25]

また、当時とうじとしては女性じょせい蔑視べっしすくなく、樋口ひぐち一葉かずはをいちはや激賞げきしょうしただけでなく、与謝野よさの晶子あきこ平塚ひらつからいてうはやくからたか評価ひょうかした。晶子あきこ出産しゅっさんした双子ふたご名付なづおやが鷗外)やらいてうやじゅん芸術げいじゅつ雑誌ざっしばん紅花べにばな』(さふらん)を主宰しゅさいしたちくいちえだなど、個性こせいてき批判ひはんされがちなあたらしい女性じょせいたちともひろ交際こうさいした[注釈ちゅうしゃく 52]。その鷗外の作品さくひんには、女性じょせい主人公しゅじんこうにしたものがすくなくなく、ヒロインの題名だいめいにしたものも複数ふくすうある(「安井やすい夫人ふじん」、戯曲ぎきょくせい」、「花子はなこ」、翻訳ほんやく戯曲ぎきょく「ノラ」(イプセンさく人形にんぎょういえ」))。

晩年ばんねん、『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』に連載れんさいした「渋江しぶえ抽斎ちゅうさい」などの史伝しでん作品さくひん読者どくしゃおよび編集へんしゅうしゃからの評判ひょうばんわるく、その評価ひょうかかならずしもかんばしいものではなかった。没後ぼつご新潮社しんちょうしゃしゃとが全集ぜんしゅう18かん刊行かんこうけたので、かろうじて面目めんぼくった。1936ねん昭和しょうわ11ねん)、木下きのした杢太郎もくたろうら鷗外を敬愛けいあいする文学ぶんがくしゃらの尽力じんりょくによって岩波書店いわなみしょてんから『鷗外全集ぜんしゅう』が『漱石そうせき全集ぜんしゅう』とならんで刊行かんこうされ、権威けんいがあるとおもわれるようになった[26]

小林こばやしいさむによると晩年ばんねん幸田こうだ露伴ろはんは鷗外について、「もりというおとこおそろしく出世しゅっせしたい根性こんじょうひとだった」「もりというおとこ蓄財ちくざいきなやつさ。しんつめたおとこだ。なにもかも承知しょうちしていてひょうさぬ」とかたったという[27]

軍医ぐんいとして[編集へんしゅう]

鷗外は陸軍りくぐん軍医ぐんいであったが、軍医ぐんいとして一番いちばんふかくかかわったのは、へいしょく問題もんだい脚気かっけ問題もんだいである[28]。ここでは、この2つの問題もんだいとのかかわりについてあつかう。また、軍医ぐんいとしては本名ほんみょうもり林太郎りんたろう活動かつどうしているが、便宜上べんぎじょう、鷗外と表記ひょうきする。

鷗外は軍医ぐんいとして医学いがく先進せんしんこくのドイツに4年間ねんかん留学りゅうがくした。留学りゅうがくちゅう執筆しっぴつしたへいしょくかんするほん論文ろんぶん日本にっぽんへいしょくろん』および『日本にっぽんへいしょくろん大意たいい』は、のホフマンらの研究けんきゅう論文ろんぶん1882ねん明治めいじ15ねんごろ日本にっぽん国内こくない論文ろんぶん種本たねほんにしてかれたもので、どちらもその論旨ろんし日本にっぽんしょくわるくないであった[29]留学りゅうがくちゅう脚気かっけについての見解けんかい上官じょうかん石黒いしぐろ忠悳ただのりから催促さいそくされていたが、石黒いしぐろおくった論文ろんぶん日本にっぽんへいしょくろん大意たいい』において「米食べいしょく脚気かっけ関係かんけい有無うむ敢てかず」とき、脚気かっけかかわることを拒否きょひしている[30]

1888ねん明治めいじ21ねん)9がつ帰国きこくした鷗外は、同年どうねん11がつだい日本にっぽん私立しりつ衛生えいせいかいにおいて『日本食にほんしょくろんしょうにその根拠こんきょうしなわんとす』とだいして演説えんぜつおこなった。日本にっぽんしょくにはタンパク質たんぱくしつりないとの批判ひはんがあるがあたらしい研究けんきゅうによれば日本にっぽんしょくでも不足ふそくはないと主張しゅちょうした。そのなかで「ローストビーフにくことをらないイギリスりゅう偏屈へんくつ学者がくしゃのあとについて日本にっぽんしょくとなえて…ある権力けんりょくせつをただちにみとめて教義きょうぎとなし、この偽造ぎぞう通則つうそくから根拠こんきょのない細則さいそくつくり…」とべ、明言めいげんはせずとも海軍かいぐん軍医ぐんい高木たかぎけんひろしして、脚気かっけ原因げんいんタンパク質たんぱくしつ不足ふそくであり西洋せいようしょくにしなければならないという高木たかぎ意見いけん非難ひなんした[31]

1889ねん明治めいじ22ねん)8がつ–12がつ陸軍りくぐんへいしょく試験しけん試験しけん委員いいん任命にんめいされ主任しゅにんつとめた。当時とうじ最先端さいせんたん栄養えいようがく駆使くしした画期的かっきてき人体じんたい実験じっけん実施じっしした。試験しけん結果けっかは、熱量ねつりょう、タンパク補給ほきゅう能力のうりょく体内たいない活性かっせいのすべてで米食べいしょくもっと優秀ゆうしゅうつぎむぎしょく洋食ようしょくもっと不良ふりょうであった[32]詳細しょうさいは「日本にっぽん脚気かっけ#陸軍りくぐんへいしょく試験しけん」を参照さんしょう)。

その一方いっぽうで、陸軍りくぐんかく現場げんばでは脚気かっけ対策たいさくとして麦飯むぎめし採用さいようし、効果こうかをあげていた(詳細しょうさいは「日本にっぽん脚気かっけ#現場げんばでの麦飯むぎめし採用さいよう」を参照さんしょう)。

にちしん戦争せんそうにあたり陸軍りくぐん戦時せんじ陸軍りくぐん給与きゅうよ規則きそく公布こうふし、戦時せんじへいしょく主食しゅしょくとして「1にち精米せいまい6ごう」とさだめた。にちしん戦争せんそうとその台湾たいわん平定へいていあわせると、陸軍りくぐん脚気かっけ患者かんじゃすうは4まんにん脚気かっけ死亡しぼうしゃすうは4せんにんという事態じたいであった(詳細しょうさいは「日本にっぽん脚気かっけ#にちしん戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけ流行りゅうこう」を参照さんしょう)。にちしん戦争せんそう大本営だいほんえい運輸うんゆ通信つうしん長官ちょうかんであった寺内てらうち正毅まさきは、のちに当時とうじかえり、麦飯むぎめし支給しきゅう石黒いしぐろ忠悳ただのり反対はんたいされ中止ちゅうししたことがあると暴露ばくろしたが、鷗外が石黒いしぐろ賛成さんせいしゃだったともかたっている[33][注釈ちゅうしゃく 53]

1901ねん明治めいじ34ねん)8がつ2にち、『軍医ぐんい学会がっかい雑誌ざっし』に「脚気かっけ予防よぼうトシテ軍隊ぐんたい麦飯むぎめしきゅうシタル起源きげんニ就テ」が掲載けいさいされた。そこには、大阪おおさか鎮台ちんだい病院びょういん堀内ほりうち利国としくに麦飯むぎめし給与きゅうよ試行しこうし、脚気かっけったこと、全国ぜんこく師団しだんでも麦飯むぎめし給与きゅうよおこなわれ陸軍りくぐん脚気かっけ消滅しょうめつしたことがかれていた[34]

1901ねん明治めいじ34ねん)8がつ31にち、鷗外は『脚気かっけ減少げんしょうはたしてむぎもっべいへんへたるにいんする乎』とだいする論文ろんぶん発表はっぴょう麦飯むぎめしにしたとし脚気かっけ激減げきげんとし符合ふごう因果いんが関係かんけいはなく、関係かんけいあるとするのは前後ぜんごそく因果いんが誤謬ごびゅうであると主張しゅちょうした。しかし、その主張しゅちょう根拠こんきょとなる事実じじつなにしめしてはいない。この論文ろんぶんについて山下やました政三まさぞうは、好意こういてきかえしても医学いがくろんじたぶんにはみえず支離滅裂しりめつれつ内容ないようであり感情かんじょう爆発ばくはつして論理ろんりととのわないまま発表はっぴょうしたのだろうとべている[35]

にち戦争せんそうにおいて、大本営だいほんえい陸軍りくぐん輸送ゆそう困難こんなんさなどを理由りゆう戦時せんじへいしょく規定きていのまま白米はくまいしょく当面とうめん採用さいようすることにし、麦飯むぎめし採用さいよう後回あとまわしにした[36]詳細しょうさいは「日本にっぽん脚気かっけ#にち戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがい」を参照さんしょう)。鷗外はだい2ぐん軍医ぐんい部長ぶちょうであったが、まだ広島ひろしまにいた1904ねん明治めいじ37ねん4がつ8にちだい2ぐん戦闘せんとう序列じょれつ指揮しき系統けいとう)にあった鶴田つるただい1師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょう横井よこいだい3師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょうが「麦飯むぎめし給与きゅうよけんもりだい2ぐん軍医ぐんい部長ぶちょうすすめたるも返事へんじなし」(鶴田つるたただし次郎じろうにち戦役せんえき従軍じゅうぐん日誌にっし』)だったとの記録きろくがある[37]。その「返事へんじなし」をどのように解釈かいしゃくするかは意見いけんかれる[注釈ちゅうしゃく 54]

陸軍りくぐんは8がつから部分ぶぶんてき麦飯むぎめしにしはじめ、のち陸軍りくぐん全体ぜんたい麦飯むぎめしにしたものの、にち戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけ患者かんじゃすうやく25まんにん脚気かっけ死者ししゃすうやく2まん7せんにんとなった(詳細しょうさいは「 日本にっぽん脚気かっけ#にち戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがい」を参照さんしょう)。にち戦争せんそう陸軍りくぐん衛生えいせい責任せきにん大本営だいほんえい陸軍りくぐん野戦やせん衛生えいせい長官ちょうかんであった小池こいけ正直まさなおは、にち戦争せんそうでの陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがいについて海軍かいぐんからつよ批判ひはんされ、陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう辞任じにん[38]。鷗外は後任こうにんとして陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう就任しゅうにん。その直後ちょくごから、脚気かっけ原因げんいん解明かいめい目的もくてきとした脚気かっけびょう調査ちょうさかい創設そうせつけてうごき、「臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかい」が陸軍りくぐん大臣だいじん監督かんとくする国家こっか機関きかんとして設立せつりつされた(詳細しょうさいは「日本にっぽん脚気かっけ#陸軍りくぐんしょう主導しゅどうによる臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかい設置せっち」を参照さんしょう)。

鷗外は、1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう辞任じにんして予備よびやくとなるまで臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかい会長かいちょうをつとめた。5月からは臨時りんじ委員いいん任命にんめいされ、没年ぼつねん1922ねん大正たいしょう11)ねん7がつまでつとめた[39]最後さいご出席しゅっせきした1921ねん大正たいしょう10ねん)10がつ28にちだい25かい総会そうかいは、だい部分ぶぶんがビタミンBにかんする研究けんきゅう報告ほうこくであった。『うみ時報じほう』は、「内容ないよう充実じゅうじつしたもので、脚気かっけ調査ちょうさすなわ一新いっしん紀元きげんかくすべく期待きたいさるるにいたった」とほうじている[40]

臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかいは「脚気かっけビタミン欠乏けつぼうせつ」をほぼ確定かくていし、1924ねん大正たいしょう13ねん)に廃止はいしされたが、その脚気かっけびょう研究けんきゅうかい母体ぼたいとなった。鷗外が創設そうせつうごいた臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかいは、脚気かっけ研究けんきゅう土台どだいつくり、ビタミン研究けんきゅう基礎きそきずいた[注釈ちゅうしゃく 55]反面はんめん、「そのじゅうろく年間ねんかん活動かつどうは、脚気かっけ栄養えいよう障害しょうがいせつビタミンB欠乏症けつぼうしょう白米はくまい原因げんいんせつしがらみをかけ、その承認しょうにんおくらせるためだけにあったようなものであった」と否定ひていてきにとらえる見方みかたもある[注釈ちゅうしゃく 56][注釈ちゅうしゃく 57]

鷗外と小池こいけ正直まさなお共著きょうちょ発行はっこうした『衛生えいせい新編しんぺん』において、鷗外は1914ねん大正たいしょう3ねん)9がつ改訂かいてい増補ぞうほだい5はん発行はっこうし、だい4はんまでなかった「脚気かっけ」をはじめて追加ついかしている。ただ、当時とうじ脚気かっけ原因げんいんをめぐって医学いがくかい混乱こんらんしていたこともあり、様々さまざま権威けんいしゃたちの見解けんかい列記れっきしただけで、鷗外みずからの見解けんかい記述きじゅつしてはいない[41]

陸軍りくぐんへいしょく規則きそく主食しゅしょくは、鷗外が陸軍りくぐん医務いむ局長きょくちょう時代じだい精米せいまいから米麦べいばく変更へんこうされている。陸軍りくぐん給与きゅうよれいは『みことのりれいだいよんじゅうさんごう』(大正たいしょう2ねん3がつ29にち[42]により、陸軍りくぐん戦時せんじ給与きゅうよ規則きそく細則さいそくは『りくたちじゅうごう』(大正たいしょう3ねん8がつ17にち[43]により変更へんこうされた。

脚気かっけ惨害さんがいをめぐる議論ぎろん[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがいにおける鷗外の責任せきにんについて対立たいりつする見解けんかい存在そんざいする。

鷗外が脚気かっけ惨害さんがい助長じょちょうしたとする非難ひなんおおくは筋違すじちがいである[44]として、以下いか見解けんかいがある[注釈ちゅうしゃく 58]

  • 陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがい責任せきにんについて。戦時せんじ陸軍りくぐん衛生えいせいかんするそう責任せきにんうのは大本営だいほんえい陸軍りくぐん野戦やせん衛生えいせい長官ちょうかん当時とうじ陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう就任しゅうにんし、にちしん戦争せんそうでは石黒いしぐろ忠悳ただのりにち戦争せんそうでは小池こいけ正直まさなお)である。鷗外には陸軍りくぐんへいしょく決定けっていする権限けんげんはなかった。鷗外が陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう就任しゅうにん権限けんげんたのは、脚気かっけ惨害さんがいきていたにち戦争せんそうわったあとである。
  • 鷗外がしろ米飯べいはん擁護ようごしたことが陸軍りくぐん脚気かっけ惨害さんがい助長じょちょうしたという批判ひはんについて。にち戦争せんそう当時とうじ麦飯むぎめし寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大臣だいじんであった(麦飯むぎめし主張しゅちょうする軍医ぐんい部長ぶちょうがいた)[注釈ちゅうしゃく 59]にもかかわらず、大本営だいほんえいが「みことのりれい」として指示しじした戦時せんじへいしょくは、にちしん戦争せんそうおなしろ米飯べいはん精白せいはくまい6ごう)であった。その理由りゆうとして、ぐん輸送ゆそう能力のうりょく問題もんだいがあり、また脚気かっけ予防よぼう理屈りくつ)とはべつのもの(じょう)もあった。そのべつのものとは、しろ米飯べいはん当時とうじ庶民しょみんあこがれるご馳走ちそうであり、麦飯むぎめし貧民ひんみん食事しょくじとしてさげすまれていた世情せじょう無視むしできず、また部隊ぶたいちょうおおくも死地しちかせる兵士へいし白米はくまいべさせたいという心情しんじょうである[45]
  • 鷗外の「陸軍りくぐんへいしょく試験しけん」が脚気かっけ発生はっせい助長じょちょうしたとの批判ひはんについて。へいしょく試験しけんは、当時とうじ栄養えいようがくもとづく試験しけんであり、脚気かっけとは関係かんけいがない。その試験しけん結果けっか上官じょうかん石黒いしぐろ忠悳ただのりゆがめてもちい、あたかも脚気かっけ試験しけんであったかのように誤用ごようしたためである[46]

鷗外への非難ひなんおもなものを以下いかしるす。ただし、その非難ひなん内容ないよう適切てきせつかをわずに記載きさいする。

  • 白米はくまいしょく麦飯むぎめししょくえると脚気かっけ激減げきげんする現象げんしょうられたにもかかわらず戦時せんじちゅう白米はくまいしょく強要きょうようした[47]
  • 海軍かいぐんへいしょく改良かいりょう徹底てっていして非難ひなんした。鷗外は留学りゅうがくさきからわざわざ高木たかぎ非難ひなんする論文ろんぶんまでおくっており、これは日本にっぽん国内こくないにおける脚気かっけ栄養えいようせつへの攻撃こうげきにも利用りようされた。コッホが細菌さいきん発見はっけんするまで人類じんるい病気びょうきのメカニズムすら把握はあくしていなかった。海軍かいぐん高木たかぎおこない、陸軍りくぐんでもにち戦争せんそう開戦かいせんまえれて成果せいかがっていた「原因げんいんは(当時とうじは)わからないが結果けっかとして脚気かっけなおる」という現在げんざい疫学えきがくであるイギリスりゅう医学いがくもとづく対症療法たいしょうりょうほうみとめなかった。
  • 論理ろんりにこだわりぎて、学術がくじゅつてき権威けんい依拠いきょぎた[注釈ちゅうしゃく 60]原因げんいん判明はんめいしないままぜんぐんれることはできないというのはいちめんただしいものの見方みかたであるが、経験けいけん蓄積ちくせきされ、あるいは研究けんきゅう進展しんてんしてからもなお細菌さいきんせつ固執こしつした。軍医ぐんい、しかも高官こうかんにまで出世しゅっせする立場たちばにあるならば、ビタミンなどの微小びしょう栄養素えいようそ発見はっけんまえであることから原因げんいん説明せつめいができない高木たかぎ栄養えいようせつ攻撃こうげきするまえに、徴兵ちょうへい主体しゅたい兵士へいし健康けんこう確保かくほするべきであったが、鷗外にとってそれは重要じゅうようではなかった。コッホの助言じょげんによって東南とうなんアジアでの同種どうしゅ栄養素えいようそ欠乏症けつぼうしょうであるベリベリの調査ちょうさおこなわれ、「動物どうぶつ実験じっけんとヒトの食餌しょくじ試験しけん」という手法しゅほう日本にっぽんにも導入どうにゅうされた。この結果けっか細菌さいきんせつ支持しじしゃだった臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかい委員いいん栄養えいようせつ転向てんこうしたが、会長かいちょうの鷗外はこれを罷免ひめんした。また麦飯むぎめし寺内てらうちもとめた麦飯むぎめし効能こうのう調査ちょうさについては、栄養えいよう問題もんだいそのものを調査ちょうさかい活動かつどう方針ほうしんから排除はいじょした。
  • にちしん戦争せんそう上官じょうかん石黒いしぐろ同調どうちょうした[注釈ちゅうしゃく 61][注釈ちゅうしゃく 62]石黒いしぐろにちしん戦争せんそう当時とうじ土岐ときよりゆきとくからの麦飯むぎめし支給しきゅう稟議りんぎにぎりつぶし、にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていおつ戦争せんそう)でも白米はくまい支給しきゅうえてはならないと通達つうたつした。石黒いしぐろ自身じしんは、脚気かっけ根絶こんぜつ可能かのうとし、実際じっさい患者かんじゃらした海軍かいぐんことなり「脚気かっけ根絶こんぜつはなは困難こんなん」という談話だんわさえ発表はっぴょうしている。土岐とき台湾たいわん独断どくだん麦飯むぎめし支給しきゅう脚気かっけ流行りゅうこうしずめると、軍規ぐんき違反いはんうて即刻そっこく帰京ききょうさせ、5ねん予備よびやくんだが軍法ぐんぽう会議かいぎひらかなかった。軍法ぐんぽう会議かいぎひらいた場合ばあい軍規ぐんき違反いはんこした士官しかん上官じょうかんとしての統率とうそつ責任せきにんと、そもそもなぜ軍規ぐんき違反いはんいたったかの経緯けいいおおやけになるためである。しかし石黒いしぐろかくそうとした「麦飯むぎめし脚気かっけった」経緯けいいもと台湾たいわん鎮台ちんだい司令しれいかん高島たかしま鞆之すけ陸軍りくぐん大臣だいじんになると石黒いしぐろ辞任じにんさせた。鷗外が同調どうちょうした上官じょうかんとはこのような人物じんぶつであり、おな陸軍りくぐん軍医ぐんい麦飯むぎめし脚気かっけらしてもなお高木たかぎ栄養えいようせつ欠陥けっかん批判ひはんするのみで、脚気かっけ患者かんじゃらすことを目的もくてきとした対策たいさくらず、にち戦争せんそうでの膨大ぼうだい戦病死せんびょうし惹起じゃっきした。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

史跡しせきもり鷗外生家せいか

日付ひづけは1872ねんまでは旧暦きゅうれき

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

おも作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

  • 舞姫まいひめ(『国民こくみんとも』1890ねん1がつ
  • うたかたの(『国民こくみんとも』1890ねん8がつ
  • ぶんづかひ(吉岡よしおか書店しょてん、1891ねん1がつ
  • そめちがへ(『しん小説しょうせつ』1897ねん8がつ
  • あさ寐(『しんはな』1906ねん11月)
  • 有楽うらくもん(『しんはな』1907ねん1がつ
  • 半日はんにち(『スバル』1909ねん3がつ
  • つい儺(『東亜とうあひかり』1909ねん5がつ
  • 懇親こんしんかい(『美術びじゅつ日本にっぽん』1909ねん5がつ
  • ねむ(『スバル』1909ねん6がつ
  • だい発見はっけん(『しんはな』1909ねん6がつ
  • ヰタ・セクスアリス(『スバル』1909ねん7がつ
  • にわとり(『スバル』1909ねん8がつ
  • 金貨きんか(『スバル』1909ねん9がつ
  • 金毘羅こんぴら(『スバル』1909ねん10がつ
  • はい(『中央公論ちゅうおうこうろん』1910ねん1がつ
  • 独身どくしん(『スバル』1910ねん1がつ
  • 牛鍋ぎゅうなべ(『しんはな』1910ねん1がつ
  • 電車でんしゃまど(『東亜とうあひかり』1910ねん1がつ
  • 木精もくせい(『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1910ねん1がつ16にち-17にち)※「わら吾野あがのじん名義めいぎ発表はっぴょう
  • 里芋さといも不動ふどう(『スバル』1910ねん2がつ
  • 青年せいねん(『スバル』1910ねん3がつ–11ねん8がつ
  • 桟橋さんばし(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん5がつ
  • 普請ふしんちゅう(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん6がつ
  • ル・パルナス・アンビュラン(『中央公論ちゅうおうこうろん』1910ねん6がつ
  • 花子はなこ(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん7がつ
  • あそび(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん8がつ
  • 沈黙ちんもくとう(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん11月)
  • 身上しんじょうばなし(『新潮しんちょう』1910ねん11月)
  • 食堂しょくどう(『三田みた文学ぶんがく』1910ねん12がつ
  • へび(『中央公論ちゅうおうこうろん』1911ねん1がつ
  • カズイスチカ(『三田みた文学ぶんがく』1911ねん2がつ

戯曲ぎきょく[編集へんしゅう]

  • おんな歌舞伎かぶきみさおいちまい(『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん11月)※三木みき竹二たけじともさく
  • たま篋両うら嶼(『歌舞伎かぶき』1902ねん12月号外ごうがい
  • 日蓮にちれん上人しょうにん辻説法つじせっぽう(『歌舞伎かぶき』1904ねん臨時りんじごう
  • 仮面かめん(『スバル』1909ねん4がつ
  • せい(『スバル』1909ねん11月)
  • 生田川いけだがわ(『中央公論ちゅうおうこうろん』1910ねん4がつ
  • おんながた(『三越みつこし』1913ねん10がつ
  • 曾我そが兄弟きょうだい(『しん小説しょうせつ』1914ねん3がつ

史伝しでん[編集へんしゅう]

  • 栗山くりやま大膳だいぜん(『太陽たいよう』1914ねん9がつ
  • 津下つした四郎しろう左衛門さえもん(『中央公論ちゅうおうこうろん』1915ねん4がつ
  • 椙原ひん(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1916ねん1がつ
  • 渋江しぶえ抽齋ちゅうさい(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1916ねん1がつ-5がつ
  • 寿ことぶき阿弥あみ手紙てがみ(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1916ねん5がつ - 6がつ
  • 伊澤いさわ蘭軒らんけん(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1916ねん6がつ-1917ねん9がつ
  • 都甲とこうふとし兵衛ひょうえ(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1917ねん1がつ
  • 鈴木すずき藤吉郎とうきちろう(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1917ねん9がつ
  • 細木さいき香以こうい(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1917ねん9がつ-10がつ
  • 小嶋こじまたからもと(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1917ねん10がつ
  • 北條ほうじょう霞亭かてい(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1917ねん10がつ-12月、『帝国ていこく文学ぶんがく』1918ねん2がつ-9がつ
  • 霞亭かてい生涯しょうがいすえいちねん(『アララギ』1920ねん10がつ-1921ねん11月)

翻訳ほんやく小説しょうせつ[編集へんしゅう]

  • 緑葉りょくよう歎(ドーデ、『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん2がつ)※三木みき竹二たけじともやく
  • たまなついてつみあり(ホフマン、『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん3がつ-7がつ)※三木みき竹二たけじともやく
  • せんそう(ドーデ、『少年しょうねんえん』1889ねん3がつ
  • しん世界せかい浦島うらしまアーヴィング、『少年しょうねんえん』1889ねん5がつ-7がつ
  • 洪水こうずいハート英語えいごばん、『しがらみ草紙ぞうし』1889ねん10がつ-1890ねん3がつ
  • みず西にしかんうたく(レフ・トルストイ、『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん11月)
  • ふたよるハックレンデルドイツばん、『読売新聞よみうりしんぶん』1890ねん1がつ-2がつ
  • 馬鹿ばかおとこツルゲーネフ、『日本にっぽんぶんはな』1890ねん1がつ
  • 地震じしんクライスト、『国民こくみん新聞しんぶん』1890ねん3がつ
  • あく因縁いんねん(クライスト、『国民こくみんとも』1890ねん4がつ-7がつ
  • 埋木うめきシュビンドイツばん、『しがらみ草紙ぞうし』1890ねん4がつ-1891ねん4がつ
  • (ツルゲーネフ、『東京とうきょうちゅう新聞しんぶん』1890ねん6がつ
  • うきよのなみシュテルンドイツばん、『国民こくみんとも』1890ねん8がつ-11月)
  • 綬章じゅしょう(ハックレンデル、『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1891ねん3がつ
  • 懺悔ざんげルソー、『立憲りっけん自由じゆう新聞しんぶん』1891ねん3がつ-5がつ)※未完みかん
  • みくづ(ドーデ、『しがらみ草紙ぞうし』1891ねん6がつ
  • 女丈夫じょじょうふフレンツェルドイツばん、『国民こくみんとも』1891ねん8がつ
  • ぬけうり(レールモントフ、『学習がくしゅういん輔仁かい雑誌ざっし』1892ねん10がつ
  • 即興そっきょう詩人しじんアンデルセン、『しがらみ草紙ぞうし』1892ねん11月-『めさましくさ』1901ねん2がつ
  • はげあたま(コピッシュドイツばん、『しん小説しょうせつ』1897ねん1がつ
  • 山彦やまびこヒッペルドイツばん、『藝文げいぶん』1902ねん6がつ
  • 宿命しゅくめいろんしゃ(レールモントフ、『明星みょうじょう』1907ねん1がつ
  • ソクラテエスのクレーゲルドイツばん、『しんはな』1908ねん1がつ
  • アンドレアス・タアマイエルが遺書いしょ(シュニッツラー、『明星みょうじょう』1908ねん1がつ
  • ちちシェーファードイツばん、『明星みょうじょう』1908ねん2がつ
  • いつのきみかえります(ルストドイツばん、『明星みょうじょう』1908ねん4がつ
  • 黄金おうごんはいヴァッサーマン、『明星みょうじょう』1908ねん5がつ
  • 牧師ぼくしラーゲルレーヴ、『しんはな』1908ねん10がつ
  • わかれ(ホルツドイツばん,シュラフドイツばん、『明星みょうじょう』1908ねん11月)
  • かおデーメル、『しんはな』1909ねん1がつ
  • 午後ごごじゅういちヴィードデンマークばん、『太陽たいよう』1910ねん1がつ
  • しろ(リルケ、『趣味しゅみ』1910ねん1がつ
  • つりアルテンベルク、『女子じょし文壇ぶんだん』1910ねん1がつ
  • いぬアンドレーエフ初出しょしゅつ不明ふめい 1910ねん1がつ
  • からすシュミットボンドイツばん、『帝国ていこく文学ぶんがく』1910ねん3がつ
  • 歯痛しつう(アンドレーエフ、『趣味しゅみ』1910ねん3がつ
  • ひじりジュリアンフローベール、『太陽たいよう』1910ねん5がつ-7がつ
  • 罪人ざいにんアルツィバーシェフ、『東亜とうあひかり』1910ねん5がつ
  • うづしほエドガー・アラン・ポー、『文藝ぶんげい倶楽部くらぶ』1910ねん8がつ
  • (アルツィバーシェフ、『学生がくせい文藝ぶんげい』1910ねん9がつ
  • わらい(アルツィバーシェフ、『東亜とうあひかり』1910ねん9がつ
  • 髑髏しゃれこうべミョリスヒョッフェルドイツばん、『東亜とうあひかり』1911ねん1がつ
  • えりディモフロシアばん、『三田みた文学ぶんがく』1911ねん1がつ
  • 一疋いっぴきいぬ疋になるはなしベルジェ英語えいごばん、『しんはな』1911ねん1がつ

翻訳ほんやく戯曲ぎきょく[編集へんしゅう]

  • 調しらべだか矣洋絃いちきょくカルデロン、『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん1がつ-2がつ)※三木みき竹二たけじともやく
  • おり薔薇ばらレッシング、『しがらみ草紙ぞうし』1889ねん10がつ-1890ねん6がつ
  • 伝奇でんきトオニイ(ケルナードイツばん、『読売新聞よみうりしんぶん』1889ねん11月-12月)※三木みき竹二たけじともやく未完みかん
  • 俘(レッシング、『しがらみ草紙ぞうし』1892ねん9がつ-1893ねん7がつ
  • 牧師ぼくしイブセン、『まんねんくさ』1903ねん6がつ-9がつ)※未完みかん
  • わがきみショルツドイツばん、『歌舞伎かぶき』1907ねん10がつ
  • 短剣たんけんちたるおんなシュニッツラー、『歌舞伎かぶき』1907ねん11月-12月)
  • 出発しゅっぱつ前半ぜんはん時間じかんヴェーデキント、『歌舞伎かぶき』1908ねん1がつ
  • 奥底おくそこバール、『歌舞伎かぶき』1908ねん7がつ-8がつ
  • 花束はなたばズーダーマン、『歌舞伎かぶき』1908ねん9がつ-10がつ
  • 猛者もさ(シュニッツラー、『歌舞伎かぶき』1908ねん11月)
  • 痴人ちじんと(ホーフマンスタール、『歌舞伎かぶき』1908ねん12がつ
  • 僧房そうぼうゆめハウプトマン、『歌舞伎かぶき』1909ねん1がつ-3がつ
  • 耶蘇やそ降誕祭こうたんさいかいいれ(シュニッツラー、『新天地しんてんち』1909ねん1がつ
  • 奇蹟きせきメーテルリンク、『歌舞伎かぶき』1909ねん1がつ
  • ねんねえ旅篭はたごヴィードデンマークばん、『しんはな』1909ねん4がつ-5がつ
  • 債鬼さいきストリンドベリ、『歌舞伎かぶき』1909ねん4がつ
  • ジヨン・ガブリエル・ボルクマン(イブセン、『国民こくみん新聞しんぶん』1909ねん6がつ-8がつ
  • サロメワイルド、『歌舞伎かぶき』1909ねん7がつ-9がつ
  • 家常茶飯かじょうさはんリルケ、『太陽たいよう』1909ねん9がつ-10がつ
  • あきゆうゆめダンヌンツィオ、『歌舞伎かぶき』1909ねん10がつ
  • けたるにん(ショルツ、『しん小説しょうせつ』1909ねん11月-12月)
  • ひと一生いっしょうアンドレーエフ、『歌舞伎かぶき』1910ねん1がつ-5がつ

詩歌しかおよび作詞さくし[編集へんしゅう]

文芸ぶんげい評論ひょうろん[編集へんしゅう]

  • しがらみ草紙ぞうしやまぼう論文ろんぶん(『しがらみ草紙ぞうし』1891ねん9がつ-1892ねん6がつ
  • さんにん冗語じょうご(『めさましくさ』1896ねん3がつ-7がつ
  • くもちゅう(『めさましくさ』1896ねん9がつ-1897ねん9がつ
  • ファウストこう冨山とやまぼう、1913ねん11月刊げっかん
  • ギヨッツこう(『三田みた文学ぶんがく』1914ねん2がつ-8がつ

美学びがくろん[編集へんしゅう]

  • 審美しんびろん(『めさましくさ』1896ねん-1897ねん)※エドゥアルト・フォン・ハルトマン哲学てつがく」の抄訳しょうやく
  • 洋画ようが手引てびきそうほうしゃ、1898年刊ねんかん)※久米くめ桂一郎けいいちろう大村おおむら西崖せいがいらと共著きょうちょ
  • 審美しんび綱領こうりょう春陽しゅんようどう、1899年刊ねんかん)※大村おおむら西崖せいがい共編きょうへん、「哲学てつがく」の梗概こうがい[70]
  • 審美しんび新説しんせつ春陽しゅんようどう、1900年刊ねんかん
  • 審美しんび極致きょくちろん(『めさましくさ』1901ねん2がつ-10月、しんカント哲学てつがくしゃオットー・リーブマンの翻訳ほんやく
  • げいよう解剖かいぼうがくほうしゃ、1903年刊ねんかん)※久米くめ桂一郎けいいちろうきょうせん

評伝ひょうでん[編集へんしゅう]

  • 西にししゅうでん(1898ねん11月刊げっかん
  • ゲルハルト・ハウプトマン(1906ねん10月刊げっかん
  • ギョオテでん冨山とやまぼう、1913ねん11月刊げっかん

医学いがく衛生えいせいがく[編集へんしゅう]

  • 日本食にほんしょくろんはたしつ根拠こんきょたちばなどう、1888年刊ねんかん
  • 衛生えいせい新篇しんぺん南江堂なんこうどう、1897年刊ねんかん、1914ねん改版かいはん増補ぞうほ)※小池こいけ正直まさなおとの共著きょうちょ
  • 性欲せいよくざつせつ(『公衆こうしゅう医事いじ』1902ねん11月-1903ねん11月)
  • 衛生えいせいがく大意たいい博文ひろぶみかん、1907年刊ねんかん

随筆ずいひつ[編集へんしゅう]

  • をして九州きゅうしゅうとみじんたらしめば(『福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん』1899ねん9がつ
  • 鷗外りょうとはだれぞ(『福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん』1900ねん1がつ
  • 原田はらだ直次郎なおじろう(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1900ねん1がつ
  • にわたずみきゅうろく(『歌舞伎かぶき』1900ねん7がつ
  • 当流とうりゅう比較ひかく言語げんごがく(『東亜とうあひかり』1909ねん7がつ
  • 長谷川はせがわ辰之助たつのすけえきふうしゃ二葉亭四迷ふたばていしめい』1909ねん8月刊げっかん収録しゅうろく
  • 立場たちば(Resignationのせつ、『新潮しんちょう』1909ねん12がつ
  • かなえ軒先のきさきせい(『東京とうきょう経済けいざい雑誌ざっし』1911ねん4がつ
  • 文芸ぶんげい主義しゅぎ(『東洋とうよう』1911ねん4がつ
  • サフラン(『ばん紅花べにばな』1914ねん3がつ
  • 歴史れきし其儘と歴史れきしばなれ(『しんはな』1915ねん1がつ
  • 空車くうしゃ(むなぐるま)(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1916ねん5がつ
  • なかじきり(『斯論』1917ねん9がつ
  • 礼儀れいぎ小言こごと(『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1918ねん1がつ
  • ふる手帳てちょうから(『明星みょうじょう』1921ねん11月-1922ねん7がつ)※未完みかん絶筆ぜっぴつさく

紀行きこう[編集へんしゅう]

  • みちの(『東京とうきょう新報しんぽう』1890ねん8がつ-9がつ
  • きたゆう(『しんはな』1914ねん8がつ-9がつ

箴言しんげんしゅう[編集へんしゅう]

海外かいがいニュース[編集へんしゅう]

  • 海外かいがい消息しょうそく椋鳥むくどり通信つうしん補遺ほい、『スバル』1909ねん1がつ-2がつ
  • 椋鳥むくどり通信つうしん(『スバル』1909ねん3がつ-1913ねん10がつ
  • みずのあなたより(『とう』1913ねん11月-1914ねん7がつ

日記にっき[編集へんしゅう]

  • きたゆう日乘にちじょう(1883ねん2がつ-3月、同年どうねん9がつ-1884ねん2がつ
  • こう西にし日記にっき(1884ねん8がつ-10がつ
  • 獨逸どいつ日記にっき(1889ねん10がつ-1893ねん5がつ
  • たいつとむ日記にっき(1888ねん3がつ-7がつ
  • かえあずま日乘にちじょう(1888ねん7がつ-9がつ
  • かんしおろう日記にっき(1892ねん8がつ-10がつ
  • 徂征日記にっき(1894ねん8がつ-1895ねん10がつ
  • 小倉おぐら日記にっき(1899ねん6がつ-1902ねん3がつ
  • ゆだねへびろく(1918ねん1がつ-1922ねん7がつ

その[編集へんしゅう]

  • 人種じんしゅ哲学てつがく梗概こうがい春陽しゅんようどう、1903ねん10月刊げっかん
  • 大戦たいせん学理がくり軍事ぐんじ委員いいんかい、1903ねん11月刊げっかん)※カール・フォン・クラウゼヴィッツ戦争せんそうろん翻訳ほんやく収録しゅうろく
  • 黄禍こうかろん梗概こうがい春陽しゅんようどう、1904ねん5月刊げっかん
  • 仮名遣かなづかい意見いけん(1908ねん6がつ私費しひ印刷いんさつ
  • おもねそだておう事蹟じせき春陽しゅんようどう、1909ねん1月刊げっかん)※大村おおむら西崖せいがいとの共著きょうちょ
  • 東京とうきょう方眼ほうがん春陽しゅんようどう、1909ねん8月刊げっかん
  • みかどおくりなこうみや内省ないせい図書としょりょう、1921ねん3がつ関係かんけいしゃ限定げんてい配布はいふ)※鷗外没後ぼつご1926ねん吉田よしだ増蔵ますぞうによりてい
  • 元号げんごうこう[注釈ちゅうしゃく 64] ※鷗外生前せいぜん未完みかん没後ぼつご1926ねん吉田よしだ増蔵ますぞうによりてい

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

先祖せんぞ[編集へんしゅう]

てんとしてのもりもり)は、1650ねん前後ぜんこう慶安けいあん年間ねんかん)から1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんおよぶ。

げんげんあつげん叔━しゅう菴━げんげんせきげん叔━しゅう菴━しゅう菴━りつほんしゅう菴━はくせんせいたい━┳林太郎りんたろう
                                       ┣篤次郎とくじろう
                                       ┣喜美子きみこ
                                       ┗潤三郎じゅんざぶろう

ちちはんもりしずやすし静男しずお)、はは峰子みねこちちのち北千住きたせんじゅたちばなどう医院いいん開業かいぎょう。鷗外も4年間ねんかんんでおり、北千住きたせんじゅもり鷗外のいしぶみ建立こんりゅうされている。ちち静男しずお明治めいじ10ねんより東京とうきょうみなみ足立あだちぐん千住せんじゅ東京とうきょう出張所しゅっちょうしょぐんつとめ、医師いしとしての名望めいぼうたか学殖がくしょくゆたかであったが、内務省ないむしょうさだめる免状めんじょうではなかったために、東京とうきょう明治めいじ18ねん(1885)に「こおり職務しょくむ心得こころえ」を廃止はいしし、あらたに「東京とうきょうこおり職務しょくむ章程しょうてい」をさだめたさいぐん辞職じしょくした[71]

妻子さいし[編集へんしゅう]

4にん子供こどもはいずれも鷗外について著作ちょさくのこしており、とりわけ茉莉まり国語こくご教科書きょうかしょった『ちち帽子ぼうし[74])とあんずやつ(『晩年ばんねんちち[75])が有名ゆうめいである。母親ははおやちが於菟おとは、子供こどもたちとはまたちがった父親ちちおやぞうつづっている。全員ぜんいん当時とうじとしては異色いしょく名前なまえだったが、これは本人ほんにん名前なまえはやし太郎たろう」が外国がいこくじんには発音はつおんしづらかったことからているもので、世界せかい通用つうようする名前なまえにしようとしたため。ちなみにまご𣝣(じゃく、茉莉まり)も鷗外の命名めいめいによる[注釈ちゅうしゃく 66]

  • そとわらわ 児玉こだませき:18、19さいごろよりわらわとして寵愛ちょうあいされ、その母親ははおやとともにもり近所きんじょである千駄木せんだぎりんまち11にらした[76]

弟妹ていまい[編集へんしゅう]

  • おとうと 篤次郎とくじろう三木みき竹二たけじ):明治めいじ代表だいひょうする劇評げきひょうで、内科ないか演劇えんげき雑誌ざっし歌舞伎かぶき』を主宰しゅさいし、歌舞伎かぶき批評ひひょう客観きゃっかんてき基準きじゅん確立かくりつした(三木みき竹二たけじ観劇かんげき偶評』、渡辺わたなべたもつへん岩波いわなみ文庫ぶんこ、2004ねん)。
  • おとうと 潤三郎じゅんざぶろうもり潤三郎じゅんざぶろう):書誌しょし学者がくしゃ朝鮮ちょうせん歴史れきしにもくわしく1904ねんに『朝鮮ちょうせん年表ねんぴょう』を出版しゅっぱん。鷗外の伝記でんき執筆しっぴつ刊行かんこうした(『鷗外もり林太郎りんたろうでん』1934ねん改版かいはん『鷗外もり林太郎りんたろう』1942ねん)。
  • いもうと 喜美子きみこ明治めいじ若松わかまつ賤子ならしょうされた翻訳ほんやくで、また随筆ずいひつ歌人かじんでもあった(『鷗外のおも岩波いわなみ文庫ぶんこ、1999ねん。『もり鷗外のけいぞく岩波いわなみ文庫ぶんこ、2001ねん)。
  • 義弟ぎてい 小金井こがねいりょうせい喜美子きみこおっと初期しょき文部省もんぶしょう派遣はけん留学生りゅうがくせい(鷗外の前年ぜんねんにドイツ留学りゅうがく)。24さい帰国きこくし、27さいとき高給こうきゅうのドイツじん教官きょうかんわって東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ教授きょうじゅ就任しゅうにん後年こうねん帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく学長がくちょうげん東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん医学いがくけい研究けんきゅう研究けんきゅうちょう医学いがく部長ぶちょうとうつとめた[77]小金井こがねい夫妻ふさいまご1人ひとり小説しょうせつほし新一しんいち

傍系ぼうけい[編集へんしゅう]

家系かけい[編集へんしゅう]

 
 
もりしずやすし
 
峰子みねこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小林こばやし又兵衛またべえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤松あかまつそくりょう
 
 
 
 
 
 
荒木あらき博臣ひろおみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小金井こがねいりょうたち
 
こう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登志子としこ
 
はやし太郎たろう
もり鷗外
 
 
篤次郎とくじろう
三木みき竹二たけじ
 
喜美子きみこ
 
小金井こがねいりょうせい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
於菟おと
 
山田やまだ珠樹たまき
 
茉莉まり
 
小堀こぼり四郎しろう
 
あんずやつ
 
りつ
 
るい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山田やまだ𣝣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきら
 
とみ
 
れい
 
樊須
 
常治つねじ

邸宅ていたく記念きねんかんとう[編集へんしゅう]

邸宅ていたく[編集へんしゅう]

  • もり鷗外旧宅きゅうたくもり鷗外記念きねんかん島根しまねけん津和野つわのまち[78]津和野つわのふるくから漢方薬かんぽうやくる髙津伊藤いとうひろし石堂いしどう建物たてもの敷地しきちったが、のちなな代目だいめ伊藤いとう利兵衛りへえが鷗外の33回忌かいき津和野つわのまち寄贈きぞうした。なお、代目だいめ伊藤いとう利兵衛りへえは鷗外がにち戦争せんそう出征しゅっせいしたさい丸薬がんやく一等いっとうまる」をおくよろこばれている。
  • もり鷗外旧居きゅうきょ、鷗外きょう福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきた[79]
  • もり鷗外きゅうやしききゅう旅館りょかん水月すいげつホテル鷗外そう」)
    • この建物たてものは鷗外が最初さいしょつま赤松あかまつ登志子としこと1889ねん5がつからんでいた邸宅ていたくで、1890ねん11月の離婚りこん直前ちょくぜん文京ぶんきょうへの転居てんきょまで居住きょじゅうしていた[80]。2021ねんれい3ねん)に閉館へいかんした旅館りょかん水月すいげつホテル鷗外そう」(台東たいとう池之端いけのはた)にあった建物たてもの[81]根津ねづ神社じんじゃ文京ぶんきょう)に移築いちくされることになった[80]
    • ちく130ねん以上いじょう木造もくぞう平屋ひらやゆか面積めんせきやく120平方へいほうメートル[80]。1946ねん昭和しょうわ21ねん)に旅館りょかん創業そうぎょうしゃ隣接りんせつするきゅうやしきったのち座敷ざしきは「舞姫まいひめあいだ」として70ねん以上いじょうにわたって使用しようされていた[80]。2020ねんには新型しんがたコロナウイルスによる影響えいきょう予約よやく激減げきげんして閉館へいかん検討けんとう[82]やく1年間ねんかん休業きゅうぎょうのちいったん営業えいぎょう再開さいかいしたが最終さいしゅうてきに2021ねん10がつ15にちかぎりで閉館へいかん[83]閉館へいかん根津ねづ神社じんじゃ文京ぶんきょう)が移築いちくけることになり、総代そうだいかい全会ぜんかい一致いっち移築いちく決定けっていした[80][84]
  • せん朶山ぼう(せんださんぼう)
    • 鷗外が文京ぶんきょうして最初さいしょらした邸宅ていたくで、博物館はくぶつかん明治めいじむらうち移築いちくされている[80]
    • 1890ねんからやく1ねん居住きょじゅうした住宅じゅうたくもと千駄木せんだぎ所在しょざい)で、のちに夏目なつめ漱石そうせき居住きょじゅうした[80][85]愛知あいちけん犬山いぬやま博物館はくぶつかん明治めいじむらない移築いちくされ「もり鷗外・夏目なつめ漱石そうせき住宅じゅうたく」として展示てんじされている[80][85]
  • かんしおろう(かんちょうろう)
    • 文京ぶんきょうで鷗外が後半こうはんせいらした邸宅ていたく[80]現存げんそんせず跡地あとちには文京ぶんきょう区立くりつもり鷗外記念きねんかん立地りっちする[80]
    • 1892ねん明治めいじ25ねん)に東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう千駄木せんだぎげん東京とうきょう文京ぶんきょう)に建設けんせつされた。鷗外の死後しごかんしおろうには家族かぞくらし、その借家しゃくやとなっていた[86]。しかし、1937ねん昭和しょうわ12ねん)の借家しゃくやじん失火しっか母屋もやだい部分ぶぶん焼失しょうしつし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)には戦災せんさい胸像きょうぞうなどをのぞきすべて焼失しょうしつした[86]かんしおろう跡地あとちは1950ねん昭和しょうわ25ねん)に記念きねん公園こうえん児童じどうゆう園地えんち)となり、東京とうきょう史跡しせき指定していけた[86]。その、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に文京ぶんきょう区立くりつ鷗外記念きねん本郷ほんごう図書館としょかん開設かいせつされ鷗外記念きねんしつ併設へいせつされた[86]きゅうしつとなったのち、2012ねん文京ぶんきょう区立くりつもり鷗外記念きねんかんとして開館かいかんした[86]

記念きねんかん[編集へんしゅう]

そののエピソード[編集へんしゅう]

  • つね日頃ひごろ文人ぶんじん自分じぶん軍医ぐんいである自分じぶんのそれを厳格げんかくけてかんがえていた。あるとき文壇ぶんだんしたしい友人ゆうじん軍服ぐんぷく姿すがた停車場ていしゃじょうっていたもりにして、何気なにげなくはなしかけたら、その友人ゆうじん怒鳴どなりつけたことがある。
  • 軍医ぐんいでなおかつぐん一人ひとりでもあることを意識いしきしており、自分じぶんであるあんずやつ散歩さんぽをしていると「わー中将ちゅうじょうあるいているぞ」と子供こどもたちがバラバラとってきた。ぐん人間にんげんにち戦争せんそう影響えいきょう人気にんきがあったからだが、鷗外をつめていた子供こどもたちの1人ひとりえりふか緑色みどりいろて「おい、なんだ、軍医ぐんいだよ」とこえげ、子供こどもたちがるようにってしまったことにかなり落胆らくたんしてしまったそうである。
  • 子供こどもたちは鷗外を「パッパ」とび、茂子しげこのことを「おかあちゃん」とんでいた。
  • 細菌さいきんがく衛生えいせいがくきわめて以来いらいパスツール同様どうよう潔癖けっぺきしょうになってしまい、果物くだものなどのもの加熱かねつしないとべられなくなってしまった。砂糖さとうをかけた果物くだものきで、食卓しょくたくには水蜜すいみつももあんずうめなどがのった。
  • 風呂ふろ無駄むだあるいは細菌さいきん温床おんしょう做してきらい、金盥かなだらいまえいちにち2かい手拭てぬぐいきよめるのが日課にっかであった。於菟おとは『父親ちちおやとしてのもり鷗外』冒頭ぼうとうにて「ちちはこのためみず不足ふそく戦地せんちでもこまらなかった」と述懐じゅっかいしている。
  • さけめずだい甘党あまとうだった。あんぱんや「消毒しょうどくしてあって、滋養じようんでいる」いも好物こうぶつであった[87]。「饅頭まんじゅう茶漬ちゃづ」なる独自どくじ料理りょうりこのんでおり、ごはんうえよん等分とうぶんにした饅頭まんじゅうせ、おちゃをかけてわせていてつくられたそれは、「しぶいき甘味あまみ」と形容けいようされている[88]あんこきで、汁粉しるこんだ。木村きむらのあんぱんも好物こうぶつだった。宮中きゅうちゅうのデザートでされたキャラメルやチョコレートなどをそっと軍服ぐんぷくかくれて、子供こどもたちへの土産みやげにすることもあった。
  • たったいち種類しゅるい料理りょうりができて、「玉子たまごをどろどろにやわらかくる」ことで弁当べんとうおかずによくつくったが、おさけれすぎておさけくさときもあった(あんずやつ晩年ばんねんちち」)。「技巧ぎこうのない料理りょうり」がきだった[89]
  • 木下きのした杢太郎もくたろうは鷗外を「テエベスひゃくもんだい」とひょうし、「文学ぶんがく自然しぜん科学かがくと、和漢わかん古典こてん泰西たいせいしん思潮しちょう芸術げいじゅつてき感興かんきょうじゅん吏的の実直じっちょくとが孰れも複雑ふくざつ調帯しらべおび両極りょうきょくしている」(『芸林げいりんあいだ所収しょしゅうもり鷗外」)とべている。

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

もり鷗外を題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ カシオ計算機かしおけいさんき・「KE!SAN-れきから西暦せいれき変換へんかん年月日ねんがっぴ」で、太陰たいいん太陽暦たいようれき文久ぶんきゅう2ねん1がつ19にち西暦せいれき年月日ねんがっぴ変換へんかんすると、1862ねん2がつ17にち計算けいさんされる(2020ねん3がつ10日とおか計算けいさん)。
  2. ^ 入学にゅうがくだい一大いちだい学区がっく学校がっこう東京とうきょう学校がっこう医学いがく本科ほんか
  3. ^ 祖母そぼ養子ようしであり、祖父母そふぼだいもり血筋ちすじえていた。このため鷗外は、親戚しんせき西にしあまねつながっていない。
  4. ^ 鷗外誕生たんじょう前年ぜんねん祖父そふはくせん東海道とうかいどう土山つちやま宿やど病死びょうししたため、とく祖母そぼは鷗外をはくせんまれわりといってよろこび、後年こうねん、鷗外が留学りゅうがく出征しゅっせいから無事ぶじ帰国きこくするたびに、はらはらとなみだとしたという(小金井こがねい (1999))。
  5. ^ ドイツじん教員きょういんがいて生徒せいとの1わりきょう華族かぞく身分みぶん当時とうじ父親ちちおや収入しゅうにゅうまえると、西にしあまね学費がくひ世話せわをしたというせつがある。
  6. ^ かぞどし12さい。このときかぞどしの12さいに2さいおおいつわり14さいであり、かぞどしふくまない場合ばあいは、13さいである。
  7. ^ かぞどし19さい入学にゅうがく試験しけんときに、年齢ねんれいいつわっているため東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶを11さい入学にゅうがくして18さい卒業そつぎょうした唯一ゆいいつ人物じんぶつ
  8. ^ 鷗外の陸軍りくぐんしょうりには、当時とうじ軍医ぐんい総監そうかんだったはやしおさむ昵懇じっこん間柄あいだがらである西にしあまね助力じょりょくはたらいていたようで、1882ねん明治めいじ15ねん)5がつには同期どうきなかはつの「軍医ぐんい本部ほんぶづけ」となった。やま(2007)、41–42ぺーじ
  9. ^ せい全書ぜんしょ稿本こうほんぜんじゅうかん前部ぜんぶは、陸軍りくぐん衛生えいせい制度せいどのほか、軍隊ぐんたいでの儀礼ぎれい法制ほうせい経理けいり給与きゅうよ設営せつえいなどがげられた。また、その後部こうぶは、軍陣ぐんじん衛生えいせい各論かくろん構成こうせいされた。二十歳はたちの鷗外は、そうした膨大ぼうだい内容ないよう稿本こうほんじゅうげつほどで編集へんしゅうしたのである。やま(2007)、45ぺーじ
  10. ^ 明治めいじ17ねん留学生りゅうがくせいのメンバーはもり林太郎りんたろうかた山国やまくによしみ丹波たんば敬三けいぞう長與ながよしょうきち田中たなか正平しょうへい宮崎みやざきどう三郎さぶろう隈川くまがわ宗雄むねお萩原はぎはらさんけい穂積ほづみ八束やつか飯盛めしもりていづくりの10めい、鷗外がこの10めいを「日東にっとうじゅうきゃくうた」をいている。『鷗外留学りゅうがく始末しまつ』5ぺーじ
  11. ^ 鷗外は、ドレスデンにうつったとしのクリスマス休暇きゅうかで、ライプツィヒにかけた。予定よていばして滞在たいざいしたものの、12月30にちさらに滞在たいざいすすめるひとたちにわかれをげた。金子かねこ (1992)、15–18ぺーじ
  12. ^ キルケのは、ドレスデン滞在たいざい日記にっきに17かい登場とうじょうし、鷗外がドレスデンをはなれたのちも、つきいがつづいていた(金子かねこ (1992)、42ぺーじ)。
  13. ^ 近代きんだい細菌さいきんがく開祖かいそとされるコッホは、ミュンヘン大学だいがく恩師おんしペッテンコーファー対立たいりつしていたが、北里きたさとしば三郎さぶろうすすめもあり、鷗外はコッホにも師事しじした。
  14. ^ 9月26にちは、オランダ代表だいひょうの「欧州おうしゅうがい戦争せんそう傷病しょうびょうしゃ救助きゅうじょすべきかか」という問題もんだい提起ていきに、「眼中がんちゅうただ欧州おうしゅうじん植民しょくみんあるをはっしたる倉卒そうそついなり」と発言はつげんよく27にち最終さいしゅうは、石黒いしぐろ忠悳ただのり許可きょかて「アジアそとしょくにたたかいあるときは、日本にっぽんしょしゃ救助きゅうじょちからくすこと必然ひつぜんならんと思考しこうす」と演説えんぜつし、喝采かっさいはくした。ちなみに、その演説えんぜつ主旨しゅしは、4がつ18にち同期どうき谷口たにぐちけんとも乃木のぎ希典まれすけ川上かわかみ操六そうろくりょう少将しょうしょう訪問ほうもんしたとき、どちらかの少将しょうしょう発言はつげん内容ないようとほぼおなじである。もっとも当時とうじ、あまりられていない極東きょくとう小国しょうこくモンゴロイドキリスト教きりすときょうくに)の通訳つうやくかんが、国際こくさい会議かいぎ発言はつげんすること自体じたい相当そうとう勇気ゆうき必要ひつようであろう。やま(2007)、66–67, 70–73ぺーじ
  15. ^ 現在げんざい来日らいにちしたドイツじん女性じょせいについて3にんがっている。植木うえき(2001)は、年上としうえ既婚きこんしゃエリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert。ヴィーゲルトWiegertの可能かのうせい指摘してきされた)せつ否定ひていし、遺産いさんていた仕立物したてものむすめアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト (Anna Berta Luise Wiegert)(1872ねん12月16にち- 1951ねんせつあらたにとなえ、AnnaとLuiseが鷗外の子供こどもたちあんずやつるい)と一致いっちすることなども指摘してきした。もり鷗外と「エリス」―ドイツ・ベルリン。しかし、その刊行かんこうされたはやし(2005)小平こだいら(2006)は、植木うえきせつではなく、従来じゅうらい主流しゅりゅうである年上としうえ既婚きこんしゃせつをとった。2010ねん11月19にち植木うえきせつもとづくTV番組ばんぐみNHKハイビジョン特集とくしゅう「鷗外の恋人こいびとひゃくじゅうねん真実しんじつ~」(90ふん)が放送ほうそうされた。放送ほうそう直後ちょくご今野こんの(2010)刊行かんこうされ、当時とうじ15さいのドイツじん女性じょせい単身たんしん来日らいにちでき、また偽名ぎめいでもにちどくあいだできる可能かのうせいがあったこととうあきらかにした。2011ねん3月、ろくくさいちかエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトせつ発表はっぴょうした。その根拠こんきょとして、名前なまえ出生しゅっしょう帰国きこく職業しょくぎょう、鷗外帰国きこく年齢ねんれい(21さい)、鷗外のむすめ名前なまえ茉莉まりあんずやつ(エリーゼのミドルネームといもうとがアンナ)などをげた。ろくくさ(2011)鷗外「舞姫まいひめ」のモデルは彼女かのじょ洗礼せんれい記録きろく発見はっけん経歴けいれき一致いっち鷗外「舞姫まいひめ」モデルの晩年ばんねんあきらかに=ベルリン在住ざいじゅうのライターが調査ちょうさ
  16. ^ 日本にっぽん最初さいしょに、ゾラ文学ぶんがくてき傾向けいこう実体じったい紹介しょうかいするものとなった。ちなみに、日本にっぽんでゾラの自然しぜん主義しゅぎ影響えいきょうはじめたのは、明治めいじ30年代ねんだいである。やま(2007)、100ぺーじ
  17. ^ 新声社しんせいしや同人どうじんは、落合おちあい直文なおふみ市村いちむら瓚次ろう井上いのうえ通泰みちやす三木みき竹二たけじ(鷗外の実弟じってい)、小金井こがねい喜美子きみこ実妹じつまい既婚きこん)、鷗外本人ほんにんけい6めい。ただし竹二たけじは、「於母かげ」のともやく参加さんかしていない。やま(2007)、103ぺーじ
  18. ^ 『しがらみ草紙ぞうし』は、3ごう坪内つぼうち逍遥しょうよう幸田こうだ露伴ろはんの、4ごう山田やまだ美妙びみょう石橋いしばし忍月にんげつぶん掲載けいさいされ、その地位ちいたかまった。最盛さいせいに2,000られた。
  19. ^ 鷗外の「翻訳ほんやく」(広義こうぎ)ぶりの現代げんだいてき意味いみは、長島ながしま(2005)参考さんこうになる。ちなみに、『鷗外全集ぜんしゅう』53かん岩波書店いわなみしょてん、1951-1956ねん)の内訳うちわけは、著作ちょさくへん33かん翻訳ほんやくへん18(戯曲ぎきょく10、小説しょうせつ6、せんろん医事いじ2)まき別巻べっかん2である。
  20. ^ にちしん戦争せんそう東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう復職ふくしょくしたのち審美しんびがく西洋せいよう美術びじゅつこうじた(新関にいぜき(2008)、180ぺーじ)。
  21. ^ やま(2007)、202ぺーじ)は、「おくれた社会しゃかい科学かがくそだてるには条件じょうけん必要ひつよう。それは「標準ひょうじゅん」である。「芸術げいじゅつ」の「標準ひょうじゅん」として鷗外はかわいた日本にっぽん土壌どじょうに「審美しんびがく」をけようとした」と指摘してきした。
  22. ^ 当時とうじ遼東りゃおとん半島はんとうにいた鷗外などとの交際こうさいは、遼東りゃおとんともまじわりといわれた。そのともとは、新聞しんぶん日本にっぽん』の正岡子規まさおかしき中村なかむら不折ふせつ、『読売新聞よみうりしんぶん』の河東かわとう(かわひがし せん。俳人はいじん河東かわとう碧梧桐へきごとうあに)、久松ひさまつじょう、鷗外の5にんである(佐谷さや(2009)、54ぺーじ)。子規しきとの交際こうさい小倉おぐら転勤てんきんするまでつづきおりとは生涯しょうがいつづいた。
  23. ^ 1がつ創刊そうかんされた『めさましくさ』は、3月から「さんにん冗語じょうご」が掲載けいさいされ、9がつ以降いこうこれに依田よだ学海がっかい饗庭あえば篁村こうそん(あえば こうそん)、森田もりた思軒しけん尾崎おざき紅葉こうようらがくわわり、「くもちゅう」として評判ひょうばんになった。紅葉こうよう川上かわかみ眉山びざん正岡まさおか子規しき高浜たかはま虚子きょし落合おちあい直文なおふみなどがぶんせた。また「於母かげ」のきょう訳者やくしゃであった井上いのうえ通泰みちやす実弟じってい柳田やなぎだ國男くにお松岡まつおか国男くにおうたひょういており、夏目なつめ漱石そうせき俳句はいく掲載けいさいされた(3ごう)。
  24. ^ 児玉こだませき(32)なるおんなじゅうはちきゅうころよりわらわとして非常ひじょう寵愛ちょうあいし、かつてまできょけたる細君さいくん離別りべつしてせきを本妻ほんさいなおさんとせしもはは故障こしょうによりてたすあたわず」とある。現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ、1992ねん、14ぺーじ児玉こだまかんしては、もりまゆみが「無縁むえんざかおんな」としてあきらて、いきさつとうしるした。もりまゆみ (2000)、297-343ぺーじ
  25. ^ この人事じんじは、鷗外本人ほんにんかたべつにして当時とうじ状況じょうきょうまえれば、左遷させんといえるのか疑問ぎもんするこえもある(松本まつもと (1997)、108-111ぺーじ)。その小倉おぐら転勤てんきんは、前任ぜんにんしゃ江口えぐちじょう作家さっか江口えぐちきよしちちきよしの『わが文学ぶんがく半生はんせい』(青木あおき文庫ぶんこ、1953ねん)にはちち友人ゆうじんとして鷗外のなん登場とうじょう)が着任ちゃくにんわずか8かげつ辞職じしょく軍医ぐんい開業かいぎょう禁止きんしけ、病院びょういんでの診療しんりょう専念せんねん)したためにおこなわれた穴埋あなう人事じんじである。このため、後任こうにんの鷗外は、ほかの新設しんせつ5師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょう5めいおなじように1902ねん明治めいじ35ねん)3がつまで在任ざいにんした。
  26. ^ 末弟ばっていもり潤三郎じゅんざぶろうは、『戦争せんそうろん』の翻訳ほんやくについて「このこと軍人ぐんじん社会しゃかいあに声望せいぼうおもからしめ、山県やまがた元帥げんすいられるよしとなった。」といた(もり潤三郎じゅんざぶろう (1942)
  27. ^ 後年こうねん小倉おぐら時代じだい素材そざいにした短編たんぺん小説しょうせつにわとり』であらわれたように、田中たなか美代子みよこは、小倉こくらでの生活せいかつによって「それまで一途いっと中央ちゅうおう志向しこうかたまっていた鷗外は、だが次第しだいに、日本にっぽんふところふかいきづいている土着どちゃくたましいというべきものに目覚めざめていったのではなかろうか。」と指摘してきした(もり鷗外 (1996)、「解説かいせつ」)。また、「上京じょうきょうして以来いらい、(中略ちゅうりゃく)ドイツでの留学りゅうがく生活せいかつのぞいて、鷗外の生活せいかつでありつづけた東京とうきょうくらべると、人々ひとびと生活せいかつ行動こうどう規範きはんゆるやかで、ある意味いみ自由じゆう奔放ほんぽう北九州きたきゅうしゅうのローカル都市とし小倉こくらと、そこで生活せいかつする人々ひとびと生活せいかつ風俗ふうぞくは、鷗外にとって異質いしつで、新鮮しんせん世界せかい意味いみしていた」(末延すえのぶ (2008)、112、114ぺーじ)。
  28. ^ 貝原かいばら益軒えきけん博多はかた)のはか皮切かわきりに、加藤かとう清正きよまさ熊本くまもと)、高山たかやま彦九郎ひこくろう福岡ふくおかけん久留米くるめ)、広瀬ひろせ淡窓たんそう大分おおいたけん日田にった)など、文人ぶんじん武人ぶじんはかさがしてまいり、墓碑ぼひ筆記ひっきした。また東京とうきょう出張しゅっちょうする途中とちゅう客死かくしした祖父そふもりはくせん(1861ねん東海道とうかいどう土山つちやま宿やどぼつ)のはかまいった。末延すえのぶ (2008)、117ぺーじ
  29. ^ 西にしあまねひとしらとともに江戸えど幕府ばくふ派遣はけん留学生りゅうがくせいであった赤松あかまつそくりょう海軍かいぐん中将ちゅうじょう長女ちょうじょ登志子としことの結婚けっこん生活せいかつは、1ねんはんほどで破綻はたんした。 1888ねん明治めいじ21ねん9月8にちに鷗外が帰国きこくした直後ちょくご9月12にちにドイツじん女性じょせい来日らいにちして10月17にち離日りにちした出来事できごとをきっかけに、留学りゅうがくちゅうより西にししゅうからはなしのあった縁談えんだんきゅうすすみ(9月18にち祖母そぼが、10月17にちははおとうとたけ西にしてい訪問ほうもん)、翌年よくねん2がつ24にちに鷗外と登志子としこ結婚けっこんした(もりまゆみ (2000)、148ぺーじ)。鷗外のおとうと2にん登志子としこいもうと2にん女中じょちゅう同居どうきょし、また新居しんきょには同人どうじんなどが数多かずおお出入でいりした。後年こうねん幸田こうだ露伴ろはんは、鷗外たくくとよる12になっても1になってもめられたと回想かいそうし、内田魯庵うちだろあんも、よるけたのでかえろうとすると「マダはやいよ、ぼくしょよるひるだからね。ねむくなったらソコの押入おしいれから夜具やぐきずりしてゴロをするさ。賀古かこなぞは12たんけりやないよ」といわれ、実際じっさい賀古かこ鶴所つるどが12すぎにたのにすうかい出会であったと回想かいそうした。1890ねん明治めいじ23ねん)1がつ小説しょうせつ舞姫まいひめ」が発表はっぴょうされると、9月13にち長男ちょうなん於菟おとまれたものの、10月4にちに鷗外は同居どうきょするおとうと2にんれて赤松あかまつ所有しょゆういえった(仲人なこうど西にししゅう激怒げきどし、鷗外は西にしてい出入でいりをきんじられた)。 離婚りこん理由りゆうは、登志子としこ容姿ようしよめしゅうと問題もんだい平川ひらかわら 1997a、177–178ぺーじ)など、いくつか推測すいそくされてきたものの、かっていない。もり於菟おとによれば、ちち鷗外ははは結核けっかくうつされたと祖母そぼかたったという。その真相しんそう不明ふめいであるが、すくなくとも鷗外は、1909ねん戯曲ぎきょく仮面かめん」(離婚りこんして2ねん結核けっかく発症はっしょうしたことを示唆しさ)をつくり、またぼっする10ねんほどまえから結核けっかく発症はっしょうしていた。もりまゆみ (2000)、137-183ぺーじやま (2007)、98-99ぺーじ
  30. ^ 1875ねん明治めいじ8ねん)5がつ島根しまねけん安濃あのうぐんまれ、37さいぼつ。鷗外は随筆ずいひつ二人ふたりとも」を発表はっぴょうしており、のち芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ第一高等学校だいちこうとうがっこうでドイツならった福間ふくま回想かいそうして随筆ずいひつ二人ふたりとも」を発表はっぴょうした。
  31. ^ ただし僧侶そうりょ玉水たまみずは、敬愛けいあいする鷗外ののちうように上京じょうきょうしたものの、よめしゅうと問題もんだいにかかわったため、もり出入でいりできなくなり、失意しついのうちに東京とうきょうはなれた。小倉おぐら新婚しんこん時代じだいには、家主やぬしの10さいくらいのむすめで、鷗外にかわいがられた盲目もうもく八重やえも「お祖母ばあさんがそんなに毎日まいにちうかがってはお邪魔じゃまじゃろうともうしますが、またうかがいました」といって鷗外たくによくていた。ときには「お祖母ばあさんがおこるとわたしことこく盗人ぬすっともうします。そうときもりさんがそれはそれは親切しんせつなぐさめてくださいます」と、なみだをたたえて鷗外の新妻にいづまうったえることもあった。小堀こぼり (1981)、150ぺーじ
  32. ^ 凱旋がいせんした1906ねん明治めいじ39ねん1がつ12にちには、親族しんぞくのほか、佐佐木ささき信綱のぶつな上田うえださとし小山内おさないかおるなど一同いちどう祝宴しゅくえんもよおされた。
  33. ^ 慣例かんれいとして前任ぜんにんしゃ小倉おぐら左遷させん人事じんじをした小池こいけ正直まさなお)の推薦すいせん必要ひつようであった。その小池こいけは、7さい年上としうえであったが、鷗外とは東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ同期生どうきせいであり、かつて鷗外を採用さいようしてもらえるように陸軍りくぐん軍医ぐんいかん石黒いしぐろ忠悳ただのりあつ推薦すいせんじょう提出ていしゅつした。学生がくせい時代じだい2人ふたり緒方おがたおさむ二郎じろうは、鷗外を「強記きょうきじつ天才てんさい」、小池こいけを「沈黙ちんもく謹厳きんげん」とひょうした(やま (2007)、41、310–311ぺーじ)。また小池こいけは、7かげつあいだ外遊がいゆうから帰国きこく、トップの医務いむ局長きょくちょう就任しゅうにんするまでの半年はんとしあいだ、鷗外と毎月まいつき1 - 2っていた。老朽ろうきゅう軍医ぐんい淘汰とうた断行だんこうした小池こいけ初回しょかい人事じんじでは、その淘汰とうたいたポストふたつのうちだい師団しだん仙台せんだい)ではなく、近衛このえ師団しだん東京とうきょう)の軍医ぐんい部長ぶちょうに鷗外をつけた。鷗外が小倉おぐらにいた1900ねん明治めいじ33ねん)5がつまつ小池こいけ医務いむ局長きょくちょう推薦すいせんもとづく軍医ぐんい叙勲じょくんおこなわれ、鷗外は小池こいけ同等どうとうくんよんとうじょせられた。 にち戦争せんそうだい一軍いちぐんだいよんぐん軍医ぐんい部長ぶちょう経験けいけんしゃ5めいのうち中央ちゅうおうのこされたのは鷗外だけであり、会議かいぎなどでも鷗外がナンバー2の地位ちいにあることが明確めいかくにされた。以上いじょうのように、鷗外にかんする小池こいけ人事じんじでは、小倉おぐら左遷させん」だけが特異とくいであった。その理由りゆうとして山下やました(2008)は、小池こいけには鷗外への悪意あくいがなく、「左遷させん」にはべつ理由りゆうがあったとした。また「左遷させん人事じんじ背景はいけいとして、にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていでの脚気かっけだい流行りゅうこうとその隠蔽いんぺい陸軍りくぐん大臣だいじん高島たかしま鞆之すけとそのにんかつら太郎たろうなど台湾たいわんでの出来事できごと将官しょうかんによる責任せきにん追及ついきゅうとその反動はんどう山県やまがた有朋ありとも元帥げんすい大山おおやまいわお元帥げんすい児玉こだま源太郎げんたろうなどと懇意こんいである石黒いしぐろ忠悳ただのり衛生えいせいそう責任せきにんしゃ)の保身ほしん運動うんどう)という複雑ふくざつなものをげた。
  34. ^ 鷗外は、1910ねん明治めいじ43ねん12月10にち被告ひこく26にん出廷しゅっていした大審院だいしんいん特別とくべつ法廷ほうてい非公開ひこうかい)の高等官こうとうかん傍聴ぼうちょうせきにいたとのせつがある。なお同年どうねん12月14にち与謝野よさの鉄幹てっかん大逆だいぎゃく事件じけん弁護人べんごにん平出ひらでおさむとを供応きょうおうした。その平出ひらでは、鷗外からいち週間しゅうかんにわたって政府せいふ主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎかんする講義こうぎけたとつたえられている。平川ひらかわら (1997b)、303–306ぺーじ
  35. ^ 陸軍りくぐん絶大ぜつだい影響えいきょうりょくをもつ山縣やまがた有朋ありともとは、親友しんゆう賀古かこ鶴所つるどとおして関係かんけいがあった。1906ねん明治めいじ39ねん6がつ10日とおか、鷗外と賀古かこ佐佐木ささき信綱のぶつな井上いのうえ通泰みちやすら4めい酒楼しゅろう常盤ときわ」にまねいて歌会うたかいこすことをすすめ、その賀古かこ山縣やまがたはなしのついでにげたところ、山縣やまがたちからえることになった(やま (2007)、285ぺーじ)。その歌会うたかい常盤ときわかいは、山縣やまがた他界たかいするまで15年間ねんかんつづいた。もっとも5かげつ前年ぜんねんから体調たいちょうくずしていた鷗外も他界たかいした。鷗外が山縣やまがた誕生たんじょうしゅくうたげはじめてまねかれたのは、陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょう退しりぞ前年ぜんねんの1915ねんである。
  36. ^ 末延すえのぶは、小説しょうせつねずみざか」についての見出みだしに「「けん」に屈服くっぷくした新聞しんぶん記者きしゃ」と副題ふくだいをつけた(末延すえのぶ(2008)、246–281ぺーじ)。
  37. ^ 乃木のぎ希典まれすけ殉死じゅんしと「興津おきつわたる五右衛門ごえもん遺書いしょ」にかんする通説つうせつ定説ていせつには、批判ひはんもある(池内いけうち(2001)、147–157ぺーじ)。
  38. ^ 鷗外の歴史れきし小説しょうせつは「阿部あべ一族いちぞく」「大塩おおしお平八郎へいはちろう」「さかい事件じけん」、戯曲ぎきょく曾我そが兄弟きょうだい」(1914ねん3がつ)まで「権力けんりょく民衆みんしゅう」への視点してん基本きほん構図こうずとしながらも、殺伐さつばつとした物語ものがたりおおかった。 「安井やすい夫人ふじん」(1914ねん4がつ以来いらい、「山椒さんしょう大夫たいふ」「じいさんばあさん」「最後さいご一句いっく」「高瀬舟たかせぶね」など家族かぞくじょう主体しゅたいとしたものがおおくなっていく。やま (2007)、655ぺーじ
  39. ^ 空車くうしゃ」にたいし、これまで様々さまざま解釈かいしゃくがなされている。近年きんねん注目ちゅうもくすべき解釈かいしゃく提示ていじされた。池内いけうち (2001)、198–207ぺーじ
  40. ^ 唐木からき順三じゅんぞうしたがえば、「礼儀れいぎ小言こごと」は大正たいしょう日本人にっぽんじんらしと思想しそうのあまりのだい変動へんどう恐怖きょうふかんじた明治めいじじん、鷗外の大正たいしょうてきなるものにたいする深刻しんこくうれいの表明ひょうめいである(片山かたやま (2007)、106ぺーじ)。
  41. ^ 帝室ていしつ博物館はくぶつかんではつきみず金曜日きんようび(8から16まで)に、図書としょりょうでは土曜日どようび(8から13まで)に勤務きんむした。 博物館はくぶつかん総長そうちょうとして毎秋まいしゅう、鷗外はせいくらいん虫干むしぼわなければならず、奈良なら京都きょうとに1かげつほど滞在たいざいしていた。また、総長そうちょう就任しゅうにんの4年間ねんかん博物館はくぶつかん歳出さいしゅつ大幅おおはばえ、就任しゅうにん4ねん就任しゅうにん直前ちょくぜんの2ばいきょうになった。館内かんない構造こうぞうぶつについて「分類ぶんるい陳列ちんれつ方法ほうほうあらたまり、「時代じだいべつ陳列ちんれつ」に変更へんこうされた。また、せいくらいん参観さんかん資格しかく緩和かんわされ、帝室ていしつ技芸ぎげいいん社寺しゃじ保存ほぞんかい委員いいん美術びじゅつ審査しんさいんなどのほか、「学術がくじゅつ技芸ぎげいせき相当そうとう経験けいけんアリトみとめメタルしゃ」にも参観さんかんみちひらかれた。やま (2007)、705-707、785ぺーじ
  42. ^ すでに臨時りんじみや内省ないせい御用ごようがかりとして1913ねん大正たいしょう2ねん)2がつから、勅語ちょくご令旨れいしなど、特別とくべつ文章ぶんしょう起草きそう執筆しっぴつかかわっていた。 1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつには、大典たいてんまえ大正天皇たいしょうてんのうから漢詩かんし所望しょもうされ、「おうせい」をつくった。御用ごようがかり総長そうちょう図書としょあたま就任しゅうにんめんじられたものの、特別とくべつ文章ぶんしょうへのかかわりは1921ねん大正たいしょう10ねんごろまでつづいた。やま (2007)、625、702–703ぺーじ
  43. ^ 一連いちれん経緯けいいは、猪瀬いのせ (2002)くわしい。
  44. ^ ただし、遺言ゆいごんのこしたよく7がつ7にち大正天皇たいしょうてんのう貞明皇后ていめいこうごうから葡萄酒ぶどうしゅ下賜かしされ、8にち摂政せっしょうみや昭和しょうわ天皇てんのう)から御見舞おみまいひん下賜かしされ、したがえじょせられた。鷗外本人ほんにんは、遺言ゆいごんのこした6にち夜半やはんから容体ようだい悪化あっかし、7にち夕刻ゆうこくから昏睡こんすい状態じょうたいはいっており、ぼっしたよく10日とおかの『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』が最期さいご様子ようすつぎのようにほうじた。
    8にち午後ごご注射ちゅうしゃ以来いらいすこしく容体ようだい持直もちなおし、午後ごご10ごろには何事なにごと看護かんごひとげんはうとこころみていたがきとれなかった。それから不安ふあんのうちによるけて9にち午前ごぜん4にわかに容体ようだいわったので…… — やま (2007)、811-813、843ぺーじ一部いちぶ平仮名ひらがなにし、句読点くとうてんれた]

    もっとも、死去しきょする前日ぜんじつの8にちしたがえじょせられたことで、大谷おおや (1983) (2000)は鷗外最後さいご遺言ゆいごん疑問ぎもんし、鷗外の叙爵じょしゃくへの執着しゅうちゃく指摘してきした。志田しだ (2009)は鷗外が石黒いしぐろ忠悳ただのりによって貴族きぞくいん議員ぎいん推挙すいきょされたさいよろこんでおけしたいむね返書へんしょおくったという日記にっき大正たいしょう5ねん1がつ6にち)の記述きじゅつげ、鷗外が臨終りんじゅうさいはかまいていたのは叙爵じょしゃく使者ししゃむかえるためだったと指摘してきした。

  45. ^ (よ)らば、大樹たいじゅかげ、そのは鷗外、もり林太郎りんたろう」といた太宰だざいおさむは、希望きぼうしたとおり、鷗外のはかまえ(はすかい)に埋葬まいそうされた(猪瀬いのせ (2002)、9ぺーじ)。
  46. ^ たとえば、日本にっぽんはつ西洋せいようふう演出えんしゅつによる新劇しんげき運動うんどうとして、その演劇えんげきかい多大ただい影響えいきょうあたえた自由じゆう劇場げきじょうだいいちかい旗揚はたあげで上演じょうえんされたのは、イプセンさく・鷗外やく「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内おさないかおる演出えんしゅつ)であった(1909ねん11月)。 当時とうじの鷗外は、「草創そうそう新劇しんげきにとって非常ひじょうおおきなちから」となり、「ある時期じき、鷗外が西洋せいよう近代きんだい戯曲ぎきょくへの窓口まどぐちだったといっていい」とまで評価ひょうかされている。(平川ひらかわら (1997c)、176–177ぺーじ)。
  47. ^ 国民こくみん歌劇かげき協会きょうかい作曲さっきょくグルック生誕せいたん200ねんいわって1914ねん大正たいしょう3ねん7がつ2にち上演じょうえん予定よていし、鷗外にわけ委嘱いしょくした。ただし、だい1稿こう留学りゅうがくさきのドイツからかえった台本だいほん底本ていほんとしたため、協会きょうかい楽譜がくふわなかった。そのだい2稿こう完成かんせいしたものの、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつなど諸般しょはん事情じじょうによって上演じょうえんされなかった。 しかし、91ねん2005ねん平成へいせい17ねん)9がつ18・19にち、そのまぼろしのオペラは、関係かんけいしゃ尽力じんりょくにより、鷗外が希望きぼうしたフルオーケストラ初演しょえんされた(上野うえの東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく奏楽そうがくどう)。DVD:もり鷗外やくオペラ『オルフエウス』紀伊国屋きのくにや書店しょてん、KKCS-65。
  48. ^ たとえば、1889ねん明治めいじ22ねん)8がつ発足ほっそくしたばかりの日本にっぽん演芸えんげい協会きょうかい文芸ぶんげい委員いいんになっており、同年どうねん10がつ刊行かんこうの『しがらみ草紙ぞうし創刊そうかんごうで「演劇えんげき改良かいりょうろんしゃ偏見へんけんおどろく」を発表はっぴょう
  49. ^ 田山たやま花袋かたいは、
    わたしことに鷗外さんがきで、『しがらみ草紙ぞうし』などに同氏どうし審美しんびがくじょう議論ぎろんなどは非常ひじょう愛読あいどくした。鷗外さんを愛読あいどくした結果けっかわたしもその影響えいきょうけた。 — 「わたしいつわらざる告白こくはく」『文章ぶんしょう世界せかい』1908ねん9がつ

    いた。

    にち戦争せんそうちゅうだいぐん写真しゃしんはん取材しゅざい記者きしゃとして5かげつほど従軍じゅうぐんしたはなぶくろは、宇品うじなこうのある広島ひろしま本町ほんまち宿やど同軍どうぐん軍医ぐんい部長ぶちょうの鷗外をたずねており(初対面しょたいめん)、2人ふたり文学ぶんがく談義だんぎわすなど頻繁ひんぱんっていた(平川ひらかわら (1997a)、388、403–405ぺーじ)。

  50. ^ 鷗外が日本にっぽん近代きんだい美術びじゅつのこした足跡あしあとひとつに、実質じっしつてき編集へんしゅうしゃとして展覧てんらんかいカタログ『原田はらだ先生せんせい記念きねんじょう』を発行はっこうしたことがげられる。その展覧てんらんかいとは、1909ねん明治めいじ42ねん11月28にち日曜日にちようび)、[[東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう (旧制きゅうせい)|]]校庭こうてい校友こうゆうかい倶楽部くらぶ開催かいさいされた「原田はらだ直次郎なおじろう没後ぼつごじゅう周年しゅうねん記念きねん遺作いさくてん」である。 故人こじんは、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう関係かんけいがなかったものの、かつて同校どうこう教鞭きょうべんっていた鷗外が発起人ほっきにん黒田くろだ清輝きよてるみ、校友こうゆうかい倶楽部くらぶでの展覧てんらんかい開催かいさい実現じつげんした。その展覧てんらんかいカタログは、ぜん出品しゅっぴんさく23てん写真しゃしんと、黒田くろだ清輝きよてる松岡まつおか寿ひさし長沼ながぬままもるけいなどどう時代じだいじんによる回想かいそうとが掲載けいさいされており、明治めいじ美術びじゅつ貴重きちょう資料しりょうとなっている。また、日本にっぽんにまだ美術館びじゅつかん学芸がくげいいん存在そんざいしなかった当時とうじ公務こうむ医務いむ局長きょくちょうひとし)と執筆しっぴつ活動かつどう多忙たぼうきわめていた鷗外がやりげたことは、今日きょう美術館びじゅつかん学芸がくげいいん先駆せんくてき仕事しごとでもあった。新関にいぜき (2008)、138–140ぺーじ
  51. ^ 弟子でし有無うむかぎらず、松本まつもと清張せいちょうによる鷗外と漱石そうせき比較ひかく興味深きょうみぶかい(松本まつもと (1997)、93–97ぺーじ)。鷗外と漱石そうせき対比たいひは、生前せいぜんの鷗外を平塚ひらつからいてうもしており、(金子かねこ (1992)、314-315ぺーじ)でむことができる。
  52. ^ そうした鷗外の女性じょせいかんについては、もり鷗外 (2006)参考さんこうになる。同書どうしょには、一葉いちよう晶子あきこ、らいてうのひょうなどもあつめられている。 また、金子かねこ (1992)には、鷗外と女性じょせい解放かいほう運動うんどうかんする記述きじゅつがあり、らいてうの回想かいそうぶん引用いんよう(322ぺーじ)し、鷗外が日本にっぽんはつ女性じょせい団体だんたいしん婦人ふじん協会きょうかい設立せつりつにどうかかわったのかとう紹介しょうかいしている。ちなみに、わかの鷗外は、1885ねん明治めいじ18ねん)9がつ28・29にちライプツィヒでドイツはつ女性じょせい団体だんたい独逸どいつ婦人ふじんかい」(1865ねん設立せつりつ)のだい13かいそう集会しゅうかい傍聴ぼうちょうしていた。
  53. ^ 明治めいじ41ねん臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさかい発会はっかいしきにおいて、寺内てらうちは「われ軍隊ぐんたいむぎしょくきゅうしたりしに、当時とうじ石黒いしぐろおとこ何故なぜむぎ支給しきゅうするのか、麦飯むぎめしはたして脚気かっけ効果こうかあるかなどと詰問きつもんされついむぎ供給きょうきゅう中止ちゅうししたる経歴けいれきもあり」とかたり、さらに鷗外についても「石黒いしぐろせつ賛成さんせいしゃにして、詰問きつもんせられし一人ひとりなりし」とべた。(山下やました (2008)、120-121ぺーじ
  54. ^ 山下やました (2008)、288-289ぺーじ)は、師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょう師団しだん衛生えいせいぜん管轄かんかつけんっているのだからきにすればよいとの暗黙あんもく容認ようにんふくみがあったと推測すいそくしている。(坂内ばんない (2001)、178ぺーじ)は、「無言むごん拒否きょひ拒否きょひ以上いじょう拒否きょひ」とみなしている。
  55. ^ 山下やましたつづけて「脚気かっけ根絶こんぜつへのみちひらいたもり林太郎りんたろう功績こうせきは、ひときわたか顕彰けんしょうしなければならない。(中略ちゅうりゃく論理ろんり主義しゅぎもり実践じっせん主義しゅぎ高木たかぎけんひろしとは見解けんかい手法しゅほう相違そういがあり、それが一見いっけん対立たいりつてき姿すがたえた。しかし「脚気かっけ撲滅ぼくめつ」という究極きゅうきょく目的もくてきおなじであった。(中略ちゅうりゃく)/明治めいじ脚気かっけ紛争ふんそうのなかに出現しゅつげんしたこのもり林太郎りんたろう高木たかぎけんひろし脚気かっけ業績ぎょうせきは、医学いがく史上しじょう不滅ふめつ業績ぎょうせきである。末永すえなが顕彰けんしょう記念きねんしなければならないのである。」と記述きじゅつした(山下やました (2008)、461ぺーじ)。
  56. ^ 坂内ばんない (2001)、211–231ぺーじ)は、鷗外が最後さいごまで細菌さいきんせつ固執こしつしたという見解けんかいのもと、1908ねん明治めいじ41ねん7がつ4にち調査ちょうさかいだい1かい会合かいごう)で寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大臣だいじん麦飯むぎめし効用こうようつよ示唆しさしたにもかかわらず、つぎ会合かいごうしめされた活動かつどう方針ほうしんから麦飯むぎめしふく栄養えいよう問題もんだい排除はいじょされ、また調査ちょうさかい発足ほっそく委員いいんである都築つづき甚之助じんのすけ細菌さいきんせつから栄養えいようせつてんじた直後ちょくご委員いいん罷免ひめんされたひとし見解けんかいしめし、調査ちょうさかい活動かつどう否定ひていてきにとらえた。たしかに調査ちょうさ方針ほうしんでは、微生物びせいぶつがくなど「がく」のいた研究けんきゅう分野ぶんやまでしか明記めいきされておらず、そのだいじょう列記れっきされた研究けんきゅう分野ぶんやは、微生物びせいぶつがく化学かがく病理びょうりがく病理びょうり解剖かいぼうがく臨床りんしょう医学いがく流行りゅうこうびょうがくであり、栄養えいようがくがない(山下やました (2008)、362ぺーじ)。もっとも、化学かがくおさめた佐伯さえきのりによって日本にっぽん栄養えいようがく芽生めばえたのは、調査ちょうさかい設立せつりつされてから6ねん1914ねん大正たいしょう3ねん)であった。初期しょき調査ちょうさかいでは、1910ねん明治めいじ43ねん)3がつ–10がつ1911ねん明治めいじ44ねん)6がつ1912ねん大正たいしょう元年がんねん)10がつ2かいにわたり、食餌しょくじ試験しけんおこなわれた。また、坂内ばんない (2001)都築つづきが「罷免ひめん」されたと理解りかいしたのにたいし、(山下やました (2008)、375ぺーじ)は「辞任じにん」とする。その都築つづきは、1910ねん明治めいじ43ねん)3がつ調査ちょうさかい脚気かっけ動物どうぶつ試験しけんだいいちかい報告ほうこく」をしており、同年どうねん12がつ9にち委員いいんめたよくはる東京とうきょう学会がっかい総会そうかい未知みち栄養えいよう障害しょうがいせつ発表はっぴょう脚気かっけ動物どうぶつ試験しけんだいかい報告ほうこく)しており、のちにもり委員いいんちょう配慮はいりょによって調査ちょうさかいでも発表はっぴょうした。そのも、せいぬかざいアンチベリベリンの開発かいはつとそのこう試験しけんなど、精力せいりょくてき研究けんきゅうつづけた。
  57. ^ 鷗外が岡崎おかざき桂一郎けいいちろうちょ日本にっぽんべいしょく - しょくまい脚気かっけびょうとの史的してき関係かんけいこう』(1912ねん)にせた序文じょぶんで「わたし臨時りんじ脚気かっけびょう調査ちょうさ会長かいちょうになって(中略ちゅうりゃくべい精粗せいそ脚気かっけ因果いんが関係かんけいがあるのをった」とみずか記述きじゅつしている事実じじつから、鷗外は脚気かっけびょう栄養えいよう障害しょうがいせつただしいことをりながら、あえてそれを排除はいじょし、細菌さいきん原因げんいんせつ固執こしつして、調査ちょうさかい結論けつろんおくらせていたとの見解けんかいもある。志田しだ (2009)、145–153ぺーじ
  58. ^ 山下やました (2008)、471–472、448ぺーじ山下やましたは、ビタミン存在そんざいっている後世こうせいから、その存在そんざいらなかった前世ぜんせいたいして安易あんい批判ひはんすべきではないとした。また、鷗外の医学いがくめんについてかれたものには錯誤さくごおおく、基礎きそ栄養えいようがく、ビタミンがく脚気かっけ医学いがく専門せんもん知識ちしきなしには問題もんだい内容ないよう正確せいかく把握はあくできずただしい論評ろんぴょうはできないとべている。
  59. ^ 後年こうねん寺内てらうち脚気かっけびょう臨時りんじ調査ちょうさかいだい1かい会合かいごうのあいさつで、みずか長年ながねん脚気かっけわずら麦飯むぎめし治癒ちゆした経験けいけんがあること、陸軍りくぐんへの麦飯むぎめし導入どうにゅう石黒いしぐろはげしく反対はんたいされたことを披瀝ひれき(ひれき)し、
    にちしん戦争せんそう当時とうじは此席にらるゝもり局長きょくちょうごときもまた石黒いしぐろせつ賛成さんせいしゃにして詰問きつもんせられし一人ひとりなりし

    発言はつげんした。

  60. ^ 松田まつだ(1990)は鷗外を中心ちゅうしんとする陸軍りくぐん関係かんけいしゃ態度たいどを、東京大学とうきょうだいがくの「不遜ふそんとしかいようのないおもがり」と指摘してきしている(106-107ぺーじ
  61. ^ この見解けんかいについては、保身ほしん党派とうはせいを、医師いしとしての公衆こうしゅうたいする義務ぎむより優先ゆうせんさせたとの批判ひはんがある。志田しだ (2009)、179ぺーじ
  62. ^ この見方みかたとはぎゃくに、土岐ときよりゆきとくからの「言葉ことばたくみな側近そっきんものにたぶらかされているのではないか」との上申じょうしん吉村よしむら、1994, 下巻げかん P.211)、「もり主張しゅちょうをコピーしたような批判ひはんかえしていた」(松田まつだ、1990, P.103)など、石黒いしぐろがわもり同調どうちょうしていたとの指摘してき当時とうじから現在げんざいまで存在そんざいする
  63. ^ アルトゥル・ショーペンハウアーによる独語どくごばんからの翻案ほんあん
  64. ^ 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこはん(2019ねん)のだいは『元号げんごう通覧つうらん』。
  65. ^ 気性きしょうわず、文筆ぶんぴつ活動かつどうさまたげ」 鷗外つまとの関係かんけい文書ぶんしょ : 静岡しずおか(2012ねん9がつ14にち 読売新聞よみうりしんぶん))明治めいじ23ねん(1890ねん)10がつ6にちづけで、当時とうじ佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんであった父親ちちおや赤松あかまつそくりょうたいして、長男ちょうなん赤松あかまつ範一のりかずが鷗外といもうと登志子としこ夫婦ふうふ生活せいかつ実情じつじょう報告ほうこくするためにいた手紙てがみ下書したがきがつかっている。鷗外が「わたし気性きしょうとして、日頃ひごろ夫婦ふうふ遊歩ゆうほすることもなく、談話だんわこのまない。文筆ぶんぴつ活動かつどうさまたげになるので、登志子としことよく相談そうだんした」という趣旨しゅし発言はつげんし、於菟おとについては「別段べつだん牛乳ぎゅうにゅうにても無害むがい」とい、ったむねしるされていた。
  66. ^ NHK BSプレミアム(2014ねん7がつ23にち放送ほうそう)の『まごのナマエ〜鷗外パッパの命名めいめい騒動そうどう7日間にちかん』という、まご命名めいめいかんするエピソードがドラマになった。ここで鷗外は「伯爵はくしゃく」などの「爵」ではなく、「すずめ」の「𣝣」からったとしている。この番組ばんぐみでは鷗外を「キラキラネーム」の元祖がんそとしていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

データベース[編集へんしゅう]

施設しせつなど[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 臨時りんじ国語こくご調査ちょうさかい会長かいちょう
1921ねん - 1922ねん
次代じだい
上田うえだ万年かずとし
先代せんだい
山口やまぐちするどこれすけ
日本の旗 図書としょあたま
1917ねん - 1922ねん
次代じだい
五味ごみひとしたいら
図書としょあたま心得こころえ
ぐんしょく
先代せんだい
小池こいけ正直まさなお
陸軍りくぐん医務いむ局長きょくちょう
だい7だい:1907ねん11月13にち - 1916ねん4がつ13にち
次代じだい
鶴田つるたただし次郎じろう