(Translated by https://www.hiragana.jp/)
堺事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

さかい事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
さかい事件じけん泉州せんしゅうさかい事件じけんみょうこくてら事件じけん
さかい事件じけん, ル・モンド・イリュストレかみ挿絵さしえ(1868)
場所ばしょ 和泉いずみこくさかい栄橋さかえばしどおりあさひまち一帯いったい
標的ひょうてき フランス海軍かいぐんのコルベットかんデュプレクスごう水兵すいへい士官しかん
日付ひづけ 1868ねん3月8にち
原因げんいん フランスじん水兵すいへいまち狼藉ろうぜき捕縛ほばくのがれてたいはたうば逃走とうそう
攻撃こうげき手段しゅだん 銃撃じゅうげき
抜刀ばっとう突撃とつげき
攻撃こうげきがわ人数にんずう 土佐とさ藩士はんし: 29めい
武器ぶき 日本にっぽんがたな
鉄砲てっぽう
死亡しぼうしゃ 11めい
負傷ふしょうしゃ 多数たすう
関与かんよしゃ 土佐とさはんろくばんたい
土佐とさはんはちばんたい
防御ぼうぎょしゃ すうじゅうめい
対処たいしょ ちゅうにちふつ公使こうしレオン・ロッシュの5つの要求ようきゅう明治めいじ政府せいふ受諾じゅだく
被害ひがい同数どうすう土佐とさ藩士はんし11めい切腹せっぷく
謝罪しゃざい 明治天皇めいじてんのうからの謝意しゃい
土佐とさ藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはん謝罪しゃざい
賠償ばいしょう 15まんドル
テンプレートを表示ひょうじ

さかい事件じけん(さかいじけん、ふつ: Incident de Sakai)は、慶応けいおう4ねん2がつ15にち太陽暦たいようれき1868ねん3月8にち)に和泉いずみこくさかいさかいこうきた、土佐とさはんによるフランス帝国ていこく水兵すいへい殺傷さっしょう攘夷じょうい事件じけんおよびその事後じご処理しょりす。泉州せんしゅうさかい事件じけん(せんしゅうさかいじけん)、摂津せっつこくさかいみょうこくてらにおいて処刑しょけいおこなわれたため、みょうこくてら事件じけん(みょうこくじじけん)[1]ともばれる。

慶応けいおう4ねん近畿きんきこった外国がいこくじん殺傷さっしょう事件じけんさんある(神戸こうべ事件じけんさかい事件じけんパークスえい公使こうし襲撃しゅうげき事件じけん)が、外国がいこくがわ日本にっぽんがわともにもっとおおくの犠牲ぎせいしゃした[2]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

攘夷じょういろんのいまだおさまらぬ慶応けいおう4ねん2がつ15にち午後ごご3ごろフランス海軍かいぐんのコルベットかんデュプレクス」は、ちゅう兵庫ひょうごフランスふく領事りょうじM・ヴィヨーと臨時りんじささえ日本にっぽん艦隊かんたい司令しれいかんロアらいちぎょうむかえるべくさかいこうはいり、同時どうじ港内こうない測量そくりょうおこなった。このあいだ士官しかん以下いかすうじゅうめいのフランス水兵すいへい上陸じょうりく市内しないあそびまわる。夕刻ゆうこく近隣きんりん住民じゅうみん苦情くじょうけ、ろくばんたい警備けいび隊長たいちょう箕浦みのうらもとあきら猪之吉いのきち)、はちばんたい警備けいび隊長たいちょう西村にしむらどう佐平次さへいじ)らはふつ水兵すいへい帰艦きかんさとししめさせたが言葉ことばつうじず、土佐とさはんへいふつ水兵すいへい捕縛ほばくしようとした。ふつ水兵すいへいがわ土佐とさはんたいはたうばった挙句あげく逃亡とうぼうしようとしたため、土佐とさはんへいがわ咄嗟とっさ発砲はっぽう和泉いずみこくさかい栄橋さかえばしどおりあさひまちげん大阪おおさかさかいさかい栄橋さかえばしまち大浜北おおはまきたまち一帯いったい銃撃じゅうげきせんとなり、土佐とさはんへいがわふつ水兵すいへい射殺しゃさつまたは、うみとして溺死できしさせ、あるいはきずわせた。遺体いたいは16にちわたしをえた。なお詳細しょうさい原因げんいん話者わしゃごとにちがっており、フランスがわなにもせぬのに突如とつじょ銃撃じゅうげきけたと主張しゅちょうしている。死亡しぼうしたふつ水兵すいへいは11めいで、いずれも20だい若者わかものであった[ちゅう 1]

  • シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン(だいいちきゅう見習みならい士官しかん、22さい
  • ガブリエル・マリ・ルムール(だいいちきゅう一等いっとう水兵すいへい、28さい
  • ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ(機関きかん運転うんてんしゅ、24さい
  • オーギュスト・ルイ・ランジュネ(さんとう水兵すいへい、22さい
  • ラザル・マルク・ボベス(さんとう水兵すいへい、22さい
  • ピエール・マリ・モデスト(とう水兵すいへい、27さい
  • アルセーヌ・フロミロン・ユメ(さんとう水兵すいへい、23さい
  • ジャン・マチュラン・ヌアール(さんとう水兵すいへい、22さい
  • ジャック・ラヴィ(さんとう水兵すいへい、22さい

以上いじょう9めいは3がつ8にち死亡しぼう

  • ヴァンサン・ブラール(さんとう水兵すいへい、20さい
  • フランソア・デジレ・コンデット(水兵すいへい希望きぼう、23さい

以上いじょう2めいは3がつ9にち死亡しぼう

経緯けいい

[編集へんしゅう]

土佐とさはんへい行動こうどう

[編集へんしゅう]

箕浦みのうらもとあきら猪之吉いのきちひきいる土佐とさはんろくばんたいは、鳥羽とば伏見ふしみたたか直後ちょくご慶応けいおう4ねん1がつ9にちやっ午後ごご2)にきょう出立しゅったつよどみじょうかった。しん政府せいふぐん総裁そうさい仁和寺にんなじみやあきらじん親王しんのう警護けいご土佐とさはんへい先鋒せんぽう交代こうたいするためであったが、同日どうじつよるよどみじょう到着とうちゃくしたときは、仁和寺にわじみや警護けいごへいすでしろ大坂おおさかかったのちだった。ぐんかんはやし茂平もへい亀吉かめきち)の判断はんだんろくばんたいよく10日とおか夜明よあけによどみじょうち、淀川よどがわくだって、同日どうじつよる大坂おおさか仁和寺にわじみやたい合流ごうりゅうした。この時点じてん仁和寺にわじみや警護けいご薩摩さつまはんへいわっており、ろくばんたい当初とうしょ目的もくてきうしなってしまった[4]

1がつ11にちろくばんたいあらたな任務にんむさかい町内ちょうない警護けいごまった。当時とうじさかい大坂おおさか町奉行まちぶぎょう支配しはいにあったが、1がつ大坂おおさか開城かいじょう大坂おおさか町奉行まちぶぎょう事実じじつじょう崩壊ほうかいし、きゅうさかい奉行ぶぎょうしょ駐在ちゅうざいしていた同心どうしんたちも逃亡とうぼうしてしまっていた。ろくばんたい即日そくじつ出発しゅっぱつし、そののうちにさかいはいった[4]

1がつ16にち箕浦みのうらした神戸こうべ事件じけん情報じょうほうはいった。事件じけん箕浦みのうらおこらせるに十分じゅうぶんであった。箕浦みのうらはもともと儒学じゅがくしゃで、そののうちに箕浦みのうらざい京阪けいはん土佐とさはん兵力へいりょく検討けんとうしている[5]

神戸こうべ事件じけん以外いがい箕浦みのうら苛立いらだたせていた出来事できごとがあった。1がつ17にち大坂おおさかはやしぐんかんより「中国ちゅうごく四国しこく征討せいとう総督そうとく四条しじょうたかし姫路ひめじ進発しんぱつのため、さかい土佐とさはんへい一部いちぶ大坂おおさか帰還きかんさせよ」との命令めいれいたのである。これでは任務にんむ遂行すいこうできないとみた箕浦みのうらは、はやし増援ぞうえんもとめる書状しょじょうおくり、さらにみずか大坂おおさかぐんかんおもむいた。

箕浦みのうら要求ようきゅうとおり、きょうから西村にしむら佐平次さへいじひきいるはちばんたい到着とうちゃくしたのは2がつ8にちである[6]

フランスの行動こうどう

[編集へんしゅう]

ロッシュを訪問ほうもんしていた極東きょくとう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんギュスターヴ・オイエフランス語ふらんすごばんは、2がつ10日とおか離日りにちさいし、部下ぶか浅瀬あさせ測量そくりょうめいじている。前年ぜんねん12月15にち大坂おおさか天保山てんぽうざんおきでアメリカ海軍かいぐん提督ていとくせたボートが転覆てんぷくし、提督ていとくらが溺死できしした事故じこまえての指示しじであった[7]

事件じけん

[編集へんしゅう]

2がつ15にち、ヴィヨー、ロアらいちぎょう大阪おおさかから兵庫ひょうご領事館りょうじかんへの帰路きろ陸路りくろつたってさかいろうと紀州きしゅう街道かいどう南下なんかした。外国がいこく事務じむきょくからその通報つうほうかった箕浦みのうら西村にしむらひきいる土佐とさはんへい同日どうじつひるごろこれをはばみ、大和やまとがわにかかる大和やまときょうかえさせた。

事後じご処理しょり

[編集へんしゅう]

埋葬まいそう

[編集へんしゅう]

殺害さつがいされたふつ水兵すいへい11めいは、神戸こうべ居留きょりゅう外人がいじん墓地ぼちにおいてちゅうにちふつ公使こうしレオン・ロッシュ駐日ちゅうにちイギリス公使こうしハリー・パークスのほかオランダ公使こうしざいばん外交がいこうかん立会たちあいのもとに埋葬まいそうされた。ロッシュは悲哀ひあいめた弔文ちょうぶんげたが、それには「補償ほしょう一層いっそう公正こうせいであり、すこしもきびしくないことはないであろう。わたしはフランスと皇帝こうていにおいて諸君しょくんちかう。諸君しょくん報復ほうふくは、今後こんごわれわれ、わが戦友せんゆう、わが市民しみんが、諸君しょくん犠牲ぎせいになったような残虐ざんぎゃくからまぬかれると希望きぼうできる方法ほうほうおこなわれるであろう」[8]という、復讐ふくしゅうちかった一文いちぶんめられていた。

波紋はもん

[編集へんしゅう]

事件じけん発生はっせいほうよく2がつ16にちあさにはきょうとどいた。山内やまうち容堂ようどうは、2がつ19にち早朝そうちょう、たまたまきょう土佐とさ藩邸はんてい滞在たいざいしていたえい公使館こうしかんいんアルジャーノン・ミットフォードに、藩士はんし処罰しょばつ意向いこうふつ公使こうしつたえるように依頼いらいした。この伝言でんごん淀川よどがわくだり、夕刻ゆうこくにはだいさかもどったミットフォードにより、兵庫ひょうご滞在たいざいするふつ公使こうしロッシュにつたえられた[9]

ロッシュは、おなじく2がつ19にちざいさか各国かっこく公使こうしはない、下手人げしゅにんけい陳謝ちんしゃ賠償ばいしょうなどの5箇条かじょうからなる抗議こうぎしょ日本にっぽんがわ提示ていじした。5箇条かじょう内容ないようは、『さかいだいさんかん 本編ほんぺんだいさん』777ぺーじによると、以下いかとおりであった。

  1. 下手人げしゅにんたる土佐とさはん隊長たいちょう以下いか隊員たいいんを、暴行ぼうこう場所ばしょいて、にちふつ両国りょうこく検使けんし立会たちあいうえけいしょすること
  2. 賠償ばいしょうとして、土佐とさ藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはん)は15まんドルを支払しはらうこと
  3. 外国がいこく事務じむ対応たいおう可能かのう親王しんのうがフランス軍艦ぐんかん出向でむいて、謝罪しゃざい意思いしあらわすこと
  4. 土佐とさ藩主はんしゅみずからフランスがわ出向でむいて謝罪しゃざいすること
  5. 土佐とさ藩士はんし兵器へいきたずさえて開港かいこうじょう出入でいりすることを厳禁げんきんすること

当時とうじ各国かっこく公使こうし軍艦ぐんかん神戸こうべ事件じけんとのがらみで和泉いずみこく摂津せっつこくあいだにあった。一方いっぽう明治めいじ政府せいふ主力しゅりょくぐん戊辰戦争ぼしんせんそうのため関東かんとう下向げこうするなどしており、一旦いったん戦端せんたんひらかれれば敗北はいぼく自明じめいであった。明治めいじ政府せいふ憂慮ゆうりょし、えい公使こうしパークスに調停ちょうていもとめたが失敗しっぱい。2月22にち明治めいじ政府せいふはやむなく賠償金ばいしょうきん15まんドルの支払しはらいと発砲はっぽうしたもの処刑しょけいなどすべての主張しゅちょうんだ。これは、結局けっきょく当時とうじ国力こくりょく歴然れきぜんとしており、この状況じょうきょう、この(日本にっぽんがわとしては)無念むねんきわまりない要求ようきゅうれざるをなかったものとされる。

土佐とさ藩士はんしへの処分しょぶん

[編集へんしゅう]
みょうこくてらにある土佐とさ藩士はんし供養くようとう

土佐とさはん警備けいび隊長たいちょう箕浦みのうら西村にしむら以下いか全員ぜんいん吟味ぎんみし、たい29めい発砲はっぽうみとめた。一方いっぽう朝廷ちょうてい岩倉いわくら具視ともみ三条さんじょう実美みみらは、フランスの要求ようきゅうには無理むり難題なんだいおおたいすべてを処罰しょばつすると国内こくない世論せろん攘夷じょうい沸騰ふっとうすること懸念けねんし、処罰しょばつされるものかずらすように要求ようきゅう結局けっきょく政府せいふ代表だいひょう外国がいこく事務じむきょくひがし久世くせどおり外国がいこく事務じむきょくかけ小松こまつ帯刀たてわき外国がいこく事務じむきょく判事はんじ五代ごだいともあつしらがフランスがわ交渉こうしょうし、たい全員ぜんいん処罰しょばつせず隊長たいちょう以下いかじゅうにん処罰しょばつすること。処刑しょけい時間じかんおよび場所ばしょなどをまとめた。

まず、隊長たいちょう箕浦みのうら西村にしむらら4めい指揮しきかん責任せきにんって死刑しけい決定けっていのこたい16めい事件じけんかかわったものとしてえらぶこととなり、大坂おおさか白髪はくはつまちげん大阪おおさか大阪おおさか西にし北堀江きたほりえ)にある土佐とさ稲荷いなり神社じんじゃくじいてめた。

死刑しけいとなったかおぶれは以下いかじゅうめいである(さかいたえこくてらじゅういち烈士れっし銘々めいめいでん )。

  • 箕浦みのうら猪之吉いのきちもとあきら(25さい
  • 西村にしむら佐平次さへいじどう(24さい
  • 池上いけがみわたる三吉みよし光則みつのり(38さい
  • 大石おおいし甚吉良信よしのぶ(35さい
  • 杉本すぎもとひろ五郎ごろう義長よしなが(34さい
  • 勝賀瀬しょうがせさんろく稠迅(28さい
  • 山本やまもとあきらじょ利雄としお(28さい
  • 森本もりもとしげるよし重政しげまさ(39さい
  • 北代きただい堅助けんすけ正勝まさかつ(36さい
  • 稲田いなだ貫之つらゆきすすむだてなり(28さい
  • 柳瀬やなせつねななこのみ(26さい

以上いじょう切腹せっぷくした(括弧かっこないぼつ年齢ねんれい)。

  • 橋詰はしづめあいたいら有道ありみち
  • 川谷かわたにぎん太郎たろう重政しげまさ恩赦おんしゃ直前ちょくぜんの1868ねん9がつ5にち病死びょうし
  • 金田かねだ時治ときじ直政なおまさ
  • 竹内たけうちみん五郎ごろうさかえ
  • 岡崎おかざきさかえ兵衛ひょうえ重明しげあき
  • 土居どいはちじょ盛義もりよし
  • 横田よこた辰五郎たつごろう正輝まさき
  • 垣内かきうち徳太郎とくたろう義行よしゆき
  • 武内たけうち弥三郎やさぶろうさかえひさ

川谷かわたに以外いがい恩赦おんしゃはちばれた。

死刑しけい執行しっこう

[編集へんしゅう]

2がつ23にち3月16にち)、大阪おおさか裁判所さいばんしょ宣告せんこくにより摂津せっつこくさかい材木ざいもく寺町てらまちげん大阪おおさかさかいさかい材木町東ざいもくちょうひがし)のみょうこくてら土佐とさ藩士はんし20にんけい執行しっこうおこなわれた。切腹せっぷく藩士はんしたちみずからのちょうつかし、居並いならぶフランス水兵すいへい大喝だいかつした[ちゅう 2]っていたフランスぐん艦長かんちょうアベル・デュプティ=トゥアールフランス語ふらんすごばんは、(フランスじん被害ひがいしゃすうおなじ)11にん切腹せっぷくしたところで外国がいこくきょく判事はんじ五代ごだいともあつしざいすけ)に中止ちゅうし要請ようせいし、結果けっかとして9にん助命じょめいされた[ちゅう 3]

外交がいこう決着けっちゃく藩士はんしへの恩赦おんしゃ

[編集へんしゅう]

2がつ24にち外国がいこく事務じむきょく総督そうとく山階やましなみやあきら親王しんのうは、大阪おおさか鎮台ちんだい外国がいこく事務じむ兼務けんむ伊達だて宗城むねなりともなってフランスささえ日本にっぽん艦隊かんたい旗艦きかん「ヴェニス」にき、ロッシュと会見かいけん明治天皇めいじてんのうからの謝意しゃい宮中きゅうちゅうへの招待しょうたいべた。そのとき、宗城むねなりとロッシュとのあいだ生存せいぞんしゃ9めいについてのはないがもたれ、ふつがわ自軍じぐん死者ししゃ処刑しょけいしゃかずおなじことで満足まんぞくし、9めい助命じょめい了承りょうしょうした。よく25にちには土佐とさ藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはんが「ヴェニス」に乗船じょうせん、ロッシュらに謝罪しゃざいしたが、加害かがいしゃがわ藩主はんしゅることもあって、このときは24にちちがって礼砲れいほうもないなどふつがわ態度たいどひややかであった。

ロッシュは30にち御所ごしょ参内さんだい(はじめパークスも一緒いっしょ参内さんだいする予定よていであったが、直前ちょくぜん京都きょうと市内しない縄手なわてどおりでさかい事件じけん憤激ふんげきした攘夷じょうい志士しし三枝さえぐさ朱雀すざくみさお襲撃しゅうげきされてりやめとなり、よく3がつ1にち延期えんきとなった。)天皇てんのうからの謝意しゃいけた。こうして政府せいふあいだ問題もんだい解決かいけつ終了しゅうりょうすることになる。また9にんについては29にちひがし久世くせどおり禧、伊達だて宗城むねなり鍋島なべしまただしだい連名れんめいで「・・・一等いっとうめんシ、其藩ヘしもおけカレこうじょう流罪るざい申付もうしつけクベキごと」という書面しょめん土佐とさはんに30にちづけくだされ、こうしてのこされた9めい処置しょち決定けっていした。9めい熊本くまもとはん広島ひろしまはんあずかりとなっていた。

処刑しょけいまぬかれた橋詰はしづめあいたいら9にんは、土佐とさ渡川どがわ四万十川しまんとがわ以西いせい入田にゅうた配流はいるまるが、みな口々くちぐちに「我々われわれくにのためにかたないたものだ。ふつじんうったえでばくき、死罪しざいめんぜられ無罪むざいとなり帰国きこくしたのに、このうえ流罪るざいとは納得なっとくできない」と不平ふへいべた。はんがわあらためて朝廷ちょうてい沙汰さたしょしめし「ご処置しょちどくだが、げて承知しょうちしてほしい。流罪るざいといっても長期ちょうきではない」などと説得せっとくしてようやく了解りょうかいた。こうして、はかま帯刀たいとうゆるされかごもちいるという破格はかく処遇しょぐう入田にゅうたかった。庄屋しょうや宇賀うがたすくこれしんあづけとなり、その明治めいじしん政府せいふ恩赦おんしゃにより帰郷ききょうした。遭難そうなんしたフランスじんいしぶみ神戸こうべ市立しりつ外国がいこくじん墓地ぼちてられた。

反応はんのう受容じゅよう

[編集へんしゅう]

大阪おおさかでは事件じけんについての流行りゅうこう今度こんど泉州せんしゅうおきで、土佐とさ攘夷じょういが、だいあたり、よか、てき仏蘭西ふらんす、よっほど ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか、」[11]みょうこくてらみょうこくてら土佐とさのおさむらいはらる。唐人とうじん見物けんぶつ、ビックリシャックリと、おおさビックリシャックリと。」[12]などがうたわれた。はじめ11にんはかみょうこくてらかれる予定よていであったが、勅願ちょくがんてら切腹せっぷくしたものほうむるのは不都合ふつごうという伊達だて宗城むねなり意見いけんとおり、おなさかい市内しない宝珠ほうしゅいんかれた。その11にん墓標ぼひょうにはおおくの市民しみんめかけ「ご残念ざんねんさま」と参詣さんけいし、のこった9にんには「ご命運めいうんさま」として死体したいれるはずであった大甕おおみかはいって幸運こううんにあやかるものえなかった。

高知こうち県内けんないでは、切腹せっぷくさせられてんだきゅう藩士はんしらを顕彰けんしょうすべきとの世論せろんはや時期じきからあった。明治めいじ16ねんねん建設けんせつ運動うんどうたいし、政府せいふ外務省がいむしょう内務省ないむしょう)は親族しんぞくによる追悼ついとうかまわないが事績じせき顕彰けんしょうする目的もくてきでのねん外交がいこうじょう理由りゆうから不可ふかとする回答かいとうをした[13]

明治めいじ26ねん(1893ねん)に内務省ないむしょう顕彰けんしょう目的もくてきとし、うちくんとして府県ふけん維新いしん功労こうろうしゃ名簿めいぼまとめをめいじ、高知こうちけんは「勤王きんのうしゃ調ちょう」をまとめたが、この時点じてんふくまれていたのは箕浦みのうら猪之吉いのきちいちめいのみだった[13]

高知こうちけんがわは11めい死者ししゃを「烈士れっし英霊えいれい」であるとし、靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうしもとめる嘆願たんがんをした[13]大正たいしょう時代じだいにはだいいち世界せかい大戦たいせん日本にっぽんとフランスが協調きょうちょうした。日本にっぽんがわは1917ねん大正たいしょう6ねん)にさかい事件じけんにおける両国りょうこく死者ししゃとむらう「とむらいたましいかい」、そのさかい事件じけんじゅうねん祭典さいてん開催かいさいするなどした[13]。この時点じてんで、フランスがわ反感はんかんうすれたものとかんがえられた[13]。1917ねん高知こうちけん護国ごこく神社じんじゃは11めい合祀ごうしした[14]。1920ねんに、11めい日本にっぽんがわ死者ししゃが「殉難じゅんなんしゃ」として靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされた。これにいた過程かていには、いずれも高知こうち出身しゅっしん実業じつぎょう片岡かたおか直輝なおき片岡かたおかただしあつし宮中きゅうちゅう土佐とさわれた土方ひじかた久元ひさもと岩崎いわさきえいじゅう陸軍りくぐん阪井さかいしげるなどが関与かんよしたものとかんがえられている[13]

さかい事件じけん題材だいざいとする作品さくひん

[編集へんしゅう]

さかい事件じけん主題しゅだいとする小説しょうせつ

[編集へんしゅう]

さかい事件じけん登場とうじょうする小説しょうせつ

[編集へんしゅう]

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 名前なまえ大岡おおおか昇平しょうへいさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』による[3][信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
  2. ^ ミットフォードは、切腹せっぷくったデュプティ・トゥアール艦長かんちょうからその様子ようすをききとっている[10]
  3. ^ もり鴎外おうがいさかい事件じけん』は「何分なにぶんその惨澹さんたんたる状況じょうきょう目撃もくげきするにしのびない」という表現ひょうげんで、助命じょめいあたってのフランスがわ感情かんじょうしるした[よう出典しゅってん]大岡おおおか昇平しょうへいさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』は、同席どうせきしたフランスがわ代表だいひょう若干じゃっかん動揺どうようしめ史料しりょうもあるものの、基本きほんてきには11にん処刑しょけいした時点じてんのこりを助命じょめいすることはいの以前いぜんめられた規定きてい路線ろせんであったとする[よう出典しゅってん]。これには、切腹せっぷくしたもののち英雄えいゆうされることを警戒けいかいし、フランスが人道的じんどうてき寛大かんだいであることしめ意味いみがあった[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ さかい市役所しやくしょさかいだいさんかん 本編ほんぺんだいさん』、1930ねん、771ぺーじ
  2. ^ 徳永とくなが真一郎しんいちろうしる、『大阪おおさか歴史れきし散歩さんぽーなにわ・摂津せっつ河内かわうち和泉いずみー』、はじめもとしゃ、1977ねん
  3. ^ 大岡おおおか昇平しょうへいさかいこう攘夷じょうい始末しまつ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1992ねん、214-215ぺーじ
  4. ^ a b はちばんたいろくばんたい修正しゅうせいしました。『土佐とさ史談しだん復刻ふっこく叢書そうしょ(3)泉州せんしゅうさかい藩士はんし列挙れっきょ実紀みきみょうこくてら切腹せっぷく)』1979ねん土佐とさ史談しだんかい発行はっこう、P.19
  5. ^ 大岡おおおかさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』、74-75ぺーじ
  6. ^ ろくばんたいはちばんたい修正しゅうせいしました。『土佐とさ史談しだん復刻ふっこく叢書そうしょ(3)泉州せんしゅうさかい藩士はんし列挙れっきょ実紀みきみょうこくてら切腹せっぷく)』1979ねん土佐とさ史談しだんかい発行はっこう、P.19
  7. ^ 大岡おおおかさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』、132-133ぺーじ
  8. ^ 大岡おおおかさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』、212ぺーじ
  9. ^ A.B.ミットフォード 『英国えいこく外交がいこうかん幕末ばくまつ維新いしん長岡ながおか祥三しょうぞうやく講談社こうだんしゃ<講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ1349>、1998ねん、151-153ぺーじ原書げんしょは1915年刊ねんかん
  10. ^ ミットフォード『英国えいこく外交がいこうかん幕末ばくまつ維新いしん』 153-154ぺーじ
  11. ^ 大岡おおおかさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』、332ぺーじ
  12. ^ 桂米朝かつらべいちょうべいちょうばなし 上方かみがた落語らくご地図ちず』、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、286ぺーじ
  13. ^ a b c d e f 髙田, 祐介ゆうすけさかい事件じけん殉難じゅんなんしゃ顕彰けんしょう靖国やすくに合祀ごうし
  14. ^ http://www.kochi-izokukai.jp/img/seinen02-kouchikengokokujinja.pdf

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]