(Translated by https://www.hiragana.jp/)
天誅組の変 - Wikipedia コンテンツにスキップ

天誅てんちゅうぐみへん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

天誅てんちゅうぐみへん(てんちゅうぐみのへん)は、幕末ばくまつ文久ぶんきゅう3ねん8がつ17にち1863ねん9月29にち)にこった尊皇そんのう攘夷じょうい志士しし挙兵きょへい事件じけんである。

吉村よしむら虎太郎とらたろうをはじめとする尊皇そんのう攘夷じょうい浪士ろうし一団いちだん天誅てんちゅうぐみ)が、公卿くぎょう中山なかやま忠光ただみつ主将しゅしょうとして大和やまとこく決起けっきし、のち幕府ばくふぐん討伐とうばつけて壊滅かいめつした事件じけんである。大和やまと義挙ぎきょ(やまとぎきょ)、大和やまとらん(やまとのらん)などともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

尊攘そんじょう志士ししである土佐とさ脱藩だっぱん浪士ろうし吉村よしむら虎太郎とらたろうらは、大和やまと行幸ぎょうこう先鋒せんぽうとなるべく公卿くぎょう中山なかやま忠光ただみつ主将しゅしょうとして大和やまとこく決起けっきし、幕府ばくふ五條ごじょう代官だいかんしょ襲撃しゅうげきするが、直後ちょくごこった京都きょうとでの政変せいへんにより、一転いってんして逆賊ぎゃくぞくとされ、幕府ばくふぐん追討ついとうけ、壊滅かいめつした。

文久ぶんきゅう3ねん前半ぜんはん尊皇そんのう攘夷じょうい運動うんどう最高潮さいこうちょうたっした時期じきであり、長州ちょうしゅうはん各地かくちから集結しゅうけつした浪士ろうしなどから尊攘そんじょうは、朝廷ちょうていにもつよ影響えいきょうりょくつにいたっていた。このころ尊攘そんじょう主張しゅちょうには、朝廷ちょうてい直接ちょくせつかくはん攘夷じょういめいじることのほか、畿内きない朝廷ちょうてい直轄ちょっかつりょうとするなどの意見いけんがみられたが、天誅てんちゅうぐみ蜂起ほうきは、幕府ばくふたいする尊攘そんじょう倒幕とうばく運動うんどうにおけるはじめての組織そしきてき武力ぶりょく蜂起ほうきというてん画期的かっきてきなものであった。

天誅てんちゅうぐみ挙兵きょへい自体じたい短期間たんきかん失敗しっぱいわったものの、幕府ばくふりょう支配しはい拠点きょてんである陣屋じんやや、しょう大名だいみょうとはいえその居城きょじょう公然こうぜん襲撃しゅうげきされたことは、幕府ばくふまくはん領主りょうしゅらにおおきな衝撃しょうげきあたえ、幕府ばくふ威光いこう失墜しっついさら進行しんこうさせる結果けっかとなった[1]

経過けいか[編集へんしゅう]

大和やまと行幸ぎょうこう[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)12月、孝明天皇こうめいてんのう攘夷じょうい勅書ちょくしょ将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちさづけた。これにたいして家茂いえもちは、攘夷じょうい策略さくりゃくについては、明年みょうねん3がつ上洛じょうらくうえ回答かいとうするむね奉答ほうとうする。文久ぶんきゅう3ねん3がつ家茂いえもち上洛じょうらくし、幕府ばくふ尊攘そんじょう圧力あつりょくくっするかたちで、5月10にちをもって攘夷じょうい決行けっこうすると約束やくそくさせられる。

幕府ばくふみぎ期限きげんをもって、通商つうしょう条約じょうやく破棄はきについてしょ外国がいこくとの交渉こうしょう開始かいしすることとし、しょはんには海防かいぼう強化きょうかめいじたが、尊攘そんじょう主導しゅどうする長州ちょうしゅうはんはこれを拡大かくだい解釈かいしゃくし、5がつ10日とおか下関しものせき海峡かいきょう通過つうかするアメリカふね砲撃ほうげきして「攘夷じょうい」を決行けっこうした(下関しものせき戦争せんそう)。この武力ぶりょく行使こうしには、急進きゅうしんてき攘夷じょうい公卿くぎょう侍従じじゅう中山なかやま忠光ただみつ長州ちょうしゅうはんまねかれて参加さんかしており、忠光ただみつきょうからの出奔しゅっぽんには土佐とさ脱藩だっぱん浪士ろうし吉村よしむら虎太郎とらたろう加担かたんしていた。

長州ちょうしゅうはんつづいてフランスふねオランダふね砲撃ほうげきし、朝廷ちょうていからも攘夷じょうい決行けっこう称賛しょうさんする沙汰さたくだされる。しかし、6がつはいってべいふつ艦隊かんたいによる報復ほうふく攻撃こうげき長州ちょうしゅうはん敗北はいぼく(下関しものせき戦争せんそう)、7がつ中山なかやま忠光ただみつきょうもどるものの謹慎きんしんめいじられ、侍従じじゅうしょく剥奪はくだつされてしまう。

吉村よしむら松本まつもと奎堂いけ内蔵ないぞうふと真木まき和泉いずみらと長州ちょうしゅうおもむき、6月17にち山口やまぐち長州ちょうしゅう藩主はんしゅ毛利もうりたかしおや定広さだひろ父子ふし謁見えっけんし、挙兵きょへい上京じょうきょうねがっている。しかし、外国がいこく艦隊かんたいによる報復ほうふく攻撃こうげきけていた長州ちょうしゅうはんではその余裕よゆうはなく、長州ちょうしゅうはんとしてはとりあえず家老がろう指揮しきで500にん程度ていどへい上洛じょうらくさせるとの約束やくそくた。このさい吉村よしむら久坂くさかげんみず高杉たかすぎ晋作しんさくらと連絡れんらくっている。

尊攘そんじょうあいだでは不甲斐ふがいない幕府ばくふたいするいかりがつよく、天皇てんのうみずからがぐんひきいて攘夷じょうい決行けっこうするという攘夷じょういおやせいのぞこえたかまっていた。そこで、古代こだいより祭礼さいれい勅使ちょくし派遣はけんされていた大和やまと春日大社かすがたいしゃに、天皇てんのうみずからがおもむいて攘夷じょうい成功せいこう祈願きがんし、攘夷じょうい倒幕とうばくへいげるという計画けいかく画策かくさくされた。計画けいかくでは、大和やまと神武じんむ天皇てんのうりょう春日大社かすがたいしゃ参拝さんぱいぐんひらいてしょはん攘夷じょういげきばし、伊勢神宮いせじんぐう参詣さんけいしたうえで、幕府ばくふたい攘夷じょうい不履行ふりこうつみい、へいあつめつつ伊勢いせから江戸えどせまるというものであった。

8がつ13にち天皇てんのう神武じんむ天皇陵てんのうりょう参拝さんぱい攘夷じょういおやせい詔勅しょうちょくはっせられる(大和やまと行幸ぎょうこう)。大和やまと行幸ぎょうこう推進すいしんしたのが、長州ちょうしゅうはん気脈きみゃくつうじる三条さんじょう実美みみ急進きゅうしんてき攘夷じょうい公卿くぎょうであった。 また、武力ぶりょく倒幕とうばく計画けいかく寺田てらだ騒動そうどう挫折ざせつしていたため、尊攘そんじょう志士ししたちあいだでも大和やまと行幸ぎょうこうたいする期待きたいおおきかった。

朝廷ちょうてい長州ちょうしゅうはんたい藩主はんしゅけいおや世子せいし定広さだひろのどちらかが上京じょうきょうすることをもとめ、長州ちょうしゅうはん薩摩さつまはん土佐とさはん加賀かがはん熊本くまもとはん久留くるべいはんたいして軍用ぐんようきん調達ちょうたつめいじるなど、計画けいかく実行じっこうけてうごした。

吉村よしむら虎太郎とらたろう松本まつもと奎堂、藤本ふじもと鉄石てっせきいけ内蔵ないぞうふとしや、河内かわうちみずこおり善之よしゆきゆう攘夷じょうい浪士ろうしともに、大和やまと行幸ぎょうこう先鋒せんぽうとなるべく「皇軍こうぐん先鋒せんぽう」を組織そしきして大和やまとこくおもむくことを決議けつぎした。大和やまとこくだい部分ぶぶん幕府ばくふ天領てんりょうであったため、行幸ぎょうこう先立さきだって幕府ばくふ代官だいかんって大和やまと平定へいていし、幕府ばくふ支配しはいしていた土地とち人民じんみん朝廷ちょうてい返上へんじょうし、へいつのっておやへいとして天皇てんのうむかえようとしたのである。

挙兵きょへい五條ごじょう代官だいかんしょ襲撃しゅうげき[編集へんしゅう]

天誅てんちゅうぐみ進路しんろ拡大かくだい

8がつ14にち吉村よしむららの計画けいかく賛同さんどう事前じぜん連絡れんらくっていた中山なかやま忠光ただみつ方広寺ほうこうじはいり、決起けっきうなが回状かいじょうはっした。また朝廷ちょうていたい出陣しゅつじんとどてその目的もくてきべ、おやせい早期そうき実施じっしもとめた。 主将しゅしょう中山なかやま忠光ただみつ以下いか40めい(土佐とさ脱藩だっぱん19めい久留くるべい脱藩だっぱん8めい刈谷かりや脱藩だっぱん3めい鳥取とっとり脱藩だっぱん2めい島原しまばら脱藩だっぱん2めい福岡ふくおか熊本くまもと下館しもだて脱藩だっぱんかく1めい河内かわうち志士しし2めい)は方広寺ほうこうじ出発しゅっぱつして大和やまとこくかった[2]いちぎょう長州ちょうしゅう下関しものせきくだ勅使ちょくしいつわって大坂おおさかから海路かいろさかいかう。ふねちゅう軍令ぐんれいはっし、忠光ただみつ同志どうしいちぎょう断髪だんぱつして決意けついしめした。かれらの挙兵きょへいさいして淡路あわじだい地主じぬし勤皇きんのうであったひがしりょう左衛門さえもん財産ざいさんすべ処分しょぶんし、軍資金ぐんしきんとして供出きょうしゅつした。

8がつ15にちさかい現在げんざいさかいさかい栄橋さかえばしまち1ちょう土居といがわ沿い、当地とうちさかい事件じけんいしぶみとならんで「天誅てんちゅうぐみ上陸じょうりく」のいしぶみてられている)に到着とうちゃくした同志どうしいちぎょう以降いこう天誅てんちゅうぐみしるす)はよく16にち払暁ふつぎょう高野たかの街道かいどうとおって河内かわうちをめざし、狭山さやまはいった。天誅てんちゅうぐみ吉村よしむららを軍使ぐんしとして狭山さやまはん陣屋じんやおくり、先代せんだい藩主はんしゅ隠居いんきょであった北条ほうじょうつばめとの面会めんかいもうた。つばめ急病きゅうびょういつわって面会めんかいことわり、家老がろう朝比奈あさひなぬい殿どのかわって対応たいおうする。忠光ただみつ朝比奈あさひな狭山さやまはん出陣しゅつじんして義挙ぎきょくわわるようめいじた。対応たいおう苦慮くりょした狭山さやまはんはとりあえず天誅てんちゅうぐみゲベールじゅうなど銃器じゅうき武具ぶぐおくり、天皇てんのうおやせいふしにはくわわるむね回答かいとうする。16にち天誅てんちゅうぐみ河内かわうち同志どうしみずこおり善之よしゆきゆう屋敷やしき到着とうちゃくし、河内かわちぜい13めい合流ごうりゅう下館しもだてはんである白木しらき陣屋じんやにも使者ししゃおくり、銃器じゅうき武具ぶぐさせている。天誅てんちゅうぐみきくもんはいった旌一流いちりゅう、「七生賊滅天後照覧」と大書たいしょされたのぼり一本いっぽんつく士気しきたかめた。17にち天誅てんちゅうぐみ河内かわち檜尾ひのきおさん観心寺かんしんじはいり、勤皇きんのう忠臣ちゅうしん楠木くすのき正成まさしげくびづか参拝さんぱい軍資金ぐんしきん調達ちょうたつていた藤本ふじもと鉄石てっせきら3めい合流ごうりゅうして出発しゅっぱつ国境こっきょう千早峠ちはやとうげえて大和やまとこくはいった。

大和やまと同志どうしくわえつつすすんだ天誅てんちゅうぐみは、17にち午後ごご4ごろ幕府ばくふ天領てんりょう五條ごじょう到着とうちゃくし、五條ごじょう代官だいかんしょ襲撃しゅうげきした。天誅てんちゅうぐみ五條ごじょう出身しゅっしん同志どうしによる情報じょうほうで、代官だいかんしょ内部ないぶ構造こうぞう戦力せんりょく事前じぜん把握はあくしていた。代官だいかんしょ包囲ほういした天誅てんちゅうぐみ代官だいかん鈴木すずき正信まさのぶ源内げんない)に、降伏ごうぶく幕府ばくふりょうわたしを要求ようきゅう鈴木すずき代官だいかんがこれを拒否きょひすると攻撃こうげき開始かいしした。襲撃しゅうげき当時とうじ代官だいかんしょていないでは酒宴しゅえんひらかれており、やしきないだい混乱こんらんおちいった。ゲベールじゅうたいひきいるいけ内蔵ないぞうふとし空砲くうほう威嚇いかくし、吉村よしむらひきいるやりたい裏門うらもんから突入とつにゅうした。代官だいかんしょ在所ざいしょしていた役人やくにんは13にんには鈴木すずき代官だいかんつまなどしかいなかった。意気軒昂いきけんこう天誅てんちゅうぐみ突然とつぜん襲撃しゅうげきこうすることができず代官だいかんしょかた敗北はいぼくし、鈴木すずき正信まさのぶ下僚かりょうら4めい殺害さつがいされ、逃亡とうぼうしたうちの1めいれず自刃じじんした。天誅てんちゅうぐみ代官だいかんしょはらい、桜井寺さくらいじ本陣ほんじんさだめ、門前もんぜんに「五條ごじょう政府せいふ」の表札ひょうさつかかげた。

18にち天誅てんちゅうぐみ鈴木すずき正信まさのぶら5めい梟首きょうしゅし、五條ごじょうを「天朝てんちょう直轄ちょっかつ」としょうして、このとし年貢ねんぐ半減はんげんすることを宣言せんげんする。天誅てんちゅうぐみ忠光ただみつ主将しゅしょう吉村よしむら松本まつもと奎堂、藤本ふじもと鉄石てっせき総裁そうさいとする職制しょくせいととのえ、みずからを「政府せいふ」または「総裁そうさいしょ」としょうした。このころばんはやしひかりたいら平岡ひらおかばとひらめ北畠きたばたけおさむぼう)、市川いちかわ精一郎せいいちろう三枝さえぐさ)、いぬい十郎じゅうろう大和やまとぜいくわわっている。

桜井さくらいてら本拠ほんきょ天誅てんちゅうぐみ周辺しゅうへん地域ちいき掌握しょうあくつとめ、旗本はたもとりょう在地ざいち代官だいかん使者ししゃおくって接収せっしゅうし、近隣きんりんしょはん使者ししゃ派遣はけんして恭順きょうじゅんせまった。高取たかとりはんには那須なす信吾しんごらを恭順きょうじゅん勧告かんこくおくり、高取たかとりはんもこれにふくするむねつたえてきた。また、紀州きしゅうはんにはいけ内蔵ないぞうふとしらを派遣はけんした。

一方いっぽう天誅てんちゅうぐみ挙兵きょへいったきょう三条さんじょう実美みみ自重じちょううながすべく平野ひらの国臣くにおみ使者ししゃおくったが、到着とうちゃくしたのは五條ごじょう代官だいかんしょ襲撃しゅうげきのちであった。

はちがつじゅうはちにち政変せいへん[編集へんしゅう]

大和やまと天誅てんちゅうぐみ挙兵きょへいした直後ちょくごきょうでは政局せいきょく一変いっぺんしていた。会津あいづはん薩摩さつまはん気脈きみゃくつうじた中川なかがわみや尊攘そんじょう排除はいじょはかり、孝明天皇こうめいてんのううごかして政変せいへんこした(はちがつじゅうはちにち政変せいへん)。これにより、大和やまと行幸ぎょうこう延期えんき三条さんじょう実美みみ攘夷じょうい公卿くぎょう参朝さんちょう禁止きんし長州ちょうしゅうはん御門みかど警護けいご解任かいにん決定けっていされた。これらの決定けってい会津あいづはんしょはんへいにより御所ごしょ封鎖ふうさしたうえおこなわれ、宮門きゅうもんけつけた長州ちょうしゅうはんへいとのあいだ一触即発いっしょくそくはつ事態じたいになる。結局けっきょく長州ちょうしゅうはん武力ぶりょく衝突しょうとつけて撤退てったい攘夷じょうい公卿くぎょう官位かんい剥奪はくだつされて失脚しっきゃくし、朝廷ちょうてい実権じっけん公武こうぶ合体がったいにぎることになった。 孝明天皇こうめいてんのう攘夷じょうい実行じっこうのぞんではいたが、いもうと和宮かずのみや将軍家しょうぐんけしげる降嫁こうかさせるなど公武こうぶ合体がったい思考しこうであったため、武力ぶりょく倒幕とうばく主張しゅちょうする長州ちょうしゅうはん急進きゅうしんてき公卿くぎょう活動かつどうこころよおもっていなかった。このため、大和やまと行幸ぎょうこう攘夷じょういおやせい詔勅しょうちょく天皇てんのう真意しんいではないにせみことのりであったとされ、大和やまと行幸ぎょうこう先鋒せんぽうとして挙兵きょへいした天誅てんちゅうぐみは、その活動かつどう正当せいとうする根拠こんきょうしなった。

18にちよる平野ひらの国臣くにおみ制止せいし使者ししゃとして天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんがある桜井寺さくらいじはいったが、元々もともと武力ぶりょく倒幕とうばく志向しこうしていた平野へいや目的もくてきはんして天誅てんちゅうぐみ同調どうちょうし、襲撃しゅうげき成功せいこういわってその報告ほうこくのため京都きょうともどることとなった。しかし、よく19にち在京ざいきょうしていたひがしりょう左衛門さえもんからきょうでの政変せいへんつたえられ、天誅てんちゅうぐみ暴徒ぼうととして追討ついとういのちくだされたことがあきらかとなる。 忠光ただみつらは協議きょうぎおこない、きょう政変せいへん会津あいづ薩摩さつまなどの逆臣ぎゃくしんによる策謀さくぼうであり、一時いちじてきなものと予測よそくし、倒幕とうばく軍事ぐんじ行動こうどう継続けいぞくすることとなった。 20日はつか本陣ほんじん要害ようがい堅固けんごてんつじうつし、周辺しゅうへんむらから人足ひとあし物資ぶっし徴発ちょうはつして戦闘せんとう準備じゅんびととのえた。天誅てんちゅうぐみは「政府せいふ」の近隣きんりんから武器ぶき兵糧ひょうろうあつめ、まつ大砲たいほうじゅうすうもんをつくったが、その装備そうび貧弱ひんじゃくなものだった。 吉村よしむら虎太郎とらたろう古来こらい尊王そんのうこころざしあついことでられる十津川とつかわ郷士ごうし募兵ぼへいはたらきかけることとし、郷士ごうし野崎のさき主計かずえらと会談かいだんした。十津川とつかわきょうではきょう政変せいへんをまだらず、さと幹部かんぶ天誅てんちゅうぐみ勤皇きんのう活動かつどう賛同さんどうし、十津川とつかわ郷内ごうない59カ村かそんからやく1000にんあつまった。しかし、郷士ごうしなかには勅命ちょくめい真偽しんぎ疑問ぎもんち、天誅てんちゅうぐみ行動こうどう賛同さんどうしないものもおり、作戦さくせん抗議こうぎした玉堀たまほり為之ためゆきしん郷士ごうしすうめいてんつじ斬首ざんしゅされている。

また高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじにも協力きょうりょく要請ようせいする使者ししゃおくったが、高野たかのさんでは協力きょうりょく約束やくそくしながらも紀州きしゅうはん通報つうほうした。

なお、この政変せいへんにより、吉村よしむら那須なす師事しじしていた土佐とさ勤王きんのうとう盟主めいしゅ武市たけいちみずほさんも9がつ21にち捕縛ほばくされる。

高取たかとりしろ攻撃こうげき[編集へんしゅう]

京都きょうと守護しゅごしょく松平まつだいら容保かたもりは、高取たかとりはん彦根ひこねはんはんなど周辺しゅうへんしょはんたい天誅てんちゅうぐみ追討ついとうれいはっした。これをけて、さき天誅てんちゅうぐみ恭順きょうじゅんやくした高取たかとりはん態度たいどひるがえし、兵糧ひょうろうしを拒否きょひしたため、天誅てんちゅうぐみ高取たかとりしろ攻撃こうげき決定けっていする。高取たかとりじょう奇襲きしゅうして占拠せんきょし、籠城ろうじょうして討伐とうばつぐん抗戦こうせんする計画けいかくであった。 25にち忠光ただみつひきいる本隊ほんたい高取たかとりかい、吉村よしむら別働隊べつどうたいひきいて御所ごしょ方面ほうめん進出しんしゅつして郡山こおりやまはんそなえた。天誅てんちゅうぐみ進発しんぱつ察知さっちした高取たかとりはん城代しろだい家老がろう中谷なかたに栄次郎えいじろう指揮しき防備ぼうびかためる。せんにんあまり天誅てんちゅうぐみたいして、まんせんせきしょうはんである高取たかとりはん兵力へいりょくは200にんほどだったが、急遽きゅうきょ領民りょうみん動員どういんして2000にん程度ていど兵力へいりょくととのえた。また地理ちり熟知じゅくちしており、高地こうち大砲たいほう設置せっちし、要所ようしょへい配置はいちした 。同日どうじつよる高取たかとりじょうけて進撃しんげきちゅう高取たかとりはん斥候せっこうらえられ、那須なす信吾しんご尋問じんもんするが返答へんとうしなかったため斬首ざんしゅした。高取たかとりじょう奇襲きしゅうする計画けいかくであったが、すでに天誅てんちゅうぐみ行動こうどう察知さっちされているとり、松本まつもと奎堂や藤本ふじもと鉄石てっせき攻撃こうげきさい検討けんとうすべきと主張しゅちょうするが、積極せっきょく意見いけんされた主将しゅしょう中山なかやま忠光ただみつ予定よていどおりの進軍しんぐんめた。

26にち払暁ふつぎょうせま小道こみち進軍しんぐんしてきた天誅てんちゅうぐみたいして、高取たかとりはんへい鳥ケ峰とりがみね付近ふきんにおいて大砲たいほう鉄砲てっぽう攻撃こうげき開始かいしした。天誅てんちゅうぐみ進軍しんぐんにあたって十分じゅうぶん偵察ていさつさず、街道かいどうを2れつ縦隊じゅうたい進軍しんぐんしていたところ、伏兵ふくへい奇襲きしゅうけるかたちとなったのである。高取たかとりはん大砲たいほう照準しょうじゅんくるっており命中めいちゅうすることはなかったが、その砲声ほうせい天誅てんちゅうぐみ恐怖きょうふさせるに十分じゅうぶん効果こうかがあった。烏合うごうしゅうである天誅てんちゅうぐみはたちまちだい混乱こんらんおちい潰走かいそうしたが、忠光ただみつにこれをまとめる能力のうりょくはなかった。みずこおり善之よしゆきゆうらのいちたいじゅうさかとうげまり追撃ついげきそなえたが、高取たかとりはんへい追撃ついげきせず、城下じょうか防備ぼうびかためた。高取たかとりはんがわ死者ししゃく、2めい軽傷けいしょうったのみで、のち松平まつだいら容保かたもりから感状かんじょうけている。

天誅てんちゅうぐみ本隊ほんたい潰走かいそうして五條ごじょうまで退却たいきゃくする。その途中とちゅう別働隊べつどうたいひきいていた吉村よしむら合流ごうりゅう不甲斐ふがいない敗戦はいせんった吉村よしむら激昂げっこうして忠光ただみつった。吉村よしむらただちに決死けっしたい編成へんせいして夜襲やしゅうこころみることとし、26にちよる、24めい決死けっしたい夜陰やいんじょうじて高取たかとり城下じょうかしのった。城下じょうか放火ほうかし、混乱こんらんなか城内じょうないにゅうろうという計画けいかくであったが、途中とちゅう高取たかとりはん斥候せっこう遭遇そうぐう交戦こうせん味方みかたあやましゃにより吉村よしむら重傷じゅうしょうってしまう。決死けっしたいはなすところなくじょう退却たいきゃくしたが、本隊ほんたいすでてんつじまで退却たいきゃくしていた。吉村よしむららもそれをっててんつじ到着とうちゃくするが、本隊ほんたいさら長殿ながとのむらまで退却たいきゃくしたのちだった。

長殿ながとのむら退却たいきゃくした忠光ただみつは、藤本ふじもと提言ていげんもとづき、紀州きしゅう新宮しんぐうて、海路かいろ移動いどうし、四国しこく九州きゅうしゅう募兵ぼへいして再起さいきはかることを提案ていあんするが、てんつじにいた吉村よしむらみずぐんはこれにしたがわず、忠光ただみつ本隊ほんたいべつ行動こうどうって抗戦こうせんすることとなった。吉村よしむら別働隊べつどうたいてんつじ付近ふきん追討ついとうぐんむかつこととし、周辺しゅうへん防塁ぼうるいきずくなどして防戦ぼうせん準備じゅんびととのえた。

また、この時点じてん十津川とつかわ郷士ごうしおおくが帰郷ききょうし、松本まつもととも三河みかわ刈谷かりやはんから参加さんかしていた伊藤いとう三弥みつやや、ばんはやしひかりたいらともなっていた市川いちかわ精一郎せいいちろうのように脱走だっそうするものもあった。伊藤いとう脱走だっそう天誅てんちゅうぐみ脆弱ぜいじゃくさをしめいちれいとしてしばしば引用いんようされる[3]

追討ついとう[編集へんしゅう]

東吉野ひがしよしのむらにある天誅てんちゅうぐみ終焉しゅうえん
東吉野ひがしよしのむらにある吉村よしむら寅太郎とらたろう墓地ぼち

京都きょうと守護しゅごしょく松平まつだいら容保かたもり紀州きしゅうはんはん彦根ひこねはん郡山こおりやまはんなどに天誅てんちゅうぐみ討伐とうばつめいじ、9月1にち朝廷ちょうていからも天誅てんちゅうぐみ追討ついとう督励とくれいする触書ふれがきくだされるが、実体じったい不明ふめい天誅てんちゅうぐみおそれたしょはんうごきはにぶく、はん様子ようすながらゆっくりと進軍しんぐんする状況じょうきょうであった。 8月29にちには紀州きしゅうはんへいやく1500にんじょうはいったものの、周辺しゅうへん天誅てんちゅうぐみ出没しゅつぼつしているとのうわさいてすぐに退却たいきゃくしている。戦意せんいとぼしい追討ついとうぐん状況じょうきょうった那須なす信吾しんごらは、8がつ30にちよる五條ごじょう付近ふきんのこっていた紀州きしゅうはん陣地じんち夜襲やしゅうけて紀州きしゅうはんへい駆逐くちくし、陣地じんち放火ほうかして武具ぶぐ食料しょくりょうとう戦利せんりひんうばってげた。

忠光ただみつひきいる本隊ほんたい新宮しんぐうけて退却たいきゃくはじめたが、熊野川くまのがわみなとすで紀伊きい新宮しんぐうはん水野みずのへいによってかためられているという情報じょうほうて、海路かいろ脱出だっしゅつするあん断念だんねんし、9月6にち忠光ただみつてんつじ本陣ほんじんかえって吉村よしむららに再度さいど合流ごうりゅうした。吉村よしむららの別働隊べつどうたいてんつじ根拠こんきょとして周辺しゅうへんゲリラせん展開てんかいし、かずではまさるが戦意せんいとぼしい追討ついとうぐん相手あいて善戦ぜんせんしていた。合流ごうりゅうぐんひらかれ、いちせんのち包囲ほういやぶってさかい方面ほうめん脱出だっしゅつすることとなり、いけ内蔵ないぞうふとしらが高取たかとり敗戦はいせん離散りさんした十津川とつかわ郷士ごうし協力きょうりょくもとめて使者ししゃつが、前回ぜんかいのようなおおきな協力きょうりょくられなかった。

しょはんはんへいうごし、6にち紀州きしゅうはんへい富貴ふうきむら到着とうちゃく天誅てんちゅうぐみ民家みんかはなって撹乱かくらんした。7にち天誅てんちゅうぐみ先鋒せんぽう大日川だいにちがわ進軍しんぐんしたところ、はんへいやく600にん遭遇そうぐう交戦こうせんしてこれを五條ごじょう退しりぞける。そののうちに天誅てんちゅうぐみ白銀はくぎんだけ本陣ほんじんうつし、防御ぼうぎょ体制たいせいきずいた。

8にち幕府ばくふぐんそう攻撃こうげき10日とおかさだめて攻囲こういぐんしょはんめいじた。そう兵力へいりょく1まん4,000にんおよしょはんへいかく方面ほうめんから進軍しんぐんかばとうげ広橋ひろはしとうげなどで戦闘せんとうひろげられ天誅てんちゅうぐみ善戦ぜんせんするものの、主将しゅしょうである忠光ただみつ命令めいれい混乱こんらんして一貫いっかんせず、へいたち右往左往うおうさおう余儀よぎなくされた。9にちには白銀はくぎんだけ本陣ほんじん彦根ひこねはんへいせまったが撃退げきたい成功せいこうする。同日どうじつよる彦根ひこねはん拠点きょてんとなっていた下市しもいち夜襲やしゅうすることになり、橋本はしもと若狭わかさらのいちたい下市しもいちまちおそって放火ほうかした。不意ふいかれた彦根ひこねはんへいだい混乱こんらんおちいり、夜襲やしゅう成功せいこう橋本はしもとたい武器ぶきなどをうばってげた。このちで下市しもいち民家みんかやく300けん焼失しょうしつ住民じゅうみん逃亡とうぼうした。下市しもいち夜襲やしゅう成功せいこうした橋本はしもとたい援護えんご部隊ぶたいみずぐんたい合流ごうりゅうして白銀はくぎんだけ本陣ほんじんもどるが、本隊ほんたい大日川おびかわむら方面ほうめん援軍えんぐん出動しゅつどうしてじんにはおらず、なん連絡れんらくもなくのこされたかたちとなったみずぐんらは憤慨ふんがいしたが、その本隊ほんたい合流ごうりゅうした。大日川おびかわ陣地じんちはん攻撃こうげきけていたが、下市しもいち夜襲やしゅう彦根ひこねはん損害そんがいけたため、そう攻撃こうげき延期えんきされることになりはん一時いちじ退却たいきゃくした。忠光ただみつ本隊ほんたい再度さいど十津川とつかわ方面ほうめん退去たいきょすることをめ、11にちあさてんつじ退却たいきゃくした。しかし、みずぐん河内かわちぜいにはそれはらされず、再三さいさんわたってりにされ、献策けんさくれられないなどの冷遇れいぐうけたみずぐん天誅てんちゅうぐみからの離脱りだつ決意けつい忠光ただみつらの本陣ほんじんもどことなく、高野山こうのやまから河内かわうち方面ほうめんへと撤退てったいしていった。こうして忠光ただみつ統率とうそつりょくうしないつつあること一目瞭然いちもくりょうぜんで、みずぐん河内かわちぜい以外いがいにも脱走だっそうするもの相次あいつぎ、天誅てんちゅうぐみ士気しき低下ていかする。

14にち紀州きしゅうはんへいてんつじせまり、抗戦こうせんむずかしいと判断はんだんした天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんとしていた庄屋しょうやはなって放棄ほうきすると、十津川とつかわきょう退却たいきゃく決定けっていする。忠光ただみつ本隊ほんたい先行せんこうし、吉村よしむららの後続こうぞくたいはんせまると退却たいきゃくした。

壊滅かいめつ[編集へんしゅう]

忠光ただみつ十津川とつかわ籠城ろうじょう天険てんけんたよりに決戦けっせんしようとするが、朝廷ちょうてい十津川とつかわさと忠光ただみつ逆賊ぎゃくぞくとする令旨れいしくだし、京都きょうと御所ごしょ警衛けいえいたっていた上平かみひら主税ちから帰郷ききょうしてそれをつたえると、十津川とつかわ郷士ごうし天誅てんちゅうぐみからの離反りはんけっし、天誅てんちゅうぐみ行動こうどうともにしていた郷士ごうし帰還きかんした。郷士ごうしたち天誅てんちゅうぐみ同情どうじょうしたものの、郷内ごうないでの戦闘せんとう回避かいひむらまもるため天誅てんちゅうぐみ十津川とつかわからの退去たいきょもとめ、天誅てんちゅうぐみへの協力きょうりょく主導しゅどうした野崎のさき主計かずえ責任せきにんって自刃じじんした。 15にち進退しんたいきわまった忠光ただみつつい天誅てんちゅうぐみ解散かいさんめいじた。

天誅てんちゅうぐみ残党ざんとう山中さんちゅう難路なんろあるいて脱出だっしゅつこころみるが、重傷じゅうしょうっていた吉村よしむらいちぎょうから落伍らくごしてしまう。24にち忠光ただみついちぎょう鷲尾わしおとうげ鷲家わしかこう奈良ならけん東吉野ひがしよしのむら)で紀州きしゅう彦根ひこねはんへい遭遇そうぐう那須なす信吾しんご宍戸ししど弥四郎やしろう忠光ただみつのがすべく決死けっしたい編成へんせいして敵陣てきじん突入とつにゅうしてにした。よく25にちにはいちてき包囲ほういもうのがれていた藤本ふじもと鉄石てっせき鷲家わしかこうかえして紀州きしゅうはん本陣ほんじん奇襲きしゅうをかけ、壮絶そうぜつ激闘げきとうすえにし、おなごろ負傷ふしょうして失明しつめいしていた松本まつもと奎堂は逃亡とうぼうちゅう紀伊きいはんへい発見はっけんされて自刃じじんした。いちぎょうからおくれていた吉村よしむらは27にち鷲家わしかだにはんへい潜伏せんぷくさき急襲きゅうしゅうされ、銃殺じゅうさつへいたち相次あいついで捕縛ほばく自首じしゅ戦死せんしするなどして天誅てんちゅうぐみ壊滅かいめつかろうじてのこったもの各自かくじりになって逃亡とうぼうしたものの、幕府ばくふぐんによる追討ついとう徹底的てっていてきつづけられ、そのおおくが戦死せんしし、捕縛ほばくされたもののち京都きょうと六角ろっかくごく刑死けいしした。すで離脱りだつしたみずぐんらの河内かわちぜいげきれずに、紀州きしゅうはん自首じしゅのち京都きょうとろくかくごく斬首ざんしゅされた。最終さいしゅうてきに、忠光ただみつ護衛ごえいして大坂おおさか長州ちょうしゅう藩邸はんてい辿たどいたいけ内蔵ないぞうふと石田いしだ英吉えいきち、また高取たかとりじょう敗戦はいせん直後ちょくご離脱りだつしていた伊藤いとう三弥みつや市川いちかわ精一郎せいいちろうや、偵察ていさつとして先行せんこうしていたこと鷲家わしか包囲ほういもう回避かいひできた平岡ひらおかばとひらたなどのわずかなものたちだけがきょうだいさかなどにのがれることができた。

忠光ただみつは、自分じぶんふくめ7にんだけとなった本隊ほんたいまもられながら、かろうじててき重囲じゅういくぐことができ、27にちだいさか到着とうちゃくして長州ちょうしゅう藩邸はんていかくまわれた。のち長州ちょうしゅうのがれて下関しものせきかくれていたが、禁門きんもんへんのち長州ちょうしゅうはん実権じっけんにぎった恭順きょうじゅん俗論ぞくろんとう)によって元治もとはる元年がんねん1864ねん)11月15にち絞殺こうさつされた。

事件じけんのち文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)10がつには、藤本ふじもと松本まつもと吉村よしむら那須なす宍戸ししどをはじめとする天誅てんちゅうぐみたい13にんくび賊徒ぞくととして京都きょうと粟田口あわだぐち刑場けいじょうさらされている。また、同月どうげつには平野ひらの国臣くにおみ但馬たじまこく生野いくの代官だいかんしょ襲撃しゅうげきして挙兵きょへいするも、幕府ばくふぐん追討ついとうけて敗北はいぼくしている。(生野いくのへん

最終さいしゅうてき幕末ばくまつ明治維新めいじいしんびることができた天誅てんちゅうぐみたい平岡ひらおかばとひらめ石田いしだ英吉えいきち伊藤いとう三弥みつやと、みずこおり英太郎えいたろうみずこおり善之よしゆきゆう息子むすこ)をはじめとする河内かわちぜいすうにんだけだった。

顕彰けんしょう評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 事件じけん収束しゅうそく天誅てんちゅうぐみかんしては罪人ざいにんあつかいされ、明治維新めいじいしんこうもしばらくはわすられていたが[4]土佐とさ脱藩だっぱんたいについては、明治めいじ16ねん(1883ねん)に靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされ、明治めいじ21ねん以降いこうたいについても合祀ごうしされるようになった。明治めいじ24ねん吉村よしむら虎太郎とらたろう松本まつもと奎堂、藤本ふじもと鉄石てっせきらのたい贈位ぞういされたのをはじめとして、以後いごたいたいする贈位ぞういおこなわれるようになる。
  • 明治めいじ27ねん当時とうじ小川おがわむらとなっていた鷲家わしかこう住民じゅうみん梶谷かじたに留吉とめきち尽力じんりょくにより、たい墓所はかしょとして「明治めいじたに墓地ぼち」、「たに墓地ぼち」が建立こんりゅうされた。
  • 明治めいじ28ねん小川おがわむら宝泉寺ほうせんじにおいて天誅てんちゅうぐみさんじゅうさん回忌かいき法要ほうよういとなまれ、田中たなかひかりあきら北畠きたばたけおさむぼう(平岡ひらおかばとたいら)、土方ひじかた久元ひさもと土方ひじかた直行なおゆき山縣やまがた有朋ありともらが出席しゅっせきし、以後いご9がつ25にち命日めいにちとし毎年まいとし法要ほうよういとなまれるようになった。
  • 天誅てんちゅうぐみ数少かずすくないのこりの一人ひとりで、のち男爵だんしゃくとなった北畠きたばたけおさむぼう平岡ひらおかばとたいら)は引退いんたいしたのち墓碑ぼひ建設けんせつ支援しえんしたり顕彰けんしょう建立こんりゅうおこなうなど、天誅てんちゅうぐみ顕彰けんしょう活動かつどうさかんにおこなった。
  • 失敗しっぱいわったものの、倒幕とうばく運動うんどうにおけるはじめての組織そしきてき武力ぶりょく蜂起ほうきというてん維新いしんさい評価ひょうかされることになり、現代げんだいでも「維新いしんさきがけ」とする評価ひょうかがある[5] [6]
  • おか鹿しかもんは、天誅てんちゅうぐみへんについて「まちき、つみのないものえにしただけでなんやくにもたなかったとひともあるかもしれないが、大義たいぎおもんじ、率先そっせんしてこころざし断行だんこうしたものであり賞賛しょうさんされるべき」との主旨しゅしひょうしている。
  • 天誅てんちゅうぐみへんから150ねんにあたる平成へいせい25ねん(2013ねん)には、奈良なら県内けんない天誅てんちゅうぐみゆかりの五條ごじょう安堵あんどまち十津川とつかわむら東吉野ひがしよしのむら天誅てんちゅうぐみ市町村しちょうそん連携れんけい協議きょうぎかい結成けっせいして各地かくち関連かんれんイベントが実施じっしされた。8月18にちには奈良ならで「てんちゅうぐみ150ねん記念きねんシンポジウム」が開催かいさいされ、9月14にち、15にちには五條ごじょうで「天誅てんちゅうぐみ150ねんさい」がおこなわれた。10月26にちには東吉野ひがしよしのむらにおいて「天誅てんちゅうぐみサミット」が計画けいかくされ天誅てんちゅうぐみ所縁しょえんある市町村しちょうそん参加さんかする予定よていであったが、台風たいふう27ごう影響えいきょう中止ちゅうしとなった。よく27にちには同村どうそんない宝泉寺ほうせんじにおいて「天誅てんちゅうぐみ志士しし慰霊いれいだい法要ほうよう」がおこなわれた。11月14にちには天誅てんちゅうぐみ市町村しちょうそん連携れんけい協議きょうぎかい主催しゅさいによる「てんちゅうぐみシンポジウムin東京とうきょう」が東京とうきょううち開催かいさいされた。

史跡しせきとう[編集へんしゅう]

  • 天誅てんちゅうぐみ義士ぎし上陸じょうりく遺跡いせき」、「天誅てんちゅうぐみ上陸じょうりく繋船けいせんにれ」- 大阪おおさかさかい栄橋さかえばしまち
  • 天誅てんちゅうぐみ」- 大阪おおさか河内長野かわちながの観心寺かんしんじ
  • 油屋あぶらや本陣ほんじん天誅てんちゅうぐみ史跡しせき」- 大阪おおさか河内長野かわちながの三日みっか市宿いちじゅく油屋あぶらやあと
  • 五條ごじょう代官だいかんしょあと」- 奈良ならけん五條ごじょう本町ほんちょう五條ごじょう市役所しやくしょ敷地しきちない[7]
  • きゅう五條ごじょう代官だいかんしょあと長屋門ながやもん」- 奈良ならけん五條ごじょう新町しんまち五條ごじょう市立しりつ民俗みんぞく資料しりょうかん
  • 天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんあと」- 奈良ならけん五條ごじょう須恵すえ桜井寺さくらいじ境内けいだい
  • 石手いして水鉢すいばち」- 奈良ならけん五條ごじょう須恵すえ桜井寺さくらいじ境内けいだい鈴木すずき源内げんないくびあらった手水ちょうずはち
  • 天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんのこ趾」- てん辻本つじもとじんあと奈良ならけん五條ごじょう大塔だいとうまち天辻てんつじ維新いしん歴史れきし公園こうえんない
  • 天誅てんちゅうぐみ河内かわちぜい顕彰けんしょう」- 大阪おおさか富田林とんだばやし錦織にしきおり神社じんじゃ境内けいだい
  • みずぐんてい」- 大阪おおさか富田林とんだばやし甲田こうたみずこおり善之よしゆきゆうていあと[8]
  • 天誅てんちゅう義士ぎし記念きねん」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら小川おがわ宝泉寺ほうせんじ境内けいだい
  • 天誅てんちゅうぐみ鳥ヶ峰とりがみね古戦場こせんじょう」- 奈良ならけん高市たかいちぐん高取たかとりまち観覚寺かんがくじ高取たかとりまち役場やくばない
  • 玉堀たまほり為之ためゆきしん辞世じせい句碑くひ」- 奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら上野地うえのじ国王こくおう神社じんじゃ境内けいだい
  • 上野地うえのじ本陣ほんじんあと」- 奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら上野地うえのじ上野地うえのじ駐車ちゅうしゃじょうない[9]
  • 野崎のさき主計かずえ」- 奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら川津かわづ[10]
  • 風屋かぜや本陣ほんじんあと」- 奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら風屋かぜや[11]
  • 正法寺しょうほうじ山門さんもん弾痕だんこん」- 奈良ならけん吉野よしのぐん下北山しもきたやまむら寺垣内てらがいと正法寺しょうほうじ[12]
  • 天誅てんちゅうぐみ堡塁ほうるいあと」- 奈良ならけん下市しもいちまちかばとうげ
  • 天誅てんちゅうぐみ供養くようとう」- 奈良ならけん吉野よしのぐん下市しもいちまち大字だいじ栃本とちもとえいぜんてら
  • 天誅てんちゅうぐみ終焉しゅうえん」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか
  • 吉村よしむら寅太郎とらたろう辞世じせい句碑くひ」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか
  • 吉村よしむら寅太郎とらたろうげん瘞処(げんえいしょ)」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか吉村よしむら虎太郎とらたろう最初さいしょほうむられた場所ばしょ
  • 藤本ふじもとじょ福浦ふくうら元吉もとよし戦死せんし」、「那須なす信吾しんご戦死せんし」、「宍戸ししど弥四郎やしろう戦死せんし」、「はやしひょう吉郎よしろう戦死せんし」、「鍋島なべしまべいじょ戦死せんし」、「植村うえむらじょうなな戦死せんし」、「天保てんぽう高殿たかどの西田にしだ仁兵衛じんべえ戦死せんし」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか
  • 松本まつもと奎堂先生せんせい戦死せんし」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら伊豆尾いずお
  • 紀州きしゅうはん本陣ほんじんあと」、「藤堂とうどうはん本陣ほんじんあと」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか
  • 明治めいじたに墓地ぼち」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら小川おがわ吉村よしむら虎太郎とらたろう那須なす信吾しんごらの墓所はかしょ
  • たに墓地ぼち」- 奈良ならけん吉野よしのぐん東吉野ひがしよしのむら鷲家わしか松本まつもと奎堂、藤本ふじもと鉄石てっせきらの墓所はかしょ
  • 天誅てんちゅうくら」- 和歌山わかやまけん田辺たなべ龍神りゅうじんむらみずこおり善之よしゆきゆうらが監禁かんきんされたくら善之よしゆきゆう辞世じせいきざんだはしらのこ[13]
  • 天誅てんちゅうくつ」- 奈良ならけん川上かわかみむら祖母谷ばばだにいぬい十郎じゅうろう小川おがわ佐吉さきち潜伏せんぷくした洞窟どうくつ

その[編集へんしゅう]

  • 天誅てんちゅうぐみ最期さいごである奈良ならけん東吉野ひがしよしのむらは、吉村よしむら虎太郎とらたろう出身しゅっしんである高知こうちけん津野つのまち姉妹しまいむら提携ていけいむすんでいて、吉村よしむら所縁しょえん那須なす信吾しんご出身しゅっしんである高知こうちけん檮原ゆすはらまちとは友好ゆうこう町村ちょうそんとなっており、松本まつもと奎堂と宍戸ししど弥四郎やしろう出身しゅっしんである愛知あいちけん刈谷かりや友好ゆうこう都市とし提携ていけいむすんでいる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 岩城いわき卓二たくじ畿内きない幕末ばくまつ社会しゃかい」『講座こうざ明治めいじしん2 幕末ばくまつ政治せいじ社会しゃかい変動へんどう』(有志ゆうししゃ)2011ねん、pp.184-185。
  2. ^ 舟久保ふなくぼあい実録じつろく 天誅てんちゅうぐみへん』(あわ交社)
  3. ^ のち伊藤いとう松本まつもと奎堂密書みっしょ岩倉いわくら具視ともみとどけたと弁明べんめいしているが、岩倉いわくら具視ともみ松本まつもと奎堂の関係かんけいかんがえればありないことである。伊藤いとう三弥みつや同郷どうきょう碩学せきがくもり銑三せんぞうは「脱走だっそうしゃ三弥みつやのいいわけぎない」とだんじている。
  4. ^ 明治めいじ政府せいふによる天誅てんちゅうぐみ評価ひょうかおくれた理由りゆうひとつとして、明治天皇めいじてんのう叔父おじにあたる主将しゅしょう中山なかやま忠光ただみつ長州ちょうしゅうはんささえはんであるちょうはんにより暗殺あんさつされたこと影響えいきょうしているというせつがある。(『実録じつろく 天誅てんちゅうぐみへん』)。
  5. ^ 五條ごじょう - 明治維新めいじいしん発祥はっしょう
  6. ^ 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん 維新いしんさきがけ天誅てんちゅうぐみ
  7. ^ 五條ごじょう - 明治維新めいじいしんさきがけ 天誅てんちゅうぐみ
  8. ^ 富田林とんだばやし - 大阪おおさか指定してい史跡しせきみずぐんてい
  9. ^ 十津川とつかわかけはしネット - 十津川とつかわ探検たんけん
  10. ^ 十津川とつかわかけはしネット - 十津川とつかわ探検たんけん
  11. ^ 十津川とつかわかけはしネット - 十津川とつかわ探検たんけん
  12. ^ 下北山しもきたやまむら - 「天誅てんちゅうぐみ」がむら
  13. ^ 龍神りゅうじんむら観光かんこう情報じょうほう - 龍神りゅうじん温泉おんせん付近ふきんどころ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 実録じつろく 天誅てんちゅうぐみへん』、舟久保ふなくぼあいあわ交社

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]