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藤本ふじもと鉄石てっせき

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藤本ふじもとすけ(『高名こうみょうぞうでん : 近世きんせいのこくん. てん』)
藤本ふじもと鉄石てっせきてい京都きょうと中京ちゅうきょう御幸みゆきまちどおりさんじょうのぼ東側ひがしがわ

藤本ふじもと 鉄石てっせき(ふじもとてっせき、文化ぶんか13ねん3月17にち1816ねん4がつ14にち) - 文久ぶんきゅう3ねん9月25にち1863ねん11月6にち))は、幕末ばくまつ志士しし書画しょがいみな真金まがね通称つうしょうまなべじょこう鉄石てっせきてつかん吉備きび男子だんしやなぎあいだちぎりみん海月くらげ浪士ろうしきく老人ろうじんもんうりさいおきななど多数たすうごうがある。

岡山おかやまはん脱藩だっぱんし、諸国しょこく遊歴ゆうれきして書画しょが軍学ぐんがくまなぶ。京都きょうと絵師えしとしてをなし、尊攘そんじょう浪人ろうにんまじわり志士しし活動かつどうおこなった。大和やまと行幸ぎょうこう先駆さきがけとなるべく大和やまとこく挙兵きょへいして天誅てんちゅうぐみ結成けっせいし、吉村よしむら虎太郎とらたろう松本まつもと奎堂とともに天誅てんちゅうぐみさん総裁そうさい一人ひとりとなる。その幕府ばくふぐん討伐とうばつけて天誅てんちゅうぐみ壊滅かいめつし、藤本ふじもと戦死せんしした。

生涯しょうがい

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備前びぜんこくぐん東川原ひがしかわはらむら岡山おかやまけん岡山おかやまちゅう)の片山かたやま佐吉さきちよんおとことして文化ぶんか13ねん1816ねん3月17にちまれる。のち藩士はんし藤本ふじもと彦右衛門えもん養子ようしとなり、農事のうじかかり、手代てだいつとめていたが、天保てんぽう11ねん1840ねん)に脱藩だっぱんして京都きょうとる。このころ伊藤いとうはなちくいてまなぶ。そのうれしょうれつづけて諸国しょこく遊歴ゆうれきして、しょかく和歌わか漢詩かんし修行しゅぎょうをした。ははじめきたむねふうであったが、のち南宗画なんしゅうがてん山水さんすい花鳥かちょうもっとたくみだった。また長沼ながぬまりゅう軍学ぐんがくおさめ、剣術けんじゅつ一刀いっとうしんりゅう免許めんきょている。少年しょうねん時代じだい鉄石てっせきせっした清河きよかわ八郎はちろう山岡やまおか鉄舟てっしゅうかれ影響えいきょうおおいにけた。

京都きょうと伏見ふしみきょさだ私塾しじゅくひらいて学問がくもん武芸ぶげい教授きょうじゅした。黒船くろふね来航らいこう以来いらい国難こくなんなか藤本ふじもと慷慨こうがいこころざしち、清河きよかわ八郎はちろうかいして尊攘そんじょう志士ししたちとまじわりをつようになる。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、薩摩さつまはん国父こくふ島津しまつ久光ひさみつりつへい上京じょうきょうすることになり、世間せけんはこれを倒幕とうばくのための上洛じょうらくだとかいして、平野ひらの国臣くにおみ清河きよかわ八郎はちろう吉村よしむら虎太郎とらたろうらは上方かみがた浪士ろうしあつめて、有馬ありま新七しんしち薩摩さつま藩士はんし過激かげき結託けったくして挙兵きょへいさくした(伏見ふしみ義挙ぎきょ)。藤本ふじもともこのうごきにくわわる。だが、島津しまつ久光ひさみつ真意しんい公武こうぶ合体がったいであり、藤本ふじもと薩摩さつま藩邸はんてい軟禁なんきんされ、ほどなく挙兵きょへい計画けいかくから離脱りだつしてっている。結局けっきょく寺田てらだ騒動そうどう薩摩さつま藩士はんし過激かげき粛清しゅくせいされ、平野ひらの吉村よしむららもとらえられて国許くにもと送還そうかんされた。

文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)2がつ京都きょうと守護しゅごしょく松平まつだいら容保かたもり朝廷ちょうてい浪士ろうし言論げんろんほらひらきさくみことのり栽を京都きょうとちゅう布告ふこくした。ただし、これには黒谷くろたに会津あいづはん本陣ほんじん出頭しゅっとうする必要ひつようがあり、おうじた浪士ろうしは3にんしかいなかったが、そのうちの一人ひとり藤本ふじもとだった。容保かたもり奉公ほうこうねが浪士ろうし35にんしるした会津あいづはん記録きろくの「きょうかた浪人ろうにんべつ」に「浪士ろうしあたま」として藤本ふじもとえる。このとき藤本ふじもと真意しんい不明ふめいである。

同年どうねん8がつ13にち孝明天皇こうめいてんのう大和やまと行幸ぎょうこうみことのりはっせられると。藤本ふじもと吉村よしむら虎太郎とらたろう土佐とさ脱藩だっぱん)、松本まつもと奎堂(刈谷かりや脱藩だっぱん)とともに行幸ぎょうこう先駆さきがけとして大和やまとこく挙兵きょへいすることを計画けいかく藤本ふじもと挙兵きょへい軍資金ぐんしきん調達ちょうたつのために河内かわうち先行せんこうした。14にち吉村よしむらまえ侍従じじゅう中山なかやま忠光ただみつむかえて浪士ろうし39にん方広寺ほうこうじ結集けっしゅうして京都きょうと出立しゅったついちぎょう海路かいろさかいはいり、河内かわちすすんで狭山さやまはんから銃器じゅうき武具ぶぐさせた。17にちいちぎょう河内かわち檜尾ひのきおさん観心寺かんしんじ逗留とうりゅうし、ここへ藤本ふじもと合流ごうりゅう浪士ろうしたちはのち天誅てんちゅうぐみしょうされるようになる。

天誅てんちゅうぐみ大和やまとこく五条ごじょう天領てんりょうはいり、代官だいかんしょ襲撃しゅうげきして炎上えんじょうさせ、代官だいかん鈴木すずき正信まさのぶ源内げんない)のくびを刎ねて挙兵きょへいした。天誅てんちゅうぐみ桜井寺さくらいじ本陣ほんじんさだめ、みずからを「政府せいふ」としょうし、中山なかやま忠光ただみつ主将しゅしょう藤本ふじもと松本まつもと吉村よしむら総裁そうさいとする職制しょくせいさだめた。

だが、直後ちょくごの18にちになってはちがつじゅうはちにち政変せいへんきて政情せいじょう一変いっぺん三条さんじょう実美みみ攘夷じょうい公卿くぎょう失脚しっきゃくし、長州ちょうしゅうはん京都きょうとからの撤退てったい余儀よぎなくされた。大和やまと行幸ぎょうこうみことのりにせみことのりとされ中止ちゅうしとなった。

突然とつぜん孤立こりつ無援むえんとなった天誅てんちゅうぐみ要害ようがいてんつじ本陣ほんじんうつし、十津川とつかわ郷士ごうし募兵ぼへいして1000にんあつめた。26にち高取たかとりしろ攻撃こうげきするが敗北はいぼくし、このたたかいで吉村よしむら重傷じゅうしょうってしまう。

9月、周辺しゅうへんしょはん討伐とうばつ動員どういんされ、天誅てんちゅうぐみ善戦ぜんせんするものの多勢たぜい無勢ぶぜいうえ装備そうび貧弱ひんじゃくで、次第しだいめられた。藤本ふじもと紀州きしゅう新宮しんぐう突破とっぱして四国しこく九州きゅうしゅうのが再挙さいきょすることをさくすがかなわず、ついには十津川とつかわ郷士ごうしたちも離反りはんし、天誅てんちゅうぐみ実質じっしつてき戦闘せんとうりょくうしなった。

天誅てんちゅうぐみ残党ざんとう山中さんちゅう難路なんろすすんで脱出だっしゅつこころみる。さん総裁そうさいのうち吉村よしむら高取たかとりしろ攻撃こうげきさいったきず悪化あっか、もう一人ひとり松本まつもと負傷ふしょう原因げんいん失明しつめい状態じょうたいになっており、それぞれ歩行ほこう困難こんなんとなり、本隊ほんたいから脱落だつらく

24にち藤本ふじもと天誅てんちゅうぐみ本隊ほんたい鷲尾わしおとうげ鷲家わしかこう奈良ならけん東吉野ひがしよしのむら)で紀州きしゅう彦根ひこねはんへい遭遇そうぐう本隊ほんたいてきちゅう突破とっぱ成功せいこうし、主将しゅしょう中山なかやまわずかばかりの護衛ごえいへいとも大阪おおさか方面ほうめん脱出だっしゅつするが、藤本ふじもとはこのままびるのをいさぎよしとせず、よく25にちかれ弟子でし福浦ふくうら米吉よねきちとともにふたた鷲家わしかこうまでかえし、紀州きしゅうはん本陣ほんじん猛烈もうれつみをかけた。不意ふいをつかれた紀州きしゅうはんぐん混乱こんらんおちいったが、所詮しょせん多勢たぜい無勢ぶぜいであり壮絶そうぜつにをげた。享年きょうねん48。辞世じせいは、

くもをふみ がんをさくみし もののふの よろい(よろひ)のそで紅葉こうようかつちる

だった。

同日どうじつには松本まつもと紀伊きいへいめられて自刃じじん自刃じじんするあいだもなく射殺しゃさつされたせつもあり)しており、ものたちもほとんどが戦死せんしするか捕縛ほばくされ、天誅てんちゅうぐみ壊滅かいめつした。吉村よしむらも27にちはんへい発見はっけんされ射殺しゃさつされている。藤本ふじもとくび京都きょうとはこばれ、松本まつもと吉村よしむらふくむ12にん天誅てんちゅうぐみたいくびとも粟田口あわだぐちさらされた。

かれ忠兵衛ちゅうべえあていた手紙てがみ小判こばんじく彩色さいしきしたいて「ほしい、ほしい、ほしい、ほしい」と援助えんじょ依頼いらいたのしくいていて、ユーモアにあふれていてかれ人柄ひとがらおもわせる。

明治めいじ24ねん(1891ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[1]

著作ちょさく

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  • にちかん
  • 神典しんてんすめらぎ謨』
  • 『蒭蕘げん

作品さくひん

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作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
山水さんすいまき かみほんちょしょく 1かん 29.37x270.19 ミネアポリス美術館びじゅつかん 1828ねん
松下まつした高士たかし 1856ねん
あきけい山水さんすい 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 155.1x52.2 鳥取とっとり県立けんりつ博物館はくぶつかん 1859ねん[2]
菊花きっか 1860ねん
清河きよかわ八郎はちろうぞう かみほん淡彩たんさい 1ぶく 129.8x60.0 清河きよかわ八郎はちろう記念きねんかん 1862ねん 清河きよかわ八郎はちろうさん 山形やまがたけん指定してい文化財ぶんかざい
西園にしぞのみやびしゅう 絹本けんぽん淡彩たんさい 1ぶく 156x71.8 岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかん[3] 1862ねん
さかな屏風びょうぶ かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい ろくきょく一双いっそう 166.7x366(かく 岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかん[3] 1862ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.6
  2. ^ 鳥取とっとり県立けんりつ博物館はくぶつかん編集へんしゅう発行はっこう鳥取とっとり県立けんりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう美術びじゅつ品目ひんもくろく石谷いしがやコレクションへん》』 2007ねん3がつ、p.29。
  3. ^ a b 岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞう作品さくひんせん2018(かんぞうひんならびに寄託きたく作品さくひんによる)』 2018ねん3がつ25にち、pp.70-73。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 芦田あしだはやしひろし藤本ふじもと鉄石てっせき』1979ねん
  • 大岡おおおか昇平しょうへい天誅てんちゅうぐみ』(『大岡おおおか昇平しょうへい全集ぜんしゅう (8) 』収録しゅうろく筑摩書房ちくましょぼう、1995ねんISBN 4480702687
  • 坂本さかもといぬかい天誅てんちゅうぐみ』(『歴史れきしぐんぞう 2006ねん12がつごう』、学研がっけん
  • 勤王きんのうひゃくすぐる』(嵩山すせどう, 1911ねん
  • 文人ぶんじん近代きんだい 鉄斎てっさいとその師友しゆうたち」京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1997ねん

関連かんれん項目こうもく

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