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鈴木すずき正信まさのぶ (旗本はたもと)

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鈴木すずき 正信まさのぶ(すずき まさのぶ、? - 1863ねん)は、幕末ばくまつ旗本はたもと。13代目だいめ五條ごじょう代官だいかん小普請こぶしん鈴木すずき強右衛門すねえもん通称つうしょう源内げんない(げんない)。天誅てんちゅうぐみへん犠牲ぎせいしゃ

前歴ぜんれき

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知行ちぎょう700せき旗本はたもと

天保てんぽう14ねん1843勘定かんじょうしょ御料ごりょうしょ取締とりしまり扱(栃木とちぎ真岡もおか)としてよしみひさし元年がんねん1848)までつとめ、その支配しはい勘定かんじょうかく新潟にいがた奉行ぶぎょうところ支配しはい組頭くみがしらなどをて、万延まんえん元年がんねん1860)から文久ぶんきゅうねん1862)まで、51代目だいめ信州しんしゅう中野なかの代官だいかんつとめた。

文久ぶんきゅう2ねん (1862ねん)に五條ごじょう代官だいかんしょ赴任ふにんする。五條ごじょう代官だいかんみなみ大和やまと7まんせき吉野よしのぐん宇智ぐん)を支配しはいする役職やくしょくであった。

儒教じゅきょうつう温厚おんこう善良ぜんりょう性格せいかく公平こうへい無私むし人物じんぶつ[1]であり、長寿ちょうじゅ老人ろうじん表彰ひょうしょうする活動かつどうをするひとしから、領民りょうみんしたわれる人物じんぶつだった[2]当時とうじは60さいあまりだっという[2]

五條ごじょう代官だいかんしょ襲撃しゅうげき

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天誅てんちゅうぐみへん

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正信まさのぶ赴任ふにんした文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)、土佐とさはん浪士ろうし吉村よしむら虎太郎とらたろう刈谷かりやはん浪士ろうし松本まつもと奎堂らが公家くげ中山なかやま忠光ただみつ首領しゅりょうかかげて孝明天皇こうめいてんのう大和やまと行幸ぎょうこう起因きいんとする天誅てんちゅうぐみへんという一連いちれん武力ぶりょくによる討幕とうばく行為こういこす。

天誅てんちゅうぐみ尊王そんのう攘夷じょういをなすべく天皇てんのういえ忠臣ちゅうしん楠木くすのき正成まさしげくびづか[3]参拝さんぱいして大願たいがん成就じょうじゅ祈念きねんし、同志どうし藤本ふじもと鉄石てっせきとの合流ごうりゅう尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう活発かっぱつ十津川とつかわ郷士ごうしれ、拠点きょてん獲得かくとくのために大和やまと天領てんりょう五條ごじょう代官だいかんしょをつける[4]

襲撃しゅうげき

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よく文久ぶんきゅう3ねん1863ねん8がつ17にち午後ごご4代官だいかんしょ襲撃しゅうげきされる。代官だいかんしょには当時とうじ14めいしかおらず[5]、またいぬい十郎じゅうろう[6]という五條ごじょう医者いしゃ吉村よしむらがわ内応ないおうし、代官だいかんしょ内部ないぶ構造こうぞう戦力せんりょく事前じぜん把握はあくしていたために簡単かんたん包囲ほういされる。さら正信まさのぶつま部下ぶからと酒宴しゅえんひらいていたこともありだい混乱こんらんとなった。

天誅てんちゅうぐみ正信まさのぶに、降伏ごうぶく五條ごじょうわたしを要求ようきゅうしたが、正信まさのぶ断固だんこ拒否きょひしたためいけ内蔵ないぞうふと威嚇いかく発砲はっぽう吉村よしむらひきいるやりたい裏門うらもんから突入とつにゅうぐに制圧せいあつされた。

正信まさのぶ斬首ざんしゅ部下ぶか長谷川はせがわ岱助伊藤いとう敬吾けいご黒澤くろさわただしすけおよび按摩あんま嘉吉よしきち[7]殺害さつがいされる。後日ごじつれないとさと木村きむら祐治ゆうじろう[8]高橋たかはし勇蔵ゆうぞう自刃じじんしている。

天誅てんちゅうぐみ挙兵きょへいった三条さんじょう実美みみ自重じちょううながすべく平野ひらの国臣くにおみ使者ししゃおくったが、到着とうちゃくしたのは五條ごじょう代官だいかんしょ陥落かんらくのちのことであった。

その

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天誅てんちゅうぐみ武器ぶき書物しょもつはこさせると代官だいかんしょはらい、桜井寺さくらいじ本陣ほんじんさだめ、門前もんぜんに「五條ごじょう政府せいふ」の表札ひょうさつかかげ、18にち天誅てんちゅうぐみ正信まさのぶら5めいを「くびあらいの石手いして水鉢すいばち」であらったのち梟首きょうしゅし、捨札に【代官だいかん 鈴木すずき源内げんない-長谷川はせがわ岱助-黒澤くろさわただしすけ-木村きむら祐次ゆうじろう-恒川つねかわ庄二郎しょうじろう-此者ども近来きんらい違勅いちょく幕府ばくふぎゃくを受ケもっぱ有志ゆうしこれしゃを押附朝廷ちょうてい幕府ばくふ同様どうよう心得こころえさんひゃくねんおんさるさわ開闢かいびゃく以来いらいだいおんわすれしめしかも此ケため皇国こうこくはずかしめしめ夷狄いてきすけなりこうごと不弁ふべん且聚斂筋もしょう罪科つみとがじゅう大依おおより誅戮ちゅうりくしゃなり[9]】とけた。

またじょうを「天朝てんちょう直轄ちょっかつ」としょうした。

またいぬいをはじめ、ばんはやしひかりたいら北畠きたばたけおさむぼう三枝さえぐさじょう志士しし集結しゅうけつした。

その那須なす信吾しんご使者ししゃ各地かくちおく決起けっきうながしたが、はちがつじゅうはちにち政変せいへん大和やまと行幸ぎょうこう中止ちゅうしとなると、支援しえんられ、そして幕府ばくふぐん攻撃こうげきやぶ壊滅かいめつする。

事件じけん終息しゅうそく五條ごじょう人々ひとびと資金しきんって、こころざしじゅんじた志士しし非業ひごうげた正信まさのぶ代官だいかんしょ役人やくにん菩提ぼだいとむらうために墓所はかしょ[10]建立こんりゅうされた[11][12]鈴木すずき長谷川はせがわ木村きむら高橋たかはしよん黒澤くろさわ伊藤いとう合祀ごうしされた一基いっき墓石はかいしなら[13]が、按摩あんま嘉吉よしきちはか同地どうちにない。なお正信まさのぶ戒名かいみょうは、真光しんこういん殿どのじつほまれしょう居士こじである。

元治もとはる元年がんねん1864ねん)に中村なかむら勘兵衛かんべえ代官だいかん復帰ふっきし、明治維新めいじいしんまでつづいた。

関連かんれん史跡しせき

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  • きゅう五條ごじょう代官だいかんしょあと長屋門ながやもん」- 奈良ならけん五條ごじょう新町しんまち五條ごじょう市立しりつ民俗みんぞく資料しりょうかん
  • 天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんあと」- 奈良ならけん五條ごじょう須恵すえ桜井寺さくらいじ境内けいだい
  • 石手いして水鉢すいばち」- 奈良ならけん五條ごじょう須恵すえ桜井寺さくらいじ境内けいだい鈴木すずき源内げんないくびあらった手水ちょうずはち
  • 天誅てんちゅうぐみ本陣ほんじんのこ趾」- てん辻本つじもとじんあと五條ごじょう大塔だいとうまち天辻てんつじ維新いしん歴史れきし公園こうえんない
  • 極楽寺ごくらくじ霊園れいえん五條ごじょう本町ほんちょういち丁目ちょうめ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 原田はらだ伊織いおり - 『「天誅てんちゅうぐみへん」ほど無意味むいみなものはない!』‐ネット記事きじ
  • 舟久保ふなくぼあい - 『実録じつろく 天誅てんちゅうぐみへん』(あわ交社)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 十津川とつかわ記事きじ
  2. ^ a b 鈴木すずき源内げんない墓石はかいし記載きさい
  3. ^ 河内長野かわちながの寺元てらもと観心寺かんしんじ
  4. ^ 舟久保ふなくぼあい実録じつろく 天誅てんちゅうぐみへん
  5. ^ 幕末ばくまつになると平和へいわのため武士ぶし人数にんずうっていた。さらにひろ大和やまと領地りょうち支配しはいすると代官だいかんしょ直近ちょっきん武士ぶしかず相対そうたいてきすくなかった。
  6. ^ 儒学じゅがく森田もりたたかしときに、国学こくがく梅田うめだ雲浜うんぴんまな攘夷じょうい人物じんぶつ
  7. ^ 酒宴しゅえん偶然ぐうぜん居合いあわせていたという。
  8. ^ 司馬しばりょう太郎たろう短編たんぺん小説しょうせつ五条ごじょう陣屋じんや』の主人公しゅじんこう
  9. ^ 意訳いやく【このものどもは最近さいきん天皇てんのういのちしたがわぬ幕府ばくふ意向いこうにより憂国ゆうこく志士しし弾圧だんあつし、朝廷ちょうてい幕府ばくふおなじようになし、わずか300ねんほどの徳川とくがわ恩義おんぎけるいっぽう、日本にっぽんはじまって以来いらい皇室こうしつおんわすれさせようとしている。このために皇国こうこく名誉めいよきずつき、野蛮やばん外国がいこくすることになっているのがかっていない。なおかつ、ぜいおもい。こうしたことから処刑しょけいしたのである。】
  10. ^ 五條ごじょう代官だいかんしょあと石碑せきひから北東ほくとう200m、鈴木すずきはじめ内外ないがいはかきざまれた石碑せきひつ。
  11. ^ 極楽寺ごくらくじ境内けいだい
  12. ^ 五條ごじょう本町ほんまちいち丁目ちょうめ
  13. ^ 五條ごじょう代官だいかんしょ役人やくにん墓所はかしょ