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ひがしりょう左衛門さえもん

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ひがし りょう左衛門さえもん(ことう りょうざえもん、文政ぶんせい2ねん4がつ16にち1819ねん5月9にち) - 元治もとはる元年がんねん7がつ20日はつか1864ねん8がつ21にち))は、幕末ばくまつ淡路あわじこく三原みはらぐん津井ついむらげん兵庫ひょうごけんみなみあわじ津井つい)の庄屋しょうや豪農ごうのう天誅てんちゅうぐみパトロン勤皇きんのう志士しし

人物じんぶつ

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ひがし琵琶湖びわこ東岸とうがん近江おうみはじめ佐々木ささきながれを家系かけいで、湖東ことう転訛てんかしてひがしになったといわれている。りょう左衛門さえもんはそのじゅういち代目だいめたり、ちち萬次郎まんじろうはははとなりの湊里みなとさとむら組頭くみがしら庄屋しょうや菊川きくかわだい兵衛ひょうえおんな兄弟きょうだいおとこにんおんなさんにんはちにんりょう左衛門さえもん長子ちょうし幼名ようみょうふるえ太郎たろういみなは儒、こう麻呂まろ、衝山とごうし、べつきんともごうした。きんとはひがしをもじったのである。

当時とうじひがし田畑たはたよんじゅうまち山林さんりんななじゅうまちゆうし、海運かいうんぎょういとな島内とうない有数ゆうすう富豪ふごうで、代々だいだい庄屋しょうやしょくいていた。

松本まつもと奎堂藤本ふじもと鉄石てっせきとは懇意こんいであり、ごろから勤皇きんのう志士ししたち財政ざいせいてき援助えんじょしまず、天誅てんちゅうぐみ挙兵きょへいさいしては私財しざいすべてつぎんだ。だが、連座れんざしてとらえられ、きょう六角ろっかくごくにて斬首ざんしゅけいしょされている。

かれ長州ちょうしゅう白石しらいし正一郎しょういちろうのような篤志とくし豪農ごうのう豪商ごうしょう階級かいきゅう存在そんざいがなければ、明治維新めいじいしんすことができなかったともえる。

辞世じせいくんため おもひしみずうえあわえゆく 淡路島あわじしまじん

明治めいじ36ねん(1903ねん)、せい追贈ついぞうされた[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.19