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高杉たかすぎ晋作しんさく

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高杉たかすぎ 晋作しんさく
高杉たかすぎ晋作しんさく
通称つうしょう 晋作しんさくあずまこう和助わすけ
生年せいねん 天保てんぽう10ねん8がつ20日はつか1839ねん9月27にち
生地きじ 日本の旗 長門ながとこくはぎ現在げんざい山口やまぐちけんはぎ
没年ぼつねん 慶応けいおう3ねん4がつ14にち1867ねん5月17にち
まん27さいぼつ
ぼつ 日本の旗 長門ながとこく下関しものせき現在げんざい山口やまぐちけん下関しものせき
活動かつどう 尊王そんのう攘夷じょうい倒幕とうばく運動うんどう
はん 長州ちょうしゅうはん
所属しょぞく 兵隊へいたい
受賞じゅしょう おくせいよん
母校ぼこう 明倫めいりんかん松下まつした村塾そんじゅく
びょう 靖国神社やすくにじんじゃ
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高杉たかすぎ 晋作しんさく(たかすぎ しんさく、天保てんぽう10ねん8がつ20日はつか1839ねん9月27にち〉- 慶應けいおう3ねん4がつ14にち1867ねん5月17にち〉)は、日本にっぽん武士ぶし長州ちょうしゅう藩士はんし)。幕末ばくまつ長州ちょうしゅうはん尊王そんのう攘夷じょうい志士ししとして活躍かつやく兵隊へいたいなどのしょたい創設そうせつし、長州ちょうしゅうはん倒幕とうばく運動うんどう方向付ほうこうづけた。

系譜けいふ名前なまえ[編集へんしゅう]

高杉たかすぎ戦国せんごく時代じだい以来いらい代々だいだい毛利もうりつか藩政はんせいかかわる要職ようしょく歴任れきにんしたいえである。

晋作しんさく通称つうしょうで、いみな春風しゅんぷう(はるかぜ)。通称つうしょう東一ひがしいち和助わすけ暢夫のぶお(ちょうふ)。ごうくすのきいつき小史しょうしあずまこう(とうぎょう)、ひがしぎょうきょうせい西海さいかいいちきょうせい東洋とうよういちきょうせい些々ささせいだまなまかくれせいけんうみあかあいだかくれじんなどおおくを名乗なのった。変名へんめいたにせんぞうたに梅之助うめのすけたにうめすすむ備後びんごじょ一郎いちろう備後びんご三郎さぶろう三谷みたに和助わすけかい)、しゅく太郎たろう宍戸ししどけい西浦にしうら松助まつすけなど。のちに、たに せんぞう改名かいめいなおほん記事きじではすべ晋作しんさくとおす。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

高杉たかすぎ晋作しんさく生誕せいたん

長門ながとこくはぎじょうした菊屋きくや横丁よこちょう現在げんざい山口やまぐちけんはぎ)に長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎしょう忠太ちゅうただいぐみ・200いし)とミチ(道子みちこ大西おおにしすすむむすめ)の長男ちょうなんとしてまれる。3にんいもうとがいたが、男子だんし晋作しんさくのみで跡取あととりとして大切たいせつそだてられた。

10さいのころに疱瘡ほうそうわずらう。祖父母そふぼ家族かぞく献身けんしんてき介抱かいほう一命いちめいめるが、あばたがのこったことから「あずきもち」とばれた。漢学かんがくじゅく吉松よしまつじゅく)をて、よしみひさし5ねん1852ねん)に藩校はんこう明倫めいりんかん入学にゅうがく柳生やぎゅうしんかげりゅう剣術けんじゅつまなび、のち免許めんきょ皆伝かいでんされる。安政あんせい4ねん1857ねん)には吉田よしだ松陰しょういん主宰しゅさいしていた松下まつした村塾そんじゅくはいり、久坂くさかげんみず吉田よしだみのる麿まろ入江いりえきゅういちとともに松下まつした村塾そんじゅく四天王してんのうばれた。安政あんせい5ねん1858ねん)にははんいのち江戸えど遊学ゆうがく昌平しょうへいざか学問がくもんしょ大橋おおはし訥庵とつあん大橋おおはしじゅくなどでまなぶ。安政あんせい6ねん1859ねん)には松陰まつかげ安政あんせい大獄たいごくらえられると伝馬てんままちごく見舞みまって、獄中ごくちゅう世話せわをするが、はんよりめいじられてはぎもど途中とちゅうで、松陰しょういん10月処刑しょけいされる。万延まんえん元年がんねん1860ねん11月帰郷ききょうぼうちょういち美人びじんわれた山口やまぐち町奉行まちぶぎょう井上いのうえひらみぎ衛門えもんだいぐみ・250せき)の次女じじょみやび結婚けっこんする。

留学りゅうがく[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん3がつには海軍かいぐん修練しゅうれんのため、はん所蔵しょぞうする軍艦ぐんかんへい辰丸たつまる」に乗船じょうせん江戸えどわたる。神道しんとう無念むねんりゅう練兵れんぺいかん道場どうじょう剣術けんじゅつ稽古けいこをした。8がつには東北とうほく遊学ゆうがくおこない、加藤かとうさくらろう佐久間さくま象山ぞうさん横井よこい小楠しょうなんとも交友こうゆうする。

文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)にははんいのちで、長崎ながさきから中国ちゅうごくきよし)の上海しゃんはい渡航とこうすることになり、同年どうねん1がつ2にち旧暦きゅうれき)に長崎ながさき出発しゅっぱつ[1]到着とうちゃくした長崎ながさきでは、たかしぶくてら滞在たいざいしていた米国べいこくじん宣教師せんきょうしチャニング・ウィリアムズ立教大学りっきょうだいがく創設そうせつしゃ)や、グイド・フルベッキから欧米おうべい南北戦争なんぼくせんそう清国きよくに内乱ないらんかんする最新さいしん情報じょうほうるなど上海しゃんはいきの準備じゅんびすすめた[2]晋作しんさく手記しゅきゆうきよろく』のなかの「長崎ながさき淹流雑録ざつろく」に、ウィリアムズから大統領だいとうりょうせいなどの政治せいじ制度せいどについてもまなんだことがしるされている。また、英会話えいかいわならい、アメリカ、フランス、ポルトガルの領事りょうじたずねた[2]長崎ながさき客舎かくしゃからははんやくちたいとちちての手紙てがみいている[1]
どう文久ぶんきゅう2ねん4がつ29にち(1862ねん5がつ27にち)、五代ごだいともあつしちゅう牟田むた倉之助くらのすけ名倉なくらまつまど何人なんにん)らとともに、幕府ばくふ使節しせつ随行ずいこういんとして幕府ばくふ千歳ちとせまる長崎ながさき出帆しゅっぱんし、5月6にちどう6がつ3にち)に上海しゃんはい入港にゅうこうした[3][4]せい欧米おうべい植民しょくみんとなりつつある実情じつじょうや、太平たいへい天国てんごくらん見聞けんぶんしてやく2ヵ月かげつあいだ滞在たいざいえ、7がつ5にちどう7がつ31にち)に帰国きこくのために上海しゃんはい出帆しゅっぱんし、7がつ14にちどう8がつ9にち)に長崎ながさき帰着きちゃくした[3]前述ぜんじゅつ手記しゅきの『ゆうきよろく』におおきな影響えいきょうけたことがしるされている。

尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう[編集へんしゅう]

長州ちょうしゅうはんでは、晋作しんさく渡航とこうちゅう俗論ぞくろん長井ながい雅楽ががくらが失脚しっきゃく尊王そんのう攘夷じょうい尊攘そんじょう台頭たいとうし、晋作しんさくかつら小五郎こごろう木戸きど孝允たかよし)や久坂くさか義助よしすけ久坂くさかげんみず)らとともに尊攘そんじょう運動うんどうくわわり、江戸えど京都きょうとにおいて勤皇きんのう破約はやく攘夷じょうい宣伝せんでん活動かつどう展開てんかいし、かくはん志士ししたちと交流こうりゅうした。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、晋作しんさくは「薩藩はすでに生麦なまむぎいてえびすじん斬殺ざんさつして攘夷じょういげたのに、はんはなお、公武こうぶ合体がったいいている。なにとか攘夷じょういげねばならぬ。はん政府せいふでこれを断行だんこうできぬならば」とろんじていた。りしも、外国がいこく公使こうしがしばしばたけしゅう金澤かなざわ金沢かなざわ八景はっけい)であそぶからそこで刺殺しさつしようと同志どうし高杉たかすぎ晋作しんさく久坂くさかげんみず大和やまとわたる八郎はちろう長嶺ながみね内蔵ないぞうふとこころざしどう聞多松島まつしまつよしぞう寺島てらしま忠三郎ちゅうざぶろう有吉ありよし熊次郎くまじろうあか禰幹すすむ山尾やまお庸三ようぞう品川しながわ弥二郎やじろう[5]相談そうだんした。しかしげんみず土佐とさはん武市たけいち半平はんぺんふとしはなしたことから、これがぜん土佐とさ藩主はんしゅ山内やまうち容堂ようどうとおして長州ちょうしゅうはん世子せいし毛利もうり定広さだひろつたわり、無謀むぼうであると制止せいしされ実行じっこういたらず、櫻田さくらだていない謹慎きんしんめいぜられる。

この過程かていで、長州ちょうしゅうはん朝廷ちょうていはんとの提携ていけい交渉こうしょうは、もっぱらかつら久坂くさか担当たんとうすることとなる。文久ぶんきゅう2ねん12月12にちには、幕府ばくふ違勅いちょく抗議こうぎするため、同志どうしとともに品川しながわ御殿山ごてんやま建設けんせつちゅう英国えいこく公使館こうしかんおこなう。この事件じけんのち同志どうしたちが次々つぎつぎ京都きょうとかうなか、晋作しんさくはそのまま江戸えど居座いすわ松蔭しょういん改葬かいそうなどをませたが、京都きょうとにいる世子せいしいのちけたこころざしどう聞多が晋作しんさくむかえにとも京都きょうとかった。京都きょうとせられた晋作しんさくは、はん晋作しんさくかせようとかんがえていた朝廷ちょうていがわとの交渉こうしょうやくである学習がくしゅういんようかけやく辞退じたいし、突然とつぜんじゅうねんひまねがた。それがゆるされると翌日よくじつにはあたままるめて僧形そうぎょうになってしまった。このとき晋作しんさくは「西にしひとをしたひてひがしくわがしんをばかみやしるらむ」とみ、ひがしぎょう(とうぎょう)とごうした。そのはぎかえ吉田よしだ松陰しょういん生誕せいたんである松本まつもとむらにあるちいさな借家しゃくやつま女中じょちゅう1にんれてした。

下関しものせき戦争せんそう兵隊へいたい創設そうせつ[編集へんしゅう]

兵隊へいたい所属しょぞくへい写真しゃしん

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん5がつ10日とおか幕府ばくふ朝廷ちょうていから要請ようせいされて制定せいていした攘夷じょうい期限きげんぎると、長州ちょうしゅうはん関門海峡かんもんかいきょうにおいて外国がいこくせん砲撃ほうげきおこなうが、ぎゃくべいふつ報復ほうふく惨敗ざんぱいする(下関しものせき戦争せんそう)。晋作しんさく下関しものせき防衛ぼうえいまかせられ、6がつには廻船かいせん問屋とんや白石しらいし正一郎しょういちろうやしきにおいて身分みぶんらない志願しがんへいによる兵隊へいたい結成けっせいし、阿弥陀寺あみだじ赤間あかま神宮じんぐうとなり)を本拠ほんきょとするが、9月には教法寺きょうほうじ事件じけん責任せきにんわれそうかん罷免ひめんされた。11月、幕吏ばくりからのマークをのがれるため藩主はんしゅから「東一ひがしいち」のあたえられ改名かいめい

京都きょうとでは薩摩さつまはん会津あいづはん結託けったくしたクーデターであるはちがつじゅうはちにち政変せいへん長州ちょうしゅうはん追放ついほうされ、文久ぶんきゅう4ねん1864ねん1がつ晋作しんさく脱藩だっぱんして京都きょうと潜伏せんぷくする。かつら小五郎こごろう説得せっとく2がつには帰郷ききょうするが、脱藩だっぱんつみ野山のやまごく投獄とうごくされ(このさいひがしいち没収ぼっしゅうされ「和助わすけ」と改名かいめいする)、6がつには出所しゅっしょして謹慎きんしん処分しょぶんとなる。7がつ長州ちょうしゅうはん禁門きんもんへん敗北はいぼくして朝敵ちょうてきとなり、来島くるしま又兵衛またべえ戦死せんし久坂くさかげんみず自害じがいした。

8がつには、イギリスフランスアメリカオランダの4かこく連合れんごう艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげき砲台ほうだい占拠せんきょされるにいたると、晋作しんさく赦免しゃめんされて和議わぎ交渉こうしょうまかされる。晋作しんさくが24さいのときであった。交渉こうしょうせき通訳つうやくつとめた伊藤いとう博文ひろぶみ後年こうねん、この講和こうわ会議かいぎにおいて連合れんごうこく賠償金ばいしょうきん支払しはらいなど種々しゅじゅ条件じょうけんとともに彦島ひこしま租借そしゃく要求ようきゅうしてきたと回想かいそうしている[6]晋作しんさくは「賠償金ばいしょうきん」と「彦島ひこじま租借そしゃく」についてはおうじず、前者ぜんしゃ幕府ばくふ肩代かたがわり交渉こうしょうさせることで合意ごういし、後者こうしゃ拒絶きょぜつつらぬ撤回てっかいさせることに成功せいこうしたという(古事記こじき暗誦あんしょうして有耶無耶うやむやにしたともわれる[7])。

こう山寺やまでら挙兵きょへい[編集へんしゅう]

高杉たかすぎ晋作しんさく中央ちゅうおう)と伊藤いとう博文ひろぶみみぎ)(ひだり少年しょうねん従者じゅうしゃである三谷みたに国松くにまつ
こう山寺やまでら挙兵きょへい銅像どうぞう

幕府ばくふによるだいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつせまるなか、長州ちょうしゅうはんでは幕府ばくふへの恭順きょうじゅんむなしとする保守ほしゅ晋作しんさくは「俗論ぞくろん」とび、みずからを「正義せいぎ」としょうした)が台頭たいとうし、10月には福岡ふくおかのがれる。平尾ひらお山荘さんそうかくまわれるが、俗論ぞくろんによる正義せいぎ家老がろう処刑しょけいき、ふたたび下関しものせき帰還きかん12月15にち夜半やはん伊藤いとう俊輔しゅんすけ (博文ひろぶみ) ひきいる力士りきしたい石川いしかわ小五郎こごろうひきいるゆうげきたい長州ちょうしゅうはんしょたいひきいてこう山寺やまでら挙兵きょへい。のちに兵隊へいたいしょたいくわわり、元治もとはる2ねん1865ねん3がつには俗論ぞくろん首魁しゅかい椋梨むくなし藤太とうたらを排斥はいせきしてはん実権じっけんにぎる。

晋作しんさく同月どうげつ海外かいがい渡航とこうこころみて長崎ながさきでイギリス商人しょうにんグラバー接触せっしょくするが反対はんたいされる。4がつには、下関しものせき開港かいこうすすめたことにより攘夷じょうい俗論ぞくろん両派りょうはいのちねらわれたため、愛妾あいしょうおうのとともに四国しこくのがれ、にちやなぎつばめせきたよる。6がつかつら小五郎こごろう斡旋あっせんにより帰郷ききょう

元治もとはる2ねん1865ねん1がつ11にちづけ晋作しんさく高杉たかすぎ廃嫡はいちゃくされて「そだて(はぐくみ)」あつかいとされ、そして同年どうねん9月29にち幕府ばくふ追及ついきゅうのがれるためはんいのちによりたにせんぞう改名かいめいする。慶応けいおう3ねん1867ねん3月29にちには新知しんち100いしあたえられ、たに創設そうせつして初代しょだい当主とうしゅとなる。高杉たかすぎ本家ほんけ家督かとくすえいもうとひかり婿むこむかえたはるいだ。

よんさかい戦争せんそう[編集へんしゅう]

再度さいど長州ちょうしゅう征討せいとうそなえ、晋作しんさく防衛ぼうえい態勢たいせい強化きょうかすすめた。慶応けいおう2ねん1866ねん1がつ21にち一説いっせつには1がつ22にち)、かれかつら小五郎こごろう木戸きど孝允たかよし)・井上いのうえ聞多伊藤いとう俊輔しゅんすけたちとともにすすめていた薩長さっちょう盟約めいやく土佐とさはん坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろう土方ひじかた久元ひさもと仲介ちゅうかいによって京都きょうと薩摩さつま藩邸はんていむすばれた。

5月伊藤いとう俊輔しゅんすけとともに薩摩さつまきをめいじられ、その途次とじ長崎ながさき蒸気じょうきせんへいとらまる」(オテントサマまる)を購入こうにゅうしている。

6がつだい長州ちょうしゅう征伐せいばつよんさかい戦争せんそう)では海軍かいぐん総督そうとくとして「へいとらまる」に乗船じょうせんし、戦闘せんとう指揮しきった。大島おおしまくちたたかでは「へいとらまる」は幕府ばくふがわの「旭日きょくじつまる」と「八雲やくもまる」を奇襲きしゅうしたが、目立めだった戦果せんかもなくわっている[8]小倉おぐら方面ほうめんではかんほう射撃しゃげき援護えんごのもと兵隊へいたい報国ほうこくたい門司もじ田ノ浦たのうら上陸じょうりくさせて幕府ばくふぐん敗走はいそうさせている。その小倉こくらじょうちかくまで進撃しんげきしたものの、肥後ひごはん細川ほそかわ軍勢ぐんぜい撃退げきたいされ戦況せんきょう停滞ていたいした。

しかし、7がつ20日はつか将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち死去しきょすると、7がつ30にちには肥後ひごはん久留くるべいはん柳川やながわはん唐津からつはん中津なかつはん撤兵てっぺい幕府ばくふぐん総督そうとく小笠原おがさわら長行おさゆき海路かいろ小倉おぐらから離脱りだつのこされた小倉こくらはん8がつ1にち小倉こくらじょうはな逃走とうそうしたため、幕府ばくふぐん敗北はいぼく決定的けっていてきとなった。幕府ばくふ権威けんいおおきく失墜しっついし、よく慶応けいおう3ねん(1867ねん11月大政奉還たいせいほうかんへとつながることとなった。

その下関しものせき桜山さくらやま肺結核はいけっかく療養りょうようちゅう慶応けいおう3ねん4がつ13にち1867ねん5月16にち深夜しんや死去しきょ享年きょうねん29(まん27さい8ヶ月かげつ)。なお墓碑銘ぼひめいなどで命日めいにちが14にちとされているのは、長男ちょうなんうめこれしんたに相続そうぞくさせるために時間じかん必要ひつようだったためとかんがえられる[9]臨終りんじゅうにはちちははつま息子むすこがかけつけ、野村のむらのぞむあずま山県やまがたきょうかい田中たなかあらわすけったとされる(ただし田中たなか自身じしん当日とうじつきょうにいたと日記にっきしるしている)。

栄典えいてんおくせいよん1891ねん明治めいじ24ねん4がつ8にち)。

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

墓所はかしょひがしぎょうあん (下関しものせき
はか (ひがしぎょうあん敷地しきちない

墓所はかしょ山口やまぐちけん下関しものせき吉田よしだひがしぎょうあんにある。2016ねん4がつ晋作しんさく生前せいぜん遺言ゆいごんきざんだ「墓誌ぼし」が建立こんりゅうされた[10]

また木戸きど孝允たかよし大村おおむら益次郎えきじろうらによって東京とうきょう招魂しょうこんしゃ現在げんざい靖国神社やすくにじんじゃ)に吉田よしだ松陰しょういん久坂くさかげんみず坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろうたちとともにまつられた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • いわゆる辞世じせいうたについて、
    • 「おもしろきこともなきおもしろく」
    • 「おもしろきこともなきおもしろく」
りょうせつあるが、晋作しんさく直筆ちょくひつによるうたのこされていないため、正確せいかくなところは不明ふめい。なおひがしぎょうあん句碑くひには「に」とあり、防府ほうふ天満宮てんまんぐう歌碑かひでは「を」となっている。古川ふるかわかおる著書ちょしょでは「を」が採用さいようされている一方いっぽういちさか太郎たろうは「に」を採用さいようし「『を』は後年こうねん改作かいさくであろう」としている。また、高杉たかすぎつたえられている『ひがしぎょう遺稿いこう』とだいした和装わそうほんでは「こともなき」としるされており、この和装わそうほん晋作しんさく自筆じひつではないものの、原本げんぽん校合きょうごうしたとおもわれる朱筆しゅひつのこっていることから晋作しんさく直筆じきひつほん写本しゃほんしたものであることはほぼたしかである。[11]
かつてはゆかにあった晋作しんさくみ、晋作しんさく看病かんびょうしていた野村のむらのぞむあずまが「すみなすものはしんなりけり」というしもをつけたとわれていたが、近年きんねん研究けんきゅうによればこのうた前年ぜんねんにすでにまれていたという記録きろくがあり、正確せいかくには辞世じせいではないというせつ有力ゆうりょくである。
  • 都々逸どどいつ三千世界さんぜんせかいからすころし、おもと添寝がしてみたい」(添寝の部分ぶぶんが『朝寝あさね』とされていることもある)は一般いっぱん晋作しんさくさくであるとわれている(木戸きど孝允たかよしさくせつり)。この都々逸どどいつは、現在げんざいでもはぎ民謡みんようである「おとこなら」や「ヨイショコショぶし」の歌詞かしとしてうたわれている。
  • である吉田よしだ松陰しょういん晋作しんさく非凡ひぼんさをいちはや見抜みぬき、剣術けんじゅつばかりであまり学業がくぎょう本腰ほんごしれない晋作しんさく奮起ふんきさせるために、あえて同門どうもん幼馴染おさななじみでもある優秀ゆうしゅうひさざかばかりをべためしたという。晋作しんさくくやしさをバネに自身じしん非凡ひぼんさを発揮はっきげんみずかたならべおたがいを切磋琢磨せっさたくましあうなど、とても優秀ゆうしゅうであったという。
  • 公金こうきんわたしきん区別くべつをつけない人物じんぶつだった。はんかね軍艦ぐんかん購入こうにゅうしようとしたこともある。
  • 一度いちど日本にっぽん駐在ちゅうざいしていた英国えいこくじんへいたのまれてかたなせたことがあったが、武士ぶしたましいともいえるかたなものめずらしいとなんせてくれとわれ、そのことを遺憾いかんかんじた晋作しんさくはそれ以後いごけっしてせることはなかったという。
  • 晋作しんさく上海しゃんはい購入こうにゅうしたS&Wモデル2アーミー 33口径こうけい6連発れんぱつ坂本さかもと龍馬りょうまおくったとの逸話いつわがある。龍馬りょうま手紙てがみに「かの高杉たかすぎよりおくられこうビストールをもってはらい」とべているように、晋作しんさくから龍馬りょうまにピストルがおくられたことはたしかなようだが、このピストルが実際じっさい上海しゃんはい購入こうにゅうされたものという確証かくしょうはない。いちさか太郎たろう晋作しんさく上海しゃんはいでピストルを購入こうにゅうしてから龍馬りょうまおくるまでのやくねんはんあいだ長州ちょうしゅうはんでは武器ぶき密輸みつゆおこなわれ、晋作しんさく密輸みつゆされたピストルをいちてい個人こじん購入こうにゅうしていることをあげ、龍馬りょうまおくられたピストルは「上海しゃんはい土産みやげ」ではなくこのころ入手にゅうしゅしたものである可能かのうせい否定ひていできないとしている。
  • のちに伊藤いとう博文ひろぶみ彦島ひこしままえふね通過つうかしたさい、「あのとき高杉たかすぎ租借そしゃく問題もんだいをうやむやにしていなければ、彦島ひこしま香港ほんこんになり、下関しものせききゅうりゅう半島はんとうになっていただろう」とかたっている。
  • だい14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち攘夷じょうい決行けっこう約束やくそくするためきょうのぼ徳川とくがわ幕府ばくふはじまって以来いらいはつ天皇てんのうのおともとして賀茂かも神社じんじゃ祈願きがんった。そのさい行列ぎょうれつ民衆みんしゅう当然とうぜんあたまいつくばらなければならなかったが見物けんぶつていた高杉たかすぎあたまげ「よっ!征夷大将軍せいいたいしょうぐん!」と行列ぎょうれつかいさけんだ。当然とうぜん民衆みんしゅうあおざめたが結局けっきょく高杉たかすぎおおきなとがめはけず幕府ばくふがいかによわっていたかがわかる高杉たかすぎ晋作しんさくらしいはなしである。

言動げんどう[編集へんしゅう]

すべきときにし、なまくべきときなまくるは英雄えいゆう豪傑ごうけつのなすところである。りょうさんねん軽挙妄動けいきょもうどうせずして、もっぱ学問がくもんをするがよい。そのなかには英雄えいゆうすべきときかならる」[12]

「およそ英雄えいゆうというものはへんなきとき非人ひにん乞食こじきとなってくぐれ。へんあるときおよんでりゅうごとくに振舞ふるまいはねばならない」[12]

男子だんしうものはこまったとうことをけっしてうものではない。これは自分じぶんちちから平生へいぜいやかましくわれたことであるが、こまったとときときである。どんな難局なんきょくしょしても、なにこまらぬと気概きがいでやっておると、づとどおりづるものである。どんな難局なんきょくにもかならのががある。あたればきょくありとわけである。だんじてこまらぬと気概きがいでやっていればかならみちはつくものである。だからこまったという一言ひとことだけはけっしてくちにしてはいけない」[12]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 吉田よしだ松陰しょういん
    • 有識ゆうしきなり。しかし、学問がくもんをつとめず。またすこぶるまかみずかもちいうるのくせあり。かつてげんみずもっ晋作しんさくそもそもゆ。晋作しんさくしんはなはふくせず。いまいくばくならず。晋作しんさく学業がくぎょうにわかにながじ、議論ぎろん益々ますますたかし。同志どうしみなためおくみを斂む。余事よじするごとにおお晋作しんさくこれだんず。そのげん往々おうおう、あなどるべからざる也」[13]
    • 「そのせい識にいたってはおよぶところではない」
    • 高杉たかすぎせいぼくよりすくなきことじゅうねん学問がくもんたず、経歴けいれきあさし。しかれどもつよしつきよし識凡りん卓越たくえつす」[14]
  • 木戸きど孝允たかよししゅん邁の少年しょうねんなり。ただしむらくは、すこ頑固がんこ性質せいしつあり。後来こうらい、おそらくはひとげんれざるべし。貴君きくん松陰しょういん)ははやくそのてん注意ちゅういして、おしえなされたならば、かならかれ将来しょうらい利益りえきするであろう」[15]
  • 久坂くさかげんみず
    • 思慮しりょ周密しゅうみつ、そのざい当世とうせい無比むひ
    • 晋作しんさくついわれおよところざるなり」[16]
  • 入江いりえきゅういち久坂くさかは(有志ゆうしぐみの)隊長たいちょうとしては陣中じんちゅう起臥きがし、兵士へいし起居ききょ飲食いんしょくともにしており、謹厳きんげんにして質素しっそである。高杉たかすぎはこれにはんしておおくは兵営へいえいがいまり、ときには相合傘あいあいがさで、馴染なじみ美人びじん引張ひっぱって、陣中じんちゅうはいったこともあった。しかしながら、この二人ふたりたいする兵士へいし人望じんぼうは、全然ぜんぜん同一どういつであった」[15]
  • 伊藤いとう博文ひろぶみ 
    • うごけば雷電らいでんごとはっすれば風雨ふううごとし、衆目しゅうもく駭然、敢て正視せいしするものなし。これひがしぎょう高杉たかすぎくんずや…」
    • 西郷さいごうみなみしゅうおなじようなかただったとおもう。かれいさむ悍のひとで、創業そうぎょうてきざいみきにはよほどんでったひとだ」[17]
  • 山縣やまがた有朋ありとも当時とうじにありてすでぐんでたる高杉たかすぎなれば、今日きょうにあっても、(伊藤いとう井上いのうえかれらのではあるまいとおもう」[18]
  • 山田やまだあらわよし 「其威ふう英気えいき凛々りんりんとして、いまなおり。くん平生へいぜいほそぶしかかわらず、あるいすずりうみつきみ、あるい桜山さくらやまはなえいじ、悠然ゆうぜんとして自適じてきし、苦楽くらくじんともにす。くんをして維新いしんひじりあきらあさち、驥足きそくてんぶることをせしめば、其成就じょうじゅするところはたして如何いかぞや。し哉天命数めいすうあり。これむものをして、いたずらに其豪邁、ちょういっ気象きしょう欽慕きんぼせしむることや」[19]
  • 中岡なかおか慎太郎しんたろう胆略たんりゃくり、へいのぞみてまどわず、うごき、を以ってひとつものは高杉たかすぎひがしぎょう晋作しんさく)、またらく西にしいち奇才きさい
  • かつ海舟かいしゅうねんわかし、ときときだったから、充分じゅうぶん器量きりょうさずにしまったが、なかなか活気かっきつよかったおとこさ」[20]
  • 田中たなかひかりあきら
    • へいもちいて鬼神きじんごと高杉たかすぎことのぞんで神出鬼没しんしゅつきぼつ英傑えいけつ高杉たかすぎ不世出ふせいしゅつ快男児かいだんじだかすぎ[21]
    • 奇策きさく縦横じゅうおう神出鬼没しんしゅつきぼつ、その一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくがすべて天下てんかさきがけとなって闔藩の意気いき鼓舞こぶしたのみならず、全国ぜんこく勤王きんのう運動うんどう運動うんどう指導しどうしゃやくつとめている」[22]
    • 自分じぶん維新いしんさんすぐるをことごとくっている。また坂本さかもと武市たけいち中岡なかおかそのそとおおくの名士めいし先輩せんぱいせっしている。しかしながら、そびえしかとして一頭地いっとうちいているものは高杉たかすぎである」[15]
    • 高杉たかすぎ生涯しょうがいきわめてみじかい。慶応けいおうさん(1867)ねんよんがつ下関しものせき病死びょうしした。ときわずかにじゅうきゅうさいであった。しかしながらかれ一挙一動いっきょいちどうは、天下てんかさきがけとなって、ばつはん意気いき鼓舞こぶしたのみならず、全国ぜんこく勤王きんのう運動うんどう指導しどうしゃとなっている。それでも自分じぶんでは夕方ゆうがたになってもなお暁鐘ぎょうしょうけない(※おう陽明ようめい引用いんよう)と嘆息たんそくしているくらい、その気性きしょうのはげしさはおどろくべきである。長州ちょうしゅうはん滞在たいざいちゅうかれわたしおしえた。すべきときし、なまくべきときなまくるは、英雄えいゆう豪傑ごうけつのなすところである。りょうさんねん軽挙妄動けいきょもうどうせずしてもっぱ学問がくもんをするがよい。そのうちには英雄えいゆう死期しきるであろうから、またおよ英雄えいゆうというものは、へんなきとき非人ひにん乞食こじきとなってくぐれ。へんあるときおよんでりゅうごと振舞ふるまわねばならない。かれ生涯しょうがいまさしくそれだ。これはわたし高杉たかすぎ傾倒けいとうしてるいるから贔屓目ひいきめにそうるのではなく、実際じっさいかれ識見しきけん天稟てんぴんであった。天衣無縫てんいむほう捕捉ほそくすることが出来できなかった。わたしがもし久坂くさかげんみず)に、大和やまと義挙ぎきょ相談そうだんをしたとしたら、かれはこれにたいして、縷々るる成敗せいばいくであろうとおもわれる。高杉たかすぎはこういう場合ばあい黙々もくもくとしてごたえず、洒落しゃらく態度たいどせているが、いちけっすれば、猛然もうぜんとして蹶起けっきするところに両者りょうしゃ性格せいかく相違そういがある。一口ひとくちわば高杉たかすぎいち天才てんさいであった」[23]
  • 早川はやかわいさむしゅん奇抜きばつ傭兵ようへい軽快けいかいみなもと九郎くろう義経よしつね)のふうあり。卓見たっけん達識たっしき、察機決定けっていゆう不可測ふかそくしゃ其才りゃくあに兵事へいじ而止哉(けっするのにはかれないちからっており、その才智さいち兵事へいじだけではない)」
  • 三浦みうら梧楼ごろう
    • 高杉たかすぎ晋作しんさくひとまった偉人いじんであったよ。我輩わがはいれまでえらひとだとおもったのは、この高杉たかすぎ一人ひとりだ。じつ目先めさきはやい、機敏きびんひとで、臨機応変りんきおうへん奇智きちくがごとくであった。(中略ちゅうりゃく)その鬼謀きぼう神算しんさん到底とうてい常人じょうじんとおおよぶべきところでない。だい西郷さいごうえらいというが、高杉たかすぎだんちがう。大西おおにしさとには所作しょさがない。ただボーッとしているだけだが、高杉たかすぎ機略きりゃく縦横じゅうおう、ゆくとしてならざるはなしというひとである」[24]
    • 今日きょうまでいろんなひとにもせっしたが、あれ感服かんぷく信頼しんらいしたひともなかった。たけのすらりとした、男前おとこまえ立派りっぱだった。平生へいぜいやさしいをしておられたが、それがどうかすると、ギロリとひかったものだ。そのときこわろしさが、ぞっとみるようだったよ。すべてがおやとは反対はんたいでな。先生せんせいおや小心しょうしん謹直きんちょく一方いっぽうひとで、高杉たかすぎしょう忠太ちゅうたといえば、真面目まじめなおとなしいひとかよっておったものだ。父母ちちはは教訓きょうくん家庭かてい修養しゅうようもあろうが、それ以外いがいああいうおとこまれたのは、てんぢゃノウ。それで高杉たかすぎは『からすしろくそ』で、長州ちょうしゅう評判ひょうばんになったものぢゃ」[25]
    • 一方いっぽう血気けっき旺盛おうせい国士こくし典型てんけいわば蓋世がいせい英雄えいゆうであるが、他方たほう風流韻事ふうりゅういんじこととする、すで世故せこけた老成ろうせいかぜがあった」[25]
    • 先生せんせいは、臨機応変りんきおうへん機智きち縦横じゅうおう如何いかなる困難こんなん遭遇そうぐうしても、つね綽々しゃくしゃくとして余裕よゆうある態度たいどもっけられたことは、何人なんにんといえども、くわだておよぶべからざるものがある。それを普通ふつう世間せけんでは、たん慷慨こうがい悲歌ひかひと憂国ゆうこく熱誠ねっせいぐらいにかんがえて、磊落らいらくごうのみをもっことたったように、その表面ひょうめんばかりをているものおおいようであるが、なかなかどうしてこのうらには、いて思慮しりょ分別ふんべつわずらわさずして、天才てんさいたぎ々として、随時ずいじ湧出ゆうしゅつしたことじつおどろくべきもので、その事業じぎょうあとると、よくその基礎きそかた根底こんていつくるという結果けっかを、自然しぜんげんわしている。しかして、その活動かつどうすにあたりては、縦横じゅうおう機智きちと、臨機りんき天才てんさいとを応用おうようせられたのであるから、何事なにごとあたってもまようことなく、おこなってげざるなしという次第しだいぢゃ。まず俗論ぞくろん紛々ふんぷんとして、帰着きちゃくするところをらざるはんろん一定いっていし、つづいて、あの猫額びょうがくだいまもって、天下てんか大軍たいぐん引受ひきうけ、なんよんさかいにこれをやぶり、つい薩長さっちょう連合れんごう素地そじつくって、維新いしん大業おおわざ基礎きそかためられたのである。じつにあんな短日月たんじつげつあいだに、あれだけの大事だいじげた。その神出鬼没しんしゅつきぼつはたらきは、唯々いい驚嘆きょうたんするのそとはないのぢゃ」[25]
    • 当時とうじよく我輩わがはい年少ねんしょうものむかってまねべと訓戒くんかいしだれられたものだ。おれわかとき撃剣げっけんをやるとき道具どうぐはずれをわざとったり、やり使つかときずねいたりしたものだが、そんなことでは駄目だめだ、どうしてもまなばねばいかんとしばしばはなされたが、充分じゅうぶん理解りかいすることが出来できなかった。ようや近年きんねんになって、あれは孔子こうしのいわゆる「寗武其智及其不可ふか及」ということおしえられたもので、年少ねんしょう客気かっきいましめられたものであろうとかんがえると、じつ今昔こんじゃくかんこたえぬ」
    • 「そのころ有志ゆうしはみな慷慨こうがい悲歌ひかぶんてんさちえびす澹宜じきというふうひとおおかったが、高杉たかすぎだけは一種いっしゅ超然ちょうぜんとしたところがあって、陣中じんちゅう茶器ちゃきってきて煎茶せんちゃをやってたり、ときには三味線しゃみせんたずさえてきていたりしたもので、いまからかんがえてるとみなそれぞれ深長しんちょう意味いみふくまれていたことがわかってなつかしい」[26]
  • 渡邊わたなべたかしぞうひさざか高杉たかすぎは、久坂くさかにはだれいてきたいが、高杉たかすぎにはどうにもならぬとみなほどに、高杉たかすぎ乱暴らんぼうなりやすきには人望じんぼうすくなく、久坂くさかほう人望じんぼうおおし」[27]
  • 奥村五百子おくむらいおこ 「(長州ちょうしゅう潜入せんにゅうしたさいに)男装だんそう自分じぶんおんなであると見破みやぶったものはただ高杉たかすぎ晋作しんさく一人ひとりあるのみである。高杉たかすぎはさすがにえらいところがあった」[29]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

著作ちょさくぶつ[編集へんしゅう]

  • ゆうきよろく高杉たかすぎ晋作しんさくちょ
  • ひがしぎょう先生せんせい遺文いぶん高杉たかすぎ晋作しんさくちょ)、 ひがしぎょう先生せんせいじゅうねんさい記念きねんかい編纂へんさん)、 みんともしゃ出版しゅっぱん

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

現代げんだい小説しょうせつ・ドラマ・漫画まんが・ゲームなど。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 高杉たかすぎ晋作しんさくMuseum 丸山まるやま料亭りょうてい花月かげつ 2020ねん12月11にち
  2. ^ a b 高杉たかすぎ晋作しんさくMuseum たかしぶくてら
  3. ^ a b 横山よこやま ひろしあきら文久ぶんきゅうねん幕府ばくふ派遣はけん千歳ちとせまる随員ずいいん中国ちゅうごくかん」『県立けんりつ長崎ながさきシーボルト大学だいがく国際こくさい情報じょうほう学部がくぶ紀要きようだい3ごう県立けんりつ長崎ながさきシーボルト大学だいがく、2002ねん12月、ISSN 1346-6372 
  4. ^ 関西大学かんさいだいがく あるもん WAKUMON 3上海しゃんはい新報しんぽう』に幕末ばくまつかんせんせんさいまる上海しゃんはい来航らいこう 松浦まつうらあきら 2002ねん No.4 page3-20
  5. ^ だてぐみ結成けっせい血盟けつめいしょ署名しょめいのある11めい
  6. ^ 渡辺わたなべ修二郎しゅうじろう高杉たかすぎ晋作しんさく』(少年しょうねんえん、1897)pp.54-55 古谷ふるやひさつなふじこうあまりかげ』(みんともしゃ、1910)pp.77-79
  7. ^ これは清国きよくに見聞けんぶん晋作しんさくが「領土りょうど期限きげん租借そしゃく」の意味いみするところ(植民しょくみん)をふか見抜みぬいていたからで、もしこの要求ようきゅうれていれば日本にっぽん歴史れきしおおきくわっていたであろうと伊藤いとう述懐じゅっかいしている。ただし講和こうわ当時とうじ記録きろくにこのエピソードはない。古川ふるかわかおる幕末ばくまつ長州ちょうしゅう攘夷じょうい戦争せんそう』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1996)pp.198-205 ISBN 4-12-101285-2
  8. ^ 金澤かなざわ裕之ひろゆき幕府ばくふ海軍かいぐん興亡こうぼう 幕末ばくまつにおける日本にっぽん海軍かいぐん建設けんせつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2017ねんISBN 978-4-7664-2421-8、181ページ
  9. ^ いちさか太郎たろう高杉たかすぎ晋作しんさく 情熱じょうねつ挑戦ちょうせん生涯しょうがい』(2014 角川かどかわソフィア文庫ぶんこ)p.240
  10. ^ 高杉たかすぎ晋作しんさく墓誌ぼし建立こんりゅう ひがしぎょうあん生前せいぜんたくした遺言ゆいごんきざむ”. 西日本にしにほん新聞しんぶん. (2016ねん7がつ20日はつか). http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_kitakyushu_keichiku/article/260030 2016ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん 
  11. ^ いちさか太郎たろうひがしぎょうあんだより』平成へいせいねんふゆごう
  12. ^ a b c 維新いしん夜話やわ田中たなかひかりあきら
  13. ^ 松陰しょういんとその門下もんか
  14. ^ 佐久間さくま象山ぞうさんへの書簡しょかん
  15. ^ a b c 高杉たかすぎ晋作しんさく 横山よこやま健堂けんどう ちょ 大正たいしょう5』
  16. ^ 頭山とうやまみつる英雄えいゆうかたる』
  17. ^ 伊藤いとうこう直話じきわ』P39近代きんだいデジタルライブラリー
  18. ^ 山県やまがた有朋ありとも こん世人せじんぶつ評伝ひょうでん叢書そうしょ だい1へん あかり29.9』
  19. ^ ひがしぎょう遺稿いこう
  20. ^ 海舟かいしゅう言行げんこうろく
  21. ^ 維新いしん夜話やわ』P423
  22. ^ うみ援隊ちょう坂本さかもと竜馬りょうま
  23. ^ 維新いしん風雲ふううんろく
  24. ^ 観樹みき将軍しょうぐん縦横じゅうおうだん近代きんだいデジタルライブラリー
  25. ^ a b c 観樹みき将軍しょうぐん豪快ごうかいろく近代きんだいデジタルライブラリー
  26. ^ 日本にっぽん日本人にっぽんじん』-大正たいしょうねんよんがつごう
  27. ^ 吉田よしだ松陰しょういん全集ぜんしゅう だい12かん
  28. ^ 逸話いつわ文庫ぶんこ 通俗つうぞく教育きょういく 志士ししまき近代きんだいデジタルライブラリー
  29. ^ 奥村五百子おくむらいおこ言行げんこうろく』P14近代きんだいデジタルライブラリー

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]