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山内やまうち容堂ようどう

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山内やまうちやまうち 容堂ようどうようどう / 山内やまうちやまうち 豊信とよしげとよしげ
土佐とさ藩主はんしゅ時代じだい山内やまうち豊信とよしげ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき幕末ばくまつ) - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい10ねん10月9にち1827ねん11月27にち
死没しぼつ 明治めいじ5ねん6月21にち1872ねん7がつ26にち)(44さいぼつ
改名かいめい てるまもる幼名ようみょう)→豊信とよしげしのぶどう容堂ようどう
別名べつめい くじらうみよいこう
墓所はかしょ 大井おおい公園こうえん
官位かんい したがえよん土佐とさまもる侍従じじゅうさんあずかしたがえよんじょうひだり近衛このえけん少将しょうしょう議定ぎてい内国ないこく事務じむ総裁そうさいしたがえけん中納言ちゅうなごん議事ぎじ体裁ていさい取調とりしらべかた総裁そうさい制度せいどりょう総裁そうさい学校がっこう知事ちじうえきょく議長ぎちょう麝香じゃこうあいだ祗候しこうせいおくしたがえいち
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち
はん 土佐とさはんあるじ
氏族しぞく 山内やまうち
父母ちちはは ちち山内やまうちゆたかちょ
ははだい平石ひらいし
養父ようふ山内やまうちゆたかあつし
兄弟きょうだい ゆうまれ伊賀いがしつ)、容堂ようどうゆたかみつる
つま 正室せいしつ三条さんじょう正子まさこ烏丸からすま光政みつまさおんな三条さんじょう実万さねつむ養女ようじょ
ゆたかいん光子こうし北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう)、八重子やえこ小松こまつみやじん親王しんのうのち秋元あきもときょうあさ継室けいしつ
養子ようしゆたかはん
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山内やまうち 容堂ようどう / 山内やまうち 豊信とよしげ豊茂とよしげ(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ[注釈ちゅうしゃく 1]文政ぶんせい10ねん10月9にち1827ねん11月27にち[2] - 明治めいじ5ねん6月21にち1872ねん7がつ26にち[2])は、幕末ばくまつ外様とざま大名だいみょう明治めいじ初期しょき華族かぞく土佐とさはん15だい藩主はんしゅ位階いかいしたがえいち[3]いみな豊信とよしげ[よう出典しゅってん]隠居いんきょごう容堂ようどう[4]土佐とさはん連枝れんしみなみてい山内やまうち当主とうしゅ山内やまうちゆたかちょ(12だい藩主はんしゅ山内やまうちゆたかおとうと)の長男ちょうなん[2]はは側室そくしつ平石ひらいしさけおんなあいし、みずからをこのんで「くじらうみよいこう(げいかいすいこう)」や「よいおきな」としょうした[5]藩政はんせい改革かいかく断行だんこうし、幕末ばくまつよんけんこう一人ひとりとして評価ひょうかされる一方いっぽうで、尊王そんのういえでありながら佐幕さばくでもあり、一見いっけん中途半端ちゅうとはんぱ態度たいどをとったことから、「えば勤皇きんのうめれば佐幕さばく」と揶揄やゆされることがあった[6]

経歴けいれき

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文政ぶんせい10ねん10がつ9にち(1827ねん11月27にち)に土佐とさはん分家ぶんけであったみなみ屋敷やしきみなみてい)に山内やまうちゆたかちょ潮江しおえむら石立いしたて下士かし平石ひらいしおんなだい)の長子ちょうしとしてまれる[7]幼名ようみょうてるまもる(てるえ)[8]てるまもる生家せいかであるみなみてい山内やまうち石高こくだか1500せき分家ぶんけで、連枝れんしいえなかでの序列じょれつ一番いちばんであった[よう出典しゅってん]通常つうじょう藩主はんしゅ江戸えど屋敷やしきまれそだつが、てるまもる分家ぶんけだしであったため高知こうちじょうしたまれそだった[よう出典しゅってん]ひろし3ねん3がつ7にちちちゆたかちょ隠居いんきょともない、てるまもるあらた豊信とよしげみなみ屋敷やしき家督かとくぎ、1500せき蔵米くらまいけるとなった[8]

藩主はんしゅ就任しゅうにん

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よしみなが元年がんねん(1848ねん)の7がつ江戸えどで13だい藩主はんしゅ山内やまうちゆたか死去しきょする[9]ゆたか熈には嗣子ししがなかったため、実弟じってい山内やまうちゆたかあつしあとぐが、9月18にち藩主はんしゅ在職ざいしょくわずか10日とおかあまりで急死きゅうしし、山内やまうち御家おいえ断絶だんぜつ(おつぶし)の危機ききひんした[9]ゆたかあつし後継こうけいとしてまず候補こうほげられたのは長男ちょうなんひろし三郎さぶろうであったが、病気びょうきのため擁立ようりつ見送みおくられることとなった[9]つぎ候補こうほげられたゆたかあつし実弟じっていゆたかはんの16だい藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはん)も、まだ3さい幼少ようしょうであったため擁立ようりつ見送みおくられ、最終さいしゅうてきに、みなみ屋敷やしき部屋住へやずみ生活せいかつおくっていたころから英名えいめいうわさされていた豊信とよしげが、後継こうけいしゃとして指名しめいされた[10]豊信とよしげ家督かとく相続そうぞくにおいて土佐とさはんゆたかあつし隠蔽いんぺい[注釈ちゅうしゃく 2]、まずゆたかあつし豊信とよしげやしなえ嗣にむかえるかたちをとり、そののちにゆたかあつし隠居いんきょと、豊信とよしげ相続そうぞく幕府ばくふもう[12]。この工作こうさくさいには、薩摩さつまはんあるじ島津しまつ斉彬なりあきら筑前ちくぜん福岡ふくおかはんあるじ黒田くろだひとし伊勢いせはんあるじ藤堂とうどうだか伊予いよ宇和島うわじまはんあるじ伊達だて宗城むねなり周旋しゅうせんがあった[11]。とくにゆたか熈のつまさとしきょういんこうひめ)の実兄じっけい薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきら当時とうじ幕府ばくふ実権じっけんにぎっていた老中ろうじゅう首座しゅざ阿部あべ正弘まさひろ親交しんこうがあり、幕府ばくふうら工作こうさく黙認もくにんした[13]こうひめ親族しんぞく関係かんけいしゃたちによる格別かくべつ推挙すいきょまくかくへのはたらきかけ、それにこたえた将軍家しょうぐんけ温情おんじょうによる藩主はんしゅ就任しゅうにんが、その容堂ようどう倒幕とうばくてき行動こうどう制限せいげんしたともわれる[14]よしみひさし元年がんねん1848ねん)12月27にち豊信とよしげ高知こうち出発しゅっぱつし、翌月よくげつ21にち江戸えど到着とうちゃくどう26にち家督かとく相続そうぞく幕府ばくふから許可きょかされた[11]翌年よくねん1がつ8にちにはゆたかはん豊信とよしげ養子ようしとし[注釈ちゅうしゃく 3]よしみなが3ねん9がつ11にち右大臣うだいじん三条さんじょう実万さねつむ養女ようじょせいひめ(なおひめ)と結婚けっこんした[16]同年どうねん豊信とよしげしたがえよん下土佐しもとさもりにんじられ、翌年よくねんには侍従じじゅう昇任しょうにんした[16]

藩主はんしゅ時代じだい

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藩主はんしゅ就任しゅうにん当時とうじ隠居いんきょしていたゆたか健在けんざいで、はん保守ほしゅてき重臣じゅうしんたちは豊信とよしげ日常にちじょうたいして監視かんしおこたらず、藩政はんせいにおいても豊信とよしげみずからが中心ちゅうしんとなって施策しさくおこなうことができない状況じょうきょうだった[17]。したがって、藩主はんしゅ就任しゅうにんからすうねんあいだ豊信とよしげおもどおりに行動こうどうできずにさけおぼれ、詩作しさくおもいをぶつける日々ひびおくった[17]

ペリーらいみなと

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よしみなが6ねん6がつ3にちにペリーが浦賀うらがみなとすると、幕府ばくふはペリーからった国書こくしょうつしを全国ぜんこくしょ大名だいみょう配布はいふし、対応たいおう意見いけんもとめた[18]当時とうじ高知こうちにいた豊信とよしげは、このらせをけてしろ重臣じゅうしん招集しょうしゅうし、意見いけんしょ作成さくせいをおこなった[19]。この意見いけんしょ起草きそうしたのは、当時とうじ学識がくしきにおいて評判ひょうばんたかかった吉田よしだ東洋とうようであった[18]作成さくせいされた意見いけんしょはこのとしの8がつ21にち江戸えどけて発送はっそうされ、10がつけで幕府ばくふ提出ていしゅつされた[18]

藩政はんせい改革かいかく

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幕府ばくふへの意見いけんしょ作成さくせい提出ていしゅつえると、豊信とよしげはじめて藩政はんせい改革かいかく[20]隠居いんきょしていたゆたか了解りょうかいて、よしみなが6ねん9がつ8にち藩政はんせい改革かいかくにおける意見いけん発表はっぴょうした[20]豊信とよしげ藩政はんせい改革かいかくすすめるにあたって、吉田東洋よしだとうよう小南こみなみ五郎左衛門ごろうざえもん起用きようする[21]東洋とうようよしみなが6ねん1853ねん)7がつ27にち土佐とさはん大目おおめづけにんじられ[22]、さらに同年どうねん11がつ28にちには「仕置しおきやく参政さんせいしょく)」ににんじられた[23]東洋とうよう海防かいぼう強化きょうか人材じんざい登用とうよう鉄砲てっぽう事業じぎょう奨励しょうれい洋式ようしき造船ぞうせん技術ぎじゅついん航海こうかいいん養成ようせいなど、藩政はんせい改革かいかくすすめた[24]よく安政あんせい元年がんねん1854ねん)6がつ東洋とうよう山内やまうち姻戚いんせきたる旗本はたもと松下まつした嘉兵衛かへえとのあいだにいさかいをおこし失脚しっきゃく謹慎きんしんとなった[よう出典しゅってん]。しかし3ねん安政あんせい4ねん1857ねん)、東洋とうようさい登用とうようされ、東洋とうようのちはん参政さんせいとなる後藤ごとう象二しょうじろう福岡ふくおか孝弟こうていらを起用きようした[よう出典しゅってん]一方いっぽう小南こみなみ五郎左衛門ごろうざえもんは、小浜酒井おばまさかいの儒臣山口やまぐち菅山すがやままなもちくすのきのきながれを尊王そんのうであった[23]よしみなが6ねん10がつ20日はつか豊信とよしげがわ用役ようえき抜擢ばってきされ、その豊信とよしげ度々どど諫言するなど、補佐ほさとしてつかえた[23]

将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだい安政あんせい大獄たいごく

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山内やまうち豊信とよしげ

豊信とよしげ福井ふくいはんおも松平まつだいら慶永よしなが宇和島うわじまはんおも伊達だて宗城むねなり薩摩さつまはんおも島津しまつ斉彬なりあきらとも交流こうりゅう幕末ばくまつよんけんこうしょうされた。かれらは幕政ばくせいにも積極せっきょくてきくちはさみ、老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ幕政ばくせい改革かいかくうったえた。阿部あべ正弘まさひろ死去しきょ大老たいろういた井伊いい直弼なおすけ将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいこうから対立たいりつした。13だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ病弱びょうじゃく嗣子ししかったため、豊信とよしげほかよんけんこう水戸みとはんおも徳川とくがわ斉昭なりあきらは次期じき将軍しょうぐん一橋ひとつばし慶喜よしのぶしていた。一方いっぽう井伊いい紀州きしゅうはんおも徳川とくがわ慶福よしとみした。井伊いい大老たいろう地位ちい利用りようし、政敵せいてき排除はいじょした。いわゆる安政あんせい大獄たいごくである。結局けっきょく慶福けいふくが14だい将軍しょうぐん家茂いえもちとなることにまった。豊信とよしげはこれに憤慨ふんがいし、安政あんせい6ねん1859ねん)2がつ隠居いんきょねがいを幕府ばくふ提出ていしゅつした。このとしの10がつには斉昭なりあき慶永よしなが宗城むねなりらととも幕府ばくふより謹慎きんしんいのちくだった。

隠居いんきょから大政奉還たいせいほうかん

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豊信とよしげぜん藩主はんしゅおとうとゆたかはん藩主はんしゅゆずり、隠居いんきょとなった当初とうしょしのぶどうごうしたが、のち容堂ようどうあらためた。容堂ようどうは、思想しそうよんけんこう共通きょうつうする公武こうぶ合体がったいであり、単純たんじゅんではなかった。はんない勤皇きんのう志士しし弾圧だんあつする一方いっぽう朝廷ちょうていにも奉仕ほうしし、また幕府ばくふにもかれという行動こうどうった。このため幕末ばくまつ政局せいきょく混乱こんらんをもたらし、世間せけんでは「えば勤皇きんのうめれば佐幕さばく」と揶揄やゆされ、のち政敵せいてきとなる西郷さいごう隆盛たかもりから「単純たんじゅん佐幕さばくのほうがはるかに始末しまつがいい」とまでわしめる結果けっかとなった[よう出典しゅってん]

謹慎きんしんちゅう土佐とさはんでは政変せいへんこった。桜田さくらだ門外もんがいへん以降いこう全国ぜんこくてき尊王そんのう攘夷じょうい主流しゅりゅうとなった。土佐とさはんでも武市たけいちみずほさん首領しゅりょうとする土佐とさ勤王きんのうとう台頭たいとうし、容堂ようどう股肱ここうしんである公武こうぶ合体がったい吉田東洋よしだとうよう対立たいりつつい文久ぶんきゅう2ねん4がつ8にち1862ねん5月6にち東洋とうよう暗殺あんさつするにいたった。そのみずやま門閥もんばつ家老がろうらとむす藩政はんせい掌握しょうあくした。

文久ぶんきゅう3ねん8がつ18にち1863ねん9月30にち)、京都きょうと会津あいづはん薩摩さつまはんによる長州ちょうしゅうはんとしのための朝廷ちょうてい軍事ぐんじクーデター(はちがつじゅうはちにち政変せいへん)が強行きょうこうされ、長州ちょうしゅうがわ一触即発いっしょくそくはつ事態じたい回避かいひしたため、これ以後いごしばらく佐幕さばくによる粛清しゅくせい猛威もうい復活ふっかつした。容堂ようどう謹慎きんしんかれ、土佐とさ帰国きこくし、藩政はんせい掌握しょうあくした。以後いご隠居いんきょながら藩政はんせい影響えいきょうあたつづけた。容堂ようどうは、まず東洋とうよう暗殺あんさつした政敵せいてき土佐とさ勤王きんのうとうだい弾圧だんあつし、党員とういんかたぱしから捕縛ほばく投獄とうごくした。首領しゅりょうみずやま切腹せっぷくめいじられ、党員とういん死罪しざいなどにしょせられ、のがれることのできた党員とういん脱藩だっぱんし、土佐とさ勤王きんのうとう壊滅かいめつさせられた。同年どうねんまつ容堂ようどう上京じょうきょうし、朝廷ちょうていからさんあずかにんぜられ、国政こくせい諮問しもん機関きかんであるさんあずか会議かいぎ参加さんかするが、容堂ようどう自身じしんやまいしょうして欠席けっせきおおく、短期間たんきかん崩壊ほうかいした。

東洋とうよう暗殺あんさつ直前ちょくぜん脱藩だっぱんしていた土佐とさ志士ししたち(坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろう土方ひじかた久元ひさもと)の仲介ちゅうかいによって、慶応けいおう2ねん1866ねん)1がつ22にち薩長さっちょう同盟どうめい成立せいりつした。これによって時代じだい明治維新めいじいしんへとおおきくうごした。

「薩土討幕とうばく密約みつやくねん
密約みつやく締結ていけつされるぜん段階だんかいとして京都きょうときんやすろう」で会見かいけんがもたれたことを記念きねんする石碑せきひ
京都きょうと東山ひがしやま祇園ぎおん

慶応けいおう3ねん1867ねん)5がつ薩摩さつまはん主導しゅどう設置せっちされたよんこう会議かいぎ参加さんかするが、幕府ばくふ権力けんりょく削減さくげんはか薩摩さつまはん主導しゅどうきらい、欠席けっせきつづける。結局けっきょくこの会議かいぎ短期間たんきかん崩壊ほうかいした。しかしどう5がつ21にちには、薩摩さつま藩士はんし小松こまつ帯刀たてわき京都きょうとていにおいて、中岡なかおか慎太郎しんたろう仲介ちゅうかいにより土佐とさはんいぬい退助たいすけたに干城かんじょうと、薩摩さつまはん西郷さいごう隆盛たかもり吉井よしい友実ともみらが武力ぶりょく討幕とうばくして、薩土密約みつやく締結ていけつよく22にちいぬいによって密約みつやく内容ないよう報告ほうこくされ、容堂ようどう大坂おおさかでアルミニーじゅう300てい購入こうにゅう許可きょかした。その容堂ようどういぬいともなって、6がつ初旬しょじゅん土佐とさ帰国きこく

ところが、容堂ようどういぬいちがいに上洛じょうらくした、坂本さかもと龍馬りょうま後藤ごとう象二しょうじろうらは、薩土密約みつやく締結ていけつからやく1かげつにあたる6がつ22にち京都きょうと料亭りょうていにて、大久保おおくぼ利通としみち西郷さいごう隆盛たかもり土佐とさはん後藤ごとう福岡ふくおか孝弟こうてい寺村てらむらひだりぜん真辺まなべ栄三郎えいさぶろうして、武力ぶりょく討幕とうばくではなく大政奉還たいせいほうかんによる王政おうせい復古ふっこ目標もくひょうかか薩土盟約めいやく締結ていけつした。この薩土盟約めいやくやく2かげつはん早々そうそう瓦解がかいし、いぬい西郷さいごうむすんだ薩土密約みつやく次第しだい重視じゅうしせられ、土佐とさはん全体ぜんたい徐々じょじょ討幕とうばく路線ろせん近付ちかづいていくことになる。

容堂ようどう自身じしん藩主はんしゅにまでげてくれた幕府ばくふ恩義おんぎかんじて擁護ようごつづけたが、倒幕とうばくへとかたむいた時代じだいめることは出来できなかった。幕府ばくふ委託いたくされている政権せいけん朝廷ちょうてい返還へんかんするあん坂本さかもとよりいていた後藤ごとうは、これらを自分じぶんあんとして容堂ようどう進言しんげんした[よう出典しゅってん]容堂ようどうはこれを妙案みょうあんかんがえ、老中ろうじゅう板倉いたくらかつしずらをとおして15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ建白けんぱくした。

慶喜よしのぶは「日本にっぽんこくため徳川とくがわ家康いえやすひらいた幕府ばくふを、日本にっぽんこくため自分じぶんほうむ覚悟かくご」で慶応けいおう2(1866)ねん12月5にち将軍しょうぐんしょく拝命はいめい[注釈ちゅうしゃく 4]よく慶応けいおう3ねん10月14にち1867ねん11月9にち朝廷ちょうてい政権せいけん返還へんかんした。

しょう御所ごしょ会議かいぎ

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しかし、その明治めいじ政府せいふ樹立じゅりつまでのうごきは、終始しゅうし薩摩さつま長州ちょうしゅうぜい主導しゅどうけんにぎられた。同年どうねん12月9にち1868ねん1がつ3にちひらかれたしょう御所ごしょ会議かいぎいて、薩摩さつま尾張おわり越前えちぜんげいしゅうかくはん代表だいひょうあつまり、容堂ようどう泥酔でいすい状態じょうたいながら遅参ちさんして[よう出典しゅってん]会議かいぎ参加さんかした。豊信とよしげ幕府ばくふ将軍しょうぐんがわって意見いけんしたものの、会議かいぎ岩倉いわくらせつまり、徳川とくがわ慶喜よしのぶたいしてかん納地のうちめいずることが決定けっていした[25]。その有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう明治天皇めいじてんのう許可きょかった[注釈ちゅうしゃく 5][26]

鳥羽とば伏見ふしみたたか

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慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ3にちきゅう幕府ばくふがわ発砲はっぽう鳥羽とば伏見ふしみたたか勃発ぼっぱつすると、容堂ようどう自分じぶん土佐とさはんへいやく100めい上京じょうきょうさせたにもかかわらず、はんへいにはこれにくわわるなと厳命げんめいした[よう出典しゅってん]。しかし、在京ざいきょう土佐とさはんへいらは、容堂ようどう制止せいしり、薩土密約みつやくもとづいて自発じはつてき官軍かんぐんがわいて戦闘せんとう参加さんかした[よう出典しゅってん]どう1がつ7にち西郷さいごうから「討幕とうばく合戦かっせんちかし」という密書みっしょり、さらに開戦かいせんしたことを土佐とさ在国ざいこくちゅうたに干城かんじょうから報告ほうこくけたいぬい退助たいすけは、薩土密約みつやくもとづいて迅衝たいひきいて上洛じょうらくした[よう出典しゅってん]容堂ようどうは、京都きょうと進発しんぱつする前夜ぜんやの2がつ13にち東山ひがしやまどう出発しゅっぱつするいぬいひきいる土佐とさ迅衝たいに、さむいので自愛じあいするよう言葉ことばあたえた[よう出典しゅってん]

維新いしん

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明治めいじ初期しょき山内やまうち容堂ようどう
墓所はかしょ東京とうきょう品川しながわ東大井ひがしおおい

明治維新めいじいしんこう名誉めいよしょく内国ないこく事務じむ総裁そうさいいたが、旧幕きゅうばく家臣かしん領民りょうみんだったような身分みぶんもの馴染なじむことができず、明治めいじ2ねん(1869ねん)に辞職じしょくした[よう出典しゅってん]。しかし木戸きど孝允たかよしとはなかく、自邸じていまねいてはしん政府せいふ将来しょうらいなどについてかたったという[よう出典しゅってん]本邸ほんていあらたに東京とうきょう箱崎はこざきもと田安たやす徳川とくがわ別邸べってい買収ばいしゅうして居住きょじゅうした[よう出典しゅってん]隠居いんきょ生活せいかつ当時とうじ別荘べっそうとしてられた橋場はしばげん東京とうきょう台東たいとう)の別邸べってい綾瀬あやせ草堂そうどう)で、わらわじゅうすうにんかこい、さけおんな作詩さくしれる豪奢ごうしゃ晩年ばんねんおくった[よう出典しゅってん]。また、両国りょうこく柳橋やなぎはしなどの酒楼しゅろうにて連日れんじつ豪遊ごうゆうし、ついに家産かさんかたむきかけたものの、容堂ようどうは「むかしから大名だいみょう倒産とうさんしたれいしがない。おれ先鞭せんべんをつけてやろう」と豪語ごうごし、家令かれいいさめをかなかったという[よう出典しゅってん]。また、武市たけいちみずほやまころしてしまったために土佐とさはんない薩長さっちょう対抗たいこうできる人物じんぶついてしん政府せいふ実権じっけんうばわれたとかんがえ、これをやんだともいう[よう出典しゅってん]板垣いたがき退助たいすけは「維新いしん前後ぜんこう経歴けいれきだん」のなか容堂ようどうについて、「維新いしん不平ふへいからさけ芸者げいしゃわらわにしたが、本来ほんらいつつしふかひとだった」と晩年ばんねん様子ようすしんだ発言はつげんをしている[27]容堂ようどうさけのために身体しんたいこわし、明治めいじ5ねん(1872ねん正月しょうがつ中風ちゅうぶのう血管けっかん障害しょうがい)の発作ほっさこしてひだり半身不随はんしんふずい言語げんご不明瞭ふめいりょうとなった。その、ドイツじん医師いしホフマンエレキテル療法りょうほう一時いちじ回復かいふくするも、同年どうねん6がつ発作ほっさ再発さいはつして昏倒こんとうし、46さいかぞどし)の生涯しょうがいじた[27]墓所はかしょ土佐とさはん下屋敷しもやしきがあった大井おおい公園こうえん品川しながわ東大井ひがしおおいよん丁目ちょうめ)にある[28]

しょう御所ごしょ会議かいぎでの豊信とよしげ

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しょう御所ごしょ会議かいぎで、豊信とよしげ岩倉いわくらなどとはげしい議論ぎろんわした。

会議かいぎ冒頭ぼうとう中山なかやま忠能ただやすが、「大政奉還たいせいほうかんさいいちてん無私むし公平こうへいもって、はじめに王政おうせい基本きほんさだめるおおやけくすべき」むね発言はつげん[注釈ちゅうしゃく 6][注釈ちゅうしゃく 7]公卿くぎょうなかに「うち慶喜よしのぶ)は政権せいけん返上へんじょうしたがそれをおこなった目的もくてき正邪せいじゃべんがたいため、実績じっせき罪科つみとがとがめるべきだ」との意見いけんがみられると[注釈ちゅうしゃく 6][注釈ちゅうしゃく 8]容堂ようどう大声おおごえはっして議論ぎろんをはじめ[29]自分じぶん自身じしん直接ちょくせつ会議かいぎ参加さんかしてみとめていた王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいを、それまでの自分じぶん持論じろんであった列侯れっこう会議かいぎ路線ろせん、すなわち徳川とくがわ宗家そうけ温存おんぞん路線ろせん根本こんぽんてきはんするがゆえに、[独自どくじ研究けんきゅう?]すみやかに徳川とくがわ慶喜よしのぶ朝議ちょうぎ参与さんよさせるべきだ」と主張しゅちょうした[注釈ちゅうしゃく 9]大原おおはら重徳しげのりに「うち慶喜よしのぶ)が大政奉還たいせいほうかんしたのは忠誠ちゅうせいから行動こうどうかどうからないため、しばらく朝議ちょうぎ参与さんよさせないほうがよい」と反論はんろんされると、容堂ようどう抗弁こうべんし、「今日きょうの(会議かいぎ参加さんかしゃの)挙動きょどうはすこぶる陰険いんけんなところがおおいだけでなく、凶器きょうきをもてあそび、しょはん武装ぶそうした兵隊へいたい議場ぎじょうまもらせ、わざわざ厳戒げんかい態勢たいせいくにいたってはその陰険いんけんさがもっとはなはだしく、つまびらかに理由りゆうからない。王政おうせい復古ふっこはじめにあたっては、よく公平こうへい無私むししん何事なにごと措置そちされるべきで、さもなければ天下てんかしゅうしん帰服きふくさせることはできないであろう。元和がんわ偃武から300ねんちかくも天下てんか泰平たいへいひらいたのは徳川とくがわではないか。それなのに、あるあさになったら突然とつぜん理由りゆうもなくそのおおきな功績こうせきある徳川とくがわ排斥はいせきするとは何事なにごとなのか。恩知おんしらずではないか。いまうち慶喜よしのぶ)が祖先そせんから継承けいしょうした覇権はけんげうって、大政奉還たいせいほうかんしたのは政令せいれい一途いっとだからで、金甌無欠きんおうむけつ国体こくたい永久えいきゅう維持いじしようとしたものであり、その忠誠ちゅうせいはまことに感嘆かんたんするのをこらえがたい。しかもうち慶喜よしのぶ)の英明えいめいすで天下てんかこえている。すみやかにかれ朝議ちょうぎ参与さんよさせ、意見いけん開陳かいちんさせるべきである。しかるに、2、3の公卿くぎょうはどんな意見いけんをもってこんな陰険いんけん暴挙ぼうきょをするのか。すこぶる理解りかいしがたい。おそらくはおさな天皇てんのうをだきかかえ[注釈ちゅうしゃく 10]権勢けんせいぬすもうとほっする意図いとがあるのではないか。まことに天下てんか戦乱せんらんきざしをつくるものである」と、一座いちざ睥睨へいげいし、意気軒高いきけんこういろして主張しゅちょうした[注釈ちゅうしゃく 11][注釈ちゅうしゃく 12][注釈ちゅうしゃく 13]また容堂ようどうは、岩倉いわくら大久保おおくぼ慶喜よしのぶたいしてかん納地のうち主張しゅちょうしたことについては、薩摩さつま土佐とさしゅうげいしゅう土地とちをそのまま保有ほゆうしておきながら、なぜ徳川とくがわはじめたいしてだけは土地とち返納へんのうさせねばならないのかと徳川とくがわ宗家そうけ擁護ようごおこない、さきほど天皇てんのう中心ちゅうしんとするおおやけ政体せいたい政府せいふ会議かいぎ主張しゅちょうしたことにたいして、徳川とくがわ中心ちゅうしんとする列侯れっこう会議かいぎ政府せいふ要求ようきゅうした[よう出典しゅってん]松平まつだいらはるだけも「王政おうせい施行しこうのはじめに、けいりつって道徳どうとくてるのははなは不可ふかである。徳川とくがわは200ねん太平たいへいひらいた。その功績こうせき今日きょうつみつぐなうにる。よく容堂ようどう言葉ことばれるべきだ」と、容堂ようどうともだい論陣ろんじんった[30][31][注釈ちゅうしゃく 14]。なお、岩倉いわくら具視ともみがわ記述きじゅつである多田ただこうあいだへん岩倉いわくらこう実記じっき』では、そのさい岩倉いわくら容堂ようどうしかって「これは御前ごぜん会議かいぎである。容堂ようどうきょうはまさに粛慎すべきである。聖上せいじょう明治天皇めいじてんのう)は不世出ふせいしゅつえいざいにして、大政たいせい維新いしんだい事業じぎょうげられた。今日きょう挙動きょどうはことごとく陛下へいか判断はんだんたものである。みだりに『おさな天皇てんのうをだきかかえ、権勢けんせいぬすもうとする』などとうのは、無礼ぶれいはなはだしいものではないか」といい、容堂ようどうはおそれて失言しつげんつみあやまった、とされている[注釈ちゅうしゃく 15]ものの、高橋たかはし秀直ひでなお幕末ばくまつ維新いしん政治せいじ天皇てんのう』(2007ねん)では、いち史料しりょうなどに共通きょうつうしてられないこの逸話いつわは、から岩倉いわくらがわによって挿入そうにゅうされた虚構きょこうつくばなしとする[注釈ちゅうしゃく 16][32]。なおいち史料しりょうである『ちょうしげる日記にっき』では、さき大久保おおくぼ利通としみちせきすすんで「幕府ばくふ近年きんねんただしいみちそむいたのは重罪じゅうざいであるのみならず、このたびのうち慶喜よしのぶ)の処置しょちについてその正否せいひうに、無理むり尾張おわりこう徳川とくがわ慶勝よしかつ)、越前えちぜんこう松平まつだいらはるだけ)、土佐とさこう容堂ようどう)のてたせつをうのみにすべきではない。事実じじつをみるにしたことはない。まずうち慶喜よしのぶ)の官位かんいをけなし、所領しょりょう朝廷ちょうていおさめるようめいじて(かん納地のうち)、わずかなりとも不平ふへい声色こわいろがなく真実しんじつをみることができれば、すみやかに参内さんだいめい会議かいぎ参加さんかさせればよい。もしこれとちがって、いちてんでも要求ようきゅうれをこばんだりふせいだりする気色けしきがあれば(大政奉還たいせいほうかんは)いつわりなので、実際じっさい官位かんいをけなし領地りょうちけずり、うち慶喜よしのぶ)のつみ責任せきにん天下てんかしめすべきである」といい、岩倉いわくら大久保おおくぼせつ追従ついしょうしてまわりにも採用さいようするようしきりにすすめ「(慶喜よしのぶの)正邪せいじゃ見分みわけるに、空論くうろん分析ぶんせきするより、実績じっせきるべきである」と弁論べんろんめ、容保かたもりはるだけらと対立たいりつたがいに正論せいろんしんじる主張しゅちょうをして決着けっちゃくしなかった、とされている[注釈ちゅうしゃく 17]。こうして会議かいぎ容堂ようどうらの堅固けんご論陣ろんじんのもと一旦いったん休会きゅうかいすることになった。会議かいぎ出席しゅっせきしゃであるげいしゅう藩主はんしゅ浅野あさのちょういさお浅野あさのちょうくん自叙伝じじょでん』(1937ねん)によれば、休憩きゅうけいちゅうに、会議かいぎ参加さんかせず警戒けいかいしょぐん指揮しきいていた西郷さいごう隆盛たかもりは、薩摩さつまはんもの会議かいぎ真情しんじょうくと、おどろ気配けはいもなく「短刀たんとう一本いっぽんあればへんく」と、けんしめした[注釈ちゅうしゃく 18]。この西郷さいごう言葉ことばくと退しりぞいて休憩きゅうけいしつはいった岩倉いわくら[33]、「容堂ようどうがなおかた同様どうよう論陣ろんじんるつもりなら、わたし非常ひじょう手段しゅだん使つかってこといち呼吸こきゅうあいだけっするだけだ」としんした[注釈ちゅうしゃく 5]岩倉いわくら浅野あさの一室いっしつさそって「薩土(薩摩さつまはん土佐とさはん)のあいだ議論ぎろんおおいに衝突しょうとつしている。これによってつい維新いしん事業じぎょう水泡すいほうかえるだろう」とふか憂慮ゆうりょするむね発言はつげんをし、浅野あさのへ(容堂ようどう部下ぶかである)後藤ごとうぞう次郎じろう説得せっとくせよ、と依頼いらいした[注釈ちゅうしゃく 19]。そこで浅野あさの岩倉いわくらへ「わたしは(岩倉いわくらきょうろん事理じり当然とうぜんとする。いま、(自分じぶん部下ぶかの)つじ維岳めいじて後藤ごとう説得せっとくさせ、(岩倉いわくらきょうろんしたがわせようとはかっている。後藤ごとうがもしうなずかなければ、わたしくまで容堂ようどう抗弁こうべんしてやめないであろう」といった[注釈ちゅうしゃく 5][34]はん重臣じゅうしん休憩きゅうけいしつ後藤ごとう大久保おおくぼ利通としみち容堂ようどう主張しゅちょうしたがわせようとするものの、すでおな休憩きゅうけいしつにいたつじ岩倉いわくらろん抗弁こうべんすること不利ふりだと後藤ごとう遠回とおまわしにさとしていたために、大久保おおくぼはききいれなかった[注釈ちゅうしゃく 5]。それまで主君しゅくんである容堂ようどうせつし、陰険いんけんはいして公正こうせいるよう一同いちどうさとしてやまなかった後藤ごとうだったが[注釈ちゅうしゃく 20][35]こと趨勢すうせいおおいにさとったところがあり、容堂ようどうはるだけをみて「さきほど(容堂ようどうはるだけらの)主張しゅちょうされた立派りっぱ議論ぎろんは、さもうち慶喜よしのぶおおやけがいつわりのはかりごとをおちになっていることり、それをかくそうとしているかのごとく(会議かいぎ参加さんかしゃらに)嫌疑けんぎされている。ねがいわくばもう一度いちどかんがなおされんことを」といった[注釈ちゅうしゃく 5]明治天皇めいじてんのうすでせきき、親王しんのうしょしんふたたあつまり会議かいぎつづけようとした。ここで容堂ようどうしんれ、えてふたたび、論戦ろんせんしようとはしなかった[注釈ちゅうしゃく 5]

官職かんしょくおよび位階いかいなどの履歴りれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • よしみひさし元年がんねん1848ねん)12月27にち藩主はんしゅとなる。
  • よしみなが2ねん1849ねん)、兵庫ひょうごすけしょうする。
  • よしみなが3ねん1850ねん)12月16にちしたがえよん土佐とさまもる叙任じょにん
  • よしみなが5ねん1852ねん)12月16にち侍従じじゅう兼任けんにん
  • 元治もとはる元年がんねん1864ねん)4がつ18にちしたがえよんじょう昇叙しょうじょし、ひだり近衛このえけん少将しょうしょう転任てんにん土佐とさまもる如元。
  • 慶応けいおう3ねん1867ねん)12月9にち維新いしん政府せいふ以下いか政府せいふ」とする)議定ぎてい就任しゅうにん
  • 慶応けいおう4ねん1868ねん
    • 1がつ14にち内国ないこく事務じむ総裁そうさい兼任けんにん
    • 1がつ21にち内国ないこく事務じむ総裁そうさい依願いがん免職めんしょく
    • うるう4がつ21にち議定ぎてい解任かいにん
    • 6月3にちしたがえけん中納言ちゅうなごん昇叙しょうじょ転任てんにんし、せい府議ふぎ政官せいかんうえきょくたる議定ぎてい就任しゅうにん
    • 改元かいげんして明治めいじ元年がんねん9がつ19にち議事ぎじ体裁ていさい取調とりしらべかた総裁そうさい兼任けんにん
    • 12月13にち学校がっこう知事ちじ兼任けんにん。  
  • 明治めいじ2ねん1869ねん
    • 4がつ17にち制度せいどりょう総裁そうさい兼任けんにん議事ぎじ体裁ていさい取調とりしらべかた総裁そうさいむ。
    • 4がつ20日はつか学校がっこう知事ちじ辞任じにん
    • 5月7にち制度せいどりょう総裁そうさい解任かいにんし、うえきょく議長ぎちょう就任しゅうにん
    • 5月15にち議定ぎてい辞任じにんともなうえきょく議長ぎちょうむ。
    • 5月17にち学校がっこう知事ちじ就任しゅうにん
    • 7がつ9にち学校がっこう知事ちじ依願いがん退職たいしょくし、麝香じゃこうあいだ祗候しこうとなる。
    • 9月26にちせい昇叙しょうじょ。  
  • 明治めいじ5ねん1872ねん

人物じんぶつ

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  • 26さいにして門閥もんばつ旧臣きゅうしんによる政治せいじ体制たいせいうれい、吉田東洋よしだとうよう見出みいだして「参政さんせいしょく」にき、家老がろうらの反発はんぱつをさえぎって、西洋せいよう軍備ぐんび採用さいよう海防かいぼう強化きょうか財政ざいせい改革かいかく藩士はんし長崎ながさき遊学ゆうがく身分みぶん制度せいど改革かいかく文武ぶんぶかん設立せつりつによる学問がくもん奨励しょうれいなどの藩政はんせい改革かいかく断行だんこうした。しかし、みずからを「くじらかいよいこう」としょうすなど世捨よすびとのようなところがあって、さけかさずんでじょうはいっての意見いけん変化へんかおお[よう出典しゅってん]
  • 武芸ぶげいひいでて、軍学ぐんがく北条ほうじょうりゅう弓術きゅうじゅつ吉田よしだりゅう馬術ばじゅつ大坪おおつぼりゅう槍術そうじゅつ以心りゅう剣術けんじゅつそとりゅう居合いあいじゅつは14さい長谷川はせがわりゅうまなび18さい目録もくろくた。とく居合いあい腕前うでまえすさまじく、板垣いたがき退助たいすけに「ななにちななあいだやすみなしの稽古けいこつづけた。すうにん家来けらいがこれに参加さんかしたものだが、あまりのれつ(はげ)しさにみなたおれて、最後さいごまでおおやけのお相手あいてをしたものは、わずかにんか、さんにんにすぎなかった」(史談しだんかい速記そっきろく)といわしめている。
  • 漢詩かんし箕浦みのうら万次郎まんじろう文章ぶんしょう松岡まつおかあつしのきまなんだ。
  • 豊信とよしげ自分じぶんいましめるために「しのぶどう」というがく部屋へやかざっていたが、勉強べんきょう熱心ねっしん維新いしん面々めんめんなどと交流こうりゅうすることがおおく、あるとき水戸みと代表だいひょうてき学者がくしゃ藤田ふじた東湖とうこがこのがくをみて、「指導しどうしゃは、ただしのぶだけではいけません。おおくのしゅう意見いけんよう(い)れることが大切たいせつでしょう。それこそ人君じんくんとくもうせましょう」という言葉ことばに、ふか同意どういし、「容堂ようどう」とあらためた。
  • 山内やまうちゆたかはん毛利もうりたかしおや養女ようじょ結婚けっこんしていたために、長州ちょうしゅうはん関係かんけいしゃとはがあった。このために周布すふ政之助まさのすけから暴言ぼうげんかれたこともあった。
  • 豊信とよしげ自身じしん隠居いんきょ部屋へや欄間らんまに「よいよう美人びじんろう」というがくへんかかげていたが、大名だいみょうあいだではかなり評判ひょうばんで、毛利もうりたかしおやかんする記録きろくなみだあまりしゅう」や松平まつだいら慶永よしながの「逸事いつじ」でこのがくへんれている。ちなみに毛利もうりたかしおやはこのがくへんはなしをした近侍きんじたいして「24まんせき大名だいみょうなのだから美酒びしゅでも佳人かじんでもきなだけられるではないか。そういう身分みぶんにありながら、あえてこのがくへんかかげているのはみずか豪傑ごうけつをよそおうものだ」と微笑びしょうしてったという(はぎだいいちかん)。
  • 英国えいこく外交がいこうかんミットフォードは、「容堂ようどうおおやけじゅうねんばかりまえ英国えいこく政治せいじて、放縦ほうしょう道楽者どうらくものであった」と回顧かいころくしるしている[36]

系譜けいふ

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評価ひょうか

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  • かつ海舟かいしゅう土佐とさ山内やまうち容堂ようどうおおやけは、天資てんし豪宕ごうとうしん英雄えいゆうそなえておられた。平生へいぜい議論ぎろんも、ひと意表いひょうることがおおかったが、それのみならず、おおやけぶんしょなどの余技よぎにさえたくみであって、老儒ろうじゅきょこうもなかなかおよばなかったということだ」[37]
  • 板垣いたがき退助たいすけ容堂ようどうすべてが非凡ひぼんでありました。小節しょうせつにはかかわはらない英雄えいゆう豪傑ごうけつしつであつて、どうもねやぼうおさまらないとかなにとかうんふやうなことを、ひとげんひまするが、さうでない、まこと(まこと)に其辺のつつしみのあつたひとでありまして、マア一般いっぱん子孫しそん大事だいじにするより、わらわくとうんふことは、日本にっぽんふうでありましたが、わらわかぬものにはけたなどといふことは、けっしてひとで、まことにそれも厳重げんじゅうひとでありました、ただ御一新ごいっしんになつてから不平ふへいから、さけみまして、つい芸者げいしゃなどをわらわにしてつたこともありますから、からひとは、どうもねやぼうおさまらないひとであつたかのごとげんひまするが、そのけっしてさうではありませぬ。まことじょうふかひとでありまして、そのいちれいきょぐれば、木戸きどくん容堂ようどううに、『貴所きしょ吉田よしだ元吉もとよしというものをおもちいになった様子ようすであるが、あれは勤王きんのう攘夷じょういろんひとであって、どうも奸物かんぶつである』。そう木戸きどくんわれたら、『それはあやしからぬことうけたまわる。吉田よしだ元吉もとよしというものはそんなものではない。斯斯のものである。土佐とさ行政ぎょうせい経済けいざい改革かいかくしたのはまったかれちからである』とはなしをした。おり木戸きどくんが『どうもああきみつかえてれば、じつ愉快ゆかいである。感心かんしんなものだ。今日きょうだれ弁護べんごしないところを、それを弁護べんごして、あれはわたしあいしたものであるというおはなしをせられたが、どうもああじょうあつひとつかえてれば、さぞ愉快ゆかいであろう』。こういうことを木戸きどくんわれたことがある。そういうわけであって、小姓こしょうなどが、脇差わきざしいて這入はいいらねばならぬところを、ついわすれてるというようなことがあると、コレコレとってこしたたいてせるというようなわけで、まこと小姓こしょうなどをしかるということは、滅多めったいくらいのひとでありました」[38]
  • 大隈おおくま重信しげのぶ
    • 我儘わがままをしてだいさけみ、芸者げいしゃんでさわぐという乱暴らんぼうしゃさき土佐とさ容堂ようどうこうくらいのものであったろう。しかし闊達かったつな、大名だいみょうちゅうではさき人物じんぶつであった」[39]
    • 身体しんたいひだりまでおおきくもいけれども、美丈夫びじょうふといったら容堂ようどうおおやけだったろう。性質せいしつ善良ぜんりょうひとだったけれど、豪放ごうほうで、さけつくり、低唱ていしょう淺酌せんしゃく風流ふうりゅうをもかいしてられた。言語げんご態度たいどはすこぶる傲慢ごうまんで、我儘わがまましゃだったよ」[40]
  • 三浦みうら梧楼ごろう山内やまうち容堂ようどうひとは、磊落らいらく豪宕ごうとう気象きしょうで、随分ずいぶん乱暴らんぼうことれば、乱暴らんぼうことひとである。明治めいじよんねんじゅうがつ岩倉いわくらこう木戸きどなどの洋行ようこうするとき両国りょうこく中村なかむらろうで、送別そうべつかいひらき、容堂ようどうき、蜂須賀はちすかしげるも往ったのだ。蜂須賀はちすかなにしきりに喋々ちょうちょうしゃべってると、容堂ようどう突然とつぜん、『盗賊とうぞく子孫しそんくせに、生意気なまいきなことをうな』と怒鳴どなったので、蜂須賀はちすかはそのままだまってしまった。『山内やまうち容堂ようどうひとは、ひどいことをひとだ』とって、木戸きどおどろいてった」[41]

関連かんれん作品さくひん

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書籍しょせき

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テレビアニメ

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テレビドラマ

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歌謡かよう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶサイト

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公職こうしょく
先代せんだい
正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい
日本の旗 学事がくじ
1869ねん
次代じだい
松平まつだいら慶永よしなが
大学だいがく別当べっとう
先代せんだい
鷹司たかつかさ輔煕(→廃止はいし
制度せいど事務じむきょくとく
日本の旗 制度せいどりょう総裁そうさい
1869ねん
議事ぎじ体裁ていさい取調とりしらべ総裁そうさい
1868ねん - 1869ねん
次代じだい
鍋島なべしま直正なおまさ
先代せんだい
鍋島なべしま直正なおまさ
日本の旗 うえきょく議長ぎちょう
1869ねん
次代じだい
大原おおはら重徳しげのり
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 学事がくじ
1869ねん
次代じだい
正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい
先代せんだい
近衛このえただしぼう
刑法けいほう事務じむきょくとく
日本の旗 刑法けいほうかん知事ちじ
1868ねん
次代じだい
大原おおはら重徳しげのり

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 土佐とさ山内やまうち土佐とさでもふるくから「やまうち」とばれており、江戸えど幕府ばくふ編集へんしゅうした『完成かんせいじゅうおさむ諸家しょか』にも「やまうち」のふりがながある[1]
  2. ^ ゆたかあつし発表はっぴょうされたのは翌年よくねんよしみながねんがつ28にちのことであった[11]
  3. ^ 豊信とよしげにはがわおんなとのあいだ郁太郎いくたろうという男児だんじまれていたため、次期じき藩主はんしゅはや段階だんかい指名しめいすることで無駄むだ嫌疑けんぎける目的もくてきがあったとされる[15]
  4. ^ 徳川とくがわ慶喜よしのぶ口述こうじゅつである『むかしゆめかい筆記ひっき』で慶喜よしのぶ自身じしんかた大政奉還たいせいほうかん動機どうき経緯けいいは、以下いか慶喜よしのぶは「日本にっぽんこくため徳川とくがわ家康いえやすひらいた幕府ばくふを、日本にっぽんこくため自分じぶんほうむ覚悟かくご」で1866(慶応けいおう2)ねん12月5にち、30さいのとき将軍しょうぐんしょく拝命はいめいした、という。渋沢しぶさわ栄一えいいちへん徳川とくがわ慶喜よしのぶちょむかしゆめかい筆記ひっき 徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけ回想かいそうだんだいいち将軍しょうぐんしょくかさね(つ)ぎたまいし」(平凡社へいぼんしゃ、1967ねん)「昭徳あきのりおおやけ薨じたまいしとき板倉いたくら伊賀いがまもるかつしずのちまつ叟(しょうそうとしょうす)永井ながいしゅみずただし尚志ひさし(なおむね)、のちかいどう(かいどう)としょうす)は遺命いめいしょうし、相続そうぞくすすめてやまず。は「先年せんねんようくんいちけん(※将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいか)ありて、野心やしんありしごとくつたえられしことあれば、いまもし足下あしもととうげんしたがわば、いよいよ世評せひょうじつにするものなれば、がたし」とてこばみしに、おおまこと道理どうりにはあれども、こん国歩こくほ艱難かんなんさいきょうならではきょくあたたまわんひとなし。とかくの議論ぎろんなくしてけさせたまうべし」という。されどは、なおしてかず、「たとい朝廷ちょうていより御沙汰ごさたありともけはするまじ」といえるに、両人りょうにんは「けっして朝廷ちょうてい御沙汰ごさたうようのことつかまつらず。ただ誠意せいいをもって、きょう許諾きょだくつのみなり」とて、それよりのちよりにきたりて、「今日きょうはいかに、今日きょうはいかに」とせまるのみなりき。さればもこのあいだおもうんらすふしありて、ひそかに原市はらいちこれしんして衷情ちゅうじょうかたり、「板倉いたくら永井ながい両人りょうにんには、先年せんねんようくんいちけんをもってとせしも、わば、かかることはいずれにてもよし。ただじゅく(つらつら)かんがえうるに、今後こんご処置しょちきわめて困難こんなんにして、いかにくらんおもはかられず。いずれにしても、徳川とくがわいえをこれまでのごとくつたえんことは覚束おぼつかなければ、このさい断然だんぜん王政おうせい御世みよふくして、ひたすら忠義ちゅうぎつくさんとおもうが、なんじ所存しょぞんはいかに」とえるに、市之いちのすすむは、「もっともの御存知ごぞんじりなれども、もしいちちょあやまらば非常ひじょう紛乱ふんらんまねくべし。だいいちかかる大事だいじ決行けっこうするにこたえるひとこうや。いまろう中等ちゅうとうにては、失礼しつれいながらつかまつたせらるべしともおもわれず。また人材じんざいなきにあらざれども、いま制度せいどにてはにわかかに軽輩けいはい登庸とうようして大事だいじきょくあたらしめむずかし。さればむしろりょくおよばんかぎり、先祖せんぞ以来いらい規範きはん持続じぞくあるほうがよろしからん」といえり。かかる次第しだいなれば、もいまだ政権せいけん奉還ほうかんをこのさい結構けっこうするをずして、つい板倉いたくら永井ながいし、徳川とくがわ相続そうぞくするのにて、将軍しょうぐんしょくけずともむことならば足下あしもととうの請にしたがわん」といいしに、それにてもよしとのことなりしかば、つい宗家そうけ相続そうぞくすることとなれり。されども一旦いったん相続そうぞくするや、ろう中等ちゅうとうはまた将軍しょうぐんしょくをもけらるべしと強請きょうせいせるのみならず、外国がいこくとの関係かんけいなどもありて、結局けっきょくこれもだくせざるをざるにいたれり。かかる政権せいけん奉還ほうかん(※大政奉還たいせいほうかん)のこころざしゆうせしはじつにこのころよりのことにて、あずまあきらこう家康いえやすおおやけ)は日本にっぽんこくのために幕府ばくふひらきて将軍しょうぐんしょくかれたるが、日本にっぽんこくのために幕府ばくふほうむるのにんあたるべしと覚悟かくごさだめたるなり。」
  5. ^ a b c d e f 多田ただこうといへん岩倉いわくらこう実記じっき下巻げかんしょう御所ごしょ会議かいぎこと、160-161ぺーじ。「退すさ休憩きゅうけいしつにゅうどくしんス。豊信とよしげ容堂ようどうなおかたぜんどうカザレバわれ霹靂へきれきヲ以テごといち呼吸こきゅうあいだけつセンノミ。乃チ蔵人くろうどいのちしげくんヲ喚バシム。しげくんいたりちょク。具視ともみいいテ曰クきょうろんヲ以テ事理じり当然とうぜんトス。こんつじいのち後藤ごとう諷諭ふうゆシテきょうろんしたがえハシメンコトヲル。後藤ごとうわかこれを肯ンゼザルトキハハ飽クマデ容堂ようどう抗弁こうべんシテやめマザラントス。はた曹已ニはん重臣じゅうしん休憩きゅうけいしつにゅうぞう次郎じろうきりいちぞうせつ豊信とよしげしたがえハシメントス。いちぞう敢テ聴カズはた曹乃チぞう次郎じろう諷諭ふうゆスルニ具視ともみろんたい抗弁こうべんスルノ不利ふりナルコトヲ以テス。ぞう次郎じろうだいさとるル。ニ於テぞう次郎じろう慶永よしなが豊信とよしげせつキ曰クぜんこく主張しゅちょうセラルヽみことハ恰モないこう慶喜よしのぶ)ガいつわりはかりごとふところカルヽヲこれヲ蔽ハントよくスルしゃノ如キノいやアリ。ねがいクハ再思さいしセラレンコトヲ。すんでニシテじょうさい出御しゅつぎょアラセラレ親王しんのうしょしんヲ召シ会議かいぎつぎカサシメきゅう豊信とよしげこころおりレ敢テふくそうハス朝議ちょうぎとげけっぶたシ倶視ノ論旨ろんししたがえフナリ熾仁親王たるひとしんのうすすむンテ御前ごぜんこうシ以テ宸断ヲおおせ上之うえのきゅうやめ三更さんこうク」
  6. ^ a b 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史籍しせき雑纂ざっさん』苐四(国書刊行会こくしょかんこうかい、1911-1912ねん)「ちょうしげる日記にっき」254ぺーじ。「いち、爰にさいしょう御所ごしょ会議かいぎ次第しだい詳説しょうせつせんとす、如前せつ上下じょうげすではんれつくの中山なかやま殿どのよりさきいちてん無私むし公平こうへいを以、おう政之まさゆき基本きほんためけんあきらむねおもむき発言はつげんに而、おっとれより徳川とくがわ弊政へいせい、殆違勅いちょくともいふへき條々じょうじょうしょうこん府内ふない政権せいけんかえたてまつるといへとも、其しょ正邪せいじゃわきまえがたけれは、実績じっせきを以之をせめゆずるすへしなと、縉紳しんしんしょきょう論議ろんぎあるに、」
  7. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいちちょ徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(りゅうもんしゃ、1918(大正たいしょう7)ねんだいかんだいじゅうきゅうしょう だい坂城さかき移徙わたまししょう御所ごしょ会議かいぎ、183ぺーじ。「中山なかやまぜん大納言だいなごん勅旨ちょくしせんべていわく、「今般こんぱん徳川とくがわより政権せいけん返上へんじょうにつき、大政たいせい御一新ごいっしん基本きほんはじめしつらえし、万世ばんせい不抜ふばつ国是こくぜたてじょうたまわんとす、かくみな聖旨せいしたてまつからだしておおやけつくすべし」と。」
  8. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいちちょ徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(りゅうもんしゃ、1918(大正たいしょう7)ねんだいかんだいじゅうきゅうしょう だい坂城さかき移徙わたまししょう御所ごしょ会議かいぎ、183ぺーじ。「くて会議かいぎうつれるに、公卿くぎょうなかには「うち政権せいけん返上へんじょうしたれども、はたして忠誠ちゅうせいづるやいなやをらず、よろしくじつあともっこれせめゆずるすべしとのろんもりなりければ、」
  9. ^ 多田ただこうといへん岩倉いわくらこう実記じっき下巻げかんしょう御所ごしょ会議かいぎこと、158ぺーじ。「豊信とよしげさきはつシテ曰クそくとく川内せんだいヲ召シテ朝議ちょうぎ参与さんよセシムヘシ」
  10. ^ しょう御所ごしょ会議かいぎ明治天皇めいじてんのうは16さいである。
  11. ^ 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史籍しせき雑纂ざっさん』苐四(国書刊行会こくしょかんこうかい、1911-1912ねん)「ちょうしげる日記にっき」254ぺーじろうこう山内やまうち容堂ようどう大声おおごえはっして、此度変革へんかく一挙いっきょ陰険いんけん所為しょいおおきのみならず、王政おうせい復古ふっこはつあたって凶器きょうきろうする、はなは不祥ふしょうにしてらんかいを倡ふにたり、ひゃくねん天下でんか太平たいへいいたせし盛業せいぎょうある徳川とくがわを、一朝いっちょういや棄して疎外そがいし、幕府ばくふしゅしん不平ふへいさそひ、また人材じんざいあがときあたって、斯の政令せいれい一途いっとおうぎょう復古ふっこだいさくけん政権せいけんかえまつりたるごとだい英断えいだんうちおおやけをして、此大せききゅうはさるは、甚公せり、そく参内さんだいいのちせらるへし、畢竟ひっきょう如此暴挙ぼうきょくわだてられしさんよんきょう何等なんらこれ定見ていけんあって、幼主ようしゅようして権柄けんぺい窃取せっしゅせられる抔としたたかに中山なかやま殿どの中山なかやま忠能ただやす)を挫折ざせつし、しょきょう弁駁べんばくせられ」
  12. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいちちょ徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(りゅうもんしゃ、1918(大正たいしょう7)ねんだいかんだいじゅうきゅうしょう だい坂城さかき移徙わたまししょう御所ごしょ会議かいぎ、183ぺーじ松平まつだいら容堂ようどうごえはげましていわく「今日きょうきょすこぶ陰険いんけん所為しょいおおきのみならず、王政おうせい復古ふっこはつあたりて凶器きょうきろうすることはなはしょうにして、らんかいひらくにたり。そもそも元和げんな偃武以来いらいひゃくねん海内かいだいをして太平たいへい隆治りゅうじぎょうがしめしは徳川とくがわにあらずや、しかるを一朝いっちょうふるなく覇業はぎょうなげうち、政権せいけん奉還ほうかんしたるは、政令せいれい一途いっとでて、金甌無欠きんおうむけつ国体こくたい維持いじせんことをたばかるものにして、其忠誠ちゅうせいかんずるにへたり。且内慶喜よしのぶ英明えいめいすで天下てんかに聞ゆ、よろしくこれをして朝議ちょうぎさんあずか意見いけん開陳かいちんせしむべし。畢竟ひっきょう此のごと暴挙ぼうきょくわだてられしさんよんきょう幼主ようしゅようまつりて権柄けんぺいを窃まんとするにあらざるか」と一座いちざ睥睨へいげいして意気軒昂いきけんこうたり。」
  13. ^ 多田ただこうといへん岩倉いわくらこう実記じっき下巻げかんしょう御所ごしょ会議かいぎこと、158-159ぺーじ。「今日きょうきょ頗ル陰険いんけんわたるしょはんじんえびすそうシテ兵器へいきようシ以テ禁闕きんけつ守衛しゅえい不祥ふしょうゆうモ甚シ王政おうせい施行しこうくび廟堂びょうどうむべ公平こうへい無私むししんヲ以テ百事ひゃくじ措置そちスヘシしかラサレハそく天下でんかしゅうしん帰服きふくセシメルのうサラン元和げんな偃武以来いらいいくントさんひゃくねんきん海内かいだいヲシテ太平たいへい隆治りゅうじおおせカシムルモノハ徳川とくがわナリ一朝いっちょうナク其大功たいこうアル徳川とくがわヲ疏斥スルハなんソ其レしょうおんナルヤこんない祖先そせんヨリ継承けいしょう覇業はぎょうほう政権せいけん奉還ほうかんセシハ政令せいれい一途いっとテ以テ金甌無欠きんおうむけつ国体こくたい永久えいきゅう維持いじセンコトヲはかりごとルモノニシテ其忠誠ちゅうせいまこと感嘆かんたんスルニこらえエタリ且内英名えいめいめいすんで天下でんかニ聞ユむべそくヲシテ朝議ちょうぎ参与さんよシ以テ意見いけん開陳かいちんセシムヘシ而ルニさん公卿くぎょうなんとう意見いけんふところキ此ノ如キ陰険いんけんわたるルノきょヲナスヤ頗ルあかつきかいスヘカラスこわラクハようおき天子てんしようシテ権柄けんぺい竊取せっしゅセントよくスルニサルカまこと天下でんからんかいさくルモノナリ豊信とよしげあがしょくおご傍若無人ぼうじゃくぶじんじょうアリ」
  14. ^ 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史籍しせき雑纂ざっさん』苐四(国書刊行会こくしょかんこうかい、1911-1912ねん)「ちょうしげる日記にっき」254ぺーじ。「おおやけまた諄々じゅんじゅんとして、おう政之まさゆきはつけいりつさきにし、とくよしみのちにせられこうごと不可ふかしか徳川とくがわすう百年隆治輔賛之功業、今日きょう罪責ざいせきを掩ふにこと弁論べんろんきゅうひ、しょきょうこれせつようやくっせんとする」。ただしここでいう「おおやけ」はだれこと明示めいじされていない。
  15. ^ 多田ただこうあいだへん岩倉いわくらこう実記じっき下巻げかんしょう御所ごしょ会議かいぎこと、157-161ぺーじ。「倶視これしかシテ曰ク此レ御前ごぜんニ於ケル会議かいぎナリきょうとうサニ粛慎スヘシ聖上せいじょう不世出ふせいしゅつえいざいヲ以テ大政たいせい維新いしんおおとりぎょうけんきゅう今日きょうきょハ悉ク宸断ニツ妄ニようおき天子てんしよう権柄けんぺい竊取せっしゅセントノげんさくなんソ其レほろびれいノ甚シキヤ豊信とよしげおそれ悚シ失言しつげんつみしゃス」
  16. ^ 高橋たかはし秀直ひでなお幕末ばくまつ維新いしん政治せいじ天皇てんのう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 9784642037778)「だい しん政体せいたい模索もさく倒幕とうばくだいじゅうしょう 王政おうせい復古ふっこクーデター、さん しょう御所ごしょ会議かいぎ、1 岩倉いわくら具視ともみ一喝いっかつをめぐって ~ 2 しょう御所ごしょ会議かいぎ意味いみ」では、しょう御所ごしょ会議かいぎ参加さんかしゃらのになるほかいち史料しりょうである『ちょうしげる日記にっき』『嵯峨さがみのるあい手記しゅき』『じつうららきょう』『松平まつだいらはるだけ公刊こうかん書簡しょかんしゅう』(12月13にちづけ 松平まつだいら茂昭しげあきあて はるだけ書簡しょかん)77ぺーじ、『大久保おおくぼ利通としみち文書ぶんしょ、133~134ぺーじ、12月12にちみのあて書簡しょかん、12月21にちはんちょうあて大久保おおくぼ利通としみち書簡しょかん)、あるいは明治めいじ政府せいふ最初さいしょ修史しゅうし事業じぎょう復古ふっこ』でのだいかいしょう御所ごしょ会議かいぎ史料しりょう(「はるだけ私記しきとう)、おなじく明治めいじ政府せいふによる『三条さんじょう実美みみおおやけ年譜ねんぷ』(1901ねん)、どう時期じき史書ししょである竹越たけこし与三郎よさぶろうしん日本にっぽん』(1891ねん)、勝田かつたまごわたる西郷さいごう隆盛たかもりでん』(1894ねん)、指原さすはら安三やすぞう明治めいじせい』(1892ねん)などに同様どうよう記述きじゅつがみられず、かえってもっと詳細しょうさいいち史料しりょうである『ちょうしげる日記にっき』では大久保おおくぼさき容堂ようどうはるだけへ「かん納地のうちのち参内さんだいさせれば慶喜よしのぶ忠誠ちゅうせいがあるかかる」と反論はんろん岩倉いわくら大久保おおくぼ追従ついしょうし「正邪せいじゃ見分みわけるに、空論くうろんもっべん析するより形跡けいせきて(慶喜よしのぶ真意しんいを)るべき」と発言はつげんする順序じゅんじょ・より消極しょうきょくてき内容ないようなど『岩倉いわくらこう実記じっき』と矛盾むじゅんした記述きじゅつすらみられることから、岩倉いわくら具視ともみがわが『岩倉いわくらこう実記じっき』にのみ、批判ひはんしえない権威けんいとしての天皇てんのうぞう定着ていちゃくさせるため岩倉いわくら容堂ようどう叱責しっせき容堂ようどう謝罪しゃざいする場面ばめんという、現実げんじつには存在そんざいしなかったうそ逸話いつわ挿入そうにゅうした、とする。
  17. ^ 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史籍しせき雑纂ざっさん』苐四(国書刊行会こくしょかんこうかい、1911-1912ねん)「ちょうしげる日記にっき」254-255ぺーじしょきょうこれせつようやくっせんとするとき大久保おおくぼいちぞうせきすすんてさるひねしは、幕府ばくふ近年きんねんもとぎゃくこれ重罪じゅうざい而已ならす、此度ない処置しょちにおゐて其正かんわきまえするに、つよえつこうだてせつしんじ受へきにあらす、事実じじつじょうるにかす、さき其官けなし其所りょうおさめんこといのちして、一毫いちごう不平ふへい声色こわいろなくんは、其真実しんじつるにれは、そく参内さんだいめいじあさどうりっしめらるへし、もしこれはんいちてん扞拒の気色けしきあらは、譎詐なり、じつに其官をけなし其地をけずり、其罪責ざいせき天下てんかしめすへしとの議論ぎろんはっす、岩倉いわくらきょうづけして其説を慫慂しょうようし、正邪せいじゃぶん空論くうろんを以弁析せんより、かたち迹のるへしと論弁ろんべんきわめられ、こうまた正論せいろんもたしてあいけっせす」
  18. ^ 手島てじま益雄ますおへん浅野あさのちょうくん自叙伝じじょでん』(平野ひらの書房しょぼう、1937ねん)84-85ぺーじ。「此の西郷さいごう吉之助よしのすけは、よる会議かいぎには警戒けいかいしょぐん指揮しきにんいてゐて、議席ぎせきにはれっしなかったが、どうはんものから会議かいぎ真情しんじょうき、さらおどろ気色けしきなく『やめむをざるときこれれあるのみ』とけんしめしたそうである。」
  19. ^ 手島てじま益雄ますおへん浅野あさのちょうくん自叙伝じじょでん』(平野ひらの書房しょぼう、1937ねん)85ぺーじ。「すなわ蔵人くろうどめいじ、ばしめ、一室いっしつさそってもうされるには、『薩土のあいだおおいに衝突しょうとつす。これれにり、つい維新いしん事業じぎょう水泡すいほうかえせん』と、これれをふか憂慮ゆうりょせられ、後藤ごとう象二しょうじろう説諭せつゆせよと依頼いらいされた。」
  20. ^ 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史籍しせき雑纂ざっさん』苐四(国書刊行会こくしょかんこうかい、1911-1912ねん)「ちょうしげる日記にっき」255ぺーじぞう次郎じろうわれこうせつして、陰険いんけんはいして公正こうせいことさとしてまず」

出典しゅってん

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  4. ^ いえきん 2021, p. 115.
  5. ^ いえきん 2021, p. 11.
  6. ^ いえきん 2021, p. 9.
  7. ^ いえきん 2021, p. 20.
  8. ^ a b 平尾ひらお 1961, p. 11.
  9. ^ a b c いえきん 2021, p. 26.
  10. ^ いえきん 2021, pp. 26–27.
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  12. ^ 平尾ひらお 1961, p. 14.
  13. ^ 平尾ひらお 1961, p. 16.
  14. ^ たにただし、『高知こうちけんなぞ散歩さんぽ』、株式会社かぶしきがいしゃ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、P66.
  15. ^ いえきん 2021, p. 27.
  16. ^ a b 平尾ひらお 1961, p. 17.
  17. ^ a b 平尾ひらお 1961, pp. 17–18.
  18. ^ a b c 平尾ひらお 1961, p. 20.
  19. ^ 平尾ひらお 1961, pp. 19–20.
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  23. ^ a b c 平尾ひらお 1961, p. 27.
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  30. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいちちょ徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(りゅうもんしゃ、1918(大正たいしょう7)ねんだいかんだいじゅうきゅうしょう だい坂城さかき移徙わたまししょう御所ごしょ会議かいぎ、184ぺーじ。「松平まつだいら大蔵おおくら大輔だいすけ容堂ようどうせつたすけて、「王政おうせいはつに、けいりつさきにしとくよしみのちにせられんことしかるべからず、徳川とくがわ家数やかずひゃくねん隆治りゅうじ輔賛の功業こうぎょう今日きょう罪責ざいせきつぐないてあまりあり」」
  31. ^ 大久保おおくぼ利通としみち日記にっき』5かん慶応けいおう3ねん12がつ)、414ぺーじ。「いち今夜こんや於 しょう御所ごしょ評議ひょうぎえつこう容堂ようどうおおやけだいろん公卿くぎょうくじ傍若無人ぼうじゃくぶじん
  32. ^ 多田ただこうといへん岩倉いわくらこう実記じっき下巻げかんしょう御所ごしょ会議かいぎこと、157-161ぺーじ
  33. ^ 手島てじま益雄ますおへん浅野あさのちょうくん自叙伝じじょでん』(平野ひらの書房しょぼう、1937ねん)84-85ぺーじ
  34. ^ 手島てじま益雄ますおへん浅野あさのちょうくん自叙伝じじょでん』(平野ひらの書房しょぼう、1937ねん)85ぺーじ
  35. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいちちょ徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(りゅうもんしゃ、1918(大正たいしょう7)ねんだいかんだいじゅうきゅうしょう だい坂城さかき移徙わたまししょう御所ごしょ会議かいぎ、186ぺーじ。「(大久保おおくぼ利通としみちによる容堂ようどうはるだけへの抗弁こうべんに)後藤ごとう象二しょうじろうばくして、「王政おうせい復古ふっこきょは、公明正大こうめいせいだい処置しょちづるをようす、今日きょうことまこと陰険いんけんわたるれり、かならうち慶喜よしのぶ)をして朝議ちょうぎ参与さんよせしめざるべからず」といひ、議論ぎろん紛々ふんぷんたり」
  36. ^ A.B.ミットフォード『英国えいこく外交がいこうかん幕末ばくまつ維新いしん長岡ながおか祥三しょうぞう(わけ)、講談社こうだんしゃ<講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ1349>、1998ねん、140ページ。原著げんちょは1915年刊ねんかん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 平尾ひらお道雄みちお山内やまうち容堂ようどう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1961ねんNCID BN03030874 
  • 熊田くまだあしじょう へん観樹みき将軍しょうぐん縦横じゅうおうだん実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1924ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983087/24 
    • 三浦みうら梧楼ごろう回顧かいこだんをまとめたもの。