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北条ほうじょうりゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

北条ほうじょうりゅう(ほうじょうりゅう)は、軍学ぐんがく流派りゅうはひとつ。軍学ぐんがくしゃ北条ほうじょうちょう創始そうしした。

概要がいよう

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甲州こうしゅうりゅう軍学ぐんがく大成たいせいした小幡おばた景憲かげのり高弟こうていであった北条ほうじょうちょうは、それまでの軍学ぐんがく兵学へいがく)から、中世ちゅうせいにおける迷信めいしん邪説じゃせつてき要素ようそである軍配ぐんばい日取ひどりや方角ほうがく吉凶きっきょううらなう)や精神せいしんてき教訓きょうくん因習いんしゅう道徳どうとくなどをはいし、合理ごうりてき軍学ぐんがく体系たいけいした[1]。また、ちょうは、『かん用法ようほう』をしるわし、軍学ぐんがく泰平たいへいにおける武士ぶし精神せいしん修養しゅうようほうとした[2]

ちょう没後ぼつご北条ほうじょうりゅうちょう養子ようし福島ふくしまこくたかし[3]などが継承けいしょうし、のちにこのがくみつるからは松宮まつみや観山かんざん輩出はいしゅつされた[4][5]しょはんにおいては、越中えっちゅう富山とやまはん越後えちご長岡ながおかはんなどでは、ちょう門人もんじんである片山かたやまりょうあんあきおうぎ越前えちぜん福井ふくい藩士はんし)のがくみつるつづき、仙台せんだいはん尾張おわりはん岡山おかやまはん熊本くまもとはんなどでもちょうとする門人もんじんらによって流派りゅうはがれた[6]ちょう高弟こうてい山鹿やまが素行そこうは、北条ほうじょうりゅう軍学ぐんがく儒学じゅがく要素ようそ加味かみさせ、軍学ぐんがく武士ぶし修養しゅうようほうとした道徳どうとくながれを加味かみ回帰かいき)した[7]。これを山鹿やまがりゅうぶ。

北条ほうじょうりゅうにおいては、おもちょうしるわした『兵法ひょうほうめすかん』(『兵法ひょうほうかん』『兵法ひょうほうわたしかん』ともいう)『兵法ひょうほうゆうかん』『かん用法ようほう』などが伝書でんしょとしてもちいられた[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽんだい事典じてん2』1120-1121ぺーじ、『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん3』667-668ぺーじ間諜かんちょう兵学へいがく』254ぺーじ
  2. ^ 日本にっぽんだい事典じてん2』1121ぺーじ近世きんせい日本にっぽん国防こくぼうろん 上巻じょうかん』55-58ぺーじ
  3. ^ 幕府ばくふ旗本はたもときゅう北条ほうじょう重臣じゅうしん遠山とおやま出身しゅっしんで、養子ようし縁組えんぐみちょうである福島ふくしま(くしまし)を名乗なのり、ちょう業績ぎょうせき手伝てつだい、自身じしん北条ほうじょうりゅう軍学ぐんがくをさらにすすめたとつたわる。
  4. ^ 国史こくしだい辞典じてん12』616ぺーじ、『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん3』668ぺーじ
  5. ^ 観山かんざんちょう子息しそくである如の弟子でし
  6. ^ 日本にっぽん兵法ひょうほう じょう』423-424ぺーじ、『国史こくしだい辞典じてん だい12かん』616ぺーじ
  7. ^ 日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてん だい8かん』515ぺーじ、『日本にっぽんだい事典じてん2』1121ぺーじ
  8. ^ 国史こくしだい辞典じてん だい12かん』592ぺーじ、616ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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