気楽きらくりゅう

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氣樂きらくりゅう
きらくりゅう
別名べつめい 喜楽きらくりゅう 戸田とだりゅう
使用しよう武器ぶき けんぼう鎖鎌くさりがまちょうまき小太刀こだちちぎり
発生はっせいこく 日本の旗 日本にっぽん
発生はっせいねん 江戸えど時代じだい
源流げんりゅう 冨田とみたりゅう
派生はせい流派りゅうは 神道しんとうろく合流ごうりゅう神道しんとうしんりゅう講道館こうどうかん柔道じゅうどう
主要しゅよう技術ぎじゅつ

柔術じゅうじゅつぼう捕縄とりなわ居合いあい鉄扇てっせん

じゅう薙刀なぎなたちぎり鎖鎌くさりがま
伝承でんしょう 群馬ぐんまけん埼玉さいたまけん 栃木とちぎけん茨城いばらきけん東京とうきょう 徳島とくしまけん 福島ふくしまけん
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気楽きらくりゅう(きらくりゅう、きゅう字体じたいでは氣樂きらくりゅう)とは、武道ぶどうひとつ。富田とみた戸田とだりゅうながれをむ。柔術じゅうじゅつ中心ちゅうしんに、けん居合いあいぼうちぎり分銅ふんどうくさり鎖鎌くさりがま鉄扇てっせんじゅう捕縛ほばくじゅつ長刀ちょうとう薙刀なぎなたたんぼうなどの総合そうごう武術ぶじゅつである。かつほう整骨せいこつじゅつ匡正きょうせいじゅつ)もふくんでいる。江戸えど時代じだいせい上野うえのこく武蔵むさしこく阿波あわこく陸奥みちのくこく中心ちゅうしんもりたかしした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

創始そうししゃは、富田とみたりゅう戸田とだりゅう)7代目だいめ(あるいは6代目だいめ)の渡辺わたなべもくみぎ衛門えもん[1]。その気楽きらくりゅうだい11代目だいめ中興ちゅうこうといわれる飯塚いいづか臥龍がりょうとききょうよし[注釈ちゅうしゃく 1]が、べつ体系たいけいだったもくみぎ衛門えもん以来いらい気楽きらくりゅう富田とみた戸田とだりゅうの2つに、上泉かみいずみ伊勢いせまもる無敵むてきりゅうしんかげりゅう上野うえのこくでの別名べつめい)をくわえ、これら3つを再編さいへんして気楽きらくりゅうじゅうじゅつ」としょうした。これ以後いご気楽きらくりゅうとは臥龍がりょうとき再編さいへんしたものをす。喜楽きらくりゅうかれるれいもある。

大成たいせいしゃ飯塚いいづか臥龍がりょうとききょうよし以降いこう気楽きらくりゅうかれ弟子でし養子ようしによって伝承でんしょうされた。臥龍がりょうとき以降いこう系統けいとうを3つにけている。臥龍がりょうとき高弟こうてい菅沼すがぬまいさむ系統けいとう武蔵むさしこく秩父ちちぶ方面ほうめん中心ちゅうしん伝来でんらいし、おなじく高弟こうてい児島こじまよし兵衛ひょうえけい上野うえのこくぐん方面ほうめん中心ちゅうしん伝承でんしょうされ、臥龍がりょうとき養子ようし飯塚いいづか帯刀たてわき義高よしたか系統けいとう緑埜みどのぐん勢多せたぐん新田にったぐん甘楽かんらぐん方面ほうめん伝来でんらいした[1]

1883ねん11月12にち明治めいじ16ねん)に体操たいそう伝習でんしゅうしょ戸田とだりゅう気楽きらくりゅう八谷やたにたちさんまねいて調査ちょうさおこなっている[2]

講道館こうどうかん柔道じゅうどう創始そうししゃ嘉納かのう治五郎じごろうである福田ふくだはちこれすけやなぎただしひとし)は、秩父ちちぶ出身しゅっしん天神てんじん楊流気楽きらくりゅう奥山おくやまねんりゅうとう免許皆伝めんきょかいでんであり、また本郷ほんごう湯島ゆじま気楽きらくりゅう天神てんじん楊流 おさむしんかん奥澤おくさわけい太郎たろう学習がくしゅういん 初代しょだい柔術じゅうじゅつ師範しはん)から柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅけていた。このことから講道館こうどうかん柔道じゅうどうへの影響えいきょう指摘してきされている[3]1907ねん3月23にち、24にち明治めいじ40ねん)におこなわれた講道館こうどうかん柔道じゅうどう下富しもとみざか道場どうじょう落成らくせいしきでははちたにまもる戸田とだりゅう気楽きらくりゅう)の柔術じゅうじゅつがたえんじている[4]

 1885ねん明治めいじ18ねん制定せいてい警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつがたにも技法ぎほうのひとつ「見合みあい」が採用さいようされた。しかし警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつがた講道館こうどうかん柔道じゅうどう採用さいようもあってすたしつでんしている[3]おおくの流派りゅうはしつでんしたちぎりじゅつくみがた現在げんざいのこしている(『武芸ぶげい流派りゅうはだい事典じてん』)。

北関東きたかんとう一帯いったいまつりの棒術ぼうじゅつとしても気楽きらくりゅう存在そんざいしていた。

気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつかつほうとしての匡正きょうせいじゅつは、天保てんぽう年間ねんかん斎藤さいとうげんえつからつたえられ斎藤さいとう周治しゅうじ斎藤さいとうただし齋藤さいとう光生みつおらに伝承でんしょうされ、現在げんざいでも東京とうきょう埼玉さいたま千葉ちば神奈川かながわ京都きょうと滋賀しが新潟にいがた群馬ぐんま、ハワイ方面ほうめんにおいて、おおくは柔道じゅうどう整骨せいこついんとしておこなわれている[5]

群馬ぐんまけんにおける気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつうち伊勢崎いせざきけいの2団体だんたいは、気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつとして日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかいにそれぞれ加盟かめいしている。

2015ねん平成へいせい27ねん)2がつ26にち水科みずしな寿美としみねりこころざしかん伊勢崎いせざき無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされた。

流儀りゅうぎ[編集へんしゅう]

やみよるかぬとり声聞しょうもんかばまれぬさき父母ちちははこいしき
ほらぬにのぞかぬひとかげさしてたよらぬつきうつ月影つきかげ

歴史れきし[編集へんしゅう]

気楽きらくりゅう始祖しそ[編集へんしゅう]

気楽きらくりゅう始祖しそ諸説しょせつつたわり、戸田とだ越後えちごもり富田とみた越後えちごもり)・上泉かみいずみ伊勢いせまもる水橋みずはし隼人はやとの3めいがみえる[3]水橋みずはし隼人はやとせつ気楽きらくりゅうとの関係かんけい不明ふめい。このせつ菅沼すがぬまけいつたわるもので、戸田とだ越後えちごもりの3だいまえ水橋みずはしがあり、戸田とだ富田とみたりゅう伝承でんしょう内容ないよう重複じゅうふくしている。『うえ剣術けんじゅつ』にてめししまは、上泉かみいずみ伊勢いせまもるせつ飯塚いいづか臥龍がりょうときまなんだしんかげりゅうからさかのぼったとして始祖しそ戸田とだ越後えちごもりとするが、かれはあくまで戸田とだりゅう始祖しそとしている。[1]

上述じょうじゅつ戸田とだ越後えちごもりかんしては、富田とみたりゅう富田とみた越後えちごもり重政しげまさどう一人物いちじんぶつせつ別人べつじんせつがある。飯塚いいづか伝承でんしょうかれた飯塚いいづか臥龍がりょうとき頌徳群馬ぐんまけん甘楽かんらまち)には、戸田とだ越後えちごもと長尾ながお旧臣きゅうしん箕輪みのわつかえた戸田とだ八郎はちろう高安たかやす戸田とだりゅうとする。高安たかやすはのち飯塚いいづかせいあらため11だい子孫しそん臥龍がりょうときだとしている。そして飯塚いいづかけい巻物まきものでは、戸田とだ越後えちごもり綱義つなよしとあり、ぜんしん八郎はちろう一利いちり越後えちごこく頸城ぐん戸田とだむら出身しゅっしんとする。菅沼すがぬまけい水橋みずはし隼人はやと子孫しそん戸田とだき、越後えちごもり秀雄ひでおとする。児島こじまけい戸田とだ越後えちごもり信正のぶまさとし富田とみたともいったとする。めししま富田とみた重政しげまさ戸田とだ越後えちごどう一人物いちじんぶつせつをとる。[1]

戸田とだつたえる系統けいとうでも初期しょき戸田とだ越後えちごもり上泉かみいずみ伊勢いせまもる引田ひきた文五郎ぶんごろうの3めいみだれている。めししませつによれば、これはながれ神格しんかくするため上泉かみいずみ引田ひきたはいしたとされ、このつぎ新藤しんどう雲斎うんさい共通きょうつうしてきているため、戸田とだのち新藤しんどうとみなしている。一方いっぽう、『うえ剣術けんじゅつ』で諸田もろた政治せいじは、『皇国こうこく英名えいめいろく』のせつ採用さいようし、気楽きらくりゅう上泉かみいずみ疋田ひきた戸田とだじゅんであるとし、上泉かみいずみ伊勢いせまもるながれを当初とうしょからんだとする。[1]

新藤しんどうのあとの1・2だい戸田とだ内記ないき戸田とだ隼人はやと土屋つちやすすむかんみだれるが、そのつぎ渡辺わたなべもくみぎ衛門えもん[注釈ちゅうしゃく 2]統一とういつされている。大勢おおぜいがそれにつづいて金沢かなざわ新五しんご兵衛ひょうえ渡辺わたなべへいみぎ衛門えもん絹川きぬかわ久右衛門きゅうえもん芳重よししげ蛭川ひるかわきくみぎ衛門えもんとし11だい飯塚いいづか臥龍がりょうとききょういたっているが、一部いちぶことなる伝承でんしょうもある[注釈ちゅうしゃく 3][1]

気楽きらくりゅう」のりゅう飯塚いいづか臥龍がりょうとき[編集へんしゅう]

うえ剣術けんじゅつ』によれば、気楽きらくりゅうりゅう渡辺わたなべもくみぎ衛門えもんとされる。ただしつてもあり、飯塚いいづかけいおおくは絹川きぬかわ久右衛門きゅうえもんを、児島こじまけい飯塚いいづか臥龍がりょうときながれとする[1]など、飯塚いいづか臥龍がりょうとき絹川きぬかわ久右衛門きゅうえもん気楽きらくとき)・蛭川ひるかわきくみぎ衛門えもんの3めいが「ながれ中興ちゅうこう)」として錯綜さくそうしている[3]

武芸ぶげい流派りゅうはだい事典じてん』では9代目だいめ絹川きぬかわ久右衛門きゅうえもん芳重よししげ気楽きらくりゅうあらためたとつたえるが、『多野たのぐん』・『新町しんまちまち 通史つうしへん』・『さかいまち 民俗みんぞくへん』では臥龍がりょうときあらためたという。

新町しんまちまち 通史つうしへん』によれば、臥龍がりょうとき戸田とだりゅうであり、これを「気楽きらくりゅう」としょうしたきっかけは、文化ぶんか11ねん1807ねん)に真之まさゆき神道しんとうりゅうとのあいだ門弟もんてい同士どうし刃傷にんじょう事件じけんこってしまい、その結果けっか臥龍がりょうとき新町しんまち宿やど追放ついほうされ戸田とだりゅう名乗なのるのをきんじられたからであるという[6]

うえ剣術けんじゅつ 』では荒木あらきりゅうとのいさかいであったと推定すいていしている[1]

この喧嘩けんか新町しんまち騒動そうどう」により、臥龍がりょうとき捕縛ほばくされ、幕府ばくふりょうであった中山道なかせんどう新町しんまち宿やど管轄かんかつとする岩鼻いわはな陣屋じんや関東かんとうぐんだい廃止はいし文化ぶんかねん(1805ねん関東かんとう取締とりしまりやく設置せっち以降いこう)で代官だいかん取調とりしらべを所払ところばらいとなったとされる[6]

 一方いっぽう気楽きらく流伝りゅうでんしょでは、臥龍がりょうとき追放ついほうされたのちに臥龍がりょうとき技量ぎりょうしんだ旗本はたもと跡部あとべまえなわ抜のじゅつ披露ひろうして追放ついほうゆるされ、跡部あとべ柔術じゅうじゅつ師範しはんとなったとつたえ、また当時とうじすでに「気楽きらくりゅう」であったとし追放ついほう名乗なのりを禁止きんしされたが、この赦免しゃめんによってその禁止きんしかれたとする[1]

 しかしながら、直参じきさん旗本はたもとである跡部あとべ出身しゅっしんしゃ幕府ばくふりょう岩鼻いわはな代官だいかん下級かきゅう武士ぶし足軽あしがるぶん)となったことはなく、また老中ろうじゅう水野みずの忠邦ただくに実弟じっていである跡部あとべりょう弼は、天保てんぽう以降いこう大阪おおさか奉行ぶぎょう江戸えど北町きたまちみなみ町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう老中ろうじゅうといった要職ようしょく幕末ばくまつつとめてはいるが、年代ねんだいてき臥龍がりょうとき赦免しゃめん追放ついほうができるものではないてんで、重大じゅうだい歴史れきし誤認ごにんがあること、さらには 江戸えど時代じだい徳川とくがわ幕府ばくふ統治とうち時代じだいつうじ、”ゆるし”は、将軍しょうぐん専管せんかん事項じこうであったことなどから、ほん伝承でんしょうには疑問ぎもんたれる。

飯塚いいづか臥龍がりょうとき以降いこう各派かくは[編集へんしゅう]

 11だい 臥龍がりょうときのちは、

 菅沼すがぬまいさむけい棒澤ぼうさわ加美かみ児玉こだま秩父ちちぶ)いわゆるたけしゅう秩父ちちぶけい

 児島こじまよし兵衛ひょうえけい勢多せた)いわゆる伊勢崎いせざきけい

 飯塚いいづか義高よしたかけい緑埜みどの甘楽かんら多胡たご新田にった)いわゆる甘楽かんらけいおおきく3つに現在げんざいでは区分くぶんされている。


 しかしながら、これらの気楽きらくりゅう各派かくは分類ぶんるい近年きんねんになってはじめられたものであるため、伊勢崎いせさき)や藤岡ふじおかとう現在げんざい行政ぎょうせい名称めいしょう便宜べんぎてき使つかわれていることや、明治維新めいじいしん昭和しょうわ平成へいせいさかんにおこなわれた行政ぎょうせい区分くぶん変更へんこう地方自治体ちほうじちたいだい合併がっぺいにより、、当時とうじ領地りょうち領民りょうみんといった時代じだい考証こうしょうからはなれて、正確せいかくせいける部分ぶぶんもあり、系統けいとうだった整理せいりはいまだ完成かんせいしてはいない。

 気楽きらくりゅうは、幕府ばくふ旗本はたもとはんりょう寺社じしゃりょう百姓ひゃくしょう中心ちゅうしんもりたかしし、村落そんらく往来おうらい容易ようい街道かいどうすじ中山道なかせんどう例幣れいへい使街道かいどう)、水運すいうんさかんであった利根川とねがわ水域すいいき伝承でんしょうがされていたという背景はいけいや、明治維新めいじいしん廃藩置県はいはんちけん昭和しょうわ平成へいせいまちせい改革かいかくぐん市町村しちょうそん合併がっぺいかえされたことにより、ゆかりのあったぐんむら々の名称めいしょう転々てんてんしていることも整理せいり困難こんなんとさせている。

 あえてくにべつでいえば、気楽きらくりゅうは、幕末ばくまつ以降いこう時代じだい背景はいけいけて、臥龍がりょうとき上野うえのこく武蔵むさし江戸えど)、およ隣接りんせつ下野げや常陸ひたち下総しもうさ上総かずさ関東かんとう甲州こうしゅう阿波あわにもつたわり、くわえて、それ以前いぜん修行しゅぎょう時代じだいやその伝播でんぱふくめれば、陸奥むつひろしまえ奥州おうしゅうたいら磐城いわき讃岐さぬき伊勢いせ亀山かめやまでも伝承でんしょうされていることから、いきてき人的じんてき伝承でんしょうおもであり、地域ちいき単純たんじゅんにかつ、正確せいかく区別くべつすることは困難こんなんであるといえる。

 これに、かく流派りゅうは後継こうけいしゃ意向いこうくわわり、正統せいとうろんじがちなことから問題もんだいをさらに複雑ふくざつさせている。

児島こじまよし兵衛ひょうえ伊勢崎いせさき)、勢多せたけい[編集へんしゅう]

 児島こじまけいは、12せい児島こじまよし兵衛ひょうえ門人もんじんで、臥龍がりょうときからも教授きょうじゅけていた五十嵐いがらし金弥きんや(13せい)へつたわり、14せい 斎藤さいとうたけ八郎はちろう伊勢崎いせざきはん柔術じゅうじゅつ師範しはんになった。

 児島こじまけい隆盛りゅうせい理由りゆうとしては、寛政かんせい改革かいかく以降いこう武術ぶじゅつ奨励しょうれいや、天明てんめい飢饉ききんによる農村のうそん疲弊ひへい無宿むしゅくじん増加ぞうかによる治安ちあん悪化あっか、そしてそのこわしや尊王そんのう倒幕とうばく運動うんどう気運きうんしょうじたこと、地理ちりてきには、はた本領ほんりょう寺社じしゃりょう中小ちゅうしょうはんりょうんでいたため、農民のうみん自警じけい必要ひつようとなったこと、治安ちあん維持いじ目的もくてきとして、関東かんとう取締役とりしまりやく配下はいかごうむら百姓ひゃくしょう寄場よせば組合くみあい構成こうせいされたことなどから、剣術けんじゅつおもとする武士ぶしだけではなく、棒術ぼうじゅつ木剣ぼっけんとう自衛じえい治安ちあん維持いじのためにもちいる必要ひつようせまられた百姓ひゃくしょう町人ちょうにんにも武術ぶじゅつ稽古けいこひろ普及ふきゅうしたことがあげられる。

 さらに、斎藤さいとうたけ八郎はちろう百姓ひゃくしょうでありながらうえしゅうぐん伊勢崎いせざきはん柔術じゅうじゅつ師範しはんとなったことなどから、伊勢崎いせざき近隣きんりんかくさと郷士ごうし農民のうみんそうからたけ八郎はちろう弟子でしになるものがおおく、山田やまだぐん穴原あなばらむら奥澤おくさわななこととき良重よしえたけ八郎はちろう婿養子むこようし斎藤さいとうたけ七郎しちろう勢多せたぐん下川しもかわふちむら長沼ながぬま綱吉つなよし高木たかぎあまね新田にったぐんだいじゅんむら加藤かとう勝馬かつま とうが15だいがる[7]

 ただし、児島こじまけい現代げんだいまでのこるのは長沼ながぬま系統けいとうのみともいう[8]意見いけんもある。

 斎藤さいとうたけ七郎しちろう養父ようふあといでうえしゅうぐん伊勢崎いせざきはん酒井さかい陣屋じんや支配しはいりょう)の指南しなんやくとなったが、廃藩置県はいはんちけんしょくうしない、うえしゅう佐波さばぐん采女うねめむら伊与久いよく道場どうじょうひらいた。この系統けいとうたけ七郎しちろう養子ようしたけ二郎じろうへとつづく。

 加藤かとう勝馬かつま領主りょうしゅ新田にった岩松いわまつみちじゅんつか新田しんでん柔術じゅうじゅつ指南しなんやくとなった。弟子でしには根岸ねぎし義高よしたかなどがいる。

 また、長沼ながぬま綱吉つなよし系統けいとう下渕名しもふちなむら群馬ぐんまけん伊勢崎いせざきさかい下渕名しもふちな)でつづいた。

 この長沼ながぬまのとき、長沼ながぬま高弟こうてい栗原くりはら長蔵ちょうぞうと、甘楽かんら藤岡ふじおか勢多せたけい長山ながやま弥一やいち新田にったぐん新田にったまち)とが、正統せいとう気楽きらくりゅうめぐってあらそっており、甘楽かんら藤岡ふじおか勢多せたけいとの対立たいりつがみられた[注釈ちゅうしゃく 4]

長沼ながぬまのあとは新井あらいひらうま新井あらい久平きゅうへいの2系統けいとうがみえる。16だい新井あらい久平きゅうへいけいは17だいもりただししゅうつづく。16だい新井あらいひらうま系統けいとうは17だい新井あらい数馬かずま、18だい新井あらいみち次郎じろうつづく。

みちろう弟子でしには19だいとなり前橋まえばし道場どうじょうひらどう次郎じろう葬儀そうぎ演武えんぶ奉納ほうのうしためししま文夫ふみおや、気楽きらくりゅう保存ほぞんかい水科みずしな寿美としみがいる。[7]

19だいめししま文夫ふみお水科みずしな寿美としみはおたがいが「宗家そうけ」と名乗なのっており、児島こじまよし兵衛ひょうえ五十嵐いがらし金弥きんや斎藤さいとうたけ八郎はちろう長沼ながぬま綱吉つなよし新井あらいひらうま新井あらい数馬かずま新井あらいみちろうから自身じしんつづくとしている。[1]岩井いわいさくおっとによれば、甘楽かんらけい秩父ちちぶけいが「宗家そうけ」と呼称こしょうしていないのは伊勢崎いせさき児島こじまけい遠慮えんりょしているからという[9]、が臥龍がりょうとき以降いこう直系ちょっけいのいわゆる「甘楽かんらけい」すなわち「飯塚いいづかけい」や、臥龍がりょうとき最後さいごまで看取みとったいわゆる「秩父ちちぶけい」すなわち「菅沼すがぬまけい」が、児島こじまけい以降いこう遠慮えんりょをするということはかんがえられず、道統どうとう経緯けいい理解りかいし、では宗家そうけ名乗なのっていないだけとされる。          

 これらをふまえて、気楽きらくりゅうはそもそも歴史れきしてきに、地域ちいきてき人的じんてき関係かんけいによって道場みちばあいだえての稽古けいこ交流こうりゅうさかんであり、おおくの師範しはんは、複数ふくすう師範しはんから指導しどうけていた経緯けいいとうがあること、また、そもそも、天神てんじん楊流や浅山あさやまいちつてりゅう馬庭まにわねんりゅうのような宗家そうけ制度せいどもうけてはおらず、「宗家そうけ」は近年きんねん独自どくじ創作そうさくそうりゅうであるとの反論はんろんが、前述ぜんじゅつ山田やまだ[3]小佐野おさの[10]からある。

 もとかたが360あったが、戦後せんご入門にゅうもんしゃ激減げきげんなどでしつでんし、100あまりしかのこっていないとされる[7]。またかた本来ほんらいきょり・じゅう鉄扇てっせんぼう太刀たちちぎり鎖鎌くさりがまたんなわ真剣しんけんおおきく9つにかれていたが、このうちのじゅう鉄扇てっせんたんなわ現在げんざいまった伝承でんしょうされていない[11]

武道ぶどう研究けんきゅう武器ぶき研究けんきゅう岩井いわいさくおっと武備ぶびしゃ)は19せいめししま文夫ふみお門人もんじんしょうする[12]

飯塚いいづかけい緑埜みどの甘楽かんら多胡たご、(藤岡ふじおか)、新田にったけい[編集へんしゅう]

 飯塚いいづかけいは、臥龍がりょうとき養子ようし飯塚いいづか帯刀たてわきよしだかからそのきょうだかが13だい、14だいきょうだかおとうと義興よしおきつづき、義興よしおき周辺しゅうへんもろりゅうかれている。

うえ剣術けんじゅつ』には代数だいすうのある流派りゅうはとして、義興よしおき高弟こうてい根岸ねぎし登美とみふとし関口せきぐち万蔵まんぞうの2系統けいとう、および義興よしおき兄弟きょうだい弟子でし長山ながやま弥一やいちからその弟子でし高山たかやま辰次郎たつじろうつづく1りゅうせる[1]

飯塚いいづかけい気楽きらくりゅうは、うえしゅう飯塚いいづか出身しゅっしんである西上にしかみしゅう緑埜みどのぐん甘楽かんらぐん多胡たごぐんをはじめ、利根川とねがわ対岸たいがん勢多せたぐんぐん那波なばぐん新田にったぐんといった農村のうそんや、臥龍がりょうとき道場どうじょうひらいた江戸えど愛宕下あたごした拠点きょてんとして、もりたかしおおいにきわめた。

 しかし、飯塚いいづか臥龍がりょうとき中山道なかせんどう新町しんまち宿やどでの新町しんまち騒動そうどう以降いこう所払ところばらいをけたことをけ、闕所にともなう親族しんぞくからの久離きゅうりにより、飯塚いいづか臥龍がりょうとき武蔵むさしこく菅沼すがぬまむら菅沼すがぬまいさむかた転居てんきょしたことから、養子ようしだか気楽きらくりゅうとして12せいとして臥龍がりょうとき出生しゅっしょう大塚おおつかむら継承けいしょうした。

 次代じだい龍之介りゅうのすけきょうだか(13せい)が早世そうせいし(皇国こうこく英名えいめいろくには57さいそつとあり矛盾むじゅんすることに注意ちゅうい)、飯塚いいづかいのししはやつかさ義興よしおき伊三郎いさぶろう)(14せい)(りゅうすけおとうと)は、大塚おおつかむら道場どうじょうひらき、のち甘楽かんらぐん小幡おばたとどろき道場どうじょううつしたのちも教授きょうじゅした。

 義興よしおき叔父おじ平柳ひらやなぎしんりゅうひとし義長よしながきゅうさんろう)は、臥龍がりょうとき出身しゅっしんである緑埜みどのぐん下大塚しもおおづかむらやなぎもりかんひらき、14せいとなった。

 幕末ばくまつ明治維新めいじいしん混乱こんらんなか門弟もんてい出身しゅっしん思想しそう差異さいから、佐幕さばく勤王きんのうがわかれて活動かつどうしたこと、寛政かんせい改革かいかく以降いこう設置せっちされて、尚武しょうぶ気風きふう武術ぶじゅつ練兵れんぺい中心ちゅうしんてき役割やくわりたしていた。その幕府ばくふこうたけしょ文久ぶんきゅう2ねん(1864ねん)9がつには、犬追物いぬおうもの弓術きゅうじゅつ柔術じゅうじゅつ部門ぶもん廃止はいしされ、けんやり砲術ほうじゅつ操船そうせん技術ぎじゅつのみとなったことにより、江戸えど徳川とくがわ幕府ばくふでのこうたけしょ師範しはん失業しつぎょう(ただし、地方ちほうはんでの武術ぶじゅつ師範しはん残存ざんそんしたことに注意ちゅうい)、明治めいじしん政府せいふになり、警察けいさつ機構きこう整備せいびにより、せきはちしゅう組合くみあいでの与力よりき業務ぎょうむ要請ようせいがなくなり、農民のうみん自警じけい必要ひつようせいったこと、さらには、師範しはんにち戦争せんそう出征しゅっせい捕虜ほりょとなったこととう遠因えんいんとして、一部いちぶ道場どうじょうでは弟子でし離反りはんしたこと、そして、おおきくは、だい日本にっぽん武徳ぶとくかい講道館こうどうかん柔道じゅうどう隆盛りゅうせいなか柔道じゅうどういち流儀りゅうぎとして、内務ないむ警察けいさつ中心ちゅうしん翼賛よくさん運動うんどうだい日本にっぽん武徳ぶとくかい学校がっこう体育たいいく教育きょういくなかまれたこと、そして、それらが敗戦はいせんのGHQによる武道ぶどう禁止きんしとなったことなどの社会しゃかい構造こうぞう変化へんかから門弟もんていすう大幅おおはば減少げんしょうした。

 これらは、飯塚いいづかけいかぎらず、菅沼すがぬまけい児島こじまけい気楽きらくりゅうおお共通きょうつうすることである。

 岩井いわいさくおっとによれば、この系統けいとう甘楽かんらけい)の気楽きらくりゅう体系たいけいは、飯塚いいづかきょうだか(13せい)が早世そうせいし、14せい飯塚いいづかいのししはやつかさ義興よしおきは、あにきょうだか弟子でし長山ながやまから教授きょうじゅけるという経緯けいいのため、すべつたわっていないとべるが、飯塚いいづか帯刀たてわき(12せい)の系統けいとうは、うえしゅう甘楽かんらぐん以前いぜんに、緑埜みどの多胡たご新田にったぐんや、勢多せたぐんほかにもひろつたわっており、これを甘楽かんらけいとしたことによる見解けんかいであり正確せいかくではない。

 具体ぐたいれいをあげれば、新田にったぐん綿内わたうちむら高山たかやま辰二郎たつじろう門下もんかで、山伏やまぶし修験しゅげんしゃであり、他流たりゅうやボクシング選手せんしゅとの対決たいけつおこなった下田しもだ茂平もへいや、飯塚いいづかただしないだい日本にっぽん武徳ぶとくかい)が高名こうみょうであり、その弟子でし光輪こうりんほら合気道あいきどう師範しはん川野かわの郁夫いくおや、筑波大つくばだい教授きょうじゅ藤堂とうどう良明よしあきらがおり、現在げんざい群馬ぐんまけん前橋まえばしつづ教授きょうじゅおこなわれている。[9]

菅沼すがぬまいさむ輔系のたけしゅう棒沢ぼうさわ加美かみ児玉こだま秩父ちちぶけい[編集へんしゅう]

 伝承でんしょうからたけしゅう秩父ちちぶけいともいわれるたけしゅう気楽きらくりゅう飯塚いいづか臥龍がりょうとき客分きゃくぶんとしてあずかり、看取みとった弟子でし菅沼すがぬまいさむ(12せい)がとされる。

 

柔術じゅうじゅつ研究けんきゅうかげりゅう師範しはん 気楽きらくりゅう伝承でんしょうする山田やまだみのるによれば、秩父ちちぶ気楽きらくりゅうをもたらしたのは菅沼すがぬまいさむ弟子でし加藤かとう軍司ぐんじ町田まちだ五郎右衛門ごろうえもん加藤かとう実父じっぷ勅使河原てしがわら仁平にへい孫弟子まごでし本橋もとはし惣五郎そうごろうなどとされる。

 他方たほうで、新町しんまち騒動そうどう以後いご飯塚いいづか臥龍がりょうときは、ところはらい追放ついほうけいけて、菅沼すがぬまいさむ輔方にぼつ逗留とうりゅうしていたこと、12せいとなった飯塚いいづかけい飯塚いいづか義高よしたかは、たけしゅう棒澤ぼうさわぐん出身しゅっしん養子ようしとなったことや、新町しんまち騒動そうどうくわわった門弟もんていなかにも、すでにたけしゅう秩父ちちぶぐん小野原おのばらむらどうぐん七本木しちほんぎむら榛沢はんざわぐん上野台うえのだいむら出身しゅっしんしゃがいたこと、そもそもどう児玉こだまぐん児玉こだまむらでの武術ぶじゅつ指導しどう逗留とうりゅうちゅういさかいが原因げんいんであったことなどから、飯塚いいづか臥龍がりょうときだい秩父ちちぶふくたけしゅう北部ほくぶにもたらされていることはあきらかであり、山田やまだ實説じっせつには疑問ぎもんせられる。

 ところで、12だい菅沼すがぬま弟子でしで13だいとされる加藤かとう軍司ぐんじのほか、町田まちだ五郎右衛門ごろうえもん加藤かとう実父じっぷ勅使河原てしがわら仁平にへいや、のち天神てんじん楊流、奥山おくやまねんりゅう免許めんきょ福田ふくだ持田もちだはちこれすけ講道館こうどうかん柔道じゅうどう嘉納かのう治五郎じごろう)がいた[3]

 加藤かとう軍司ぐんじけいは、加藤かとうのち本橋もとはし惣五郎そうごろうつたわり、惣五郎そうごろう万作まんさくいでまご武次たけつぐへと伝来でんらいした[1]が、武次たけつぐ途絶とだえたという[7]一方いっぽうめししま作成さくせいしたつて系図けいずでは、菅沼すがぬま加藤かとうあいだ勅使河原てしがわら挿入そうにゅうされ加藤かとう菅沼すがぬま孫弟子まごでしになっている[1][注釈ちゅうしゃく 5]


町田まちだ五郎右衛門ごろうえもんけいは、町田まちだからかれの3なん吉岡よしおかたすく五郎ごろう関根せきね継承けいしょうしたという[1][3]。なお現代げんだいでは秩父ちちぶ気楽きらくりゅうはほぼしつでんしたとされ、山田やまだによると1960ねん根岸ねぎしじゅん太郎たろう児島こじまけい16だい新井あらいひらうま弟子でし)と岩田いわた弥市やいち秩父ちちぶけい14だい本橋もとはし惣五郎そうごろうとする斎藤さいとう忠夫ただお弟子でし)が演武えんぶおこなったのが秩父ちちぶにおける気楽きらくりゅう最後さいご[3] とべるせつもある。

他方たほうで、本橋もとはし惣五郎そうごろう本橋もとはし万作まんさく本橋もとはし武次たけつぐ本橋もとはしつね斎藤さいとうひゃくきちつづ系統けいとうでは、秩父ちちぶぐん横瀬よこせまち弘武ひろたけかんとして伝承でんしょうされ、伝書でんしょ武具ぶぐらがまち指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざいとして指定していされている[13]。1957ねんにレスリングフリースタイル世界せかい大会たいかい出場しゅつじょうし、のち中央ちゅうおう大学だいがくレスリング監督かんとくとなった本橋もとはし元一げんいち気楽きらくりゅう弘武ひろたけかん出身しゅっしんである[14]

山田やまだ弟子でし武道ぶどう研究けんきゅう平上たいらかみ信行のぶゆきによれば、山田やまだみのる最後さいご伝承でんしょうしゃ[15]という本橋もとはし武次たけつぐ秩父ちちぶ気楽きらくりゅう16だい)から教授きょうじゅけ、またうえしゅうけいなど気楽きらくりゅう伝承でんしょうしゃからもおしえを秩父ちちぶ気楽きらくりゅうりゅうさわ邦彦くにひこ立命館大学りつめいかんだいがく教授きょうじゅ)らと伝承でんしょうけ、さいたかし[15]秩父ちちぶむく神社じんじゃ奉納ほうのう演武えんぶおこなわれるひと伝承でんしょうがなされている。

阿波あわこく気楽きらくりゅう[編集へんしゅう]

阿波あわこく気楽きらくりゅうは、喜楽きらくりゅうかれることがおおい。徳島とくしま藩主はんしゅ蜂須賀はちすか武芸ぶげい指南番しなんばんつとめたことがある井田いだまどか重郎しげお伊田いだとも)が阿波あわこく板野いたのぐん各地かくち喜楽きらくりゅう教授きょうじゅおこなっていた(菅沼すがぬまいさむ輔(12せい)の門弟もんてい)。

井田いだよしみなが6ねん(1853ねん)、開国かいこく修行しゅぎょう徳山とくやまはんていた 牟田むたぶんすけ佐賀さがはん鉄人てつじんりゅう剣術けんじゅつ)の修行しゅぎょうじん宿やどたずねている [16]牟田むたによると井田いだ江戸えどまいがあり、ななねん諸国しょこくまわりれきして江戸えどかえるところであったという。

徳島とくしま城内きうちおこなわれた武術ぶじゅつ大会たいかい天神てんじん楊流長島ながしま直吉なおきち天神てんじん楊流開祖かいそいそ又右衛門またえもん門人もんじん)と試合しあいしたさい一見いっけん木刀ぼくとう同様どうようつくられたさや木刀ぼくとうちぎりふうじられすきかれ敗北はいぼくしたことにより井田いだ浪人ろうにんとなった。のち井田いだ板野いたのぐん松茂まつしげむら豊久とよひさ豪農ごうのうであるぐんろく左衛門さえもんたくき、地方ちほう有志ゆうしあつめて柔術じゅうじゅつ指南しなんおこなった。井田いだ喜楽きらくりゅう熱心ねっしん指導しどうし、板野いたのぐん大津おおつむら矢倉やくら福井ふくい角太郎かくたろう藤田ふじたおさむかどふとし佐竹さたけひだりふとし坂田さかたはやし十郎じゅうろう田村たむら伊助いすけなどが奥儀おうぎおさめた。その井田いだ板野いたのぐん松茂まつしげむらから板野いたのぐん西条さいじょう喜楽きらくりゅう指南しなんした。このとき弟子でし浅野あさの又兵衛またべえがおり、この系統けいとう昭和しょうわごろまでつたわっていた。

井田いだ門人もんじん[編集へんしゅう]

  • 井田いだまどか重郎しげお一心いっしんときちょう阿波あわこく蜂須賀はちすか武芸ぶげい指南番しなんばん
    • 福井ふくい角太郎かくたろう
    • 藤田ふじたおさむかどふとし
    • 佐竹さたけひだりふとし
    • 坂田さかたはやし十郎じゅうろう
    • 田村たむら伊助いすけ
    • 浅野あさの又兵衛またべえ板野いたのぐん西条さいじょう板野いたのぐん瀬戸せとむら転居てんきょ
      • 山本やまもと岩吉いわきち板野いたのぐん撫養町黒崎むやちょうくろさき

磐城いわきこく陸奥みちのくこく)の気楽きらくりゅう[編集へんしゅう]

磐城いわきこく明治めいじ元年がんねんまえ陸奥みちのくこく)の気楽きらくりゅうは、奥澤おくさわななこととき(15せい)が江戸えど浅草あさくさ花川戸はなかわど道場どうじょうひらいて門人もんじん指導しどうしていたときに、安藤あんどう対馬つしまもり藩士はんし三春みはるはん守山もりやまはん藩士はんしらがおお修行しゅぎょうをしていたことから、磐城いわきひらはん磐城いわき三春みはるはん守山もりやまはん戸田とだりゅうとして伝承でんしょうされる。

三春みはるはん藩士はんし加藤かとう木直きなおしおやしょう太夫たゆう藤木ふじきしげるきょうらによって藩校はんこうでも伝授でんじゅされた。

けんじがく[編集へんしゅう]

江戸えど隆盛りゅうせいした流派りゅうはは、神仏しんぶつ分離ぶんり以前いぜん神社じんじゃ仏閣ぶっかくがく献上けんじょうすることをさかんにったことが特徴とくちょうとしてあげられる。

中興ちゅうこううたわれた飯塚いいづか臥龍がりょうときは、江戸えど愛宕あたご神社じんじゃした門弟もんてい3000にんかぞえるほどの道場どうじょうかまえていたが、自身じしん門弟もんてい五十嵐いがらし金弥きんや(のちに児島こじまけい13代目だいめとなる)らとともに、浅草寺せんそうじけんじがくしている。ただこのがく昭和しょうわ戦災せんさいによる東京とうきょうだい空襲くうしゅうよって焼失しょうしつしている。 ほかにも、碓氷峠うすいとうげ熊野くまの神社じんじゃ赤城あかぎ神社じんじゃさんたい神社じんじゃなどに、飯塚いいづか臥龍がりょうときとその門弟もんていによるけんじがく根岸ねぎし登美とみふとしらによるけんじがくがある。またぐんさかいまち伊与久いよく雷電らいでん神社じんじゃには、14だい斎藤さいとうたけ八郎はちろうによるがく新井あらい数馬かずまらによるがくがあり、勢多せたぐん木曾きそ神社じんじゃには下田しもだ茂平もへいによるがくが、世田谷せたがや祖師谷そしがや神明しんめい神社じんじゃには斎藤さいとうひゃくきちによるけんじがく現存げんそんしている。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

系統けいとうによって技法ぎほう差異さいはあるが、柔術じゅうじゅつ基本きほんてき技法ぎほう共通きょうつうしており、けんぼう鎖鎌くさりがまちぎり[注釈ちゅうしゃく 6]などの武器ぶきじゅつ共通きょうつうしている。

免許めんきょ

おおくの流派りゅうはでは、切紙きりかみ目録もくろく目代もくだい(もくだい)、免許皆伝めんきょかいでんよん段階だんかい継承けいしょうされていたという。目録もくろく気楽きらくりゅうぜん課程かてい修了しゅうりょう証明しょうめいであり一応いちおう気楽きらくりゅう武芸者ぶげいしゃとなる。目代もくだい師範代しはんだいのような地位ちいであり、門弟もんてい取立とりたて免状めんじょうである。目代もくだいはあまり使つかわれない用語ようごで、気楽きらくりゅうのほかは発祥はっしょうおな群馬ぐんまけん馬庭まにわねんりゅう使用しようれいられる[3]目代もくだい免許皆伝めんきょかいでんあいだ奥伝おくでんがあるともされる[11]

わざからだじゅつ

当身あてみのことを「くだき」といい、系統けいとう差異さいがあるが5つのかたちがある。これは切紙きりかみ初手しょて段階だんかいまなぶ。[3]

また上記じょうき切紙きりかみまないつつの「砕」以外いがいにも目録もくろく目代もくだい印可いんかかく段階だんかいで「砕」をまなぶことになっている。

一般いっぱんに「捕手ほしゅ」といい大東だいとうりゅうで「しょうがえし」というかたちは、気楽きらくりゅうで「礼儀れいぎ」という。また一般いっぱんてきな「しょう手返てがえし」(手首てくび関節かんせつそと旋をともなわざ)を気楽きらくりゅうでは「はな」というが、たおしたあとさえつける行程こうていまでをしている[9]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

  • 戸田とだ越後えちごもり
  • 新藤しんどう雲斎うんさい好一よしかず
  • 戸田とだ隼人はやと
  • 齋藤さいとう大夫たいふ
  • 中根なかねすみ兵衛ひょうえ
  • 渡辺わたなべもくみぎ衛門えもん
  • 金沢かなざわ新五しんご兵衛ひょうえ
  • 渡辺わたなべへいみぎ衛門えもん
  • 渡辺わたなべりんない
  • 絹川きぬかわ久右衛門きゅうえもん義重よししげ
  • 蛭川ひるかわきくみぎ衛門えもんきょうりょう

飯塚いいづか臥龍がりょうとききょうよし(11せい気楽きらくりゅう中興ちゅうこう[編集へんしゅう]

菅沼すがぬまいさむ輔良きん(12せいたけしゅう気楽きらくりゅうけい[編集へんしゅう]

  • 飯塚いいづか徳三郎とくさぶろう臥龍がりょうとききょうよし(11せい
    • 菅沼すがぬまいさむ輔良きん四郎しろう) 12せい
      • 勅使河原てしがわら仁兵衛じんべえちんてる(12せい)(加藤かとう軍司ぐんじ実父じっぷ
        • 黒沢くろさわ秀一ひでかずすうただし
          • 黒沢くろさわ賢一けんいち
            • 山田やまだみのる
      • 塚越つかこしよしみぎ衛門えもんりょうしゅう(13せい) 深谷ふかや
        • 金井かない伊三郎いさぶろうきょうりょう(14せい) 深谷ふかや
        • 若林わかばやし鶴吉つるきち秀和しゅうわ(14せい) 万場まんばまち
      • 高田たかだ傳兵衛でんべえ 輔義こう(13せい臥龍がりょうときまご 上敷面じょうしきめんもと2ねん3がつ15にちたけしゅう熊野くまのさんしゃ権現ごんげんたてまつがく慶応けいおう1. とし9がつ19にちきよし天宮てんぐうたてまつがく
        • 高田たかだ幸衛ゆきえもりぼう(14せい上敷面じょうしきめん ひろ3ねん 高田たかだ傳兵衛でんべえ入門にゅうもん 安政あんせいねん免許めんきょ たけしゅう榛澤はんざわぐん上敷面じょうしきめんむら 皇国こうこく武術ぶじゅつ英名えいめいろく2)
          • 荻野おぎの長五郎ちょうごろう
          • 木部きべ佐一郎さいちろう
          • 高田たかだきよし二郎じろう
          • 近藤こんどうぶくじゅうろう
      • 伊東いとう燕尾えんび黒田くろだ鉄太郎てつたろう目録もくろく) 講談こうだん
      • 関口せきぐちよし三良さぶろうしゅう(13せい深谷ふかやけい (長山ながやま弥一やいち) 
      • 関口せきぐち健司けんじ良隆よしたか(13せい
        • 新井あらいたけななりょうきょう(14せい
          • 新井あらい彌八やはち(15せい)  
      • 加藤かとう軍司ぐんじ良正よしまさ[17] (英武ひでたけかん 秩父ちちぶ 藤岡ふじおか)(13せい
        • 加藤かとう鉄之助てつのすけ良一りょういち(14せい藤岡ふじおか
        • 本橋もとはし惣五郎そうごろう満之まんし弘武ひろたけかん)(14せい横瀬よこせ
          • 本橋もとはし萬作まんさく忠義ちゅうぎ(15せい横瀬よこせ
            • 本橋もとはし武次たけつぐあつしよし(16せい横瀬よこせ
              • 山田やまだみのる
            • 本橋もとはしつね弘武ひろたけかん
              • 山田やまだみのる
            • 関根せきね良作りょうさく(16せい玄武げんぶかん講道館こうどうかん柔道じゅうどうろくだん
            • 大島おおしま勇四郎ゆうしろう(16せい 講道館こうどうかんだん
            • 山野やまの忠吉ただよし(16せい 明治めいじ17年生ねんせい 荒川あらかわむらわか御子みこ神社じんじゃたてまつがく
              • 嶋崎しまざき梯二ていじ
                • 山田やまだみのる
            • 根岸ねぎしじゅん太郎たろう俊英しゅんえいしんかん
        • 勅使河原てしがわら仁兵衛じんべえちんてる 上吉田かみよしだ
        • 勅使河原てしがわら廣重ひろしげ
        • 町田まちだ為之助ためのすけ良則よしのり(13せい、14せい)(加藤かとう軍司ぐんじ弟子でし
        • 加藤かとう武市たけいち良金よしかね(14せい)(加藤かとう軍司ぐんじ弟子でし
        • 加藤かとう鐵之助てつのすけ良一りょういち(14せい) 藤岡ふじおか
        • 若林わかばやし秀和ひでかず(14せい加藤かとう軍司ぐんじ弟子でし
          • 浅見あさみちゅう三郎さぶろうためあきら
        • 町田まちだ甚太郎じんたろうぎょうまえ(14せい
        • 町田まちだ寅之助とらのすけ(14せい)ー町田まちだ吉太郎よしたろう(15せい)ー町田まちだつつみ(16せい
        • 塩田しおだ雷太らいたろう廣光ひろみつ(14せい
      • 町田まちだ五郎右衛門ごろうえもん広林ひろばやし(13せい
        • 吉岡よしおかたすく五郎ごろうゆきえい
          • 斎藤さいとうひゃくきちきょうちょう(15せい国際こくさい武道ぶどう協会きょうかい
            • 海野うみの清一せいいち
            • 斎藤さいとう安正やすまさ
            • もり幹雄みきお
            • 太田おおた由次よしじ
            • さきあいだぜん
            • 芦沢あしざわとおる
            • 黒部くろべ俊男としお
          • 関根せきね幸作こうさく
      • 福田ふくだはちこれすけ(13せい 奥山おくやまねんりゅう天神てんじん楊流)
      • 井田いだまどか重郎しげお一心いっしんときちょう(13せい 菅沼すがぬま門弟もんてい 阿波あわこく蜂須賀はちすか武芸ぶげい指南番しなんばん
        • 福井ふくい角太郎かくたろう
        • 藤田ふじたおさむかどふとし
        • 佐竹さたけひだりふとし
        • 坂田さかたはやし十郎じゅうろう
        • 田村たむら伊助いすけ
        • 浅野あさの又兵衛またべえ板野いたのぐん西条さいじょう板野いたのぐん瀬戸せとむら転居てんきょ
          • 山本やまもと岩吉いわきち板野いたのぐん撫養町黒崎むやちょうくろさき
        • 坂東ばんどう芳太郎よしたろう

児島こじまよし兵衛ひょうえ(12せいけい[編集へんしゅう]

  • 飯塚いいづか徳三郎とくさぶろう臥龍がりょうとききょうよし(11せい
    • 児島こじまよし兵衛ひょうえしんしょう 12せい
    • 根岸ねぎしかなめ七郎しちろうしょうはん 児島こじま門弟もんてい
    • 五十嵐いがらし金弥きんや信好のぶよし(13せい臥龍がりょうとき児島こじま門弟もんてい
      • 斎藤さいとうたけ八郎はちろうざいひろし ゆうひろし(14せい 寛政かんせいねん 伊与久いよくむらせい 伊勢崎いせざきはん 徒士かちかく番所ばんしょばん 柔術じゅうじゅつ指南しなんやく 上野うえの池之端いけのはた道場どうじょう
        • 斎藤さいとうげんえつ(15せい漢方かんぽう匡正きょうせいじゅつ
          • 斎藤さいとう周治しゅうじ(16せい匡正きょうせいじゅつ気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつ師範しはん教員きょういん
          • 斎藤さいとうただし(17せい匡正きょうせいじゅつ群馬ぐんまけん沼田ぬまた、1960年代ねんだい東京とうきょうにて開業かいぎょう
          • 齋藤さいとう光生みつおめい継承けいしょう(18せい匡正きょうせいじゅつ)、東京とうきょう杉並すぎなみ世田谷せたがや練馬ねりま葛飾かつしか調布ちょうふ神奈川かながわけん相模原さがみはら群馬ぐんまけん利根とねぐん片品かたしなむら直系ちょっけい継承けいしょうしゃ匡正きょうせいどう斎藤さいとう整骨せいこついん開業かいぎょう現在げんざい(2022ねん現在げんざい時点じてん群馬ぐんまけん営業えいぎょうはしていない。18せい門弟もんていは20めい以上いじょうおり現在げんざい関東かんとう関西かんさい上越じょうえつ、ハワイにそれぞれ匡正きょうせいどうという屋号やごうで20いんほど独立どくりつ開業かいぎょうしている。
        • 斎藤さいとうたけしななとくひろし(15せい) 山田やまだぐん大町おおまちむらせい 伊勢崎いせざきはん 柔術じゅうじゅつ指南しなんやく 韮塚にらづか飯玉いいだま神社じんじゃけんじがく
          • 齋藤さいとう武二郎たけじろう(16せい斎藤さいとうたけ七郎しちろう養子ようし) 
            • 岡田おかだ作治さくじ明治めいじ17ねん
            • 斎藤さいとうしげるひろし
        • 高木たかぎあまね善行ぜんこう(15せい采女うねめ村木むらきとう たけ八郎はちろう入門にゅうもん 明治めいじ25ねん9がつぼつ
          • 小暮こぐれ信三郎しんざぶろう義行よしゆき(16せいしゅう輔弟 たけ八郎はちろう入門にゅうもん水戸みと天狗てんぐとう参加さんか義勇ぎゆうかん  門弟もんていせんにん 嘉納かのう治五郎じごろうによる揮毫きごう石碑せきひ 木島きしま会議かいぎしょ
            • 高田たかだ栄三郎えいさぶろう義政よしまさ(17せい) さかい公園こうえん石碑せきひ 義勇ぎゆうかんさかい道場どうじょう
            • 小暮こぐれ勝太郎かつたろう俊行としゆき      信三郎しんざぶろう長男ちょうなん
            • 池田いけだじつ五郎ごろう道善どうぜん 天保てんぽう4ねん 剛志たけし村上むらかみ武士たけし 斎藤さいとう道場どうじょう入門にゅうもん明治めいじ25ねん免許皆伝めんきょかいでん武士ぶし神社じんじゃたてまつがく 明治めいじ35ねん6がつぼつ
            • 斎藤さいとうろう 古今ここんていこん さかいまち諏訪すわまちせい 
        • 後藤ごとう一雄かずおのりひろし(15せい
        • 加藤かとう勝之かつゆきすすむ(15せい勝間かつま文化ぶんかねん下渕名しもふちなむらせい どう15ねん斎藤さいとうたけ八郎はちろう入門にゅうもん天保てんぽう2ねん免許皆伝めんきょかいでん 旗本はたもと 新田にったしゅんじゅん武術ぶじゅつ指南しなん連取れんしゅ菅原すがわら神社じんじゃ 嘉納かのう治五郎じごろう揮毫きごう石碑せきひ ) 
          • 加藤かとう徳之のりゆき清春きよはる 下渕名しもふちな
          • 根岸ねぎし太郎左衛門たろうざえもん(16せい) 太郎たろう高義たかよし 連取れんしゅどう石碑せきひ建立こんりゅう 大正たいしょう3ねん
            • 根岸ねぎし克太郎かつたろうこうしゅん(17せい) 宮子みやこ
            • 高柳たかやなぎ伝四郎でんしろう義信よしのぶ(17せい) 香林こうばやし
          • 岩崎いわさきこえさんおんな 新田にった上田中うえだなか 長刀ちょうとう女傑じょけつ 明治めいじ44ねんぼつ
          • 加藤かとう良作りょうさく
          • なまかたちたかろう
          • 加藤かとう徳之のりゆき (16せい)(勝之かつゆきすすむ 養子ようし
        • 内山うちやまぜい左衛門さえもんほんこう(15せい
          • 角田つのだ國三郎くにさぶろうもとおや(16せい伊勢崎いせざきはん家臣かしん 内山うちやまぼつ 後藤ごとう一雄かずお門下もんか もん人数にんずうひゃくにん
        • 五十嵐いがらしらい輔安れい(15せい
        • 長沼ながぬま長次郎ちょうじろう綱吉つなよし(15せい)(天保てんぽう12年生ねんせい はちすんむら 伊勢崎いせざきはん家臣かしん 安政あんせい3ねん斎藤さいとうたけ八郎はちろう入門にゅうもん 明治めいじ14ねん免許皆伝めんきょかいでん 皇国こうこく武術ぶじゅつ英名えいめいろく もん人数にんずうひゃくにん 明治めいじ43ねん8がつにちぼつ 70さい さかいまち大国たいこく神社じんじゃ参道さんどう石碑せきひ
          • 田沼たぬま勝蔵かつぞう
          • 木村きむら政平まさへい
          • 清水しみずりゅうはち
          • 高橋たかはし甚蔵
          • 石井いしい菊松きくまつ
          • 石井いしい熊太郎くまたろう
          • 新井あらい久平きゅうへい眞澄ますみ 元治もとはる元年がんねん下渕名しもふちなむらせい 大国たいこく神社じんじゃ石碑せきひ
            • もり良作りょうさくせいしゅう(17せい伊与久いよく
          • 新井あらいひらうま清住きよすみ(16せい下渕名しもふちな 万延まんえん元年がんねん 51さい印可いんか
            • 新井あらい数馬かずま(17せい下渕名しもふちな
            • 新井あらいみち次郎じろう(18せい新井あらいひらうままご。)下渕名しもふちな
              • 水科みずしな寿美としみ(19せいねりこころざしかん
              • めししま文夫ふみお(19せい尚武しょうぶかん
            • 須永すながわたるすけ(18せい明治めいじ36ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん大正たいしょうねん免許皆伝めんきょかいでん
            • 岡部おかべ作治さくじ(18せい明治めいじ36ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん大正たいしょうねん免許皆伝めんきょかいでん
            • 新井あらいさきろう明治めいじ36ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん
            • 吹上ふきあげもりぞう明治めいじ45ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん
            • なまかたち松雄まつお明治めいじ55ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん下渕名しもふちな
            • 深町ふかまち由蔵よしぞう大正たいしょう2ねん新井あらいひらうま入門にゅうもん下渕名しもふちな
          • 須永すながりゅう八弥はちやすけ 下渕名しもふちな 長沼ながぬま入門にゅうもん たいらから印可いんか 
          • 木村きむら政平まさへい
          • 田沼たぬま勝蔵かつぞう
        • 木村きむら政平まさへい
        • 高井たかい平作へいさく天保てんぽう年間ねんかん目代もくだい
        • 立川たちかわ弥三郎やさぶろう
        • 長谷川はせがわひとし平定へいていひろし 保泉ほずみ
        • 田中たなか松太郎まつたろうせいあつし 伊勢いせ亀山かめやまはん
        • 奥澤おくさわななことときみなもと良重よしえ(15せい 気楽きらくりゅう戸田とだりゅう浅草あさくさ花川戸はなかわど
          • 奥澤おくさわけい太郎たろう(16せい気楽きらくりゅう天神てんじん楊流、湯島天神ゆしまてんじんおさむしんかん」、嘉納かのう治五郎じごろう
          • 加藤かとう木直きなおしおや(16せい 天保てんぽう4年生ねんせい 勝沼かつぬま加藤かとういっはちろう じゅうきょうちち 安藤あんどう対馬つしまもりいわ城平じょうひらはん戸田とだりゅう指南しなんやく、                         ひらはん出奔しゅっぽんし、のち磐城いわき三春みはるはん戸田とだりゅう指南しなん加藤かとう木庄きのしょう太夫たゆう養子ようしとなる)
          • 大川おおかわかんつかさ藤原ふじわらよししん(15せい
          • 高橋たかはしわたる夢幻むげんとき高橋たかはししゅんげいしんちょうぐみ気楽きらくりゅう破門はもんたけ八郎はちろう門弟もんてい薩摩さつま浪士ろうしたい出流いずるさん事変じへん挙兵きょへい刑死けいし
            • 大塚おおつかかなえさく 薩摩さつま浪士ろうしたい書記しょきやく
            • 羽鳥はとり龍三りゅうぞう どう 砲術ほうじゅつ隊長たいちょう
    • 八木やぎまさしみぎ衛門えもん
    • 下田しもだ幸蔵こうぞう義光よしみつ皇国こうこく武術ぶじゅつ英名えいめいろく 臥龍がりょうとききょう門人もんじん 12せい?)
    • 松村まつむらりんはち
    • 伊藤いとうたけろう

飯塚いいづか帯刀たてわき義高よしたかけいとき(12せい[編集へんしゅう]

  • 飯塚いいづか徳三郎とくさぶろう臥龍がりょうとききょうよし(11せい
    • 長山ながやま太夫たゆう久馬きゅうま
    • 岡部おかべただしはる 常三郎つねさぶろう(13せい) 義高よしたか長山ながやま太夫たゆう久馬きゅうま弟子でし 新田にったぐん大根おおねむら 文政ぶんせい7年生ねんせい安政あんせい6ねん12月 36さいぼつ
    • 飯塚いいづか帯刀たてわき義高よしたかけいとき(12せい臥龍がりょうとき養子ようし文政ぶんせい年間ねんかん) 棒澤ぼうさわぐん上敷面じょうしきめんむらせい 文政ぶんせい5ねん さんたい神社じんじゃけんじがく明治めいじ2ねん正月しょうがつぼつ) 
      • 飯塚いいづかりゅうじょきょうだか(13せい 九郎くろう ひろ2ねん入門にゅうもん  明治めいじ14ねん3がつぼつ)57さい
        • 長山ながやま弥一やいちせいしょう(14せい義高よしたか(12せいならびに龍之介りゅうのすけきょうだか(13せい)より免許めんきょ 綿内わたうちむら                              天保てんぽう元年がんねん明治めいじ32ねん よしみまもる5ねん入門にゅうもん 6ねん切紙きりかみ 文久ぶんきゅう元年がんねん4がつ免許皆伝めんきょかいでん  もと元年がんねん たけねりぐみやく加納かのう遠江とおとうみまもる
          • 栗原くりはら長藏ちょうぞう(15せい新田にった上中かみなか
            • 栗原くりはら正信まさのぶ(16せい
          • 高山たかやま辰次郎たつじろうせいあきら(15せい長山ながやま弥一やいち弟子でし 新田にったぐん綿内わたうちむら
            • 高山たかやま松太郎まつたろう(16せい)
            • 生方うぶかた輔造(うしづくり)(16せい北橘きたたちばなむら明治めいじ10ねん昭和しょうわ21ねん)70さいぼつ       明治めいじ26ねん入門にゅうもん 28ねん切紙きりかみ 30ねん目録もくろく 42ねん目代もくだい 大正たいしょう6ねん免許皆伝めんきょかいでん
            • 飯塚いいづかただしないだい日本にっぽん武徳ぶとくかい 剣道けんどうきょう 昭和しょうわ天覧てんらん試合しあい出場しゅつじょう
            • 高山たかやまあきら講道館こうどうかん柔道じゅうどう7だん)(16せい
            • 下田しもだ茂平もへいせいしゅう(16せい昭和しょうわ22ねん10がつ免許皆伝めんきょかいでん 生方うぶかた輔造より
              • 飯塚いいづかおにろう(16せい北群馬きたぐんまぐん子持こもちむら 昭和しょうわ22ねん3がつ免許めんきょ   高山たかやま松太郎まつたろうより免許めんきょ 大正たいしょう2ねん9がつ 高山たかやま辰次郎たつじろうより目代もくだい 明治めいじ41ねん3がつ どう目録もくろく 明治めいじ31ねん1がつどう 切紙きりかみ
              • 小菅こすがめぐみ一郎いちろう    北群馬きたぐんまぐん子持こもちむら
              • 川野かわの郁夫いくお精一せいいち(17せい)(光輪こうりんほら合気道あいきどう りゅうじゅく
              • 藤堂とうどう良明よしあき(17せい)(筑波大学つくばだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
            • まるいそなな
            • 小林こばやしちょう重郎しげお (15せい) 明治めいじ22ねん10がつ 相伝そうでん 明治めいじ16ねん目代もくだい 明治めいじ2ねん目録もくろく 慶応けいおう3ねん切紙きりかみ
            • 藤生ふじゅうでん重郎しげお(15せい笠懸かさかけむら 明治めいじ22ねん10がつ 目代もくだい皆伝かいでん 明治めいじ2ねん8がつ切紙きりかみ
        • 平柳ひらやなぎしんりゅうひとし義長よしなが きゅうさんろう(14せい) 慶応けいおう3ねん入門にゅうもん 緑埜みどのぐん下大塚しもおおづかむら やなぎもりかん) 龍之介りゅうのすけ輔高弟子でし
          • 平柳ひらやなぎとなりまつ 15せい 繁次郎しげじろう りゅうひとし義長よしなが弟子でし
          • ひら柳谷やなぎや五郎ごろう たにぞう 15せい りゅうひとし義長よしなが弟子でし
          • 平柳ひらやなぎことぶき義清よしきよ 時次郎ときじろう(15せい 緑埜みどのぐん下大塚しもおおづかむら
        • 新井あらい龍三郎りゅうさぶろう(14せい) 龍之介りゅうのすけ輔高弟子でし

飯塚いいづかいのししはやつかさ義興よしおき伊三郎いさぶろう のち臥龍がりょうとき襲名しゅうめい 14せい飯塚いいづかりゅうこれすけ(13せい)のおとうと甘楽かんらぐん小幡おばたとどろき道場どうじょうひらく 大正たいしょう11ねん1がつぼつ(68さいそつ長山ながやま弥市やいちから印可いんか[編集へんしゅう]

  • 根岸ねぎし登美とみふとし(15せい
  • 新井あらいじょうななりょうきょうおさむたけかん上野うえのむら 義興よしおきまな
  • 関口せきぐちまんみやつこもりぎょう しむらゆき(15せい吉井よしいまち神保じんぼう 明治めいじ19ねん免許皆伝めんきょかいでん多野たの甘楽かんら臼井うすい指導しどう からし神社じんじゃけんじがく石碑せきひ嘉納かのう治五郎じごろう揮毫きごう
    • 瀬下せしも常吉つねきち(16せい) 大正たいしょうねん免許めんきょ
    • 吉田よしだたけ太郎たろう
    • 矢島やじま忠蔵ちゅうぞう(16せい) (富岡とみおか白岩しらいわようたけかん 大正たいしょうねん免許めんきょ
      • 茂木もき忠三郎ちゅうざぶろう君川きみかわ
        • 松本まつもとよし十郎じゅうろう
        • 大蔵おおくら善一郎ぜんいちろう
          • 辰巳たつみ半平はんぺん
          • 浅見あさみ源太郎げんたろう
          • 福田ふくだでん十郎じゅうろう
          • 牧野まきの幸太郎こうたろう
          • 市川いちかわ米吉よねきち
          • 新井あらい金太郎きんたろう 
          • 堀越ほりこしたいら重郎しげお
        • 石塚いしづか栄吉えいきち義正よしまさ(15せい
        • 不破ふわさきさん不破ふわりゅう創始そうし
      • 八木やぎ良助りょうすけ(13せい) 帯刀たてわき義高よしたか弟子でし 多胡たごぐん上日野かみひのむら 文政ぶんせい10ねん目録もくろく
      • 新井あらい小巻こまき(13せい)  〃
      • 松田まつだゆきなな(13せい)  〃     多胡たごぐん上日野かみひのむら 〃 
      • 松本まつもとよし十郎じゅうろう義重よししげ(13せい 緑埜みどのぐん下大塚しもおおづかむら

ながれからのつてけい不明ふめい人物じんぶつ系統けいとう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 臥龍がりょうとき武者むしゃ修行しゅぎょうおこな柔術じゅうじゅつ中心ちゅうしんじゅうすう流派りゅうは免許めんきょたといわれている。
  2. ^ かれ菅沼すがぬまけいでは5だい児島こじま飯塚いいづかりょう系統けいとうでは6だいとする。一方いっぽう児島こじまけい所蔵しょぞうのべとおる2ねん古文書こもんじょでは7だいとされる。
  3. ^ 菅沼すがぬまけいのみ蛭川ひるかわつぎ飯塚いいづかひさしこれしんきょうく。一方いっぽう児島こじまけい所蔵しょぞうのべとおる2ねん古文書こもんじょ渡辺わたなべへいみぎ衛門えもん絹川きぬかわあいだ渡辺わたなべりんないき、絹川きぬかわつぎ須藤すとうりん大夫たいふるが、古文書こもんじょ林内りんないから須藤すとうあたえられたもので絹川きぬかわ後世こうせいしである。
  4. ^ このように群馬ぐんまけん東部とうぶ新田にったぐん伝承でんしょうしているものを西部せいぶの”甘楽かんら藤岡ふじおかけい”とぶことになるので、かかる表現ひょうげんじょう混乱こんらんられる。
  5. ^ 正伝せいでん 気楽きらくりゅう」では、歴代れきだい記載きさいされたかく流派りゅうは伝承でんしょう巻物まきものしめされるが、菅沼すがぬまけい町田まちだ系統けいとうのものしかなく、勅使河原てしがわら加藤かとうけい代数だいすう記載きさいである。
  6. ^ 皇国こうこく武術ぶじゅつ英名えいめいろく』に気楽きらくりゅうちぎり発明はつめいしたのは飯塚いいづか義高よしたかだとあり、山田やまだは、英名えいめいろくしたがえばちぎり甘楽かんらけいから他派たは伝承でんしょうされたことになるとろんじている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 諸田もろた政治せいじうえ剣術けんじゅつ 上毛新聞社じょうもうしんぶんしゃ、1991ねん
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん體操たいそう傳習でんしゅうしょいてかね調査ちょうさちゅうなる剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつじゅつ」1883ねん11月16にちづけ朝刊ちょうかん
  3. ^ a b c d e f g h i j 山田やまだみのる 『Yawara-られざる日本にっぽん柔術じゅうじゅつ世界せかい』BABジャパン出版しゅっぱんきょく、1997ねん
  4. ^ 朝日新聞あさひしんぶん講道館こうどうかん道場どうじょう落成らくせいしき」1907ねん3がつ25にちづけ朝刊ちょうかん
  5. ^ 匡正きょうせいどうについて - 整骨せいこついん”. maedaseikotsuin.life.coocan.jp. 2022ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 新町しんまちまち 通史つうしへん
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  8. ^ しの弘明ひろあきさかいまち武道ぶどう」『さかい風土記ふどきさかいまち地方ちほう研究けんきゅうかい、1969ねん
  9. ^ a b c 岩井いわいさくおっと武術ぶじゅつ探求たんきゅう-その実戦じっせんせいさつかつほうのすべて』あいりゅうどう、1991ねん
  10. ^ japanbujutsu. “再考さいこう 古流こりゅう武術ぶじゅつ宗家そうけはない | 国際こくさい水月すいげつじゅく武術ぶじゅつ協会きょうかい International Suigetsujuku Bujutsu Association”. 国際こくさい水月すいげつじゅく武術ぶじゅつ協会きょうかい International Suigetsujuku Bujutsu Association. 2022ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  11. ^ a b さかいまちへんさん委員いいんかいへんさかいまちだい2かん民俗みんぞくへん)、さかいまち、1995ねん、(『さかいまち民俗みんぞく』からの引用いんよう
  12. ^ 田中たなかよしもんついで」『武術ぶじゅつ探求たんきゅう岩井いわいさくおっとちょあいたかししゃ、1991ねん
  13. ^ 本橋もとはし気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつ資料しりょう | 【公式こうしき横瀬よこせまちホームページ(埼玉さいたまけん秩父ちちぶぐん”. www.town.yokoze.saitama.jp (2021ねん12月1にち). 2022ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  14. ^ Japan Wrestling Federation - 日本にっぽんレスリング協会きょうかい公式こうしきサイト - JWF”. www.japan-wrestling.jp. 2022ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 平上たいらかみ信行のぶゆきHP
  16. ^ 永井ながい義男よしお ちょ剣術けんじゅつ修行しゅぎょうたび日記にっき 佐賀さがはん葉隠はがくれ武士ぶしの「諸国しょこくまわりれきろく」をむ』朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2003ねん
  17. ^ 気楽きらくりゅう柔術じゅうじゅつ加藤かとう良正よしまさいしぶみ | 【公式こうしき横瀬よこせまちホームページ(埼玉さいたまけん秩父ちちぶぐん”. www.town.yokoze.saitama.jp (2020ねん2がつ6にち). 2022ねん2がつ7にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 諸田もろた政治せいじうえ剣術けんじゅつ上毛新聞社じょうもうしんぶんしゃ、1991ねん、359-376ぺーじ
  • めししま文夫ふみお正伝せいでん 気楽きらくりゅう」『うえ剣術けんじゅつ諸田もろた政治せいじ上毛新聞社じょうもうしんぶんしゃ、1991ねん、376-392ぺーじ
  • 山田やまだみのる 「ある地方ちほう流儀りゅうぎ興隆こうりゅう衰微すいび」『Yawara-られざる日本にっぽん柔術じゅうじゅつ世界せかい』BABジャパン出版しゅっぱんきょく、1997ねん、269-298ぺーじ
  • 新町しんまちまち編纂へんさん委員いいんかいへん新町しんまちまち 通史つうしへん新町しんまち教育きょういく委員いいんかい、1989ねん
  • しの弘明ひろあきさかいまち武道ぶどう」『さかい風土記ふどきさかいまち地方ちほう研究けんきゅうかい、1969ねん、343-351ぺーじ
  • 月刊げっかん秘伝ひでん創刊そうかんごう
  • ささきょうさく ちょ徳島とくしまけん柔道じゅうどう変遷へんせん : 研究けんきゅう体験たいけん』1958ねん
  • 鳴門なると編纂へんさん委員いいんかい へん鳴門なると ちゅうまき鳴門なると、1982
  • 埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい へん埼玉さいたまけん教育きょういく だいいちかん埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい、1968ねん
  • 森山もりやま軍治郎ぐんじろう ちょ民衆みんしゅう精神せいしん群像ぐんぞう きた底辺ていへんから』北海道大学ほっかいどうだいがく出版しゅっぱんかい、1974ねん
  • 伊勢崎いせざき へん伊勢崎いせざき 通史つうしへん3 付録ふろく伊勢崎いせざき、1991ねん
  • 渋川しぶかわへんさん委員いいんかい へん渋川しぶかわ だいさんかん(通史つうしへん 近代きんだい現代げんだい)渋川しぶかわ、1991ねん
  • 埼玉さいたまけん へん新編しんぺん埼玉さいたまけん べつへん4(年表ねんぴょう系図けいず)埼玉さいたまけん、1991ねん
  • 村尾むらお次郎じろう ちょかみもり人間にんげん』PHP研究所けんきゅうじょ、1978ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]