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新町しんまち宿やど

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木曽きそ海道かいどうろくじゅうきゅう 新町しんまち歌川うたがわ広重ひろしげ

新町しんまち宿やど(しんまちしゅく)は、江戸えど時代じだい指定していされた江戸えどからかぞえて11番目ばんめ中山道なかせんどうろくじゅうきゅう木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅう)の宿場しゅくばまちであった。

概要がいよう

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新町しんまち宿やどは、現在げんざい群馬ぐんまけん高崎たかさき新町しんまち位置いちする。新町しんまち宿やどは、中山道なかせんどうもっとおそ成立せいりつしたものであった。新町しんまち宿やど指定していにより中山道なかせんどう宿場しゅくばまちは67宿しゅくとなったが、東海道とうかいどう重複じゅうふくする草津くさつ宿やど大津おおつ宿やどくわえて中山道なかせんどうろくじゅうきゅう(または木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅう)とばれた。

中山道なかせんどう経路けいろ変更へんこう

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江戸えど時代じだい初期しょき新町しんまち宿やど周辺しゅうへん中山道なかせんどう本庄ほんじょう宿やど倉賀野くらがの宿やどとのあいだ経路けいろは、烏川からすがわ北岸ほくがん玉村たまむらとおっていた。その慶安けいあん4ねん1651ねん)に「落合おちあい新町しんまち」、うけたまわおう2ねん1653ねん)に「笛木ふえき新町しんまち」(いずれも烏川からすかわ南岸なんがん)に伝馬てんまやくめいぜられ、経路けいろ変更へんこうされた[1]

新町しんまち宿やど指定してい展開てんかい

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新町しんまち宿やど落合おちあいむら笛木ふえきむら合体がったいしてできた宿場しゅくばまちである[1]新町しんまち宿やど成立せいりつ経緯けいい地名ちめい由来ゆらいは、『多野たの藤岡ふじおか地方ちほう』にしめされている[2]

ふるくはひがしからみなみ一帯いったい上野うえのこく緑野りょくや原典げんてんママ)ぐんふえ木村きむら西にしからきたにかけてが下落合しもおちあいむらであった。下落合しもおちあいとは神流川かんながわ烏川からすがわ合流ごうりゅうするところなので、これに由来ゆらいする名称めいしょうであろう。下落合しもおちあいたいしてはきゅう美土里みどりむら藤岡ふじおか)に大字だいじ上落合かみおちあいがあるが 、中山道なかせんどう開通かいつうしてからは下落合しもおちあいといわず、たん落合おちあいといい、落合おちあい新宿しんじゅくまたは落合おちあい新町しんまちといった。 — 多野たの藤岡ふじおか地方ちほう

古文書こもんじょ古記こきろくには、新町しんまち宿やど落合おちあいむら苗木なえぎむらから構成こうせいされることから 「落合おちあい新町しんまち」「笛木ふえき新町しんまち」と区分くぶんされた記述きじゅつがあり、行政ぎょうせいてきには両者りょうしゃ独立どくりつしていたという[1]

新町しんまち宿やど石高いしたかは、安政あんせい3ねん1856ねん)の「新町しんまち熊谷くまがいあいだ宿やど盛衰せいすい其他ない調書ちょうしょじょう」によると863せき18しょう6ごうとされている。近隣きんりん本庄ほんじょう宿やどでは2149せき87しょう1ごう熊谷くまがい宿やどでは2024せき54しょう2ごうであった[3]新町しんまち宿やどじょごうむら状況じょうきょうは、江戸えど時代じだい末期まっきじょごうむら調ちょうによると,13,232せきで, ていじょさと32ヶ村かそん,であった[4]新町しんまち宿やど宿やどない内訳うちわけは、天保てんぽう14ねん1843ねん)の『中山道なかせんどう宿やどむら大概たいがいちょう』によれば、家数やかずは407けん、うち本陣ほんじん2けん脇本わきもとじん1けん旅籠はたご43けん宿やどない人口じんこうは1,473にんであった。よしみひさし5ねん1852ねん)の「よしみなが5ねん宿やどかためい細書さいしょじょうちょう」によると、新町しんまち宿やど本陣ほんじん2けん脇本わきもとじん1けん問屋とんや4けん旅籠はたご42けんとされている[5]

新町しんまち宿やど状況じょうきょう調書ちょうしょ報告ほうこくによると「らん宿やど事実じじつ善悪ぜんあく平凡へいぼん」であったという[6]

災害さいがい

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水害すいがい

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ひろしねん江戸えど洪水こうずい

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ひろし2ねん1742ねん)には、ひろしねん江戸えど洪水こうずいがあった。7月28にち新暦しんれき8がつ28にちごろより、暴風雨ぼうふうう畿内きないおそい、関東かんとうでもこの以後いごあめはじめた。翌々日よくよくじつの8がつ1にちよるはいると江戸えどでは最初さいしょあめとともに北東ほくとうはげしいふうはじめていたが、よるよんころからはげしい南風みなみかぜわりはげしいあら見舞みまわれ、江戸えど中心ちゅうしん広範囲こうはんいにわたる被害ひがい記録きろくされている。利根川とねがわうえ流域りゅういき位置いちする新町しんまち宿やど利根川とねがわ水系すいけい烏川からすかわ支流しりゅう神流川かんながわ氾濫はんらんおよんでおり、その被害ひがい状況じょうきょうは「新町しんまちまち[7]に、家屋かおくながし、死者ししゃおよび中山道なかせんどう通行止つうこうどひとし被害ひがい状況じょうきょう記述きじゅつがある[8]

神流川かんながわどろりゅう新町しんまち宿やどながみ、97けんものいえながし、54にんおよ死者ししゃしている。このとき中山道なかせんどう通行止つうこうどめになった。 — 新町しんまちまち

火災かさい

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寛政かんせい年中ねんじゅう(1789ねん - 1800ねん)、天保てんぽう4ねん(1833ねん)、天保てんぽう10ねん(1839ねん)、寛永かんえい5ねん(1852ねん)、寛永かんえい6ねん(1853ねん)、安政あんせい3ねん(1856ねん)に火災かさいがあり新宿しんじゅくまち記録きろくがあった。被害ひがいはおおきくなかったため「さき無難ぶなん」との記述きじゅつがあった[5]

史跡しせき・みどころ

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となり宿やど

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中山道なかせんどう
本庄ほんじょう宿やど - 新町しんまち宿やど - 倉賀野くらがの宿やど

最寄もよえき

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 新井あらい(2006)、126ぺーじ
  2. ^ 多野たの藤岡ふじおか地方ちほう編集へんしゅう委員いいんかい(1976)。
  3. ^ 原沢はらさわ(1954)、26・27ぺーじ
  4. ^ 原沢はらさわ(1954)、31ぺーじ
  5. ^ a b 原沢はらさわ(1954)、28ぺーじ
  6. ^ 原沢はらさわ(1954)、27ぺーじ
  7. ^ 新町しんまちまち編纂へんさん委員いいんかい(1989)。
  8. ^ 新井あらい(2006)、138ぺーじ

参考さんこう資料しりょう

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  • 新井あらい健司けんじ江戸えど時代じだい中期ちゅうき新町しんまち宿やど洪水こうずい被害ひがいあたえた神流川かんながわ下流かりゅうかわどう変遷へんせん」『上武大学じょうぶだいがく経営けいえい情報じょうほう学部がくぶ紀要きようだい29ごう上武大学じょうぶだいがく経営けいえい情報じょうほう学部がくぶ、2006ねん、119-142ぺーじ
  • 多野たの藤岡ふじおか地方ちほう編集へんしゅう委員いいんかい 1976.『多野たの藤岡ふじおか地方ちほう』 。
  • 原沢はらさわ文彌ぶんや中山道なかせんどう坂本さかもと熊谷くまがいあいだ10宿しゅく宿駅しゅくえき規模きぼ-近世きんせい宿駅しゅくえき歴史れきし地理ちりがくてき考察こうさついち過程かてい-」しん地理ちり 2.3 (1954): 26-40.

関連かんれん項目こうもく

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