野尻のじり宿やど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
木曽きそ海道かいどうろくじゅうきゅう 野尻のじりけいときえいいずみ
野尻のじり宿やど町並まちな

野尻のじり宿やど(のじりじゅく)は、中山道なかせんどう40番目ばんめ宿場しゅくば(→中山道なかせんどうろくじゅうきゅう)。長野ながのけん木曽きそぐん大桑おおがむら位置いちする。寛政かんせい3ねん1791ねん)に大火たいかっている。宿場しゅくばどおりのながさは木曽きそじゅういち宿しゅくなかでは奈良井ならい宿やどいでおり、「七曲ななまがり」とばれ町筋まちすじがりくねっているのが特徴とくちょう[1]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

天保てんぽう14ねん1843ねん)の『中山道なかせんどう宿やどむら大概たいがいちょう』によれば、野尻のじり宿やど宿やどない家数やかずは108けん、うち本陣ほんじん1けん脇本わきもとじん1けん旅籠はたご19けん宿やどない人口じんこうは986にんであった。

最寄もよえき[編集へんしゅう]

史跡しせき・みどころ[編集へんしゅう]

  • 七曲ななまが
  • 臨済宗りんざいしゅう妙覚寺みょうかくじ(マリア観音かんのん
  • はずれ(宿場しゅくばのはずれにあった旅籠はたご屋号やごう
  • 南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょういしぶみ(「いぼせき」)

三留みとめ野宿のじゅくまでの史跡しせき・みどころ[編集へんしゅう]

  • 明治天皇めいじてんのう中川原なかがわら御膳ごぜんすい

野尻のじり宿やどから三留みとめ野宿のじゅくへの経路けいろは、木曽川きそがわ沿いの「たかしの桟」をとおみちと、危険きけん桟道さんどうけて山中さんちゅうける「与川よがわどう」の2ほんがある。

さん代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく木曽きそろくじゅうきゅうえき 野尻のじり駒ケ嶽こまがたけ遠景えんけいまつみぎもん女房にょうぼうしょうよし」
歌川うたがわ国芳くによし木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅうこれない 野尻のじり 藤原ふじわら保昌やすまさはかまたれ

となり宿やど[編集へんしゅう]

中山道なかせんどう
須原すはら宿やど - 野尻のじり宿やど - 三留みとめ野宿のじゅく

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 歴史れきし町並まちなみを探訪たんぼうする 長野ながのけん街道かいどう中山道なかせんどう”. 長野ながのけん大阪おおさか観光かんこう情報じょうほうセンター. 2021ねん11月11にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]