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藤原ふじわら保昌やすまさ

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藤原ふじわら 保昌やすまさ
藤原ふじわら保昌やすまさ菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』)
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 天徳てんとく2ねん958ねん
死没しぼつ ちょうはじめ9ねん1036ねん)9がつ
別名べつめい 平井ひらい 保昌やすまさ
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん西宮にしのみやあきら林寺はやしじ
官位かんい せいよん摂津せっつもり
主君しゅくん 円融天皇えんゆうてんのう花山はなやま天皇てんのう一条天皇いちじょうてんのう三条さんじょう天皇てんのう後一条天皇ごいちじょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ
父母ちちはは ちち藤原ふじわら致忠はは元明もとあき親王しんのうむすめ
兄弟きょうだい 保昌やすまさひとしひかり維光源満仲みなもとのみつなかしつ
つま 和泉式部いずみしきぶ大江おおえ雅致がちむすめ
かいはん女子じょし
テンプレートを表示ひょうじ
月岡つきおか芳年よしとしさく藤原ふじわら保昌やすまさ月下げっかろうふえ」(1883ねん
今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう宇治うじ拾遺しゅうい物語ものがたりかれた説話せつわ題材だいざいで、盗賊とうぞくはかまたれ(はかまだれ)がふえいている藤原ふじわら保昌やすまさおそかろうとするが、保昌やすまさひとけない気配けはいによりうごけない様子ようすえがいている。この作品さくひん芳年ほうねん代表だいひょうさくのひとつとなされている[1]おなじく芳年ほうねんさく浮世絵うきよえシリーズ『つきひゃく姿すがた』のなかの『原野げんやがつ』でもおな場面ばめんえがかれている。
芳年ほうねんは『美談びだん武者むしゃ八景はっけい』でも「ほらいん秋月しゅうげつ」のだい保昌やすまさえがいた

藤原ふじわら 保昌やすまさ(ふじわら の やすまさ)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき貴族きぞく藤原ふじわらみなみ巨勢こせ麻呂まろながれ右京大夫うきょうのだいぶ藤原ふじわら致忠官位かんいせいよん摂津せっつもり摂津せっつもりとなり同国どうこく平井ひらいじゅうしたことから平井ひらい 保昌やすまさともばれる。

経歴けいれき

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円融えんゆういん判官ほうがんだいつとめたのちいちじょうあさにおいて日向ひゅうがまもる肥後守ひごのかみだいおさむしょう九州きゅうしゅう地方ちほう地方ちほうかんつとめ、このあいだ寛弘かんこう7ねん1010ねんせいじょせられる。

さんじょうあさ初頭しょとう寛弘かんこう8ねん1011ねんしたがえよん昇叙しょうじょされ、長和ながわ2ねん1013ねん大和やまとまもるけんひだりけんあたまにんぜられる。

こういちじょうあさ寛仁かんじん4ねん1020ねんごろ丹後たんごもりにんぜられ、つま和泉式部いずみしきぶ任国にんごくくだる。のち、大和やまとまもる再任さいにん)・摂津せっつもり歴任れきにんし、位階いかいせいよんいたる。また、藤原ふじわら道長みちなが頼通よりみち父子ふしいえつとめた。

こう朱雀すざくあさ初頭しょとうちょうはじめ9ねん1036ねん)9がつ卒去そっきょ享年きょうねん79。最終さいしゅう官位かんい摂津せっつ守正もりまさよん

伝説でんせつ 

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長野ながのけん大町おおまちれい松寺まつでらには、せいこよみ3ねん(992ねん)に保昌やすまさが「信濃しなの鎮撫ちんぶ使」として仁科にしな着任ちゃくにんし、のち保昌やすまさ菩提ぼだいとむらうため、まごちかが、ちょうはじめ9ねん1036ねん)に居館きょかん保昌やすまさいんあらためたという伝説でんせつがある[2]

人物じんぶつ

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武勇ぶゆうひい[3]源頼信みなもとのよりのぶ平維衡たいらのこれひらひら致頼らとともに道長みちなが四天王してんのうしょうされた。のちに、道長みちながすすめもあり女流じょりゅう歌人かじん和泉式部いずみしきぶ結婚けっこんした。保昌やすまさ自身じしん歌人かじんであり、『こう拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』に和歌わか作品さくひん1しゅ採録さいろくされている。

中世ちゅうせい文学ぶんがくのなかで坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ藤原ふじわらとしひとし源頼光みなもとのよりみつとともに中世ちゅうせい伝説でんせつてき武人ぶじん4人組にんぐみ1人ひとり紹介しょうかいされた[4]

説話せつわ

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祇園祭ぎおんまつり保昌やすまささん

今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』には、以下いかはなししるされている。 10月朧月おぼろづきよる一人ひとりふえいてみちものがあった。それをつけたはかまたれという盗賊とうぞく首領しゅりょう衣装いしょううばおうとそのもののちをつけたが、どうにもおそろしくおもしゅすことができなかった。そのものこそが保昌やすまさで、保昌やすまさぎゃくはかまたれみずからのいえんでころもあたえたところ、はかまたれあわててかえったという[5]

同様どうよう説話せつわは『宇治うじ拾遺しゅうい物語ものがたり』にもある。また、後世こうせいはかまたれ保昌やすまさおとうと藤原ふじわらたもつ同一どういつされ、「はかまたれ輔」としょうされたが、今昔こんじゃく物語ものがたり説話せつわ兄弟きょうだい同士どうしあいだでのはなしとはかんがえにくいため実際じっさいはかまたれ藤原ふじわらたもつ輔は別人べつじんかんがえられている。

じゅうくんしょう』にも保昌やすまさ説話せつわっている。保昌やすまさ丹後たんごこく下向げこうのおりに、与謝よささん騎乗きじょうしたままの白髪はくはつろう武者むしゃ出会であい、郎党ろうとうたちれいしっしたこの人物じんぶつを「かいなり」ととがめようとしたが、一騎当千いっきとうせんうまてざまから保昌やすまさは「ただものにあらず」と見抜みぬ通過つうかした。やがておおくの従者じゅうしゃひきいたひら致経い、ろう武者むしゃが致経のちちひら致頼であるとったという。この逸話いつわは、「すぐれた武者むしゃ見通みとおした保昌やすまさもまたすぐれた武者むしゃである」ことをあらわすものである[6]

和泉式部いずみしきぶ紫宸殿ししんでんうめ手折たおってしいとわれ、警護けいご北面ほくめん武士ぶしゆみ射掛いかけられるもなんとかいちえだあい射止いとめたという逸話いつわがあり、京都きょうと祇園祭ぎおんまつり保昌やすまささんのモチーフにもなっている。

かんれき

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系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 藤原ふじわら保昌やすまさ月下げっかろうふえ 刀剣とうけんワールド
  2. ^ http://www.reishoji.jp/history.html
  3. ^ 勇士ゆうし武略ぶりゃくこれちょう」『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  4. ^ ももさき 2018, pp. 212–214.
  5. ^ 今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう
  6. ^ せき幸彦さちひこ武士ぶしはらぞう 都大路みやこおおじ暗殺あんさつしゃたち』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2020ねん
  7. ^ a b c d しょう右記うき
  8. ^ a b c 御堂みどう関白かんぱく
  9. ^ 北山きたやましょう
  10. ^ しょう右記うき長和ながわ2ねん4がつ16にちじょう
  11. ^ しょう右記うきまん寿ことぶき2ねん2がつ1にちじょう
  12. ^ 日本にっぽんりゃく
  13. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん』。『歴代れきだい皇紀こうき』では7がつ28にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ももさきゆう一郎いちろう武士ぶし起源きげんきあかす─混血こんけつする古代こだい創発そうはつされる中世ちゅうせい筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま新書しんしょ〉、2018ねん11がつ10日とおかISBN 978-4-480-07178-1 
  • 宮崎みやざき康充やすみつへん国司こくし補任ほにん だいよんぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1990ねん

関連かんれん項目こうもく

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