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祇園祭ぎおんまつり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
祇園祭ぎおんまつり
Gion Matsuri
前祭山鉾 御池通巡行 (2017年7月17日撮影)
まえさい山鉾やまぼこ 御池みいけどおり巡行じゅんこう
(2017ねん7がつ17にち撮影さつえい
イベントの種類しゅるい まつ
通称つうしょう略称りゃくしょう おいで、おかえり
開催かいさい時期じき 7がつ
初回しょかい開催かいさい 869ねん
テンプレートを表示ひょうじ

祇園祭ぎおんまつり(ぎおんまつり)は、京都きょうと東山ひがしやま八坂神社やさかじんじゃ祇園ぎおんしゃ)の祭礼さいれいで、明治めいじまでは祇園ぎおん御霊みたまかい(ぎおんごりょうえ、御霊みたまかい)とばれた。さだかん年間ねんかん9世紀せいき)よりつづ京都きょうとなつ風物詩ふうぶつしである。

概要がいよう

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まつり行事ぎょうじ八坂神社やさかじんじゃ主催しゅさいするものと、山鉾やまほこまち主催しゅさいするものに大別たいべつされる。

一般いっぱんてきには山鉾やまほこまち主催しゅさいする行事ぎょうじが「祇園祭ぎおんまつり」と認識にんしきされることがおおく、そのなか山鉾やまぼこ行事ぎょうじだけが重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている。山鉾やまほこまち主催しゅさいするしょ行事ぎょうじなかでもハイライトとなる山鉾やまぼこ行事ぎょうじは、山鉾やまぼこ設置せっちされる時期じきによりまえさいさきのまつり)とこうさいあとのまつり[注釈ちゅうしゃく 1]の2つにけられる。山鉾やまぼこ行事ぎょうじは「宵山よいやま」(よいやま、前夜祭ぜんやさいまえさい:7がつ14にち - 16にちこうさい:7がつ21にち - 23にち)、「山鉾巡行やまぼこじゅんこう」(まえさい:7がつ17にちこうさい:7がつ24にち)が著名ちょめいである。八坂神社やさかじんじゃ主催しゅさい神事しんじは 「神輿しんよ渡御とぎょ」(かみみゆき:7がつ17にち還幸かんこう:7がつ24にち)や「神輿しんよあらい」(7がつ10日とおか・7がつ28にち)などが著名ちょめいで、「花傘はながさ連合れんごうかい」が主催しゅさいする花傘はながさ巡行じゅんこう(7がつ24にち)も八坂神社やさかじんじゃがわ行事ぎょうじといえる。

宵山よいやまよいやまよい々々やまには旧家きゅうか老舗しにせにて伝来でんらい屏風びょうぶなどの宝物ほうもつ披露ひろうおこなわれるため、屏風びょうぶさい異名いみょうがある。また、山鉾巡行やまぼこじゅんこうではさまざまな美術びじゅつ工芸こうげいひん装飾そうしょくされた重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい山鉾やまぼこ公道こうどうめぐるため、「うご美術館びじゅつかん」ともたとえられる。

祇園祭ぎおんまつり数々かずかずさん大祭たいさいひとつにげられる。京都きょうとさん大祭たいさい上賀茂かみがも神社じんじゃ下鴨神社しもがもじんじゃ葵祭あおいまつり平安へいあん神宮じんぐう時代じだいさい)、日本にっぽんさん大祭たいさい大阪おおさか天神祭てんじんまつり東京とうきょう山王さんのうさい神田かんださい)、日本にっぽんさんだい曳山ひきやまさい岐阜ぎふけん高山市たかやまし高山祭たかやまさい埼玉さいたまけん秩父ちちぶ秩父ちちぶ夜祭よまつり)、日本にっぽんさん大美おおみさい前述ぜんじゅつ高山こうざんさい秩父ちちぶ夜祭よまつり)のうちのひとつであり、日本にっぽん代表だいひょうするまつりである。

応仁おうにんらんいち祇園祭ぎおんまつり中止ちゅうしされたが、町人ちょうにんによって復活ふっかつした。

名称めいしょう

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祇園祭ぎおんまつりという名称めいしょうは、八坂神社やさかじんじゃ神仏しんぶつ習合しゅうごう時代じだいに、比叡山ひえいざんぞくして祇園ぎおんしゃばれていたことに由来ゆらいする。祇園ぎおんしゃ祭神さいじん牛頭ごず天王てんのう仏教ぶっきょう聖地せいちである祇園ぎおん精舎しょうじゃ守護神しゅごじんであるとされていたので、祇園ぎおんしんともばれ、神社じんじゃめい周辺しゅうへん地名ちめい祇園ぎおんとなり、祭礼さいれい祇園ぎおん御霊みたまかいとなったのである。なお、祇園ぎおん語源ごげんについては、祇園ぎおん精舎しょうじゃ項目こうもく参照さんしょう

その明治維新めいじいしんによる神仏しんぶつ分離ぶんりれいにより神社じんじゃめい八坂神社やさかじんじゃとなったさいに、祭礼さいれいめい仏教ぶっきょうしょく排除はいじょするため「祇園ぎおん御霊みたまかい(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭ぎおんまつり」に変更へんこうされた(ただし「祇園ぎおん」という名称めいしょう自体じたい前述ぜんじゅつとお仏教ぶっきょう由来ゆらいである)。

歴史れきし

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狩野かのひさしとくふで洛中らくちゅう洛外らくがい屏風びょうぶ』(国宝こくほう米沢よねざわ上杉うえすぎ博物館はくぶつかん)にえがかれた祇園ぎおんかい様子ようすみぎせきだいさんおうぎ)。手前てまえみぎ船鉾ふなぼこひだり岩戸山いわとやま以下いか手前てまえからおくにわとりぼこ白楽天はくらくてんさん函谷鉾かんこぼこみぎ上隅うえすみ蟷螂山とうろうやまみぎ)と四条しじょうかさぼこひだり[1]

祇園ぎおん御霊みたまかい起源きげん

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疫病えきびょう流行りゅうこうにより朝廷ちょうてい863ねんさだかん5ねん)、神泉苑しんせんえんはつ御霊みたまかいごりょうえおこなった。御霊みたまかいは疫神や死者ししゃ怨霊おんりょうなどをしずめなだめるためにおこなまつり[2]疫病えきびょううらみを現世げんせいのこしたままくなった人々ひとびと怨霊おんりょうたたりであるとかんがえられていた[3]。しかし、その疫病えきびょう流行りゅうこうつづいたために牛頭ごず天王てんのうまつり、御霊みたまかいおこなって無病むびょう息災そくさい祈念きねんした。

864ねんさだかん6ねん)から富士山ふじさんだい噴火ふんかこって溶岩ようがんだい規模きぼ流出りゅうしゅつして山麓さんろくたっし、869ねんさだかん11ねん)には陸奥みちのくさだかん地震じしんこり、津波つなみによって多数たすう犠牲ぎせいしゃるなど、全国ぜんこくてき地殻ちかく変動へんどうつづき、社会しゃかい不安ふあん深刻しんこくするなか全国ぜんこくくにかずあらわす66ほんほこ卜部うらべにちりょう麿まろて、そのほこ諸国しょこく悪霊あくりょううつ宿やどらせることで諸国しょこくけがれをはらい、神輿しんよ3おく薬師如来やくしにょらい本地ほんじとする牛頭ごず天王てんのうまつ御霊みたまかいおこなった。この869ねんさだかん11ねん)の御霊みたまかい祇園祭ぎおんまつり起源きげんとされており、2019ねんれい元年がんねん)にはまつりの1150周年しゅうねんいわうほど、なが歴史れきしっている。

御霊みたまかいまれた直接ちょくせつ背景はいけいは、平安京へいあんきょうがもともとが内陸ないりく湿地しっちであったために高温こうおん多湿たしつ地域ちいきであったこと、建都けんとによる人口じんこう集中しゅうちゅう上下水道じょうげすいどう不備ふび汚水おすい飲料いんりょうすい混合こんごう)などにより、おこり(わらわやみ=マラリア)、かさ天然痘てんねんとう)、せきびょうインフルエンザ)、赤痢せきり麻疹ましんなどがだい流行りゅうこうしたこと。その原因げんいんが、さきだい水害すいがいにより挫折ざせつした長岡京ながおかきょう遷都せんと工事こうじちゅうきた藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけん無実むじつうったえながらくなった早良親王さわらしんのうら6にん怨霊おんりょう仕業しわざとの陰陽いんようらによる権威けんいあるぼくうらないがあったこと、などである。さらに、1世紀せいき970ねん安和やすかず3ねん)からは毎年まいとしおこなうようになったとされる。これらの祭式さいしき神仏しんぶつ混淆こんこうであるばかりでなく、陰陽いんようどう修験しゅげんどう儀式ぎしきふくまれていた。真夏まなつまつりとなったのは、上水道じょうすいどう冷蔵庫れいぞうこもなかった時代じだいは、真夏まなつおおくの感染かんせんしょう流行りゅうこうおおくの人々ひとびと脱水だっすい症状しょうじょうとうくなったことが原因げんいんひとつとかんがえられる。

876ねんさだかん18ねん)には、播磨はりまこくこうみねから牛頭ごず天王てんのう京都きょうと遷座せんざし、現在げんざい八坂神社やさかじんじゃいた。そこに祇園ぎおんしゃとしてまつられ、かんかみいんごうして比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじぞくした。中世ちゅうせいつうじて、祇園ぎおんしゃ延暦寺えんりゃくじ末寺まつじとされ、山門やまかど延暦寺えんりゃくじ)の洛中らくちゅう支配しはい拠点きょてんとなった。比叡山ひえいざん鎮守ちんじゅである日吉ひよし権現ごんげん山王さんのうさいおこなわれないときは、祇園ぎおん御霊みたまかい連動れんどうして中止ちゅうし延期えんきされることがおおかった。

山鉾巡行やまぼこじゅんこう成立せいりつ

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祇園ぎおん御霊みたまかいは、草創そうそうから現代げんだいいたるまで、祇園ぎおんしゃ神輿しんよ渡御とぎょ中心ちゅうしんとするが、これに現在げんざいられるような山鉾やまぼこともなうようになった時期じき明確めいかくにはからない。ほこふる形式けいしきは、現在げんざい京都きょうと東山ひがしやま粟田あわた神社じんじゃかんかみいん新宮しんぐう粟田あわたたかし王宮おうきゅう)をはじめ、京都きょうと周辺しゅうへんから滋賀しがけんにかけて分布ぶんぷするけんぼこのこっており、祇園ぎおん御霊みたまかいほこもそれにるいするものであったと推定すいていされる[4]

現在げんざい山鉾巡行やまぼこじゅんこう原形げんけいは、鎌倉かまくら時代じだい末期まっきの『花園天皇はなぞのてんのう宸記げんとおる元年がんねん7がつ24にち1321ねん8がつ18にちじょう記述きじゅつからうかがえる。それによれば、ほこく「ほこしゅ」のまわりで「」たちが風流ふうりゅう舞曲ぶきょくえんじたというものである[5]南北なんぼくあさ時代じだいには、富裕ふゆう町人ちょうにんそうきそって風流ふうりゅう拍子ひょうしぶつをくりし、さらに室町むろまち将軍家しょうぐんけ調進ちょうしんした「久世くぜまいしゃ」やだい舎人とねりげん西陣にしじん)がした「鷺舞さぎまい」など、さまざまなかたちづけさい芸能げいのうさかんになった[6]

室町むろまち時代ときよいたり、四条しじょう室町むろまち中心ちゅうしんとする(きゅう下京しもぎょう地区ちく商工しょうこう業者ぎょうしゃ町衆まちしゅう)の自治じち組織そしき両側りょうがわまち成立せいりつすると、まちごとに趣向しゅこうらした山鉾やまぼこつくって巡行じゅんこうさせるようになった。それまで単独たんどく巡行じゅんこうしていた竿ざおじょうほこと、羯鼓かっこまいえんずる稚児ちごせた屋台やたい合体がったいして、現在げんざいられるようなほこしゃ成立せいりつし、さらにおも猿楽さるがくのう演目えんもくうつしたつくものの「やま」がくわわることによって、室町むろまち時代じだい中期ちゅうきには洛中らくちゅう洛外らくがいられるような、今日きょうにつながる山鉾巡行やまぼこじゅんこう成立せいりつしたものとられる[注釈ちゅうしゃく 2]

応仁おうにんらんによる33ねん中断ちゅうだんて、1500ねんあかりおう9ねん)、祇園ぎおんかい再興さいこうされた。あかりおう年間ねんかんつづいたわざわいこと、ことに1498としあかりおう7ねん)の東海大とうかいだい地震じしんだい津波つなみによる列島れっとう規模きぼだい災害さいがい発生はっせい祭礼さいれい復興ふっこう後押あとおししたものとられる。復興ふっこうにあたって室町むろまち幕府ばくふ奉行ぶぎょうしゅ松田まつだゆたかぜんまもりよりゆきあきら過去かこ山鉾やまぼこについて「古老ころうもの」よりききとりをおこない、応仁おうにんらん以前いぜんの60まえさい32こうさい28[7]山鉾やまぼこ唯一ゆいいつ史料しりょうとされている「祇園ぎおんかい山鉾やまぼこごと」(八坂神社やさかじんじゃ文書ぶんしょ)としてきとめたほか[8]はじめてのくじしきよりゆきあきら私宅したくおこな[9]町人ちょうにん主体しゅたいまつりとなるよう祇園ぎおん執行しっこうもうきけかせるなど、祇園祭ぎおんまつり再興さいこう尽力じんりょくし、現在げんざいつづ山鉾やまぼこかず名称めいしょう固定こていした[注釈ちゅうしゃく 3]よりゆきあきら自身じしん在職ざいしょくちゅう祇園祭ぎおんまつり再興さいこうされたことは冥加みょうがであるとしるしている[10][11]

1533ねん天文てんもん2ねん)、先述せんじゅつ理由りゆうによる延暦寺えんりゃくじがわうったえにより、祇園ぎおんしゃ祭礼さいれい中止ちゅうしまれたが、町衆まちしゅうは「神事しんじこれくとも山鉾やまぼこわたしたし(神社じんじゃ行事ぎょうじがなくても、山鉾巡行やまぼこじゅんこうだけはおこないたい)」という声明せいめいし、山鉾やまぼこ行事ぎょうじすで町衆まちしゅう主体しゅたいまつりとなっていたことをうかがわせる[12]。そして、天文てんもん法華ほっけ一揆いっきのさなか、延暦寺えんりゃくじ結託けったくした幕府ばくふ祇園ぎおんかい停止ていし命令めいれいはんして、(神事しんじ中止ちゅうしされたものの)山鉾巡行やまぼこじゅんこうおこなわれたという。町衆まちしゅう自治じちてき性格せいかく象徴しょうちょうするはなしとしてとく有名ゆうめいである。

近世きんせい以降いこう祇園ぎおんかい発展はってん

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1920年代ねんだい祇園祭ぎおんまつり

江戸えど時代じだい発生はっせいした京都きょうとさんだい火事かじによって、祇園祭ぎおんまつりおおきな被害ひがいけた。1708ねん宝永ほうえい5ねん)の宝永ほうえい大火たいかでは、まだ山鉾やまぼこ素朴そぼく形式けいしきであったために復興ふっこうはやかった。しかし1788ねん天明てんめい8ねん)の天明てんめい大火たいか被害ひがいおおきく、函谷鉾かんこぼこ復興ふっこうに50ねんようした。その山鉾やまぼこ復興ふっこうは、せい文化ぶんかなみり、山鉾やまぼこ大型おおがた部品ぶひんかかそうひん華美かびすすみ、曳山ひきやまおおくもかり屋根やねから、ほこわりない千鳥ちどり破風はふをかけるようになった。しかし、鷹山ようざん1826ねん文政ぶんせい9ねん)の巡行じゅんこう大雨おおあめってかけそうひん破損はそんしたとして巡行じゅんこうれつしなくなった。

幕末ばくまつ禁門きんもんへんによって発生はっせいした1864ねん元治もとはる元年がんねん)のどんどんは、山鉾やまほこまち多大ただい被害ひがいをもたらし、ほぼ無事ぶじだったのは長刀鉾なぎなたぼこ函谷鉾かんこぼこ月鉾つきほこ岩戸山いわとやま・霰天神山かみやまはくきばやま保昌やすまさやまだけであった。つづいて明治維新めいじいしん混乱こんらんはいったため、菊水鉾きくすいほこ大船おおぶねぼこあやかさぼこ蟷螂山とうろうやま四条しじょうかさぼこ以後いごながあいだ断絶だんぜつした。

明治維新めいじいしん以後いご山鉾巡行やまぼこじゅんこうささえていたやどりきまち制度せいど廃止はいしされ、行事ぎょうじ存続そんぞくあやぶまれる時期じきえて復興ふっこうした。巡行じゅんこうコースの度重たびかさなる変更へんこうや、だい世界せかい大戦たいせん影響えいきょうによる中断ちゅうだん1943ねん昭和しょうわ18ねん) - 1946ねん昭和しょうわ21ねん))はあったものの、戦後せんご菊水きくすいぼこ皮切かわきりにして、中絶ちゅうぜつしていた「やすさん」(焼山やけやま)が1980年代ねんだい次々つぎつぎ復興ふっこうした。高度こうど経済けいざい成長せいちょう交通こうつう事情じじょう悪化あっかによりまえさいこうさい統合とうごうして合同ごうどう巡行じゅんこうにした時期じき1966ねん昭和しょうわ41ねん) - 2013ねん平成へいせい25ねん))をて、2014ねん平成へいせい26ねん)からはこうさい再開さいかいされ、古式こしきたも努力どりょくつづけられており、祇園ぎおん御霊みたまかいとしては1150ねんえる歴史れきしほこる。

明治めいじ時代じだい祇園祭ぎおんまつりコレラ歴史れきしでもあり、1886ねん明治めいじ19ねん)、1887ねん明治めいじ20ねん)、1895ねん明治めいじ28ねん)にコレラの影響えいきょうによる祇園祭ぎおんまつり延期えんき確認かくにんされている[13]。また、コレラを克服こくふくして日本にっぽん衛生えいせい管理かんりとどいた文明ぶんめい国家こっかとしてアピールするのは日本にっぽん急務きゅうむであり、屎尿しにょう運搬うんぱん制限せいげん飲食いんしょくぶつ注意ちゅういびかけなどコレラのために様々さまざま対策たいさくられた[14]

室町むろまち時代じだい以来いらい祇園祭ぎおんまつりのクライマックスは山鉾巡行やまぼこじゅんこうであるが、現在げんざいでは「巡行じゅんこう前夜祭ぜんやさい」である宵山よいやま毎年まいとし40まんにん以上いじょうひとあつまるため、祇園祭ぎおんまつりといえば宵山よいやまさきおもえがひとおおい。

だい世界せかい大戦たいせん京都きょうと中心ちゅうしんドーナツ現象げんしょうすすんだことにより、おおくの山鉾やまほこまち居住きょじゅうしゃ減少げんしょうし、山鉾やまぼこ行事ぎょうじ運営うんえい支障ししょうた。そのためしゅをアルバイトにたよったり町内ちょうないにある企業きぎょう応援おうえん依頼いらいすることがえた。その町内ちょうないにマンションがった場合ばあいも、あたらしく転入てんにゅうした住民じゅうみんは「しん住民じゅうみん」などとばれ、以前いぜん山鉾やまぼこ保存ほぞんかい入会にゅうかいできなかった。1986ねん昭和しょうわ61ねん以降いこうかく山鉾やまほこまち順次じゅんじしん住民じゅうみん保存ほぞんかい加入かにゅうみとめるようになり、現在げんざいではあたらしくつマンションの居住きょじゅうしゃ保存ほぞんかい加入かにゅうすすめるところおおくなっている[15]以前いぜんおおかった呉服ごふくしょうなどの減少げんしょうとそのあとにおおてられたマンションにより、おおくの山鉾やまほこまち保存ほぞんかい会員かいいん不足ふそくからだっしている。現在げんざいでは、四条しじょう烏丸からすま交差点こうさてんちか長刀鉾なぎなたぼこ函谷鉾かんこぼこ町内ちょうない居住きょじゅう人口じんこうがゼロで、孟宗もうそうさんにわとりぼこ町内ちょうない人口じんこうきわめてすくないが、もっと人口じんこうおお蟷螂山とうろうやままち相次あいつぐマンションの建築けんちくにより、人口じんこうやく750にんたっしている。

だい世界せかい大戦たいせん祇園祭ぎおんまつり

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  • 1947ねん 長刀鉾なぎなたぼこ月鉾つきほこ戦後せんごはじめててられる。長刀鉾なぎなたぼこのみ四条しじょう寺町てらまちまでの往復おうふくというかたちでの戦後せんごはつ巡行じゅんこう復活ふっかつさせる。
  • 1948ねん きた観音山かんのんやま船鉾ふなぼこ戦後せんごはじめててられ、四条しじょう寺町てらまちまでの往復おうふく巡行じゅんこうおこなう。
  • 1949ねん 復活ふっかつした山鉾やまぼこが9になり、戦後せんごはじめてくじしきおこなう。にわとりぼこ鯉山こいやまかかそうひん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい
  • 1950ねん 山鉾やまぼこが16まで復活ふっかつし、こうさい巡行じゅんこう戦後せんごはじめておこなわれる。
  • 1952ねん 当時とうじぜん山鉾やまぼこ巡行じゅんこう復活ふっかつする。松本まつもと元治もとはる発願ほつがんにより、88ねんぶりに菊水きくすいぼこかりほこ巡行じゅんこう参加さんか
  • 1953ねん 菊水きくすいぼこほんほこ巡行じゅんこう参加さんか
  • 1956ねん それまで四条しじょう烏丸からすま出発しゅっぱつ四条しじょう寺町てらまち南下なんか寺町てらまち松原まつばら西行さいぎょうしていたまえさい巡行じゅんこうのコースが、四条しじょう寺町てらまち北上ほくじょう寺町てらまち御池みいけ西行さいぎょうし、烏丸からすま御池みいけ解散かいさんするコースに変更へんこうされる。はじめて御池おいけどおり有料ゆうりょう観覧席かんらんせき設置せっちされる。
  • 1958ねん このころから、八坂神社やさかじんじゃまい殿どの壬生みぶろくとき念仏ねんぶつ講中こうじゅうにより、あや傘鉾かさぼこゆかりのぼう囃子ばやし奉納ほうのう
  • 1960ねん 町会ちょうかいしょ借金しゃっきんトラブルで人手ひとでわたった岩戸山いわとやまが、くらからやま部材ぶざい許可きょかしん所有しょゆうしゃからられず、このとしから2年間ねんかんさい参加さんかできなくなる。
  • 1961ねん まえさいのコースが四条しじょう河原町かわらまち北上ほくじょう河原町かわらまち御池みいけ西行さいぎょうのコースに変更へんこうされる。
  • 1962ねん5がつ23にち 山鉾やまぼこ29重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされる。京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ地下ちかせん延伸えんしん工事こうじのため、四条しじょうどおり山鉾やまぼこ通行つうこう困難こんなんとなったため、宵山よいやまおこなわれたが、このとし巡行じゅんこう中止ちゅうしされる[16]。このとし以降いこう直近ちょっきんの2019ねんまで大雨おおあめふくめて山鉾巡行やまぼこじゅんこう毎年まいとし中止ちゅうしされず継続けいぞくされた[17]
  • 1963ねん 保昌やすまさやまが舁山としてはじめて車輪しゃりんける。
  • 1966ねん さいまえさい合同ごうどうされ、こうさい巡行じゅんこうまえさい巡行じゅんこう直後ちょくごつづかたちとなる。なお、それまでののちさい巡行じゅんこうコースは三条さんじょう烏丸からすま出発しゅっぱつ三条さんじょう寺町てらまち南下なんか四条しじょう寺町てらまち西行さいぎょうだった。こうさい巡行じゅんこうだった24にちには花傘はながさ巡行じゅんこう創設そうせつされる。また、このとし鈴鹿すずかさん巡行じゅんこう合同ごうどう抗議こうぎし、宵山よいやまには参加さんかしたが巡行じゅんこう不参加ふさんか
  • 1970ねん 円山公園まるやまこうえんないつくられた山鉾やまぼこ部材ぶざい倉庫そうこである「祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこかん」が使用しよう開始かいし。9の舁山と1曳山ひきやま使用しようしている。大阪おおさか万国博覧会ばんこくはくらんかいすうほこ出場しゅつじょう
  • 1972ねん 舁山で最後さいごまで車輪しゃりんけていなかった郭巨山かくきょやま車輪しゃりんき、これですべての舁山に車輪しゃりんけられる。
  • 1977ねん 地下鉄ちかてつ烏丸線からすません工事こうじにより、烏丸からすまどおり山鉾やまぼこ通過つうか困難こんなんになったため、烏丸からすま御池おいけ解散かいさん御池おいけ新町しんまち解散かいさん変更へんこうし、有料ゆうりょう観覧席かんらんせき新町通しんまちどおりまで拡大かくだい。このとし以降いこう解散かいさん山鉾やまぼこすべ新町通しんまちどおり通過つうかすることになる。
  • 1978ねん7がつ10日とおか 高松宮たかまつのみや同妃どうひむかえて菊水鉾きくすいほこ再建さいけん25周年しゅうねん式典しきてん挙行きょこうされる。
  • 1979ねん2がつ3にち京都きょうと祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ行事ぎょうじ」が、重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされる。7月の巡行じゅんこうからあやかさぼこが115ねんぶりに復興ふっこう
  • 1981ねん 蟷螂山とうろうやまが117ねんぶりに復興ふっこう
  • 1985ねん 町内ちょうない本店ほんてんがあった京都きょうと相互そうご銀行ぎんこう社長しゃちょう笠松かさまつひとし肝煎きもいりで、四条しじょうかさぼこ本体ほんたい再建さいけんきょさい参加さんか
  • 1988ねん よんじょうかさぼこが117ねんぶりに巡行じゅんこう参加さんか
  • 1994ねん 京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかんにて「祇園祭ぎおんまつりだいてん」を開催かいさい山鉾やまぼこかかそうひん名宝めいほう公開こうかい
  • 1996ねん かさぼこ巡行じゅんこうじゅんをシードせいとし、くじきにくわえる。
  • 2001ねん きむつよし能楽堂のうがくどう移転いてんにより菊水鉾きくすいほこ宵山よいやまかざりを中止ちゅうし
  • 2003ねん 菊水鉾きくすいほこ会所かいしょきむつよし能楽堂のうがくどうあとったマンションの2かい完成かんせい
  • 2009ねん9がつ30にち 国連こくれん教育きょういく科学かがく文化ぶんか機関きかん(ユネスコ)政府せいふあいだ委員いいんかいにより、「京都きょうと祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ行事ぎょうじ」が、無形むけい文化ぶんか遺産いさん代表だいひょう一覧いちらんひょう記載きさいされる(ユネスコ無形むけい文化ぶんか遺産いさん登録とうろく)。
  • 2012ねん 大船おおぶねぼこ唐櫃からびつ巡行じゅんこうかたち巡行じゅんこう参加さんかする。こうさい巡行じゅんこうれつのくじらずの山鉾やまぼこ順行じゅんこうじゅん変更へんこうされる。
  • 2014ねん 7がつ24にちのちさい復活ふっかつする。大船おおぶねぼこが150ねんぶりに復興ふっこうする。花傘はながさ巡行じゅんこうのルートが変更へんこうされ、寺町てらまち御池みいけから四条しじょう河原町かわらまちまではこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう直後ちょくごくことになる。
  • 2015ねん まえさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう台風たいふう11ごう影響えいきょうにより史上しじょうはつ悪天候あくてんこうによる中止ちゅうし可能かのうせいがあったが、つよあめなか決行けっこうされる[18][19]こうさい鷹山ようざん祇園ぎおん囃子ばやし復興ふっこう宵山よいやま期間きかん演奏えんそうされる。
  • 2016ねん 大船おおぶねぼこ舳先へさきかざ木彫きぼり龍頭りゅうず復元ふくげんされる。幕末ばくまつ禁門きんもんへん焼失しょうしつするまで、1ねん交代こうたい舳先へさき大金たいきんぬさ龍頭りゅうず交換こうかんしていたことにちな復元ふくげんである。
  • 2018ねん 記録きろくてき猛暑もうしょ花傘はながさ巡行じゅんこう中止ちゅうしになる。子供こどもおお参加さんかするため、熱中ねっちゅうしょうのリスクに配慮はいりょしたためである。9月、あや傘鉾かさぼこ本体ほんたい長刀鉾なぎなたぼこ祇園ぎおん囃子ばやしアメリカオレゴンしゅうポートランド京都きょうと文化ぶんか紹介しょうかいイベントで披露ひろうされる。京都きょうと山鉾やまぼこ海外かいがい展示てんじはじめて。11月30にち、「京都きょうと祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ行事ぎょうじ」をふくめて拡張かくちょう提案ていあんされていた「やまほこ屋台やたい行事ぎょうじ(Yama, Hoko, Yatai, float festivals in Japan)」が、ユネスコ無形むけい文化ぶんか遺産いさん代表だいひょう一覧いちらんひょう記載きさいされる。
  • 2019ねん 祇園祭ぎおんまつり創始そうし1150ねんむかえる。6月8にち平安へいあん時代じだい神泉苑しんせんえん園地えんちふくまれるもと離宮りきゅう二条城にじょうじょうにおいて、祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼことルーツをおなじくする「けんぼこ」15一堂いちどうかいしてけんぼこしが披露ひろうされる。6月29にち祇園祭ぎおんまつり記念きねんフェスタが京都きょうと経済けいざいセンターでおこなわれる。6月30にち祇園祭ぎおんまつり1150ねん記念きねん提灯ちょうちん行列ぎょうれつおこなわれる。こうさい鷹山ようざんが193ねんぶりに唐櫃からびつ巡行じゅんこうかたち山鉾巡行やまぼこじゅんこう参加さんかする。祇園祭ぎおんまつり1150ねん記念きねん奉祝ほうしゅくとして四条しじょう大橋おおはしで3そろっての神輿しんよ渡御とぎょ復活ふっかつする。
  • 2020ねん 3がつ京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかんにて「京都きょうと祇園祭ぎおんまつり町衆まちしゅう情熱じょうねつ山鉾やまぼこ風流ふうりゅう―」を開催かいさい山鉾やまぼこかかそうひん資料しりょう公開こうかい別館べっかん郭巨山かくきょやま橋弁慶はしべんけいさん実物じつぶつ展示てんじ。4月、新型しんがたコロナウイルス(COVID-19)の感染かんせん拡大かくだい防止ぼうしとう影響えいきょう祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ行事ぎょうじ宵山よいやま山鉾巡行やまぼこじゅんこう稚児ちご行事ぎょうじ)と神輿しんよ渡御とぎょ中止ちゅうしはしらとする、関連かんれん行事ぎょうじ神事しんじ中止ちゅうし縮小しゅくしょう決定けっていする。伝統でんとう文化ぶんか継承けいしょう維持いじ活動かつどうつのクラウドファンディングではやく1,600まんえん寄付きふあつまる[20]
  • 2021ねん 2ねん連続れんぞく新型しんがたコロナウイルス(COVID-19)の影響えいきょう山鉾巡行やまぼこじゅんこう神輿しんよ渡御とぎょ関連かんれん行事ぎょうじ神事しんじ中止ちゅうし縮小しゅくしょう決定けっていする。ただし、山鉾やまぼこ一部いちぶ技術ぎじゅつ伝承でんしょうのためてられ、宵山よいやま行事ぎょうじ縮小しゅくしょうされながらもおこなわれる。
  • 2022ねん 3ねんぶりに山鉾巡行やまぼこじゅんこう神輿しんよ渡御とぎょ実施じっし宵山よいやま一部いちぶ町会ちょうかいしょ一般いっぱん公開こうかい中止ちゅうしになったり、一部いちぶほこ拝観はいかん中止ちゅうししたりしたが、夜店よみせ出店しゅってんふくめて開催かいさいされた。こうさい鷹山ようざんが196ねんぶりに完全かんぜんかたち復活ふっかつした。ただし、おむか提灯ぢょうちん花傘はながさ巡行じゅんこうなど、子供こども参加さんかおお行事ぎょうじ中止ちゅうしになったり、神輿しんよあらいを八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいおこなうなどの、神事しんじ中止ちゅうし縮小しゅくしょうがあった。
  • 2023ねん 4ねんぶりに完全かんぜんかたちでのかく行事ぎょうじおこなわれることになった。つじまわしを特等とくとうせき観覧かんらんできる1せき40まんえんのプレミアム観覧席かんらんせき設置せっちこうさいのくじらずであるきた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん巡行じゅんこうじゅん隔年かくねん交代こうたいすることになる。花傘はながさ巡行じゅんこうのルートが大幅おおはば変更へんこうされる。
  • 2024ねん 飲食いんしょく提供ていきょうするプレミアム観覧席かんらんせきについて、八坂神社やさかじんじゃ宮司ぐうじは「山鉾巡行やまぼこじゅんこう神事しんじであって、ショーではない」と異議いぎとなえ、京都きょうと観光かんこう協会きょうかい[21]はそれをれ、さけ食事しょくじ提供ていきょうりやめとなった[22]。またまえさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうにわとりぼこ車輪しゃりんれて四条しじょうどおり往生おうじょう巡行じゅんこうりやめたほか蟷螂山とうろうやまのカマキリのからくりがこわれるトラブルに見舞みまわれた。

祭礼さいれいなどの行事ぎょうじくに重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされ、それとともに屋台やたい山鉾やまぼこなどの用具ようぐ重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされているものは日本にっぽん全国ぜんこくで5れいのみで、そのなかひとつが祇園祭ぎおんまつりである。

こうさい復活ふっかつ

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大船おおぶねぼこ

1965ねん昭和しょうわ40ねん)まで7がつ24にち巡行じゅんこうおこなっていたのちさいを、大船おおぶねぼこ再建さいけんわせて復活ふっかつさせる気運きうんたかまり[23]2012ねん平成へいせい24ねん)になって、2014ねん平成へいせい26ねん)の巡行じゅんこうから大船おおぶねぼこ巡行じゅんこう参加さんかさせ、同時どうじこうさい復活ふっかつさせる方針ほうしんめた。ただし、実際じっさい復活ふっかつには警察けいさつ地元じもと町会ちょうかいとうとの調整ちょうせい必要ひつよう正式せいしき復活ふっかつ発表はっぴょうおくれていたが、2013ねん平成へいせい25ねん)8がつに2014ねん平成へいせい26ねん)の巡行じゅんこうからまえさいの23こうさいの10かれて宵山よいやま巡行じゅんこうべつ日程にっていおこなうことになった[24]

巡行じゅんこうコースは現在げんざい巡行じゅんこうコースのぎゃくルートとなった。これは、かつてののちさいのコースが三条さんじょう烏丸からすまをスタートして、三条さんじょう寺町てらまちから寺町てらまちどおり南下なんかし、四条しじょう寺町てらまちから四条しじょうどおり西行さいぎょうし、四条しじょう烏丸からすま解散かいさんするという時計とけいまわりのルートであったことにならったものである(そのために、こうさい南北なんぼくはしとおりにてられるやまきた正面しょうめんにしてやまてる。まえさい合同ごうどう巡行じゅんこうの2013ねん平成へいせい25ねん)までは、曳山ひきやま四条しじょうどおりまで一旦いったんバックしていた)。現在げんざい三条さんじょうどおり寺町てらまちどおり曳山ひきやま巡行じゅんこう不可能ふかのう構造こうぞうである(ひく位置いち電線でんせんかよっていたり、アーケードがあったりする)ため、すで巡行じゅんこう対応たいおうみの現在げんざいのルートを使用しようすることになったが、将来しょうらいてきには三条さんじょうどおり巡行じゅんこう検討けんとうする。

山鉾やまぼこかざけはさきさい同様どうようよい々々やまから開始かいしするが、まえさい同様どうようその前日ぜんじつ夕刻ゆうこくからかざけを開始かいしする山鉾やまぼこもある。有料ゆうりょう観覧席かんらんせきまえさい寺町てらまち御池みいけから新町しんまち御池おいけいたるまで設置せっちされるが、こうさいでは京都きょうと市役所前しやくしょまえ相当そうとうする河原町かわらまち御池みいけから寺町てらまち御池みいけあいだだけに設置せっちされる。ただ、この区間くかん山鉾巡行やまぼこじゅんこうつづ花傘はながさ巡行じゅんこう観覧かんらんできる場所ばしょである。寺町てらまち御池みいけから河原町かわらまち御池みいけから四条しじょう河原町かわらまちあいだ山鉾巡行やまぼこじゅんこうのコースと花傘はながさ巡行じゅんこうのコースが重複じゅうふくしており、両方りょうほう巡行じゅんこういち観覧かんらんできる。

こうさい復活ふっかつは、まつり本来ほんらい姿すがたもどすという意味いみのほか、おおくの問題もんだい解決かいけつさくというめんもある。山鉾やまぼこ復興ふっこうすすんで33にまで増加ぞうかした山鉾やまぼこ巡行じゅんこうは、最後さいごほこ解散かいさん地点ちてんである御池おいけ新町しんまち交差点こうさてん到着とうちゃくするのが1330ふん前後ぜんこうまでかかり、交通こうつう規制きせい長時間ちょうじかんになったことや、先頭せんとうから最後さいごまでの山鉾やまぼこ全部ぜんぶると2あいだえ、こうさい巡行じゅんこうれつころには有料ゆうりょう観覧席かんらんせき空席くうせき目立めだつようになるなどの弊害へいがい目立めだっていた。宵山よいやま期間きかん人出ひとでおおさも問題もんだいとなっており、こうさい日程にってい追加ついかにより人出ひとで分散ぶんさん期待きたいされた。ただ、2014ねん平成へいせい26ねん)のまえさい巡行じゅんこう前年度ぜんねんど山鉾巡行やまぼこじゅんこうよりも9山鉾やまぼこかずったのに、巡行じゅんこう終了しゅうりょうぎゃくに20ふん増加ぞうかした。また、宵山よいやま期間きかん人出ひとでも14にちよい々々やま)の露店ろてん出店しゅってん歩行ほこうしゃ天国てんごく中止ちゅうししたところ、7がつ14にち人出ひとで半分はんぶん以下いかの8まん6000にんになり、7がつ15にち・16にち人出ひとで集中しゅうちゅうした。とくに7がつ16にち宵山よいやま)は前年ぜんねんの27まんにん人出ひとでから34まんにんへと大幅おおはば増加ぞうかするなど、課題かだいおおのこした。

こうさいの2014ねん平成へいせい26ねん)の人出ひとでは21にちから23にちまでの宵山よいやま期間きかん人出ひとではそれぞれ4まんにん・2まんにん・5まんにんで、まえさいくらべればかなりすくなかったが、いた雰囲気ふんいき評価ひょうかするこえおおかった。巡行じゅんこうまえさいの11まんにんたいこうさいは6まんにんあつめ、まえさい半分はんぶん以下いか規模きぼであることを考慮こうりょするとまずまずの集客しゅうきゃくであった。しかし、2015ねん平成へいせい27ねん)ののちさい宵山よいやま期間きかん台風たいふう通過つうか曜日ようび配列はいれつめぐまれず、21にちは7000にん、22にちは5000にん、23にちは1まん7000にん大幅おおはば減少げんしょうし、集客しゅうきゃくめんでの課題かだいのこした。反面はんめん好天こうてんめぐまれたのちさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう前年ぜんねんおなじ6まんにんあつめ、悪天候あくてんこうだったまえさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうとほぼわらない集客しゅうきゃくとなった。3ねんとなる2016ねん平成へいせい28ねん)は、宵山よいやま期間きかんは8000にん、1まんにん、2まんにんと、2ねんよりすこ増加ぞうかした程度ていどであったが、巡行じゅんこう日曜日にちようびかさなったこともあり、10まんにんあつめた。

ことわざ時機じきのがしてようさないことを「あとまつり」という。この語源ごげん異説いせつもあるが、まえさいでは豪華ごうか絢爛けんらんほこ多数たすう巡行じゅんこうするのにたいし、こうさいでは山鉾やまぼこかずすくなく小規模しょうきぼであることから、まえさい見逃みのがしてのこるはこうさいしかないような状況じょうきょうすようになったというせつもある。

日程にってい

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旧暦きゅうれき太陰たいいん太陽暦たいようれき)では6がつおこなわれていたが、新暦しんれきグレゴリオれき太陽暦たいようれき)では7がつおこなわれている。新暦しんれき移行いこう幾度いくど日程にってい変遷へんせんがあるが、以下いかしめすものは2014ねん平成へいせい26ねん)からののちさい復活ふっかつのものである。なお、開始かいし時刻じこく前後ぜんごすることがある。

時期じき日付ひづけ 祭事さいじ
6がつ中旬ちゅうじゅん下旬げじゅん
  • 長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご結納ゆいのう稚児ちご自宅じたく一般いっぱん非公開ひこうかい)。稚児ちごやく少年しょうねん長刀鉾なぎなたぼこまち代表だいひょうしゃ形式けいしきてき養子ようし縁組えんぐみする。
ここからが祇園祭ぎおんまつり
7がつ1にち
  • 長刀鉾なぎなたぼこまち稚児ちごせん(10八坂神社やさかじんじゃ)。下記かき参照さんしょう
7がつ1にちから
  • よしいれ(きっぷいり・かく山鉾やまほこまちごとに日付ひづけことなるがおおくは5にちまでにおこなわれるが、こうさい一部いちぶやまは15にち以降いこうおこなれいもある。おおくが一般いっぱん非公開ひこうかい)。まつりのはじまり。かく山鉾やまほこまち関係かんけいしゃ町会ちょうかいしょあつまってまつり無事ぶじ祈願きがんする。
7がつ2にち
  • くじしき(10京都きょうと市役所しやくしょ)。下記かき参照さんしょう
  • 山鉾やまほこまちしゃさん(1130ふん八坂神社やさかじんじゃ)くじしきえた山鉾やまほこまち代表だいひょうしゃ八坂神社やさかじんじゃかい本殿ほんでんでおはらいをける。
7がつ3にち
  • 船鉾ふなぼこかみめんあらため(10船鉾ふなぼこまち町会ちょうかいしょ一般いっぱん非公開ひこうかい)。ほんめんうつめんの2つのかみめんして無事ぶじ確認かくにんする。
7がつ4にちから9にちまでの不定ふてい[注釈ちゅうしゃく 4]
  • みやびかいせん(10八坂神社やさかじんじゃ)。京舞きょうまい井上いのうえりゅう家元いえもと井上いのうえ八千代やちよ筆頭ひっとうに、祇園ぎおんかぶと芸妓げいぎ舞妓まいこぞろいのあたらしい浴衣ゆかた着用ちゃくようして本殿ほんでんを3しゅうしたのち本殿ほんでんでおはらいをける。80にんほどの参加さんかであるが、稚児ちごのおせんなら本殿ほんでん3しゅうだけで「おせん」とする。浴衣ゆかた例年れいねん白地しろじ紺色こんいろ模様もようという簡素かんそになる。
7がつ5にちごろ不定ふてい
  • 函谷鉾かんこぼこまちりゅうげんてら墓参ぼさん宇多野うたのりゅうげんてら祇園祭ぎおんまつり公式こうしき行事ぎょうじではない)。1872ねん明治めいじ5ねん)、きゅう巡行じゅんこう解散かいさんほこまちもど途中とちゅう烏丸からすまふつこうてらあがルあたりで15さい少年しょうねんちまきひろおうとしてほこあしかれ死亡しぼうした。少年しょうねんがわ過失かしつではあるが、ほこがわ補償ほしょうをし葬儀そうぎはか費用ひようした。以来いらい1かいやすまず祇園祭ぎおんまつり期間きかん墓参ぼさんおこな巡行じゅんこう安全あんぜんちか行事ぎょうじ
7がつ5にち
  • 長刀鉾なぎなたぼこまち稚児ちごまい披露ひろう(1515ふん - 30ふんごろ長刀鉾なぎなたぼこまち町会ちょうかいしょ)。稚児ちご長刀鉾なぎなたぼこまち関係かんけいしゃまえ稚児ちごまい披露ひろうし、これでよいむね了承りょうしょうられると町会ちょうかいしょ2かいまどほこ前面ぜんめん見立みたてて、大衆たいしゅう稚児ちごまい披露ひろうする。
7がつ7にち
  • あや傘鉾かさぼこ稚児ちごしゃさん・おせん(14ごろから・八坂神社やさかじんじゃ)。長刀鉾なぎなたぼこまちせん同様どうように、正副せいふくわせて6にん稚児ちご八坂神社やさかじんじゃ稚児ちごえらばれたことの奉告ほうこくおこないう神事しんじのち関係かんけいしゃしたがえて3かい本殿ほんでんまわる「おせん」をおこなう。また、このとき稚児ちごやく少年しょうねん山鉾やまほこまち形式けいしきてき養子ようし縁組えんぐみする。
7がつ10日とおか
  • かみ用水ようすいきよしはらいしき(10四条しじょう大橋おおはしおよび宮川みやがわまちつつみ)。10四条しじょう大橋おおはしからほどちかなかはじめてら出発しゅっぱつしたいちぎょうは、四条しじょう大橋おおはしうえからおけ使つかってよる神輿しんよあらいで使つかみず鴨川かもがわからげる。6つのおけかみ用水ようすいれ、四条しじょう大橋おおはしのすぐみなみ東岸とうがんつくられた祭壇さいだんに3つのおけいて神事しんじおこなったあと、なかはじめてらもど予備よびの3つのおけなかげんてら境内けいだいく。
  • 高橋たかはしまちしゃさん(11八坂神社やさかじんじゃ神事しんじ非公開ひこうかい)。高橋たかはしまち四条しじょうふすままち長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご注連縄しめなわわたときちく毎年まいとし7がつ15にち早朝そうちょうてる役割やくわりまちであるが、まち役員やくいん参拝さんぱいする。なお、高橋たかはしまち四条しじょうふすままちからはなれた東洞ひがしぼらいん高辻たかつじあがルにあるまちであるが、かつてとなりまち烏丸からすまとおる高辻たかつじあがルにある大政所おおまんどころまちにある大政所おおまんどころ御旅所おたびしょときちく大政所おおまんどころまちふくめた3まちてていたのを、場所ばしょわったいまでも1まちだけでてているものである。
  • むか提灯ぢょうちん(1630ふん〜)。提灯ちょうちんくわえ、武者むしゃさぎおどり小町こまちおどりらの子供こどもたちを中心ちゅうしんに、かく山鉾やまほこまちからの代表だいひょうしゃらもくわわり八坂神社やさかじんじゃから、2013ねん平成へいせい25ねん)までの花傘はながさ巡行じゅんこう同一どういつコースを提灯ちょうちん行列ぎょうれつつくって巡行じゅんこうする。1630ふん八坂神社やさかじんじゃ出発しゅっぱつし、四条しじょうどおり河原町かわらまちどおりあるいて、京都きょうと市役所前しやくしょまえ各種かくしゅ芸能げいのう奉納ほうのうし、かえりは寺町てらまちどおりを南下なんかし、御旅所おたびしょまえから四条しじょうどおり経由けいゆ八坂神社やさかじんじゃ西門にしもんに1930ふんごろもどったあと、提灯ちょうちんっていちれつなら神輿しんよあらいにかうまえ神輿しんよむかえる。
  • 神輿しんよあらい(20ごろ四条しじょう大橋おおはし)。だい松明たいまつ八坂神社やさかじんじゃから四条しじょう大橋おおはしのういだの四条しじょうどおりきよめたあと、3ある神輿しんよのうち、ちゅう御座ぎょざだけが代表だいひょうして四条しじょう大橋おおはしまでく。あさんだみずさかきふくませておおきくりかざし、神輿しんよけることによりきよめる(「あらう」やくではない)。このさいさかきふくまれたかみ用水ようすい見物人けんぶつにんふくめた周囲しゅういひとにもかる。飛沫しぶきびると厄除やくよけになるという。下記かき参照さんしょうしてください
7がつ10日とおか〜12にち
  • まえさいほこて(四条しじょうどおり室町むろまちどおり)。分解ぶんかい収納しゅうのうされていたほこげ、かかそうほどこす。
7がつ11にち〜13にち
  • まえさいほこて・曳山ひきやまて(新町通しんまちどおり
7がつ11にち
  • ほこ真木まきこし(長刀鉾なぎなたぼこ函谷鉾かんこぼこにわとりぼこ月鉾つきほこ菊水鉾きくすいほこ
  • としほこによりことなるが、10ぐらいから15ぐらいまでのあいだ順次じゅんじおこなわれる。
7がつ12にち
  • まえさいの舁山て(午前ごぜん)(保昌やすまささん山伏山やまぶしやま芦刈山あしかりやま
  • まえさいほこはじ
    • 14函谷鉾かんこぼこ四条しじょうどおり
    • 1430ふんにわとりぼこ室町むろまちどおり
    • 15月鉾つきほこ菊水鉾きくすいほこ四条しじょうどおり室町むろまちどおり
    • 1530ふん長刀鉾なぎなたぼこ四条しじょうどおり
  • 放下ほうかぼこ真木まきこし、岩戸山いわとやまこし。としにもよるが、12から15ぐらいのあいだおこなわれる。
7がつ13にち
  • まえさいの舁山て(午前ごぜん)(占出山うらでやま・霰天神山かみやま郭巨山かくきょやまはくきばやまあぶら天神山てんじんやま木賊山とくさやま太子山たいしやま白楽天はくらくてんさん蟷螂山とうろうやま
  • まえさい傘鉾かさぼこて(午前ごぜん)(あやかさぼこ
  • 長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごしゃさん(11ごろ八坂神社やさかじんじゃ)。下記かき稚児ちごしゃさんおよ長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご参照さんしょう
  • まえさいの舁山のはじめ - 蟷螂山とうろうやま(12ごろ西洞院にしのとういんどおり)。
  • 久世くぜ駒形こまがた稚児ちごしゃさん(14ごろ八坂神社やさかじんじゃ)。下記かき稚児ちごしゃさんおよ久世くぜ駒形こまがた稚児ちご参照さんしょう
  • まえさいほこ曳山ひきやまはじめ - 放下ほうかぼこ船鉾ふなぼこ岩戸山いわとやま(15すべ新町通しんまちどおり)。
  • 菊水鉾きくすいほこ茶会ちゃかい(このから16にちまで・菊水鉾きくすいほこまち会所かいしょ)。このから一部いちぶ山鉾やまぼこ駒形こまがた提灯ぢょうちんけられ、よい々々やま同様どうようかざけや山鉾やまぼこ拝観はいかんはじまる。
7がつ14にち
  • まえさいの舁山て(午前ごぜん)(孟宗もうそうさん
  • まえさい傘鉾かさぼこて(午前ごぜん)(四条しじょう傘鉾かさぼこ
  • まえさいよい々々やま。2013ねん平成へいせい25ねん)まではこのから露店ろてんたが、2014ねん平成へいせい26ねん)からは露店ろてん四条しじょうどおり烏丸からすまどおり歩行ほこうしゃ天国てんごく実施じっしされない。そのため比較的ひかくてきいた人出ひとでとなっている。
  • 中之なかのまち御供おそなえ古式こしき一里塚いちりづか松飾まつかざりしき。14ごろ松原中之まつばらなかのまち町会ちょうかいしょ松原中之まつばらなかのまち八坂神社やさかじんじゃ行事ぎょうじそのものは非公開ひこうかい祇園祭ぎおんまつり公式こうしき行事ぎょうじではない)。下記かき参照さんしょう
7がつ15にち
  • 高橋たかはしまちときちくけん(430ふん四条しじょうふすままち交差点こうさてん)。まえさい巡行じゅんこう長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご切断せつだんする注連縄しめなわわたたけてる。
  • ゆたかえん泉正寺せんしょうじしんさかきけん(9らくひさし小学校しょうがっこう)。3つある神輿しんよのうち、主祭しゅさいしんであるもと盞嗚いのちせるなか御座ぎょざ先導せんどうする「ゆたかえんさかき」をてる行事ぎょうじ元々もともと3つの神輿しんよすべてを「さかき」が先導せんどうしており、このさかきもとひがし御座ぎょざ先導せんどうしていた。さかき廃絶はいぜつしここだけが現在げんざいのこっている。元々もともと高辻たかつじとおる高倉たかくら西入にしいりルにある泉正寺せんしょうじまちしていたが、1まちだけで継続けいぞくするのがむずかしくなり、1989ねん平成へいせい元年がんねん)からきゅうゆたかえん小学校しょうがっこう学区がっく全体ぜんたいすことになり、ゆたかえん小学校しょうがっこうてられるようになった。1992ねん平成へいせい4ねん)にゆたかえん小学校しょうがっこうなど5小学校しょうがっこう統合とうごうし、ゆたかえん小学校しょうがっこう使つかって京都きょうと市立しりつらくひさし小学校しょうがっこうとなったとき先導せんどうする神輿しんよちゅう御座ぎょざになった。この八坂神社やさかじんじゃから神職しんしょくがやってきよしはらいおこな行事ぎょうじとなっている。以前いぜんは16にちおこなわれていたが、としによって14にちになるなど日時にちじ変更へんこう可能かのうせいがあるため毎年まいとしよう確認かくにんのこと。そのあとさかき東洞ひがしぼらいんふつこうてら郵便ゆうびんきょくかいにうつって展示てんじされ、ちまき授与じゅよ朱印しゅいん押印おういんおこなわれる。
  • 手洗てあらい井戸いどびらき(7ごろ・四条しじょうにしき小路こうじ交差点こうさてんきた)。手洗水てあらいみず井戸いどぶたをあけ、きよしはらいおこなう。
  • 月次げつじさいなみ庖丁ぼうちょうしき(10八坂神社やさかじんじゃ)。毎月まいつき15にち月次げつじさい祇園祭ぎおんまつりかさなるのにわせ、日本にっぽんしき庖丁ぼうちょう道生どうしょうあいだりゅう庖丁ほうちょうしき神前しんぜん奉納ほうのうする。
  • まえさいよいやま(このと16にち宵山よいやま深夜しんやまでの両日りょうじつ出店しゅってん夜店よみせならび、四条しじょうどおり烏丸からすまどおり歩行ほこうしゃ天国てんごくになる)。
  • 山伏山やまぶしやま護摩ごまき(11ごろ 山伏山やまぶしやままち路上ろじょう)。2014ねん平成へいせい26ねん)からはじまった行事ぎょうじ聖護院しょうごいんからやって山伏やまぶしたちが10ごろからまず町会ちょうかいしょ2かい山伏やまぶしぞう神体しんたいまえ法要ほうようおこなったのちかく山鉾やまぼこまわり、ふたた山伏山やまぶしやまもど次第しだい路上ろじょう護摩ごまきをおこなうが、護摩壇ごまだん役行者えんのぎょうじゃさん護摩ごまきのように巨大きょだいではなく、密教みっきょう寺院じいんどうないおこなっている程度ていどのサイズであり、かつ山伏やまぶしかずもあまりおおくなく、「山伏やまぶし問答もんどう」などの行事ぎょうじがないなど、内容ないよう大幅おおはば省略しょうりゃくされている。こうさいまえさい合同ごうどう開催かいさいされていたころ役行者えんのぎょうじゃさん護摩ごまき(7がつ16にち宵山よいやま開催かいさいされていた)に参加さんかした山伏やまぶしたちが、山伏山やまぶしやまって参拝さんぱいするだけだった。開始かいし時間じかん役行者えんのぎょうじゃさん護摩ごまきとことなり、露店ろてんひらまえ午前ごぜんちゅうおこなわれる。
  • 伝統でんとう芸能げいのう奉納ほうのう(15〜18八坂神社やさかじんじゃ 日本にっぽん舞踊ぶよう尺八しゃくはちなどを奉納ほうのう
  • 宵宮よいみやさい(遷霊さいとも。20ごろ八坂神社やさかじんじゃ)。本殿ほんでんから神輿しんよ神霊しんれいうつ神事しんじ。クライマックスの10分間ふんかんほどは境内けいだいすべてのかりがされ、やみなか神霊しんれいが遷る。下記かき参照さんしょう
7がつ16にち
  • まえさい宵山よいやま。14にち - 16にちをまとめて「宵山よいやま」と総称そうしょうすることもある。
  • けんじちゃさい(9八坂神社やさかじんじゃ)。表千家おもてせんけ裏千家うらせんけ隔年かくねん交代こうたいで、神社じんじゃ境内けいだい井戸水いどみずちゃてて神前しんぜんそなえる。
  • 高橋たかはしまちときちく参拝さんぱい(10 - 16・ホテル日航にっこうプリンセス京都きょうとないえん会場かいじょう)。巡行じゅんこう稚児ちご切断せつだんする注連縄しめなわを、注連縄しめなわりを担当たんとうしている高橋たかはし町内ちょうないのホテルで一般いっぱん公開こうかいする。参拝さんぱいしゃにはお神酒みきわれ、八坂神社やさかじんじゃかみもんはいった素焼すやきのさかずきかえることができる。なお、前日ぜんじつ15にち一般いっぱん非公開ひこうかい八坂神社やさかじんじゃ神職しんしょくまねいて神事しんじおこなわれる。
  • 宵宮よいみやしんにぎわい奉納ほうのう神事しんじ(18から深夜しんやまで・四条しじょうどおり祇園ぎおん商店しょうてんがい)。八坂神社やさかじんじゃちかくの四条しじょうどおりつくられた臨時りんじステージや路上ろじょうなどで舞楽ぶがく京舞きょうまいさぎおどり三味線しゃみせん演奏えんそうなどが奉納ほうのうされる。また、路上ろじょう舞妓まいこ芸妓げいぎによるちゃ接待せったいしょもうけられる。
  • 石見いわみ神楽かぐら(18時半じはん八坂神社やさかじんじゃ)。祭神さいじんちな石見いわみ神楽かぐら奉納ほうのうされる。
  • まえさい日和ひより神楽かぐら(22ごろかく山鉾やまほこまち八坂神社やさかじんじゃ御旅所おたびしょ往復おうふく)。つぎ巡行じゅんこう安全あんぜん好天こうてん祈願きがんして、囃子方はやしかた山鉾やまほこまち人々ひとびと祇園ぎおん囃子ばやし演奏えんそうしながら四条しじょう寺町てらまち御旅所おたびしょまで往復おうふくし、御旅所おたびしょでは囃子はやし奉納ほうのうする。長刀鉾なぎなたぼこのみ八阪やさか神社じんじゃまでく。23ぎにかく山鉾やまほこまちもど山鉾やまぼこまわりでも演奏えんそうし、山鉾やまぼこによってはさんさんなな拍子ひょうしめる。
  • 船鉾ふなぼこ神功しんこう皇后こうごう神体しんたい腹帯はらおびき(2330ふん船鉾ふなぼこまち町会ちょうかいしょ一般いっぱん非公開ひこうかい)。宵山よいやま期間きかん町会ちょうかいしょ授与じゅよされた安産あんざん腹帯はらおびは、普通ふつうはすぐに祈願きがんしゃがわ手渡てわたさず神体しんたいなんじゅうかれる。巡行じゅんこうはずしたあとはじめて祈願きがんしゃわたされる。
7がつ17にち
  • まえさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう。9出発しゅっぱつ下記かき参照さんしょう
  • 長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご・おがえしの巡行じゅんこう終了しゅうりょう時間じかんによるが、13から14ごろ八坂神社やさかじんじゃ
  • 神幸しんこうさい神輿しんよ渡御とぎょ)。通称つうしょう「おいで」。下記かき参照さんしょう
7がつ17にち〜24にち
  • 無言むごんまい四条しじょう寺町てらまち御旅所おたびしょ)。御旅所おたびしょ神輿しんよ鎮座ちんざするあいだ毎晩まいばん無言むごん夜間やかん参拝さんぱいおこなうと、どんなねがいもかなうとされる。最終さいしゅう四条しじょう大橋おおはし御旅所おたびしょを7往復おうふくはんするのが正式せいしきとされる。
7がつ18にち20日はつか
  • こうさいほこて(大船おおぶねぼこ
  • こうさい曳山ひきやまて(鷹山ようざん
7がつ19にち20日はつか
  • こうさい曳山ひきやまて(南観音みなみかんおんさんきた観音山かんのんやま
7がつ19にち
  • こうさいの舁山て(午前ごぜん)(鯉山こいやま
  • まつしき(13ごろ六角ろっかくまちきた観音山かんのんやま南側みなみがわ))。きた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさんの2ほんまつ市内しない鳴滝なるたき伐採ばっさいされはこばれてくる。両町りょうちょう代表だいひょうしゃがまず予備よび抽選ちゅうせんとしてジャンケンをし、ったほうほん抽選ちゅうせん順番じゅんばん決定けっていできる。ほん抽選ちゅうせんなわれを方式ほうしきのくじきで、ったまちさきまつえらぶことができる。ったほうは「まつえらべた」けたほうは「まつのこしてもらった」とうのが通例つうれい
  • こうさい曳山ひきやまこし(としにもよるが、15から17ぐらいのあいだおこなわれる)
7がつ20日はつか
  • 南観音みなみかんおんさんまつしろばとけ(あさ8から10ごろ屋根やねがるなどの準備じゅんびでき次第しだい)。前日ぜんじつこしたやままつに、のぼ名人めいじん大工だいくのぼって。しろばと木彫きぼりける。
  • こうさいの舁山て(午前ごぜん)(きよしみょうさんくろぬしやま役行者えんのぎょうじゃさん鈴鹿すずかさん八幡やはたさん)。八幡山はちまんやま新町通しんまちどおりにあるため、の舁山のように午前ごぜんからはじめると、以前いぜんは15新町通しんまちどおりおこなわれる曳山ひきやまはじめに支障ししょうするため午後ごごおこなわれていた時期じきもあったが、現在げんざい町会ちょうかいしょ敷地しきちない午前ごぜんちゅうやまてをおこない、16はじめのとき新町しんまちどおりにはじめてる。
  • 15こうさいほこ曳山ひきやまはじめ - 大船おおぶねぼこ新町通しんまちどおり四条しじょうどおりからふつこうてらどおりあいだ)・きた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん新町通しんまちどおり三条さんじょうどおりから四条しじょうどおりあいだ)・鷹山ようざん三条さんじょうどおり新町通しんまちどおりから室町むろまちどおりあいだ)。2014ねん平成へいせい26ねん)は大船おおぶねぼこのみ14だったが、復興ふっこう初年しょねんだったこともありどおりが見物けんぶつきゃくだい混雑こんざつよんじょうどおりからきたくことを断念だんねんした。2015ねん以降いこう混雑こんざつ分散ぶんさんするため曳山ひきやまおなじ15変更へんこうされた)
  • 15花傘はながさ巡行じゅんこうちょう稚児ちご武者むしゃせんじょうしき(15八坂神社やさかじんじゃ
  • 16こうさいの舁山のはじめ - 八幡やはたさん新町通しんまちどおり三条さんじょうどおりからろく角通かくつうあいだ)。
7がつ21にち
  • こうさいの舁山て(午前ごぜん)(橋弁慶はしべんけいさん
  • 11こうさいの舁山のはじめ - 橋弁慶はしべんけいさん蛸薬師通たこやくしどおり
  • こうさいよい々々やま
7がつ22にち
  • こうさいよいやま
7がつ23にち
  • こうさい宵山よいやま
  • 煎茶せんちゃけんじちゃさい(9 八坂神社やさかじんじゃ
  • 琵琶びわ奉納ほうのう(13 八坂神社やさかじんじゃ
  • 役行者えんのぎょうじゃさん護摩ごまき(14ごろ 役行者えんのぎょうじゃまち路上ろじょう)。聖護院しょうごいんからやって山伏やまぶしたちが宵山よいやま期間きかん奉納ほうのうされた護摩ごま路上ろじょうつくられたおおきな護摩ごまだんげ、護摩ごま奉納ほうのうしたひと祈願きがん成就じょうじゅと、明日あした巡行じゅんこう安全あんぜんいのる。13ごろからまず町会ちょうかいしょ法要ほうようおこなったのちかく山鉾やまぼこまわり、ふたた役行者えんのぎょうじゃさんもど次第しだい路上ろじょう各種かくしゅ法要ほうようおこなう。まず「山伏やまぶし問答もんどう」とばれる儀式ぎしきがある。これは本物ほんもの山伏やまぶしかどうかをたしかめる内容ないよう一種いっしゅ寸劇すんげきで、内容ないようは「修験しゅげんどうとはなにか?」とか「修験しゅげんどう開祖かいそは?」という内容ないようで、周囲しゅうい観客かんきゃく修験しゅげんどう解説かいせつするためにおこなわれるものである。そのおおくの儀式ぎしきがあり護摩ごまはそのおこなわれる。15にち山伏山やまぶしやまでの護摩ごまよりもはるかにおおきな護摩壇ごまだんつくられる。
  • オハケきよしはらい(14さかいがい末社まっしゃまたたびしゃ)。翌日よくじつ還幸かんこうさいとき神輿しんよった神霊しんれいは、またたびしゃ御供ごくうしゃ)のオハケという御幣ごへい宿やどって休憩きゅうけいするといわれる。そのオハケをあらかじきよめる儀式ぎしき境内けいだい神事しんじおこなわれたのち三条さんじょうどおり設置せっちされた芝生しばふだいにオハケをておはらいをおこない、神職しんしょく関係かんけいしゃあらかじ神泉苑しんせんえんんだせいなるみずをオハケの根元ねもと芝生しばふける。2022ねんからつづ周囲しゅういにいる一般人いっぱんじんみずけることができるようになった。
  • こうさい日和ひより神楽かぐら(22ごろかく山鉾やまほこまち八坂神社やさかじんじゃ御旅所おたびしょ往復おうふく)。翌日よくじつ巡行じゅんこう安全あんぜん好天こうてん祈願きがんする行事ぎょうじ。23前後ぜんこうかく山鉾やまほこまちもどったいちぎょうは、山鉾やまぼこにもよるが山鉾やまぼこまわりでも祇園ぎおん囃子ばやし演奏えんそうしたり、さんさんなな拍子ひょうしおこなったりするまちもある)
  • 南観音みなみかんおんさんあばれ観音かんのん要員よういん日和ひより神楽かぐらからもど次第しだい、23〜2330ふんごろ開始かいし)。本尊ほんぞん楊柳ようりゅうかん音像おんぞうぬのつつんだうえ蓮台れんだいにぐるぐるまきにして、おなじくぬのつつんだぜんざい童子どうじぞうかかえたひと先導せんどう町内ちょうない南北なんぼくはし交差点こうさてんまではしりながら3往復おうふくする。交差点こうさてん南観音みなみかんおんさんわきでは「ワッショイ」のごえともはげしく上下じょうげらす。夜更よふけの行事ぎょうじではあるがおおくの見物けんぶつきゃく町内ちょうないまる。一説いっせつでは南観音みなみかんおんさん女性じょせい観音かんのんで、きた観音山かんおんやま男性だんせい観音かんのんとされ、きた観音山かんのんやま観音かんのん南観音みなみかんおんさん観音かんのん恋心こいごころいたさいに、あきらめさせるために女性じょせい観音かんのんあばれさせたといわれる。
7がつ24にち
  • 高橋たかはしまちときちく撤収てっしゅう早朝そうちょう四条しじょうふすままち交差点こうさてん)。まえさい巡行じゅんこう長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご切断せつだんした注連縄しめなわわたしていたたけ撤去てっきょする。
  • こうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう。930ふん出発しゅっぱつ
  • 花傘はながさ巡行じゅんこう下記かき参照さんしょう。このおこなわれていたのちさいわりにはじめられたものだが、こうさい復活ふっかつ継続けいぞく。2019ねんまでは河原町かわらまちどおりぜん区間くかんおよ御池みいけどおり寺町てらまち - 河原町かわらまちあいだではこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうつづいて巡行じゅんこうしていた。3年間ねんかん中断ちゅうだんて2023ねん復活ふっかつしたときは巡行じゅんこうルートが下京しもぎょう中学校ちゅうがっこう成徳しげのり学舎がくしゃをスタートして高辻たかつじとおる - 烏丸からすまとおる - 四条しじょうどおり片道かたみちルートになった。
  • 還幸かんこうさい神輿しんよ渡御とぎょ)。通称つうしょう「おかえり」。下記かき参照さんしょう。22ごろから順次じゅんじ神輿しんよ八坂神社やさかじんじゃ到着とうちゃくし、宵宮よいみやさい同様どうよう照明しょうめいしたなか神霊しんれい本殿ほんでんうつされる。
  • 丹波たんば八坂はっさか太鼓たいこ奉納ほうのう八坂神社やさかじんじゃとう)。八坂神社やさかじんじゃ分社ぶんしゃであるきょう丹波たんばまちの「長野ながの八坂神社やさかじんじゃ」(八坂神社やさかじんじゃ神田かんだがある)につたわる太鼓たいこ八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい還幸かんこうさい神輿しんよ渡御とぎょ途中とちゅう奉納ほうのうする。
7がつ25にち
  • 南北なんぼく観音山かんのんやままつ伐採ばっさい早朝そうちょう6以降いこう準備じゅんびでき次第しだい)。前日ぜんじつにある程度ていど解体かいたいみの曳山ひきやまてたまま、大工だいくまつ足場あしばとうけてのぼって、まつのこ伐採ばっさいする。
  • 狂言きょうげん奉納ほうのう(13八坂神社やさかじんじゃ)。境内けいだいのう舞台ぶたい茂山しげやま狂言きょうげん奉納ほうのうされる。
  • せん団子だんご(14ごろさかいがい末社まっしゃまたたびしゃ)。還幸かんこうさいさい神輿しんよそなえられた団子だんごを、このがりとして参拝さんぱいしゃ配布はいふする。べると厄除やくよけの効果こうかがあるとされる。
7がつ下旬げじゅん日曜日にちようび
  • 平成へいせいおんなぼこ清音せいおんかい八坂神社やさかじんじゃ奉納ほうのう囃子ばやし(1530ふん 八坂神社やさかじんじゃ
7がつ28にち
  • かみ用水ようすいきよしはらいしき(10四条しじょう大橋おおはし)。よる神輿しんよあらいで使つかみず鴨川かもがわからげる。
  • 神輿しんよあらい(20ごろ四条しじょう大橋おおはし)。7がつ10日とおか神輿しんよあらいと同様どうようであるが、終了しゅうりょう神輿しんよぞう収納しゅうのうされる。
7がつ29にち
  • 神事しんじずみ奉告ほうこくさい(16八坂神社やさかじんじゃ一般いっぱん非公開ひこうかい)。祇園祭ぎおんまつり終了しゅうりょうかみ奉告ほうこくする行事ぎょうじで、かつてはこの神事しんじ祇園祭ぎおんまつり最後さいごとされていた。旧暦きゅうれき太陰たいいん太陽暦たいようれき時代じだいは6月がとしにより29にちまでの場合ばあいと30にちまでの場合ばあいがあったため、かなら存在そんざいする29にちまつり最後さいごとしたものである。
7がつ31にち
  • 疫神しゃ夏越なごしさい(10八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい摂社せっしゃ 疫神しゃ)。関係かんけいしゃつづいて一般いっぱん参拝さんぱいしゃ鳥居とりいけられたかやをくぐり、護符ごふける。ちがや一部いちぶって護符ごふむすびつけ、おまもりとする。現在げんざい祇園祭ぎおんまつり最終さいしゅう公式こうしき行事ぎょうじとされている。

各種かくしゅ行事ぎょうじ

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長刀鉾なぎなたぼこまち稚児ちごせん

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7がつ1にちにそのとし長刀鉾なぎなたぼこまち稚児ちごはじめて公式こうしき八坂神社やさかじんじゃ参拝さんぱいし、稚児ちごえらばれたことを奉告ほうこくし、まつり無事ぶじいのる。本殿ほんでんななかいにある「ときかん」で身支度みじたくととのえた稚児ちご禿かぶろの3にんは、945ふんごろには関係かんけいしゃらと本殿ほんでんはいり、10ごろ神事しんじはじまる。稚児ちごは13にち稚児ちごしゃさんまえで、正式せいしきかみ使つかいとなるまえであるので、しろりの化粧けしょうをしているものの、かんむりなどはこうむっておらず頭髪とうはつえており、衣服いふくも13にち以降いこうとはことなる。また、自分じぶんあしあるく。

そのあと1020ふんごろからいちぎょう本殿ほんでんまえで2れい2拍手はくしゅ1れい参拝さんぱいおこなったあと、時計とけいまわりに3かい本殿ほんでんまわる「おせん」をおこなう。途中とちゅう本殿ほんでんうら本殿ほんでんまえいたったときにそれぞれ2れい2拍手はくしゅ1れい参拝さんぱいおこなう。

3かい本殿ほんでんまわっただけで「おせん」とぶのは、かつては稚児ちごは300にん以上いじょうひとしたがえて参拝さんぱいしたので、せんまわったと解釈かいしゃくし「おせん」というのである。ただし、現在げんざいは30にん程度ていどしかしたがえていないが、旧例きゅうれいしたがって3しゅうだけで「おせん」としょうしており、「あや傘鉾かさぼこ稚児ちごせん」や「みやびかいせん」でも同様どうようとなっている(10八坂神社やさかじんじゃ)。

くじしき

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1500年(明応9年)侍所開闔 松田豊前守頼亮により始められた「くじ取り式」、「くじ改め」で奉行役を務める京都市長(2019年、後の祭り)
1500ねんあきらおう9ねんさむらいしょひらき松田まつだゆたかぜんまもりよりゆきあきらによりはじめられた「くじしき」、「くじあらため」で奉行ぶぎょうやくつとめる京都きょうと市長しちょう(2019ねんあとまつり)

山鉾やまぼこのそのとし巡行じゅんこうじゅんをくじきによってめる儀式ぎしき応仁おうにんらん33年間ねんかん中断ちゅうだんしていた祇園祭ぎおんまつり復興ふっこうするさいに、激化げきかした順番じゅんばんあらそいをおさめるために室町むろまち時代じだいの1500ねんあかりおう9ねん)、当時とうじさむらいしょ役人やくにんひらき)であった松田まつだゆたかぜんまもりよりゆきあきら私宅したくでくじりをおこなったとつたえられており[9]現在げんざいもこの神事しんじは、当代とうだい京都きょうと市長しちょうかみしも姿すがた松田まつだよりゆきあきらやくとして参加さんかするものとしてつづいている[25]。そのながらくろくかくどう開催かいさいされてきたが、1953ねんから京都きょうと市役所しやくしょ市会しかい議場ぎじょうひらかれるようになり現在げんざいいたる。現在げんざいは7がつ2にちおこなわれている。まずまえさいのくじりをおこない、つづいてこうさいのくじりをおこなう。一般いっぱん傍聴ぼうちょうせきでの見学けんがく往復おうふくはがきでもう当選とうせんしたひとかぎられている。山鉾やまほこまち人々ひとびとはこのあとすぐに八坂神社やさかじんじゃしゃさんし、巡行じゅんこうじゅん決定けっていしたことを奉告ほうこくする。

神輿しんよあら

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鴨川かもがわみず神輿しんよきよめる神事しんじかざりをいた状態じょうたいなか御座ぎょざ夕刻ゆうこくよんじょう大橋おおはしはこしておこなう。神幸しんこうさい先立さきだつ7がつ10日とおかさき神輿しんよあらい)と還幸かんこうさいのちの7がつ28にち神輿しんよあらい)の2ある。

これに関連かんれんするならわしとして、「おむか提灯ぢょうちん」がある。これは町衆まちしゅう神輿しんよ到来とうらいしゅくして自主じしゅてきはじめた行列ぎょうれつで、さき神輿しんよあらいの(7がつ10日とおか)の夕方ゆうがたよりおこなわれ、神輿しんよあらい(7がつ28にち)にはおこなわれない。なお、雨天うてんには「おむか提灯ぢょうちん」はおおきく省略しょうりゃくされたり中止ちゅうしになったりする。また、大雨おおあめ暴風ぼうふう警報けいほう発令はつれいされたときなどは、神輿しんよあら自体じたいおおきく省略しょうりゃくされ、八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいだけですべての行事ぎょうじおこなわれ、四条しじょうどおりにはなくなる。

この神輿しんよあらいでかつがれる神輿しんよよんすべての神輿しんよではなく、戔嗚みことせるなか御座ぎょざ三若みわか一基いっきである。かつしゅ神幸しんこうさいひがし御座ぎょざよんわか)をかつよんわか神輿しんよかい担当たんとうする。

18から神輿しんよぞうはじまり、ちゅう御座ぎょざかざけをされない状態じょうたいのままみなみ楼門ろうもんそとかれ、神輿しんよまい殿どのげられてかざけがおこなわれる。19ごろにまずだい松明たいまつ八坂神社やさかじんじゃ出発しゅっぱつよんじょう大橋おおはしまで往復おうふくして、神社じんじゃ四条しじょう大橋おおはしあいだきよめたあと、19時半じはんごろちゅう御座ぎょざは4ほん松明たいまつまもられて四条しじょう大橋おおはしかう。西にし楼門ろうもんでは子供こどもたち提灯ちょうちんってむかえているまえでは神輿しんよおおきくらしてすずらす。四条しじょう大橋おおはしでも神輿しんよおおきくらしてすずらす。20ごろ四条しじょう大橋おおはしうえあさかみ用水ようすいきよしはらいしきんだみずを、八坂神社やさかじんじゃ神職しんしょくさかきふくませておおきくりかざし、神輿しんよけることにより「きよめる」。神輿しんよあらいのであるが、一般いっぱんてきにいうところの「あらう」わけではない。このさいさかきふくまれたかみ用水ようすい見物人けんぶつにんふくめた周囲しゅういひとにもかる。神職しんしょくもあえて周囲しゅういひとにもかるようにさかきる。飛沫しぶきびると厄除やくよけになるという。神輿しんよあらいをえたなか御座ぎょざ八坂神社やさかじんじゃもとのコースを辿たどってもどる。西にし楼門ろうもんではふたた子供こどもたち提灯ちょうちんってむかえている。20時半じはんから21ごろ境内けいだいもどったなか御座ぎょざまい殿どのまわりを2しゅうしたあと、まい殿どのげられてかざけが開始かいしされる。並行へいこうして境内けいだいでは鷺舞さぎまいなどの子供こどもによる芸能げいのうおこなわれる。

なお、八坂神社やさかじんじゃからの出入でいりは四条しじょうどおりめんした西にし楼門ろうもんではなく、本殿ほんでん正面しょうめんにあるみなみ楼門ろうもん使つかう。

神輿しんよあらいでは、「おむか提灯ぢょうちん」がいことのほか境内けいだいもどったなか御座ぎょざは、そのまま神輿しんよおさめられるてんちがう。

稚児ちごしゃさん

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7がつ13にちには11長刀鉾なぎなたぼこの、14には久世くぜ駒形こまがた稚児ちごしゃさんおこなわれる。

長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごしゃさんは、まず稚児ちごいちぎょうは10ごろ長刀鉾なぎなたぼこ町会ちょうかいしょ出発しゅっぱつする。稚児ちご狩衣かりぎぬ烏帽子えぼし姿すがたうまり、禿かぶろ2にん徒歩とほ神社じんじゃかう。いちぎょう服装ふくそうは、稚児ちご禿かぶろあかかさをさすひとうまひと荷物にもつはこひとしろ水干すいかん姿すがたで、先導せんどうやく長刀鉾なぎなたぼこ浴衣ゆかた姿すがたで、まち役員やくいん稚児ちご禿かぶろ父親ちちおやかみしも姿すがたである。いちぎょう最後さいごには和装わそう稚児ちご禿かぶろ母親ははおやつづく。四条しじょうどおり通行止つうこうどめにこそならないものの、稚児ちごいちぎょう自動車じどうしゃすことができず、四条しじょうどおりひがしぎょう路線ろせんバスをふくめて稚児ちごのあとを徒歩とほのスピードでつづくことしかできない。バスは1間近まぢかおくれることもある。八坂神社やさかじんじゃへの参入さんにゅう神輿しんよ同様どうようみなみ楼門ろうもんからとなる。1045ふんごろみなみ楼門ろうもんまえ到着とうちゃくした稚児ちごいちぎょうは、稚児ちご下馬げば服装ふくそうなどをととのなおしたあと、徒歩とほ本殿ほんでん正面しょうめん入口いりくちから参入さんにゅうする。本殿ほんでんない儀式ぎしき一般いっぱん公開こうかいされていないが、神事しんじおこなわれて稚児ちご少将しょうしょうじゅうまんせき大名だいみょう格式かくしきさずかるため、長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごしゃさんは「おもらい」ともばれる。この神事しんじ以降いこう正式せいしきに「かみ使つかい」となるため、公式こうしき行事ぎょうじではけっして地面じめんあるかなくなり、剛力ごうりきかたって本殿ほんでんから退出たいしゅつする。以前いぜんふたたかえっていた時期じきもあったが、現在げんざいみなみ楼門ろうもんまえの「中村なかむらろう」で食事しょくじをしたのちに、14ごろにハイヤーにって宿舎しゅくしゃかえっていく。これ以降いこう稚児ちご禿かぶろは17にち巡行じゅんこうと「おがえし」までを稚児ちご宿舎しゅくしゃとなっているホテルごすことになる。

14には久世くぜ駒形こまがた稚児ちごしゃさんおこなわれる。現在げんざい久世くぜ駒形こまがた稚児ちごしゃさんうま神社じんじゃかうことはせず、ハイヤーとう八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいにある「常盤ひたちしん殿どの」という建物たてものはいり、ここで身支度みじたくととのえて1345ふんごろ常盤ひたち殿どの出発しゅっぱつし、徒歩とほ南側みなみがわ道路どうろみなみ楼門ろうもんから境内けいだいはい本殿ほんでん参内さんだいする。みなみろう門前もんぜん通過つうかするさいには中村なかむらろうないにまだ長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごいちぎょうがいることがおおい。稚児ちご神幸しんこうさい還幸かんこうさいでそれぞれべつ稚児ちごえらばれているので、2人ふたりならんてあるいて参内さんだいする。久世くぜ駒形こまがた稚児ちご長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごよりもすう学年がくねんほど年少ねんしょう小学生しょうがくせいえらばれることがおおい。

7にちあや傘鉾かさぼこ稚児ちごしゃまいり久世くぜ駒形こまがた稚児ちごしゃさん同様どうように「常盤ひたちしん殿どの」からスタートする。あや傘鉾かさぼこ稚児ちごせいふく合計ごうけい6にんえらばれるが、小学校しょうがっこうてい学年がくねんから幼稚園ようちえんぐらいのおさなえらばれるので、まっていてもじっとしていないことがおおい。14ぎに「常盤ひたちしん殿どの」を出発しゅっぱつし、久世くぜ駒形こまがた稚児ちご同様どうよう徒歩とほ南側みなみがわ道路どうろみなみ楼門ろうもんから境内けいだいはい本殿ほんでんまえくちきよめてから本殿ほんでんない参内さんだいする。1420ふんから30ふんごろからの本殿ほんでんでの神事しんじのち本殿ほんでん時計とけいまわりに3しゅうする「おせん」がおこなわれる。おせんのあと本殿ほんでんまえ各自かくじ記念きねん撮影さつえいおこない、その一時いちじてきじられたみなみ楼門ろうもんまえ全員ぜんいん集合しゅうごう写真しゃしん撮影さつえいしたあと、ふたたれつつくって「常盤ひたちしん殿どの」にもどっていく。長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご以外いがいは、ホテルに缶詰かんづめになることはなく、まつりとき以外いがい普通ふつう生活せいかつおくる。

なお、長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごは1にちすでにおせんましている。

ほこて・やまて・はじ

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ほこちゅう函谷鉾かんこぼこ
放下ほうかぼこはじ

山鉾やまぼこ普段ふだんは、かく山鉾やまほこまち所有しょゆうあるいは賃借ちんしゃくしているくらや、円山公園まるやまこうえんにある収蔵しゅうぞうである「祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこかん」に解体かいたいしておさめられている。たかさのたかほこ曳山ひきやまと、小規模しょうきぼな舁山ではかたことなるが、いずれにせよくぎ一切いっさい使つかわず、なわだけでてていくのは共通きょうつうしている。だい規模きぼほこては普通ふつう3日間にちかんかかる。初日しょにち基礎きそ部分ぶぶんてがおこなわれる。

2にち基礎きそ部分ぶぶん横倒よこだおしにし、20メートル以上いじょうたかさがある真木まきや、曳山ひきやま場合ばあいたかまつまつ)がけられ、梃子てこ原理げんり利用りようしてこされる。ひる前後ぜんこうおこなわれるほここしはほこ最大さいだいどころである。こしには山鉾やまぼこによりウィンチを使つかったり、むかしながらにロープを人力じんりきいたりするが、関係かんけいしゃだけで作業さぎょうおこな山鉾やまぼこおおなかきた観音山かんおんやま周囲しゅうい観客かんきゃくにロープをいてもらってやまこす。ほこ場合ばあい真木まきけたあとに神体しんたいである天王てんのう人形にんぎょうけがおこなわれる。ほとんどのほこでは群衆ぐんしゅう神体しんたい間近まぢかえないようにぬのかくしてける。ぬのにはひもがついており、ほここして天王てんのう人形にんぎょうがある程度ていど地上ちじょうはなれてからひもいてぬのはずす。その菊水鉾きくすいほここし直前ちょくぜんさかきける大量たいりょうしろぬさ付近ふきんにいるひとたちにけてもらうなどの、ほこによる手順てじゅん差異さいがある。

3にちは、屋根やねけ、車輪しゃりんけ、かざけなどがおこなわれる。曳山ひきやまては岩戸山いわとやまは3日間にちかんけるが、こうさい曳山ひきやまきた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん)は2にち完成かんせいさせる。この場合ばあい曳山ひきやまこしは初日しょにちの15〜16ごろおこなわれる。こうさい鷹山ようざんは、まえさい時期じきからすで基部きぶてている。きた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん鷹山ようざんまつ木彫きぼりのとりけているが、きた観音山かんのんやま鷹山ようざんまつけるときとりむすびつけるが、南観音みなみかんおんさんやまこしたあとに翌日よくじつ午前ごぜんに、のぼりをしてとりける。

3にちの15前後ぜんこうには「はじめ」がおこなわれる。これは、すうひゃくメートルの往復おうふくおこなって巡行じゅんこうのテストをおこなうのであるが、しゅ女人にょにん禁制きんせいのあるほこであっても、このときばかりは付近ふきんにいるひとなら、男女だんじょ老若ろうにゃく国籍こくせき関係かんけいなくだれでもほこ曳山ひきやまくことができる。ただし、悪天候あくてんこう幼児ようじ参加さんかことわ場合ばあいがある。一部いちぶほこ曳山ひきやまでは最後さいごまではじめに参加さんかしたひとにおれいわたす。ほこ曳山ひきやまにより、無料むりょうとうぼこけんであったり、厄除やくよけのおさつであったりする。子供こども限定げんてい菓子かしものわたされることもある。ただし、近年きんねん参加さんかしゃ増加ぞうかしすぎて無料むりょうとうぼこけん配布はいふ中止ちゅうしするところもえている。

山鉾やまほこまちにある企業きぎょう短期大学たんきだいがく女性じょせい浴衣ゆかた姿すがた参加さんかしたり、幼稚園ようちえん小学校しょうがっこう生徒せいと団体だんたい参加さんかしたり、外国がいこくじん観光かんこうきゃくりしたりと、山鉾巡行やまぼこじゅんこうとはちがった姿すがたられるが、囃子方はやしかた音頭おんどかたとうみ、長刀鉾なぎなたぼこには稚児ちごむことは本番ほんばんわらない。観客かんきゃく本格ほんかくてきまつり参加さんかできるほぼ唯一ゆいいつ行事ぎょうじである。ただし参加さんか希望きぼうしゃおおいため、人気にんきほこであったり週末しゅうまつ場合ばあいはかなりはやめにっておく必要ひつようがある。一部いちぶほこは、混乱こんらんけるために関係かんけいしゃだけでくところもあるので、確認かくにん必要ひつようとなる。はじめをバスツアーに販売はんばいして、運営うんえい資金しきん一部いちぶとするところもある。2024ねんでは長刀鉾なぎなたぼこ岩戸いわとさん招待しょうたいされた小学生しょうがくせい幼稚園ようちえん保護ほごしゃだけでいた。こうさいはじめは比較的ひかくてき参加さんかしやすい。ただし、こうさいでは鷹山ようざんはじめや南観音みなみかんおんさん関係かんけいしゃ招待しょうたいしゃかぎられている。これがわるとほこ曳山ひきやま前後ぜんご駒形こまがた提灯ぢょうちんけられてれられ、祇園ぎおん囃子ばやし演奏えんそうはじまる。

まえさい四条しじょうどおり室町むろまちどおり位置いちするほこほこては7がつ10日とおかから、新町通しんまちどおり位置いちするほこ曳山ひきやまほこて・やまては7がつ11にちからおこなわれる。こうさいほこ曳山ひきやまは7がつ18にちから大船おおぶねぼこてが、7がつ19にちからやまてが開始かいしされる。

舁山のてはほこ基礎きそ部分ぶぶんだけのてにており、普通ふつう半日はんにちてが完了かんりょうする。一部いちぶのぞよい々々やま前日ぜんじつ午前ごぜんやまけんおこなわれる。孟宗もうそうさん橋弁慶はしべんけいさんのようによい々々やま早朝そうちょうやまてを開始かいしし、ひるごろまでに完成かんせいさせるところもある。

まえさい蟷螂山とうろうやまこうさい橋弁慶はしべんけいさん八幡やはたさんは「はじめ」がおこなわれる。ながらく橋弁慶はしべんけいさんだけが舁山のはじめをおこなってきたが、町内ちょうない住民じゅうみん増加ぞうかにより、2012ねん蟷螂山とうろうやまやく140ねんぶりのはじめを再開さいかいした。の舁山でも非公式ひこうしきたてわったやまうごかしてみるところもあるが、りょうやまのようにやま本番ほんばん同様どうようかざけてはじめするところはない。橋弁慶はしべんけいさんはじめは関係かんけいしゃだけでおこなうが、蟷螂山とうろうやまはじめはほこのようにつな臨時りんじけるので、ほこはじめと同様どうよう観客かんきゃくであっても参加さんかできる。八幡山はちまんやまはじめは2013ねんからはじめられた。町会ちょうかいしょ敷地しきちないてられたやま新町しんまちどおりにすことをねた行事ぎょうじであるので、蟷螂山とうろうやま橋弁慶はしべんけいさんことなり、かざけをおこなわない状態じょうたいでのはじめである。公式こうしきには関係かんけいしゃだけでおこなうことになっているが、実際じっさいには一般人いっぱんじんもうれば参加さんかできる。

かさぼこ基本きほんてきにはかさひらくだけなので、ほこ本体ほんたい設置せっち簡単かんたんである。四条しじょうかさぼこまえさいよい々々やまである7がつ14にちあさ設置せっちされる。かさぼこ設置せっちそのものよりも、駒形こまがた提灯ぢょうちん設置せっちのほうが面倒めんどうとなる。

中之なかのまち御供おそなえ

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古式こしき一里塚いちりづか松飾まつかざりしき」ともいう。7月14にちの14ごろ松原中之まつばらなかのまち町会ちょうかいしょおくにわにある小祠しょうしである「松原中之まつばらなかのまち八坂神社やさかじんじゃ」を参拝さんぱいするかたちおこなわれる。八坂神社やさかじんじゃがわ公式こうしき行事ぎょうじではない。

1955ねん昭和しょうわ30ねん)までぜんまつり巡行じゅんこう松原まつばらどおりとおっていたが、そのさい長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご長刀鉾なぎなたぼこまちの「やどりきまち協力きょうりょく関係かんけいにあるまち)」であった巡行じゅんこう途中とちゅう松原中之まつばらなかのまち町会ちょうかいしょ休憩きゅうけいし、そのさい町会ちょうかいしょおくほこら松原中之まつばらなかのまち八坂神社やさかじんじゃ)にもうでていた。巡行じゅんこうわり松原まつばらどおりほこ巡行じゅんこうしなくなったため、しばらく断絶だんぜつしたのち、7がつ17にち巡行じゅんこう松原中之まつばらなかのまち人々ひとびと京都きょうと市役所前しやくしょまえ出向でむいて、長刀鉾なぎなたぼこだけでなくすべての山鉾やまぼこ関係かんけいしゃつめたいちゃ菓子かし行事ぎょうじとなった時期じきもあった。

現在げんざいでは7がつ14にち稚児ちご八坂神社やさかじんじゃ長刀鉾なぎなたぼこまち関係かんけいしゃ松原中之まつばらなかのまち町会ちょうかいしょ出向でむいて神事しんじおこなう。稚児ちごいちぎょう山鉾やまほこまち隣接りんせつしたところにある稚児ちご宿舎しゅくしゃとなっているホテルを1340ふんごろ出発しゅっぱつし、徒歩とほでまず保昌やすまささん会所かいしょもうでてから「祇園ぎおんゆか」という床屋とこやだった建物たてものおくにある松原中之まつばらなかのまち町会ちょうかいしょいたる。雨天うてんなどはコースをえたりくるま使つかうこともあるようである。神事しんじのち冷水れいすいした薄茶うすちゃ稚児ちご関係かんけいしゃう。1430ふんごろ神事しんじ終了しゅうりょうし、きゅう祇園ぎおんゆか建物たてものまえ稚児ちご中心ちゅうしんにして記念きねん撮影さつえいをしたあと、ふたた徒歩とほ保昌やすまささん経由けいゆ宿舎しゅくしゃのホテルにもどる。稚児ちご出発しゅっぱつしたのち町内ちょうない関係かんけいしゃ参拝さんぱい終了しゅうりょう次第しだい付近ふきんにいる一般人いっぱんじんにも町会ちょうかいしょおくほこら参拝さんぱいゆるされる。以前いぜん一般人いっぱんじんにも薄茶うすちゃっていたが、現在げんざい薄茶うすちゃ関係かんけいしゃだけしかめない。八坂神社やさかじんじゃがわ行事ぎょうじではなく松原中之まつばらなかのまちがわ行事ぎょうじで、八坂神社やさかじんじゃ稚児ちごとう招待客しょうたいきゃくというあつかい。この稚児ちご禿かぶろ和装わそう下駄履げたばきで、長刀鉾なぎなたぼこまちひとに、あかかさしてもらっているが、しろりの化粧けしょうをしておらず、くちびるあたりにうすべにをしている程度ていどで、かんむり帽子ぼうしもかぶっていない。また、13にち稚児ちごしゃさんではあるが非公式ひこうしき行事ぎょうじであるため、稚児ちご普通ふつう地上ちじょうあるく。

このから3日間にちかん稚児ちご禿かぶろ夕刻ゆうこく非公式ひこうしき八坂神社やさかじんじゃ参拝さんぱいするが、中之なかのまち御供ごくう同様どうようのいでたち・薄化粧うすげしょうで、地上ちじょうあるく。

宵宮よいみやさい

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遷霊さいともいう。神霊しんれい本殿ほんでんから神輿しんようつ行事ぎょうじ。7月15にちおこなわれる。1945ふんごろには、本殿ほんでん神輿しんよかれたまい殿どのあいだ注連縄しめなわめぐらされ、かみみち結界けっかいつくる。本殿ほんでんまい殿どのあいだには神霊しんれいうつ神官しんかんとおるためにゴザがかれる。1950ふんごろから本殿ほんでんない神事しんじはじまる。雅楽ががく演奏えんそうとともに宮司ぐうじによる祝詞のりと関係かんけいしゃによる礼拝れいはいいちとおおこなわれたあと、2020ふんごろから「遷御の」がおこなわれる。境内けいだい照明しょうめいすべとされて、本殿ほんでんまえは「きよしやみ(じょうあん)」すなわち神事しんじをとりおこなさいけがれのない暗闇くらやみつつまれる。もちろんまちちゅう神社じんじゃであるので漆黒しっこくやみにはならず、すぐにれる。やがて本殿ほんでんからかすかにきん音色ねいろこえてくると、ぬさ神官しんかん先導せんどうされ、しろまくかくされた神霊しんれいまい殿どのかう。神霊しんれいはこ神官しんかん足元あしもとだけがちいさなかりでらされる。先導せんどう神官しんかんぬさりながら警蹕けいひつ(けいひつ)のこえげる。いまからかみとおるという合図あいずの「ぅおおおお」というひくこえである。神霊しんれいうつしは本殿ほんでんまい殿どのを3往復おうふくするわけではなく、1で3つの神輿しんよ神霊しんれいうつす。まい殿上てんじょうべつ神輿しんよ移動いどうするときや、最後さいご神官しんかん一同いちどう本殿ほんでんもどさい警蹕けいひつこえをあげる。神官しんかん一同いちどう本殿ほんでんもどってしばらくすると照明しょうめいふたた点灯てんとうされ、宵宮よいみやさいのクライマックスは終了しゅうりょうする。最後さいご関係かんけいしゃ神官しんかん一同いちどう神輿しんよ正面しょうめんがわから拝礼はいれいして行事ぎょうじ終了しゅうりょうする。行事ぎょうじ終了しゅうりょうとともに一般いっぱん参拝さんぱいしゃ神輿しんよ正面しょうめんからの参拝さんぱいゆるされる。

行事ぎょうじまえかえし「照明しょうめいされてからの写真しゃしん撮影さつえい、ビデオ撮影さつえいとくにフラッシュの使用しよう」は禁止きんしであるむね案内あんないがある。

なお、7がつ24にち還幸かんこうさいで3つの神輿しんよ八坂神社やさかじんじゃもどったさい神霊しんれい本殿ほんでんうつさいにも、10ふんほど照明しょうめいす。

宵山よいやま期間きかん

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鯉山こいやま町会ちょうかいしょかざり。おくにある見送みおくりは16世紀せいきブリュッセルせいのタペストリーで、ホメーロス叙事詩じょじしイーリアス』に取材しゅざいしたもの。仕立したてなおされてはいるものの16世紀せいきのタペストリーがつてするのはきわめてまれであり、だい航海こうかい時代じだい東西とうざい交流こうりゅう物語ものがた貴重きちょう資料しりょうとして、「祇園ぎおんかい鯉山こいやまかざりつづり」の名称めいしょうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[26][27]
函谷鉾かんこぼこちまき

山鉾やまぼこからは祇園ぎおん囃子ばやしのコンチキチンという独特どくとく節回ふしまわしがかれる。現在げんざいのような囃子はやしができたのは江戸えど時代じだいから。また、ゴブラン織ごぶらんおりをはじめとする豪奢ごうしゃ山鉾やまぼこかざりもどころのひとつである。

山鉾やまぼこかざけは巡行じゅんこうの3にちまえからはじまり、このよい々々やまぞくにいうが正式せいしきには14〜16にちまで夕刻ゆうこくよりはじまるまつりすべ宵山よいやま宵山よいやまという言葉ことば前夜祭ぜんやさい意味いみはなく、たん夜祭よまつり夜々よよさいでは意味いみさない)をあらわす。ただし、近年きんねんよい々々やま正式せいしきには14にち宵山よいやま)の前日ぜんじつ夕刻ゆうこくからかざけを開始かいしするところおおくなっている。2にちまえよいやま正式せいしきには15にち宵山よいやま)とぞくばれる。山鉾やまぼこ前後ぜんごには駒形こまがた提灯ぢょうちんという提灯ちょうちんぐんけられ、よる提灯ちょうちんかりがとも様子ようすは、巡行じゅんこうなら祇園祭ぎおんまつり象徴しょうちょうてき光景こうけいである。

宵山よいやま期間きかんは、昼間ひるまからかく山鉾やまほこまち町会ちょうかいしょ展示てんじされている宝物ほうもつ見学けんがくできる。すべての舁山の町会ちょうかいしょ曳山ひきやま岩戸山いわとやま鷹山ようざんほこ放下ほうかぼこ無料むりょう見学けんがく可能かのう船鉾ふなぼこは1かい神体しんたいのみ無料むりょう見学けんがく可能かのう大船おおぶねぼこ一部いちぶ神体しんたいのみ無料むりょう見学けんがく可能かのうである。ここではかく山鉾やまぼこ神体しんたい人形にんぎょうちなんだ利益りえきがあるとされるおまもりや御札おさつちまき販売はんばいしている。また、かく町会ちょうかいしょにはスタンプや朱印しゅいん設置せっちされており、朱印しゅいんあつめをするひとおおい。町会ちょうかいしょ表通おもてどおりにめんしたところもあれば、ほそ路地ろじおくにあるところもある。町会ちょうかいしょなかには100ねん以上いじょうまえからつたえられた建物たてものもある。まつり期間きかん一般いっぱんいえ会社かいしゃしろ提灯ちょうちんかかげているが、町会ちょうかいしょ入口いりくちだけにはあか提灯ちょうちん設置せっちされており、町会ちょうかいしょ目印めじるしとなっている。町会ちょうかいしょにはまち人々ひとびと関係かんけいしゃめている。孟宗もうそうやまのように町内ちょうない居住きょじゅう住民じゅうみんがほとんどいないため、町内ちょうないのオフィスビルの会社かいしゃ銀行ぎんこうから従業じゅうぎょういん浴衣ゆかた姿すがた応援おうえんところもあれば、蟷螂山とうろうやまのように近年きんねん町内ちょうないあたらしいマンションが次々つぎつぎち、しん住民じゅうみん増加ぞうか町会ちょうかいしょちまき売場うりばにぎやかなところもある。

重要じゅうよう文化財ぶんかざいのベルギー・ブリュッセルせいタペストリーつたえる鯉山こいやま町会ちょうかいしょかざりなどは人気にんきたかく、時間じかんたいにより入場にゅうじょうなが時間じかんかるところもある。またおおくの山鉾やまぼこでは小学生しょうがくせい以下いか少女しょうじょ童歌わらべうたうたうのが名物めいぶつとなっている[注釈ちゅうしゃく 5]

一部いちぶ山鉾やまほこまちでは、「南観音みなみかんおんさんあばれ観音かんのん」や「役行者えんのぎょうじゃさん護摩ごまき」などの伝統でんとう行事ぎょうじ宵山よいやま期間きかんおこなわれる。巡行じゅんこうちゅうおこなわれるりょうかさぼこぼうおどりは宵山よいやまでも披露ひろうされる。また、まえさい期間きかんよいやま宵山よいやま両日りょうじつのみ露天商ろてんしょう夜店よみせる。この両日りょうじつの18以降いこう23までは四条しじょうどおり烏丸からすまどおり一部いちぶ歩行ほこうしゃ天国てんごくとなる。こうさい期間きかん全日ぜんじつとも露天商ろてんしょう出店しゅってん歩行ほこうしゃ天国てんごくもないが、そのわりよい々々やまからの3日間にちかん、17から22あいだ「エコ屋台やたいむら」が5箇所かしょもうけられ、地元じもとのレストランのテイクアウト食品しょくひんやスイーツ・ビールみせなどが出店しゅってんする。こうさいまえさいよりも人出ひとですくないことが予想よそうされるため、2014ねんスタンプラリーおこない、大人おとなぬぐい・子供こどもはクリアファイルをもらえる企画きかくおこなった。

すべての山鉾やまぼこには朱印しゅいんがあり、朱印しゅいんめぐりをコンプリートするためにすべての山鉾やまぼこまわものおおい。朱印しゅいん無料むりょう押印おういんできるところもあるが、お賽銭さいせん必要ひつようなところや、100えんから300えん押印おういんりょうさだめられているところもある。また、押印おういん係員かかりいんおこなうところと、押印おういん希望きぼうしゃみずかおこなうところがある。現在げんざい唯一ゆいいつの「やすさん」である布袋山ほていやま押印おういん可能かのうとしもある。また、15・16にちには東洞ひがしぼらいんふつこうてら郵便ゆうびんきょくかいに、17にち神幸しんこうさい神輿しんよ先導せんどうする「ゆたかえん泉正寺せんしょうじさかき」が展示てんじされるが、ここでも2022ねんから朱印しゅいん開始かいししている。

宵山よいやま期間きかん一部いちぶ旧家きゅうか商店しょうてんでは伝来でんらい屏風びょうぶとう家宝かほうとおりからえるように展示てんじする。この行事ぎょうじのことを「屏風びょうぶさい」とび、宵山よいやまそのものを屏風びょうぶさいぶこともある。

ほこ曳山ひきやま拝観はいかん

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宵山よいやま期間きかんきた観音山かんのんやまのぞほこ曳山ひきやまうえ一般いっぱんきゃく搭乗とうじょう拝観はいかん)することができる。ただし、長刀鉾なぎなたぼこ放下ほうかぼこでは女人にょにん禁制きんせい今日きょうつたえているため、女性じょせい搭乗とうじょうはできず、町会ちょうかいしょの2かいまでの拝観はいかんとなるほか、なかひと搭乗とうじょう自粛じしゅくびかけるところもある。拝観はいかん期間きかんよい々々やまから宵山よいやまあいだおおいが、一部いちぶはじめのよるから搭乗とうじょう可能かのうほこもある。搭乗とうじょう料金りょうきんは「拝観はいかんりょう」として金額きんがくあらかじまっているところ船鉾ふなぼこ大船おおぶねぼこ南観音みなみかんおんさん函谷鉾かんこぼこ月鉾つきほこ)・ちまきやガイドブックなどなにかをそのほこ曳山ひきやま販売はんばいしょえば、サービスとして搭乗とうじょうできるところ長刀鉾なぎなたぼこ)・前述ぜんじゅつはじめに参加さんかしたひと無料むりょう搭乗とうじょうできるところ拝観はいかんりょうめられているが、指定していされたものをっても搭乗とうじょうできるところ岩戸山いわとやま菊水鉾きくすいほこにわとりぼこ)がある。きた観音山かんおんやま関係かんけいしゃ以外いがい搭乗とうじょうはできない。放下ほうかぼこ男性だんせいのみ賽銭さいせんだけで搭乗とうじょうできたが、2024ねんから男女だんじょとも町会ちょうかいしょ2かいまでの拝観はいかんとなり、観光かんこうきゃく搭乗とうじょうはできなくなった。岩戸山いわとやまではそのに「Tてぃーシャツパスポート」としょうして、販売はんばいしているTてぃーシャツを拝観はいかん受付うけつけ提示ていじするか、そのTてぃーシャツを着用ちゃくようしていると、そのとし翌年よくねん以降いこうなんかいでも搭乗とうじょうできるというサービスをおこなっている。一般いっぱんてき四条しじょうどおり室町むろまちどおりほこ混雑こんざつし、新町通しんまちどおり曳山ひきやま比較的ひかくてきいている。

山鉾巡行やまぼこじゅんこう

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四条しじょうどおりひがしへとすすきた観音山かんのんやま

祇園祭ぎおんまつりのハイライト。7月17にち神幸しんこうさいまちちゅう御旅所おたびしょ神輿しんよでおましに、7がつ24にち還幸かんこうさい神社じんじゃにおかえりになる神体しんたい通行つうこうまえに、町衆まちしゅうあらかじまちとおりをきよめるためにはじめられた。そのために7がつ17にちまえさいと7がつ24にちのちさいの2つの巡行じゅんこうまれた。元々もともとまつりだったが、まち単位たんい山鉾やまぼこされたため、かくまちぜいきそうようになり、きょう町衆まちしゅう財力ざいりょく背景はいけいにこちらのほうはるかにだい規模きぼ豪華ごうかになった。

山鉾巡行やまぼこじゅんこうは、交通こうつう規制きせい都合つごうにより1966ねんよりこうさい巡行じゅんこうも17にち統合とうごうされたものの、2014ねんきゅうふくした。山鉾やまぼこかず現在げんざいは33まえさいほこ9まえさいやま14こうさいほこ1こうさいやま9)で、これも時代じだいによって変化へんかしている。

山鉾巡行やまぼこじゅんこうのコースは時代じだいによっておおきく変化へんかしている。1955ねんまでは、まえさい四条しじょう烏丸からすま出発しゅっぱつし、寺町てらまちどおりから松原まつばらどおり烏丸からすままでの巡行じゅんこうで、こうさい烏丸からすま三条さんじょうから寺町てらまちどおり四条しじょう烏丸からすままで巡行じゅんこうした。これは江戸えど時代じだいからつづ伝統でんとうてき巡行じゅんこうコースであった。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)から1960ねん昭和しょうわ35ねん)までのあいだまえさい四条しじょう烏丸からすまから寺町てらまちどおりを北上ほくじょうし、河原町かわらまち御池みいけから左折させつして新町しんまち御池おいけいたるコースにおおきく変更へんこうされた。この背景はいけいには京都きょうと市役所しやくしょ沿道えんどう有料ゆうりょう観覧席かんらんせきもうける観光かんこう目的もくてきがあった。

1961ねん昭和しょうわ36ねん)からは、まえさい四条しじょう烏丸からすまから河原町かわらまちどおり北上ほくじょうし、河原町かわらまち御池みいけから左折させつして新町しんまち御池おいけいたるコースに変更へんこうされた。これは寺町てらまちどおり狭隘きょうあい(アーケード)と、観光かんこうきゃく増加ぞうかによる混雑こんざつ危険きけんたかまったため、幅員ふくいんひろ河原町かわらまちどおり巡行じゅんこうすることにしたのである。1966ねんにはこうさいまえさい合同ごうどうし、この巡行じゅんこうコースが祇園祭ぎおんまつり定番ていばんコースとなった。

2014ねん平成へいせい26ねん)にまえこうさい分離ぶんりし、まえさい四条しじょう烏丸からすまからほぼ既定きていのコースを踏襲とうしゅうすることにしたが、こうさいぎゃくきに、烏丸からすま御池おいけから出発しゅっぱつし、河原町かわらまちどおり四条しじょう河原町かわらまちから四条しじょう烏丸からすま終着しゅうちゃくてんとするコースを巡行じゅんこうすることになった。

合同ごうどう巡行じゅんこうのため、こうさい代替だいたいとしてはじめられた花傘はながさ巡行じゅんこうは、前後ぜんごさい分離ぶんりともなって、こうさい同時どうじ開催かいさいされることになり、八坂神社やさかじんじゃから四条しじょう寺町てらまち右折うせつし、寺町てらまちどおりとおって御池みいけどおり右折うせつし、河原町かわらまち御池みいけからこうさいさい後尾こうびつらなって巡行じゅんこうし、四条しじょう河原町かわらまちから八坂神社やさかじんじゃもどるコースとなった。

巡行じゅんこう早朝そうちょうからかく山鉾やまぼこがいでは、町会ちょうかいしょなどに展示てんじしてあった装飾そうしょくひん神体しんたい人形にんぎょう山鉾やまぼこける作業さぎょうおこなわれる。また、出発しゅっぱつまえ町会ちょうかいしょとうでは神事しんじおこなわれたり記念きねん撮影さつえいおこなわれる。出発しゅっぱつ地点ちてん公式こうしき出発しゅっぱつする時間じかんの30ふんから1あいだまえ町内ちょうない出発しゅっぱつする山鉾やまぼこおおい。ほとんどの山鉾やまぼこ出発しゅっぱつ一旦いったんバックして町内ちょうないすべてのいえに「挨拶あいさつ」してから出発しゅっぱつ地点ちてんかう。出発しゅっぱつ地点ちてん手前てまえでくじじゅんならなおしをする。

まえさい山鉾やまぼこ長刀ちょうとうぼこ先頭せんとうに9四条しじょう烏丸からすま出発しゅっぱつし、午前ごぜんちゅうから昼過ひるすぎにかけてコースをまわる。四条しじょう烏丸からすま交差点こうさてん稚児ちご長刀鉾なぎなたぼこへのみがある。ほこのそばまでハイヤーでやって稚児ちごは、すでかみ使つかいとなっており地上ちじょうあるかないことになっているため、男性だんせい強力きょうりょくかたせられて長刀鉾なぎなたぼこけられた梯子はしごほこむ。

四条しじょうさかいまち交差点こうさてんではくじあらためがおこなわれる。奉行ぶぎょうふんした京都きょうと市長しちょうたいし、山鉾やまほこまち代表だいひょうしゃまち行司ぎょうじ)が7がつ2にちのくじしきけたくじさつせ、くじじゅん巡行じゅんこうしていることを確認かくにんする。まち行司ぎょうじやく子供こどものこともある。いかに格好かっこう文箱ふばこひもき、いかにいき格好かっこう奉行ぶぎょうにくじさつせるかをかく山鉾やまほこまちきそう。確認かくにん終了しゅうりょうするとまち行司ぎょうじ扇子せんす使つかって山鉾やまぼこ通行つうこうしてむね合図あいずおくるが、これも山鉾やまぼこによりことなるかたがある。舁山は奉行ぶぎょうやま全面ぜんめんかかそうひんてもらうために、やま回転かいてんおこなう。くじらずの山鉾やまぼこ奉行ぶぎょう挨拶あいさつだけをおこなう。

四条しじょうふすままち交差点こうさてんでは稚児ちごによるときちく(いみたけ)の注連縄しめなわりがある。かみ使つかいである稚児ちご太刀たち使つかって注連縄しめなわ切断せつだんして結界けっかい開放かいほうし、神域しんいきへの山鉾やまぼこ進入しんにゅうかみわって許可きょかする。太刀たち使用しようには危険きけんともなうので、実際じっさい稚児ちご後方こうほう大人おとな二人ふたり羽織はおりのように太刀たちあつかう。なお、現在げんざいかたちでの稚児ちごによるの注連縄しめなわりは1956ねん昭和しょうわ31ねん)からはじまったものであるが、ふる文献ぶんけんえる注連縄しめなわりを復活ふっかつさせたものとされる。

そのにもかさぼこぼうおどりなど見所みどころ多岐たきわたるが、もっと見所みどころつじまわばれるほこ交差点こうさてんでの方向ほうこう転換てんかんである。ほこ車輪しゃりん構造こうぞうじょう方向ほうこう転換てんかん無理むりなため、路面ろめん青竹あおだけ舗装ほそう以前いぜんかし丸太まるただった)をき、それにみずけ、そのうえ車輪しゃりんせてつなよこからくことにより車輪しゃりんすべらせてきをえる。いち転換てんかんすると車輪しゃりんほこ本体ほんたいいためるため、3かいから4かいほどかけて90方向ほうこう転換てんかんおこなう。このとき音頭おんどかた通常つうじょう2人ふたりくわえて、前輪ぜんりんまたはさんで固定こていするやく2人ふたりくわえてけい4にんとなる。

長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご新町しんまち御池みいけほこからり、ここで公式こうしき山鉾巡行やまぼこじゅんこう終了しゅうりょうしてかく山鉾やまぼこ解散かいさんというかたちで、くじじゅん関係かんけいなくかく山鉾やまぼこ町内ちょうないかう。舁山は一部いちぶ室町むろまちどおり南下なんかするが、たかほこ曳山ひきやま新町通しんまちどおりかならすすむ。新町通しんまちどおりほこ巡行じゅんこうそなえて、一切いっさいとおりを横断おうだんする電線でんせんがないが、とおりには電線でんせんがあるためである。むかしながらのはば新町通しんまちどおり次々つぎつぎほこ通過つうかしていくため、道路どうろはしにいてもすぐちかくを車輪しゃりん通過つうかしていき迫力はくりょくがあり、新町通しんまちどおり巡行じゅんこうるファンもおおい。囃子はやしのあるほこ曳山ひきやまでは、町内ちょうない到着とうちゃくすると祇園ぎおん囃子ばやし到着とうちゃく終了しゅうりょうきょくとなり、きょくのテンポがはやまるところがおおい。囃子はやし最後さいごおおくのほこ横笛よこぶえ和音わおん終了しゅうりょうし、付近ふきん観客かんきゃくからは拍手はくしゅこる。また、そのに「一本いっぽんめ」や「いわめ」をおこなうところもある。

そのこうさい南北なんぼく観音山かんのんやまではやなぎえだ厄除やくよけの縁起物えんぎものとして付近ふきんひとくばる。なわくばるところもあるが、やままつ災厄さいやく吸収きゅうしゅうしているとしてくばることはない。

こうさい山鉾やまぼこは7がつ24にちの930ふん烏丸からすま御池おいけ出発しゅっぱつし、まえさいぎゃくコースをく。なま稚児ちごほこがないため、注連縄しめなわりはない。くじあらためは京都きょうと市役所前しやくしょまえおこなわれる。

かつては、巡行じゅんこうほこうえからはやかたちまき(ちまき)を観衆かんしゅうげていた。観客かんきゃくちまきって怪我けがをする事故じこふくすうかい発生はっせいしたため、中断ちゅうだん復活ふっかつかえしたが、1983ねん昭和しょうわ58ねん以降いこう禁止きんしされている[28]。このちまき厄除やくよようとしてつくられており、ささなかもちはいっていない。近年きんねんになって一部いちぶほこまち食用しょくようちまき販売はんばいしているがごく一部いちぶとどまっている。

なお、祇園祭ぎおんまつり由来ゆらいするまつりである大津おおつさいでは、現在げんざいでもちまきげがおこなわれるが、以前いぜんことなり、道路どうろ観衆かんしゅうたいしてはげられない。沿道えんどういえかいたいしてのみげられるが、おこぼれを観衆かんしゅうひろうことは禁止きんしされていない。

囃子方はやしかたになるためには(一部いちぶ例外れいがいはあるものの)ほこまち住民じゅうみん男子だんしであるか、またはほこまち以外いがいでも現役げんえき囃子方はやしかた推薦すいせんけた子供こどもかぎられている。2011ねん現在げんざいでは学区がっく統廃合とうはいごう一部いちぶ学校がっこうくなってしまったが、昭和しょうわ時代じだいには明倫めいりん小学校しょうがっこう本能ほんのう小学校しょうがっこうとう地元じもと男子だんし児童じどうほこ囃子方はやしかたであることも普通ふつうられる光景こうけいであった。

山鉾巡行やまぼこじゅんこう山鉾やまぼこしゅ町内ちょうない住人じゅうにんであったり、学生がくせいアルバイト、留学生りゅうがくせい、ボランティアなど多岐たきわたる。元々もともと舁山(かきやま・かつやま意味いみ)には車輪しゃりんがついておらず神輿しんよのようにかたかついでいたが、都市としによりかつやくとなっていたちから自慢じまん近隣きんりん農家のうか減少げんしょうかつしゅ確保かくほ困難こんなんとなったため、1963ねん昭和しょうわ38ねん)に保昌やすまさやまはじめて車輪しゃりんけ、郭巨山かくきょやま最後さいご現在げんざいすべ車輪しゃりんきとなっている。それでも巡行じゅんこう要所ようしょではいまでもやまかついで回転かいてんさせるパフォーマンスがられる。

巡行じゅんこう終了しゅうりょうかく山鉾やまほこまちもどった山鉾やまぼこは、即座そくざ解体かいたい収納しゅうのうされる。巡行じゅんこうちゅうに疫神をけた山鉾やまぼこ即座そくざ封印ふういんするためというせつがある。やま数時間すうじかん解体かいたい収納しゅうのう完了かんりょうするが、ほこ曳山ひきやまは2日間にちかんかけて解体かいたい収納しゅうのうするところがおおい。ただし大船おおぶねぼこは、ほこ新町しんまちどおりをそのよる還幸かんこうさい神輿しんよ渡御とぎょ通過つうかするため1にち解体かいたいするほか、2022ねんれい4ねん)に復活ふっかつ予定よてい鷹山ようざん大船おおぶねぼこおな理由りゆうで1にちでの解体かいたいとなる予定よていである。

山鉾巡行やまぼこじゅんこうおこなわれるとおりでは、道路どうろ設備せつび山鉾やまぼこ通過つうか対応たいおうして設計せっけいされているのが特徴とくちょうである。いちれいとして信号しんごうは、山鉾やまぼこ通過つうかさい接触せっしょくしないよう、容易よういげが出来でき構造こうぞうになっている。山鉾巡行やまぼこじゅんこう当日とうじつあさ自動車じどうしゃ通行つうこう規制きせいはじまると高所こうしょ作業さぎょうしゃなんだいて、ひとひとつの信号しんごうたたんでいき、巡行じゅんこう最後さいご山鉾やまぼこ通過つうかわると、山鉾やまぼこうようにふたた高所こうしょ作業さぎょうしゃ登場とうじょうし、これまたひとつずつ信号しんごうもと位置いちして復帰ふっきさせていく。また、たかほこ通過つうかするため、道路どうろ横断おうだんする電線でんせんまったくない。

山鉾巡行やまぼこじゅんこうるポイント

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かく山鉾やまほこまちから出発しゅっぱつ地点ちてん
すべての山鉾やまぼこることはできないが、とおりにひと比較的ひかくてきすくなく穴場あなばつじまわしも比較的ひかくてき簡単かんたんられる。ただし正式せいしきなルートではないため、くじの順番じゅんばんどおりに山鉾やまぼこず、かさぼこおどりもまだっていないことがおおい。
  • まえさい南北なんぼくとおりにある山鉾やまぼこ室町むろまちどおり菊水鉾きくすいほこにわとりぼこ新町通しんまちどおり放下ほうかぼこ船鉾ふなぼこ岩戸山いわとやまつじまわしをおこなう。
  • こうさいほこ曳山ひきやま鷹山ようざん以外いがいすべ新町通しんまちどおりにあるため、新町通しんまちどおり御池みいけどおりまで北上ほくじょうしてつじまわしをおこなう。鷹山ようざん三条さんじょう新町しんまちせま交差点こうさてんでもつじまわしをおこなう。八幡山はちまんやま以外いがいの舁山はおも室町むろまちどおり北上ほくじょうする。
四条しじょうどおり烏丸からすまどおりから河原町かわらまちどおりあいだ
繁華はんかがいであり、かつ大阪おおさか方面ほうめんからの鉄道てつどう交通こうつう至便しべんであるためとくまえさいおおくのひとまる。四条しじょうどおりは2015ねんから歩道ほどうはばひろがり、はやくからった場合ばあい山鉾やまぼこちかところから観覧かんらんできる可能かのうせいがある。こうさい比較的ひかくてき容易ようい前方ぜんぽうることができる。こうさい場合ばあい山鉾巡行やまぼこじゅんこう先立さきだって花傘はながさ巡行じゅんこうることができる。
河原町かわらまちどおり
繁華はんかがいであり、四条しじょうどおりちが歩道ほどうせまくてまえさい大変たいへん混雑こんざつする。また、歩道ほどうから山鉾やまぼこまでの距離きょりすことおい。
御池おいけとおる
街路がいろじゅみどりおお写真しゃしんえがするが、まえさいではほぼぜん区間くかん有料ゆうりょう観覧席かんらんせき設置せっちされ、一般いっぱんきゃくはそのうしろからの観覧かんらんとなり、山鉾やまぼこまでの距離きょり非常ひじょうとおくなる。こうさいでは市役所しやくしょ付近ふきんにしか有料ゆうりょう観覧席かんらんせきがないため、四条しじょうどおりなどよりもさい前列ぜんれつ観覧かんらんしやすい。ただし、道幅みちはば巡行じゅんこうもっとひろいため、前列ぜんれつでも山鉾やまぼこまでの距離きょりすことおい。みどりおおいためせみおおく、祇園ぎおん囃子ばやしをかきすほどおおきなせみごえ大変たいへんうるさい。そのため音声おんせいきでの動画どうが撮影さつえいさいにも影響えいきょうする。
解散かいさん地点ちてんからかく山鉾やまほこまち
まえさいすべての山鉾やまぼこ新町しんまち御池みいけまですすむが、ここで一部いちぶの舁山は室町むろまち御池みいけもどって室町むろまちどおり南下なんかし、すべてのほこ曳山ひきやま一部いちぶの舁山ははばせま新町通しんまちどおりはいる。観覧かんらん場所ばしょとなる道端みちばたからほこまでの距離きょり非常ひじょうちか迫力はくりょくがある。とおりがせまいのでほこ全体ぜんたい姿すがた撮影さつえいはかなりむずかしい。ほこ通過つうか直後ちょくごほこうしろについてあるくこともできる。四条しじょう新町しんまち交差点こうさてん長刀鉾なぎなたぼこ函谷鉾かんこぼこ菊水鉾きくすいほこにわとりぼこがつぼこつじまわしをおこない、四条しじょう室町むろまち交差点こうさてんにわとりぼこ菊水鉾きくすいほこさらつじまわしをおこなう。2017ねんから「原則げんそくは」みちせまくて危険きけんなので、新町通しんまちどおりでの観覧かんらんは「遠慮えんりょ」してほしいということになり、四条しじょう新町しんまちから北上ほくじょうできなくなったが、実際じっさいには観覧かんらん可能かのうであり、まわみちをして新町しんまちにしき小路こうじ以北いほくから新町通しんまちどおりれば観覧かんらん可能かのうである。
こうさい四条しじょう新町しんまち交差点こうさてん鷹山ようざん大船おおぶねぼこ南観音みなみかんおんさんきた観音山かんのんやまつじまわしをおこなう。まえさい同様どうよう四条しじょう新町しんまちからは山鉾やまぼこのちうことができなくなったが、とおりから新町通しんまちどおりはいることは可能かのうである。鷹山ようざん三条さんじょう新町しんまちせま交差点こうさてんふたたつじまわしをおこなう。

山鉾巡行やまぼこじゅんこうかかわる人々ひとびと

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山鉾巡行やまぼこじゅんこう直接ちょくせつたずさわる人々ひとびとは、囃子方はやしかた一部いちぶれいのぞき、現在げんざいでもすべ男性だんせいのみで構成こうせいされている。

かた
つなぼこ曳山ひきやまく。ほこにもよるが40にんから50にん程度ていど構成こうせいされる。以前いぜんから町内ちょうないひとではなく近隣きんりん農家のうかひと主体しゅたいだったとされるが、現在げんざいでは京都きょうとおお大学だいがく学生がくせいのアルバイトやボランティアがおもで、毎年まいとし特定とくてい大学だいがく体育たいいくかいけいクラブがかた担当たんとうしたり、大学だいがく社会しゃかい貢献こうけん一環いっかんとしてボランティア参加さんかしたりしている。大学だいがく留学りゅうがくしている外国がいこくじん姿すがた散見さんけんされる。なお、後方こうほうにもつなにする人々ひとびとがおり、ブレーキが必要ひつようなときにはうし方向ほうこうつなきブレーキとする。
音頭おんどかた
ほこ曳山ひきやま前方ぜんぽう下部かぶ搭乗とうじょうし、扇子せんす発進はっしんつじまわしの合図あいず指揮しきをする。普段ふだんは2めいだか、つじまわしのときは4めいとなる。音頭おんどかたごえは、ほこなどによりすこことなるが、発進はっしんは「エンヤラヤー」、つじまわは「ヨイヨイヨイトセ ヨイトセ」という。
囃子方はやしかた
ほこ曳山ひきやまうえ祇園ぎおん囃子ばやし演奏えんそうする。幼少ようしょうかね練習れんしゅうからはじめて、小学生しょうがくせいぐらいから実際じっさい巡行じゅんこう参加さんかし、つぎふえ練習れんしゅうおこなう。太鼓たいこかた全体ぜんたい指揮しきしゃねているので、囃子方はやしかた全体ぜんたいのまとめやくつとめることがおおい。かね練習れんしゅうちゅうおさなおとこが、将来しょうらい経験けいけんのために搭乗とうじょうだけをおこなっていることもおおい。かねかたふえかた上部じょうぶえん腰掛こしかけており、れる巡行じゅんこうちゅうした転落てんらくすることをふせぐために、ほこなどによりあしをロープで固定こていしたり、あし角材かくざいあいだれて固定こていするなどの対策たいさくをとっている。2001ねん以降いこう連合れんごうかいとどることにより、女性じょせい参加さんか容認ようにんされるようになった。
車方くるまがた
車輪しゃりん調整ちょうせいやく指揮しきやく車方くるまがたは「サエトリ」ともいい、「オサエ」というながぼうふえごえなどで車方くるまがた進行しんこう方向ほうこうほろ調整ちょうせいなどの指示しじをする。車方くるまがた指示しじしたがい「カブラ」とばれるさき楔状けつじょうになったぼう車輪しゃりんませて、進行しんこう方向ほうこう調整ちょうせいをする。また「カケヤ」とばれる車輪しゃりんめを車輪しゃりん前方ぜんぽうすぐの場所ばしょに、つなることによりつね用意よういしておき、ほこがいつでも停止ていしできるようそなえている。つじまわしのとき車輪しゃりん青竹あおだけなどをませて、梃子てこ横滑よこすべりをうなが役割やくわりおこなっている。
屋根やねかた
4めい大工だいくかた屋根やねうえ待機たいきしている。ほこ屋根やねさき真木まきなどが信号しんごう電線でんせん建物たてものなどと衝突しょうとつする危険きけんせい監視かんししている。大工だいく棟梁とうりょう徒歩とほ路上ろじょうからかんし、屋根やねかた指示しじをするほか、屋根やねかた独自どくじ監視かんし危険きけん察知さっちすれば、車方くるまがたなどに大声おおごえつたえる。それでも電線でんせんとの衝突しょうとつ不可避ふかひ判断はんだんすると、あし電線でんせんったり、刺股さすまたすことで衝突しょうとつふせぐ。建物たてもの衝突しょうとつしそうになると、建物たてものかべちからいっぱいると、やわら構造こうぞうほこがしなって、衝突しょうとつ回避かいひできることがある。また、ほこ動揺どうようにより真木まき異常いじょうれると、つないて調整ちょうせいすることにより、真木まき異常いじょう動揺どうようおさえる。はばひろ大通おおどおりが巡行じゅんこうおもなルートになったため、むかしよりは活躍かつやく機会きかいったが、はばせま新町通しんまちどおりでは常時じょうじだい活躍かつやくする。
人形にんぎょうかた
うご稚児ちご人形にんぎょうそなえた放下ほうかぼこでは、3にん人形にんぎょうかた稚児ちご人形にんぎょう稚児ちごまい披露ひろうする。
かた
やまでは20めい前後ぜんこうかたやまを「く」。以前いぜんはそのとお神輿しんよのようにかついていたが、現在げんざい車輪しゃりんけられたため、普段ふだんいているが、くじあらためやつじ、その要所ようしょでは実際じっさいかついでいる。しずかにまわところ派手はでごえげながらまわところがあり、威勢いせいよくなに回転かいてんまわところもある。
町会ちょうかい役員やくいん
山鉾やまぼこ後方こうほうかみしも姿すがた徒歩とほ随行ずいこうしている。沿道えんどう知人ちじんつけると、ちまき手渡てわたしたりしている。くじあらためでは、そのうちの2人ふたりちまきわたやく1人ひとりがくじをやくとなる。

神幸しんこうさい還幸かんこうさい神輿しんよ渡御とぎょ

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こちらが本来ほんらい神社じんじゃ中心ちゅうしん行事ぎょうじ八坂神社やさかじんじゃからちゅう御座ぎょざ神輿しんよなかござみこしひがし御座ぎょざ神輿しんよひがしござみこし西にし御座ぎょざ神輿しんよにしござみこしだい神輿しんよ3したかみ々がかく氏子うじこまちとおってわた神事しんじ。7がつ10日とおか鴨川かもがわ神輿しんよあらいの神事しんじおこなわれたのち八坂神社やさかじんじゃまい殿どの神輿しんよさん安置あんちされる。7月15にち宵宮よいみやさい神輿しんよ御霊みたまうつされ、7がつ17にち神幸しんこうさいおこなわれて(山鉾巡行やまぼこじゅんこうきよしめられた)四条しじょう寺町てらまちにある御旅所おたびしょ平時へいじ土産物みやげものっている「四条しじょうセンター」)に還幸かんこうさいおこなわれる7がつ24にちまで神輿しんよ滞在たいざいする。974ねんてんのべ2ねん)に御旅所おたびしょ現在げんざい所在地しょざいちことなる)を朝廷ちょうていよりたまわり、おこなわれるようになった。また、子供こども神輿しんよであるひがしわか御座ぎょざ神輿しんよ参加さんかする。

神幸しんこうさいあさみやびやかな山鉾巡行やまぼこじゅんこうとはってわって、夕刻ゆうこくよりおこなわれる神輿しんよ渡御とぎょ勇壮ゆうそう豪快ごうかい荒々あらあらしいのが特徴とくちょうである。3だい神輿しんよ総勢そうぜい1000にん以上いじょうもの勇猛ゆうもうおとこたちによりかつまれて神輿しんよあばくるよう圧巻あっかんである。いわゆるあば神輿しんよというものである。神社じんじゃからのみやしを完了かんりょうした3だい神輿しんよと1子供こども神輿しんよ祇園ぎおん石段いしだん交差点こうさてん楼門ろうもんまえに18時半じはんごろ集結しゅうけつしてのそろみにて神輿しんよぜんもと連合れんごう勇壮ゆうそうかつげられあばれて、楼門ろうもんまえ歓声かんせいきかえる。その神輿しんよはそれぞれべつルートにて御旅所おたびしょかう。あさ山鉾やまぼこうご美術館びじゅつかんをほしいままに巡行じゅんこうした都大路みやこおおじ今度こんど神輿しんよ勇壮ゆうそうあばれながらの渡御とぎょおこない、四条しじょう寺町てらまち御旅所おたびしょみやりにて神幸しんこうさいでの最後さいご豪快ごうかいりを披露ひろうする。

神輿しんよ御旅所おたびしょちゅう輿こしちゅうれんなかに、だれとも言葉ことばわすことなくいちばんなな御旅所おたびしょ参詣さんけいすれば、ねがいがかなうという。無言むごんまいという。

還幸かんこうさい神輿しんよかみ々が御旅所おたびしょからかく氏子うじこまちとおり、祇園祭ぎおんまつり発祥はっしょうである御供ごくうしゃまたたびしゃ)にって八坂神社やさかじんじゃかえ神事しんじ今度こんど山鉾やまほこまちをもふくめた八坂神社やさかじんじゃ広大こうだい氏子うじこ地域ちいきあばれながら八坂神社やさかじんじゃ宮入みやいりおこなう。八坂神社やさかじんじゃでの宮入みやいりでは、まい殿どの周囲しゅういを3しゅうする拝殿はいでんまわおこない、神輿しんよ3がここぞとばかりにちからしぼりながらの勇壮ゆうそう豪快ごうかい最後さいごりを披露ひろうする。

まい殿どのまえにて神輿しんよ最後さいごあばれながらのみがわり、神輿しんよまい殿どのげられ安置あんちされると境内けいだい消灯しょうとうされ漆黒しっこくやみとなり御霊みたまうつおこなわれ、神輿しんよせられた祭神さいじん本殿ほんでんもどされ、神輿しんよ渡御とぎょしずかに終了しゅうりょうするのである。7月28にち神輿しんよあらいでは神社じんじゃもどったあと神輿しんよ神輿しんよおさめられる。

なお、祇園祭ぎおんまつり神輿しんよかつときごえは「わっしょい」ではなく「ほいっと、ほいっと」である。慎重しんちょうかつ場面ばめんでは「よーさー」にわる。神輿しんよらずにあるさいは「よいやーさっさ(ちゅう御座ぎょざ)」「よいやっさーじゃ(ひがし御座ぎょざ西にし御座ぎょざ)」などのごえ使つかわれる。神輿しんよかつ前後ぜんごには「よーいとせーの チャチャチャ×3」(ちゅう御座ぎょざ)、「よーさの チャチャチャ(拍手はくしゅ3かい)×3、ヨー!」(ひがし御座ぎょざ西にし御座ぎょざ)のごえめをおこなう。また神輿しんよかつとき通常つうじょうかたせるが、うでばして神輿しんよげた状態じょうたいを「げ」、げた状態じょうたいみぎまわりに神輿しんよ回転かいてんさせることを「まわし」という。

花傘はながさ巡行じゅんこう

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1966ねん昭和しょうわ41ねん)にこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうが7がつ17にち統合とうごうされたあと、代替だいたいとしてはじめられた行事ぎょうじやく1000にんからなる行列ぎょうれつである。子供こども神輿しんよ先導せんどうとし、山鉾やまぼこふる形態けいたい現代げんだい再現さいげんしたものとされる花傘はながさかさぼこ)のほか、獅子ししまい鷺舞さぎまい田楽でんがくまんとうおどりとう古典こてん芸能げいのうや、子供こども太鼓たいこうまちょううまおさ稚児ちご武者むしゃこむしゃひとしおおくの子供こども参加さんか舞妓まいこ芸妓げいぎや「ミスきもの」、花笠はながさむすめとう女性じょせい参加さんかおおいことが、山鉾巡行やまぼこじゅんこうとの最大さいだいちがいである。

鷺舞さぎまいまい芸妓げいぎ八坂神社やさかじんじゃ到着とうちゃく芸能げいのう奉納ほうのうおこなう。八坂神社やさかじんじゃ氏子うじこ地域ちいきには4つの花街はなまちがあるが2つの花街はなまち交代こうたい参加さんかする。西暦せいれきすうねん先斗ぽんとまち歌舞伎かぶきおどり・祇園ぎおんひがし小町こまちおどりを、偶数ぐうすうねん宮川みやがわまちがコンチキ音頭おんど祇園ぎおんかぶと雀踊すずめおどりを奉納ほうのうする。

京都きょうと織物おりものおろし商業しょうぎょう組合くみあい中心ちゅうしんとなって、八坂神社やさかじんじゃ氏子うじこ地域ちいきにある4つの花街はなまちのお茶屋ちゃや組合くみあい各種かくしゅ行事ぎょうじ保存ほぞんかい八坂神社やさかじんじゃしょ組織そしき山鉾やまぼこ保存ほぞんかいなどが共同きょうどうで「花笠はながさ連合れんごうかい」をつくってっている行事ぎょうじである。

当初とうしょ巡行じゅんこうコースは八坂神社やさかじんじゃ四条しじょう河原町かわらまち河原町かわらまち御池みいけ寺町てらまち御池みいけ四条しじょう寺町てらまち八坂神社やさかじんじゃであった。

2014ねん平成へいせい26ねん)からこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう復活ふっかつしたあとも継続けいぞくされ、一部いちぶこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうのあとに連続れんぞくして巡行じゅんこうできるように巡行じゅんこうルートをそれまでのぎゃくコースに変更へんこうし、八坂神社やさかじんじゃ四条しじょう寺町てらまち寺町てらまち御池みいけ河原町かわらまち御池みいけ四条しじょう河原町かわらまち八坂神社やさかじんじゃとなった。寺町てらまち御池みいけから四条しじょう河原町かわらまちあいだこうさい山鉾巡行やまぼこじゅんこうのあとに連続れんぞくして巡行じゅんこうするようになる。

2018ねん平成へいせい30ねん)の花傘はながさ巡行じゅんこう記録きろくてき猛暑もうしょにより、花傘はながさ巡行じゅんこうおおくの子供こども参加さんかしているため、熱中ねっちゅうしょう危険きけんせい配慮はいりょして中止ちゅうしとなる。猛暑もうしょ理由りゆうとした行事ぎょうじ中止ちゅうしはじめてである[29]。2020ねんから2022ねんまでは新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう(COVID-19)流行りゅうこう影響えいきょう中止ちゅうしとなった。2023ねん復活ふっかつしたときは巡行じゅんこうルートが下京しもぎょう中学校ちゅうがっこう成徳しげのり学舎がくしゃをスタートして高辻たかつじとおる - 烏丸からすまとおる - 四条しじょうどおり片道かたみちルートになった。そのさいさぎおどり小町こまちおどり参加さんかする少年しょうねん少女しょうじょ四条しじょう木屋こやまちからの参加さんかとなり、その地点ちてんまでは「さぎおどり」などとかれたのぼりだけが巡行じゅんこう参加さんかする。

神輿しんよ一覧いちらん

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本社ほんしゃ神輿しんよの3については元禄げんろく年間ねんかんごろより三条さんじょう台村だいむら有志ゆうし三条さんじょうだいわかなか組織そしき神輿しんよ渡御とぎょおこなったものに由来ゆらいするが、のちちゅう御座ぎょざ神輿しんよ三若みわか神輿しんよ)をのぞく2神輿しんよ渡御とぎょ地域ちいきによりおこなうようになった[30]

2000ねん平成へいせい12ねん)にちゅう御座ぎょざ神輿しんよ三若みわか神輿しんよ)の金箔きんぱくなおされたほか、翌年よくねんにはひがし御座ぎょざ神輿しんよよんわか神輿しんよ)、さらにその翌年よくねん西にし御座ぎょざ神輿しんよにしき神輿しんよ)もそれぞれ金箔きんぱく新調しんちょうされた。

本社ほんしゃ神輿しんよみや神輿しんよ

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ちゅう御座ぎょざ神輿しんよなかござみこし通称つうしょう三若みわか神輿しんよ」、古称こしょう大宮おおみや神輿しんよ」)
八坂神社やさかじんじゃ主祭しゅさいしんであるもと戔嗚みこと古称こしょう牛頭ごず天王てんのう」)をせる神輿しんよである。屋根やね六角形ろっかっけい鳳凰ほうおうかざられ、どう袈裟懸けさがけはよん神輿しんよなか唯一ゆいいつ紫色むらさきいろであり、このことはちゅう御座ぎょざ神輿しんよには男神おかみ、すなわち戔嗚みことることを意味いみする。
ひがし御座ぎょざ神輿しんよひがしござみこし通称つうしょうよんわか神輿しんよ」、古称こしょう少将井しょうしょうい神輿しんよ
戔嗚みこと本妻ほんさいであるくし稲田いなだひめいのち古称こしょうばばなし采女うねめ」)をせる神輿しんよである。屋根やね四角形しかっけい擬宝珠ぎぼうしゅかざられ、どう袈裟懸けさがけは朱色しゅいろあか)である。このことはちゅう御座ぎょざ神輿しんよ同様どうよう女神めがみることを意味いみする。ただし、1260ねんせいもと2ねん)にははち角形かくがた神輿しんよであったという。ゆたかえん泉正寺せんしょうじまちからる「さかき」が供奉ぐぶする。
ひがしわか御座ぎょざ神輿しんよ(ひがしわかござみこし)
ひがし御座ぎょざ神輿しんよ子供こども神輿しんよ
西にし御座ぎょざ神輿しんよにしござみこし通称つうしょうにしき神輿しんよ」、古称こしょう八王子はちおうじ神輿しんよ」)
戔嗚みことの8にん子供こどもはちはしら御子みこしん古称こしょう八王子はちおうじ」「はちしょうしん」)をせる神輿しんよである。屋根やねはち角形かくがた鳳凰ほうおうかざられ、どう袈裟懸けさがけは朱色しゅいろ赤色あかいろ)である。実際じっさいかつがれている神輿しんよなかではもっとおもい3.2トンといわれている。昭和しょうわ40年代ねんだいから50年代ねんだいにかけてはかつ手不足てぶそくのため台車だいしゃりん)を使用しようしたこともあったが、近年きんねんきゅうふくしてかつがれて巡行じゅんこうしている。なお、1260ねんせいもと2ねん)の記録きろくでは、八王子はちおうじ神輿しんよ四角形しかっけいであったという。東西とうざい神輿しんよ名称めいしょう中世ちゅうせい末期まっき近世きんせい初期しょきのある時点じてんわったらしい[31]

町会ちょうかい神輿しんよ神輿しんよ

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  • 開智かいち子供こども神輿しんよかいちこどもみこし

山鉾やまぼこ

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蟷螂山とうろうやま屋根やねじょうのカマキリがうごく)

山鉾やまぼこはそのかたちから5つに分類ぶんるいされる。かずおおじゅんに、「舁山かきやま」「ほこほこ」「曳山ひきやまひきやま」「船鉾ふなぼこふねほこ」「かさぼこかさほこ」である。

2008ねん平成へいせい20ねん)の山鉾巡行やまぼこじゅんこうさい河原町かわらまち御池みいけつじまわ手前てまえ地点ちてん計測けいそくされた山鉾やまぼこ重量じゅうりょうかかそうひん乗員じょういんふくむ)は月鉾つきほこで12トンじゃく。そのほこ曳山ひきやまは10トン前後ぜんこう曳山ひきやまとしては小型こがた岩戸山いわとやまで8トンあまり。舁山はさい重量じゅうりょう蟷螂山とうろうやまで1.2トン、さい軽量けいりょう占出山うらでやまで510kgほどであった。かさぼこ台車だいしゃふくめて400kgほどの重量じゅうりょうであった[32]胴体どうたい巡行じゅんこうときだけもっと高級こうきゅうかかそうひんかざられ、宵山よいやま期間きかん略式りゃくしきかかそうひんえるか、まったなにかざらず骨組ほねぐみのままの場合ばあいがある。やま神体しんたい人形にんぎょうかかそうひん宵山よいやま期間きかん町会ちょうかい所内しょないかざられる。悪天候あくてんこう場合ばあいかかそうひんをつけず、定紋じょうもんりの雨除あまよけのおおいをまわし、人形にんぎょう神体しんたいはずして略式りゃくしき巡行じゅんこうとすることもある。

舁山かきやま

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神体しんたい人形にんぎょうほこら神体しんたいまつところもある)をせ、それによって中国ちゅうごく日本にっぽん故事こじ謡曲ようきょくなどのいち場面ばめんせる趣向しゅこうおもとし(町内ちょうないまつられている神仏しんぶつせるところもある)、ひといて(かついで)巡行じゅんこうする(現在げんざい人手ひとで不足ふそく理由りゆう補助ほじょけてしている)。神体しんたい人形にんぎょうには橋弁慶はしべんけいさん神体しんたいのぞしゅかさけられるが、郭巨山かくきょやまのみ油紙あぶらがみ屋根やねけられる。やまうえにはぬのおおったかごせてき、「やま」に見立みたてて、そこからまつまつという・太子山たいしやまのみすぎ)をてて疫神のがわとする。やまには前面ぜんめんあなをあけてほら見立みたてて、なか神体しんたい人形にんぎょうとうれることもある。まつにはやまごとにことなるかずすずるすことがおおいが、つきにち見立みたてた金属きんぞくばんるすやまもある。孟宗もうそうやま積雪せきせつ表現ひょうげんした綿めんまつせており、保昌やすまささん宵山よいやま期間きかん町会ちょうかいしょ販売はんばいされねがごといて奉納ほうのうされた恋愛れんあい成就じょうじゅ絵馬えま多数たすうるされる。やま胴体どうたいには、染織せんしょくひん刺繍ししゅう・タペストリーとうかかそうひんかざられる。

なお、うえやまつくらず、まつてない橋弁慶はしべんけいさんきよしみょうさん蟷螂山とうろうやまは、厳密げんみつには「屋台やたい」という形式けいしきになる。

ほこほこ

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真木まきしんぎという中心ちゅうしんはしらを疫神のだいとし(これ自体じたいがいわゆる「ほこ」)、それが大型おおがたしてものとなり、稚児ちご囃子方はやしかたせるかたちとなったものである。真木まき先端せんたんには「ほこあたま」というほこごとにことなるかたちのシンボルがけられている。その下方かほうには「天王てんのう人形にんぎょう」というちいさな神体しんたい人形にんぎょうけられている。その下方かほうには「しゃぐま」というなわつくった突起とっきじょうのものがつくられ、ほこによりかずまっている。しゃぐまの中間ちゅうかんさかきけられる。おおくのほこ真木まき両側りょうがわるようにけられるが、函谷鉾かんこぼこのみ円形えんけいけられる。だい屋根やね千鳥ちどり破風はふつまいれとするが、菊水鉾きくすいほこのみ唐破風からはふである[注釈ちゅうしゃく 6]

乗員じょういん搭乗とうじょうは50にんほどがめあってめ、囃子方はやしかたなどがむ。最前さいぜんには長刀鉾なぎなたぼこのみなま稚児ちごが、それ以外いがいほこ稚児ちご人形にんぎょうる。胴体どうたいかかそうひんかざられる。胴体どうたい下方かほうには「石持いしもち」という巨大きょだい角材かくざいがある。石持いしもちによりほこ重心じゅうしんげている。車輪しゃりんにはクッションに相当そうとうするものがなく、なわむすぶだけのやわら構造こうぞうにより衝撃しょうげきすこしは吸収きゅうしゅうしている。乗員じょういん搭乗とうじょうゆかにはぶたがあり、けると基礎きそ内部ないぶることができ、巡行じゅんこうちゅうほこりをする急用きゅうようができたさい使つかわれる。屋根やねにもあなけられており、屋根やねかたりに使つかわれる。

いずれもまえさい長刀鉾なぎなたぼこ函谷鉾かんこぼこにわとりぼこ月鉾つきほこ菊水鉾きくすいほこ放下ほうかぼこがこれに該当がいとうする。

曳山ひきやまひきやま

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ほこ同様どうよう車輪しゃりんつないてうごかし、ほこのように囃子方はやしかたせている。ほことの最大さいだいちがいは屋根やねうえに舁山同様どうようまつてていることである。こうさい曳山ひきやままつには木彫きぼりとりけられる。

初期しょき曳山ひきやまには屋根やねがなく、おおきめの舁山に車輪しゃりんいているようなかたちで、やまうえは舁山とおなじように神体しんたい人形にんぎょうちないち場面ばめんせる趣向しゅこうであった。

囃子方はやしかたあめなつ日差ひざしからまもるため、簡略かんりゃく日除ひよけをもうけていたが、寛政かんせい年間ねんかん(1789ねん - 1801ねん)に、岩戸山いわとやまほこ同形どうけい屋根やねきに改造かいぞうされたのをきっかけに、曳山ひきやま次々つぎつぎ屋根やねきに改造かいぞうされた。現在げんざい曳山ひきやまほこ同様どうよう姿すがたであるが、巡行じゅんこうちゅうほこのように稚児ちご人形にんぎょうせず、神体しんたい人形にんぎょう乗員じょういん搭乗とうじょうせている。岩戸山いわとやま屋根やねうえにも神体しんたい人形にんぎょう安置あんちする。

まえさい岩戸山いわとやまこうさいきた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん鷹山ようざんがこれに該当がいとうする。

船鉾ふなぼこふねほこ

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ほこというが真木まきてないてんほこ一線いっせんかくし、かたちふねという独特どくとく構造こうぞうをしている。独特どくとくかたち複雑ふくざつ屋根やねつ。巡行じゅんこうちゅうほこじょう神体しんたい人形にんぎょう安置あんちするところはほこよりも曳山ひきやまちかいが、まつたないので「やま」ではない。分類ぶんるいでは、「屋台やたい」としてけられている。船体せんたいじく縦横じゅうおう方向ほうこうにXじょう交差こうさしたじゅうの桔木(はねぎ)をもうけて衝撃しょうげき吸収きゅうしゅうし、巡行じゅんこうちゅう変形へんけい転倒てんとうふせ合理ごうりてき構造こうぞうになっている。江戸えど時代じだい前半ぜんはんまではなが帆柱ほばしらてたといわれ、いまはそのわりとなる竿ざおながしをつけ、船尾せんびかみもんいたはたかかげる。

まえさい船鉾ふなぼここうさい大船おおぶねぼこがこれに該当がいとうする。

かさぼこかさほこ

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おどりのれつ囃子方はやしかたゆうし、それらがおおきなかさであるほこ一体いったいある行列ぎょうれつである。ほこることはできないがほこふる形態けいたいといわれる。ただし、あやかさぼこきた観音山かんのんやまきゅう台車だいしゃゆずけ、1834ねん天保てんぽう5ねん)から1864ねん元治もとはる元年がんねん)まで「曳鉾」がた巡行じゅんこうくわわっていた時期じきがある(おどしゅ歩行ほこう)。また、あやかさぼこには稚児ちご6めい参加さんかするが、長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごことなり地上ちじょうあるく。

まえさいあやかさぼこ四条しじょうかさぼこがこれに該当がいとうする。

山鉾やまぼこ一覧いちらん

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しるしは、くじらず。

まえさい

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舁山
  • 孟宗もうそうやま(もうそうやま)/烏丸からすま四条しじょうあがたかんなまち別名べつめい筍山たけのこやま”。二十四孝にじゅうしこう取材しゅざい孟宗もうそう病気びょうきははおも一心いっしん季節外きせつはずれのたけのこてた場面ばめんあらわす。積雪せきせつ演出えんしゅつ特徴とくちょう
  • 占出山うらでやま(うらでやま)/にしき小路こうじしつ町東まちひがしにゅう占出山うらでやままち別名べつめいあゆやま”。神功じんぐう皇后こうごう肥前ひぜんこく松浦まつうらあゆって戦勝せんしょううらなった故事こじちなむ。安産あんざんのおまもり・腹帯はらおび授与じゅよ巡行じゅんこうじゅんはやいとそのとしのおさんかるいという。明治めいじまでは「あいわいさん」とばれており、町衆まちしゅう人気にんき山鉾やまぼこだったことがうかがわれる[33]
  • 霰天神山かみやま(あられてんじんやま)/にしき小路こうじしつまち西入にしいり天神山てんじんやままちえいただし年間ねんかん(1504ねん〜1520ねん)の大火たいかさい、霰がって鎮火ちんかしたとき、霰とともってきた天神てんじんぞうまつる。かみなりのぞけ・火除ひよけのおまもりを授与じゅよし、みずからもおおくの大火たいか無傷むきずだったやま。おまもりをときうた童歌わらべうた元祖がんそやまといわれる。25ねんごとに「はんまんとうさい」を開催かいさい
  • 郭巨山かくきょやま(かっきょやま)/四条しじょう西洞院にしのとういんひがしにゅう郭巨山かくきょやままち別名べつめいがまやま”。二十四孝にじゅうしこう取材しゅざいかくきょ童子どうじ黄金おうごんがまてた場面ばめんあらわす。舁山で唯一ゆいいつ屋根やねをかけるのが特徴とくちょうきむはこぶちちだし御利益ごりやくがある。
  • はくきばやま(はくがやま)綾小路あやのこうじ新町しんまち西入にしいり矢田やたまち別名べつめいきんやぶ(ことわり)やま”。しんともうしなかなしむはくきば愛用あいようきんこわすべくおのかまえる場面ばめん芸能げいのう守護神しゅごじん
  • 芦刈山あしかりやま(あしかりやま)/綾小路あやのこうじ西洞院にしのとういん西入にしいり芦刈山あしかりやままち謡曲ようきょく芦刈あしかり』にちなみ、老翁ろうおうあし場面ばめん表現ひょうげん夫婦ふうふ和合わごう主題しゅだい神体しんたいきゅう装束しょうぞく綾地あやじ締切しめきりちょう牡丹ぼたんぶん片身かたみがえ小袖こそで」は山鉾やまぼこ最古さいこ衣裳いしょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい
  • あぶら天神山てんじんやま(あぶらてんじんやま)/油小路あぶらのこうじ綾小路あやのこうじ風早かざはやまち町名ちょうめいちな鎮守ちんじゅしゃかみごうによる。別名べつめいうし天神山てんじんやま”。まつのほかに紅梅こうばいえだて、すずをつける。
  • 木賊山とくさやま(とくさやま)/仏光寺西ぶっこうじにしほらいん西入にしいり木賊山とくさやままち謡曲ようきょく木賊とくさ』に取材しゅざいをさらわれたおう木賊とくさ場面ばめん迷子まいごけのおまもりを授与じゅよする。
  • 蟷螂山とうろうやま(とうろうやま)/西洞院にしのとういん四条しじょうあが蟷螂山とうろうやままち。からくりを仕込しこ唯一ゆいいつやまで、御所車ごしょぐるま車輪しゃりんとそのうえのかまきりが巡行じゅんこうちゅううごく。南北なんぼくあさ時代じだい町内ちょうないかんかまえていた四条しじょうたかしが、公家くげながら強大きょうだい武家ぶけ足利あしかが義詮よしあきらぐん歯向はむかった勇気ゆうきたたえ、町内ちょうない中国ちゅうごくくすりしょうちん大年おおとし外郎ういろう(ういろう))が「蟷螂かまきりおの」の故事こじにたとえて、四条しじょう御所車ごしょぐるまにカマキリのつくものせて巡行じゅんこうしたのが起源きげんという。町内ちょうない住民じゅうみんおおく、オリジナルの手作てづく授与じゅよひんおおい。
ほこ
  • 長刀鉾なぎなたぼこ(なぎなたほこ/ぼこ〈以下いかおなじ〉)/四条しじょう烏丸からすまひがしにゅう長刀鉾なぎなたぼこまちほこあたま長刀ちょうとう山鉾やまぼこなかただ一生いっしょう稚児ちごり、巡行じゅんこう先頭せんとうく。天王てんのう人形にんぎょういずみ小次郎こじろうしん左肩ひだりかたふねかつ右手みぎて長刀ちょうとうをとるかたちのきうらには二十八宿にじゅうはっしゅくらんえんにはさんじゅうろく禽を浮彫うきぼりにした金具かなぐほどこされ、中央ちゅうおう長刀ちょうとう北斗七星ほくとしちせいの「やぶぐんぼし」に見立みたてて、陰陽いんようどうもちいるしきばんかたち具現ぐげんしている。※
  • 函谷鉾かんこぼこ(凾谷ぼこ)(かんこほこ/かんこくほこ)/四条しじょう烏丸からすま西入にしいり函谷鉾かんこぼこまち中国ちゅうごくひとしはじめ嘗君が、にわとりきまねをして難所なんしょはこたにせき突破とっぱした故事こじにより、ほこあたまはこたにせき山上さんじょうかる三日月みかづきあらわす。にわとりがらす意匠いしょうほこ全体ぜんたいりばめられている。さかきにはかみたれ(しで)を多数たすうけるのが特徴とくちょう天王てんのう人形にんぎょうはじめ嘗君右手みぎてけんをもち左手ひだりてをかざすかたちまえかか重要じゅうよう文化財ぶんかざい「イサクにみずきょうするリベカ」(旧約きゅうやく聖書せいしょ創世そうせいから取材しゅざい現在げんざい複製ふくせい使用しよう)。稚児ちご人形にんぎょう(「嘉多かたまる」)を採用さいようした最初さいしょほこ。※
  • にわとりぼこ(にわとりほこ)/室町むろまち四条しじょう鶏鉾にわとりぼこまちほこあたま三角形さんかっけいわくとそのなかかねたまごあらわす。天王てんのう人形にんぎょう住吉すみよし明神みょうじん右手みぎてをあげるかたち見送みおくりは『イーリアス』のトロイ戦争せんそうの「出陣しゅつじんするヘクトールと妻子さいしわかれ」をつづった16世紀せいきブラバント公国こうこく現在げんざいベルギー)のブリュッセルせい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)。甲高かんだか囃子はやし特徴とくちょう唯一ゆいいつ稚児ちご人形にんぎょう名前なまえいていない。
  • 菊水鉾きくすいほこ(きくすいほこ)/室町むろまち四条しじょうあが菊水鉾きくすいほこまち町内ちょうない菊水きくすいにちなみ、ほこあたま菊花きっかほこ唯一ゆいいつ屋根やね唐破風からはふかたちをとり、さかき中央ちゅうおうに「菊水きくすい」のがくける。屋根やねじょうえびすしんまつり、稚児ちご人形にんぎょうのうきく慈童の姿すがたあらわす「菊丸きくまる」。天王てんのう人形にんぎょう彭祖右手みぎてしゃく左手ひだりてさかずきげる猩々しょうじょうのような姿すがた近年きんねん製作せいさくされたまえかかどうかかには七福神しちふくじんかれている。すみかざり薬玉くすだま昭和しょうわ再建さいけんほことして年々ねんねん装飾そうしょく充実じゅうじつし、人形にんぎょう音頭取おんどとり服装ふくそう独自どくじせいたか[注釈ちゅうしゃく 7]長寿ちょうじゅ延命えんめい御利益ごりやくがある。
  • 月鉾つきほこ(つきほこ)/四条しじょう室町むろまち西入にしいり月鉾つきほこまちほこあたま三日月みかづき天王てんのう人形にんぎょう月読つきよみみこと風化ふうかした木偶でくのようだが、腰蓑こしみのけたうみつかまつ(あま)の姿すがたという。稚児ちご人形にんぎょうは「於兎まる(おとまる)」。天井てんじょううらには円山まるやま応挙おうきょふで草花くさばな破風はふ蟇股かえるまたひだり甚五郎じんごろうさくつたえるなみうさぎのきけた金具かなぐ松村まつむらけいぶんによるかいつくしなど、美術びじゅつ工芸こうげいいきくした装飾そうしょくおおわれている。
  • 放下ほうかぼこ(ほうかほこ)/新町しんまち四条しじょうあが小結棚こむすびだなまちほこあたまがつほしさんひかりあらわすといい、そのかたちから「すはま(州浜すはまほこ」ともぶ。天王てんのう人形にんぎょう放下僧ほうかぞう頭巾ずきんをかぶり、羯鼓かっこはらにつけて両手りょうてばち姿すがたさかきかたち唯一ゆいいつまるい。稚児ちご人形にんぎょう三光さんこうまる」は人形遣にんぎょうつかいの稚児ちごまいう。※
曳山ひきやま
かさぼこ
  • あや傘鉾かさぼこ(あやがさほこ)/綾小路あやのこうじ新町東しんまちひがしにゅう善長寺ぜんちょうじまちかさうえきむにわとりいただく。ぼうりと、かみめんをつけた太鼓持たいこもち・太鼓たいこちのおどりがく。江戸えど時代じだいから壬生みぶろくとき念仏ねんぶつ講中こうじゅう中京ちゅうきょう)が出仕しゅっしして囃子方はやしかたおどかたつとめるならわしである。また稚児ちご6めい徒歩とほ巡行じゅんこうくわわる。
  • 四条しじょう傘鉾かさぼこ(しじょうかさほこ)/四条しじょう西洞院にしのとういん西入にしいり傘鉾かさぼこまちかさうえあかぬさ若松わかまついただく。滋賀しがけん土山つちやままちたきじゅ神社じんじゃ祭礼さいれいつたわるケンケトおどりを参考さんこう復元ふくげんされたぼうおどりがく。

船鉾ふなぼこ

  • 船鉾ふなぼこ(舩鉾、ふねほこ)/新町しんまち綾小路あやのこうじ船鉾ふなぼこまち。ご神体しんたいとして神功じんぐう皇后こうごう住吉すみよし明神みょうじん鹿島かしま明神みょうじん安曇あずみいそりょうせる。船首せんしゅは鷁(げき)という架空かくうとりせんかう姿すがたなので“出陣しゅつじん船鉾ふなぼこ”とされる。神功しんこう皇后こうごうかみめんぶんやす年間ねんかん(1444ねん〜1449ねん)のさくといわれるいにしえめんで、尊崇そんすうされており、かみめんあらための儀式ぎしきを7がつ3にちおこなう。宮中きゅうちゅう出産しゅっさんのあるときにはかみめん御所ごしょはこんで祈願きがんおこなう。安産あんざんまもりをす。※

こうさい

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舁山
  • 橋弁慶はしべんけいさん(はしべんけいやま)/蛸薬師たこやくししつ町東まちひがしにゅう橋弁慶はしべんけいまちぎゅうわかまる弁慶べんけい五条ごじょう大橋おおはしたたか場面ばめん表現ひょうげんする。舁山唯一ゆいいつのくじらずとしてこうさい先頭せんとうく。両像りょうぞうともに1563ねんえいろく6ねん)、大仏だいぶつかんうんさく弁慶べんけい着用ちゃくようしていたくろ韋威かたしろ胴丸どうまる室町むろまち時代じだいさく重要じゅうよう文化財ぶんかざい。※
  • 鯉山こいやま(こいやま)/室町むろまちろくかく鯉山こいやままち登竜門とうりゅうもん故事こじ由来ゆらいたきのぼりするこいもと戔嗚みことしゃせる。かかそうひんホメロス叙事詩じょじし『イーリアス』のトロイ戦争せんそう題材だいざいにした図柄ずがらで、1600ねん慶長けいちょう5ねんごろベルギーつくられた1まいタペストリー裁断さいだんしてつくられている(重要じゅうよう文化財ぶんかざい巡行じゅんこうには複製ふくせい使用しよう)。立身出世りっしんしゅっせのおまもりを授与じゅよする。
  • きよしみょうさん(じょうみょうやま)/六角ろっかく烏丸からすま西入にしいり骨屋ほねやまち宇治川うじがわたたかにおいて筒井つついきよしみょう頭上ずじょういちらい法師ほうしした一瞬いっしゅん再現さいげんしている。きよしみょうぞうあたま片手かたておさえてひるがえいちらい法師ほうし奇観きかん。「勝守かつもり」を授与じゅよする。橋弁慶はしべんけいさん同様どうようはし欄干らんかんもうけてまつてないが、後部こうぶ川岸かわぎしあらわやなぎらす。神体しんたい着用ちゃくようしていたくろ韋威かたしろ胴丸どうまる室町むろまち時代じだいさく重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • くろぬしやま(くろぬしやま)/室町むろまち三条さんじょう烏帽子屋えぼうしやまち謡曲ようきょく志賀しが』にちなむ。大伴黒主おおとものくろぬしさくら見上みあげている。さくら造花ぞうか盗難とうなんけになるとされ、翌年よくねんちまきえて授与じゅよされる。
  • 役行者えんのぎょうじゃさん(えんのぎょうじゃやま)/室町むろまち三条さんじょうあが役行者えんのぎょうじゃまちやく小角おがく一言ひとこと主神しゅしん葛城かつらぎしんちから葛城かつらぎ大峰おおみねあいだはしけた伝説でんせつちなみ、岩屋いわやなかにいる役行者えんのぎょうじゃ両側りょうがわりょうかみほんしゅかさてる。巡行じゅんこうには聖護院しょうごいん山伏やまぶし法螺貝ほらがいらしながら先導せんどうする。宵山よいやまでもしばとう護摩ごま(さいとうごま)など修験しゅげんどう儀式ぎしきおこなわれる。
  • 鈴鹿すずかさん(すずかやま)/烏丸からすま三条さんじょうあが場之ばのまち鈴鹿すずかさん悪鬼あっき退治たいじした鈴鹿すずか権現ごんげんひめたかし)が神体しんたいまつ絵馬えまげられ、巡行じゅんこうには盗難とうなんじょけとして関係かんけいしゃ授与じゅよされる。
  • 八幡山はちまんやま(はちまんやま)/新町しんまち三条さんじょう三条さんじょうまち町内ちょうないふるくからある八幡宮はちまんぐうそう金箔きんぱくほどこして勧請かんじょうしたほこらしゅ鳥居とりいく。鳥居とりいうえにはひだり甚五郎じんごろうさくつたえる一対いっついしろばとまっている。
曳山ひきやま
  • きた観音山かんのんやま(きたかんのんやま)/新町しんまちろくかく六角ろっかくまち。ご神体しんたいとして楊柳ようりゅう観音かんのん韋駄てんせる。元々もともと南観音みなみかんおんさんとの隔年かくねん巡行じゅんこうだったが、明治めいじから毎年まいとしるようになった。まつえだ木彫きぼりあお尾長鳥おながどりける。ほこ本体ほんたい精妙せいみょうかざり金具かなぐおおわれる。りょう観音山かんのんやまともに後部こうぶ右側みぎがわおおきなやなぎえだす。このやまだけは一般いっぱんにはちまき販売はんばいしておらず、曳山ひきやま搭乗とうじょうけていない。関係かんけいしゃ招待しょうたいしゃのみにちまき授与じゅよおよ曳山ひきやま搭乗とうじょうおこなうのみである。※
  • 南観音みなみかんおんさん(みなみかんのんやま)新町しんまちにしき小路こうじあが百足屋むかでやまち。ご神体しんたいとして楊柳ようりゅう観音かんのんぜんざい童子どうじせる。元々もともと隔年かくねん巡行じゅんこうだったが、明治めいじから毎年まいとしている。宵山よいやま最後さいごには楊柳ようりゅう観音かんのんはこして町内ちょうないまわる「あばれ観音かんのん」をおこなう。まつえだ木彫きぼりばとけるが、やまこすまえあらかじけておくきた観音山かんのんやまことなり、南観音みなみかんおんさんやまこした翌朝よくあさのぼ名人めいじん大工だいくまつのぼってける。四隅よすみにはぼうではなくだい薬玉くすだまらす。※
  • 鷹山ようざん(たかやま)/三条さんじょうどおり室町むろまち西入にしいり衣棚ころもたなまちこうさい曳山ひきやま在原行平ありわらのゆきひら仁和にわ行幸ぎょうこう鷹狩たかがり、886ねん仁和にわ2ねん))をモチーフにした3たいかり装束しょうぞく人形にんぎょう神体しんたいとする。従者じゅうしゃである中央ちゅうおうの「たるまけ」(たるおい)は、ちまきべる姿すがたで、2008ねん京都きょうと調査ちょうさでは、蟷螂山とうろうやまならんでからくりおこなわれていたことで有名ゆうめいであったとされている。応仁おうにんらん以前いぜん起源きげんち、大船おおぶねぼこ直前ちょくぜん巡行じゅんこうしたくじらずの曳山ひきやまだったが、1826ねん文政ぶんせい9ねん)にはげしい夕立ゆうだちってかけそうひんはなはだしい汚損おそんこうむったとして休山やすみやましていたところに1864ねん元治もとはる元年がんねん)の禁門きんもんへんによる大火たいか神体しんたい一部いちぶかかそうひんのこして焼失しょうしつ。そのきょさい参加さんかするのみとなり、2014ねん平成へいせい26ねん)まではよいやま宵山よいやま両日りょうじつ夕刻ゆうこく以降いこうかぎってのこされた神体しんたいかかそうひん同山どうさん町内ちょうない眼鏡めがねてん展示てんじきょさい)していた。2014ねん平成へいせい26ねん)にはおよそ190ねんぶりに祇園ぎおん囃子ばやし復活ふっかつし、2015ねん平成へいせい27ねん)からは町内ちょうない祇園ぎおん囃子ばやし演奏えんそう開始かいしした。ながちまき一般いっぱんへの販売はんばいおこなわなかったが、2015ねん平成へいせい27ねん)からちまき授与じゅよひん一般いっぱんへの販売はんばい開始かいしした。2015ねん平成へいせい27ねん)に一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん鷹山ようざん保存ほぞんかい」が設立せつりつされ、2016ねん平成へいせい28ねん)に公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん認定にんていされた。2019ねんれい元年がんねん)の巡行じゅんこうからは大船おおぶねぼこ正式せいしき復活ふっかつまえ同様どうように「唐櫃からびつ(からびつ)巡行じゅんこう」として巡行じゅんこう参加さんかし、最後さいご巡行じゅんこうから200ねんの2026ねんまでの復興ふっこう目指めざしていたが、車輪しゃりんとうざいほこからゆずられたことから、それよりもはやい2022ねんれい4ねん)に巡行じゅんこう復帰ふっきした[34]
船鉾ふなぼこ
  • 大船おおぶねぼこ(おおふねほこ・だい舩鉾)/新町しんまち四条しじょう四条しじょうまちせんからのかえりをあらわすため、かつては“凱旋がいせんせんぼこ”としょうしたが、1984ねん昭和しょうわ59ねん)に京都きょうと訪問ほうもんしたちょん斗煥どふぁん韓国かんこく大統領だいとうりょう配慮はいりょして大船おおぶねぼこ改称かいしょうした。1864ねん元治もとはる元年がんねん)の禁門きんもんへんによる大火たいか罹災りさい巡行じゅんこう休止きゅうししていたが、2012ねん平成へいせい24ねん)よりかみめんばこおさめてはこぶ「唐櫃からびつ(からびつ)巡行じゅんこう」として山鉾巡行やまぼこじゅんこう復帰ふっき。2014ねん平成へいせい26ねん)からほこ巡行じゅんこう[35]神体しんたい船鉾ふなぼこおな神功しんこう皇后こうごう住吉すみよし明神みょうじん鹿島かしま明神みょうじん安曇あずみいそりょうだが、の3たいうしなわれていたため2019ねんれい元年がんねん)に復興ふっこうした。4たいとも甲冑かっちゅうをつけず凱旋がいせん姿すがたあらわす。宵山よいやまでは安産あんざんのおまもりを授与じゅよ船首せんしゅは2メートルの大金たいきんぬさ幕末ばくまつ焼失しょうしつのがれてつたえられていたものを使用しよう。2016ねん平成へいせい28ねん)には龍頭りゅうず復元ふくげんされ、2019ねんれい元年がんねん)には金箔きんぱく装飾そうしょくされた。これは四条しじょうまち明治めいじ初年しょねんまで南北なんぼくかれており、毎年まいとし交代こうたい担当たんとうし、舳先へさきかざりもえていたことにならったもので、今後こんご踏襲とうしゅうされる予定よていという。※

やすやま

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度重たびかさなる大火たいかかく山鉾やまほこまち事情じじょうによって現在げんざい巡行じゅんこうしていないが、宵山よいやま期間きかんのこされた神体しんたい宝物ほうもつとう展示てんじする「きょさい」をおこな山鉾やまぼこ大火たいか木造もくぞう宝物ほうもつ焼失しょうしつしたり、まち借金しゃっきん返済へんさいのために宝物ほうもつ売却ばいきゃくしたりして、巡行じゅんこうができなくなりやすやま発生はっせいする。なお、かつて存在そんざいしたことが記録きろくのこされているだけで、きょさいおこなっていないやま御射山みさやまなど)はやすやまとはいわない。かつては焼山やけやま(やけやま)とった。だい世界せかい大戦たいせん菊水鉾きくすいほこあやかさぼこ蟷螂山とうろうやま四条しじょう傘鉾かさぼこ大船おおぶねぼこ鷹山ようざん相次あいつ復興ふっこうしたことにより現在げんざいは1つのやまだけがのこされている。

  • 布袋山ほていやま(ほていやま)/蛸薬師通たこやくしどおり新町東しんまちひがしにゅう姥柳うばやなぎまちまえさいの舁山。布袋ほてい和尚おしょう童子どうじ神体しんたいとする。1500ねんあきらおう9ねん)に巡行じゅんこう参加さんかしたという記録きろくがあるが、江戸えど中期ちゅうきたかられき年間ねんかん(1751ねん - 1763ねん)より不参加ふさんかといわれ、1788ねん天明てんめい8ねん)の「天明てんめい大火たいか」で神体しんたい布袋ほていみこと童子どうじのミニチュアをのこ焼失しょうしつ。どんな趣向しゅこうやまであったかからず、なぞつつまれている。2005ねん平成へいせい17ねん)に安政あんせい年間ねんかん(1854ねん - 1859ねん作製さくせいとみられる護符ごふ版木はんぎ確認かくにんされた。また、2006ねん平成へいせい18ねん)にはかかそうひんつたわる織物おりもの地元じもと企業きぎょう川島織物かわしまおりものセルコン)に保管ほかんされているのが確認かくにんされ、実物じつぶつだい模造もぞうひん宵山よいやま展示てんじされた。このやまやま再建さいけんし、巡行じゅんこう参加さんか復活ふっかつさせる構想こうそうがある。なお、布袋山ほていやまはかつての資料しりょうまったのこっておらず、現存げんそんするほかやま参照さんしょうしたまったあたらしいかたちやま再建さいけん検討けんとうされている。資金しきん技術ぎじゅつ伝承でんしょう問題もんだいがあり、具体ぐたいてきなスケジュールは発表はっぴょうされていないが、布袋山ほていやま基本きほんてき木組きぐみが2012ねん平成へいせい24ねん)に寄贈きぞうされており、10ねん以内いない復興ふっこう目指めざしていた。復興ふっこう機運きうんたかまりとともに2016ねん平成へいせい28ねん)までは7がつ13にち夕刻ゆうこくから宵山よいやままでの4日間にちかん神体しんたいまつきょさいおこない、ちまきやおまもりの販売はんばい朱印しゅいん押印おういんなどをおこなっていた。ただ、2017ねん平成へいせい29ねん)には町内ちょうないかい保存ほぞん会長かいちょうあいだにトラブルが発生はっせいし、神体しんたいなどが町内ちょうないかいがわわたすよう裁判所さいばんしょから命令めいれいるなどし、2017ねん平成へいせい29ねん以降いこう宵山よいやま期間きかんきょさい大幅おおはば縮小しゅくしょうされるなどの影響えいきょうており、復興ふっこうスケジュールに影響えいきょうることもありうる。

現存げんそんしない山鉾やまぼこ

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かつて応仁おうにんらん前後ぜんこう存在そんざい現在げんざい消失しょうしつした山鉾やまぼこがある。

  • 御射山みさやま(みさやま)/東洞ひがしぼらいんどおり蛸薬師たこやくしあが御射山みさやままち諏訪すわ大社たいしゃ末社まっしゃ御射山みさやま神社じんじゃ長野ながのけん)に由来ゆらいする。現在げんざい町名ちょうめい公園こうえんめいのこされている[36]

山鉾やまぼこ巡行じゅんこうじゅん

[編集へんしゅう]

太字ふとじは「くじらず」。

まえさい

[編集へんしゅう]
  • 1番目ばんめ長刀鉾なぎなたぼこ
  • 2番目ばんめやまいちばん
  • 3番目ばんめやまばん
  • 4番目ばんめやまさんばん
  • 5番目ばんめ函谷鉾かんこぼこ
  • 6番目ばんめやまよんばん
  • 7番目ばんめかさぼこ一番いちばん四条しじょう傘鉾かさぼこあやかさぼこのいずれか)
  • 8番目ばんめやまばん
  • 9番目ばんめほこ一番いちばん菊水鉾きくすいほこにわとりぼこ月鉾つきほこのいずれか)
  • 10番目ばんめやまろくばん
  • 11番目ばんめやまななばん
  • 12番目ばんめやまはちばん
  • 13番目ばんめほこばん菊水鉾きくすいほこにわとりぼこ月鉾つきほこのいずれか)
  • 14番目ばんめやまきゅうばん
  • 15番目ばんめ傘鉾かさぼこばん四条しじょう傘鉾かさぼこあやかさぼこのいずれか)
  • 16番目ばんめやまじゅうばん
  • 17番目ばんめほこさんばん菊水鉾きくすいほこにわとりぼこ月鉾つきほこのいずれか)
  • 18番目ばんめやまじゅういちばん
  • 19番目ばんめやまじゅうばん
  • 20番目ばんめやまじゅうさんばん
  • 21番目ばんめ放下ほうかぼこ
  • 22番目ばんめ岩戸山いわとやま
  • 23番目ばんめ船鉾ふなぼこ

こうさい

[編集へんしゅう]
  • 1番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 2番目ばんめきた観音山かんのんやままたは南観音みなみかんおんさん(隔年かくねん交代こうたい西暦せいれきすうねん南観音みなみかんおんさん)
  • 3番目ばんめやま一番いちばん
  • 4番目ばんめやまばん
  • 5番目ばんめやまさんばん
  • 6番目ばんめ南観音みなみかんおんさんまたはきた観音山かんのんやま(隔年かくねん交代こうたい西暦せいれきすうねんきた観音山かんのんやま)
  • 7番目ばんめやまよんばん
  • 8番目ばんめやまばん
  • 9番目ばんめやまろくばん
  • 10番目ばんめ鷹山ようざん
  • 11番目ばんめ大船おおぶねぼこ
2022ねん
  • 1番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 2番目ばんめきた観音山かんのんやま
  • 3番目ばんめやま一番いちばん
  • 4番目ばんめやまばん
  • 5番目ばんめやまさんばん
  • 6番目ばんめ南観音みなみかんおんさん
  • 7番目ばんめやまよんばん
  • 8番目ばんめやまばん
  • 9番目ばんめやまろくばん
  • 10番目ばんめ鷹山ようざん
  • 11番目ばんめ大船おおぶねぼこ
2019ねんから2021ねんまで
  • 1番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 2番目ばんめきた観音山かんのんやま
  • 3番目ばんめやま一番いちばん
  • 4番目ばんめやまばん
  • 5番目ばんめやまさんばん
  • 6番目ばんめ南観音みなみかんおんさん
  • 7番目ばんめやまよんばん
  • 8番目ばんめやまばん
  • 9番目ばんめやまろくばん
  • 10番目ばんめ鷹山ようざん唐櫃からびつ巡行じゅんこう
  • 11番目ばんめ大船おおぶねぼこ
2014ねんから2018ねんまで
  • 1番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 2番目ばんめきた観音山かんのんやま
  • 3番目ばんめやま一番いちばん
  • 4番目ばんめやまばん
  • 5番目ばんめやまさんばん
  • 6番目ばんめ南観音みなみかんおんさん
  • 7番目ばんめやまよんばん
  • 8番目ばんめやまばん
  • 9番目ばんめやまろくばん
  • 10番目ばんめ大船おおぶねぼこ
2012ねん・2013ねん両年りょうねん
  • 24番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 25番目ばんめきた観音山かんのんやま
  • 26番目ばんめやま一番いちばん
  • 27番目ばんめやまばん
  • 28番目ばんめやまさんばん
  • 29番目ばんめ南観音みなみかんおんさん
  • 30番目ばんめやまよんばん
  • 31番目ばんめやまばん
  • 32番目ばんめやまろくばん
  • 33番目ばんめ大船おおぶねぼこ唐櫃からびつ巡行じゅんこう
2011ねん以前いぜん
  • 24番目ばんめきた観音山かんのんやま
  • 25番目ばんめ橋弁慶はしべんけいさん
  • 26番目ばんめやま一番いちばん
  • 27番目ばんめやまばん
  • 28番目ばんめやまさんばん
  • 29番目ばんめやまよんばん
  • 30番目ばんめやまばん
  • 31番目ばんめやまろくばん
  • 32番目ばんめ南観音みなみかんおんさん

2013ねん平成へいせい25ねん)までのさきさいこうさい合同ごうどう巡行じゅんこうは、さきさい行列ぎょうれつ終了しゅうりょうつづいてこうさい巡行じゅんこうおこなっていた。そのため、こうさい山鉾やまぼこ全体ぜんたいの23番目ばんめよりまえ巡行じゅんこうすることはなく、ぎゃくさきさい山鉾やまぼこ巡行じゅんこうじゅん全体ぜんたいの24番目ばんめ以降いこうになることもなかった。

過去かこ

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山鉾やまぼこ頭文字かしらもじ表示ひょうじ。[]はくじらず。

まえさい
[編集へんしゅう]
基準きじゅん [ちょう] やま1 やま2 やま3 [はこ] やま4 かさ1 やま5 ほこ1 やま6 やま7 やま8 ほこ2 やま9 かさ2 やま10 ほこ3 やま11 やま12 やま13 [] [いわ] [ふね]
2019ねん [ちょう] あし [はこ] かく あや はく きく あぶら ふとし にわとり しろ よん はじめ つき やま うらない [] [いわ] [ふね]
2018ねん [ちょう] あぶら [はこ] はじめ あや しろ にわとり ふとし はく あし つき やま よん うらない きく かく [] [いわ] [ふね]
2017ねん [ちょう] うらない はじめ [はこ] はく よん あし つき やま あぶら ふとし にわとり あや きく しろ かく [] [いわ] [ふね]
2016ねん [ちょう] やま しろ はじめ [はこ] ふとし よん うらない つき あし にわとり はく あや きく かく あぶら [] [いわ] [ふね]
2015ねん [ちょう] はじめ あし はく [はこ] あぶら よん うらない つき やま きく かく あや ふとし にわとり しろ [] [いわ] [ふね]
2014ねん [ちょう] うらない あし はじめ [はこ] やま あや はく きく ふとし あぶら にわとり よん つき しろ かく [] [いわ] [ふね]
こうさい
[編集へんしゅう]
基準きじゅん [はし] [きた] やま1 やま2 やま3 [みなみ] やま4 やま5 やま6 [だい]
2011ねん以前いぜん [きた] [はし] やま1 やま2 やま3 やま4 やま5 やま6 [みなみ] [だい]
2019ねん [はし] [きた] こい はち くろ [みなみ] やく きよし すず [たか]
2018ねん [はし] [きた] くろ こい すず [みなみ] やく きよし はち [だい]
2017ねん [はし] [きた] こい やく はち [みなみ] すず きよし くろ [だい]
2016ねん [はし] [きた] きよし やく くろ [みなみ] すず はち こい [だい]
2015ねん [はし] [きた] やく はち すず [みなみ] こい くろ きよし [だい]
2014ねん [はし] [きた] はち きよし すず [みなみ] こい やく くろ [だい]

くじらず

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くじはすべての山鉾やまぼこくわけでなく、くじをかないでもあらかじ順番じゅんばんまっているものもある。これを「くじらず」という。時代じだいともにそのかず順序じゅんじょ変遷へんせんがあるが、現在げんざいまえさい」・「こうさいともに5のくじらずがある。

まえさいにおいては、先頭せんとう長刀鉾なぎなたぼこ、5番目ばんめ函谷鉾かんこぼこ、21番目ばんめ放下ほうかぼこ、22番目ばんめ岩戸山いわとやま、23番目ばんめ船鉾ふなぼこぜんまつり巡行じゅんこう最後さいご)、こうさいにおいては、先頭せんとう橋弁慶はしべんけいさん、2番目ばんめきた観音山かんのんやま、6番目ばんめ南観音みなみかんおんさん、10番目ばんめ鷹山ようざん、11番目ばんめ大船おおぶねぼここうさい巡行じゅんこう最後さいご)が「くじらず」である。

こうさい従来じゅうらい先頭せんとう橋弁慶はしべんけいさんさい後尾こうび大船おおぶねぼこ、そのひと手前てまえ鷹山ようざんだけがくじらずであったが、隔年かくねんもうわせだった2観音山かんのんやまうち南観音みなみかんおんさん大火たいか被害ひがいはなはだしく不出ふしゅつとなったおりきた観音山かんのんやま連続れんぞくして巡行じゅんこうで、その南観音みなみかんおんさん復帰ふっきしたのちりょう観音山かんおんやま同時どうじ参加さんかすることとなった1872ねん明治めいじ5ねん以降いこう先頭せんとうきた観音山かんのんやま必然ひつぜんてき橋弁慶はしべんけいさんは2ばん後退こうたい)、さい後尾こうび南観音みなみかんおんさん配置はいちし、これらをくじらずにくわえた。

しかし、142ねんぶりに大船おおぶねぼこ唐櫃からびつ巡行じゅんこう復帰ふっきした2012ねん平成へいせい24ねん)に、くじらずの順序じゅんじょ見直みなおしがなされ、こうさい先頭せんとうは140ねんぶりに橋弁慶はしべんけいさんもどり、2番目ばんめきた観音山かんのんやま最後さいごだった南観音みなみかんおんさんは6番目ばんめうつり、かつてこうさい最後さいご巡行じゅんこうしていた大船おおぶねぼこが、復活ふっかつ最終さいしゅう巡行じゅんこうすることになった。2019ねんれい元年がんねん)に鷹山ようざん唐櫃からびつ巡行じゅんこう復帰ふっきしたが、かつてと同様どうよう大船おおぶねぼこ直前ちょくぜんくくじらずとなった。また、2023ねんからきた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさんがくじらずのまま「先番せんばん」と「こうばん」を隔年かくねん交代こうたいすることとなり、2023ねんは2番目ばんめ南観音みなみかんおんさんが、6番目ばんめきた観音山かんのんやま巡行じゅんこうした。

また、くじらずではないものの、注目ちゅうもくほこがくじによって連続れんぞくしないよういちしゅの「シードせい」をり、かぎられた巡行じゅんこうじゅんなかでのみくじによって位置いちえるものもある。すなわち、月鉾つきほこ菊水鉾きくすいほこにわとりぼこの3ほこ巡行じゅんこうじゅんが9番目ばんめ・13番目ばんめ・17番目ばんめめられており、かりに「ほこ1ばん」のくじだと全体ぜんたいの9番目ばんめことになる。同様どうようあやかさぼこ四条しじょうかさぼこの2つの「かさぼこ」は、巡行じゅんこうじゅん全体ぜんたいの7番目ばんめと15番目ばんめめられており、「かさぼこ1ばん」のくじだと全体ぜんたいの7番目ばんめということになる。かさぼこ場合ばあい古来こらい舁山とおなあつかいでくじをき、そのたび不規則ふきそく位置いちえるならわしであったが、1996ねんに「かさぼこ」のくじが新設しんせつされ、以来いらい現在げんざいかたちとなった。

以上いじょうよりくじじゅん実際じっさい整理せいりすると、たとえば「やま7ばん」をいた場合ばあいでいえば、先頭せんとう長刀鉾なぎなたぼこつぎに「やま1ばん」の舁山が全体ぜんたいでいう2ばんめに巡行じゅんこうし、そのにくじらずの函谷鉾かんこぼこと「ほこ1ばん」のほこ・「かさぼこ1ばん」のかさぼこはいるため、全体ぜんたいでは11番目ばんめ巡行じゅんこうということになる。

会所かいしょ(かいしょ)

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山鉾やまぼこ運営うんえい基地きちとなる建物たてもの山鉾やまほこまち事務所じむしょとして山鉾やまぼこ収納しゅうのう神体しんたい安置あんち祇園ぎおん囃子ばやし稽古けいこじょうかかそうひん展観てんかん授与じゅよぶつ頒布はんぷなど、さまざまな用途ようと使つかわれる。普通ふつう町家まちやならんで存在そんざいするものは「ひょうとうがた町会ちょうかいしょ」と分類ぶんるいされ、長刀鉾なぎなたぼこ月鉾つきほこ船鉾ふなぼこ放下ほうかぼこきた観音山かんのんやま南観音みなみかんおんさん山伏山やまぶしやま橋弁慶はしべんけいさん保昌やすまささん郭巨山かくきょやま古式こしきなものがのこる。大型おおがたほこ曳山ひきやま場合ばあいは、おく立派りっぱ土蔵どぞうそなえている場合ばあいおおい。また表通おもてどおりからせま露地ろじとおったおく会所かいしょがあるものは「おくとうがた町会ちょうかいしょ」と分類ぶんるいされ、舁山まちおおい。古式こしきなものは役行者えんのぎょうじゃさん八幡やはたさん鯉山こいやま・霰天神山かみやま孟宗もうそうやま鈴鹿すずかさん占出山うらでやま町内ちょうないにある[37]祭礼さいれい期間きかん以外いがい適宜てきぎ店子たなこ賃貸ちんたいされ、商家しょうかとして利用りようされた。江戸えど時代じだいには髪結床かみゆいどことなっていた場合ばあいおおい。明治維新めいじいしん以後いご町会ちょうかいしょ所有しょゆうしゃ不明ふめいとしておさむおおやけされ、山鉾やまぼこ運営うんえいきゅうすることになったり、会所かいしょ所有しょゆうけんをめぐるあらそいが長引ながびいて山鉾やまぼこせなくなった事例じれいもある。長期ちょうきにわたる中絶ちゅうぜつのち復興ふっこうした菊水鉾きくすいほこでは、町内ちょうないきむつよし能楽堂のうがくどう会所かいしょわりにしていたが、能楽堂のうがくどう移転いてんによって、跡地あとち建設けんせつされたマンションの2かいまち購入こうにゅうし、会所かいしょとして利用りようしている。ほこ本体ほんたいは1967ねん京都きょうとみなみ東九条南河辺ひがしくじょうみなみかわべまち新築しんちくされた収蔵しゅうぞう保管ほかんされている[38]。また2014ねん復興ふっこうした大船おおぶねぼこでは、2016ねんきゅう町会ちょうかいしょちかふる町家まちや購入こうにゅう改造かいぞうして町会ちょうかいしょとしている[39]。なお、戦後せんご変革へんかく町会ちょうかいしょうしなった山鉾やまぼこのために、京都きょうとは1968ねん八坂神社やさかじんじゃ隣接りんせつする円山公園まるやまこうえん一角いっかくに「祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこかん」をもうけ、山鉾やまぼこ収蔵しゅうぞうとして利用りようされている。ここには岩戸山いわとやま孟宗もうそうやまくろぬしやまきよしみょうさん太子山たいしやまあぶら天神山てんじんやま郭巨山かくきょやまはくきばやま芦刈山あしかりやま木賊山とくさやま収納しゅうのうされている(収蔵しゅうぞうであり、展示てんじ見学けんがく機能きのうはない)。

やどりきまち(よりちょう)

[編集へんしゅう]

山鉾やまぼこ運営うんえいささえるために、豊臣とよとみ政権せいけん(1583ねん天正てんしょう11ねん)〜)で制定せいていされた制度せいど山鉾やまほこまち周辺しゅうへん特定とくていまち土地とち指定していし、課税かぜいじゅんじてかく山鉾やまぼこ運営うんえい資金しきんくちまい」を徴収ちょうしゅうした。まち々への賦課ふかは、最高さいこうさんせきあまり、最低さいていいち以下いかとばらつきがおおきいが、はやくから金納きんのうになっていたものとおもわれる。やどりきまち山鉾やまぼこ運営うんえいには直接ちょくせつかかわらないが、山鉾やまほこまちよりちまきなどがおくられた。1872ねんやどりきまち制度せいど廃止はいしされたため、祇園祭ぎおんまつり維持いじする目的もくてきで、八坂神社やさかじんじゃ氏子うじこ母体ぼたいとする「きよし講社こうしゃ」が結成けっせいされ、神輿しんよ渡御とぎょ山鉾巡行やまぼこじゅんこう経済けいざいてき後援こうえんすることになった。やどりきまち制度せいど廃止はいしも、山鉾やまほこまちとの関係かんけいたもっているきゅうやどりきまちもある。

やどりきまち一覧いちらん(【】ない山鉾やまほこまち[40]

  • 長刀鉾なぎなたぼこ四条しじょう烏丸からすまひがしにゅう長刀鉾なぎなたぼこまち堀之内ほりのうちまち立売西たちうりにしまち童侍者どうじしゃまち水銀屋すいぎんやまち松原まつばらなかまち坂東屋ばんとうやまち姥柳うばやなぎまち(7ヶまち
  • 函谷鉾かんこぼこ四条しじょう烏丸からすま西入にしいりル凾谷ぼこまちさだやす前町まえまち葛籠屋つづらやまち高辻たかつじしりまち蓮池はすいけまち四条しじょうどおり烏丸からすま西北せいほくかく(4ヶまち・1けん
  • にわとりぼこ室町むろまち四条しじょう鶏鉾にわとりぼこまち三条油小路さんじょうあぶらのこうじまち大東だいとうまち菊屋きくやまち木ノ下きのしたまち三条さんじょう西洞院にしのとういんまちもとみょうねがい寺町てらまちやなぎまち錦堀川にしきほりかわまち同町どうちょう西側にしがわ上八文字かみはちもんじまち下八文字しもはちもんじまち塚本つかもとまちもと水町みずまち下山崎しもやまざきまち山崎やまざきまち四坊堀川しぼうほりかわまち月鉾つきほこまちすみ(18ヶまち・1けん
  • 菊水鉾きくすいほこ室町むろまち四条しじょうあが菊水鉾きくすいほこまち二条油小路にじょうあぶらのこうじまち押小路おしこうじ油小路あぶらのこうじまち式阿弥しきあみまち矢幡やはたまち中保なかほとぎまち高宮たかみやまち御所八幡ごしょはちまんまち東八幡ひがしはちまんまち御池大東おいけだいとうまち雁金かりがねまち四条しじょう坊門ぼうもん油屋あぶらやまち蛸屋たこやまち西魚屋にしうおやまち中魚屋なかうおやまち東魚屋ひがしうおやまち鍛冶屋かじやまち高辻たかつじ雁金かりがねまち饅頭屋まんじゅうやまち四条しじょう室町むろまちかく東側ひがしがわどう西側にしがわ室町むろまちにしき小路こうじかく東側ひがしがわどう西側にしがわ(18ヶまち・4けん
  • 月鉾つきほこ四条しじょう室町むろまち西入にしいり月鉾つきほこまち小島こじままち元竹田もとたけだまち御射山みさやままち道祐どうゆうまち甲屋かぶとやまち相之あいのまち永原ながはらまちふつこう寺町てらまち吉文字きちもんじまち杉屋すぎやまち三文字さんもんじまち菊水鉾きくすいほこまちうち3しょ鶏鉾にわとりぼこまちうち2けん新町しんまち四条東しじょうひがしいれあが観音堂かんのんどう(14ヶまち
  • 放下ほうかぼこ新町しんまち四条しじょうあが小結棚こむすびだなまち三条大宮さんじょうおおみやまち六角大宮ろっかくおおみやまち四条しじょう坊門ぼうもん大宮おおみやまち車屋くるまやまち鍛冶屋かじやまち姉西堀川あねにしほりかわまち上金仏かみかなぶつまちしも金仏かなぶつまちたちばなまち新町通しんまちどおり四条しじょうあがひがしいれ観音堂かんのんどう東天とうてん神山かみやままちすみ郭巨山かくきょやままちすみにしき小路こうじまちすみ(10ヶまち・3けん
  • 船鉾ふなぼこ新町しんまち綾小路あやのこうじ船鉾ふなぼこまち旧称きゅうしょう南北なんぼくぶくろまち)】大橋おおはしまち大橋おおはし丁目ちょうめ三条さんじょう坊門ぼうもん西側にしがわどう東側ひがしがわ六角ろっかく堀川ほりかわまち六角ろっかく越後えちごまち越後突抜えちごつきぬけまち四条堀川しじょうほりかわまち東側ひがしがわどう西側にしがわ綾小路あやのこうじ堀川ほりかわまち西側にしがわ吉水よしみずまち東側ひがしがわどう西側にしがわ・きよしてらまち一道いちどういん)・来迎堂らいこうどうまち(13ヶまち
  • 岩戸山いわとやま新町しんまちふつこう寺下てらした岩戸山いわとやままち薬師前やくしまえまち玉津島たまつしままち中野之なかののまち薮下やぶしたまち御影みかげまち糸屋いとやまち徳屋とくやまちみなみ岩戸山いわとやままち(8ヶまち
  • あや傘鉾かさぼこ綾小路あやのこうじ新町東しんまちひがしにゅう善長寺ぜんちょうじまち】(やどりきまちなし)
  • 四条しじょう傘鉾かさぼこ四条しじょう西洞院にしのとういん西入にしいり傘鉾かさぼこまち】(やどりきまちなし)
  • 保昌やすまささん東洞ひがしぼらいん松原まつばらあが燈籠どうろうまちほん燈籠とうろうまち稲荷いなりまち杉屋すぎやまち不動ふどうまち京極きょうごくまち高材木たかざいもくまち竹屋たけやまち(8ヶまち
  • 孟宗もうそうやま烏丸からすま四条しじょうあがたかんなまち十文字じゅうもんじまち瀬戸屋せとやまち鍵屋かぎやまち恵美須屋えびすやまち恵美須之えびすのまち夕顔ゆうがおまち中之なかのまち(7ヶまち
  • 占出山うらでやまにしき小路こうじしつ町東まちひがしにゅう占出山うらでやままち奈良物ならものまち立売たちうり東之ひがしのまち立売たちうり西之にしのまち烏丸からすまとおるにしき小路こうじ西南せいなんかく室町むろまちどおりにしき小路東しょうじひがし北角きとずみ(3ヶまち・2けん
  • 山伏山やまぶしやま室町むろまち蛸薬師たこやくし山伏山やまぶしやままち西押小路にしおしこうじまち左京さきょうまち竹屋たけやまちかわらまち海老屋えびやまち伊勢屋いせやまち船屋ふなやまち大日だいにちまち(8ヶまち
  • 霰天神山かみやまにしき小路こうじしつまち西入にしいり天神山てんじんやままち】(やどりきまちなし)
  • 郭巨山かくきょやま四条しじょう西洞院にしのとういんひがしにゅう郭巨山かくきょやままち膏薬こうやく北半きたはんすみ(2ヶまち
  • はくきばやま綾小路あやのこうじ新町しんまち西入にしいり矢田やたまち膏薬こうやく南半みなみはん筋屋すじやまち八文字はちもんじまち俵屋たわらやまち鍋屋なべやまち(5ヶまち
  • 芦刈山あしかりやま綾小路あやのこうじ西洞院にしのとういん西入にしいり芦刈山あしかりやままちひがし本町ほんまち西井にしい本町ほんまち高野堂こうやどうまち要法寺ようほうじまちきた妙満寺みょうまんじまちみなみ妙満寺みょうまんじまち佐竹さたけまち今大黒いまだいこくまち丸屋まるやまち綾小路通あやのこうじどおり西洞院にしのとういん北西ほくせいかくどう南西なんせいかく杉蛭子すぎえびすまち(10ヶまち・2けん
  • あぶら天神山てんじんやま油小路あぶらのこうじ綾小路あやのこうじ風早かざはやまち四条大宮しじょうおおみやまち綾小路あやのこうじ大宮おおみやまち塩屋しおやまちまつまち天道てんとうまち要法寺ようほうじまち藤岡ふじおかまち元町もとまちかく(7ヶまち・1けん
  • 木賊山とくさやま仏光寺西ぶっこうじにしほらいん西入にしいり木賊山とくさやままちますまちたちばなまち富永とみながまち晒屋さらしやまち喜吉きよしまち松原通まつばらどおり堀川ほりかわ西入にしいり北側きたがわ大宮おおみやまでまち(6ヶまち
  • 太子山たいしやま油小路あぶらのこうじふつこう寺下てらした太子山たいしやままち荒神こうじんまち雁金かりがねまちこう猪熊いのくままち十文字じゅうもんじまち針屋はりやまちぞうまち舟屋ふなやまち天使てんしまち菊屋きくやまち(9ヶまち
  • 白楽天はくらくてんさん室町むろまち綾小路あやのこうじ白楽ばくろ天山あまやままち神明しんめいまち材木ざいもくまち塩屋しおやまち足袋屋たびやまち糸屋いとやまちすみ(4ヶまち・1けん
  • 蟷螂山とうろうやま西洞院にしのとういん四条しじょうあが蟷螂山とうろうやままち妙伝寺みょうでんじまち不動ふどうまちしりきりまち西洞院にしのとういんどおり四条西よんじょうにし北角きとずみ町内ちょうない外郎ういろう屋敷やしき(3ヶまち・2けん
  • きた観音山かんのんやま新町しんまちろくかく六角ろっかくまちたちばなまち鶴屋つるやまち二王門におうもんまち大黒おぐろまち二条殿にじょうでんまち地尻ちじり新町通しんまちどおりろくかくいぬいかく桑原くわばらつじ(5ヶまち・2しょ
  • 南観音みなみかんおんさん新町しんまちにしき小路こうじあが百足屋むかでやまち大文字だいもんじまち高宮たかみやまち骨屋ほねやまち朝倉あさくらまち福長ふくながまち松下まつしたまち守山もりやままち俵屋たわらやまち(8ヶまち
  • 大船おおぶねぼこ新町しんまち四条しじょう四条しじょうまち船屋ふなやまち虎石とらいしまち松屋まつやまち南側みなみがわ観音かんおんまち笹屋ささやまち等持寺とうじじまち帯屋おびやまち貝屋かいやまち四条しじょうどおり新町しんまち南西なんせいかく(8ヶまち・1けん
  • 橋弁慶はしべんけいさん蛸薬師たこやくししつ町東まちひがしにゅうきょうべん慶山けいざんまち七観音しちかんのんまちたけぼうまち西錦小路にしにしきのこうじまち)・一蓮社いちれんしゃまち(3ヶまち
  • 鯉山こいやま室町むろまちろくかく鯉山こいやままち千切ちきりまち堀之上ほりのうえまち大黒おぐろまち八百屋やおやまち井筒屋いづつやまち(5ヶまち
  • きよしみょうさん六角ろっかく烏丸からすま西入にしいり骨屋ほねやまち衣棚ころもたな突抜つきぬけまち長浜ながはままち下妙覚寺しもみょうかくじまち上妙覚寺かみみょうかくじまち釜座かまんざ突抜つきぬけまち津軽つがるまち下松屋しもまつやまち上松屋かみまつやまち古西ふるにしまち空也くうやまち(10ヶまち
  • くろぬしやま室町むろまち三条さんじょう烏帽子屋えぼうしやまち槌屋つちやまち油屋あぶらやまち八幡やはたまち大坂おおさか材木ざいもくまちますまち弁慶石べんけいいしまち高田たかだまち鍵屋かぎやまち(8ヶまち
  • 役行者えんのぎょうじゃさん室町むろまち三条さんじょうあが役行者えんのぎょうじゃまち円福寺えんぷくじまち石橋いしばしまち両替りょうがえまち森下もりしたまち元本能寺もとほんのうじまち西堂せいどうまち猩々しょうじょうまち(7ヶまち
  • 鈴鹿すずかさん烏丸からすま三条さんじょうあが場之ばのまち尾張おわりまち上白山かみはくさんまち中白山なかはくさんまち下白山しもはくさんまち白壁しらかべまちさかいまち町頭まちがしらまち中之町西なかのちょうにしがわ神明しんめいまち両替りょうがえまちくもりはないん殿町とのまち三条さんじょう梅忠うめただまちすみ(11ヶまち・1けん
  • 八幡山はちまんやま新町しんまち三条さんじょう三条さんじょうまち玉蔵たまくらまち(1ヶまち
  • 布袋山ほていやま蛸薬師通たこやくしどおり新町東しんまちひがしにゅう姥柳うばやなぎまち】(やどりきまちなし、姥柳うばやなぎまち自体じたい長刀鉾なぎなたぼこやどりきまちとなる)
  • 鷹山ようざん三条さんじょうどおり室町むろまち西入にしいり衣棚ころもたなまち衣棚ころもたな南町みなみまち釜座かまんざまち天性寺てんしょうじまちした本能寺ほんのうじまちうえ本能寺ほんのうじまち妙満寺みょうまんじまち丸屋まるやまち大文字だいもんじまち亀屋かめやまち御幸みゆきまちどおり亀屋かめやまち)・山本やまもとまち三条さんじょうどおり新町東しんまちひがし南角みのずみどう東北とうほくかく(10ヶまち・2けん)。本能寺ほんのうじまちみなみ本能寺ほんのうじまち池須いけすまち六角油小路ろっかくあぶらのこうじまち衣棚ころもたな南町みなみまちやどりきまちで、富井とみい康夫やすお(1971)はこれをえだやどりきまち[41]名付なづけた。これをふくめると(14ヶまち・2けん

稚児ちご

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祇園祭ぎおんまつりには稚児ちご参加さんかする。

長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちご

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現在げんざいでは唯一ゆいいつ生身なまみ稚児ちごなま稚児ちご)がる。かつては船鉾ふなぼこ大船おおぶねぼこのぞすべてのほこに10さい前後ぜんこう少年しょうねん稚児ちごとしてっていたが、現在げんざい長刀鉾なぎなたぼこ以外いがい人形にんぎょうになっている。

しょ行事ぎょうじいちぎょう食事しょくじだいやハイヤーだい各所かくしょへの心付こころづけやおそなえなどのしょ費用ひようは、禿かぶろぶんふくめてすべ稚児ちごしたいえ負担ふたんとされているため、2000まんえんともいわれる費用ひようがかかり、かつ稚児ちご自宅じたく神事しんじおこなうためのゆかあいだがあることが条件じょうけんとなる。そのため、京都きょうと市内しない資産しさんとう家庭かていから禿かぶろ(かむろ)とばれる家来けらいやく少年しょうねん2めいともえらばれ、まつりのとしの6がつごろ発表はっぴょうされる。非常ひじょう費用ひようかりだれでも稚児ちごになることが困難こんなんであるため、まつり伝統でんとう行事ぎょうじ維持いじ協力きょうりょくてき資産しさん役割やくわり集中しゅうちゅうし、稚児ちごおやなんじゅうねんまえ稚児ちごであったり、兄弟きょうだいすうねんをおいて稚児ちごになったりするれいがある。このようなれい葵祭あおいまつりとき王代おうだいやくにもられる。禿かぶろ稚児ちごしたいえめることもできるため、おおくが稚児ちご友人ゆうじん兄弟きょうだいである。かつては長刀鉾なぎなたぼこまち町内ちょうないから稚児ちごえらばれたが、現在げんざい大抵たいていまちがい資産しさん子息しそく[42]であるため、6がつ下旬げじゅん形式けいしきてき町内ちょうない代表だいひょう養子ようし縁組えんぐみをする。また、7がつ1にちまつり開始かいしけて、各所かくしょへの挨拶あいさつまわり、作法さほう儀式ぎしき学習がくしゅう稚児ちごまい乗馬じょうば練習れんしゅうなどが開始かいしされる。衣装いしょうるい正式せいしき発表はっぴょうにはそろえられているといわれる。

7がつ1にちの「おせん」(おせんど)を皮切かわきりにすうおおくの行事ぎょうじ舞台ぶたい化粧けしょう同様どうようしろ化粧けしょう登場とうじょう、7がつ13にち午前ごぜんちゅうの「稚児ちごしゃまいり」では狩衣かりぎぬかね烏帽子えぼし登場とうじょう、「せい少将しょうしょう」・じゅうまんせき大名だいみょうさずかる。これはたかほこうえから貴人きじん見下みおろしても不遜ふそんにならないようにするためといわれる。これ以降いこうかみ使つかいとされ、食事しょくじ用意よういなどに女子じょし一切いっさいりず、食事しょくじひととはべつつくったものをる。また、公式こうしきには地面じめん一切いっさいあるかないことになっており、公式こうしき行事ぎょうじさいには人前ひとまえでは絶対ぜったい地上ちじょうあるかない。巡行じゅんこう当日とうじつ長刀鉾なぎなたぼこ乗降じょうこうするさい男性だんせいかたせられて長刀鉾なぎなたぼこけられた梯子はしご乗降じょうこうする。そのため、あまり肥満ひまんしていないことも稚児ちご条件じょうけんとなる。ただし、14にち古式こしき一里塚いちりづか松飾まつかざりしき中之なかのまち御供ごくう)は八坂神社やさかじんじゃがわ公式こうしき行事ぎょうじでないため、稚児ちご禿かぶろ和装わそうではあるが無冠むかんかつ薄化粧うすげしょうあらわれ、かつ稚児ちごしゃさんであるが地上ちじょうあるき、このから16にちまで非公式ひこうしき八坂神社やさかじんじゃ参拝さんぱいするが、このとき薄化粧うすげしょう地上ちじょうあるく。

7がつ17にち山鉾巡行やまぼこじゅんこうでは金襴きんらん振袖ふりそでもんりのはかま鳳凰ほうおうてんかんむり登場とうじょう禿かぶろりょうわきしたがえ、ほこ中央ちゅうおう稚児ちごまい披露ひろうする。巡行じゅんこうはすぐにハイヤーで八坂神社やさかじんじゃかい、せい少将しょうしょうじゅうまんせき大名だいみょう返上へんじょうし、かみ使つかいから普通ふつう少年しょうねんもどる。おがえしのばれる儀式ぎしきである。このさい古式こしき一里塚いちりづか松飾まつかざりしき同様どうよう薄化粧うすげしょう衣装いしょう地上ちじょうあるいて本殿ほんでん参入さんにゅうする。儀式ぎしきみなみ楼門ろうもんてハイヤーにまえに、稚児ちごたちはマスコミからの取材しゅざいけることが通例つうれいとなっている。

あやかさぼこ稚児ちご

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正副せいふく6にんる。一般いっぱんから公募こうぼされることが長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごとのおおきなちがいである。長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごことなり多額たがく費用ひようはかからないとされ、すうねんさきまで希望きぼうしゃまっているとされる。また、しゃさん巡行じゅんこうおも仕事しごと巡行じゅんこうでは各自かくじしゅかさしかけられ、いちれつになって囃子方はやしかたまえあるく。近世きんせい以前いぜん画像がぞう資料しりょうによっては強力きょうりょくかたになわれているものもられるが、現在げんざい終始しゅうし徒歩とほ参列さんれつする。7月7にち稚児ちごしゃさんときに「せんじょう」をけてかみ使つかいの認証にんしょうける。

四条しじょうかさぼこ稚児ちご

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かつてはあやかさぼこ同様どうよう稚児ちごたが、現在げんざい途絶とだえている。道中どうちゅうおど児童じどうらは傘鉾かさぼこ特有とくゆうぼう囃子ばやしをするおどかたであって、稚児ちごではない。

久世くぜ駒形こまがた稚児ちご

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綾戸あやどこくちゅう神社じんじゃみなみ久世上久世くぜかみくぜまち)の氏子うじこから毎年まいとし2にんえらばれる。8さい前後ぜんこう少年しょうねんからえらばれる。こちらも、舞台ぶたい化粧けしょう同様どうようしろ化粧けしょう登場とうじょうがくくろしろてんける。

7がつ13にち午後ごごの「稚児ちごしゃまいり」では2めいそろってしろ狩衣かりぎぬむらさきもんりのくくはかまかね烏帽子えぼし登場とうじょうする。

神幸しんこうさい還幸かんこうさいでは1めいずつ登場とうじょう衣装いしょうおなじだが稚児ちごてんかんむりこうむり、むね国中くになか神社じんじゃ神体しんたいである木彫きぼりのうまくび駒形こまがた)をむねけ、うまって戔嗚みこと(すさのおのみこと)の和御魂にぎみたま(にぎみたま)がしずまるなか御座ぎょざ神輿しんよ(なかござみこし)の先導せんどうつとめる。

神幸しんこうさい先立さきだ八坂神社やさかじんじゃおこなわれる神事しんじにより駒形こまがた稚児ちごもと戔嗚みこと荒御魂あらみたま(あらみたま)のしずまる神体しんたい一体いったいとなり、稚児ちご自身じしんかみ化身けしんとして役目やくめえるまでいち切地きれじあしけずにつとめる(長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごあやかさぼこ稚児ちごかみ使つかいであり、化身けしんではない)。通常つうじょう神社じんじゃ境内けいだいでは長刀鉾なぎなたぼこ稚児ちごはもとより皇族こうぞくであっても下馬げばしなければならない(皇族こうぞく下馬げば)が、久世くぜ駒形こまがた稚児ちご八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいはいっても下馬げばせず騎馬きばのまま本殿ほんでんりつける。

うまちょう稚児ちご

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むか提灯ぢょうちん花傘はながさ巡行じゅんこうにはしろ化粧けしょうをしてカラフルな水干すいかん少年しょうねん3めいうまちょう稚児ちご(うまおさちご)としてうまって登場とうじょうする。

各種かくしゅ古典こてん芸能げいのう

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祇園祭ぎおんまつりなかでは様々さまざま古典こてん芸能げいのう上演じょうえんされる。

鷺舞さぎまい

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鷺舞さぎまい(さぎまい)はしろきぬはねまとい、雌雄しゆうさぎふんした成人せいじん男性だんせい2にん囃子はやしわせて優雅ゆうがおど郷土きょうど芸能げいのうやく600ねんまえ存在そんざいした「かささぎぼこ」のまわりでわれていたが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき途絶とだえた[43][44]。1956ねん昭和しょうわ31ねん)に鷺舞さぎまい保存ほぞんかいが、祇園祭ぎおんまつり鷺舞さぎまいつたえていた島根しまねけん津和野つわのまちからまいぎゃく輸入ゆにゅうして復活ふっかつさせ[44]経費けいひ氏子うじこ組織そしききよし講社こうしゃ)が負担ふたんして八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい奉納ほうのうされていた。鷺舞さぎまい山口やまぐち潟上かたがみにもある。浅草寺せんそうじ台東たいとう)の「白鷺しらさぎまい」も、これを参考さんこうにした。

通常つうじょうは、宵山よいやまの7がつ16にち山鉾巡行やまぼこじゅんこう神幸しんこうさいの7がつ17にち花傘はながさ巡行じゅんこう還幸かんこうさいの7がつ24にちの3日間にちかん八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい奉納ほうのうされるが、2006ねん平成へいせい18ねん以降いこう鷺舞さぎまい保存ほぞんかい神社じんじゃ氏子うじこ組織そしき対立たいりつふかまったためにおこなわれず、かわりに、次項じこうさぎおど奉納ほうのうされた。なお、2019ねんれい元年がんねん)に祇園祭ぎおんまつり1150周年しゅうねんしゅくして津和野つわのまちから鷺舞さぎまい八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい奉納ほうのうされた[43]ほか、2024ねんれい6ねん)には祇園ぎおんかい鷺舞さぎまいこう前記ぜんきの「鷺舞さぎまい保存ほぞんかい」とはべつ団体だんたい)によって白楽天はくらくてんさん会所前かいしょまえ披露ひろうされている[44]

さぎおど

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上記じょうき鷺舞さぎまいをアレンジしたあたらしい郷土きょうど芸能げいのう上記じょうき同様どうようしろきぬはねまとい、しろ化粧けしょうをした小学生しょうがくせい少年しょうねん少女しょうじょ6めい優雅ゆうが可憐かれんおどる。通常つうじょうは、7がつ10日とおかのおむか提灯ぢょうちん、7がつ16にち宵宮よいみやしんにぎわい奉納ほうのう神事しんじと7がつ24にち花傘はながさ巡行じゅんこう登場とうじょう、2006ねん平成へいせい18ねん以降いこう上記じょうき事情じじょうにより大人おとな鷺舞さぎまい代役だいやくつとめるようになった。さぎおどりは津和野つわのまち潟上かたがみにもある。

小町こまちおど

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元禄げんろく時代じだい起源きげん少女しょうじょおどり。近代きんだいはいって中絶ちゅうぜつしたが、1962ねんしろみね神宮じんぐう復活ふっかつした。祇園祭ぎおんまつりでは、7がつ10日とおかのおむか提灯ぢょうちんでは小学生しょうがくせい少女しょうじょが、7がつ24にち花傘はながさ巡行じゅんこうでは祇園ぎおんひがしげい舞妓まいこが、いずれも元禄げんろくふう衣装いしょう髪型かみがたしろ化粧けしょうで、典雅てんが可憐かれんおどる。

祇園祭ぎおんまつり音頭おんど

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1957ねん昭和しょうわ32ねん)に祇園祭ぎおんまつり復活ふっかつ10周年しゅうねん記念きねんして創作そうさく。7がつ10日とおかのおむか提灯ぢょうちん、7がつ16にち宵宮よいみやしんにぎわい奉納ほうのう神事しんじに、一般いっぱんてきなおぞろいの浴衣ゆかたしろ化粧けしょうをした小学生しょうがくせい少女しょうじょ多数たすう可憐かれんおどる。

石見いわみ神楽かぐら

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石見いわみ神楽かぐらは、石見いわみ地方ちほうつたわるエンターテインメントせいたか神楽かぐら。1973ねん昭和しょうわ48ねん以降いこう毎年まいとし通常つうじょう7がつ16にち宵山よいやま八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい奉納ほうのうされ、祭神さいじんスサノオヤマタノオロチ退治たいじをはじめ八坂神社やさかじんじゃ京都きょうとにも所縁しょえんある神話しんわげきえんじられる。

まんとうおど

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当時とうじ八坂神社やさかじんじゃ名誉めいよ宮司ぐうじ作詞さくし歌詞かしもとに1968ねん創作そうさく。7月24にち花傘はながさ巡行じゅんこうに、一般いっぱんてきなおぞろいの浴衣ゆかたしろ化粧けしょうをした小学生しょうがくせい少女しょうじょ多数たすう可憐かれんおどる。

花街はなまちおど

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市内しないには花街はなまち(はなまち)が6ヶ所かしょあるが、そのうち神社じんじゃちかい4ヶ所かしょのうち、2ヶ所かしょずつが交互こうご花傘はながさ巡行じゅんこうおどりを披露ひろうする。2015ねん平成へいせい27ねん)は花傘はながさ巡行じゅんこう50周年しゅうねん記念きねんして、すべての花街はなまち参加さんかした。

西暦せいれきすうねん
  • 祇園ぎおんひがし
    • 小町こまちおど
    上記じょうき参照さんしょう
  • 先斗ぽんとまち
    • 歌舞伎かぶきおど
    出雲いずも阿国おくに故事こじちなむ。しろ着物きものあかはかましろ千早ちはやで、かさこうむる。
西暦せいれき偶数ぐうすうねん
  • 祇園ぎおんかぶと
    • 雀踊すずめおど
    童話どうわしたりすずめ』をテーマとしたうたにあわせてう。あか襦袢じばんうえにおぞろいの浴衣ゆかた着用ちゃくようがさこうむる。
  • 宮川みやがわまち
    • コンチキ音頭おんど
    白地しろじ薄物うすもの着物きもの白地しろじあか博多帯はかたおび後見こうけんむすびにする。うちわをっておどる。

祇園ぎおん田楽でんがく

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祇園ぎおん田楽でんがく」は、平安へいあん時代じだい平清盛たいらのきよもり田楽でんがく奉納ほうのう故事こじもとづいて復元ふくげんされた。那智なち田楽でんがくなどを参考さんこうに、8にん女性じょせいからなる八乙女やおとめ(やおとめ)のおどりとして、鷺舞さぎまい保存ほぞんかい神澤かみさわ和明かずあき演劇えんげきがく)が振付ふりつけした。1978ねん昭和しょうわ53ねん)から帝塚山短期大学てづかやまたんきだいがく学生がくせいサークル「田楽でんがく同好どうこうかい」の女子じょし学生がくせいによりえんじられてきた。1998ねんどう短大たんだい規模きぼ縮小しゅくしょうによって「田楽でんがく同好どうこうかい」の活動かつどう困難こんなんになることを見越みこした同好どうこう会長かいちょうが、帝塚山大学てづかやまだいがく教授きょうじゅ森永もりなが道夫みちお大学院だいがくいん人文じんぶん科学かがく研究けんきゅうちょう演劇えんげきがく)を訪問ほうもんし、大学だいがく活動かつどう継承けいしょうするはこびとなった。それにより、1999ねん平成へいせい11ねん)、森永もりなが顧問こもんとして、帝塚山大学てづかやまだいがくにおいて学生がくせい同好どうこうかい(のちに学生がくせいサークルに昇格しょうかく)として「田楽でんがく」が設立せつりつされ、どう短大たんだいの「田楽でんがく同好どうこうかい」の活動かつどういだ。「田楽でんがく」のげの実務じつむには大学院生だいがくいんせいがあたり、森永もりなが講義こうぎけた大学院生だいがくいんせい学生がくせいらをメンバーにつのった。おどしゅ女性じょせいかぎられたが、男性だんせい提灯持ちょうちんもちなどのやく行事ぎょうじ参加さんかした。宵山よいやまの7がつ16にち山鉾巡行やまぼこじゅんこう神幸しんこうさいの7がつ17にち八坂神社やさかじんじゃ境内けいだい奉納ほうのうし、7がつ24にち花傘はながさ巡行じゅんこう行列ぎょうれつ参加さんかしたのち八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいでも奉納ほうのうしていたが、鷺舞さぎまい同様どうように、2006ねん平成へいせい18ねん)の祭礼さいれい最後さいご断絶だんぜつした。

ろくとき念仏ねんぶつおど

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7がつ24にち花傘はながさ巡行じゅんこう久世くぜろくとき保存ほぞんかい参加さんかしている。

武者むしゃ行列ぎょうれつ

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1974ねん昭和しょうわ49ねん)まで、神輿しんよ渡御とぎょにあたって六原ろくはら弓矢ゆみやまちつる召(つるめそ)という武者むしゃ行列ぎょうれつしていた。甲冑かっちゅうまとい、ほおとうをつけてかおかくし、こし綿めんりのふとひもむすんだ姿すがたで、中世ちゅうせいまで祇園ぎおんしゃ役人やくにんとして洛中らくちゅうをふるったいぬ神人しんじん伝統でんとう継承けいしょうしたものであった。戦後せんごは、地元じもと旧家きゅうか中学生ちゅうがくせいぐらいの世代せだい男子だんし参加さんかしていた。現在げんざい神輿しんよ渡御とぎょ期間きかんに、地元じもと旧家きゅうか甲冑かっちゅう陳列ちんれつおこなわれている。

女人にょにん禁制きんせいとその緩和かんわ

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町家まちやより長刀ちょうとうぼこのぞむ。婦人ふじんならびに忌中きちゅうものほこじょうにはがれない。

江戸えど時代じだい初期しょきまで女性じょせい参加さんかしていたことをしめ資料しりょうのこっているが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう女人にょにん禁制きんせいとされてきた。これは女人にょにん禁制きんせいいて女性じょせいほこのぼったさいほこたおれて怪我人けがにんたり巡行じゅんこう不可能ふかのうになったことがなんかあったためとされる。現在げんざいも、ほとんどの山鉾やまぼこ巡行じゅんこう搭乗とうじょうしゃしゅ女人にょにん禁制きんせいまもっている。宵山よいやま期間きかんほこ拝観はいかん搭乗とうじょう女人にょにん禁制きんせい解除かいじょすすみ、現在げんざい長刀鉾なぎなたぼこ放下ほうかぼこのぞ女性じょせい搭乗とうじょうできる。また、女性じょせい参加さんか希望きぼうする山鉾やまほこまち保存ほぞんかい)がいくつかあり、2001ねん平成へいせい13ねん)にかく山鉾やまほこまち判断はんだん祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ連合れんごうかいとどるというかたち女性じょせい参加さんか容認ようにんする方針ほうしんまり、南観音みなみかんおんさんで2めい函谷鉾かんこぼこで3めい女性じょせい囃子方はやしかた巡行じゅんこう参加さんかみとめられた。

なお、女性じょせいのみによる祇園祭ぎおんまつり参加さんか目指めざして、1996ねん平成へいせい8ねん)に「平成へいせいおんなぼこ清音せいおんかい(へいせいおんなぼこさやねかい)」が結成けっせいされ、囃子方はやしかたばかりでなく自前じまえほこ建造けんぞうするなど、活発かっぱつ活動かつどうつづけている。しかし「平成へいせいおんなぼこ」の山鉾巡行やまぼこじゅんこうへの参加さんかは、前例ぜんれいのない新規しんきほこであることや、地元じもととなる町内ちょうないかいやどりきまちがないことなど、おおきな問題もんだいがまだあることから、実現じつげん困難こんなんである。

絵画かいが資料しりょう

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横山よこやま華山かざん祇園ぎおん祭礼さいれいまき
江戸えど後期こうき画家がか横山よこやま華山かざん作品さくひん全長ぜんちょうやく30メートル[45]山鉾やまぼこぜん33精緻せいち模写もしゃしたもの[45]山鉾やまぼこぜん33さい後尾こうび大船おおぶねぼこ幕末ばくまつ戦火せんか大半たいはん焼失しょうしつしており、2014ねん平成へいせい26ねん)に150ねんぶりに復帰ふっきした大船おおぶねぼこ再現さいげん考証こうしょう手掛てがかりになった[45]
横山よこやま華山かざん祇園祭ぎおんまつりぼこ調ちょうまき
横山よこやま華山かざんの「祇園ぎおん祭礼さいれいまき」の下絵したえとされる作品さくひん[46]。2000ねん平成へいせい12ねん)3がつ京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく寄付きふけたが、2022ねんれい4ねん)5がつ行方ゆくえ不明ふめいになっていることが判明はんめいした[46]

映像えいぞう資料しりょう

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公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん京都きょうと文化ぶんか観光かんこう資源しげん保護ほご財団ざいだん京都きょうと文化財ぶんかざい保護ほごによる「京都きょうと歴史れきし文化ぶんか 映像えいぞうライブラリー」において記録きろく映像えいぞう公開こうかいされている。

テレビ放送ほうそう

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なま中継ちゅうけい 復活ふっかつ!祇園祭ぎおんまつり
2022ねんれい4ねん)に総合そうごう関西かんさいローカル)、BSプレミアムBS4K放送ほうそう。2構成こうせいになっており、「だい1」が16にちまえさい宵山よいやま、「だい2」が17にちまえさい山鉾巡行やまぼこじゅんこう中継ちゅうけい
なま中継ちゅうけい 祇園祭ぎおんまつりよる
2023ねんれい5ねん)にBSプレミアム、BS4Kで放送ほうそう。22にちのちさいよいやま中継ちゅうけい

民放みんぽう

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祇園祭ぎおんまつり山鉾巡行やまぼこじゅんこう
京都きょうと放送ほうそう(KBS京都きょうと制作せいさくBS11[注釈ちゅうしゃく 8]つうじて全国ぜんこく放送ほうそうされている。

映画えいが

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小説しょうせつ

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日本にっぽん全国ぜんこく祇園祭ぎおんまつり

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各地かくち祭礼さいれいへの影響えいきょう伝播でんぱ

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祇園祭ぎおんまつりのうち、とりわけ(広義こうぎの)山車だし囃子はやしといった山鉾やまぼこ巡行じゅんこうかんする要素ようそは、これがにおいて町衆まちしゅう町人ちょうにん階層かいそうおこなもっとはなやかな祭礼さいれい行事ぎょうじであるところから、そのつよ影響えいきょう全国ぜんこく各地かくち祭礼さいれい、とりわけ城下町じょうかまちなどの町人ちょうにんおこな祭礼さいれいひろ伝播でんぱしている。また、祇園祭ぎおんまつりという名称めいしょう自体じたいも、どう祭神さいじんである牛頭ごず天王てんのうスサノオまつ各地かくち社寺しゃじ祭礼さいれい名称めいしょうとして、また、たんなつまつりの名称めいしょうとしても全国ぜんこく各地かくちひろもちいられている。

全国ぜんこく各地かくちおも祇園祭ぎおんまつり

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どういち祭神さいじんまつ祭礼さいれいや、祇園祭ぎおんまつり影響えいきょうられる祭礼さいれい網羅もうらてきにここに列挙れっきょすることは、そのかずがあまりにもおおすぎて現実げんじつてきではないので、ここでは、祇園祭ぎおんまつりという名称めいしょうをもつ各地かくち祭礼さいれい一部いちぶ、およびあきらかに祇園祭ぎおんまつりきわめてつよ影響えいきょうけている各地かくち祭礼さいれい一部いちぶ例示れいじすることとする。牛頭ごず天王てんのう、スサノオをまつ祭礼さいれいについては天王てんのうさい参照さんしょうのこと。また、祇園祭ぎおんまつり具体ぐたいてき影響えいきょうについては、各地かくち祭礼さいれい記事きじ参照さんしょうのこと。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 近年きんねん、マスコミなどで「さきまつり」などとむケースがあるが、「さきまつり」と「の」がはいるのが伝統でんとうてき正式せいしき呼称こしょうである。
  2. ^ 狂言きょうげんくじ罪人ざいにん』では、京都きょうとまち々が毎年まいとし趣向しゅこうらしてやまつくもの考案こうあんする場面ばめんえがかれており、山鉾巡行やまぼこじゅんこう草創そうそうには、人形にんぎょうではなく扮装ふんそうしたひとり、やま題材だいざい固定こていされておらず、流動的りゅうどうてきであったことがうかがえる。
  3. ^ 祇園ぎおんしゃだいじゅうによれば、応仁おうにんらん以前いぜんには58山鉾やまぼこがあり、「弓矢ゆみやぼこ」「かぶとぼこ」「達磨だるまぼこ」「地蔵じぞうぼこ」「韋駄天山あまやま」「弁慶べんけい衣川きぬがわさん」「鵜飼うかい舟山ふなやま」「大鋸おが引山ひきやま」「那須与一なすのよいちさん」「いずみしょう二郎じろうさん」「自然しぜん居士こじさん」「朝比奈あさひなもんさん」「てん鼓山つづみやま」などの廃絶はいぜつした山鉾やまぼこ列記れっきされている。このなかにはいまでは山鉾やまぼこさないまちふくまれている。
  4. ^ 日曜にちよう以外いがい祇園祭ぎおんまつり公式こうしき行事ぎょうじではない。
  5. ^ 宵山よいやま童歌わらべうたは「○○のおまもりはこれよります。つねません今晩こんばんかぎり。ご信心しんじんのおん方様かたさまは、けておかえりなされませ。蝋燭ろうそくいちちょうけんじられましょう」(○○(神様かみさま)のおまもりはここで発売はつばいしています。いつもっているものではありません。宵山よいやま期間きかんだけです。信心しんじんみなさんはってってくださいな。蝋燭ろうそく一本いっぽんどうぞ)というような、おまもり・蝋燭ろうそく縁起物えんぎものとう販売はんばい促進そくしん目的もくてきとしてた内容ないようである。少女しょうじょたちの可愛かわいらしさで見物けんぶつきゃく財布さいふひもゆるめ、子供こどもには商売しょうばい真似事まねごとおしえるという、すぐれた社会しゃかい教育きょういく機会きかいとなっている。昼間ひるま少女しょうじょたちが小学校しょうがっこうっているため大人おとなしかおらず、童歌わらべうたはエンドレステープをながしているだけのことがおおいが、夕方ゆうがた以降いこうには少女しょうじょたちが待機たいきしており、随時ずいじうたす。日曜日にちようびひるから待機たいきすることがおおい。やまによっては少年しょうねんうたくわわることがある。童歌わらべうた元祖がんそは霰天神山かみやまといわれている。
  6. ^ 江戸えど時代じだい後期こうきあやかさぼこほこしゃ形式けいしき改造かいぞうされたとき、網代あじろ葺の唐破風からはふ屋根やね形式けいしきであった。
  7. ^ 菊水鉾きくすいほこ音頭取おんどとりさむらい烏帽子えぼしはかま着用ちゃくようきくがた団扇うちわつが、江戸えど時代じだいには大阪おおさか天神祭てんじんまつりの催太鼓たいこの「願人がんにん」がかぶる「頭巾ずきん」のようなものつけたこともあったらしい。
  8. ^ 2021ねんれい3ねん)まではBSフジ。KBS京都きょうとはフジテレビ系列けいれつではないが資本しほん提携ていけい関係かんけいにある。

出典しゅってん

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  1. ^ ちゅう山鉾やまぼこ特定とくてい京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく日本にっぽん伝統でんとう音楽おんがく研究けんきゅうセンターのサイトによる。
  2. ^ 大辞泉だいじせん
  3. ^ きょうのおたから祇園祭ぎおんまつり 立命館大学りつめいかんだいがく、2008ねん
  4. ^ 京都きょうとまつりけんぼこブログ
  5. ^ 植木うえきこうせんやまほこ屋台やたいまつり〜風流ふうりゅう開花かいか』(白水しろみずしゃ、2001ねんだいいちへんだいしょう
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    • ぜんまつりぼこ曳山ひきやま長刀鉾なぎなたぼこ(11.1)・函谷鉾かんこぼこ(11.39)・月鉾つきほこ(11.88)・菊水鉾きくすいほこ(10.31)・にわとりぼこ(9.42)・放下ほうかぼこ(10.32)・船鉾ふなぼこ(8.41)・岩戸山いわとやま(8.25) 【かさぼこあやかさぼこ(0.36)・四条しじょうかさぼこ(0.4) 【まえさい舁山】郭巨山かくきょやま(0.69)・霰天神山かみやま(0.65)・占出山うらでやま(0.51)・はくきばさん(0.52)・芦刈山あしかりやま(0.64)・木賊山とくさやま(0.67)・あぶら天神山てんじんやま(0.55)・太子山たいしやま(0.59)・蟷螂山とうろうやま(1.22)・山伏山やまぶしやま(0.6)・白楽天はくらくてんさん(0.71)・孟宗もうそうさん(0.54)・保昌やすまささん(0.67)
    • こうさい曳山ひきやまきた観音山かんのんやま(9.27)・南観音みなみかんおんさん(9.54)【こうさい舁山】・橋弁慶はしべんけいさん(0.8)・きよしみょうさん(0.78)・鈴鹿すずかさん(0.7)・役行者えんのぎょうじゃさん(0.84)・くろぬしやま(0.67)・鯉山こいやま(0.81)・八幡やはたさん(0.75)
  33. ^ かく山鉾やまぼこ紹介しょうかい 占出山うらでやま 祇園祭ぎおんまつり - 京都きょうと新聞しんぶん、2017ねん12月6にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 近藤こんどうゆたか祇園祭ぎおんまつり鉾立ほこたて細部さいぶ意匠いしょう〜』(大河たいが出版しゅっぱん 1970ねん
  • 祇園祭ぎおんまつりはな屏風びょうぶさいてん』(京都きょうと美術館びじゅつかん 1975ねん
  • 松田まつだはじめ祇園祭ぎおんまつり細見さいけん山鉾やまぼこへん〉』(郷土きょうど行事ぎょうじかい 1977ねん
  • 写真しゃしん記録きろく 祇園祭ぎおんまつり』(祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ連合れんごうかい 1978ねん
  • 祇園祭ぎおんまつり町衆まちしゅうとしきたり〜』(祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ連合れんごうかい 1979ねん
  • 月刊げっかん太陽たいよう」1985ねん7がつごう特集とくしゅう祇園祭ぎおんまつり」(平凡社へいぼんしゃ
  • きょう名所めいしょ図絵ずえ祇園山ぎおんやまぼこ』(岩崎いわさき美術びじゅつしゃ 1990ねん) - 1757ねんたかられき7ねんばん祇園ぎおん御霊みたまかいほそ」にもとづく田中たなかみどりべにへん京都きょうと祇園ぎおんかい古代こだい山鉾やまぼこ図譜ずふ』の図版ずはん収録しゅうろく
  • やままちぼこまち」(やまちょう ほこまち)特別とくべつ記念きねんごう祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ連合れんごうかい 1991ねん
  • 京都きょうと 祇園祭ぎおんまつりのすべて』(婦人ふじんほう[あるすぶっくす] 1993ねん
  • 祇園祭ぎおんまつりだいてん山鉾やまぼこ名宝めいほう中心ちゅうしんに〜』(祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ連合れんごうかい京都きょうと京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん〉 1994ねん
  • 植木うえきこうせん中田なかたあきら祇園祭ぎおんまつり』(保育ほいくしゃ[カラーブックス] 1996ねん
  • 祇園祭ぎおんまつりよしまつりささえたひとわざ〜』(京都きょうと自治じちひゃく周年しゅうねん記念きねん特別とくべつてん京都きょうと美術館びじゅつかん〉 1998ねん
  • 島田しまだ崇志たかし写真しゃしん祇園祭ぎおんまつりのすべて』(光村みつむら推古書院しょいん 2006ねん
  • 京都きょうと祇園祭ぎおんまつり手帳てちょう』(河原かわはら書店しょてん[手帳てちょうブック] 2007ねん
  • 祇園祭ぎおんまつりのひみつ』(白川しらかわ書院しょいん[月刊げっかん京都きょうとうんちくシリーズ] 2008ねん
  • 福井ふくい秀一ひでかず福井ふくいぬきへん祇園祭ぎおんまつり山鉾巡行やまぼこじゅんこう平成へいせいばん』(CDばん 2009ねん
  • 『(写真しゃしんでたどる)祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこ行事ぎょうじ近代きんだい』(京都きょうと文化財ぶんかざいブックスだい25しゅう京都きょうと文化財ぶんかざい保護ほご 2011ねん
草創そうそう以来いらい祇園祭ぎおんまつりかんするもっとくわしい年表ねんぴょう収録しゅうろくされている。

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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ウィキニュースに関連かんれん記事きじがあります。女子じょし学生がくせい250にんほこき…京都きょうと祇園祭ぎおんまつり ウィキトラベルには、祇園祭ぎおんまつりかんする旅行りょこうガイドがあります。