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益子ましこまち

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ましこまち ウィキデータを編集
益子ましこまち
益子町旗 益子町章
益子ましこまちはた 益子ましこまちあきら
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 関東かんとう地方ちほう
都道府県とどうふけん 栃木とちぎけん
ぐん 芳賀はがぐん
市町村しちょうそんコード 09342-4
法人ほうじん番号ばんごう 5000020093424 ウィキデータを編集
面積めんせき 89.40km2
そう人口じんこう 20,744ひと [編集へんしゅう]
推計すいけい人口じんこう、2024ねん5がつ1にち
人口じんこう密度みつど 232ひと/km2
隣接りんせつ自治体じちたい 真岡しんおか芳賀はがぐん市貝いちかいまち茂木もぎまち
茨城いばらきけん桜川さくらかわ
まち アカマツ
まちはな ヤマユリ
まちとり ウグイス
益子ましこまち役場やくば
町長ちょうちょう 廣田ひろたしげる十郎じゅうろう
所在地しょざいち 321-4293
栃木とちぎけん芳賀はがぐん益子ましこまち大字だいじ益子ましこ2030
北緯ほくい3628ふん02びょう 東経とうけい14005ふん36びょう / 北緯ほくい36.46733 東経とうけい140.09336 / 36.46733; 140.09336座標ざひょう: 北緯ほくい3628ふん02びょう 東経とうけい14005ふん36びょう / 北緯ほくい36.46733 東経とうけい140.09336 / 36.46733; 140.09336
外部がいぶリンク 公式こうしきウェブサイト

益子町位置図

/ まちむら

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益子ましこまち(ましこまち)は、栃木とちぎけん南東なんとう位置いちする芳賀はがぐんまち江戸えど時代じだい末期まっきから陶器とうき産地さんちとなり、昭和しょうわ濱田はまだ庄司しょうじ活動かつどうによって著名ちょめいになった益子ましこしょうられる[1]

まちはなはヤマユリ、まちはアカマツ、まちとりはウグイス。それぞれ1977ねん制定せいていされた。真岡しんおかへの通勤つうきんりつは21.3%、宇都宮うつのみやへの通勤つうきんりつは12.0%(いずれも平成へいせい22ねん国勢調査こくせいちょうさ)。

地理ちり[編集へんしゅう]

益子ましこまち中心ちゅうしん周辺しゅうへん空中くうちゅう写真しゃしん画像がぞうひだり下方かほう益子ましこえきえきからひがし方向ほうこう益子ましこ町並まちなみがつづく。さらひがし画像がぞう右側みぎがわ中央ちゅうおう付近ふきんが、益子ましこだい陶器とうき開催かいさいされる陶芸とうげいてんかま集中しゅうちゅうするエリアである。2022ねん5がつ19にち撮影さつえいの2まい合成ごうせい作成さくせい国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

関東平野かんとうへいやきた位置いちする。小貝川こかいがわまち西側にしがわきたからみなみへとながれ、その河岸かわぎし平野へいやまちだい部分ぶぶんめる。まち南部なんぶ茨城いばらきけん県境けんきょうせっし、丘陵きゅうりょうとなっている。町内ちょうない最高さいこうてん標高ひょうこう533mの雨巻山あままきざんである。

隣接りんせつする自治体じちたい[編集へんしゅう]

歴史れきし[編集へんしゅう]

益子ましこ古刹こさつ西明寺さいみょうじ伝承でんしょうは、西明寺さいみょうじ737ねん天平てんぺい9ねん行基ぎょうき創建そうけんになり、きのゆう麻呂まろ建立こんりゅうしたとする。10世紀せいきには、宇都宮うつのみや郎党ろうとう益子ましこ勢力せいりょくった。益子ましこきのしょうし、西明寺さいみょうじじょう本拠ほんきょとした。平安へいあん末期まっきから室町むろまち初期しょきにかけて、建立こんりゅうされた寺社じしゃ益子ましこまちにはよくのこっている。みなもと頼朝よりとも奥州おうしゅう藤原ふじわら討伐とうばつへいこすと、益子ましこただしじゅう宇都宮うつのみや郎党ろうとうとして戦功せんこうげ、もう一人ひとり宇都宮うつのみや郎党ろうとうとともに、頼朝よりともからみなもとはたである白旗しらはた一流いちりゅう下賜かしされた。鎌倉かまくらから南北なんぼくあさ時代じだいにかけて、益子ましこ宇都宮うつのみや郎党ろうとうとしてよく活躍かつやくした。益子ましこには西明寺さいみょうじじょうはじめ、七井なないじょうなど、益子ましこしろとりできずかれた。南北なんぼくあさ動乱どうらんのとき宇都宮うつのみや北朝ほくちょうにつくと、みなみ朝方あさがた将軍しょうぐん春日しゅんじつあらわ常陸ひたちこく本拠ほんきょとして、1339ねん益子ましこめた。これはのち撃退げきたいされたが、1351ねんふたた益子ましこ戦場せんじょうとなり、西明寺さいみょうじ伽藍がらん焼失しょうしつした。1394ねん益子ましこかつただし西明寺さいみょうじ堂宇どうう再建さいけんした。ついで1492ねんには楼門ろうもん1538ねん天文てんもん7ねん)には仏塔ぶっとう益子ましこむねにより再建さいけんされた。しかし戦国せんごくには益子ましこ宇都宮うつのみや対立たいりつすることがおおくなった。いえむね家督かとくいだのちは、隣接りんせつする領主りょうしゅ益子ましことのあらそいがし、1583ねん益子ましこしげるつないちでんによればいえむねおとうと)は宇都宮うつのみやそむき、結果けっか、1589ねん宇都宮うつのみやによって益子ましこ西明寺さいみょうじじょうほろびることとなった。

江戸えどには那須なす黒羽くろははん大関おおぜきりょうとしてりょうされ、幕末ばくまついたった。「下之庄しものしょう」といわれ、陣屋じんやかれた。1871ねん7がつ廃藩置県はいはんちけんのちは、黒羽くろばねけんから11月に宇都宮うつのみやけん統合とうごうされ、1873ねん宇都宮うつのみやけん栃木とちぎけん統合とうごうされるとともに、栃木とちぎけん帰属きぞくした。1889ねん町村ちょうそんせい施行しこうともなって益子ましこむら七井なないむら田野たのむら成立せいりつし、1894ねんには益子ましこむら益子ましこまちとなった。

1910ねん(明治めいじ43ねん軽便鉄道けいべんてつどうほう公布こうふされると、鉄道てつどういんいくつかの新規しんき軽便けいべんせん着工ちゃっこう計画けいかくのなかに下館しもだて七井なないむす真岡線もおかせんふくめた。翌年よくねんには工事こうじ開始かいしされ、1912ねん4がつ1にち下館しもだて真岡もおかあいだ部分ぶぶん開業かいぎょうした。ついで1913ねん7がつ11にちには真岡もおか七井なないあいだ開業かいぎょうし、計画けいかくされた全線ぜんせん開通かいつうした。のちに、烏山からすやままちげん那須なす烏山うざん)と茂木もぎまちふたつから、七井なないからそれぞれのまちへの延伸えんしん請願せいがんされ、誘致ゆうち合戦かっせん政党せいとう政治せいじとなった。茂木もぎまち地盤じばんとする政友せいゆう会議かいぎいん衆議院しゅうぎいん当選とうせんしたため、最終さいしゅうてき七井なないから茂木もきへの延伸えんしんおこなわれた。

1954ねん昭和しょうわ29ねん6月1にちには、益子ましこまち七井なないむら田野たのむら合併がっぺいし、益子ましこまちとなった。

いわゆる「平成へいせいだい合併がっぺい」で益子ましこまち芳賀はが地区ちく合併がっぺい協議きょうぎかい参加さんか近隣きんりん自治体じちたいとの合併がっぺい協議きょうぎしていた。しかし2004ねん6がつ住民じゅうみんから反対はんたいつよかった茂木もぎまち離脱りだつ表明ひょうめい、これを合併がっぺい協議きょうぎ自体じたい不調ふちょうとなり、8がつ初頭しょとうには協議きょうぎかい廃止はいし合意ごういた。8月24にち町議会ちょうぎかい合併がっぺい協議きょうぎかい廃止はいし議決ぎけつし、知事ちじへのとどて、同月どうげつ31にち合併がっぺい協議きょうぎかい廃止はいしされた。

益子ましこしょう[編集へんしゅう]

益子ましこしょうはいわゆる御家おいえしょうのひとつであり、1852ねんよしみひさしねん大塚おおつかあきら三郎さぶろうによってはじめられた。笠間かさま久野くのかま修行しゅぎょうし、益子ましこもちいて瀬戸物せとものこうとした大塚おおつかあきら三郎さぶろうに、藩主はんしゅ大関おおぜきぞうあきらは、益子ましこ陣屋じんや裏山うらやまのふもと、根古屋ねごや土地とちあたえた。生産せいさんりょう着実ちゃくじつし、1855ねん御用ごようかまとなった。つくられたのはおも台所だいどころようざつであり、鬼怒川きぬがわ水運すいうん利用りようして江戸えど販売はんばいされた。はん財政ざいせい再建さいけんのため、益子ましこしょう奨励しょうれいした。

はん庇護ひごうしなったのち益子ましこでは積極せっきょくてき益子ましこしょうかま経営けいえいし、需要じゅようこたえつつ、みち拡大かくだいしようとする。当時とうじ土瓶どびんきがさかんであり、輸出ゆしゅつ土瓶どびん製作せいさく好評こうひょうだったとつたえられる。1894ねん益子ましこ陶器とうき協同きょうどう組合くみあい結成けっせいされ、またのちには益子ましこ陶器とうき伝習でんしゅうしょもおかれた。

じつ用品ようひんおもにした益子ましこしょう転機てんきおとずれるのは大正たいしょうである。民芸みんげい運動うんどう陶芸とうげい濱田はまだ庄司しょうじ益子ましこみ、益子ましこかした独特どくとく作品さくひんつくしていった。濱田はまだのちくに重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ(いわゆる「人間にんげん国宝こくほう」)に認定にんていされた。

現在げんざい益子ましこまちは「益子ましこしょう産地さんち」として芸術げいじゅつ作品さくひんから民芸みんげいひん、そしてにち用品ようひんとしての陶器とうきなど、ありとあらゆる陶器とうき制作せいさく販売はんばいしている。そして「益子ましこ陶器とうき」がはるあきとしかい開催かいさいされている。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

行政ぎょうせい区域くいき変遷へんせん[編集へんしゅう]

変遷へんせん年表ねんぴょう
益子ましこまちいき変遷へんせん年表ねんぴょう
とし 月日つきひ げん益子ましこまちいき関連かんれんする行政ぎょうせい区域くいき変遷へんせん
1889ねん明治めいじ22ねん 4がつ1にち 町村ちょうそんせい施行しこうにより、以下いか町村ちょうそん発足ほっそく[2][3]
  • 益子ましこむら益子ましこむら生田目なばためむら上大羽かみおおばむら下大羽しもおおばむらはなわむら
  • 七井なないむら七井なないむら大沢おおさわむら小宅おやけむら芦沼あしぬまむら北中きたじゅうむら大平おおひらむら
  • 田野たのむら長堤ながつつみむら小泉こいずみむら梅ケ内うめがうちむら本沼もとぬまむら山本やまもとむら前沢まえさわむら大郷戸おおごうどむら上山かみのやまむら東田井ひがしだいむら
1894ねん明治めいじ27ねん 3月1にち 益子ましこむら町制ちょうせい施行しこう益子ましこまちになる。
1954ねん昭和しょうわ29ねん 8がつ1にち 益子ましこまち七井なないむら田野たのむら合併がっぺい益子ましこまち発足ほっそく
変遷へんせんひょう
益子ましこまちまちいき変遷へんせんひょう
1868ねん
以前いぜん
明治めいじ元年がんねん - 明治めいじ22ねん 明治めいじ22ねん
4がつ1にち
明治めいじ22ねん - 昭和しょうわ64ねん 平成へいせい元年がんねん - 現在げんざい 現在げんざい
益子ましこむら 益子ましこむら 明治めいじ27ねん3がつ1にち
町制ちょうせい
昭和しょうわ29ねん8がつ1にち
益子ましこまち
益子ましこまち 益子ましこまち
生田目なばためむら
上大羽かみおおばむら
下大羽しもおおばむら
はなわむら
七井なないむら 七井なないむら
大沢おおさわむら
小宅おやけむら
芦沼あしぬまむら
中村なかむら 明治めいじ12ねん
北中きたじゅうむら
大平おおひらむら
長堤ながつつみむら 田野たのむら
小泉こいずみむら
梅ケ内うめがうちむら
本沼もとぬまむら
山本やまもとむら
前沢まえさわむら
大郷戸おおごうどむら
上山かみのやまむら
東田井ひがしだいむら

人口じんこう[編集へんしゅう]

益子ましこまち全国ぜんこく年齢ねんれいべつ人口じんこう分布ぶんぷ(2005ねん 益子ましこまち年齢ねんれい男女だんじょべつ人口じんこう分布ぶんぷ(2005ねん
紫色むらさきいろ益子ましこまち
緑色みどりいろ日本にっぽん全国ぜんこく
青色あおいろ男性だんせい
赤色あかいろ女性じょせい
益子ましこまち(に相当そうとうする地域ちいき)の人口じんこう推移すいい
1970ねん昭和しょうわ45ねん 19,844にん
1975ねん昭和しょうわ50ねん 20,657にん
1980ねん昭和しょうわ55ねん 22,104にん
1985ねん昭和しょうわ60ねん 23,395にん
1990ねん平成へいせい2ねん 24,317にん
1995ねん平成へいせい7ねん 25,255にん
2000ねん平成へいせい12ねん 25,685にん
2005ねん平成へいせい17ねん 25,080にん
2010ねん平成へいせい22ねん 24,348にん
2015ねん平成へいせい27ねん 23,281にん
2020ねんれい2ねん 21,898にん
総務そうむしょう統計とうけいきょく 国勢調査こくせいちょうさより


行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

衆議院しゅうぎいん[編集へんしゅう]

選挙せんきょ 議員ぎいんめい 党派とうはめい 当選とうせん回数かいすう 備考びこう
栃木とちぎけんだい4益子ましこまち小山おやま真岡しんおか下野したのきゅう石橋いしばしまち国分寺こくぶんじまち)、栃木とちぎきゅう大平おおひらまち藤岡ふじおかまち都賀つがまち岩舟いわふねまちいき)、芳賀はがぐん下都賀しもつがぐん 佐藤さとうつとむ 自由民主党じゆうみんしゅとう 8 選挙せんきょ

消防しょうぼう[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • マシコット - 益子ましこまちのイメージキャラクター。

地域ちいき[編集へんしゅう]

大字だいじ町名ちょうめい[編集へんしゅう]

益子ましこ地区ちく

  • 大字だいじ上大羽かみおおば(かみおおば)
  • 大字だいじ下大羽しもおおば(しもおおば)
  • 城内きうちざか(じょうないざか)
  • 大字だいじ生田目なまため(なばため)
  • 大字だいじはなわ(はなわ)
  • 大字だいじ益子ましこ(ましこ)

七井なない地区ちく

  • 大字だいじ芦沼あしぬま(あしぬま)
  • 大字だいじ大沢おおさわ(おおさわ)
  • 大字だいじ大平おおひら(おおひら)
  • 大字だいじ小宅おやけ(おやけ)
  • 大字だいじきたちゅう(きたなか)
  • 大字だいじ七井なない(なない)
  • 七井なない中央ちゅうおう(なないちゅうおう)

田野でんや地区ちく

  • 大字だいじ梅ケ内うめがうち(うめがうち)
  • 大字だいじ大郷戸おおごうど(おおごうど)
  • 大字だいじ上山うえやま(かみやま)
  • 大字だいじ小泉こいずみ(こいずみ)
  • 大字だいじ長堤ちょうてい(ながつつみ)
  • 大字だいじ東田井ひがしだい(ひがしだい)
  • 大字だいじ前沢まえさわ(まえざわ)
  • 大字だいじ本沼もとぬま(もとぬま)
  • 大字だいじ山本やまもと(やまもと)

教育きょういく[編集へんしゅう]

高等こうとう学校がっこう[編集へんしゅう]

中学校ちゅうがっこう[編集へんしゅう]

小学校しょうがっこう[編集へんしゅう]

  • 益子ましこ町立ちょうりつ益子ましこ小学校しょうがっこう
  • 益子ましこ町立ちょうりつ益子ましこ西小学校にししょうがっこう
  • 益子ましこ町立ちょうりつなな小学校しょうがっこう
  • 益子ましこ町立ちょうりつ田野でんや小学校しょうがっこう

特別とくべつ支援しえん学校がっこう[編集へんしゅう]

かつて存在そんざいした学校がっこう[編集へんしゅう]

  • 益子ましこ町立ちょうりつだいはね小学校しょうがっこう(2007ねん3がつ24にち閉校へいこう
  • 益子ましこ町立ちょうりつ小宅おやけ小学校しょうがっこう(2007ねん3がつ24にち閉校へいこう
  • 益子ましこまち立山たてやまほん小学校しょうがっこう(2007ねん3がつ24にち閉校へいこう

文化ぶんか[編集へんしゅう]

益子ましこまち所在しょざいするおも文化ぶんか施設しせつ以下いかのとおり

博物館はくぶつかん美術館びじゅつかんとう[編集へんしゅう]

通信つうしん[編集へんしゅう]

郵便ゆうびん[編集へんしゅう]

郵便ゆうびん番号ばんごう以下いか該当がいとうする。1集配しゅうはいきょく集配しゅうはい担当たんとうする。

郵便ゆうびんきょく[編集へんしゅう]

  • 益子ましこ郵便ゆうびんきょく(07023)
  • 七井なない郵便ゆうびんきょく(07070)
  • 田野でんや郵便ゆうびんきょく(07132)

電話でんわ[編集へんしゅう]

町内ちょうない全域ぜんいき真岡もおかMA管轄かんかつとなり、市外しがい局番きょくばんは「0285」。収容しゅうようきょく以下いかのビルが該当がいとうし、市内しない局番きょくばん以下いかとおり。

  • 益子ましこきょく:70、72

交通こうつう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

真岡もおか鐵道てつどうえきが2つあり、益子ましこえき中心ちゅうしんとなるえきである。七井なないえき町内ちょうないにある。真岡しんおかえき経由けいゆ下館しもだてえき、また茂木もぎえきへとつうじる。

路線ろせんバス[編集へんしゅう]

高速こうそくバス[編集へんしゅう]

道路どうろ[編集へんしゅう]

道路どうろ栃木とちぎけん茨城いばらきけん県庁けんちょう所在地しょざいちむす国道こくどう123ごうまち北部ほくぶ東西とうざい横断おうだんし、会津若松あいづわかまつへとつうじる国道こくどう294ごう南北なんぼく縦断じゅうだんする。米沢よねざわ起点きてんとする国道こくどう121ごうは、益子ましこまち終点しゅうてんとする唯一ゆいいつ国道こくどうで、国道こくどう123ごう交点こうてんのあるまち域内いきない終点しゅうてんとする。また茨城いばらきけん桜川さくらかわへとつうじる道路どうろがある。

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

工業こうぎょう[編集へんしゅう]

以下いか企業きぎょう工場こうじょう立地りっちする。

  • HOYA Technosurgical - 旭光学工業あさひこうがくこうぎょう工場こうじょうとして設立せつりつ[6]合併がっぺいによりHOYA工場こうじょうとなったのち、現在げんざいはHOYAの子会社こがいしゃ工場こうじょうとロジスティクスセンターが立地りっちする。

かつては以下いか企業きぎょう工場こうじょう立地りっちした。

しょく文化ぶんか[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし提携ていけい都市とし[編集へんしゅう]

国内こくない[編集へんしゅう]

海外かいがい[編集へんしゅう]

名所めいしょ祭事さいじ[編集へんしゅう]

祇園祭ぎおんまつり[編集へんしゅう]

益子ましこ祇園祭ぎおんまつりは、毎年まいとし7がつ23にち-7がつ25にちさん日間にちかん八坂神社やさかじんじゃ祭礼さいれいとしておこなわれるまつりで、町内ちょうない氏子うじこ5地区ちく新町しんまち田町たまちうちまち城内きうち道祖土さいどはなわ)と田野でんや地区ちく山本やまもとれる6地区ちく山車だし町内ちょうないあるく。(ただしルートは新町しんまち-道祖土さいどまで)

初日しょにちの23にちには益子焼窯元共販ましこやきがまもときょうはんセンターみなみ駐車ちゅうしゃじょうとう花火はなび披露ひろうされる。

24にちは、江戸えど時代じだいからつたわるまち指定してい無形むけい文化財ぶんかざい関東かんとうさんだいさいの「御神酒おみき頂戴ちょうだいしき(おみきちょうだいしき)」がおこなわれる。

最終さいしゅうの25にちの22から町内ちょうない鹿島かしま神社じんじゃ上覧じょうらんおこなわれる。

2009ねんからはなわ地区ちく山車だし参入さんにゅう

2010ねん山本やまもと地区ちく山車だし祇園祭ぎおんまつりから撤退てったいした。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 西明寺さいみょうじ - 楼門ろうもん三重みえとう本堂ほんどうない厨子ずし(いずれもくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    西明寺さいみょうじ坂東ばんどうさんじゅうさん箇所かしょいち(20ばん札所ふだしょ)であり、その堂塔どうとう関東かんとうさん大仏だいぶつとういちといわれる。また、めずらしい「わら閻魔えんまぞうがある。
  • 地蔵じぞういん - 本堂ほんどうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 円通寺えんつうじ - 表門おもてもんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)のほか、おおくの文化財ぶんかざいゆうする。

国際こくさいチャレンジデーへの参加さんか[編集へんしゅう]

益子ましこまちは2008ねんから国際こくさいチャレンジデー参加さんかしている。

2008ねん5がつ28にち岩手いわてけん軽米かるまいまちとの対戦たいせん圧倒的あっとうてきはつ出場しゅつじょうながら勝利しょうりおさめた。

また2009ねん5がつ27にちに2度目どめチャレンジデーに参加さんか相手あいて広島ひろしまけん竹原たけはら埼玉さいたまけん小鹿野おがのまちとの対戦たいせんで、2度目どめ勝利しょうりたした。

はなのまちづくり[編集へんしゅう]

2009ねん4がつ24にちから「ましこはな博覧はくらんかい」が開催かいさいされた。現在げんざいは「ましこはなのまちづくり」にがれている。

益子ましこまちゆかりの著名ちょめいじん[編集へんしゅう]

出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

益子ましこまちへの移住いじゅうしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 益子ましこしょう ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん
  2. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 9 栃木とちぎけん』、角川書店かどかわしょてん、1984ねん ISBN 4040010906 より
  3. ^ 日本加除出版にほんかじょしゅっぱん株式会社かぶしきがいしゃ編集へんしゅう全国ぜんこく市町村しちょうそんめい変遷へんせん総覧そうらん』、日本加除出版にほんかじょしゅっぱん、2006ねんISBN 4817813180 より
  4. ^ 町民ちょうみんこえ だいいちに」 益子ましこしん町長ちょうちょう広田ひろたはつ登庁とうちょう”. 下野げや新聞しんぶん SOON (2022ねん4がつ20日はつか). 2022ねん4がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ 「321-41xx」地域ちいきもと七井なない郵便ゆうびんきょく管轄かんかつ。2016ねん七井なない郵便ゆうびんきょく集配しゅうはいきょくともなって益子ましこ郵便ゆうびんきょく移管いかん
  6. ^ a b 益子ましこまちへんさん委員いいんかい 1991, p. 1225.
  7. ^ 益子ましこまちへんさん委員いいんかい 1991, p. 1224.
  8. ^ 姉妹しまい都市とし提携ていけい一覧いちらん姉妹しまい都市とし提携ていけいデータ)
  9. ^ a b 島岡しまおか達三たつぞう”. ひがしぶんけんアーカイブデータベース(東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ (2014ねん10がつ27にち). 2023ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  10. ^ すえせつ』(571)「益子ましこ人間にんげん国宝こくほう島岡しまおか達三たつぞう--その(1)」 大滝おおたき幹夫みきお、P48 - 50 - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション、2023ねん2がつ14にち国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション デジタル資料しりょう個人こじん送信そうしんサービスにて閲覧えつらん
  11. ^ 守田もりた章二しょうじ(かもだしょうじ)|陶芸とうげいのススメ”. 2022ねん10がつ14にち閲覧えつらん
  12. ^ 守田もりた章二しょうじひがしぶんけんアーカイブデータベース”. 2022ねん10がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 益子ましこまちへんさん委員いいんかい へん益子ましこまちだい6かん通史つうしへん》、益子ましこまち、1991ねん3がつ31にち全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:91061899 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]