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益子氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

益子ましこ

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益子ましこ(ましこし)は、鎌倉かまくら時代ときよから戦国せんごく時代じだいにかけて活躍かつやくした武家ぶけ

下野げやこく益子ましこ宇都宮うつのみや家臣かしん

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益子ましこ本姓ほんせいきの家系かけいこうもと天皇てんのう血筋ちすじ応神天皇おうじんてんのう神功じんぐう皇后こうごう大臣だいじんであった武内たけうち宿禰すくね末裔まつえいである。遠祖えんそ諸説しょせつあり、大納言だいなごんきの長谷ながたにつよしせい東大とうだい将軍しょうぐんきの佐美さびあるいは土佐とさまもる紀貫之きのつらゆきともいわれる。下野げや守護しゅご 宇都宮うつのみや重臣じゅうしん同国どうこく有力ゆうりょく武士ぶしだん きのとう棟梁とうりょうでもある。下野げやこく芳賀はがぐん益子ましこ拠点きょてんに600まちゆうし、西明寺さいみょうじじょうをはじめとする八木岡やぎおかじょう上三川かみのかわしろしょしろ城主じょうしゅでもあった。家紋かもんひだりどもえすみかくひだりどもえ子持こもひだりともえまるかたくえまるがりふじまるみっ[1][2][3]

鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい宇都宮うつのみや重臣じゅうしんとしての活躍かつやく

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益子ましこきのさだたかし次男じなん益子ましこ正隆まさたか初代しょだいとし、さんだい益子ましこただしじゅうみなもと頼朝よりとも奥州おうしゅう藤原ふじわら打倒だとうへいげたさい宇都宮うつのみやちょうつな大将たいしょうほうじ2まんへいひき従軍じゅうぐん益子ましこひきいるとう芳賀はがだかおやひきいるきよしとうがともに宇都宮うつのみやぞくとして抜群ばつぐん武功ぶこうあらわわした。このとき益子ましこ芳賀はが頼朝よりともからみなもと白旗はっき一流いちりゅうずつをおくられたことが後世こうせいまで益子ましこ栄誉えいよとされ、にその武勲ぶくんらしめる端緒たんしょとなった。この益子ましこひきいるとう芳賀はがひきいるきよしとうこそ宇都宮うつのみや幕下まくしただい武士ぶしだん きのきよしりょうとうとしてられるようになったのである。とりわけ、益子ましこ隆盛りゅうせい基盤きばんとなったのは、のち下野げや守護しゅごしょく世襲せしゅうする宇都宮うつのみや 藤原ふじわらはじめえんはは益子ましこ正隆まさたかおんなであったことによるところがおおきい。鎌倉かまくら時代ときよつうじて宇都宮うつのみや下野げや国内こくない大名だいみょうするにつれ、益子ましこ宇都宮うつのみや重臣じゅうしんかつ下野げやこく芳賀はがぐん益子ましこ城主じょうしゅとしてその武力ぶりょくささえたのである。益子ましこ家紋かもん主家しゅか宇都宮うつのみや同様どうようひだりどもえであり、おそらく主家しゅかから拝領はいりょうしたものとかんがえられる[4]。また、藤原ふじわらはじめえん三井寺みいでら出身しゅっしんとするせつとなえる野口のぐちみのるは、きの益子ましこゆかりの西明寺さいみょうじ三井寺みいでら僧兵そうへいによってその傘下さんかれられたとする伝承でんしょうがあるのに着目ちゃくもくして、これを宇都宮うつのみや宇都宮うつのみや二荒ふたあらさん神社じんじゃ)と宇都宮うつのみや西明寺さいみょうじきの益子ましこ)を傘下さんかれたはなしもとにしているのではないか、と推測すいそくしている[5]

南北なんぼくあさ時代じだいにおいては主家しゅか宇都宮うつのみや北朝ほくちょう室町むろまち幕府ばくふしたがったため、益子ましこきた朝方あさがたとなり益子ましこさだただし宇都宮うつのみやぐん有力ゆうりょく武将ぶしょうとして活躍かつやくした。その幕府ばくふない足利尊氏あしかがたかうじおとうと 直義ただよしによる権力けんりょく闘争とうそうはしはっした内紛ないふんかんおう擾乱じょうらん勃発ぼっぱつすると、益子ましこいちとう宇都宮うつのみやしたが尊氏たかうじとうくみし、宇都宮うつのみや一族いちぞく氏家うじいえあまねつなつなもとちゅうあさおなじく宇都宮うつのみや一族いちぞく薬師寺やくしじもとなつ義春よしはるじょよし兄弟きょうだいきよしとう芳賀はがさだけいらとともにみなみ朝方あさがた投降とうこうした直義ただよしとう桃井ももいただしつね対峙たいじした。

一方いっぽうきょう周辺しゅうへんでも南北なんぼく両朝りょうちょう激戦げきせんひろげられており、下野げやこくからも宇都宮うつのみや手勢てぜいきょう周辺しゅうへんにも出兵しゅっぺいされ、楠木くすのき正成まさしげらと対峙たいじした。このさい宇都宮うつのみやぜい益子ましこ一門いちもんから益子ましこあらわすけくにぎょう秀助ひですけ親子おやこ従軍じゅうぐんしておりみなみ朝方あさがたたたかったことが『太平たいへい』にもしるされている。それによればてきしょう 楠木くすのき正成まさしげ宇都宮うつのみや坂東ばんどういち弓矢ゆみやとりであるとして、その両翼りょうよくたる 益子ましこ芳賀はがきのきよしりょうとう戦場せんじょうにおいていのちてることをいとわないとい、宇都宮うつのみやぐんとの激突げきとつけたとされ、益子ましこ武勇ぶゆうしめ逸話いつわつたえられている。しかし、みなみ朝方あさがた抵抗ていこうすさまじくあらわすけ東寺とうじにし、益子ましこ一族いちぞくおおくもきょうでのたたかいでいのちとした。ちなみに四国しこく讃岐さぬきこくにおける史料しりょう由佐ゆさ由緒ゆいしょ臨本りんぽん』によれば、あらわすけ庶子しょし秀助ひですけ足利あしかが一門いちもん 細川ほそかわよりゆきはるしたが四国しこくくだり、讃岐さぬきこく香川かがわぐん井原いはらくだり、由佐ゆさしょうしたとつたわっている。

一連いちれん戦乱せんらん最中さいちゅうこよみおう2ねん1339ねん)、関東かんとうにおいて南朝なんちょうかた指揮しきしていた北畠きたばたけ親房ちかふさ公卿くぎょう春日しゅんじつあらわこく常陸ひたちこく関城せきじょう派遣はけんし、常陸ひたち小田おだしたがえたあらわ関城せきじょうから下野げやはいり、北朝ほくちょうぐんしたが転戦てんせんちゅう空城そらじょうとなっていた益子ましこ西明寺さいみょうじじょう八木岡やぎおかじょう上三川かみのかわじょう一時いちじ陥落かんらくされる事態じたいしょうずる。このとき、南朝なんちょうぐんしたが益子ましこしろ陥落かんらくさせた小田おだ益子ましこ正雄まさおおんな母親ははおやとする宇都宮うつのみや一族いちぞくであり、宇都宮うつのみや初代しょだい藤原ふじわらはじめえん庶子しょし鎌倉かまくら幕府ばくふひらいたみなもと頼朝よりとも重臣じゅうしんとして評定ひょうじょうしゅ常陸ひたち守護しゅごつとめた八田はったともとする家系かけいであることから、まさに主家しゅか同族どうぞくであると同時どうじ縁戚えんせき関係かんけいでもある一族いちぞくとの骨肉こつにくたたかいとなった。しかし、下野げやにおける戦況せんきょう次第しだいきた朝方あさがた優位ゆういとなり、南朝なんちょう勢力せいりょく衰退すいたいにより益子ましこはようやく失地しっち回復かいふくするにいたる。そして、戦乱せんらんれた関東かんとう足利あしかが義満よしみつ南北なんぼくあさ合一ごういつがなり、平穏へいおんもどしたことによって、益子ましこをとりまく環境かんきょう次第しだい安定あんていしたものとなっていったのである。

戦国せんごく時代じだい主家しゅかとの反目はんもく

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しかし、戦国せんごく時代じだい以降いこう関東かんとうをめぐる情勢じょうせいふたた不安定ふあんていしはじめるようになった。結果けっか下野げや南部なんぶ隆盛りゅうせいほこった益子ましこ宇都宮うつのみや家臣かしんであると同時どうじに、独立どくりつ領主りょうしゅでもあるという立場たちばから戦乱せんらん渦中かちゅうみこまれていったのである。

天文てんもん8ねん1532ねん)には、芳賀はがなど宇都宮うつのみや家臣かしんとの対立たいりつから益子ましこ勝清かつきよが、宇都宮うつのみや一時いちじ離反りはんする事態じたいこり、さらにどう15ねん1546ねん)にはかつきよし庶子しょしであった益子ましこかつはじめ益子ましこ本家ほんけ謀叛ぼうほんこし、あに益子ましこ宗家そうけ家督かとくいでいた益子ましこ勝家かついえ親子おやこほろぼして、家督かとくおさまるという事件じけん勃発ぼっぱつした。

一連いちれん事態じたい造反ぞうはんとみた主君しゅくん 宇都宮うつのみや益子ましこまさるむね謀反ぼうほんじん做し、益子ましこ追討ついとうすことになった。たいする、かつはじめ主家しゅか対抗たいこうするため、常陸ひたちこく結城ゆうき配下はいか水谷みずたに一時いちじぞくして、一時いちじこれに反抗はんこうするも、ふたた宇都宮うつのみや帰順きじゅんことなきをた。しかし、そのかつはじめ下野げや国内こくないにおける勢力せいりょく拡大かくだい野心やしんいたことから、えいろく2ねん1559ねん)、七井なない矢島やじましろ陥落かんらくさせて領地りょうち拡大かくだい、それから20ねんとき天正てんしょう4ねん1576ねん)にはなな井城いぎきずいてなん かつただし城主じょうしゅとしてえ、七井なない名乗なのらせるなど、下野げや国内こくない国人くにびと領主りょうしゅとしての勢力せいりょくひろげていった。さらに同年どうねんには、高館たかだてしろ修築しゅうちくし、本拠ほんきょ益子ましこじょうよりうつすなど自身じしん勢力せいりょく基盤きばん確立かくりつちからそそぐようになったのである。

益子ましこ独立どくりつせいはその対外たいがい政策せいさくめんでも顕著けんちょとなっていった。主家しゅかである宇都宮うつのみや自身じしんおや上杉うえすぎであるのにたいして、かつはじめひきいる益子ましこおや北条ほうじょうであったとされるなど、主家しゅかとはことなる路線ろせんるようになっていったのである。とりわけ、益子ましこまさるむね主家しゅかべつ独自どくじ甲斐かい武田たけだ信玄しんげん親交しんこうふかめ、信玄しんげん上野うえのこく侵攻しんこうにはこれに呼応こおうして出兵しゅっぺいし、その軍功ぐんこうから武田たけだ信玄しんげんより感状かんじょうおくられるなど外交がいこうのみならず軍事ぐんじめんでもおや武田たけだ姿勢しせいられた。ことに、武田たけだ信玄しんげんからかつはじめおくられた感状かんじょうには「此度武功ぶこう比類ひるいこう」としるされており、嫡男ちゃくなん元服げんぷくさいして「仍家めいしんじ進之しんのこうすなわ信玄しんげん俗名ぞくみょう 晴信はるのぶいちしんへんいみなさづけられ、益子ましこ信勝のぶかつ名乗なのらせ、さらに嫡男ちゃくなん元服げんぷくさいしてしゅくしなとしてのりこうかたなおくられているなど、宇都宮うつのみや家臣かしんながら武田たけだかた臣従しんじゅうするかのような姿勢しせいをとっているのも益子ましこ独自どくじ路線ろせん顕著けんちょしめしている。ただし、一方いっぽう天正てんしょう6ねん1578ねん)、武田たけだ勝頼かつより上野うえの侵攻しんこうすると、宇都宮うつのみやなど下野げやをはじめとする北関東きたかんとうしょしょうはこぞってはん武田たけだにつき、益子ましこ小田おだ家臣かしん信田のぶた彌四郎やしろうらとともに勝頼かつせじん夜襲やしゅうをかけ、益子ましこ内藤ないとうあきらがつ跡部あとべまさる敗走はいそうさせ、このこうによりかつはじめ主君しゅくん 宇都宮うつのみや国綱くにつなから感状かんじょうおくられている。この結末けつまつかぎり、益子ましこ独自どくじ外交がいこうはあくまで益子ましこ独立どくりつ領主りょうしゅとしての立場たちばかした宇都宮うつのみや調しらべりゃく一環いっかんであったということができる。

また、宇都宮うつのみや益子ましこ関係かんけいも、宇都宮うつのみや譜代ふだいしんであった芳賀はがこうあきら家督かとく相続そうぞくをめぐるあらそいで宇都宮うつのみや反抗はんこうしたため、当主とうしゅ宇都宮うつのみやしょうつないのちにより、益子ましこまさるむね三男さんなんこうじょう芳賀はが討伐とうばつめいじられている。こうじょう芳賀はが討伐とうばつその家督かとくいで芳賀はがだかじょう名乗なのり、なおつな腹心ふくしんとして宇都宮うつのみや執政しっせいしょくとして活躍かつやく主君しゅくん宇都宮うつのみやしょうつな五月ごがつ女坂おんなざかはいしたおり嫡子ちゃくし伊勢いせ寿ひさしまる宇都宮うつのみやひろつな)をよくたすけたとされる。このように、益子ましこ一門いちもんはその独立どくりつせいたもちながらも宇都宮うつのみやたいしては恭順きょうじゅんてきなものであったといえる。

しかし、その様相ようそうかつはじめ後継こうけいだいになり、おおきく変容へんようすることになった。かつはじめ後継こうけい長男ちょうなんである信勝のぶかつ那須なす傘下さんかである大関おおぜきつかえたことから、次男じなんである益子ましこやすしむね後継こうけいしゃとなったものの、あんはじめ重臣じゅうしん加藤かとう上総かずさ讒言ざんげん幽閉ゆうへいされてしまい、益子ましこ家督かとくはその嫡男ちゃくなん益子ましこむね家督かとくぐこととなった。この跡目あとめ相続そうぞくをめぐる混乱こんらん契機けいきとなり、益子ましこ領土りょうど境界きょうかいせっする周辺しゅうへん諸氏しょしとのあらそいが激化げきか益子ましこをとりまく情勢じょうせいはいよいよきびしくなった。そのあいだも、益子ましこ一貫いっかんして宇都宮うつのみや家臣かしんとしての姿勢しせい堅持けんじしてきたが、天正てんしょう12ねん1584ねん)になり、益子ましこ一族いちぞく七井なないかつただし宇都宮うつのみや国綱くにつなに叛いてたたかって尾羽おはてら毒殺どくさつされ、かつただし七井なないただしけん天正てんしょう14ねん1586ねん)、茂木もき山城やましろまもる新福寺しんふくじたたかってやぶ討死うちじにしたことで、益子ましこはついに宇都宮うつのみや叛旗はんきひるがえすのである。

益子ましこむね主家しゅか対抗たいこうすべく隣国りんごくである下総しもうさこく結城ゆうき晴朝はるともせんかん知行ちぎょうけんじて後詰ごづめ依頼いらい翌年よくねん9がつ宇都宮うつのみや一門いちもんである茂木もきまも下野げやこく茂木もぎおっとりょうとうげせた。しかし、矢口台やぐちだいじんいた結城ゆうき益子ましこ連合れんごうぐんは、宇都宮うつのみや一門いちもん茂木もき治良はるよしひきいる軍勢ぐんぜい敗北はいぼくきっする。さらにいえむね主君しゅくん宇都宮うつのみや国綱くにつな追討ついとうけ、いえむねはいしたのである。ちなみに、益子ましこ宇都宮うつのみやとの対立たいりつふかめる要因よういんには、いえむね大叔父おおおじである芳賀はがだかじょうによってほろぼされた芳賀はがこうあきら遺児いじこうつぎ策謀さくぼうがあったとされる。こうつぎちちいえむね大叔父おおおじ だかじょうほろぼされたのち益子ましこした養育よういくされていたが、こうつぎ成人せいじんこうじょうから芳賀はが家督かとく返還へんかんされていた。まさに益子ましこにとっては好意こういかたきになった結果けっかとなったといえる[4]

その益子ましこ一門いちもん益子ましこしげるつな家督かとくいでなにとかいえ存続そんぞくしていたが、依然いぜん周辺しゅうへん勢力せいりょくとの確執かくしつつづいていた。そのころ益子ましこりょう南方なんぽうでは宇都宮うつのみや一門いちもん笠間かさまりょう隣接りんせつしていたが、領地りょうち境界きょうかいをめぐり笠間かさまとの紛争ふんそうえなかったため、益子ましこしげるつな笠間かさまみきつなめたものの、敗戦はいせんきっしたとされる。このたたかいによりやぶれたじゅうつな常陸ひたち結城ゆうき晴朝はるとも庇護ひごもとめ、結城ゆうきかたから援将として加藤かとう大隅おおすみまもる父子ふし大将たいしょうへい派遣はけんした。このとき結城ゆうき益子ましこ連合れんごうぐん笠間かさまみきつなかた谷中やなか玄蕃げんばまこと戦果せんかげたものの、笠間かさまぜい谷中たになか玄蕃げんばまこといち周忌しゅうきして、玄蕃げんばまこと嫡男ちゃくなん谷中たになか孫八まごはちろうをして先陣せんじんせしめ、家老がろう江戸えど美濃みのまもる後楯うしろだてとした益子ましこ討伐とうばつへいげ、これをめるとふたた益子ましこぜい形勢けいせい不利ふりてんじることとなった。笠間かさまぜい益子ましこかた要害ようがいである富谷とみやじょう一気いっき計略けいりゃくてて、へいしろ近付ちかづかせた。このとき益子ましこぜい領内りょうない富谷とみやじょうからは500~600にんへい出動しゅつどうさせ、笠間かさまぜい激突げきとつしたものの、笠間かさまぜい急襲きゅうしゅうにより足立あしだった益子ましこぜい散々さんざんやぶられ、笠間かさまだい勝利しょうりわった。『益子ましこ系図けいず』によれば、この合戦かっせん益子ましこしげるつならえられたともしるされている。

このたたかいで益子ましこぜいやぶれたことをった結城ゆうき晴朝はるともは、家老がろうである下館しもだて城主じょうしゅ水谷みずたに勝俊かつとしめいじて笠間かさま攻撃こうげきさせたことが『磯辺いそべ由緒ゆいしょしょ』にみえている。しかし、このたたかいで手痛ていた敗北はいぼくきっした益子ましこ下野げや南部なんぶ勢力せいりょくうしない、隣国りんごく結城ゆうき晴朝はるともたよって下総しもふさこく、さらに常陸ひたちこくへとのがれていったという。これにより、平安へいあん時代じだい末期まっきから下野げや守護しゅご宇都宮うつのみや重臣じゅうしんとして活躍かつやくした名門めいもん 益子ましこ滅亡めつぼうし、子孫しそん周辺しゅうへんしょ勢力せいりょくたよってびていったのである[6]

あらたなせつ

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2016ねん4がつ栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん学芸がくげい部長ぶちょうけん歴史れきし研究けんきゅう江田えだ郁夫いくお益子ましこ1590ねん宇都宮うつのみや所領しょりょうさい配置はいち以後いご片岡かたおか名乗なのるようになり、幕末ばくまつまでつづいていた可能かのうせいたかいというあらたなせつ発表はっぴょうした[注釈ちゅうしゃく 1]毛利もうり文書ぶんしょによると天正てんしょう18ねん(1590ねん)の時点じてんでの城主じょうしゅ益子ましこおさむむねであるという[7][8]

なお、益子ましこ鎌倉かまくら時代じだいよりつづいにしえぞくであり、庶子しょしおお輩出はいしゅつされた。

常陸ひたちこく益子ましこ

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佐竹さたけ家臣かしん(秋田あきた藩士はんし) 益子ましこ

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また、常陸ひたち守護しゅご 佐竹さたけ家臣かしんにも益子ましこ存在そんざい確認かくにんされる。佐竹さたけ出羽でわこく秋田あきたぐん秋田あきたうたてふうさいしては益子ましこせい家臣かしんのうち8いえ随行ずいこうし、秋田あきた藩士はんしとなったという。

  • 益子ましこ勝正かつまさりゅう

益子ましこ勝正かつまさりゅうは、勝正かつまさだい佐竹さたけ秋田あきたてんふうしたがうという[9][10]

系譜けいふ 益子ましこ勝正かつまさ - かつさだ - 勝安かつやす - 勝家かついえ - 勝重かつしげ - 勝吉かつきち - 熊野くまのすけ勝清かつきよ
  • 益子ましこ丹波たんばまもるりゅう

また、益子ましこ越後えちごもりひろあかかんむも慶長けいちょう7ねん1602ねん)、佐竹さたけしたが秋田あきた移住いじゅうするという[11][9][12]

系譜けいふ 益子ましこ丹波たんばまもるぼう - 越後えちごもりひろ - 太郎たろう兵衛ひょうえ次長じちょう - 助左衛門すけざえもん次元じげん

べつ系図けいずでは

系譜けいふ 益子ましこ太郎たろう兵衛ひょうえ次長じちょう - 助左衛門すけざえもんじゅう - つぎ - ひら大夫たいふつね

とも。

  • 益子ましこつぎしゅりゅう

益子ましこつぎしゅ家系かけい慶長けいちょう7ねん(1602ねん)、佐竹さたけしたが秋田あきた下向げこうするという[9][13]

系譜けいふ 益子ましこしゅ - たねひさ - 種信たねのぶ - 種次たなつぎ
  • 益子ましこ彦九郎ひこくろうりゅう

益子ましこ彦九郎ひこくろうぼう家系かけい慶長けいちょう7ねん(1602ねん)、彦九郎ひこくろう常陸ひたちこくから秋田あきた下向げこうし、子孫しそん平鹿ひらかぐん横手よこてむという[9][14]

系譜けいふ 益子ましこ彦九郎ひこくろうぼう - 友勝ともかつ - 弥次やじみぎ衛門えもんともしゅう
  • 益子ましこ三助さんすけりゅう

益子ましこ三助さんすけりゅう三助さんすけだい常陸ひたちこくから秋田あきたくだり、山本やまもとぐん檜山ひやま[15][9][16]

系譜けいふ 益子ましこ三助さんすけぼう - 眞由まゆ - しんちょう - たね - のべ
  • 益子ましこ次郎じろうみぎ衛門えもんりゅう

益子ましこ次郎じろうみぎ衛門えもんりゅう次郎じろうみぎ衛門えもんだい常陸ひたちこくから平鹿ひらかぐん湯沢ゆざわ移住いじゅうし、知行ちぎょうだか30せきあたえられたという[9][17]

系譜けいふ 益子ましこ次郎じろうみぎ衛門えもんぼう - ぜんみぎ衛門えもんぼう - 伝吉でんきちぼう - ぜんみぎ衛門えもんぼう - 七郎しちろう兵衛ひょうえためぼう
  • 益子ましこ仁左衛門にざえもんりゅう

益子ましこまこと次男じなん益子ましこ仁左衛門にざえもんぼうだい常陸ひたちこくから秋田あきた下向げこうし、雄勝おがつぐん湯沢ゆざわ[15][9][18]

系譜けいふ 益子ましこ仁左衛門にざえもんぼう - あじみぎ衛門えもんぼう - 左衛門さえもんためあきら
  • 益子ましこ丹後たんごりゅう

慶長けいちょう7ねん(1602ねん)、益子ましこまこと丹後たんごぼうだい常陸ひたちこくより秋田あきた下向げこうし、雄勝おがつぐん湯沢ゆざわ[15][9][19]

系譜けいふ 益子ましこ丹後たんごぼう - 丹後たんごぼう - はち左衛門さえもんぼう - はち左衛門さえもんぼう - ぜんはち - はち左衛門さえもんためむね

水戸みと徳川とくがわ家臣かしん(水戸みとはん郷士ごうし) 益子ましこ

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なお、常陸ひたちこく残留ざんりゅうした、益子ましこ一門いちもんのうち、益子ましこ和泉いずみけんつぎ寛永かんえい10ねん1633ねん)に水戸みとはん郷士ごうしてられるという[20]まくもんかじもちいる。この家系かけい本姓ほんせいきのきのさだせいとする益子ましこしょうだかかん城主じょうしゅ家系かけいつたえ、前項ぜんこう下野げやこく益子ましこ一族いちぞくかかりるいであることが確認かくにんされる。代々だいだい陸奥みちのくこく白河しらかわぐん棚倉たなぐらむ。元和がんわ年間ねんかん1615ねん - 1624ねん)に常陸ひたちこく現在げんざいおく久慈くじにある小金山こがねやまぐん小久慈こくじさんかね採掘さいくつをし、経済けいざいりょくほこるという[20]大子だいごむら郷士ごうしたる益子ましこ益子ましこみん左衛門さえもんだい初代しょだい水戸みと藩主はんしゅ 徳川とくがわ頼房よりふさだい光圀みつくにより13せきをもって郷士ごうしてられるといい、益子ましこ忠太ちゅうたについては、さんだいつなじょうだいに30ひょうもっ郷士ごうしてられたとされる。この水戸みとはんしゅさんだいのうちに郷士ごうしてられたいえ旧家きゅうか17いえしょうし、益子ましこきゅうぞく郷士ごうし筆頭ひっとうとして位置いちづけられたという[21]

近世きんせい益子ましこ

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なお、幕末ばくまつ維新いしんおり活動かつどうした益子ましこせい人物じんぶつについて記載きさいする。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ よく91ねんごろから、伊勢神宮いせじんぐう神官しんかんである佐八そうち(そうち)へあてた文書ぶんしょに「片岡かたおか駿河するがまもる」がてくる。人物じんぶつめい不明ふめいであったが、江戸えど時代じだい初期しょきどう神宮じんぐうだん(だんな)ちょう信徒しんとちょう)の内容ないようしめ注記ちゅうきに「ましこ殿どのこと也」と具体ぐたいめいかれ、「片岡かたおか駿河するがまもる」は以前いぜんの「益子ましこ」であると判明はんめい[7]

出典しゅってん

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  1. ^ 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい へん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん南部なんぶ地方ちほう日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん、36ぺーじ
  2. ^ 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん南部なんぶ地方ちほう日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん、54ぺーじ
  3. ^ 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん茨城いばらきけん 家紋かもん姓氏せいし日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん、74ぺーじ
  4. ^ a b 太田おおた 1934, p. 5556.
  5. ^ 野口のぐちみのる ちょ宇都宮うつのみや成立せいりつ河内かわうちはじめ」、江田えだ郁夫いくお へん中世ちゅうせい宇都宮うつのみや 一族いちぞく展開てんかい信仰しんこう文芸ぶんげいえびすひかりさち出版しゅっぱんえびすひかりさち中世ちゅうせい論集ろんしゅう だい9かん〉、2020ねん、14-16ぺーじISBN 978-4-86403-334-3 
  6. ^ 太田おおた 1934, p. 5557.
  7. ^ a b 戦国せんごく時代じだいの「益子ましこ滅亡めつぼうせず存続そんぞく? 改名かいめいか、古文書こもんじょから新説しんせつ. 下野げや新聞しんぶん. (2016ねん4がつ24にち). http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20160424/2304467 2016ねん4がつ27にち閲覧えつらん 
  8. ^ “(79)益子ましこただしむね リストラ変名へんめい新説しんせつ浮上ふじょう. 産経新聞さんけいしんぶん. (2015ねん10がつ31にち). https://www.sankei.com/article/20151031-46DDXS4L4ZKBJCRA6S7Q3RMTNU/ 2016ねん4がつ28にち閲覧えつらん 
  9. ^ a b c d e f g h 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん へん系図けいず目録もくろく (PDF)秋田あきたけん、2001ねん、101ぺーじ
  10. ^ 益子ましこ熊之助くまのすけ勝清かつきよ所有しょゆう益子ましこ系図けいず
  11. ^ 常陸太田ひたちおおたへんさん委員いいんかい へん佐竹さたけ家臣かしん系譜けいふ常陸太田ひたちおおた、1982ねん、358ぺーじ
  12. ^ 益子ましこ助左衛門すけざえもんかた所蔵しょぞう益子ましこ覚書おぼえがき』。
  13. ^ 益子ましこひだりたいら種次たなつぎ所有しょゆう益子ましこ由緒ゆいしょしょ』。
  14. ^ 益子ましこ久左衛門きゅうざえもんいんのべ所有しょゆう益子ましこ由緒ゆいしょしょ』。
  15. ^ a b c 常陸太田ひたちおおたへんさん委員いいんかい へん佐竹さたけ家臣かしん系譜けいふ常陸太田ひたちおおた、1982ねん、359ぺーじ
  16. ^ 益子ましこ弥次やじみぎ衛門えもんともしゅう所有しょゆう益子ましこ系譜けいふ』、益子ましこきむ兵衛ひょうえとも所蔵しょぞう益子ましこ系譜けいふ』。
  17. ^ 益子ましこ七郎しちろう兵衛ひょうえためぼう所有しょゆう益子ましこ家伝かでん覚書おぼえがき』。
  18. ^ 益子ましこただし左衛門さえもんためあきら所有しょゆう益子ましこさるでんさとし』。
  19. ^ 益子ましこはち左衛門さえもんためむね所有しょゆう益子ましこ系譜けいふ』。
  20. ^ a b 瀬谷せたに 2006, p. 12.
  21. ^ 瀬谷せたに 2006, p. 13.
  22. ^ 明田あけた 1986, p. 260.
  23. ^ 明田あけた 1986, p. 339.

参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき

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史料しりょう

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  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこ助左衛門すけざえもんかた所有しょゆう益子ましこ覚書おぼえがき
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこひだりたいら種次たなつぎ所有しょゆう益子ましこ由緒ゆいしょしょ
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこ久左衛門きゅうざえもんいんのべ所有しょゆう益子ましこ由緒ゆいしょしょ
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこ弥次やじみぎ衛門えもんともしゅう所有しょゆう益子ましこ系譜けいふ』、益子ましこきむ兵衛ひょうえとも所蔵しょぞう益子ましこ系譜けいふ
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこ七郎しちろう兵衛ひょうえためぼう所有しょゆう益子ましこ家伝かでん覚書おぼえがき
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこただし左衛門さえもんためあきら所有しょゆう益子ましこさるでんさとし
  • 秋田あきた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう益子ましこはち左衛門さえもんためむね所有しょゆう益子ましこ系譜けいふ

関連かんれん項目こうもく

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益子ましこ

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きのりゅう

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