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郷士ごうし

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郷士ごうし(ごうし)は、江戸えど時代じだい武士ぶし階級かいきゅう士分しぶん)の下層かそうぞくした人々ひとびとす。江戸えど時代じだい武士ぶし身分みぶんのまま農業のうぎょう従事じゅうじしたものや、武士ぶし待遇たいぐうけていた農民のうみん[1]平時へいじ農業のうぎょう戦時せんじには軍事ぐんじしたがった。さとさむらい(ごうざむらい)とも。

概要がいよう

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人々ひとびと立場たちば流動的りゅうどうてきであった戦国せんごく時代じだいわり、徳川とくがわ幕府ばくふしたあたらしい階級かいきゅう制度せいど武士ぶし百姓ひゃくしょう町人ちょうにん)が形成けいせいされるなか武士ぶし農家のうかなかあいだそう分類ぶんるいされるそうさむらい土豪どごうなど)が在郷ざいきょう城下じょうかでなく農村のうそん地帯ちたい居住きょじゅう)する武士ぶしとしてあつかわれたもの。武士ぶし身分みぶんおなじくはん幕府ばくふ士分しぶんとして登録とうろくされ、苗字みょうじ帯刀たいとう特権とっけんあたえられている。しばしば混同こんどうされるが、苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされているそうには郷士ごうし以外いがい階級かいきゅう豪商ごうしょう豪農ごうのう学者がくしゃなど)もふくまれているため、「名字みょうじ帯刀たいとう郷士ごうし」という認識にんしきあやまりではないが正確せいかくでもない。

郷士ごうしは「(武士ぶし階級かいきゅうである以上いじょう、その特権とっけんとして)苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされている」のにたいし、郷士ごうし以外いがいは「(武士ぶし階級かいきゅうではないが、とくはたらきがあったため)苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされている」のである。名字みょうじ帯刀たいとう基本きほんてき武士ぶし特権とっけんであること、それがあたえられることは名誉めいよちがいはないが、武士ぶし身分みぶん一緒いっしょになっているわけではない。論者ろんしゃなかには名字みょうじ帯刀たいとうくわえて知行ちぎょうこと郷士ごうし条件じょうけんとして、「地頭じとう帯刀たいとう」という用語ようごもちいる場合ばあいもある[2]

武士ぶし身分みぶんとしては最下さいかきゅうぞくするため、まずしいイメージがあり、実際じっさいにそうしたものもいるが、一方いっぽう農業のうぎょう農地のうち収入しゅうにゅうなどによって専従せんじゅう下級かきゅう武士ぶしよりもはるかに富裕ふゆうであった郷士ごうしすくなくなく、その実態じったい多様たようである。

分類ぶんるい

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農民のうみん商人しょうにんから下層かそう中層ちゅうそう武士ぶし階級かいきゅうまでは、士分しぶんかぶ売買ばいばいなどをつうじて、かなりの階級かいきゅう流動りゅうどうせいたもたれていた。したがって郷士ごうしにおいても、時代じだいくだるにつれて古参こさん郷士ごうしとはべつに、新興しんこう郷士ごうしともうべき人々ひとびと次々つぎつぎあらわれた。また、古参こさん郷士ごうしでも背景はいけいとなる戦国せんごく時代じだい以前いぜん立場たちばについては様々さまざまであり、一様いちようではない。

  1. 戦国せんごく時代じだい士分しぶん(この場合ばあい存続そんぞくしている戦国せんごく大名だいみょう家臣かしんだん名簿めいぼ登録とうろくされていることをす)であった人々ひとびとのうち、藩士はんしとしての地位ちいあたえられながら理由りゆうあって在郷ざいきょう領主りょうしゅとしても行動こうどうしたもの
    1. へいのう分離ぶんり以前いぜんからのはんのうはんへい兵士へいし自給自足じきゅうじそく農民のうみん自主じしゅ自衛じえい)の伝統でんとうから、士分しぶんなかには自前じまえ農地のうちおおくの場合ばあい一般いっぱんよりだい規模きぼ農地のうちゆうしていた)を直接ちょくせつ管理かんりして家計かけいささえにしているそうがいた。かれらのうち、規模きぼおおきいもの豪族ごうぞくばれ、より規模きぼちいさいもの土豪どごうさむらいばれた。かれらは江戸えど時代じだいに「在郷ざいきょう藩士はんし」としてかくはん士分しぶん階級かいきゅうまれ、従来じゅうらいどお平時へいじ農地のうち管理かんり非常時ひじょうじ軍役ぐんえき両立りょうりつつづけた。土佐とさはんではきゅう領主りょうしゅである長宗我部ちょうそかべ家臣かしんのうち、さむらいにあたるいちりょう具足ぐそく下士かしとして登用とうようした。
    2. 乱世らんせいなか所属しょぞくしていた大名だいみょう滅亡めつぼうして士分しぶんうしなったものたちはさい仕官しかん拒絶きょぜつしたり、ぎゃくかなわなかったりして帰農きのうしたものおおかった。そのなかには旗本はたもと家老がろうなどの重臣じゅうしんクラスが土着どちゃくしたれいもあり、あたらしくその土地とち領有りょうゆうしたはん支配しはいしゃきゅう領主りょうしゅ支持しじする勢力せいりょくへの懐柔かいじゅうとしてそうした人々ひとびと藩士はんしてる場合ばあいがあった。その場合ばあいおおくは一般いっぱん藩士はんしではなく城下じょうか城内じょうないでの勤務きんむ栄達えいたつきんじられた「在郷ざいきょう藩士はんし」としてあつかわれ、それまでとおりに農地のうち管理かんりおも生業せいぎょうにした。
  2. 江戸えど時代じだい初期しょきまでは農民のうみん階級かいきゅう商人しょうにん階級かいきゅうぞくしていたが、なにかしらの理由りゆう上記じょうきおな身分みぶんあたえられたもの
    1. 大名だいみょうたいしての献金けんきん新田にった開発かいはつ褒美ほうびとして郷士ごうしてられたもの。1にちか地位ちいちながら、郷士ごうし身分みぶん範疇はんちゅうかられていたものこうからてられたという側面そくめんつよい。
    2. 売却ばいきゃくされていた士分しぶんかぶのうち、「郷士ごうしかぶ」を購入こうにゅうして身分みぶんげたもの純粋じゅんすい太平たいへいてて、その栄達えいたつとして立身りっしんしたものおおい。著名ちょめい郷士ごうしである坂本さかもと龍馬りょうま祖先そせんである豪商ごうしょう坂本さかもとただしえき土佐とさはんより郷士ごうしかぶ購入こうにゅう祖父そふだいから郷士ごうし身分みぶんている。
  3. もと一般いっぱん藩士はんしであったが城下じょうかいえろくのみによって生計せいけい維持いじできず、城下しろした郊外こうがいまたは農村のうそん農業のうぎょういとなむために郷士ごうし身分みぶんくだったもの
  4. 特別とくべつ所以ゆえんがあるもの十津川とつかわ郷士ごうしなど)。

特徴とくちょう

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郷士ごうし研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃである木村きむらいしずえは、郷士ごうしとは以下いか特徴とくちょうあわっている場合ばあいおおいとした。

  • 存続そんぞくしているはん(あるいは知行ちぎょう旗本はたもと御家人ごけにん)の家臣かしんとして正式せいしき承認しょうにんされている
  • 城内きうち勤務きんむする一般いっぱん藩士はんしとは明確めいかく区別くべつされ、基本きほんてき在郷ざいきょうしている
  • 所持しょじ全部ぜんぶまたは一部いちぶ領有りょうゆうを「知行ちぎょう」としてみとめられ、その管理かんり維持いじ生活せいかつ中心ちゅうしんとする(地頭じとう
  • 軍役ぐんえきについては場合ばあいによりことなる

したがって、事情じじょうにより在郷ざいきょう任務にんむあたえられているというだけで立場たちば一般いっぱん藩士はんしであるもの薩摩さつまはんの「中宿なかしゅく」や柳川やながわはんの「在宅ざいたく」)、陪臣ばいしんにして在郷ざいきょうしているもの上記じょうき言及げんきゅうした名字みょうじ帯刀たいとうゆるされているが士分しぶんかぶ購入こうにゅう譲渡じょうとしていないものなどは、郷士ごうしとはことなる存在そんざい分類ぶんるいされる。

郷士ごうしれい

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十津川とつかわ郷士ごうし

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八王子はちおうじせんにん同心どうしん

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水戸みと郷士ごうし水戸みとはん

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徳川とくがわ御三家ごさんけのひとつ、水戸みとはんにおいてもおおくの郷士ごうし登用とうようされた。平安へいあん時代じだい末期まっき以降いこう関ヶ原せきがはらたたかまで常陸ひたちこく大名だいみょうであった佐竹さたけやく500ねんちか支配しはいした領国りょうごくにおいては、なでみんてき意味合いみあいや藩政はんせい円滑えんかつ施行しこうにおいて土着どちゃく土豪どごうちから無視むしできず、徳川とくがわ頼房よりふさ徳川とくがわ光圀みつくにだいには、はやくもきゅう佐竹さたけ一門いちもん 大内おおうち西丸にしまる長山ながやまや、佐竹さたけ家臣かしんであった大森おおもり蓮見はすみ野口のぐち益子ましこなどの郷士ごうし登用とうようされた。当初とうしょ佐竹さたけ一門いちもん旧臣きゅうしんなど、家柄いえがら由緒ゆいしょのあるきゅうぞく郷士ごうしおおかったが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう財政ざいせいきびしい水戸みとはん状況じょうきょうあらためるため、献金けんきんにより郷士ごうし登用とうようする、いわゆる献金けんきん郷士ごうしといわれるそう台頭たいとうした。菊池きくち緑川みどりかわなどがそのれいである。このように、はん武力ぶりょくないし財政ざいせいりょくささえる目的もくてきで、様々さまざま郷士ごうし登用とうようかたち、あるいは郷士ごうし身分みぶん運用うんよう方法ほうほうまれた。それら水戸みとはん郷士ごうしは、戦闘せんとういんたる郷士ごうしとしてとくおけ郷士ごうし救済きゅうさい郷士ごうし戦闘せんとういんたる郷士ごうしとしてきゅうぞく郷士ごうし登用とうよう郷士ごうしけられ、はん地方ちほう行政ぎょうせいささえるための身分みぶんそうとしてもちいられた。

しかし、水戸みとはん郷士ごうし役職やくしょく上下じょうげべつにして藩士はんし同列どうれつであり、その身分みぶんきわめておもく、はん財政ざいせいのために身分みぶんりするような政治せいじ手法しゅほう水戸みとはんにとっていさぎよしとするものではなく、献金けんきん郷士ごうし廃止はいし方向ほうこうすすんだ。一方いっぽうで、水戸みとはん郷士ごうしはそれまでの郷士ごうしほん郷士ごうしとし、登用とうようさいしてはきわめて厳格げんかく措置そちをとる一方いっぽう郷士ごうしかく郷士ごうしれつ郷士ごうしなみといったあらたな階級かいきゅうさだめられ、郷士ごうしかくは10いし郷士ごうしれつは7せきまたは無給むきゅう郷士ごうしなみは7せき、5せき、または無給むきゅうとされた。なお、郷士ごうしとしての身分みぶん格式かくしき代官だいかんれつならぶことがもっと栄誉えいよとされ、御徒おかちれつしょうじゅうにんれつなど郷士ごうしなかでも様々さまざま身分みぶんさだめられたという。

幕末ばくまつはいり、黒船くろふね来航らいこうなど西欧せいおう列強れっきょう外圧がいあつつよまると、はんない尊王そんのう攘夷じょうい機運きうんたかまり、尊王そんのうはんのために奔走ほんそうする義民ぎみんおおあらわれ、かれらをしょうするために郷士ごうしまたは郷士ごうしなみ登用とうようされるれいられた[3]

原方はらかたしゅ米沢よねざわはん

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米沢よねざわはん上杉うえすぎ豊臣とよとみ政権せいけんしたでは120まんせきだい大名だいみょうであったが、関ヶ原せきがはらたたかのち30まんせきげんふうされた。しかし、家臣かしんはなちをおこなわなかったことから財政ざいせい逼迫ひっぱくした。さら1664ねん寛文ひろふみ4ねん)には、3だい藩主はんしゅ上杉うえすぎつなかち嫡子ちゃくしなく急死きゅうしした。本来ほんらいなら改易かいえきになるところを、吉良きら義央よしなかつなけん末期まっき養子ようしむかえることが特別とくべつゆるされたが、さらに石高こくだか半分はんぶんの15まんせきとされた。石高こくだか半減はんげんしたのに、また家臣かしんはなちをおこなわなかったため、没収ぼっしゅうされた福島ふくしまじょうめていた下級かきゅう藩士はんしには知行ちぎょうまったく、または家計かけい維持いじできない程度ていどしかあたえられないわり、米沢よねざわしろ城下じょうか郊外こうがいに、屋敷やしきほか農地のうちてられた。かれらは普段ふだん農地のうち経営けいえい専念せんねんでき、臨時りんじ軍役ぐんえきにのみ従事じゅうじすればよいとされた。このような下級かきゅう武士ぶし原方はらかたしゅんだ。なお、幕府ばくふ提出ていしゅつするしろ絵図えずには原方はらかたしゅ居住きょじゅうする地域ちいきさむらいまち明記めいきされている。

たかられき5ねん1755ねん)の、地方ちほう百姓ひゃくしょうによる城下じょうか豪商ごうしょうたくこわ事件じけん首謀しゅぼうしゃ原方はらかたしゅであった。

阿波あわ郷士ごうし徳島とくしまはん

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阿波あわはん徳島とくしまはん)は身分みぶん制度せいど複雑ふくざつであるが、郷士ごうしについても「しょう高取たかとり」(ごう高取たかとり)、「はら」、「いちりょういちひき」など身分みぶんがいくつもある。

しょう高取たかとりとは、蜂須賀はちすか阿波あわにゅうふう以前いぜんからいた土豪どごうてたものである。蜂須賀はちすか当初とうしょ、これらの土豪どごう掃討そうとうしようとしたが抵抗ていこうはげしかったので、それまでの領地りょうち支配しはいけんみとめるわりに軍役ぐんえきわせることにした。このため江戸えど時代じだいでも領地りょうち居住きょじゅうむら支配しはいするしょう領主りょうしゅのままであった。のち家柄いえがら功績こうせき、あるいは多額たがく献金けんきんによって農民のうみんからしょう高取たかとりしょう高取たかとりかく昇格しょうかくするものあらわれた。もとからしょう高取たかとりであったいえではない身分みぶん昇格しょうかくしてしょう高取たかとりになったものは、有事ゆうじには人質ひとじちして城門じょうもん警備けいびにあたることになっていた。

はら(はらし)とは、はんないにいたろうじんなかから出自しゅつじあきらかなものたてて、開墾かいこんあた開墾かいこんさせたものである。はら家来けらいかかえることもみとめられていた。平時へいじには開墾かいこん支配しはいしているが、有事ゆうじには具足ぐそく着用ちゃくよう騎馬きば召集しょうしゅうおうじるほか開墾かいこんひろさにおうじて軍役ぐんえきうことになっていた。讃岐さぬき方面ほうめんへの防備ぼうびのため阿波あわぐん板野いたのぐん集中しゅうちゅうして配置はいちされていた。幕末ばくまつ黒船くろふね来航らいこうさいは、はら江戸えど派遣はけんされ江戸えどわん警備けいびにあたった。

いちりょういちひきとは、平時へいじには在郷ざいきょうであるが、有事ゆうじには騎馬きば召集しょうしゅうおうじることになっていた。蜂須賀はちすか阿波あわにゅうふう当初とうしょ豪農ごうのう具足ぐそくうま献納けんのうさせるわりにあたえた身分みぶんである。いちりょういちひきについては、はんがわ実際じっさい動員どういんするつもりはなかったとられている。

さと鉄砲てっぽうとは、平時へいじには田畑たはたたがやしているが、有事ゆうじには鉄砲てっぽうたずさえて召集しょうしゅうおうじることになっていた。讃岐さぬき方面ほうめんへの防備ぼうびのため白地しろじがわ付近ふきんだい西郷さいごう鉄砲てっぽう)と、土佐とさ方面ほうめんへの防備ぼうびのため海部川かいふがわ河口かこう付近ふきんおお配置はいち海部かいふさと鉄砲てっぽう)されていたほか、治安ちあん維持いじのため家老がろう知行ちぎょう配置はいち家老がろう組付くみつけきょう鉄砲てっぽう)されていた。

土佐とさ郷士ごうし土佐とさはん

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関ヶ原せきがはらたたか以前いぜん四国しこく支配しはいしていた長宗我部ちょうそかべ旧臣きゅうしんいちりょう具足ぐそくそう懐柔かいじゅうするため郷士ごうしてた。上士じょうしは、山内やまうち一豊かずとよ掛川かけがわしろおもだったときからの家臣かしんや、土佐とさにゅうふうまえ大坂おおさかろうじんてたもののほか、長宗我部ちょうそかべ旧臣きゅうしん上級じょうきゅうそう一部いちぶ吉田東洋よしだとうようらの家系かけい)もふくまれる。幕府ばくふはん権威けんいおとろえた幕末ばくまつには、土佐とさ郷士ごうしおおくが尊皇そんのう攘夷じょうい運動うんどうとうじた。

著名ちょめい人物じんぶつには、土佐とさ郷士ごうしをまとめ土佐とさ勤王きんのうとう結成けっせいした武市たけいちみずほさん半平はんぺんふとしや、うみ援隊結成けっせい薩長さっちょう連合れんごう斡旋あっせん大政奉還たいせいほうかん実現じつげん尽力じんりょくした坂本さかもと龍馬りょうま初代しょだい衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう中島なかじま信行のぶゆきがいる。

土佐とさはんには郷士ごうし功績こうせきによって上士じょうしあつかいのしろさつとする柔軟じゅうなん制度せいどがあり、はんくらべて様々さまざま才能さいのう有能ゆうのう人材じんざいはぐく土壌どじょうとなった[4]武市たけいち半平はんぺんふとし武市たけいち坂本さかもと龍馬りょうま父系ふけい先祖せんぞ宮地みやじ山本やまもとは「しろさつ郷士ごうし」で上士じょうし待遇たいぐうであった。

肥後ひご郷士ごうし熊本くまもとはん

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実際じっさい名称めいしょう郷士ごうしとはわず在中ざいちゅう御家人ごけにんばれた。農村のうそん行政ぎょうせいとう必要ひつようせいからぜん領主りょうしゅ小西こにし加藤かとう帰農きのう遺臣いしん土豪どごうかく追認ついにんしたのがはじまりで、これははん同様どうようである。また、足軽あしがる帰農きのうさせ、けいかくの「郷士ごうし」として苗字みょうじ帯刀たいとうゆるし、国境こっきょう辺境へんきょう警備けいびたらせた。こうしたれいに「とうぐんとう(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲てっぽうたいがあり、これは無給むきゅうひとしい「名誉めいよしょく」であった。実際じっさい鉄砲てっぽうたいとはばかりで、地役ちえきじん臨時りんじ江戸詰えどづはんそつとして動員どういんされたりした。ぎゃくに、好奇心こうきしん旺盛おうせい郷士ごうし子弟していは、それらの制度せいど利用りようして、見聞けんぶんひろめるために江戸詰えどづ足軽あしがる志願しがんすることもあった。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう熊本くまもとはん献金けんきんおうじて郷士ごうしかく乱発らんぱつする傾向けいこうとなり、昇格しょうかくする格式かくしきによって金額きんがくまでさだめられ、はん収入しゅうにゅう一部いちぶともなり「寸志すんし御家人ごけにん」として制度せいどされた。それによってあたえられる身分みぶんは、「いちりょういちひき」と「以外いがいおおむね「足軽あしがるかく程度ていどであり、献金けんきん郷士ごうしは「カネさむらい」と陰口かげぐちされ、明治めいじ以降いこうもそれらの子孫しそん士族しぞくとなったものは「カネ士族しぞく」といわれた。

薩摩さつま郷士ごうし薩摩さつまはん

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きゅうぞくきょづけ大名だいみょうであるため、外城とじょうせい存在そんざいなどにられるように中世ちゅうせいてきであり、城下じょうかしゅうじゅう・俸禄せいをとるだい多数たすうはんとはことなり、戦国せんごく時代じだいにおける国人くにびと在地ざいち武士ぶし、そして島津しまつ九州きゅうしゅう統一とういつせん傘下さんかはいった武士ぶしとう郷士ごうしとして家臣かしんだんまれた。そのため、外城とじょうともぶ。参勤交代さんきんこうたい軍役ぐんえきとうたす役目やくめは、一般いっぱん藩士はんしおなじである。

江戸えど時代じだい初期しょきは、鹿児島かごしまじょうした武士ぶしは「鹿児島かごしましゅちゅう」、外城とじょう所属しょぞくするさとによって「出水しゅっすいしゅちゅう」や「国分こくぶしゅうちゅう」とばれ、たいした区別くべつはされておらず、大島おおしま代官だいかんやくなどに郷士ごうし任命にんめいされることもおおかった。しかし、中期ちゅうき以降いこうとく島津しまつ重豪しげひで藩政はんせい改革かいかく以降いこう)、「鹿児島かごしましゅちゅう」は「城下じょうか」とばれるようになり、「城下じょうか」と「郷士ごうし」のあいだには厳格げんかく身分みぶん意識いしき誕生たんじょうしたといわれる。ただし、その城下じょうかとのあいだ養子ようし縁組えんぐみ移籍いせきによる身分みぶん移動いどうつうこん関係かんけいはあり、これを利用りようして城下じょうかになるものおお[5]。また、城下じょうか分家ぶんけのち鹿児島かごしまから他郷たきょう移住いじゅうし、郷士ごうしとなるれいおおかった。ぎゃくに、一族いちぞくから藩主はんしゅ側室そくしつ輩出はいしゅつしたことにより、郷士ごうしから城下じょうか格上かくあげされたれいもあり、なかには子孫しそん家老がろう輩出はいしゅつしたいえもある[6]

さらに、郷士ごうし内部ないぶでも身分みぶん上下じょうげがあり、上中かみなかきゅう郷士ごうしふもとばれるさむらいまちみ(ふもと郷士ごうし郷内ごうないむら下級かきゅう郷士ごうしざいむら郷士ごうしばれた)、事実じじつじょう地方ちほう行政ぎょうせい仕切しきった。また、上級じょうきゅう郷士ごうしともなるとおおくの農地のうち山林さんりんかか[7]、さらに薩摩さつまはんでは武士ぶし同士どうし石高こくだか売買ばいばい出来できたために、だか制限せいげん[8]いちはいまで石高こくだかあつめる、さらには分家ぶんけててこう分配ぶんぱいすることでだか制限せいげん実質じっしつてき回避かいひするなどして、身分みぶんひくくとも城下じょうか以上いじょうゆたかなものすら存在そんざいした。しかし、こう郷士ごうしおおかった(こう郷士ごうし)。郷士ごうしまでふくめての武士ぶし総数そうすうは、薩摩さつまはんでは人口じんこうの4ぶんの1をめていたため、これらすべてに武士ぶしとしての扶持ふちあたえること不可能ふかのうであった。これらの郷士ごうしは、はん許可きょかされていた大工だいく内職ないしょく生計せいけいて、なかには武士ぶし身分みぶんのままで上級じょうきゅう郷士ごうし小作こさくじんになるものもいた。

明治維新めいじいしんこうは俸禄をうしな没落ぼつらくした城下じょうかたいし、郷士ごうし農地のうちあつ地主じぬしとして成功せいこうしたものおおく、西南せいなん戦争せんそうたいしてもややかな態度たいどをとる郷士ごうしおおかったとわれる[9]。その城下じょうか出身しゅっしんしゃおおくは郷里きょうり鹿児島かごしまはなれ、藩閥はんばつちから官僚かんりょう軍人ぐんじんとして立身りっしん目指めざし、一方いっぽう郷士ごうし出身しゅっしんしゃ警察けいさつ派閥はばつ形成けいせいした[10]。また、中央ちゅうおうられないもの地元じもと公務員こうむいん教員きょういん警察官けいさつかん消防しょうぼう吏員りいんみちすすむものがおおかった[11]1945ねん敗戦はいせんによりGHQのてこれがあるまで、鹿児島かごしま県政けんせいのこの政治せいじ構造こうぞうわらなかった[12]

多田ただ郷士ごうし

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著名ちょめい郷士ごうし

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大辞泉だいじせん
  2. ^ 郷士ごうし一般いっぱんについては国史こくしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん国史こくしだい辞典じてん 5』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん1996ねん)362ぺーじなどにくわしい。
  3. ^ 瀬谷せたに義彦よしひこちょ水戸みとはん郷士ごうし研究けんきゅう』(筑波つくば書林しょりん2006ねんISBN 4-86004-064-3 参照さんしょう
  4. ^ 土佐とさはんはんくらべて階級かいきゅう制度せいど厳格げんかくであったとするのは、階級かいきゅう闘争とうそう史観しかんかれた司馬しばりょう太郎たろうなどの歴史れきし小説しょうせつによるフィクションであり、史実しじつとはことなる。
  5. ^ 島津しまづれつあさ制度せいど参照さんしょう実例じつれいとして松方まつかた正義まさよし有馬ありま新七しんしちちち郷士ごうしから城下じょうか養子ようしとなっている。
  6. ^ 田布施たぶせ郷士ごうしであった江田えだおよ田布施たぶせ郷士ごうし加治木かじき郷士ごうしであった二階堂にかいどう島津しまつつなたか側室そくしつ輩出はいしゅつしたえん城下じょうかになり、のち家老がろう輩出はいしゅつしている。
  7. ^ ただしこれは制度せいどじょう石高こくだか算入さんにゅうしない免税めんぜい自主じしゅ開墾かいこんであった。
  8. ^ 薩摩さつまはんでは身分みぶんによりだか制限せいげんされていた。郷士ごうしは100せきだったが戊辰戦争ぼしんせんそう藩政はんせい改革かいかくで50せき縮小しゅくしょうされ、上級じょうきゅう郷士ごうし城下じょうか不信ふしん一因いちいんとなる。
  9. ^ とく上級じょうきゅう郷士ごうし上記じょうきとお戊辰戦争ぼしんせんそう藩政はんせい改革かいかく権益けんえきうばわれた過去かこがあり、さらにしょうてんろく支給しきゅう城下じょうか妨害ぼうがいでなかなかすすまなかった。
  10. ^ 初代しょだい警視総監けいしそうかん川路かわじ利良としよし身分みぶんひく与力よりき出身しゅっしんで、城下じょうかより郷士ごうし同情どうじょうてきであったためといわれる。事実じじつ立命館大学りつめいかんだいがく山崎やまざき有恒ありつね調査ちょうさによれば、西南せいなん戦争せんそう以後いご鹿児島かごしまけん出身しゅっしんしゃ警視庁けいしちょうへの採用さいようりつ大幅おおはばがっているという。京都きょうと新聞しんぶんになるリポート
  11. ^ ほん富安とみやす次郎じろうきゅう長岡ながおかはん出身しゅっしん)の『薩摩さつま見聞けんぶん』にもこれらをおどろきをもってかれている。
  12. ^ 鹿児島かごしまけん歴史れきし』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)、その

参照さんしょう文献ぶんけん

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文献ぶんけん

  • 国史こくしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん国史こくしだい辞典じてん 5』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねん
  • 瀬谷せたに義彦よしひこちょ水戸みとはん郷士ごうし研究けんきゅう』(筑波つくば書林しょりん、2006ねん
  • 徳島とくしまけんへんさん委員いいんかいへん徳島とくしまけんだい3かん徳島とくしまけん、1965ねん
  • 鹿児島かごしまけん歴史れきし』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)、その

史料しりょう

  • 島津しまづれつあさ制度せいど

URL

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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