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長宗我部ちょうそかべ

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長宗我部ちょうそかべ
家紋
まるななへんくえまるななつかたばみ
本姓ほんせい 不明ふめいはたすん自称じしょう
いえ 長宗我部ちょうそかべのうしゅん
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 土佐とさこく長岡ながおかぐんそう我部がぶきょう
おも根拠地こんきょち 土佐とさこく長岡ながおかぐんおかゆたか
のち吾川あがわぐん浦戸うらと
著名ちょめい人物じんぶつ 長宗我部ちょうそかべけんじょ
長宗我部ちょうそかべ国親くにちか
長宗我部ちょうそかべ元親もとちか
長宗我部ちょうそかべしんおや
長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか
長宗我部ちょうそかべ義親よしちか
支流しりゅう分家ぶんけ 大黒おおくろ武家ぶけ
中島なかじま武家ぶけ
江村えむら武家ぶけ) など
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

長宗我部ちょうそかべ(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本にっぽん武家ぶけひとつ。ちょう(曾)我部がぶともしるされる。室町むろまち時代ときよ以降いこうつうに「おや」をもちいた。家紋かもんは「なな酢漿草かたばみかたばみ」。

中世ちゅうせい土佐とさこく長岡ながおかぐんった在地ざいち領主りょうしゅ国人くにびと)で、土佐とさ有力ゆうりょくなな豪族ごうぞく土佐とさ七雄ななお)のひとつにかぞえられる。戦国せんごく時代じだい勢力せいりょくひろげ、もとおやだい戦国せんごく大名だいみょう成長せいちょう土佐とさ統一とういつする。さらに隣国りんごく阿波あわ進出しんしゅつしたが、羽柴はしば豊臣とよとみ秀吉ひでよし四国しこくやぶれ、土佐とさいちこくげんふうされて臣従しんじゅうする。その秀吉ひでよしした九州きゅうしゅう征伐せいばつ小田原おだわら征伐せいばつ文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき転戦てんせんする。

もとおやあといだ盛親もりちか関ヶ原せきがはらたたか西にしぐん参戦さんせん敗北はいぼく改易かいえきされる。盛親もりちかとその大坂おおさかじん大坂おおさかかた味方みかたして刑死けいしし、大名だいみょうとしての長宗我部ちょうそかべ滅亡めつぼう嫡流ちゃくりゅう絶家ぜっけしたとされる[注釈ちゅうしゃく 1]

出自しゅつじ

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古代こだい豪族ごうぞくはた[注釈ちゅうしゃく 2]子孫しそんとされるが[1][2]資料しりょうによる裏付うらづけは不十分ふじゅうぶん自称じしょう範囲はんいにとどまる。

はたかわしょうは、丁未ていみらん587ねん)で聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまこ物部守屋もののべのもりやたおしたさいこうて、信濃しなのこくあたえられた領地りょうちこうくに派遣はけんした。その子孫しそん信濃しなのこく更級さらしなぐん住人じゅうにんはたのうしゅん長宗我部ちょうそかべのうしゅん)が土佐とさこくはいって、長宗我部ちょうそかべしょうしたとされる[3]のうしゅん土佐とさ入部にゅうぶした時期じきせつによっておおきくことなるが、平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき入国にゅうこくしたものとかんがえられる。

のうしゅん土佐とさこく長岡ながおかぐんむねきょうそう我部がぶきょうげん南国なんこく岡豊おこうまち国分こくぶ周辺しゅうへん)に定住ていじゅうしたためそう我部がぶ自称じしょうしたが、近隣きんりん香美かがみぐんにもそうきょうそう我部がぶきょうげん香南こうなん赤岡あかおかまち吉川よしかわまち周辺しゅうへん)があってむね我部がぶ名乗なの一族いちぞくがいたため、長岡ながおかぐんむね我部がぶ長宗我部ちょうそかべとし、香美かがみぐんむね我部がぶは「こうむね我部がぶ」を名乗なのってたがいを区別くべつしたとわれる[5]鎌倉かまくら時代じだい初期しょきたてひとし元年がんねん1201ねん)にはすでに「こうむね我部がぶ」の書状しょじょうえる[2][注釈ちゅうしゃく 3]。なお、『もとおや』などにもとづいて長宗我部ちょうそかべ国司こくしとして下向げこう土着どちゃくしたとするせつがあるが、国司こくし任官にんかん実証じっしょうする史料しりょうはない[2]

海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうは、長宗我部ちょうそかべは、蘇我そが管理人かんりにんであったはた、あるいは蘇我そがそのものの末裔まつえいであるとするせつ提唱ていしょうした[6]

長宗我部ちょうそかべ」の表記ひょうき

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長宗我部ちょうそかべほんぬきである土佐とさこく長岡ながおかぐんそう我部がぶきょうふるくより「むね」・「ばい[7]などと記載きさい一定いっていしなかったこともあり、この名字みょうじ表記ひょうきも「長宗我部ちょうそかべ」・「ちょう(曾)我部がぶ[注釈ちゅうしゃく 4]両方りょうほうもちいられている。以下いかほんこうでは「長宗我部ちょうそかべ」に統一とういつする。

みは現代げんだいでは「ちょうそかべ」が普通ふつうである。しかし安土あづち桃山ももやま時代じだい文献ぶんけんると、『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき』では「ちやうすかめ」、『多聞たもんいん日記にっき』では「チヤウスカメ[8]という仮名かめい表記ひょうきになっており、さらにルイス・フロイスの『日本にっぽん』に「Chosugami」とあることから仮名かめい表記ひょうきの「か」「カ」は濁音だくおんかんがえられ、当時とうじは(現代げんだい仮名遣かなづかあらわせば)「ちょうすがめ」とんでいた可能かのうせいたかい。

一方いっぽうげん当主とうしゅの17代目だいめ長宗我部ちょうそかべともおやは「ちょうそべ」のみをもちいている[注釈ちゅうしゃく 5]

歴史れきし

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初期しょき

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岡豊おこうさん遠景えんけい
岡豊おこうじょうからこうちょう平野へいや

土佐とさ入国にゅうこくした長宗我部ちょうそかべは、長岡ながおかぐんおかゆたか(おこう、げん南国なんこく岡豊おこうまち)の拠点きょてんとした。当時とうじ土佐とさこく高知平野こうちへいやげん高知こうちけん高知こうち中心ちゅうしん)が開拓かいたくであったことから、こうちょう平野へいや長岡ながおかぐん香美かがみぐん)を中心ちゅうしんとしていた。戦国せんごく時代じだいには長宗我部ちょうそかべ岡豊おこうさんきずいた岡豊おこうじょう居城きょじょうとしているが、これは初代しょだいのうしゅん入部にゅうぶきずいたものを南北なんぼくあさ時代じだい修築しゅうちく戦国せんごく時代じだいにおいて城郭じょうかくとしての規模きぼととのえたとつたえられている[2]

7だい兼光かねみつころにはおおくの庶流していることから、当時とうじ一般いっぱんてき支配しはい体制たいせいである惣領そうりょうせいにより発展はってんしたとかんがえられる[2]

南北なんぼくあさ室町むろまち時代ときよ

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南北なんぼくあさ時代じだい争乱そうらんにおいては、11だいしんのう足利あしかがかたぞくし、土佐とさこく守護しゅごであった細川ほそかわあらわした長岡ながおかぐん八幡やはたさん東坂本ひがしさかもとにおいて南朝なんちょう勢力せいりょくたたかっている。そのこう香美かがみぐん吉原よしわらしょうげん香南こうなん吉川よしかわまち西部せいぶ)のほか長岡ながおかぐん香美かがみぐん土佐とさぐん各地かくちけい1134まち後世こうせい天正てんしょう検地けんち石高いしたか、1まちはおよそ10せき)の土地とちあたえられ、発展はってん基礎きそきずいている[2]

12だいけんのうは、貞和さだかず元年がんねん1345ねん細川ほそかわにより吸江ぎゅうこうあんげん吸江ぎゅうこうてらてら奉行ぶぎょうにんじられている[2]吸江ぎゅうこうあんぶん2ねん1318ねん)にゆめまどうとせきによって創建そうけんされた、当時とうじ名刹めいさつであった。てら奉行ぶぎょう解任かいにんされたという記事きじは16だいぶんけんまでないので、そのまま世襲せしゅうされたとかんがえられる[2]

14だいのうおもだいには、至徳しとく3ねん1386ねんごろ吉原よしわらしょう全域ぜんいき支配しはいおさめている。土佐とさこく守護しゅごだいとして細川ほそかわよりゆきえき細川ほそかわどおしゅう 初代しょだい)が入部にゅうぶしたのはかんれき2ねん1380ねん)であり、細川ほそかわとのつながりを背景はいけいに、吸江ぎゅうこうあんてら奉行ぶぎょう吉原よしわらしょうち、相当そうとう勢力せいりょくゆうしたとかんがえられている[2]

戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく時代じだいはいり、16だいぶんけんだいでは、応仁おうにんらん戦乱せんらんのが一条いちじょうきょうぼう土佐とさ一条いちじょう 初代しょだい)が土佐とさ下向げこうしている[注釈ちゅうしゃく 6]ぶんけん文明ぶんめい3ねん1471ねん)、長子ちょうしもともん(17だい)を追放ついほうしており、それがもとで吸江ぎゅうこうあんてら奉行ぶぎょう解任かいにんされ、いくつかの領地りょうち支配しはいからはなれている[10]もともんはこのさいひさしたけ中内なかうちれて武者むしゃ修行しゅぎょうて、伊勢いせこく桑名くわなにおいて桑名くわな家臣かしんくわえた[10][注釈ちゅうしゃく 7]。これら3は、のちに長宗我部ちょうそかべさん家老がろうかぞえられる。ぶんけんもともん争乱そうらんは、もともんおとうとおや(18だい)が家督かとくぐことで決着けっちゃくし、おやいくつかのてら再興さいこうおこなっている。

応仁おうにんらん以後いご全国ぜんこくてき争乱そうらんはじまる。中央ちゅうおうおおきな権力けんりょくった本家ほんけ細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつえいただし錯乱さくらん)されたことで、土佐とさ守護しゅごだい細川ほそかわふく各地かくち細川ほそかわ一族いちぞく京都きょうと上洛じょうらく。これにより土佐とさもまた、守護しゅごによる領国りょうごく支配しはいわって戦国せんごく時代じだいむかえることとなる。この時期じき土佐とさこくは、盟主めいしゅてき存在そんざいである土佐とさ一条いちじょうしたに、土佐とさ七雄ななおばれる長宗我部ちょうそかべふくめたなな国人くにびと割拠かっきょしていた。

このようにもっとよわ勢力せいりょくであった長宗我部ちょうそかべは、19だいけんじょけんじょ法名ほうみょう正式せいしきめい元秀もとひで)のとき岡豊おこうじょうわれ、一時いちじ滅亡めつぼうする。その経緯けいいには、諸説しょせつある。

  • けんじょ主君しゅくん細川ほそかわまさしもと存命ぞんめいはそのりて勢力せいりょくばしたが前述ぜんじゅつせいもと暗殺あんさつ周辺しゅうへん豪族ごうぞく反感はんかんえいただし5ねん1508ねん)、本山もとやま山田やまだよしりょう大平おおひら連合れんごうぐん3せんにより落城らくじょうしたというせつ(『土佐とさ物語ものがたり』)。
  • 吸江ぎゅうこうあん寺領じりょう問題もんだいで、大津おおつじょう拠点きょてんとした天竺てんじくほろぼされたというせつ

いずれのせつにおいても、戦乱せんらんけんじょ遺児いじせんゆうまるしろ脱出だっしゅつし、土佐とさ一条いちじょうのいる中村なかむらびて保護ほごされたとされる。

せんつよしまる土佐とさ一条いちじょう当主とうしゅ一条いちじょうぼうした元服げんぷくして長宗我部ちょうそかべ国親くにちか名乗なのった。そしてぼう配慮はいりょによりえいただし15ねん1518ねん岡豊おこうじょう帰還きかんして長宗我部ちょうそかべ復興ふっこう、20だい当主とうしゅとなる[10]国親くにちか本山もとやま表向おもてむしゅむすんだじょうで、吉田よしだ婚姻こんいん関係かんけいむす地位ちい安定あんていはかるとともに、近在きんざい天竺てんじく横山よこやま山田やまだ周辺しゅうへん豪族ごうぞくほろぼし、勢力せいりょく拡張かくちょうした。えいろく3ねん1560ねん)には本山もとやま反旗はんきひるがえ長浜ながはまたたか敗走はいそうさせたが、どうながろく3ねん(1560ねん病死びょうしした。

長宗我部ちょうそかべ元親もとちか

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長宗我部ちょうそかべ元親もとちか ぞう
はた神社じんじゃ所蔵しょぞう

国親くにちかあといだ21だい長宗我部ちょうそかべ元親もとちか時代じだいに、長宗我部ちょうそかべ最盛さいせいむかえる。もとおやちち国親くにちか遺志いしいでえいろく5ねん1562ねん本山もとやまほろぼし、どうながろく6ねん1563ねん)にはおとうとおやさだよしりょう併合へいごうどうながろく12ねん1569ねん)には安芸あきほろぼしている。これまでのあいだむね我部がぶとは同盟どうめい関係かんけいにあったが、安芸あき打倒だとうおとうとおややすしにゅう嗣し、併合へいごうおこなわれた[11]。また、もとかめ2ねん1571ねん津野つのに3なん親忠ちかただ養子ようしとしてはいって併合へいごうおこなった。このように六雄むつお大平おおひら一条いちじょうにより滅亡めつぼう)を支配しはいしたもとおやは、土佐とさ一条いちじょう内乱ないらんじょうじ、追放ついほうされた当主とうしゅ一条いちじょう兼定かねさだわって天正てんしょう2ねん1574ねん)に兼定かねさだ一条いちじょう内政ないせい大津おおつじょうれ「大津おおつ御所ごしょ」として傀儡かいらいかいらいかした。どう天正てんしょう3ねん1575ねん)に一条いちじょう兼定かねさだ侵攻しんこうしたときには四万十川しまんとがわたたかでこれをやぶり、一条いちじょう残存ざんそん勢力せいりょくほろぼして土佐とさこく完全かんぜん平定へいていした。

そのもとおやはさらに、白地しろじじょう拠点きょてんとして伊予いよこく阿波あわこく讃岐さぬきこくにも積極せっきょくてき進出しんしゅつし、河野こうの三好みよし駆逐くちくしていき、天正てんしょう13ねん(1585ねん四国しこくをほぼ統一とういつしたとされる。ただし、四国しこく統一とういつ達成たっせいしたかどうかについては異論いろんがある[注釈ちゅうしゃく 8]。しかしながら、どう天正てんしょう13ねん(1585ねん)におこなわれた羽柴はしば秀吉ひでよし四国しこく敗北はいぼくし、土佐とさいちこくげんふうされる。そのは、九州きゅうしゅう征伐せいばつ小田原おだわら征伐せいばつ文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき秀吉ひでよししたがって転戦てんせんする。

従軍じゅうぐんした九州きゅうしゅう征伐せいばつでは、天正てんしょう14ねん1587ねん)の戸次とつぎがわたたかもとおや嫡男ちゃくなん長宗我部ちょうそかべしんおや戦死せんしする。もとおや世継よつぎをめぐってのあらそいでおい吉良きら親実ちかざねころ粛清しゅくせいおこなったうえ、よんなん長宗我部ちょうそかべ盛親もりちかしんじおやむすめめとらせ、世継よつぎとした。このとき次男じなん香川かがわ親和しんな憤死ふんしし、のちに三男さんなん津野つの親忠ちかただ幽閉ゆうへい殺害さつがいされている。なお、これはたんなる継嗣けいし騒動そうどうではなく、戦国せんごく時代じだい長宗我部ちょうそかべ重職じゅうしょくめた国人くにびと勢力せいりょく長宗我部ちょうそかべない権力けんりょく構造こうぞう体制たいせい)の変化へんかにより解体かいたいされたというせつもある[12]

家臣かしん所領しょりょう天正てんしょう15ねん1587ねん時点じてん。1まち = ~10せき[13]

  • 長宗我部ちょうそかべ直轄ちょっかつりょう - 2,300まち
    • よしりょう - 1,300まち
    • 津野つの - 1,000まち
    • 片岡かたおか - 1,000まち
    • こうむね我部がぶ - 540まち

土佐とさ統一とういつ過程かてい長宗我部ちょうそかべ臣従しんじゅうした国人くにびと一族いちぞくは、このようにおおくの所領しょりょうゆうしており、集権しゅうけんにあたって障害しょうがいとなったため、粛清しゅくせいされたともかんがえられる[12]。こののちは、元親もとちか死去しきょまでもとおや盛親もりちかとう政治せいじおこなわれている。

天正てんしょう15ねん1587ねん)、九州きゅうしゅう征伐せいばつ従軍じゅうぐんから帰国きこく大高おおたか坂山さかやまげん高知こうちじょうのあるやま)にしろきずき、岡豊おこうじょうから居城きょじょううつした[注釈ちゅうしゃく 9]。しかし、みずはけがわるかったため、天正てんしょう19ねん1591ねん)にもとおやは3ねん大高おおたかざか山城やましろて、浦戸うらと浦戸うらとしろきずいた。ただし、もとおや大高おおたかざか山城やましろてたとする見解けんかい山内やまうち支配しはい江戸えど時代じだい史料しりょうはじめて登場とうじょうしたものであること、浦戸うらとしろ規模きぼちいささや浦戸うらと移転いてん大高おおたかざか周辺しゅうへん整備せいびすすめられていた形跡けいせきがあることから、浦戸うらとじょう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい対応たいおうした一時いちじてき拠点きょてんぎず、大高おおたかざか山城やましろ整備せいびつづおこなわれていたとするせつもある[11]

慶長けいちょう2ねん1597ねん)には、元親もとちか盛親もりちか父子ふしによりぶん国法こくほうとして『長宗我部ちょうそかべおきてしょ長宗我部ちょうそかべ元親もとちかひゃく箇条かじょう』が制定せいていされている。

長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか

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慶長けいちょう4ねん1599ねん)にもとおや死去しきょし、長宗我部ちょうそかべ盛親もりちかだい22だい当主とうしゅとなる。よく慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか盛親もりちか当初とうしょひがしぐんにつこうとしたが、徳川とくがわ家康いえやすへの密使みっし関所せきしょかれ、西にしぐんあずか(くみ)する。本戦ほんせんでは実際じっさい戦闘せんとう参加さんかしないまま西にしぐん敗戦はいせんし、戦後せんご津野つの親忠ちかただ殺害さつがいしたことをとがめられ、所領しょりょう没収ぼっしゅうされて改易かいえきとなる(浦戸うらとはん)。なお、盛親もりちか家督かとく継承けいしょう経緯けいいなどが問題もんだいされたためか、もとおや死後しご豊臣とよとみ政権せいけん盛親もりちか長宗我部ちょうそかべ家督かとく土佐とさ支配しはい継承けいしょう正式せいしきには承認しょうにんしないまま、関ヶ原せきがはらたたかむかえたとするせつもある[15]

江戸えど時代じだい

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盛親もりちかは、慶長けいちょう19ねん1614ねん)からどう慶長けいちょう20ねん1615ねん)の大坂おおさかじん豊臣とよとみかたくみしたが、豊臣とよとみかたやぶれたため、盛親もりちかはもとより盛親もりちからもすべて斬首ざんしゅされた。盛親もりちか末弟ばっていもとおや直系ちょっけい唯一ゆいいつびた長宗我部ちょうそかべかんゆたか助命じょめいされたが、姓名せいめい足立あだち改名かいめいしたため、事実じじつじょう長宗我部ちょうそかべ直系ちょっけいえた。長宗我部ちょうそかべ国親くにちかよんなん親房ちかふさしま名乗なのり(しまおやえき)、その子孫しそんであるしまちかしてん土佐とさはん下級かきゅう藩士はんしとしてつかえた。おやてん大坂おおさかじん出陣しゅつじんして負傷ふしょう土佐とさこく帰還きかんしたのち長宗我部ちょうそかべ一族いちぞくであると出頭しゅっとう山内やまうちによって4年間ねんかん入牢にゅうろうさせられ、釈放しゃくほう歩行ほこうぐみ乗馬じょうばゆるされない藩士はんしはんない最低さいてい地位ちい)にはいった。しかしこのような身分みぶんにもかかわらずぎんかたやお台所だいどころかたといった要職ようしょくつとめ、さらに藩主はんしゅ山内やまうち忠義ただよしつかえることになったさい忠義ちゅうぎ直接ちょくせつからだすこやかならず」と書状しょじょうおくっている。このように本来ほんらいはいち下級かきゅう藩士はんしぎないはずのしんてん要職ようしょく藩主はんしゅ直接ちょくせつ書状しょじょういていることなどから、実際じっさい表向おもてむきには公表こうひょうできないなんらかの長宗我部ちょうそかべ一族いちぞくであったことが推定すいていされる[16]絶家ぜっけした直系ちょっけいわり、このしま現代げんだい長宗我部ちょうそかべ当主とうしゅつながっているが、土佐とさはん時代じだい長宗我部ちょうそかべへの復姓ふくせい家紋かもん使用しようきんじられていた。ふたた長宗我部ちょうそかべ名乗なのったのは明治めいじになってからである[17]


もとおやおい吉良きら親実ちかざねもとおやおとうと吉良きらちかしさだ)の子孫しそん肥後ひごはん細川ほそかわつかえ、傍系ぼうけい一族いちぞく他家たけつかえるか帰農きのうしてきながらえた。このさいしませいなど名字みょうじ改姓かいせいし、明治めいじ時代じだいにいたって長宗我部ちょうそかべちょう(曾)我部がぶせいふくしたものおおい。

もとおやさんじょ佐竹さたけちかしただしとついでいた阿古あこひめは、大坂おおさかじんさい伊達だてまさしむねとらえられたが助命じょめいされ、二人ふたり息子むすことも仙台せんだいはんつかえた。息子むすこたちはそれぞれ重臣じゅうしんいえ養子ようしりし(五十嵐いがらし元成もとなり柴田しばたちょう)、仙台せんだいにおいてもとおやをつないだ。このため、阿古あこひめ母子ぼしたよって仙台せんだいった長宗我部ちょうそかべゆかりの人々ひとびともおり、こうむね我部がぶさだおや養子ようしじゅうおや仙台せんだいはんかかえられたほか、吉松きちまつおんなははもとおやよんじょ)が従兄弟いとこあさ継室けいしつとなっている。

由井ゆい正雪しょうせつ片腕かたうでといわれた丸橋まるはし忠弥ちゅうや長宗我部ちょうそかべもりきよし)は、長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか子孫しそんしょうしていた。また、幕末ばくまつ尊皇そんのう志士ししとして徳島とくしま藩士はんし長宗我部ちょうそかべふとし七郎しちろうがおり、生野いくのへん参加さんかするが、文久ぶんきゅう3ねん1863ねん10月14にち但馬たじまこく山口やまぐちむら[よう曖昧あいまい回避かいひ]妙見みょうけんどう自刃じじんしたという。没後ぼつご靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされる[18]

きん現代げんだい

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長宗我部ちょうそかべ元親もとちか末弟ばっていのち土佐とさ藩士はんしとなった親房ちかふさから15代目だいめ当主とうしゅおやちかしはやしうまりんまはた霊華れいかとも)となった。おやちかし祖父そふじゅうおやむすめすえ(すえ)の次男じなんである。家系かけい継続けいぞくあやぶまれ本家ほんけはいることとなった。

おやちかし長宗我部ちょうそかべ末裔まつえいとして昭和しょうわ天皇てんのう勅使ちょくしからもとおやせいさんへの贈位ぞういしょたまわっている。このさい家系かけい選定せんていについて、郷土きょうど史家しか寺石てらいし正路まさじ(てらいしまさみち)がみや内省ないせいとの調整ちょうせいたった。じゅうおやにはほかにも男系だんけい子孫しそんがいた一方いっぽうおやちかし女系じょけいであるが、寺石てらいしらによれば男系だんけい子孫しそん辞退じたいをしたらしい[19]

四国しこくでは昭和しょうわ時代じだい後期こうきいたっても長宗我部ちょうそかべ特別とくべつひびきをっており、かつて一部いちぶ支配しはいだった香川かがわけんきゅう讃岐さぬきこく選出せんしゅつ首相しゅしょうつとめた大平おおひら正芳まさよしは、17だい当主とうしゅともおや取材しゅざいけたさいに「わが長宗我部ちょうそかべさま足元あしもとにもおよばないよ」とおどろいたという[17]

歴代れきだい当主とうしゅ

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盛恒もりつねまで

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  1. 長宗我部ちょうそかべのうしゅん - 江村えむら分流ぶんりゅう
  2. 長宗我部ちょうそかべしゅんむね - 久礼田くれだ分流ぶんりゅう
  3. 長宗我部ちょうそかべ忠俊ただとし
  4. 長宗我部ちょうそかべしげる
  5. 長宗我部ちょうそかべこう
  6. 長宗我部ちょうそかべ満幸みつゆき - 大黒おおくろ野田のだ上村うえむら中島なかじま分流ぶんりゅう
  7. 長宗我部ちょうそかべ兼光かねみつ
  8. 長宗我部ちょうそかべ重俊しげとし
  9. 長宗我部ちょうそかべしげるだか
  10. 長宗我部ちょうそかべ重宗しげむね
  11. 長宗我部ちょうそかべしんのう
  12. 長宗我部ちょうそかべけんのう - ひかりとみひかりとめ馬場ばば分流ぶんりゅう
  13. 長宗我部ちょうそかべけんつな
  14. 長宗我部ちょうそかべのうおも
  15. 長宗我部ちょうそかべ元親もとちか - 南北なんぼくあさ時代じだい当主とうしゅであり、戦国せんごく時代じだいもとおやとはことなる。
  16. 長宗我部ちょうそかべぶんけん
  17. 長宗我部ちょうそかべもともん
  18. 長宗我部ちょうそかべつよしおや
  19. 長宗我部ちょうそかべ元秀もとひでけんじょ - 戸波となみ江山えやま分流ぶんりゅう
  20. 長宗我部ちょうそかべ国親くにちか
  21. 長宗我部ちょうそかべ元親もとちか
  22. 長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか
  23. 長宗我部ちょうそかべ盛恒もりつね

盛恒もりつね以後いご

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大坂おおさかじんのち斬首ざんしゅされた盛恒もりつねだい宗家そうけ絶家ぜっけ以降いこう国親くにちかよんなんしまおやえき系統けいとうとされる。げん当主とうしゅともおや親房ちかふさおやえき)を初代しょだいおやてん五郎左衛門ごろうざえもん)を代目だいめとして、みずからは17代目だいめ当主とうしゅかぞえている。

  1. しまちかしてん五郎左衛門ごろうざえもん)- おやえき親房ちかふさ、あるいは吉良きらちかしさだよんなん吉良きらちかしえいとされるがどちらも年代ねんだいわない(#江戸えど時代じだい参照さんしょうのこと)。
  2. しま與助よすけ
  3. しま弥左衛門やざえもん
  4. しま久蔵きゅうぞう
  5. しまそう
  6. しまわたるみぎ衛門えもん
  7. しま弥四郎やしろう
  8. しま歡次
  9. しま與助よすけ
  10. しま與右衛門ようえもん
  11. しましげるおや與助よすけじゅうおや)- しま義親よしちかちち
  12. 長宗我部ちょうそかべよしちかし - 復姓ふくせい
  13. 長宗我部ちょうそかべ親衛しんえい
  14. 長宗我部ちょうそかべちかしはやしうま)- 「ちかし」とむ。長宗我部ちょうそかべ系図けいず史料しりょう整理せいりした。
  15. 長宗我部ちょうそかべともいのしし
  16. 長宗我部ちょうそかべともおや - げん当主とうしゅ長宗我部ちょうそかべたかし高知こうち長浜ながはま

系譜けいふ

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はた起源きげんせつのっとった系図けいず

鎌倉かまくら時代ときよ - 戦国せんごく時代じだい

戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい

系譜けいふ参考さんこう

家紋かもん

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  • 定紋じょうもんなな酢漿草かたばみかたくえばとそうカタバミ

ほかに、「かけせん(ほかけぶね)」や「慈姑くわいクワイ)」を定紋じょうもん使用しようしている[2]家紋かもんにまつわるはなしとして、家臣かしん福留ふくとめ功績こうせきによりなな酢漿草かたばみからひとつをいた「むっ酢漿草かたばみ」を家紋かもんとしてあたえられたはなしつたわる。

長宗我部ちょうそかべたいさんせんかんりょうする綸旨りんじくだされたさいたまわったさかずきにカタバミのかんでいたことから、カタバミを家紋かもんとした[20]とされている。かけせんは、はた大陸たいりくからうみわたって来朝らいちょうしたのにもとづくとわれ[2]盛親もりちか最期さいごさいかけせん家紋かもんをあしらったはかまていたとされている。

ぶん国法こくほう

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家臣かしん組織そしき

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さん家老がろう[21]
  • 桑名くわな
  • 中内なかうち
  • ひさしたけ
一族いちぞく
  • 中島なかじま
  • 江村えむら
  • 大黒おおくろ
  • 上村うえむら国吉くによし
その主要しゅよう家臣かしん氏族しぞく
  • たに
  • 福留ふくとめ福富ふくとみ
  • 吉田よしだ
  • 池添いけぞえ
長宗我部ちょうそかべ水軍すいぐん
いちりょう具足ぐそく

おもたたか

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戦国せんごく時代じだい

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四万十川しまんとがわ
十河そごう城跡じょうせき
土佐とさこく統一とういつせん
四国しこく統一とういつせん
四国しこく征伐せいばつ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 盛親もりちか子孫しそん名乗なのもの複数ふくすういるが、いずれの場合ばあい子孫しそんであるとは証明しょうめいされていない。
  2. ^ はた先祖せんぞ弓月ゆづきくんはた始皇帝しこうてい後裔こうえいであるという(『新撰しんせん姓氏せいしろく太秦うずまさこう宿禰すくね こう)。
  3. ^ この書状しょじょうにより、のうしゅん入国にゅうこくの3つせつ否定ひていされうる。
  4. ^ 伝統でんとうてき字体じたいの「曾」、略字りゃくじたいの「」ともながらくひょうがい漢字かんじであったが、2000ねん平成へいせい12ねん)のひょうがい漢字かんじ字体じたいひょうでは曾・が印刷いんさつ標準ひょうじゅん字体じたい・が簡易かんい慣用かんよう字体じたいとされた。一方いっぽう2010ねん平成へいせい22ねん)の常用漢字じょうようかんじひょう改定かいていでは・が常用漢字じょうようかんじとして採用さいようされ、曾・はそのきゅう字体じたい位置付いちづけられることになった。ただ、ひょうがい漢字かんじ字体じたいひょうはそのままであり、2020ねんれい2ねん現在げんざいMS-IMEは曾・を印刷いんさつ標準ひょうじゅん字体じたい、「」を簡易かんい慣用かんよう字体じたい表示ひょうじしている。
  5. ^ ともおや著書ちょしょからは、「ちょうそがべ」が地元じもとでの通称つうしょうなのか、戸籍こせきじょう名前なまえなのかまでは判然はんぜんとしない[9]
  6. ^ 土佐とさ物語ものがたり』には文明ぶんめい10ねん1478ねん)にぶんけんむかえたとしるしているが、実際じっさいには『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』の記事きじ応仁おうにん2ねん1468ねん)に大平おおひらふね入国にゅうこくしたとおもわれる[2]
  7. ^ 修行しゅぎょうたのは長宗我部ちょうそかべもとかちとされるが、『土佐とさこくへん年紀としのりことりゃく』ではもともんあやまりである、としている。『土佐とさ物語ものがたり』・『四国しこく軍記ぐんき』では「もとかちおうひさし年間ねんかん武者むしゃ修行しゅぎょう」としるすが、「もともん応仁おうにん年間ねんかんに」の間違まちがいとかんがえられる[2]
  8. ^ 四国しこくめ#長宗我部ちょうそかべによる四国しこく統一とういつについて参照さんしょう
  9. ^ ただし、天正てんしょう13ねん1585ねん)にはもとおやすで大高おおたかざか本拠ほんきょにしていたとするせつもある[14]

出典しゅってん

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  1. ^ ぞくぐんしょ類従るいじゅう長宗我部ちょうそかべ系図けいず
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 山本やまもと 1974.
  3. ^ a b 更級さらしなぐん役所やくしょ更級さらしなぐん長野ながのけん更級さらしなぐん役所やくしょ、1914ねん 
    長野ながのけん更級さらしなぐん役所やくしょ へん更級さらしなぐん名著めいちょ出版しゅっぱん、1973ねんNDLJP:9536465https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001218652。"国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション"。 
  4. ^ 土佐とさ諸家しょか系図けいずいち』「?せい系図けいずのうしゅんこう
  5. ^ 山本やまもとまさる長宗我部ちょうそかべ苗字みょうじこう」『土佐とさ史談しだんだい90ごう、1957ねん 
  6. ^ 海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう全集ぜんしゅう だい17かん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ1970ねん昭和しょうわ45ねん))
  7. ^ 和名わみょう類聚るいじゅうしょう
  8. ^ 多聞たもんいん日記にっき だいさんかん』(さん教書きょうしょいん1926ねん大正たいしょう15ねん)) p.426(天正てんしょうじゅうさんねんろくがつ廿にじゅういちにち
  9. ^ 長宗我部ちょうそかべ 2017.
  10. ^ a b c 土佐とさこくへん年紀としのりことりゃくまき4。
  11. ^ a b 市村いちむら高男たかお戦国せんごく群雄ぐんゆう土佐とさこく」『高知こうちけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 
  12. ^ a b 平井ひらい 2008.
  13. ^ 横川よこかわ末吉すえきち長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょう研究けんきゅう高知こうち市立しりつ市民しみん図書館としょかん市民しみん叢書そうしょ〉、1961ねんNCID BN05087985https://archive.otepia.kochi.jp/webmuseum/detail?cls=book_kinds&pkey=LB200703913 
  14. ^ りょう裕昭ひろあき ちょ戦国せんごくまつ豊臣とよとみ土佐とさこくにおける城下町じょうかまち形成けいせい展開てんかい」、市村いちむら高男たかお へん中世ちゅうせい土佐とさ世界せかい一条いちじょう高志こうし書院しょいん、2010ねんISBN 978-4-86215-080-6 
  15. ^ 津野つの倫明みちあき長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか家督かとく継承けいしょう」(初出しょしゅつ図録ずろく長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか』(高知こうち県立けんりつ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん、2006ねん平成へいせい18ねん))/所収しょしゅう津野つの長宗我部ちょうそかべ研究けんきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん2012ねん平成へいせい24ねん))ISBN 978-4-642-02907-0
  16. ^ そらにわ-長宗我部ちょうそかべにわ 日本語にほんご
  17. ^ a b “(天声てんせい人語じんご)もうしょう長宗我部ちょうそかべなやみ”. 朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん. (2017ねん5がつ22にち). http://www.asahi.com/articles/DA3S12949554.html 
  18. ^ 明田あけた 1986, p. 98.
  19. ^ 長宗我部ちょうそかべ 2017, p. 95.
  20. ^ もとおや』。
  21. ^ ながもと』(『土佐とさこくぐんしょ類従るいじゅう』4(高知こうち県立けんりつ図書館としょかん2001ねん平成へいせい13ねん)))。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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一揆いっき

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事件じけん

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寺社じしゃ

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高知こうちけん
徳島とくしまけん
京都きょうと
  • 蓮光寺れんこうじ - 盛親もりちか墓所はかしょ

史料しりょう

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作品さくひん

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長宗我部ちょうそかべ元親もとちか長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか個人こじんかんする作品さくひん各々おのおの項目こうもく参照さんしょう。)

小説しょうせつ

外部がいぶリンク

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