(Translated by https://www.hiragana.jp/)
土佐七雄 - Wikipedia コンテンツにスキップ

土佐とさ七雄ななお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

土佐とさ七雄ななお(とさしちゆう)は、室町むろまち時代ときよ末期まっきから戦国せんごく時代じだいにかけて土佐とさこく存在そんざいした7つの豪族ごうぞく総称そうしょう

土佐とさ七雄ななお

[編集へんしゅう]

土佐とさこく古来こらいより罪人ざいにんなどがながされるであり、きた四国しこく山地さんちふさがれ、みなみ太平洋たいへいようめんしているため、どこにもけぬりく孤島ことうであった。 南北なんぼくあさ時代じだい細川ほそかわよりゆきえき守護しゅごだいとして入国にゅうこく安定あんていせたが、応仁おうにん元年がんねん1467ねん)の応仁おうにんらんのち細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつえいただし錯乱さくらん)からはじまる内紛ないふん細川ほそかわ衰退すいたいしていくと、在地ざいち豪族ごうぞくたち勢力せいりょくばしはじめた。これらが土佐とさ七雄ななおはじまりである。

もとかめ2ねん1571ねん)、土佐とさ最大さいだい勢力せいりょく本山もとやま長宗我部ちょうそかべ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか)に降伏ごうぶくしたことで、土佐とさ統一とういつげた。土佐とさ七雄ななおせいしたのは長宗我部ちょうそかべとなった。

その長宗我部ちょうそかべ阿波あわこく伊予いよこく讃岐さぬきこくへと進出しんしゅつし、四国しこく統一とういつたすべく活動かつどうするが、四国しこく統一とういつ目前もくぜん天正てんしょう13ねん1583ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる四国しこくけて降伏ごうぶく土佐とさいちこく安堵あんどされるにとどまった。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは、長宗我部ちょうそかべ関ヶ原せきがはらまで出陣しゅつじんするも不戦敗ふせんぱいとなり、土佐とさこくうしなった。その土佐とさこくは、徳川とくがわかた尾張おわり出身しゅっしん山内やまうち一豊かずとよ入国にゅうこくして土佐とさはんだてはん長宗我部ちょうそかべ遺臣いしん弾圧だんあつしたことで、土佐とさ七雄ななおおもて舞台ぶたいからえてしまった。

慶長けいちょう19ねん1614ねん)に勃発ぼっぱつした大坂おおさかじんでは、土佐とさこくわれていた当主とうしゅ長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか豊臣とよとみ秀頼ひでより味方みかたして活躍かつやくするも、最終さいしゅうてき豊臣とよとみかた敗北はいぼく長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか処刑しょけいされて長宗我部ちょうそかべ断絶だんぜつする。 土佐とさ七雄ななおのうち、武士ぶしとして家系かけいつないだのはこうむね我部がぶで、のち佐倉さくらはん堀田ほった家臣かしんとなっている。

豪族ごうぞく一覧いちらん

[編集へんしゅう]