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長宗我部ちょうそかべ元親もとちか

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長宗我部ちょうそかべちょうそかべ もとおやもとちか
絹本けんぽんちょしょく長宗我部ちょうそかべ元親もとちかぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん8ねん1539ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう4ねん5月19にち1599ねん7がつ11にち
改名かいめい 弥三郎やさぶろう幼名ようみょう)→ 元親もとちかゆき蹊恕さん法名ほうみょう
別名べつめい 通称つうしょう土佐とさ侍従じじゅう
渾名あだなひめ若子わかこおに若子わかこ土佐とさ出来できじんとりなきしま蝙蝠かわほり
戒名かいみょう 雪渓せっけいさんだい居士こじ
ゆき蹊恕さんだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ てんはじめ寺山てらやま高知こうちけん高知こうち[注釈ちゅうしゃく 1]
官位かんい したがえ宮内みやうちしょう[注釈ちゅうしゃく 2]土佐とさまもる侍従じじゅうおくせいおくせいさん
主君しゅくん 細川ほそかわはるもと一条いちじょう兼定かねさだ豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより
氏族しぞく [自称じしょうかりおかせはた] 長宗我部ちょうそかべ
父母ちちはは ちち長宗我部ちょうそかべ国親くにちか
はは斎藤さいとうむすめさちおおとりげん
兄弟きょうだい もとおやおやさだおややすしおやえき本山もとやま夫人ふじん本山もとやましげるたつしつ)、おんないけよりゆきしつ)、やしなえはじめあま波川はかわせいはじめしつ
つま 正室せいしつもとおや夫人ふじん石谷いしがやよりゆきたつ斎藤さいとう利三としみつ異父いふいもうと
側室そくしつしょう少将しょうしょう[注釈ちゅうしゃく 3]しょう宰相さいしょう
しんおや香川かがわ親和しんな津野つの親忠ちかただ盛親もりちか右近うこん大夫たいふぶんおやぶんほまれてつうし)、みん?、おんな一条いちじょう内政ないせいしつ)、おんな吉良きら親実ちかざねしつ)、阿古あこひめ佐竹さたけちかしただししつ)、おんな吉松よしまつじゅうみぎ衛門えもんしつ
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長宗我部ちょうそかべ 元親もとちか(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、日本にっぽん武将ぶしょう戦国せんごく大名だいみょう長宗我部ちょうそかべだい21だい当主とうしゅ幼名ようみょう弥三郎やさぶろう土佐とさこく岡豊おこうじょうおも国親くにちか長男ちょうなん

国司こくしいえ一条いちじょうし、土佐とさ統一とういつした。その各地かくち土豪どごうたおして四国しこく統一とういつした。しかし、豊臣とよとみ秀吉ひでよし四国しこく征伐せいばつによって降伏ごうぶくし、土佐とさいちこく領有りょうゆうゆるされた。秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつ小田原おだわら征伐せいばつ文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき従軍じゅうぐんした。「長宗我部ちょうそかべ元親もとちかひゃく箇条かじょう」をさだめた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

家督かとく相続そうぞく[編集へんしゅう]

天文てんもん8ねん1539ねん)、長宗我部ちょうそかべ国親くにちか嫡子ちゃくしとして、土佐とさこく岡豊おこうじょうまれる。土佐とさ守護しゅご細川ほそかわはるもとへんいみなけ、もとおや名乗なの[注釈ちゅうしゃく 4]

えいろく3ねん1560ねん)5がつちち国親くにちか土佐とさぐん朝倉あさくら城主じょうしゅ本山もとやまめた長浜ながはまたたかにおいて実弟じっていおやさだとも初陣ういじんする。かぞどし23さいというおそ初陣ういじんであったが、もとおや長浜ながはまひょうにおいて本山ほんざんぜい襲撃しゅうげきした長宗我部ちょうそかべぜいくわわり、みずかやりって突撃とつげきするという勇猛ゆうもうさをせたといわれる。この一戦いっせんもとおや武名ぶめいたかまり、長浜ながはませんつづ潮江しおえじょう(うしおえじょう→げん筆山ひつざん公園こうえん)のたたかいでも戦果せんかげた。

6がつちち国親くにちか急死きゅうしすると、家督かとく相続そうぞくする[注釈ちゅうしゃく 5]

土佐とさ統一とういつ[編集へんしゅう]

もとおや剽悍ひょうかんいちりょう具足ぐそく動員どういんして勢力せいりょく拡大かくだいおこなう。長浜ながはませんやぶれた本山もとやましげるたつもとおや攻撃こうげきされる一方いっぽうとなり、えいろく3ねんまつ段階だんかい現在げんざい高知こうちにおける南西なんせい一部いちぶのぞいてほぼ支配しはいいた。

えいろく4ねん1561ねん)3がつには本山ほんざんかた神田かんだ石立いしだてとしてしげるたつ朝倉あさくらしろ吉良きらしろむ。土佐とさ国司こくし幡多はたぐん中村なかむらしろ中心ちゅうしん影響えいきょうりょく中村なかむら御所ごしょばれていた一条いちじょう共同きょうどうし、えいろく5ねん1562ねん)9がつ16にち朝倉あさくらしろめをおこなう。このときはしげるたつもとおやおいたる本山もとやまちかししげる奮戦ふんせん敗北はいぼくした。9月18にちには鴨部かべ宮前みやまえりょうぐん決戦けっせんするが決着けっちゃくはつかなかった。だが、勢力せいりょくけん縮小しゅくしょうからしげたつ見限みかぎってもとおや寝返ねがえ家臣かしん相次あいつぎ、えいろく6ねん1563ねん)1がつしげたつ朝倉あさくらしろ放棄ほうきして本山ほんざんじょうもった。このとし美濃みの斎藤さいとうから正室せいしつむかえ、ちょうおとうとおやさだよしりょうがせている。また、おとうとおややすし国親くにちか生前せいぜんこうむね我部がぶいでおり、土佐とさ東部とうぶ安芸あきぐん支配しはいする安芸あきこくとらともたたかった。本山ほんざんかたは5月に頽勢たいせい挽回ばんかいはかって岡豊おこうじょう攻撃こうげきくわだてるも失敗しっぱい

えいろく7ねん1564ねん)4がつ7にちしげるたつ本山ほんざん放棄ほうきして瓜生野うりうのじょう高知こうちけん長岡ながおかぐん本山もとやままち瓜生野うりうの)にもって徹底てってい抗戦こうせんする。だが、この最中さいちゅうしげたつ病死びょうし[注釈ちゅうしゃく 6]あといだしんしげる抗戦こうせんするもついやぶれて、えいろく11ねん1568ねんふゆ降伏ごうぶくした[5][注釈ちゅうしゃく 7]。こうして土佐とさ中部ちゅうぶ完全かんぜん平定へいていした。

もとおやえいろく10ねん1567ねん)の毛利もうり伊予いよ出兵しゅっぺいによって勢力せいりょく激減げきげんさせた一条いちじょう兼定かねさだからの自立じりつ目論もくろみ、河野こうの独自どくじ戦勝せんしょういわいをおくるなど独立どくりつせいつよめていった。

えいろく12ねん1569ねん)、はちりゅうたたか安芸あきこくとらほろぼして土佐とさ東部とうぶ平定へいていもとかめ2ねん1571ねん)、一条いちじょう家臣かしん津野つのほろぼして三男さんなん親忠ちかただ養子ようしとしておくむ。

天正てんしょう2ねん1574ねん)2がつ一条いちじょう内紛ないふん介入かいにゅうして一条いちじょう兼定かねさだ追放ついほうして兼定かねさだ内政ないせいむすめとつがせて「大津おおつ御所ごしょ」という傀儡かいらいてた。こうしてもとおや土佐とさこくをほぼ制圧せいあつした。天正てんしょう3ねん1575ねん)に兼定かねさだ伊予いよ南部なんぶしょしょうひき再起さいきはかって土佐とさこくんできたときは、一時いちじ窮地きゅうちまれたが、おとうと吉良きらちかしさだ尽力じんりょくのもと、四万十川しまんとがわたたかでこれを撃破げきはし、土佐とさこく完全かんぜん統一とういつした。

阿波あわ讃岐さぬき伊予いよへの侵攻しんこう[編集へんしゅう]

土佐とさ統一とういつ中央ちゅうおう統一とういつ事業じぎょうすすめていた織田おだ信長のぶなが正室せいしつ縁戚えんせき関係かんけいから同盟どうめいむす[注釈ちゅうしゃく 8]伊予いよこく阿波あわこく讃岐さぬきこく侵攻しんこうしていく。

阿波あわ讃岐さぬき方面ほうめんでは、畿内きないだい勢力せいりょくほこっていた三好みよし織田おだ信長のぶながやぶれて衰退すいたいしていたが、十河そごうそん三好みよし康長やすなが三好みよしのこりによる抵抗ていこうや、天正てんしょう4ねん1576ねん)の吉良きらちかしさだ早世そうせいなどもあって、当初とうしょおもうように攻略こうりゃくすすまなかった。しかし、天正てんしょう5ねん1577ねん)に三好みよし長治ながはる戦死せんしするなど、三好みよし凋落ちょうらく顕著けんちょになる。

天正てんしょう6ねん1578ねん)2がつもとおや阿波あわ白地しろじじょうめ、大西おおにしさとしようった。また次男じなん親和しんわ讃岐さぬきこく有力ゆうりょく豪族ごうぞく香川かがわ信景さだかげ養子ようしとしておくんだ。阿波あわこくでは三好みよし長治ながはる実弟じってい十河そごうそんたも三好みよしかんしゅんはげしく抵抗ていこうするが、もとおや天正てんしょう7ねん1579ねんなつじゅう清城せいしろうばって十河そごうぐん大勝たいしょうした。かんしゅんたいしても岩倉いわくらじょうめて実子じっし人質ひとじちにとって降伏ごうぶくさせた。このとしには讃岐さぬきこくはねゆかなどももとおやまえ降伏ごうぶくし、天正てんしょう8ねん1580ねん)までに阿波あわ讃岐さぬき両国りょうこくをほぼ制圧せいあつした。なお、もとおや金毘羅こんぴらだい権現ごんげんまつ金毘羅こんぴらどうよう讃岐さぬき真言宗しんごんしゅう象頭山ぞうずさん松尾寺まつおじ重要じゅうようして、土佐とさからなだめげんむかえて院主いんじゅえ、仁王堂におうどう現在げんざいけんもん)を建立こんりゅうするなど寄進きしんをした。有名ゆうめい江戸えど時代じだい末期まっき民謡みんよう金毘羅こんぴらせん』の歌詞かしには「金毘羅こんぴら信仰しんこうわすれちゃいけない シュラシュシュシュ 長宗我部ちょうそかべ元親もとちか 神罰しんばつおそれて さかさにてたるけんもん」という一節いっせつがあり、意外いがいかたちもとおや事跡じせき後世こうせいつたえている。

伊予いよ方面ほうめんにおいては、みなみ地方ちほうではぐんだいであったひさしたけちかししん天正てんしょう7ねん(1579ねんはる岡本おかもとしろめで土居どいきよしりょうまえ戦死せんしするなどした。しかし、東予とうよ地方ちほうでは白地しろじから圧力あつりょくさそいをかけて金子かねこもとたく妻鳥めんどりともはる石川いしかわ勝重かつしげらを味方みかたにして平定へいていちゅう地方ちほう支配しはいしていた伊予いよ守護しゅご河野こうの毛利もうり援助えんじょもとおや抵抗ていこうしたため、もとおや伊予いよ平定へいてい長期ちょうきすることになった。

織田おだ信長のぶながとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

天正てんしょう8ねん(1580ねん)、信長のぶながもとおや四国しこく征服せいふくをよしとせず[注釈ちゅうしゃく 9]土佐とさこく阿波あわ南半みなみはんこくのみの領有りょうゆうみとめて臣従しんじゅうするようせま[注釈ちゅうしゃく 10]もとおや信長のぶなが要求ようきゅう拒絶きょぜつする[10]

このため信長のぶなが敵対てきたい関係かんけいになり[注釈ちゅうしゃく 11]天正てんしょう9ねん1581ねん)3がつには信長のぶなが助力じょりょく三好みよし康長やすなが十河そごうそんらの反攻はんこうけた。康長やすなが息子むすこかんしゅん寝返ねがえらせ、十河そごうそん中国ちゅうごく毛利もうり交戦こうせんしている羽柴はしば秀吉ひでよしつうじてもとおや圧迫あっぱくくわえた。ただし、十河そごうそん動向どうこうかならずしも信長のぶなが忠実ちゅうじつではなく、三好みよし康長やすなが阿波あわ国内こくないもとおや対抗たいこうするための拠点きょてん確立かくりつしたことを裏付うらづける史料しりょう以上いじょう天正てんしょう8ねん段階だんかい信長のぶながもとおや関係かんけい悪化あっかしたとする見方みかた疑問ぎもんし、天正てんしょう9ねん(1581ねん)11月に羽柴はしば秀吉ひでよし三好みよしわれていた野口のぐち長宗ながむねようして淡路あわじ平定へいていしたことで織田おだ勢力せいりょく長宗我部ちょうそかべ勢力せいりょく隣接りんせつし、その勢力せいりょく範囲はんい確定かくてい国分こくぶ)をめぐって対立たいりつはじめたのではないかとするせつもある[11]

天正てんしょう10ねん1582ねん)5がつには、神戸かんべ信孝のぶたかそう大将たいしょうとした四国しこく攻撃こうげきぐん編成へんせいされるなどの危機ききおちいった。このため三好みよし旧臣きゅうしんらはもとおや見限みかぎって康長やすなが寝返ねがえり、さらに阿波あわいち宮城みやぎえびす山城やましろとされた[注釈ちゅうしゃく 12]もとおや斎藤さいとう利三としみつあて書状しょじょう信長のぶながたい恭順きょうじゅんする意向いこうあらわしている[12]

四国しこく攻撃こうげきぐんは6がつ2にち渡海とかい予定よていであったが、その本能寺ほんのうじへんこって信長のぶなが明智あけち光秀みつひでころされた[注釈ちゅうしゃく 13][注釈ちゅうしゃく 14]信長のぶなが信孝のぶたかぐん解体かいたいして撤退てったいしたので、もとおや危機ききだっした。

四国しこく平定へいてい秀吉ひでよしとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

もとおや近畿きんき政治せいじ空白くうはくじょうじてふたた勢力せいりょく拡大かくだいはかり、宿敵しゅくてきであった十河そごうそんを8がつ中富なかとみがわたたかやぶって、阿波あわ大半たいはん支配しはいいた(だいいち十河そごうじょうたたか)。9月にはかちはしじょうもったそんやぶり、阿波あわ完全かんぜん平定へいていする。10月にはそんのがれた虎丸とらまるじょう十河そごうしろめた。

天正てんしょう11ねん1583ねん)の賤ヶだけたたかでは、柴田しばた勝家かついえむすんで羽柴はしば秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀吉ひでよし)と対抗たいこうする[注釈ちゅうしゃく 15]。 これにたいして、秀吉ひでよし家臣かしん仙石せんごく秀久ひでひさ淡路あわじ洲本すもとれてそなえた[15]。 またもとおやわれた十河そごうそん秀吉ひでよし援軍えんぐんもと[16]秀吉ひでよし秀久ひでひさ屋島やしまじょう高松たかまつじょうなど讃岐さぬき長宗我部ちょうそかべかたしろめさせるも敗退はいたい。さらに小西こにし行長ゆきなが水軍すいぐん香西こうざいうらめさせるもこれも敗退はいたいした。しかし4がつかち秀吉ひでよしやぶれてほろんだ。このため5がつ秀吉ひでよしもとおやつべく軍勢ぐんぜい準備じゅんびしていた[注釈ちゅうしゃく 16]

天正てんしょう12ねん1584ねん)の小牧こまき長久手ながくてたたかでも、織田おだ信雄のぶお徳川とくがわ家康いえやすらとむすんで秀吉ひでよし対抗たいこう[注釈ちゅうしゃく 17]秀吉ひでよしおくんできた仙石せんごく秀久ひでひさ軍勢ぐんぜいやぶった(引田ひきたたたかだい十河そごうじょうたたか)。また新居にのいぐん金子かねこもとたく同盟どうめいし、みなみ西園寺さいおんじ公広きみひろしょしろとすなど、伊予いよこくにおいても勢力せいりょく拡大かくだいした[注釈ちゅうしゃく 18]。 6月11にちには十河そごうしろとして讃岐さぬき平定へいていする。しかし小牧こまきたたかいは秀吉ひでよし信雄のぶお和睦わぼくするというかたち終結しゅうけつした。

伊予いよこく平定へいてい予想よそう以上いじょう手間取てまどった。天正てんしょう12ねん3がつ毛利もうり宍戸ししどもとこう河野こうの救援きゅうえんのために派遣はけんし、恵良えら長宗我部ちょうそかべぐん衝突しょうとつする。4月には高山こうざんで、5月から6がつにかけては恵良えら菊間きくまきくまん)で合戦かっせんおこなっている[20]もとおやひがし金子かねこもとたくとの同盟どうめいをさらに強固きょうこにして9がつから反攻はんこうてんじた。しかし渡海とかいして遠征えんせいしていた毛利もうりぐん次第しだい劣勢れっせいになり[注釈ちゅうしゃく 19]、12月にはつい河野こうのもとおや降伏ごうぶくした。その天正てんしょう13ねん(1585ねんはるまでに西にし豪族ごうぞくなども降伏ごうぶくさせた。

通説つうせつによると天正てんしょう13ねん1585ねん)には四国しこく全土ぜんどをほぼ統一とういつすることに成功せいこうしたとされているが[22]統一とういつされていないと主張しゅちょうする研究けんきゅうしゃ複数ふくすうおり、見解けんかいかれている。

秀吉ひでよし降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

天正てんしょう13ねん(1585ねんはる秀吉ひでよし紀州きしゅう征伐せいばつてこれを平定へいていすると[注釈ちゅうしゃく 20]秀吉ひでよしもとおやたいして讃岐さぬき返納へんのう命令めいれいした。もとおや割譲かつじょうすることで和平わへいこうじようとしたが[23][注釈ちゅうしゃく 21]秀吉ひでよしゆるさずおとうと羽柴はしば秀長ひでながそう大将たいしょうとする10まんえるぐん派遣はけんされると[注釈ちゅうしゃく 22]もとおや阿波あわ白地しろじじょう本拠ほんきょおもねさん海岸かいがんせん沿いに防備ぼうびかた抗戦こうせんする[注釈ちゅうしゃく 23]

秀吉ひでよし宇喜多うきた秀家ひでいえ黒田くろだ孝高よしたからを讃岐さぬきへ、小早川こばやかわ隆景たかかげ吉川よしかわ元長もとながひきいる毛利もうりぜい伊予いよへ、羽柴はしば秀長ひでなが秀次しゅうじへい阿波あわへと同時どうじ派遣はけんし、長宗我部ちょうそかべかたしろ相次あいついで攻略こうりゃくした。そして阿波あわ戦線せんせん崩壊ほうかいして白地しろじじょうまでのみちはだかさらされると、もとおや反戦はんせん家臣かしんたにただしきよしげんれて[注釈ちゅうしゃく 24]、7がつ25にち降伏ごうぶくし、阿波あわ讃岐さぬき没収ぼっしゅうされて土佐とさいちこくのみを安堵あんどされた[注釈ちゅうしゃく 25]四国しこく国分こくぶ)。 もとおや上洛じょうらくして秀吉ひでよし謁見えっけんし、臣従しんじゅうちかった[注釈ちゅうしゃく 26]。 これを蜂須賀はちすか正勝まさかつ家政かせい長宗我部ちょうそかべ取次とりつぎになったとされるが[29]取次とりつぎとしての実態じったい不明ふめいなために疑問ぎもんする研究けんきゅうしゃもいる[30]。また増田ますだちょうもり取次とりつぎとするせつもある[31]

豊臣とよとみ政権せいけん[編集へんしゅう]

天正てんしょう14ねん1586ねん)、秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつ嫡男ちゃくなんしんおやとともに従軍じゅうぐんし、島津しまつ圧迫あっぱくくるしむ大友おおとも救援きゅうえんかう。しかし、12月の戸次とつぎがわたたか島津しまづぐんさくにはまって敗走はいそうし、しんおや討死うちじにした[注釈ちゅうしゃく 27]もとおやしんじおやって自害じがいしようとしたが家臣かしんいさめで伊予いよこく日振島ひぶりしまびた。

天正てんしょう16ねん1588ねん)、本拠地ほんきょち大高おおだか坂城さかき移転いてんする[注釈ちゅうしゃく 28]。 そのこった家督かとく継承けいしょう問題もんだいでは、次男じなん香川かがわ親和しんわ三男さんなん津野つの親忠ちかただではなく、よんなん盛親もりちか家督かとくゆずることを決定けっていする[注釈ちゅうしゃく 29]。 そのさい反対はんたい家臣かしんであり一門いちもんでもある比江ひえさんおやきょう吉良きら親実ちかざねなどを相次あいついで切腹せっぷくさせている。[注釈ちゅうしゃく 30]

天正てんしょう17ねん1589ねん)ころ、羽柴はしば名字みょうじあたえられている[37]

天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつでは長宗我部ちょうそかべ水軍すいぐんひきいて参加さんかし、こう北条ほうじょう下田しもだじょうめ、さらに小田原おだわらじょう包囲ほうい参加さんかした。

天正てんしょう19ねん1591ねん)1がつ浦戸湾うらどわんまよんだ体長たいちょう9ひろくじらすうじゅうせき船団せんだんと100にんあまり人夫にんぷでもってだい坂城さかきうちまるごとみ、秀吉ひでよし大坂おおさか町人ちょうにんおおいにおどろかせた。年末ねんまつごろには本拠ほんきょ浦戸うらとしろ移転いてんする。通説つうせつでは洪水こうずいおお大高おおたかざか城跡じょうせき(げん高知こうちじょう)をもとおやきらったからとされているが、近年きんねんでは浦戸うらとじょう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいそなえた軍事ぐんじ拠点きょてんとしてきずかれたもので[38][39]将来しょうらいてきには大高おおたかざか城跡じょうせき居城きょじょうとして整備せいびするあんもあったと指摘してきもされている[40]。 また朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいがなくとも行政ぎょうせい機構きこう整備せいびおこなわれたとする指摘してきもある[41]

ぶんろく元年がんねん1592ねん)から朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき)にも従軍じゅうぐんする。豊臣とよとみ政権せいけんしょ大名だいみょう石高こくだかおうじて軍役ぐんえき人数にんずうしたが[42]長宗我部ちょうそかべ軍役ぐんえきは3,000にん固定こていされ[43]水軍すいぐんとしての軍事ぐんじりょく期待きたいされていた[44]慶長けいちょう元年がんねん1596ねん)にはサン=フェリペごう事件じけん対処たいしょし、秀吉ひでよしによるキリスト教きりすときょう迫害はくがいがねつくった。領内りょうないでは検地けんちおこない、慶長けいちょう2ねん1597ねん)3がつ盛親もりちかともぶん国法こくほうである『長宗我部ちょうそかべ元親もとちかひゃく箇条かじょう』を制定せいていする。

最期さいご[編集へんしゅう]

慶長けいちょう3ねん1598ねん)8がつ18にち秀吉ひでよし死去しきょすると政情せいじょう不安定ふあんていになる。もとおや年末ねんまつまで伏見ふしみ屋敷やしき滞在たいざいし、11月26にち徳川とくがわ家康いえやす訪問ほうもんけた[注釈ちゅうしゃく 31]。その年末ねんまつ年明としあけに土佐とさ帰国きこくした。

慶長けいちょう4ねん(1599ねん)3がつ三男さんなん津野つの親忠ちかただ幽閉ゆうへいしている[46]。その直後ちょくごから体調たいちょうくずしだした。4月、病気びょうき療養りょうようのために上洛じょうらくし、伏見ふしみ屋敷やしき滞在たいざい。4月23にちには豊臣とよとみ秀頼ひでより謁見えっけんしている。

だが、5月にはいって重病じゅうびょうとなり、京都きょうと大坂おおさかから名医めいいばれるも快方かいほうにはかわず、死期しきさとったもとおやは5がつ10日とおか盛親もりちか遺言ゆいごんのこして[47]、5月19にち死去しきょした[48]享年きょうねん61[48]高知こうちけん高知こうち長浜ながはまたかしはじめさんにあったてんはじめてら(廃寺はいじ)にほうむられる[48]法号ほうごうゆき蹊恕さん禅定ぜんじょうもん[48]

昭和しょうわ3ねん1928ねん)11がつ10日とおかおくせいさん

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

太平たいへいえいいさみでんななじゅうちょう曽我部そがべ宮内みやうちしょう輔元おや落合おちあいかおるいくさく

家督かとく相続そうぞくまえ[編集へんしゅう]

幼少ようしょうころは、長身ちょうしんだが色白いろじろ大人おとなしくひとっても挨拶あいさつ返事へんじもせずにぼんやりしていたため、軟弱なんじゃくともうつけしゃともひょうされる性格せいかくから「ひめ若子わかこ」(ひめわこ)と揶揄やゆされており、ちち国親くにちか跡継あとつぎとしてなやんでいた[49]

初陣ういじん長浜ながはまたたかさい家臣かしんはたいずみてら豊後ぶんごやり使つかかた大将たいしょう行動こうどういたという逸話いつわがある[50]はたいずみてら豊後ぶんごは「やりてきはなくようにし、大将たいしょうさきけずおくさずにいるもの」とこたえた。そしていざせんになるともとおやはそのとおりに行動こうどうし、てきへい見事みごとくずし(『もとおや』)、「おに若子わかこ」と賞賛しょうさんされた[注釈ちゅうしゃく 32]

一条いちじょう臣従しんじゅう時代じだい寺社じしゃ奉行ぶぎょうであった関係かんけいからか、熱心ねっしん寺社じしゃ復興ふっこうおこなっており、四国しこく統一とういつせん最中さいちゅうにも讃岐さぬきこく寺院じいん復興ふっこうさせるなど、手厚てあつ僧侶そうりょ保護ほごしており、たにただしきよしゆうなど神官しんかん僧侶そうりょ出身しゅっしんもの家臣かしん抜擢ばってきされるれいおおかった。とくゆうもとおや信頼しんらい出頭しゅっとうじんとして領国りょうごく支配しはい広範こうはん権限けんげん行使こうしした[51]

四国しこく制圧せいあつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

土佐とさいちこく統一とういつする大名だいみょう成長せいちょうし、土佐とさ出来できじんばれた[52]

土佐とさ統一とういつしたのち天正てんしょう5ねん1577ねん)、阿波あわくもてらおとずれ、住職じゅうしょくしゅんたかしぼう四国しこく統一とういつゆめかたった。住職じゅうしょくは「薬缶やかんぶた水瓶みずがめぶたをするようなものである」ともとおやいたが、もとおやは「ぶたもとおやという名工めいこうぶたである。いずれは四国しこく全土ぜんどおおぶたとなろう」とこたえた[53]

土佐とさ統一とういつたしたとし、37さいわかさで「ゆき蹊恕さん雪渓せっけい如三)」と法号ほうごうしょうしている。「ゆき蹊」にはとくのある人物じんぶつにはおおくのひと自然しぜん帰服きふくしてくる、そして「じょさん」にはひろおおきなしんことしょせば、前途ぜんと万物ばんぶつしょうじるという意味いみめられているという[54]

家臣かしんに「四国しこく覇者はしゃをなぜ目指めざすのか」と質問しつもんされると、「家臣かしん十分じゅうぶん恩賞おんしょうあたえ、家族かぞく安全あんぜんらしていくには土佐とさだけでは不十分ふじゅうぶんだから」とこたえたとされる[55]。『土佐とさ物語ものがたり』では「わがしょに、しょうろくしんの儘にくだりひ、妻子さいしをも安穏あんのん扶持ふちさせんとおもひ、四方しほう発向はっこうしてぐんおもんばかめぐらし」ともとおや述懐じゅっかいしたとしている。

讃岐さぬきこくはねゆか鷲山わしやまてき兵糧ひょうろうめにしたときしろ付近ふきんむぎむぎなぎ戦術せんじゅつおこなったが、全部ぜんぶっては領民りょうみんどくだとおもい、いちあぜおきに刈取かりとらせた[56]

同族どうぞくはたを租に伊予いよこく早川はやかわ城主じょうしゅしん備前びぜんもりとの親交しんこうふかかったとされている。天正てんしょうじんえたはた備前びぜんもり土佐とさこくのがれたとあり、はた備前びぜんもり家系かけいには長宗我部ちょうそかべ宮内みやうちしょう輔秦元親もとちかちょう曽我部そがべ元親もとちか)と同姓どうせいとなるちょう曽我部そがべ宮内みやうちしょう秦野はだの備前びぜんもり元宗もとむねとの記述きじゅつのこされてある。

豊臣とよとみ政権せいけんでの逸話いつわ[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか統一とういつしたのち各地かくち大名だいみょうあつめて舟遊ふなあそびをした。そのとき秀吉ひでよしから饅頭まんじゅうをもらった大名だいみょうはそのべたが、もとおやはしをちぎってべただけでかみつつんだ。それを秀吉ひでよしから「その饅頭まんじゅうをどうするつもりか」とたずねられると、「太閤たいこう殿下でんかからいただいたありがたい饅頭まんじゅうですので、ってかえ家来けらいにもあたえます」とこたえた。秀吉ひでよしおおいにり、用意よういした饅頭まんじゅうすべあたえたという。

朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさい泗川じょう垣見かきみいちじきたい鉄砲てっぽう狭間はざまたかさの指導しどうをした[注釈ちゅうしゃく 33]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし伏見ふしみ屋敷やしき訪問ほうもんしたさいもとおや命令めいれい屋敷やしき御成門おなりもん新調しんちょうされたが、寸法すんぽう間違まちがえて秀吉ひでよしせた御輿みこしはいらず廃棄はいきされた。慶長けいちょう元年がんねん4がつ27にち廃棄はいきされた御成おなりもん土佐とさこくゆき蹊寺ほんもん転用てんようされ、その荘厳そうごんさから見物けんぶつきゃくえず、「日暮ひぐらもん」とばれたが、のち風雨ふうういたみ、倒壊とうかいしたという[58]

その逸話いつわ[編集へんしゅう]

家来けらいたいして、「一芸いちげい熟達じゅくたつせよ。多芸たげいよくばるものたくみならず」とっていたとされる。

土佐とさ領内りょうない禁酒令きんしゅれいしていたにもかかわらず、自分じぶん自身じしんさけ城内じょうないはこませていたことがあった。これを福留ふくとめただしじゅうきびしくいさめられて、以後いご改心かいしんしたという[59]

山崎やまざきたたかのち斎藤さいとう利三としみつむすめであるぶく春日局かすがのつぼね)を岡豊おこうじょうでかくまったとされる[60]

岡豊おこうじょう居城きょじょうしていた天正てんしょう16ねん1588ねん)の正月しょうがつ家臣かしんだった久万くま兵庫ひょうごつまともなって出仕しゅっししたさいに、うすまい玄米げんまい)5しょう献上けんじょうし、もとおやは「もみなくしてほどこれめしき、たがいにいわうべし」と発言はつげんしたとされるが、これは当時とうじ城主じょうしゅから民衆みんしゅういたるまで、精米せいまいされた白米はくまいべる習慣しゅうかんがなく、白米はくまいべるようになるのは山内やまうち一豊かずとよ土佐とさ入国にゅうこくした以降いこう時代じだいになるという[61]

性格せいかく[編集へんしゅう]

後継こうけいしゃとして期待きたいしていたしんおや戦死せんししたのち英雄えいゆうとしての覇気はき一気いっきうしない、家督かとく相続そうぞくでは末子まっし盛親もりちか後継こうけい強行きょうこうし、反対はんたいする家臣かしん一族いちぞくだろうと皆殺みなごろしにするなどしんじおやぼつもとおやひさしたけちかしじき讒言ざんげんがあったとしても片意地かたいじになり、それまでの度量どりょううしなっていた[59]戸次とつぎがわたたかしんおや戦死せんししたことり、自分じぶんのうとおもったが家来けらいいさめられている[62]。その秀吉ひでよしから大隅おおすみこく加増かぞうするとのはなしがあったがこれを固辞こじしている[注釈ちゅうしゃく 34]

土佐とさ物語ものがたり』などの信憑しんぴょうせいはともかく、しんおやんで変貌へんぼうするまえまでのもとおやには家臣かしんの諫言や意見いけんにはひろくききいれる度量どりょうがあった。阿波あわ勝瑞しょうずいじょう攻略こうりゃくにおいては上級じょうきゅう家臣かしん意見いけんより下級かきゅういちりょう具足ぐそく意見いけんをききいれたという[59]。またなさぶかく、いもうと婿むこ波川はかわせいはじめもとおや謀反むほんこしてたれたとき、おとうと次郎じろう兵衛ひょうえ五郎ごろう大夫たいふ助命じょめいした。だが2人ふたりあにかたきつため岡豊おこうから出奔しゅっぽんしたので、家臣かしん2人ふたり追討ついとうしようとしたがもとおやゆるさなかった[64][注釈ちゅうしゃく 35]

阿波あわ白地しろじじょうおも大西おおにしさとしよう三好みよし寝返ねがえったときも人質ひとじちとしてあったおい上野うえのかいころさずに優遇ゆうぐうしたり[64]三好みよし康長やすながかんしゅんちちさそいをけて寝返ねがえったときも、人質ひとじちとしておかゆたかにあったかんしゅんころさずに丁重ていちょうおくかえして康長やすなが感謝かんしゃされたりしている[注釈ちゅうしゃく 36]。 だがしんじおや没後ぼつご性格せいかく一変いっぺんさきべた2人ふたり親族しんぞくほかに、高岡たかおかぐん仁井田にいた5にんしゅ1人ひとりである志和しわ勘助かんすけ使者ししゃとして阿波あわ蜂須賀はちすか家政いえまさ会見かいけんしたとき、家政かせい勘助かんすけ人物じんぶつって召抱めしかかえようとしたが、勘助かんすけもとおやへの忠義ちゅうぎ理由りゆうことわった。ところがこれをいたもとおやもうひらきもかずに寝返ねがえったとしてただちに勘助かんすけ一族いちぞく討伐とうばつするという行動こうどうこしたりした[65]

もとおや』では「律儀りちぎだいいちひと」「慇懃いんぎんひと」とひょうされ、その軍記ぐんきぶつでも武勇ぶゆうすぐ仁慈じんじあつ名君めいくんひょうしている[66][注釈ちゅうしゃく 37]。 ただし阿波あわ徳島とくしまけん)の細川ほそかわ史書ししょである『細川ほそかわ三好みよし君臣くんしん阿波あわ軍記ぐんき』では不仁ふじん不義ふぎ悪人あくにんひょうしている[注釈ちゅうしゃく 38]

政治せいじ[編集へんしゅう]

寺院じいん保護ほご積極せっきょくてきで、『ひゃく箇条かじょう』のなかでも「諸宗しょしゅうみちせんしょうたしなまるべきこと」とある。ただし僧侶そうりょたいする規制きせいきびしく、生活せいかつ態度たいどわる僧侶そうりょたいしては『ひゃく箇条かじょう』において流罪るざい死罪しざいにするとしている[68]

もとおや儒学じゅがくとく関心かんしんせていたが、文学ぶんがくかんしてもおおいに奨励しょうれいし、文化ぶんかじょうすぐれた功績こうせきげれば恩賞おんしょうあたえることを約束やくそくしていた[69]

戦国せんごく武家ぶけ家名かめい存続そんぞく重視じゅうししたが、もとおや武士ぶし罪科つみとがのために処罰しょばつされても重罪じゅうざい場合ばあいのぞいては家名かめい存続そんぞくやその影響えいきょう一切いっさい支障ししょういことを保障ほしょうした。また殺人さつじん口論こうろんなど家中いえじゅう統制とうせいみだもの喧嘩けんか両成敗りょうせいばいとし、強盗ごうとう山賊さんぞく海賊かいぞくには厳罰げんばつしょしてそれらを在所ざいしょ庄屋しょうやなどが逮捕たいほできない場合ばあい連帯れんたいして責任せきにんわせることにした。賭博とばく禁止きんしし、犯罪はんざいしゃ隠匿いんとく場合ばあい連座れんざ処罰しょばつし、国家こっか反逆はんぎゃくざいから悪口わるぐち流言りゅうげん蜚語ひごにまで刑罰けいばつさだめるなど、厳罰げんばつ主義しゅぎによる秩序ちつじょ維持いじつとめた。寺院じいん特権とっけん廃止はいしし、犯罪はんざいしゃ寺院じいんんだりした場合ばあいでも逮捕たいほ可能かのうであるとしている[70]

土佐とさ豪族ごうぞくおおかったため、しろわりなど城下町じょうかまち建設けんせつ不徹底ふてっていわっている。それでももとおや居城きょじょう浦戸うらとから大高おおたかざかうつして中央ちゅうおう集権しゅうけん努力どりょくしている。なおもとおや商工しょうこうしゃ城下町じょうかまち集約しゅうやく市場いちばまち建設けんせつにはかなり積極せっきょくてきおこなっているが、これらも城下じょうか地形ちけい広狭こうきょう問題もんだいから不徹底ふてっていわった[71]

年貢ねんぐかんしてはおおやけ一民かずたみきびしく、かくれ発覚はっかくした場合ばあいには『ひゃく箇条かじょう』においてばい年貢ねんぐり、あるいは斬首ざんしゅにするとしている。また百姓ひゃくしょうの逃散にはきびしい取締とりしまりをもうけた。このため『せいりょう』では百姓ひゃくしょう逃亡とうぼうすくなくなかったという[72]

商業しょうぎょう産業さんぎょう政策せいさくでは御用ごよう商人しょうにん大幅おおはば特権とっけんあたえる見返みかえりに戦時せんじ軍費ぐんぴ獲得かくとくした。土佐とさ資源しげんとぼしいためだい規模きぼ鉱業こうぎょう工業こうぎょう発展はってんできなかったが、職人しょくにん育成いくせい積極せっきょくてきつとめて慶長けいちょうにはそれまでは他国たこくから売買ばいばいもとめていた鉄砲てっぽう自国じこく生産せいさんできるまでにしている。ただし密造みつぞう密輸みつゆ鉄砲てっぽううまなど)には『ひゃく箇条かじょう』で死刑しけいにするとしている。土佐とさ木材もくざい豊富ほうふだったことから、かなり細則さいそくおよ規律きりつさだめられた[73]

税制ぜいせいかんしては前述ぜんじゅつしたように年貢ねんぐいかめしかったが、それ以外いがい課税かぜいとして漁業ぎょぎょうのときに使つかうかつらもうなどにかかるかつらぜに塩浜しおはまみつぐ十分じゅうぶんいち船舶せんぱく積荷つみにぜい)などがあった[74]

城下町じょうかまちささえじょう生産せいさんむすぶという目的もくてきから、もとおや交通こうつう整備せいび積極せっきょくてきだった。天正てんしょう年間ねんかん一里塚いちりづかきずき、しんおや存命ぞんめいあいだみち損傷そんしょうがあったときなどはただちにうえ判断はんだん往来おうらいものるいおよばないように配慮はいりょしていた。だがしんじおや没後ぼつご道路どうろ損傷そんしょう在地ざいち庄屋しょうや百姓ひゃくしょう責任せきにんわせ、あくのある場合ばあい罰金ばっきん徴収ちょうしゅうするなどした。国内こくない旅行りょこうかんしてはかなり自由じゆうで、宿泊しゅくはくもそのひとこころざし次第しだいとしているものの、本道ほんどう以外いがい通行つうこうすれば罰金ばっきんとし、じょう飛脚びきゃくなどは急用きゅうよう場合ばあい時間じかんまでにけなかったら死罪しざいにするとしている。他国たこくへの往来おうらいはかなり厳格げんかくだったという[75]

家臣かしん[編集へんしゅう]

もとおやよしりょう津野つの香川かがわこうむね我部がぶなどにおとうと息子むすこ養子ようしりさせて一門いちもん勢力せいりょく拡張かくちょうし、それらが本家ほんけ補佐ほさする体制たいせいをとっていたが、実弟じってい吉良きらちかしさだ早世そうせいしてしんおや戦死せんしするなど不幸ふこうもあって有力ゆうりょく一門いちもんけると、一門いちもん官僚かんりょうてき家臣かしんだん一員いちいんとしてまれてしまい結果けっかてきしんじおやぼつ内紛ないふんこして主導しゅどうてき役割やくわりつべきだった一門いちもんがリードできなかったという難点なんてんがある。関ヶ原せきがはらではこうむね我部がぶおやたいまでもがすでほろびく、一門いちもん補佐ほさせい形骸けいがいしていた[76]

ひさしたけちかしじきもとおやから盛親もりちかにかけて権勢けんせいるったが、これはひさしたけ桑名くわな中内なかうちならさん家老がろういちだったためである。江村えむら比江ひえさんたになど諸氏しょし臨時りんじてき家老がろうれっせられることもあった[77]

妻子さいしかんして[編集へんしゅう]

もとおや正室せいしつ美濃みの斎藤さいとうむすめもとおや夫人ふじん)で、えいろく6ねん1563ねん)に結婚けっこんしている。もっと家臣かしんらは遠国おんごく美濃みのからむかえずとも四国しこく有力ゆうりょくしゃからむかえるべきとすすめた。もとおやは「天神てんじん地祇ちぎにかけて、まったかれ息女そくじょ容色ようしょく沙汰さた聞及ききおよびたるにあらず、いろうさぎもあれかくもあれ、祖父そふ伊予いよもりちち豊後ぶんご守武もりたけめいこうばしきなれば、かれはら出生しゅっしょう父祖ふそにあやかることあらんとおもけいなり」[78]こたえて武勇ぶゆう彼女かのじょ系譜けいふおもんじたという。この正室せいしつ明智あけち光秀みつひで重臣じゅうしん斎藤さいとう利三としみつ異父いふいもうとで、正確せいかくには石谷いしがや室町むろまち幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ)のむすめということになる。また、利三としみつ生母せいぼ明智あけち光秀みつひで叔母おばとされていることから、のちにこの関係かんけいつうじて光秀みつひで、そして信長のぶなが関係かんけいつにいたった。夫人ふじんかんする史料しりょうとぼしいためどのような女性じょせいだったかは不明ふめいであるが、長男ちょうなんしんおやからよんなん盛親もりちかまでの4にん男児だんじ長女ちょうじょいちじょう内政ないせい正室せいしつから4じょ吉松よしまつじゅうみぎ衛門えもん正室せいしつまでの4なん4じょまでをさずかっていることから、夫婦ふうふなか良好りょうこうだったとおもわれる。

側室そくしつしょう少将しょうしょう[注釈ちゅうしゃく 3]がおり、彼女かのじょとのあいだなん右近うこん大夫たいふまれたという[80]。またしょう宰相さいしょうという側室そくしつとのあいだに1なん1じょまれたといわれるが[80]しょう宰相さいしょう側室そくしつでなくむすめであるともされる[81]

さんじょ阿古あこひめ大坂おおさかじんさい伊達だてまさしむねとらえられたが助命じょめいされ、二人ふたり息子むすことも仙台せんだいはんつかえた。息子むすこたちはそれぞれ重臣じゅうしんいえ養子ようしりし(五十嵐いがらし元成もとなり柴田しばたちょう)、仙台せんだいにおいてもとおやをつないだ。このため阿古あこひめ母子ぼしたよって仙台せんだいった長宗我部ちょうそかべゆかりの人々ひとびともおり、こうむね我部がぶおやたいさだおや養子ようしじゅうおや仙台せんだいはんかかえられたほか、吉松きちまつおんなははもとおやよんじょ)が従兄弟いとこあさ継室けいしつとなっている。

また、大和やまとこく吉野よしのぐん西蓮寺さいれんじ奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち大字だいじ山口やまぐち[82])を創建そうけんしたてつうしぶんほまれてつうし[83])は俗名ぞくみょう長宗我部ちょうそかべぶんおやといい[82][84]もとおやろくなんであるとつたえられる[84]てつうしおなじく吉野よしのぐんにある如意輪寺にょいりんじ吉野よしのまち大字だいじ吉野山よしのやま)を中興ちゅうこうしている[82][83]

どう時代じだい評価ひょうか[編集へんしゅう]

織田おだ信長のぶながもとおやをあまりたか評価ひょうかしておらず、慣用かんようから、「あれはとりしま蝙蝠かわほり」と揶揄やゆしたとつたえられている(『土佐とさ物語ものがたり』)[85]もっとも、戦国せんごく時代じだいおおきくぎた18世紀せいき成立せいりつし、おに大蛇おろちなども登場とうじょうする同書どうしょ史実しじつせいひくいとかんがえられており、発言はつげん信憑しんぴょうせいほどさだかでない。

きのえようぐんかん』には徳川とくがわ家康いえやす赤井あかい直正なおまさらとともに「名高なだか武士ぶし」としてもとおやがっている。

史料しりょう[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

墓所はかしょ銅像どうぞう[編集へんしゅう]

でん長宗我部ちょうそかべ元親もとちかはか
墓石はかいし

高知こうちけん高知こうち長浜ながはまたかしはじめ寺山てらやま北緯ほくい3329ふん50.238びょう 東経とうけい13333ふん10.618びょうみなみ斜面しゃめん石段いしだんがった鬱蒼うっそうとした石垣いしがきうえにある。

没後ぼつご400ねん記念きねんして平成へいせい11ねん(1999ねん)に「長宗我部ちょうそかべ元親もとちか初陣ういじんぞう」が高知こうち長浜ながはま若宮わかみや八幡宮はちまんぐう建立こんりゅうされた[87]台座だいざふくめてやく7m、やりながさ5.7m。

また、戦国せんごく大戦たいせん戦国せんごくさつ遊戯ゆうぎ 不如帰ふじょき -HOTOTOGISU- らんなどを手掛てがけたイラストレーターによるイメージもとにしたもとおや銅像どうぞう高知こうち県立けんりつ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん南国なんこく岡豊おこうまち)に建立こんりゅうすることとなり[88][89]2015ねん5月3にち除幕じょまくしきおこなわれた[90][91]

家臣かしん[編集へんしゅう]

長宗我部ちょうそかべ元親もとちか主題しゅだいとする作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
漫画まんが
舞台ぶたい
アニメ
パチンコ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ もとおや墓所はかしょについては死後しごやく100ねんの『土佐とさ軍記ぐんき』までしるされておらず、もとおや法名ほうみょうは「ゆき蹊恕さん」、しんおやは「てんはじめつねしゅん」であることから、もとおやはかゆき蹊寺境内けいだいではなくてんはじめてら山腹さんぷくにあることは不自然ふしぜんだという指摘してきもある[1]
  2. ^ えいろく4ねん(1561ねん)から自称じしょうした官位かんい豊臣とよとみ時代じだい正式せいしき侍従じじゅうになるももとおやはこの官位かんい書状しょじょうもちいることがおおく、「長宮ながみや」といている[2]
  3. ^ a b 阿波あわ細川ほそかわもちたかし)の側室そくしつのち三好みよしみのるきゅう正室せいしつとなった人物じんぶつも、おなしょう少将しょうしょうというである[79]
  4. ^ ちち長宗我部ちょうそかべ国親くにちか土佐とさ守護しゅご細川ほそかわだかこくからへんいみなけ、国親くにちか名乗なのっている。
  5. ^ もとおや』によると「さとし死去しきょみぎりをもゆるめず。長浜ながはま薊野あぞうのくちよりののこおびただし」とあり、国親くにちかんでも本山もとやま攻撃こうげきつづけた[3]
  6. ^ なお、しげるたつ病死びょうししたとする史料しりょうてき根拠こんきょはなく、『長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょう』に記載きさいされた「本山もとやま大夫たいふ入道にゅうどう」を出家しゅっけしげたつ姿すがたとするせつがある。このせつによれば降伏ごうぶくしたしげるたつ出家しゅっけ条件じょうけん助命じょめいされてもとおや庇護ひごかれたものの、これに納得なっとくしないつまもとおやあね)や家臣かしんおやしげるようして抵抗ていこうつづけたとする[4]
  7. ^ ただし、『もとおや』には「元山もとやま弓矢ゆみやじゅうねん」という記述きじゅつがあり、本山もとやまとのたたかいが本格ほんかくしたえいろく3ねんから12ねんたたかいがわったとかんがえると本山もとやま関係かんけい文書ぶんしょおわりであるもとかめ2ねん(1571ねん)と一致いっちすることから、おやしげ降伏ごうぶくもとかめ2ねんのこととするせつもある[4]
  8. ^ もとおや』では「四国しこくもとおや手柄てがら次第しだい切取きりとこうへ」と信長のぶなが朱印しゅいんじょうあたえたとされている。[6]
  9. ^ もとおや三好みよしとのたたかいをすすめるために織田おだ信長のぶながだけでなく毛利もうり輝元てるもととも関係かんけいつよめて三好みよし孤立こりつさせる外交がいこう路線ろせんっていたが、信長のぶながによる中国ちゅうごくめの本格ほんかくもとおやがその方針ほうしんえなかったために信長のぶながもとおや向背こうはい不安ふあんして不信ふしんかんいたとする見方みかたもある[7]一方いっぽうで、毛利もうり長宗我部ちょうそかべ関係かんけい毛利もうり三好みよし和睦わぼくをした天正てんしょう6ねん段階だんかい破綻はたんしており、長宗我部ちょうそかべ讃岐さぬき香川かがわ連携れんけい香川かがわ親和しんわ養子ようし縁組えんぐみ自体じたい毛利もうり三好みよし両氏りょうしによる脅威きょういけてなおかつおや織田おだであった両氏りょうし利害りがい一致いっちによるものだとする見方みかたもある[8]
  10. ^ 信長のぶなが敵対てきたいしていた三好みよし康長やすなが信長のぶながり、三好みよし本領ほんりょうである阿波あわ回復かいふく信長のぶながねがていた。またもとおや圧迫あっぱくされた河野こうの信長のぶなが援助えんじょもとめ、西園寺さいおんじ公広きみひろなどにいたっては「もとおや西国さいこく名将めいしょうであり、将来しょうらいてきには信長のぶながこごめせず反抗はんこうするでしょう」とべて援助えんじょもとめたという(『もとおや』)[9]
  11. ^ 明智あけち光秀みつひで縁戚えんせき関係かんけいから使者ししゃ土佐とさおくってもとおや翻意ほんいもとめたが、もとおや返事へんじすら寄越よこさなかった[10]
  12. ^ ただし、『石谷いしがい文書ぶんしょ』によるともとおや信長のぶながいのちしたが撤退てったいしたとある。[12]
  13. ^ もとおや正室せいしつ光秀みつひで重臣じゅうしんである斎藤さいとう利三としみつ異父いふいもうと信長のぶなが四国しこく違約いやくうらみをもった利三としみつ本能寺ほんのうじへん主導しゅどうてき立場たちばつとめた。『げんけいきょう』では「日向ひなたもり光秀みつひでない斎藤さいとうぞうすけ今度こんど謀反ぼうほんずい一也かずや」とあり、『もとおや』では「斎藤さいとう内蔵助くらのすけ四国しこくぞんずるによって也。明智あけち殿どの謀反むほんいよいよきゅうがるる」とある。『天正てんしょうじゅうねんなつ』でも利三としみつ謀反むほん主導しゅどうてき役割やくわりたしたとある。
  14. ^ 信長のぶなが四国しこく全土ぜんどもとおやあたえると承知しょうちしておきながら違約いやくしたこと信長のぶながもとおやあいだ仲介ちゅうかいつとめた光秀みつひでいたばさみになりこまったし、また光秀みつひで四国しこく征伐せいばつにん自分じぶんあたえてほしいのに信長のぶながあたえてくれなかったこと不満ふまんいたという[13]
  15. ^ こうむね我部がぶ家伝かでん証文しょうもん』ではもとおや信孝のぶたかつうじていたことをしめ書状しょじょうがある。かち高野たかのさんつうじてもとおやつうじていた[14]
  16. ^ 5月13にちづけ秀吉ひでよし仙石せんごくあて書状しょじょう播磨はりま備前びぜんぐん四国しこくけるとしている。5月20にちづけでは水軍すいぐん大坂おおさか集結しゅうけつさせるよう命令めいれいしている(『石井いしい文書ぶんしょ』)[17]
  17. ^ こうむね我部がぶ家伝かでん証文しょうもん』ではおやたい窓口まどぐちにして織田おだ徳川とくがわ書状しょじょう交換こうかんしている[18]
  18. ^ 家康いえやすもとおやに3カ国かこく(8がつ19にちづけ本多ほんだ正信まさのぶおやたいあて書状しょじょうでは「淡路あわじ摂津せっつ播磨はりま」としている。また信雄のぶお吉良きらちかしたい備前びぜんあたえるとしている)をあたえることを約束やくそくしたうえ渡海とかいして摂津せっつ播磨はりま攻撃こうげきしてほしいともとめ、秀吉ひでよしもとおやうごきをおそれて小牧こまきざい陣中じんちゅうだいさかかえったりしている。だがもとおやには伊予いよ平定へいていしょう領主りょうしゅ抵抗ていこう毛利もうりぐんうごき、仙石せんごく十河そごう抵抗ていこうもあって容易よういうごけなかった[19]
  19. ^ かつら文書ぶんしょ』ではかつら元親もとちか長宗我部ちょうそかべぐん苦戦くせんしたことをしめ書状しょじょうがある[21]
  20. ^ もとおや秀吉ひでよし鋭鋒えいほうをかわそうと使者ししゃ派遣はけんして進物しんもつ贈呈ぞうていした。だが秀吉ひでよしは4がつ小早川こばやかわ隆景たかかげちか四国しこく出兵しゅっぺいおこなむねつたえたという(『小早川こばやかわ文書ぶんしょ』)[23]
  21. ^ もとおや讃岐さぬき阿波あわ返上へんじょうするわりに土佐とさ2こくりょうするあん(『小早川こばやかわ文書ぶんしょ』)もしており、秀吉ひでよしもこのあんりかけたがめぐってもとおや対立たいりつ関係かんけいてんじていた毛利もうり同国どうこく領有りょうゆう目指めざして強硬きょうこう態度たいどしめしたためにまとまらなかったという[24]
  22. ^ 四国しこく騒動そうどうはすならず、武士ぶし東西とうざいはせたがえひ、男女だんじょ南北なんぼくに逃迷ふ」(『土佐とさ物語ものがたり』)[25]
  23. ^ もとおや出陣しゅつじんまえ亡父ぼうふ国親くにちか墓前ぼぜんもうでて覚悟かくご表明ひょうめいしている[26]
  24. ^ たには「(豊臣とよとみぐんは)武具ぶぐ馬具ばぐ綺麗きれいにしてひかかがやき、金銀きんぎんちりばめて、うま大長おおちょうにしてまゆのぼるがごとし。武者むしゃゆびしゃしょうはたに屹とさしていかめしきからだなり」とべ、土佐とさいちりょう具足ぐそく粗末そまつ軍備ぐんび経済けいざい基盤きばん脆弱ぜいじゃくから到底とうてい敵対てきたいできないと忠言ちゅうげんした(『南海なんかい治乱ちらん』)[27]
  25. ^ 秀吉ひでよしは6がつ時点じてん勝利しょうりすることを予測よそくしており、小早川こばやかわ隆景たかかげあたえ、もとおや土佐とさ安堵あんどすることをかんがえていたという[28]
  26. ^ もとおや』や『土佐とさ物語ものがたり』などおおくの史料しりょうでこの上洛じょうらくによるもとおや安否あんぴ国許くにもとでは心配しんぱいしていたという。また『土佐とさ物語ものがたり』でもとおや土佐とさいちこく領主りょうしゅになったことに満足まんぞくし、かえって秀吉ひでよし感謝かんしゃしたとしている[28]
  27. ^ もとおや仙石せんごく強攻きょうこうさくたいして味方みかた到来とうらいってめるべき、島津しまつかた伏兵ふくへいおそれあり強敵きょうてきであるとして出陣しゅつじん反対はんたいしていた(『もとおや』。『土佐とさ物語ものがたり』)[32]
  28. ^ 天正てんしょう15ねんから移転いてん開始かいしされていたという。理由りゆう交通こうつう生産せいさん肥沃ひよくもとめてという[33]
  29. ^ 成人せいじんしていた次男じなん三男さんなん嗣子ししにしなかったのはしんじおやむすめ正室せいしつにする場合ばあい年齢ねんれいだったという[34]
  30. ^ 一門いちもん以外いがいに、有力ゆうりょく家臣かしんまでおお粛清しゅくせいされている[35]。また、おやきょう親実ちかざね粛清しゅくせい同時どうじではない(親実ちかざね当初とうしょ所領しょりょう没収ぼっしゅうのみであったが、後日ごじつ殺害さつがいされた)とするせつもある[36]
  31. ^ げんけいきょう』。訪問ほうもん内容ないよう不明ふめいだが、覇権はけんねら家康いえやすもとおや味方みかたしてもらいたいというさそいの意味いみがあったとおもわれる[45]
  32. ^ 家臣かしんだんは「智謀ちぼう勇気ゆうき兼備けんびして、もっと大将たいしょうざいなり」「とうくにもうすにおよばず、四国しこくおも御成おなりなさるべき大将たいしょう分別ふんべつ」とひょうした(『土佐とさ物語ものがたり』)。
  33. ^ もとおや』ではもとおやが「(狭間はざまを)にんむねのあたりをせつたるがのうこう」とい、垣見かきみは「(狭間はざまを)もっとげるべき」と主張しゅちょうして論争ろんそうになった。垣見かきみは「(狭間はざまを)さげてきってはてきしろうち見入けんにゅうあくかりなん。ただじょうげん」と主張しゅちょうし、もとおやは「此門わきてき心安こころやすづけ城中じょうちゅうこうほどに、しろうちよわくしてしろもたるまじ」とわらい、「其方このみのごとくげてきっては、てきのあたまよりうえつべきか」と主張しゅちょうしたという[57]
  34. ^ たけ家事かじ』では、秀吉ひでよし仙石せんごく独断どくだん専行せんこうしんじおや戦死せんししたことにかなりもとおやたいうしろめたさをかんじていたとしている[63]
  35. ^ 土佐とさ物語ものがたり』ではもとおやが「あたら者共ものどもうしなわんことのしさよ」とべたという。
  36. ^ このとき康長やすなが土佐とさかって「斯る仁者じんしゃてきせしこそなれ。此の厚恩こうおん七生しちしょうまでも忘るべからず」となみだながしてわせておがんだという[65]
  37. ^ もとおや』では「まこともとおやごと律儀りちぎだいいちひとにて、上使じょうし横目よこめしゅとあれば、あたま慇懃いんぎんつかまつられこうが、此時はもってのほかなる存分ぞんぶんにてりし也」とある。
  38. ^ どう史料しりょうでは「もとおや不仁ふじん不義ふぎ大将たいしょうにて、しょ軍勢ぐんぜいうちきこえたる英雄えいゆうども与力よりきして、戦場せんじょうこなこっしたるしゃにも恩賞おんしょう沙汰さたもなく、却てしつたるしょしょう子供こどもくしざしにしてたのしむほどの悪逆あくぎゃく各々おのおのはなばなれに見捨みすて討死うちじにしたるつま子供こどもをもめぐこともなく、此人のはてこそおもひやられたれとあくまぬひとぞなかりけり」とある[67]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]