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山内やまうち一豊かずとよ

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山内やまうち 一豊かずとよ
山内やまうち一豊かずとよぞう鉄山てつざんむねどんさん模写もしゃ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天文てんもん14ねん1545ねん[1]
一説いっせつでは天文てんもん15ねん1546ねん[1]
尾張おわりこく
死没しぼつ 慶長けいちょう10ねん9がつ20日はつか1605ねん11月1にち[2]
土佐とさこく土佐とさぐん高知こうち高知こうちじょう
改名かいめい 辰之助たつのすけ幼名ようみょう)→一豊かずとよ
別名べつめい 通称つうしょうみぎ衛門えもんいのみぎ衛門えもん対馬つしまもり
戒名かいみょう だい通院つういん殿どのこころみねそうつたえだい居士こじ
墓所はかしょ 山内やまうち墓所はかしょ高知こうち筆山ひつざんきた
官位かんい せい対馬つしまもりしたがえよん土佐とさまもる
おくしたがえさん
主君しゅくん 浅井あさい新八しんぱちろう前野まえのちょうやすし牧村まきむらまさしりん山岡やまおかけいたかし→(織田おだ信長のぶなが)→豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀次しゅうじ秀吉ひでよし→(秀頼ひでより)→徳川とくがわ家康いえやす
はん 土佐とさはんあるじ
氏族しぞく 藤原ふじわらせい山内やまうち
父母ちちはは ちち山内やまうちもりゆたか
ははほうしゅうあま梶原かじはら?)
兄弟きょうだい 十郎じゅうろうつう安東あんどうごうしつ)、一豊かずとよかんゆたかべいごう
つま 正室せいしつ見性けんしょういん[注釈ちゅうしゃく 1]
あずか
養子ようし湘南しょうなんむね忠義ちゅうぎ
養女ようじょいぬい和信かずのぶしつ
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山内やまうち 一豊かずとよ(やまうち かずとよ/かつとよ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう土佐とさ山内やまうち土佐とさはん初代しょだい藩主はんしゅ家紋かもんみっかしわもん

ちち岩倉いわくら織田おだ重臣じゅうしん山内やまうちもりゆたかははほうしゅうあま[注釈ちゅうしゃく 2]祖父そふひさしゆたかあに十郎じゅうろうおとうとかんゆたかつま内助ないじょこうられる見性けんしょういん[注釈ちゅうしゃく 3]通称つうしょうみぎ衛門えもんもしくはいのみぎ衛門えもん(いえもん)。のちかんゆたか長男ちょうなん忠義ちゅうぎだい2だい藩主はんしゅ)を養子ようしとした。豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすらにつかえ、関ヶ原せきがはらたたか小山こやま評定ひょうじょうにおいて率先そっせんして徳川とくがわかたしたがった功績こうせきにより、土佐とさこく9まん8せんせきあたえられた。そのこうなおしにより20まん2,600せき加増かぞうされた。

出自しゅつじ

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出自しゅつじ

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山内やまうち一豊かずとよ出生しゅっしょういしぶみ愛知あいちけん一宮いちのみや法蓮寺ほうれんじ

山内やまうち出自しゅつじについて、江戸えど時代じだい後半こうはん作成さくせいされた『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』に土佐とさはん提出ていしゅつした内容ないようによれば、藤原ふじわらしげるきょう子孫しそんである首藤しゅどう山内やまうち末裔まつえいである。ただし、首藤しゅどう山内やまうちあきらかな末裔まつえい戦国せんごく時代じだい当時とうじにはべつ備後びんご存在そんざいし(この山内やまうちはその毛利もうり帰属きぞくし、江戸えど時代じだいまでつづいている)ている一方いっぽう一豊かずとよ山内やまうち祖父そふ以前いぜんからはちだいぶんについて名前なまえすらつたわっておらず、首藤しゅどう山内やまうち末裔まつえいであるかかは不明ふめいである。また会津あいづ地方ちほうではあしめいつかえた山内やまうち首藤しゅどう山内やまうちの庶流)の流浪るろうして信長のぶながつかえたのが一豊かずとよであるとする伝承でんしょうもあるが、これは尾張おわり時代じだい一豊かずとよ事績じせき合致がっちしないために否定ひていされている。

一豊かずとよ山内やまうち尾張おわりこく愛知あいちけん西部せいぶ)にあらわすようになったのは一豊かずとよ祖父そふひさゆたかからであるとかんがえられている。それ以前いぜんについては丹波たんばさん宮城みやぎ京都きょうと船井ふないぐんきょう丹波たんばまち三ノ宮さんのみや)あたりを拠点きょてんとしていたしょう豪族ごうぞくがそれにたるともかんがえられるが、さだかではない。ただし一豊かずとよちちもりゆたかについては尾張おわりうえよんぐん支配しはいする守護しゅごだい岩倉いわくら織田おだ重臣じゅうしんとしてつかえていたことは間違まちがいない。

山内やまうち」「一豊かずとよ」の

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山内やまうち」のみについて、おおくの歴史れきし参考さんこうしょ辞典じてんなどでは「やまのうち」とくんむとされてきた。これは、土佐とさ山内やまうち祖先そせんであるとする首藤しゅどう山内やまうちが「やまのうち」とくんむことによる。げん首藤しゅどう山内やまうち苗字みょうじもととした鎌倉かまくら山内やまうちしょう神奈川かながわけん鎌倉かまくら山ノ内やまのうち)の地名ちめいは「やまのうち」とくんむ。一方いっぽう一豊かずとよ山内やまうちは、前出ぜんしゅつの『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』には「やまうち」と平仮名ひらがなでルビがふられている。また、淀殿よどどの侍女じじょ大蔵卿局おおくらきょうのつぼねによる一豊かずとよあて書簡しょかんには平仮名ひらがなで「やまうちつしまどの」となっており、これらのてんから最近さいきんでは「やまうち」とくんむのがただしいとかんがえられている。「一豊かずとよ」のみについては、一般いっぱんてきには「かずとよ」とくんまれてきたが、一豊かずとよへんいみな家臣かしんあたえたさいくんみから「かつとよ」とかんがえられている[よう出典しゅってん][注釈ちゅうしゃく 4]

生涯しょうがい

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立身りっしん

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山内やまうち一豊かずとよ立志りっしぞう
愛知あいちけん一宮いちのみや黒田くろだ城址じょうし

岩倉いわくら織田おだ重臣じゅうしん山内やまうちもりゆたか三男さんなんとして尾張おわりこく岩倉いわくら現在げんざい愛知あいちけん岩倉いわくら)にまれる[注釈ちゅうしゃく 5]一説いっせつによると、黒田くろだじょう (尾張おわりこく)現在げんざい愛知あいちけん一宮いちのみや木曽川きそがわまち)ともされている。[注釈ちゅうしゃく 6]当時とうじ山内さんない岩倉いわくら織田おだ当主とうしゅ織田おだしんやすのちしんけん)の配下はいかで、ちちもりゆたか家老がろうとしてつかえていた。やがて岩倉いわくら織田おだ同族どうぞく織田おだ信長のぶなが対立たいりつする。弘治こうじ3ねん1557ねん)にあにじゅうろう盗賊とうぞく織田おだ信長のぶなが手勢てぜいであるといわれる)に黒田くろだじょう襲撃しゅうげきされたさい討死うちじに、さらにえいろく2ねん1559ねん)に岩倉いわくらじょう落城らくじょうしたさいちちもりゆたか討死うちじにもしくは自刃じじんする。こうして主家しゅか当主とうしゅうしなった山内やまうち一族いちぞく離散りさんし、諸国しょこく流浪るろうする。

一豊かずとよ苅安賀かりやすかじょう一宮いちのみやおも浅井あさい新八しんぱちろうせいさだをはじめ、松倉まつくらしろ岐阜ぎふけん各務原かがみはらおも前野まえのちょうやすし美濃みのこくまき村城むらしろ岐阜ぎふけん安八あんぱちぐん安八あんぱちまちおも牧村まきむらまさしりん近江おうみこく勢多せたしろ滋賀しがけん大津おおつおも山岡やまおかけいたかしつかえる。けいたかし織田おだ信長のぶながさからって出奔しゅっぽんしたことから、えいろく11ねん1568ねんごろから信長のぶなが配下はいかはいり、木下きのした秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀吉ひでよし)のした家人かじんとなったとかんがえられるが、秀吉ひでよしへの仕官しかん天正てんしょう2ねんごろとするせつもある[3][注釈ちゅうしゃく 7]

もとかめ元年がんねん1570ねん)9がつ姉川あねがわたたか初陣ういじんし、天正てんしょう元年がんねん1573ねん)8がつ朝倉あさくらとの刀禰とねざかたたかではかお重傷じゅうしょういながらもてきしょうさんだんさきかんみぎ衛門えもんった[注釈ちゅうしゃく 8]。この戦闘せんとうさい一豊かずとよほおさったとされるは、いた郎党ろうとうふじためきよし子孫しそん家宝かほうとし、現在げんざい高知こうちけん安芸あき歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん所蔵しょぞうされている。これらの功績こうせきにより、近江おうみこく浅井あさいぐん唐国からくに現在げんざい長浜ながはま唐国からくにまち)で400せきあたえられた。

なお、「山内やまうち一豊かずとよつま」こと見性けんしょういんとの結婚けっこんは、『山内やまうち御家おいえ』では天正てんしょう初期しょきかれており正確せいかく年月としつきあきらかではないが、高知大学こうちだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ山本やまもとまさるもとかめはじめから天正てんしょう元年がんねん1573ねん)のあいだ結婚けっこん時期じきではないかと指摘してきしている[4]

天正てんしょう4ねん1576ねん)の竹生島ちくぶしま奉加帳ほうがちょうに「山内やまうちみぎ衛門えもん」と署名しょめいしており、このころまでには秀吉ひでよしちょくしんとなっていたことが確認かくにんされている[3]

天正てんしょう5ねん1577ねん)には、播磨はりまこくゆうねん兵庫ひょうごけん赤穂あこううち)を中心ちゅうしんに2000せきりょうした。その秀吉ひでよし中国ちゅうごく地方ちほう経略けいりゃくくわわり、播磨はりま三木みきしろめぐたたかい(三木みき合戦かっせん)や因幡いなば鳥取とっとりじょう包囲ほうい高松たかまつじょう水攻みずぜめ(備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか)などに参加さんかしている。

天正てんしょう9ねん1581ねん)のうまそろえのさいには、つまたくわえておいた黄金おうごんうまっておっと武士ぶし面目めんぼくほどこさせたという美談びだんがある。しかしながら、つま名馬めいばあたえたといういち基本きほん=根本こんぽん史料しりょう皆無かいむである。一豊かずとよ死去しきょしてからひゃくねんちかって編纂へんさんされた新井あらい白石はくせきの『はん翰譜』や、室鳩巣むろきゅうそうの『ばと小説しょうせつ』に詳細しょうさいしるされているが、その根拠こんきょ具体ぐたいてきでないばかりか、はなし辻褄つじつままったっていない[5]。おそらく夫唱婦随ふしょうふずい夫婦ふうふ関係かんけいと、そのあいだ見性けんしょういん積年せきねん内助ないじょあらわ象徴しょうちょうてきはなしとして脚色きゃくしょくされたものとさっせられる[5]

豊臣とよとみしょう大名だいみょうとして

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山内やまうち一豊かずとよ屋敷やしきあと滋賀しがけん長浜ながはま

天正てんしょう11ねん1583ねん)の賤ヶだけたたかでは、その前哨ぜんしょうせんである伊勢亀いせがめ山城やましろ三重みえけん亀山かめやまめで一番乗いちばんのりの手柄てがらをあげている。また、よく12ねん1584ねん)の小牧こまき長久手ながくてたたかでは、秀吉ひでよしいのちで、家康いえやす包囲ほういするためのづけじょう構築こうちく作業さぎょうたっている。

四国しこく平定へいてい羽柴はしば秀次しゅうじ豊臣とよとみ秀次しゅうじ)が大幅おおはば加増かぞうされると、田中たなか吉政よしまさ堀尾ほりお吉晴よしはる中村なかむら一氏かずうじ一柳いちりゅうただしまつともにその宿老しゅくろう1人ひとりとしてけられて、天正てんしょう13ねん1585ねん)には若狭わかさこく高浜たかはましろおも、まもなく秀次しゅうじ近江八幡おうみはちまんうたてふうすると、一豊かずとよ近江おうみうつり、長浜ながはまじょうしゅとして2まんせきりょうした。天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつにも参戦さんせんし、秀次しゅうじしたが山中さんちゅうじょうめにも参加さんかした。織田おだ信雄のぶお改易かいえきともなってふたた秀次しゅうじ尾張おわり伊勢いせ加増かぞうされると、一豊かずとよ宿老しゅくろうしゅうたてふうじして、遠江とおとうみこく掛川かけがわに5まん1000せき所領しょりょうあたえられた。このころから大名だいみょうとしての行動こうどうられ、掛川かけがわではしろ修築しゅうちく城下町じょうかまちづくりをおこない、さら洪水こうずいおおかった大井川おおいがわ堤防ていぼう建設けんせつりゅう変更へんこうかわむかいをりょうする駿府すんぷじょうしゅ中村なかむら一氏かずうじとともにっている。朝鮮ちょうせんやくでは、秀次しゅうじ配下はいかしょ大名だいみょうおなじく出兵しゅっぺいまぬかれたが、軍船ぐんせん建造けんぞう伏見ふしみじょう普請ふしんなどを担当たんとうして人夫にんぷ供出きょうしゅつした。

ぶんろく4ねん1595ねん)に秀次しゅうじ謀反むほんうたがいで処刑しょけいされ、このころ秀次しゅうじ宿老しゅくろうであった前野まえのちょうやすし渡瀬わたせしげるかいはこの事件じけん責任せきにんわされて、秀次しゅうじ弁護べんごしたしげるかい切腹せっぷくめいじられ、ちょうやすし中村なかむらはじめあずかりとされて蟄居ちっきょたまものとされた。しかし一豊かずとよ田中たなか中村なかむら堀尾ほりお配下はいか大名だいみょうしゅは、秀吉ひでよし命令めいれい遂行すいこうして秀次しゅうじらを調しらべる立場たちばとなり、秀次しゅうじ処断しょだんのちぎゃくのこりょうから8000せき加増かぞうされている。

岐阜ぎふけん不破ふわぐん関ケ原せきがはらまちにある関ヶ原せきがはらたたかいの山内やまうち一豊かずとよじんあと山内やまうち一豊かずとよ出世しゅっせまつ

秀吉ひでよし死後しご慶長けいちょう5ねん1600ねん)には大老たいろう徳川とくがわ家康いえやすしたがって会津あいづ上杉うえすぎ景勝かげかつ討伐とうばつ参加さんかした。家康いえやす留守るすちゅう奉行ぶぎょう石田いしだ三成みつなりらが挙兵きょへいすると、一豊かずとよ下野げやこく小山こやまにおけるぐん小山こやま評定ひょうじょう)でしょしょうひがしぐん西にしぐんへの去就きょしゅうまよなかさき自分じぶん居城きょじょうである掛川かけがわしろ家康いえやす提供ていきょうするむね発言はつげんし、その歓心かんしんってひがしぐんくみした。この居城きょじょう提供ていきょうするあん堀尾ほりおただし事前じぜん協議きょうぎしたさい堀尾ほりお発案はつあんしたが、油断ゆだんしてうっかりらしたものをき、自分じぶんあんとして家康いえやすもう感謝かんしゃけたとわれる。まただいさかつまからの密書みっしょ石田いしだ三成みつなり挙兵きょへいらせをけたというはなし有名ゆうめいである。これらははなし信憑しんぴょうせいには疑問ぎもんがあるものの、東海道とうかいどうすじほか大名だいみょうである中村なかむら一氏かずうじゆかにあり、おなじくただしちちである堀尾ほりお吉晴よしはる刺客しかくおそわれて重傷じゅうしょううなど老練ろうれん世代せだい行動こうどうりょくうしなっているなかで、周辺しゅうへん勢力せいりょくひがしぐんくよう一豊かずとよがとりまとめていた。三河みかわこく吉田よしだしろおも池田いけだ輝政てるまさなど、この時期じき一豊かずとよ接触せっしょくしており、豊臣とよとみ恩顧おんこ家臣かしんしゅまとやくたしていたとかんがえられる。

関ヶ原せきがはらたたか前哨ぜんしょうせんである河田かわた島村しまむらべい野村のむらでのたたかいで、西にしぐん味方みかたした岐阜ぎふじょうおも織田おだ秀信ひでのぶ軍勢ぐんぜいを、池田いけだ輝政てるまさ浅野あさの幸長よしながらとともやぶった。本戦ほんせんでこれらの武将ぶしょう南宮なんぐうさん陣取じんどった毛利もうり長宗我部ちょうそかべぐんなどのさえを担当たんとうしたが、ひがしぐん内応ないおうしていた毛利もうりぐん先鋒せんぽう吉川よしかわひろたい南宮なんぐうさんにいたためにさしたる戦闘せんとうもなく、輝政てるまさのこして主戦しゅせんじょう移動いどうした。戦後せんご小山こやま会議かいぎ去就きょしゅうめかねていた諸侯しょこう徳川とくがわ加担かたんかわせた発言はつげん功績こうせきとして評価ひょうかされ、土佐とさこくいちこく・9まん8,000せきあたえられた。のちに、こうなおしにより20まん2,600せき幕府ばくふからみとめられている。

土佐とさこく拝領はいりょうかんしては、取次とりつぎ榊原さかきばら康政やすまさ担当たんとうしたものの、朱印しゅいんじょうりょうあて行状ぎょうじょうるい発給はっきゅうされていない。これは当時とうじ徳川とくがわ家康いえやす豊臣とよとみ家重いえしげしん立場たちばであったため、主君しゅくんである豊臣とよとみ秀頼ひでよりことわりなく発給はっきゅうできなかった事情じじょうがある。そのため、拝領はいりょう口約束くちやくそくのみで決定けっていされた[6]

土佐とさいちこく領主りょうしゅとして

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本山もとやま白雲しらくもさく山内やまうち一豊かずとよ銅像どうぞう高知こうちじょう公園こうえん

慶長けいちょう6ねん1601ねん)、掛川かけがわから土佐とさうつりふうとなり、浦戸うらとしろ入城にゅうじょうする。いちりょう具足ぐそく中心ちゅうしんとしたきゅう長宗我部ちょうそかべ家臣かしんだんしん領主りょうしゅ反発はんぱつし、土佐とさ国内こくないおおくの紛争ふんそう旧主きゅうしゅ長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか復帰ふっきもとめるなど)をこした(浦戸うらと一揆いっき滝山たきやま一揆いっきなど)。これにたいして一豊かずとよは、1601ねん3がつ1にちしん国主こくしゅ入城にゅうじょう祝賀しゅくが行事ぎょうじとして桂浜かつらはま相撲すもう興行こうぎょう[7]士民しみん観覧かんらんさせた。ひがし甲浦かんのうらから西にし宿毛すくもにいたるくにちゅうから取手とってまねいたので大勢おおぜい見物人けんぶつにんあつまった。一豊かずとよはかねてから浦戸うらと一揆いっき関与かんよしていたいちりょう具足ぐそく庄屋しょうや調査ちょうさしていたので、これらの人々ひとびとのうちから、リストにっていた73にんつかまえて種崎たねざき浜辺はまべはりつけにした[8]一方いっぽう新規しんきかかえの家臣かしん上方かみがたつのるなど、重要じゅうよう役職やくしょくおも外来がいらい家臣かしんかためたが、有益ゆうえき長宗我部ちょうそかべ旧臣きゅうしん懐柔かいじゅうして登用とうようした[注釈ちゅうしゃく 9]当時とうじはまだ土佐とさ領内りょうない不満ふまん分子ぶんし完全かんぜん排除はいじょされていなかったため高知こうちじょう築城ちくじょうさいなどには一豊かずとよどう装束しょうぞくろくにんしゅ[注釈ちゅうしゃく 10]影武者かげむしゃとしてとも現地げんち視察しさつした。

高知こうち平野ひらのない大高おおたか坂山さかやま城跡じょうせき統治とうち中心ちゅうしん拠点きょてんとして高知こうちじょう築城ちくじょう[注釈ちゅうしゃく 11]し、城下町じょうかまち整備せいびおこなった。領民りょうみんたいして食中毒しょくちゅうどく気遣きづかい、かつお刺身さしみべることをきんじたというはなしつたわる。それにたいし、領民りょうみんかつお表面ひょうめんのみをあぶり、刺身さしみではないといいつくろってしょくすようになった。これがかつおのタタキ起源きげんだとされている。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)、豊臣とよとみせい下賜かしされて[9]したがえよん土佐とさもり叙任じょにんされた。

慶長けいちょう10ねん1605ねん)、高知こうちじょうにて病死びょうしした。享年きょうねん61。法名ほうみょうだい通院つういん殿どのこころみねそうつたえだい居士こじ墓所はかしょ高知こうちけん高知こうち天神てんじんまち日輪にちりんやま真如寺しんにょうじ山内さんない墓所はかしょ京都きょうと右京うきょう花園妙心寺はなぞのみょうしんじまちせい法山のりやま妙心寺みょうしんじだい通院つういん[注釈ちゅうしゃく 12]

現在げんざい高知こうちじょうには(みぎじょう写真しゃしんにある)一豊かずとよ騎馬きば姿すがたやりった姿すがた銅像どうぞうてられている。

人物じんぶつ

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  • 関ヶ原せきがはらたたか直前ちょくぜん自分じぶん居城きょじょうわたして兵糧ひょうろう提供ていきょうした。そして譜代ふだいしゅれて充分じゅうぶん利用りようしてもらえれば、留守るすまもるために自分じぶんへいをさく必要ひつようもなく、それだけ出陣しゅつじん人数にんずうおおくなるので万事ばんじ好都合こうつごうであるとべたとされる(『づるあたま夜話やわ』)[10]。だがこれは一豊かずとよ創案そうあんではなく、堀尾ほりおただしかんがえであった(『はん翰譜』)[11]
  • 身体しんたいふとぎで、すこあかく、こころざしひろく、性質せいしつ温和おんわで、自分じぶんのことはかたらず、しょたいしてなさぶかく、礼儀れいぎただしく会釈えしゃくをし、遊学ゆうがくこととせず、部下ぶかあいし、つね言葉ことばなごやかで、口数くちかずすくない。しかし戦場せんじょうでは多弁たべんになり、大声おおごえ叱咤しったし、言葉ことばもはっきりしている。平常へいじょう食事しょくじをするときはしさきをつけられるが、まことに上品じょうひんである。さけさかずきさんはい限度げんどとして、ちゃのうはわずかにもてもてあそ程度ていどである(『一豊かずとよおおやけ伝記でんき』)[12]

かんれき所領しょりょう推移すいい

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見性けんしょういん

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一豊かずとよつまである見性けんしょういん千代ちよ、まつ)はおっとを「内助ないじょこう」でたすけたけんつまとされており、嫁入よめいりの持参じさんきんまずしいながらもめたへそくりとのせつもある)で名馬めいばかがみ栗毛くりげ)をった。この逸話いつわとくだい世界せかい大戦たいせん以前いぜん日本にっぽんにおいて教科書きょうかしょげられ、女性じょせいのあるべき姿すがたとして学校がっこう教育きょういくもちいられた。真偽しんぎのほどはさだかではないが、千代紙ちよがみ由来ゆらいになった人物じんぶつとしてもられている。

一豊かずとよおおやけ&千代ちよさまサミット

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山内やまうち一豊かずとよ関連かんれんする市町村しちょうそんあつまって、「一豊かずとよおおやけ&千代ちよさまサミット」がひらかれている。平成へいせい6ねん1994ねん結成けっせいきゅう土佐とさはんたる高知こうちでは、みについてはげん山内やまうちもと侯爵こうしゃく口伝くでん史料しりょう系図けいず家臣かしんあたえたへんいみな同様どうよう)により「やまうち かつとよ」である。

このサミット以外いがいに、血縁けつえん関係かんけい市町村しちょうそん結成けっせいするサミットには伊達だて交流こうりゅうサミットなどがある。

参加さんか市町村しちょうそん

系譜けいふ

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家臣かしん

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史料しりょう

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  • だいいちだい 一豊かずとよおおやけ山内やまうち神社じんじゃ宝物ほうもつ資料しりょうかん山内やまうち史料しりょう〉、1980ねん6がつNDLJP:12262465/79 (よう登録とうろく)
  • 『一豊公御武功附御伝記』

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 渡部わたなべあつし検証けんしょう山内やまうち一豊かずとよ伝説でんせつ -「内助ないじょこう」と「だい出世しゅっせ」の虚実きょじつ-』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2005ねんISBN 9784061498129 
  • 小和田こわだ哲男てつお へん山内やまうち一豊かずとよのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねんISBN 9784404032690 
  • 田端たばた泰子やすこ山内やまうち一豊かずとよ千代ちよ戦国せんごく武士ぶし家族かぞくぞう―』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2005ねんISBN 9784004309741 
  • 桑田くわたただしおや太閤たいこう家臣かしんだん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1971ねん、108-110ぺーじ ASIN B000J9GTRU
  • 山本やまもとまさる山内やまうち一豊かずとよ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねんISBN 9784404032744 
  • 宮本みやもと義己よしみ天下てんかじんから山内やまうち一豊かずとよ」(『別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん』30かん20ごう、2005ねん

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ
このドラマでは司馬しばりょう太郎原だいろばるさくの5つの小説しょうせつ主人公しゅじんこう活躍かつやくしており、『功名こうみょうつじ』の主人公しゅじんこうである千代ちよほがらかな魅力みりょく人気にんきはくした。
演劇えんげき

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 山本やまもと 2005, p. 34.
  2. ^ 山本やまもと 2005, p. 288.
  3. ^ a b 桑田そうでん 1971, p.108
  4. ^ 山本やまもと 2005, p. 56.
  5. ^ a b 宮本みやもと義己よしみ天下てんかじんから山内やまうち一豊かずとよ」(『別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん』30かん20ごう、2005ねん
  6. ^ 渡邉わたなべ大門だいもん大阪おおさかじんぜん 1598‐1616』(くさおもえしゃ、2024ねん2がつ7にち発行はっこう)P73~74。
  7. ^ 山本やまもと 2005, p. 239.
  8. ^ 山本やまもと 2005, p. 240.
  9. ^ 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』49ごう、1996ねん 
  10. ^ 山本やまもと 2005, p. 197.
  11. ^ 山本やまもと 2005, p. 198.
  12. ^ 山本やまもと 2005, pp. 290–291.
  13. ^ 小和田こわだ哲男てつお; はしばみむら純一じゅんいつ へん山内やまうち一豊かずとよ千代ちよ夫人ふじんにみる戦国せんごく武将ぶしょう夫妻ふさいのパートナーシップ』清文せいぶんしゃ、2000ねん5がつ10日とおかISBN 978-4433272500 

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 千代ちよ」または「まつ」、若宮わかみやともきょうむすめ、または遠藤えんどうもりすうむすめとも。
  2. ^ ほうしゅういんとするせつもある。尾張おわり土豪どごう梶原かじはらむすめか。
  3. ^ 千代ちよ」または「おまつ(まつ)」の有名ゆうめいだが、実名じつめいかどうかはさだかでない。若宮わかみやともきょうむすめとも遠藤えんどうもりすうむすめともいわれる。
  4. ^ 2006ねん平成へいせい18ねん)の大河たいがドラマ功名こうみょうつじ』では、「かつとよ」「かずとよ」いずれのみとするか製作せいさくサイドでも最後さいごまで問題もんだいとなったが、山内やまうちより「したしまれている名前なまえんでやってください」とのメッセージもあり、ドラマでは「やまうちかずとよ」とむことになった。
  5. ^ 1919ねん大正たいしょう8ねん)、岩倉いわくら神明しんめい生田いくた神社じんじゃ遷座せんざしきむねさつ発見はっけんされ、それが一豊かずとよがその誕生たんじょうした有力ゆうりょく資料しりょうとなり、山内やまうち史家しか沼田ぬまたよりゆき調査ちょうさおこなわせた結果けっかどう神社じんじゃのある一豊かずとよ誕生たんじょうみとめていしぶみてた(神明しんめい生田いくた神社じんじゃ岩倉いわくら教育きょういく委員いいんかいによる説明せつめいばんによる)。
  6. ^ 黒田くろだ城跡じょうせき一宮いちのみや市立しりつ黒田くろだ小学校しょうがっこうにも、生誕せいたん石碑せきひがある
  7. ^ この時期じき一豊かずとよかんする史料しりょうがなく、仕官しかんした時期じき確定かくていむずかしい。
  8. ^ 『一豊公御武功附御伝記』によるものだが、かんみぎ衛門えもんもとかめ元年がんねんというせつも。
  9. ^ れい本山もとやまたに吉田よしだ武市たけいち宮地みやじもりなど。
  10. ^ 野中のなか玄蕃げんば市川いちかわ大炊おおい柏原かしわばらちょうたくはんみぎ衛門えもん)・いぬい宣光のぶみつ七郎しちろう左衛門さえもん)・いぬい和三かずみいのすけ
  11. ^ 築城ちくじょう奉行ぶぎょうは、関ヶ原せきがはらたたかいののち浪人ろうにんとなった百々とどつなを7000せき招聘しょうへいしてにんじ、慶長けいちょう8ねん1603ねん)に完成かんせいした。
  12. ^ 遺骨いこつがあるのは日輪にちりんさん真如寺しんにょうじ墓所はかしょ妙心寺みょうしんじだい通院つういんには位牌いはいのみ。

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