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備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか

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備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか

赤松あかまつしろすいせめ/東京とうきょう都立とりつ中央ちゅうおう図書館としょかん所蔵しょぞう
戦争せんそう安土あづち桃山ももやま時代じだい 中国ちゅうごくめにおけるおさむしろせん
年月日ねんがっぴ天正てんしょう10ねん1582ねん4がつ - 6月4にち
場所ばしょ備中びっちゅうこく高松たかまつ岡山おかやまけん岡山おかやまきた高松たかまつ
結果けっか毛利もうりぐんとの講和こうわ
清水しみず宗治むねはる自害じがい
交戦こうせん勢力せいりょく
織田おだぐん 毛利もうりぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
羽柴はしば秀吉ひでよし
小寺こでらたかしたかし
清水しみず宗治むねはる 
毛利もうり輝元てるもと
吉川よしかわ元春もとはる
小早川こばやかわ隆景たかかげ
戦力せんりょく
30,000 籠城ろうじょう 3,000〜5,000
援軍えんぐん 50,000
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
豊臣とよとみ秀吉ひでよし戦闘せんとう

備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいにおきたたたか天正てんしょう10ねん1582ねん)に織田おだ信長のぶながいのちけた家臣かしん羽柴はしば秀吉ひでよし毛利もうり配下はいか清水しみず宗治むねはる守備しゅびする備中びっちゅう高松たかまつじょう攻略こうりゃくしたたたかいである。秀吉ひでよし高松たかまつじょう水攻みずぜによって包囲ほういしたことから、高松たかまつじょう水攻みずぜめ(水責みずぜめ)[注釈ちゅうしゃく 1]ともばれる。

にんじょうたたか太田おおたじょうたたかい、そしてこの備中高松びっちゅうたかまつじょうたたかいは日本にっぽんさんだい水攻みずぜのひとつにかぞえられる。

このおさむしろせん最中さいちゅうに、秀吉ひでよし主君しゅくんである織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひでたれた、いわゆる「本能寺ほんのうじへん」がきた。

たたかいにいたるまでの情勢じょうせい

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戦国せんごく時代じだい備中びっちゅう守護しゅご細川ほそかわ衰退すいたいしたのち国人くにびと領主りょうしゅ割拠かっきょする状態じょうたいにあったが、なかでも台頭たいとうしていたのは三村みつむらであった。 三村みつむらおやは、出雲いずも尼子あまこわって西国さいごく覇者はしゃとなった安芸あき毛利もうり接近せっきん勢力せいりょく西にし備前びぜん西にし美作みさくひろげたものの、備前びぜん浦上うらかみ傘下さんか宇喜多うきた直家なおいえによりいえおや暗殺あんさつされ、つづ備前びぜん明善寺みょうぜんじ合戦かっせんにおいて三村みつむら敗退はいたい、その勢力せいりょくおとろえた。のち直家なおいえむすんだ毛利もうりにより三村みつむらほろぼされ(備中びっちゅう兵乱へいらん)、その傘下さんかであった城主じょうしゅおおくは毛利もうりたよったが、その一人ひとり清水しみず宗治むねはるである。

一方いっぽう畿内きないにおいては、織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくたすと、反対はんたい勢力せいりょく信長のぶなが包囲ほういもう)の一部いちぶほろぼして、将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき追放ついほうし(室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼう)、天下てんか統一とういつ事業じぎょうすすめていた。

毛利もうり信長のぶながとは、毛利もうり元就もとなりだいにおいては友好ゆうこうてき関係かんけいであったが、その後継こうけい毛利もうり輝元てるもと義昭よしあき庇護ひごし(幕府ばくふ)、さらに最大さいだいはん信長のぶなが勢力せいりょくである石山いしやま本願寺ほんがんじ同盟どうめいし、信長のぶながへの敵対てきたい態度たいどつよめていった。 信長のぶながにとって石山いしやま本願寺ほんがんじほろぼすためには、その背後はいご毛利もうり屈服くっぷくさせる必要ひつようがあったため、天文てんもん5ねん1577ねん)10がつより家臣かしん羽柴はしば秀吉ひでよしそう大将たいしょうとする中国ちゅうごくへの侵攻しんこうせん中国ちゅうごく)を開始かいしした[1]

秀吉ひでよしはまず播磨はりま進出しんしゅつ黒田くろだ孝高よしたか居城きょじょうであった姫路城ひめじじょう拠点きょてん小寺こでらおけしお赤松あかまつ龍野たつの赤松あかまつ服従ふくじゅうさせ、反抗はんこうする佐用さよう赤松あかまつほろぼし、支配しはいかためた。しかし、石山いしやま本願寺ほんがんじ毛利もうり呼応こおうして、信長のぶなが臣従しんじゅうしたはずの摂津せっつ荒木あらき村重むらしげ反乱はんらんこし(有岡ありおかじょうたたか)、播磨はりまにおいても小寺こでら別所べっしょ反旗はんきひるがえすなど、秀吉ひでよし中国ちゅうごくめは当初とうしょから困難こんなんおおかった。

別所べっしょほろぼした三木みき合戦かっせんにおいては腹心ふくしん竹中たけなか重治しげはる陣没じんぼつし、そのおおくの将兵しょうへいうしない、また上月こうづきじょうたたかでは尼子あまこ勝久かつひさ尼子あまこ残党ざんとうぐんうしなった。

播磨はりまようやふたた平定へいていした秀吉ひでよし但馬たじま因幡いなば進出しんしゅつし、山名やまな豊国ほうこくらを降参こうさんさせ、山名やまなはん織田おだ勢力せいりょくむすんだ毛利もうり吉川よしかわけい鳥取とっとりじょうたたかにおいてやぶり、おとうと秀長ひでなが宮部みやべつぎじゅんめいじ、山陰さんいんどうへの侵攻しんこうすすめさせた。

宇喜多うきた直家なおいえ当初とうしょ毛利もうり傘下さんかとして行動こうどうし、織田おだりであった主君しゅくん浦上うらかみ宗景むねかげ追放ついほうして下剋上げこくじょうたしていたが、織田おだ秀吉ひでよしちからると毛利もうり見限みかぎり、秀吉ひでよし降参こうさんもうれた。

天正てんしょう9ねん1581ねん)、直家なおいえ病没びょうぼつし、幼少ようしょうであった宇喜多うきた秀家ひでいえあとぎ、そして秀吉ひでよし猶子ゆうしになったことで、備前びぜんもまた秀吉ひでよし傘下さんかおさまった。

天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ毛利もうりぐん宇喜多うきたぐん備前びぜん児島こじまちかい、八浜はちはまにおいて合戦かっせんおこなった(八浜はちはま合戦かっせん[2]毛利もうりはこのたたかいに勝利しょうりし、秀家ひでいえ名代なだいもとった[2]

だが、宇喜多うきたはこの大敗たいはい秀吉ひでよし報告ほうこくし、秀吉ひでよしはこれをけて、中国ちゅうごく地方ちほうへの出陣しゅつじん決意けついした[2]秀吉ひでよししゅう補佐ほさする宇喜多うきた重臣じゅうしんらに書状しょじょうおくり、その書状しょじょうでは、宇喜多うきた救援きゅうえんかうほか、淡路あわじせんなどを児玉こだま付近ふきん派遣はけんするなど、海上かいじょうからの攻撃こうげき視野しやにいれていたことがしめされている[2]秀吉ひでよしとすれば、宇喜多うきた毛利もうりほろぼされることがあれば、毛利もうり攻略こうりゃくむずかしくなるとかんがえ、即急そっきゅうかたちをとった[3]

たたかいの経過けいか

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羽柴はしば秀吉ひでよし出陣しゅつじん高松たかまつじょう包囲ほうい

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現在げんざい高松たかまつ城址じょうし本丸ほんまるあと公園こうえんてい湿地しっちかんのこる。

宇喜多うきたりょうしていた備前びぜん岡山おかやまからさき毛利もうり勢力せいりょく範囲はんいであったため、織田おだぐん毛利もうりぐん備前びぜん備中びっちゅう国境こっきょう地帯ちたい攻防こうぼうひろげることとなった。毛利もうりたたかいにそなえ、国境こっきょう付近ふきんの「境目さかいめななしろ」(別名べつめいは「備中びっちゅう七城しちじょう」)を防衛ぼうえいラインとした。

天正てんしょう10ねん3がつ15にち秀吉ひでよし姫路城ひめじじょうから備中びっちゅうけて、2まん軍勢ぐんぜいひきいて出陣しゅつじんした[2]途中とちゅう、19にち宇喜多うきたのかつての居城きょじょうであった亀山かめやまじょう別名べつめいぬまじょう、ぬまじょう)(げん岡山おかやまひがし)にはいり、宇喜多うきた動向どうこうさぐった。そして、宇喜多うきた織田おだぐん味方みかたすることを確認かくにんすると、宇喜多うきたぜい1まんくわえて総勢そうぜい3まん軍勢ぐんぜい備中びっちゅうはいった。

4がつ15にち秀吉ひでよし境目さかいめななしろ主力しゅりょく備中高松びっちゅうたかまつじょう包囲ほういし、しろ見下みおろすことができる竜王山りゅうおうさん布陣ふじんした。備中高松びっちゅうたかまつじょう当時とうじ数少かずすくなかった低湿ていしつ利用りようした平城ひらじろぬまじょう、ぬまじろ)であり、鉄砲てっぽう騎馬きば戦法せんぽうにもつよかった。しろまもるのは清水しみず宗治むねはるで、3,000〜5,000あまりのへい[注釈ちゅうしゃく 2]こもり、容易よういにはとせる状況じょうきょうではなかった。

そのため、秀吉ひでよし蜂須賀はちすか家政いえまさ黒田くろだ孝高よしたか使者ししゃとして、宗治むねはるたいし、降伏ごうぶくすれば備中びっちゅう備後びんご2カ国かこくあたえるという条件じょうけんした。だが、宗治むねはるおうじず、信長のぶながからの誓詞せいしをそのまま主君しゅくん毛利もうり輝元てるもとのもとにとどけて忠義ちゅうぎしめした[4]

秀吉ひでよしはほかの境目さかいめななしろ次々つぎつぎめると同時どうじに、4がつ27にちしゅう吉方えほう宇喜多うきたぜい先鋒せんぽうとして攻撃こうげきくわえたが、しろへい逆襲ぎゃくしゅうけて撤退てったいした。

毛利もうり織田おだぐん進攻しんこうたいして、4がつ上旬じょうじゅんまでは楽観らっかんしていた。しばぐんのみで、織田おだ水軍すいぐん下向げこうしていないため、水軍すいぐんりょく優位ゆういっていたからである[5]

水攻みずぜめの開始かいし

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備中高松びっちゅうたかまつじょう水攻みずぜ堰堤えんていあとから発掘はっくつされたかえるはな堰堤えんてい基礎きそ部分ぶぶん
かえるはな堰堤えんていあと

5月1にち秀吉ひでよし難攻不落なんこうふらく高松たかまつじょうたいし、水攻みずぜめをおこなうことを決定けっていした。低湿ていしつにあるぬまじょうという、本来ほんらいならしろめを困難こんなんにさせるはずの利点りてん逆手さかてった奇策きさくであったといえる。

5月8にち秀吉ひでよし堤防ていぼう工事こうじ着手ちゃくしゅした[1]。この堤防ていぼう門前もんぜむらげんJR吉備線きびせん足守あしもりえき付近ふきん)からかえるはな石井いしい山南さんなんふもと)までの東南とうなんやく4キロメートル、たかさ8メートル、底部ていぶ24メートル、上幅あげはば12メートルにわたる堅固けんご長堤ちょうていつくり、足守川あしもりがわみずめようとするものであった。堤防ていぼうたかさについては、堤防ていぼう調査ちょうさ先立さきだっておこなわれた高松たかまつじょう調査ちょうさから、標高ひょうこう5mほどであったと推測すいそくされている[6]

築堤ちくてい奉行ぶぎょうには蜂須賀はちすか正勝まさかつ任命にんめいされ、宇喜多うきたただし黒田くろだ孝高よしたか指導しどうのもと難所なんしょ門前もんぜむらから下出しもいで田村たむらまでを担当たんとう(この場所ばしょ工事こうじ奉行ぶぎょう宇喜多うきた家臣かしん千原ちはら勝則かつのりともいわれる)。はらざいむら蜂須賀はちすかが、松井まついからほん小山こやままでを堀尾ほりお吉晴よしはる生駒いこまちかしただし木下きのしたしげるけん桑山くわやま重晴しげはる戸田とだ正治しょうじらが、かえるはなよりさき但馬たじましゅう担当たんとうすることとなり、浅野あさの長政ながまさふね船頭せんどうあつめて備中高松びっちゅうたかまつじょうみずうみかぶしまになったさいしろめの準備じゅんびにあたった。また、足守川あしもりがわせきとめ方法ほうほう黒田くろだ家臣かしん吉田よしだ長利ながとし献策けんさくともいう。

工事こうじには士卒しそつ農民のうみんらを動員どういんし、1ひょうぜに100ぶんべい1しょうという当時とうじとしては非常ひじょう高額こうがく報酬ほうしゅう[注釈ちゅうしゃく 3]あたえた。堤防ていぼうは8にち工事こうじ着手ちゃくしゅから、19にち竣工しゅんこうするまでのわずか12日間にちかん完成かんせいした。おりしも梅雨つゆ時期じきにあたってつづいたあめによって足守川あしもりがわ増水ぞうすいし、200haものみずうみ出現しゅつげんし、高松たかまつじょう孤島ことうしてしまった。堤防ていぼう完成かんせいさせた秀吉ひでよし堤防ていぼううえ見張みはじょうもうけて城内じょうない様子ようす監視かんしした。

なお、書籍しょせきによっては竜王りゅうおう山麓さんろくながれる長野ながのがわからもみずいたとしているものもあるが[よう出典しゅってん]水路すいろあとなどは発見はっけんされておらず、長野ながのがわ利用りようしたとうのは後世こうせい加筆かひつされた伝説でんせつである[よう出典しゅってん]

一方いっぽう城内きうちでは水攻みずぜめという戦法せんぽう動揺どうようし、物資ぶっし補給ほきゅうたれて兵糧ひょうろうまいすくなくなったことと、毛利もうり援軍えんぐんないこともあいまってへい士気しき低下ていかした。城内じょうのうちまで浸水しんすいしたため、しろへい小舟こぶね連絡れんらくわなくてはならなかったとされる。

毛利もうり救援きゅうえん

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毛利もうり家臣かしん上原うえはらもとゆうにちはた景親かげちかもったにちはたじょう

同月どうげつ毛利もうり輝元てるもと急報きゅうほうけて、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげらととも軍勢ぐんぜいひきい、高松たかまつじょう救援きゅうえんかった[7]。このとき、毛利もうり軍勢ぐんぜい総数そうすうは、秀吉ひでよし自身じしん手紙てがみ(『浅野あさの文書ぶんしょ』)によると5まんばかり、『 惟任これとう退治たいじ』によると8まんあまりしるされている[8]当主とうしゅおよび吉川よしかわ小早川こばやかわりょうしょうそろう、当時とうじ毛利もうりとしてはこれは最大さいだい動員どういん兵力へいりょくである。だが、このかず秀吉ひでよしによって水増みずましされたかずともいわれ、毛利もうりぶんこく不安定ふあんていなこともあって、実際じっさいは1まんへいしか動員どういんできなかったとするせつもある[8]

さるかけじょう

輝元てるもとさるかけじょう布陣ふじんし、高松たかまつじょうちか岩崎いわさきさん庚申山こうしんさん)に吉川よしかわ元春もとはる、その南方なんぽうにちやま小早川こばやかわ隆景たかかげ布陣ふじんさせ、秀吉ひでよし対峙たいじした[9]。だが、すで堤防ていぼう完成かんせいしており、輝元てるもとらは秀吉ひでよしきずいたみずうみまえにして身動みうごきがとれず、5月21にちになってもとはる隆景たかかげが、織田おだぜい直接ちょくせつ対峙たいじする位置いちじんうつした[9][10]

援軍えんぐんとしてやってきた毛利もうりうごけなかった理由りゆうとしては、秀吉ひでよし毛利もうり水軍すいぐんたいする調しらべりゃくにより、来島らいとう水軍すいぐん高畠たかはた水軍すいぐん塩飽しわく水軍すいぐん離反りはんしていていたことにあった[11]。これにより、毛利もうり制海権せいかいけんうしない、陸路りくろからのみの補給ほきゅうたよらざるをず、そのために絶望ぜつぼうてき物資ぶっし不足ふそくしており、輝元てるもと本陣ほんじんでさえ物資ぶっし不足ふそくする有様ありさまであった[12]。また、毛利もうりぜい水攻みずぜめにされた高松たかまつじょうたいして、ふね使つかって物資ぶっし救援きゅうえんしようとしたが、そのふねすら入手にゅうしゅできない状態じょうたいであった[13]

5月15にち秀吉ひでよし毛利もうり輝元てるもととの直接ちょくせつ対決たいけつそなえて、甲斐かい武田たけだ滅亡めつぼうさせたばかりの主君しゅくん信長のぶながたいして援軍えんぐんおくるよう、使者ししゃ安土あづちかわせた。

5月17にち信長のぶなが秀吉ひでよし手紙てがみると、徳川とくがわ家康いえやす接待せったいをしていた明智あけち光秀みつひでたいし、秀吉ひでよしへの援軍えんぐんかうようめいじた[14]

5月29にち信長のぶながみずからもきょう本能寺ほんのうじはいり、備中びっちゅうおもむ準備じゅんびをし、その出陣しゅつじんは6がつ4にちさだめられた[15]。そのため、毛利もうり危機ききてき状況じょうきょうおちいった[16]

和睦わぼく成立せいりつ秀吉ひでよし撤退てったい

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秀吉ひでよし包囲ほうい継続けいぞくし、毛利もうり輝元てるもととの対決たいけつそなえつつも、毛利もうりとの講和こうわ交渉こうしょうにもはいった[17]毛利もうりかたもまた、ぐんそう安国寺あんこくじ恵瓊えけい黒田くろだ孝高よしたかのもとに派遣はけんし、「こく備中びっちゅう備後びんご美作みさく伯耆ほうき出雲いずも割譲かつじょうしろへい生命せいめい保全ほぜん」の条件じょうけん和議わぎ提示ていじした。しかし、秀吉ひでよしはこれを拒否きょひして「こく割譲かつじょう城主じょうしゅ清水しみず宗治むねはる切腹せっぷく」を要求ようきゅうしたため、交渉こうしょうはいったん物別ものわかれにわった。毛利もうりかた清水しみず宗治むねはるたいして救援きゅうえん不可能ふかのうなことと、秀吉ひでよし降伏ごうぶくするべきというむねつたえたが、宗治むねはる自分じぶんいのちしろともにしたいとしてこれを拒否きょひした。毛利もうりかた安国寺あんこくじ恵瓊えけい高松たかまつじょうおくんで説得せっとくこころみたが、宗治むねはるは「主家しゅかである毛利もうり城内きうちへいいのちたすかるなら自分じぶんくびはいともやすい」とべ、みずからとあにである清水しみずそうともつききよし入道にゅうどう)とおとうと難波なんば宗忠むねただ兵衛ひょうえ。「伝兵衛でんべえ」は誤伝ごでん)、小早川こばやかわからの援将であるすえ近信きんしんの4にんくびわりに籠城ろうじょうしゃいのちたすけるようにという嘆願たんがんしょき、安国寺あんこくじ恵瓊えけいたくした。

ちょうどこのとき(6がつ3にちよる)、秀吉ひでよしかた明智あけち光秀みつひでから毛利もうりかたおくられた使者ししゃらえ、前日ぜんじつ信長のぶなが明智あけち光秀みつひで謀反むほんによって京都きょうと本能寺ほんのうじ落命らくめいした(本能寺ほんのうじへん)という密書みっしょにした[注釈ちゅうしゃく 4]秀吉ひでよし黒田くろだ孝高よしたか幕僚ばくりょう合議ごうぎし、一刻いっこくはや毛利もうり和睦わぼくして明智あけち光秀みつひでつべく上洛じょうらくする方針ほうしんかためた。また、秀吉ひでよし信長のぶなが落命らくめいによってうしたてうしなった状態じょうたいであることを毛利もうりかたられないように、徹底的てっていてき信長のぶなが落命らくめい事実じじつ隠匿いんとくした。

6月3にち深夜しんやから4にち会談かいだんにおいて、秀吉ひでよし安国寺あんこくじ恵瓊えけいび、わり河辺川かわべがわこう梁川りょうせん)と八幡川やわたがわ以東いとう割譲かつじょうさきの5かこくから、備中びっちゅう美作みさく伯耆ほうきの3かこく譲歩じょうほ)とし、清水しみず宗治むねはる自刃じじん和睦わぼく条件じょうけんとして提示ていじした。毛利もうりかたはやむなくこの条件じょうけんれ、ここに和睦わぼく成立せいりつした。なお、人質ひとじちとして、秀吉ひでよしがわからもり重政しげまさこうまさし兄弟きょうだいのちにいずれも毛利もうりせい名乗なのる)がおくられた。

毛利もうりは4がつ下旬げじゅん制海権せいかいけんうしない、持久じきゅうせん準備じゅんびをしている織田おだぐんたいしてちからめをする兵力へいりょくがなく、持久じきゅうせんえる物資ぶっし輸送ゆそう手段しゅだんきゅうしており、講和こうわをするしかなかったと推測すいそくされている[5]

備中高松びっちゅうたかまつじょう本丸ほんまるあとにある清水しみず宗治むねはるくびづか

4にち午前ごぜん宗治むねはる秀吉ひでよしからおくられたさけさかなわかれのうたげおこない、城内きうち清掃せいそうなどを家臣かしんめいじ、なりをととのえた。その宗治むねはるら4にん秀吉ひでよしからけられた小舟こぶねって秀吉ひでよし本陣ほんじんまでぎ、はいわした。そして、宗治むねはるまいおどったのち、「浮世うきよをば いまこそわたれ 武士ぶし(もののふ)の 高松たかまつの こけのこして」という辞世じせいをしたため、自害じがいした。3にん次々つぎつぎ自害じがいげ、4にん介錯かいしゃくおこなった國府こくふせい自刃じじんした。秀吉ひでよしそうおさむ武士ぶしかんとして賞賛しょうさんした。

秀吉ひでよし和睦わぼく成立せいりつすると、高松たかまつじょう杉原すぎはら家次いえつぐ留守居るすいとしていたうえで、4にち午後ごごには山陽さんようどうひがしかった(中国ちゅうごくだいがえ[注釈ちゅうしゃく 5]。なお、毛利もうりかた本能寺ほんのうじへんほう入手にゅうしゅしたのは秀吉ひでよし撤退てったいしたよく5にちで、紀伊きい雑賀さいかしゅうからの情報じょうほうであったことが、吉川よしかわひろ覚書おぼえがき案文あんぶん)から確認かくにんできる[18]。このときもとはるなどが秀吉ひでよし追撃ついげきすべしと主張しゅちょうしたが、隆景たかかげ誓紙せいしわした以上いじょう講和こうわ遵守じゅんしゅすべきと主張しゅちょうしたため、輝元てるもと追撃ついげき断念だんねんした[19]

たたかいののち情勢じょうせい

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このたたかいののち備中高松びっちゅうたかまつじょうには宇喜多うきた家老がろう花房はなふさ正成まさしげ入城にゅうじょう関ヶ原せきがはらたたか正成まさしげ主君しゅくんはんひがしぐんいたため、江戸えど時代じだいには旗本はたもとてられた。すうねんはここに陣屋じんやかまえたが備中びっちゅうこく阿曽あそげん総社そうしゃ阿曽あそ)にうつったため備中高松びっちゅうたかまつじょうはいじょうとなった。

また、秀吉ひでよし天下てんかったのち清水しみず宗治むねはるちょくしんにし、知行ちぎょういちまんせきあたえようとべたが、宗治むねはる嫡男ちゃくなんであるけい毛利もうりのこることをえらんだとされ、『毛利もうり文書ぶんしょ』にけい自身じしんそのむねのこした書状しょじょうのこる。その清水しみずはぎはんよせぐみとして明治維新めいじいしんまで存続そんぞくし、維新いしん倒幕とうばく功績こうせきがあったことから、男爵だんしゃくじょされている。

現在げんざい高松たかまつじょうまる玄妙げんみょうてらというてら建立こんりゅうされており、その境内けいだい内部ないぶそうおさむ自刃じじん場所ばしょとされており、石碑せきひっている。

参戦さんせん武将ぶしょう

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織田おだぜい秀吉ひでよしかた

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毛利もうりぜい

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籠城ろうじょうぐん
援軍えんぐん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ そのまえ三木みきしろめを「三木みき干殺ほしころし」、鳥取とっとりじょうめを「鳥取とっとりの渇ごろし」とび、それに相応そうおうして「高松たかまつみずごろし」ともう。
  2. ^ 歴史れきしぐんぞうシリーズ(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ)では、陰徳いんとく太平たいへいの「せん兵士へいし死地しちにありてなまおもはず」を引用いんようしている。
  3. ^ 武将ぶしょう感状かんじょう』によると、築堤ちくていそう経費けいひは63まん5,040かんぶんべい6まん3,504せきという莫大ばくだいなものとなった。
  4. ^ 秀吉ひでよし本能寺ほんのうじへん一報いっぽう入手にゅうしゅした経緯けいいについては、中国ちゅうごくだいがえし#秀吉ひでよし高松たかまつじょう陥落かんらく参照さんしょう
  5. ^ 秀吉ひでよし毛利もうりぐん出方でかたいちにち見極みきわめたうえで、6月6にちきょうけて軍勢ぐんぜい移動いどう開始かいしした、とするせつもある

出典しゅってん

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  1. ^ a b しば裕之ひろゆき 2020, p. 44.
  2. ^ a b c d e 渡邊わたなべ大門おおもん 2011, p. 167.
  3. ^ 渡邊わたなべ大門おおもん 2011, pp. 167–168.
  4. ^ 清水しみず宗治むねはる」『ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん
  5. ^ a b 光成みつなりじゅんだか松城まつしろ水攻みずぜ前夜ぜんや攻防こうぼう城郭じょうかくみなと」(『倉敷くらしき歴史れきし』18ごう、2008ねん)
  6. ^ 岡山おかやま教育きょういく委員いいんかい 編著へんちょ備中高松びっちゅうたかまつじょう水攻みずぜ築堤ちくていあと だか松城まつしろ水攻みずぜ築堤ちくてい公園こうえん建設けんせつともな確認かくにん調査ちょうさ岡山おかやま教育きょういく委員いいんかい、2008ねん
  7. ^ 小和田こわだ哲男てつお 1991, p. 42.
  8. ^ a b 谷口たにぐち克広かつひろ 2006, p. 248.
  9. ^ a b 光成みつなりじゅん 2016, p. 155.
  10. ^ 小和田こわだ哲男てつお 1991, p. 42-43.
  11. ^ 光成みつなりじゅん 2016, pp. 154–155.
  12. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 156.
  13. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 158.
  14. ^ 福島ふくしま克彦かつひこ 2020, p. 181.
  15. ^ 福島ふくしま克彦かつひこ 2020, p. 182.
  16. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 160.
  17. ^ 小和田こわだ哲男てつお 1991, p. 43.
  18. ^ 宮本みやもと 1994.
  19. ^ 小和田こわだ哲男てつお 1991, p. 44.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐藤さとう春夫はるお へん古戦場こせんじょう人物じんぶつ往来おうらいしゃ、1962ねん ASIN B000JAK0GA
  • 宮本みやもと義己よしみさんみち併進へいしんさくによる毛利もうりの「上洛じょうらく作戦さくせん」」『歴史れきし読本とくほん』39かん9ごう、1994ねん 
  • 光成みつなりじゅん高松たかまつじょう水攻みずぜ前夜ぜんや攻防こうぼう城郭じょうかくみなと」『倉敷くらしき歴史れきし』18ごう、2008ねん 
  • 小和田こわだ哲男てつお秀吉ひでよし天下てんか統一とういつ戦争せんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1991ねん 
  • 光成みつなりじゅん毛利もうり輝元てるもと 西国さいこくまかかるのよしこうミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2016ねん5がつ10日とおかISBN 9784623076895 
  • 谷口たにぐち克広かつひろ戦争せんそう日本にっぽん13 信長のぶなが天下てんかぬのへのみち吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん12月16にちISBN 9784642063234 
  • しば裕之ひろゆき図説ずせつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよしえびすひかりさち出版しゅっぱん、2020ねん 
  • 福島ふくしま克彦かつひこ明智あけち光秀みつひで 織田おだ政権せいけん司令塔しれいとう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2020ねんISBN 4121026225 
  • 渡邊わたなべ大門だいもん宇喜多うきた直家なおいえ秀家ひでいえ 西国さいこく進発しんぱつさきがけとならん』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2011ねん5がつISBN 4623059278 

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